『ダライ・ラマと転生』(扶桑社新書)発売開始!
九月二日に、扶桑社新書より拙著『ダライ・ラマと転生』がでます。

チベットの僧院社会の構造、転生相続などを、チベット密教の大本山ギュメ大僧院の施主、平岡家を取材することをつうじて、内部から描きだしたものです。
2014年にガワン先生(1937-2009 元ギュメ密教大学管長)の生まれ変わりが前世の弟子である平岡宏一先生(清風学園校長)とガンデン大僧院(インドカルナタカ州)で再会した際には、筆者も同行しており、転生相続のディープな側面を見聞きできました。
今まで、歴史を「研究」してきましたが、はじめて歴史の書き手になったという意味でも貴重な体験でした。お時間のある折に拙著をお手にとって読み流して戴ければと思います。
以下に簡単な内容紹介サイトをつくりました。目次や写真をカラーでみられます。
以下に本書のプロローグをチラっとお見せします。
■プロローグ チベット世界との出会い
筆者がダライ・ラマ14世と初めて出会ったのは1994年4月14日、ダライ・ラマがトランジットで成田空港に十時間だけ立ち寄った時のことである。・・・・
ダライ・ラマが視界に入ると、在日チベット人たちは一斉にその場で五体投地を始めた。・・・・
ダライ・ラマはそのまま休憩をとるためにホテルに向かい、筆者と在日チベット人たちもそのホテルに移動し集団謁見の声がかかるのを待った。ふと見ると、エントランスから清風学園を経営する平岡英信一家が入って来るのが見えた。平岡英信理事長の長男、平岡宏一はチベット密教の研究者であり、東洋文庫のチベット研究室やチベット関連の研究会で何度も顔を合わせていたので、宏一をつかまえて事情をきくと、宏一はチベットのギュメ密教大学に留学していたこと、一家をあげてチベット密教の支援をしていること、ダライ・ラマが来日した際には、たとえどんなに短い滞在であっても大阪から上京して謁見していることなどを語った。最後に「ボクは何度もあなたにこの話をしてきましたよ」と言われたのはご愛敬である。
さらに宏一から「せっかくここにいるのだから、ダライ・ラマと謁見しませんか」と誘われたので、好奇心に負けて、集団謁見に紛れ込ませてもらった。チベット人はダライ・ラマの前に出ると合掌したまま、ただ深く深く頭を下げて、顔を上げることもできない。それは、難民社会ではダライ・ラマは今なお国王に他ならないことを示しており、ダライ・ラマ14世を取り巻くチベット社会を知ることは、過去の歴史史料を読む際にも有用なのではないかと直感した。
不思議なことに、それから筆者の下にはダライ・ラマ14世関連の仕事が来るようになった。初めての謁見から一か月もたたないうちに、ダライ・ラマ14世の著書を翻訳する話が舞い込み、・・・次に、ダライ・ラマの密教の著作の翻訳をしないかとの打診があった。筆者は歴史学者であり、仏教哲学については素人である。最初の著書の翻訳ですら恐る恐るであったのに、密教についてはさらに無知である。そのため即答しかねていると、平岡宏一は「分からないところがあったら私の密教の先生であるロプサン・ガワン(1937~2009)先生に聞いてあげますから、その仕事を引き受けなさい」。・・・
この時、宏一から初めて名前を聞いたロプサン・ガワン先生は大学僧であった。以後、彼の学識と言動からどれだけのものを学んだかは言い尽くすことができない。

1996年以後、ロプサン・ガワン先生は平岡宏一の研究と清風学園での行事のために、毎年のように来日した。・・・その中で先生とダライ・ラマとの生を超えた交流、密教の師弟関係、弟子同士の連帯感を知るに及び、それらの知識は歴史史料を読解する際にも非常に役立った。しかし、ロプサン・ガワン先生の真価を本当の意味で理解したのは、最晩年に彼がガンに罹患した後である。先生は迫り来る死にも心を乱されることはなく、常に周りを思いやり、淡々と平岡宏一にチベット密教の奥義を伝授していった。最後の一年の師弟関係は端で見ていても壮絶なものであった。
・・・・それから四年後の2013年の夏、平岡宏一から「見せたいものがある」と言われ、ゼミ合宿で高野山に行った帰り、大阪に立ち寄った。上本町のカフェに座った宏一は、何とも言えない表情で一人の幼児の写真を胸の前に立て「ガワン先生の生まれ変わりが見つかった」と言った。先入観があるからか、本当にそうなのかは分からないが、写真の子は三歳児とは思えない大人びた表情をしており、どことなくガワン先生と面差しが似ていた。・・・・もしこの写真の子が本当にガワン先生の「生まれ変わり」であるなら、前世において最も深いつながりのあった弟子の宏一を識別できるはずである。二人が初対面する席には必ず同席しようと心に決めた。
再会の顛末は本書を読んでのお楽しみである。
ダライ・ラマはチベットの転生僧集団のトップにあって、チベット社会に新たに出現する転生者たちを審査し、認定し、剃髪し、命名し、その成長を見守る立場にある。このようなダライ・ラマの姿は一般にはあまり知られていないが、ロプサン・ガワン先生が闘病、臨終、再生する過程で、ダライ・ラマがいかにこの過程に関与するかを垣間見ることができた。
本書は、このロプサン・ガワン先生の生涯とダライ・ラマとの関係を通じて、転生僧たちの世界、チベットの僧院生活、死生観、そして転生相続システムなどを当事者の視点から解明していく。

チベットの僧院社会の構造、転生相続などを、チベット密教の大本山ギュメ大僧院の施主、平岡家を取材することをつうじて、内部から描きだしたものです。
2014年にガワン先生(1937-2009 元ギュメ密教大学管長)の生まれ変わりが前世の弟子である平岡宏一先生(清風学園校長)とガンデン大僧院(インドカルナタカ州)で再会した際には、筆者も同行しており、転生相続のディープな側面を見聞きできました。
今まで、歴史を「研究」してきましたが、はじめて歴史の書き手になったという意味でも貴重な体験でした。お時間のある折に拙著をお手にとって読み流して戴ければと思います。
以下に簡単な内容紹介サイトをつくりました。目次や写真をカラーでみられます。
以下に本書のプロローグをチラっとお見せします。
■プロローグ チベット世界との出会い
筆者がダライ・ラマ14世と初めて出会ったのは1994年4月14日、ダライ・ラマがトランジットで成田空港に十時間だけ立ち寄った時のことである。・・・・
ダライ・ラマが視界に入ると、在日チベット人たちは一斉にその場で五体投地を始めた。・・・・
ダライ・ラマはそのまま休憩をとるためにホテルに向かい、筆者と在日チベット人たちもそのホテルに移動し集団謁見の声がかかるのを待った。ふと見ると、エントランスから清風学園を経営する平岡英信一家が入って来るのが見えた。平岡英信理事長の長男、平岡宏一はチベット密教の研究者であり、東洋文庫のチベット研究室やチベット関連の研究会で何度も顔を合わせていたので、宏一をつかまえて事情をきくと、宏一はチベットのギュメ密教大学に留学していたこと、一家をあげてチベット密教の支援をしていること、ダライ・ラマが来日した際には、たとえどんなに短い滞在であっても大阪から上京して謁見していることなどを語った。最後に「ボクは何度もあなたにこの話をしてきましたよ」と言われたのはご愛敬である。
さらに宏一から「せっかくここにいるのだから、ダライ・ラマと謁見しませんか」と誘われたので、好奇心に負けて、集団謁見に紛れ込ませてもらった。チベット人はダライ・ラマの前に出ると合掌したまま、ただ深く深く頭を下げて、顔を上げることもできない。それは、難民社会ではダライ・ラマは今なお国王に他ならないことを示しており、ダライ・ラマ14世を取り巻くチベット社会を知ることは、過去の歴史史料を読む際にも有用なのではないかと直感した。
不思議なことに、それから筆者の下にはダライ・ラマ14世関連の仕事が来るようになった。初めての謁見から一か月もたたないうちに、ダライ・ラマ14世の著書を翻訳する話が舞い込み、・・・次に、ダライ・ラマの密教の著作の翻訳をしないかとの打診があった。筆者は歴史学者であり、仏教哲学については素人である。最初の著書の翻訳ですら恐る恐るであったのに、密教についてはさらに無知である。そのため即答しかねていると、平岡宏一は「分からないところがあったら私の密教の先生であるロプサン・ガワン(1937~2009)先生に聞いてあげますから、その仕事を引き受けなさい」。・・・
この時、宏一から初めて名前を聞いたロプサン・ガワン先生は大学僧であった。以後、彼の学識と言動からどれだけのものを学んだかは言い尽くすことができない。

1996年以後、ロプサン・ガワン先生は平岡宏一の研究と清風学園での行事のために、毎年のように来日した。・・・その中で先生とダライ・ラマとの生を超えた交流、密教の師弟関係、弟子同士の連帯感を知るに及び、それらの知識は歴史史料を読解する際にも非常に役立った。しかし、ロプサン・ガワン先生の真価を本当の意味で理解したのは、最晩年に彼がガンに罹患した後である。先生は迫り来る死にも心を乱されることはなく、常に周りを思いやり、淡々と平岡宏一にチベット密教の奥義を伝授していった。最後の一年の師弟関係は端で見ていても壮絶なものであった。
・・・・それから四年後の2013年の夏、平岡宏一から「見せたいものがある」と言われ、ゼミ合宿で高野山に行った帰り、大阪に立ち寄った。上本町のカフェに座った宏一は、何とも言えない表情で一人の幼児の写真を胸の前に立て「ガワン先生の生まれ変わりが見つかった」と言った。先入観があるからか、本当にそうなのかは分からないが、写真の子は三歳児とは思えない大人びた表情をしており、どことなくガワン先生と面差しが似ていた。・・・・もしこの写真の子が本当にガワン先生の「生まれ変わり」であるなら、前世において最も深いつながりのあった弟子の宏一を識別できるはずである。二人が初対面する席には必ず同席しようと心に決めた。
再会の顛末は本書を読んでのお楽しみである。
ダライ・ラマはチベットの転生僧集団のトップにあって、チベット社会に新たに出現する転生者たちを審査し、認定し、剃髪し、命名し、その成長を見守る立場にある。このようなダライ・ラマの姿は一般にはあまり知られていないが、ロプサン・ガワン先生が闘病、臨終、再生する過程で、ダライ・ラマがいかにこの過程に関与するかを垣間見ることができた。
本書は、このロプサン・ガワン先生の生涯とダライ・ラマとの関係を通じて、転生僧たちの世界、チベットの僧院生活、死生観、そして転生相続システムなどを当事者の視点から解明していく。
初歩の瞑想(ギュメ法話2)
ギュメ寺法話パート2。帰依の仕方と初歩の瞑想です。
写真はお勉強をするお坊さんたち、前世僧だったと思われる境内でなごむ犬、雨天の時の論理学道場です。
講師: セルナン・ロティ先生 日時 8月13日
本日は、帰依の仕方、そして、「瞑想のやり方」についてお話します。
●三宝に帰依する
まず仏教徒であるか否かの境目は、「三宝(仏・法・僧)」に帰依しているか否かにかかっています。たとえば、建物の内側と外側の境目は門にありますが、仏教とそれ以外の思想(外教)の境目は三宝に帰依するかどうかにあります。
仏教に「帰依」するには、二つの原因が必要です。我々は仏教によって心を陶冶しなければ永遠に輪廻をさまよい続けることになります。まず、この輪廻の苦しみを知らねばなりません(一つ目の因)。その苦しみを知って輪廻から逃れたいと思い、その手段を提示しているのが仏教であることを知り(二つ目の因)、その結果、仏教に帰依します。たとえば水の中に落ちて死にそうになったら(一つ目の因)、水の表面に出たいという願いが生じて、そこから出る方法を考えます(二つ目の因)。
我々の生は短く、来世はどんな生が待ち受けているかわかりません。もし悪いことばかりしていれば、その悪い行いの結果として地獄や餓鬼や畜生といった悪い境遇(悪趣)に陥ります。
憎しみとか、怒りを抱き、喧嘩とかばかりしていると、地獄に落ちることになります。地獄においては死んでも、そこで終わりではありません。虚空から声がするとふたたび蘇り苦しみを味わい続けねばなりません。このような苦しい状況下では善い行いをすることもできないので、地獄にいる期間は果てしなく長くなります。イメージとしては、仕事で大失敗してしまい、夜寝ているときにそのことを思い出してうなされる時のような感じが永遠に続くのです。

このような地獄の苦しみを知れば、「地獄に生まれたくない」と、心から三宝に対する帰依の気持ちが生まれてきます。また、ケチな人は餓鬼になります。餓鬼はお腹がすいて食べ物が目の前にあっても、それを食べることができません。また、動物に生まれてしまったら自分の人生を思うように操ることができません。畑で働かされたり、明日には食肉になって食卓に並ぶことになるかもしれません。
我々はいつも人間に生まれることができるわけではありません。善い行いをしなければ、地獄、餓鬼、畜生といったこのような悪い境遇(悪趣)に陥ることになるのです。
人はうまくいっている時には神様を忘れていますが、困ったときには神頼みをします。だから、悪い境遇(悪趣)に陥る苦しみを想像して、それを救う力が三宝にあると考える、これが帰依の因です。
この繰り返される生の中で、人間に生まれることは非常にまれなことなのです。地獄や餓鬼や畜生に生まれてしまったら、善行もできませんから、なかなかこの境遇から出られません。犬は賢い動物ですが、犬ですら長いスパンでものを考えることはできません。人間のみが先のことを考えて善行を積み重ねることができます。
悪い境遇に陥ってしまった自分を想像する時、人ごとのように考えるのではなく、具体的に自分の身におきたと具体的に考えることが大切です。そうしてはじめてこの悪趣から離れたいと思い、そこから離れる方法を示す三宝の価値がわかってくるのです。
あなた方が普段抱えている一つ一つの具体的な苦しみについては、三宝に帰依する必要はありません。もっと大きな視点からみた、輪廻というこの苦しみから逃れる方法は、仏教しか説いていません。
●我々は病人、三宝は病人を癒やす医師・薬・看護師のようなもの
病人を助けるには三つのものが必要となります。診断をくだす医者、医者が処方する薬、その薬を用いて病人を世話する看護師の三つです。良い医者にかかり、良い薬をもらい、親切な看護師さんに面倒を見てもらえば、病気は速く治ります。
煩悩という病に苦しむ我々の場合には、良い医者は仏、良い薬は仏法、良い看護師が僧にあたります。そう三宝(仏・法・僧)です。
このうち、仏様についてのみ詳しく説明すると、仏様には四つの美質(功徳)があります。
(1) 仏は自身、苦しみから解放されている。
キリスト教は神という絶対者(造物主)を信仰します。しかし、仏教における仏はキリスト教の神のような絶対的存在ではなく、もとは我々と同じ人間でした。仏様も覚りを開く前は我々と同じように輪廻の中で苦しんでいましたが、あるとき真理を体得して仏の境地を得ました。この事実は我々も仏になることができる可能性を示しています。
仏様が輪廻の苦しみから解放されていることがなぜ重要かといえば、穴に落ちたことのない人は穴から出る方法を知りませんが、仏様はかつて我々と同じように穴に落ちていたものの、そこから出ることができたので、その穴からでる出る方法を知っているからなのです。
(2) 仏は他者を苦しみから救う手段(方便)が巧みである。
人々の様々な能力や状況にあわせて、仏様は巧みに法を説くことができます。頭が痛い人には頭痛薬、肝臓が悪い人には肝臓の薬をあげるよにう、仏様はそれぞれの人の苦しみに応じた導きを行うことができます。
(3) 仏はすべての命あるもの(衆生)に対して分け隔て無い哀れみをもっている。
(4) 仏は自分にとって役に立つ人も役に立たない人に対しても役に立つことができる。
太陽が地上にあるものに分け隔て無く光を注ぐように、虚空の月が地上の水面に無限に姿を映すように、私たちが仏様に心を向ければ、仏様は分け隔て無くその慈悲を与えてくれます。ただ、地上にある水が濁っていたら虚空の月がぼんやりしか映りません。これは月の問題ではなく、それを映す側、すなわち我々の心の側の問題です。
みなさんは自分のことを大切に思っていますが、仏様は母親が一人子を大事に思うように全ての人を大事に思っています。したがって、どんな生き物に対しても同じ慈しみの心を持っているというのが仏様の美質なのです。
このような仏様の美質を知った上で、三宝(仏・法・僧)に帰依するならば、その福徳は尽きることがありません。朝起きてすぐ5分間、心の中で三宝への帰依を行うだけで魔が入る余地がなくなります。毎朝、仏様に完全に帰依していれば、魔の入る余地はなく、自分の持っている問題は自然と解決していきます。

●帰依の仕方
仏教に帰依するには、動機の上中下によって三種類の仕方があります。
(1) 良い来世(お金持ちに生まれたい・美人に生まれたい)を得たいいという動機から仏教に帰依すること。
(2) 二番目は輪廻それ自体から逃れたいという動機から帰依すること。
(3) 三番目は全ての衆生を苦しみから救いたいと思って帰依すること。
最初の二つは自分のために仏教に帰依していますが、三番目の帰依の仕方は他人のために行っているので、その功徳は量り知れません。
命あるものは我々にとって大切なものです。我々の食べ物、寝場所、着るもの、教養、すべてたくさんの命あるものたちのお世話になっています。私たちの快適さは全て命あるものによってもたらされています。どこかに行くにしても、一人ではどこにく行くことができず、他者の助けがあってはじめて行くことができます。一粒のお米にも命あるものの力が結集されています。大乗仏教の六つの究極の行い(六波羅蜜)のうち、布施、持戒、忍耐、精進はみな命あるものがなくては実践することができません。他者のために仏教をめざすためにも他者がいて初めて可能となるのです。したがって、命あるものとは我々がそこから利益(りやく)を得ることができる田圃のようなものである。意識すれば他者から多くの利益を得ることができます。
子どもができたら大切に愛情をかけ、一人前の人にする。子どもは小さいときに受けた慈しみの気持ちを大人になってから子どもに対して持つようになります。無限の輪廻を繰り返す中で、すべての衆生はかつて母親だったことがあります。だから母親から受けた愛情を、全ての衆生から受けたと思いましょう。母親が困っているときに母親を放っておく人はいません。それと同じように困っている衆生を放置することはできないのです。したがって仏教ではたった一つの生き物でも苦しめてはいけないと説きます。慈しみの心は、このように想像力を働かせて少しずつ育てていくものです。
慈しみの心が平和の元です。何度も反芻して心の中に育てていかねばなりません。慈しみの心を育てると心の苦しみはなくなります。心の中に上手に慈しみを育てられたら、素晴らしい音楽や風景の力を借りずとも心を平和な状態に保つことができます。
怒りや憎しみを抱いていては苦しみの連鎖は果てることがありません。慈しみの気持ちを育てて、敵愾心や怒りを制御していかねばなりません。
家族でもグループでも、慈しみの気持ちを大きくしていけば、そこに属する者みなが幸せになれます。
●瞑想の仕方
瞑想には一時的な美徳と究極の美徳の二つがあります。まず、一時的な瞑想でも心が安定し、健康になります。お坊さんにならなくとも瞑想することはできます。
まず、初心者は心を安定(奢摩他)させる必要があります。身の危険のないところ、静かなところで観想する必要があります。

まず、あぐらをかいて足の甲を太股の上にのせてください(結跏趺坐)。目は鼻の先を見て、半眼にし、頭を少し下に向け、背骨を伸ばします。左手は上、右を下にして膝の上におき、脇は締めません。こうすると身体エネルギー(ルン)の活動が緩やかになります。観想の対象はそれぞれの好みで決めていいのですが、お釈迦様のお姿を瞑想するのが最もよいので、仏様を例にすると、5cmくらいの大きさの仏様が眉間より少し高い位置にあると観想します。仏様の質感は少し重くて輝きがある感じで。重いと心が散漫になることを防ぎ、輝きは眠気を覚ます効果があります。
心は日々移り変わる花の色のように安定していません。怒りが強い時には慈しみの心を観想し、執着が強い時には執着の悪徳を観想します。無知が強ければ十二縁起を観想して無知を消していきます。慢心の心が起こってきたら自分はまだまだ知らないことがあると考えます。いろいろと考えすぎて心が不安定になっているとき、眠れない時は、吸う息はく息を数えるのが有効です。
仏教徒でなくとも悩んでいたり、心が迷っている時にはこの数息観(すそくかん)が効果があります。悩んでいる時はじつは悩みの対象について考えない方がよいのです。だから悩んでいる時は数息観をしましょう。
仏像を瞑想するとき、目でものを見ようとすると、心はころころかわっていくので、その状態を保つことは難しいです。仏様をずっと見るのではなく、見た後には視点を落とします。瞑想することは目で同じ場所を見ることではなく心を一点に集中することです。なので目をつぶった方が集中できるという人はつぶった方がいいです。心は躁状態とうつ状態の二つの方向にふれて対象から離れようとします。うつ状態の場合は意識は黒い布をかけたように沈み、眠り込んでしまいます。なので、心がうつっぽい時には朝日を想像しましょう。逆に躁状態になったら、この世の苦しみを考えて、心を静めましょう。人は苦しい時には一つのことしか考えられないため集中できるからです。心を躁状態にもうつ状態にもならないようにして、一点に集中させる、まずこの基礎を身に付けましょう。同じ対象を用いて毎日行うことが重要です。
以上は阿闍梨様からいただいた初心者のための奢摩他の口伝です。
以下瞑想に関する一問一答
問い「心を安定させる瞑想(奢摩他/ シネー)が必要な理由は?」
答え 心を安定させる瞑想(奢摩他)は他の瞑想の土台です。その土台がなければ、顕教の修行も密教の修行も進みません。基礎がしっかりしていないと、仕事がうまくいかないのと同じです。心は躁状態になったりうつ状態になったりしますが、その両方を避け一点に集中することが大切なのです。これがきちんとできたら、それだけでも結構ハッピーになります。朝起きた時から、心が散漫であったらろくなことはありません。朝、起きたとき心が集中していれば、一日もうまくいきます。私たちの苦しみの多くは心が原因で起きていてます。そういう意味で心をコントロールすることは大切です。
問い「分析的瞑想(毘鉢舎那 /ハクトン)は?」
答え 心を安定させる瞑想も分析的瞑想もどちらも大切です。心を安定させた上で分析を行うので、心を安定させる瞑想は分析的瞑想の基礎となります。この二つの瞑想を交互に行うことが大切です。
問い「瞑想は子どもの時から始めるのですか?」
答え 子どものころには理解できないので、瞑想は25歳くらいから始めます。
問い「瞑想はいつするのがよいでしょうか?」
答え 朝がベストです。朝は意識は活発に働いているけれど、夜は疲れており、一日の雑事が心に浮かんで集中できません。最初は1分からはじめて、2分、3分と集中できる時間をどんどん増やしていきましょう。
問い「呼吸の仕方は?」
答え 舌を上あごにつけると喉が渇きません。息の音がしないように、鼻からゆっくりと息をすって出します。
写真はお勉強をするお坊さんたち、前世僧だったと思われる境内でなごむ犬、雨天の時の論理学道場です。
講師: セルナン・ロティ先生 日時 8月13日
本日は、帰依の仕方、そして、「瞑想のやり方」についてお話します。
●三宝に帰依する
まず仏教徒であるか否かの境目は、「三宝(仏・法・僧)」に帰依しているか否かにかかっています。たとえば、建物の内側と外側の境目は門にありますが、仏教とそれ以外の思想(外教)の境目は三宝に帰依するかどうかにあります。
仏教に「帰依」するには、二つの原因が必要です。我々は仏教によって心を陶冶しなければ永遠に輪廻をさまよい続けることになります。まず、この輪廻の苦しみを知らねばなりません(一つ目の因)。その苦しみを知って輪廻から逃れたいと思い、その手段を提示しているのが仏教であることを知り(二つ目の因)、その結果、仏教に帰依します。たとえば水の中に落ちて死にそうになったら(一つ目の因)、水の表面に出たいという願いが生じて、そこから出る方法を考えます(二つ目の因)。
我々の生は短く、来世はどんな生が待ち受けているかわかりません。もし悪いことばかりしていれば、その悪い行いの結果として地獄や餓鬼や畜生といった悪い境遇(悪趣)に陥ります。
憎しみとか、怒りを抱き、喧嘩とかばかりしていると、地獄に落ちることになります。地獄においては死んでも、そこで終わりではありません。虚空から声がするとふたたび蘇り苦しみを味わい続けねばなりません。このような苦しい状況下では善い行いをすることもできないので、地獄にいる期間は果てしなく長くなります。イメージとしては、仕事で大失敗してしまい、夜寝ているときにそのことを思い出してうなされる時のような感じが永遠に続くのです。

このような地獄の苦しみを知れば、「地獄に生まれたくない」と、心から三宝に対する帰依の気持ちが生まれてきます。また、ケチな人は餓鬼になります。餓鬼はお腹がすいて食べ物が目の前にあっても、それを食べることができません。また、動物に生まれてしまったら自分の人生を思うように操ることができません。畑で働かされたり、明日には食肉になって食卓に並ぶことになるかもしれません。
我々はいつも人間に生まれることができるわけではありません。善い行いをしなければ、地獄、餓鬼、畜生といったこのような悪い境遇(悪趣)に陥ることになるのです。
人はうまくいっている時には神様を忘れていますが、困ったときには神頼みをします。だから、悪い境遇(悪趣)に陥る苦しみを想像して、それを救う力が三宝にあると考える、これが帰依の因です。
この繰り返される生の中で、人間に生まれることは非常にまれなことなのです。地獄や餓鬼や畜生に生まれてしまったら、善行もできませんから、なかなかこの境遇から出られません。犬は賢い動物ですが、犬ですら長いスパンでものを考えることはできません。人間のみが先のことを考えて善行を積み重ねることができます。
悪い境遇に陥ってしまった自分を想像する時、人ごとのように考えるのではなく、具体的に自分の身におきたと具体的に考えることが大切です。そうしてはじめてこの悪趣から離れたいと思い、そこから離れる方法を示す三宝の価値がわかってくるのです。
あなた方が普段抱えている一つ一つの具体的な苦しみについては、三宝に帰依する必要はありません。もっと大きな視点からみた、輪廻というこの苦しみから逃れる方法は、仏教しか説いていません。
●我々は病人、三宝は病人を癒やす医師・薬・看護師のようなもの
病人を助けるには三つのものが必要となります。診断をくだす医者、医者が処方する薬、その薬を用いて病人を世話する看護師の三つです。良い医者にかかり、良い薬をもらい、親切な看護師さんに面倒を見てもらえば、病気は速く治ります。
煩悩という病に苦しむ我々の場合には、良い医者は仏、良い薬は仏法、良い看護師が僧にあたります。そう三宝(仏・法・僧)です。
このうち、仏様についてのみ詳しく説明すると、仏様には四つの美質(功徳)があります。
(1) 仏は自身、苦しみから解放されている。
キリスト教は神という絶対者(造物主)を信仰します。しかし、仏教における仏はキリスト教の神のような絶対的存在ではなく、もとは我々と同じ人間でした。仏様も覚りを開く前は我々と同じように輪廻の中で苦しんでいましたが、あるとき真理を体得して仏の境地を得ました。この事実は我々も仏になることができる可能性を示しています。
仏様が輪廻の苦しみから解放されていることがなぜ重要かといえば、穴に落ちたことのない人は穴から出る方法を知りませんが、仏様はかつて我々と同じように穴に落ちていたものの、そこから出ることができたので、その穴からでる出る方法を知っているからなのです。
(2) 仏は他者を苦しみから救う手段(方便)が巧みである。
人々の様々な能力や状況にあわせて、仏様は巧みに法を説くことができます。頭が痛い人には頭痛薬、肝臓が悪い人には肝臓の薬をあげるよにう、仏様はそれぞれの人の苦しみに応じた導きを行うことができます。
(3) 仏はすべての命あるもの(衆生)に対して分け隔て無い哀れみをもっている。
(4) 仏は自分にとって役に立つ人も役に立たない人に対しても役に立つことができる。
太陽が地上にあるものに分け隔て無く光を注ぐように、虚空の月が地上の水面に無限に姿を映すように、私たちが仏様に心を向ければ、仏様は分け隔て無くその慈悲を与えてくれます。ただ、地上にある水が濁っていたら虚空の月がぼんやりしか映りません。これは月の問題ではなく、それを映す側、すなわち我々の心の側の問題です。
みなさんは自分のことを大切に思っていますが、仏様は母親が一人子を大事に思うように全ての人を大事に思っています。したがって、どんな生き物に対しても同じ慈しみの心を持っているというのが仏様の美質なのです。
このような仏様の美質を知った上で、三宝(仏・法・僧)に帰依するならば、その福徳は尽きることがありません。朝起きてすぐ5分間、心の中で三宝への帰依を行うだけで魔が入る余地がなくなります。毎朝、仏様に完全に帰依していれば、魔の入る余地はなく、自分の持っている問題は自然と解決していきます。

●帰依の仕方
仏教に帰依するには、動機の上中下によって三種類の仕方があります。
(1) 良い来世(お金持ちに生まれたい・美人に生まれたい)を得たいいという動機から仏教に帰依すること。
(2) 二番目は輪廻それ自体から逃れたいという動機から帰依すること。
(3) 三番目は全ての衆生を苦しみから救いたいと思って帰依すること。
最初の二つは自分のために仏教に帰依していますが、三番目の帰依の仕方は他人のために行っているので、その功徳は量り知れません。
命あるものは我々にとって大切なものです。我々の食べ物、寝場所、着るもの、教養、すべてたくさんの命あるものたちのお世話になっています。私たちの快適さは全て命あるものによってもたらされています。どこかに行くにしても、一人ではどこにく行くことができず、他者の助けがあってはじめて行くことができます。一粒のお米にも命あるものの力が結集されています。大乗仏教の六つの究極の行い(六波羅蜜)のうち、布施、持戒、忍耐、精進はみな命あるものがなくては実践することができません。他者のために仏教をめざすためにも他者がいて初めて可能となるのです。したがって、命あるものとは我々がそこから利益(りやく)を得ることができる田圃のようなものである。意識すれば他者から多くの利益を得ることができます。
子どもができたら大切に愛情をかけ、一人前の人にする。子どもは小さいときに受けた慈しみの気持ちを大人になってから子どもに対して持つようになります。無限の輪廻を繰り返す中で、すべての衆生はかつて母親だったことがあります。だから母親から受けた愛情を、全ての衆生から受けたと思いましょう。母親が困っているときに母親を放っておく人はいません。それと同じように困っている衆生を放置することはできないのです。したがって仏教ではたった一つの生き物でも苦しめてはいけないと説きます。慈しみの心は、このように想像力を働かせて少しずつ育てていくものです。
慈しみの心が平和の元です。何度も反芻して心の中に育てていかねばなりません。慈しみの心を育てると心の苦しみはなくなります。心の中に上手に慈しみを育てられたら、素晴らしい音楽や風景の力を借りずとも心を平和な状態に保つことができます。
怒りや憎しみを抱いていては苦しみの連鎖は果てることがありません。慈しみの気持ちを育てて、敵愾心や怒りを制御していかねばなりません。
家族でもグループでも、慈しみの気持ちを大きくしていけば、そこに属する者みなが幸せになれます。
●瞑想の仕方
瞑想には一時的な美徳と究極の美徳の二つがあります。まず、一時的な瞑想でも心が安定し、健康になります。お坊さんにならなくとも瞑想することはできます。
まず、初心者は心を安定(奢摩他)させる必要があります。身の危険のないところ、静かなところで観想する必要があります。

まず、あぐらをかいて足の甲を太股の上にのせてください(結跏趺坐)。目は鼻の先を見て、半眼にし、頭を少し下に向け、背骨を伸ばします。左手は上、右を下にして膝の上におき、脇は締めません。こうすると身体エネルギー(ルン)の活動が緩やかになります。観想の対象はそれぞれの好みで決めていいのですが、お釈迦様のお姿を瞑想するのが最もよいので、仏様を例にすると、5cmくらいの大きさの仏様が眉間より少し高い位置にあると観想します。仏様の質感は少し重くて輝きがある感じで。重いと心が散漫になることを防ぎ、輝きは眠気を覚ます効果があります。
心は日々移り変わる花の色のように安定していません。怒りが強い時には慈しみの心を観想し、執着が強い時には執着の悪徳を観想します。無知が強ければ十二縁起を観想して無知を消していきます。慢心の心が起こってきたら自分はまだまだ知らないことがあると考えます。いろいろと考えすぎて心が不安定になっているとき、眠れない時は、吸う息はく息を数えるのが有効です。
仏教徒でなくとも悩んでいたり、心が迷っている時にはこの数息観(すそくかん)が効果があります。悩んでいる時はじつは悩みの対象について考えない方がよいのです。だから悩んでいる時は数息観をしましょう。
仏像を瞑想するとき、目でものを見ようとすると、心はころころかわっていくので、その状態を保つことは難しいです。仏様をずっと見るのではなく、見た後には視点を落とします。瞑想することは目で同じ場所を見ることではなく心を一点に集中することです。なので目をつぶった方が集中できるという人はつぶった方がいいです。心は躁状態とうつ状態の二つの方向にふれて対象から離れようとします。うつ状態の場合は意識は黒い布をかけたように沈み、眠り込んでしまいます。なので、心がうつっぽい時には朝日を想像しましょう。逆に躁状態になったら、この世の苦しみを考えて、心を静めましょう。人は苦しい時には一つのことしか考えられないため集中できるからです。心を躁状態にもうつ状態にもならないようにして、一点に集中させる、まずこの基礎を身に付けましょう。同じ対象を用いて毎日行うことが重要です。
以上は阿闍梨様からいただいた初心者のための奢摩他の口伝です。
以下瞑想に関する一問一答
問い「心を安定させる瞑想(奢摩他/ シネー)が必要な理由は?」
答え 心を安定させる瞑想(奢摩他)は他の瞑想の土台です。その土台がなければ、顕教の修行も密教の修行も進みません。基礎がしっかりしていないと、仕事がうまくいかないのと同じです。心は躁状態になったりうつ状態になったりしますが、その両方を避け一点に集中することが大切なのです。これがきちんとできたら、それだけでも結構ハッピーになります。朝起きた時から、心が散漫であったらろくなことはありません。朝、起きたとき心が集中していれば、一日もうまくいきます。私たちの苦しみの多くは心が原因で起きていてます。そういう意味で心をコントロールすることは大切です。
問い「分析的瞑想(毘鉢舎那 /ハクトン)は?」
答え 心を安定させる瞑想も分析的瞑想もどちらも大切です。心を安定させた上で分析を行うので、心を安定させる瞑想は分析的瞑想の基礎となります。この二つの瞑想を交互に行うことが大切です。
問い「瞑想は子どもの時から始めるのですか?」
答え 子どものころには理解できないので、瞑想は25歳くらいから始めます。
問い「瞑想はいつするのがよいでしょうか?」
答え 朝がベストです。朝は意識は活発に働いているけれど、夜は疲れており、一日の雑事が心に浮かんで集中できません。最初は1分からはじめて、2分、3分と集中できる時間をどんどん増やしていきましょう。
問い「呼吸の仕方は?」
答え 舌を上あごにつけると喉が渇きません。息の音がしないように、鼻からゆっくりと息をすって出します。
仕事をしながら仏教を実践するには(ギュメ法話)
お盆になりましたので、つい二日前にギュメ密教大学で日本人が施主となって行われた法話会から、ぴちぴちとれたての説法をお届けします。

講師は セルナン=ロティ師。デプン大僧院ロセルリン学堂から数年前にギュメ密教大学に留学。通常留学は一年の期限で所属する僧院にもどりますが、講義がうまいということで期限をすぎてもギュメにとどまっている方です。
本日は仏教を勉強することにどういうメリットがあり、勉強しないとどういうデメリットがあるかについてお話しましょう。

仏教では今生でどのような心の状態であるかによって来世が決まるとされます。今生、善業を積んで善い心をもつようになれば安楽な来世がありますし、悪業を積み悪い心になれば苦しい来世があります。
仏教の研究は哲学(顕教)とその哲学を身につけるための実践行(密教)の二つからなりますが、その二つを兼ね備えているのがこのギュメ密教大学です。釈尊の説いた法の流れは大学者(パンディタ)や大行者(成就者)たちによって途切れることなく現在にまで伝わってきました。私たちが仏教に関心を持つことができたことは前世からの良い因縁があったからです。仏教に出会えた自分は非常に幸せだと思いましょう。
世俗にあって仕事をしながらでも仏教を活かしていくことはできます。たとえば、お医者さんの場合、ただ仕事として医療行為を行うのではなく、患者さんに対して慈悲の心をもてば、おなじ治療を行っても効果が違ってきます。死と病は苦しみの代表的なものですが、そのようなものに直面している患者さんに対して、慈悲の心をもって治療に臨むならば、もたない時よりもよい治療結果がでるはずです。
もし教師であったなら、仏教で心をトレーニングした先生とそうでない先生とでは、生徒に現れる効果も変わります。子どもの心は真っ白なので、教える人によってよくも悪くもなります。慈悲の心や人の役に立ちたいという気持ちをもって生徒に接するならば、生徒にもその心が伝わっていき、親切な大人になり、彼らによって救われる人もふえます。
仏教によって心を整えて仕事をする人は、長期的な視野をもち、ぶれない態度で仕事を行うことができるようになります。
たとえば、レストランを経営している人が目先の儲けを考えるのではなく、レストランで過ごすお客さんのことを第一に考えて仕事をすれば、お客さんも幸せに感じられるし、レストランの経営者も善業が積めて、レストランも流行りいいことずくめです。仕事をしながらも仏教を実践することは非常に大切であるし、それができるのが仏教です。
次に忍耐について話します。
泥棒でないのに泥棒だと言われたとき、そこでカッとなるのではなく忍耐し、堂々としていれば、その人の信用も高まり、評価もよくなります。忍耐を修行すると、来世に美しい姿に生まれることができます。しかし、泥棒と言われて忍耐せずに怒ってしまったら、後で泥棒でないとわかっても、カッとなった時にさらした醜態に対する不信感は人々の中から消えないでしょう。腹をたてることを繰り返していると、憎しみが心の中でくせになって固定してしまいます。
腹が立てると、何度もそれを思い出してそのたびに腹が立ち、夜も寝られず、表情も醜くなり、悪い言葉を使うようになります。
したがって、怒りはもっとも悪いものです。役に全く立たないし、マイナスにしかなりません。どんな仕事でも怒りを動機にして行えば、ろくな事にはなりません。怒りは全ての罪の中で最も悪いものです。怒りは大切なことを忘れさせ、大事なものを壊します。怒りを発散すれば後悔することになります。怒りは近視眼で長期的な思考に基づいていません。だから、怒りが心の中に生まれたら、その反対である忍耐の心を養いなさい。
生きていれば思い通りにならないことはたくさん起きます。しかし忍耐を育むようになると量り知れないメリットが生まれます。怒っている人の周りには人は集まってこないので不幸になりますが、忍耐をもってやさしい心で人に接する人の周りには人が集まってきて幸福になります。
地球上のすべての70億の人は幸せを求めて、苦しみから逃れようと思っています。その幸せは外側にあるものよりも自分の心の状態によって決まるのです。五官を楽しませるもの(目で美しいものを見て、耳で綺麗な音を聞いて、鼻で善い匂いをかいで、舌で美味しいものを味わって、体でなめらかなものを触って)をいくら外側に集めても、これらによって我々が幸せに感じるのは一時のことです。旅に出てきれいな風景を見ても、帰ってきたらすぐにその感動や幸福感はなくなってしまうでしょう? 五官の楽しみは永続するものではありません。
しかし、内側において、心をやさしくしていき、忍耐を育くんでいけば、常に自分の心を幸せにすることができます。 臓器は移植できますが、慈悲心と忍耐力は外から移植することはできません。自分の中に育てていかなくてはなりません。しかし、慈悲心や忍耐力を育くむことができると、外側にある財産のように、人から取られる心配もなく、失う心配もありません。常に自分の心は安楽です。経典に書いてある通りに思考し実践すれば心は安楽になります。仏教は古いものを壊して新しいものをつくる刹那的なものではありません。よいものを積みあげ続けていくものです。
人の役に立ちたい気持ち(菩提心)と忍耐力の二つをまず心に育むことが幸せの入り口となります。あなたたちがどのような仕事をしていても、人の役に立ちたいと思って行えば、それを応援する人も集まってきます。人の役に立ちたいという気持ちと忍耐力は習慣化しないと育むことはできません。

多くの人は幸せとは外からもたらされる何かだとと思っています。しかし、外からもたらされるもので五官を楽しませても、永続する安楽にたどりつくことはありません。そのようなものを追求しても、やがては苦しみに陥るだけです。自分の心を統御することを生活の中心に据えれば、永続する安楽を得ることができます。
21世紀になって科学は発達し、経済は豊かになり、そのことによって人の生活はずいぶん楽になりました。しかし、人の苦しみはへるどころか、かえって大きくなっているのは、五官を通じてえられる安楽を楽だととらえているからです。大事なのは心の安楽であり、それは自分の心を統御してはじめて得ることのできるものです。
科学の発展も、経済の発展も、それ自体が悪いのではなく、それをすすめる人の動機がよければよくなるし悪ければ悪い結果がでます。科学の発展により70億の人たちを一瞬に殺してしまう爆弾が開発されましたが、これは怒りという煩悩の発露によって生まれたものです。人の役立つことを考える科学者がそのようなものを作ることを思いつくはずがありません。
科学の進歩は悪いことではありませんが、それ行うときの心構えが大事なのです。正しい動機をもって科学を発展させれば人に役に立つものが生み出されるはずです。これから先の未来を明るくしていけるかどうかは我々の心の持ちようによっています。なので仏教は21世紀の人々の役に立てる宗教です。
心の苦しみを取り除くことができたら、体の苦しみも漸次解決していきます。法王様がかつて病気になって手術を受ける直前、病院の窓の外にいるかわいそうな動物を見て心を痛めていたら、自分の苦しみは忘れてしまったとおっしゃっていました〔これは人の苦しみを引き受けるトンレンのレンという修行〕。人に限らず動物を含めたすべての命あるものが苦しみから逃れるよう導くために、仏の境地をめざすのが、仏教を学び実践する際の正しい動機です。すべての命を対象としているので壮大な仕事です。
経済を中心にものごとを考えてしまうと、家族なんかもたない方が好きに使えるお金はふえます。しかし、それでは家族の幸福はありえません。我々は動物よりは明晰な意識をもっていますが、心がけ一つで動物よりも愚かなことをしてしまいます。動物は一度に殺せるのは一匹ですが、人間は一人でも一度にものすごくたくさんの人を殺すことができます。煩悩(執着、怒り、愚かさなどの心の悪い性質)があるとこのようなことをしてしまいますから、怪我や病気を治すときに病院に行くように、この煩悩を仏教という薬で治していかねばなりません。
教育がある人でも、煩悩のままにふるまっていれば、学んだことは人の迷惑になるものしか生み出し得ません。法王様(ダライ・ラマ)がたった一人で多くの人を幸せにできるのは、法王様が心に育くんできた慈悲の心によります。
仏教を求めることは幸せを求めることです。五官の楽しみは刹那的な快楽をもたらしてくれても、煩悩があればそれも苦しみに変わります。怒ると寿命のルン(体質を構成する要素、ルン、ティーパ、ペーケンの三つのうちのルン)を使ってしまい、短命になります。怒ってばかりいる人は来世は醜い姿になると言われています。
今生、あなたたちが幸せであるのは、長い前世の間に積んだ善業の結果です。あなたたちの前世の善行に感謝して、今生も来世のことを思い、心のありようを整えていかねばなりません。
大乗仏教の普遍的道徳律である十善戒のもたらすメリットは来世に幸せになることです。動物とは異なり人間なのですから、今生のことだけを考えるのではなく、来世、来来世のことを考えて長期的にものをみて生きましょう。人生は短いですが、来世は長い。その先の生を考えることができるかどうかを仏教は求めています。
一つ例を挙げましょう。何を食べるか吟味せずに、ただ好きなものを毎日食べ続ければその人には100年の長寿はありませんが、これを食べていいかどうかを吟味して食べる人は長寿になります。これと同じように来世、来来世の心を考えて毎日の行いを正していくことは大事なことです。体は今生限りのものであっても、心は来世、來來世へとつながっていきます。健康に気をつけるのなら心にも気をつけるのは当然でしょう?
今日は最初なので、仏教を勉強する功徳のお話をしました。
聴衆からの質問。前世があるということはどう証明できますか?
師の応え: 以下の四つの根拠があります。
1. 前世を覚えている子どもがいます。
2. 生まれたばかりの子牛が母牛の乳をすうのは本能の力と言いますが、前世からの記憶によります。
3. 物質的なものからは心は生まれません。心は心からしか生まれません。
4. 生まれた時点で人に個性があるのは心が前世から続いており、前世の行為のいかんで多様な個性が生まれているからです。同じ親から生まれ、同じように育てられても、違う個性があるのは前世から引き継いだ心のくせ(習気)の結果です。勉強できる親から勉強できない子どもが生まれたり、その逆もあるのは前世からの結果です。心は前世から続いているのです。ですから、今から上手に心を整えて準備をしていけば、来世はもっと素晴らしい人生になります。今生全然勉強しなければ、来世は悲惨になりますよ。
今日はこのくらいでお話を終わらせていただきます。

講師は セルナン=ロティ師。デプン大僧院ロセルリン学堂から数年前にギュメ密教大学に留学。通常留学は一年の期限で所属する僧院にもどりますが、講義がうまいということで期限をすぎてもギュメにとどまっている方です。
本日は仏教を勉強することにどういうメリットがあり、勉強しないとどういうデメリットがあるかについてお話しましょう。

仏教では今生でどのような心の状態であるかによって来世が決まるとされます。今生、善業を積んで善い心をもつようになれば安楽な来世がありますし、悪業を積み悪い心になれば苦しい来世があります。
仏教の研究は哲学(顕教)とその哲学を身につけるための実践行(密教)の二つからなりますが、その二つを兼ね備えているのがこのギュメ密教大学です。釈尊の説いた法の流れは大学者(パンディタ)や大行者(成就者)たちによって途切れることなく現在にまで伝わってきました。私たちが仏教に関心を持つことができたことは前世からの良い因縁があったからです。仏教に出会えた自分は非常に幸せだと思いましょう。
世俗にあって仕事をしながらでも仏教を活かしていくことはできます。たとえば、お医者さんの場合、ただ仕事として医療行為を行うのではなく、患者さんに対して慈悲の心をもてば、おなじ治療を行っても効果が違ってきます。死と病は苦しみの代表的なものですが、そのようなものに直面している患者さんに対して、慈悲の心をもって治療に臨むならば、もたない時よりもよい治療結果がでるはずです。
もし教師であったなら、仏教で心をトレーニングした先生とそうでない先生とでは、生徒に現れる効果も変わります。子どもの心は真っ白なので、教える人によってよくも悪くもなります。慈悲の心や人の役に立ちたいという気持ちをもって生徒に接するならば、生徒にもその心が伝わっていき、親切な大人になり、彼らによって救われる人もふえます。
仏教によって心を整えて仕事をする人は、長期的な視野をもち、ぶれない態度で仕事を行うことができるようになります。
たとえば、レストランを経営している人が目先の儲けを考えるのではなく、レストランで過ごすお客さんのことを第一に考えて仕事をすれば、お客さんも幸せに感じられるし、レストランの経営者も善業が積めて、レストランも流行りいいことずくめです。仕事をしながらも仏教を実践することは非常に大切であるし、それができるのが仏教です。
次に忍耐について話します。
泥棒でないのに泥棒だと言われたとき、そこでカッとなるのではなく忍耐し、堂々としていれば、その人の信用も高まり、評価もよくなります。忍耐を修行すると、来世に美しい姿に生まれることができます。しかし、泥棒と言われて忍耐せずに怒ってしまったら、後で泥棒でないとわかっても、カッとなった時にさらした醜態に対する不信感は人々の中から消えないでしょう。腹をたてることを繰り返していると、憎しみが心の中でくせになって固定してしまいます。
腹が立てると、何度もそれを思い出してそのたびに腹が立ち、夜も寝られず、表情も醜くなり、悪い言葉を使うようになります。
したがって、怒りはもっとも悪いものです。役に全く立たないし、マイナスにしかなりません。どんな仕事でも怒りを動機にして行えば、ろくな事にはなりません。怒りは全ての罪の中で最も悪いものです。怒りは大切なことを忘れさせ、大事なものを壊します。怒りを発散すれば後悔することになります。怒りは近視眼で長期的な思考に基づいていません。だから、怒りが心の中に生まれたら、その反対である忍耐の心を養いなさい。
生きていれば思い通りにならないことはたくさん起きます。しかし忍耐を育むようになると量り知れないメリットが生まれます。怒っている人の周りには人は集まってこないので不幸になりますが、忍耐をもってやさしい心で人に接する人の周りには人が集まってきて幸福になります。
地球上のすべての70億の人は幸せを求めて、苦しみから逃れようと思っています。その幸せは外側にあるものよりも自分の心の状態によって決まるのです。五官を楽しませるもの(目で美しいものを見て、耳で綺麗な音を聞いて、鼻で善い匂いをかいで、舌で美味しいものを味わって、体でなめらかなものを触って)をいくら外側に集めても、これらによって我々が幸せに感じるのは一時のことです。旅に出てきれいな風景を見ても、帰ってきたらすぐにその感動や幸福感はなくなってしまうでしょう? 五官の楽しみは永続するものではありません。
しかし、内側において、心をやさしくしていき、忍耐を育くんでいけば、常に自分の心を幸せにすることができます。 臓器は移植できますが、慈悲心と忍耐力は外から移植することはできません。自分の中に育てていかなくてはなりません。しかし、慈悲心や忍耐力を育くむことができると、外側にある財産のように、人から取られる心配もなく、失う心配もありません。常に自分の心は安楽です。経典に書いてある通りに思考し実践すれば心は安楽になります。仏教は古いものを壊して新しいものをつくる刹那的なものではありません。よいものを積みあげ続けていくものです。
人の役に立ちたい気持ち(菩提心)と忍耐力の二つをまず心に育むことが幸せの入り口となります。あなたたちがどのような仕事をしていても、人の役に立ちたいと思って行えば、それを応援する人も集まってきます。人の役に立ちたいという気持ちと忍耐力は習慣化しないと育むことはできません。

多くの人は幸せとは外からもたらされる何かだとと思っています。しかし、外からもたらされるもので五官を楽しませても、永続する安楽にたどりつくことはありません。そのようなものを追求しても、やがては苦しみに陥るだけです。自分の心を統御することを生活の中心に据えれば、永続する安楽を得ることができます。
21世紀になって科学は発達し、経済は豊かになり、そのことによって人の生活はずいぶん楽になりました。しかし、人の苦しみはへるどころか、かえって大きくなっているのは、五官を通じてえられる安楽を楽だととらえているからです。大事なのは心の安楽であり、それは自分の心を統御してはじめて得ることのできるものです。
科学の発展も、経済の発展も、それ自体が悪いのではなく、それをすすめる人の動機がよければよくなるし悪ければ悪い結果がでます。科学の発展により70億の人たちを一瞬に殺してしまう爆弾が開発されましたが、これは怒りという煩悩の発露によって生まれたものです。人の役立つことを考える科学者がそのようなものを作ることを思いつくはずがありません。
科学の進歩は悪いことではありませんが、それ行うときの心構えが大事なのです。正しい動機をもって科学を発展させれば人に役に立つものが生み出されるはずです。これから先の未来を明るくしていけるかどうかは我々の心の持ちようによっています。なので仏教は21世紀の人々の役に立てる宗教です。
心の苦しみを取り除くことができたら、体の苦しみも漸次解決していきます。法王様がかつて病気になって手術を受ける直前、病院の窓の外にいるかわいそうな動物を見て心を痛めていたら、自分の苦しみは忘れてしまったとおっしゃっていました〔これは人の苦しみを引き受けるトンレンのレンという修行〕。人に限らず動物を含めたすべての命あるものが苦しみから逃れるよう導くために、仏の境地をめざすのが、仏教を学び実践する際の正しい動機です。すべての命を対象としているので壮大な仕事です。
経済を中心にものごとを考えてしまうと、家族なんかもたない方が好きに使えるお金はふえます。しかし、それでは家族の幸福はありえません。我々は動物よりは明晰な意識をもっていますが、心がけ一つで動物よりも愚かなことをしてしまいます。動物は一度に殺せるのは一匹ですが、人間は一人でも一度にものすごくたくさんの人を殺すことができます。煩悩(執着、怒り、愚かさなどの心の悪い性質)があるとこのようなことをしてしまいますから、怪我や病気を治すときに病院に行くように、この煩悩を仏教という薬で治していかねばなりません。
教育がある人でも、煩悩のままにふるまっていれば、学んだことは人の迷惑になるものしか生み出し得ません。法王様(ダライ・ラマ)がたった一人で多くの人を幸せにできるのは、法王様が心に育くんできた慈悲の心によります。
仏教を求めることは幸せを求めることです。五官の楽しみは刹那的な快楽をもたらしてくれても、煩悩があればそれも苦しみに変わります。怒ると寿命のルン(体質を構成する要素、ルン、ティーパ、ペーケンの三つのうちのルン)を使ってしまい、短命になります。怒ってばかりいる人は来世は醜い姿になると言われています。
今生、あなたたちが幸せであるのは、長い前世の間に積んだ善業の結果です。あなたたちの前世の善行に感謝して、今生も来世のことを思い、心のありようを整えていかねばなりません。
大乗仏教の普遍的道徳律である十善戒のもたらすメリットは来世に幸せになることです。動物とは異なり人間なのですから、今生のことだけを考えるのではなく、来世、来来世のことを考えて長期的にものをみて生きましょう。人生は短いですが、来世は長い。その先の生を考えることができるかどうかを仏教は求めています。
一つ例を挙げましょう。何を食べるか吟味せずに、ただ好きなものを毎日食べ続ければその人には100年の長寿はありませんが、これを食べていいかどうかを吟味して食べる人は長寿になります。これと同じように来世、来来世の心を考えて毎日の行いを正していくことは大事なことです。体は今生限りのものであっても、心は来世、來來世へとつながっていきます。健康に気をつけるのなら心にも気をつけるのは当然でしょう?
今日は最初なので、仏教を勉強する功徳のお話をしました。
聴衆からの質問。前世があるということはどう証明できますか?
師の応え: 以下の四つの根拠があります。
1. 前世を覚えている子どもがいます。
2. 生まれたばかりの子牛が母牛の乳をすうのは本能の力と言いますが、前世からの記憶によります。
3. 物質的なものからは心は生まれません。心は心からしか生まれません。
4. 生まれた時点で人に個性があるのは心が前世から続いており、前世の行為のいかんで多様な個性が生まれているからです。同じ親から生まれ、同じように育てられても、違う個性があるのは前世から引き継いだ心のくせ(習気)の結果です。勉強できる親から勉強できない子どもが生まれたり、その逆もあるのは前世からの結果です。心は前世から続いているのです。ですから、今から上手に心を整えて準備をしていけば、来世はもっと素晴らしい人生になります。今生全然勉強しなければ、来世は悲惨になりますよ。
今日はこのくらいでお話を終わらせていただきます。
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