マンネルヘイムとダライラマ13世
今、マンネルヘイム(1867-1951とダライラマ13世の1908年の五台山での会見について調べている。世界史の教科書で引いても彼はのっていないので簡単に解説するとこんな感じ。
マンネルヘイムは若い頃はロシア軍人をやっておりました。日露戦争にも従軍していて、戦は負けたけどなかなかがんばったので出世した。しかし、ロマノフ王朝があえなく革命でなくなったため、祖国フィンランドへ帰還。独立をめぐる内戦をかちぬき、お向かいのバルト三国がソ連に売り飛ばされていく中、ソ連からフィンランドを守り抜いた(しかもマンネルヘイム線という謎の防御線で 笑)。そのため彼はフィンランドの英雄として国民から愛され、フィンランドでもっとも有名な人と言われている。この人はユーゴスラビアのチトーとともに世界史で教えないとあかん人です。
このマンネルヘイムは実はロシア軍人時代、1906-08年まで中央アジアから北京(北平)までつっきって、極東の情勢をスパイしていた。その途上、イギリス軍に追われてチベットから逃亡中のダライラマ13世と五台山で会見。その時の記録はAcross the Asiaにあるので、以下、そのハイライトをエリック・エンノ・タムの要約(ここにつないでます)から訳出しました。
ダライラマへの死を招くが、実用的な贈り物
グスタフ・マンネルヘイム男爵は1908年7月の日記にこう書いた。
「中国当局はダライラマをしっかり監視しているようにみえる」大尉マンネルヘイムはロシア皇帝の命をうけて中国における秘密情報収集にあたっており、丁度五台山(中国における仏教徒の四聖山の中でも最も聖なる山)に到着した。彼は五台山を「仏教徒のローマ教皇、ダライラマの牢獄とはいわないが、現在のすみかだ」と書いた。

ワンという名の中国の軍人はマンネルヘイムに「軍人が警戒線をはって北東山西県へと向かってくるものを防いでいる」といった。ダライラマが逃げようとするなら、「必要とあらば、軍隊によって阻まれるだろう」しかし、マンネルヘイムは五台山を歩き回りながら、非常線はないことに気づいた。「しかし、ワンが私の一挙手一投足を非常な感心をはらって監視していることに気づかざるを得なかった」
ワンはマンネルヘイムに、「ダライラマ13世と謁見をする間には自分の通訳をつれていけ」といった。しかし、チベットの王侯は秘かにマンネルヘイムにこう言った「ワンは歓迎されていない」。チベット人はワンをスパイとみなして軽蔑しており、ワンやその軍隊が寺の近くにいることを禁じていた。
五台山はダライラマにとって牢獄というよりは司令塔であった。1908年の春に五台山につくや、ダライラマは北京の公使館に使いを送り、大使たちを招待した。駐中アメリカ大使ウィリアム・ロックヒルが最初の招待客だった。彼は急いでウオーキング・シューズをはき、五台山に向けて徒歩で出発した。北京から五日のトレッキングだった。
ロックヒルは1890年代に内陸アジアを探検した学者にして外交官であった。彼はチベット語をしゃべることもできた。ロックヒルはマンネルヘイムが五台山に到着する僅か一日前に五台山を離れた。
ロックヒルはセオドア・ルーズベルト大統領に「ダライラマは疑いもなく知性の人であり、偏見のない心を持ち、非常に、愛想が良い、優しい、思慮深い主人で、威厳のある人だ。」とこう報告した。ダライラマはロックヒルに、中国との闘争について語り、「チベットが遠地にあるが故に外国の友人がいない」と語った。それに対しロックヒルは「あなたは間違っている。チベット人が栄えて幸せであることを願うあなたたちに好意をよせる外国の人はたくさんいる」と請け合った。
1908年の夏、ダライラマは大使たちの行列を接待した。それは北京の公使館からきたドイツ人の医師、クリストファー・アーヴィングという名のイギリスの探検家、植民地省のイギリス人外交官RF ジョンソン、フランス軍の少佐で子爵のアンリ・オロネであった。ダライラマは1904年のイギリス軍によるラサ侵攻で生じたイギリス・チベット関係のほころびを修復し、自らの国際的な立場を増強することを希望していた。神秘のヴェールにつつまれた仏教のローマ教皇とのはじめての謁見は、みなにとって非常に楽しみなものであった。
マンネルヘイムは五台山到着の二日目、大院寺にあるマンネルヘイムの部屋に使いが駆け込んできて、「ダライラマがあなたを接待する準備ができている」と身振りで伝えた。マンネルヘイムは入念に支度した。ひげをそり、服を着替えている間、別の急ぎの使者が「ダライラマが待ちわびている」と告げにきた。「私も同程度にイラチだが、これ以上早くは着替えられない」と彼は書いている。二~三分後、チベットの王侯が現れ、「お前は教皇猊下をお待たせすることによって何を意図しているのか」と尋ねた。急いでマンネルヘイム男爵と王侯はダライラマのいる菩薩頂に向かう急な階段を登った。
正装したワンは中国人の衛兵とともに頂上で待っていた。中国人はマンネルヘイムの訪問について懸念していた。モンゴルを中国から分裂させ、ロシアの属国にしようとはかった、ロシア人の軍人を、中国当局は二人逮捕したばかりだったのだ。ダライラマがフレー(今のウランバートル)に滞在していた間、様々なちゃんねるを通じてロシア皇帝にメッセージを送っていた。ダライラマ猊下はロシア人情報将校に「チベットとモンゴルは完全に中国から別れて独立した同盟国家を形成すべきだ。この計画はロシアの保護と支援とともに、無血で完遂する」と語っていた。「もしロシア人が支援しないのなら、ダライラマは以前の敵イギリスに救いを求める」と主張した。ダライラマを訪問した後、マンネルヘイムは実は内モンゴルを縦断し、モンゴル人たちの不穏な空気を肌で感じた。
マンネルヘイムがチベットの教皇と謁見する際にワンに「つきそわなくていい」というと、ワンは敵意をほとんど隠そうとしなかった。この中国人の軍人はダライラマの助手二人と言い争った。マンネルヘイム男爵が小さな応接室に入るとき、彼はワンが自分の後をついて入ろうとして遮られたのを見た。
ダライラマは小さな部屋の後ろ壁にそっておかれた台の上におかれた金細工の施された肘掛け椅子に座っていた。ひげを生やした白髪交じりの二人の年配のチベット人が背後にたっていた。ダライラマは薄い青の裏地のついた"皇帝色黄色"のフロックと伝統的な赤の外套を着ていた。33才の仏教徒の教皇は剃髪し、口ひげを生やし、日に焼けた顔をしていた。目は大きく歯は輝いていた。マンネルヘイムは教皇の顔にうっすらと天然痘のあととみられるあばたがあるのに気づいた。教皇は少し神経質で、それを隠そうとしているようだった。それ以外はマンネルヘイムは「教皇は肉体的・精神的な能力を完全に備えた陽気な男だ」と思った。
マンネルヘイムが深いお辞儀をすると、ダライラマはかるくそれに頷いて答えた。絹のスカーフ(カター)を交換した。ダライラマ教皇猊下はマンネルヘイムの国籍、年、旅などの軽い話しから始めた。そして一呼吸おくと、こわばった表情で「ツァーリは密書を送ってきてはいないか」と訪ねた。教皇は私の返事を通訳が翻訳するのを明らかに興味をもって待っていた。マンネルヘイムが教皇に「出発前に、個人的にツァーリニコライ二世と話す機会は持てませんでした」と告げると、ダライラマは身振りで美しい白い絹のスカーフとチベット語の書簡をもってくるようにといった。それはニコライ二世への個人的な贈り物であった。
ダライラマはマンネルヘイムに「私はモンゴルと中国の旅を楽しんだ。しかし、心はチベットにある」といった。多くのチベット人が教皇にラサに戻るようにと促していた。彼の官僚は毎月2000人の巡礼がダライラマを訪問したと主張したが、マンネルヘイムは「疑いもなく誇張である」と考えた。チベットの教皇は、ダライラマを北京にこさせて叩頭させようとする慈禧皇太后の決着の場にひきだされつつあった。マンネルヘイムは「ダライラマは中国政府が望むような役をひきうけるとは思えない男のようだ。教皇は彼の置かれている逆境を煙にまく機会をまっているようであった」と書いている。策略かのチベットの教皇は何度も旅を遅延させてきたので、北京ではダライラマのことを遅れ(ディレイ)ラマというダジャレがはやっていた。
マンネルヘイムはダライラマにチベットの中国との戦いに対するロシアの同情を伝えて励ました。ロシアの問題は終わった。男爵はダライラマにこう請け合った。「ロシア軍は前より強くなっています。いまや全てのロシア人が猊下の歩みを大いなる関心をもって見つめています。」ダライラマは私の丁寧な言葉に耳を傾け、満足げにしていた。
ダライラマは二度、護衛官にワンが彼らの会話を立ち聞きしていないかを チェックさせた。ダライラマにとって危険な時代であった。ラサに戻ればすぐに自分の命が危なくなることを知っていた。中国人はチベットに対するしめつけを強化しており、ラマ達は暗殺され続け、僧院は掠奪され、チベット人は放牧地から追い出されていた。
北京はダライラマをよるべない信者たちをなだめ、中華帝国へのチベットの併合を和らげることのできる忠実な臣下にしておきたかった。しかし、ダライラマは素直ではなかった。彼は北京を九月に訪れ、すぐに清廷と喧嘩し、清廷はダライラマに誠順賛化という誠に屈辱的な称号を授けるという詔勅をだした。官報ではダライラマを「傲慢で無知な男」と酷評した。チベットではダライラマは暗殺されたという噂が広まった。様々な改革に怒って、ラマたちは中国にたいする聖戦を呼び掛けた。1908年の終わり、反乱が起き、中国軍は敗退した。ダライラマは結果として1909年にラサに戻り、イギリスとあらゆるヨーロッパ諸国に北京のチベットに対する野望を攻撃する電信を送った。
1910年2月中国軍がラサを侵略した。ダライラマはインドに逃げた。中国皇帝の勅書は猊下を「専制的でチベット人ももてあます、不愉快で、非宗教的で、度し難い、放蕩家だ」と非難した。清朝の崩壊後、猊下は1913,年にチベットに戻り、独立を宣言した。彼は1933年に亡くなった。
マンネルヘイム男爵は〔五台山でダライラマと別れる時、〕もはや誰の目にも明かな眼前にある危機を認識しつつ、ダライラマに実用的ではあるが異例の贈り物、すなわちブローニングの回転式銃を送っていた。男爵は「二年に及ぶ旅の後では価値るものはもうこれしか残っていないので」と説明をした。マンネルヘイムが猊下にいかにして七つの弾をすばやく銃に装填するかを実演してみせると、ダライラマは「歯を見せて」笑った。ダライラマはその実演を楽しんでいた。「時局がこうだから、たとえ彼のような聖者であっても、このリボルバーはマニ車よりは時には非常に役立つだろう。」とマンネルヘイムは記している。
文中で、アメリカ大使ロックヒルやフィンランド人のマンネルヘイムはダライラマを好意的に記しているのに、中国があいもかわらず、根拠のない罵倒を投げつけているのが、何かもう百年前から何も変わっていない感じで脱力いたします。人民解放軍が入る前のチベットに入った欧米人はだいたい、ダライラマやチベット文化に対してリスペクトをしているのに、同じように入った中国人や日本人の大半は後進的で迷妄みたいな罵声を投げつけがちなのは、やはりアジアって異文化を理解し消化し評価する能力が低いからであろう。
予断であるが、マンネルヘイムの名言はフィンランド同様、隣に問題のある隣人を抱えているチベットにも日本にもいろいろ示唆的である。以下に引用するけど、別に他意はないですからね、今は時代も違うし(笑)。
「かつて我々は自らの手で独立を果たし、自由な未来を守ると誓った。自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」
マンネルヘイムは若い頃はロシア軍人をやっておりました。日露戦争にも従軍していて、戦は負けたけどなかなかがんばったので出世した。しかし、ロマノフ王朝があえなく革命でなくなったため、祖国フィンランドへ帰還。独立をめぐる内戦をかちぬき、お向かいのバルト三国がソ連に売り飛ばされていく中、ソ連からフィンランドを守り抜いた(しかもマンネルヘイム線という謎の防御線で 笑)。そのため彼はフィンランドの英雄として国民から愛され、フィンランドでもっとも有名な人と言われている。この人はユーゴスラビアのチトーとともに世界史で教えないとあかん人です。
このマンネルヘイムは実はロシア軍人時代、1906-08年まで中央アジアから北京(北平)までつっきって、極東の情勢をスパイしていた。その途上、イギリス軍に追われてチベットから逃亡中のダライラマ13世と五台山で会見。その時の記録はAcross the Asiaにあるので、以下、そのハイライトをエリック・エンノ・タムの要約(ここにつないでます)から訳出しました。
ダライラマへの死を招くが、実用的な贈り物
グスタフ・マンネルヘイム男爵は1908年7月の日記にこう書いた。
「中国当局はダライラマをしっかり監視しているようにみえる」大尉マンネルヘイムはロシア皇帝の命をうけて中国における秘密情報収集にあたっており、丁度五台山(中国における仏教徒の四聖山の中でも最も聖なる山)に到着した。彼は五台山を「仏教徒のローマ教皇、ダライラマの牢獄とはいわないが、現在のすみかだ」と書いた。

ワンという名の中国の軍人はマンネルヘイムに「軍人が警戒線をはって北東山西県へと向かってくるものを防いでいる」といった。ダライラマが逃げようとするなら、「必要とあらば、軍隊によって阻まれるだろう」しかし、マンネルヘイムは五台山を歩き回りながら、非常線はないことに気づいた。「しかし、ワンが私の一挙手一投足を非常な感心をはらって監視していることに気づかざるを得なかった」
ワンはマンネルヘイムに、「ダライラマ13世と謁見をする間には自分の通訳をつれていけ」といった。しかし、チベットの王侯は秘かにマンネルヘイムにこう言った「ワンは歓迎されていない」。チベット人はワンをスパイとみなして軽蔑しており、ワンやその軍隊が寺の近くにいることを禁じていた。
五台山はダライラマにとって牢獄というよりは司令塔であった。1908年の春に五台山につくや、ダライラマは北京の公使館に使いを送り、大使たちを招待した。駐中アメリカ大使ウィリアム・ロックヒルが最初の招待客だった。彼は急いでウオーキング・シューズをはき、五台山に向けて徒歩で出発した。北京から五日のトレッキングだった。
ロックヒルは1890年代に内陸アジアを探検した学者にして外交官であった。彼はチベット語をしゃべることもできた。ロックヒルはマンネルヘイムが五台山に到着する僅か一日前に五台山を離れた。
ロックヒルはセオドア・ルーズベルト大統領に「ダライラマは疑いもなく知性の人であり、偏見のない心を持ち、非常に、愛想が良い、優しい、思慮深い主人で、威厳のある人だ。」とこう報告した。ダライラマはロックヒルに、中国との闘争について語り、「チベットが遠地にあるが故に外国の友人がいない」と語った。それに対しロックヒルは「あなたは間違っている。チベット人が栄えて幸せであることを願うあなたたちに好意をよせる外国の人はたくさんいる」と請け合った。
1908年の夏、ダライラマは大使たちの行列を接待した。それは北京の公使館からきたドイツ人の医師、クリストファー・アーヴィングという名のイギリスの探検家、植民地省のイギリス人外交官RF ジョンソン、フランス軍の少佐で子爵のアンリ・オロネであった。ダライラマは1904年のイギリス軍によるラサ侵攻で生じたイギリス・チベット関係のほころびを修復し、自らの国際的な立場を増強することを希望していた。神秘のヴェールにつつまれた仏教のローマ教皇とのはじめての謁見は、みなにとって非常に楽しみなものであった。
マンネルヘイムは五台山到着の二日目、大院寺にあるマンネルヘイムの部屋に使いが駆け込んできて、「ダライラマがあなたを接待する準備ができている」と身振りで伝えた。マンネルヘイムは入念に支度した。ひげをそり、服を着替えている間、別の急ぎの使者が「ダライラマが待ちわびている」と告げにきた。「私も同程度にイラチだが、これ以上早くは着替えられない」と彼は書いている。二~三分後、チベットの王侯が現れ、「お前は教皇猊下をお待たせすることによって何を意図しているのか」と尋ねた。急いでマンネルヘイム男爵と王侯はダライラマのいる菩薩頂に向かう急な階段を登った。
正装したワンは中国人の衛兵とともに頂上で待っていた。中国人はマンネルヘイムの訪問について懸念していた。モンゴルを中国から分裂させ、ロシアの属国にしようとはかった、ロシア人の軍人を、中国当局は二人逮捕したばかりだったのだ。ダライラマがフレー(今のウランバートル)に滞在していた間、様々なちゃんねるを通じてロシア皇帝にメッセージを送っていた。ダライラマ猊下はロシア人情報将校に「チベットとモンゴルは完全に中国から別れて独立した同盟国家を形成すべきだ。この計画はロシアの保護と支援とともに、無血で完遂する」と語っていた。「もしロシア人が支援しないのなら、ダライラマは以前の敵イギリスに救いを求める」と主張した。ダライラマを訪問した後、マンネルヘイムは実は内モンゴルを縦断し、モンゴル人たちの不穏な空気を肌で感じた。
マンネルヘイムがチベットの教皇と謁見する際にワンに「つきそわなくていい」というと、ワンは敵意をほとんど隠そうとしなかった。この中国人の軍人はダライラマの助手二人と言い争った。マンネルヘイム男爵が小さな応接室に入るとき、彼はワンが自分の後をついて入ろうとして遮られたのを見た。
ダライラマは小さな部屋の後ろ壁にそっておかれた台の上におかれた金細工の施された肘掛け椅子に座っていた。ひげを生やした白髪交じりの二人の年配のチベット人が背後にたっていた。ダライラマは薄い青の裏地のついた"皇帝色黄色"のフロックと伝統的な赤の外套を着ていた。33才の仏教徒の教皇は剃髪し、口ひげを生やし、日に焼けた顔をしていた。目は大きく歯は輝いていた。マンネルヘイムは教皇の顔にうっすらと天然痘のあととみられるあばたがあるのに気づいた。教皇は少し神経質で、それを隠そうとしているようだった。それ以外はマンネルヘイムは「教皇は肉体的・精神的な能力を完全に備えた陽気な男だ」と思った。
マンネルヘイムが深いお辞儀をすると、ダライラマはかるくそれに頷いて答えた。絹のスカーフ(カター)を交換した。ダライラマ教皇猊下はマンネルヘイムの国籍、年、旅などの軽い話しから始めた。そして一呼吸おくと、こわばった表情で「ツァーリは密書を送ってきてはいないか」と訪ねた。教皇は私の返事を通訳が翻訳するのを明らかに興味をもって待っていた。マンネルヘイムが教皇に「出発前に、個人的にツァーリニコライ二世と話す機会は持てませんでした」と告げると、ダライラマは身振りで美しい白い絹のスカーフとチベット語の書簡をもってくるようにといった。それはニコライ二世への個人的な贈り物であった。
ダライラマはマンネルヘイムに「私はモンゴルと中国の旅を楽しんだ。しかし、心はチベットにある」といった。多くのチベット人が教皇にラサに戻るようにと促していた。彼の官僚は毎月2000人の巡礼がダライラマを訪問したと主張したが、マンネルヘイムは「疑いもなく誇張である」と考えた。チベットの教皇は、ダライラマを北京にこさせて叩頭させようとする慈禧皇太后の決着の場にひきだされつつあった。マンネルヘイムは「ダライラマは中国政府が望むような役をひきうけるとは思えない男のようだ。教皇は彼の置かれている逆境を煙にまく機会をまっているようであった」と書いている。策略かのチベットの教皇は何度も旅を遅延させてきたので、北京ではダライラマのことを遅れ(ディレイ)ラマというダジャレがはやっていた。
マンネルヘイムはダライラマにチベットの中国との戦いに対するロシアの同情を伝えて励ました。ロシアの問題は終わった。男爵はダライラマにこう請け合った。「ロシア軍は前より強くなっています。いまや全てのロシア人が猊下の歩みを大いなる関心をもって見つめています。」ダライラマは私の丁寧な言葉に耳を傾け、満足げにしていた。
ダライラマは二度、護衛官にワンが彼らの会話を立ち聞きしていないかを チェックさせた。ダライラマにとって危険な時代であった。ラサに戻ればすぐに自分の命が危なくなることを知っていた。中国人はチベットに対するしめつけを強化しており、ラマ達は暗殺され続け、僧院は掠奪され、チベット人は放牧地から追い出されていた。
北京はダライラマをよるべない信者たちをなだめ、中華帝国へのチベットの併合を和らげることのできる忠実な臣下にしておきたかった。しかし、ダライラマは素直ではなかった。彼は北京を九月に訪れ、すぐに清廷と喧嘩し、清廷はダライラマに誠順賛化という誠に屈辱的な称号を授けるという詔勅をだした。官報ではダライラマを「傲慢で無知な男」と酷評した。チベットではダライラマは暗殺されたという噂が広まった。様々な改革に怒って、ラマたちは中国にたいする聖戦を呼び掛けた。1908年の終わり、反乱が起き、中国軍は敗退した。ダライラマは結果として1909年にラサに戻り、イギリスとあらゆるヨーロッパ諸国に北京のチベットに対する野望を攻撃する電信を送った。
1910年2月中国軍がラサを侵略した。ダライラマはインドに逃げた。中国皇帝の勅書は猊下を「専制的でチベット人ももてあます、不愉快で、非宗教的で、度し難い、放蕩家だ」と非難した。清朝の崩壊後、猊下は1913,年にチベットに戻り、独立を宣言した。彼は1933年に亡くなった。
マンネルヘイム男爵は〔五台山でダライラマと別れる時、〕もはや誰の目にも明かな眼前にある危機を認識しつつ、ダライラマに実用的ではあるが異例の贈り物、すなわちブローニングの回転式銃を送っていた。男爵は「二年に及ぶ旅の後では価値るものはもうこれしか残っていないので」と説明をした。マンネルヘイムが猊下にいかにして七つの弾をすばやく銃に装填するかを実演してみせると、ダライラマは「歯を見せて」笑った。ダライラマはその実演を楽しんでいた。「時局がこうだから、たとえ彼のような聖者であっても、このリボルバーはマニ車よりは時には非常に役立つだろう。」とマンネルヘイムは記している。
文中で、アメリカ大使ロックヒルやフィンランド人のマンネルヘイムはダライラマを好意的に記しているのに、中国があいもかわらず、根拠のない罵倒を投げつけているのが、何かもう百年前から何も変わっていない感じで脱力いたします。人民解放軍が入る前のチベットに入った欧米人はだいたい、ダライラマやチベット文化に対してリスペクトをしているのに、同じように入った中国人や日本人の大半は後進的で迷妄みたいな罵声を投げつけがちなのは、やはりアジアって異文化を理解し消化し評価する能力が低いからであろう。
予断であるが、マンネルヘイムの名言はフィンランド同様、隣に問題のある隣人を抱えているチベットにも日本にもいろいろ示唆的である。以下に引用するけど、別に他意はないですからね、今は時代も違うし(笑)。
「かつて我々は自らの手で独立を果たし、自由な未来を守ると誓った。自分たちの国を自らの手で守ることの出来ない国の主張など、他国は認めはしない。我々は自分たちの手で未来を守らなければならないのだ」
富岡コレクションの近世の禅画
早稲田大学でミュージアム・ウイークやっているので、三年ゼミ生とともに学内の会津八一記念館を訪れた。ミュージアム・ウイークとはぶっちゃけ「みなさん学内の博物館を利用してください」強化月間である。記念館の内部には大隈重信侯に捧げた部屋とか、特別展の部屋とかいろいろあるが、我々が目指すのは「近世の禅画」展をやっている富岡重憲コレクション展示室である。
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富岡コレクションとは日本重化学工業の初代社長である富岡重憲氏のコレクショであり、かつては大田区山王の富岡美術館の所蔵品であった。しかし、どういう事情か分からないけど2004年にここが閉館し、コレクションと富岡美術館学芸課長である浅井京子先生がそっくりそのまま早稲田に移籍した。早稲田にきたのは富岡重憲氏のお孫さんが早稲田卒だったことによるご縁らしい。
浅井先生は現在早稲田大学會津八一記念博物館特任教授であり、禅画がご専門だというので、。今回ずうずうしい私が交渉してお話を聞かせていただけることになった。
浅井先生「富岡コレクションの中核をなすのは、近世の禅画と中国の磁器です。仙崖は出光美術館、白隠は永青文庫にまとまったコレクションがあるのは知られていますが、富岡コレクションにも白隠(1686-1769)と仙崖(1750-1837)が半々くらいあります。白隠については秋に展示をする予定なので、今回の展示品からは抜いてあります。一年に5回展示替えを行っていて、この展示が終わった後は、陶磁展を行います。私は今年で退職ですが、2004年から禅画を順に展示してきて、大体全部みせおわったかなと」
浅井先生 「本コレクションには早稲田の四天王の一人市島春城の印章コレクションがあります。市島春城は四天王の中でももっとも知名度が低いのですが、初代図書館長の立派な方です。彼の書簡を研究することでどの印章が誰の号なのかどこで用いられていたのかをかなり同定できました。」
私「早稲田の四天王って誰でしたっけ? 大隈重信は入りますよね?」
浅井先生、失笑。
私「あっそうか。四天王って仏様のガードマンだから、仏ははいりませんよね。じゃあ初代文学部長の坪内逍遙、小野梓、市島春城ときて、あと誰でしたっけ?」
浅井先生「高田早苗です。どうしても市島春城が一番知名度が低くなりますが、大隈銅像後ろにある大正天皇お手植えの月桂樹の碑文は市島春城の弟子がたてたものですよ」
学生「先生、あの○の形の絵は何ですか」
浅井先生「円相です。円相は始めもなければ終わりもない、完全なこと、を示しています。毎日○を描いていると最期にはコンパスで描いたような綺麗な円が描けるようになるんですよ。円相と達磨は禅画のテーマとして人気があるので、今回は複数作品を並べて展示し、同じ画題を人によってどう異なった表現をするのかをみてもらえるようにしました。」
私「この円をみて焼酎を思い浮かべた人は教養がないと思われるので、気をつけて」
展示されていた禅画の意味をざっぱに紹介。
●「達磨図」
南インドから海路中国にやってきて少林寺で壁に向かって三年座禅したことで有名な、中国の禅宗の祖。達磨はサンスクリット語でdharma(法)の音写だからインド人に見えるが、禅宗は中国にしかない仏教の流派であり、その教義もインド仏教と隔たっている。また、達磨さんがインドからきたことを裏付ける史料もないため、達磨さんが実在の人であるかどうかは分からない。しかし、少なくと禅宗の人々は自らの宗派の起源をインドに求めて、彼の肖像画を修行の一環としてよく描いた。
●「大燈国師が瓜を前に橋の下に寝ているの図」
花園天皇が大燈国師を宮中に召し出そうとして使いを送った。五条の橋の下にいるというのだが、橋の下にはたくさんの乞食がいてどれか国師だか分からない。そこで使いは国師が瓜がすきだというのを知っていたので「この瓜を足なしでとりにこい」といったら、乞食の一人が「じゃあ手なしでわたせ」と答えたので、この方こそ大燈国師だと分かった。
●「慈明引錐図」
慈明が夜も寝ずにひたすら座禅修行をしている時、眠気を払うために自らの膝に錐をつきたて、コックリしたらぶすっと刺さるようにした図。
●「香厳(きょうげん)撃竹図」
香厳が庭の掃除をしていて、帚が石を飛ばして竹にあたった、そのスコーンという音を聞いて覚りを開いたその瞬間。
●「寒山拾得図」
森鴎外や坪内逍遙の作品で取り上げられた寒山拾得である。鴎外の小説では、唐の時代天台国清寺にいたといわれる謎の二人組で、普賢(慈悲)と文殊(智慧)の化身とされている。寒山の詩は禅の世界ではよく愛読されている。。
禅は中国で発達した仏教の流派で、日本でも臨済宗、黄檗宗、曹洞宗などが中国から法統をついでいる。禅の覚りとは、座禅を続けるうちに何かのきっかけでうまれる気づきである。その覚った瞬間が水墨画の様々な画題となっているのだ。
ちなみに、チベット仏教の最大宗派のゲルク派はこれとまったく逆で、仏教思想を最低でも15年かけて習得して、その後その内容を密教によって徐々に意識に実現していくので、かなり禅とは対照的である。8世紀にチベットの初の大僧院サムエで、インド仏教の代表者と中国仏教の代表者がディベートして前者が勝ったことにより、インド仏教が優勢になったと言われているが、実際はチベット仏教のニンマ派などの行法は禅の影響があると言われている。
浅井先生「禅画はみなそれぞれが感じるままに見ればいいと思います。私は長い間、仙崖の禅画は70代の時に描いたものが一番素晴らしいと思っていましたが、60を超えてみると、80代になって描いたものが良いと思えるようなりました。みなさんは今20代ですから、20代にしかない感性を持っています。だからその感性で一番良いと思うものを選んでください。
作品の保護のために適温は20度です。この中はつねに20度に保たれていますが夏は寒すぎるので24度にしています。外は暑くてもここは涼しいので是非来館してください。」
私「それって涼みに来て下さいってことですよね。本来の鑑賞の仕方があてにされていない・・・。」
浅井先生のお話を聞いていると、いかに富岡コレクションを愛し知り尽くしいるかが伝わってくる。美術館の中で、このコレクションとともにすごし、それらを研究し展示することが先生の天職であったのだ。ヨーロッパでは名門美術館のキュレーターは大学の教授なみかそれ以上の肩書きになるのもむべなるかな。
富岡コレクションと浅井先生についてはここに読売オンラインの記事があります。
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富岡コレクションとは日本重化学工業の初代社長である富岡重憲氏のコレクショであり、かつては大田区山王の富岡美術館の所蔵品であった。しかし、どういう事情か分からないけど2004年にここが閉館し、コレクションと富岡美術館学芸課長である浅井京子先生がそっくりそのまま早稲田に移籍した。早稲田にきたのは富岡重憲氏のお孫さんが早稲田卒だったことによるご縁らしい。
浅井先生は現在早稲田大学會津八一記念博物館特任教授であり、禅画がご専門だというので、。今回ずうずうしい私が交渉してお話を聞かせていただけることになった。
浅井先生「富岡コレクションの中核をなすのは、近世の禅画と中国の磁器です。仙崖は出光美術館、白隠は永青文庫にまとまったコレクションがあるのは知られていますが、富岡コレクションにも白隠(1686-1769)と仙崖(1750-1837)が半々くらいあります。白隠については秋に展示をする予定なので、今回の展示品からは抜いてあります。一年に5回展示替えを行っていて、この展示が終わった後は、陶磁展を行います。私は今年で退職ですが、2004年から禅画を順に展示してきて、大体全部みせおわったかなと」
浅井先生 「本コレクションには早稲田の四天王の一人市島春城の印章コレクションがあります。市島春城は四天王の中でももっとも知名度が低いのですが、初代図書館長の立派な方です。彼の書簡を研究することでどの印章が誰の号なのかどこで用いられていたのかをかなり同定できました。」
私「早稲田の四天王って誰でしたっけ? 大隈重信は入りますよね?」
浅井先生、失笑。
私「あっそうか。四天王って仏様のガードマンだから、仏ははいりませんよね。じゃあ初代文学部長の坪内逍遙、小野梓、市島春城ときて、あと誰でしたっけ?」
浅井先生「高田早苗です。どうしても市島春城が一番知名度が低くなりますが、大隈銅像後ろにある大正天皇お手植えの月桂樹の碑文は市島春城の弟子がたてたものですよ」
学生「先生、あの○の形の絵は何ですか」
浅井先生「円相です。円相は始めもなければ終わりもない、完全なこと、を示しています。毎日○を描いていると最期にはコンパスで描いたような綺麗な円が描けるようになるんですよ。円相と達磨は禅画のテーマとして人気があるので、今回は複数作品を並べて展示し、同じ画題を人によってどう異なった表現をするのかをみてもらえるようにしました。」
私「この円をみて焼酎を思い浮かべた人は教養がないと思われるので、気をつけて」
展示されていた禅画の意味をざっぱに紹介。
●「達磨図」
南インドから海路中国にやってきて少林寺で壁に向かって三年座禅したことで有名な、中国の禅宗の祖。達磨はサンスクリット語でdharma(法)の音写だからインド人に見えるが、禅宗は中国にしかない仏教の流派であり、その教義もインド仏教と隔たっている。また、達磨さんがインドからきたことを裏付ける史料もないため、達磨さんが実在の人であるかどうかは分からない。しかし、少なくと禅宗の人々は自らの宗派の起源をインドに求めて、彼の肖像画を修行の一環としてよく描いた。
●「大燈国師が瓜を前に橋の下に寝ているの図」
花園天皇が大燈国師を宮中に召し出そうとして使いを送った。五条の橋の下にいるというのだが、橋の下にはたくさんの乞食がいてどれか国師だか分からない。そこで使いは国師が瓜がすきだというのを知っていたので「この瓜を足なしでとりにこい」といったら、乞食の一人が「じゃあ手なしでわたせ」と答えたので、この方こそ大燈国師だと分かった。
●「慈明引錐図」
慈明が夜も寝ずにひたすら座禅修行をしている時、眠気を払うために自らの膝に錐をつきたて、コックリしたらぶすっと刺さるようにした図。
●「香厳(きょうげん)撃竹図」
香厳が庭の掃除をしていて、帚が石を飛ばして竹にあたった、そのスコーンという音を聞いて覚りを開いたその瞬間。
●「寒山拾得図」
森鴎外や坪内逍遙の作品で取り上げられた寒山拾得である。鴎外の小説では、唐の時代天台国清寺にいたといわれる謎の二人組で、普賢(慈悲)と文殊(智慧)の化身とされている。寒山の詩は禅の世界ではよく愛読されている。。
禅は中国で発達した仏教の流派で、日本でも臨済宗、黄檗宗、曹洞宗などが中国から法統をついでいる。禅の覚りとは、座禅を続けるうちに何かのきっかけでうまれる気づきである。その覚った瞬間が水墨画の様々な画題となっているのだ。
ちなみに、チベット仏教の最大宗派のゲルク派はこれとまったく逆で、仏教思想を最低でも15年かけて習得して、その後その内容を密教によって徐々に意識に実現していくので、かなり禅とは対照的である。8世紀にチベットの初の大僧院サムエで、インド仏教の代表者と中国仏教の代表者がディベートして前者が勝ったことにより、インド仏教が優勢になったと言われているが、実際はチベット仏教のニンマ派などの行法は禅の影響があると言われている。
浅井先生「禅画はみなそれぞれが感じるままに見ればいいと思います。私は長い間、仙崖の禅画は70代の時に描いたものが一番素晴らしいと思っていましたが、60を超えてみると、80代になって描いたものが良いと思えるようなりました。みなさんは今20代ですから、20代にしかない感性を持っています。だからその感性で一番良いと思うものを選んでください。
作品の保護のために適温は20度です。この中はつねに20度に保たれていますが夏は寒すぎるので24度にしています。外は暑くてもここは涼しいので是非来館してください。」
私「それって涼みに来て下さいってことですよね。本来の鑑賞の仕方があてにされていない・・・。」
浅井先生のお話を聞いていると、いかに富岡コレクションを愛し知り尽くしいるかが伝わってくる。美術館の中で、このコレクションとともにすごし、それらを研究し展示することが先生の天職であったのだ。ヨーロッパでは名門美術館のキュレーターは大学の教授なみかそれ以上の肩書きになるのもむべなるかな。
富岡コレクションと浅井先生についてはここに読売オンラインの記事があります。
「バードマン」エチェコバルとフランスの鳥類学
今年の就活解禁が例年より遅いため四年生はみな不安そうである。去年までのスケジュールの方が、大学の授業に響かなかったのに、なぜ経済界も文部省もやることなすこと、学級崩壊の手助けばかりしてくれるのだろうか。過去の中国で科挙が隆盛すると学校教育がおろそかになり、学問が「試験にとおるための勉強」になり世の中がどんどん腐敗していったが、とにかく就活を突破することのみに学生生活を収斂していく学生を見ていると、なんか清朝の学政(省の校長先生)の気分になってくる。
私の見たところ三年生の優先順位はサークルor自分の趣味 > バイト > 学校 の順で、四年になると、就活>就活>就活。って、全部就活やん。しかし、四年生は「何か息苦しい」とか強い不安を示しているのを見ると、かわいそうになってきて、「私はゼンソクの時以外は息苦しくないわー」といって笑わせようと思ったが、すべった。
そんな中、ぜんぜんめでたくない私の誕生日がやってきた (誕生日がめでたいのは20まで)。まず、二日前の木曜日、院生のHちゃんとIくんふたりが仲良く教室の外で待っていてくれてMotta No.7のオカメインコカラーのハンカチを手渡してくれた。この二人はつきあいが長いので微妙に含み笑いをしている。次の時間には院生のIくんが、気を遣ってインコクリアファイルにインコ付箋をプレゼントしてくれる。Iくんは4月からのつきあいなのになぜインコ好きを知っているのだろう。

そして家には、あくび母様から写真のワインとアンヨのかわいい舶来のオカメインコぬいぐるみ(リアルでカワイイ)、Tさんからインコクリップが届いていた。みなさん、ありがとうございます。

そして金曜日は今就活でいっぱいいっぱいのはずの四年生たちが、お祝いしてくれた。ほんと良い子たちだ。私は育て方を間違っていなかった(て私が育てたんじゃない)。

で、当日はダンナと横浜のモントレーホテルの二階で海を見ながら、といいたいところだが、二階なので並木道しか見えないけど会席料理をいただく。そのあと象の鼻公園、赤煉瓦倉庫まで歩くと、良いお天気で湾内でドラゴンボートレースをやっている。平和である。
そして誕生日から何日か過ぎた頃、アマゾンから鳥図鑑が届いた。大学にいく直前だったので「ダンナのプレゼントかな」とよく見ないででかけたが、帰ってきてよく見るとHさんからの贈り物だった。そこで読み始めてただの鳥の図鑑ではないことに気づく。フランスの鳥類学の歴史や自然史博物館のなりたちが、バード・マンと呼ばれたエチェコバルの実際の書簡を引用しながら述べられている。さらに、鳥類学がどういう学問なのか、具体的には標本の作り方(しかし、これには正直ドンビキした)、フィールド、記録のとり方、自然保護、一般の啓蒙、国際会議などが分かるようになっている。フランスは嫌いだが(オイオイ)、こういう啓蒙書をみると日本は負けていると思わざるを得ない。

高校生のうちに私がこの本を読んでいたら鳥類学者をめざしていただろうな。もう少し若かったらな。去年北海道のNさんがヨウムの知能がべらぼーに高いことを証明したアイリーン・ペパーバーグ博士の『アレックスと私』も、面白かったが、この図鑑はもっと具体的に鳥類学の仕事がわかり、博物館の仕事が博物学の蒐集の時代から自然保護の時代へと変化していく歴史も手に取るように分かった。
海をこえ、国境をこえる鳥の世界は、腐った人間に啓示を与えてくれる存在として捉えられてきた。アッシジの聖フランチェスコは鳥を「翼をもった友人」といい、日本の鳥類学の祖山階芳麿殿下は鳥を「聖なるもの」と捉えていた。第二次世界大戦期にイギリスの首相をつとめたチャーチルもオウムを友人としていた。鳥の言葉を理解することができた「バードマン」たちは、そろって現在の文明がまじでヤバイことを警告している。
以下は、『フランスの美しい鳥の絵図鑑』から私が作った読書メモである。

●フランスの自然史博物館の歴史
王室の庭園の監督官であったビュフォン伯(1707-1788)は植物園を作り薬草を栽培し、自然史陳列室を通った。ビュフォンの死後の1793年、彼の遺産は国立自然史博物館へと名前を変えた。現在この地はパリ植物園となっており、そのど真ん中に鳥を手にして座るビュフォンの銅像がたつ。園の南側の通りは伯の名にちなんでビュフォン通(Buffon St)と名付けられ、フランスの鳥類学研究所がある。
●ロベール・ダニエル・エチェコパル(1905-1990)
この本の主人公。バスク人。法学博士を取得し公証人の研修中であったが、仕事で自然史博物館にいったことが運の尽きとなり、法学を捨てて1934年に鳥類学の道へ。わたり鳥に足輪(Ring)をつけて国境を越えたデータを集めるべく、「ヨーロッパ鳥の足輪協会」(EURING)をたちあげ、1963年に初回の会議が開催された。1967年にはイランとアフガニスタンにパリから陸路でかけて調査にいく。その後、この地域は戦乱に巻き込まれたため、この調査結果は貴重な資料となっている。てか、陸路でパリからアフガニスタンまでいくなんて、バーミヤンの大仏がタリバンにぶっとばされて、イスラム国が西アジア跋扈してる現在には考えられないルートである。以下、エチェコパルのご学友のバード・マンたちのブロフが続く。まず一番の親友のポール・バリュエルから。
●ポール・バリュエル(1901-1982)
フランスの芸術家。祖父はパリ15区の区長をしていたので、15区には彼と同名の祖父にちなんだポール・バリュエル通りがある(つまり彼にちなんでない 笑)。ポールはエンジニアとしてモンマルトルのケーブルカー敷設にかかわるくらい優秀だったたが、エチェコパル同様、そのキャリアをあっさりと捨て、1938年、国立自然史博物館の門を叩いた。彼は幼い頃から絵筆をとって自然を描いていたので、自分の書きためた絵を見せにきたのだ。ここで当時館長だったジャック・ベルリオーズとエチェコバルと出会い、やがて同博物館専属の鳥を描く画家となる。バリュエルは「万物は美を秘めているが、万人がそれを見ることができるわけでない」と鳥の美を見えるように描いていった。絵は独学であったためいかなる流派にも属さず、自然のもつありのままの細部表現を追求した。1953年大作『フランス鳥類図譜』の刊行とともに売れっ子になり、「小鳥の肖像画家」と言われるようになる(笑)。
●ジャック・ベルリオーズ(1891-1975)
フランス人。薬学博士。生涯にわたりハチドリを愛し、1949年、国立自然史博物館の所長になる。エチェコパルとバリュエルを暖かく見守った当時の所長。引退後は、1966年、鳥類保護連盟(1966)の副総裁になった。国際的な知名度をもち鳥に関するあらゆるクラブ、協会、団体の名誉会員である。
●フランソワ・ユウ(1905-1972)
フランス人。エチェコバルとともに12年にわたり北アフリカと中東をへめぐってこれらの地域の鳥についての研究書を刊行した。1967年に国立自然保護協会の会長に就任し、自然保護地区の設立に向けて働く。すでに半世紀前には、エチェコバルとユウは森林の減少、農業・農薬あらゆる汚染のもたらす害悪に警鐘を鳴らしていた。
●オリヴィエ・メシアン(1908-1992)
フランスの作曲家。鳥のなき声を音符にうつすため、パリの自然史博物館に通い、そこでエチェコバル、ユウ、バリュエルと知り合った。彼の作品の頂点を形成するのは、1983年に発表されたオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」。あの鳥や動物の会話を聞き取れたという、チベットでいったらミラレパみたいな能力のあったカトリックの修道士である。彼はこの作品の中で、鳥の世界と霊的なものを融合させた。この作品は鳥類学者にものすごく受けた(笑)。
●シドニー・ディロン・リプレー(1913-2001)
アメリカ人。もと法学を学んでいたが鳥類学に転向(エチェコバルといい、法学はそんなにつまらないのか? 笑)。歴代のアメリカ大統領に働きかけ、スミソニアンを含む八つの博物館と九つの研究所を設立。水鳥を専門とし、18世紀から19世紀の画家を愛し20世紀の画家は後援した。1977年に絶滅しつつあるクイナにささげSwan Song(白鳥の歌とは、「白鳥が死ぬ間際に出す叫び声」のこと。実際の白鳥は死に際でなくても鳴く)をだした。
●サリム・アリ博士(1896-1987)
インド人。南アジアの鳥類学の父。1950年頃、エチェコバルと知り合い、友人に。代表作は『インド及びパキスタンの鳥類大図鑑』(1964-1974)。サリム・アリの友人であった首相ネルーは娘のインディラに本書を送ったため、インディラが成長後、首相になった後、絶滅危惧種の鳥が住む地を保護した。
●山階芳麿(1900-1989)殿下
山階宮の第二皇子。1942年に自らの標本コレクションを公開し山階鳥類研究所を設立。1959年に日本で開催されたた国際鳥類学会議に出席してエチェコバルと殿下は交友関係を結ぶ。1989年に山階殿下が亡くなった時、エチェコバルは以下のような弔辞をよせた。
「今でも1959年に日本を初めて訪れた時のことを考えると、心が震えずにはいられません。日本の芸術に霊感を与え、ヨーロッパの芸術家たちにかくも影響をもたらした鳥たち。その鳥たちに出会う喜びは到底言い表すことはできません。・・・・私はもう一つの発見をしました。それは山階博士は鳥たちを聖なるものとして捉え、その生息地もまた聖なるものであり、保護を必要としている。そして我々の人生において鳥たちは貴重な存在である。と考えていたことです。我々はこの地球に共存している鳥たちの将来を思い、人口増加や消えつつある鳥について憂慮を共にしました。」
以上は私のシュミで歴史部分を紹介しただけで、他にも鳥類学の基礎が、非常にわかりやすく解説されている。さあ、みんな入学祝いに『フランスの美しい鳥の絵図鑑』を送ろう! 賢い子が育つぞ!
私の見たところ三年生の優先順位はサークルor自分の趣味 > バイト > 学校 の順で、四年になると、就活>就活>就活。って、全部就活やん。しかし、四年生は「何か息苦しい」とか強い不安を示しているのを見ると、かわいそうになってきて、「私はゼンソクの時以外は息苦しくないわー」といって笑わせようと思ったが、すべった。
そんな中、ぜんぜんめでたくない私の誕生日がやってきた (誕生日がめでたいのは20まで)。まず、二日前の木曜日、院生のHちゃんとIくんふたりが仲良く教室の外で待っていてくれてMotta No.7のオカメインコカラーのハンカチを手渡してくれた。この二人はつきあいが長いので微妙に含み笑いをしている。次の時間には院生のIくんが、気を遣ってインコクリアファイルにインコ付箋をプレゼントしてくれる。Iくんは4月からのつきあいなのになぜインコ好きを知っているのだろう。

そして家には、あくび母様から写真のワインとアンヨのかわいい舶来のオカメインコぬいぐるみ(リアルでカワイイ)、Tさんからインコクリップが届いていた。みなさん、ありがとうございます。

そして金曜日は今就活でいっぱいいっぱいのはずの四年生たちが、お祝いしてくれた。ほんと良い子たちだ。私は育て方を間違っていなかった(て私が育てたんじゃない)。

で、当日はダンナと横浜のモントレーホテルの二階で海を見ながら、といいたいところだが、二階なので並木道しか見えないけど会席料理をいただく。そのあと象の鼻公園、赤煉瓦倉庫まで歩くと、良いお天気で湾内でドラゴンボートレースをやっている。平和である。
そして誕生日から何日か過ぎた頃、アマゾンから鳥図鑑が届いた。大学にいく直前だったので「ダンナのプレゼントかな」とよく見ないででかけたが、帰ってきてよく見るとHさんからの贈り物だった。そこで読み始めてただの鳥の図鑑ではないことに気づく。フランスの鳥類学の歴史や自然史博物館のなりたちが、バード・マンと呼ばれたエチェコバルの実際の書簡を引用しながら述べられている。さらに、鳥類学がどういう学問なのか、具体的には標本の作り方(しかし、これには正直ドンビキした)、フィールド、記録のとり方、自然保護、一般の啓蒙、国際会議などが分かるようになっている。フランスは嫌いだが(オイオイ)、こういう啓蒙書をみると日本は負けていると思わざるを得ない。

高校生のうちに私がこの本を読んでいたら鳥類学者をめざしていただろうな。もう少し若かったらな。去年北海道のNさんがヨウムの知能がべらぼーに高いことを証明したアイリーン・ペパーバーグ博士の『アレックスと私』も、面白かったが、この図鑑はもっと具体的に鳥類学の仕事がわかり、博物館の仕事が博物学の蒐集の時代から自然保護の時代へと変化していく歴史も手に取るように分かった。
海をこえ、国境をこえる鳥の世界は、腐った人間に啓示を与えてくれる存在として捉えられてきた。アッシジの聖フランチェスコは鳥を「翼をもった友人」といい、日本の鳥類学の祖山階芳麿殿下は鳥を「聖なるもの」と捉えていた。第二次世界大戦期にイギリスの首相をつとめたチャーチルもオウムを友人としていた。鳥の言葉を理解することができた「バードマン」たちは、そろって現在の文明がまじでヤバイことを警告している。
以下は、『フランスの美しい鳥の絵図鑑』から私が作った読書メモである。

●フランスの自然史博物館の歴史
王室の庭園の監督官であったビュフォン伯(1707-1788)は植物園を作り薬草を栽培し、自然史陳列室を通った。ビュフォンの死後の1793年、彼の遺産は国立自然史博物館へと名前を変えた。現在この地はパリ植物園となっており、そのど真ん中に鳥を手にして座るビュフォンの銅像がたつ。園の南側の通りは伯の名にちなんでビュフォン通(Buffon St)と名付けられ、フランスの鳥類学研究所がある。
●ロベール・ダニエル・エチェコパル(1905-1990)
この本の主人公。バスク人。法学博士を取得し公証人の研修中であったが、仕事で自然史博物館にいったことが運の尽きとなり、法学を捨てて1934年に鳥類学の道へ。わたり鳥に足輪(Ring)をつけて国境を越えたデータを集めるべく、「ヨーロッパ鳥の足輪協会」(EURING)をたちあげ、1963年に初回の会議が開催された。1967年にはイランとアフガニスタンにパリから陸路でかけて調査にいく。その後、この地域は戦乱に巻き込まれたため、この調査結果は貴重な資料となっている。てか、陸路でパリからアフガニスタンまでいくなんて、バーミヤンの大仏がタリバンにぶっとばされて、イスラム国が西アジア跋扈してる現在には考えられないルートである。以下、エチェコパルのご学友のバード・マンたちのブロフが続く。まず一番の親友のポール・バリュエルから。
●ポール・バリュエル(1901-1982)
フランスの芸術家。祖父はパリ15区の区長をしていたので、15区には彼と同名の祖父にちなんだポール・バリュエル通りがある(つまり彼にちなんでない 笑)。ポールはエンジニアとしてモンマルトルのケーブルカー敷設にかかわるくらい優秀だったたが、エチェコパル同様、そのキャリアをあっさりと捨て、1938年、国立自然史博物館の門を叩いた。彼は幼い頃から絵筆をとって自然を描いていたので、自分の書きためた絵を見せにきたのだ。ここで当時館長だったジャック・ベルリオーズとエチェコバルと出会い、やがて同博物館専属の鳥を描く画家となる。バリュエルは「万物は美を秘めているが、万人がそれを見ることができるわけでない」と鳥の美を見えるように描いていった。絵は独学であったためいかなる流派にも属さず、自然のもつありのままの細部表現を追求した。1953年大作『フランス鳥類図譜』の刊行とともに売れっ子になり、「小鳥の肖像画家」と言われるようになる(笑)。
●ジャック・ベルリオーズ(1891-1975)
フランス人。薬学博士。生涯にわたりハチドリを愛し、1949年、国立自然史博物館の所長になる。エチェコパルとバリュエルを暖かく見守った当時の所長。引退後は、1966年、鳥類保護連盟(1966)の副総裁になった。国際的な知名度をもち鳥に関するあらゆるクラブ、協会、団体の名誉会員である。
●フランソワ・ユウ(1905-1972)
フランス人。エチェコバルとともに12年にわたり北アフリカと中東をへめぐってこれらの地域の鳥についての研究書を刊行した。1967年に国立自然保護協会の会長に就任し、自然保護地区の設立に向けて働く。すでに半世紀前には、エチェコバルとユウは森林の減少、農業・農薬あらゆる汚染のもたらす害悪に警鐘を鳴らしていた。
●オリヴィエ・メシアン(1908-1992)
フランスの作曲家。鳥のなき声を音符にうつすため、パリの自然史博物館に通い、そこでエチェコバル、ユウ、バリュエルと知り合った。彼の作品の頂点を形成するのは、1983年に発表されたオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」。あの鳥や動物の会話を聞き取れたという、チベットでいったらミラレパみたいな能力のあったカトリックの修道士である。彼はこの作品の中で、鳥の世界と霊的なものを融合させた。この作品は鳥類学者にものすごく受けた(笑)。
●シドニー・ディロン・リプレー(1913-2001)
アメリカ人。もと法学を学んでいたが鳥類学に転向(エチェコバルといい、法学はそんなにつまらないのか? 笑)。歴代のアメリカ大統領に働きかけ、スミソニアンを含む八つの博物館と九つの研究所を設立。水鳥を専門とし、18世紀から19世紀の画家を愛し20世紀の画家は後援した。1977年に絶滅しつつあるクイナにささげSwan Song(白鳥の歌とは、「白鳥が死ぬ間際に出す叫び声」のこと。実際の白鳥は死に際でなくても鳴く)をだした。
●サリム・アリ博士(1896-1987)
インド人。南アジアの鳥類学の父。1950年頃、エチェコバルと知り合い、友人に。代表作は『インド及びパキスタンの鳥類大図鑑』(1964-1974)。サリム・アリの友人であった首相ネルーは娘のインディラに本書を送ったため、インディラが成長後、首相になった後、絶滅危惧種の鳥が住む地を保護した。
●山階芳麿(1900-1989)殿下
山階宮の第二皇子。1942年に自らの標本コレクションを公開し山階鳥類研究所を設立。1959年に日本で開催されたた国際鳥類学会議に出席してエチェコバルと殿下は交友関係を結ぶ。1989年に山階殿下が亡くなった時、エチェコバルは以下のような弔辞をよせた。
「今でも1959年に日本を初めて訪れた時のことを考えると、心が震えずにはいられません。日本の芸術に霊感を与え、ヨーロッパの芸術家たちにかくも影響をもたらした鳥たち。その鳥たちに出会う喜びは到底言い表すことはできません。・・・・私はもう一つの発見をしました。それは山階博士は鳥たちを聖なるものとして捉え、その生息地もまた聖なるものであり、保護を必要としている。そして我々の人生において鳥たちは貴重な存在である。と考えていたことです。我々はこの地球に共存している鳥たちの将来を思い、人口増加や消えつつある鳥について憂慮を共にしました。」
以上は私のシュミで歴史部分を紹介しただけで、他にも鳥類学の基礎が、非常にわかりやすく解説されている。さあ、みんな入学祝いに『フランスの美しい鳥の絵図鑑』を送ろう! 賢い子が育つぞ!
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