高松で「肩書き」を考えた
先週末に講演と式典参加で高松行ってきた。
土曜日、高松空港には讃岐漢学のフィクサーT先生が迎えに来て下さっていた。実はこのフィクサーTは私がご先祖の地とつながる契機を作った方である。始まりは、2013年にまいこんだ、フ.ィクサーTからの突然のメールであった。
そこには、藤沢東畡(1795-1865)没後150周年を記念して、高松の歴史資料館で展覧会が行われる。ついては、石濱純太郎関係者として、オープニングにでてくれないか。交通費はださない。という依頼がされていた。
藤沢東畡は讃岐(高松藩)に生まれ、大阪に出て私塾の泊園書院をたて、ここから巣立った塾生は明治初期の大阪の経済を支えたため、地元高松でも顕彰されている。その最後の院主が東洋史学のバイオニア石濱純太郎 (1888-1968) であり、彼は自らが創設した関西大学の文学部に閉鎖後の泊園書院の書籍を移管した。
私「うちは遠縁です。純太郎先生は山ほどお子さんを残していらっしゃるから近畿に直系の子孫がたくさんいるでしょう?」
フィクサーT「通知しても誰もきてくれないんです。それに早稲田大学教授の肩書きが欲しい」と爽やかにホンネを言う。
私「その集まりには当然漢学の研究者がたくさん来ますよね。私のご先祖は岡田鴨里という阿波藩の儒者なので、ご先祖の研究をしている郷土史家なり、研究者なりをご紹介戴けるというのなら、自腹で高松に参りましょう」
フィクサーT「分かりました」
ざっくりいうとそんな感じで、私は高松にいき館長さんとか関係者のスピーチを聞かされテープカットするのをただ座って眺める役を賜ったのであった。続いて藪田先生の藤沢東畡に関する講演があったが、なにしろチベット史なので乱舞する漢学者の名前に親しみがなく、内容がいまいち頭に入ってこない。
そのあと、T先生の車で約束の「ご先祖岡田鴨里について知る人」の待つ香南郷土資料館に向かう。それが四国大学教授太田剛センセだったのである。

私「岡田鴨里のことを研究されているんですよね」
太田先生「鴨里を研究している人は私の知る限りいません。私は四国の漢学者のネットワークを墓誌などから調べています。岡田鴨里は賴山陽の弟子ですから、賴山陽の親友で洲本の益習館の儒者であった篠崎小竹と関係があるはずです」。
フィクサーT「わたしは讃岐(香川)の漢学だから何もできん。淡路島は阿波藩(徳島県)だから、太田先生面倒みてやって(四国大学は徳島にある)」
丸投げかよ。後で聞けばフィクサーTは鴨里の名前を私から聞いた時初めて知ったそうで、それで「研究者を紹介する」とかよく言うわ。完全に騙されたよ自分。
しかし、その後太田先生がご先祖の声をキャッチして、その声に背中をおされて淡路にいき、鴨里の史料を発見したのだから、ある意味フィクサーTの「鴨里の研究者に会わせる」といった約束は果たされたのかもしれない。
ただその研究者は三年後の自分だったけどな(爆笑)。本当に誰か若い方、鴨里を研究して。お願い。
※ 最近鴨里の資料紹介を雑誌『史観』で発表しました。我が家の家系圖も入っているよ! 以下でダウンロードできます。
まあでも今回の高松行きはチベットの話をさせてくれるし、交通費もでているので前回よりは扱いが善くなっている。
空港の外にでると冷たい雨がふっている。予報では二日間雨が降らないというので傘もっていない。フィクサーTの車にのると、空港近くのセルフうどん屋に連れて行かれる。「香川県の糖尿罹患率は全国一なんです。私も生活習慣病まみれですよ」とかいいつつ、おかずなしで、うどんを五玉食べる。うどん中毒なのか。
まさに白い粉の恐怖。
フィクサーT「ここは私が払います。二人で食べても1000円いくかいかないかですが。どはははは」と言うのでごちそうになる。
このあと高松歴史資料館友の会(讃岐村塾)でチベットのお話をさせて戴き、そのあとフィクサーTが、高松出身の某小説家の顕彰会の会長と会えというので会う。私の叔父は川端康成と一高東大と同期でいっしょに新感覚派を起こしたので、叔父の写真とかないかと思って会ってみたのだが、その会長、Wikipediaに書いてあるレベルの川端康成の情報ですら知らない。そんな状態だからうちの叔父のことなど知るはずもない。聞けばその会長、市議会議員をやっていたので「影響力がある」ので会長に祭り上げられたのだそうな。フィクサーには悪いが、この会長とは会話がつながらない。
で、そのあとホテルにチェックインし、あまりに寒いので店先に半額になっていたレディススーツをかって着替えて、夜は関西大学の朱子学の吾妻先生と太田先生とフィクサーTと私の四人で会席料理。
フィクサーTは一人でビールをあけつづけ、どこぞに銅像を建てる話とか、石濱純太郎先生のシンポジウムをやろうとか、誰とかが生誕●周年だからどうとかこうとか、とにかくひたすらイベントの青写真を語りつづける。彼は人をつないで、動かして、お金をとってきて、自分の考えたイベントを実現することが生き甲斐のようだ。しかし、イベントで一番重要な、展示品の内容、すなわち、書簡や漢詩や墨跡の解読はすべて太田先生に丸投げ。太田先生はそれをこなしていらっしゃる。人柄がいい。まさに菩薩。
翌日午前7時半には、塩江町歴史資料館のオープニング式典が行われる旧安原小学校に向かう。この地区の小学校は七つが一つに統合されて、この安原小学校も廃校になった小学校の一つである。バブルの時にたったと思われる体育館が立派すぎて悲しい。この廃校の建物を地域でいかすために、歴史資料館にコンバートし、その中に藤澤東畡と泊園書院を顕彰する部屋もできたのだ。今年八月には、関西大学が費用を負担して、藤澤東畡の生誕地にたつ碑文もこの小学校の入り口に移設された。

しかし、聞けばこの記念室、土日しかあかず(校外活動とかで利用する場合には平日も開けるけど)、エアコンもその時しかつかない。太田先生は屏風や掛け軸がかびるのではないかと心配されている。それに利用者が増えなければいずれどうなるか先行きも不透明だ。そもそも廃校するってことは人が地域にいないのだから、そこで土日しか開かない場所にどれほどの人がくるかというと、こういっちゃなんだが未来は暗い。
人口減少期に入った日本は東京にいると意識されないが、ここではしみじみと実感できる。地方ヤバイ。
オープニング・セレモニーでは例によってお飾りとして座って、市会議員、吾妻先生、コミュニティ推進課の人、藤沢会の会長(元教育長)等六人がスピーチするのをひたすら拝聴する(笑)。吾妻先生は東畡の碑文のまわりをいつも自発的に掃除してくれた地域の方に感謝の言葉を述べられる。家の前の落ち葉を掃くのも面倒臭い私としては、地域の方々の心の清さに脱帽するのみである。

続いて、太田先生が東畡と讃岐の門人についての講演を行う。三年前に藪田先生のお話を伺った時よりも頭に入る。ご先祖様に強制的に鍛えられたのが効いてきている。この講演が唯一一連の流れの中で藤澤東畡を本当の意味で顕彰した時間であった。
ある人物を顕彰しようという時、銅像立てたり、展覧会やったりすることは派手で目立つが、それが後世につながることに役に立つか言えばたぶんない。だいたい、銅像建立するっていったって18世紀生まれの写真のない人の姿をどうやって再現するんだよ。その銅像の意味することが伝えられなければ、結局ただの銅塊だ。
ご先祖岡田鴨里の旧宅跡には巨大な頌徳碑がたっていて、生家にも碑文がたっているが、鴨里が誰で何をして何を書いたかなんて菩提寺の住職を例外としてほとんどの淡路の人は知らない。ちなみに、ご住職が鴨里に詳しいのは、碑文をたてたのがご住職の祖父だからである(笑)。
歴史資料館の式典でスピーチをした人たちにしても、どれだけの人が東畡の事績を理解しているだろうか。初日にあった某小説家の顕彰会の会長もそうだけど、こういう式典にでてくる人は「影響力のある人」(議員とかお役人とか元教育長)で、東畡の文書をよんで理解しているレベルを期待されていない。今気づいたけど、そもそも私がただの飾りである。東畡の専門家としてではなく、早稲田大学の肩書きと石濱の名前だけでここに座っているのである。"肩書き"だけの人が何人集まっても東畡の思想や精神が、後世に受け継がれる担保にはならない。
まあ、東畡の著作を現代語に訳して世の中に広めるとか、漢学を学ぶ人のための奨学金をつくり、漢文読める人をどんどん養成するとか、漢学塾を開いて漢学を学び、漢文読解の力をつけ、結果東畡の思想を理解する人をたくさん作ることが真の意味での顕彰だろう。今のままではみなが自分のエゴをみたす道具として東畡をツールに使っている状態である。
しかし、時間のかかる地味で堅実なことは、派手さがないから、イベントや銅像を建てようとする人のメンタリティに合わないんだよね。
ま、私だけでも地道に漢学を勉強しよう。そう決心した讃岐の秋であった。
土曜日、高松空港には讃岐漢学のフィクサーT先生が迎えに来て下さっていた。実はこのフィクサーTは私がご先祖の地とつながる契機を作った方である。始まりは、2013年にまいこんだ、フ.ィクサーTからの突然のメールであった。
そこには、藤沢東畡(1795-1865)没後150周年を記念して、高松の歴史資料館で展覧会が行われる。ついては、石濱純太郎関係者として、オープニングにでてくれないか。交通費はださない。という依頼がされていた。
藤沢東畡は讃岐(高松藩)に生まれ、大阪に出て私塾の泊園書院をたて、ここから巣立った塾生は明治初期の大阪の経済を支えたため、地元高松でも顕彰されている。その最後の院主が東洋史学のバイオニア石濱純太郎 (1888-1968) であり、彼は自らが創設した関西大学の文学部に閉鎖後の泊園書院の書籍を移管した。
私「うちは遠縁です。純太郎先生は山ほどお子さんを残していらっしゃるから近畿に直系の子孫がたくさんいるでしょう?」
フィクサーT「通知しても誰もきてくれないんです。それに早稲田大学教授の肩書きが欲しい」と爽やかにホンネを言う。
私「その集まりには当然漢学の研究者がたくさん来ますよね。私のご先祖は岡田鴨里という阿波藩の儒者なので、ご先祖の研究をしている郷土史家なり、研究者なりをご紹介戴けるというのなら、自腹で高松に参りましょう」
フィクサーT「分かりました」
ざっくりいうとそんな感じで、私は高松にいき館長さんとか関係者のスピーチを聞かされテープカットするのをただ座って眺める役を賜ったのであった。続いて藪田先生の藤沢東畡に関する講演があったが、なにしろチベット史なので乱舞する漢学者の名前に親しみがなく、内容がいまいち頭に入ってこない。
そのあと、T先生の車で約束の「ご先祖岡田鴨里について知る人」の待つ香南郷土資料館に向かう。それが四国大学教授太田剛センセだったのである。

私「岡田鴨里のことを研究されているんですよね」
太田先生「鴨里を研究している人は私の知る限りいません。私は四国の漢学者のネットワークを墓誌などから調べています。岡田鴨里は賴山陽の弟子ですから、賴山陽の親友で洲本の益習館の儒者であった篠崎小竹と関係があるはずです」。
フィクサーT「わたしは讃岐(香川)の漢学だから何もできん。淡路島は阿波藩(徳島県)だから、太田先生面倒みてやって(四国大学は徳島にある)」
丸投げかよ。後で聞けばフィクサーTは鴨里の名前を私から聞いた時初めて知ったそうで、それで「研究者を紹介する」とかよく言うわ。完全に騙されたよ自分。
しかし、その後太田先生がご先祖の声をキャッチして、その声に背中をおされて淡路にいき、鴨里の史料を発見したのだから、ある意味フィクサーTの「鴨里の研究者に会わせる」といった約束は果たされたのかもしれない。
ただその研究者は三年後の自分だったけどな(爆笑)。本当に誰か若い方、鴨里を研究して。お願い。
※ 最近鴨里の資料紹介を雑誌『史観』で発表しました。我が家の家系圖も入っているよ! 以下でダウンロードできます。
まあでも今回の高松行きはチベットの話をさせてくれるし、交通費もでているので前回よりは扱いが善くなっている。
空港の外にでると冷たい雨がふっている。予報では二日間雨が降らないというので傘もっていない。フィクサーTの車にのると、空港近くのセルフうどん屋に連れて行かれる。「香川県の糖尿罹患率は全国一なんです。私も生活習慣病まみれですよ」とかいいつつ、おかずなしで、うどんを五玉食べる。うどん中毒なのか。
まさに白い粉の恐怖。
フィクサーT「ここは私が払います。二人で食べても1000円いくかいかないかですが。どはははは」と言うのでごちそうになる。
このあと高松歴史資料館友の会(讃岐村塾)でチベットのお話をさせて戴き、そのあとフィクサーTが、高松出身の某小説家の顕彰会の会長と会えというので会う。私の叔父は川端康成と一高東大と同期でいっしょに新感覚派を起こしたので、叔父の写真とかないかと思って会ってみたのだが、その会長、Wikipediaに書いてあるレベルの川端康成の情報ですら知らない。そんな状態だからうちの叔父のことなど知るはずもない。聞けばその会長、市議会議員をやっていたので「影響力がある」ので会長に祭り上げられたのだそうな。フィクサーには悪いが、この会長とは会話がつながらない。
で、そのあとホテルにチェックインし、あまりに寒いので店先に半額になっていたレディススーツをかって着替えて、夜は関西大学の朱子学の吾妻先生と太田先生とフィクサーTと私の四人で会席料理。
フィクサーTは一人でビールをあけつづけ、どこぞに銅像を建てる話とか、石濱純太郎先生のシンポジウムをやろうとか、誰とかが生誕●周年だからどうとかこうとか、とにかくひたすらイベントの青写真を語りつづける。彼は人をつないで、動かして、お金をとってきて、自分の考えたイベントを実現することが生き甲斐のようだ。しかし、イベントで一番重要な、展示品の内容、すなわち、書簡や漢詩や墨跡の解読はすべて太田先生に丸投げ。太田先生はそれをこなしていらっしゃる。人柄がいい。まさに菩薩。
翌日午前7時半には、塩江町歴史資料館のオープニング式典が行われる旧安原小学校に向かう。この地区の小学校は七つが一つに統合されて、この安原小学校も廃校になった小学校の一つである。バブルの時にたったと思われる体育館が立派すぎて悲しい。この廃校の建物を地域でいかすために、歴史資料館にコンバートし、その中に藤澤東畡と泊園書院を顕彰する部屋もできたのだ。今年八月には、関西大学が費用を負担して、藤澤東畡の生誕地にたつ碑文もこの小学校の入り口に移設された。

しかし、聞けばこの記念室、土日しかあかず(校外活動とかで利用する場合には平日も開けるけど)、エアコンもその時しかつかない。太田先生は屏風や掛け軸がかびるのではないかと心配されている。それに利用者が増えなければいずれどうなるか先行きも不透明だ。そもそも廃校するってことは人が地域にいないのだから、そこで土日しか開かない場所にどれほどの人がくるかというと、こういっちゃなんだが未来は暗い。
人口減少期に入った日本は東京にいると意識されないが、ここではしみじみと実感できる。地方ヤバイ。
オープニング・セレモニーでは例によってお飾りとして座って、市会議員、吾妻先生、コミュニティ推進課の人、藤沢会の会長(元教育長)等六人がスピーチするのをひたすら拝聴する(笑)。吾妻先生は東畡の碑文のまわりをいつも自発的に掃除してくれた地域の方に感謝の言葉を述べられる。家の前の落ち葉を掃くのも面倒臭い私としては、地域の方々の心の清さに脱帽するのみである。

続いて、太田先生が東畡と讃岐の門人についての講演を行う。三年前に藪田先生のお話を伺った時よりも頭に入る。ご先祖様に強制的に鍛えられたのが効いてきている。この講演が唯一一連の流れの中で藤澤東畡を本当の意味で顕彰した時間であった。
ある人物を顕彰しようという時、銅像立てたり、展覧会やったりすることは派手で目立つが、それが後世につながることに役に立つか言えばたぶんない。だいたい、銅像建立するっていったって18世紀生まれの写真のない人の姿をどうやって再現するんだよ。その銅像の意味することが伝えられなければ、結局ただの銅塊だ。
ご先祖岡田鴨里の旧宅跡には巨大な頌徳碑がたっていて、生家にも碑文がたっているが、鴨里が誰で何をして何を書いたかなんて菩提寺の住職を例外としてほとんどの淡路の人は知らない。ちなみに、ご住職が鴨里に詳しいのは、碑文をたてたのがご住職の祖父だからである(笑)。
歴史資料館の式典でスピーチをした人たちにしても、どれだけの人が東畡の事績を理解しているだろうか。初日にあった某小説家の顕彰会の会長もそうだけど、こういう式典にでてくる人は「影響力のある人」(議員とかお役人とか元教育長)で、東畡の文書をよんで理解しているレベルを期待されていない。今気づいたけど、そもそも私がただの飾りである。東畡の専門家としてではなく、早稲田大学の肩書きと石濱の名前だけでここに座っているのである。"肩書き"だけの人が何人集まっても東畡の思想や精神が、後世に受け継がれる担保にはならない。
まあ、東畡の著作を現代語に訳して世の中に広めるとか、漢学を学ぶ人のための奨学金をつくり、漢文読める人をどんどん養成するとか、漢学塾を開いて漢学を学び、漢文読解の力をつけ、結果東畡の思想を理解する人をたくさん作ることが真の意味での顕彰だろう。今のままではみなが自分のエゴをみたす道具として東畡をツールに使っている状態である。
しかし、時間のかかる地味で堅実なことは、派手さがないから、イベントや銅像を建てようとする人のメンタリティに合わないんだよね。
ま、私だけでも地道に漢学を勉強しよう。そう決心した讃岐の秋であった。
「奥の細道」ゼミ旅行
十月十四日(金)
今年のゼミ旅行は仙台にとまって、平泉や松島にいく。免許をとって間もない四年生たちは安いし車でいくという。私は三限の授業をやってからなので、後から新幹線でおっかける。五時くらいに仙台につくと学生たちはすでに宿に入っておのおの勝手に遊んでいるという。大学四年生といえばありあまった体力に知力が追いつかず、大酒をかっくらい、おお食らいをし、さらには競ってバカなことをやってはツイッターを炎上させるが、今年の四年ゼミ生はそのような危険のある学生が三分の一から半分くらいをしめるため、私としては非常に緊張を強いられるわけである。

まず、呑むなといっても人の話なんかききゃーしない。その晩も飲み放題を設定してゲームをやりながらひたすら飲み続け、私がまじめな学生とつい話し込んでおり、はっと後ろをむくともうふらふらになった三年Aが一気飲みをしようとしており、グラスをひったくってとめたが、もう手遅れ。良い子のZくんがAくんをトイレにつれていってくれたが、でてこない。のぞくと、わたされた水を床にこぼし、トイレを抱いており、かなりまずい。何がまずいってこのままこの居酒屋のトイレを独占していたら、他のお客さんにメイワクである。

そこで比較的理性ののこっていそうなBに会費徴収してと頼むと、Cにむかって「おい金出せ」というと、Cが「財布がない、オレの財布をさがせ」とどなりだし、Bが「おいここにあるじゃないか」とC の後ろポケットから財布をだすと何もとらずに戻した。そしていつまでたっても他の人のお金を集めにいく気配がない。Bも酔っていたのだ。後ろではFちゃんが「私のケータイがないわ!」とずっと叫んでいる。後で分かったことだがBがFちゃんのケータイを自分のと間違ってしまいこんでいた。比較的酔っていない女の子のMちゃんが一人一人からお金を集めてくれたがどうしてもたりないので私がとりあえず払っておく。この時くらい教師になったことを後悔したことはない。Gが予約した宿がまた個室でなく、共同トイレ、共同洗面所なので、世の中にメイワクをかけずにこの子たちをどうしたらいいのか途方にくれる。
十月十五日(土)
一夜明けて、男の子たちの部屋に入ると、酒臭い。昨晩の醜態について説教をするも、聞いてない。どころか「先生の統率力がないからいけないんです」と言われ、血圧があがる。
さらに、「今日平泉いくのに飲酒運転で捕まるわい」と怒ると「大丈夫です。八時間以上あいてますし(店に入ったのが午後五時半)、もう正気です」という。
平泉につくとよいお天気で去年の日光の極寒凍死寸前体験をうけてみな厚着をしていたのが拍子抜け。金色堂や藤原三代の展示を「日本史の教科書でみたよ」と喜んでいる。折しも、熊本大震災をうけて一字金輪仏頂尊の仏像をご開帳している。私が「これはすごい。この仏様は太陽光線の神格化で、この仏の法を行っている場所を中心として地球の半分、すなわち昼の部分にあたる他の行の効果、ハリーポッター的にいえば魔法を全部無効かするんだよ。これは見に行かねば」といっても、「えー、課金されるじゃないですか(ゲームじゃないっつの!)、それよりもわんこそばを食べにいきましょうよ。」
以後も、国宝みせようが、聖地につれていこうが、日本三景の一つ松島につれていこうが、この後も食べ物のこと(牛タン、ずんだもち、ソフトクリーム、etc.)しか口にしないのであった。
一字金輪仏頂はすばらしく、お坊さんの説明も去年の日光のお土産品をかわすためだけの解説とは異なりまじめな者で好感が持てた。学生は・・・・。「わんこそば」の大合唱。だめだこりゃ。
そして、わんこそばやにはいると、女子はみな普通のソバしか頼まないのに、男子は全員わんこそば対決をはじめた。食べ放題に設定して、その店の記録が83杯のところを一位63杯、ビリでも43杯食べた。
「わんこそば食い残してや光堂」(ゆみこ)

私「このあと松島で船にのるのに、絶対吐くでしょ、あんたたち」と怒ると
E「〔×ろが〕魚の餌になりますよ」
食後、義経終焉の地、高館義経堂にいく。義経様、「たっきーをお守り下さい」という絵馬にファンの素晴らしさをしる。北上川をみおろす素晴らしい景色で、ご先祖岡田鴨里が親交のあった賴山陽の三子賴三樹三郎の碑文を見つける。ご先祖は全国旅をしていたので、ここにもきているかも。
そのあと、ひたすら南下して松島にいく。五大堂を観光したあとサンセットクルージングの最後の船にのる。あの昨日から勝手をし続けてきた学生達が妙に静かである。じつは、彼らはひどい二日酔いに、大量のわんこ蕎麦をたべていたため、船に揺られて、吐き気を押さえるので一杯一杯だったのである。

あんなにわんこわんこといっていたGが、「もう二度とわんこは食わない」と松島の海を見つめていた・・・。折しもほぼ満月の月は東に日は西に。与謝野蕪村の名句の浮かぶような絶景であるが、食い気と吐き気の学生たちいると情緒にひたるひまもない。
船をおりるととっぷり日が暮れて、観光案内所もしまっているが、おっちゃんを捕まえて東日本大震災の時の話を伺う。
私「松島は湾内に島がたくさんあっつたため、被害が少なかったと伺っていますが、本当ですか」ときくと、おっちゃんは「そんなことないですよ。胸までつかりました」と、私を船の待合室の一角につれていってくれた。そこには震災の時の町の様子が展示されていた。被害がなかったという松島もこれである。私が学生たちをひっぱってきて「津波の時にはここまで水がきたんですよ、おい聞けよ!」と怒っていると、一人の老婦人が話しかけてきた。
話しをまとめると、その方は「被災地にグランドピアノをおくる運動をやっていて、その贈答式のために宮城にきて、仲間が帰ったあと、一人残って松島観光もしているとのことである。「私はもう74なの、」とおっしゃるので「その御年でこうやって一人で旅行されているんですから、お元気ですよねえ。」というと
C「この人(私を指さして)72なんですよ」
おばあさん「そ、それはお若いですねえ」
学生全員爆笑。こいつら〜〜〜〜。
しかし、それよりも晩ごはんである。ほっておくと盛り場にくりだそうとする学生をとどめ、宿の近所の焼き肉やに押し込み、食べ放題をあてがう。焼き肉は焼いている間は酒が飲めないから、酒を飲むペースがおちるはずである。大体、酒を飲んだ量が多いことを自慢して何になるんだ。バカなのか。案の定、昨日の地獄絵図は再現されることはなかった。もう禁酒年齢を24にひきあげた方がいいと思う。
十月十六日(日)
朝食におりてきたのは、五人くらい。 幹事をしてくれたGとCがお金の精算をするために全員を食堂に召集するが、お札を前に二人でならんでいる絵面は、野球賭博の胴元のようである。
私が「仙台市博物館にいきましょう。金色堂とか伊達政宗の解説もあるし、雪舟と宮本武蔵の特別展もやっているわよ」というと、Gが「そんなもんより、牛タン、牛タン。僕たち車で帰るんですから、時間とれませんよ」と偉そう。
牛タンなんか新宿ねぎしでもたべられるだろう!
この旅を奥の細道にならって総括するとこんなもんか。
「秋深し、バカものどもの×〇のあと」(ゆみこ)
写真は明日あげます。疲れました・・・。
今年のゼミ旅行は仙台にとまって、平泉や松島にいく。免許をとって間もない四年生たちは安いし車でいくという。私は三限の授業をやってからなので、後から新幹線でおっかける。五時くらいに仙台につくと学生たちはすでに宿に入っておのおの勝手に遊んでいるという。大学四年生といえばありあまった体力に知力が追いつかず、大酒をかっくらい、おお食らいをし、さらには競ってバカなことをやってはツイッターを炎上させるが、今年の四年ゼミ生はそのような危険のある学生が三分の一から半分くらいをしめるため、私としては非常に緊張を強いられるわけである。

まず、呑むなといっても人の話なんかききゃーしない。その晩も飲み放題を設定してゲームをやりながらひたすら飲み続け、私がまじめな学生とつい話し込んでおり、はっと後ろをむくともうふらふらになった三年Aが一気飲みをしようとしており、グラスをひったくってとめたが、もう手遅れ。良い子のZくんがAくんをトイレにつれていってくれたが、でてこない。のぞくと、わたされた水を床にこぼし、トイレを抱いており、かなりまずい。何がまずいってこのままこの居酒屋のトイレを独占していたら、他のお客さんにメイワクである。

そこで比較的理性ののこっていそうなBに会費徴収してと頼むと、Cにむかって「おい金出せ」というと、Cが「財布がない、オレの財布をさがせ」とどなりだし、Bが「おいここにあるじゃないか」とC の後ろポケットから財布をだすと何もとらずに戻した。そしていつまでたっても他の人のお金を集めにいく気配がない。Bも酔っていたのだ。後ろではFちゃんが「私のケータイがないわ!」とずっと叫んでいる。後で分かったことだがBがFちゃんのケータイを自分のと間違ってしまいこんでいた。比較的酔っていない女の子のMちゃんが一人一人からお金を集めてくれたがどうしてもたりないので私がとりあえず払っておく。この時くらい教師になったことを後悔したことはない。Gが予約した宿がまた個室でなく、共同トイレ、共同洗面所なので、世の中にメイワクをかけずにこの子たちをどうしたらいいのか途方にくれる。
十月十五日(土)
一夜明けて、男の子たちの部屋に入ると、酒臭い。昨晩の醜態について説教をするも、聞いてない。どころか「先生の統率力がないからいけないんです」と言われ、血圧があがる。
さらに、「今日平泉いくのに飲酒運転で捕まるわい」と怒ると「大丈夫です。八時間以上あいてますし(店に入ったのが午後五時半)、もう正気です」という。
平泉につくとよいお天気で去年の日光の極寒凍死寸前体験をうけてみな厚着をしていたのが拍子抜け。金色堂や藤原三代の展示を「日本史の教科書でみたよ」と喜んでいる。折しも、熊本大震災をうけて一字金輪仏頂尊の仏像をご開帳している。私が「これはすごい。この仏様は太陽光線の神格化で、この仏の法を行っている場所を中心として地球の半分、すなわち昼の部分にあたる他の行の効果、ハリーポッター的にいえば魔法を全部無効かするんだよ。これは見に行かねば」といっても、「えー、課金されるじゃないですか(ゲームじゃないっつの!)、それよりもわんこそばを食べにいきましょうよ。」
以後も、国宝みせようが、聖地につれていこうが、日本三景の一つ松島につれていこうが、この後も食べ物のこと(牛タン、ずんだもち、ソフトクリーム、etc.)しか口にしないのであった。
一字金輪仏頂はすばらしく、お坊さんの説明も去年の日光のお土産品をかわすためだけの解説とは異なりまじめな者で好感が持てた。学生は・・・・。「わんこそば」の大合唱。だめだこりゃ。
そして、わんこそばやにはいると、女子はみな普通のソバしか頼まないのに、男子は全員わんこそば対決をはじめた。食べ放題に設定して、その店の記録が83杯のところを一位63杯、ビリでも43杯食べた。
「わんこそば食い残してや光堂」(ゆみこ)

私「このあと松島で船にのるのに、絶対吐くでしょ、あんたたち」と怒ると
E「〔×ろが〕魚の餌になりますよ」
食後、義経終焉の地、高館義経堂にいく。義経様、「たっきーをお守り下さい」という絵馬にファンの素晴らしさをしる。北上川をみおろす素晴らしい景色で、ご先祖岡田鴨里が親交のあった賴山陽の三子賴三樹三郎の碑文を見つける。ご先祖は全国旅をしていたので、ここにもきているかも。
そのあと、ひたすら南下して松島にいく。五大堂を観光したあとサンセットクルージングの最後の船にのる。あの昨日から勝手をし続けてきた学生達が妙に静かである。じつは、彼らはひどい二日酔いに、大量のわんこ蕎麦をたべていたため、船に揺られて、吐き気を押さえるので一杯一杯だったのである。

あんなにわんこわんこといっていたGが、「もう二度とわんこは食わない」と松島の海を見つめていた・・・。折しもほぼ満月の月は東に日は西に。与謝野蕪村の名句の浮かぶような絶景であるが、食い気と吐き気の学生たちいると情緒にひたるひまもない。
船をおりるととっぷり日が暮れて、観光案内所もしまっているが、おっちゃんを捕まえて東日本大震災の時の話を伺う。
私「松島は湾内に島がたくさんあっつたため、被害が少なかったと伺っていますが、本当ですか」ときくと、おっちゃんは「そんなことないですよ。胸までつかりました」と、私を船の待合室の一角につれていってくれた。そこには震災の時の町の様子が展示されていた。被害がなかったという松島もこれである。私が学生たちをひっぱってきて「津波の時にはここまで水がきたんですよ、おい聞けよ!」と怒っていると、一人の老婦人が話しかけてきた。
話しをまとめると、その方は「被災地にグランドピアノをおくる運動をやっていて、その贈答式のために宮城にきて、仲間が帰ったあと、一人残って松島観光もしているとのことである。「私はもう74なの、」とおっしゃるので「その御年でこうやって一人で旅行されているんですから、お元気ですよねえ。」というと
C「この人(私を指さして)72なんですよ」
おばあさん「そ、それはお若いですねえ」
学生全員爆笑。こいつら〜〜〜〜。
しかし、それよりも晩ごはんである。ほっておくと盛り場にくりだそうとする学生をとどめ、宿の近所の焼き肉やに押し込み、食べ放題をあてがう。焼き肉は焼いている間は酒が飲めないから、酒を飲むペースがおちるはずである。大体、酒を飲んだ量が多いことを自慢して何になるんだ。バカなのか。案の定、昨日の地獄絵図は再現されることはなかった。もう禁酒年齢を24にひきあげた方がいいと思う。
十月十六日(日)
朝食におりてきたのは、五人くらい。 幹事をしてくれたGとCがお金の精算をするために全員を食堂に召集するが、お札を前に二人でならんでいる絵面は、野球賭博の胴元のようである。
私が「仙台市博物館にいきましょう。金色堂とか伊達政宗の解説もあるし、雪舟と宮本武蔵の特別展もやっているわよ」というと、Gが「そんなもんより、牛タン、牛タン。僕たち車で帰るんですから、時間とれませんよ」と偉そう。
牛タンなんか新宿ねぎしでもたべられるだろう!
この旅を奥の細道にならって総括するとこんなもんか。
「秋深し、バカものどもの×〇のあと」(ゆみこ)
写真は明日あげます。疲れました・・・。
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