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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/10/31(木)   CATEGORY: 未分類
新刊『ラサ憧憬』
10月28日、ジープが観光客をはねながら、天安門につっこんで観光客2名と運転手と同乗者二人がなくなった事件があり、当局は犯人を速攻でウイグル人と断定した。報道も司法もみな国家の統制下にある中国において何が真実であるのかを見極めることはとても難しい。

 真実が奈辺にあるにしろ、確実な「効果」としては、国家レベルでは中国当局はこれを口実にさらにチベット人・ウイグル人居住域の監視と弾圧を強め、彼らの民族性を押さえつけ同化を促進させようとし、国民レベルでも、異文化共生などという概念を教わったことも考えたこともない中国の漢人層の多数が、すべてのウイグル人に野蛮人、などのレッテルをはりつけ、身の回りのウイグル人やチベット人に疑いの目を向け出す。

 中国当局のマイノリティに対する政策、すなわち同化政策がもっとも糾弾さるべきものであることは言うまでもない。当局は「テロ」というレッテルはれば国際社会をごまかせると思っているが、世の中そんなに甘くない。経済と軍事だけでは人の尊敬は得られないという現実にはよ気づいてくれ。

 今回の犯人に対しても一言。もしあの行為がウイグル弾圧の抗議のために行ったものであったとするなら、あのような抗議の仕方は、何も益がない。無差別殺人は、国際社会からも、またウイグル人の大多数からも共感も支持も得られない

誰一人幸せにならない。

 アパルトヘイトに抗議をしたネルソン・マンデラがあの長い牢獄生活に入る前したことは、夜間の公共施設とか、人の居ない権力機関に爆弾しかけることであった。それは彼らが批しているのは間違った行いをしている国家権力であり、個人ではないことを示すためである。チベット人が焼身抗議しているのも、他人を傷つけずに行う最大限の権力に対する抗議が、悲しいけどあの形にいきついた、という部分がある。

 しかし、焼身抗議でも当事者は死ぬ。この悲劇を目にした人はやはり、焼身者は他の道を選べなかったのかと思ってしまう。若者だったら、中国の支配下にあっては身につかないチベット文化を積極的に学んで周りに伝える仕事をすればいいし、僧侶だったら、修行してチベット仏教の普遍性を世界に伝えればいいし、お母さんだったら子供をチベット語とチベット文化に誇りを持つように育てることができる。

 これらのオプションは時間はかかるけど、中国の同化政策に対抗するもっとも根本的なカウンター・アクションたりうる。漢人の伝統文化も力を失っているから、チベット的な価値観が力をもてば、いつかは迷える〔今はチベット人を見下している〕漢人を教え諭す日もくるかもしれない。

 日本人だって、明治の昔はほとんどの人が上から目線でチベットを見ていたが、今はダライラマという人格者を生み出したチベット文化に一目おいている。ようは知りもしないよそさまを、レッテル貼って見下すような精神は幼いのである。ウイグルの人たちもそんな目線を無視して、伝統文化を支えるという確実な方法で抵抗してほしい。

以下本題。
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 ダライラマ13世治下のラサに滞在した五人くらいしかいない日本人の一人、青木文教の生涯を扱った新刊『ラサ憧憬 青木文教とチベット』(芙蓉書房出版)がでた。著者は『近代日本におけるチベット像の形成と展開』『チベット学問僧として生きた日本人 多田等観の生涯』の高本康子氏である。

 著者は、青木文教の出身寺正福寺に所蔵されるもろもろの文書類に始まり、晩年青木の弟子になった中根千枝氏(東大初の女性教授。タテ社会ヨコ社会で名高い人類学者)などの聞き取り調査に至るまでを行い、青木文教の人物像を明らかにしようと本書の中で努めている。

 青木文教の人生を手短に述べるとこんなところである。

 仏教大学(現龍谷大学)在学中に、本願寺第22世法主・伯爵・大谷光瑞(1876-1948)に見初められてお側仕えになり、光瑞とダライラマ13世の個人的関係から、1912年から1915年まで二年間のラサ滞在を許される。

 しかし、庇護者である大谷光瑞が1914年に失脚し、チベットにかかわる余力をなくしさらに、帰国直後の1917年に、河口慧海との間でいわゆる「玉手箱事件」がおきる。

 青木は河口がチベットから持ち帰った大蔵経は、ダライラマ13世から大谷光瑞への寄贈品であると主張し、河口はダライラマから大谷光瑞に送られたのは木箱に入った手紙のみと主張して、泥仕合になったのである。

 河口慧海はあの旅行記の文章から明かなように、えぐい性格である。

 当時インドに駐留していた日本の外交官からも嫌われていて、1910年のカルカッタの日本公使平田さんは、河口慧海を「自分の栄誉のためのみに動く、信用すべからざる人」みたいに評しており、まったく信頼していなかった(白須浄真『大谷光瑞と国際政治社会』)。

 河口慧海は同じく真宗の僧、寺本婉雅にもケンカうっている。寺本がだしたチベット文法書を「チベット語もろくにしらないくせに、文法書出版とは片腹いたいわ。出版さしとめして、私の所でチベット語学びなおせ」とか言っている。

 河口慧海は自分の属する黄檗宗ともケンカし最後は在家になっているので、まあとにかく誰とでもケンカする人であった。そういう人格だから鎖国時代のチベットに命をかけて入国するなんて偉業を行えたのだろう。現代だったら彼の人格にはおそらく何らか特定の名前がつくことであろう。ははは。

 話を戻す。帰国後の青木文教は、不遇であった。寺本婉雅や多田等観のように大学や研究所に研究職を得ることもできず、生活は窮乏していたという。しかし、戦争末期に外務省つきになりモンゴルにおける「喇嘛教政策」(喇嘛教という言葉は当時の日本人の無知を示す言葉。今は使っちゃだめよ)に関わった。
 
 一方、同じ境遇であった多田等観は帰国後、思った通りとはいかないまでも、それなりに幸せであった。彼にはいろいろなところにファンがおり、研究職にもついていた。

 二人はいずれも大谷光瑞の門下であり、光瑞の命令でチベットに送られたのに、帰国後に二人の境遇に激しく差がついたことについて、高本氏は、「青木はラサに滞在の二年間チベットの上流階級と交流しており、貴族の生活に精通したたものの、チベット文化の心髄について深く勉強する暇がなかった。さらにチベットの日用品を少しばかり持ち出しただけで文献をもたらすことはなかった。一方の多田等観は八年チベットの僧院で暮らしチベット仏教を身につけ、さらに大量のチベット文献を将来したため、学界も無視できなかった。」という旨の意見を述べられている。そんな感じで、かつては仲の良かった多田等観、青木文教も晩年は微妙な感情を互いにもっていたようである。

 私が個人的に面白いなと思ったのは、中根千枝氏が寄贈した青木文教関連の文書類の中にある、青木宛のチベット語書簡やダライラマ13世猊下から日本の天皇陛下に対する書簡などが、津曲真一氏の手をかりて本書内でいくつか和訳されていることである。

 それらのチベット語の手紙には、チベット側の「チベットと日本は同じ仏教国である。仏教の発展と仏教に基づく政治の発展のために、力(アドバイス・武器提供)を貸してください」という共通するチベット側の認識がみてとれる。

 このようなチベット人の要望に対して、日本ががどのようなスタンスで望んでいたのかは、広島大学の白須浄真氏が、外務省の西蔵関連文書を用いて明らかにしている。

 氏の研究によると、大谷光瑞は辛亥革命後の中国の状況について詳細な情報をダライラマ13世に送っており、「モンゴルはロシアの後援を受けて独立を望んでいるが、イギリスの助力を得ることは注意が必要である」と発信していたという。日本側のスタンスは白須氏が明らかにしているので、本書のチベット語書簡はチベット側のスタンスを示すものとして非常に興味深い。

本書を手に取られた方はぜひ、青木文教の著書『西蔵』(昭和44年 芙蓉書房)もあわせてご覧になることをおすすめする。これは青木がチベットより帰国した直後の1922年にだした『西蔵遊記』と1940年の『西蔵文化の新研究』を合冊にしたもので、とくに前者は1912年末にダライラマ13世が長い亡命生活をおえてチベットに帰国し、翌13年初頭に独立宣言を行った、丁度百年前のチベットを目の当たりにした貴重な記録となっている。
 
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DATE: 2013/10/15(火)   CATEGORY: 未分類
アキャリンポチェとモンゴルの小児ガン病院
 アキャ・リンポチェはモンゴルにおいて小児ガンの子供を治療するための病院をたてるべく奔走していらっしゃる。
 モンゴルの冬は長く厳しいため、コンクリートが固まらない冬期は建設作業はストップする。リンポチェはこの夏の建設作業を監督するために、モンゴルに四ヶ月滞在され、十月の初めに帰国の途につかれた(実は六月に早稲田にリンポチェをお迎えしてお話をして頂いた際は、リンポチェはモンゴルに向かう途上であった。)。

 10/16日、日本の支援者と懇談の場を設けられたものの、いきなり決まった会食であったため、私は予定が合わず失礼させて頂いた。にもかかわらず、リンポチェは私とダンナのそれぞれにモンゴル・カラーの青いカターとお数珠を人づてに渡してくださった。その会の席上で、リンポチェは

「2011年からモンゴルの子供がん治療センターの建設に着手し、今年(2013年)9月21日に7階建ての外装工事が終わりました。建設中の病院には、75台のベットが用意され14人の医師が治療に携わる予定です。 モンゴルの11局のテレビが病院建設の様子を伝えました。 建設資金としては、建物の外装、内装、諸設備で約200万ドル掛かる見込みです。今回までに80万ドル集まりました。まだ120万ドル不足しています」と話されたそうだ。

ちなみに病院建設に冠する英語のサイトはここ。モンゴル語のページはここ

 前のエントリーの殺害されたアコン・リンポチェも、このアキャ・リンポチェも、高僧としての知名度によって基金をつくり学校や病院を建設してチベット人やモンゴル人の福利につくしている方たちである。チベット仏教が重視する一切の生き物に対する慈悲心が慈善活動という形になっていることは言うまでもない。彼らが必要であることはチベットやモンゴルの状況を考えると明かである。

 中国政府はチベット人の住む地域に漢人を制限なしに流入させているために、1959年以後、チベット人はものすごい早さで母国語とその文化を失っている。また、チベット人は二級市民扱いをされているため、経済的に漢人よりも厳しい環境下にあり、弱肉強食の中国社会では病院にかかる、学校に行くことさえままならない人も多い。このような状況をみて、亡命した高僧や外国の支援団体が、チベット人向けの学校を作ろう、病院を作ろうなどと考えるのは当然であろう。

 しかし、それをやった人々がどうなったか。欧米発の支援団体は様々な理由をつけて追い出され、追い出されなくともアムドの遊牧民のための診療所などを開いても、中国政府が牧民たちを強制的に別の地に定住させたり、村ごと移住させたりするため、支援対象が目の前から消えていく。

 また、支援者が中国国籍だとさらに悲惨な結末が待ち受けている。テンジン・デレク・リンポチェはチベット人居住域に学校や病院をたてる活動を行っていたところ、2002年に成都における爆弾テロにかかわったという容疑で逮捕されて死刑判決を受けた。ダライラマの非暴力の教えを奉じるテンジン師がテロリストってありえないだろ、との国際的な非難をうけて、判決は無期にまで後退したが、彼はまだ牢獄の中である。

 そして、彼のたてた小学校は今は漢人の移民が住み、養鶏場・屠殺場となっている(本当)。今回、アコン・リンポチェについて暗殺説が飛び交うのも、テンジン・デレク・リンポチェが無実の罪で刑務所に入れられているという背景があるからである。

 これまでの経緯をみると、誰がみても、中国政府はチベット人が望むことに応えるよりも、彼らが望んでいない「早く漢人に同化して、チベットを名実ともに中国の不可分の一部にする」ことに熱心なように見える。

 さて、アキャ・リンポチェに話を戻す。アキャ・リンポチェのフィールドはなんといっても民主国家のモンゴルであるため、今のところ障害はない。なぜモンゴルで支援を行っているかについてはアキャ・リンポチェの自伝「竜(=中国)を生き延びて(Surviving Dragon)」の冒頭にのせられたダライラマ14世の序文が参考になる。

 アキャ・リンポチェは亡命前にアムド(現青海省)のクンブム大僧院の僧院長をつとめていた。このクンブムはゲルク派(チベット最大宗派)の開祖ツォンカパが生まれた地に、1588年にダライラマ3世が建立した僧院で、アムドの僧院の中では最大規模のものであり、格式も高い。このクンブムはとくに13世、14世ダライラマと縁が深い。
ダライラマ13世は1904年に英軍に追われてチベットから出た後、モンゴル、北京を経由して1909年にチベットに帰国するが、その間、クンブム僧院でかなりの日数を過ごし、クンブムの寺規なども編纂している。

 そのせいかどうかダライラマ14世はクンブム大僧院の近郊の村に生まれ、ダライラマの長兄は法王が生まれる前にすでにクンブムでタクツェル・リンポチェ(トゥプテン・ジクメ・ノルブ)という化身僧として迎え入れられていた。ダライラマ14世は中央チベットに迎えられる前にここクンブムで過ごし、法王は「自らの僧院生活はこのクンブムに始まった」と述べている。
 つまり、アキャ・リンポチェの僧院は歴代ダライラマ法王ゆかりの寺なのである。

 よく知られているようにダライラマの長兄は法王よりも先にアメリカに亡命して、法王亡命の地ならしをhttp://admin.blog.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=690#した。長兄はその後還俗し、アメリカで教鞭をとる傍ら、インディアナ州のブルーミントンにチベット文化センターを開いた。あの激動の時代、多くの僧侶がいろいろな理由から僧衣を捨てたが、ダライラマの長兄もその一人であった。この長兄が病に倒れ、センターの運営に支障を来した時、ダライラマはアキャリンポチェにこのセンターの未来を託した。

ダライラマ「私の兄もクンブムの僧院長だったから、〔同じくクンブムの僧院長であった〕彼がブルーミントンにくることは適当だと思われた

私はこの法王の言葉を見て、アメリカのセンターの後継者ですら、伝統的な人脈を考慮して決めていることに感銘を受けた。まるで共産党や中国のもたらした災禍か何もなかったかのようにすっと引き継ぎが行われている。

 アキャ・リンポチェは幼い頃にチベットが失われ、青年期は文革に翻弄され、成人してからは中国政府の機構内で政治利用されながら、チベット仏教の復興に携わるという、伝統に則った生き方をできなかった方である。アキャ・リンポチェの若い頃の写真をみると、人民服であり、長じてからもチベットの俗人の衣装の姿が多い。ダライラマの長兄タクツェル・リンポチェ同様、俗人の服をきることを余儀なくされた人生だったのである。彼こそまさにタクツェル・リンポチェのいろいろな思いを一番理解できた人物といえる。アキャリンポチェが高いモチベーションをもって法王の命令に従ったであろうことは想像に難くない。

法王曰く「結果として、今やこのセンターは西洋におけるクンブムの伝統を象徴するものと考えられている。アキャ・リンポチェはモンゴルの牧民の家に生まれていることを考えると、センターの機能はモンゴルの仏教徒にまで及ぶのが適当だと思われた。今、このセンターはアメリカにおいて、チベット人のコミニュティばかりか、モンゴル人コミニュティに利用されているので、チベット・モンゴル仏教文化センターと改名した

 伝統の力がじつにうまく機能している。
 リンポチェはもう法衣をぬぐことはないであろう。六月にリンポチェが来日された折、英文版の自伝にサインをして頂いた。そして、これはもっていないでしょうといって、モンゴル語版の自伝を下さった。自伝の和訳については某Mさんが英文版のもとになったより情報量の多い原稿から和訳しようという計画があるらしく、調整中とのこと。

 しかし、すぐに出版というわけではなさそうなので、次のエントリーで私の興味をひいたアキャ・リンポチェの自伝中のエピソードをご紹介します。
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DATE: 2013/10/09(水)   CATEGORY: 未分類
アコン・リンポチェ殺害さる
10/8の深夜、チベット仏教界に衝撃が走った! カギュ派の高僧アコン・リンポチェが成都で刺殺されたというのである。その一報を伝える記事をTelegraphから訳した。BBCの記事もここにあります。

イギリスで最初のチベット僧院をたてたアコン・リンポチェ法王が「暗殺された」(Source Telegraph ; By Mick Brown 6:55PM BST 08 Oct 2013)

スコットランドにあるサムエリンの創健者であり座主である法王アコンリンポチェが南西中国で「暗殺された」と伝えられた。

アコン(73歳)は1963年から英国に居住しており、1967年にEskdalemuirにある元老人ホームにサムエリンを創建した。サムエリンは西洋で初のチベット仏教の僧院であり、60人の僧侶と俗人コミニュティを擁している。

中国の成都警察からの声明によると、アコン・リンポチェとその甥と彼の運転手は住宅地で殺害された。

三人の容疑者--すべてチベット人--がカネをめぐって争い彼らを刺殺したという。

アコン・リンポチェの兄弟であるラマ・イェーシェー・リンポチェはサムエ・リンのウェブサイトにこう投稿した。「サムエリンとアコン・リンポチェの親愛なる友人たちへ。私はこの悲劇をみなさんに伝えることがとても残念です。私の兄アコン・リンポチェ、私の甥、彼らと旅していた僧この三人は今日成都で暗殺されました
 リンポチェの遺体は検死のために病院に運ばれました。それが私が今のところ得ているニュースです。もしさらに続報がありましたらお伝えします。」

 アコンは中国がチベットを占領した1959年にインドに亡命したものの、最近は中国政府と通常ならざるよい関係を構築し、彼の慈善団体ROKPA(チベット語で援助の意味)が設立した学校や医療プログラムを視察するために、地域を旅行することが可能であった。殺害された時にもこれらのプロジェクトを訪問しようとしていた。

 アコンは近年のチベット仏教史上もっとももめた出来事の当事者であった。1992年、アコンは化身捜索隊を率いて、東チベットの遊牧民のテントから7歳のアポ・ガガを連れ出してラサにほど近いツゥルプ大僧院へと連れてきた。ここで中国政府の許可を得て、アボ・ガガは17世ゲルワカルマパ(チベット仏教の僧のランクの中でダライラマにつぐ重要な地位)・ウルゲン・ティンレー・ドルジェとして即位したのである。

2000年、14歳になったカルマパはチベットからインドへと逃亡し、この時、中国はカルマパに宗派の教えを受け継ぐことを許さなかったこと、彼を政府の傀儡として利用していたことが明らかとなった。

 ダラムサラに近いギュト僧院からカルマパは以下の声明を出した。「アコン・トゥルクは私が七歳の頃からの友人である。慈善家であり、多くの病院、学校を建て、古い聖典を復刻し、たくさんの人々を助けることによって、チベットへの大いなる愛を示した。私は彼が他の二人とともにこんなにも突然我々の前かいなくなってしまったことに非常に衝撃を受けている」

〔イギリスの〕外務省はこういった「われわはれ成都において10月8日にも英国民の死を確認することができる。領事が援助を与えるべくスタンバイしている」と発表した。
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DATE: 2013/10/02(水)   CATEGORY: 未分類
13年ダライラマ法王来日のお知らせ
東京・ホテルオークラ東京 アスコットホール(別館地下2階)
2013年11月17日(日) ダライ・ラマ法王と科学者との対話「宇宙・生命・教育」

この広大無辺な宇宙進化の中で、この場所と、今という時を選び、私たちが存在しているということの不可思議。今回は、現代の最先端科学にも大きな関心を寄せているダライ・ラマ法王を囲んで、天文学、生物学、物理学、数学、宗教学、そして人類文化の豊かな伝承と世界の平和を実現するために不可欠な教育学の専門家が、相集い、明日への希望を語ります。
【午前の部】9:30~11:45(8:30開場)
【午後の部】13:30~16:00(12:30開場)
 入場料 A席:15,000円 / B席:12,000円
 チケットぴあ TEL 0575-02-9999 pコード625-252

静岡・ホテルセンチュリー静岡
11月21日(木)ダライ・ラマ法王講演「21世紀の平和に向けて」
日時 13:30~15:30
 参加料 S席 10000円 A席 7000円
 チケットぴあ 0575-02-9999 pコード624-988

静岡・日本平ホテル庭園
11月22日(金)「祈りの祭典 日本平から始まる世界の平和」仏教・神道・修験道・キリスト教・イスラム教の皆様と共に
 日時 10:00~11:30
 参加料 3000円
 チケットぴあ 0575-02-9999 pコード625-020

京都・精華大学
11月23日(土)「学生との対話 ダライ・ラマ14世」 ※参加対象者は同大学の卒業生・保護者などに限る。

京都・精華大学
11月24日(日)「宗教家と芸術家の視点から ダライ・ラマ14世×よしもとばなな」
 こちらは一般参加者も受け付けています。詳しくはここ→くりっく

東京・両国国技館
11月25日(月) ダライ・ラマ法王来日講演「日常の中で活かす仏教の智慧」 ~ ダライ・ラマ法王と語ろう~

誰でも苦しみや困難に直面することがあります。日常の中で些細なことに悩むこともあるでしょう。そんな時、それを乗り越えるための智慧があれば、勇気と自信を持ってより幸せに生きていくことができます。今回は特別に、質疑応答セッションを大幅に延長して、会場の皆様からたくさんの質問を受け付けます。皆様のご参加をお待ちしております。

前売券 アリーナ席:10,000円 / マス席:7,000円 / 2階席:5,000円 / 3階席:3,000円
チケットぴあ 0575-02-9999 pコード625-253
※空席があるときのみ、当日券の販売を会場受付にて行います
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