能海寛研究会に行ってきた
能海寛は島根の浄蓮寺(浄土真宗)に生を受け、1891年(明治24)に哲学館 (現在の東洋大学) に入学し、ここで井上円了から哲学を、イギリスのオックスフォード大学に留学した南条文雄から近代的な仏教学を学んだ。そして、世界には様々なタイプの仏教があること、ヨーロッパでは仏教が思想として高く評価されていることを知る。
世界では仏教ブームが起きていたのに、日本仏教は惨憺たる状況であった。
廃仏毀釈によりお寺は既得権を奪われ、仏像が道路に野積みされるレベルで荒廃していた。これらの仏像がアメリカやフランスに流出してボストン美術館やギメ美術館に収蔵されていったことはよく知られている。このように仏教が衰運のど真ん中にあって、寺の跡継ぎとなった能海寛の悩みは深刻だった。そこで彼は日本仏教をグローバル化し世界にうってでる一発逆転ホームランをねらうのである。
能海は、大乗仏教・小乗仏教の区別のない、宗派の別もない、ビルマ・タイ・中国・朝鮮・日本などと国別の仏教でもない、それらを統合した思想としての仏教を日本でたちあげ、それを海外で布教しよう、と決意した。その準備としてチベットに潜入してチベット仏教の大蔵経を求める必要が生じたのである。
しかし、1901年、雲南から鎖国中のチベットに潜入しようとした能海は行方をたち今に至るまで帰ってきてない。1903年頃、道中のトラブルで殺されたのではないかと言われている。
能海と同時代の哲学館にはあの河口慧海も学んでいた。こちらもやはり既成の仏教教団のあり方、人々を痛烈に批判したものの、1901年にチベット潜入に成功し、帰国後新聞に旅行記を掲載したことによって一躍有名となり、明治の日本にチベット・ブームを巻き起した。20世紀初頭、チベットには多田等観、青木文教、寺本婉雅なども入ったが、中でも河口慧海が一番有名なのは、一番にラサに辿り着いたということと、旅行記がヒットしたことが大きい。
生きて帰り、記録を残すということは重要である。そのいずれも行わなかった能海寛は長く忘れられていたが、郷里の人は違った。隅田正三氏は40年以上前から能海に興味をもち、能海寛研究会を立ち上げ、また、講演や執筆を通じて能海寛を顕彰し続けてきた。
「能海寛研究会」は二ヶ月に1回のペースで学習会を行っている。普段は能海の生地の島根県を中心に活動しているのだが、第119回目となる今回は、6年ぶりくらいに東京で行われるとのことで、昨年末出雲で会長先生自らお誘い下さったので、会場となる東洋大学の井上円了研究センター訪問とかが楽しそうだったので行ってみることとした。
東洋大学は言うまでもなく能海寛の母校である哲学館の後身である。同大8号館前にて集合し、井上円了の研究者三浦節夫先生のご案内で井上円了研究センターと井上円了記念博物館を訪問する。井上円了の自筆原稿などがおいてあったが、多くは哲学堂においてあり、それらの大半は戦後散逸してまったので、古書店などから買い戻しているという。
私が井上円了の揮毫した書とかはあるのですか?と伺うと、「日本中を講演して寄付を集めていたので、全国あちこちに井上先生の書はあり,今もそれを寄付してくれるかたがあとをたちません。つい先ほどもそのような方がいらっしゃってました」とのこと。
博物館の入り口には井上円了が尊崇した四聖(ソクラテス・カント・仏陀・孔子)が祀られている。三浦先生曰く、この古今東西クロスオーバーの人選が示すように、彼はお寺に生まれたから仏教を信じるのではなく、仏教の教えが真理であるから仏教を尊んでいたとのこと。
さて今回の学習会の内容はこんなカンジでした。
第119回定例学習会 : 2015年1月10日
14:00 -14:30 開会式・プレゼン「能海学」への招待
「研究会20年の歩み」
14:30-17:00 研究発表
(1) 岡崎秀紀「最近の研究から」
(2) 中村保「最近のチベット情勢」
(3) 飯塚勝重「能海寛と新仏教徒論 渡清日記に見る」
(4) 盛田武士「四番目の入蔵者 矢島保次郎」
(5) 江本嘉伸「能海寛との関わり」
(6) 三浦節夫「井上円了と能海寛の師弟関係」
「20年のあゆみ」によると、能海関連資料の大量発見は過去2回あり、昭和61年(1986)8月31日に上海から800点、平成8年(1996)11月10日に能海の生家浄蓮寺書庫から2000点余りである。これらの資料は同会の隅田正三さんが整理・管理されているとのこと。また、同会は平成22年(2010)に『能海寛著作集』全15巻(USS出版)を発刊し、これにも同氏が解説を付している(早稲田大学図書館に入ってなかったので購入希望申請をしたら一昨日受理された)。1996年創刊の機関誌は『石峯』。
次に会長の岡崎さんの話。1889年にスリランカ独立の父ダルマパーラが訪日した際、能海とあっていて、ダルマパーラの日記の1890年(明治23) 3月5日の条に能海の名前が確認できたとのこと。また、日本初の英字仏教雑誌The Bijou of Asia(1888-1899)と、1989年10月11日にダルマパーラが発刊した雑誌The Buddhist の第一巻の冒頭には同じ表現が見いだせると。
ラフカディオハーン(アイルランド人の父とギリシア人の母)よりも20年前に日本にきて日本の修験道や天台で修行をしたチャールズ・フォンデュス(Charles James William Pfoundes ;1840–1907)というアイルランド人について研究し学会にも参加されてきたと。
そこで家に帰ってチャールズ・フォンデュスで検索してみたら、去年の暮れに、「西洋人初の仏教徒 チャールズ・フォンデュス」という記事がアイリッシュ・タイムズに掲載されていた。 コレ↓
チャールズ・フォンデュスが最初に仏教を西洋にもたらした (『アイリッシュ・タイムズ』2014年12月15日)
アイルランドと日本の研究者の最近の研究によって明かになったことによると、1889年に西洋へ最初にやってきた仏教伝道団は、アイルランド人のチャールズ・フォンデュスによって率いられていたようだ。これまではそれは1899年にカリフォルニアにおくられた仏教伝道団が最初のものだと信じられていた。
仏教は道徳と瞑想を涵養し修習することにより、個人の精神性を向上させ、覚りを得ることを目標としている。ゴータマ・シッタルダ、すなわち仏様は現在のネパールに2500年以上前に生まれた。
チャールズ・ジェームズ・ウィリアム・フォンデュスは1840年にウォーターフィールドの近郊に生を受けた。最初期のアイルランド人の日本研究家であると信じられてきた。彼の日本の関する研究はラフカディオ・ハーンよりも20年も遡るものである。
Maynooth大学のローレンス・コックス博士、UCCのブライアン・ボッキング教授、国立舞鶴工業高等専門学校の吉永進一教授は1889年、フォンデュスが日本仏教普及協会(Japanese Buddhist Propagation Society)のロンドン代表になっていたことを発見した。

フォンデュスは14才でオーストラリアへ移住し、広く旅をしながら日本に辿り着いた。彼は日本の風習や文化に魅入られ、すぐに日本語に堪能となり、名前も日本語のすスペルを反映したPoudsに改名した。.
1879年から1893年にかけて彼はロンドンに居住し、その後日本に戻り、1907年の12月2日に神戸でなくなった。今日、吉永教授とコックス博士は神戸外人墓地に埋葬されているフォンデュスの墓参りを行うという。
記事のソース→ここ
記事の内容は以上であるが、記事の写真はチベット僧が砂マンダラを作っているものである(笑)。これは最初に西洋に仏教を組織的に伝えたのは日本であったろうが、今や西洋で仏教と言えばチベット仏教になっちゃったことを示している。アメリカ西海岸の仏教も最初は日本禅が流行していたが、今はチベット仏教だし。
フォンデュスの同時代の能海寛もチベットに向かおうとしていたわけだから、考えようによっては、国際的に通用する仏教を提唱するにはやはり日本仏教では力不足で、チベット仏教の方に軍配があがろう。思想は論理的で難民となっても僧院生活を維持し続け、その伝統の力から発信しているのだから、チベット仏教は底力があるのだ。
世界では仏教ブームが起きていたのに、日本仏教は惨憺たる状況であった。
廃仏毀釈によりお寺は既得権を奪われ、仏像が道路に野積みされるレベルで荒廃していた。これらの仏像がアメリカやフランスに流出してボストン美術館やギメ美術館に収蔵されていったことはよく知られている。このように仏教が衰運のど真ん中にあって、寺の跡継ぎとなった能海寛の悩みは深刻だった。そこで彼は日本仏教をグローバル化し世界にうってでる一発逆転ホームランをねらうのである。
能海は、大乗仏教・小乗仏教の区別のない、宗派の別もない、ビルマ・タイ・中国・朝鮮・日本などと国別の仏教でもない、それらを統合した思想としての仏教を日本でたちあげ、それを海外で布教しよう、と決意した。その準備としてチベットに潜入してチベット仏教の大蔵経を求める必要が生じたのである。
しかし、1901年、雲南から鎖国中のチベットに潜入しようとした能海は行方をたち今に至るまで帰ってきてない。1903年頃、道中のトラブルで殺されたのではないかと言われている。
能海と同時代の哲学館にはあの河口慧海も学んでいた。こちらもやはり既成の仏教教団のあり方、人々を痛烈に批判したものの、1901年にチベット潜入に成功し、帰国後新聞に旅行記を掲載したことによって一躍有名となり、明治の日本にチベット・ブームを巻き起した。20世紀初頭、チベットには多田等観、青木文教、寺本婉雅なども入ったが、中でも河口慧海が一番有名なのは、一番にラサに辿り着いたということと、旅行記がヒットしたことが大きい。
生きて帰り、記録を残すということは重要である。そのいずれも行わなかった能海寛は長く忘れられていたが、郷里の人は違った。隅田正三氏は40年以上前から能海に興味をもち、能海寛研究会を立ち上げ、また、講演や執筆を通じて能海寛を顕彰し続けてきた。
「能海寛研究会」は二ヶ月に1回のペースで学習会を行っている。普段は能海の生地の島根県を中心に活動しているのだが、第119回目となる今回は、6年ぶりくらいに東京で行われるとのことで、昨年末出雲で会長先生自らお誘い下さったので、会場となる東洋大学の井上円了研究センター訪問とかが楽しそうだったので行ってみることとした。
東洋大学は言うまでもなく能海寛の母校である哲学館の後身である。同大8号館前にて集合し、井上円了の研究者三浦節夫先生のご案内で井上円了研究センターと井上円了記念博物館を訪問する。井上円了の自筆原稿などがおいてあったが、多くは哲学堂においてあり、それらの大半は戦後散逸してまったので、古書店などから買い戻しているという。
私が井上円了の揮毫した書とかはあるのですか?と伺うと、「日本中を講演して寄付を集めていたので、全国あちこちに井上先生の書はあり,今もそれを寄付してくれるかたがあとをたちません。つい先ほどもそのような方がいらっしゃってました」とのこと。
博物館の入り口には井上円了が尊崇した四聖(ソクラテス・カント・仏陀・孔子)が祀られている。三浦先生曰く、この古今東西クロスオーバーの人選が示すように、彼はお寺に生まれたから仏教を信じるのではなく、仏教の教えが真理であるから仏教を尊んでいたとのこと。
さて今回の学習会の内容はこんなカンジでした。
第119回定例学習会 : 2015年1月10日
14:00 -14:30 開会式・プレゼン「能海学」への招待
「研究会20年の歩み」
14:30-17:00 研究発表
(1) 岡崎秀紀「最近の研究から」
(2) 中村保「最近のチベット情勢」
(3) 飯塚勝重「能海寛と新仏教徒論 渡清日記に見る」
(4) 盛田武士「四番目の入蔵者 矢島保次郎」
(5) 江本嘉伸「能海寛との関わり」
(6) 三浦節夫「井上円了と能海寛の師弟関係」
「20年のあゆみ」によると、能海関連資料の大量発見は過去2回あり、昭和61年(1986)8月31日に上海から800点、平成8年(1996)11月10日に能海の生家浄蓮寺書庫から2000点余りである。これらの資料は同会の隅田正三さんが整理・管理されているとのこと。また、同会は平成22年(2010)に『能海寛著作集』全15巻(USS出版)を発刊し、これにも同氏が解説を付している(早稲田大学図書館に入ってなかったので購入希望申請をしたら一昨日受理された)。1996年創刊の機関誌は『石峯』。
次に会長の岡崎さんの話。1889年にスリランカ独立の父ダルマパーラが訪日した際、能海とあっていて、ダルマパーラの日記の1890年(明治23) 3月5日の条に能海の名前が確認できたとのこと。また、日本初の英字仏教雑誌The Bijou of Asia(1888-1899)と、1989年10月11日にダルマパーラが発刊した雑誌The Buddhist の第一巻の冒頭には同じ表現が見いだせると。
ラフカディオハーン(アイルランド人の父とギリシア人の母)よりも20年前に日本にきて日本の修験道や天台で修行をしたチャールズ・フォンデュス(Charles James William Pfoundes ;1840–1907)というアイルランド人について研究し学会にも参加されてきたと。
そこで家に帰ってチャールズ・フォンデュスで検索してみたら、去年の暮れに、「西洋人初の仏教徒 チャールズ・フォンデュス」という記事がアイリッシュ・タイムズに掲載されていた。 コレ↓
チャールズ・フォンデュスが最初に仏教を西洋にもたらした (『アイリッシュ・タイムズ』2014年12月15日)
アイルランドと日本の研究者の最近の研究によって明かになったことによると、1889年に西洋へ最初にやってきた仏教伝道団は、アイルランド人のチャールズ・フォンデュスによって率いられていたようだ。これまではそれは1899年にカリフォルニアにおくられた仏教伝道団が最初のものだと信じられていた。
仏教は道徳と瞑想を涵養し修習することにより、個人の精神性を向上させ、覚りを得ることを目標としている。ゴータマ・シッタルダ、すなわち仏様は現在のネパールに2500年以上前に生まれた。
チャールズ・ジェームズ・ウィリアム・フォンデュスは1840年にウォーターフィールドの近郊に生を受けた。最初期のアイルランド人の日本研究家であると信じられてきた。彼の日本の関する研究はラフカディオ・ハーンよりも20年も遡るものである。
Maynooth大学のローレンス・コックス博士、UCCのブライアン・ボッキング教授、国立舞鶴工業高等専門学校の吉永進一教授は1889年、フォンデュスが日本仏教普及協会(Japanese Buddhist Propagation Society)のロンドン代表になっていたことを発見した。

フォンデュスは14才でオーストラリアへ移住し、広く旅をしながら日本に辿り着いた。彼は日本の風習や文化に魅入られ、すぐに日本語に堪能となり、名前も日本語のすスペルを反映したPoudsに改名した。.
1879年から1893年にかけて彼はロンドンに居住し、その後日本に戻り、1907年の12月2日に神戸でなくなった。今日、吉永教授とコックス博士は神戸外人墓地に埋葬されているフォンデュスの墓参りを行うという。
記事のソース→ここ
記事の内容は以上であるが、記事の写真はチベット僧が砂マンダラを作っているものである(笑)。これは最初に西洋に仏教を組織的に伝えたのは日本であったろうが、今や西洋で仏教と言えばチベット仏教になっちゃったことを示している。アメリカ西海岸の仏教も最初は日本禅が流行していたが、今はチベット仏教だし。
フォンデュスの同時代の能海寛もチベットに向かおうとしていたわけだから、考えようによっては、国際的に通用する仏教を提唱するにはやはり日本仏教では力不足で、チベット仏教の方に軍配があがろう。思想は論理的で難民となっても僧院生活を維持し続け、その伝統の力から発信しているのだから、チベット仏教は底力があるのだ。
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