賴山陽の故郷を訪ねて(鴨里シリーズ4)
ご先祖の資料紹介の投稿期限が4月末にせまってきたため、仕込みのために広島に向かう。広島にいくならやはり龍蔵院のチベットのお坊さんに会いたいので、前もってその旨N君に伝えていたのだが、備忘のため前日Nくんに電話ををすると、
Nくん「あのー、明日〔チベットの〕お坊さんたちは用事があってお寺を空けるそうです。翌日はあいているとのことです」(実は前日までお寺の行事があって疲れたお坊さん達はこの日スーパー銭湯に行っていた。お坊さんがそうしたいなら私は別に何もいわんのになぜはっきり言わないのか)
私「だから、翌日は賴山陽資料館に行くので時間がないんだってば。お坊さんたちに予定があるのなら仕方ない。晩ご飯一人で食べるのは寂しいから、奥さん貸してくれない?」
Nくん「あのー、ボクは夕方から用があって」
私「だから奥さん貸して」
Nくん「あのー、その夕方から用っていうのは、チベット関係の集まりがあってそこで話をするんですよ。あのー、いいづらいんですけど、石濱先生が来ているのなら連れてこいって言われていて」
私「なら最初からそう言いなさいよ。チベットの話がさせもらえるのなら、光栄なことだから気を遣うことはない。でも前日に言われてもちゃんとした準備はできないよ。で何時から始まるの? 」
Nくん「五時です」
というわけで、とりあえずいくつかのパターンのパワーポイントをドロップボックスに投げ込んで、広島行きの飛行機に乗った。
龍蔵院にいく予定が流れたので、初日は鴨里のひ孫の岡田秀夫について調べることにする。この秀夫の子孫が神奈川県立歴史博物館に例の鴨里、真、文平岡田家三代の資料を奉納した。
岡田秀夫(鴨里曾孫)プロフィール
明治42年(1909) 東京帝国大学文学科卒業
大正2年9月 北海道帝国大学予科講師
大正5年 広島高等師範学校に赴任し、漢文の教授に。
大正12年9月 文部省海外研究院として北京に留学し、ついたとたんに大腸カタルで死去。北京おそろしや。享年40才。
ひ孫の秀夫は上に見るように広島高等師範学校(広島大学の前身)への就職歴があるのだが、赴任した年は資料によって大正4年説と5年説がある。そのどちらかを確定するには広島高師の資料を収蔵する広島大学文書館に行けば何か手がかりがあるはずである。
広島大学のキャンパスはかつては市内にあったが、広い土地を求めてはるか遠くのここ東広島にうつった。空港から路線バスを二回在来線二回乗り継いでたどりついた広島大学は、新宿区のこぜまい早稲田キャンパスから来た私には途方もない土地の無駄遣いにしか見えない広大なものであった。
めざす文書館はその広大なキャンパスの中にぽつんとこんな風にたっている。

建物に入ってすぐ左に閲覧室があったので、そこにいた人に訪問の目的をつげると、研究者らしい女性が奥からでてきて、「そんなことでしたらあらかじめ連絡をとっていただければ、もっと準備してから対応できたのに」と、昨日私がNくんにいったこととそっくり同じ台詞を言われる。
それでも、その女性研究員の方は大正3年から12年の『広島高等師範学校一覧』を八冊もってきてくれ、「『〜一覧』には広島高師の時間割、校則、卒業生名簿、教員名簿がのっているので、教員であったのならここに名前があるはずです」という。
そこで片っ端から『〜一覧』をくっいくと、秀夫の名前は大正6年に講師の身分ではじめて登場し、翌年には教授、最後は大正12年の従六位の教授で終わっていた。そして大正12年版には職員の赴任年を示したアイウエオ順の索引があり、そこには岡田秀雄(ママ)という漢字が微妙に違うけどたぶん秀夫の赴任年は大正5年と記されていた。まあこう書いてあるのだから大正5年説が正しいことになるのか。
念のため「辞令は保管されていませんか」と研究員の方に伺うと、広島は原爆がありましたから、文書系のものはおそらく残っていません、とのこと。
もっと資料をみていたかったが、5時前には広島に戻らねばならないので、失礼して再び路線バスにのって西条駅に戻り、広島行きのJRにのる。電車の中からNくんに16時45分につくとメッセを送ると、
Nくん「今時間を確認してみます。六時半からでした。余裕ですね」
私「何が『余裕ですね』だよ。先に時間確認しろよ。だったらもっと資料ゆっくり見たのに」とメッセを返す。
夜は広島チベット友好協会の人たち(2006年にダライラマ法王の来広を実現させた方達)にチベットのお話をし、そのあと会食をする。チベットのお話を聴いてくださる方がいるのは本当にありがたいこと。情報伝達にいろいろ難のある人ではあるが、とりあえずNくんに感謝。
翌朝、Nくんと道々話をしながら賴山陽資料館までいく。
Nくん「ボクは広島にずっと住んでいますが、ここにお客さんを連れてきたのはこれがはじめてです。前を通っても入ったことないです。吉田松陰なんかの方がメジャーですよね」
賴山陽ですらメジャーでないならその弟子のご先祖にこれまで日が当たってこなかったのも当然である。しかし、人気なんて実体のないものだ。今ヒットしている朝ドラの原作だって、朝ドラになる前は全然売れてなかったし、そもそも史実に忠実に描いたら、あさのダンナは妾囲いまくりの外に子供作りまくりの明治男だから絶対ヒットしなかった。吉田松陰だって歴史小説や大河ドラマに扱われるから人気があるのであって、真実の彼の姿はどれほどの人が認識しているだろうか。私も知らない(笑)。
そもそも私ははやり廃りで何かを選択したことはない。流行り物にとびつく性格だったら日中友好バンザイの時代にチベット史にのめりこんだりしない。私の人生は今まで寄りたくとも大樹も陰もどこにもない状態であった。なので今更、「はやらないですよ」とか言われてもひるまないもんねー!!!
賴山陽資料館は爆心地から380mの広島の中心部にあり、周囲がビルになる中、平屋である。学芸員のHさんは、賴山陽が叔父の春風にあてた書簡において、日本外史の壮大な構想を語っていること、現行の日本外史にはその一部しかとりあげられておらず、岡田鴨里の外史補の構成はたしかに山陽の当初の構想を完成させるものだと教えてくださる。

そして、賴山陽の学会がないか、また、学術雑誌がないかを伺ってみると、学会なし、雑誌もこの資料館が出しているもののみという。戦中に忠君愛国にさんざん利用された反動で、戦後は研究も出版活動も低調なのだという。それでも市民に来てもらわねばならないので、賴山陽の言葉を小中校生に書道で書かせてコンテストをしたり、賴山陽の食卓を再現するなどしているのだそうな。
Hさんの「正直、資料を展示するより、おひな様飾った方が人がくるんですよね」という言葉に厳しい現実を知る。
お昼に資料館をでて、隣接する被爆遺構の旧日銀広島支店を見学する。思えば今回はじめての観光である!

私が「広島には平和記念館って名前の資料館が多いね」というと、口の悪いNくんは「入っても千羽鶴と子供の絵があるだけですよ」といっていたが、入ってみるとたしかに千羽鶴と子供の絵がある(笑)。
だけどそれ以上である。当時の建物がそのままなので、20世紀前半のセットの中にいるような気分。ご先祖の資料のある博物館も明治時代にたった古い銀行だったので床の敷石や通路のデザインに何となく既視感がある。ただ広島の日銀は出納業務を行うフロアが吹き抜けになっているので、この部分については去年の八月の末にいったサンクトペテルブルクの中央郵便局を思い出した。

爆心地の建物はみな爆風でふっとんだが、この日銀はしっかりたてられていたので唯一残り、原爆投下の二日後 には業務を再開。日銀以外の銀行もこの建物をかりて業務を再開したのだという。日本人勤勉すぎる! 働かないと死んじゃう生き物なのか。
地下の展示室には原爆のバネル写真がならび、旧賴山陽記念館のバルコニーの手すりが被爆遺跡として展示されている。山陽記念館はこの日銀が盾になってくれたおかげで瓦が吹っ飛んだ程度の被害ですみ、1995年に今の姿に建て代わるまで使用できたのだという。しかし、賴山陽の居室は全焼して、現在のものは復元である。
地下の展示室にはまったく人の気配はなく、被爆者の写真に囲まれていると、霊感ゼロの私もさすがに怖くなってきた。早足で階段を駆け上がり外に走りでると、そこは21世紀の平和な広島である。
もし私に霊感が1ミリでもあったら、大変なものを見ていたかもしれない。なくてよかった霊感。
お腹がすかないので、昼ご飯を食べないまま龍蔵院にいき、新任のゲシェ・ゲレク先生にインタビュー。先生の僧院内での段階的にあがっていく学位の証書を拝見させていただき、先生が故郷にもどった時の故郷の人たちとの写真なども拝見させていただく。 ジャングンチュー(冬のディベート大会)にあらわれる元人間今バケモノの僧侶の話とか、カンツェンとミツェンの関係性などを教えていただく。ありがたいありがたい。ゲシェ・ゲレク先生はゴマン学堂ハルドン地域寮で、かの有名な「ジャムヤシェーパと同じ地域寮なのが誇り」というお言葉が印象的であった。
帰り際、玄関にお見送りしてくださったゲシェに後ろをみせると失礼かと思い、あとずさりをして玄関をでると段差をふみはずし右手を強打。さらにそこからタクシーのって広島駅についておりるとき、タクシーの屋根で頭を強打。ついでにその翌日、新歓の勧誘でごったがえす早稲田のキャンパスをあるいていたら、不注意な学生のもつプラカードが後ろに傾き、頭を強打される不運が続いたのであった。
しばらくは頭上と足下に注意して生きることとする。
Nくん「あのー、明日〔チベットの〕お坊さんたちは用事があってお寺を空けるそうです。翌日はあいているとのことです」(実は前日までお寺の行事があって疲れたお坊さん達はこの日スーパー銭湯に行っていた。お坊さんがそうしたいなら私は別に何もいわんのになぜはっきり言わないのか)
私「だから、翌日は賴山陽資料館に行くので時間がないんだってば。お坊さんたちに予定があるのなら仕方ない。晩ご飯一人で食べるのは寂しいから、奥さん貸してくれない?」
Nくん「あのー、ボクは夕方から用があって」
私「だから奥さん貸して」
Nくん「あのー、その夕方から用っていうのは、チベット関係の集まりがあってそこで話をするんですよ。あのー、いいづらいんですけど、石濱先生が来ているのなら連れてこいって言われていて」
私「なら最初からそう言いなさいよ。チベットの話がさせもらえるのなら、光栄なことだから気を遣うことはない。でも前日に言われてもちゃんとした準備はできないよ。で何時から始まるの? 」
Nくん「五時です」
というわけで、とりあえずいくつかのパターンのパワーポイントをドロップボックスに投げ込んで、広島行きの飛行機に乗った。
龍蔵院にいく予定が流れたので、初日は鴨里のひ孫の岡田秀夫について調べることにする。この秀夫の子孫が神奈川県立歴史博物館に例の鴨里、真、文平岡田家三代の資料を奉納した。
岡田秀夫(鴨里曾孫)プロフィール
明治42年(1909) 東京帝国大学文学科卒業
大正2年9月 北海道帝国大学予科講師
大正5年 広島高等師範学校に赴任し、漢文の教授に。
大正12年9月 文部省海外研究院として北京に留学し、ついたとたんに大腸カタルで死去。北京おそろしや。享年40才。
ひ孫の秀夫は上に見るように広島高等師範学校(広島大学の前身)への就職歴があるのだが、赴任した年は資料によって大正4年説と5年説がある。そのどちらかを確定するには広島高師の資料を収蔵する広島大学文書館に行けば何か手がかりがあるはずである。
広島大学のキャンパスはかつては市内にあったが、広い土地を求めてはるか遠くのここ東広島にうつった。空港から路線バスを二回在来線二回乗り継いでたどりついた広島大学は、新宿区のこぜまい早稲田キャンパスから来た私には途方もない土地の無駄遣いにしか見えない広大なものであった。
めざす文書館はその広大なキャンパスの中にぽつんとこんな風にたっている。

建物に入ってすぐ左に閲覧室があったので、そこにいた人に訪問の目的をつげると、研究者らしい女性が奥からでてきて、「そんなことでしたらあらかじめ連絡をとっていただければ、もっと準備してから対応できたのに」と、昨日私がNくんにいったこととそっくり同じ台詞を言われる。
それでも、その女性研究員の方は大正3年から12年の『広島高等師範学校一覧』を八冊もってきてくれ、「『〜一覧』には広島高師の時間割、校則、卒業生名簿、教員名簿がのっているので、教員であったのならここに名前があるはずです」という。
そこで片っ端から『〜一覧』をくっいくと、秀夫の名前は大正6年に講師の身分ではじめて登場し、翌年には教授、最後は大正12年の従六位の教授で終わっていた。そして大正12年版には職員の赴任年を示したアイウエオ順の索引があり、そこには岡田秀雄(ママ)という漢字が微妙に違うけどたぶん秀夫の赴任年は大正5年と記されていた。まあこう書いてあるのだから大正5年説が正しいことになるのか。
念のため「辞令は保管されていませんか」と研究員の方に伺うと、広島は原爆がありましたから、文書系のものはおそらく残っていません、とのこと。
もっと資料をみていたかったが、5時前には広島に戻らねばならないので、失礼して再び路線バスにのって西条駅に戻り、広島行きのJRにのる。電車の中からNくんに16時45分につくとメッセを送ると、
Nくん「今時間を確認してみます。六時半からでした。余裕ですね」
私「何が『余裕ですね』だよ。先に時間確認しろよ。だったらもっと資料ゆっくり見たのに」とメッセを返す。
夜は広島チベット友好協会の人たち(2006年にダライラマ法王の来広を実現させた方達)にチベットのお話をし、そのあと会食をする。チベットのお話を聴いてくださる方がいるのは本当にありがたいこと。情報伝達にいろいろ難のある人ではあるが、とりあえずNくんに感謝。
翌朝、Nくんと道々話をしながら賴山陽資料館までいく。
Nくん「ボクは広島にずっと住んでいますが、ここにお客さんを連れてきたのはこれがはじめてです。前を通っても入ったことないです。吉田松陰なんかの方がメジャーですよね」
賴山陽ですらメジャーでないならその弟子のご先祖にこれまで日が当たってこなかったのも当然である。しかし、人気なんて実体のないものだ。今ヒットしている朝ドラの原作だって、朝ドラになる前は全然売れてなかったし、そもそも史実に忠実に描いたら、あさのダンナは妾囲いまくりの外に子供作りまくりの明治男だから絶対ヒットしなかった。吉田松陰だって歴史小説や大河ドラマに扱われるから人気があるのであって、真実の彼の姿はどれほどの人が認識しているだろうか。私も知らない(笑)。
そもそも私ははやり廃りで何かを選択したことはない。流行り物にとびつく性格だったら日中友好バンザイの時代にチベット史にのめりこんだりしない。私の人生は今まで寄りたくとも大樹も陰もどこにもない状態であった。なので今更、「はやらないですよ」とか言われてもひるまないもんねー!!!
賴山陽資料館は爆心地から380mの広島の中心部にあり、周囲がビルになる中、平屋である。学芸員のHさんは、賴山陽が叔父の春風にあてた書簡において、日本外史の壮大な構想を語っていること、現行の日本外史にはその一部しかとりあげられておらず、岡田鴨里の外史補の構成はたしかに山陽の当初の構想を完成させるものだと教えてくださる。

そして、賴山陽の学会がないか、また、学術雑誌がないかを伺ってみると、学会なし、雑誌もこの資料館が出しているもののみという。戦中に忠君愛国にさんざん利用された反動で、戦後は研究も出版活動も低調なのだという。それでも市民に来てもらわねばならないので、賴山陽の言葉を小中校生に書道で書かせてコンテストをしたり、賴山陽の食卓を再現するなどしているのだそうな。
Hさんの「正直、資料を展示するより、おひな様飾った方が人がくるんですよね」という言葉に厳しい現実を知る。
お昼に資料館をでて、隣接する被爆遺構の旧日銀広島支店を見学する。思えば今回はじめての観光である!

私が「広島には平和記念館って名前の資料館が多いね」というと、口の悪いNくんは「入っても千羽鶴と子供の絵があるだけですよ」といっていたが、入ってみるとたしかに千羽鶴と子供の絵がある(笑)。
だけどそれ以上である。当時の建物がそのままなので、20世紀前半のセットの中にいるような気分。ご先祖の資料のある博物館も明治時代にたった古い銀行だったので床の敷石や通路のデザインに何となく既視感がある。ただ広島の日銀は出納業務を行うフロアが吹き抜けになっているので、この部分については去年の八月の末にいったサンクトペテルブルクの中央郵便局を思い出した。

爆心地の建物はみな爆風でふっとんだが、この日銀はしっかりたてられていたので唯一残り、原爆投下の二日後 には業務を再開。日銀以外の銀行もこの建物をかりて業務を再開したのだという。日本人勤勉すぎる! 働かないと死んじゃう生き物なのか。
地下の展示室には原爆のバネル写真がならび、旧賴山陽記念館のバルコニーの手すりが被爆遺跡として展示されている。山陽記念館はこの日銀が盾になってくれたおかげで瓦が吹っ飛んだ程度の被害ですみ、1995年に今の姿に建て代わるまで使用できたのだという。しかし、賴山陽の居室は全焼して、現在のものは復元である。
地下の展示室にはまったく人の気配はなく、被爆者の写真に囲まれていると、霊感ゼロの私もさすがに怖くなってきた。早足で階段を駆け上がり外に走りでると、そこは21世紀の平和な広島である。
もし私に霊感が1ミリでもあったら、大変なものを見ていたかもしれない。なくてよかった霊感。
お腹がすかないので、昼ご飯を食べないまま龍蔵院にいき、新任のゲシェ・ゲレク先生にインタビュー。先生の僧院内での段階的にあがっていく学位の証書を拝見させていただき、先生が故郷にもどった時の故郷の人たちとの写真なども拝見させていただく。 ジャングンチュー(冬のディベート大会)にあらわれる元人間今バケモノの僧侶の話とか、カンツェンとミツェンの関係性などを教えていただく。ありがたいありがたい。ゲシェ・ゲレク先生はゴマン学堂ハルドン地域寮で、かの有名な「ジャムヤシェーパと同じ地域寮なのが誇り」というお言葉が印象的であった。
帰り際、玄関にお見送りしてくださったゲシェに後ろをみせると失礼かと思い、あとずさりをして玄関をでると段差をふみはずし右手を強打。さらにそこからタクシーのって広島駅についておりるとき、タクシーの屋根で頭を強打。ついでにその翌日、新歓の勧誘でごったがえす早稲田のキャンパスをあるいていたら、不注意な学生のもつプラカードが後ろに傾き、頭を強打される不運が続いたのであった。
しばらくは頭上と足下に注意して生きることとする。
能登・金沢に卒業旅行
今年の四年生と一緒にいられるのもあとわずかなので、能登・金沢に一泊二日で記念の旅へ。歴史も自然もある楽しい旅だった。北陸新幹線で金沢にまでいき、そこからレンタカーを借りて、能登までいきまた金沢に帰って来るという行程。
金沢と能登はかつては加賀藩と呼ばれ、「加賀百万石」と言われた非常に豊かな地域。歴史資源も多いことから、観光産業に力を入れている。駅でもらった無料パンフレットをみてみると、21世紀美術館、石川県立歴史博物館、加賀本多博物館などの大規模な施設に加え、24 にものぼる資料館・記念館などの教育・観光施設、昔の町並みを再現した茶屋街、武家屋敷など、想像以上に歴史の街をきちんと演出している。

金沢市内は道が狭く入り組んでいて、車でまわるのはオススメできない。われわれのワゴン車は大きくかつ、金沢市内の道の複雑さにカーナビがない道を指示するためさんざん迷走した。
そう、金沢市内は車よりレンタサイクルがおすすめ。30分以内にポートを乗り継いでいけば、一日200円で要所を自在に動き回れる。
卒業する子たちが主役なので、どこにいくかのコース選定は基本的には彼らにしてもらい、とりあえず金沢が生んだ〔私にとっての〕二大巨頭、西田幾多郎哲学記念哲学館と鈴木大拙記念館(1870-1966)をできたらコースに加えてと頼んだものの(二人とも奇しくも1870年生まれ)、惜しくも月曜日で休館。
●西田幾多郎「人は人、吾は吾なり」
代替にまずは、西田幾多郎(1870-1945)の母校であり、教鞭をとった金沢第四高等学校(現金沢大学)にいく。明治時代の建物がそのまま現在は石川四高記念文化交流館として内部公開されており、1階では四高の歴史が解説されている。
教師時代の西田幾多郎の写真と『善の研究』などが展示されている。西田幾多郎は40才で京大に助教授として迎え入れられるまでこの高校で教鞭をとっていた。ステータス的にいえば彼の一番不遇な時代であったかもしれない。
幾多郎が後に「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾が行く道を 吾は行くなり」と言うたのもこのような不遇な時代に身につけた哲学であろう。

笑ったのが、四高の学生寮に上級生から下級生に語り継がれている怪談の原稿。
あと、1941年におきた有名な琵琶湖遭難事故(内田康夫の『琵琶湖周航殺人歌』でもフィーチャリングされている)でなくなった11人の漕艇部員のうち8人がここ石川四高の生徒であったということ。琵琶湖だから関西の学生が犠牲になったのかと思っていたが、金沢の学生だったのか。
西田幾多郎は京都大学を退官したあと、鎌倉と故郷のかほく市を行き来して過ごした。この二つの街の共通点は美しい海が目の前にあること。彼は海を愛していた。
そこでというわけではないが、次に、海に向かう。金沢のすぐ近くには日本で三番目に大きい内灘砂丘がある。しかし、行ってみると風紋のついた広大な砂浜がひろがり丘はどこにもない。最近いろいろあってなくなってしまったのだそうな(笑)。 しかし天気はよく海も美しい。この海の向こうで北朝鮮が毎回「飛翔体」飛ばしていることさえ忘れれば、ロマンである。

『砂丘』の北から砂浜を固めて車が走れるようにした「千里濱なぎさドライブウェイ」がはじまる。海面に反射した太陽に逆行で照らされながら、波打ち際ぎりぎりを車で疾走すると、車の宣伝のようなカッコイイ絵面となる(え、ならない?)。
●サンダーくん
そして、北上したところに、ゆるキャラ宇宙人サンダーくんがバイトをしている羽咋の街がある。ここがコースに加えられた理由は「このゼミは宇宙人が多いからいいんじゃないでしょうか」というA子ちゃんの所望による(爆笑)。
ここ羽咋の観光の中心は1996年に開館したコスモ・アイル羽咋である。この地は昔からUFOの目撃談が多いため、日本のロズウェルにしちゃおうというわけだ。ゆるきゃらサンダー君は宇宙船が壊れて地球に不時着して船の修理がおわるまでコスモアイルでバイトをしているという設定である。

素晴らしい。
しかし入ってみると意外に展示はまじめで、ソ連のヴォストークの帰還用カプセル、アメリカのマーキュリー計画の宇宙カプセルなど歴史的な宇宙計画で使用された本物がずらずら展示されている。月の砂もあるし、隕石をさわることもできる。「宇宙兄弟」の気分になって楽しい。
地球外生命体の探索についての世界的なプロジェクトについての説明も詳しく、日本国内のUFO目撃情報をデータベース化してもいる。ふまじめにしようと思えばいくらでもなるところをまじめにアプローチしている。
クイズ問題を頭数でわって分担して答えたが、私が担当した部分がひっかけで全問正解ならず。すいません。入場券の半額クーポン頂いたので、この施設にいきたい方連絡ください。200円安くなります(笑)。
そのあと、X-fileをコレクターズBoxでもっている私のたっての希望で、羽咋で昔からUF0がでたという眉丈山に向かう。折りしも日没となりUF0と誤認されることもおおい宵の明星のでる時間。I want to believeな雰囲気になってきた。そして、眉上山についてみると、それは横に長いなだらかな丘で、麓に古い集落がつらなるので、もしここに言い伝えでいうような「そうちぼん」(アダムスキー型UFO?)がとんでいたとしたなら、かなり近くで見ていたことになる。本当はなにを見ていたんだろう。
●和倉温泉
それから能登半島を横断して和倉温泉へ。知らなかったけど、この温泉、九世紀に傷ついた白鷺が羽を癒しているのを漁師がみつけて発見されてから1200年の歴史がある。あの「「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」」で日本一の旅館として君臨し続けている有名な加賀屋はこの地の発祥である。
そういえば何年か前、やはり卒業旅行で台湾いった時、台湾の温泉街にも加賀屋が進出していた。温泉街の真ん中には、白鷺の像と熱い湯の噴き出すモニュメントがある。
北陸の街は高層の建物などない風景が続くが、ここ和倉温泉には高層ビルが立ち並んでいる。いくら全国有数の歴史ある高級温泉街といっても、果たしてこれだけの宿泊施設をうめる観光客がくるのだろうかと疑問に思い、よくよく目をこらすと、暗闇の中に倒産したとみられる火の消えた巨大旅館の建物がごろごろ見えてくる。和倉温泉、景気で検索すると大型倒産の記事がいっぱいひっかかり、それを画像検索すると目の前の廃墟が営業していた時の姿がでてきて、寒い・・・。
とまったホテルの部屋は海に面した五階で風光明媚。西田幾多郎になりきって能登の海をめでる。東日本大震災直後はこのようなオーシャンビューのホテルにとまると正直怖かったが、今は美しいと思う気持ちが先にたつ。つい昨日の出来事のようだが、幸か不幸か心は着実に変化し(たぶん直接の被害をうけていないからだろう)、今週の金曜日の震災以来五回目の311 がやってくる。
●県立航空プラザ
明けて、翌日は太郎くんの希望により、小松空港と航空自衛隊の小松基地横にある「石川県立航空プラザ」に向かう。能登半島を南下する間、カーナビにケータイをつなぎ好きな曲を流しながら、くだらない話をしながら海沿いを走り抜けていると、ロードムービーのよう。しかし、カーナビはサビのところにくると決まって「ウセツします」とか「分岐が続きます」とか言葉をはさんで分断し、空気を読まない。設定を変えようにもレンタカーのなのでよく分からない。
そして食事処がない。
関東近郊でこの景色だったらカフェとかファミレスとかわさわさあるのに、食事する場所がなく、結局羽咋にもどって「すしべん」という地元ファミレスに入る。
食後ふたたび南下して小牧につく。ここでは航空機の歴史とともに、ANAの協力で飛行場の仕事についての詳細の紹介、自衛隊で実際に使用されていた戦闘機や観測飛行機などが展示されている。太郎くんは実際に航空機の操縦になれるためにつくられたフライト・シュミレーターを体験して喜んでいる。
たろうくん「先生、御巣鷹山の事故機のボイス・レコーダーって聞いたことあります? あの機長の最後の言葉の背後でなっているビープ音が実際にシュミレーターでもなるんで、リアルなんですよ~。後ろに教官のおじさんが助けてくれないとまず離陸からしてできませんでした」と嬉しそう。
ミュージアムショップには自衛隊限定グッズがならび、わらったのが「防衛省まんじゅう」「世界平和により役立つために」というキャッチコピーにいろいろ大変なんだろうなと思ふ。

航空プラザの近くには、あの勧進帳で有名な「安宅の関」があるので、日本文学ファンの方はこちらもどうぞ。
●二十一世紀美術館
このあと、金沢に向かい、二十一世紀美術館にいく。この美術館は何億もする古典的な名作をかうのではなく、現代美術や工業デザインのコレクションを安いうちに蒐集し、後世の参照に供することを目的としている。
常に多くのセクションでいろいろな企画展をやっており、かつては東京五輪のエンブレム問題で有名になったS野研二郎の展覧会なども過去にはやったことがあるらしい。
車を地下の駐車場において地上にでてくると、びっくり。現代美術の点在する芝生の中に、白を基調とした美術館本体がたつたたずまいが、去年ヘルシンキで訪れたキアズマ現代美術館を思い出させる。展示の仕方もいろいろ既視感があった。
キアズマ現代美術館はヘルシンキ駅のすぐ隣にあったので、空き時間になにげによってみた。すると、エントランスで二人の男女がねころがってからみあってえんえんといちゃついている。どうもこれはパーフォーマンスで展示の一部? らしい?
そしてその時のキアズマの企画展はカメラマンのロバート・メイプルソープ(1946-89)で、オノ・ヨーコやリチャード・ギアの肖像写真などがあった内はよかった。しかししばらく進んでいくと、男女の筋肉美を激写したヌード写真が並びはじめ、はては様々な人種の男×器だけを拡大してとった写真がいけどもいけども・・・。メイプル・ソープは×イだった。
私は現代美術を評する能力は皆無なのでただ一般的な感覚でのべさせて戴くと、お金をもらってもみたくないものを、お金を払ってみさせられた。キアズマちょとあれだった。芸術とは日常に対する反乱で破壊なのかもしれないが、私は心穏やかに生きたいので、同じ美術館でもフィンランドの芸術家の作品をあつめたアンテキウム美術館にすればよかったと猛烈に後悔したのであった。

さて、二十一世紀美術館であるが、そこは日本。展示内容は大人しいもので、子供と一緒にいっても楽しめる。
●前田のお殿様の庭園「兼六園」
この美術館の向かいには金沢に来た者が必ず足を運ぶ前田のお殿様の美しい日本庭園、兼六園がある。金沢城に隣接する高台にあり、この庭園に大名たちが集まって行われた茶会などを、庶民は市内からまぶしくみあげていたことであろう。
兼六園の入り口は21世紀美術館の前にあったのだが、地図を見間違えて遠い入り口までわざわざ外を歩き、時間をロス。その入り口についた時点で我々には40分くらいしか時間は残されておらず、「40分でみられる最低の見所おしえてください」と受付で情緒のない質問をすることになにる。そうして、今見頃の梅園の梅、ヤマトタケルの尊の像、蓬莱島の浮かぶ霞が池、撮影スポットのことじ灯籠、日本最古の噴水、ひさご池をなどのルートを急ぎ足で回る。
今年の能登は暖かく、雪も少ないが、雪がふっても、新緑の頃も、紅葉の頃も四季折々に美しいであろう庭園である。
金沢市内にはじつはJournal of Japanese Gardening のランキングで第三位になった前田家直臣加賀藩1200石の野村家の日本庭園もあり、これもここよりずっと狭いながらも谷をほりこみ、茶室を丘の上につくり、起伏を利用して奥行きをみせる美しい深みのある庭園で、おすすめ。茶室では実際にお茶もいただけるサービスがあります。
このような日本文化の粋のあつまった金沢の藩医の家に生まれたからこそ、鈴木大拙は日本文化を世界に効果的に発信できたのがよく分かる。西田幾多郎も西洋哲学の輸入ではなく、東洋的な哲学を構築できたのは自らの生まれ育った文化をちゃんと身につけ誇りをもっていたからである。
金沢市内にこれだけの歴史資産が残っているのは京都と同様金沢も空襲の被害が僅少だったことが大きい。東京だつてかつては徳川の都だったのに今はそのあとをしのぶべくもない。上野戦争、関東大震災、米軍の空襲と念入りに三回やかれて歴史あるお寺はみな再建である。チっ。
兼六園をでた後、太郞くんとえっちゃんは車を返しにいき、残りは駅弁やおみやげをかう。二人からラインが入り、「死亡の可能性あり。駅弁の代金はかえって払う」と入る。結局まにあったが、ガソリンスタンドが意外に遠く、例によって迷走して時間がたりなくなったのだという。
太郞くんは花粉症でこの二日間金沢におりたった瞬間から「つらい~つらい~」と目を真っ赤にしてくしゃみをしていたが、新幹線に入ってからもくしゃみをしている。
私「密閉空間でどこに杉があるの?」と聞くと
太郞くん「乗車してくる人の服に花粉がついてるんですよ。軽井沢はひどかった」
そのあとはみな爆睡。お疲れ様でした。
金沢と能登はかつては加賀藩と呼ばれ、「加賀百万石」と言われた非常に豊かな地域。歴史資源も多いことから、観光産業に力を入れている。駅でもらった無料パンフレットをみてみると、21世紀美術館、石川県立歴史博物館、加賀本多博物館などの大規模な施設に加え、24 にものぼる資料館・記念館などの教育・観光施設、昔の町並みを再現した茶屋街、武家屋敷など、想像以上に歴史の街をきちんと演出している。

金沢市内は道が狭く入り組んでいて、車でまわるのはオススメできない。われわれのワゴン車は大きくかつ、金沢市内の道の複雑さにカーナビがない道を指示するためさんざん迷走した。
そう、金沢市内は車よりレンタサイクルがおすすめ。30分以内にポートを乗り継いでいけば、一日200円で要所を自在に動き回れる。
卒業する子たちが主役なので、どこにいくかのコース選定は基本的には彼らにしてもらい、とりあえず金沢が生んだ〔私にとっての〕二大巨頭、西田幾多郎哲学記念哲学館と鈴木大拙記念館(1870-1966)をできたらコースに加えてと頼んだものの(二人とも奇しくも1870年生まれ)、惜しくも月曜日で休館。
●西田幾多郎「人は人、吾は吾なり」
代替にまずは、西田幾多郎(1870-1945)の母校であり、教鞭をとった金沢第四高等学校(現金沢大学)にいく。明治時代の建物がそのまま現在は石川四高記念文化交流館として内部公開されており、1階では四高の歴史が解説されている。
教師時代の西田幾多郎の写真と『善の研究』などが展示されている。西田幾多郎は40才で京大に助教授として迎え入れられるまでこの高校で教鞭をとっていた。ステータス的にいえば彼の一番不遇な時代であったかもしれない。
幾多郎が後に「人は人 吾は吾なり とにかくに 吾が行く道を 吾は行くなり」と言うたのもこのような不遇な時代に身につけた哲学であろう。

笑ったのが、四高の学生寮に上級生から下級生に語り継がれている怪談の原稿。
あと、1941年におきた有名な琵琶湖遭難事故(内田康夫の『琵琶湖周航殺人歌』でもフィーチャリングされている)でなくなった11人の漕艇部員のうち8人がここ石川四高の生徒であったということ。琵琶湖だから関西の学生が犠牲になったのかと思っていたが、金沢の学生だったのか。
西田幾多郎は京都大学を退官したあと、鎌倉と故郷のかほく市を行き来して過ごした。この二つの街の共通点は美しい海が目の前にあること。彼は海を愛していた。
そこでというわけではないが、次に、海に向かう。金沢のすぐ近くには日本で三番目に大きい内灘砂丘がある。しかし、行ってみると風紋のついた広大な砂浜がひろがり丘はどこにもない。最近いろいろあってなくなってしまったのだそうな(笑)。 しかし天気はよく海も美しい。この海の向こうで北朝鮮が毎回「飛翔体」飛ばしていることさえ忘れれば、ロマンである。

『砂丘』の北から砂浜を固めて車が走れるようにした「千里濱なぎさドライブウェイ」がはじまる。海面に反射した太陽に逆行で照らされながら、波打ち際ぎりぎりを車で疾走すると、車の宣伝のようなカッコイイ絵面となる(え、ならない?)。
●サンダーくん
そして、北上したところに、ゆるキャラ宇宙人サンダーくんがバイトをしている羽咋の街がある。ここがコースに加えられた理由は「このゼミは宇宙人が多いからいいんじゃないでしょうか」というA子ちゃんの所望による(爆笑)。
ここ羽咋の観光の中心は1996年に開館したコスモ・アイル羽咋である。この地は昔からUFOの目撃談が多いため、日本のロズウェルにしちゃおうというわけだ。ゆるきゃらサンダー君は宇宙船が壊れて地球に不時着して船の修理がおわるまでコスモアイルでバイトをしているという設定である。

素晴らしい。
しかし入ってみると意外に展示はまじめで、ソ連のヴォストークの帰還用カプセル、アメリカのマーキュリー計画の宇宙カプセルなど歴史的な宇宙計画で使用された本物がずらずら展示されている。月の砂もあるし、隕石をさわることもできる。「宇宙兄弟」の気分になって楽しい。
地球外生命体の探索についての世界的なプロジェクトについての説明も詳しく、日本国内のUFO目撃情報をデータベース化してもいる。ふまじめにしようと思えばいくらでもなるところをまじめにアプローチしている。
クイズ問題を頭数でわって分担して答えたが、私が担当した部分がひっかけで全問正解ならず。すいません。入場券の半額クーポン頂いたので、この施設にいきたい方連絡ください。200円安くなります(笑)。
そのあと、X-fileをコレクターズBoxでもっている私のたっての希望で、羽咋で昔からUF0がでたという眉丈山に向かう。折りしも日没となりUF0と誤認されることもおおい宵の明星のでる時間。I want to believeな雰囲気になってきた。そして、眉上山についてみると、それは横に長いなだらかな丘で、麓に古い集落がつらなるので、もしここに言い伝えでいうような「そうちぼん」(アダムスキー型UFO?)がとんでいたとしたなら、かなり近くで見ていたことになる。本当はなにを見ていたんだろう。
●和倉温泉
それから能登半島を横断して和倉温泉へ。知らなかったけど、この温泉、九世紀に傷ついた白鷺が羽を癒しているのを漁師がみつけて発見されてから1200年の歴史がある。あの「「プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選」」で日本一の旅館として君臨し続けている有名な加賀屋はこの地の発祥である。
そういえば何年か前、やはり卒業旅行で台湾いった時、台湾の温泉街にも加賀屋が進出していた。温泉街の真ん中には、白鷺の像と熱い湯の噴き出すモニュメントがある。
北陸の街は高層の建物などない風景が続くが、ここ和倉温泉には高層ビルが立ち並んでいる。いくら全国有数の歴史ある高級温泉街といっても、果たしてこれだけの宿泊施設をうめる観光客がくるのだろうかと疑問に思い、よくよく目をこらすと、暗闇の中に倒産したとみられる火の消えた巨大旅館の建物がごろごろ見えてくる。和倉温泉、景気で検索すると大型倒産の記事がいっぱいひっかかり、それを画像検索すると目の前の廃墟が営業していた時の姿がでてきて、寒い・・・。
とまったホテルの部屋は海に面した五階で風光明媚。西田幾多郎になりきって能登の海をめでる。東日本大震災直後はこのようなオーシャンビューのホテルにとまると正直怖かったが、今は美しいと思う気持ちが先にたつ。つい昨日の出来事のようだが、幸か不幸か心は着実に変化し(たぶん直接の被害をうけていないからだろう)、今週の金曜日の震災以来五回目の311 がやってくる。
●県立航空プラザ
明けて、翌日は太郎くんの希望により、小松空港と航空自衛隊の小松基地横にある「石川県立航空プラザ」に向かう。能登半島を南下する間、カーナビにケータイをつなぎ好きな曲を流しながら、くだらない話をしながら海沿いを走り抜けていると、ロードムービーのよう。しかし、カーナビはサビのところにくると決まって「ウセツします」とか「分岐が続きます」とか言葉をはさんで分断し、空気を読まない。設定を変えようにもレンタカーのなのでよく分からない。
そして食事処がない。
関東近郊でこの景色だったらカフェとかファミレスとかわさわさあるのに、食事する場所がなく、結局羽咋にもどって「すしべん」という地元ファミレスに入る。
食後ふたたび南下して小牧につく。ここでは航空機の歴史とともに、ANAの協力で飛行場の仕事についての詳細の紹介、自衛隊で実際に使用されていた戦闘機や観測飛行機などが展示されている。太郎くんは実際に航空機の操縦になれるためにつくられたフライト・シュミレーターを体験して喜んでいる。
たろうくん「先生、御巣鷹山の事故機のボイス・レコーダーって聞いたことあります? あの機長の最後の言葉の背後でなっているビープ音が実際にシュミレーターでもなるんで、リアルなんですよ~。後ろに教官のおじさんが助けてくれないとまず離陸からしてできませんでした」と嬉しそう。
ミュージアムショップには自衛隊限定グッズがならび、わらったのが「防衛省まんじゅう」「世界平和により役立つために」というキャッチコピーにいろいろ大変なんだろうなと思ふ。

航空プラザの近くには、あの勧進帳で有名な「安宅の関」があるので、日本文学ファンの方はこちらもどうぞ。
●二十一世紀美術館
このあと、金沢に向かい、二十一世紀美術館にいく。この美術館は何億もする古典的な名作をかうのではなく、現代美術や工業デザインのコレクションを安いうちに蒐集し、後世の参照に供することを目的としている。
常に多くのセクションでいろいろな企画展をやっており、かつては東京五輪のエンブレム問題で有名になったS野研二郎の展覧会なども過去にはやったことがあるらしい。
車を地下の駐車場において地上にでてくると、びっくり。現代美術の点在する芝生の中に、白を基調とした美術館本体がたつたたずまいが、去年ヘルシンキで訪れたキアズマ現代美術館を思い出させる。展示の仕方もいろいろ既視感があった。
キアズマ現代美術館はヘルシンキ駅のすぐ隣にあったので、空き時間になにげによってみた。すると、エントランスで二人の男女がねころがってからみあってえんえんといちゃついている。どうもこれはパーフォーマンスで展示の一部? らしい?
そしてその時のキアズマの企画展はカメラマンのロバート・メイプルソープ(1946-89)で、オノ・ヨーコやリチャード・ギアの肖像写真などがあった内はよかった。しかししばらく進んでいくと、男女の筋肉美を激写したヌード写真が並びはじめ、はては様々な人種の男×器だけを拡大してとった写真がいけどもいけども・・・。メイプル・ソープは×イだった。
私は現代美術を評する能力は皆無なのでただ一般的な感覚でのべさせて戴くと、お金をもらってもみたくないものを、お金を払ってみさせられた。キアズマちょとあれだった。芸術とは日常に対する反乱で破壊なのかもしれないが、私は心穏やかに生きたいので、同じ美術館でもフィンランドの芸術家の作品をあつめたアンテキウム美術館にすればよかったと猛烈に後悔したのであった。

さて、二十一世紀美術館であるが、そこは日本。展示内容は大人しいもので、子供と一緒にいっても楽しめる。
●前田のお殿様の庭園「兼六園」
この美術館の向かいには金沢に来た者が必ず足を運ぶ前田のお殿様の美しい日本庭園、兼六園がある。金沢城に隣接する高台にあり、この庭園に大名たちが集まって行われた茶会などを、庶民は市内からまぶしくみあげていたことであろう。
兼六園の入り口は21世紀美術館の前にあったのだが、地図を見間違えて遠い入り口までわざわざ外を歩き、時間をロス。その入り口についた時点で我々には40分くらいしか時間は残されておらず、「40分でみられる最低の見所おしえてください」と受付で情緒のない質問をすることになにる。そうして、今見頃の梅園の梅、ヤマトタケルの尊の像、蓬莱島の浮かぶ霞が池、撮影スポットのことじ灯籠、日本最古の噴水、ひさご池をなどのルートを急ぎ足で回る。
今年の能登は暖かく、雪も少ないが、雪がふっても、新緑の頃も、紅葉の頃も四季折々に美しいであろう庭園である。
金沢市内にはじつはJournal of Japanese Gardening のランキングで第三位になった前田家直臣加賀藩1200石の野村家の日本庭園もあり、これもここよりずっと狭いながらも谷をほりこみ、茶室を丘の上につくり、起伏を利用して奥行きをみせる美しい深みのある庭園で、おすすめ。茶室では実際にお茶もいただけるサービスがあります。
このような日本文化の粋のあつまった金沢の藩医の家に生まれたからこそ、鈴木大拙は日本文化を世界に効果的に発信できたのがよく分かる。西田幾多郎も西洋哲学の輸入ではなく、東洋的な哲学を構築できたのは自らの生まれ育った文化をちゃんと身につけ誇りをもっていたからである。
金沢市内にこれだけの歴史資産が残っているのは京都と同様金沢も空襲の被害が僅少だったことが大きい。東京だつてかつては徳川の都だったのに今はそのあとをしのぶべくもない。上野戦争、関東大震災、米軍の空襲と念入りに三回やかれて歴史あるお寺はみな再建である。チっ。
兼六園をでた後、太郞くんとえっちゃんは車を返しにいき、残りは駅弁やおみやげをかう。二人からラインが入り、「死亡の可能性あり。駅弁の代金はかえって払う」と入る。結局まにあったが、ガソリンスタンドが意外に遠く、例によって迷走して時間がたりなくなったのだという。
太郞くんは花粉症でこの二日間金沢におりたった瞬間から「つらい~つらい~」と目を真っ赤にしてくしゃみをしていたが、新幹線に入ってからもくしゃみをしている。
私「密閉空間でどこに杉があるの?」と聞くと
太郞くん「乗車してくる人の服に花粉がついてるんですよ。軽井沢はひどかった」
そのあとはみな爆睡。お疲れ様でした。
学術シンポジウム:「通商・巡礼・亡命」
3月12日日に早稲田で学術シンポジウム行います。興味のある院生の方、またちょっと学術的なものも聞いてみたいという一般の方、お待ちしております。
私もコメンテーターで参加いたします。
●通商・巡礼・亡命:
17〜20世紀初頭の中央ユーラシアにおける超境界活動
私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「近代日本の人文学と東アジア文化圏」
早稲田大学中央ユーラシア歴史文化研究所共催
◇日時 :2016年3月12日(土) 13:00〜17:30
◇会場: 早稲田大学文学学術院 戸山キャンパス36号館581教室(メトロ東西線 早稲田駅)
→早稻田大学戸山キャンパスのキャンパスマップはこちらです。
◇参加費: 無料
◇プログラム
趣旨説明(13:00-13:10):柳澤 明(中央ユーラシア歴史文化研究所長)
第Ⅰ部(13:10-14:40)
報告①:濱本真実(日本学術振興会PD)「ロシア・中央アジア・新疆間のムスリム・ネットワーク─タタール商人の活動を中心に─」
報告②:井上岳彦(北海道大学専門研究員)「1877年以降のカルムィク人仏教徒 ─国外聖地巡礼の復活とその影響について─」
第Ⅱ部(15:00-16:30)
報告③:小林亮介(日本学術振興会海外PD)
「ダライラマ13世の亡命と外交(1904-1912)─W. W. Rockhillとの往復書簡の検討を中心に─」
報告④:橘 誠(下関市立大学准教授)「清朝崩壊後のモンゴル・チベット関係」
コメント(16:40-16:50):石濱裕美子(中央ユーラシア歴史文化研究所員)
◇総合討論(16:50-17:30)
◇内容
モンゴル帝国の解体後,その流れをくむ諸国・諸民族は,オスマン朝・ロシア・清朝のような「帝国」の拡大にともなって,次第に分断されてそれらの勢力圏に組み込まれ,自らのあり方を変容させながら,「帝国」内で一定の位置づけを獲得していく。この時期の歴史状況は,従来の研究においては,「帝国」の民族・辺境統治と,それに対する適応または抵抗,という視点から扱われることが主流であった。しかし,当時においても,「帝国」の枠を越えた接触・交流は,たとえば通商や巡礼といった活動を通じて,ある程度保たれていたと考えられる。そして,19世紀後半〜20世紀初頭になると,交通革命や「帝国」支配の弛緩などの要因によって,境界をまたぐ交流・連携が活発化し,民族・宗教共同体の再構築が進行する。本シンポジウムでは,このような超境界活動の実相について,研究史を批判的に総括しつつ検討し,「ポスト・モンゴル帝国史」再考への道筋を模索したい。
私もコメンテーターで参加いたします。
●通商・巡礼・亡命:
17〜20世紀初頭の中央ユーラシアにおける超境界活動
私立大学戦略的研究基盤形成支援事業「近代日本の人文学と東アジア文化圏」
早稲田大学中央ユーラシア歴史文化研究所共催
◇日時 :2016年3月12日(土) 13:00〜17:30
◇会場: 早稲田大学文学学術院 戸山キャンパス36号館581教室(メトロ東西線 早稲田駅)
→早稻田大学戸山キャンパスのキャンパスマップはこちらです。
◇参加費: 無料
◇プログラム
趣旨説明(13:00-13:10):柳澤 明(中央ユーラシア歴史文化研究所長)
第Ⅰ部(13:10-14:40)
報告①:濱本真実(日本学術振興会PD)「ロシア・中央アジア・新疆間のムスリム・ネットワーク─タタール商人の活動を中心に─」
報告②:井上岳彦(北海道大学専門研究員)「1877年以降のカルムィク人仏教徒 ─国外聖地巡礼の復活とその影響について─」
第Ⅱ部(15:00-16:30)
報告③:小林亮介(日本学術振興会海外PD)
「ダライラマ13世の亡命と外交(1904-1912)─W. W. Rockhillとの往復書簡の検討を中心に─」
報告④:橘 誠(下関市立大学准教授)「清朝崩壊後のモンゴル・チベット関係」
コメント(16:40-16:50):石濱裕美子(中央ユーラシア歴史文化研究所員)
◇総合討論(16:50-17:30)
◇内容
モンゴル帝国の解体後,その流れをくむ諸国・諸民族は,オスマン朝・ロシア・清朝のような「帝国」の拡大にともなって,次第に分断されてそれらの勢力圏に組み込まれ,自らのあり方を変容させながら,「帝国」内で一定の位置づけを獲得していく。この時期の歴史状況は,従来の研究においては,「帝国」の民族・辺境統治と,それに対する適応または抵抗,という視点から扱われることが主流であった。しかし,当時においても,「帝国」の枠を越えた接触・交流は,たとえば通商や巡礼といった活動を通じて,ある程度保たれていたと考えられる。そして,19世紀後半〜20世紀初頭になると,交通革命や「帝国」支配の弛緩などの要因によって,境界をまたぐ交流・連携が活発化し,民族・宗教共同体の再構築が進行する。本シンポジウムでは,このような超境界活動の実相について,研究史を批判的に総括しつつ検討し,「ポスト・モンゴル帝国史」再考への道筋を模索したい。
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