淡路にご先祖のお墓を訪ねて
我が父方の家系のルーツは淡路島にある。私が生まれた時には祖父母はおろか、父も父の兄弟もみんな亡くなっていたため、若い頃は父方の家系について意識することはなかった。しかし、成人して歴史を研究する身となり、何となく自分の家系に興味をもって戸籍をとってルーツをたどってみたところ、父方の祖母の曾祖父が岡田鴨里という淡路の儒者であったこと、祖母の父で鴨里の孫である真も庚午事変にかかわっていたりして、父の兄弟もとっくの昔に死んでいるが経済学者や小説家として研究対象となるような結構な有名人であることがわかった。まあそんなわけで、「淡路に一度は行ってみないと」と、完成した翌年の明石海峡大橋をわたり、はじめて淡路の地を踏んだ。この時期はいわば「第一次淡路マイブーム期」であった。
その後、専門の研究(チベット・モンゴル・満洲史)に忙しかったりして、すっかりご先祖関係の探索はおろそかになっていた。しかし、昨年、再び父祖の地から、いや正確に言えばあの世からのコールがあった(笑)。
きっかけは去年の11月、高松歴史資料館で開催された「知の巨人 藤澤東畡展~没後150年記念~」(11月9日~12月23日)のオープニングに呼ばれて、それを機会に四国・淡路の儒者ネットワークを研究されている四国大学の太田剛先生と知遇を得たことである。太田先生は私の話を聞いてさっそく鴨里のお墓を訪れて拓本をとってくださった。そして、「私は今までたくさんの儒者の墓の拓本をとってきた。拓本をとるためにお墓を磨いているとその墓主の気持ちがわかる。鴨里は子孫にあいたがっている。半年以内に鴨里のお墓にお参りしなさい。」とお叱りをうけた。
「私は仏教徒なので、もう鴨里はどこかに転生しているような気がするのですが」と言い訳しようかと思ったが、「鴨里は神道式で土葬されている」と分かり観念した。
というわけで、再び淡路に渡ることになり、現在第二次淡路マイブーム期が幕を開けたところである。3月24日の朝、太田先生が洲本まで迎えにきてくださり、まずは、東洋學の泰斗石濱純太郎 (1888-1968) 先生のお墓(遍照院)に詣でる。
境内にはひっくりかえったままの石碑や、欠けた墓石が多く、ご住職の奥様のお話によると、1995年の阪神淡路大震災、2013年4月13日の淡路島を震源とする震度5強、さらに、つい先日の3月14日におきた愛媛を震源とする震度5強にゆさぶられ、墓石が倒れては積み直しているのだという。 純太郎先生のお墓の近くには純太郎先生の父上豊蔵、祖父君勝蔵の墓があり、純太郎先生のご長男で、小説家の恒夫 (1923-2004) さんも合葬されていた。
ここで私の直接の祖先のお墓(俗名 徳右衛門)のお墓を探すが、これまた奥様によると、境内の子孫のお参りなくなった江戸末期の墓石はもうどこぞに処分してしまったとかで、確認はできなかった。本寺では過去帳も整理していないとのこと。くすん。
次に、淡路の殿様であった稲田家の江国寺の墓所に参拝する。稲田家の墓所の目立つ所に私の祖母の曾祖父鴨里の手になる稲田家の顕彰碑?がある。

門前の庚午事変 (1870年) の慰霊碑に手を合わせる。庚午事変に興味のある方は小説『お登勢』、吉永小百合が主演した映画『北の零年』とかを見るといっぱつで分かる。これだけ小説やら映画になっていることからも分かるように明治3年のこの事件は悲惨にドラマチック。ひらたくいうと明治維新のあと淡路の稲田家(徳島藩の陪臣)が阿波から独立しようとし、徳島藩側の蜂須賀家の家臣が怒って、洲本にある稲田屋敷を大砲うちまくって襲った事件。事後、明治政府は稲田の家中を北海道の静内へと送りこみ、壮絶な開拓サバイバルを繰り広げることに。うちの家系は蜂須賀側だったので、北海道には行かず、大阪にでて、祖母の代に東京へと移った。というわけで、江国寺で稲田の殿様に手を合わせる。
次は鴨里の生家である砂川家を訪れる。鴨里は養子で、もとは王子村の庄屋の砂川さん家の子。生家は子孫によって町に寄付されたが、現在は時代劇のロケ地として貸し出しをまつ身。一時レトロ体験村として機能していたこともあるが、平成の大合併により閉園に追い込まれたよう。

見れば、敷地中に雑草が生い茂り、昨今の大地震でしっくいはあちこちがはげてひびが入り、修繕された気配もない。一言で言えば廃墟。淡路島歴史文化資料館で手に入れた「砂川家文書」の説明文には以下のような一文があった。
津名町志筑から一宮町尾崎へ通ずる県道が町境の峠坂にかかる手前の集落が江戸時代の王子村である、この村の庄屋は砂川家であったが現在は子孫もなく、最後の子孫砂川幸子さんは、昭和四十九年先祖から伝えられて来た、宅地と残存していた長屋を津名町に寄贈した。津名町はこれを活用して「レトロ村」と称し、子供達に祖先の生活を体験させる施設に利用している。
砂川家は幕末期の碩学であった[岡田鴨里]が生まれ育った処というので、それにちなんだ施設として、子供達に勉学を勧めるという有意義な施設となっている。
次に同家に残された文書・什器類であるが、幸子さんの生前重要なものは甥の羽田功一氏(志筑在住)に譲り、残余の処置については親族の五色町鮎原の歯科医師砂川癸巳夫氏が当り、文書整理については砂川氏と懇意な鮎原出身の洲本の歯科医高津全雄氏が当たり、残余の書冊等を収容した模様である。しかしその間相当の日時が経過しており、屋根裏や納戸の奥の残存物などは、無住で町の管理粗雑であった時季に、近村の野次馬や阿波の業者などが勝手に侵入して運び出したり、処分をしたといわれているので、散逸したものも相当あると考えられる。
平成七年一月十七日の大震災によって、主要な保管先である志筑の羽田功一氏邸は全壊し、文書箱等は戸外に野積みにされた。目の早い阿波の業者はこれを見付け、二束三文で買い取ろうとして箱をかかえて車に積み込もうとしたのを羽田氏が制止し、間一髪で保護した模様で、その後早速史料館に寄託を依頼されて来た。震災による被災文書の第一号として受け入れ、更にこの機会に高津全雄氏保管の砂川家関係文書と一体化して整理登録するのが望ましいと考えて、高津氏に交渉、快諾を得て、その分の文書を運び込んだのは同年四月の事であった。
つまり、町の管理がずさんであったため早くからこの家には勝手に業者が不法侵入して文書や什器を持ち出しており、、さらに阪神淡路大震災のどさくさにまぎれて、子孫の所有する文書すら「業者」に持ち逃げされるところだったのだ。今、鴨里の墨書は二万円とか三万円とかで取引されているが、この時流出したものも一部にはあるのだろうな。
砂川家に来る前に、建物を管理する淡路市教育委員会に、『建物の鍵あげて中見せてください」と電話をしたところ、「閉園したのでダメ」といわれたが、「これはきっと子孫にこの様を見せたくないからだな」と邪推する。コレでは子孫は何のために公共機関に寄付したんだかわかんない。
使わないなら、私にくれ。老後にすむ。と思ったのであった。
さて、次は鴨里のお墓を守ってくださっている栄福寺に行く。ご住職のおじい様は早稲田大学卒ということで、非常によくしてくださった。そのおじい様の代に旧岡田家の敷地に岡田鴨里の巨大な頌徳碑をたてており、その時の史料をコピーして待ってくださっていた。

さて、いよいよご先祖様のお墓詣でである。鴨里のお墓は栄福寺に隣接する向かいの小山の頂上近くにあり、かつては地域を見下ろしていたという(今は竹林が目隠しになっている)。鴨里、鴨里の孫の真、養子の文平の墓石が並び、文平の墓のみが上部が欠けて下に落ちていた。おそらく昨今の地震の被害と思われる。養子の墓石だけが割れたのがもの悲しい。ご住職と二人でお経を唱えて、作業に入る。

太田先生は「前回来た時は鴨里のお墓の拓本をとったので、今日とる鴨里の拓本はあなたにお土産としてあげる。私は孫の岡田真の拓本をとる。」とおっしゃって、まず、お墓についたコケやカビをおとす作業に入る。こうやって墓石を磨いていると何かご先祖様に孝養を尽くした気になるから不思議だ。「ご先祖様。もし転生していなかったら良い転生を、そのまま神道でいたかったら、穏やかにここにいらしてください」とお祈りする。
鴨里は賴山陽の高弟で、山陽を継いで『日本外史補』を書いたことで著名であり、太田先生によるとその書も賴山陽に似ているという。鴨里の他の著作は『名節録』『草莽私記』『蜂須賀家記』『山道遊記』『西遊記』『五倫の辧』『抄善録』『抄録詩文』などである。最初の二つの題名をみてピンとくる方もあるだろうが、ようは勤王思想をお持ちであり、娘の一人は天誅組のメンバーに嫁いでいる。ひ孫の私の祖母はこの岡田家からでているので、ものすごいスパルタママで、四人の息子を三人まで東大にいれ一人は東工大というすさまじさであった。私は父の死の直後に生まれて母に育てられたので学者になるような環境は全くなかったにも関わらず、今こうして歴史の研究者になっているのは遺伝なのだろうか。そんな限定した遺伝ってあるのだろうか。
お墓の拓本をとったあと、太田先生に徳島空港まで送っていただく。鳴門の渦潮は夕方時とあってほんとうにハデに渦巻いていて、奥村土牛(1889-1990)の名画「鳴門」を彷彿とさせた。太田先生によると月の引力がこの渦を作っているそうで、我々がたっていた淡路島側の岬は、江戸時代から渦潮観光のスポットだったそう。このたびは太田先生にはお手数おかけしてしまった。また、江戸末期から明治初期にかけての阿波=徳島藩についての知識をご教示賜り、勉強になりました。ありがとうございました。

こうして、第二次淡路島マイブームが再び始まりそうなのだが、日本近代史研究も漢学のスキルもない私にどこまでご先祖のナゾが解き明かせるのか、彼らの思想を理解できるのか、まったくもって未知数なのである。そう同僚の日本中世史の先生に訴えたら「チベットなんてやめて、日本史をやったらいいじゃないですか、こっちの方がおもしろいですよ」と謂われて複雑な気持ちになった。
ご先祖様安らかに眠ってください。
その後、専門の研究(チベット・モンゴル・満洲史)に忙しかったりして、すっかりご先祖関係の探索はおろそかになっていた。しかし、昨年、再び父祖の地から、いや正確に言えばあの世からのコールがあった(笑)。
きっかけは去年の11月、高松歴史資料館で開催された「知の巨人 藤澤東畡展~没後150年記念~」(11月9日~12月23日)のオープニングに呼ばれて、それを機会に四国・淡路の儒者ネットワークを研究されている四国大学の太田剛先生と知遇を得たことである。太田先生は私の話を聞いてさっそく鴨里のお墓を訪れて拓本をとってくださった。そして、「私は今までたくさんの儒者の墓の拓本をとってきた。拓本をとるためにお墓を磨いているとその墓主の気持ちがわかる。鴨里は子孫にあいたがっている。半年以内に鴨里のお墓にお参りしなさい。」とお叱りをうけた。
「私は仏教徒なので、もう鴨里はどこかに転生しているような気がするのですが」と言い訳しようかと思ったが、「鴨里は神道式で土葬されている」と分かり観念した。
というわけで、再び淡路に渡ることになり、現在第二次淡路マイブーム期が幕を開けたところである。3月24日の朝、太田先生が洲本まで迎えにきてくださり、まずは、東洋學の泰斗石濱純太郎 (1888-1968) 先生のお墓(遍照院)に詣でる。
境内にはひっくりかえったままの石碑や、欠けた墓石が多く、ご住職の奥様のお話によると、1995年の阪神淡路大震災、2013年4月13日の淡路島を震源とする震度5強、さらに、つい先日の3月14日におきた愛媛を震源とする震度5強にゆさぶられ、墓石が倒れては積み直しているのだという。 純太郎先生のお墓の近くには純太郎先生の父上豊蔵、祖父君勝蔵の墓があり、純太郎先生のご長男で、小説家の恒夫 (1923-2004) さんも合葬されていた。
ここで私の直接の祖先のお墓(俗名 徳右衛門)のお墓を探すが、これまた奥様によると、境内の子孫のお参りなくなった江戸末期の墓石はもうどこぞに処分してしまったとかで、確認はできなかった。本寺では過去帳も整理していないとのこと。くすん。
次に、淡路の殿様であった稲田家の江国寺の墓所に参拝する。稲田家の墓所の目立つ所に私の祖母の曾祖父鴨里の手になる稲田家の顕彰碑?がある。

門前の庚午事変 (1870年) の慰霊碑に手を合わせる。庚午事変に興味のある方は小説『お登勢』、吉永小百合が主演した映画『北の零年』とかを見るといっぱつで分かる。これだけ小説やら映画になっていることからも分かるように明治3年のこの事件は悲惨にドラマチック。ひらたくいうと明治維新のあと淡路の稲田家(徳島藩の陪臣)が阿波から独立しようとし、徳島藩側の蜂須賀家の家臣が怒って、洲本にある稲田屋敷を大砲うちまくって襲った事件。事後、明治政府は稲田の家中を北海道の静内へと送りこみ、壮絶な開拓サバイバルを繰り広げることに。うちの家系は蜂須賀側だったので、北海道には行かず、大阪にでて、祖母の代に東京へと移った。というわけで、江国寺で稲田の殿様に手を合わせる。
次は鴨里の生家である砂川家を訪れる。鴨里は養子で、もとは王子村の庄屋の砂川さん家の子。生家は子孫によって町に寄付されたが、現在は時代劇のロケ地として貸し出しをまつ身。一時レトロ体験村として機能していたこともあるが、平成の大合併により閉園に追い込まれたよう。

見れば、敷地中に雑草が生い茂り、昨今の大地震でしっくいはあちこちがはげてひびが入り、修繕された気配もない。一言で言えば廃墟。淡路島歴史文化資料館で手に入れた「砂川家文書」の説明文には以下のような一文があった。
津名町志筑から一宮町尾崎へ通ずる県道が町境の峠坂にかかる手前の集落が江戸時代の王子村である、この村の庄屋は砂川家であったが現在は子孫もなく、最後の子孫砂川幸子さんは、昭和四十九年先祖から伝えられて来た、宅地と残存していた長屋を津名町に寄贈した。津名町はこれを活用して「レトロ村」と称し、子供達に祖先の生活を体験させる施設に利用している。
砂川家は幕末期の碩学であった[岡田鴨里]が生まれ育った処というので、それにちなんだ施設として、子供達に勉学を勧めるという有意義な施設となっている。
次に同家に残された文書・什器類であるが、幸子さんの生前重要なものは甥の羽田功一氏(志筑在住)に譲り、残余の処置については親族の五色町鮎原の歯科医師砂川癸巳夫氏が当り、文書整理については砂川氏と懇意な鮎原出身の洲本の歯科医高津全雄氏が当たり、残余の書冊等を収容した模様である。しかしその間相当の日時が経過しており、屋根裏や納戸の奥の残存物などは、無住で町の管理粗雑であった時季に、近村の野次馬や阿波の業者などが勝手に侵入して運び出したり、処分をしたといわれているので、散逸したものも相当あると考えられる。
平成七年一月十七日の大震災によって、主要な保管先である志筑の羽田功一氏邸は全壊し、文書箱等は戸外に野積みにされた。目の早い阿波の業者はこれを見付け、二束三文で買い取ろうとして箱をかかえて車に積み込もうとしたのを羽田氏が制止し、間一髪で保護した模様で、その後早速史料館に寄託を依頼されて来た。震災による被災文書の第一号として受け入れ、更にこの機会に高津全雄氏保管の砂川家関係文書と一体化して整理登録するのが望ましいと考えて、高津氏に交渉、快諾を得て、その分の文書を運び込んだのは同年四月の事であった。
つまり、町の管理がずさんであったため早くからこの家には勝手に業者が不法侵入して文書や什器を持ち出しており、、さらに阪神淡路大震災のどさくさにまぎれて、子孫の所有する文書すら「業者」に持ち逃げされるところだったのだ。今、鴨里の墨書は二万円とか三万円とかで取引されているが、この時流出したものも一部にはあるのだろうな。
砂川家に来る前に、建物を管理する淡路市教育委員会に、『建物の鍵あげて中見せてください」と電話をしたところ、「閉園したのでダメ」といわれたが、「これはきっと子孫にこの様を見せたくないからだな」と邪推する。コレでは子孫は何のために公共機関に寄付したんだかわかんない。
使わないなら、私にくれ。老後にすむ。と思ったのであった。
さて、次は鴨里のお墓を守ってくださっている栄福寺に行く。ご住職のおじい様は早稲田大学卒ということで、非常によくしてくださった。そのおじい様の代に旧岡田家の敷地に岡田鴨里の巨大な頌徳碑をたてており、その時の史料をコピーして待ってくださっていた。

さて、いよいよご先祖様のお墓詣でである。鴨里のお墓は栄福寺に隣接する向かいの小山の頂上近くにあり、かつては地域を見下ろしていたという(今は竹林が目隠しになっている)。鴨里、鴨里の孫の真、養子の文平の墓石が並び、文平の墓のみが上部が欠けて下に落ちていた。おそらく昨今の地震の被害と思われる。養子の墓石だけが割れたのがもの悲しい。ご住職と二人でお経を唱えて、作業に入る。

太田先生は「前回来た時は鴨里のお墓の拓本をとったので、今日とる鴨里の拓本はあなたにお土産としてあげる。私は孫の岡田真の拓本をとる。」とおっしゃって、まず、お墓についたコケやカビをおとす作業に入る。こうやって墓石を磨いていると何かご先祖様に孝養を尽くした気になるから不思議だ。「ご先祖様。もし転生していなかったら良い転生を、そのまま神道でいたかったら、穏やかにここにいらしてください」とお祈りする。
鴨里は賴山陽の高弟で、山陽を継いで『日本外史補』を書いたことで著名であり、太田先生によるとその書も賴山陽に似ているという。鴨里の他の著作は『名節録』『草莽私記』『蜂須賀家記』『山道遊記』『西遊記』『五倫の辧』『抄善録』『抄録詩文』などである。最初の二つの題名をみてピンとくる方もあるだろうが、ようは勤王思想をお持ちであり、娘の一人は天誅組のメンバーに嫁いでいる。ひ孫の私の祖母はこの岡田家からでているので、ものすごいスパルタママで、四人の息子を三人まで東大にいれ一人は東工大というすさまじさであった。私は父の死の直後に生まれて母に育てられたので学者になるような環境は全くなかったにも関わらず、今こうして歴史の研究者になっているのは遺伝なのだろうか。そんな限定した遺伝ってあるのだろうか。
お墓の拓本をとったあと、太田先生に徳島空港まで送っていただく。鳴門の渦潮は夕方時とあってほんとうにハデに渦巻いていて、奥村土牛(1889-1990)の名画「鳴門」を彷彿とさせた。太田先生によると月の引力がこの渦を作っているそうで、我々がたっていた淡路島側の岬は、江戸時代から渦潮観光のスポットだったそう。このたびは太田先生にはお手数おかけしてしまった。また、江戸末期から明治初期にかけての阿波=徳島藩についての知識をご教示賜り、勉強になりました。ありがとうございました。

こうして、第二次淡路島マイブームが再び始まりそうなのだが、日本近代史研究も漢学のスキルもない私にどこまでご先祖のナゾが解き明かせるのか、彼らの思想を理解できるのか、まったくもって未知数なのである。そう同僚の日本中世史の先生に訴えたら「チベットなんてやめて、日本史をやったらいいじゃないですか、こっちの方がおもしろいですよ」と謂われて複雑な気持ちになった。
ご先祖様安らかに眠ってください。
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