元寇遺蹟と近代ナショナリズム
下関と博多に、新旧ナショナリズム遺構をみにいった。旧ナショナリズムは元寇の際もりあがった敵国降伏のナショナリズム、新ナショナリズムは幕末からWW2の敗戦に至るまで、対清・ロシア・米英の順にもりあがったアレである(笑)。この二つの出来事は、実は元寇の記憶をもつ博多で時代をこえて一体となっている。
3月19日、前の飛行機がバードストライクで止まっているとかで滑走路が短時間閉鎖され、遅れて離陸。 犠牲になったお鳥様に手を合わせつつ博多に近づくと、今度は別の飛行機が部品を滑走路におとしたとかで、またまた空港閉鎖。ベタ遅れで到着。
ついてすぐ下関に向かおうとするも新幹線の表示板をみてびっくり。新下関にとまる「こだま」は一時間に一本しかねえ。仕方ないから「のぞみ」で小倉までいって、そのあと在来線で下関まで行くことにする。こうやっていろいろあっても富山で感じたアウエイ感はない。母の父は北九州の寒田の出で、母は小倉で育ったので私は東京生まれの東京育ちとはいえ、DNAの半分はメイドイン九州であり、祖父が生きていた頃は何度も九州に来ているので、何となく安心感がある。
下関につき、T先生と唐戸市場で昼食をとり、そのあと関門海峡鎮守の亀山八幡宮で伊藤博文が奧さんとしりあった場所とか、攘夷の砲台跡とかを見て(ここに砲台ができたのは神様の力添えを期待してだろうな)、そこから歩いてすぐの、下関講和条約の舞台となった春帆樓へ行く。春帆樓は今も営業を続けているが、条約の結ばれた建物はすでに建て替えられており、代わりに条約の席を再現した間が記念館内に作られている。

中から大量の本土中国人の観光客が観光を終えてでてくる。
S大学のT先生「この資料館、奥行きないんですけど、よくこんなたくさんの人が入ってましたね」
私「自分たちの国が負けて不平等条約を結ばされたこの場所で、どんな解説をされて、何を言い合っているのかが興味深いですね。想像つくけど。」
このあと、旅館に隣接する赤間神宮へ。ここはあの耳無し芳一の怪談で有名な寺。
T先生「ここの境内にある大連神社をご存じですか。日露戦争後に、満洲の玄関口大連に総氏神として祀られた熱田神宮のご神体を、敗戦とともにここに移したものです。ここには満州国の資料がたくさん所蔵されていて一橋大学の学生さんたちが整理にあたっています」
本殿の横には終戦の月の25日に天皇陛下にわびるために自決した大東塾の塾生14名(大東塾十四烈士)の霊が祀られている。 幕末に欧米諸国の船に大砲をぶっぱなしたり、尊皇攘夷もりあげたり、下関には排外ナショナリズムのかほりが横溢している。
排外といえば下関名物、長周新聞に触れねばなるまい。この時丁度、同紙は市長の学位請求スキャンダルを糾弾していた。この件は確かに市長の行動に非があったが、それを糾弾する新聞の口調がなんとも文革的というか、知的でない。調べてみると、この新聞社、中国に従って日本共産党を除名された福田正義が1955年に設立したものであった。
サイトにある福田正義が書いた「偏っているか」を声にだして読んで見たら、中国がチベットを「平和解放」した時の共産党の宣言文を思い出した。反米、反帝国主義、愛国の論理と口調が全く同じ。一見の価値があるのでこのサイトで確認してみて。 内容の是非についてはご自身の価値観で。21世紀になっても毛沢東主義を奉じているとは、インド・ネパールのマオイストのよう。その後、T先生の研究室で学術情報を交換して、夜は小倉の親戚の家に泊まる。
明けて20日は博多に移動し、元寇遺構と元寇にかこつけた近代ナショナリズムを調査する。
日本は島国であったため、他のアジア諸国と比べて、外国人の襲来にさらされることはなかった。しかし、例外として13世紀にフビライ・ハン時代のモンゴル(元)に二度にわたり攻め込まれている(元寇)。これは日本人のトラウマとなり、19世紀に関門海峡に近代的な兵器を備えた外国の艦船がうろつきだすと、外国侵略の恐怖とともに元寇の記憶が再び呼び醒まされた。
かつてモンゴルの脅威を退けた「神風」(台風ともいう)が吹いたように、今目の前にある危機も神仏の助けによってのりこえようという気運が幕末に生まれ、その中で北条時宗の時代を追慕し、元寇遺蹟を整備する動きが日本中に広がった。
藤田東湖を初めとする幕末の志士たちが「正気の歌」を読んでいるが、同名の歌は南宋の遺臣文天祥が、フビライの仕官の誘いを断り、前王朝に殉じて獄死する際に詠んだものである。幕末の志士たちは、自らを宋王朝の遺臣の漢人に、欧米をフビライ・ハン率いるモンゴルになぞらえていた。
さらに明治に入ると日蓮主義がもりあがる。
日蓮と元寇の関わりを雑に紹介するとこんな感じ。フビライ・ハンが王位に即位した1260年、日蓮は時の執権に、『立正安国論』を献じ「このような不穏な出来事(地震・水害・飢饉)が続くのは、幕府が法華経を信じずに邪教(念仏宗)を信じているからである。このままだと外国軍が日本を滅ぼすぞ」と説いた。
1274年、1281年、二度にわたりモンゴル軍が博多湾に攻め込み、残虐の限りを尽くしたため、日蓮の言葉は成就したかに見えた。このうち、二度目のモンゴル来寇は結構本格的で、日本に死亡フラグがたった。にも関わらず、幕府は各地の御家人によびかけて海岸線に防塁を築き果敢に戦い、さらに運良く来合わせた台風で多くの元・高麗の船が沈んだため、勝ってもうた。

この故事にちなみ、日蓮の思想を奉じれば、外国侵略ははねかえせると信じた日蓮主義者たちは、国柱会などのナショナリスティックな政治団体に集い、石原莞爾などが満州でブイブイいったことは有名である。元寇の記憶の残る博多の地はとくに1904年から20年にかけて、元寇遺蹟の整備・顕彰・慰霊が進んだ。つまり、江戸時代にはとくに注目されていなかった元寇遺蹟が、近代に入ってからの排外ナショナリズムの勃興とともに注目されたのである。
近代に入ってからの元寇時代追慕のもっとも興味深い例は、1904年に福岡県庁の前に建立された、日蓮像と亀山上皇像であろう。私事になるが前にここに来たのは、十代のはじめ頃であった。神風に袖を翻す巨大な日蓮像を見て圧倒され、像の足下にある銅版画にモンゴル軍の非道(捕虜の手のひらに穴をあけて紐を通している)が刻まれているのを見て「蒙古こわあい」と思ったものだ。

その後すっかり忘れて大学に入ってモンゴルゼミとかに入ったところを見ると、あの時感じた怖さは現実のモンゴルに対してではなく、「外国からやってくる話の通じない暴力」に対してだったのであろう。
日蓮像護持協会が運営する元寇史料館から、これらの像の建立の経緯を引用すると以下のようである。
記念碑建設の起こりは、二年前(1886) の八月に起こった"長崎清国水兵事件"によるものである。その事件とは、定遠を旗艦とする清国北洋艦隊が長崎に寄港した際に、上陸した水兵等が酒に酔い大暴れ、鎮めようとした巡査・市民など多数を死傷させ、家屋を破壊し、そのまま出港してしまった。この清国水兵による惨害の補償は、当時の国力の差から日本の無き寝入り同然の結果となり、人々は国辱だとくやしがった。この事件を担当した湯地丈雄は、再びこのような屈辱があってはならないと胸にきざみこんでいた。その後、福岡警察署長に着任した湯地丈雄は、元寇の地、博多に国難殉死者の慰霊碑が一つもないことから、再び外国からの辱めを受けないための精神的象徴として元寇記念碑を建設することを思い立った。
この長崎事件における清國水兵の破壊・暴力 → 弁償しないで逃走 → 日本人大怒り の構図は、なんか現代の中国での反日デモにも通じて、つくづく中国は進歩ない。
で、この福岡警察署長、湯地さんの提案に、日管(日蓮本仏寺住職)が協力を申し出て、碑文は、北条時宗像に日蓮の肖像をはめこむデザインでいこうとしたら、仏教各派から猛烈な反対がでた。日蓮は他宗派を強烈に批判した人だし、蒙古降伏は他宗派だってさんざん祈っていたのだから当然であろう。
で、この反対を契機に日蓮宗は湯地と袂を分かち、湯地さんは亀山上皇像を、日蓮宗は単独で日蓮銅像の建設にとりかかった。制作監督は両方とも芸大の前身の東京美術学校。警察署長が発起人になり、県庁前という立地、奈良の大仏・鎌倉大仏につぐ巨大さなど全てから、このプロジェクトが公的な性格を持ち、当時の人々の気持ちを広く代弁していたことが分かるであろう。
亀山上皇・日蓮聖人の両像はともに1904年に完成した。チベットの都ラサにイギリスのヤングハズバンドが侵攻し、奇しくもダライラマがモンゴルへ亡命した年である。像の建設期間には日清戦争があったため、資料館には撃沈した清の艦船からひきあげた品も展示されている。像が完成した1904年は東郷平八郎がバルチック艦隊を殲滅した年なのでこの像には一際神秘的な箔がついたことであろう。
資料館には東郷平八郎、乃木希典肖像が祀られ、日本初のパノラマ画家Issho Yada(矢田一嘯 1859-1913)の代表作『元寇戦闘絵図』など、も所蔵されている。この収蔵品からも「神風」は、昔の話ではなく、眼前にある外国の脅威に対抗するための、切実な切り札、最低でも心の安定剤として作用していたことは明らかである。しかし、この神頼みの精神論が日本にああいう惨禍をもたらしたわけだから、やはり戦略とか戦術とか軍備とか戦の正当性とかを客観的に省察する心は重要である。
※ここで豆知識。元寇史料館は観光サイトでみると土日開館、平日閉館であるが、直接聞いたところでは、土日はしまり、平日は予約すれば開けてくださるとのことである。全く逆なので気をつけよう。
夕方、ホテルで温泉からあがってテレビをつけると、今日が福岡県西方沖地震から十周年であると連呼している。十年前壊滅的被害をうけた玄海島は現在は復興し、ヘリポートが建設されている。テレビを見ていると、ゼミの卒業生で、今博多で仕事をしているTくんから電話。Tくんは同じくゼミの卒業生で博多勤務のHちゃんと月いちごはんをしているそうで、夕方二人で来てくれるという。なので晩ご飯はフリチベ友達と二人の卒業生とともに博多の地物がでるお店でお食事する。
翌朝は桜の便りも聞こえる暖かさで、一週間前富山で雪に埋まっていたのが、今はうすいブラウス一枚で、桜の便りを聞いているのだから、季節の変わり目はすごい。
午前中はT君が車を出してくれてHちゃんと三人で志賀島にいく。この島は日本史で有名な金印が出土した土地であり、元寇の際の古戦場でもある。
志賀島は本土と細い道でつながっている。本土と島の境目付近の砂浜で車をおりて、磯に出ると、昨日の生の松原と異なり、大量のゴミが漂着している。拾い集めてみると、一番多いのはハングル、次が中国と日本。T君によると博多の休日の過ごし方は「浜辺でバーベキュー」だそうなので、浜辺の日本ゴミはその連中のものである可能性が高い。ハングルゴミと漢語ゴミはもちろん彼方から漂着したものである。
「漂着ゴミの現状」に関する環境省のレポートはここをご覧ください。https://www.env.go.jp/water/marine_litter/conf/c02-08/mat03.pdf
蒙古塚につくと良いお天気で、三人で記念撮影を行う。この碑文も日蓮宗の日統が1927年にたてたもので、1928年の除幕式にはアノ張作霖が「大日本志賀島蒙古軍供養塔讃」という一文をよせている(三ヶ月後に爆殺)。解説によると、1938年には蒙古自治連盟政府の徳王(デムチョクトンドゥプ)も参拝している。1938年は日中戦争も始まっており、日本は東部モンゴルと満洲の地を勢力下にいれていたため、もはや蒙古は敵ではなく友軍扱い。従って、この碑文も元寇でなくなったモンゴル人の慰霊碑となっている。昭和期の蒙古に対するイメージの推移を研究してもおもしろいかも。T君は馬賊で卒論を書いたので張作霖の讃を喜んで見ている。

相撲好きのK嬢によると、最近はモンゴル力士たちもここに献花に訪れているという。今や日蒙友好の地になっているようだ。
この蒙古塚は私が13歳のころ、志賀島に来た時はここにはなかった。例の福岡県西方沖地震により碑文も倒壊したため、今の地に移されたのである。
再び福岡本土にもどり、T君のおすすめで鮮魚市場でふぐ定食を頂く。彼は博多にきてまだ一年目だが、大学時代の友達が訪れてくるたびにこうしていろいろ案内しているのだという。駐博多早稲田大使である。
で、午後は福岡福祉プラザでチベットのお話をする。T君とHちゃんにはせっかくの休みなんだからもうサクラにならなくていいよ、というが最後までいてくれた。それどころか、プロジェクターのコントローラー、ホワイトボード、レーザーポインターを借りてきてくれるなど非常に働いてくれた。ホント良い子たち。
私の話が終わると、福岡在住のチベット人ゲレックさんが、自分の故郷(遊牧地域)に学校をたてるための支援のお願いにたった。彼の故郷マチュには漢人がどんどん入植してきて、近代教育をうけていない故郷の人たちは漢人が変化させていく社会において隅においやられていること、日本で集めたお金を地方政府にわたして学校を建てるように頼んでみたけど、「中国は豊だからあなたの支援は必要ありません」と受け取ってもらえず、そのくせに故郷に学校がたつなどの変化は起きていないこと、今の時点では集めた募金を教育ボランティアの人にわたしたり、教材を買ったりすることに用いているが、将来的には中国の制度の中で上級の学校につないでいける学校の建設を目標としていること、この会のお金は透明性を保つために、現地の受け入れ組織には彼の親族や友達は入れていない、とのことであった。質問のある方、支援をしたい方、興味のある方は、ゲレックさんにご連絡を。
ノマディツク・チルドレンの会 事務局
gelek@ncoamdo.com Tel 080-1971-7815
ホームページ http://www.ncoamdo.com/
このあと、T君は空港まで送ってくれ、三人でスタバでお茶して別れる。ありがとう、楽しかった。Tくん、Hちゃん。そして福岡のフリチベのみなさんたち
3月19日、前の飛行機がバードストライクで止まっているとかで滑走路が短時間閉鎖され、遅れて離陸。 犠牲になったお鳥様に手を合わせつつ博多に近づくと、今度は別の飛行機が部品を滑走路におとしたとかで、またまた空港閉鎖。ベタ遅れで到着。
ついてすぐ下関に向かおうとするも新幹線の表示板をみてびっくり。新下関にとまる「こだま」は一時間に一本しかねえ。仕方ないから「のぞみ」で小倉までいって、そのあと在来線で下関まで行くことにする。こうやっていろいろあっても富山で感じたアウエイ感はない。母の父は北九州の寒田の出で、母は小倉で育ったので私は東京生まれの東京育ちとはいえ、DNAの半分はメイドイン九州であり、祖父が生きていた頃は何度も九州に来ているので、何となく安心感がある。
下関につき、T先生と唐戸市場で昼食をとり、そのあと関門海峡鎮守の亀山八幡宮で伊藤博文が奧さんとしりあった場所とか、攘夷の砲台跡とかを見て(ここに砲台ができたのは神様の力添えを期待してだろうな)、そこから歩いてすぐの、下関講和条約の舞台となった春帆樓へ行く。春帆樓は今も営業を続けているが、条約の結ばれた建物はすでに建て替えられており、代わりに条約の席を再現した間が記念館内に作られている。

中から大量の本土中国人の観光客が観光を終えてでてくる。
S大学のT先生「この資料館、奥行きないんですけど、よくこんなたくさんの人が入ってましたね」
私「自分たちの国が負けて不平等条約を結ばされたこの場所で、どんな解説をされて、何を言い合っているのかが興味深いですね。想像つくけど。」
このあと、旅館に隣接する赤間神宮へ。ここはあの耳無し芳一の怪談で有名な寺。
T先生「ここの境内にある大連神社をご存じですか。日露戦争後に、満洲の玄関口大連に総氏神として祀られた熱田神宮のご神体を、敗戦とともにここに移したものです。ここには満州国の資料がたくさん所蔵されていて一橋大学の学生さんたちが整理にあたっています」
本殿の横には終戦の月の25日に天皇陛下にわびるために自決した大東塾の塾生14名(大東塾十四烈士)の霊が祀られている。 幕末に欧米諸国の船に大砲をぶっぱなしたり、尊皇攘夷もりあげたり、下関には排外ナショナリズムのかほりが横溢している。
排外といえば下関名物、長周新聞に触れねばなるまい。この時丁度、同紙は市長の学位請求スキャンダルを糾弾していた。この件は確かに市長の行動に非があったが、それを糾弾する新聞の口調がなんとも文革的というか、知的でない。調べてみると、この新聞社、中国に従って日本共産党を除名された福田正義が1955年に設立したものであった。
サイトにある福田正義が書いた「偏っているか」を声にだして読んで見たら、中国がチベットを「平和解放」した時の共産党の宣言文を思い出した。反米、反帝国主義、愛国の論理と口調が全く同じ。一見の価値があるのでこのサイトで確認してみて。 内容の是非についてはご自身の価値観で。21世紀になっても毛沢東主義を奉じているとは、インド・ネパールのマオイストのよう。その後、T先生の研究室で学術情報を交換して、夜は小倉の親戚の家に泊まる。
明けて20日は博多に移動し、元寇遺構と元寇にかこつけた近代ナショナリズムを調査する。
日本は島国であったため、他のアジア諸国と比べて、外国人の襲来にさらされることはなかった。しかし、例外として13世紀にフビライ・ハン時代のモンゴル(元)に二度にわたり攻め込まれている(元寇)。これは日本人のトラウマとなり、19世紀に関門海峡に近代的な兵器を備えた外国の艦船がうろつきだすと、外国侵略の恐怖とともに元寇の記憶が再び呼び醒まされた。
かつてモンゴルの脅威を退けた「神風」(台風ともいう)が吹いたように、今目の前にある危機も神仏の助けによってのりこえようという気運が幕末に生まれ、その中で北条時宗の時代を追慕し、元寇遺蹟を整備する動きが日本中に広がった。
藤田東湖を初めとする幕末の志士たちが「正気の歌」を読んでいるが、同名の歌は南宋の遺臣文天祥が、フビライの仕官の誘いを断り、前王朝に殉じて獄死する際に詠んだものである。幕末の志士たちは、自らを宋王朝の遺臣の漢人に、欧米をフビライ・ハン率いるモンゴルになぞらえていた。
さらに明治に入ると日蓮主義がもりあがる。
日蓮と元寇の関わりを雑に紹介するとこんな感じ。フビライ・ハンが王位に即位した1260年、日蓮は時の執権に、『立正安国論』を献じ「このような不穏な出来事(地震・水害・飢饉)が続くのは、幕府が法華経を信じずに邪教(念仏宗)を信じているからである。このままだと外国軍が日本を滅ぼすぞ」と説いた。
1274年、1281年、二度にわたりモンゴル軍が博多湾に攻め込み、残虐の限りを尽くしたため、日蓮の言葉は成就したかに見えた。このうち、二度目のモンゴル来寇は結構本格的で、日本に死亡フラグがたった。にも関わらず、幕府は各地の御家人によびかけて海岸線に防塁を築き果敢に戦い、さらに運良く来合わせた台風で多くの元・高麗の船が沈んだため、勝ってもうた。

この故事にちなみ、日蓮の思想を奉じれば、外国侵略ははねかえせると信じた日蓮主義者たちは、国柱会などのナショナリスティックな政治団体に集い、石原莞爾などが満州でブイブイいったことは有名である。元寇の記憶の残る博多の地はとくに1904年から20年にかけて、元寇遺蹟の整備・顕彰・慰霊が進んだ。つまり、江戸時代にはとくに注目されていなかった元寇遺蹟が、近代に入ってからの排外ナショナリズムの勃興とともに注目されたのである。
近代に入ってからの元寇時代追慕のもっとも興味深い例は、1904年に福岡県庁の前に建立された、日蓮像と亀山上皇像であろう。私事になるが前にここに来たのは、十代のはじめ頃であった。神風に袖を翻す巨大な日蓮像を見て圧倒され、像の足下にある銅版画にモンゴル軍の非道(捕虜の手のひらに穴をあけて紐を通している)が刻まれているのを見て「蒙古こわあい」と思ったものだ。

その後すっかり忘れて大学に入ってモンゴルゼミとかに入ったところを見ると、あの時感じた怖さは現実のモンゴルに対してではなく、「外国からやってくる話の通じない暴力」に対してだったのであろう。
日蓮像護持協会が運営する元寇史料館から、これらの像の建立の経緯を引用すると以下のようである。
記念碑建設の起こりは、二年前(1886) の八月に起こった"長崎清国水兵事件"によるものである。その事件とは、定遠を旗艦とする清国北洋艦隊が長崎に寄港した際に、上陸した水兵等が酒に酔い大暴れ、鎮めようとした巡査・市民など多数を死傷させ、家屋を破壊し、そのまま出港してしまった。この清国水兵による惨害の補償は、当時の国力の差から日本の無き寝入り同然の結果となり、人々は国辱だとくやしがった。この事件を担当した湯地丈雄は、再びこのような屈辱があってはならないと胸にきざみこんでいた。その後、福岡警察署長に着任した湯地丈雄は、元寇の地、博多に国難殉死者の慰霊碑が一つもないことから、再び外国からの辱めを受けないための精神的象徴として元寇記念碑を建設することを思い立った。
この長崎事件における清國水兵の破壊・暴力 → 弁償しないで逃走 → 日本人大怒り の構図は、なんか現代の中国での反日デモにも通じて、つくづく中国は進歩ない。
で、この福岡警察署長、湯地さんの提案に、日管(日蓮本仏寺住職)が協力を申し出て、碑文は、北条時宗像に日蓮の肖像をはめこむデザインでいこうとしたら、仏教各派から猛烈な反対がでた。日蓮は他宗派を強烈に批判した人だし、蒙古降伏は他宗派だってさんざん祈っていたのだから当然であろう。
で、この反対を契機に日蓮宗は湯地と袂を分かち、湯地さんは亀山上皇像を、日蓮宗は単独で日蓮銅像の建設にとりかかった。制作監督は両方とも芸大の前身の東京美術学校。警察署長が発起人になり、県庁前という立地、奈良の大仏・鎌倉大仏につぐ巨大さなど全てから、このプロジェクトが公的な性格を持ち、当時の人々の気持ちを広く代弁していたことが分かるであろう。
亀山上皇・日蓮聖人の両像はともに1904年に完成した。チベットの都ラサにイギリスのヤングハズバンドが侵攻し、奇しくもダライラマがモンゴルへ亡命した年である。像の建設期間には日清戦争があったため、資料館には撃沈した清の艦船からひきあげた品も展示されている。像が完成した1904年は東郷平八郎がバルチック艦隊を殲滅した年なのでこの像には一際神秘的な箔がついたことであろう。
資料館には東郷平八郎、乃木希典肖像が祀られ、日本初のパノラマ画家Issho Yada(矢田一嘯 1859-1913)の代表作『元寇戦闘絵図』など、も所蔵されている。この収蔵品からも「神風」は、昔の話ではなく、眼前にある外国の脅威に対抗するための、切実な切り札、最低でも心の安定剤として作用していたことは明らかである。しかし、この神頼みの精神論が日本にああいう惨禍をもたらしたわけだから、やはり戦略とか戦術とか軍備とか戦の正当性とかを客観的に省察する心は重要である。
※ここで豆知識。元寇史料館は観光サイトでみると土日開館、平日閉館であるが、直接聞いたところでは、土日はしまり、平日は予約すれば開けてくださるとのことである。全く逆なので気をつけよう。
夕方、ホテルで温泉からあがってテレビをつけると、今日が福岡県西方沖地震から十周年であると連呼している。十年前壊滅的被害をうけた玄海島は現在は復興し、ヘリポートが建設されている。テレビを見ていると、ゼミの卒業生で、今博多で仕事をしているTくんから電話。Tくんは同じくゼミの卒業生で博多勤務のHちゃんと月いちごはんをしているそうで、夕方二人で来てくれるという。なので晩ご飯はフリチベ友達と二人の卒業生とともに博多の地物がでるお店でお食事する。
翌朝は桜の便りも聞こえる暖かさで、一週間前富山で雪に埋まっていたのが、今はうすいブラウス一枚で、桜の便りを聞いているのだから、季節の変わり目はすごい。
午前中はT君が車を出してくれてHちゃんと三人で志賀島にいく。この島は日本史で有名な金印が出土した土地であり、元寇の際の古戦場でもある。
志賀島は本土と細い道でつながっている。本土と島の境目付近の砂浜で車をおりて、磯に出ると、昨日の生の松原と異なり、大量のゴミが漂着している。拾い集めてみると、一番多いのはハングル、次が中国と日本。T君によると博多の休日の過ごし方は「浜辺でバーベキュー」だそうなので、浜辺の日本ゴミはその連中のものである可能性が高い。ハングルゴミと漢語ゴミはもちろん彼方から漂着したものである。
「漂着ゴミの現状」に関する環境省のレポートはここをご覧ください。https://www.env.go.jp/water/marine_litter/conf/c02-08/mat03.pdf
蒙古塚につくと良いお天気で、三人で記念撮影を行う。この碑文も日蓮宗の日統が1927年にたてたもので、1928年の除幕式にはアノ張作霖が「大日本志賀島蒙古軍供養塔讃」という一文をよせている(三ヶ月後に爆殺)。解説によると、1938年には蒙古自治連盟政府の徳王(デムチョクトンドゥプ)も参拝している。1938年は日中戦争も始まっており、日本は東部モンゴルと満洲の地を勢力下にいれていたため、もはや蒙古は敵ではなく友軍扱い。従って、この碑文も元寇でなくなったモンゴル人の慰霊碑となっている。昭和期の蒙古に対するイメージの推移を研究してもおもしろいかも。T君は馬賊で卒論を書いたので張作霖の讃を喜んで見ている。

相撲好きのK嬢によると、最近はモンゴル力士たちもここに献花に訪れているという。今や日蒙友好の地になっているようだ。
この蒙古塚は私が13歳のころ、志賀島に来た時はここにはなかった。例の福岡県西方沖地震により碑文も倒壊したため、今の地に移されたのである。
再び福岡本土にもどり、T君のおすすめで鮮魚市場でふぐ定食を頂く。彼は博多にきてまだ一年目だが、大学時代の友達が訪れてくるたびにこうしていろいろ案内しているのだという。駐博多早稲田大使である。
で、午後は福岡福祉プラザでチベットのお話をする。T君とHちゃんにはせっかくの休みなんだからもうサクラにならなくていいよ、というが最後までいてくれた。それどころか、プロジェクターのコントローラー、ホワイトボード、レーザーポインターを借りてきてくれるなど非常に働いてくれた。ホント良い子たち。
私の話が終わると、福岡在住のチベット人ゲレックさんが、自分の故郷(遊牧地域)に学校をたてるための支援のお願いにたった。彼の故郷マチュには漢人がどんどん入植してきて、近代教育をうけていない故郷の人たちは漢人が変化させていく社会において隅においやられていること、日本で集めたお金を地方政府にわたして学校を建てるように頼んでみたけど、「中国は豊だからあなたの支援は必要ありません」と受け取ってもらえず、そのくせに故郷に学校がたつなどの変化は起きていないこと、今の時点では集めた募金を教育ボランティアの人にわたしたり、教材を買ったりすることに用いているが、将来的には中国の制度の中で上級の学校につないでいける学校の建設を目標としていること、この会のお金は透明性を保つために、現地の受け入れ組織には彼の親族や友達は入れていない、とのことであった。質問のある方、支援をしたい方、興味のある方は、ゲレックさんにご連絡を。
ノマディツク・チルドレンの会 事務局
gelek@ncoamdo.com Tel 080-1971-7815
ホームページ http://www.ncoamdo.com/
このあと、T君は空港まで送ってくれ、三人でスタバでお茶して別れる。ありがとう、楽しかった。Tくん、Hちゃん。そして福岡のフリチベのみなさんたち
雪女、富山ですべる (後) 薬都富山をいく
(前回のあらすじ)「チベット伝統医学の本を出版したので、写本の所蔵元にご挨拶にきたら大雪だった」
一夜明けて外を見ると、雪がまっている。よく天気予報で「スジ状の雲」が雪を降らすというが、富山にくる前はこの筋状の雲って鰯雲のようにイメージしていたけど、実際は雪が上がって日が差したかと思うと、またすぐ雪が降り出すような天気だった。たぶん、この波状の天気が「筋状の雲」の正体である。何事も体験しないと分からない。
午後一の富山大学薬学部の訪問を前に、午前はホテルから近い広貫堂資料館に行くことにする。
富山藩はかつて全国にその名をはせた富山の薬売りの総本山である。彼らの販売する薬の中でももっとも名高いものは「反魂丹」とその名も死んだものもよみがえる効き目の薬であった。明治に入り、廃藩置県で富山藩はなくなり、近代的な薬事法が導入されたため、硫化水銀を用いる反魂丹も制作はかなわなくなった。

富山の薬売りを統轄していた役所反魂丹も閉鎖となった。ここで薬売りたちはお金をだしあって広貫堂という名の会社組織をつくり、お役所「反魂丹」のトップを会社の総理(初代社長)に迎え、役人もみな横滑りで採用して、近代の変動に対応したのである。もちろん硫化水銀を用いた反魂丹はもう薬事法に触れてつくれないため、法律に許可される範囲内で伝統的な生薬--地黄や熊胆など---を販売した。
広貫堂はあの「ケロリン」のナイガイ製薬よりも遙かに古い製薬会社なのである。資料館は道に面しておらず広貫堂の工場のたつ敷地内にあるので、間違えないように。訪問者にはもれなく広貫堂のスタミナドリンクがプレゼントされるのもうれしい。

資料館入り口の富山の薬売りのマネキンの前で、どこぞのマスコミが北陸新幹線開業特集のためか、テンション高く画像収録をしているが演じるのも一人、撮影も一人なので寂しい感じ。
資料館の「反魂丹」の看板みているうちに、突然、なき母が口にしていた「越中富山のハンゴンタン、鼻×そ丸めて万金丹」という意味不明な口上を思い出した。私は資料館の係のかたに
私「あの口上のハンゴンタンって漢字で反魂丹で、薬名であると同時に富山藩の厚生省だったんですね、深いわー」と言うと
資料館の方「団体がいらしたらこのお話をするんですが、特別にお話しましょう。その口上は正式には『世の妙薬と言えば、越中富山の反魂丹、それにひきかえ鼻×そ丸めて万金丹、そんなの飲む奴あんぽんたん』というのです。万金丹とはかつてお伊勢参りのお土産に買って帰る万能薬だったのですが、お伊勢参りの流行とともに万金丹も飛ぶようにうれたため、ニセモノも大量に出回りました。そのことが、『万金丹という名前をつければ鼻くそ丸めても売れた』という口上をうんだのです。もちろんこれ(フルバージョンの方)は富山の人が富山の薬を売るために作ったものだと思いますが」
私「おお。『タン』で脚韻んでますね。長年意味の分からなかったものが突如霧が晴れたように解決しました。ありがとうございます」
さて、その後、お寿司屋さんカウンター席に座って、昼食をとりながら富山の話しをいろいろ伺い、その後、雪のふりしきる中、富山大学に向かうバスに乗る。
富山大学の五福キャンパスは市内の路面電車の終点にあるものの、薬学部は市内から遠く離れた岡の上、杉谷キャンパスにある。付属病院が併設されているためまあバスの便は悪くない。薬学部は正門正面奥の建物であるが、折しも工事中で通りがかりの人が案内してくれなければ迂回路は分からなかった。訪問先は和漢医薬総合研究所の小松かつ子先生の研究室である。小松先生はアーユルヴェーダ学会の会長であった富山医科薬科大学名誉教授の難波恒雄先生の直弟子であり、同学会の理事もつとめていらっしゃり、難波先生の死後、難波先生が世界中から集めた、インド、チベット、韓国、インドネシア、タイ、朝鮮、などの伝統医学の薬材標本を、それぞれの地域から伝統医学の先生たちをお招きして整理・分類・研究したデータベースを作っていらっしゃる(一部は一般にも公開中)。

私は伝統医学の薬材の現代薬への利用の橋渡しのような話しを興味深く伺い、先生は実は歴史がお好きだとかで、私のダライラマ13世のチベット医学復興語りを興味深そうに聞いてくださる。お話が一通り終わると、薬学部に併設されている民族薬物資料館(HPはこちらから)の館長先生の伏見裕利先生をご紹介くださり、見学できるように取りはからってくださる。難波先生が世界中から集めてこられた薬材は今この資料館に所蔵されている。
ネットで見ると、この資料館は年に三回くらいしか一般公開していないので、見学は諦めていたのだが、富山大学薬学部の学生はもちろん実習に用いているし、研究者が来た場合も開けているとのことで、閉まりっぱなしではない、とのことである。
小松先生の元を辞去して急いで資料館の入り口に向かうと、資料館正面入り口の前がシャーベット状の雪でぐしゃぐしゃになっていて、あっと思った時にはもう転んでいた。思い切り内股の腱を伸ばして痛いのなんの。とくにしゃがんだ状態から立つ時が地獄。
伏見先生は難波先生の最後のお弟子さんだとのことで、資料館のセクションを順に案内してくださる。チベットからはちゃんとメンツィーカンからダワ先生が招聘されたとのことで、チベットの薬材には美しいチベット文字でラベルが貼られている。また、『四部医典』を図解した80枚の医学絵画の一部が展示されているので来歴を伺うと、難波先生がラサで全部手写させたものが一セット納入されているとのこと。モンゴルの薬にはキリル文字と旧文字の両方でラベルがはってあり、資料館にモンゴルの方が訪れた際寄贈したのか、モンゴル旧文字の習字がはってある。何と書いてあるのかと伏見先生に聞かれたので。
私「ああ、これ『富山大学』ってモンゴル語で大書してるんですよ。モンゴル人の習字って、チンギス・ハーン、とかフフ・モンゴル(青きモンゴル)、とかなんか固有名詞多いんですよねー」といったらうけた。
伏見先生からは少部数しか刷られていない、モンゴル薬草図鑑をサイン入りで頂戴してしまい恐縮する。モンゴル医学もチベット医学を翻訳しているので、同じ『四部医典』を聖典として奉じている。この日は一生分の薬材を見せて頂いた。
突然ですが豆知識。富山大学の五福キャンパスにはラフカディオ・ハーンの蔵書と研究書を集めたへルン文庫があり、月二回一般公開されている(詳しくはコチラ)。また、この富山大学図書館は旧高専の図書館も併合しているので満洲国関連の資料も多い。富山大学は研究者にとってはなかなかに魅力的な大学なのである。
このあと私は帰り着くなりひたすら温泉につかって痛めた腱を湯治する。これがきいたのか、最初の晩はあまりに痛いので、朝一で医者にいって鎮痛剤をもらわんと帰れないかと思ったが、翌朝起きてみると、若干足がむくんで痛みはあるものの、なんとかなった。
そこで調子にのって最終日に富山売薬資料館にいく。なぜかというと広貫堂資料館での聞き込みによると、反魂丹のレシピが公開されているというから。今は薬事法にふれて売れないこの薬も将来末期がんとかになって健康を心配することもなくなったら、頼ることもあるかもしれない。従って、一応作り方を控えておく。反魂丹のレシピの下には原材料の生薬が標本になっていて、昨日の資料館と同じ感じのプレゼンをしている。

その後富山駅前に戻り、CICビル5Fにある広貫堂プレゼンツのくすりミュージアムを訪れる。ここは富山の薬売りを先進的なビジネスモデルとして紹介する空間(まず使わせて、使った分だけお金をとるという後払いシステム、または、顧客情報のストックの仕方etc.)。お昼は薬膳カフェ春々(ちゅんちゅん)で薬膳カレーをいただく。なぜこのカフェがちゅんちゅんなのかというと、広貫堂の商標が羽を広げた二羽の雀だから、ちゅんちゅん。ダジャレである。
こうして三日間にわたる薬都訪問をおえ、痛む足をひきずり羽田に戻ったのであった。余談であるが、この時、生薬の薬材標本を大量に見続けたためか、それからしばらく、薬材標本のある部屋を部屋から部屋へさまよい歩く夢を見ることとなった。
一夜明けて外を見ると、雪がまっている。よく天気予報で「スジ状の雲」が雪を降らすというが、富山にくる前はこの筋状の雲って鰯雲のようにイメージしていたけど、実際は雪が上がって日が差したかと思うと、またすぐ雪が降り出すような天気だった。たぶん、この波状の天気が「筋状の雲」の正体である。何事も体験しないと分からない。
午後一の富山大学薬学部の訪問を前に、午前はホテルから近い広貫堂資料館に行くことにする。
富山藩はかつて全国にその名をはせた富山の薬売りの総本山である。彼らの販売する薬の中でももっとも名高いものは「反魂丹」とその名も死んだものもよみがえる効き目の薬であった。明治に入り、廃藩置県で富山藩はなくなり、近代的な薬事法が導入されたため、硫化水銀を用いる反魂丹も制作はかなわなくなった。

富山の薬売りを統轄していた役所反魂丹も閉鎖となった。ここで薬売りたちはお金をだしあって広貫堂という名の会社組織をつくり、お役所「反魂丹」のトップを会社の総理(初代社長)に迎え、役人もみな横滑りで採用して、近代の変動に対応したのである。もちろん硫化水銀を用いた反魂丹はもう薬事法に触れてつくれないため、法律に許可される範囲内で伝統的な生薬--地黄や熊胆など---を販売した。
広貫堂はあの「ケロリン」のナイガイ製薬よりも遙かに古い製薬会社なのである。資料館は道に面しておらず広貫堂の工場のたつ敷地内にあるので、間違えないように。訪問者にはもれなく広貫堂のスタミナドリンクがプレゼントされるのもうれしい。

資料館入り口の富山の薬売りのマネキンの前で、どこぞのマスコミが北陸新幹線開業特集のためか、テンション高く画像収録をしているが演じるのも一人、撮影も一人なので寂しい感じ。
資料館の「反魂丹」の看板みているうちに、突然、なき母が口にしていた「越中富山のハンゴンタン、鼻×そ丸めて万金丹」という意味不明な口上を思い出した。私は資料館の係のかたに
私「あの口上のハンゴンタンって漢字で反魂丹で、薬名であると同時に富山藩の厚生省だったんですね、深いわー」と言うと
資料館の方「団体がいらしたらこのお話をするんですが、特別にお話しましょう。その口上は正式には『世の妙薬と言えば、越中富山の反魂丹、それにひきかえ鼻×そ丸めて万金丹、そんなの飲む奴あんぽんたん』というのです。万金丹とはかつてお伊勢参りのお土産に買って帰る万能薬だったのですが、お伊勢参りの流行とともに万金丹も飛ぶようにうれたため、ニセモノも大量に出回りました。そのことが、『万金丹という名前をつければ鼻くそ丸めても売れた』という口上をうんだのです。もちろんこれ(フルバージョンの方)は富山の人が富山の薬を売るために作ったものだと思いますが」
私「おお。『タン』で脚韻んでますね。長年意味の分からなかったものが突如霧が晴れたように解決しました。ありがとうございます」
さて、その後、お寿司屋さんカウンター席に座って、昼食をとりながら富山の話しをいろいろ伺い、その後、雪のふりしきる中、富山大学に向かうバスに乗る。
富山大学の五福キャンパスは市内の路面電車の終点にあるものの、薬学部は市内から遠く離れた岡の上、杉谷キャンパスにある。付属病院が併設されているためまあバスの便は悪くない。薬学部は正門正面奥の建物であるが、折しも工事中で通りがかりの人が案内してくれなければ迂回路は分からなかった。訪問先は和漢医薬総合研究所の小松かつ子先生の研究室である。小松先生はアーユルヴェーダ学会の会長であった富山医科薬科大学名誉教授の難波恒雄先生の直弟子であり、同学会の理事もつとめていらっしゃり、難波先生の死後、難波先生が世界中から集めた、インド、チベット、韓国、インドネシア、タイ、朝鮮、などの伝統医学の薬材標本を、それぞれの地域から伝統医学の先生たちをお招きして整理・分類・研究したデータベースを作っていらっしゃる(一部は一般にも公開中)。

私は伝統医学の薬材の現代薬への利用の橋渡しのような話しを興味深く伺い、先生は実は歴史がお好きだとかで、私のダライラマ13世のチベット医学復興語りを興味深そうに聞いてくださる。お話が一通り終わると、薬学部に併設されている民族薬物資料館(HPはこちらから)の館長先生の伏見裕利先生をご紹介くださり、見学できるように取りはからってくださる。難波先生が世界中から集めてこられた薬材は今この資料館に所蔵されている。
ネットで見ると、この資料館は年に三回くらいしか一般公開していないので、見学は諦めていたのだが、富山大学薬学部の学生はもちろん実習に用いているし、研究者が来た場合も開けているとのことで、閉まりっぱなしではない、とのことである。
小松先生の元を辞去して急いで資料館の入り口に向かうと、資料館正面入り口の前がシャーベット状の雪でぐしゃぐしゃになっていて、あっと思った時にはもう転んでいた。思い切り内股の腱を伸ばして痛いのなんの。とくにしゃがんだ状態から立つ時が地獄。
伏見先生は難波先生の最後のお弟子さんだとのことで、資料館のセクションを順に案内してくださる。チベットからはちゃんとメンツィーカンからダワ先生が招聘されたとのことで、チベットの薬材には美しいチベット文字でラベルが貼られている。また、『四部医典』を図解した80枚の医学絵画の一部が展示されているので来歴を伺うと、難波先生がラサで全部手写させたものが一セット納入されているとのこと。モンゴルの薬にはキリル文字と旧文字の両方でラベルがはってあり、資料館にモンゴルの方が訪れた際寄贈したのか、モンゴル旧文字の習字がはってある。何と書いてあるのかと伏見先生に聞かれたので。
私「ああ、これ『富山大学』ってモンゴル語で大書してるんですよ。モンゴル人の習字って、チンギス・ハーン、とかフフ・モンゴル(青きモンゴル)、とかなんか固有名詞多いんですよねー」といったらうけた。
伏見先生からは少部数しか刷られていない、モンゴル薬草図鑑をサイン入りで頂戴してしまい恐縮する。モンゴル医学もチベット医学を翻訳しているので、同じ『四部医典』を聖典として奉じている。この日は一生分の薬材を見せて頂いた。
突然ですが豆知識。富山大学の五福キャンパスにはラフカディオ・ハーンの蔵書と研究書を集めたへルン文庫があり、月二回一般公開されている(詳しくはコチラ)。また、この富山大学図書館は旧高専の図書館も併合しているので満洲国関連の資料も多い。富山大学は研究者にとってはなかなかに魅力的な大学なのである。
このあと私は帰り着くなりひたすら温泉につかって痛めた腱を湯治する。これがきいたのか、最初の晩はあまりに痛いので、朝一で医者にいって鎮痛剤をもらわんと帰れないかと思ったが、翌朝起きてみると、若干足がむくんで痛みはあるものの、なんとかなった。
そこで調子にのって最終日に富山売薬資料館にいく。なぜかというと広貫堂資料館での聞き込みによると、反魂丹のレシピが公開されているというから。今は薬事法にふれて売れないこの薬も将来末期がんとかになって健康を心配することもなくなったら、頼ることもあるかもしれない。従って、一応作り方を控えておく。反魂丹のレシピの下には原材料の生薬が標本になっていて、昨日の資料館と同じ感じのプレゼンをしている。

その後富山駅前に戻り、CICビル5Fにある広貫堂プレゼンツのくすりミュージアムを訪れる。ここは富山の薬売りを先進的なビジネスモデルとして紹介する空間(まず使わせて、使った分だけお金をとるという後払いシステム、または、顧客情報のストックの仕方etc.)。お昼は薬膳カフェ春々(ちゅんちゅん)で薬膳カレーをいただく。なぜこのカフェがちゅんちゅんなのかというと、広貫堂の商標が羽を広げた二羽の雀だから、ちゅんちゅん。ダジャレである。
こうして三日間にわたる薬都訪問をおえ、痛む足をひきずり羽田に戻ったのであった。余談であるが、この時、生薬の薬材標本を大量に見続けたためか、それからしばらく、薬材標本のある部屋を部屋から部屋へさまよい歩く夢を見ることとなった。
雪女、富山を行く (前) 寺本婉雅ゆかりの城端へ
新著 『チベット伝統医学の薬材研究』の第三章で扱った医学写本は寺本婉雅によって明治時代雍和宮からもたらされたものであり、現在は富山の宗林寺に所蔵されている。今回は同寺に御礼を申し上げ、東洋の伝統医学の研究で名高い富山大学の小松かつ子先生と伏見裕利先生に拙著を献呈するため富山にいってきました。長くなるので前後にきってお送りします。

富山入った3月10日はよりにもよって三月には珍しい低気圧が北陸上空にかかりサイアクの天候。羽田からの飛行機は「悪天候のために羽田まで戻る場合がございます」と何度もアナウンス (聞いたところでは富山空港は有視界飛行とな)。富山につき空港バスでまず高岡までいく。寿司屋の大将から聞いた話では、富山市の西側にある呉羽山という丘をはさんで富山の文化は金沢文化圏?(武家文化)と富山文化圏?(農村文化)に分かれるという。従って、高岡と城端は富山にありながらも気持ち的には金沢に近いらしい。そのせいかどうか知らんが、高岡と城端の観光大使はゆるキャラではなく、大正期の袴姿のアニメの萌えキャラである(え? 関係ない?)。
宗林寺訪問は常識的な14:00に設定してあったので、その前は観光をする。というか、高岡駅で城端線に乗り換えようとすると、乗り換え時間が1時間半あったので、せざるを得ない(笑)。高岡駅から徒歩10分の瑞龍寺(前田家の菩提寺)があるので、雪の中とぼとぼと寺まで歩く。瑞龍寺は三大禅堂と称えられる荘厳な伽藍で、国宝の立派な禅堂もあるのに、聞けば修業者ゼロ。ザ・観光地。大雪の中朝一に現れた私に受け付けの人は優しかったので、これはご時世ということにしておく。

高岡から城端線にのると、終点城端に近づくにつれ山に近づくため車窓は白く変わって行く。「合掌集落につく頃はいい感じに雪景色にかわっているな」などとこの時はのんきなことを考えていた。終点城端駅に降りるとあたりはすっかり雪景色である。
しかし駅前からでるはずの相倉集落行きのバスが来ない。しばらくすると駅の関係者が「北陸新幹線開通に伴うダイヤ改正で今日から05分のバスはなくて55分まで来ません。気づくの遅くてすみませんね」とのこと。ちょっと待て私が時刻表をHPで確認したのは一昨日くらいだぞ。ちゃんとアップデートしろ。集落ではガイドさんがまっているのに50分も待たせるわけにいかん。
仕方ないので駅前にある唯一のタクシー会社に向かうも、折からの雪で三台しかない車は出払っており、四輪駆動とスノータイヤでうっている五箇山タクシーも車の調子がわるくこれないと。車の運転ができない観光客はこうなると地縛霊である。仕方ないのでタクシーがどこぞから戻ってくるのを30分まち、予定時間を大幅にこえてタクシーで出発する。
運転手さん「この雪ほんとに先ほどから降り出したのに、もうこんなに積もっているんですよ。この先、富士山の高さと同じ長さのトンネルがありますが、それを越えるとまたひと味違いますよ」
私「トンネルを越えるとそこは雪国だった、と言いますが、すでに雪国なので、ドカ雪国ってことですか?」
運転手さん「そうです」
そしてトンネルをぬけると・・・。確かにすごい。除雪車がよけた雪が両側に壁になり、ちょっとした立山アルペンルートになっている。
そして集落の入り口にくると、運転手さんは、「ちょっとすみません。この車では集落の駐車場まで上れません」という。ガイドの山崎さんには車でつくと直前にいってあったので待っているだろう。大した距離ではないからと私はタクシーをおりて、ずぶずぶと集落に向かう登りを急いだ。
雪と風ははんぱなくふきつけてきて、あっというまに雪まみれ。荷物もって傘をさしているので雪がはらえず、雪女状態で、観光バスのわだちをたどりながら雪中行軍。八甲田山ネタが頭によぎったが不謹慎なのでやめておく。

駐車場でやっとガイドの山崎さんと合流して、ご挨拶。100円で長靴と傘を貸してくれるというので、はきかえると、山崎さんはびしょびしょの私のスニーカーを詰め所のストーブの側においてほしてくれた。長靴はガードをあげるとヒザまで隠れるのでずぶずぶオッケー!
山崎さん「昔の農家はみな藁葺きだったんですよ。それがたまたまここは早くから保存が進んで世界遺産になって。その頃は世界遺産のありがたみなんて分からなかったから、こんな小さなくす玉割ってちょっとお祝いしてすぐに家に帰りました」
私「大きな田んぼもつくれないこんな山の中で何を生業にしていたのですか」
山崎さん「加賀藩の流刑人を世話したり、火縄銃の弾に使う硝石を生産していました。流刑人とはいえお侍さんななので学があって、ここの集落の人はみな囚人から文字や学問をならっていました。」
山崎さんは本業が写真屋さんなので新旧の写真をもって近代にはいってからの相倉の歴史をお話してくださる。ちなみに、大雪なので外歩きは簡単にあきらめて合掌作りの2階で集落を見渡しながらの説明であった。
山崎さんのおばさんは例のトンネルの入り口の人と結婚して、東京にでて夫婦で土建屋を手広くやっていて、この集落の上の世代はその会社につとめていた人が多く、集落はゆたかになったという。

山崎さん「しかし、その会社も東京大空襲で焼けて従兄弟はみな無くなりました。70年前の今日です」
たしかにそうだ。今日は東京大空襲の日だ。チベット蜂起記念日も今日ですよ、と言おうかと思ったけど、説明が長くなりそうなのでやめる。代わりに新刊の医学本をおみせして富山にきた理由を説明する。山崎さんは「柳田国男もそうだし、ここは多くの研究者が通り過ぎてきた」と感慨深げにいう。柳田国男に並べられてなんかカンゲキ。
こうして相倉合掌集落を後にすると、タクシーで城端の宗林寺まで送って頂く。行きのタクシーは駐車場まで行けないとのことだったが、帰りはちゃんと上がってきていた。
宗林寺の現住職の桂恵子師は寺本婉雅とその養子である昌雄氏のお話をいろいろしてくださった。詳細は拙著の後書きとかをご覧頂くとして、簡単にいうと、ここ城端にはかつて寺本婉雅を顕彰する「黙働会」があった。そこの中心となって動いていたのがここ宗林寺の桂香厳ご住職(現住職恵子師の祖父)である。その縁で寺本婉雅が宗林寺に出入りする内、桂香厳師の次男の昌雄氏の英明さに目をとめ、養子にとって家督を継がせた。その関係で寺本婉雅の死後、令室がたびたびここを訪れ、彼の遺品の一部が宗林寺に伝えられたのである。
宗林寺の蔵にあった寺本婉雅の遺品は昌雄氏と黙働会のもので、いろいろ散逸したあとの残りである (今は大谷大学に貸し出されている)。お寺には当時の栄華?を伝える黙働会のインド人のコスプレ写真とかがある。恵子師に富山で一番大きな地方紙はどこかと伺うと、北日本新聞社である、というので、富山についたら直接訪れることとする。
城端から富山市まではJRを乗り継いだが、今度の乗り継ぎは夕方なので比較的スムーズであった。富山駅は新幹線の開業を14日に控えて町中が総出で盛大な前夜祭をやっていた。仮駅舎の前にたつ仮設の特選街では店のご主人が、「はいっここでスタン張っていてください」とか言われて直立しているし、至る所にテレビカメラがはいっている。ここまでくる線路添いにも、新幹線の導入とともに消えていく列車を記録するため、雪をかぶった鉄たちが三脚立てて写真撮影をしていた。工事中なので仮設駅の出入り口がおおきく動いていたため、路面電車にのるには、大雪の中あるいてかなり遠くのビルの麓に行かねばならない。傘をさして荷物もって雪まみれになりながらとぼとぼ歩く。雪ふりすぎ。
こんなんじゃ北日本新聞社いっても相手にされないだろうなと思いつつ、せっかくきたので「きちゃった」のノリで一応よってみる。受付で名刺をわたすと意外にスムーズにつないでくれ、上にあがると、ひろーいフロアは記者が出払っていてガラーンとしている。対応してくださった偉い方は、「ご覧の通り、いま北陸新幹線の開業関連で記者は出払っており、大手マスコミも全国から集まっています。郷土の偉人については私たちも興味がありますので四月中頃くらいの感じで」とぺつに急ぐ話しでないので、きた甲斐があったこととする(後篇へと続く)。

富山入った3月10日はよりにもよって三月には珍しい低気圧が北陸上空にかかりサイアクの天候。羽田からの飛行機は「悪天候のために羽田まで戻る場合がございます」と何度もアナウンス (聞いたところでは富山空港は有視界飛行とな)。富山につき空港バスでまず高岡までいく。寿司屋の大将から聞いた話では、富山市の西側にある呉羽山という丘をはさんで富山の文化は金沢文化圏?(武家文化)と富山文化圏?(農村文化)に分かれるという。従って、高岡と城端は富山にありながらも気持ち的には金沢に近いらしい。そのせいかどうか知らんが、高岡と城端の観光大使はゆるキャラではなく、大正期の袴姿のアニメの萌えキャラである(え? 関係ない?)。
宗林寺訪問は常識的な14:00に設定してあったので、その前は観光をする。というか、高岡駅で城端線に乗り換えようとすると、乗り換え時間が1時間半あったので、せざるを得ない(笑)。高岡駅から徒歩10分の瑞龍寺(前田家の菩提寺)があるので、雪の中とぼとぼと寺まで歩く。瑞龍寺は三大禅堂と称えられる荘厳な伽藍で、国宝の立派な禅堂もあるのに、聞けば修業者ゼロ。ザ・観光地。大雪の中朝一に現れた私に受け付けの人は優しかったので、これはご時世ということにしておく。

高岡から城端線にのると、終点城端に近づくにつれ山に近づくため車窓は白く変わって行く。「合掌集落につく頃はいい感じに雪景色にかわっているな」などとこの時はのんきなことを考えていた。終点城端駅に降りるとあたりはすっかり雪景色である。
しかし駅前からでるはずの相倉集落行きのバスが来ない。しばらくすると駅の関係者が「北陸新幹線開通に伴うダイヤ改正で今日から05分のバスはなくて55分まで来ません。気づくの遅くてすみませんね」とのこと。ちょっと待て私が時刻表をHPで確認したのは一昨日くらいだぞ。ちゃんとアップデートしろ。集落ではガイドさんがまっているのに50分も待たせるわけにいかん。
仕方ないので駅前にある唯一のタクシー会社に向かうも、折からの雪で三台しかない車は出払っており、四輪駆動とスノータイヤでうっている五箇山タクシーも車の調子がわるくこれないと。車の運転ができない観光客はこうなると地縛霊である。仕方ないのでタクシーがどこぞから戻ってくるのを30分まち、予定時間を大幅にこえてタクシーで出発する。
運転手さん「この雪ほんとに先ほどから降り出したのに、もうこんなに積もっているんですよ。この先、富士山の高さと同じ長さのトンネルがありますが、それを越えるとまたひと味違いますよ」
私「トンネルを越えるとそこは雪国だった、と言いますが、すでに雪国なので、ドカ雪国ってことですか?」
運転手さん「そうです」
そしてトンネルをぬけると・・・。確かにすごい。除雪車がよけた雪が両側に壁になり、ちょっとした立山アルペンルートになっている。
そして集落の入り口にくると、運転手さんは、「ちょっとすみません。この車では集落の駐車場まで上れません」という。ガイドの山崎さんには車でつくと直前にいってあったので待っているだろう。大した距離ではないからと私はタクシーをおりて、ずぶずぶと集落に向かう登りを急いだ。
雪と風ははんぱなくふきつけてきて、あっというまに雪まみれ。荷物もって傘をさしているので雪がはらえず、雪女状態で、観光バスのわだちをたどりながら雪中行軍。八甲田山ネタが頭によぎったが不謹慎なのでやめておく。

駐車場でやっとガイドの山崎さんと合流して、ご挨拶。100円で長靴と傘を貸してくれるというので、はきかえると、山崎さんはびしょびしょの私のスニーカーを詰め所のストーブの側においてほしてくれた。長靴はガードをあげるとヒザまで隠れるのでずぶずぶオッケー!
山崎さん「昔の農家はみな藁葺きだったんですよ。それがたまたまここは早くから保存が進んで世界遺産になって。その頃は世界遺産のありがたみなんて分からなかったから、こんな小さなくす玉割ってちょっとお祝いしてすぐに家に帰りました」
私「大きな田んぼもつくれないこんな山の中で何を生業にしていたのですか」
山崎さん「加賀藩の流刑人を世話したり、火縄銃の弾に使う硝石を生産していました。流刑人とはいえお侍さんななので学があって、ここの集落の人はみな囚人から文字や学問をならっていました。」
山崎さんは本業が写真屋さんなので新旧の写真をもって近代にはいってからの相倉の歴史をお話してくださる。ちなみに、大雪なので外歩きは簡単にあきらめて合掌作りの2階で集落を見渡しながらの説明であった。
山崎さんのおばさんは例のトンネルの入り口の人と結婚して、東京にでて夫婦で土建屋を手広くやっていて、この集落の上の世代はその会社につとめていた人が多く、集落はゆたかになったという。

山崎さん「しかし、その会社も東京大空襲で焼けて従兄弟はみな無くなりました。70年前の今日です」
たしかにそうだ。今日は東京大空襲の日だ。チベット蜂起記念日も今日ですよ、と言おうかと思ったけど、説明が長くなりそうなのでやめる。代わりに新刊の医学本をおみせして富山にきた理由を説明する。山崎さんは「柳田国男もそうだし、ここは多くの研究者が通り過ぎてきた」と感慨深げにいう。柳田国男に並べられてなんかカンゲキ。
こうして相倉合掌集落を後にすると、タクシーで城端の宗林寺まで送って頂く。行きのタクシーは駐車場まで行けないとのことだったが、帰りはちゃんと上がってきていた。
宗林寺の現住職の桂恵子師は寺本婉雅とその養子である昌雄氏のお話をいろいろしてくださった。詳細は拙著の後書きとかをご覧頂くとして、簡単にいうと、ここ城端にはかつて寺本婉雅を顕彰する「黙働会」があった。そこの中心となって動いていたのがここ宗林寺の桂香厳ご住職(現住職恵子師の祖父)である。その縁で寺本婉雅が宗林寺に出入りする内、桂香厳師の次男の昌雄氏の英明さに目をとめ、養子にとって家督を継がせた。その関係で寺本婉雅の死後、令室がたびたびここを訪れ、彼の遺品の一部が宗林寺に伝えられたのである。
宗林寺の蔵にあった寺本婉雅の遺品は昌雄氏と黙働会のもので、いろいろ散逸したあとの残りである (今は大谷大学に貸し出されている)。お寺には当時の栄華?を伝える黙働会のインド人のコスプレ写真とかがある。恵子師に富山で一番大きな地方紙はどこかと伺うと、北日本新聞社である、というので、富山についたら直接訪れることとする。
城端から富山市まではJRを乗り継いだが、今度の乗り継ぎは夕方なので比較的スムーズであった。富山駅は新幹線の開業を14日に控えて町中が総出で盛大な前夜祭をやっていた。仮駅舎の前にたつ仮設の特選街では店のご主人が、「はいっここでスタン張っていてください」とか言われて直立しているし、至る所にテレビカメラがはいっている。ここまでくる線路添いにも、新幹線の導入とともに消えていく列車を記録するため、雪をかぶった鉄たちが三脚立てて写真撮影をしていた。工事中なので仮設駅の出入り口がおおきく動いていたため、路面電車にのるには、大雪の中あるいてかなり遠くのビルの麓に行かねばならない。傘をさして荷物もって雪まみれになりながらとぼとぼ歩く。雪ふりすぎ。
こんなんじゃ北日本新聞社いっても相手にされないだろうなと思いつつ、せっかくきたので「きちゃった」のノリで一応よってみる。受付で名刺をわたすと意外にスムーズにつないでくれ、上にあがると、ひろーいフロアは記者が出払っていてガラーンとしている。対応してくださった偉い方は、「ご覧の通り、いま北陸新幹線の開業関連で記者は出払っており、大手マスコミも全国から集まっています。郷土の偉人については私たちも興味がありますので四月中頃くらいの感じで」とぺつに急ぐ話しでないので、きた甲斐があったこととする(後篇へと続く)。
『チベット伝統医学の薬材研究』ついに完成!
ついに『チベット伝統医学の薬材研究』がでた。

赤い外箱から本書をだすと、表紙は青色、すなわち薬師如来のシンボルカラーである。表紙裏のそでの写真はプロの写真家がとったかのような美しいチベットの風景写真。いやー、私がとったとはとても思えない。
写本の印刷は美術出版でならした藝華書院なので申し分ない。訳註は別冊になっているので本体と参照しやすい。お値段は一冊15000円とちょっと高いが、この出版社さんが前にだした本は一冊12万円なのでそれと比べりゃ安い(笑)。

本書の内容を簡単に述べよう。
チベット医学は、インド(ラダック、ザンスカール、ヒマーチャルプラデーシュ州のヒマラヤ地域、シッキム)、モンゴル、中国(西蔵自治区、青海省、四川省、甘粛省、雲南省内の蔵族自治州・自治県)、ロシアのブリヤート共和国・カルムキア共和国・トバ自治県、ブータンなどのチベット文化の影響を受けた人々の住む地域において、現在も臨床で用いられ、かつ研究されている伝統医学であり、一部のチベット薬は世界市場に進出して一定の評価を得ている。
チベット医学はインドのアーユルヴェーダ医学や中国の伝統医学の影響を強く受けている。とは言え、その根本に仏教思想を据えていること、チベット高原の豊かな動・植物相は他の医学にない豊富な薬材をチベット医学に提供していることなどから、それら近隣の伝統医学と一線を画していることは明らかである。それにもかかわらず、現在チベットという国が存在しないことから、チベット医学は中国国内においては中国医学の一部として扱われ、また、インドにおいてはアーユルヴェーダの影響を過大視しつつ説かれる傾向がある。そこで本書ではチベット医学のオリジナル性がはっきりとでている薬材に焦点をあて、その味や効能の解釈もチベット医学の古典的な注釈書に基づいて行う事に留意した。
本書の著者たちは90年代から細々と続いている「チベット医学研究会」という小さなサークルのメンバーである。このサークルでの購読したテクストの歴史と言えば、アーユルヴェーダの古典『アシュターンガ・フリダヤ・サンヒター』のサンスクリット・チベット語対照テクスト、ジェ・ミパムの水銀薬の製造法のテクスト「宝のごとき水銀を調合する物語」(成果は『史滴』35、2013年、81-199頁に発表)、ついでダライラマ五世の摂政サンゲギャムツォの著した医学史(sde srid sangs rgyas rgya mtsho. gso rig sman gyi khog 'bugs. 甘粛民族出版社、1982年)、そして『四部医典』の薬材の章(第2部第19章-21章)などである。
この最後のテクストの成果が本書第1章と2章に反映している。

次に、第3章においては、東本願寺の僧、寺本婉雅が1898年に北京のチベット僧院雍和宮において入手したチベット医学の本草図譜の訳註を行った。寺本婉雅は20世紀初頭の日本の大陸政策に仏教界から深く関わった人物である。
第4章 第2節の「チベットの薬材名と属名の対応表」は『四部医典』第19から第21章に現れる薬材の名の下で、従来どのような動植物が用いられてきたのかを総覧したデータ集であり、これを作るのに血の涙を流したことは作夏のエントリーにも書いた。
学名対照表の作成にあたっては、まず14冊の先行研究を著者四人で分担し、そこに記された学名をExcelの表に入力したこの時点でいろいろな事情から四等分できず西脇さんに一番の負担がかかった)。そのExcelの基礎データからデータベースを構築し、オンラインで参照・編集のできるWebアプリケーションを福田が作成した。このアプリケーションによって、アクセス権のある各人が遠隔地からでも同一のデータベースにアクセスし、追加・修正が可能となった。本書第4章の対応表は、2014年8月時点のデータベースから、薬材名の和訳名、チベット語、出現箇所、『番漢藥名』の漢語、属名情報のみを抽出して整理したものである。詳細な情報についてはオンラインのデータベースを参照していただきたい。
本データベース作成にあたっては昭和大学薬学部生薬学・植物薬品化学教室の鳥居塚和生教授に平成23年度の科研で分担金を配分してくださったが、鳥居塚先生は2014年5月24日に永眠された。本書の完成をご報告できなかったことがとても悲しい。
チベット医学は中国医学・インド医学にも比肩する豊かな伝統をもつものであり、本書が扱ったのは、そのほんの一端にすぎず、それですら理解の至らない点が多いかと思われる。願わくば後に続く方たちがより広く深くチベット医学を究明していって頂きたい。私はもう疲れたので、お若い方たちに頑張ってもらいたいです。
本書の購入を希望される方は出版元の藝下書院さんへ電話かFaxでお申し込みください。
電話番号は 03-5842-3815
FAXは 03-5842-3816 です。

赤い外箱から本書をだすと、表紙は青色、すなわち薬師如来のシンボルカラーである。表紙裏のそでの写真はプロの写真家がとったかのような美しいチベットの風景写真。いやー、私がとったとはとても思えない。
写本の印刷は美術出版でならした藝華書院なので申し分ない。訳註は別冊になっているので本体と参照しやすい。お値段は一冊15000円とちょっと高いが、この出版社さんが前にだした本は一冊12万円なのでそれと比べりゃ安い(笑)。

本書の内容を簡単に述べよう。
チベット医学は、インド(ラダック、ザンスカール、ヒマーチャルプラデーシュ州のヒマラヤ地域、シッキム)、モンゴル、中国(西蔵自治区、青海省、四川省、甘粛省、雲南省内の蔵族自治州・自治県)、ロシアのブリヤート共和国・カルムキア共和国・トバ自治県、ブータンなどのチベット文化の影響を受けた人々の住む地域において、現在も臨床で用いられ、かつ研究されている伝統医学であり、一部のチベット薬は世界市場に進出して一定の評価を得ている。
チベット医学はインドのアーユルヴェーダ医学や中国の伝統医学の影響を強く受けている。とは言え、その根本に仏教思想を据えていること、チベット高原の豊かな動・植物相は他の医学にない豊富な薬材をチベット医学に提供していることなどから、それら近隣の伝統医学と一線を画していることは明らかである。それにもかかわらず、現在チベットという国が存在しないことから、チベット医学は中国国内においては中国医学の一部として扱われ、また、インドにおいてはアーユルヴェーダの影響を過大視しつつ説かれる傾向がある。そこで本書ではチベット医学のオリジナル性がはっきりとでている薬材に焦点をあて、その味や効能の解釈もチベット医学の古典的な注釈書に基づいて行う事に留意した。
本書の著者たちは90年代から細々と続いている「チベット医学研究会」という小さなサークルのメンバーである。このサークルでの購読したテクストの歴史と言えば、アーユルヴェーダの古典『アシュターンガ・フリダヤ・サンヒター』のサンスクリット・チベット語対照テクスト、ジェ・ミパムの水銀薬の製造法のテクスト「宝のごとき水銀を調合する物語」(成果は『史滴』35、2013年、81-199頁に発表)、ついでダライラマ五世の摂政サンゲギャムツォの著した医学史(sde srid sangs rgyas rgya mtsho. gso rig sman gyi khog 'bugs. 甘粛民族出版社、1982年)、そして『四部医典』の薬材の章(第2部第19章-21章)などである。
この最後のテクストの成果が本書第1章と2章に反映している。

次に、第3章においては、東本願寺の僧、寺本婉雅が1898年に北京のチベット僧院雍和宮において入手したチベット医学の本草図譜の訳註を行った。寺本婉雅は20世紀初頭の日本の大陸政策に仏教界から深く関わった人物である。
第4章 第2節の「チベットの薬材名と属名の対応表」は『四部医典』第19から第21章に現れる薬材の名の下で、従来どのような動植物が用いられてきたのかを総覧したデータ集であり、これを作るのに血の涙を流したことは作夏のエントリーにも書いた。
学名対照表の作成にあたっては、まず14冊の先行研究を著者四人で分担し、そこに記された学名をExcelの表に入力したこの時点でいろいろな事情から四等分できず西脇さんに一番の負担がかかった)。そのExcelの基礎データからデータベースを構築し、オンラインで参照・編集のできるWebアプリケーションを福田が作成した。このアプリケーションによって、アクセス権のある各人が遠隔地からでも同一のデータベースにアクセスし、追加・修正が可能となった。本書第4章の対応表は、2014年8月時点のデータベースから、薬材名の和訳名、チベット語、出現箇所、『番漢藥名』の漢語、属名情報のみを抽出して整理したものである。詳細な情報についてはオンラインのデータベースを参照していただきたい。
本データベース作成にあたっては昭和大学薬学部生薬学・植物薬品化学教室の鳥居塚和生教授に平成23年度の科研で分担金を配分してくださったが、鳥居塚先生は2014年5月24日に永眠された。本書の完成をご報告できなかったことがとても悲しい。
チベット医学は中国医学・インド医学にも比肩する豊かな伝統をもつものであり、本書が扱ったのは、そのほんの一端にすぎず、それですら理解の至らない点が多いかと思われる。願わくば後に続く方たちがより広く深くチベット医学を究明していって頂きたい。私はもう疲れたので、お若い方たちに頑張ってもらいたいです。
本書の購入を希望される方は出版元の藝下書院さんへ電話かFaxでお申し込みください。
電話番号は 03-5842-3815
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