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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2014/03/31(月)   CATEGORY: 未分類
淡路にご先祖のお墓を訪ねて
 我が父方の家系のルーツは淡路島にある。私が生まれた時には祖父母はおろか、父も父の兄弟もみんな亡くなっていたため、若い頃は父方の家系について意識することはなかった。しかし、成人して歴史を研究する身となり、何となく自分の家系に興味をもって戸籍をとってルーツをたどってみたところ、父方の祖母の曾祖父が岡田鴨里という淡路の儒者であったこと、祖母の父で鴨里の孫である真も庚午事変にかかわっていたりして、父の兄弟もとっくの昔に死んでいるが経済学者や小説家として研究対象となるような結構な有名人であることがわかった。まあそんなわけで、「淡路に一度は行ってみないと」と、完成した翌年の明石海峡大橋をわたり、はじめて淡路の地を踏んだ。この時期はいわば「第一次淡路マイブーム期」であった。

 その後、専門の研究(チベット・モンゴル・満洲史)に忙しかったりして、すっかりご先祖関係の探索はおろそかになっていた。しかし、昨年、再び父祖の地から、いや正確に言えばあの世からのコールがあった(笑)。

 きっかけは去年の11月、高松歴史資料館で開催された「知の巨人 藤澤東畡展~没後150年記念~」(11月9日~12月23日)のオープニングに呼ばれて、それを機会に四国・淡路の儒者ネットワークを研究されている四国大学の太田剛先生と知遇を得たことである。太田先生は私の話を聞いてさっそく鴨里のお墓を訪れて拓本をとってくださった。そして、「私は今までたくさんの儒者の墓の拓本をとってきた。拓本をとるためにお墓を磨いているとその墓主の気持ちがわかる。鴨里は子孫にあいたがっている。半年以内に鴨里のお墓にお参りしなさい。」とお叱りをうけた。

 「私は仏教徒なので、もう鴨里はどこかに転生しているような気がするのですが」と言い訳しようかと思ったが、「鴨里は神道式で土葬されている」と分かり観念した。

 というわけで、再び淡路に渡ることになり、現在第二次淡路マイブーム期が幕を開けたところである。3月24日の朝、太田先生が洲本まで迎えにきてくださり、まずは、東洋學の泰斗石濱純太郎 (1888-1968) 先生のお墓(遍照院)に詣でる。

 境内にはひっくりかえったままの石碑や、欠けた墓石が多く、ご住職の奥様のお話によると、1995年の阪神淡路大震災、2013年4月13日の淡路島を震源とする震度5強、さらに、つい先日の3月14日におきた愛媛を震源とする震度5強にゆさぶられ、墓石が倒れては積み直しているのだという。 純太郎先生のお墓の近くには純太郎先生の父上豊蔵、祖父君勝蔵の墓があり、純太郎先生のご長男で、小説家の恒夫 (1923-2004) さんも合葬されていた。

 ここで私の直接の祖先のお墓(俗名 徳右衛門)のお墓を探すが、これまた奥様によると、境内の子孫のお参りなくなった江戸末期の墓石はもうどこぞに処分してしまったとかで、確認はできなかった。本寺では過去帳も整理していないとのこと。くすん。

 次に、淡路の殿様であった稲田家の江国寺の墓所に参拝する。稲田家の墓所の目立つ所に私の祖母の曾祖父鴨里の手になる稲田家の顕彰碑?がある。
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門前の庚午事変 (1870年) の慰霊碑に手を合わせる。庚午事変に興味のある方は小説『お登勢』、吉永小百合が主演した映画『北の零年』とかを見るといっぱつで分かる。これだけ小説やら映画になっていることからも分かるように明治3年のこの事件は悲惨にドラマチック。ひらたくいうと明治維新のあと淡路の稲田家(徳島藩の陪臣)が阿波から独立しようとし、徳島藩側の蜂須賀家の家臣が怒って、洲本にある稲田屋敷を大砲うちまくって襲った事件。事後、明治政府は稲田の家中を北海道の静内へと送りこみ、壮絶な開拓サバイバルを繰り広げることに。うちの家系は蜂須賀側だったので、北海道には行かず、大阪にでて、祖母の代に東京へと移った。というわけで、江国寺で稲田の殿様に手を合わせる。

 次は鴨里の生家である砂川家を訪れる。鴨里は養子で、もとは王子村の庄屋の砂川さん家の子。生家は子孫によって町に寄付されたが、現在は時代劇のロケ地として貸し出しをまつ身。一時レトロ体験村として機能していたこともあるが、平成の大合併により閉園に追い込まれたよう。
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見れば、敷地中に雑草が生い茂り、昨今の大地震でしっくいはあちこちがはげてひびが入り、修繕された気配もない。一言で言えば廃墟。淡路島歴史文化資料館で手に入れた「砂川家文書」の説明文には以下のような一文があった。

津名町志筑から一宮町尾崎へ通ずる県道が町境の峠坂にかかる手前の集落が江戸時代の王子村である、この村の庄屋は砂川家であったが現在は子孫もなく、最後の子孫砂川幸子さんは、昭和四十九年先祖から伝えられて来た、宅地と残存していた長屋を津名町に寄贈した。津名町はこれを活用して「レトロ村」と称し、子供達に祖先の生活を体験させる施設に利用している。
 砂川家は幕末期の碩学であった[岡田鴨里]が生まれ育った処というので、それにちなんだ施設として、子供達に勉学を勧めるという有意義な施設となっている。
 次に同家に残された文書・什器類であるが、幸子さんの生前重要なものは甥の羽田功一氏(志筑在住)に譲り、残余の処置については親族の五色町鮎原の歯科医師砂川癸巳夫氏が当り、文書整理については砂川氏と懇意な鮎原出身の洲本の歯科医高津全雄氏が当たり、残余の書冊等を収容した模様である。しかしその間相当の日時が経過しており、屋根裏や納戸の奥の残存物などは、無住で町の管理粗雑であった時季に、近村の野次馬や阿波の業者などが勝手に侵入して運び出したり、処分をしたといわれているので、散逸したものも相当あると考えられる。
 平成七年一月十七日の大震災によって、主要な保管先である志筑の羽田功一氏邸は全壊し、文書箱等は戸外に野積みにされた。目の早い阿波の業者はこれを見付け、二束三文で買い取ろうとして箱をかかえて車に積み込もうとしたのを羽田氏が制止し、間一髪で保護した模様で、その後早速史料館に寄託を依頼されて来た。震災による被災文書の第一号として受け入れ、更にこの機会に高津全雄氏保管の砂川家関係文書と一体化して整理登録するのが望ましいと考えて、高津氏に交渉、快諾を得て、その分の文書を運び込んだのは同年四月の事であった。
 

つまり、町の管理がずさんであったため早くからこの家には勝手に業者が不法侵入して文書や什器を持ち出しており、、さらに阪神淡路大震災のどさくさにまぎれて、子孫の所有する文書すら「業者」に持ち逃げされるところだったのだ。今、鴨里の墨書は二万円とか三万円とかで取引されているが、この時流出したものも一部にはあるのだろうな。

 砂川家に来る前に、建物を管理する淡路市教育委員会に、『建物の鍵あげて中見せてください」と電話をしたところ、「閉園したのでダメ」といわれたが、「これはきっと子孫にこの様を見せたくないからだな」と邪推する。コレでは子孫は何のために公共機関に寄付したんだかわかんない。

 使わないなら、私にくれ。老後にすむ。と思ったのであった。

さて、次は鴨里のお墓を守ってくださっている栄福寺に行く。ご住職のおじい様は早稲田大学卒ということで、非常によくしてくださった。そのおじい様の代に旧岡田家の敷地に岡田鴨里の巨大な頌徳碑をたてており、その時の史料をコピーして待ってくださっていた。
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 さて、いよいよご先祖様のお墓詣でである。鴨里のお墓は栄福寺に隣接する向かいの小山の頂上近くにあり、かつては地域を見下ろしていたという(今は竹林が目隠しになっている)。鴨里、鴨里の孫の真、養子の文平の墓石が並び、文平の墓のみが上部が欠けて下に落ちていた。おそらく昨今の地震の被害と思われる。養子の墓石だけが割れたのがもの悲しい。ご住職と二人でお経を唱えて、作業に入る。
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 太田先生は「前回来た時は鴨里のお墓の拓本をとったので、今日とる鴨里の拓本はあなたにお土産としてあげる。私は孫の岡田真の拓本をとる。」とおっしゃって、まず、お墓についたコケやカビをおとす作業に入る。こうやって墓石を磨いていると何かご先祖様に孝養を尽くした気になるから不思議だ。「ご先祖様。もし転生していなかったら良い転生を、そのまま神道でいたかったら、穏やかにここにいらしてください」とお祈りする。

 鴨里は賴山陽の高弟で、山陽を継いで『日本外史補』を書いたことで著名であり、太田先生によるとその書も賴山陽に似ているという。鴨里の他の著作は『名節録』『草莽私記』『蜂須賀家記』『山道遊記』『西遊記』『五倫の辧』『抄善録』『抄録詩文』などである。最初の二つの題名をみてピンとくる方もあるだろうが、ようは勤王思想をお持ちであり、娘の一人は天誅組のメンバーに嫁いでいる。ひ孫の私の祖母はこの岡田家からでているので、ものすごいスパルタママで、四人の息子を三人まで東大にいれ一人は東工大というすさまじさであった。私は父の死の直後に生まれて母に育てられたので学者になるような環境は全くなかったにも関わらず、今こうして歴史の研究者になっているのは遺伝なのだろうか。そんな限定した遺伝ってあるのだろうか。

 お墓の拓本をとったあと、太田先生に徳島空港まで送っていただく。鳴門の渦潮は夕方時とあってほんとうにハデに渦巻いていて、奥村土牛(1889-1990)の名画「鳴門」を彷彿とさせた。太田先生によると月の引力がこの渦を作っているそうで、我々がたっていた淡路島側の岬は、江戸時代から渦潮観光のスポットだったそう。このたびは太田先生にはお手数おかけしてしまった。また、江戸末期から明治初期にかけての阿波=徳島藩についての知識をご教示賜り、勉強になりました。ありがとうございました。
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こうして、第二次淡路島マイブームが再び始まりそうなのだが、日本近代史研究も漢学のスキルもない私にどこまでご先祖のナゾが解き明かせるのか、彼らの思想を理解できるのか、まったくもって未知数なのである。そう同僚の日本中世史の先生に訴えたら「チベットなんてやめて、日本史をやったらいいじゃないですか、こっちの方がおもしろいですよ」と謂われて複雑な気持ちになった。

ご先祖様安らかに眠ってください。
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DATE: 2014/03/26(水)   CATEGORY: 未分類
14年春のディープなチベット情報
 3月23日は大阪の清風学園において行われたロサン・テレ先生のチッタマニ・ターラーの灌頂に参加しました。まず、平岡理事長のご挨拶の中にでてきたお話の中から、このブログをご覧になっている方が興味もたれそうな情報を簡単に述べます(もうご存じの方も多いかもしれませんが)。

(1) 法王事務所の代表が6月よりラクパ代表からルントクさんへと交代。ルントクさんは日本の大学を卒業されて日本の代表事務所において長年勤められていたので日本語ぺらぺら。平岡理事長いはく「日本語のしゃべれるラクパ代表が就任してから、日本人と代表事務所のコミニュケーションが格段によくなり、ダライラマ法王が何度も来日され、日本人の多くの方とふれあえるようになった。今度も日本語の通じる方が代表となってよかった」という旨のお話。

 その後、ラクパさんとルントクさんが交互にご挨拶。ラクパ代表は次はオーストラリアに駐在されて、マレーシア、シンガポール、ニュージーランド地域の代表に就任されるとのことです。

(2) ロサン・テレ先生の灌頂が急遽今週土曜日3/29に開催されるとのこと。以下詳細。

導師: ロサン・テレ先生
本尊: 薬師如来
時日: 平成26年3月29日
場所 学校法人清風学園 南館7階ホール
問い合わせ先: 06-6771-5757
お志: おいくらでも結構です。

平岡校長によると「ロサン・テレ先生の薬師灌頂はあまりに功徳があるので異教徒のインド人も受けにくる」とのことです。

(3) ガンワン先生の生まれかわりの童子が無事にインドのガンデン大僧院へと迎えられました。ガンワン先生はガンデン大僧院ファラ地域寮出身、ギュメ大僧院の僧院長をつとめられた大学僧で、平岡校長のラマであった関係上、何回も来日され日本とご縁の深い方。私も先生を通じてチベット仏教の奥深さを学ばせて戴いた。先生は2009年の1月29日に遷化され、去年のエントリーでも紹介したように、生まれ代わりが公式に認定されましたが、去年の時点ではまだ彼がネパールにいたため、安全上の理由から顔写真その他を公開できませんでした。しかし、今回、童子が無事にガンデンに到着したことから、晴れて顔写真を初公開(クリックすると大きくなります)。
ガワン先生童子

平岡理事長曰く「上品で男前」。たしかに。

●さて、灌頂です。密教の教えは秘密の教えなので、中身は口外できないため、最初と最後の導師の法話を以下に再録いたします。

〔灌頂前〕

 我々はお釈迦様という同じ先生をもつ同窓生です。国は違ってもこうやって集まれることをとても嬉しく思います。みなさんも良い機会を得ることができたと喜んでください。今日お授けする灌頂の本尊はチッタマニターラー尊という無上ヨーガの母タントラの女性の仏様です。お釈迦様に始まる教えは現在に至るまで多くの人をへて伝わっていますが、このチッタマニの教えは、チッタマニ・ターラー尊が200年前のチベット人カルキワンポの前に直接現れて授けたものなので、お加持が近くて、功徳が早いと言われています。
 チッタマニの教えは仏教の中でも大乗の教え(他者を救うために仏の境地を目指す教え)であり、さらに密教です。大乗は上根(勝れた器)の者に説くものであり、大乗の教えのないところで器でないものに説いても相手にされないこともありますが、日本は幸いなことに大乗仏教の国で、大乗を説く環境がととのっています。

 経典によると、覚りを開く仏は1022人出現すると説かれています。しかし、このうち密教を説く仏は釈迦と1022人目の仏だけと言われています。つまり長大な時間の中で、密教の教えを受けることができる者はごくわずかなのです。密教の教えに出会うことは、太陽の出ている昼間に星を見つけるくらい難しいことなのです。

 だから今日という日に密教の教えを受けることができることを喜んでください。「こんな機会を得られるなんて、何て自分は徳が高いのか」と喜んでください。

 灌頂を受けることは密教に入門することを意味します。灌頂はチベット語でワン=権利という意味で、灌頂をうけると、以後は密教の実践を行う権利を得られることを指しています。

 灌頂を始めるにあたり、道場から魔を払うことは重要です。魔とは牙を剥いた鬼のようなものをイメージするかもしれませんが、それは違います。魔とは仏教の実践を行おうとする際に、邪魔になるものです。仏法を実践しようと思っても、体調が悪くなった、友達が遊びに誘ってきた、仕事が入ったなどで、できなくなることがあります。このようなことを魔がさすというのです。

 だから、魔は牙を剥いた鬼ではなく、笑いながらこちらにやってくる友人の顔をしています。仏法の実践をさえぎるという意味では、魔は母であることも、父であることもありうるのです。私は今から忿怒尊を召喚してこの道場にいる魔に供物をあげて、これから行われる灌頂を邪魔しないように外に追い出します。

〔灌頂後〕

 あなたたちが灌頂を受けに来た動機は、仕事ではなく、仏法を求めるためです。私は仏法を授けることによって人の役に立ちたいと考え、あなたたちは私に仏法を求めてやってきました。私とあなた方がともに同じ気持ちをもって協力したため、魔が入ることなく灌頂は無事に終わりました。

 この灌頂によってあなたたちの意識には習気すなわち「仏(チッタマニターラー尊)になるための種」を授けました。これは種ですからほっておいたら何もおきません。水をあげ肥やしをあげなければ芽を吹きません。肥やしは他者に資する良い行いをすることです。これは今生だけではなく来世も続けなさい。

 日本は大乗仏教の国です。あなたたちが生まれた時からこの伝統の中で過ごすことができているのは素晴らしいことです。この仏教は先人が維持してきたことにより今みなさんの前にあるのです。みなさんも先人の築いた財産を空費せず、次代につないでいかねばなりません。そのためにはあなたたちが自覚をもって注意深く仏教を実践しなければなりません。

 かつて中国は仏教大国でしたが、今はあの通りでの状況です。チベットの仏教も危機に瀕しています。日本の仏教も注意深く継承していかねばなりません。最後にみなさん今日灌頂を授かることによって積んだ膨大な功徳を、自分のためにではなく他者のためにさしあげま(廻向)しょう。

(1)仏教がこの世に残ってくれますように
(2) ラマが長生きして仏法を長く説いてくれますように
(3) 一切の衆生が苦しみから逃れますように

この三つにあなたたちの積んだ徳を廻向しましょう。


というわけで、めでたく灌頂が終わり、私も久しぶりに真っ白な菩提心に包まれたのでありました。

2010年に一緒にチッタマニを受けた青年僧Sくんと久しぶりに再会したので、灌頂の後ドミニク・ルトランジェ氏の作品の飾られたオサレななかたに亭で青年僧Sくんと出雲峯寺の快遍副住職とお茶して、仏教についてこれ以上ないディープな談義をした。

 私はこのお茶のあと、淡路島にご先祖の墓参兼調査に向かった。帰ってから、FBをみてびっくりした。同じ淡路にご先祖をもつ遠縁のEさんがこの前日、Sくんのお寺に参禅していたのである。
 私はEさんが禅に興味があることも、彼が関西に向かうことも知らなかった。彼が三連休に参禅すること自体は不思議ではないが、京都にある多くの禅寺の中からSくんのお寺にいったのがとても不思議であった。Sくんと私が再会するのも四年ふりくらいなのに。

 一族の血のなせるわざか、仏縁か、わけわかんないが、不思議な偶然の一致であった。
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DATE: 2014/03/22(土)   CATEGORY: 未分類
北京ミニ滞在記パート2 (「あの寺は今」篇)
 清朝皇室はチベット仏教を大変重んじていたため、北京の大寺院はほとんどチベット系である。清末、北京に滞在した寺本婉雅は「チベット仏教は清朝の国教」というほど、かつてチベット仏教は北京で殷賑を極めていた(興味ある方は拙著『清朝とチベット仏教』を読んでくださいね!)。

 清朝最盛期の皇帝、乾隆帝の時代、チベット仏教の転生僧チャンキャ三世は、乾隆帝の側近くに仕え、清朝の立場を代弁して、チベット、モンゴルの仏教界と交渉を行った。まあ、いろいろ違う要素もあるが徳川家康と天海大僧正の関係みたいなものか。その清代、歴代のチャンキャが駐在した寺が故宮の北にある嵩祝寺である。

このお寺は中国国内の他の宗教施設同様、20世紀に入り荒れ果てていた。2005年8月、嵩祝寺の名を残した道路に囲まれた一角をぐるっと回ってみたが、店舗と民家になっており、嘗ての山門から境内をのぞきこむと、元東配殿・西配殿らしき建物は内装を壊して改装中であった。当時、北京城内は三年後の北京オリンピックに向けて乱開発が行われていたため、これもその一環と思われた。

 その後、2013年の1月に「嵩祝寺が高級レストランに変わるが、これは文化財保護法に違反するのではないか」とする以下の記事があがった。私の中国語力はかなりトホホなので原文を確認できる方はこちらをどうぞ。

「嵩祝寺と智珠寺がレストランに変わった。これが法に抵触するか否かは解釈が待たれる」 北京晨报 2013年01月29日 09:52:41  
 
 新華社電によると、近日、高級レストランに改装された北京の嵩祝寺と智珠寺の件について、北京の文物局 (文化財担当部局)が28日、文物執法隊による現地調査を入れた。両寺内の一部がレストランに利用され、古建築内にはテーブルなどが放置されていたものの、露出した火は使用されていなかったことが確認された。当該の行為が規則に違反しているか、そして事後処理について北京市文物局はさらなる説明を行っていない。記者は現場でこの両寺が営業中であることを確認している。

 嵩祝寺は北京市東城区景山後街嵩祝院23号、1984年に西側の智珠寺とともに北京市の文化財となった。嵩祝寺と智珠寺はかつては境内を連ねる三座の大寺東に法淵寺、真ん中に嵩祝寺、西に智珠寺があった。このうちもっとも古い寺が、永楽年間に建造された智珠寺で、明代には漢文とチベット文の経典を印刷する工房であった。

 智珠寺と塀一つ隔てた嵩祝寺は、清朝の雍正帝の11年(1733年)に建築が始まり、かつてはモンゴルの活仏チャンキャ・フトクトが活動した場所である*(私注: チャンキャはアムドの出でチベット仏教徒なので、モンゴル僧というイメージで果たしていいかはナゾ。また、仏は転生しないので、チャンキャを活仏というのも不適切)。
 
近日メディアが、この二つの古寺が改築されて高級レストランになることを伝えると、熱い議論が巻き起こった。
 北京市の文物局によると、嵩祝寺と智珠寺は,1950年代から牡丹枝貿発展公司、北京大地科技実業有限公司(牡丹園アパート)、北京市装潢設計研究所、北京文体百科工業聯合公司などが管理使用していた。1980年代に宗教政策が実行されるようになってからは、この建築の財産権は北京市仏教協会へと移された。しかし、上述のこの協会が多くの理由から、両寺を賃貸にだし、北京市仏教協会は賃貸料をとりつつ、両寺を借り手とともに協同管理している。

 この両寺の建築は長年にわたり作業場や倉庫として使用されていたため、文化財の痛みは激しく、安全上も大きな問題がある。2005年、北京市文物局は北京市仏教協会と寺の使用者に対して改善を命じる厳しい通達を行い、協議の結果「資金を集めて文化財を修繕し、修繕の後にはその出資者が使用する」こととなった。

 記者の取材では、北京市文物局は出資者についてはっきりした情報は出さなかったが、すでに両寺はレストランになることは確認されており、商業施設となる。『中華人民共和国文物保護法』第23条によれば、「査定をへて文化財となったものは国家に属し、すべての古建築は博物館、〔文物の〕保管所、参観施設以外の用途に用いる場合は、人民政府の文物行政部門の認証をへた上で、一級文物行政部門の同意を得た後、当該の文化財の人民政府の批准を公布する」とある。

 寺院内においてレストランを開設することについての是非は、この批准をまつことになり、北京市文物局執法体調趙建明はさらに一歩進んだ調査が必要だと明言した。

 2011年8月国家文物局が発布した『国家文物保護単位経営性活動管理規定』には、「国有文化財の経営生活動は公共文化に属さないものを禁止する。文化財を賃貸、請負、譲渡、担保にだすことを禁止する。営利目的の商業開発; 公共の安全を妨害すること、文化財保護にとって害を及ぼすことを禁止する。」両寺の内部でレストランを作ることが上述の規定に反するか否かは、なお北京市文物局のさらなる解釈を待ちたい。


というわけで、2014年の嵩祝寺である。

 北京に来た私はK嬢にこのように誘われた。

 K嬢「センセー、前門の洋館をかいしめてオサレに再開発したあの集団が、嵩祝寺を買い取って、オサレな高級フレンチレストランにしたらしいですよ。中に入って建築がみられるから、行ってみましょうよ。ランチならそんなに値段ははりませんよ、きっと」

 確かに、客になれば内部を正当に見学できるので、行ってみることとする。

 地下鉄を降りて歩くこと約十分。嵩祝寺街に入る。この通りの外観は2005年当時とあまり変わっていない。しかし、山門前に黒服の男がたっている。高級レストランの関係者とみたK嬢が「予約がなくても大丈夫ですか」と話しかけると、少し待てばOKという。

 そこで、山門をくぐってかつての境内で待つこととする。山門内部の棟や梁は塗料はハゲハゲで木質が剥き出し。壁には直接薄型液晶ビジョンが四枚かかっていて映像を流している。

 境内に入ると、境内をはさんで東側はテンプル・ホテル、西側はTRB(テンプル・レストラン・ペーチン)の建物になっていることが分かった。かつての智珠寺の本堂はテンプル・ホテルの講堂になっている。
 本堂は裏からみると塗料はげはげで昔のままのたたずまいで、天井の天板もぬけたまま。少なくとも現状は維持しているが明らかに修復はしていない。
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 そして、驚いたことに講堂内部ではナイキの新作発表会をやっていた。本堂の中には液晶ビジョンとパイプ椅子が並んでいる。
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 さらに本堂前には人工的な池と煉瓦作りの別棟の新設されておりテンプル・ホテルの客室となっている。どこから見てもこのお寺、商業施設である(はあと)。
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 さらにテンプル・ホテルは近代アートの展示場になっているらしく、境内には清朝時代の扮装のアートな人形があり、弁髪男が座っていたり、正装したチベット僧が蛍光灯しょっていたりするし、なんかいろいろパフォーマンスをやっている(爆笑)。
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 もうどこからつっこんでいいのか分からないので、「テーブルのご用意ができました」と言われるまま、レストランに入る。

 入り口はかつての寺の建物をそのまま用いており、自動ドアの向こうには洋酒がならんでいる。
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 で、これが店内。
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この建物は新造部分で、日本のフランス料理屋さんとなんら変わらない内装である。私たちが席に着くと、三人くらいのウェイターが素早くかしづいてくれて、そのうち一人は白人。
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 雰囲気がリッチなので、ついほいほいグラスワインをたのみ、コーヒーまで飲んでしまう。お料理はフレンチなのに八角の味がして中華風味になっていて、とびきり美味しいというほどではない。客層は当然白人か北京の富裕僧であり、われわれもなぜかウエイターと英語で会話する(笑)。

 そして、お楽しみの会計タイム。サービス料15%加算されて、全部で310元でした。この値段差を体感するために、その前の晩の夕ご飯代を申し上げますと、中央民族大学の裏手にある雲南うどんやたべたうどんの値段が11元。雲南うどんを吉野屋並盛り280円とすると、テンプル・レストラン・ペーシンのお昼は7890円くらいの感覚か。

 て、高っ。
 
よく途上国で先進国のサービスを受けようとすると日本より高くなるというけど、これがそれか。

 かつてのチベット寺ですごしたゴージャスなひとときは、チベット仏教がいかに北京で壊滅しているか、「上に政策あれば、下に対策あり」「法律は空文化」を体感できた貴重なひとときだったのでした。

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DATE: 2014/03/17(月)   CATEGORY: 未分類
北京ミニ滞在記 (学術編)
ダライラマ13世関連の史料を探しに、ちょっとだけ北京に行ってきた(写真はクリックすると大きくなります)。
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 清朝時代の史料を所蔵する第一歴史档案館は、故宮の西華門近くにあり、北京の政治の中心中南海の隣。今までも何かといろいろ事件の起きてきた天安門広場からも徒歩十分の近さ。

周知の通り、3月8日にクアラルンプール発北京行きマレーシア航空が消え、今もその行方はしれない。同機が消えた直後には様々な憶測が飛び交い、なかでも衝撃的だったのは「ハイジャックされた同機が中南海につっこむとの情報をえた中国政府が、同機を撃墜した」という憶測。

 これを聞いた時は「今回の北京行き、やめよっかな~」と本気で思った。自分の乗ったCAが中南海特攻に遣われるのもヤダし、中南海につっこんできた飛行機がついでに近くの档案館にも破片をとばすのもヤダし。しかし、出張届けもだしたしチケットも買ってしまっていたので、コスパを考えて出発する。

 搭乗口で見わたすと、乗客はほとんど中国人で、僅かの日本人に、白人が二人くらい。なぜ日本人が少ないのが分かるかというと、見た目と中国語もさることながら、搭乗口のテレビで震災関連の特番をやっているのにそれ見て涙ぐんでいるのが私だけだったから。「消えたマレーシア航空も乗客はほとんど中国人だったな」といやな想念が浮かぶ。羽田発のCAであったが、乗務員には日本人なし、日本語放送もなし。日本人に向けたサービスは爽やかなまでに何もない。

あ、ごめん一つだけあった(笑)。機内でタダで読める新聞の中に朝日新聞があった。

おかげ様で何事もなく北京につき、ついたその日はpm2.5が多少高かったが、その晩から風がふきはじめ空気は多少よくなり、めでたいことに喘息はでなかった。

 ●档案(文書)館訪問

档案館ではかつて、見たい史料を請求すると、現物の文書史料を閲覧することができたが、最近は現物提示を完全に停止し、データ化された史料をパソコンで閲覧するシステムとなった。メリットをあげると、その場ですぐ文書が閲覧できること、文書の作者、年代からの検索、キーワード検索ができるようになったこと、などであるが、デメリットはデータ化が終わっていない史料についてはまったく見られないこと、デジタルデータは現物に比べてやはり情報量がおちることなどである。

今回は『清末十三世達頼喇嘛档案史料選編』に収録されている史料 (理藩部档案、外務部档案、漢文録副)の現物のデータを見たかったのだが、ほとんどデータ化されていなかった。なので13世関連の収穫は乏しいものの、いまだ出版されていないダライラマやパンチェンラマによる清皇帝への書簡類がみつかったので、まあいっかと思うことにする。

 ●北京のダライラマ13世史跡

1904年、イギリスのヤングハズバンド隊がチベットに侵攻し、ダライラマ13世はロシアに救援を求むべくモンゴルへ向かった。ダライラマ不在の間、ガンデン座主が代表するチベット政府とイギリスの間でラサ条約が締結された。チベットに駐留する満洲官僚オタイは、イギリスがチベットにせめこむ契機をつくったダライラマ13世を憎み、ダライラマの称号を剥奪し、パンチェンラマに代わりにチベットの政務を司らせることを皇帝に建議しその通りの勅諭が下された。

しかしチベットは当然のことながら清朝の制御下にはない。清朝は消えたダライラマがどこにいったのか見つけることができず、ようやくモンゴルに見いだしたものの、清皇帝の帰還命令にダライラマは従わなかった。

 さらに、オタイの建議を受けて、ダライラマを首にし、パンチェンラマにチベットの政務を代わらせようとしたものの、ダライラマが後事を託したガンデン座主が実権を握り続けこれも全く実現しなかった。チベット人が政治のトップとして認めるのはダライラマだけ、ということに清朝が気づくのに時間はかからなかった。

 このような中、張蔭棠(1906年にインド・中国修訂条約の締結の際の中国側官僚。満洲人でなく広東人)は、イギリスからチベットの「主権」をとりもどすべく(張さんの考える主権概念の内容については岡本隆司「『主権』の生成と『宗主権』---20世紀初頭の中国とチベット・モンゴル」を参照ください)、東チベットを武力で制圧する荒技をかけてきた。ダライラマ13世はこの清軍の侵略行動やめさせるべく皇帝に直接あって直談判するため、自らの北京行きを決意する。最初はダライラマの来朝を渋った清政府も1908年6月、張蔭棠のアドバイスを受け入れることとする。そのアドバイスとは、「イギリスのインド総督がインドのマハラジャを謁見するような儀礼で」ダライラマを清皇帝の臣下と位置づけ、ダライラマに臣下としての新称号を交付するというものであった。

 ダライラマ13世は9月4日に北京に汽車で到着した。清初の1653年にダライラマ5世が北京を訪問した折には、皇帝自らがダライラマを迎えにでようとして漢人官僚にとめられたほど清王朝はダライラマを尊崇していた。清初の満洲人たちとってモンゴル人との同盟は死活問題であったため、モンゴル・満洲を結ぶ共通の文化的な要素チベット仏教を重視していたのである。

 しかし、20世紀のダライラマ13世の北京訪問は、1653年の反面鏡のような待遇であった。北京在住の欧米人や日本人は、西太后や光緒帝がダライラマを属国の長として貶めようと様々な手段をつくしていたこと証言している。
 
 これに対してダライラマは「旧例」に従うことを主張し続けるが、あと二年で滅びる王朝の宮廷はぐっちゃぐちゃで、結果としては張蔭棠の意のまままにダライラマはかつてない属国待遇をうけることとなる。

 北京についてからのダライラマの行動と主立った事件をまとめるとこのようなものとなる(日付は旧暦。( ) 内はチベット暦)。

9月4日 (8/3) ダライラマ13世は、列車で北京の正陽門へ到着。ダライラマ13世はダライラマ五世の時と同じく北京城外北の黄寺に滞在。

9月12日 (8/12) 光緒帝と西太后、黄寺を訪れダライラマと初会合(皇帝自らダライラマの下を訪れたこの会見は非公式のものとされたのか表の記録にはない)。

9月20日(8/20) 西太后と光緒帝は頤和園の仁寿殿でダライラマとあう。

9月26日 ダライラマ、西太后の誕生日を祝うことを申し出る。

10月2~4日 西太后の意向を受けて、ダライラマは諸僧を引き連れて北京の主要なチベット寺 (雍和宮、嵩祝寺、白塔寺etc.) を訪問。

10月6 日(9/6) 紫光閣で宴を賜る。

10月10日(9/10) ダライラマ13世、南海の小島の寺で西太后の誕生日を祝い、その後、観劇。この晩、西太后からダライラマへ屈辱的な新称号授与の命令が下る。

10月21日 光緒帝が崩御し、翌日に西太后も崩御 (いつも思うんだけど、この二人なんで一日違いに死んでいるんだろう?)。

11月28日 離京。


 この時代西太后と光緒帝は一年のかなりの期間を現在頤和園と呼ばれている北京西北郊外の離宮で暮らしていた。この頤和園は清朝最盛期の皇帝、乾隆帝の時代に今の規模になったものの、1860年のアロー号戦争、1900年の義和団事件と大規模な掠奪にあっているため、現在残る建物はほぼ光緒帝時代の再建である。

 たとえば、頤和園の中心を形成する万寿山の北側には、乾隆帝が作ったチベットのサムエ大僧院のコピー、香岩宗(サムエゾンの漢音写笑)があるが、今この建築物をみるとサムエと言って言えないこともないが、かなり違う。万寿山の南側にひろがる大報恩寺も光緒帝の時代に寺から宮殿にコンバートされ、かつての寺の本堂は西太后の誕生日を祝う宮殿となっている。つまり、〔海軍の資金を用いた〕西太后により万寿山大報恩寺は、離宮へと作り替えられたのである。それでは、頤和園点描。

 ・香岩宗---乾隆帝がたてたチベットのサムエ大僧院のコピー。
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 ・排雲殿----かつては大報恩延寿寺の本堂。光緒12年以後は、西太后の誕生日を祝う場。後方は佛香閣。
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  ・観戯廊-----西太后が賓客を観劇で接待した場所。舞台正面には西太后の玉座がある。背後の屏風は光緒30年 (1904)と記されている。舞台のぐるりに賓客の座るロイヤルボックスがある。
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 ・仁寿殿---西太后が外国使節を接見した場。乾隆帝の時代は勤政殿といい、再建後は仁寿殿という。9月22日ダライラマ13世はここで西太后と光緒帝と会見した。

DSC02725.jpg

 ダライラマと西太后が会合した、黄寺と南海の寺や紫光閣は現在は非公開である。なので

・紫光閣の宴会はカスチリヨーネの絵で雰囲気の一端を感じてください。
 →
 ・ダライラマの滞在した黄寺については中国wikiをどうぞ。

 本については、中央民族大学の書店と蔵学研究中心の書店をまわったが、手に入れた本の中で現在もっとも心が動いているのは、『羅布林下』(nor bu gling kha 中国蔵学出版社 2013)。これはラサにあるノルブリンカ(ダライラマの離宮)のタクトミンギュル宮(新宮 rtag tu mi 'gyur pho brang)の壁画の写真集。この壁画テーマはチベットの政教一致体制の歴史であり、古代からダライラマ13世の時代までのチベット史が描かれている。20世紀中葉のチベットの歴史観の格好の史料である。
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DATE: 2014/03/06(木)   CATEGORY: 未分類
ダライラマ法王春の来日日程
いろいろあって遅くなっていまいました。ダライラマ法王が来月、高野山における胎蔵界灌頂を行うことをメインに来日されます。申し込みがもう終わってしまったもの、一般公開がなくセキュリティ上書けないものもありますが、とりあえず、さしさわりのなさそうなところからあげたいと思います。

 さらに、この前ワークショップでラクパ代表とお会いした時、来日日程の詳細をお聞きしたのですが、雪道を帰るさなか、足下に気をつけているうちに記憶がすべてぬけてしまいました。従って、ここにない抜けている予定があるかもしれません。気がつき次第埋めて参ります。

 言うまでもなく、法王様の仏教者としての神髄を体験するには、高野山の灌頂はおすすめです。真言宗は男性原理としての金剛界、女性原理としての胎蔵界を両方尊びますが、前回の高野山来日で法王は金剛界の灌頂を授けているので、前回受けられた方は今回も受けられると、真言宗の教理的にもパーフェクトです。私は前回残念ながらはずせない校務がありなくなく欠席しましたが、とりあえず今回は参加できそうな感じです。
 
法王様の来日直前に清風学園でロサン・テレ先生(ミスター『入中論』・元ギュメ館長・現セラ大僧院館長)もお出ましになり、
3月23日13:00より大阪清風学園で「チッタマニターラー灌頂」
を授けます。私は毎朝若さと美しさと仏教者としての自覚を保つべくターラー尊のサーダナを行っておりますので(最初の二つはネタですってば)、この灌頂には是非参加したいと思います。
 この灌頂に参加されたい方は
学校法人 清風学園 電話 06-6771-5757 担当 梅野・伴 までどうぞ。さて、以下が法王さまの来日日程です。


ダライラマ法王、春の来日日程
●4月7日(月)13:30~15:30(開場12:30)
「東日本大震災神道祈りの会主催 ダライ・ラマ法王14世の講演と法話」

【会 場】  東京エレクトロンホール宮城(宮城県民会館)
【申し込み】 このサイトかららしいです 
【プログラム】
1. 御神事   出羽三山神社、竹駒神社による御奉仕
2. 祝奏    琴:石垣清美、尺八:石垣征山
3. 特別講演  大切なものを失った時、英知と自信を育む方法 
御来賓:ダライ・ラマ法王14世
4. 被災地招待者との対話 御来賓:ダライ・ラマ法王14世

●4月10日(木)9:30~12:00
演題「密教と即身成仏」
受付期間 平成26年2月20日(木)から3月末
京都種智院大学 http://www.shuchiin.jp/news/?p=913

●4月11(金) AM 8:00~15:30 •12日AM 9:00~15:00(土) Mapping the Mind (科学者・宗教者とダライラマとの対話)
会場 京都ホテルオークラ
京都大学こころの未来研究センター主催 
招待客限定

●4月13(日)•14日(月) ダライ•ラマ法王を導師とした「胎蔵曼荼羅の灌頂」
高野山大学 http://www.koyasan-u.ac.jp/notice/event/detail/17

●4月15日 ダライ•ラマ特別祈念講演
高野山大学 → 残念、応募者多数のためすでに申し込み終了だそうです。

●4月17日(木)来日法話 「空と慈悲の教え」
[午前の部] 10:00~12:00(開場:9:00)
[午後の部] 13:30~15:30(開場:12:30)
場所 ホテルオークラ東京 平安の間 本館1階 (〒105-0001東京都港区虎ノ門2-4-10 TEL:03-3582-0111)

■龍谷ミュージアム 特別展「チベットの仏教世界 もうひとつの大谷探検隊」(201年4月19日~6月18日) 
20世紀初頭、まだ日本人がチベットのことをほとんど知らなかった頃、西本願寺の第22世宗主、大谷光瑞師(1876~1948年)は生きた仏教の伝統を求め、二人の若き学僧、青木文教(あおき ぶんきょう)<滋賀県出身>と多田等観(ただ とうかん)<秋田県出身>をチベットへ送り出しました。
今回の特別展では、ダライラマ13世から多田等観に贈られた「釈尊絵伝」(25幅)を関西で初公開するほか、青木文教がもたらした「ラサ鳥瞰図」や彼が撮影した当時の現地の写真など二人のゆかりの作品資料を紹介します。
あわせて、典雅な姿をみせる仏・菩薩像が並ぶ空間をしつらえ、チベットの仏教世界に迫ります。
(くわしくはこちら)
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