ペテルブルグでチベット (2) 100年のチベット寺編
それはもうペテルスブルグの地下鉄は深い。エスカレーターで降りていく先を見ても底が見えない。行列して見えない地下に降りていくさまは、場所がロシアだけにシベリアの炭鉱で働いているような気分になる。今回案内をしてくれたロシア人大学教授U氏は、「地下鉄が深いのはネヴァ川の下を通しているからだ」というけど、「1955年に開通したこの地下鉄、核戦争を想定したシェルターも兼ねていたんじゃ」と聞いたら、否定しなかった。

おおこわ。
あんまり退屈なのでtwitter見ようと思って右手にwifi、左手でケータイ操作しても入らない。そいえば地下鉄でwifiが入るようになったのは日本でも最近のこと。仕方ないので、底につくまで瞑想する。
今年創立100周年となるチベット寺(現地の通称は「ダツァン」)は地下鉄5号線のスタルナヤ・ドレブニャ駅のすぐ近くにある。 駅をおりるともうダツァンの階上部分がみえる。しかし、ダツァンと駅の前には巨大なマンションがたち、ダツァンの正門のど真ん前には、ハイウエイが通ってていて、まるで深川不動。この僧院がたった時、ここは静穏な村だったのに。

その上、ダツァンは足場に覆われており、お寺のシンボルである法輪も鹿も撤去されている。10月に行われる記念の会議までには修復を終わらせるとのこと。ロシアはコンクリートが固まる夏にしか工事ができないとはいえ、記念日にまに合わせて完成してれば完成体が見られたのに。
このお寺はロシア帝国の東洋学者(シチエルバツキー、オルデンブルグ、ニコライリョーリヒ)たちが創立準備をし、ダライラマ13世、ニコライ二世、有名なドルジエフ、ブリヤート、カルムキアなどのロシア帝国内のチベット仏教徒が資金をだして100年前に設立された。当時の本尊はおそらくはカーラチャクラ尊。カーラチャクラ・タントラにはチベットの北にあるという聖地シャンバラが説かれる。ここは仏教が弾圧される時代、仏教徒をかくまってくれる亜空間であり、来たるべき時に、仏教VSイスラーム教の最終戦争がおき、そこで仏教が勝利することにより、シャンバラは現実の世界に現れるという。
この寺がたった100年前はチベット仏教は現在と同様、過酷な弾圧にさらされていた。辛い時代だからこそ、チベット仏教徒はロシア帝国にシャンバラを期待し、ロシアの皇都にたつこのダツァンにカーラチャクラ尊を祀ったのである。しかし、現実はより残酷で、社会主義革命によってロシア皇帝は惨殺され、ドルジエフは獄死し、このダツァンもソ連が崩壊するまで閉鎖されていた。

その日は雨だったため、本堂に入る前に靴にビニールをはく。このお寺にくるのはチベット仏教徒のブリヤート人だけだろうと思っていたら、意外にスラブ系も多い。ロシア人にチベット仏教が普及しているのか?と一瞬期待したが、そう簡単な話ではないことが後に判明する。本尊はお釈迦様である。本尊の左手前には等身大の瞑想するラマの像がある。配置から考えて、この寺の過去の僧院長だろう。
しばらくして現れたハンバラマ(僧院長)にインタビュー。ハンバラマのお名前はチャンバトンユ(byams pa don yod)、54才。
私「今このお寺にはラマは何人いますか、そして信者の数は?」
ハンバ・ラマ「ラマは十八人で、信者は一万五千人です」
私「信者の数を裏付けるものは何ですか。」
ハンバ・ラマ「私は医者でここでチベットの医術を施しています。ここに通ってきている患者の数や、法要に集まってくる人の数だ。百年前このお寺にいたパドマエフも医者だった。医術を施すのはこの寺の伝統です。」
私「チベット薬はインドや中国のチベット医学堂から取り寄せるのですか」
ハンバ・ラマ「いや、ブリヤートからとりよせています」
私「民族構成は?」
ハンバ・ラマ「ほとんどブリヤート人です」
私「ハンバラマはゴマン学堂に留学歴がありますか」
ハンバ・ラマ「ありません。しかし、18人のうち二人はゴマン学堂への留学歴があります。教科書はゴマン学堂のものをつかっています。」
私「戒律を守っているラマはこのお寺に何人いますか」
ハンバ・ラマ「比丘戒(dge slong)が二人、沙弥戒が二人、あとはうにゃうにゃ」(少なっ)
私「比丘戒を護持している人はゴマン学堂にいった人ですよね」
ハンバ・ラマ「そうです。しかし、そのうち一人です」
私「論理学のディベート修行はやっていますか」
ハンバ・ラマ「やってません。ただ、一日二回(10時と3時)集会殿で集まってお勤めしています。毎月、ターラー四マンダラの供養をやっています。」
私「ご本尊の前にある、瞑想する等身大のあの金の像はこの僧院の大切な方だと思いますが、どなたですか」
ハンバ・ラマ「「イチゲロフです。」

※ 説明しよう。イチゲロフ(1852-1927)とはロシア帝国末期とソ連初期に活動していたブリヤート出身の高僧。1911年、ブリヤートのパティタ・ハンバ・ラマに選任されブリヤート仏教界の頂点にたった。このダツァン建立の功労者の一人でもある。1913年のロマノフ王朝300年祭にも出席しているので、この日の午前私がエルミタージュでみた釈迦像はこの人がニコライ二世に献上したものである。最近、モンゴルで「永遠に瞑想する仏教僧のミイラが発見される!=モンゴル」というニュースが流れたが、このミイラがイチゲロフの先生とか言われていることからも、ブリヤートでのイチゲロフ人気を知ることができる。
私「百年前このお寺の本尊はカーラチャクラ尊だったと思いますが、今本堂には釈迦牟尼の仏像があります。しかし、本尊右手にはカーラチャクラ尊の浄土シャンバラのタンカがかかっています。本尊はなぜ釈迦牟尼仏なのですか」
ハンバ・ラマ「ご本尊はダラムサラのナムゲル学堂から贈られたもので、カーラチャクラ尊は別の場所に置いてます。」
私「ということは、このお寺はダラムサラの亡命チベット政府と関係があるのですか。この前、ゴマン学堂のクンデリン=リンポチェがいらしたと思いますが」
ハンバ・ラマ「チベット亡命政府とコンタクトはとっていません。しかし、ゴマン学堂とは非常によい関係にあります。」
私「ロシア政府について何か意見はありますか。目の前に高速道路が通っていて、後がマンションってところに何か、宗教施設に対する配慮のなさを感じたのですが。」
ハンバ・ラマ「どうしようもありません。この寺は文化遺産に登録されたので、もう破壊されることはありません。この修復もロシア政府のお金をだしてくれたから実現したものです。」
私「この僧院にダライラマをお呼びしたいと思っていますか」
ハンバ・ラマ「それはロシアのチベット仏教界を司るパンディタ・ハンバ・ラマが決めることです。ブリヤート人でアユシテンパという名前で今は忙しくて廃業しましたが、元は私と同じくチベット医です。」
私「ロシアの仏教界はどのような構成なのでしょうか。」
ハンバ・ラマ「このダツァンもそうですが、イルクーツク、チタ、トヴァ、アルタイ、ハカシ、ヤクーチにある計50の僧伽をとりまとめています」
私「テロ=リンポチェ率いるカルムキアの仏教界は?」
ハンバ・ラマ「彼らは参加したくないといって、この組織から独立しています。彼らはカギュ派なんです」
テロ=リンポチェはかつてモンゴル語でディロブ・フトクトといわれ、先代は革命後のソ連で迫害されて内蒙古に逃げて、中国が共産化すると今度はアメリカに逃げてなくなられた。有名なオーエン・ラティモアが彼の生涯を英語で記録している。ソ連か崩壊し、カルムキアで仏教が復興し始めた時、ダライラマ法王はアメリカ生まれのカルムキア人を、ディロブ・フトクトの生まれ変わりと認定し、彼は今テロ=リンポチェと呼ばれカルムキア共和国の宗教大臣をつとめている。去年日本の高野山のダライラマ法王灌頂にもお見えになっていた。

インタビューのあと、ダツァンの最上階まで案内してくださる。ダツァンの2階には診療所があり、そこにはたくさんの心や体を病んだロシア人がつめかけていた。チベット医療はかなり高く評価されているようである。中国共産党はチベット文化を徹底的に破壊したが、医学だけは比較的無傷で残した。医学は実学で、またチベット薬はよく効いたので、中国共産党も利用せざるをえなかったからである。ダツァンの僧が、そしてパンディタ・ハンバ・ラマがラマ医なのは、ロシアで生き延びるために最良の形態をとった結果かもしれない。彼らのあり方を部外者が批判するのは危険であろう。
ダツァンを後にして地下鉄駅に戻るみちすがら、そぼふる雨の中あたりを見回すと、どこをみてもスラブ系の顔ばかり。駅についても電車の中にもアジア系の顔立ちをした人は私のみ。このスラブ人が多数をしめるペテルブルクでアジア系のブリヤート人やモンゴル系仏教徒たちが、生きて行くのは大変だろう。
余談であるが、日本に帰国した後、新しくお引っ越しした法王事務所にご挨拶にうかがいルントク代表に、「テロ=リンポチェって協調性ないんですね~」とこの話を聞すると、衝撃の事実が判明。
代表「ダライラマ法王が公認したロシア仏教界の統轄者はカルムキアのテロ=リンポチェだけです」。
ダツァンのハンバ・ラマがおっしゃっていた、パンディタ・ハンバ・ラマの方が、官製ロシアラマかい。てか、私ずけずけと「亡命政府との関係は」なんて聞いて、そりゃ答えられないわ(笑)。
でも、あのダツァンの僧院長もダライラマをないがしろにしているようには見えなかった。本堂にはダライラマの写真を飾った高座があったし、売店ではダライラマの書籍も販売していた。ゴマンとも静かに提携していた。あのロシア人が大多数を占める社会で、アジア系のマイノリティが伝統をまもりぬいていくことがどれ程大変なことか、島国で一億の人口規模をもち、言論の自由もあるお花畑の日本人が想像しても、想像もつかない過酷な世界であろう。
最後の写真はおみやげにいただいたダツァン100周年記念カレンダー。たぶん日本でもっているのは私だけ(笑)。二百年、三百年後にもチベット仏教があの地でどんな形であれ人に癒やしをもたらしていますように
。

おおこわ。
あんまり退屈なのでtwitter見ようと思って右手にwifi、左手でケータイ操作しても入らない。そいえば地下鉄でwifiが入るようになったのは日本でも最近のこと。仕方ないので、底につくまで瞑想する。
今年創立100周年となるチベット寺(現地の通称は「ダツァン」)は地下鉄5号線のスタルナヤ・ドレブニャ駅のすぐ近くにある。 駅をおりるともうダツァンの階上部分がみえる。しかし、ダツァンと駅の前には巨大なマンションがたち、ダツァンの正門のど真ん前には、ハイウエイが通ってていて、まるで深川不動。この僧院がたった時、ここは静穏な村だったのに。

その上、ダツァンは足場に覆われており、お寺のシンボルである法輪も鹿も撤去されている。10月に行われる記念の会議までには修復を終わらせるとのこと。ロシアはコンクリートが固まる夏にしか工事ができないとはいえ、記念日にまに合わせて完成してれば完成体が見られたのに。
このお寺はロシア帝国の東洋学者(シチエルバツキー、オルデンブルグ、ニコライリョーリヒ)たちが創立準備をし、ダライラマ13世、ニコライ二世、有名なドルジエフ、ブリヤート、カルムキアなどのロシア帝国内のチベット仏教徒が資金をだして100年前に設立された。当時の本尊はおそらくはカーラチャクラ尊。カーラチャクラ・タントラにはチベットの北にあるという聖地シャンバラが説かれる。ここは仏教が弾圧される時代、仏教徒をかくまってくれる亜空間であり、来たるべき時に、仏教VSイスラーム教の最終戦争がおき、そこで仏教が勝利することにより、シャンバラは現実の世界に現れるという。
この寺がたった100年前はチベット仏教は現在と同様、過酷な弾圧にさらされていた。辛い時代だからこそ、チベット仏教徒はロシア帝国にシャンバラを期待し、ロシアの皇都にたつこのダツァンにカーラチャクラ尊を祀ったのである。しかし、現実はより残酷で、社会主義革命によってロシア皇帝は惨殺され、ドルジエフは獄死し、このダツァンもソ連が崩壊するまで閉鎖されていた。

その日は雨だったため、本堂に入る前に靴にビニールをはく。このお寺にくるのはチベット仏教徒のブリヤート人だけだろうと思っていたら、意外にスラブ系も多い。ロシア人にチベット仏教が普及しているのか?と一瞬期待したが、そう簡単な話ではないことが後に判明する。本尊はお釈迦様である。本尊の左手前には等身大の瞑想するラマの像がある。配置から考えて、この寺の過去の僧院長だろう。
しばらくして現れたハンバラマ(僧院長)にインタビュー。ハンバラマのお名前はチャンバトンユ(byams pa don yod)、54才。
私「今このお寺にはラマは何人いますか、そして信者の数は?」
ハンバ・ラマ「ラマは十八人で、信者は一万五千人です」
私「信者の数を裏付けるものは何ですか。」
ハンバ・ラマ「私は医者でここでチベットの医術を施しています。ここに通ってきている患者の数や、法要に集まってくる人の数だ。百年前このお寺にいたパドマエフも医者だった。医術を施すのはこの寺の伝統です。」
私「チベット薬はインドや中国のチベット医学堂から取り寄せるのですか」
ハンバ・ラマ「いや、ブリヤートからとりよせています」
私「民族構成は?」
ハンバ・ラマ「ほとんどブリヤート人です」
私「ハンバラマはゴマン学堂に留学歴がありますか」
ハンバ・ラマ「ありません。しかし、18人のうち二人はゴマン学堂への留学歴があります。教科書はゴマン学堂のものをつかっています。」
私「戒律を守っているラマはこのお寺に何人いますか」
ハンバ・ラマ「比丘戒(dge slong)が二人、沙弥戒が二人、あとはうにゃうにゃ」(少なっ)
私「比丘戒を護持している人はゴマン学堂にいった人ですよね」
ハンバ・ラマ「そうです。しかし、そのうち一人です」
私「論理学のディベート修行はやっていますか」
ハンバ・ラマ「やってません。ただ、一日二回(10時と3時)集会殿で集まってお勤めしています。毎月、ターラー四マンダラの供養をやっています。」
私「ご本尊の前にある、瞑想する等身大のあの金の像はこの僧院の大切な方だと思いますが、どなたですか」
ハンバ・ラマ「「イチゲロフです。」

※ 説明しよう。イチゲロフ(1852-1927)とはロシア帝国末期とソ連初期に活動していたブリヤート出身の高僧。1911年、ブリヤートのパティタ・ハンバ・ラマに選任されブリヤート仏教界の頂点にたった。このダツァン建立の功労者の一人でもある。1913年のロマノフ王朝300年祭にも出席しているので、この日の午前私がエルミタージュでみた釈迦像はこの人がニコライ二世に献上したものである。最近、モンゴルで「永遠に瞑想する仏教僧のミイラが発見される!=モンゴル」というニュースが流れたが、このミイラがイチゲロフの先生とか言われていることからも、ブリヤートでのイチゲロフ人気を知ることができる。
私「百年前このお寺の本尊はカーラチャクラ尊だったと思いますが、今本堂には釈迦牟尼の仏像があります。しかし、本尊右手にはカーラチャクラ尊の浄土シャンバラのタンカがかかっています。本尊はなぜ釈迦牟尼仏なのですか」
ハンバ・ラマ「ご本尊はダラムサラのナムゲル学堂から贈られたもので、カーラチャクラ尊は別の場所に置いてます。」
私「ということは、このお寺はダラムサラの亡命チベット政府と関係があるのですか。この前、ゴマン学堂のクンデリン=リンポチェがいらしたと思いますが」
ハンバ・ラマ「チベット亡命政府とコンタクトはとっていません。しかし、ゴマン学堂とは非常によい関係にあります。」
私「ロシア政府について何か意見はありますか。目の前に高速道路が通っていて、後がマンションってところに何か、宗教施設に対する配慮のなさを感じたのですが。」
ハンバ・ラマ「どうしようもありません。この寺は文化遺産に登録されたので、もう破壊されることはありません。この修復もロシア政府のお金をだしてくれたから実現したものです。」
私「この僧院にダライラマをお呼びしたいと思っていますか」
ハンバ・ラマ「それはロシアのチベット仏教界を司るパンディタ・ハンバ・ラマが決めることです。ブリヤート人でアユシテンパという名前で今は忙しくて廃業しましたが、元は私と同じくチベット医です。」
私「ロシアの仏教界はどのような構成なのでしょうか。」
ハンバ・ラマ「このダツァンもそうですが、イルクーツク、チタ、トヴァ、アルタイ、ハカシ、ヤクーチにある計50の僧伽をとりまとめています」
私「テロ=リンポチェ率いるカルムキアの仏教界は?」
ハンバ・ラマ「彼らは参加したくないといって、この組織から独立しています。彼らはカギュ派なんです」
テロ=リンポチェはかつてモンゴル語でディロブ・フトクトといわれ、先代は革命後のソ連で迫害されて内蒙古に逃げて、中国が共産化すると今度はアメリカに逃げてなくなられた。有名なオーエン・ラティモアが彼の生涯を英語で記録している。ソ連か崩壊し、カルムキアで仏教が復興し始めた時、ダライラマ法王はアメリカ生まれのカルムキア人を、ディロブ・フトクトの生まれ変わりと認定し、彼は今テロ=リンポチェと呼ばれカルムキア共和国の宗教大臣をつとめている。去年日本の高野山のダライラマ法王灌頂にもお見えになっていた。

インタビューのあと、ダツァンの最上階まで案内してくださる。ダツァンの2階には診療所があり、そこにはたくさんの心や体を病んだロシア人がつめかけていた。チベット医療はかなり高く評価されているようである。中国共産党はチベット文化を徹底的に破壊したが、医学だけは比較的無傷で残した。医学は実学で、またチベット薬はよく効いたので、中国共産党も利用せざるをえなかったからである。ダツァンの僧が、そしてパンディタ・ハンバ・ラマがラマ医なのは、ロシアで生き延びるために最良の形態をとった結果かもしれない。彼らのあり方を部外者が批判するのは危険であろう。
ダツァンを後にして地下鉄駅に戻るみちすがら、そぼふる雨の中あたりを見回すと、どこをみてもスラブ系の顔ばかり。駅についても電車の中にもアジア系の顔立ちをした人は私のみ。このスラブ人が多数をしめるペテルブルクでアジア系のブリヤート人やモンゴル系仏教徒たちが、生きて行くのは大変だろう。
余談であるが、日本に帰国した後、新しくお引っ越しした法王事務所にご挨拶にうかがいルントク代表に、「テロ=リンポチェって協調性ないんですね~」とこの話を聞すると、衝撃の事実が判明。
代表「ダライラマ法王が公認したロシア仏教界の統轄者はカルムキアのテロ=リンポチェだけです」。
ダツァンのハンバ・ラマがおっしゃっていた、パンディタ・ハンバ・ラマの方が、官製ロシアラマかい。てか、私ずけずけと「亡命政府との関係は」なんて聞いて、そりゃ答えられないわ(笑)。
でも、あのダツァンの僧院長もダライラマをないがしろにしているようには見えなかった。本堂にはダライラマの写真を飾った高座があったし、売店ではダライラマの書籍も販売していた。ゴマンとも静かに提携していた。あのロシア人が大多数を占める社会で、アジア系のマイノリティが伝統をまもりぬいていくことがどれ程大変なことか、島国で一億の人口規模をもち、言論の自由もあるお花畑の日本人が想像しても、想像もつかない過酷な世界であろう。
最後の写真はおみやげにいただいたダツァン100周年記念カレンダー。たぶん日本でもっているのは私だけ(笑)。二百年、三百年後にもチベット仏教があの地でどんな形であれ人に癒やしをもたらしていますように

ペテルブルグでチベット(1) 博物館編
フィンランドの首都、ヘルシンキとロシア帝国の首都ペテルブルグに行ってきました。以下、ロシア、フィンランドの順にチベットネタを炸裂したいと思います。世界のどこに行こうともチベットを追求する、それがこのブログのつとめなのであります。最後に、お笑いネタでしめます。
ペテルブルグはフィンランドの首都ヘルシンキからペテルブルグのフィンランド駅まで新幹線アレグロで三時間半?である。「わー、早くて便利」と喜んでいたが、実際乗ってみると国境付近でのたのた走って駅では長時間停車するわで、30分くらいは鈍行以下のスピードだった。あとで聞いてみると両都市間の距離は200km日本なみにとばしたら一時間かからないじゃん。あははははは。
ペテルブルグはロシア革命後はレーニンにちなんでレニングラードといっていたが、ソ連崩壊後は旧名のサンクト・ペテルブルグに戻った。この町をレニングラードというと年がばれるので、注意しよう! この町、ヨーロッパに憧れたピョートル大帝が、フィンランド湾に面したネヴァ河河口付近にあった沼地にベネチア、パリを再現しようとしたので、運河添いの町並みは完璧に西洋風。19世紀半ばに完成した町のシンボル金ぴかドームのイサク大聖堂は、沼地に石の柱を何本もたてて石の土台をつくってから上に重い大聖堂を築いている。北海油田工法かい(笑)。
どうせ冬期は運河は凍結するからゴンドラなんてとおれないし、町中何度もネヴァ河の氾濫につかったため、いたるところに、「~年の洪水でここまで水がきました」という石版がはまっている。そもそもここ都市を築くのに良い条件の場所ではないのに、皇帝の趣味につきあわされて国家的な大規模工事に動員された方々は大変であったろう。あ、だから積もり積もった恨みで革命となったのか。
ロシアといえば、チンギス・ハンの孫、バトゥに征服されて長くジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の支配下にあり、帝国の徴税人からロシア帝国の前身モスクワ大公国がおこったのは有名な話。これが何を意味するかというと、ロシアには北アジア遊牧民、とくにモンゴル帝国の遺産がそれはもうたくさん残っているということ。
そして、チベットである。19世紀の中頃から革命がおきる前の20世紀初頭、ロシア帝国は数々の探検隊(プルジェワルスキー1839-1888、その弟子コズロフ1863-1935、オルデンブルグ伯1863-1934 etc.)をモンゴルやチベットに送りこんだ結果、チベット仏教に対する興味がロシア帝国内でもりあがり、仏教学が盛んとなった。
写真はプルジェワルスキーの胸像の足下でラクダにのる私。ただのアホに見えますがここではこうやって撮影するのがロシアのお約束。

もともとロシア帝国内にはチベット仏教徒をたくさん抱え込んでいたこともあり(カルムキア人、ブリヤート人、モンゴル人)、チベット熱はもりあがり、ニコライ二世から始まって、皇族、貴族、学者(ウフトンスキー1861-1921、ニコライ・リョーリヒ1874-1947 etc.)ら上流階級が中心となり、「チベット仏教っていいね!」と言う感じになっていた。もちろんこのような流れに対してロシア正教会は怒り続けてはいた。
ウフトンスキーはウルガ(今のウランバートル)や北京で東洋美術を買い集め、そのコレクションは現在エルミタージュ、クンストカメラ、宗教史博物館など3カ所に分割して保存されている。このほかにも前述のロシア人、ニコライ・リョーリヒも忘れてはならない。革命後彼は国外に脱出するが、生涯を東洋學と神秘主義と平和運動と文化財保護に捧げ、チベット仏教を題材にした絵を多数残している。写真はペテルスブルグの中心モルスカヤ通りにはまる彼を顕彰した石版。

さて、まずはその道の人はエルミタージュの中央アジア展示室に直行しましょう(公式サイトはこちらから)。この博物館全部みていたら日が暮れるので、入場料もったいなくともここに直行するべし。ここには、コズロフがノインウラ遺跡から発掘した世界最古の匈奴パンツ、カラホージャから発掘した西夏文書、、教科書でよく見るパクパ文字で記されたモンゴル帝国パスポート、最古のウイグル文字で書かれたチンギスハンの勅令碑文など、遊牧民好きな方には見所はたくさん!。そのほか中央アジアの敦煌などの石窟からはぎとって将来した仏教壁画がえんえん何室も続く。しかも、人、ガラガラ。余裕の見学ができます。

さらに、チベット・コレクション室には1901年にダライラマ13世がニコライ二世に送ったブロンズでつくられた輪王七宝と八吉祥、さらにブリヤートの使節団がロマノフ王朝300年を顕彰して1913年にニコライ二世に贈呈した釈迦牟尼像など歴史的な史料が展示されていて涙がちょちょぎれる。また、地獄の王ヤマの絵を見るとおもしろいことに気付く。地獄に引き立てられていく人々がよく見ると、英国人。これは1904年のイギリスのチベット侵略以後の作例だな(笑)。このようにロシア帝国はたくさんのチベット美術を抱えているのである。
エルミタージュをでたらすぐに中央郵便局の真向かいにある宗教史博物館に向かおう(→サイトはこちらから)。ここは世界宗教全般を展示しているのだが、もともと仏教セクションは二人のブリヤート僧とウフトムスキーのコレクションから始まっているから、上座部仏教や中国仏教よりもチベット仏教に比重がかかっている。
この美術館の展示品の中で目を引いたのは、パンチェンラマ三世の火葬塔のブロンズ模型。仏塔だけでなく、前後の門樓と対聯の文字まで再現されている。誰が何のためにこれを作ったのか、どのような経緯でこのロシアの博物館に流れ着いたのか非常に興味深い。

それが終わったら橋を渡ってネヴァ河の対岸にいきロシア最古の美術館クンストカメラ美術館(こちらから)に行こう。この地域はもともとピョートル大帝によって町の中心として構想されていたのだが、強風と洪水により計画は放棄され、結局は今は大学や科学アカデミーなど教育施設がならんでいる。この外にもコズロフの住んでいたアパートをそのまま記念館にしたコズロフ記念館(サイトはこちらから)がある。
このように、ロシア帝国の遺産である中央アジアの遺産を楽しみましょう。
最後にサービスで世界最古のパンツの写真をあげます。

ペスルスブルグで生きたチベット仏教に触れようとすれば、前前エントリーで紹介した、チベット寺院に行くのがおすすめ。今回の訪問記は次のエントリーで。
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