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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/12/29(月)   CATEGORY: 未分類
チベット・オタクから見た2014年の世界
△無理が通れば道理ひっこむ

 例年、この時期チベット関連五大ニュースを発表しているのだが、今年はチベットをとりまく世界情勢をまず概観したい。

 1959年にチベットが中国に占領されて国として消滅して以来、チベット人は非暴力と許しをもって中国の心を変えようと努力しつづけきた。非暴力運動による独裁政府の転覆自体は世界の趨勢となり、1989年のポーランドの普通選挙実現、ベルリンの壁崩壊、ハンガリーの民主化、ビロード革命など東ヨーロッパの北部では無血の体制転換が実現した。いずれも市民の体をはった非暴力デモがきっかけである。一方、ルーマニア、旧ユーゴスラビアでは血が流れ、中国に至っては天安門事件で大流血したあげく、一党独裁体制すら変わらないまま今年で25年である(笑)。

 あの魔法がかかったような1989年、ノーベル平和賞の受賞者はダライラマ14世であった。

 天安門事件に激怒した国際社会は、非暴力をもって中国と気高く闘ってきたダライラマ14世を顕彰することによって、国民を虐げないように警告したのである。この年を境にダライラマ14世の認知度は世界レベルとなり、ダライラマは世界中で尊ばれるようになった。しかし、そのような時代は長くは続かなかった。1997年に中国はWTOに加盟し、世界市場に参入した経済力を武器に、自らの体制に批判的な言動を封じ始めたからである。

 2008年に中国の民主化をとなえる劉暁波氏が08憲章をリリースすると、投獄され、氏がノーベル平和賞を受賞すると、中国はノルウェーサーモンを禁輸し、倉庫で腐らせるままにした。2年前中国がフィリピンと領海を争った時はフィリピンバナナが大量に倉庫で腐った。ゲッティンゲン大学は「ダライラマ効果」という報告書で「ある国の国家元首がダライラマと会見すると、その国の対中輸出は必ず減少し平均二年続く」という研究を行っている。

 このような中国による地道なイヤガラセが功を奏して、近年はダライラマ法王との面会を避ける国家元首が増えてきた。現実を前にして理想が敗北しているのである。

 つい最近では、ノーベル平和賞サミットでローマを訪れたダライラマ14世は、ローマ教皇に面会を断られた。フランシスコ法王は国交のない中国政府に対話を呼び掛けているからだと解釈する向きがあるが、これまで中国政府は対話するするといいつつ、対話の席では自己の主張を述べるだけということを繰り返してきたので、ローマ法王がそれを知らないはずはない。おそらくフランシスコ法王は対話よりも中国国内のカトリック教徒がイヤガラセで弾圧されるのを恐れたのだろう。

 まあ早い話、中国は経済力と軍事力と国際法無視の不条理さによって、〔事なかれで〕穏健な国際社会を黙らせつつあったのである。

 今年、キッシンジャーが世にだした『世界秩序』(world order)の中で「東アジアはナショナリズムで頭に血が上っていて、民主主義とか西側の理想を根付かせるのはムリ。もう東アジアはほっとけ」というようなことをいったのは象徴的である (この本は中国の方々に大変評判がよいとのことである)。

 中国とは関係ないが、ロシアがクリミアとウクライナ東部を力で編入したのも同じ流れである。思えばロシアのこのような行動は、2008年の北京オリンピックの開会式に行われたグルジア侵攻から始まっている(今もグルジアは国土の一部をロシアに占領されたまま)。我々が異常と思ってきたことが、常態化しそうなイヤな気配が漂う今日この頃である。

△隣国のリアクション

 中国のこのような行動は直接間接に隣接する国々に脅威を感じさせ、香港、ベトナム、日本、台湾では以下のようなリアクションが始まった。日付順に並べる。
 
(1)台湾のひまわり学生運動 
  3月18日~4月10日 馬英九政権が中国政府との間に「サービス貿易協定」を結ぼうとしたため、これに反対する学生が、立法院議場を占拠。その時差し入れられたヒマワリの花(太陽花)が運動の象徴に。政権は学生に譲歩し、馬英九率いる国民党は統一選挙で大敗。

(2) ベトナムで反中デモ
   5月13日~15日 南シナ海で中国の石油会社が違法な掘削リグを設置し、それを阻止しようとするベトナムの巡視船と衝突。ベトナムは国際社会に法に則って中国の不法を訴えつつも、このデモは暴徒化し中国人を中心に16人が死亡。

(3)香港雨傘革命  
7月~12月12日 7月1日に香港返還20周年を記念して返還以来最大の50万人デモがおきた。その後、民主的な選挙の導入を求める学生たちが、香港の金融街など数カ所を占拠して行政機能を麻痺させた。当局の催涙弾や唐辛子スプレーに雨傘で防戦したため雨傘が運動(中国政府にとっては取り締まり)の象徴に。香港政府は一切譲歩せず、12月、金鐘にあった最大拠点が強制排除されたのを受け、学生2団体は撤退を決定。これは暗いニュース。

(4) 日本は集団的自衛権を閣議決定
  7月1日安倍内閣は集団的自衛権を閣議決定。12月の衆院選挙で自民党圧勝。しかし、共産党が躍進し、極右の次世代の党が壊滅したので、右傾化したとは言えない。

 つまり、今年は中国とロシアの「力による現状変更」が一線を越えたため、周辺の国々で具体的なカウンターアクションが始まった年ともいえる。

 一つ明るい話しをすれば、香港の学生を制圧するために、一応中国は銃はうたなかったので、天安門に多少は学んでいるのだろう。あと、ロシアもクリミア東部を編入する際、覆面の男たちを使い、彼らがロシア軍属であることをかくしていたので、少なくとも威張ってやっていいこととは思っていないところに、わずかながらの良心を感じた。わずかだけど。

  そして、忘れてはならないのは『朝日新聞』の凋落。朝日新聞といえば、かの文化大革命の際に中国政府の言うことをそのまま日本に流し、唯一北京から支局が追放にならなかった外国メディアである。1989年のダライラマのノーベル平和賞受賞の際に社説で「中国を怒らせるなら平和賞の名にふさわしくない」と水を差したのも朝日である。つまり、朝日はずっと中国に配慮した記事に終始していたが、最近は2010年に劉 暁波さんがノーベル平和賞とった際には、劉さんの側に全面的に立ち中国政府を批判するなど 随分中国政府に辛口になっていた (ダライラマの場合と状況は同じなのに社説の内容が変わった。ちなみに中国政府のコメントは25年たってもまったく同じ 笑)。
   
私は朝日新聞をたたく気は毛頭ない。もう社会的な制裁は受けているし、権力は監視した方がいいし、水に落ちた犬を叩くみたいなこともしたくないから。でも一言言いたい。

  文化大革命の時、市民がリンチで次々殺されていた時、あなたたちはそれを報道せずに、エドガー・スノーの毛沢東会見記とかを詳細にのせて彼の偶像化に貢献していましたよね。あの時、あなたたちは中国という権力を監視していましたか? チベットにいってチベット人達のナマの声を取材していましたか?

 チベット報道は吉田証言を裏を取らずに使った誤報問題と同根なのである。『朝日新聞』の偉い人たちは自らの主張を読者にすりこむことを優先し、都合の悪い事実は見ないようにした。 今からでもいいから、チベット問題をとりあげてください、心からお願いします。
 
  △年末におきた変調

 とこのように、中国とロシアのゴリおし振りが際立つここ数年であるが、この年末にきて少し情勢が変わりつつある。シェールガスなどにより原油がだぶついて、原油価格がさがったため、12月16日、資源輸出国のロシア通貨が二割暴落。最安値を記録。

 また、フランシスコ教皇が仲介して、12月18日、アメリカ、キューバが国交回復。これはロシアにとって寝耳に水であった。ヨハネ・パウロ二世が1991年のソ連の崩壊に力があったことは有名だが、フランシスコ教皇は先々代のようなイニシアチブを発揮するのか? 中国との実質的な対話を行えるのか? などなど来年どうなるのか世界情勢は予断を許さない。

 ちなみに、中国の経済成長は鈍化を続けており、ナショナリズムを利用して国内をまとめる手法も頭のいい人たちからそろそろ見抜かれはじめている。中国もロシアも25年前とは違う。「未来を考えて体を張った」香港や台湾の若い中国人たちは従来の中国人のイメージ「自分の利益につながることにしか興味ない」を打ち破った。

 来年は、どんなことが起きるのだろう。私は歴史家なので未来は予言しないが、いろいろな未来を思い描いている。願わくば、圧政や紛争で苦しむ人が一人でも少なくなる明日がきてほしい。

 最期に、日本のチベット関連のニュースを日付順に

 4月 ギュメ元管長ガワン先生の生まれ変わりテンジン・ロプサンが正式に即位
 4月 高野山でダライラマ法王胎蔵界灌頂
 5月 ゴマン・ハウス、オープン
 6月 法王代表事務所の代表がラクパさんからルントクさんへ
 10月 ゴマン学堂のゲン・ロサン先生がギュメ大僧院の副館長(ラマ・ウムゼ)に就任。いずれ管長になることが確定。

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DATE: 2014/12/09(火)   CATEGORY: 未分類
神在月の出雲にて
 出雲の峯寺にお呼ばれしたので、今年の夏、ギュメ大僧院を訪問して、ガワン先生の生まれ変わりと会ったお話をさせて頂いた。

 十二月の出雲、とくに海近くにある出雲大社は寒いと聞いていたので、暖かさを重視した色気のない服装で飛行機に乗った。

 飛行機で隣になった会社の経営者だという方は、「よく飛行機と宿がとれましたね」と言うので、なんでと聞けば、「今は神在月だから、宿も飛行機も予約をとるのが大変ですよ」とのこと。
 そういえば、旧暦の十月を神無月というのは、全国の八百万の神様が出雲に会議をするために集まり、全国のお社から神様が不在となるからだった。出雲だけは神様がいるので神在月といわれることは聞いたことがある。そうか、旧暦の十月は今年は十二月なのか。

 調べてみたら、今年は十二月一日に神迎祭をして八日までが神在祭であった。つまり私はまさに神在祭のまっただ中に出雲に向かっていたのである。その方のお話によるとこの期間は「夜神楽」といって、六時半以後の夜に出雲大社に入って祝詞を授かることができる。なぜ夜なのかというと八百万の神様のよりあいは夜行われるので、夜が最も御利益があるからだそうな。

 出雲縁結び空港につくと峯寺の住職快遍さんが迎えに来て下さっていて、そのまま出雲大社に向かう。天気は悪く、途中から雹がふりだした。傘をもってきておらず、「この中お参りするのはきついな」と思っていると、お社に着く頃に雹は上がって、雲がきれて空が見えだした。しかし、雲が近い。チベット高原でも雲が近いと感じるが、出雲は高地でもないのになぜこんなに雲を近く感じるのだろう。やはり雲の湧き出るところ「出雲」だからなのか。

 明治の頭の神仏分離以来、お寺と神社は犬猿の仲となっているが、ここ出雲では和解が進んでおり、神社とお寺を両方結んで∞の形になる神仏霊場の巡礼を提唱している。峯寺のご住職もこの霊場に属しているので出雲大社についても詳しく、いろいろな話を聞かせて下さった。
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 ご住職「出雲大社は現在60年に一度の遷宮の最中で、ご祭神の遷宮は2008年に始まって去年終了しました。本殿は国宝に指定されているので伊勢神宮のように建て替えはせずに、屋根だけ新しくしました。ご祭神は神職の担ぐ神輿にのって本殿にお戻りになりました。その時担ぎ手の一人から聞いたのですが、ご祭神は重くて、「こんなに重くて神社の階段を上がれるのか」と心配していたら、本殿にあがる前に一度神輿をおいて、再び担ぎ上げた時はすっと軽くなっていたとのことです。

 私「この前ゼミ生と京都いったんですが、六角堂にいった時、ご本尊の如意輪観音様はあの地にきた時、動かなくなったので、あそこに六角堂が作られて祀られたとのことです。チベットの都ラサの中心にある釈迦殿のお釈迦様もあそこまで荷車にのってきたものの、あの位置に来たところで車がスタックして動かなくなったので、あそこにお寺が建ったので、どこも同じですね。本尊・祭神が自ら場所を選ぶんですね」

 ご住職「私たち今本殿にむかって北面していますけど、ご祭神はじつはこちらを向いていないんですよ

 私「どちらの方角を向いているのですか」

 ご住職「西です」
 なので、私は西面で一番気合いをいれて拝んだ。

 ダンナから「今日は満月に近い月がみえるはずだよ」というメッセージがきたので、空をみるが、まだ明るくて月は見えない。それから峯寺の向かう車の中で、ご住職は出雲大社にまつわる不思議な話を始めた。

ご住職「この前行われた高円宮の次女の典子様と出雲大社の宮司の息子さん千家国麿さんのご婚儀の際、直前まで嵐の予報だったのに、行列が始まる時にはぴたっと雨がやみました。

 私「あの時の天気図はすごかったですよね。全国が荒天だったのに出雲だけ晴れていた。」

 ご住職「遷宮が終わる日にも不思議なことがあったんですよ。朝からすごい雨なのに午後七時に儀式がはじまると雨があがり、本殿の扉を閉めた瞬間に突風がふき、九時に司会の人が「以上で終了します」といった瞬間に風がやんで大雨が降り始めたんです。

 私「昔、秩父の夜祭りの際に、お水をとる井戸のある神社で同じような話を聞きました。本殿を新しくして、祭神をお戻しする時やはり突風がふいたそうです。どこも同じですねえ。直前まで荒れて、肝腎な時には雨があがるんですねえ」

 ご住職「不思議ですねえ
折しも雲の中から十四夜の月が顔をだし、斐伊川の川面に青白い月影をおとす。しかし、峯寺に近づくと再び天気が変わり、雨がぽつぽつふりだす。峯寺は160mの山の上にぽつんと鎮座しているため、山道を昇る。山道に入ると雨は雪に変わり、高度がますにつれ次第に雪の量も多くなっていった。

ご住職「明日万が一雪が積もって山道が通れなかったら除雪車を頼みます。積雪が15cmまでならスタッドレスタイヤがあれば上れますが

 大雪が降ったらチベフェス以前に、寺が孤立して我々は救援の対象となると思う。

 峯寺につくと、チベット・フェスティバル実行委員会という名の渡部秀樹さんの同窓会メンバーがすでに同窓会を始めている。

 私は「雪の峯寺」は初めてだったので、雪見キャンドルをしてみたくて、準備してきた。紙コップにアロマキャンドルをいれ、コップにはチベット旗、Long Live Dalai Lama、私利私欲に基づくMy bird forever!(笑)などを貼り付けると即席キャンドルのできあがり(ただ紙なので炎上に注意してね!)。
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 夜はみなで峯寺自慢の精進料理を戴きながらキャンドル鑑賞をした。雪の中のキャンドルは、思った通りに幻想的で、暖かい光を放ち、綺麗だった。

●12月7日

 明けて7日。雪はふっていないどころか、気温が上がって降った雪が溶け始めている。今日は満月である。ご住職は全く意図していなかったらしいが、神在月の出雲の満月で神仏霊場の一角をなす峯寺でお話をするとは実にもったいないシチュエーションである。
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 朝は本堂でお護摩が焚かれた。峯寺は大峯修験の寺なので、導師の周りを、先達と呼ばれる四人の山伏が取り囲んで護摩を焚く。法螺貝がプォプォーと吹かれ、山伏が斧をかかげたり、剣をぬいたりして口上を述べ、パフォーマンスが面白い。今は廃れた神仏混交・修験道の伝統が残っている。

 お護摩の最後には参拝者もお護摩の煙を頂戴して、山伏の方がわれわれの背中を錫杖で叩いてお祓いをしてくれる。咳が止まらないのでとまるかな~と期待したが、加持のあとも止まらなかった(笑)。

 そのあと、みなで精進料理とチベットのテントゥク(すいとん)をいただき、会場準備がはじまる。人出は足りているみたいなので、厨房に行くとチベット茶の準備をしている。咳の止まらない私がここにいてみなに風邪が蔓延するのもどうかと思い、邪魔にならない場所を探すうちに、良い場所を見つけた。庫裡の受付である。

 そこは一言でいえば玄関脇にある四畳半の事務所であるが、新聞が載ったこたつがある。こたつに手を入れると暖かい! 私はお寺に断ることもなく、迷わずこたつに入り、新聞の書評欄とかを読み始めた。時折、山門の雪が、下にとまったスタッフの車のボンネットの上にどかどか落ちていく。なごむ。客観的に考えてみると、皆が忙しく働く中、勝手に暖かいところを探して休んでいる私は、猫以外の何者でもない。

 しばらくすると、私を捜していたご住職が「あ、ここか」とやってきて、「能海寛研究会の岡崎さんがお見えになって、先生にお会いしたいとおっしゃっているのですが」

私「私の家ではありませんが、どうぞどうぞ」と岡崎さんにコタツをすすめる。猫よりずうずうしいかも。
 
 能海寛は1903年、チベットに潜入しようとして雲南で失踪した僧である。江本嘉伸氏の『能海寛チベットに消えた旅人』が最も手に入れやすい評伝であろう。彼の生地であるここ島根には能海寛研究会も存在している。私は最近ダライラマ13世の時代、すなわち能見が潜入しようとしていた時代のチベットの研究を行っているので、折があったらそちらの資料館にお邪魔させて頂きますと申し上げる。

 岡崎さんは「先生はいける口ですか」と聞かれたので、「たまに飲みますが」と言うと、アゴ(トビウオ)の燻製をお土産に下さった。キョーレツな臭いのする干物をいただくと、さらに猫のような気分になってきた。

 そして、来年私のゼミにやってくる島根のお寺出身のWくんのお父さんが来て下さった。お父さんの大学時代の同級生が私の知っている方だったりして、不思議なご縁を感じる。お父さんのお土産は「アゴのかまぼこ」。さらに猫気分がもりあがる(笑)。

 チベフェスの最初のプログラムはドキュメンタリージクデル。詳しい内容は過去のエントリーを見てね。

 次が探検家・写真家の渡部秀樹さんのスライドトーク「山から見てきたチベット」。チベットでは山は神そのものなので、西洋のスポーツである登山は土地の方にとっては不敬な行為となる。渡部さんは東チベットの無名峯の調査をする中で得た、土地の人々が山に対してよせる思いや、山の名前を決定するに際して調べた山の神の名前などについてお話をされた。

 渡部さんはここ松江の出身で、高校生の夏休みに担任の先生に峯寺の観音堂につっこまれて合宿をしていた。その後、県外にでた渡部さんは、仕事の傍らチベットの山々を登っていたが、2008年にチベット蜂起がおきた。チベットに多少なりとも関わっている人はみな心を痛めていたあの時、渡部さんはいろいろ調べているうちに私のこのブログにいきついた。

そこで、峯寺とチベットの関係を知り、懐かしくなった渡部さんは、30年ぶりに峯寺の門を叩いた。紅顔の美少年がアフガンゲリラに変貌していたので、峯寺のご住職も奥様も当初誰か分からなかったそうだが、すぐに「ああ、あの・・・」となり、思い出話に花が咲いた。

 その中で衝撃の事実が明らかになる。先代の住職は三人の女の子に恵まれたのだが、寺を嗣ぐ予定の第三ご息女妃女さんが、大阪の平岡家に嫁いでしまったため、現在のご住職快遍さんをお迎えした。この快遍さんのお父上が高校生の頃の渡部さんを峯寺の観音堂にたたき込んで自分は海外旅行にでかけた担任だったのである(笑)。

 つまり私のブログが峯寺と渡部さんを30年ぶりに結びつけたのだ。渡部さんが松江のかつての同級生に声をかけてこのチベフェスが始まった。不思議なご縁である。私は両親も兄弟もいないが、何かよく分からないご縁でいろいろな方とつながっているのが感じられて、とても不思議であった。全く孤独な存在なんてこの世にはいないのだなあとしみじみ思う。

 そして、14:20分くらいから、私がガワン先生の晩年のご様子、亡くなられた際のエピソード、4才になった生まれ変わりが今回、前世の弟子である平岡先生と再会した時の様子などをとてつもなく濃いエピソードととも話す。この講演をするために日記を検索して時系列にまとめていく作業を行う内に自分でも面白いと思っていた内容だったので、やはり、来場者にもうけた。まあこの峯寺のお嬢さんが主人公の一人なんだからリアリティがあるよな。
 
 こうして、無事出雲チベフェスは終わった。飛行場の出発ロビーにはしまねっこという島根のゆるきゃらの像が置かれていた。出雲のお社を頭にかぶった猫で、名前はただの親父ギャグである。しかし何か親近感を感じ、ご住職に頼んでツーショット写真をとって頂く。島根といえば、出雲大社、竹島、ラフカディオハーン、能海寛、中村元記念館、古事記、と文化の香りが漂うイメージだが、このしまねっこはその全てを無力化する脱力キャラである。
 
 私もしまねっこのように、脱力キャラであると同時に文化の香り発信する高度な技を磨いていこうと出雲の空に誓ったのであった。
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DATE: 2014/12/07(日)   CATEGORY: 未分類
ダラムサラ報告会で感じたこと
※ 出雲の話はこの次のエントリーで。

 11月30日に、都内某会議室でSFTによるダラムサラ報告会が開かれた。最近のダラムサラ事情がわかるかなーと思って軽い気持ちで参加して、何というかいろいろ考えさせられた。

 最初の報告者は比較的チベットについて知識がある方で、どことどこに行き、このような人と会って話を聞きました、という全体像を提起し、一つ一つの話の内容については客観的に簡潔に要約しているもので、聞いていてもあまり違和感は感じなかった。

 しかし、次の同じツアーに参加したチベットほぼ初心者という方の話に入ると違和感はいやましていく。あらかじめお断りしておくが、この方自身にはまったく問題はない。自分が感じたことを感じたままに話すので、こんな食事を食べましたとか、町の様子とかを聞かせていただく分には、ガイドブックのカラフルなコラム欄を見ているようで楽しい。

 しかし、「こういう人とあって話を聞きました」という件になると、TYC(チベット青年会議)の通称赤鉢巻テンジン・ツォンドゥーの「アツイ話」とか政治囚の語る悲惨な体験とかが中心になっていき、そこからは、チベット社会の大勢が目指している理念が見えてくることはなかった。

 赤鉢巻氏は遠路はるばるやってきた日本人に対して、「自分の気持ちにウソはつけないから中国に対する抗議活動をやっている。ダライラマも本音では独立を望んでいるが、国際社会の手前、自治だといっている。今、中国はインドの国境を侵していて、インドにも脅威となっている。インドと協力して中国と闘うのだ。これは民族と民族の戦いだ」みたいなことを言った。そりゃ初めての人が聞けば印象に残るだろう。
 しかし、この発言は良識あるチベット人にとって非常に違和感のある発言なのである。。

 わかりやすく説明しよう。

もし「天皇陛下は政治に介入できないお立場であるけど、本音では中国に対して不信感をもっていらっしゃる。だから代わりに私たちが声をあげねば」という人がいた場合、この人は本当に天皇陛下のことを思ってこういう発言をしていると思う人はいないだろう。「なんであなたに陛下の心内が分かるの。あなだか自分がやりたいことを天皇陛下の威を借りていってるだけだろう」、と普通は思うだろう。これと同じ。

 十字軍を始めた時、教皇ウルバヌスは「エルサレムの奪還を神が望んでいる、十字軍の先頭には神が立つ」と演説して人々を動員したが、「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出せ。上着を取られたら下着もあげろ」といった神様が果たして本当に十字軍を望んでいたかどうか、誰でも胸に手を当てれば分かるだろう。神の意志を叫んでいるのは、あくまでもある立場にある人間だ。 なので、「ダライラマが本当はこう思っている」とかいう言い回しを使う時点でアウトなのは分かるだろう。

 ダライラマはそもそも慈悲の菩薩観音様である。彼は亡命以後、一貫してこう繰り返し述べてきた(もちろん87年までは当然の権利として独立とも言っていた)。

 敵を憎み、友を愛したとしても、一瞬後には友が敵になり憎む対象になり、敵が友になるのが世の常である。それなのに人はエゴにとらわれて、あるものに敵のレッテルをはり憎み、友のレッテルを貼り執着し、心の安定を欠いている。敵にも友にも永遠に変わらない実体はない。
 それなのに、人は自分、自分の家族、自分の宗教、自分の国など、自分(エゴ)の延長にあるものにこだわり、全体をみなくることから、あらゆる問題(民族紛争、戦争、環境破壊etc.)を起こしている。
 すべての敵が未来の自分の友であると考えなさい。あなたの最大の敵は外にあるものではなくあなた自身のエゴである。
 この世界から争いをなくすのはエゴを押さえる教育が一番大切である。


 以上のようなことを説いてきたダライラマが、敵の敵は味方、中国の敵はインドだからインドと共闘すべしとかいう考え方を推奨するかどうか考えたら、簡単に答えはでる。もちろん否である。ダライラマ法王はチベット難民を受け入れたインドをはじめとする諸外国には心からの感謝を捧げはするけど、それらの国に国益をおかしてまで中国と闘えと要請したことは一度もない。そんなことをしても根本的な問題の解決にはならないからである。

 今回のツァーではもちろんチベット亡命議会の議長さんのお話も聞いていて、彼はもちろん亡命社会のとる中道路線についての解説を行い、「中国に対して間違ったメッセージを送ってはならない」と何度もいって、最後に「それぞれの国にはそれぞれの事情があるのだから国益に反してまでチベットを支援してくれなくてもいい」とおっしゃっており、最初の報告者の方はこの言葉に一番感銘を受けていた。

 チベット人は難民だから、亡命者だから、もちろんどんなところからでも支援は欲しい。なのに、議長さんのような発言がでるのは、もちろん世界平和と長期的にみたチベットの未来のためにあえてこのように発言しているのだ。このような言動に感動して、チベット文化をこの世界からなくしてはいけないと感じる人がでてきて、結果、チベット文化は国際社会で存在感をもち、ここまで存続してきたのである。
 
 しかし、チベット初心者が赤鉢巻と議長さんの言葉を両方聞いた場合、何のレクチャーも受けていなければ、当然前者の言葉の方が印象に残る。今の日本人大多数にとってこちらの考え方が理解しやすいからである。しかし、翻ってダライラマ法王のおっしゃていることにどんな矛盾があるのかと考えてみると、まったく矛盾がないのである。彼が偉いから受け入れられてきた見解ではなく、この同じことをホームレスがいったって正論である。発言内容が妥当だから世界中で受け入れられてきたのである。

 と思ったこの違和感を、この旅行の企画者の一人に電話してぶつけてみた。すると、このような答えが返ってきた。

企画者「確かに、チベット初心者の方はそういうところしか印象に残らないかもしれません。」

私「ツアー内容見て気になったのだけど、どうしてチベット文化の中心である僧院や僧侶の訪問時間がないの?」

企画者「尼僧院には行ってますよ」

私「でも僧侶から話を聞く時間はとっていないじゃない。一般の僧でもいいのよ。チベット文化に通底する伝統的な考え方を無視して外国人が理解しやすい抗議運動だけみせても、広い意味でのチベット理解や支援にはつながらないよ」

企画者「我々は俗人の世界とやっていくので、仏教について語るのは荷が重すぎます」

私「荷が重いとかでなくて、チベットの社会と仏教文化から生まれるモラルは切り離すことができないんだよ。」

 何で分からないかなと思いつつ説明するが、伝わらない。

 そういえばこの企画者前に私が質問を受けた時、私の書いた~を読んで見て、と言ったら「ああ、あれは仏教の本だと思って読んでいませんでした」と言ってたので、チベット社会の根源にある文化を理解する気はあまりないようだ。この分だとこのブログのエントリーも仏教認定されてスルーされているかも。

 実はこの企画者の方は、在日チベット人の支援に熱心である。それ自体は良いことなのだが、チベット人にもいろいろな方がいて、たとえばお金の管理のできないチベット人が借金まみれになっていると、この方はお金を貸す。しかし、チベット人の借金は増え続ける。自分ももう貸せないところまで貸して、それでもそのチベット人の行いは改まらず、結局当事者以外の方達にも迷惑をかけることになった。また、とあるチベット人が日本人の誰が聞いても問題と感じる発言をした時にも、この方は問題発言をしたチベット人を庇い続けた。モラルもへったくれもなくチベット人の側にたつこの方の言動には多くの人々は違和感を感じていたが、被害を受けているのが主に本人であることと、チベット人のために何かしたいという気持ちは純粋なものなので沈黙していた (ちなみに、私は直言してきたが、無視されてきた 笑)。
 
 トータルにみれば分かるように、この方の問題点は仏教やチベット文化に根ざしていない、活動中心のものの考え方にある。
 どうしてこうなってしまうのか考えて見て、以下の考えに行き着いた。
 チベット人といっても一言でくくれるものではない。
 インドで再建された僧院で僧侶になりチベット文化を日々継承している人、俗人でも外の世界で成功している人つまり、自分の才能や生き方がチベット社会に貢献しており、周りからも尊敬を得られている人は、比較的安定した生活と精神を保っている。しかし、僧院から脱落した人、外の世界で成功できなかったり、あるいは思いが熱すぎて普通の生活を送ることができなくなり、活動に活路を見いだしたチベット人も数多くいる。後者のチベット人も大多数は善良で日々を正しく生きているが、その中のごく一部には中国や、自分がいま身を寄せている社会に対して、複雑な感情を醸成し、それを口にする者もいる。「どうしてこの国の人達は私たちチベットに対してもっといろいろ行動してくれないのか」と。

 もちろん彼らがそう感じるのは彼らの自由である。彼らの心は彼らのものだからだ。彼らが自分の感じたことを感じたままに話す権利を阻害する権利は誰にもない。日本人にいろいろな人がいて、いろいろなことを言っているように、チベット人はそれ以上にいろいろな人がいるのだから。

 私たちが脳内で考えるダライラマのような理想的なチベット人はもちろん沢山おり、彼らは社会の手本となっているけど、そうなりたいと思ってもなれないところにいる人も現実には沢山いる。

 この企画者の方はどちらかというと後者の方々によりそっていることから、いろいろと物議を醸しているのだと思い至る。
 
 私は経験則で、自分の感情に囚われて生きている人よりも、道徳的・利他的な生活を送っている人の方が幸せそうな顔をしている人が多いことを知っている。従って、できれば後者の中にいる怒れる方たちも、ダライラマの真意を勝手に推し量るなどして怒りをつのらせていくのではなく、ダライラマの言動そのままに模範的な人間になってその姿によって支援が集まるような行動をとってもらいたいと思う。

 前にギュルメワンダー氏が来日された際に、「私も若い頃には中国と闘おうと思っていたけど、あれは間違っていた。今は亡命社会に潜入するスパイが、私たちの生き方やダライラマ法王の話を聞いて、心を入れ替えてくれればいいと思う。とおっしゃって、亡命社会の養老院の建設に励んでおられた。議長の言葉ももワンダー氏の言葉も平和な社会で安穏として生きる我々には想像もつかないいろいろな感情をへた上でいきついたとても重いものである。だから我々はできるだけその考え方を理解した上で、自分の理解しやすいところだけつみとってつっぱしってはいけないと思う。

 最後に誤解なきように一言付け加えると、あの赤鉢巻も政治囚の方々もみななんであれ非暴力なので、「闘う」といったところで、インドやネパールの政府がここでデモやらないでください、というところで平和的なデモをするくらいの温和しい抗議しかしていない。別にテロに走るとかそういう話でないので、くれぐれも勘違いなきように。

 これは、ものすごく平和的なレベルでのささいな、しかし、非常に深い葛藤の話なのである(笑)。
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