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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2015/07/22(水)   CATEGORY: 未分類
教科書内のチベット関連記事の変化
 自分、教育学部で教鞭をとっているため、そこいらに高校の歴史の教科書やら用語集がころがっている。で、先週、「そういえば、2013年の新学習指導要領にのっとって、ゆとり教育が若干緩和されたんだよな。チベットに関する記事はどうなったかな」と、山川出版社の世界史Bと世界史用語集を手にとってみた。
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 この二冊は言わずと知れた受験生必携の教科書と参考書である。

 で、めくってみてびっくり。2008年のあの北京オリンピックの年のチベット蜂起、翌年のウイグル蜂起のような、ついこないだの事件がのっている。それに、20世紀初頭の中華民国の成立の部分では、中華民国が、各民族の統合に成功していなかったことも明記している。

 以下メモもかねて、山川出版社と東京書籍のチベットの近現代史関連の項目を抜き書き対照させる。 
 
●山川出版社 世界史B「辛亥革命」の項

中華民国は、清朝の領有していた漢・滿・モンゴル・チベット・ウイグルなどの諸民族が居住する地域をその領土としたが、辛亥革命を機に周辺部では独立に向かう動きがおこり、1911年には外モンゴルが独立を宣言し、13年にはチベットでダライラマ13世が独立を主張する布告をだした。・・・しかし、チベット・新疆・内モンゴルなどの地域では、住民の民族運動、外国の干渉、および漢人軍閥の割拠などの動きが錯綜し、中華民国への統合は強固なものとはならなかった(太字の部分が新しく付け加わっている)
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▲東京書籍 世界史B「辛亥革命と中華民国の成立」の項

中華民国は清の版図を継承した。清末の光緒新政から中華民国の時期にかけては、かつての藩部が国土の辺境として再定義され、また、従来は漢族と上下関係にあったわけではないモンゴルやチベットの人々が、漢族主導の近代国家建設のもとに位置づけられる少数民族とみなされていくことにもつながった。そのため外モンゴル(ハルハ)では清末から自立・独立路線が強まり、チベットでも自立の傾向が強まった


▲山川出版社 世界史B「アジア社会主義国家の変容」の項
他方、中国国内のチベット自治区や新疆ウイグル自治区では、経済発展につれて漢族の流入が増加した結果、民族対立が激化し、チベットでは2008年、新疆では09年に暴動が発生した。

▲東京書籍 「中国の台頭と新興国」
対外政策では中国は主権・安全・発展を国益の根幹とし、・・・・・チベットやウイグルなどの民族運動をおさえ、台湾との統一を目指している。

 ちなみに、古代チベットやモンゴル帝国、清帝国におけるチベット仏教についての言及は旧教科書とほぼ同じで削られていない。参考までに清朝とチベット仏教の項目をあげるとこんなかんじ。

●山川出版社 世界史B「清朝支配の拡大」の項

清朝はその広大な領土すべてを直接統治したわけではない。直轄領とされたのは、中国内地・東北地方・台湾であり、モンゴル・青海・チベット・新疆は藩部として理藩院に統轄された。モンゴルではモンゴル王侯が、チベットでは黄帽派チベット仏教の指導者ダライラマらが、新疆ではウイグル人有力者が現地の支配者として存続し、清朝の派遣する監督官とともにそれぞれの地方を支配した。清朝はこれら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉せず、とくにチベット仏教は手あつく保護して、モンゴル人やチベット人の支持を得ようとした。


私が高校の頃に使っていた世界史の教科書(帝国書院)をひっばりだして見てみると、チベット仏教は17世紀のモンゴルとの関係でちらっとダライラマがでてくる以外まったくなし。辛亥革命は漢族の視点のみで論じられており、ついでにいえばホーチーミンとかレーニンとかナセルの写真ばかりがめだち、当時の社会主義、第三世界マンセーの学会状況が見事に教科書にも反映している。

そいえば、若き日の私が山川の歴史散歩辞典の仕事をした時、世界史Bの教科書を記念にもらって、なにげにダライラマの項をひいてみたら、正確には覚えていないけど、「ツォンカパの弟子がダライラマ」とか明らかに間違った記述があったので、「あ、これいくらなんでもひどいのでなおしてね」といったのも懐かしい。

 当時、私は「教科書は、専門書でないのだから、学会の成果が反映するのはずっと先なんだろう。新聞なんかと同じできっと政治的な産物なんだろうな」と思っていた。しかし、今の山川の世界史Bの清朝とチベットの記述は、明らかにどこかの誰か(笑)が言い続けている「チベット仏教世界」の影響力を表現してくれている。事実がプロパガンダに勝利しはじめている。涙で前が見えません。

 この新しい教科書で育つ世代は、中国革命を賛美し、彼らが粉砕したさまざまな民族は、「解放」されたんだから感謝しているなんて教え込まれた世代よりも、もっと現実的に東アジア世界を見ることができるであろう。

  以下、メモかわりに、新旧の「世界史用語集」の項目ごとの比較をあげる。全時代を通じてチベットに関する項目は増えてはいても削られることはなく、とくに近現代の記述が充実していることをみてとれよう。斜線の左が新用語集の扱い点数。右が旧用語集の扱い点数。もともとの分母が新『世界史用語集』 2014年10月20日(1版1刷) 7冊中、旧『世界史用語集』 2013年1月31日(1版6刷) 11冊中と異なることに注意。

●唐と隣接諸国 (旧 東アジア文化圏の国々)
1. ソンツェン=ガムポ 6/9 (-649)
2. 吐番 7/11 (7世紀~9世紀)
3. ラサ 1/3
4. チベット文字 5/8
5. チベット仏教(ラマ教) 7/10

●清朝支配の拡大 (旧 清朝と東アジア)
6. 活仏 2/2
7. チベット仏教(ラマ教) 7/8
8. ダライラマ 6/9
9. ツォンカパ 5/6
10. 黄帽派 7/5
11. ラサ 5/3
12. ポタラ宮殿 6/3
13. パスパ 6/2 (1235-80)

●辛亥革命(旧 辛亥革命)
14. 外モンゴル独立宣言 6/なし (1911年12月)
15. チベット独立の布告 5/なし (1913年3月)
16. ダライ=ラマ13世 4/2 (1876-1933)

●中ソ対立と中国の動揺 (旧 動揺する中国)

17. チベット自治区準備委員会 1 (1956年発足)
18. チベット反乱 6/8 (1959年)
19. ダライラマ14世 5/4  (1935-)
20. チベット自治区  3/なし (1965年成立)
21. 新疆ウイグル自治区 3/なし (1955年成立)
22. 内モンゴル自治区 3/なし (1947年成立)

●アジア社会主義国家の変容(旧 アジア・アフリカ社会主義国の変動)

23. チベット、反中国運動 2/なし (2008年)
24. ウイグル、反中国運動 2/なし (2009年)
25. モンゴル、社会主義体制離脱 5/なし (1992年)
26. モンゴル国 3/なし (1992年成立)

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DATE: 2015/07/21(火)   CATEGORY: 未分類
テンジン・デレク・リンポチェ遷化
 テンジン・デレクリンポチェのご冥福をお祈りします。
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リンポチェは、ナクチュカの出身で、地域に僧院やベット人のための小学校をたてチベット人に愛されていた。しかし、それが当局のかんに障り2002年に身に覚えのない罪(爆弾テロ!)によって逮捕され同年12月に死刑判決を受けた。
 しかし国際的な批判が高まり、当局はリンポチェの刑期を終身刑、さらに20年に減刑した。国際社会のリンポチェ解放の働きかけはずっと行われていたが、なんと7月13日、テンジン・デレク・リンポチェの突然の訃報が発表された。 家族ですら面会を許された最期が2013年であり、遺体も返還されないことから、正確な死期も死因も不明である。当局はリンポチェが医者を自分から拒否してい死んだという。
 この当局の一方的な発表を聞いて、アパルトヘイトが盛んなりし頃、警察に連れて行かれた活動家スティーブ・ビコ(1946-77)が死んだ事件を思い出した。南ア政府はビコがハンガー・ストライキで死んだと発表したが、南アデイリーの編集長がビコの妻とともに遺体を検死したところ、全身、とくに頭部に殴られた傷があり、本当の死因は警察署内でのリンチであったことが明るみにでた。それを明らかにしたら、デイリーの編集長、白人だったけど相次ぐ脅迫をうけてイギリスに亡命した。
 こんなことを思い出すのも、中国当局が16日にリンポチェの遺体を火葬にして死因を明らかにしなかったことによる。ちなみに、リンポチェの作った貧しいチベット人のための小学校は今では養鶏場となり、移民の漢人が住みつき子育てをしている。

 先週末はリンポチェの死を悼み、中国政府に抗議する集会が世界中で行われた。

 英語が読める方はHuman Rights Watch, Student for Free Tibet, Amnestyなど人権団体のキーワードとTenzin Delekで検索してみてください。以下に英語が読めない方のために日本語で読めるサイトをはります。BBCは適当な拙訳です。

訃報をつたえるBBC
チベット僧テンジン・デレク・リンポチェが中国の監獄で獄中死 
 BBC 2015年7月13日

家族や人権団体によると、著名なチベット僧が13年の服役の後に獄中死した。
テンジン・デレク・リンポチェ(65)は国家分裂罪と2002年成都でおきた爆弾テロの容疑で20年の刑期に服していた。
テンジン・デレクは国策逮捕であるとして一貫して無実を主張していた。アメリカとEUと人権団体は当時リンポチェの刑期を批判し、即時解放を求めた。

自由チベット学生運動(Student for Free Tibet)によると、テンジン・デレク氏が収監されていた成都の南西にある警察署が、日曜日リンポチェの親族に彼の死を告げたという。インドに住むリンポチェの従兄弟ゲシェ・ニマはロイターに彼の死因は不明であると言っている。フリー・チベット人権団体によると、リンポチェの家族は遺体の返還を求めたが、看守によって拒否されたという。四川のDazhu地域の公安警察はテンジン・デレクの死をAP通信に対して認めたが、詳細を話すことは拒絶した。

リンポチェはもともと2002年に死刑判決をうけており、後に終身刑に減刑され、それから20年の刑期になっていた。テンジン・デレクとともに爆弾テロの容疑でつかまったロサン・トンドゥプはすでに2003年に死刑に処されている。

人権団体は中国をチベットの文化と表現の自由を抑圧し、亡命中のチベット仏教の精神的な指導者ダライラマを支持した僧を拘束していると糾弾している。しかし、中国政府はチベット経済は彼らの支配の下で飛躍的に発展し、チベット社会は十分に権限を与えられて自治を享受していると主張している。

1959年、反中国蜂起が失敗に終わった後、ダライラマ14世はチベットから逃れ、インドに亡命政権を樹立している。


チベットnowルンタ このサイトはこれまでの経緯が日本人の視点からまとめられている。

●リンポチェ解放をめぐる亡命社会の働きかけと挫折の繰り返しはダライラマ日本代表事務所のサイトによくまとまっている。以下の記事はみな←にリンク先あり。

• 2015/07/17英国政府が獄中で逝去したテンジン・デレク・リンポチェを哀悼
• 2015/07/17中国当局の発砲で負傷したチベット人の痛ましい画像
• 2015/07/17EUが獄中で亡くなったテンジン・デレク・リンポチェに哀悼の意を表明
• 2015/07/15中国の刑務所にて、テンジン・デレック・リンポチェ死去
• 2009/12/17中国に郡曲地区での行動に自制を促すよう、人権団体に要請
• 2009/12/12中国が郡曲地区における事態の封じ込めに向けて軍を増派
• 2007/07/31チベット人ら、テンジン・デレク・リンポチェ監禁に抗議し抑留される
• 2005/01/27トゥルク・テンジン・デレクの死刑判決が終身刑に減刑
• 2004/12/07速報! 米国上院 満場一致でトゥルク・テンジン・デレク決議を通過
• 2004/12/03ロンドン 徹夜のキャンドル行進  写真&追記
• 2004/12/02ダライ・ラマ トゥルク・テンジン・デレクの死刑赦免を中国に強く要求
• 2004/12/02カナダ政府 トゥルク・テンジン・デレクの処刑を止めるよう中国に求める
• 2004/12/02チベット青年会議 カトマンズでキャンドル行進
• 2004/12/01チベット問題を考える議員連盟 緊急プレスリリース
• 2004/12/01SFTイギリス支部&在英チベット人 ロンドンで徹夜のキャンドル行進
• 2004/11/30カナダ・バンクーバー 中国領事館前にチベット人&チベットサポーターが座り込み
• 2004/11/30トゥルク・テンジン・デレク解放を呼びかけるために ゲシェー・ロプサン・テンパ、スコットランド国会へ
• 2004/11/29トゥルク・テンジン・デレク問題 カナダ国会が声明
• 2004/11/27フランス共産党 死刑執行猶予中のチベット人僧侶の釈放を求める
• 2004/11/27チベット青年会議デリー支部メンバー 中国大使館前に突進
• 2004/11/25『デレクフィケーション』 2カ月間リレーハンガーストライキがダラムサラからスタート
• 2004/11/21【写真特集】フランスのチベット人&チベットサポーター トゥルク・テンジン・デレクの釈放へと立ち上がる
• 2004/11/20チベット青年会議地方部もハンガーストライキ決行  アナン国連事務総長に血判の署名状提出へ
• 2004/11/19ンガワン・サンドル 米国議会委員会で証言 トゥルク・テンジン・デレク釈放にアメリカ介入の必要性を主張
• 2004/11/18インドのセレブ チベット青年会議のハンガーストライキを応援
• 2004/11/18米国務省 トゥルク・テンジン・デレクの裁判に懸念を表明
• 2004/11/18イギリス 在英チベット人がトゥルク・テンジン・デレクの早期釈放を要求
• 2004/11/16フランス トゥルク・テンジン・デレクの釈放を求める
• 2004/11/12ドイツ トゥルク・テンジン・デレクのための平和行進「希望の壁」 中間地点に届く
• 2004/11/10チベット青年会議ハンガーストライキへ トゥルク・テンジン・デレクの死刑判決差し戻しを要求
• 2004/11/08モンパ族 トゥルク・テンジン・デレクの釈放を要求
• 2004/04/02イタリア国会、 トゥルク・テンジン・デレクの死刑執行ストップ要求を決議
• 2003/05/13危機にさらされているチベット人囚人たちの健康状態
• 2003/03/13中国、トゥルク・テンジン・デレク関連で次々と縁故者たちを逮捕
• 2003/02/27胡錦涛宛のロプサン・トントゥプ処刑を非難する書簡にアメリカ連邦議会の79名が署名
• 2003/02/05ロプサン・トントゥプの死刑執行に対する欧州連合(EU )の宣言
• 2003/01/31ロプサン・トントゥプ死刑関連:欧州議会が欧州連合に強く要請、第59回国連人権委員会で「中国に対する非難決議案」提出を!
• 2003/01/30 ロプサン・トントゥプ 拷問の痕跡
• 2003/01/29ロプサン・トントゥプ死刑 国連人権委員会委員長 中国に書簡
• 2003/01/29ロプサン・トントゥプ死刑 民主活動家 魏京生氏 中国を非難
• 2003/01/27ロプサン・トントゥプの死刑に対する各国の反応
• 2003/01/27チベット亡命政権緊急声明 チベット亡命政権は、ロプサン・トントゥプの死刑執行に深く遺憾の意を表し、トゥルク・テンジン・デレクが同じような目に遭わないよう要求する
• 2003/01/26トゥルク・テンジン・デレクの侍従ロプサン・トントゥプ 中国が死刑執行
• 2003/01/21トゥルク・テンジン・デレクの肉声入手 RFAが放送
• 2003/01/10拘留中のトゥルク・テンジン・デレクがハンガーストライキ
• 2002/12/19欧州議会可決 チベットの人権問題および中国により死刑判決を受けた二人のチベット人に関する決議案
• 2002/12/05中国、2人のチベット人に死刑判決
• 2002/08/03トゥルク・テンジン・デレク ダルツェンド(康定)で拘置



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DATE: 2015/07/05(日)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ80才のHBD点描
法王のお誕生日はチベット暦の6月5日、西暦では7月6日にお祝いすることが定例化している。今回は80才ということもあり、この期間、台北、ニューデリー、メキシコ、ブラジルなどで法王の生涯を提示する写真展が行われている。

6月21日にはインドにあるチベット亡命政府の拠点ダラムサラでチベット人たちによるバースデーパーティが開かれた。この日はチベット暦の誕生日の一日前にあたるかな。

 そして、6月28日には世界最大級の音楽祭、イギリスのグラストンベリー・フェスティバルにおいて、ダライラマのお誕生日がお祝いされた。これについてはCTAの記事を後にはります。
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 日本では7月4日に恒例のホテル・オークラでのレセプション(大使館の国王誕生日のような位置づけ)で盛会であった。ここでは来賓の方々の祝辞と、亡命政府謹製のHBDショート映像が流された。iPhoneの動画で一生懸命とっていたら、最期に亡命政府のサイトにあるので、みなでシェアしてね! みたいな表示がでてがっくり。帰ってネットで見てみるとYotubeに各国語に翻訳されてあがっていた。日本語のものはまだないので、とりあえず英語のものをつないでおく。



平岡先生によると、80才となる今年、法王の長寿儀礼はチベット僧院の至る所で行われており、どの僧院もできたら法王に臨席してもらいたがっている。そして、南インドのフンスールのギュメ大僧院では、12月の8日から10日まで法王をお迎えしてテンシュク(長寿儀礼)を行うそうである。あのギュメの最上階にあった法王ルームのランニングマシーンが、三年ぶりかに埃をはらわれるのかと思うと喜ばしい限りである。

グラストンベリーフェスティバルでのダライラマ猊下 2015年6月29日(CTA)

ダライラマ猊下ののったヘリコプターがロンドンからグラストンベリーのピルトン村の近郊の高地に着陸した時は雨模様であった。猊下はフェスティバルの創設者であり、開催地Worthy Farmの地主でもあるマイケル・イーヴィス、リズ夫妻に出迎えられた。マイケルもダライラマ猊下も今年80才である。フェスティバルの責任者であるロバート・リチャードが猊下を車にのせて、フェスティバルのメイン・ステージ---ピラミッド型のステージを含む---とキャンプ・サイトを見渡すことができる見晴らし台に先導した。今年のフェスティバルには20,3000人が参加した。

猊下一行は会場中心部をぬけて、キングス・メドウまで車でいった。そこには近代にはいって作られたストーン・サークルがあり、それらは今はチベットの仏塔のようにデコられていた。BBCのアラン・イェントフはダライラマとそこでおちあい、木のステージにまでつれていき5000人の聴衆の前で、猊下を紹介した。

 猊下はこう口火を切った。

「兄弟姉妹達よ、みながこのフェスティバル楽しんでいることをここに来るまでに目にしてきた。みんなが喜びに満ちあふれていた。このフェスティバルに招かれて非常に幸せである。私がいつもいっているように、人生の目的は幸せになることだ。明日がどうなるのか誰にも分からない。しかし私たちは希望の中に生きている。希望がなければ私たちの人生は方向を失ってしまう。今ここにいる私たちと同様な70億の人類がすべて幸福になる権利をもっている。あなたたちがここで楽しんでいる間にも、シリア、イラク、ナイジェリアのような世界の他の地域では人々は互いに殺し合っている。だから、我々はすべてがみな兄弟姉妹である、我々は人類という一つの家族の一員であるというより大きな意識をもつことを推進する必要がある。」

 猊下は過去にイギリスの人々が孤立に甘んじ、後には国益によって支配された帝国主義の時代に乗り出したことに触れた。

「しかし今は、私たちはグローバル化した世界に住んでいる。われわれはグローバル経済の中に存在している。地球規模の気候変動は我々すべてに影響する。だから、我々は全人類の幸福を考えなければならない。自然は、世界を守るための道を模索せねばならないことを警告している。」

「我々が直面しているものはすべて我々が創り出したものだ。その中でも最低のものは宗教の名の下で起きている殺し合いだ。なぜこんなことがおきるのか? 人々が道徳的な原則を欠いているからだ。我々はみな人間として同じであるとの感覚を無視しているのだ。」

「他人もあなたと同じ人間だ。わたしだって落ち込むこともあるし、あなたたちと同じように人生を愛している。実は全ての人間は自分の人生を愛し、もみなが幸せな生活おくる権利があるのだ。しかし、我々は自分で問題を作ってしまいがちだ。我々がなすべき事は、より大きな人類愛を育むことである。殺人、詐欺、搾取のような問題は人が近視眼になる時のみに生じることだ。我々の教育システムは物質的な豊かさをえることこそが幸せと教え込んでいる。我々はこれを変えて、より長期的な視野をもち、心を陶冶すること、世俗的な倫理の重要性を教えなければならない。そうすることにより、素朴で暖かい心をもった本当の意味での友愛が生まれるのだ。このような基礎の下に、我々は世界を武装解除し、貧富の格差を解消するためにお金を使うことができるのだ。」

「私の生きている間にその変化を見ることは期待していない。しかしあなたがた若い人々、21世紀に属する人々は今から努力をすることができる。21世紀後半はより幸福でより平和な時代となるだろう。今いったことを真面目に考えてなさい。これが私が生涯を捧げてきたことだ。私がそうしてきたように、仏教僧は宗教的な調和を推進し、チベット人はチベットの言語と文化を守るように献身してきた。チベット文化は平和と慈悲によって特徴付けられ、これによってチベット文化が保存されるにふさわしいものとなっている。

アラン・ヤントフは聴衆からの質問として、「猊下がユーモアにあふれている秘密は?」と問うた。すると、
猊下「困難に直面すると、私はシャーンティデーヴァ(八世紀のインドの僧)のアドバイスを採用することにしている。それは『あなたの直面している困難についてよく考えなさい。もしそれを乗り越えることができるのなら、心配する必要はなにもない。あなたは努力すればいいだけだ。もし乗り越えることができないのなら、心配しても無駄である』。これは私が実践している非常に実用的なアドバイスである。あとの秘密は九時間睡眠かな。」

エントフ「いつ起床されるのですか」

ダライラマ「午前三時だ。わたしは約五時間瞑想する。おもに分析的な瞑想だ(観)。私とは、世界とは、縁起とはというテーマについて瞑想する。ジハードの本当の意味は他者を害することではない。自分の間違った感情と闘うことだ。毎日、私は自分と闘っている。誰かに対して怒りを感じたり、魅力を感じたりすることはいずれも誇張された感情だ。アメリカの精神科医が私にこういった。『わたしたちの感情は90%は自分の願望の反映だ』」

ヤントフ「猊下は宗教よりも基本的な人間の性質に信頼をおいているのですか」

ダライラマ「社会はわたしたちの幸福な未来の基礎だ。自分たちのためになんやかや考えるよりも、他人のためを考えた方がいい。幸せな社会では友情こそが重要である。友情は信頼を基礎にしている。そして信用を築くに際しては、国連や政府などをあてにすることはできない。信用を築くことは、我々が個人として行うことなのだ。」

(中略)

ピラミッド・ステージにつくと、ロバート・リチャードが猊下にフェスティバルの収益はウォーターエイド、オックスフォード飢餓救済委員会、グリーンピースなどのチャリティにまわることを説明した。

 16年間にわたりチベット問題の支援を行ってきたパティ・スミスは楽屋で猊下と会い、チベットが蜂起しダライラマが亡命した、1959年にパティは12才の少女だったこと、猊下の安全と幸福こそが一番の願いであることを伝えた。パティはステージにでると、そのすぐあとに猊下もそれを聞くためにやってきた。

 パティは歌の合間に、60,000人の聴衆に猊下の降臨をアナウンスし、みなに歓迎と80才の誕生日のお祝いをするために歌うように提案した。

パティは猊下のために詩を読み、万雷の拍手の中、法王をステージにあげた。群衆はハッピバースデー!を歌い、果物とローソクでかざられた豪華なケーキがプレゼントされた。猊下は次のようにスピーチした。

「兄弟姉妹たちよ。私はこんなにたくさんの人々が暖かい感情を表してくれてとても感謝している。毎日私は体と言葉と心を通じて他者の利益になるようにしている。あなた方が私のこのような暖かい感情を示してくれる時、私の感情も強化される。

私はここにいるミュージシャンをみて、白髪ではあるけれども、あなたの声も動きも非常に若いと思った。それによって私はかえって励まされたよ。わたしは80才になったけど、あなたのように活動的になるだろう。

私たちは同じ人間だ。みな幸せな生活をのぞんでいる。私たちは毎日を新しい日、誕生日だと思う事ができる。私たちが目覚めたときに、こう思う事もできる。私たちは幸福でなければならない。わたしたちは他者に対して暖かい感情を持たねばならない。これによって、自信と正直さと透明性が育まれる。そして、それらは私たちの信用につながっていく。信用というのは友情の基礎だ。私たちは社会的な動物で、友達を必要としている。これがあなたたちと共有したい幸せの根源なのだ。ありがとう。」

 大きな拍手がわきおこった。パティ・スミスはふたたび歌いはじめ、猊下はステージを離れ、ヘリポートに戻った。(後略)
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