鴨里資料のデジタル化への道
昨年、四国大学の太田剛先生を依り代としてあの世から呼び出しがあったため、 淡路島にある祖母の曾祖父岡田鴨里の墓所(とはいっても山の上で土葬)に詣でた。その時、岡田家の墓を守り続けてくださっている栄福寺さまにご挨拶に伺ったところ、淡路の岡田家はすでに東京に居を移し、鴨里関係の資料はどこかの博物館に寄贈したといっていたと言う。

そこで、東京に戻ってすぐ、栄福寺さんから伺ったその東京にうつった岡田家の電話番号に連絡をとったところ、資料の寄贈先は神奈川県立博物館である旨を教えてくださった。
何とご先祖の資料がうちのすぐ近くにあったのである! そこでとりあえず見せて頂こうと歴史博物館に連絡をとると、担当の方が「今は四月で忙しいので、五月にしてくれ」と言われた。しかし、そのまま忙しくなったため、放置したまま一年が過ぎた。
なぜすぐに足を運ばなかったのかといえば、歴史博物館のサイトを鴨里で検索しても何もでてこないので、この資料は未整理か、少量か、重要でないか、いすせれにせよ否定的な理由があるのだろう、また、未整理なら、自分は日本史にうとく整理に貢献できないため、そんな人間がいきなり連絡しても向こうも迷惑だろうと思ったからだ。
しかし、今年のお盆である。急にご先祖さまのことが気になりだし(何しろ儒教で土葬だからたぶん輪廻してない)、久方ぶりに博物館と連絡をとろうという気持ちになった。そこで
私「子孫です。文書研究の能力はありませんが、資料みせてください」
と赤裸々に申し込んでみた。すると、担当の学芸員の方が今お盆休みであるいう。そこで「別の方でもいいですが」と食い下がると、「担当でないとちょっと分かりません」とのこと。もうご縁がないのかと不安になるものの、三度目の正直を信じて、学芸員の方のお休みがあけるという19日にアポイントをとり、馬車道の神奈川県立歴史博物館に向かったのであった。
博物館の入り口は地下鉄の出口をでたすぐの場所にあり、絶好のロケーション。にしても明治37年に横浜正金銀行本店として建てられた建物はすごいレトロ。元が銀行であることにちなみ常設展のチケットがお札の上に仏像というデザインなのにはワロタ。受付に出頭して名乗りを上げると、担当の学芸員の方は会議室でまっているとのこと。「なんで会議室なんだろう。」と不思議に思いつつも会議室へ。
ちょうど私を探しにでてきた学芸員のKさんと鉢合わせて、一緒に会議室に入ると、議長席には茶箱が二箱、それ以外にも何か箱があり、下には台車があった。鴨里の資料、こんなに量があったのか(点数は800点以上!)。だから会議室なのか。去年四月に断られたのは四月で会議室の調整がつかなかったのかもしれない。
Kさん「ここに資料のリストがあります。この資料群は昭和43年に、これは博物館が発足した年だったんですが、預かりという形でやってきました。もう岡田家の方であらかじめ分類・整理をされていたのでリスト化は楽でした。その後管理もできないからということで完全に寄贈されたのです。」
参考までに分類タイトルを以下に転写。
岡田鴨里資料目録
A. 岡田鴨里遺稿(『蜂須賀家家記』の自筆原本と自筆の資料) No.1-92
B. 岡田鴨里遺稿(『日本外史補』の自筆原本と自筆の資料) No.93-164
C.『日本外史補』関係資料 165-269
D.岡田鴨里遺稿並師弟交遊関係者遺稿 270-314
E.明治維新資料 No.292-374
F.諸儒詩文稿 No.404-435
G.岡田真関係 No.449-581
H.岡田文平関係 No.582-718
I.岡田秀夫関係 No.719-725
J.諸書 No.726-740
L.諸雑物 No.741-767
追加 No.768-800
淡路島稲田騒動檄文
K. 掛け軸及び巻物 No.801-818
私「博物館に個人の家の資料がこのような形で入ることはよくある話なのですか。」
Kさん「大体神奈川県内の名主さんの末裔が、家を建て替える時とかに処理に困って申し出られる場合が多いです。岡田家のケースは私の前前職の方が受け入れたので詳しいことは分かりません」

そうしてKさんは資料を机の上にどんどんもってきてくださる。
私「わっ、これ日本外史補の原本じゃないですか。しかも鴨里の真筆だ。私でも読める楷書体で書いてある。」
Kさんまた別の束をもってきて
Kさん「これは外史補を書くために鴨里があつめた資料群です。刊本は珍しくないですが鴨里の書き込みとかもあるんですよね。」
私「昔はコピーがないから資料は手書きで写して集めたんですね~。わ、稲田騒動関係の文書がある。これなんて幕末の淡路を研究している人は絶対興味もちますよ。リストもあるし、これだけの量と質なんですから、しかるべき人たちには公開されてきたんですよね。博物館のサイトで検索しても何もでてこなかったんですが」
Kさん「リストの公開はしていません。公開するとこの資料が見たいという方がお見えになるでしょうが、そうなってもここは博物館なので資料を出納したりする機能がなく、対応できる人もいませんから。」
私「ということは、この資料がある事を知っている人はいないということですか。それはこの資料の質と量を考えた場合、ちょっとあんまりではないですか。今の時代ですから紙媒体の出版はむりでも、せめてデジタルデータ化して研究者の方に利用して頂くのはどうですか」

Kさん「予算がありません。それにここは神奈川県立博物館なので神奈川県に関係した文書ならまだしも。科研費とかとってプロジェクトにしてデジタル化するのはいかがですか」
とはいっても、私は東洋史の学者であり、日本史関連のプロジェクトの研究代表者として審査に通るのだろうか。
私「この資料を研究に利用する可能性のある方で研究代表者になってくれそうな人はいませんか」
Kさん「賴山陽の日本外史ですら、教科書にのっていいても読む人はいませんからね。その弟子の書いた外史補を研究する人はいないんじゃないですか」
と身も蓋もないことを言われて博物館を後にしたのであった。
それから4日後、私は自分の研究のためフィンエアーにのってヘルシンキに向かった。その時、隣にすわった学生風のIさんは、アートの展示について研究している某大の方であった。博物館に詳しい人がわざわざ飛行機で私の隣になるなんて、ご先祖が何かやったとしか思えない。しかもこのIさん、帰りの便まで同じでダンナと出身が同じ地域。
そこで、今の自分の状況をかくかくしかじかとのべてみると、彼はこういった。
Iさん「 文部省のサイトをみれは分かりますが、博物館には登録博物館(913館)、博物館相当施設(349館)、博物館類似施設(4,485)館あり、合計で5,747館があります。前から順に規模が大きい方から小さい方になり、たとえば登録博物館だと、館長と学芸員をおいて研究せねばなりませんが、博物館類似施設、たとえばオルゴール美術館とかは学芸員を置かなくていいなど、ゆるい基準で設置されています。
で、神奈川歴史博物館はむろん登録博物館ですので、博物館法に則って運営されています。博物館法では一に、資料の収集・保存、研究、展示・教育を説いています。つまり、博物館法に則れば、鴨里の資料を収集・保存しても、研究、展示をしていない、誰もそこにあることを知らないという今の状態は義務違反になります。
私「こういう資料は一般的にいってどのような公開のされかたをするんですか」
Iさん「博物館の端末にいけば見られる形にします。近世の資料によっては個人情報が記されている場合があるので、日本全国どこでも全てを公開ということはあまりしません。何を公開にして何を公開にしないかは博物館の判断です」
つまり、Iさんの話にのっとれば鴨里の資料の公開は博物館的にいえばマストの話になる。問題はデジタル化するためにはお金がかかること。歴史博物館のKさんの話だと博物館も最近は予算削減の対象となっており、一回の特別展に1000万円かかるのが、300万円でやれと言われているとのこと。文系学部が廃止されるような時代だし、科研費の大半は理系にいくし、もうこりゃ私が私物のカメラをもって博物館に日参してせっせととっていくしかない。
Kさん「一人じゃ無理ですよ。学生さんとか手伝ってくれる人はいないんですか」とかいうが、今時、私用で学生をつかったらパワハラで成敗される。
というわけで、私はまた一つ重い宿題を負ってしまったのであった。まあやる気があればご先祖が何とかしてくれるだろう。ご先祖さま何とかしてください(神頼み)。

そこで、東京に戻ってすぐ、栄福寺さんから伺ったその東京にうつった岡田家の電話番号に連絡をとったところ、資料の寄贈先は神奈川県立博物館である旨を教えてくださった。
何とご先祖の資料がうちのすぐ近くにあったのである! そこでとりあえず見せて頂こうと歴史博物館に連絡をとると、担当の方が「今は四月で忙しいので、五月にしてくれ」と言われた。しかし、そのまま忙しくなったため、放置したまま一年が過ぎた。
なぜすぐに足を運ばなかったのかといえば、歴史博物館のサイトを鴨里で検索しても何もでてこないので、この資料は未整理か、少量か、重要でないか、いすせれにせよ否定的な理由があるのだろう、また、未整理なら、自分は日本史にうとく整理に貢献できないため、そんな人間がいきなり連絡しても向こうも迷惑だろうと思ったからだ。
しかし、今年のお盆である。急にご先祖さまのことが気になりだし(何しろ儒教で土葬だからたぶん輪廻してない)、久方ぶりに博物館と連絡をとろうという気持ちになった。そこで
私「子孫です。文書研究の能力はありませんが、資料みせてください」
と赤裸々に申し込んでみた。すると、担当の学芸員の方が今お盆休みであるいう。そこで「別の方でもいいですが」と食い下がると、「担当でないとちょっと分かりません」とのこと。もうご縁がないのかと不安になるものの、三度目の正直を信じて、学芸員の方のお休みがあけるという19日にアポイントをとり、馬車道の神奈川県立歴史博物館に向かったのであった。
博物館の入り口は地下鉄の出口をでたすぐの場所にあり、絶好のロケーション。にしても明治37年に横浜正金銀行本店として建てられた建物はすごいレトロ。元が銀行であることにちなみ常設展のチケットがお札の上に仏像というデザインなのにはワロタ。受付に出頭して名乗りを上げると、担当の学芸員の方は会議室でまっているとのこと。「なんで会議室なんだろう。」と不思議に思いつつも会議室へ。
ちょうど私を探しにでてきた学芸員のKさんと鉢合わせて、一緒に会議室に入ると、議長席には茶箱が二箱、それ以外にも何か箱があり、下には台車があった。鴨里の資料、こんなに量があったのか(点数は800点以上!)。だから会議室なのか。去年四月に断られたのは四月で会議室の調整がつかなかったのかもしれない。
Kさん「ここに資料のリストがあります。この資料群は昭和43年に、これは博物館が発足した年だったんですが、預かりという形でやってきました。もう岡田家の方であらかじめ分類・整理をされていたのでリスト化は楽でした。その後管理もできないからということで完全に寄贈されたのです。」
参考までに分類タイトルを以下に転写。
岡田鴨里資料目録
A. 岡田鴨里遺稿(『蜂須賀家家記』の自筆原本と自筆の資料) No.1-92
B. 岡田鴨里遺稿(『日本外史補』の自筆原本と自筆の資料) No.93-164
C.『日本外史補』関係資料 165-269
D.岡田鴨里遺稿並師弟交遊関係者遺稿 270-314
E.明治維新資料 No.292-374
F.諸儒詩文稿 No.404-435
G.岡田真関係 No.449-581
H.岡田文平関係 No.582-718
I.岡田秀夫関係 No.719-725
J.諸書 No.726-740
L.諸雑物 No.741-767
追加 No.768-800
淡路島稲田騒動檄文
K. 掛け軸及び巻物 No.801-818
私「博物館に個人の家の資料がこのような形で入ることはよくある話なのですか。」
Kさん「大体神奈川県内の名主さんの末裔が、家を建て替える時とかに処理に困って申し出られる場合が多いです。岡田家のケースは私の前前職の方が受け入れたので詳しいことは分かりません」

そうしてKさんは資料を机の上にどんどんもってきてくださる。
私「わっ、これ日本外史補の原本じゃないですか。しかも鴨里の真筆だ。私でも読める楷書体で書いてある。」
Kさんまた別の束をもってきて
Kさん「これは外史補を書くために鴨里があつめた資料群です。刊本は珍しくないですが鴨里の書き込みとかもあるんですよね。」
私「昔はコピーがないから資料は手書きで写して集めたんですね~。わ、稲田騒動関係の文書がある。これなんて幕末の淡路を研究している人は絶対興味もちますよ。リストもあるし、これだけの量と質なんですから、しかるべき人たちには公開されてきたんですよね。博物館のサイトで検索しても何もでてこなかったんですが」
Kさん「リストの公開はしていません。公開するとこの資料が見たいという方がお見えになるでしょうが、そうなってもここは博物館なので資料を出納したりする機能がなく、対応できる人もいませんから。」
私「ということは、この資料がある事を知っている人はいないということですか。それはこの資料の質と量を考えた場合、ちょっとあんまりではないですか。今の時代ですから紙媒体の出版はむりでも、せめてデジタルデータ化して研究者の方に利用して頂くのはどうですか」

Kさん「予算がありません。それにここは神奈川県立博物館なので神奈川県に関係した文書ならまだしも。科研費とかとってプロジェクトにしてデジタル化するのはいかがですか」
とはいっても、私は東洋史の学者であり、日本史関連のプロジェクトの研究代表者として審査に通るのだろうか。
私「この資料を研究に利用する可能性のある方で研究代表者になってくれそうな人はいませんか」
Kさん「賴山陽の日本外史ですら、教科書にのっていいても読む人はいませんからね。その弟子の書いた外史補を研究する人はいないんじゃないですか」
と身も蓋もないことを言われて博物館を後にしたのであった。
それから4日後、私は自分の研究のためフィンエアーにのってヘルシンキに向かった。その時、隣にすわった学生風のIさんは、アートの展示について研究している某大の方であった。博物館に詳しい人がわざわざ飛行機で私の隣になるなんて、ご先祖が何かやったとしか思えない。しかもこのIさん、帰りの便まで同じでダンナと出身が同じ地域。
そこで、今の自分の状況をかくかくしかじかとのべてみると、彼はこういった。
Iさん「 文部省のサイトをみれは分かりますが、博物館には登録博物館(913館)、博物館相当施設(349館)、博物館類似施設(4,485)館あり、合計で5,747館があります。前から順に規模が大きい方から小さい方になり、たとえば登録博物館だと、館長と学芸員をおいて研究せねばなりませんが、博物館類似施設、たとえばオルゴール美術館とかは学芸員を置かなくていいなど、ゆるい基準で設置されています。
で、神奈川歴史博物館はむろん登録博物館ですので、博物館法に則って運営されています。博物館法では一に、資料の収集・保存、研究、展示・教育を説いています。つまり、博物館法に則れば、鴨里の資料を収集・保存しても、研究、展示をしていない、誰もそこにあることを知らないという今の状態は義務違反になります。
私「こういう資料は一般的にいってどのような公開のされかたをするんですか」
Iさん「博物館の端末にいけば見られる形にします。近世の資料によっては個人情報が記されている場合があるので、日本全国どこでも全てを公開ということはあまりしません。何を公開にして何を公開にしないかは博物館の判断です」
つまり、Iさんの話にのっとれば鴨里の資料の公開は博物館的にいえばマストの話になる。問題はデジタル化するためにはお金がかかること。歴史博物館のKさんの話だと博物館も最近は予算削減の対象となっており、一回の特別展に1000万円かかるのが、300万円でやれと言われているとのこと。文系学部が廃止されるような時代だし、科研費の大半は理系にいくし、もうこりゃ私が私物のカメラをもって博物館に日参してせっせととっていくしかない。
Kさん「一人じゃ無理ですよ。学生さんとか手伝ってくれる人はいないんですか」とかいうが、今時、私用で学生をつかったらパワハラで成敗される。
というわけで、私はまた一つ重い宿題を負ってしまったのであった。まあやる気があればご先祖が何とかしてくれるだろう。ご先祖さま何とかしてください(神頼み)。
祝! ダツァン100周年
今年は終戦70年なので、とくに終戦記念日のある八月は、東アジアの某国でナショナリズムの暴走の可能性が高い。従って、駐在企業もぴりぴりしているだろうなと思ったら、反日デモは勃発せず、天津大爆発で国籍関係なく多くの企業が被害をうけた。チャイナリスクも奥が深い。しかし、日本の桜島も噴火レベルがあがっているし、たしか九州の火山は噴火するとハンパない被害をもたらすので(鹿児島のあの湾は噴火口)、ジャパンリスクもハンパない。
去年のお盆は大阪の清風学園ご一行様について南インドのギュメ大僧院を訪れていた。当時の僧院長は九月に任期を満了して、当時の副館長が今年館長に昇進されている。そして空席となった副館長の座に日本にもよくいらしてくださっているゲン・ロサン先生が即位されたことは、関係者の間では有名である。しかし、今ギュメに滞在中の平岡先生の話によると、ゲン・ロサン先生はご体調がよろしくなく、職を辞すことを申し出たという。一刻も早い快癒をお祈りします。
去年、私がギュメに滞在していた際、クンデリン・リンポチェがいらしたのは、クンデリンの指導僧がゲン・ロサン先生であったため、師匠の就任に先駆けて先にギュメに移っていたらしい。あの時、名跡のラマと遭遇した私は、早速ずいずいインタビューにいき、リンポチェに「博士号をとると、海外での布教に入られる方が多いですが、リンポチェはそのような予定はありますか」とお伺いしたところ、リンポチェは「昔仏教国だったところに行きたい」とおっしゃっていた(過去のエントリーはここ)。
で今年、「クンデリン・リンポチェはどうしているかな」と検索してみると、6月の末から8月の頭までロシア・ツァーをしていることがわかった。なんとゴマン学堂にはロシア語のサイトがあり、そこからクンデリンのロシアツアーの記事と日程をまとめるとこんな感じ(ロシア語わからないのでgoogleが訳してます笑)。
クンデリン・リンポチェはロシアにおいては、モスクワ、トヴァ、ブリヤート、カルムキアを訪れる予定。
モスクワにおいては無上ヨーガタントラの中の一尊形ヤマンタカの灌頂と法話を授ける。灌頂を授かったものは、日常の勤行を行うことが義務づけられる。
クンデリン・リンポチェの前世はモンゴル人の精神的な指導者であったジェブツンダンパ9世(ハルハ・ジェツゥン・トンドゥプ)の師匠であった。現クンデリン・リンポチェは13世で、デプン大僧院ゴマン学堂においてもロサン・ツゥルティム博士(ゲン・ロサン先生のこと)の指導の下、学習期間を終えた。
ダライラマ14世のご意向により、クンデリンは博士の最高位(ゲシェ・ララムパ)をめざす6年の修行期間とギュメ大僧院における密教の修行を完成させることが決定された。
6/26~6/28 モスクワ滞在
7/3~7/8 カルムキア共和国滞在
7/10~7/13 トゥバ滞在
8/8~8/11 ペテルスブルグ滞在
そう、現在ロシアがある地はモンゴル人の居住域ともかぶっているため、カルムキア共和国、ブリヤート共和国、トゥバ自治国などにはチベット仏教徒がたくさんいる。かつてこれらの地の仏教は社会主義革命によって壊滅的な打撃をうけた。1991年のソ連の解体の後、ほそぼそと復興が始まっており、クンデリン・リンポチェはそのような地を選んで回っている、まさに「昔仏教国だった国」と去年おっしゃっていたのはこれかと思いあたる。
で、なぜ今なのかを推測するに、それは丁度100年前の8月10日、ロシア帝国の首都サンクト・ペテルスブルグに初のチベット仏教寺院がドルジエフ(ダライラマ13世の側近)によって落慶したことと無縁ではないと思う。クンデリンのロシアツァーの8月10日を確認すると、ペテルスブルグでドルジエフがたてた寺で法要を行っている。おそらくはこのツァー、ペテルスブルグの寺院の100周年を祝う意図をもってくまれたのであろう(ダツァンを訪問して僧院長にただしたら違う、法話にこられたのだとおっしゃっていたが本当のところは分からない。)。
この寺の建立の経緯については、英語論文だとAlexander Andreyev によるThe Buddhist Temple in Petersburg and the Russo-Tibetan Rapporachmentを参照されたい。ウィキペディアはまあこの論文の情報をよく要約していると思うので以下にはっておく。

グンゼチョイネイ・ダツァン(通称ダツァン)
1900年、チベット僧でブリヤート出身のアグワン・ドルジェフが首都に仏教寺院建立の許可を受け、ダライラマ13世より建設資金が提供された。建設委員にはニコライ・レーリッヒ、ウフトンスキー、オルデンブルクなどの東洋学の大家が名を連ね、設計はパラノフスキが行ない、純チベット様式のものが設計された。 1909年より建設が始まり、建設費用はロシア帝国内の仏教徒の浄財とドルジェフ、ダライラマ13世、ジェブツンダンパ8世からの寄付金で賄われたが、最終的な寄付額は予定額を越えたという。1913年に第一回仏教者会議がロマノフ王朝300年記念祝典とともに開かれ、弥勒菩薩像をタイのラーマ6世が寄贈し、1915年8月10日に開眼法要が行われた。このときの導師はドルジェフとイチゲロフであった。
チベット寺が落慶した時、記念金貨が発売されているのでその写真もはっておく。

チベット語とモンゴル語は完璧に逐語訳で、寺院の正式名称である「全てを愛する釈迦牟尼の正法の泉」をのせ、ロシア語はスペースの関係か「仏教の神殿」(笑)。
kun la brtse mdzad thub dbang dam chos 'byung ba'i gnas
bükün nigüleskügci burqan-u degedü nom γarγaqu yin oru
チベット・モンゴル・ロシア語三体字合壁であることは、ロシア皇帝ニコライ二世を施主と考えていたことを示していて興味深い。その後まもなくして社会主義革命により寺は機能停止し、ドルジエフは粛正の嵐の中で獄死した。ある意味この「ダツァン」は原爆ドームのような悲劇の目撃者である。
そろそろ当代のジェブツンダンパ(クンデリンの前代が前代のジェブツンダンパの師匠)の認定が行われる時期なので、クンデリン・リンポチェはこのあとはモンゴルに向かい何らかの認定作業にたずさわる可能性もあり。クンデリンがこのように精力的にロシアやモンゴルでの活動を行ってているのは、彼の属するゴマン学堂が17世紀より伝統的にモンゴルを布教対象としていたこともあるが、彼が若手のトップだからでもある。
転生僧が堕落することなく無事に成人し、その上学問もできるようになることはよくある話ではない(甘やかされて還俗とかいう目も当てられない例もあるある)。クンデリンはそのめったにない例である上、非常に名跡の転生僧である。ダライラマ14世は、復興した寺においてもチベット同様、戒律を守る僧が厳格な僧院生活を実現することを望んでいる(ロシアやモンゴルの僧は妻帯者が多く、勉強にもあまり力が入っていない)。従って、その手本を示すためにも戒律を保持して学業を完成したクンデリンは先頭にたつ意味があるのである(モンゴル、カルムキア、ブリヤートの僧侶たちはゴマン学堂に留学するのがならわしなので彼の一部はご学友でもある)。
欲望全開の21世紀にあって僧院世界を移植する作業は困難を極めるだろう。しかし、現在の社会の諸問題はいうまでもなく人類が欲望を全開した結果の産物であり、これを解決しようとすれば、やはり欲望をコントロールするしかない。
チベットの高僧たちは日本人の悩みに対して、つねに高次のレベルから明快な答えをだしてくれる。
彼らは「心を整えなさい。それを毎日続けなさい。そうすればいつかは必ず人格者になっていく。私は昔は怒りっぽかったが、毎日心を整えて、悪いところを反省しつづけたら、今はこんなだ、わっはっはっ」。とか言ってくれる。
それを聞いても、納得できてしまう空気感を彼らはもっている(ダライラマをはじめとして壮絶な人生をおくっていても明るい)。欲望のコントロールを実際に行っている人々の存在に接することは、百万の空言をきくよりも励まされ、変わろうという決意を新たにさせてくれる。
ロシアやモンゴルでの僧院復興事業が軌道にのることを祈ってやまない。
去年のお盆は大阪の清風学園ご一行様について南インドのギュメ大僧院を訪れていた。当時の僧院長は九月に任期を満了して、当時の副館長が今年館長に昇進されている。そして空席となった副館長の座に日本にもよくいらしてくださっているゲン・ロサン先生が即位されたことは、関係者の間では有名である。しかし、今ギュメに滞在中の平岡先生の話によると、ゲン・ロサン先生はご体調がよろしくなく、職を辞すことを申し出たという。一刻も早い快癒をお祈りします。
去年、私がギュメに滞在していた際、クンデリン・リンポチェがいらしたのは、クンデリンの指導僧がゲン・ロサン先生であったため、師匠の就任に先駆けて先にギュメに移っていたらしい。あの時、名跡のラマと遭遇した私は、早速ずいずいインタビューにいき、リンポチェに「博士号をとると、海外での布教に入られる方が多いですが、リンポチェはそのような予定はありますか」とお伺いしたところ、リンポチェは「昔仏教国だったところに行きたい」とおっしゃっていた(過去のエントリーはここ)。
で今年、「クンデリン・リンポチェはどうしているかな」と検索してみると、6月の末から8月の頭までロシア・ツァーをしていることがわかった。なんとゴマン学堂にはロシア語のサイトがあり、そこからクンデリンのロシアツアーの記事と日程をまとめるとこんな感じ(ロシア語わからないのでgoogleが訳してます笑)。
クンデリン・リンポチェはロシアにおいては、モスクワ、トヴァ、ブリヤート、カルムキアを訪れる予定。
モスクワにおいては無上ヨーガタントラの中の一尊形ヤマンタカの灌頂と法話を授ける。灌頂を授かったものは、日常の勤行を行うことが義務づけられる。
クンデリン・リンポチェの前世はモンゴル人の精神的な指導者であったジェブツンダンパ9世(ハルハ・ジェツゥン・トンドゥプ)の師匠であった。現クンデリン・リンポチェは13世で、デプン大僧院ゴマン学堂においてもロサン・ツゥルティム博士(ゲン・ロサン先生のこと)の指導の下、学習期間を終えた。
ダライラマ14世のご意向により、クンデリンは博士の最高位(ゲシェ・ララムパ)をめざす6年の修行期間とギュメ大僧院における密教の修行を完成させることが決定された。
6/26~6/28 モスクワ滞在
7/3~7/8 カルムキア共和国滞在
7/10~7/13 トゥバ滞在
8/8~8/11 ペテルスブルグ滞在
そう、現在ロシアがある地はモンゴル人の居住域ともかぶっているため、カルムキア共和国、ブリヤート共和国、トゥバ自治国などにはチベット仏教徒がたくさんいる。かつてこれらの地の仏教は社会主義革命によって壊滅的な打撃をうけた。1991年のソ連の解体の後、ほそぼそと復興が始まっており、クンデリン・リンポチェはそのような地を選んで回っている、まさに「昔仏教国だった国」と去年おっしゃっていたのはこれかと思いあたる。
で、なぜ今なのかを推測するに、それは丁度100年前の8月10日、ロシア帝国の首都サンクト・ペテルスブルグに初のチベット仏教寺院がドルジエフ(ダライラマ13世の側近)によって落慶したことと無縁ではないと思う。クンデリンのロシアツァーの8月10日を確認すると、ペテルスブルグでドルジエフがたてた寺で法要を行っている。おそらくはこのツァー、ペテルスブルグの寺院の100周年を祝う意図をもってくまれたのであろう(ダツァンを訪問して僧院長にただしたら違う、法話にこられたのだとおっしゃっていたが本当のところは分からない。)。
この寺の建立の経緯については、英語論文だとAlexander Andreyev によるThe Buddhist Temple in Petersburg and the Russo-Tibetan Rapporachmentを参照されたい。ウィキペディアはまあこの論文の情報をよく要約していると思うので以下にはっておく。

グンゼチョイネイ・ダツァン(通称ダツァン)
1900年、チベット僧でブリヤート出身のアグワン・ドルジェフが首都に仏教寺院建立の許可を受け、ダライラマ13世より建設資金が提供された。建設委員にはニコライ・レーリッヒ、ウフトンスキー、オルデンブルクなどの東洋学の大家が名を連ね、設計はパラノフスキが行ない、純チベット様式のものが設計された。 1909年より建設が始まり、建設費用はロシア帝国内の仏教徒の浄財とドルジェフ、ダライラマ13世、ジェブツンダンパ8世からの寄付金で賄われたが、最終的な寄付額は予定額を越えたという。1913年に第一回仏教者会議がロマノフ王朝300年記念祝典とともに開かれ、弥勒菩薩像をタイのラーマ6世が寄贈し、1915年8月10日に開眼法要が行われた。このときの導師はドルジェフとイチゲロフであった。
チベット寺が落慶した時、記念金貨が発売されているのでその写真もはっておく。

チベット語とモンゴル語は完璧に逐語訳で、寺院の正式名称である「全てを愛する釈迦牟尼の正法の泉」をのせ、ロシア語はスペースの関係か「仏教の神殿」(笑)。
kun la brtse mdzad thub dbang dam chos 'byung ba'i gnas
bükün nigüleskügci burqan-u degedü nom γarγaqu yin oru
チベット・モンゴル・ロシア語三体字合壁であることは、ロシア皇帝ニコライ二世を施主と考えていたことを示していて興味深い。その後まもなくして社会主義革命により寺は機能停止し、ドルジエフは粛正の嵐の中で獄死した。ある意味この「ダツァン」は原爆ドームのような悲劇の目撃者である。
そろそろ当代のジェブツンダンパ(クンデリンの前代が前代のジェブツンダンパの師匠)の認定が行われる時期なので、クンデリン・リンポチェはこのあとはモンゴルに向かい何らかの認定作業にたずさわる可能性もあり。クンデリンがこのように精力的にロシアやモンゴルでの活動を行ってているのは、彼の属するゴマン学堂が17世紀より伝統的にモンゴルを布教対象としていたこともあるが、彼が若手のトップだからでもある。
転生僧が堕落することなく無事に成人し、その上学問もできるようになることはよくある話ではない(甘やかされて還俗とかいう目も当てられない例もあるある)。クンデリンはそのめったにない例である上、非常に名跡の転生僧である。ダライラマ14世は、復興した寺においてもチベット同様、戒律を守る僧が厳格な僧院生活を実現することを望んでいる(ロシアやモンゴルの僧は妻帯者が多く、勉強にもあまり力が入っていない)。従って、その手本を示すためにも戒律を保持して学業を完成したクンデリンは先頭にたつ意味があるのである(モンゴル、カルムキア、ブリヤートの僧侶たちはゴマン学堂に留学するのがならわしなので彼の一部はご学友でもある)。
欲望全開の21世紀にあって僧院世界を移植する作業は困難を極めるだろう。しかし、現在の社会の諸問題はいうまでもなく人類が欲望を全開した結果の産物であり、これを解決しようとすれば、やはり欲望をコントロールするしかない。
チベットの高僧たちは日本人の悩みに対して、つねに高次のレベルから明快な答えをだしてくれる。
彼らは「心を整えなさい。それを毎日続けなさい。そうすればいつかは必ず人格者になっていく。私は昔は怒りっぽかったが、毎日心を整えて、悪いところを反省しつづけたら、今はこんなだ、わっはっはっ」。とか言ってくれる。
それを聞いても、納得できてしまう空気感を彼らはもっている(ダライラマをはじめとして壮絶な人生をおくっていても明るい)。欲望のコントロールを実際に行っている人々の存在に接することは、百万の空言をきくよりも励まされ、変わろうという決意を新たにさせてくれる。
ロシアやモンゴルでの僧院復興事業が軌道にのることを祈ってやまない。
五台山パノラマ地図の謎
猛暑日が続き、環境破壊の果ての文明の滅亡がカウントダウンで感じられる今日この頃、みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は休みに入り研究三昧といいたいところですが、暑さと体調不良と雑務でいまいち研究が軌道にのっておりません。しかし、最近ちょっとおもしろいことが分かり、かつ、涼しいテーマであるので暑中お見舞いがてら漫談します。
中国の山西省にある五台山という山は、美称を清涼山といい、古来聖地として知られる。古くは日本の様々な仏教の宗派の源流はここから発し、モンゴル帝国以後は、チベット仏教の聖地として、モンゴル人・チベット人の巡礼で栄えた。前のエントリーで扱ったように、1908年に亡命中のダライラマ13世が滞在して各国大使と謁見したのもこの地である。
五台山がなぜ聖地なのかといえば、『華厳経』に記される、文殊菩薩の聖地、清涼山と同一視されてきたからである。文殊は東に位する菩薩であるため、インドからみて東方をすべる中国皇帝は、しばしば文殊菩薩の化身とみなされた。結果歴代の中国皇帝の信仰の対象となって五台山(清涼山)は栄えまくったのである。革命が起きるまでは。
この五台山のパノラマ地図についてここ二~三日調べておもしろいことが分かった。
一昨日、早稲田の図書館に民博からとりよせた本をみにいった。それはフィンランドの国立博物館で行われた1987年のチベット絵画の展覧会の図録「大円鏡智。フィンランド国立博物館の仏教美術(Mirrors of the void: Buddhist art in the National Museum of Finland)」である。
※最近は図書館間の連携により自分の所属する図書館にない本は、それを所有する図書館からかり出すことができるのだ。全国のどの図書館にあるかはnacsis検索で調べる。この図録はこの検索で調べても民博の図書館1館しかひっかからなかったので、レアである。
で、この図録の中に五台山のパノラマ絵図(五台山聖境全圖)をみつけた。そして、なにやら既視感があったので、自分の過去のノートを検索してみると、ちょうど10年前の2005年に東洋文庫の閲覧室で似たような絵を見てノートをとっていた。図の名前も、チベット語・モンゴル語・漢語の三体字で描かれた標題も一致する。
東洋文庫でみた地図は確か箱に入っていて、和碩博多勒口葛台親王之宝(ホショ・ボドルガタイ親王の宝)というハンコがオされていて、元朝のトゴンティムールの時代と記されていた。しかし、その地図はどうみても元末のものでなく、どちらかというと清末なので、どう扱って良いかわからず、結局論文にはならなかったのである。
で、フィンランドの図録の解説を読み進んでみると、このパノラマ地図は1909年にラムステッド伯爵によってウルガ(現ウランバートル)にある五台山工房から購入したものだという。1909年! ダライラマ13世が五台山に滞在した翌年だ。ラムステッド(1873-1950) は1920年、初代フィランド公使として東京にきて、東京大学で教鞭獲って金田一京助とかに影響を与えたアルタイ言語学者である。東京にくる前はモンゴルや東トルキスタンで学術探検隊に参加していたので、その頃のお買い物。
さらに、フィンランド博物館所蔵版の地図の上部左上には、この地図が慈福寺(五台山中の寺の一つ)において道光26 年(1846)に開版されたことが記されている(東洋文庫版はこの部分文字がかすれて見えない)。えええ、じゃあ、東洋文庫版の元末って、さば読みすぎ(笑)。
ちなみに、東洋文庫版におしてあった印のホショ・ボドルガタイ親王とは内モンゴルのホルチン左翼後旗のジャサクである。この人は東洋文庫にくる前の持ち主と思われるが、地図が元末ではなく道光年間成立した真実をしっていたのだろうか(笑)。いたとしたら悪質~。
で、フィンランドと東洋文庫にあるなら他の場所にもあるだろうと、google様にお伺いをたててみたところ、アメリカの議会図書館Library of Congress とわれらがRubin Museumに同じ版の所蔵があることがわかった(以下写真はクリックすると大きくなります)。
※Wen-shing Chouの論文 Maps of Wutai Shan: Individuating the Sacred Landscape through Color の註7において、世界にこの他に14のコピーがあることを明らかにしている。これによると、東京のお茶の水のたぶん湯島聖堂?にもあるみたい。東洋文庫のものは触れられていない。

議会図書館には彩色前の地図もあるのでそれを二種類と数えると、東洋文庫バージョンを含めて現在5つの五台山聖境図が世界に確認できたことになる。
議会図書館のサイトではこの地図の高画質のデジタル情報がダウンロードすらできる。サイトの情報によると、この地図は、ハンメル・アーサー・ウィリアム(Hummel, Arthur William, 1884-1975)が1934年に購入したものであるという。ハンメルは中国を布教の地とするアメリカ人の宣教師で、議会図書館のアジア部門のトップであり、中国で議会図書館のために多くのアジアの美術品を購入していた。
しかし、話はそこで終わらない。高画質の地図を拡大してみてるとおかしなことに気付いたのである。チベット語の題字の下に月の絵が描かれていて、ていうか、月の絵の中に「月」て漢字が書かれている(笑)。
こんな感じ↓

その横に近代的なスタンプが押されているのである。これ↓

JAN 15 1905
と読み取れる。購入年の1934年と違うじゃないか。そこで、上下の英語を気合いで読み取ると、
Map Division
JAN 15 1905
Library of Congress
どうみても1905年1月25日に議会図書館の地図部門にこの五台山地図が納入されたってスタンプな気がする。でも、ハンメルはこの年学校卒業したばかりなので、中国で地図を買うのは無理(笑)。
じゃこの地図の購入者は誰なのだろうか。推測にすぎないが、この時代、チベット関係で東アジアをうろうろしていたアメリカ人といえば、ロックヒルあたりが怪しい。彼は1988-89年までにチベット潜入を行おうとして失敗し、1908年には五台山でダライラマ13世と会見している。彼は時のアメリカ大統領ルーズベルトに、ダライラマのプレゼントともに感動の会見記をながながと書き送って、、それらは議会図書館に納入されているのである。
※てなこといってたら、前述のWen-shing Chou論文は、議会図書館には複数の五台山図が入っていて、1905年版はロックヒルによって入庫していることを指摘している。やっぱり。で、もう一方の彩色されていない版が1934年にハンメルによって購買入庫したとのこと。
こういうわけで、東洋文庫版も議会図書館版もみな箱書きや、スタンプが怪しいものの、1906-1910年のダライラマが青海省・五台山に周辺に滞在していた時期に購入された感が満載なのである。
20世紀の最初の十年間、ダライラマはまちがいなく東アジアに滞在していた帝国主義のプレーヤー(探検家・軍人・学者・宣教師)たちの台風の目であった。この五台山地図の謎の購入者たちも、五台山や北京やウルガですれ違っていたのであろう。
そう考えたのも、8月3日に東洋文庫で開催された東洋学講座で、片山章雄先生のお話の中で、マンネルヘイムが1906-1908年の探検でもたらした断片的な資料は、同時期に新疆をうろうろしていた日本の大谷探検隊、ドイツの探検隊がそれぞれの自国にもたらした断片的な資料とつなげると、一つになるという話を聞いたから。
確かに、私の前世が20世紀初頭、研究者ではなく、蘭州あたりで古物商やっていたとしたら、手元にある古代文献をびりびり四等分して、ドイツ人、フランス人、フィンランド人、日本人などの探検家に売りつけていたかもしれない。一枚なら一枚分の値段しかとれないが、四枚にちぎれば四倍の値段が受け取れるから。そして、版木でする地図なら何枚でもすれるから、そりゃ日本人にもアメリカ人にもフィンランド人にもせっせと刷って色をつけてうったかもしれない。
研究者的にはありえない古物への態度であるが、紅衛兵のように破壊するよりゃいい。彼らが売りまくってくれたおかげで、こうして私は五台山パノラマ地図を目に出来たのだから。
版木があったはずの慈福寺(かつてはチベット寺)はいまも五台山内にたっている。しかし、その寺のサイトには寺宝などは何ものっておらず、住職も今やモンゴル人やチベット人ではなく漢族がやっている。地図の版木はすでに失われているのだろう。古いものは外側の建物だけで、中身は人から儀式まですべて漢族のものに入れ替わってしまった。
歴史を研究するものが記録しておかないと、かつての五台山の姿も忘れられてしまう。今度こそこれを何らかの形で紹介なり論文化なりしないといけないと切に思ったのであったった。
中国の山西省にある五台山という山は、美称を清涼山といい、古来聖地として知られる。古くは日本の様々な仏教の宗派の源流はここから発し、モンゴル帝国以後は、チベット仏教の聖地として、モンゴル人・チベット人の巡礼で栄えた。前のエントリーで扱ったように、1908年に亡命中のダライラマ13世が滞在して各国大使と謁見したのもこの地である。
五台山がなぜ聖地なのかといえば、『華厳経』に記される、文殊菩薩の聖地、清涼山と同一視されてきたからである。文殊は東に位する菩薩であるため、インドからみて東方をすべる中国皇帝は、しばしば文殊菩薩の化身とみなされた。結果歴代の中国皇帝の信仰の対象となって五台山(清涼山)は栄えまくったのである。革命が起きるまでは。
この五台山のパノラマ地図についてここ二~三日調べておもしろいことが分かった。
一昨日、早稲田の図書館に民博からとりよせた本をみにいった。それはフィンランドの国立博物館で行われた1987年のチベット絵画の展覧会の図録「大円鏡智。フィンランド国立博物館の仏教美術(Mirrors of the void: Buddhist art in the National Museum of Finland)」である。
※最近は図書館間の連携により自分の所属する図書館にない本は、それを所有する図書館からかり出すことができるのだ。全国のどの図書館にあるかはnacsis検索で調べる。この図録はこの検索で調べても民博の図書館1館しかひっかからなかったので、レアである。
で、この図録の中に五台山のパノラマ絵図(五台山聖境全圖)をみつけた。そして、なにやら既視感があったので、自分の過去のノートを検索してみると、ちょうど10年前の2005年に東洋文庫の閲覧室で似たような絵を見てノートをとっていた。図の名前も、チベット語・モンゴル語・漢語の三体字で描かれた標題も一致する。
東洋文庫でみた地図は確か箱に入っていて、和碩博多勒口葛台親王之宝(ホショ・ボドルガタイ親王の宝)というハンコがオされていて、元朝のトゴンティムールの時代と記されていた。しかし、その地図はどうみても元末のものでなく、どちらかというと清末なので、どう扱って良いかわからず、結局論文にはならなかったのである。
で、フィンランドの図録の解説を読み進んでみると、このパノラマ地図は1909年にラムステッド伯爵によってウルガ(現ウランバートル)にある五台山工房から購入したものだという。1909年! ダライラマ13世が五台山に滞在した翌年だ。ラムステッド(1873-1950) は1920年、初代フィランド公使として東京にきて、東京大学で教鞭獲って金田一京助とかに影響を与えたアルタイ言語学者である。東京にくる前はモンゴルや東トルキスタンで学術探検隊に参加していたので、その頃のお買い物。
さらに、フィンランド博物館所蔵版の地図の上部左上には、この地図が慈福寺(五台山中の寺の一つ)において道光26 年(1846)に開版されたことが記されている(東洋文庫版はこの部分文字がかすれて見えない)。えええ、じゃあ、東洋文庫版の元末って、さば読みすぎ(笑)。
ちなみに、東洋文庫版におしてあった印のホショ・ボドルガタイ親王とは内モンゴルのホルチン左翼後旗のジャサクである。この人は東洋文庫にくる前の持ち主と思われるが、地図が元末ではなく道光年間成立した真実をしっていたのだろうか(笑)。いたとしたら悪質~。
で、フィンランドと東洋文庫にあるなら他の場所にもあるだろうと、google様にお伺いをたててみたところ、アメリカの議会図書館Library of Congress とわれらがRubin Museumに同じ版の所蔵があることがわかった(以下写真はクリックすると大きくなります)。
※Wen-shing Chouの論文 Maps of Wutai Shan: Individuating the Sacred Landscape through Color の註7において、世界にこの他に14のコピーがあることを明らかにしている。これによると、東京のお茶の水のたぶん湯島聖堂?にもあるみたい。東洋文庫のものは触れられていない。

議会図書館には彩色前の地図もあるのでそれを二種類と数えると、東洋文庫バージョンを含めて現在5つの五台山聖境図が世界に確認できたことになる。
議会図書館のサイトではこの地図の高画質のデジタル情報がダウンロードすらできる。サイトの情報によると、この地図は、ハンメル・アーサー・ウィリアム(Hummel, Arthur William, 1884-1975)が1934年に購入したものであるという。ハンメルは中国を布教の地とするアメリカ人の宣教師で、議会図書館のアジア部門のトップであり、中国で議会図書館のために多くのアジアの美術品を購入していた。
しかし、話はそこで終わらない。高画質の地図を拡大してみてるとおかしなことに気付いたのである。チベット語の題字の下に月の絵が描かれていて、ていうか、月の絵の中に「月」て漢字が書かれている(笑)。
こんな感じ↓

その横に近代的なスタンプが押されているのである。これ↓

JAN 15 1905
と読み取れる。購入年の1934年と違うじゃないか。そこで、上下の英語を気合いで読み取ると、
Map Division
JAN 15 1905
Library of Congress
どうみても1905年1月25日に議会図書館の地図部門にこの五台山地図が納入されたってスタンプな気がする。でも、ハンメルはこの年学校卒業したばかりなので、中国で地図を買うのは無理(笑)。
じゃこの地図の購入者は誰なのだろうか。推測にすぎないが、この時代、チベット関係で東アジアをうろうろしていたアメリカ人といえば、ロックヒルあたりが怪しい。彼は1988-89年までにチベット潜入を行おうとして失敗し、1908年には五台山でダライラマ13世と会見している。彼は時のアメリカ大統領ルーズベルトに、ダライラマのプレゼントともに感動の会見記をながながと書き送って、、それらは議会図書館に納入されているのである。
※てなこといってたら、前述のWen-shing Chou論文は、議会図書館には複数の五台山図が入っていて、1905年版はロックヒルによって入庫していることを指摘している。やっぱり。で、もう一方の彩色されていない版が1934年にハンメルによって購買入庫したとのこと。
こういうわけで、東洋文庫版も議会図書館版もみな箱書きや、スタンプが怪しいものの、1906-1910年のダライラマが青海省・五台山に周辺に滞在していた時期に購入された感が満載なのである。
20世紀の最初の十年間、ダライラマはまちがいなく東アジアに滞在していた帝国主義のプレーヤー(探検家・軍人・学者・宣教師)たちの台風の目であった。この五台山地図の謎の購入者たちも、五台山や北京やウルガですれ違っていたのであろう。
そう考えたのも、8月3日に東洋文庫で開催された東洋学講座で、片山章雄先生のお話の中で、マンネルヘイムが1906-1908年の探検でもたらした断片的な資料は、同時期に新疆をうろうろしていた日本の大谷探検隊、ドイツの探検隊がそれぞれの自国にもたらした断片的な資料とつなげると、一つになるという話を聞いたから。
確かに、私の前世が20世紀初頭、研究者ではなく、蘭州あたりで古物商やっていたとしたら、手元にある古代文献をびりびり四等分して、ドイツ人、フランス人、フィンランド人、日本人などの探検家に売りつけていたかもしれない。一枚なら一枚分の値段しかとれないが、四枚にちぎれば四倍の値段が受け取れるから。そして、版木でする地図なら何枚でもすれるから、そりゃ日本人にもアメリカ人にもフィンランド人にもせっせと刷って色をつけてうったかもしれない。
研究者的にはありえない古物への態度であるが、紅衛兵のように破壊するよりゃいい。彼らが売りまくってくれたおかげで、こうして私は五台山パノラマ地図を目に出来たのだから。
版木があったはずの慈福寺(かつてはチベット寺)はいまも五台山内にたっている。しかし、その寺のサイトには寺宝などは何ものっておらず、住職も今やモンゴル人やチベット人ではなく漢族がやっている。地図の版木はすでに失われているのだろう。古いものは外側の建物だけで、中身は人から儀式まですべて漢族のものに入れ替わってしまった。
歴史を研究するものが記録しておかないと、かつての五台山の姿も忘れられてしまう。今度こそこれを何らかの形で紹介なり論文化なりしないといけないと切に思ったのであったった。
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