チベット・イン・モンゴル(学会編)
第十三回国際チベット学会が、モンゴル科学アカデミーとモンゴル国立大学の共催で7月20日から7月27日までウランバートルで開催された。
今回の学会を一言でまとめると、始まる前からグダグダで、始まってからもグダグダで閉会式までグダクダであった (ツォンカパの「始めによし、中によし、終わりによし」にちなんでみました)。全体に感じる資金不足とオーガナイズの手際の悪さ。でも、宴会のショーだけはまじめといういかにもモンゴル的なわかりやすい流れであった。

"モンゴルのスターリン"チョイバルサンの立てたモンゴル大学正面
20日は開会式と参加者の登録の日。私の乗った直通便は夜につくので、パーティには最初から間に合わない。同じホテルに泊まる日本人が帰ってきたので、彼らの話を聞くと、開会式で会長が「参加予定だったアムドの60人がここにくることができなかった。これはモンゴル側のビザの問題でも資金の問題でもない。」と中国政府の妨害によりチベット人60人が出国できなかったことを報告したという。北京、ラサ、アムドにある主要な研究機関から中国政府のお墨付きが数名ずつ参加を許されているという。
今回の学会は蒙蔵条約100周年を記念してわざわざウランバートルにしているというのに、それに捧げた記念講演もパネルもなにもない。翌日カイプ教授にこれを聞くと、モンゴルに◎近平が来てからすべてが変わったという。西洋人が多数宿泊するホテルのまわりには、警察が複数徘徊し、モンゴル政府の緊張ぶりがつたわってくる。
N先生によると、モンゴルに関する国際学会が開かれる場合は、大統領府で開会式が行われ、政府が資金をだすため、食事をはじめとする待遇が非常によいのだという。しかし今回はモンゴル政府がお金をださなかったため、非常に資金的に厳しかったよう。
モンゴルは歴史的に非常に中国とは仲が悪い。しかし経済的には中国に大きく依存しているため、モンゴル政府としても微妙な舵取りなのであろう。

ダライラマ法王はいいとして微妙な面々
翌日22日に会場となるモンゴル国立大学にいく。登録所のある二階受付はごった返しており、なかなか進まない。なぜ進まないのか自分の番になってわかった。まず私の名前が名簿にない。「参加費を払ったのか」と聞かれ、払ったといい、バネルの番号をいったらそちらから名前がでてきたので登録できた。しかし、私の名札は当然準備されておらず、彼らは白紙の名前札に私の名前を手書きで書き込んだ(名簿に名前があればパソコンのうちだしの名前札がある)。字が汚くて読めないので、自分の名刺をいれて代用する。一方、いろいろな手段を使っても確認できない人に時間がかかるので、なかなか列が進まないのだ。
実はこの手際の悪さは、開始前からのことであった。ぎりぎり一週間前くらいに発表されたプログラムには、登録しているはずの人の名前がぼろぼろ落ちていて、まったく不完全なものであった。みな個人的に交渉して名前を戻していったが、私の名前はブログラムに当初からあったにもかかわらず、受付の名簿にはないのである。こんな適当な事務処理であるにもかかわらず、かれらは「〔中国からのスパイが入ってこないようにする〕治安のため」人物同定を行おうとするので列が進まないのだ。
登録をまつ間、我々は両脇に掲げられた、モンゴル国立大学の名誉博士たちの肖像写真を目にすることになる。ダライラマ猊下はいいとして、川口順子、李明博、潘基文、阿含宗の桐山靖雄、池田大作などの顔が並ぶのをみると、モンゴルと世界の多様な交流の歴史をかいまみることができる(含みあり)。モンゴル在住の方から聞いた話だが、前大統領は日本の仏教団体から賄賂をとったことが原因で今刑務所に入っているのだそうな。

狭い階段あふれる人
登録が終わり、プログラムを渡されたが、このプログラムがパネルをただ打ち出しただけという非常に使えないシロモノ。複数の教室で同時間に複数のパネルが併行して行われているので、時間や場所や名前からの索引があれば便利なのに、それを作っていない。
時間配分と会場配分もひどい。何を考えているのか同じジャンルのパネルを同時間に設定しているため興味のあるパネルがかぶって片方は聞きに行けない。歴史のパネルにいたっては閉会式の後の土曜日だったので、私を含めて閉会式の翌日に帰国する人はみなアウトである。60人もキャンセルがでたなら、土曜日の人をまとめて前倒ししたらいいのに。
そして、各会場が小さい。第1会場と第2会場が離れていて、移動時間がかかるため、発表が始まってから教室に入ると、もうすでに席はなく、床に座ったり立ち続けて聞いたりする人が続出。すこし立派な円形講堂は、モンゴル人の先生方が二日にわたり占拠していた。このパネルはほとんとすべてがモンゴル語の発表であったため、モンゴル人とモンゴル留学歴のある人しか聞きに来ず、ガラガラ。
さらにすごいのが、ブログラムの変更や会場変更がまったく通知されず、キャンセルがでた場合、進行係のモンゴルの人が次の人の発表を繰り上げて行わせるため、目当ての人の発表を聞きにいっても、「もう終わっている」なんてことはザラ。さらにすごいのは時間会場の変更が本人に伝わらず、発表者本人が現れなくて中止なんてのもあった。
私の発表は火曜日11:00からだったのだが、せっまい教室で人が入りきれず、エリオットスパーリングが床に寝て、ファンデルカイプ教授が壁を背にして座るという有様であった。何度もいうが、みなが床に座っている時円形講堂ではモンゴルの先生方が・・・・(以下略)。
私の発表自体はつつがなく終わり、問題の質問コーナー。ブリヤートからきたT先生のロシア語訛りの英語が睡眠薬でぼけた頭では聞き取れず、武内先生のお世話になる。この姿だけは院生Mに見せたくなかったが、彼は自分の発表の時、アメリカ留学している日本人研究者に寄生することを決めたと言ってたので、脱力した。なぜこの男はマネしてほしくないところだけ真似するのだろう。
で、発表が終わり、ティータイムで外にでると隣の教室からOくんがでてきて、「僕の発表はプロジェクターがバクハツして延期になりました」とのこと。天井に据えつけられたプロジェクターがポンっといってそのまま消えたのだという。このほかにもスクリーンがなくて壁に直接照射する部屋、ピントのあわないプロジェクターの部屋、西日がきついのに遮光カーテンがないためスライドが見えない部屋などそれはもう多彩なトラブルが目白押し。こういうところもモ・ン・ゴ・ル。
また、中国にとって政治的に敏感なパネルには、当局に報告するため中国大使館関係者や中国から来た参加者がしっかり現れ、その中から「中国人として~」から始まる学問や論理を超越した感情論を開陳されるので、やなかんじ(根は決して悪い人たちではないけど)。

ソ連風建築の国立図書館
自分の発表が終わると次は資料収集。水曜日の午後は国立図書館にジェブツンダンパ八世の秘密の伝記とTくんが発見したバトオチルの歴史書を見にいく。モンゴル科学アカデミーのバトサイハン先生が事前に手配してくださっていたにもかかわらず、入るのにえらいこと手間取る。この図書館と古文書館に毎年通っているT君によると、受付の女の人が大権をもっていて彼女の気分一つで入館出来るか否かがきまり、そこでパスポートなどを預けるのだが、たとえば食事にいくために退館しようとした時、彼女がいないと、パスポートを返してもらえないので、彼女が帰ってくるまで二時間でも三時間でも空腹を抱えて待つしかないという。
やっとのことで、入館許可を頂いて、データとなった史料を大画面で読み出すと、まだ画面の操作を試行錯誤しているうちに、いきなり停電。しかも六時まで電気は戻らないという。T君いはく、「昔はこんなことしょっちゅうで、でも最近は停電しても十分くらいなのに、数時間かかるとは珍しいですよ」。と暗に私が呪われているという。
仕方ないので翌日も再び図書館にいくことにする。この木曜日の午後、カワチェンのケルサン氏のコネでチベット語の文献が所蔵されている書庫もみせて頂く。大学からくるケルサン一行を図書館でまつ間に夏休みなので図書館にきていたMくんと談笑。
彼がさらっと。「八月一日から図書館は夏休みで閉まるそうですよ」発言すると、二週間後に再び図書館にきて、いろいろ段取りをつけようとしていたTくんは「何それ聞いてないよ。ふざけんなよ」とブチキレる。モンゴルでは夏期に関係者が田舎に休暇にいってしまうと、訪問者の都合なんて二の次でこのように突然に公共機関が閉館してしまうのだ。
それにしても、ケルサン氏は三時に大学をでるといっていたのに、一向に来ない。結局四十五分遅れできたのだが (聞けば来るはずだった某先生を待って結局こなかったのだという)、なら誰か一人でも先によこして我々に教えてくれと。この場合は待ってもきたからいいけど、待ち合わせをしたメンバーが、出先で予定をかえてどこかにいってしまった場合、連絡がつかず、残った人間が待ちぼうけを食うことが学会中よくあった。

一般の人はまずみられない書庫内の貴重な映像
ケータイ生活になれた我々にとって来るか来ないか分からない人を待つのはストレスであり、韓国ドラマのようなもどかしい愛よりも、人間関係の亀裂を産むのであった。
書庫内に入ると大量のペチャ文書がほとんど整理もされず天井までとどく書架と、入らない分は通路に積み上がっていた。モンゴルでは古い文化財の持ち出しは禁じられており、国境の荷物検査でふるい写本などが見つかると没収されてここに持ってこられるのだそうな。でも回収されるのはごく一部でおおくの装飾経典などはばら売りされてどこぞの意味も分からない金持ちの手にわたっていくのだろう。末法の世である。
話を少し戻して、私が再度図書館にトライしようとする直前、モンゴル人のO先生が、「先生の名前が午後から行われるオーエン・ラティモアの記念講演のコメンテーターの中にありましたよ」という。「何それ美味しいの?」
そこでゾンビのように蘇る初日の記憶。K嬢が「先生の名前の入った封筒が受け付けにありましたよ」ともってきたものを開けてみると、この記念講演の案内が入っていた。講演者のNicola DI cosmoについてはまったく面識がなく、オーエン・ラティモアについての特別な知識ももちろんないので、よくよまずにホテル部屋に投げ出していた。
こんな状態なのにまったくの無茶ぶりである。大体名簿に名前がない人の手紙をただ受付に放置していたら本人に届くと思っているところがモンゴルである(届いたけど 笑)。
「英語でもモンゴル語でもムリ」と叫んで逃げる。これはコメンテーターくらいですんだから笑い話だが、夏休みにモンゴルや中国の大学を訪れた先生が突然の無茶ぶり講演の依頼をうけるのは夏の風物詩である。
まとめ。この学会は、ほとんど審査しないでみんなに発表させるので、400名以上の人がおしよせ、内容も千差万別・玉石混淆。この学会は意味がないといって来ない研究者も多い。もろもろ微妙な部分もあるがロビーバーネット、エリオット・スパーリンク、テンジンテトンなどのお馴染みのメンバーから、ながいこと会わなかった人にまで再会できたりすることを考えると、これは巨大なチベット情報交換サークルandサロンとして存在意義があるのかもしれない。総会で新しい会長はバンクーバーのツェリンシャキャに決まり。次の候補地はパリとノルウェーが名乗りを上げている(すいません総会さぼりました)。
今夏の学会参加の目的は、自分の発表と院生Mのデビュー確認と、図書館での資料閲覧と、関係する本の収集と、関係各位へのつなぎであった。第一会場の一階で開かれたブック・フェアや、Tくんが外の本屋さんや研究機関で手に入れてくれた本などで必要なものはあらかた揃った。そこで、モンゴル在住のIさんのお宅におよばれした際に、車で迎えにきてくれるので途中郵便局によって出すのを手伝ってもらおうと思ったところ、日本語も英語もできない方が運転手としてこられ、また、会場がウランバートルのはるかはずれの別荘地であったため、成功せず。結局Iさんに本の発送を頼むこととなり申し訳なかった。
ちなみに、院生Mは発表原稿をみてあげる代わりに、荷物もちくらいしてくれるかと思ったら、毎日毎日、旅行して写真とってきました、みたいなゆるい発表をわたり歩いて、果ては草原にまで行ってしまい、姿をみとめて、私が近づいていくと、いやな顔をして逃げ回るので、まったく役に立たなかった。想定内だけど。
わたしはモンゴルゼミ出身なので先輩・後輩の多くがこの街で青春の二年間を過ごしており、彼らのモンゴルに対する愛を聞きながら育った。こんな彼らは共通して人民革命以前に存在したモンゴルの伝統的な社会において、チベット仏教がすみずみまで浸透していた事実やそれに基づく当時の思考を軽視する傾向がある(これはモンゴルの歴史学者もそう)。だから、私の研究はながくゼミ内ではブラック・シープであった。
彼らがなぜそのような考え方を形成するに至ったのか、彼らが留学したウランバートルの街を歩いてなんとなく分かるような気がした。中心部は端から端まで歩いても三十分。冬が九ヶ月夏か三ヶ月の厳しい自然条件。一年の大半は屋内で煮詰まってくらす。一番上の先輩なんて社会主義時代のモンゴルに留学していたわけだから、これに物不足・インフレ・ソ連型社会主義のプロパガンダの影響まで加わったわけ。民主化後に留学した人もモンゴル・ナショナリズムの洗礼を多かれ少なかれ受けている。学会のスタッフにはじまってモンゴル人に英語で話しかけてもほとんど伝わらない。年配の人にはロシア語の方が通じる。モンゴル人たちは個人主義でプラグマテイック。
私が日本でバブリーに暮らしながら、ダライラマ法王やチベット仏教について自由かつ楽しく学んでいた間に彼らはここにいたのだ。そりゃ価値観も異なるわけだ。個人的には先生・先輩・後輩が青春を過ごした街が見られたのがとても興味深かった。
次のエントリーはチベット・イン・モンゴルの町歩き編です。
今回の学会を一言でまとめると、始まる前からグダグダで、始まってからもグダグダで閉会式までグダクダであった (ツォンカパの「始めによし、中によし、終わりによし」にちなんでみました)。全体に感じる資金不足とオーガナイズの手際の悪さ。でも、宴会のショーだけはまじめといういかにもモンゴル的なわかりやすい流れであった。

"モンゴルのスターリン"チョイバルサンの立てたモンゴル大学正面
20日は開会式と参加者の登録の日。私の乗った直通便は夜につくので、パーティには最初から間に合わない。同じホテルに泊まる日本人が帰ってきたので、彼らの話を聞くと、開会式で会長が「参加予定だったアムドの60人がここにくることができなかった。これはモンゴル側のビザの問題でも資金の問題でもない。」と中国政府の妨害によりチベット人60人が出国できなかったことを報告したという。北京、ラサ、アムドにある主要な研究機関から中国政府のお墨付きが数名ずつ参加を許されているという。
今回の学会は蒙蔵条約100周年を記念してわざわざウランバートルにしているというのに、それに捧げた記念講演もパネルもなにもない。翌日カイプ教授にこれを聞くと、モンゴルに◎近平が来てからすべてが変わったという。西洋人が多数宿泊するホテルのまわりには、警察が複数徘徊し、モンゴル政府の緊張ぶりがつたわってくる。
N先生によると、モンゴルに関する国際学会が開かれる場合は、大統領府で開会式が行われ、政府が資金をだすため、食事をはじめとする待遇が非常によいのだという。しかし今回はモンゴル政府がお金をださなかったため、非常に資金的に厳しかったよう。
モンゴルは歴史的に非常に中国とは仲が悪い。しかし経済的には中国に大きく依存しているため、モンゴル政府としても微妙な舵取りなのであろう。

ダライラマ法王はいいとして微妙な面々
翌日22日に会場となるモンゴル国立大学にいく。登録所のある二階受付はごった返しており、なかなか進まない。なぜ進まないのか自分の番になってわかった。まず私の名前が名簿にない。「参加費を払ったのか」と聞かれ、払ったといい、バネルの番号をいったらそちらから名前がでてきたので登録できた。しかし、私の名札は当然準備されておらず、彼らは白紙の名前札に私の名前を手書きで書き込んだ(名簿に名前があればパソコンのうちだしの名前札がある)。字が汚くて読めないので、自分の名刺をいれて代用する。一方、いろいろな手段を使っても確認できない人に時間がかかるので、なかなか列が進まないのだ。
実はこの手際の悪さは、開始前からのことであった。ぎりぎり一週間前くらいに発表されたプログラムには、登録しているはずの人の名前がぼろぼろ落ちていて、まったく不完全なものであった。みな個人的に交渉して名前を戻していったが、私の名前はブログラムに当初からあったにもかかわらず、受付の名簿にはないのである。こんな適当な事務処理であるにもかかわらず、かれらは「〔中国からのスパイが入ってこないようにする〕治安のため」人物同定を行おうとするので列が進まないのだ。
登録をまつ間、我々は両脇に掲げられた、モンゴル国立大学の名誉博士たちの肖像写真を目にすることになる。ダライラマ猊下はいいとして、川口順子、李明博、潘基文、阿含宗の桐山靖雄、池田大作などの顔が並ぶのをみると、モンゴルと世界の多様な交流の歴史をかいまみることができる(含みあり)。モンゴル在住の方から聞いた話だが、前大統領は日本の仏教団体から賄賂をとったことが原因で今刑務所に入っているのだそうな。

狭い階段あふれる人
登録が終わり、プログラムを渡されたが、このプログラムがパネルをただ打ち出しただけという非常に使えないシロモノ。複数の教室で同時間に複数のパネルが併行して行われているので、時間や場所や名前からの索引があれば便利なのに、それを作っていない。
時間配分と会場配分もひどい。何を考えているのか同じジャンルのパネルを同時間に設定しているため興味のあるパネルがかぶって片方は聞きに行けない。歴史のパネルにいたっては閉会式の後の土曜日だったので、私を含めて閉会式の翌日に帰国する人はみなアウトである。60人もキャンセルがでたなら、土曜日の人をまとめて前倒ししたらいいのに。
そして、各会場が小さい。第1会場と第2会場が離れていて、移動時間がかかるため、発表が始まってから教室に入ると、もうすでに席はなく、床に座ったり立ち続けて聞いたりする人が続出。すこし立派な円形講堂は、モンゴル人の先生方が二日にわたり占拠していた。このパネルはほとんとすべてがモンゴル語の発表であったため、モンゴル人とモンゴル留学歴のある人しか聞きに来ず、ガラガラ。
さらにすごいのが、ブログラムの変更や会場変更がまったく通知されず、キャンセルがでた場合、進行係のモンゴルの人が次の人の発表を繰り上げて行わせるため、目当ての人の発表を聞きにいっても、「もう終わっている」なんてことはザラ。さらにすごいのは時間会場の変更が本人に伝わらず、発表者本人が現れなくて中止なんてのもあった。
私の発表は火曜日11:00からだったのだが、せっまい教室で人が入りきれず、エリオットスパーリングが床に寝て、ファンデルカイプ教授が壁を背にして座るという有様であった。何度もいうが、みなが床に座っている時円形講堂ではモンゴルの先生方が・・・・(以下略)。
私の発表自体はつつがなく終わり、問題の質問コーナー。ブリヤートからきたT先生のロシア語訛りの英語が睡眠薬でぼけた頭では聞き取れず、武内先生のお世話になる。この姿だけは院生Mに見せたくなかったが、彼は自分の発表の時、アメリカ留学している日本人研究者に寄生することを決めたと言ってたので、脱力した。なぜこの男はマネしてほしくないところだけ真似するのだろう。
で、発表が終わり、ティータイムで外にでると隣の教室からOくんがでてきて、「僕の発表はプロジェクターがバクハツして延期になりました」とのこと。天井に据えつけられたプロジェクターがポンっといってそのまま消えたのだという。このほかにもスクリーンがなくて壁に直接照射する部屋、ピントのあわないプロジェクターの部屋、西日がきついのに遮光カーテンがないためスライドが見えない部屋などそれはもう多彩なトラブルが目白押し。こういうところもモ・ン・ゴ・ル。
また、中国にとって政治的に敏感なパネルには、当局に報告するため中国大使館関係者や中国から来た参加者がしっかり現れ、その中から「中国人として~」から始まる学問や論理を超越した感情論を開陳されるので、やなかんじ(根は決して悪い人たちではないけど)。

ソ連風建築の国立図書館
自分の発表が終わると次は資料収集。水曜日の午後は国立図書館にジェブツンダンパ八世の秘密の伝記とTくんが発見したバトオチルの歴史書を見にいく。モンゴル科学アカデミーのバトサイハン先生が事前に手配してくださっていたにもかかわらず、入るのにえらいこと手間取る。この図書館と古文書館に毎年通っているT君によると、受付の女の人が大権をもっていて彼女の気分一つで入館出来るか否かがきまり、そこでパスポートなどを預けるのだが、たとえば食事にいくために退館しようとした時、彼女がいないと、パスポートを返してもらえないので、彼女が帰ってくるまで二時間でも三時間でも空腹を抱えて待つしかないという。
やっとのことで、入館許可を頂いて、データとなった史料を大画面で読み出すと、まだ画面の操作を試行錯誤しているうちに、いきなり停電。しかも六時まで電気は戻らないという。T君いはく、「昔はこんなことしょっちゅうで、でも最近は停電しても十分くらいなのに、数時間かかるとは珍しいですよ」。と暗に私が呪われているという。
仕方ないので翌日も再び図書館にいくことにする。この木曜日の午後、カワチェンのケルサン氏のコネでチベット語の文献が所蔵されている書庫もみせて頂く。大学からくるケルサン一行を図書館でまつ間に夏休みなので図書館にきていたMくんと談笑。
彼がさらっと。「八月一日から図書館は夏休みで閉まるそうですよ」発言すると、二週間後に再び図書館にきて、いろいろ段取りをつけようとしていたTくんは「何それ聞いてないよ。ふざけんなよ」とブチキレる。モンゴルでは夏期に関係者が田舎に休暇にいってしまうと、訪問者の都合なんて二の次でこのように突然に公共機関が閉館してしまうのだ。
それにしても、ケルサン氏は三時に大学をでるといっていたのに、一向に来ない。結局四十五分遅れできたのだが (聞けば来るはずだった某先生を待って結局こなかったのだという)、なら誰か一人でも先によこして我々に教えてくれと。この場合は待ってもきたからいいけど、待ち合わせをしたメンバーが、出先で予定をかえてどこかにいってしまった場合、連絡がつかず、残った人間が待ちぼうけを食うことが学会中よくあった。

一般の人はまずみられない書庫内の貴重な映像
ケータイ生活になれた我々にとって来るか来ないか分からない人を待つのはストレスであり、韓国ドラマのようなもどかしい愛よりも、人間関係の亀裂を産むのであった。
書庫内に入ると大量のペチャ文書がほとんど整理もされず天井までとどく書架と、入らない分は通路に積み上がっていた。モンゴルでは古い文化財の持ち出しは禁じられており、国境の荷物検査でふるい写本などが見つかると没収されてここに持ってこられるのだそうな。でも回収されるのはごく一部でおおくの装飾経典などはばら売りされてどこぞの意味も分からない金持ちの手にわたっていくのだろう。末法の世である。
話を少し戻して、私が再度図書館にトライしようとする直前、モンゴル人のO先生が、「先生の名前が午後から行われるオーエン・ラティモアの記念講演のコメンテーターの中にありましたよ」という。「何それ美味しいの?」
そこでゾンビのように蘇る初日の記憶。K嬢が「先生の名前の入った封筒が受け付けにありましたよ」ともってきたものを開けてみると、この記念講演の案内が入っていた。講演者のNicola DI cosmoについてはまったく面識がなく、オーエン・ラティモアについての特別な知識ももちろんないので、よくよまずにホテル部屋に投げ出していた。
こんな状態なのにまったくの無茶ぶりである。大体名簿に名前がない人の手紙をただ受付に放置していたら本人に届くと思っているところがモンゴルである(届いたけど 笑)。
「英語でもモンゴル語でもムリ」と叫んで逃げる。これはコメンテーターくらいですんだから笑い話だが、夏休みにモンゴルや中国の大学を訪れた先生が突然の無茶ぶり講演の依頼をうけるのは夏の風物詩である。
まとめ。この学会は、ほとんど審査しないでみんなに発表させるので、400名以上の人がおしよせ、内容も千差万別・玉石混淆。この学会は意味がないといって来ない研究者も多い。もろもろ微妙な部分もあるがロビーバーネット、エリオット・スパーリンク、テンジンテトンなどのお馴染みのメンバーから、ながいこと会わなかった人にまで再会できたりすることを考えると、これは巨大なチベット情報交換サークルandサロンとして存在意義があるのかもしれない。総会で新しい会長はバンクーバーのツェリンシャキャに決まり。次の候補地はパリとノルウェーが名乗りを上げている(すいません総会さぼりました)。
今夏の学会参加の目的は、自分の発表と院生Mのデビュー確認と、図書館での資料閲覧と、関係する本の収集と、関係各位へのつなぎであった。第一会場の一階で開かれたブック・フェアや、Tくんが外の本屋さんや研究機関で手に入れてくれた本などで必要なものはあらかた揃った。そこで、モンゴル在住のIさんのお宅におよばれした際に、車で迎えにきてくれるので途中郵便局によって出すのを手伝ってもらおうと思ったところ、日本語も英語もできない方が運転手としてこられ、また、会場がウランバートルのはるかはずれの別荘地であったため、成功せず。結局Iさんに本の発送を頼むこととなり申し訳なかった。
ちなみに、院生Mは発表原稿をみてあげる代わりに、荷物もちくらいしてくれるかと思ったら、毎日毎日、旅行して写真とってきました、みたいなゆるい発表をわたり歩いて、果ては草原にまで行ってしまい、姿をみとめて、私が近づいていくと、いやな顔をして逃げ回るので、まったく役に立たなかった。想定内だけど。
わたしはモンゴルゼミ出身なので先輩・後輩の多くがこの街で青春の二年間を過ごしており、彼らのモンゴルに対する愛を聞きながら育った。こんな彼らは共通して人民革命以前に存在したモンゴルの伝統的な社会において、チベット仏教がすみずみまで浸透していた事実やそれに基づく当時の思考を軽視する傾向がある(これはモンゴルの歴史学者もそう)。だから、私の研究はながくゼミ内ではブラック・シープであった。
彼らがなぜそのような考え方を形成するに至ったのか、彼らが留学したウランバートルの街を歩いてなんとなく分かるような気がした。中心部は端から端まで歩いても三十分。冬が九ヶ月夏か三ヶ月の厳しい自然条件。一年の大半は屋内で煮詰まってくらす。一番上の先輩なんて社会主義時代のモンゴルに留学していたわけだから、これに物不足・インフレ・ソ連型社会主義のプロパガンダの影響まで加わったわけ。民主化後に留学した人もモンゴル・ナショナリズムの洗礼を多かれ少なかれ受けている。学会のスタッフにはじまってモンゴル人に英語で話しかけてもほとんど伝わらない。年配の人にはロシア語の方が通じる。モンゴル人たちは個人主義でプラグマテイック。
私が日本でバブリーに暮らしながら、ダライラマ法王やチベット仏教について自由かつ楽しく学んでいた間に彼らはここにいたのだ。そりゃ価値観も異なるわけだ。個人的には先生・先輩・後輩が青春を過ごした街が見られたのがとても興味深かった。
次のエントリーはチベット・イン・モンゴルの町歩き編です。
13年13回13パネルの発表者になりました1
梅雨が明けたかと思ったら突然猛暑になって、体調が激しく悪くなり、その上、7月21日から国際チベット学会(IATS 13)があるため、その準備で英語の原稿書きに追われてそのせいかどうか、毎日夕方からの偏頭痛が恒例行事に。アスピリン喘息が出るんで、頭痛薬がのめないのでもうどうにもならん。インドが独立する時「この頭痛(イスラム教徒)がなくなるなら、首をきった方がいい」といって分離独立した気持ちが分かるわあ、て、違うわ。首切ったら死ぬ。
で、国際チベット学会の話。今年は蒙蔵条約を記念してか、モンゴルのウランバートルでモンゴル科学アカデミーと国立モンゴル大学の共催で行われる。
ウランバートル、それはモンゴル語で「赤い英雄=モンゴル革命の父スフ・バートル」を意味するので、この名前は社会主義時代の名残。昔は大僧院を意味する「クーロン」 (フレー / ウルガ)という名前で知られていた地。
そう、元来遊牧民はテントをもって定住家屋を持たない。なぜこの地に街ができたかというと、フレーという名前が参考になる。
17世紀、チベットにはダライラマ五世というとっても強力なダライラマがおわしました。自らをチベットの守護尊観音菩薩であると示すため、観音菩薩の聖地マルポリの上に宮殿をたて、観音の化身を前世者に並べ、世俗勢力を凌ぐ権威を手にした。そして、西はトルグートから東は満洲まで、とにかく布教の僧をおくりまくり、相手先からは留学生をひきうけまくった。その中に、ハルハのトシェート・ハン家の王子ジニャーナバジラ(モンゴルでは訛りたおしてザナバザル)もいたのである。
ジニャーナ・バジラはチベットに留学してパンチェンラマ一世とダライラマ五世から教えをうけ、「もっと勉強したいです」といったら、「モンゴルで僧院を作るのがあなたの仕事」と云われて、チベット政府から技術者と人材を派遣されて、ヘンティ山脈のふもとにつくったのが、リボゲゲーリン僧院(通称ガンデン)。ご存じの通りチベットの僧院は、僧侶の数もおおく僧坊や集会殿がならぶ非常に大規模なものであるため、やがて市場がまわりにでき、今のウランバートルの前身となる市街地が形成されたのである。
で、数日前プログラムの詳細が発表になったが、これが大所帯。回を重ねるごとに参加者がふくれあがって今回は45のパネル、3つの記念講演、17のセッションに分かれて、一週間ぎっちぎちの予定で人がつまっている
参考までにパネルとセッションの驚くほど適当な訳をあげておく。医学と天文学の似たようなパネルがいくつもあるのでまとめたらいと思うし、肝腎の蒙蔵条約とかモンゴルとチベットの関係史に焦点あてそうなパネルが少ない。
また、チベット文化の根幹をしめる仏教哲学が異常に少ないことがきになる。キレイに解釈すれば、チベット仏教はチベット人自身の手によって僧院で一生かけて研究と修行がなされているので、今更学者が出てくる幕がないともいえる。しかし、ひねくれた解釈をすれば、チベット人が一生かけてうけついでいく伝統的な仏教哲学を途中からはじめた外人が完全に理解するのは長大な時間と能力が必要とされるのでむり。したがって、最初からこの困難な道をさけ、よりアプローチのラクなジェンダー、教育、現代事情などポップなジャンルに学者が流れているともいえる。
さて、私の発表は例によって笑えます。
今回のチベット学会は2013年に行われる第十三回大会で私のパネルであるチベットの王権は、13パネル。もう笑うしかない13続き。この数字は西洋では「キリストが処刑された13階段」の故事により縁起が悪いとされるのだが、パネルの主宰者であるDonald Dodsonは「古代チベットでは吉祥な数字だ」と不吉な雰囲気を払拭しようとしている(笑)。
さらに言えば、私の誕生日もアンチクリスト・オーメンの誕生日六月六日なんですが(笑)。131313がきれいに三つならんだステキなパネルでの発表は今から楽しみ。何がおきても数字のせいにできるわ。
パネル 1: アムドとモンゴル (Amdo and the Mongols)
パネル 2: 建築と保存(Architecture and Conservation)
パネル 3: ブータンとシッキム(Bhutan Sikkim)
パネル 4: ブータン仏教と文化 (Bhutanese Buddhism and its Culture)
パネル 5: チベット高原の気候変動 (Changing Climate on the Tibetan Plateau)
パネル 6: モンゴル仏教の歴史 (The History of Buddhism in Mongolia)
パネル 7: 初期ゾクチェン (Early Dzokchen)
パネル 8: チベットにおける表現法としての民俗誌と地図製作 (Ethnography and Cartography as Modes of Representation in Tibet)
パネル 9: 未知の探求: チベットの民族文学と大衆詩の言葉についての新研究 (Exploring the Uncharted: New Research in Tibetan Folk Literature and Popular Poetic Language)
パネル 10: チベットのケサル叙事詩の新研究(New Research on the Gesar Epic in Tibet)
パネル 11: 大チベット (Greater Tibet)
パネル 12: チベットにおけるヘルメス : タントラの解釈学的規則(Hermes in Tibet: Tantra’s Exegetical Imperative)
パネル 13: チベットの王権と宗教 (Kingship and Religion in Tibet)
パネル 14: チベット高原の暮らし(Livelihoods on the Tibetan Plateau)
パネル 15: アムドでの生活 (Living in Amdo)
パネル 16: 17世紀後半から20世紀にかけてのチベット・モンゴル・中国の天文学・薬学(Medicine and Astrology between Tibet, Mongolia and China, late 17th early 20th centuries)
パネル 17: 密教行者たちとアムドの僧院との関係 (Tantrist Communities and Their Relations with Monastic Institutions in Amdo)
パネル 18: モンゴル仏教美術 (Mongolian Buddhist Art)
パネル 19: 規範・改革・規則: チベットの社会史における新視点 (Rules, Reform and Regulations: New Perspectives on Tibetan Social History)
パネル 20: 遊牧民の宗教生活 (Nomads’ Religious Lives)
パネル 21: 新奇・系譜・伝統 :モンゴルとチベットの仏教の過去から現代に至るまでの関係(Novelty, Lineage and Tradition: Contemporary and Historical Relations Between Mongolian and Tibetan Buddhism)
パネル 22: ニンマ研究 (Nyingma Studies)
パネル 23: 古チベット語研究IV (Old Tibetan Studies IV)
パネル 24: 革命後の話術: チベット人と中国の共産主義者との出会いを以下に語ったか(Post-Revolutionary Narratives: or, how to Retell Early Tibetan Encounters with the Chinese Communists)
パネル 25: チベット医学の保存と発展(Preservation and Development of Tibetan Medicine)
パネル 26:高等教育における外国語としてのチベット語教授(Teaching and Learning Tibetan as a Second/Foreign Language in Higher Education )
パネル 27: ボン教の紛争 (The Bon Differences)
パネル 28: モンゴルとチベットにおける都市化とそれが家族と社会へ与えた衝撃 (The New Urbanization in Mongolia and Tibet and its Impact on Family and Society)
パネル 29: チベットとモンゴルの俗人(The Secular in Tibet and Mongolia)
パネル 30: カムにおける領土・共同体・交流 (Territories, Communities and Exchanges in Kham)
パネル 31: 変動する世界の中のチベット; 清帝国の崩壊と民国の建国への対応 (Tibet in a Changing World: Responses to the Collapse of the Qing Empire and the Rise of the Nation-State)
パネル 32: チベットとモンゴルの宗教舞踊 (Tibetan and Mongolian Ritual Dance)
パネル 33: チベット語のIT (Tibetan Information Technology) See Commemorative セッション 2
パネル 34: 変容するチベットとモンゴ仏教: 民族間のネットワークと地域社会 (Tibetan and Mongolian Buddhisms Transformed: Transnational Networks and Local Communities)
パネル 35: 後伝仏教期初期におけるチベッ仏教哲学の発展 (Tibetan Developments in Buddhist Philosophy in the Early Centuries of the Later Diffusion)
パネル チベットの写本研究 (36W: Workshop: Tibetan Manuscript Studies)
パネル 37: ゲルタンのチベット学 (Tibetology in Rgyal Thang)
パネル 38: チベットのマハームドラーの歴史 (Toward a History of Tibetan Mahamudra Traditions)
パネル 39: 異世界が出会う時 : 東ヒマラヤにおける文化横断経済 (When Different Worlds Meet: Transcultural Encounters in the Eastern Himalayas)
パネル 40: モンゴルの薬学の伝統 (Medical Traditions of Mongolia)
パネル 41: モンゴルとチベットにおける仏教天文暦学 (Buddhist Astronomy and Astrology in Mongolia and Tibet)
パネル 42: 『覚りへの道』に対するモンゴルとチベットでの註釈の歴史(The Bodhicaryavatara: Mongolian and Tibetan Commentarial Traditions)
パネル 43: モンゴルからみたチベット・テクスト研究 (Tibetan Textual Studies from the Mongolian Perspective: Terminology and Translation)
パネル 44: チベットとモンゴルにおける仏教認識論の相承 (The Transmission of Buddhist Epistemology to Tibet and Mongolia)
パネル 45: チベットの文学交流 (Tibetan Literary Exchanges: Influences Between Genres and with Neighbouring Literatures)
記念セッション 1: アンドレ・アレクサンダー追悼 A Tribute to Andre Alexander
記念セッション 2: ジーン・スミス追悼 Among Digital Texts: Remembering Gene Smith
記念 セッション 3: ルキアノ・ペテック追悼 A Tribute to Luciano Petech
セッション 4: チベット仏教の女性信徒Tibetan Buddhist Women
セッション 5: 国をこえたチベットアイデンティティTransnational Tibetan Identities
セッション 6: 聖俗の地理学Sacred and Secular Geographies
セッション 7: 近代チベットの政治史Modern Tibetan Political History
セッション 8: チベット史Tibetan Histories
セッション 9: 言語・言語学・教育Languages, Linguistics and Education
セッション 10: 演劇やミュージカルの伝統Performing Arts and Musical Traditions
セッション 11: サキャ派研究Sakya Studies
セッション 12: チベットの修行史History of Tibetan Religious Practices
セッション 13: 偉人の伝記と著作Great Lives and Works
セッション 14: チベットの芸術と考古Tibetan Art and Archaeology
セッション 15: 仏教、科学、社会Buddhism, Science and Society
セッション 16: 民俗宗教と地域の伝統Folk Religion and Local Traditions
セッション 17: 教義と哲学Doctrines and Philosophies
で、国際チベット学会の話。今年は蒙蔵条約を記念してか、モンゴルのウランバートルでモンゴル科学アカデミーと国立モンゴル大学の共催で行われる。
ウランバートル、それはモンゴル語で「赤い英雄=モンゴル革命の父スフ・バートル」を意味するので、この名前は社会主義時代の名残。昔は大僧院を意味する「クーロン」 (フレー / ウルガ)という名前で知られていた地。
そう、元来遊牧民はテントをもって定住家屋を持たない。なぜこの地に街ができたかというと、フレーという名前が参考になる。
17世紀、チベットにはダライラマ五世というとっても強力なダライラマがおわしました。自らをチベットの守護尊観音菩薩であると示すため、観音菩薩の聖地マルポリの上に宮殿をたて、観音の化身を前世者に並べ、世俗勢力を凌ぐ権威を手にした。そして、西はトルグートから東は満洲まで、とにかく布教の僧をおくりまくり、相手先からは留学生をひきうけまくった。その中に、ハルハのトシェート・ハン家の王子ジニャーナバジラ(モンゴルでは訛りたおしてザナバザル)もいたのである。
ジニャーナ・バジラはチベットに留学してパンチェンラマ一世とダライラマ五世から教えをうけ、「もっと勉強したいです」といったら、「モンゴルで僧院を作るのがあなたの仕事」と云われて、チベット政府から技術者と人材を派遣されて、ヘンティ山脈のふもとにつくったのが、リボゲゲーリン僧院(通称ガンデン)。ご存じの通りチベットの僧院は、僧侶の数もおおく僧坊や集会殿がならぶ非常に大規模なものであるため、やがて市場がまわりにでき、今のウランバートルの前身となる市街地が形成されたのである。
で、数日前プログラムの詳細が発表になったが、これが大所帯。回を重ねるごとに参加者がふくれあがって今回は45のパネル、3つの記念講演、17のセッションに分かれて、一週間ぎっちぎちの予定で人がつまっている
参考までにパネルとセッションの驚くほど適当な訳をあげておく。医学と天文学の似たようなパネルがいくつもあるのでまとめたらいと思うし、肝腎の蒙蔵条約とかモンゴルとチベットの関係史に焦点あてそうなパネルが少ない。
また、チベット文化の根幹をしめる仏教哲学が異常に少ないことがきになる。キレイに解釈すれば、チベット仏教はチベット人自身の手によって僧院で一生かけて研究と修行がなされているので、今更学者が出てくる幕がないともいえる。しかし、ひねくれた解釈をすれば、チベット人が一生かけてうけついでいく伝統的な仏教哲学を途中からはじめた外人が完全に理解するのは長大な時間と能力が必要とされるのでむり。したがって、最初からこの困難な道をさけ、よりアプローチのラクなジェンダー、教育、現代事情などポップなジャンルに学者が流れているともいえる。
さて、私の発表は例によって笑えます。
今回のチベット学会は2013年に行われる第十三回大会で私のパネルであるチベットの王権は、13パネル。もう笑うしかない13続き。この数字は西洋では「キリストが処刑された13階段」の故事により縁起が悪いとされるのだが、パネルの主宰者であるDonald Dodsonは「古代チベットでは吉祥な数字だ」と不吉な雰囲気を払拭しようとしている(笑)。
さらに言えば、私の誕生日もアンチクリスト・オーメンの誕生日六月六日なんですが(笑)。131313がきれいに三つならんだステキなパネルでの発表は今から楽しみ。何がおきても数字のせいにできるわ。
パネル 1: アムドとモンゴル (Amdo and the Mongols)
パネル 2: 建築と保存(Architecture and Conservation)
パネル 3: ブータンとシッキム(Bhutan Sikkim)
パネル 4: ブータン仏教と文化 (Bhutanese Buddhism and its Culture)
パネル 5: チベット高原の気候変動 (Changing Climate on the Tibetan Plateau)
パネル 6: モンゴル仏教の歴史 (The History of Buddhism in Mongolia)
パネル 7: 初期ゾクチェン (Early Dzokchen)
パネル 8: チベットにおける表現法としての民俗誌と地図製作 (Ethnography and Cartography as Modes of Representation in Tibet)
パネル 9: 未知の探求: チベットの民族文学と大衆詩の言葉についての新研究 (Exploring the Uncharted: New Research in Tibetan Folk Literature and Popular Poetic Language)
パネル 10: チベットのケサル叙事詩の新研究(New Research on the Gesar Epic in Tibet)
パネル 11: 大チベット (Greater Tibet)
パネル 12: チベットにおけるヘルメス : タントラの解釈学的規則(Hermes in Tibet: Tantra’s Exegetical Imperative)
パネル 13: チベットの王権と宗教 (Kingship and Religion in Tibet)
パネル 14: チベット高原の暮らし(Livelihoods on the Tibetan Plateau)
パネル 15: アムドでの生活 (Living in Amdo)
パネル 16: 17世紀後半から20世紀にかけてのチベット・モンゴル・中国の天文学・薬学(Medicine and Astrology between Tibet, Mongolia and China, late 17th early 20th centuries)
パネル 17: 密教行者たちとアムドの僧院との関係 (Tantrist Communities and Their Relations with Monastic Institutions in Amdo)
パネル 18: モンゴル仏教美術 (Mongolian Buddhist Art)
パネル 19: 規範・改革・規則: チベットの社会史における新視点 (Rules, Reform and Regulations: New Perspectives on Tibetan Social History)
パネル 20: 遊牧民の宗教生活 (Nomads’ Religious Lives)
パネル 21: 新奇・系譜・伝統 :モンゴルとチベットの仏教の過去から現代に至るまでの関係(Novelty, Lineage and Tradition: Contemporary and Historical Relations Between Mongolian and Tibetan Buddhism)
パネル 22: ニンマ研究 (Nyingma Studies)
パネル 23: 古チベット語研究IV (Old Tibetan Studies IV)
パネル 24: 革命後の話術: チベット人と中国の共産主義者との出会いを以下に語ったか(Post-Revolutionary Narratives: or, how to Retell Early Tibetan Encounters with the Chinese Communists)
パネル 25: チベット医学の保存と発展(Preservation and Development of Tibetan Medicine)
パネル 26:高等教育における外国語としてのチベット語教授(Teaching and Learning Tibetan as a Second/Foreign Language in Higher Education )
パネル 27: ボン教の紛争 (The Bon Differences)
パネル 28: モンゴルとチベットにおける都市化とそれが家族と社会へ与えた衝撃 (The New Urbanization in Mongolia and Tibet and its Impact on Family and Society)
パネル 29: チベットとモンゴルの俗人(The Secular in Tibet and Mongolia)
パネル 30: カムにおける領土・共同体・交流 (Territories, Communities and Exchanges in Kham)
パネル 31: 変動する世界の中のチベット; 清帝国の崩壊と民国の建国への対応 (Tibet in a Changing World: Responses to the Collapse of the Qing Empire and the Rise of the Nation-State)
パネル 32: チベットとモンゴルの宗教舞踊 (Tibetan and Mongolian Ritual Dance)
パネル 33: チベット語のIT (Tibetan Information Technology) See Commemorative セッション 2
パネル 34: 変容するチベットとモンゴ仏教: 民族間のネットワークと地域社会 (Tibetan and Mongolian Buddhisms Transformed: Transnational Networks and Local Communities)
パネル 35: 後伝仏教期初期におけるチベッ仏教哲学の発展 (Tibetan Developments in Buddhist Philosophy in the Early Centuries of the Later Diffusion)
パネル チベットの写本研究 (36W: Workshop: Tibetan Manuscript Studies)
パネル 37: ゲルタンのチベット学 (Tibetology in Rgyal Thang)
パネル 38: チベットのマハームドラーの歴史 (Toward a History of Tibetan Mahamudra Traditions)
パネル 39: 異世界が出会う時 : 東ヒマラヤにおける文化横断経済 (When Different Worlds Meet: Transcultural Encounters in the Eastern Himalayas)
パネル 40: モンゴルの薬学の伝統 (Medical Traditions of Mongolia)
パネル 41: モンゴルとチベットにおける仏教天文暦学 (Buddhist Astronomy and Astrology in Mongolia and Tibet)
パネル 42: 『覚りへの道』に対するモンゴルとチベットでの註釈の歴史(The Bodhicaryavatara: Mongolian and Tibetan Commentarial Traditions)
パネル 43: モンゴルからみたチベット・テクスト研究 (Tibetan Textual Studies from the Mongolian Perspective: Terminology and Translation)
パネル 44: チベットとモンゴルにおける仏教認識論の相承 (The Transmission of Buddhist Epistemology to Tibet and Mongolia)
パネル 45: チベットの文学交流 (Tibetan Literary Exchanges: Influences Between Genres and with Neighbouring Literatures)
記念セッション 1: アンドレ・アレクサンダー追悼 A Tribute to Andre Alexander
記念セッション 2: ジーン・スミス追悼 Among Digital Texts: Remembering Gene Smith
記念 セッション 3: ルキアノ・ペテック追悼 A Tribute to Luciano Petech
セッション 4: チベット仏教の女性信徒Tibetan Buddhist Women
セッション 5: 国をこえたチベットアイデンティティTransnational Tibetan Identities
セッション 6: 聖俗の地理学Sacred and Secular Geographies
セッション 7: 近代チベットの政治史Modern Tibetan Political History
セッション 8: チベット史Tibetan Histories
セッション 9: 言語・言語学・教育Languages, Linguistics and Education
セッション 10: 演劇やミュージカルの伝統Performing Arts and Musical Traditions
セッション 11: サキャ派研究Sakya Studies
セッション 12: チベットの修行史History of Tibetan Religious Practices
セッション 13: 偉人の伝記と著作Great Lives and Works
セッション 14: チベットの芸術と考古Tibetan Art and Archaeology
セッション 15: 仏教、科学、社会Buddhism, Science and Society
セッション 16: 民俗宗教と地域の伝統Folk Religion and Local Traditions
セッション 17: 教義と哲学Doctrines and Philosophies
法王78才の誕生会
現在、ダライラマ法王の誕生日は西暦で7月6日に祝われており、この日は世界各地で法王のご長寿を祝う(テンシュク)パーティが開かれる。78才を迎えられた今年、ダライラマ法王は南インドのバイラクッペにあるセラ大僧院(再建)の誕生会に出席された。ダラムサラ在住三十年の中原氏によると、法王が自らの誕生日に出現されたのはこれが初めてではないかという(→ここにリンクがあります)。
私は東京の法王事務所主催のお誕生会に参加した。例によってチベット時間でまったりと始まり、来日中のディグン・カギュ派のラムケン・ゲルポリンポチェ等チベット僧らによる読経、そして、法王事務所代表ラクパさんの開会の辞が続く。
そして、来賓トップの祝辞は筑波大学名誉教授の村上和雄氏。昨年秋、ダライラマ法王科学者との対話」が行われた際、実行委員長を務められた方である。吉本興業とコラボをしていただけのことはあり、祝辞の冒頭はブラック・ジョークで始まった。
こんな小話があります。ある学者に三人の息子がいました。このうち上の二人の息子はとても優秀だったが、末の息子はまったくできが悪かった。なので、その学者は末の息子は自分の子供ではないのではないか、と疑っていた。そして妻がいまわの際、『最後だから本当のことを聞かせてくれ、末の息子は私の子供ではないだろう?』と聞くと、妻は「末の息子だけがあなたの子です」と答えた。
これは「自分が思っている程自分の遺伝子は優秀でない」という意味の小話なのだろうか。今一つ引用の意図が不明。
遺伝子はまあこういう風に、親から子に受け継がれていくと考えられているものですが、実際遺伝子の働きはもっとダイナミックであり、使用されていない部分がたくさんあり、「眠っている遺伝子のスイッチをオンにすれば、人間の可能性は無限大」という提言をしています。
で、その一環でダライラマ法王とのコラボもさせて頂いてます。
2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏がダライラマ法王と対話された時のことです。
小柴氏は「仏教もキリスト教も平和を説くのに、それから二千年以上たっても世界中のどこにも平和は実現していないじゃないか。それはみな自分の説く教えが一番だ、と主張することから、かえって宗教が争いを生んでいるのではないか」と法王に言いますと、
法王は「仏陀もキリストも素晴らしい教えを説いた。キリスト教もイスラーム教もよいことをいっている。しかし、後に続くものが、組織や面子のためにいろいろ間違った行動をして平和を壊すのです」とおっしゃられた。
そして小柴さんが「仏典には科学に矛盾することが書かれている」とおっしゃると、会場はしんとして法王の反応を待つと
法王は「仏典は仏陀が直接記したものではない。だから、その内容については一つ一つ吟味せねばならない。〔小柴さんが指摘したことについても〕私は改めて探求してみたいと思う」とおっしゃられた。
私は法王のお答えに感服し、この素晴らしい体験をみなさんと分かち合おうとお話してみました。
●そして、ゲストは難民政府教育長長官のゴドゥップ・ツェリン(dngos grub tshe ring) 2012年にダライラマ法王の政治権力が完全にセンゲ首相率いる中央政府に委譲された後、中央政府の高官たちは手分けして世界中をまわり、チベット問題について発言することになったようだ。チベット問題に関する各国での啓発はほとんとが高齢の法王の双肩にかかっていたので、チベット人がその重荷を分担していく方向性はとてもいいと思う。
会場で配布された氏の経歴と祝辞は以下のようであった。
1953年7月1日 生まれ
1977年パンジャブ大学文学士号取得
1979-82年 第七回チベット亡命政権議会 議員
1983-86年 チベットに命政権教育省副長官
1987-90年 チベット亡命政権内務省副長官
1995年 チベット舞台芸術団(TIPA)理事長
1996-99年 チベット亡命政権教育省長官
1999-00年 チベット亡命政権内務省長官
2000-11年 チベット亡命政権を一旦離れ、米国にて亡命チベット人組織理事長を歴任
2012年 チベット亡命政権首席ロブサンセング氏の要請により、チベット亡命政権教育省長官に着任
祝辞
東京とソウルで開催された、私たちの偉大な指導者14世ダライ・ラマ法王の78歳の誕生祝賀会に参加できますことは私の大きな喜びであり、良きカルマであります。法王様の数千の友人とサポーターを代表し、そして私個人としても法王様に深い尊敬の念を示しつつ、真摯にお祝いさせていただきます。法王様の長寿を心よりご祈念申し上げます。
法王様は現代における伝説のアイコンともいうべき指導者です。チベット東北地方の僻地の平民の家庭にお生まれになったにも関わらず、今では、世界で最もカリスマ的な指導者、そして平和の象徴として世界中に認められています。
法王様の生涯にわたる揺ぎ無い3つのコミットメント、つまり「人間的価値の尊重」、「宗教間の調和」、「チベット問題の平和的解決」を支持する人々は、アジアのみならず世界中に広がっています。また法王様は肌の色、信仰や信条、民族や性別を超えて愛されています。仏教徒は法王様の教えに従い、違う宗教の人々も法王様の教えを尊んでいます。法王様は知識人や科学者に自らと近しいものをみいだし、世界中の宗教の指導者とのに共通する見解をもっておられます。
チベット人にとって法王様は「慈悲の仏」である観音菩薩の化身であり、現世のみならず来世でも最も偉大な師であり救済者でもあります。法王様の遠大なビジョンと並々ならぬ指導力のおかけで54年乳亡命の地にありながら、チベット人社会は活き活きとした文化、言語、アイデンティティを守って繋栄を続けています。
法王様が教育を最重要分野とされていることに加え、チベットの若者の将来を考えて、チベット中央政権は現在、完全にかつ実質的に若者世代が運営しています。チベット中央政権の政治的指導者で第14回カシャック(内閣)のロブサン・セング博士は、現政権の国内の最重要課題は教育だと発表しています。教育省はチベット亡命社会の学校教育の水準改善と多く分野の専門家育成に向けた、いくつかの新たな革新的プログラムを打ち出しています。過去50年間で初めて、チベット亡命社会の学生の1人が「2013年全インド高校試験」で95.4%の高得点を挙げ、羨望の的である「シキョン奨学金」を手にしました。また、インドのボード試験で70%以上の得点を挙げた学生は昨年に比べて30%以上増加しました。これらは改善を示す前向きの良い兆しであり、我々は努力を継続しなければならないでしょう。こうした特筆すべき改善は、皆様方の寛大な支援なくしては実現できなかったはずです。皆様方は東日本大震災と津波、そして世界経済危機にもかかわらずチベット人に惜しみない支援の手を差し伸べて下さいました。この機会を借りて、全ての皆様にお礼を申し上げます。教育は皆様がチベット難民に与えられる最高の贈り物です。
また、特にこの場を借りて、子供の支援をしてくださっている、チベットサポート基金の助安伴之のご貢献、佛性會の馬場和代会長、れんげ国際ボランティア会、KIKUの久保隆様、五島陽子様、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所に感謝申し上げます。そして、残念ながら時間の制約のため、この場でお名前を申し上げられない、私たちを助けて下さる多くの人々に感謝申し上げます。
最後に、今日は喜びと祝いの日ですから、あるいは時宜にかなっていないかもしれませんが、チベット本土で絶望的な焼身自殺を企てているチベット人兄弟姉妹の苦難について語らずして、私はこの場を去ることが出来ません。焼身自殺者はこれまでに119人に達しています。こうした人々のために、また彼らの望みが一日でもはやく叶うように、私とともに祈ってください。
敬愛する指導者にして導師でもあるダテイ・ラマ法王14世の誕生日を祝うこの素晴らしい会を設け、私を招いて下さった人々にあらためて御礼を申し上げつつ、終わりの挨拶とさせていただきます。
アリガトウゴザイマシタそしてトゥジェチェ!
●そして、乾杯の音頭は政治家の浜田和幸氏。たしかこの人自民党だったけど、民主党政権の時、民主党にひきぬかれて自民党を除籍された人。チベットとどのようなつながりがあるのかはよく知りません。もと国際政治学者らしいので、そのあたりでチベット問題に詳しいのかも。
今回のパーティにはオーストラリア在住のラクパ代表の奥様とお嬢さんとご子息もお見えになっていた。
代表は「東京の事務所を拠点にダラムサラやソウルへと飛び回って、年にたった二回しか会えない」というので、
私が「綺麗なお嬢さんですね。ずっと側にいられないのはつらいでしょう」と言ったところ、
代表は「私は父親の役目を果たしていません。〔娘は〕西洋的な考え方をするようになっているけど、チベット人としての意識はちゃんともっています。」と父親の顔に戻っていた。ラクパさんの日本での任期がそろそろ満了するらしいのだが、「これからどうなるのかはよく分からない」とのこと。
このほかにもBさんとか、Gさんとか、Oさんとか、Kさんとか、たくさんの人とお話できて楽しかった。平岡センセがお見えでなかったのはちょっと残念であった。
少し早めに会場を後にしたところ、駅でヒューマン・ヴァリューのバリー・カーズィン博士と一緒になった。2011年の3月26日、まだ余震の引き続く震災直後の護国寺様での法要で、バリー先生がお話になられた般若経の解説がとても印象的だったので、その旨お伝えしたら、とても喜んで下さった。明日は石巻で慈悲の心について講演をされるそうである。起きてしまった悲劇については思い悩んでも仕方ない、それより他者を愛する心によって、社会に貢献していく中で、自然と心の傷は癒されていく。バリー博士の顔を見ていたら、震災の年のことをいろいろ思い出した。2008年から5年、震災から2年。
これまでいろいろあったが、自分はうまく乗り越えて少しは成長できたのだろうか。
私は東京の法王事務所主催のお誕生会に参加した。例によってチベット時間でまったりと始まり、来日中のディグン・カギュ派のラムケン・ゲルポリンポチェ等チベット僧らによる読経、そして、法王事務所代表ラクパさんの開会の辞が続く。
そして、来賓トップの祝辞は筑波大学名誉教授の村上和雄氏。昨年秋、ダライラマ法王科学者との対話」が行われた際、実行委員長を務められた方である。吉本興業とコラボをしていただけのことはあり、祝辞の冒頭はブラック・ジョークで始まった。
こんな小話があります。ある学者に三人の息子がいました。このうち上の二人の息子はとても優秀だったが、末の息子はまったくできが悪かった。なので、その学者は末の息子は自分の子供ではないのではないか、と疑っていた。そして妻がいまわの際、『最後だから本当のことを聞かせてくれ、末の息子は私の子供ではないだろう?』と聞くと、妻は「末の息子だけがあなたの子です」と答えた。
これは「自分が思っている程自分の遺伝子は優秀でない」という意味の小話なのだろうか。今一つ引用の意図が不明。
遺伝子はまあこういう風に、親から子に受け継がれていくと考えられているものですが、実際遺伝子の働きはもっとダイナミックであり、使用されていない部分がたくさんあり、「眠っている遺伝子のスイッチをオンにすれば、人間の可能性は無限大」という提言をしています。
で、その一環でダライラマ法王とのコラボもさせて頂いてます。
2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊氏がダライラマ法王と対話された時のことです。
小柴氏は「仏教もキリスト教も平和を説くのに、それから二千年以上たっても世界中のどこにも平和は実現していないじゃないか。それはみな自分の説く教えが一番だ、と主張することから、かえって宗教が争いを生んでいるのではないか」と法王に言いますと、
法王は「仏陀もキリストも素晴らしい教えを説いた。キリスト教もイスラーム教もよいことをいっている。しかし、後に続くものが、組織や面子のためにいろいろ間違った行動をして平和を壊すのです」とおっしゃられた。
そして小柴さんが「仏典には科学に矛盾することが書かれている」とおっしゃると、会場はしんとして法王の反応を待つと
法王は「仏典は仏陀が直接記したものではない。だから、その内容については一つ一つ吟味せねばならない。〔小柴さんが指摘したことについても〕私は改めて探求してみたいと思う」とおっしゃられた。
私は法王のお答えに感服し、この素晴らしい体験をみなさんと分かち合おうとお話してみました。
●そして、ゲストは難民政府教育長長官のゴドゥップ・ツェリン(dngos grub tshe ring) 2012年にダライラマ法王の政治権力が完全にセンゲ首相率いる中央政府に委譲された後、中央政府の高官たちは手分けして世界中をまわり、チベット問題について発言することになったようだ。チベット問題に関する各国での啓発はほとんとが高齢の法王の双肩にかかっていたので、チベット人がその重荷を分担していく方向性はとてもいいと思う。
会場で配布された氏の経歴と祝辞は以下のようであった。
1953年7月1日 生まれ
1977年パンジャブ大学文学士号取得
1979-82年 第七回チベット亡命政権議会 議員
1983-86年 チベットに命政権教育省副長官
1987-90年 チベット亡命政権内務省副長官
1995年 チベット舞台芸術団(TIPA)理事長
1996-99年 チベット亡命政権教育省長官
1999-00年 チベット亡命政権内務省長官
2000-11年 チベット亡命政権を一旦離れ、米国にて亡命チベット人組織理事長を歴任
2012年 チベット亡命政権首席ロブサンセング氏の要請により、チベット亡命政権教育省長官に着任
祝辞
東京とソウルで開催された、私たちの偉大な指導者14世ダライ・ラマ法王の78歳の誕生祝賀会に参加できますことは私の大きな喜びであり、良きカルマであります。法王様の数千の友人とサポーターを代表し、そして私個人としても法王様に深い尊敬の念を示しつつ、真摯にお祝いさせていただきます。法王様の長寿を心よりご祈念申し上げます。
法王様は現代における伝説のアイコンともいうべき指導者です。チベット東北地方の僻地の平民の家庭にお生まれになったにも関わらず、今では、世界で最もカリスマ的な指導者、そして平和の象徴として世界中に認められています。
法王様の生涯にわたる揺ぎ無い3つのコミットメント、つまり「人間的価値の尊重」、「宗教間の調和」、「チベット問題の平和的解決」を支持する人々は、アジアのみならず世界中に広がっています。また法王様は肌の色、信仰や信条、民族や性別を超えて愛されています。仏教徒は法王様の教えに従い、違う宗教の人々も法王様の教えを尊んでいます。法王様は知識人や科学者に自らと近しいものをみいだし、世界中の宗教の指導者とのに共通する見解をもっておられます。
チベット人にとって法王様は「慈悲の仏」である観音菩薩の化身であり、現世のみならず来世でも最も偉大な師であり救済者でもあります。法王様の遠大なビジョンと並々ならぬ指導力のおかけで54年乳亡命の地にありながら、チベット人社会は活き活きとした文化、言語、アイデンティティを守って繋栄を続けています。
法王様が教育を最重要分野とされていることに加え、チベットの若者の将来を考えて、チベット中央政権は現在、完全にかつ実質的に若者世代が運営しています。チベット中央政権の政治的指導者で第14回カシャック(内閣)のロブサン・セング博士は、現政権の国内の最重要課題は教育だと発表しています。教育省はチベット亡命社会の学校教育の水準改善と多く分野の専門家育成に向けた、いくつかの新たな革新的プログラムを打ち出しています。過去50年間で初めて、チベット亡命社会の学生の1人が「2013年全インド高校試験」で95.4%の高得点を挙げ、羨望の的である「シキョン奨学金」を手にしました。また、インドのボード試験で70%以上の得点を挙げた学生は昨年に比べて30%以上増加しました。これらは改善を示す前向きの良い兆しであり、我々は努力を継続しなければならないでしょう。こうした特筆すべき改善は、皆様方の寛大な支援なくしては実現できなかったはずです。皆様方は東日本大震災と津波、そして世界経済危機にもかかわらずチベット人に惜しみない支援の手を差し伸べて下さいました。この機会を借りて、全ての皆様にお礼を申し上げます。教育は皆様がチベット難民に与えられる最高の贈り物です。
また、特にこの場を借りて、子供の支援をしてくださっている、チベットサポート基金の助安伴之のご貢献、佛性會の馬場和代会長、れんげ国際ボランティア会、KIKUの久保隆様、五島陽子様、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所に感謝申し上げます。そして、残念ながら時間の制約のため、この場でお名前を申し上げられない、私たちを助けて下さる多くの人々に感謝申し上げます。
最後に、今日は喜びと祝いの日ですから、あるいは時宜にかなっていないかもしれませんが、チベット本土で絶望的な焼身自殺を企てているチベット人兄弟姉妹の苦難について語らずして、私はこの場を去ることが出来ません。焼身自殺者はこれまでに119人に達しています。こうした人々のために、また彼らの望みが一日でもはやく叶うように、私とともに祈ってください。
敬愛する指導者にして導師でもあるダテイ・ラマ法王14世の誕生日を祝うこの素晴らしい会を設け、私を招いて下さった人々にあらためて御礼を申し上げつつ、終わりの挨拶とさせていただきます。
アリガトウゴザイマシタそしてトゥジェチェ!
●そして、乾杯の音頭は政治家の浜田和幸氏。たしかこの人自民党だったけど、民主党政権の時、民主党にひきぬかれて自民党を除籍された人。チベットとどのようなつながりがあるのかはよく知りません。もと国際政治学者らしいので、そのあたりでチベット問題に詳しいのかも。
今回のパーティにはオーストラリア在住のラクパ代表の奥様とお嬢さんとご子息もお見えになっていた。
代表は「東京の事務所を拠点にダラムサラやソウルへと飛び回って、年にたった二回しか会えない」というので、
私が「綺麗なお嬢さんですね。ずっと側にいられないのはつらいでしょう」と言ったところ、
代表は「私は父親の役目を果たしていません。〔娘は〕西洋的な考え方をするようになっているけど、チベット人としての意識はちゃんともっています。」と父親の顔に戻っていた。ラクパさんの日本での任期がそろそろ満了するらしいのだが、「これからどうなるのかはよく分からない」とのこと。
このほかにもBさんとか、Gさんとか、Oさんとか、Kさんとか、たくさんの人とお話できて楽しかった。平岡センセがお見えでなかったのはちょっと残念であった。
少し早めに会場を後にしたところ、駅でヒューマン・ヴァリューのバリー・カーズィン博士と一緒になった。2011年の3月26日、まだ余震の引き続く震災直後の護国寺様での法要で、バリー先生がお話になられた般若経の解説がとても印象的だったので、その旨お伝えしたら、とても喜んで下さった。明日は石巻で慈悲の心について講演をされるそうである。起きてしまった悲劇については思い悩んでも仕方ない、それより他者を愛する心によって、社会に貢献していく中で、自然と心の傷は癒されていく。バリー博士の顔を見ていたら、震災の年のことをいろいろ思い出した。2008年から5年、震災から2年。
これまでいろいろあったが、自分はうまく乗り越えて少しは成長できたのだろうか。
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