国際チベット学会会長が来日
国際チベット学会の会長ツェリンシャキャ教授が一橋大学のプログラムで来日された。
ツェリン・シャキャ教授はラサに生まれ、文化大革命の際に母に連れられ8才でインドに亡命。14歳で奨学金を得てロンドン大学のアジア・フリカ学院 (SOAS)で学び、現在はカナダのブリティッシュ・コロンビア大学教授で、チベット現代史を研究されている。
一橋大学でのシャキャ教授講演の概要は以下のようである(以下青色の部分はO川さんにまとめて頂いたものです)。
シャキャ教授は学部向けにはチベットについての概説的な紹介を行い、院生向けにはもうちょっと深く掘り下げた議論でチベット問題についてお話された。すなはち「近年の欧米の民族理論では民族問題というのを権力の分配の不平等の問題だとして理解しようとする動きがあるが、これには同意できない、民族問題というのはそのような道具的なものではなくて(権力を得るための口実とかではなくて)、もっと本源的な『こここそが我々の土地なのだ』という「祖国」(homeland)意識に根ざしているものなのだ。」と話されたとのこと。
この対立(民族というのは道具的な存在か原初的な存在か)というのは古典的な民族論の議論で、しかもこの対立の立て方自体が最近では疑問視されているのでまあ目新しい話ではないですが、自身チベット人亡命者としての立場と実感から民族とは道具的・機会主義的なものではなく本源的なものなのだ、という主張を一橋でもされたのだと思います。
そして、一橋のプログラムの拘束のとけた23日に、関東近郊で集まれるチベット学者がシャキャ教授を囲む会を行うことになった。突然決まったことで、金曜日の夜という日取りであったにもかかわらず13人のチベットロジストが集まった。私ははじめ日本の学会事情を歴史学・言語学・人類学・仏教学などとお話し、しかるべき後先生のご研究やチベット学の未来について伺おうと思っていたが、全体で情報を共有するような空間がつくれない席状況であったため、最後はグダグダの飲み会になった(笑)。
私が一番年長だったことと、シャキャ教授が歴史学者であったことから、自分が日本のチベット歴史学の状況を述べることで口火を切った。
日本人は漢語、チベット語、モンゴル語、満洲語が比較的簡単にマスターできて、これらの言葉で書かれた資料を用いることから、歴史研究のレベルは高いと思う、とのべ、〔シャキャ教授が今ダライラマ13世の伝記を書いていることから〕、現在NYのコロンビア大学にいるKくんが先週ハーバート大学で出張講演した際のレジュメをさしあげる。これは1913年の独立イヤーにダライラマ13世が、イギリス、ロシア、日本などに送ったチベット書簡について扱ったもの。
それから、私の最近の論文(日本語 笑)をさしあげる。これは、1909年を境にダライラマ13世の自称称号が変化したこと、1913年を境にダライラマ13世が新年の祝詞で中国政府と皇帝に対する祝福をやめたことなどを指摘している(ここでダウンロードできますよ~)。
そして、現在京都の龍谷大学ミュージアムで行われている「チベットの仏教世界 もう一つの大谷探検隊」のカタログをさしあげる。青木文教所蔵のダライラマ13世の大正天皇へのチベ語書簡の草稿が含まれているので、先生の研究に役立つであろう。

ちなみに、この展覧会はお勧め(会期は6月8日まで)。1913年~23年までの間に多田等観・青木文教がチベットから将来したさまざまな文物を展示しており、非常に内容の濃い、テーマ性のはっきりした展覧会。カタログも増刷しないというので、1913年から1923年までのダライラマ13世治下のラサのつまったこのカタログ、関係各位は是非手に入れておくことをおすすめする(展覧会の詳細はここクリック。
ここでFさんが「先生、このまま続くと乾杯ができません。このあたりで乾杯の音頭をシャキャ教授にとってもらいましょう」というので、先生がたちあがり
シャキャ教授「日本はチベットの歴史学は非常にすすんだ研究があると聞いています。日本語のできる学生に英語に翻訳させるようにしていきたいと思います。」
ここでO川さん「何か言わされているような」と笑うけど、私はそんなことないと思うわ。
それから、星先生が御著書の『ティメークンデンを探して』やチベット文学の情報誌『セルニャ』を手渡されて歓談。星先生によるとシャキャ教授は「チベットにおいて現代文学の発生が遅れたのは、長く木版印刷は宗教的な文献に限られていて、世俗的な物語などは広く読まれることがなかったから。あの英雄叙事詩ケサルですら、19世紀のジュ・ミパムの頃に活字化された」、また「先生は異なる言語を話す人々をつなぐ役割を強く意識していらっしゃる」とのことであった。
「複数の言語をつなぐ役割」ついては
ネットの時代になった今、チベット人の民衆の言論ネット空間は大きく分けて3種類に分かれている。最初は漢語の読み書き能力は高いがチベット文語は怪しい「国内チベット人の漢語ネット空間」、二つ目は、漢語ができずチベット語レベルも低く英語で議論する「亡命チベット人の知識人などの英語ネット空間」。三つ目はチベット語で議論ができる「国内チベット人たちのチベット語ネット空間」。いずれにおいても重要な議論や論点を含んでいるが、言語の壁があるため、相互を参照していない。なのでシャキャ教授は友人や学生などの協力の下に、ある時期かなり精力的に相互翻訳をしていたとのこと。
言われてみれば2008年のチベット蜂起の年、ツェリンシャキャ教授が漢語ニュースを英語でチベットロジストにも分かるようにメーリスで流していたことを思い出す。
また、シャキャ教授は今年九月にでるエリオット・スパーリングに捧げる記念論集に一文をよせることになっているという。
その論文のテーマは20世紀前半のナクチュ (nag chu) を事例としたチベットにおける bandit(盗賊、匪賊、野盗)。これもまたエリック・ホブズボウムの古典的な「義賊の社会史」あたりを下敷きにした話のようで、つまり一般に権力者やその他の地方の人たちからbanditと呼ばれていた人たちが本当にいわゆる我々が普通に考えるような意味での「強盗集団」「野盗」なのかどうかはわからない、という議論です。彼らを悪党とするのはあくまでも管理する側(国家)やよそ者のチベット人からみた話であって、実際にはチベットの遊牧民にとって盗みは悪だが強盗は善というように、それはあくまでも生存の一形態にすぎないし、一見強盗としか見えない行為も実はモノやカネを奪いためではなくて、過去に別の集団から攻撃を受けた、盗みを受けたことへの報復行動として理解した方がいい、つまりbanditryとされてきた行為は盗むためではなくて名誉のための行為であったり生業であったりと理解できるということを、banditry に様々な類型を設定しつつ(ここらへんは経済人類学者サーリンズの互酬性の類型論の議論を参考にしているようですが)、ナクチュの事例で論じたことがポイントだと思います。
そしてそこから、チベット社会において復讐の連鎖というのは本当に長く続くもので、一端人と人が喧嘩をするとそれは個人レベルでは終わらず家族、部族を巻き込み、結局百年以上も集団同士が争ったりしつづけることになることも珍しくないんだよなあという話になったのでした。そういう復讐の連鎖というチベットの習慣がまあ、強盗と呼ばれるような人たちがあちこちにいるかのように見える世界を作っているということです。でもそれは我々が日常的に想像するような強盗団みたいなものではないんだ、ということですね。
この他、先生の話された心に残るエピソード三題。
(1) シャキャ教授は2004?年くらいからチベットに入れなくなったが、今年になって突然四川省の政府から「チベット専門家カンゼ州ツアー」とかいう官製カム旅行に誘われて戸惑っている。
(2) 2008年以降、先生のPCは何者かにハッキング攻撃にさらされつづけており、中国のしわざだと思われる。
(3) チベット人社会というのはとても不安定なもので、先生の家族の場合も、カナダとアメリカとインドと中国とヨーロッパあちこちにと散らばっており、30年たった今も全員で集まることはできていない。これでは心も社会も安定しない。これは大きな問題である。
最後のお話は、テンジンチューゲルとか、他のチベットの方々もよく口にされることで、彼らに通底するディアスポラの悲劇である。
ツェリンシャキャ先生は25日には在日チベット人を対象とした座談会も行われました。この席では、「日本の研究の水準が高いので日本で学ぶ意義があること」「チベット人の知識人はこれまでは、過去の業績を批判せず引き継ぐことが仕事だったが、西洋の知識人は体制や既存の考え方を批判するのが仕事である。あなたたちは批判的精神をもちなさい」という、お話をされました。
この批判的精神とは、論理や理性をもって客観的・批判的に物事を分析し、答えをだすことを指します。事実が自分にとって(主観的に)都合の悪い時でもそれを否定しないことが重要となります。先生はそれについての一例として、トロントでチベット人同士の乱闘が起きた時にカナダのニュースはそれを伝えたものの、VOA(ボイスオブアメリカ)はそれを伝えなかったことをあげ、チベット人のイメージを損なわないために報道を控えたVOAも批判すべきと話されました。
※ この会に参加したチベット人が会の終了後、「日本の研究者は自己愛のみでチベットを愛していない」「日本でチベット仏教は無理」などの趣旨のツイートをチベット語や日本語双方でしておりますが、言うまでもなくこれはこのチベット人個人の見解で、ツェリンシャキャ先生の講演内容とは一切関係ありません。誤解を未然に防ぐためにここに注記しておきます。
最後に在日チベット人と歓談する先生の写真を先生のFBより転載。

ツェリン・シャキャ教授はラサに生まれ、文化大革命の際に母に連れられ8才でインドに亡命。14歳で奨学金を得てロンドン大学のアジア・フリカ学院 (SOAS)で学び、現在はカナダのブリティッシュ・コロンビア大学教授で、チベット現代史を研究されている。
一橋大学でのシャキャ教授講演の概要は以下のようである(以下青色の部分はO川さんにまとめて頂いたものです)。
シャキャ教授は学部向けにはチベットについての概説的な紹介を行い、院生向けにはもうちょっと深く掘り下げた議論でチベット問題についてお話された。すなはち「近年の欧米の民族理論では民族問題というのを権力の分配の不平等の問題だとして理解しようとする動きがあるが、これには同意できない、民族問題というのはそのような道具的なものではなくて(権力を得るための口実とかではなくて)、もっと本源的な『こここそが我々の土地なのだ』という「祖国」(homeland)意識に根ざしているものなのだ。」と話されたとのこと。
この対立(民族というのは道具的な存在か原初的な存在か)というのは古典的な民族論の議論で、しかもこの対立の立て方自体が最近では疑問視されているのでまあ目新しい話ではないですが、自身チベット人亡命者としての立場と実感から民族とは道具的・機会主義的なものではなく本源的なものなのだ、という主張を一橋でもされたのだと思います。
そして、一橋のプログラムの拘束のとけた23日に、関東近郊で集まれるチベット学者がシャキャ教授を囲む会を行うことになった。突然決まったことで、金曜日の夜という日取りであったにもかかわらず13人のチベットロジストが集まった。私ははじめ日本の学会事情を歴史学・言語学・人類学・仏教学などとお話し、しかるべき後先生のご研究やチベット学の未来について伺おうと思っていたが、全体で情報を共有するような空間がつくれない席状況であったため、最後はグダグダの飲み会になった(笑)。
私が一番年長だったことと、シャキャ教授が歴史学者であったことから、自分が日本のチベット歴史学の状況を述べることで口火を切った。
日本人は漢語、チベット語、モンゴル語、満洲語が比較的簡単にマスターできて、これらの言葉で書かれた資料を用いることから、歴史研究のレベルは高いと思う、とのべ、〔シャキャ教授が今ダライラマ13世の伝記を書いていることから〕、現在NYのコロンビア大学にいるKくんが先週ハーバート大学で出張講演した際のレジュメをさしあげる。これは1913年の独立イヤーにダライラマ13世が、イギリス、ロシア、日本などに送ったチベット書簡について扱ったもの。
それから、私の最近の論文(日本語 笑)をさしあげる。これは、1909年を境にダライラマ13世の自称称号が変化したこと、1913年を境にダライラマ13世が新年の祝詞で中国政府と皇帝に対する祝福をやめたことなどを指摘している(ここでダウンロードできますよ~)。
そして、現在京都の龍谷大学ミュージアムで行われている「チベットの仏教世界 もう一つの大谷探検隊」のカタログをさしあげる。青木文教所蔵のダライラマ13世の大正天皇へのチベ語書簡の草稿が含まれているので、先生の研究に役立つであろう。

ちなみに、この展覧会はお勧め(会期は6月8日まで)。1913年~23年までの間に多田等観・青木文教がチベットから将来したさまざまな文物を展示しており、非常に内容の濃い、テーマ性のはっきりした展覧会。カタログも増刷しないというので、1913年から1923年までのダライラマ13世治下のラサのつまったこのカタログ、関係各位は是非手に入れておくことをおすすめする(展覧会の詳細はここクリック。
ここでFさんが「先生、このまま続くと乾杯ができません。このあたりで乾杯の音頭をシャキャ教授にとってもらいましょう」というので、先生がたちあがり
シャキャ教授「日本はチベットの歴史学は非常にすすんだ研究があると聞いています。日本語のできる学生に英語に翻訳させるようにしていきたいと思います。」
ここでO川さん「何か言わされているような」と笑うけど、私はそんなことないと思うわ。
それから、星先生が御著書の『ティメークンデンを探して』やチベット文学の情報誌『セルニャ』を手渡されて歓談。星先生によるとシャキャ教授は「チベットにおいて現代文学の発生が遅れたのは、長く木版印刷は宗教的な文献に限られていて、世俗的な物語などは広く読まれることがなかったから。あの英雄叙事詩ケサルですら、19世紀のジュ・ミパムの頃に活字化された」、また「先生は異なる言語を話す人々をつなぐ役割を強く意識していらっしゃる」とのことであった。
「複数の言語をつなぐ役割」ついては
ネットの時代になった今、チベット人の民衆の言論ネット空間は大きく分けて3種類に分かれている。最初は漢語の読み書き能力は高いがチベット文語は怪しい「国内チベット人の漢語ネット空間」、二つ目は、漢語ができずチベット語レベルも低く英語で議論する「亡命チベット人の知識人などの英語ネット空間」。三つ目はチベット語で議論ができる「国内チベット人たちのチベット語ネット空間」。いずれにおいても重要な議論や論点を含んでいるが、言語の壁があるため、相互を参照していない。なのでシャキャ教授は友人や学生などの協力の下に、ある時期かなり精力的に相互翻訳をしていたとのこと。
言われてみれば2008年のチベット蜂起の年、ツェリンシャキャ教授が漢語ニュースを英語でチベットロジストにも分かるようにメーリスで流していたことを思い出す。
また、シャキャ教授は今年九月にでるエリオット・スパーリングに捧げる記念論集に一文をよせることになっているという。
その論文のテーマは20世紀前半のナクチュ (nag chu) を事例としたチベットにおける bandit(盗賊、匪賊、野盗)。これもまたエリック・ホブズボウムの古典的な「義賊の社会史」あたりを下敷きにした話のようで、つまり一般に権力者やその他の地方の人たちからbanditと呼ばれていた人たちが本当にいわゆる我々が普通に考えるような意味での「強盗集団」「野盗」なのかどうかはわからない、という議論です。彼らを悪党とするのはあくまでも管理する側(国家)やよそ者のチベット人からみた話であって、実際にはチベットの遊牧民にとって盗みは悪だが強盗は善というように、それはあくまでも生存の一形態にすぎないし、一見強盗としか見えない行為も実はモノやカネを奪いためではなくて、過去に別の集団から攻撃を受けた、盗みを受けたことへの報復行動として理解した方がいい、つまりbanditryとされてきた行為は盗むためではなくて名誉のための行為であったり生業であったりと理解できるということを、banditry に様々な類型を設定しつつ(ここらへんは経済人類学者サーリンズの互酬性の類型論の議論を参考にしているようですが)、ナクチュの事例で論じたことがポイントだと思います。
そしてそこから、チベット社会において復讐の連鎖というのは本当に長く続くもので、一端人と人が喧嘩をするとそれは個人レベルでは終わらず家族、部族を巻き込み、結局百年以上も集団同士が争ったりしつづけることになることも珍しくないんだよなあという話になったのでした。そういう復讐の連鎖というチベットの習慣がまあ、強盗と呼ばれるような人たちがあちこちにいるかのように見える世界を作っているということです。でもそれは我々が日常的に想像するような強盗団みたいなものではないんだ、ということですね。
この他、先生の話された心に残るエピソード三題。
(1) シャキャ教授は2004?年くらいからチベットに入れなくなったが、今年になって突然四川省の政府から「チベット専門家カンゼ州ツアー」とかいう官製カム旅行に誘われて戸惑っている。
(2) 2008年以降、先生のPCは何者かにハッキング攻撃にさらされつづけており、中国のしわざだと思われる。
(3) チベット人社会というのはとても不安定なもので、先生の家族の場合も、カナダとアメリカとインドと中国とヨーロッパあちこちにと散らばっており、30年たった今も全員で集まることはできていない。これでは心も社会も安定しない。これは大きな問題である。
最後のお話は、テンジンチューゲルとか、他のチベットの方々もよく口にされることで、彼らに通底するディアスポラの悲劇である。
ツェリンシャキャ先生は25日には在日チベット人を対象とした座談会も行われました。この席では、「日本の研究の水準が高いので日本で学ぶ意義があること」「チベット人の知識人はこれまでは、過去の業績を批判せず引き継ぐことが仕事だったが、西洋の知識人は体制や既存の考え方を批判するのが仕事である。あなたたちは批判的精神をもちなさい」という、お話をされました。
この批判的精神とは、論理や理性をもって客観的・批判的に物事を分析し、答えをだすことを指します。事実が自分にとって(主観的に)都合の悪い時でもそれを否定しないことが重要となります。先生はそれについての一例として、トロントでチベット人同士の乱闘が起きた時にカナダのニュースはそれを伝えたものの、VOA(ボイスオブアメリカ)はそれを伝えなかったことをあげ、チベット人のイメージを損なわないために報道を控えたVOAも批判すべきと話されました。
※ この会に参加したチベット人が会の終了後、「日本の研究者は自己愛のみでチベットを愛していない」「日本でチベット仏教は無理」などの趣旨のツイートをチベット語や日本語双方でしておりますが、言うまでもなくこれはこのチベット人個人の見解で、ツェリンシャキャ先生の講演内容とは一切関係ありません。誤解を未然に防ぐためにここに注記しておきます。
最後に在日チベット人と歓談する先生の写真を先生のFBより転載。

ゴマン・ハウス内覧
日本で最初にチベットの出家僧の僧団が常駐したのはどこでしょう? まあチベット・オタクは知っていますよね。広島駅すぐ近くの山の中にある文殊師利大乗仏教会である。この僧団はチベット仏教最大宗派ゲルク派の三大僧院の一デプンの有力学堂ゴマン学堂の流れを汲む。なぜ、ゴマン学堂のお坊さんが日本に来ていらっしゃるのかといえば、日本に長く滞在され、人生の最後には文殊師利の看板ラマとなったゲシェ・テンパゲルツェン師がこの学堂出身だったからである。
テンパ師は財団法人東洋文庫の招きによって来日された。東洋文庫は今でこそミュージアムなどを併設しているためそちらで有名になっているが、当時は世界的に有名な東洋學の図書館兼研究所であった。ここにはチベット研究室があり、『サキャ派全書』を出版したサキャ派の僧ソナムギャムツォ氏、中沢新一氏のラマとして名高いニンマ派の高僧ケツゥン・サンポ氏などそうそうたるメンバーを外国人研究員として迎えていた。
過去に東洋文庫の文庫長をつとめられた北村甫先生は多田等観(ダライラマ13世の時代チベットのセラ大僧院に七年留学した僧)の弟子であり、多田等観氏が「ゲルク派は私が分かるので、それ以外の宗派を」ということで東洋文庫の初期にはサキャ派やニンマ派の高僧が招かれたのである。
で、多田等観先生もなくなられたため、ゲルク派からということで、テンパ・ゲルツェン師が外国人研究院として東洋文庫に招かれた。 テンパ・ゲルツェン師は東洋文庫ででる給与の大半をインドのゴマン学堂に送り、みずからはトイレもお風呂もない西ヶ原の一間のアパートにつつましくお住まいであった。後に学堂長になられた時「経営とか政治は嫌いだ」とおっしゃられていたので、日本での生活は孤独であっても、政治よりはましであったのかもしれない。師と日本の関わり方については、師がなくなられた際のエントリーを参照していただきたい。
テンパ師の属するゴマン学堂は、17世紀の頃よりモンゴル人地域への布教の主力であった。歴史書には何人もの「ゴマン・ラマ」が現れ、チベット、モンゴル、満洲関係の中で活躍+暗躍してきたことが分かる。1959年のダライラマのインド亡命にともないゴマン学堂は南インドのカルナタカ州に移動したが、現在もカルムキアやモンゴル共和国やブリヤートの留学生を受け入れては、教育し、また本国へかえすという伝統的な役割を維持している。そのような意味で、ゴマンハウスもゴマン学堂のアジア布教史の一環に位置づけることもできる。
護国寺で開催されてきたチベット仏教基礎講座bTibetも文殊師利が後援しているので、ここで何度も法座をもたれた織田無道そっくりゲン・ロサン先生もゴマン出身である((→参考エントリー)。
で、この「文殊師利」の生みの親であるNさんから、「チベット僧が東京に常駐する場として、住宅を一棟購入した。内覧会にこないか」とのお誘いをうけた。そこで、18日、仮称ゴマン・ハウス(名前からしてNYのチベットハウスを意識している 笑)を訪れた。
ゴマン・ハウスは旧高松宮邸ちかくのオハイソな住宅街にある三階建の、新しいがよく見ると中古の住宅であった。
Nさん曰く「チベットの清僧の座であるため、酒・たばこ・そのほかもろもろの俗塵にまみれたものは御法度。汚れたものは1階の事務所より上にはあがれません。2階はラマと訪問者が学ぶスペースなので学者まではOK。三階は高僧の個室と高僧に随行するお世話ラマの雑魚寝部屋なので俗人とくに女性は絶対禁足」だとのこと。
品川駅が近いこのロケーションは、新幹線にも羽田の飛行場にもアクセスがよいこと、また、白銀高輪という住所の格の高さから選んだのだという。Nさんはゴマン・ハウスを信仰の場というよりは、仏教を学ぶ場にしたいとこういった。
Nさん「僕たちが若い頃東洋文庫にいくと、チベット研究室にゲシェー(故テンパゲルツェン師)がいて、仏教を学ぶ人が集う場がありましたよね。あの時の東洋文庫みたいに、ここにも、チベット仏教を学ぶ学生やお坊さんが集まってくるといいな。」とのこと。
ナーランダ僧院直伝のチベットの仏教学には、顕教は論理学から中観哲学、唯識哲学までじつに様々な思想が含まれている。チベット僧はこれを一生かけて学び身につけるわけだから、日本人がこのチベット仏教を学ぼうとしてもそのほんの一部分にとりつくのがせいいっぱい。でも、そのほんの一部に触れただけでも、既存の諸思想からは得られない高度な精神性と知性に驚くはずである。
昨今多くの日本人〔に限らず中国人も韓国人もタイ人もベナトム人も〕は明らかに論理的に思考する能力と感情のコントロール術を欠いている。自らの聞きたいこと聞き、見たいものだけ見て、「癒し」をもとめてパワースポットとか回っているが、こんなことしていは、人格も知性も向上しない。しかし、チベット仏教では、入門と同時に論理学を学ぷことが示すように、論理的な思考を重視する。理性的でない昨今の風潮は大いに反省を迫られることになると思う。チベット仏教がその歴史を通じて世界のもっとも豊かな帝国の上層階級をひきつけてやまなかった背景には相応の理由があるのである。
ゴマン・ハウスには当面、ゲシェ(博士)クラスの僧が一名、担当につくそうである(現在不定期)。
私「当然、ゲシェをお世話する小坊主もくるよね。」
Nさん「いえ、僕はなるべくいるようにしますが、僧は一人です。」
私「ちょっと待って、ゲシェがそこのピーコックで自分で買い物して自分で食事つくるわけ?」(チベットの僧院では、博士クラスの僧は食事も縫い物も洗濯も、みな小坊主がやる。従って、余計な豆知識であるが、チベットの僧はたとえ一般僧であっても信じられないくらい生活機能が高い。その上性格も大概良い。)
Nさん「そうです」
私「それはまずいんじゃない。精神的に不安定な女性とかが『私がお世話します』とかいって上がりこんできて、まかりまちがってお坊さんを破戒させちゃったらどうするのよ」
Nさん「普通の人は二階以上にあげないから大丈夫です」
よくできたゲシェなら最初っからへんなのは相手にしないから大丈夫だろうけど、やはりここ一番の不安である。
そのあと、Nさんはハコモノを大きくしていく夢を語りはじめた。しかし、私はハコモノなんてある意味どうでもいいと思う。チベット仏教は1959年に国を失った時、広壮な僧院も宝冠をかぶった仏像も彩色された美しい仏典も何もかもすべて失った。しかし、人が残っていたため、僧団は存続することができた。シッキムやインドに逃げ込んできたチベット僧たちは、粗末なテントや掘っ立て小屋にくらしながらも、その人格の輝きは覆うべくもなかった。
たちまち、まずはヒッピーからはじまり、ヒッピーが社会にもどると、今度は西洋社会のリベラルでアッパーな人々にチベット仏教は浸透していった。
今南インドの再建チベット僧院においては、チベット本土にいた時と同じように、僧侶たちは日々のおつとめをし、論理学のディベートをし、若い僧侶の教育を行っている。この歴史が示すように、「集まる場」は確かに必要だが、それは華美である必要も広壮である必要もないのだ。どれだけ伝統を体現した学僧・修業僧がいるかの方がむしろ重要なのだ。
チベットの僧院では、小坊主から老僧までいて、男ばかりで一つの家族のように仲良く暮らしている。勉強のできる僧は多くの弟子にかしずかれ若い僧の教育にあたり、できない僧も高僧に仕えることを誇りとしている。小坊主は成年僧からかわいがられて育ち、老僧は若い僧にみとってもらえる。僧団の生活は社会的に名のある人々によって支えられているため、庶民もそれをまねて、僧侶を尊敬し、それを範として自らの行いを正すようになる。これは一人の僧侶でできることではない。
まあ、そういうわけで、ハコモノを大きくする夢よりも、高僧が一人でも多く日本に常駐するようになり、できたら、日本人の中からその教えを継ぐものがでることを夢みる方がチベット仏教的には正統な夢といえよう。
最後に本場のゴマン学堂がとれだけたくさん僧侶がいるかを示すために、全学堂総出の記念撮影写真をあげておく。真ん中の色の変わったところにいるのが高僧たちです。一人残らず戒律をまもって清い生活をしている清僧です。壮観でしょ。

テンパ師は財団法人東洋文庫の招きによって来日された。東洋文庫は今でこそミュージアムなどを併設しているためそちらで有名になっているが、当時は世界的に有名な東洋學の図書館兼研究所であった。ここにはチベット研究室があり、『サキャ派全書』を出版したサキャ派の僧ソナムギャムツォ氏、中沢新一氏のラマとして名高いニンマ派の高僧ケツゥン・サンポ氏などそうそうたるメンバーを外国人研究員として迎えていた。
過去に東洋文庫の文庫長をつとめられた北村甫先生は多田等観(ダライラマ13世の時代チベットのセラ大僧院に七年留学した僧)の弟子であり、多田等観氏が「ゲルク派は私が分かるので、それ以外の宗派を」ということで東洋文庫の初期にはサキャ派やニンマ派の高僧が招かれたのである。
で、多田等観先生もなくなられたため、ゲルク派からということで、テンパ・ゲルツェン師が外国人研究院として東洋文庫に招かれた。 テンパ・ゲルツェン師は東洋文庫ででる給与の大半をインドのゴマン学堂に送り、みずからはトイレもお風呂もない西ヶ原の一間のアパートにつつましくお住まいであった。後に学堂長になられた時「経営とか政治は嫌いだ」とおっしゃられていたので、日本での生活は孤独であっても、政治よりはましであったのかもしれない。師と日本の関わり方については、師がなくなられた際のエントリーを参照していただきたい。
テンパ師の属するゴマン学堂は、17世紀の頃よりモンゴル人地域への布教の主力であった。歴史書には何人もの「ゴマン・ラマ」が現れ、チベット、モンゴル、満洲関係の中で活躍+暗躍してきたことが分かる。1959年のダライラマのインド亡命にともないゴマン学堂は南インドのカルナタカ州に移動したが、現在もカルムキアやモンゴル共和国やブリヤートの留学生を受け入れては、教育し、また本国へかえすという伝統的な役割を維持している。そのような意味で、ゴマンハウスもゴマン学堂のアジア布教史の一環に位置づけることもできる。
護国寺で開催されてきたチベット仏教基礎講座bTibetも文殊師利が後援しているので、ここで何度も法座をもたれた織田無道そっくりゲン・ロサン先生もゴマン出身である((→参考エントリー)。
で、この「文殊師利」の生みの親であるNさんから、「チベット僧が東京に常駐する場として、住宅を一棟購入した。内覧会にこないか」とのお誘いをうけた。そこで、18日、仮称ゴマン・ハウス(名前からしてNYのチベットハウスを意識している 笑)を訪れた。
ゴマン・ハウスは旧高松宮邸ちかくのオハイソな住宅街にある三階建の、新しいがよく見ると中古の住宅であった。
Nさん曰く「チベットの清僧の座であるため、酒・たばこ・そのほかもろもろの俗塵にまみれたものは御法度。汚れたものは1階の事務所より上にはあがれません。2階はラマと訪問者が学ぶスペースなので学者まではOK。三階は高僧の個室と高僧に随行するお世話ラマの雑魚寝部屋なので俗人とくに女性は絶対禁足」だとのこと。
品川駅が近いこのロケーションは、新幹線にも羽田の飛行場にもアクセスがよいこと、また、白銀高輪という住所の格の高さから選んだのだという。Nさんはゴマン・ハウスを信仰の場というよりは、仏教を学ぶ場にしたいとこういった。
Nさん「僕たちが若い頃東洋文庫にいくと、チベット研究室にゲシェー(故テンパゲルツェン師)がいて、仏教を学ぶ人が集う場がありましたよね。あの時の東洋文庫みたいに、ここにも、チベット仏教を学ぶ学生やお坊さんが集まってくるといいな。」とのこと。
ナーランダ僧院直伝のチベットの仏教学には、顕教は論理学から中観哲学、唯識哲学までじつに様々な思想が含まれている。チベット僧はこれを一生かけて学び身につけるわけだから、日本人がこのチベット仏教を学ぼうとしてもそのほんの一部分にとりつくのがせいいっぱい。でも、そのほんの一部に触れただけでも、既存の諸思想からは得られない高度な精神性と知性に驚くはずである。
昨今多くの日本人〔に限らず中国人も韓国人もタイ人もベナトム人も〕は明らかに論理的に思考する能力と感情のコントロール術を欠いている。自らの聞きたいこと聞き、見たいものだけ見て、「癒し」をもとめてパワースポットとか回っているが、こんなことしていは、人格も知性も向上しない。しかし、チベット仏教では、入門と同時に論理学を学ぷことが示すように、論理的な思考を重視する。理性的でない昨今の風潮は大いに反省を迫られることになると思う。チベット仏教がその歴史を通じて世界のもっとも豊かな帝国の上層階級をひきつけてやまなかった背景には相応の理由があるのである。
ゴマン・ハウスには当面、ゲシェ(博士)クラスの僧が一名、担当につくそうである(現在不定期)。
私「当然、ゲシェをお世話する小坊主もくるよね。」
Nさん「いえ、僕はなるべくいるようにしますが、僧は一人です。」
私「ちょっと待って、ゲシェがそこのピーコックで自分で買い物して自分で食事つくるわけ?」(チベットの僧院では、博士クラスの僧は食事も縫い物も洗濯も、みな小坊主がやる。従って、余計な豆知識であるが、チベットの僧はたとえ一般僧であっても信じられないくらい生活機能が高い。その上性格も大概良い。)
Nさん「そうです」
私「それはまずいんじゃない。精神的に不安定な女性とかが『私がお世話します』とかいって上がりこんできて、まかりまちがってお坊さんを破戒させちゃったらどうするのよ」
Nさん「普通の人は二階以上にあげないから大丈夫です」
よくできたゲシェなら最初っからへんなのは相手にしないから大丈夫だろうけど、やはりここ一番の不安である。
そのあと、Nさんはハコモノを大きくしていく夢を語りはじめた。しかし、私はハコモノなんてある意味どうでもいいと思う。チベット仏教は1959年に国を失った時、広壮な僧院も宝冠をかぶった仏像も彩色された美しい仏典も何もかもすべて失った。しかし、人が残っていたため、僧団は存続することができた。シッキムやインドに逃げ込んできたチベット僧たちは、粗末なテントや掘っ立て小屋にくらしながらも、その人格の輝きは覆うべくもなかった。
たちまち、まずはヒッピーからはじまり、ヒッピーが社会にもどると、今度は西洋社会のリベラルでアッパーな人々にチベット仏教は浸透していった。
今南インドの再建チベット僧院においては、チベット本土にいた時と同じように、僧侶たちは日々のおつとめをし、論理学のディベートをし、若い僧侶の教育を行っている。この歴史が示すように、「集まる場」は確かに必要だが、それは華美である必要も広壮である必要もないのだ。どれだけ伝統を体現した学僧・修業僧がいるかの方がむしろ重要なのだ。
チベットの僧院では、小坊主から老僧までいて、男ばかりで一つの家族のように仲良く暮らしている。勉強のできる僧は多くの弟子にかしずかれ若い僧の教育にあたり、できない僧も高僧に仕えることを誇りとしている。小坊主は成年僧からかわいがられて育ち、老僧は若い僧にみとってもらえる。僧団の生活は社会的に名のある人々によって支えられているため、庶民もそれをまねて、僧侶を尊敬し、それを範として自らの行いを正すようになる。これは一人の僧侶でできることではない。
まあ、そういうわけで、ハコモノを大きくする夢よりも、高僧が一人でも多く日本に常駐するようになり、できたら、日本人の中からその教えを継ぐものがでることを夢みる方がチベット仏教的には正統な夢といえよう。
最後に本場のゴマン学堂がとれだけたくさん僧侶がいるかを示すために、全学堂総出の記念撮影写真をあげておく。真ん中の色の変わったところにいるのが高僧たちです。一人残らず戒律をまもって清い生活をしている清僧です。壮観でしょ。

東洋のラテン語--チベット文字--
GWの前半はチベット文字草書体の修行にあてた (ちなみに後半は捻挫でひきこもった笑)。じつはチベット文字は歴史的文化的に非常に影響力をもった文字である。そもそも7世紀に仏典を翻訳するためにインドの文字をモデルに作られたもので、チベット仏教の伝播とともに広範な地域(ブータン、シッキム、ラダック、モンゴル、ブリヤート、カルムキア etc.)において、ヨーロッパの修道院内におけるラテン語のように僧侶の共通語として広く用いられた。
モンゴル最高位の僧ジェブツンダンパもその歴代の全集はすべてチベット語で木版印刷されている。チベット大蔵経を底本として、モンゴル語・満洲語の大蔵経も作られはしたが、象徴的な意味合いが強く、満洲人・モンゴル人の僧侶ももっぱらチベット語を用いて仏教の教授・ディベート・著作を行っていた(今もそうである)。
チベット年代記によると、チベット文字は7世紀に開国の王ソンツェンガムポ王(七世紀)が貴族の子息トンミサンポータをインドに派遣してインドの文字を学ばせ、これを手本に作らせたものである。ソンツェンガムポ王も自らトンミに文字をならい、最初に書かれたチベット文字が、ラサの大聖堂トゥルナンに掲げられた有名な観音真言 オンマニペメフンである。ポタラ宮最上階には最古層の観音堂があり、ここにはソンツェンガムポと二人の妃が祀られ、三人の前にはガル大臣と経帙を手にしたトンミサンボータの塑像が控えている。チベット人が文字を覚える時、まず丸暗記するチベット文字の構造を示した30頌と呼ばれる短い著作もトンミサンポータの手になるものとされ、彼の名を知らないチベット人はいない。
この時に確定した字体が、この写真のウチェンである。

木版印刷の経典などはこの字体なので、もっとも広く用いられかつ読まれている字体といえる。この字体は作成された時点からその形をほとんど変えていない。かつてチベット初の僧院サムエを訪れた際、門前に古代王朝期の王が、仏教を国教と宣言した旨の碑文が立っていたが、その字体があまりにも現代と変わっていないので、こりゃ文革で壊された後のなんちゃって再建なのかと疑ったくらいである。それくらい古代からチベット文字の形は変わっていない。
なぜ変わらないのかといえば、チベット文字はチベット仏教とともにあったからであろう。チベット仏教の哲学と実践はインドのナーランダ僧院の伝統を引く者で、僧侶たちもそれを強く意識し、過去から伝えられてきたものを自分の愚見をさしはさまず、そのまま弟子へと伝えようとしてきた。先人のテクストは一字一句間違えずに注意深く引用されていくため、インドで失われたテクストがチベット語訳されていたためにその内容が分かるなんて場合も多く、チベット語習得はインド仏教の研究にも欠かせないものとなっている。
さらにチベットで体系化された論理学、形而上学の思想内容の多くは、チベット語・文字を離れては正確には理解・実践できないものとなっているため、チベット仏教を受容しようとした人々は、どの地域の出身であろうが、どの民族であろうが必然的にチベット語を学ぶこととなる。チベット仏教の思想体系は極めて包括的かつ普遍的であるため、いろいろな地域に広がり、その結果、チベット語やチベット文字は変わらないままに広がっていったのである。
ちなみに、チベット文字からは、モンゴル帝国内で使用される文字を音写するために使われたパスパ文字(HOR YIG)が生まれた。1260年、フビライ・ハーン (チンギス・ハンの孫) は中国を征服し、1264年(至元元年)にチベット僧パクパ(元史では八思巴)にこう命じた。
朕、思うに文字は言葉をうつし、言葉は事件を記録する。これは古今かわらぬ制度である。しかし我が国家は北方に建国して以来、その風俗が簡単素朴を宗としていたため、文字を作成するいとまがなかった。今までは漢字の楷書やウイグル文字を用いていたが、遼・金〔といった北方民族の王朝〕や遠方の諸国の例を見ても、みな各々独自の文字を有しており、今、ようやく文治政治が始まったことを考えると、ここで文字がないというのでは完璧な制度とはいえない。従って、特に國師パクパに命じて新しいモンゴル文字を作成して、これによって一切の言語をうつす。今後は印章の印面や書面には必ずこの新しいモンゴル文字を用いて、土地の言葉をそれに副えるように」 ついにパクパを昇進させて大宝法王となした(『元史』釋老傳)。
モンゴルに文字がないのは他の王朝と比べても情けないので、文字をつくれ、とチベット僧に命令したわけである。命令されたパクパは、古代チベットにさかのぼる名家クン氏の御曹司で、チベット仏教の一宗派サキャ派の座主であった。そのパクパが作るのだから、その文字はチベット文字そのままになった。

チベット文字を四角い函にいれてぬいたような形である。チベット文字は横書きであるため、頭を揃えて足を流す書き方をするが、パクパ文字は縦書き用に作られたため、角張らされたのである。違いはそこだけ(笑)。このパクパ文字は元朝が滅びた後も印章や碑文などの典礼文字として用いられ続けている。
このようにチベット文字はチベット仏教とともに、民族を越えて用いられた歴史ある文字であるものの、現在は存亡の危機にある。それは中国の同化政策も大きいが、チベット語文語が現代チベット人にとって難しい言語となってしまっていることも大きな理由の一つである。
古代からまったくその姿を変えていないということは、話し言葉と書き言葉が乖離しつづけていることを意味し、その乖離は現在ではとんでもないレベルにまで達している。現在、文語と口語は完全ベツモノとなってしまい、僧侶でないチベット人はチベット語を正確に綴れず、文語を学んだ外人の方が正確に読み書きできるという悲しい状況なのである。
しかし、「古代言語は廃止してしまえ、その方が合理的だ」と一概にいえないことは今まで述べてきたことからも明かであろう。客観的にいって、チベット文化の中で世界に通用し、普遍的な価値があるとみなされているのはチベット仏教思想である。チベットという国が失われた今、人類の知的遺産を守るという意味でも、チベットのアイデンティティを維持するという意味でも、チベット仏教の維持とその維持に不可欠なチベット文語・チベット文字の存在は重要なのである。
このようなありがたいチベット文字なのだが、自分はこれまで木版印刷に用いられる7世紀からの伝統的な書体を読むだけで満足していた。チベット学でも仏教学をやっていたり、写本を扱う人たちは、テクストほぼすべて筆記体なのでみな当然読めるようになっているが、ダライラマ政権が成立してからの歴史をやっている自分は、筆記体読めなくてもとくに不便を感じなかったからである。
しかし、最近ダライラマ13世の時代の歴史を始めたため、なんぼなんでも筆記体・草書体も読めないとまずい空気が漂い始めた。筆記体はざっと8種類くらいあり、どの字体もトンミサンボータの作った文字がゲシュタルト崩壊して似ても似つかない姿になったミミズ文字である。そのうちよく用いられる筆記体がこの写真のようなもの。

かつてダライラマ政権が存在した際、官僚の登用試験には、これらの筆記体をいかに多くの種類、美しく書けるかが教養の一つとして問われていた。中央から政府の各部署や地方の行政機関に頒布する文書に美しい文字を記すことは政府の権威を保つためにも不可欠であったからである。余談だが、清朝末期になると、電報や公文書の漢字が誤字だらけになってきて、もうぼろぼろになるが、これは政府を構成する人員の中に教養ある人が少なくなっていることを示しており、亡国のフラグたちまくりである。
美しい文章や文字をかける人材がいることは国家の存亡にとって非常に枢要であることはこの件からも分かるであろう。
そこでこのGWはまず手元にある筆記体の教本の独学をはじめた。しかし、これらの教本は師匠がいるのが前提のテクストで、独学者に対する配慮はない。そこで限界を感じたので、、翌日、カワチェンのケルサン氏のところにいって、集中講義を受けた。まず、基本的な筆記体の書き順をならい、その文字をだんだん小さくしていって一筆で書くようにしていけば、もっとも崩れた文字も読めるようになるとのこと。
二日でそこそこ読めるようになったので、まあ何とかなるような気がする。最後まで読めない文字はさいあくチベット人に聞いてつぶしていこう。以下の写真はケルサン所蔵の、すべてチベット文字で書かれたチッタマニ・ターラー尊。なんとかアートというらしい(て説明になってない 笑)。

モンゴル最高位の僧ジェブツンダンパもその歴代の全集はすべてチベット語で木版印刷されている。チベット大蔵経を底本として、モンゴル語・満洲語の大蔵経も作られはしたが、象徴的な意味合いが強く、満洲人・モンゴル人の僧侶ももっぱらチベット語を用いて仏教の教授・ディベート・著作を行っていた(今もそうである)。
チベット年代記によると、チベット文字は7世紀に開国の王ソンツェンガムポ王(七世紀)が貴族の子息トンミサンポータをインドに派遣してインドの文字を学ばせ、これを手本に作らせたものである。ソンツェンガムポ王も自らトンミに文字をならい、最初に書かれたチベット文字が、ラサの大聖堂トゥルナンに掲げられた有名な観音真言 オンマニペメフンである。ポタラ宮最上階には最古層の観音堂があり、ここにはソンツェンガムポと二人の妃が祀られ、三人の前にはガル大臣と経帙を手にしたトンミサンボータの塑像が控えている。チベット人が文字を覚える時、まず丸暗記するチベット文字の構造を示した30頌と呼ばれる短い著作もトンミサンポータの手になるものとされ、彼の名を知らないチベット人はいない。
この時に確定した字体が、この写真のウチェンである。

木版印刷の経典などはこの字体なので、もっとも広く用いられかつ読まれている字体といえる。この字体は作成された時点からその形をほとんど変えていない。かつてチベット初の僧院サムエを訪れた際、門前に古代王朝期の王が、仏教を国教と宣言した旨の碑文が立っていたが、その字体があまりにも現代と変わっていないので、こりゃ文革で壊された後のなんちゃって再建なのかと疑ったくらいである。それくらい古代からチベット文字の形は変わっていない。
なぜ変わらないのかといえば、チベット文字はチベット仏教とともにあったからであろう。チベット仏教の哲学と実践はインドのナーランダ僧院の伝統を引く者で、僧侶たちもそれを強く意識し、過去から伝えられてきたものを自分の愚見をさしはさまず、そのまま弟子へと伝えようとしてきた。先人のテクストは一字一句間違えずに注意深く引用されていくため、インドで失われたテクストがチベット語訳されていたためにその内容が分かるなんて場合も多く、チベット語習得はインド仏教の研究にも欠かせないものとなっている。
さらにチベットで体系化された論理学、形而上学の思想内容の多くは、チベット語・文字を離れては正確には理解・実践できないものとなっているため、チベット仏教を受容しようとした人々は、どの地域の出身であろうが、どの民族であろうが必然的にチベット語を学ぶこととなる。チベット仏教の思想体系は極めて包括的かつ普遍的であるため、いろいろな地域に広がり、その結果、チベット語やチベット文字は変わらないままに広がっていったのである。
ちなみに、チベット文字からは、モンゴル帝国内で使用される文字を音写するために使われたパスパ文字(HOR YIG)が生まれた。1260年、フビライ・ハーン (チンギス・ハンの孫) は中国を征服し、1264年(至元元年)にチベット僧パクパ(元史では八思巴)にこう命じた。
朕、思うに文字は言葉をうつし、言葉は事件を記録する。これは古今かわらぬ制度である。しかし我が国家は北方に建国して以来、その風俗が簡単素朴を宗としていたため、文字を作成するいとまがなかった。今までは漢字の楷書やウイグル文字を用いていたが、遼・金〔といった北方民族の王朝〕や遠方の諸国の例を見ても、みな各々独自の文字を有しており、今、ようやく文治政治が始まったことを考えると、ここで文字がないというのでは完璧な制度とはいえない。従って、特に國師パクパに命じて新しいモンゴル文字を作成して、これによって一切の言語をうつす。今後は印章の印面や書面には必ずこの新しいモンゴル文字を用いて、土地の言葉をそれに副えるように」 ついにパクパを昇進させて大宝法王となした(『元史』釋老傳)。
モンゴルに文字がないのは他の王朝と比べても情けないので、文字をつくれ、とチベット僧に命令したわけである。命令されたパクパは、古代チベットにさかのぼる名家クン氏の御曹司で、チベット仏教の一宗派サキャ派の座主であった。そのパクパが作るのだから、その文字はチベット文字そのままになった。

チベット文字を四角い函にいれてぬいたような形である。チベット文字は横書きであるため、頭を揃えて足を流す書き方をするが、パクパ文字は縦書き用に作られたため、角張らされたのである。違いはそこだけ(笑)。このパクパ文字は元朝が滅びた後も印章や碑文などの典礼文字として用いられ続けている。
このようにチベット文字はチベット仏教とともに、民族を越えて用いられた歴史ある文字であるものの、現在は存亡の危機にある。それは中国の同化政策も大きいが、チベット語文語が現代チベット人にとって難しい言語となってしまっていることも大きな理由の一つである。
古代からまったくその姿を変えていないということは、話し言葉と書き言葉が乖離しつづけていることを意味し、その乖離は現在ではとんでもないレベルにまで達している。現在、文語と口語は完全ベツモノとなってしまい、僧侶でないチベット人はチベット語を正確に綴れず、文語を学んだ外人の方が正確に読み書きできるという悲しい状況なのである。
しかし、「古代言語は廃止してしまえ、その方が合理的だ」と一概にいえないことは今まで述べてきたことからも明かであろう。客観的にいって、チベット文化の中で世界に通用し、普遍的な価値があるとみなされているのはチベット仏教思想である。チベットという国が失われた今、人類の知的遺産を守るという意味でも、チベットのアイデンティティを維持するという意味でも、チベット仏教の維持とその維持に不可欠なチベット文語・チベット文字の存在は重要なのである。
このようなありがたいチベット文字なのだが、自分はこれまで木版印刷に用いられる7世紀からの伝統的な書体を読むだけで満足していた。チベット学でも仏教学をやっていたり、写本を扱う人たちは、テクストほぼすべて筆記体なのでみな当然読めるようになっているが、ダライラマ政権が成立してからの歴史をやっている自分は、筆記体読めなくてもとくに不便を感じなかったからである。
しかし、最近ダライラマ13世の時代の歴史を始めたため、なんぼなんでも筆記体・草書体も読めないとまずい空気が漂い始めた。筆記体はざっと8種類くらいあり、どの字体もトンミサンボータの作った文字がゲシュタルト崩壊して似ても似つかない姿になったミミズ文字である。そのうちよく用いられる筆記体がこの写真のようなもの。

かつてダライラマ政権が存在した際、官僚の登用試験には、これらの筆記体をいかに多くの種類、美しく書けるかが教養の一つとして問われていた。中央から政府の各部署や地方の行政機関に頒布する文書に美しい文字を記すことは政府の権威を保つためにも不可欠であったからである。余談だが、清朝末期になると、電報や公文書の漢字が誤字だらけになってきて、もうぼろぼろになるが、これは政府を構成する人員の中に教養ある人が少なくなっていることを示しており、亡国のフラグたちまくりである。
美しい文章や文字をかける人材がいることは国家の存亡にとって非常に枢要であることはこの件からも分かるであろう。
そこでこのGWはまず手元にある筆記体の教本の独学をはじめた。しかし、これらの教本は師匠がいるのが前提のテクストで、独学者に対する配慮はない。そこで限界を感じたので、、翌日、カワチェンのケルサン氏のところにいって、集中講義を受けた。まず、基本的な筆記体の書き順をならい、その文字をだんだん小さくしていって一筆で書くようにしていけば、もっとも崩れた文字も読めるようになるとのこと。
二日でそこそこ読めるようになったので、まあ何とかなるような気がする。最後まで読めない文字はさいあくチベット人に聞いてつぶしていこう。以下の写真はケルサン所蔵の、すべてチベット文字で書かれたチッタマニ・ターラー尊。なんとかアートというらしい(て説明になってない 笑)。

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