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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2013/03/31(日)   CATEGORY: 未分類
カンボジア お笑い編
今回、アンコール遺跡をガイドしてくださった方は、「歴史に詳しい方」と旅行社にお願いしてきていただいた方であった。彼は最初のうちは歴史の話をしてくれたが、ほっておくと軽い話をはじめ、果てはシモネタを語り出す逸材であった。

 ガイドさん「みなさん、すっぽんぽんのおしりを見たくないですか」(そもそもこの日本語誰が教えたんだ)。

 とまどう学生たち。彼が指さす先には、お尻の形の木の根が遺跡にからみついていた。カンボジアにまできて木の根でうけるか。遺跡の説明しろ。そして、私がちょっと席をはずすとガイドさんと男子学生がこれ以上ないってくらい幸せそうに談笑していて、私が「何の話してたの?」と聞いても「先生にはできない話しです」。て、シモネタかい。

 記念撮影のスポットはガイドさんが決めてくれる。
 アンコールワットとかは、正面からみると三本しかみえない尖塔が、彼のつれていってくれたスポットだと五本全部うつり、しかも前の池に逆さアンコールワットが映る。そこで、ガイドさんにまかせていると、だんだんガイドさんのノリにのせられ、時にはジャンプも強制される。

 ちなみに、中・韓の観光客の記念撮影のポーズを見ていると、中国人観光客が独特。遺跡を背景に、男はふんぞりかえり、女は天高く手をさしのべて足を前にちょっとだしたかっこつけポーズをとり、カップルは二人でハートの形を手でつくるといった具合に、個人主義とナルシシズムがよくでている。

 他人が撮影している前を横切ることすら遠慮する日本人は、中韓の観光客が多数押し寄せる観光地では、完全にお手上げか、日本人を捨てて前へ割り込むしかない。私は後者を選択した。

 ガイドさん「ハイみなさん、ここに立って写真をとると、『トゥームレイダー』でアンジェリーナ・ジョリーが地下神殿から出てきた時のアングルでとれますよ。並んで並んで~」。これも歴史関係ないよね。まあいいけど。この他にも「ラピュタ」「ラピュタ」というガイドのあとをついていくと、たしかにラピュタのラスト・シーンの大樹の根のからまる古代遺跡が・・・。て、誰がガイドにラピュタ教えたんだよ。

 そして、ガイドさんの話はいよいよ核心へと迫っていく。
 
 ガイドさん「みなさん恐竜は何年前に滅びましたか?」

 一億年?とか学生たちは首をかしげている。

 ガイドさん「では、この遺跡(タ・プローム)は何年前にできましたか?」
 
 「あ、分かった。この遺跡のどこかに恐竜の絵かなんかあるんでしょ。それでその当時のカンボジアに恐竜がいたとかそういう話にもっていくんでしょ。それね、トカゲかなんかじゃないですか。ガルーダだってあれ毒蛇を食べる孔雀とかを神格化したものですよね。トカゲですよ、トカゲ」と言うと

 ガイドさん「先生は先に話しをしちゃうから」

 学生「面倒くさい人ですみません」(失礼な)

 そして帰国後のおまけエピソード

 日本に帰ってきた翌日、チベット語の勉強会の後、ビールを買って公園で軽くお花見した。すると六歳くらいの子供がやってきて、何か容れ物をくれという。聞けば公園の池にいるエビをとるためらしい。ペットボトルの切ったものを貸してやる。そしたらエビをとってきて我々にみせてくれる。

 「人なつっこい子だね~。知らないおじさんとかについていっちゃだめだよ」

院生M「知らないおばさんにもね。そのエビ、熱帯魚屋で百円くらいで売っているよ。100円いる?」

子供「いらない」

「そういえば、カンボジアではこのくらいの年の子が絵はがきもって、日本語で一ドルっていいながら売りにくるんだよね。百円ってちょうど一ドルだよね。同じ年頃でもカンボジアではお金が目的で、日本ではお金いらないんだから、平和だよね。百円はジンバブウエ・ドルだったら一億円くらいかな」

Oさん「もうあれ使われていませんよ。友だちが昔トルコに留学した時、最初の奨学金の振り込みが40兆リラだったそうですよ。」

そんな爛れた会話をしていたら、子供はつまらなそうな顔をして、エビをおいてどこかへいってしまった。

院生M「あんなひとなつっこい子、日本では珍しいですよね。妖精さんかもしれませんね」

 私達の心はヨゴレすぎていたので、妖精さんに去られてしまった。
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DATE: 2013/03/26(火)   CATEGORY: 未分類
カンボジアとチベットに通底するインド文化
 シェムリアップ編いきまーす。

 インド文化バリバリのアンコール遺跡群が示すように、カンボジアにはまずヒンドゥー教を信仰する王たちが現れ、アンコール朝の最盛期に大乗仏教徒ジャバルマン七世が現れて、どかどか大乗仏教寺院を建てたけど、その後ヒンドゥーが復権し、そのヒンドゥーも15世紀くらいから上座部仏教にとって代わった。ヒンドゥー教も仏教もインド由来の文化であるから、つまりはカンボジアはチベットと同じくインド文化圏なのである。インド文化を介してチベットとカンボジアには文学・宗教思想・価値観などに多くの共通点を見いだせる。
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 たとえばチベットとカンボジアの最初の王はいずれもインドからきた人とされる。

 現在カンボジアの人口の90パーセントをしめるクメール人は、西暦前後に今のカンボジアにあたる地域に存在していたフナン(A.D.一世紀-550)を自らの起源とする。フナンの建国神話によると、カウンディニヤという名前のインドのバラモンが、東方に向かって船出するように精霊に告げられ、航海のはてにカンボジアの岸にたどりつき、そこにいた美しい龍(ナーガ)の娘と結婚した。二人の間に生まれた子供がフナンの初代王である。これはインドから渡来した文化が土着民(龍王の娘)を啓発して国家を誕生させたという事実を物語化したものであろう。
 
 一方、『カチェム=カクルマ』などのチベットの年代記においても、初代チベット王はインドからの渡来人である。一説には初代チベット王の出自は、インドの叙事詩『マハーバーラタ』に描かれる百王軍の一人。百王とパーンドゥの五王子の最終戦争の結果、百王が負け、そのうち一人が女装してチベットの地に敗走し初代チベット王ニャーティ・ツェンポになったという。ついでにいえばチベットの一般人の起源も、インドからきた菩薩の猿とチベットの岩猿との結婚に求められているので、上から下まで父方はインド起源ということになる。

 ちなみに、ガイドさんによるとカンボジア人は神話で自民族を「赤い顔の民」というそうだが、チベットも別名「赤い顔の人」(gdong dmar can)というので、このあたりも不思議なシンクロをしている。

 カンボジアに話を戻そう。最初の国家フナンは西暦550年頃、メコン川の洪水により弱体化し、同じくフナン王の傍系で現在のラオス国境あたりにいたチェンラ人(カンボジア人)がフナンの首都を陥落させた。その後混乱が続くも、802年頃に現れたジャヤバルマン二世は、ジャワからの独立を宣言すると、自らをヒンドゥー三大神のうち破壊神シヴァに神格化させ王権を確立した。神王(God King)による統治である。有名なアンコールワットもスールヤ・バルマン二世(1113-50)王をヴィシュヌ神の化身として祀るヒンドゥー寺院である。

 アンコールワットはフランス人の宣教師アンリ・ムオーによってジャングルの中から「発見」されたと言われるが、元朝時代、周達観が訪れて有名な『真臘風土記』を書いているし、江戸時代初期に日本の森本さんもここを訪れて祇園精舎と勘違いしている。また、大回廊部分はジャングルに埋もれず、仏教徒の参拝者が途切れなかっため、現地の人はむろんこの遺跡の存在を知っていた。だからアンリ・ムオーはアンコールワットを「発見」したというよりゃ、最初に西洋に紹介した人というのが正確。

 アンコールワットの大回廊には、インドの叙事詩『ラーマーヤナ』『マハーバラタ』のクライマックスの戦争シーンや乳海撹拌神話など、インド神話の定番が壮大なスケールで刻まれている。この二大叙事詩の内容はむろんチベットでもよく知られている。

 そして、アンコール王朝最盛期に現れたのが、ジャヤバルマン七世(1181-1219)である。この人は大乗仏教を信奉し、大乗の精神に則って広く人々を救うため慈善事業を行い、たくさんの仏教寺院をたてた。ガイドさんによると、カンボジアで今も最も人気のある王だという。言われてみれば、確かに彼の名を冠した公共施設が目につく。

 で、このジャバルマン七世が建てたのが、アンコール・トム(王都)の中核をなす観音の寺バイヨン、母のためにたてたタ・プローム、父の偉業を称えて作った僧院プリヤ・カーン、ミニバイヨンとして知られるバンテアイ・グティ、ニュック・ポアンなどである。ジャヤバルマン7世はアンコール王朝最盛期の王であるため、これらの仏教遺跡はみな壮麗である。

 中でもバイヨンは圧巻。51本もの塔がそびえ立ち、各塔の東西南北の面には一つ一つ観音の顔が刻まれている。つまり、この遺跡は今までのヒンドゥー寺院の大乗仏教版で、ジャヤバルマンを観音菩薩の化身としてあがめる聖地であった。ちょっとチベットをかじったことのある人なら、このバイヨン遺跡に立てば、チベットのマンダラやギャンツェのペンコルチューデとの親近感じることができよう。
アンコール見取り図

 ダライラマ14世が観音菩薩の化身と言われていることからも分かるように、チベットには高僧や聖王はみな観音の化身との歴史観がある。この思想はじつは12-13世紀頃から文献に記され始めるので、見事にジャヤバルマン14世の時代とかぶっている。チベットとカンボジアは同時代に南アジアに広く流行していた観音信仰をそれぞれ北と南で共有していたのである。

 観音は大乗仏教を代表する菩薩である。大乗仏教のエッセンスとは、「すべての命あるものを偏りのない慈悲心によって救おう」という菩薩の誓いにある(つまり、好きな人は救うけど、嫌いな人は救わないとかいうのでなく、あらゆる命あるものを平等に愛し哀れむこと)。観音菩薩はとくにこの救済の能力に優れた菩薩であり、時間・空間をこえて大量の衆生を救うパワーを示すため、千手千眼などの姿で表現される。無数の観音の顔が睥睨するバイヨン遺跡も、この観音の救済力を示しているのは明か。
 
 ところが今、ジャヤバルマンの建てた僧院を訪れても遺跡の中に仏の姿はない。たまにあっても顔が削り取られていたり、首を切り取られている。そして柱に刻まれた立て膝・長髪のヨーガ行者をよくみると、結跏趺坐をする仏様の姿を上書きしたものである。また、かつて大乗の仏菩薩が祀られていた僧院の中心点には、シヴァを象徴するリンガ(シヴァ神の男性器の象徴)が祀られている・・・。

 どうしてこうなったのかというと、七世の死後四半世紀くらいして即位したジャヤバルマン八世がヒンドゥー教徒であり、仏教徒である七世の偉業をすべて否定したから。

 仏像の破壊に手を下したのはヒンドゥー教徒の王だけではない。一般の民衆は、じつは今にいたるまで恒常的に遺跡の破壊を行ってきた。「遺跡には金が埋まっている」という噂がたちゃ遺跡を掘り返し、石と石を繋ぐ鉄製の金具が欲しいといっては石組みを壊し、骨董品として売買するために仏の顔をけずったりもした。このような人々は寺院に対しても仏に対しても恐れの気持ちも崇拝の気持ちも当然ない。この人たちは遺跡の近くに住んでいても、アンコール文明をつくりあげた人々とは遠く離れたところにいる。

 はっきりいえば、今のカンボジア人にアンコール文明を築いた人々の心性との連続性ははみいだしづらい。

 昨年カンボジアを訪れた観光客の数は300万人である。当然、多くの人が観光業に携わっているから、アンコールワットは彼らにとって大事で特別な存在である。しかしそれはあくまでも商売のネタというだけで、そこに祀られている神々や王を尊敬して大事にしているわけではない。

 象徴的な言動はわれわれのガイドさんの口からも聞けた。アンコールワットの大回廊で天人(神)と阿修羅の戦闘シーンを解説している時、彼は我々にこう言った。

 「私はねカミサマを信じていません。カミサマは人間がどんなに困っていたって見ているだけ。いろいろお供えしなきゃお願い聞いてくれない。」

 確かに、ヒンドゥー教においては神は供養(プジャ)して願いごとをする。また、ガイドさんによると今のカンボジアの仏教もヒンドゥー化していて、現世の頼みごとを仏様にしているだけで、仏教の修行をするためにお寺を訪れる人はまれだという。

 ガイドさんの神や仏に対する不信感を聞いていると、キリング・フィールドに「マジック・ツリー」という木があったことを思い出した。その木の前にたってオーディオをつけると、「この木は菩提樹といい、仏がその下で悟りを開いた聖なる樹木です。この木にはポルポト時代拡声器がとりつけられており、革命歌を流したり朝礼の音楽を流したりしてしていました。それはこの場所では処刑ではなく普通の集団生活が行われているかのように外部の人にたいして偽装するためでした」という解説が流れた。
 
 あの地獄のポルポト時代、処刑されていく人はこの菩提樹を見ながら、自分が殺されようというのに、神も仏も何もしてくれないと思っていたのかもしれない。今のカンボジア人の神仏に対する不信はポルポト時代の地獄が生み出したもののような気がする。

 しかし、人と仏の関係は、人がお願いして仏が救済してくださるといった単純な関係ではない。仏様はそれに近づくために努力する目標であっても、われわれのいいように使えるような対象ではない。お釈迦様が自分の生まれた国がコーサラに滅ぼされるのを見送ったというエピソードが示すように、仏教の真理は世俗の事がらとは別次元にある。涅槃や解脱の側から世俗に近寄ってくることはなく、世俗の側から近づいていくしかない。人が世俗の自我意識(オレがオレがという意識)を克服し、利他の心をもって初めて、近づくことができるのである。利他の菩薩行ぬきで、ただ「自分を助けてくれ」と叫んでもその叫びはどこにも届かない。

 ポルポトの地獄は仏様や神様を否定した不信の社会から生まれたものだ。「殺すなかれ」を説く知識人や聖職者が存在する社会には、惨劇はおきない。利他の気持ちが消えた時に、地獄が生まれたのだ。

 カンボジアに二年お住まいのAさんはこういっていた。「聖職者が消えた後に、虐殺が起きました。私が知らないだけかもしれませんが、今のカンボジアには、心をうつような話をする僧はいません。カンボジアの人と仲良くなっても、「お金持ちになりたい」とかいう話ばかりで、何かチベット人のような深みのある話がきけないんですよ」とのこと。
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 ポルポト以後のカンボジアはそれ以前の社会と断絶し、今のカンボジアの人たちインド文化に帰依した先人たちとは異なるものとなってしまつた。今のカンボジアはむしろチベットよりも日本により近いだろう。日本も敗戦とそれに伴う焦土化で、古い社会とのつながりを完全に失いモラルの崩壊と宗教心の消滅を経験し、物質主義一辺倒となった。ワビサビ、茶道・華道などのスタイリッシュな日本文化に憧れて、日本にやってきた外人は今の普通の日本人と話をしても、伝統と何の連続性もみいだせずがっかりすることだろう。

 さてそれでは、以下に自分のめぐったアンコール遺跡群の備忘メモ。

●バイヨン(12末)ジャヤバルマン7世。マンダラ状の建物であり、中央の本尊にむけて東西南北が四通している。その間に小部屋があり、上からみると法輪状に部屋が配置されている。

●パプーオン1060年頃、寺までは地上から数メートルの欄干の上にしつらえられた桟橋状の参道を歩く。学生Iくんは「この欄干をもって帰りたい」と心酔していた。パプーオンのてっぺんには蓮が花開いていて、ステキ。

●象のテラス 12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立。ガイドさんによると、アンコール・トムを作るために石を運んだ象を顕彰しているとのこと。

●クリアン 11世紀初、ジャヤーヴァルマン5世、スーリヤヴァルマン1世建立、ヒンドゥー教。

● バンテアイ・グティ  12世紀末、ジャヤーヴァルマン7世建立。あたかもミニ・アンコールワット。上智大学が井戸をほっているうちに、首のない仏様多数をみつける。ジャヤバルマン七世の息子による仏教弾圧の結果。イオンがこの博物館をつくって国王に寄進したとか。

● プレ・ループ : 961年、ラージェンドラヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)の寺院。アンコール遺跡群は古層のものはレンガ作りで、後にラテライトに移行する。ここは古いレンガ作り。王家の火葬場であり、焼き場となった部屋と焼き上がった骨をココナッツミルクで洗う場所がある。洗骨の習慣って南方系だわ。

● 東メボン  952年、ラージェンドラヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)の寺院。ここは昔は東バライ(貯水池)の中にある島で、船でわたって祭りをやる場所だった。建物の四角に象がいる。遺跡はかつてしっくいに覆われていた。しかし漆喰は全部はがれおち、漆喰をとめるための穴がぼこぼこ残っている。

● ニャック・ポアン ジャヤーヴァルマン7世建立、仏教(観音菩薩)。観音菩薩の化身した馬バラーハを祀る。中央の山を中心に東西南北四つの池があり、その四池はそれぞれ中央の池から馬(風)・人(水)・象(土)・獅子(火) の口からそれぞれ流れでる水によって作られている。ガイドによると、昔は病気になるとその病気の性質により、それに応じた池の水を飲んだという。二年前のタイ水害の時、ここは水につかり、なかなか水がひかないため観光禁止になっていた。最近、遺跡の全体が見える位置まではいけるようになったがまだ中には入れない。

●プリヤ・カーン : 1191年、ジャヤーヴァルマン7世建立。チャンパとの激戦地後に建てた僧院大学。中央にはジャヤバルマンの父王の骨をおさめたストゥーパが君臨し、父王は世自在(観音)として祀られている。

● タ・ケウ1000年頃、ジャヤーヴァルマン5世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。王の死去のために未完成のまま。石の角がよくのこっている。
胡錦涛がカンボジアにきた際に、この遺跡の修復代をだすことを宣言し、中国の国威発揚の場となっている。しかし素朴な疑問なのだが、中国は自国内の文化財をつい近年文化大革命に破壊し、その後も修復を適当にしたため国際機な批判にさらされているのに、他国の文化財を復元する能力はあるのだろうか。

● タ・プローム 1186年、ジャヤーヴァルマン7世が母に捧げた寺。母般若波羅蜜多菩薩として祀られている。ここはインドが国威発揚して遺跡の修復にあたっている。


●ベンメリア 12世紀、おそらくスーリヤヴァルマン2世建立、ヒンドゥー教(ヴィシュヌ)。ここはまだ修復をしていないので、発見された直後の遺跡の状態を知るにはいい。足場がめちゃめちゃに悪く、ねんざとこぶに注意(わたしは両方やった。次の日マッサージでそこを揉まれて飛び上がった)。ガイドが「ラピュタ」「ラピュタ」というのでついていくと、本当にラピュタな場所があった。二年前には訪れるものも少ない遺跡だったが、今は中国人観光客で一杯。

●バンテアイ・スレイ 967年、ラージェンドラヴァルマン2世、ジャヤーヴァルマン5世建立、ヒンドゥー教(シヴァ)。
 アンドレ・マルローがここから天女像を盗んでプノンペンの刑務所にはいったのは有名。天女像はもとの位置に戻すことを条件に半年後に釈放された。この時の体験を彼は「王道」という小説にしている。小説ではこの遺跡は密林に囲まれてるのに、実際いってみたら水牛がのどかにみずにつかる平原の中にあって、ムードなし。マルローの天女像より膝をついて合掌するガルーダ像の方が逸品である。

※ 私はカンボジア史は素人なので、カンボジアの歴史や考古については原典に基づいて裏を取っていません。そこのところよろしくお願いします。
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DATE: 2013/03/20(水)   CATEGORY: 未分類
カンボジアのポルポト史跡
 今年はカンボジア独立60周年、日本とカンボジアの外交樹立も60周年。また、アンコールトムの中核をなす12世紀の遺跡、バイヨンは観音菩薩に捧げられた大乗仏教の寺院であり、同時代のチベットの観音信仰ともリンクしていることから、今年の卒業旅行の目的地はカンボジアとなった。

 日本からカンボジアにいく時どこで乗り継ぐかによってフライト料金は様々であるが、学生を苦しめないために、その時の底値の東方航空を使った。そしたら、安いだけのことはあって、上海の乗り継ぎでは三時間から四時間の待ち時間があり、映画サービスもなく、帰国便の座席に毛布がおいてなかったため、お手洗いにたったついでに中国人のCAに毛布を所望したところ、CA、あたりをみまわして、自分のお尻の下にある毛布を手渡してくれるという素晴らしいサービスであった。しかし、安いし中国なので最初から期待していないので腹も立たない。成田発が強風で二時間以上遅れたので乗り継ぎ三時間もモーマンタイ。

 プノンペン初日

 午前は、日本のNGOのFIDRの事業を見学させていただく。そこで聞いたお話。ポルポトが僧侶、知識人、技術者を殺しまくったため、ポルポト政権が崩壊した後、カンボジアに医者はたった20人しかいなかった。海外に留学中だったり、身分を隠し通したりして生き残ったたった20人である。
 当時のカンボジアには当然、子供に特化した医療や、病気にあわせた食事をつくるなどという概念がなかったところ、FIDRはカンボジアではじめて国立の小児病院をつくり、病院給食を開始したとのこと。

 ここで、カンボジアにおける日本の存在感について簡単にふれる。

 私たちが訪れた外科病棟は日本の援助によってたったものである。にも関わらず〔例によって〕日本を想起させるものは何もない。一方、その向かいの病棟には韓国の名前がバリバリ掲げられていて、カンボジア唯一の高層ビルもヒュンダイだし、帰りのプノンペン空港にもそろいの制服で韓国に働きにいく労働者集団がいたりして、韓国の存在感はかなり感じた。

 また、中国の存在感については、アンコール・エアラインの機内誌からプノンペン・ポストに至るまで、中国様をあがめる記事が多数あり、カンボジア的には中国の投資を歓迎している模様。後に訪れたアンコールワットでも、大型バスでのりつける観光客は圧倒的に中国人と韓国人。日本人観光客はいるにはいるけど、夫婦とか、少人数でガイドさんつれて移動する静かな旅行で、あのい×ごの群のようなパワーは全然ない。

  まあお金持ちのカンボジア人は〔平地しかないのに〕四駆のレクサスとかのっているし、アンコール遺跡の保存に上智大やイオンがかかわっているし、イオンの植林事業の看板もあったし、どこにいっても「アジノモト(日本人)」と言われるので(笑)、日本が空気になったわけではない。日本は全体大人な存在感をもっていると言えよう。

 FIDRの見学のあとは、トゥールスレン博物館に行く。ここはポルポト時代に諜報機関の収容所であり、ここに送り込まれた知識人や技術者や軍人や役人たちは凄惨な拷問をうけ、友人や家族の名をスパイとしてしるした供述書にサインをさせられ、その後殺された。その供述に基づいてまた別の誰かが逮捕されてここに引き立てられて殺されるのである。
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 パンフレットによると、文書で裏付けられる囚人数は、ポルポト支配の四年間で以下の人数に及ぶという。

 1975年 154人
 1976年 2250人
 1977年 2350人
 1978年 5765人
 
 建物の部屋には当時の独房や拷問部屋や拷問用具や殺されたひとたちの白骨がそのまま展示されており、そこで殺された人たちのファイルや(女の人の髪型が中国の文革時代の紅衛兵と全く同じなのが印象的)、ポルポト派の幹部四人(現在国際法廷で審理中。『自分悪くない』と主張しているという)の履歴などが展示されている。

 中庭には白い石棺のモニュメントがある。これはベトナム軍が解放した時に所内にころがっていた、13体の遺体を象徴したもの。そしてたった七人だけ生存者がみつかった。このうちポルポトの画家をしていたために生き延びたボウメン(Bou Meng)さんとチュムメイ(chum mey)さんのお二人が、中庭で自著を販売していた。本を買うとサインしてくださり、記念撮影にも気軽に応じてくれた。クメール語ができたなら、体験談とかを直接伺えたかも。
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 午後は、その収容所から送られた人々が殺され、埋められた場所、チュンエク・大量虐殺センターに行く。トゥールスレンからここにうつされた人たちはまず自分たちの埋められる穴を掘らされて、一日から三日以内に喉をかききられたり、斧で叩き殺されたりして殺された。クメール共産党にとって銃弾はあまりにも高価であったため、殺戮の道具は普通の農耕機具なのである。
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 境内には遺体をとり出した後の孔がいくつもあき、とり出された大量の遺骨は中央にある納骨堂に納められている。この納骨堂がガラス張りなので、ドクロタワーの趣を呈している。入り口でイヤホンをわたされて、番号にそって機械を操作すると、その地点で行われた凶事を知ることができる。たとえば、ある木の前にたってイヤホンのボタンをおすと、

これはキリング・ツリーです。チュンエクが明るみにでた時、この木には脳漿や頭髪がついていました。かつてこの木は赤ん坊をたたきつけて殺すのに使われていたのです。」とこんな感じ。

 埋葬地は当時の姿を思い起こさせるため、今もあちこちに人骨がころがっており、遺体の服の切れ端も地上に姿をみせている。私は乾期に訪れたが、雨期になるともっとすごいことになるだろう。

 埋葬地の奥には水路があるのだが、
この水路の下にも多くの遺体がありますが、納骨堂が一杯なのでもうそのままにしてあります」みたいなことをイヤホンの中の人がいう。

そして「この道を散策しながら、生存者の証言をお聞きください」と、いろいろな立場の生存者の話が流れてくる。あとで学生に聞くと、それぞれ印象に残った話は違っていた。イヤホンを耳にしてそれぞれがすきな場所ですきな証言を聞けるという、この展示方式が人をきわめて効果的に内省的にしているようである。

 私が一番印象に残った話は、このセンターを作ったユック・チャーンの話。うろ覚えだけど、大体の筋はこんなところ。

 ユックはこの地にきた時14才だったという。同房のおじいさんは、『ユックがここにいるには若すぎる、何もしていないだろう、だしてやれ』とクメール共産党に必死で命ごいをしてくれた。
 結果、ユックは釈放され、おじいさんは殺された。あまりにも執拗にユックの釈放をせがんだからである。

 ユック「私はあの時何が起きたのかわからなかったから、おじいさんの名前も聞いてなかった。しかし、今なら分かる。おじいさんは私の代わりに死んだのだ。もし名前を聞いていたら、おじいさんの家族にお礼を言えたのに。
 私はあの時代でも、死ぬなどと考えていなかった。生き延びて絶対これを告発するんだ、そればかり考えていた。
」ユックは後に母の力でベトナムからアメリカに亡命し、意志を貫いてカンボジア文書記録センターを立ち上げる。

 うん、わかるわかる、その気持ち-。

 そして、トゥールスレンのような収容所も、このような遺体の埋葬地も、ここだけではなくカンボジア全土にある。カンボジアを歩いていると、お年寄りの姿が本当に少ないことにすぐ気づく。上の世代がとれほど徹底的に殺されたのかもう体感でわかる。

 50才より上の人をみると、彼らが生きているのは●×であったか、ポルポト派だったかと考え、後者であるとするとひょっとするとこの人は過去に人を殺しているかもしれない、とつい考えてしまう。実は中国で文革で暴れ回った世代の人たちにも同じような感覚を感じることがある。この人は「国民党だ、外国人だ、資本家だ、反革命だ」とかつては叫んでいたのだろうかと。
 
 このような虐殺がポルポト派を原因としていることは自明であるが、殺人の実行者は一人一人の人間である。ある一つの思考にこだわる人々が、その思考に基づいて敵・味方のレッテルをつくり、敵レッテルをはった人間を組織的に排除していく。これはどこの国でも、どんな民族においても、どんなイデオロギーの下でも起こりうることだ。

 なので、ポルポトの虐殺も中国の文革も中国が今行っているチベット政策も、みなレッテル貼りの狂気という共通の構造を持つ。レッテルをはった対象に対する憎悪と排除だ。

ダライラマ法王が、「すべての愚行のもとには煩悩=分別智=レッテルを貼る意識、がある。従って,一人一人が心の武装解除を行い、慈悲心を持つことによって、あらゆる人間の争いはやむ。なので〔人格〕教育は大切だ」と説かれていることは誠に真理である。

 なので、そのことを実感するためにもこの地には多くのひとが足をむけて内省してほしいところだが、チュンエク虐殺センターを訪れているのは、課外学習と思われるカンボジア人の学生と白人ばかりであった。中国人・韓国人・日本人もみなここにきて、自分も含めて普通の人がいかに愚かなことをしでかすものなのか、また、その愚かな事が自分の身にもふりかかりうることを感じた方がいい。

 ちなみに帰国した翌日チベット語の勉強会があり、人が人を殺すことについて論じているうちに「被害者であること、弱者であることは、道徳的な善とイコールではない。にもかかわらず、『自分はひどいめにあったから、自分は悪くない』と自分が加害者であること、また加害者になりうることを忘れている人が多い。〔日本人も含めて〕アジアには自分を弱者認定することによって、あらゆる責任を回避する傾向がある」という話がでた。

 トゥールスレンやチュンエクにアジアの観光客の姿が目立たないのも、そのあたりが関係しているのかとも思った。

 夕食はポルポト時代直前まで外国人記者クラブが入っていたFCCレストランで食事をする。映画『キリング・フィールド』でシドニー・シャンバークがたまっていたリアル記者クラブの建物である。

 一夜あけて、学生たちはとくに悪夢をみた気配もなく、ほっとする。しかしIくんが「先生これ」と差し出した新聞にはなんと、イェン・サリ(ポルポト幹部四人組の一人)の死去を告げる記事が一面にあった。彼が死んだ調度その日にわたしたちはキリング・フィールドいたのだ。
 
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DATE: 2013/03/08(金)   CATEGORY: 未分類
春のチベット案内
春のチベット関連のイベントならびに講座のお知らせ。告知ごとに解説があります。それも読んでね!

●今週の日曜日3月10日は54回目のチベット蜂起記念日。54年前のこの日、ダライラマ法王をまもるためにチベット人が蜂起し、法王インド亡命の契機となった。今年は焼身抗議者に哀悼の意を表して、スピーチはあるもののコールなしの静かなマーチになるそうな。世の中はデモでの表現が過激化がしていく中で、チベットは相変わらず大人しい。いつもチベット・イベントに会場を提供してくださっている護国寺様では同日震災慰霊法要が行われます。こちらにもチベット僧のゲンギャウ、チャンパ両先生が参加されますので、みなさんはしごでおでかけください。

●サヤマプロジェクト寄付講座「チベット密教の基礎構造〜チベット人は即身成仏をどう考えたか〜」 
講師: 平岡宏一(清風学園専務理事・清風中学校高等学校校長、Samayaプロジェクト21理事)
会場: 種智院大学
日時: 4月10日(水)から、毎週水曜日4:20〜5:50 全15回
申し込み・問い合わせ先は 07-5604-5600 種智院大学教務課 
主宰者のHPはこちら


●二つめのご案内は、平岡先生が種智院大学で行われる連続講座。平岡センセは高野山真言宗の伝統ある檀家の家系にお生まれになり、生まれながらにお大師様ラブであると同時に、真言宗と共通点のあるチベット密教をも専門に学び・実習されている。密教を多角的な側面から学ぶにはよい機会なのでお近くの方どうぞ。はい次は↓

雪の国(チベット)の仏教と歴史
講師: 石濱裕美子 早稲田大学 教育・総合科学学術院教授
日程:2013年4月13日〜 毎週土曜日 13:00〜14:30 全10回
主宰・会場:早稲田大学エクステンションセンター
講義内容:
第1回 世界の屋根チベット(地理と歴史)
第2回 チベット仏教を特徴づける菩薩思想と転生制度
第3回 民族をこえるダライラマの権威(17世紀〜21世紀)
第4回 モンゴルのダライラマ、ジェブツンダンパ(17世紀〜)
第5回 ダライラマと清朝皇帝の関係の実態(18世紀)
第6回 壊れゆく伝統的な民族関係(19世紀)
第7回 周辺民族の植民地化に舵を切った清朝(1906年〜)
第8回 独立モンゴルの君主ジェブツンダンパ8世(1911年)
第9回 1913年のダライラマ13世の自立の布告(1913年2月13日)
第10回 チベットの対外関係---蒙蔵条約(1913年1月11日)とシムラ会議(1913年〜)--
3月11日よりこちらからお申し込みになれます。


●三つめのご案内は、自分が四月から行うチベット自立布告・百周年を記念した連続十回講義です。中国の隣にいながらいまなお中華にのみこまれていないチベットとモンゴル、その歴史と文化について楽しく語ります。こちらの方は3/11日よりここから申し込みができるように。
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DATE: 2013/03/02(土)   CATEGORY: 未分類
キリング・フィールド
 ここのところあの悪名高いポルポト時代(1975-1980)の日本での報道のされ方が、チベットの場合とかなり似ていたことに気づき、身につまされている。なので思ったことを備忘に記しておく。

 まず、ポルポトって誰? という幸せな人のために簡単に説明。ポルポトは一言でいえばカンボジア共産党の長。彼は都市の住民を嫌い、資本主義を憎み、首都プノンペンを陥落させると、貨幣制度を廃止し、都市の住民を追いだして農村に送りこんで強制労働に従事させた。さらに知識人は体制に批判的ということでみつけ次第殺害。外国人、元教師、元役人、元軍人、果ては、色が白くて美人だと中国系=有産者階級ということで、美人まで殺された。

 ポルポトは隣国ベトナムに対して挑発的な軍事行動を繰り返し、ベトナムが攻めてくると、食料を中国に送って代わりに武器を買ったため、国民は飢えた。空腹な人々は虫でも草でも何でも口にいれたため、餓死はムロンのこと、食中毒や腸チフスで命を落とすものも多かった。虐殺や飢えで親を失った子供たちは少年兵としてキャンプに集められ、毎日「〔ベトナム人を〕殺せ、殺せ」のスローガンを叫ばされ洗脳された。少年兵になることによって生き延びた人々は、今五十才前後になっているはずである。

 ポルポト率いるクメール共産党がカンボジアを支配したわずか四年の間に、カンボジアの人口は半分あるいは三割が死んだ。当時カンボジアにいた七人の日本人のうち、脱出に失敗した五人は死んでいる。カンボジアの人口構成を見ると、若い世代が多く、ある世代がごっそりぬけおちて、年寄り世代が極端に少ない。今の日本の人口ピラミッドのほぼ逆である。

 この抜け落ちた世代は、むろんポルポト期に生まれるはずだった子供たちである。栄養的にも精神的にも女性が子供を産めるような状況ではなかった。また年寄りが少ないのは、洗脳が難しく反抗しやすい大人が、重点的に殺されたからである。

 ポルポトの事績は今でこそよく知られているものの、それが起きた当初は文化大革命同様、擁護する人が多数いたらしい。たとえば、朝日の記者である本多×一はポルポトの虐殺について述べる人を罵詈雑言で批判し、否定しようがなくなると批判側に回ったという。さらに、1984年にプノンペンから脱出したニューヨーク・タイムズの記者シドニー・シャンバーグ(Sydney Schanberg)の体験が『キリング・フィールド』で映画化されると、月刊『潮』に「無知な人々だけが感激する『キリングフィールド』」という一文を寄せ、この映画を「西洋人の視点」とこきおろした。

 これに対して、プノンペンに駐在経験があり、かつ、ポルポト敗走直後のプノンペンに入った同じく朝日の井川一久記者は、「ここに描かれていることは自分の体験とも一致する。事実である」と以下のように断言した。

 かつてのカンボジアは、世界でもっとも豊かな農業国の一つだった。1960年代のこの国を、そのころ国家元首だったシアヌーク現国王は「生きる喜びの国」と呼び、欧米のマスーメディアは「インドシナの平和のオアシス」と呼んでいた。

 その楽園は、しかし70〜75年の戦乱で半ば壊され、75〜78年のポルーポト独裁時代に完全に失われた。私は79年と80年にこの国で何度も目撃した光景を、20年後の今でもしばしば夢に見る。

 炎天下の荒地に直径3〜4メートルの穴が並び、穴の一つ一つに数十体の白骨または腐乱死体が、緑色の汚水にひたされて詰まっている。猛烈な臭気。地面に散らばる死者たちの衣類。ふと濯木の茂みを見上げると、人間の毛髪だけでできた小鳥の巣が……

 私の訪れた村々には、たいていこういう大量殺害・埋葬地があった。町村の多くは消滅し、人々は飢え、病み、疲れ果てていた。そして誰もが家族の非業の死を語るのだった。

 ポル・ポト時代のカンボジアは、全土が血と涙にまみれた地獄だったのである。二〇世紀は空前の流血と破壊の世紀だったが、わずか四年間に総人口の何割かが自国の奇怪な権力装置によって直接間接に殺され、生き残った人々もおおむね心身に深い傷害を負った国は、この時代のカンボジアのほかにない。

 本書はポルポトの地獄を生き抜いた一女性の、痛恨に思いに満ちた体験記である。そこには嘘も誇張もないと断言しておこう。彼女の記述のすべては、私の、また多くの研究者やジャーナリストの調査結果と一致している。


 この文章は『最初に父が殺された』(ルオン・ウン著 / 無名舎、2000年、今はもう絶版だから図書館か古本でどうぞ)の解説として記されたもので、著者のルオン・ウンは、5才でポルポト時代に突入し、母と父と妹を失いながら飢えにさいなまれ、ポルポト時代が終わった後アメリカに移住した。つまり、この体験記も『キリング・フィールド』もカンボジアでおきたこと体験したことの記録であり、「西洋人の視点」が入る余地はないのである。有り体に言えば「事実」である。

 本多×一が映画『キリング・フィールド』を評する際に、シドニーがカンボジア人助手であったブラン一人の救出ばかりに熱心で、あまたのカンボジア人(人民?)を考慮しない、と批判したことに対し、井川氏は「あのような状況でまず自分の知人を救おうとするのは理解できる。当時プノンペンには多くの外国人記者がいて、同じようにカンボジア人の助手や運転手を雇っていた。しかし、日本人記者の自分も含めて、シドニーほど熱意をもってカンボジア人の助手を救出する努力をした人は他にいなかった」と述べている。また、キリング・フィールドに描かれたポルポト時代の惨状は実際の三割程度で、実際はもっとひどいと生存者は口をそろえていっている(幅広い層に見てもらうために映画は残酷表現を押さえたから)。

 また、前述したルオンの体験記についても、生存者たちは「ポルポト時代の自分たちの体験をもっともよく代弁してくれている」とのこと。

 それでは、事実を証言した側(シドニー、ルオン、井川氏)、事実を直視せずにクメール共産党を擁護しようとし、事実を認めた後も西洋人の視点を糾弾し続けた人(×一氏)、どちらの言い分が当時世の中に広く知られていたのであろうか。これが、後者の方が圧倒的に存在感があったのである。わたしがカンボジア史に疎いこともあるのであろうが、この解説を読むまで井川一久記者の存在を知らなかった。一方の本多×一の名前は記憶もできないくらい昔から自然と耳に入っていた。『最初に父が殺された』は失礼ながらタイヘンに小さな出版社からでている一方、×一氏の本は当時大出版社から数々上梓され当時の世論に大きな力をもっていた。これらのことがその存在感の違いを如実に物語っていよう。

 事実に基づいて報道・表現・証言をする人の声は限りなく小さく、一方、自らの主張を通すためには事実の確認すらせず目をつぶろうとする人の方が遙かに声が大きい。

 実はチベットについても事情は同じである。1951年に中国がチベットに侵攻した後、中国政府は世界中から左翼メディアを集めて官製チベット・ツアーを行った。「中国によって解放されたラサ」のイメージを効果的に世界に拡散するためである。これらのジャーナリストたちはその期待にこたえて官製ツアーのルポを自国で出版し、それらはものすごい早さで日本語に翻訳された。

 以下にざっとこの時代のチベット関係書籍をあげよう。ちなみに、カッシスとウィニントンとオフチンコフは、1955年の同じツァーでチベット入りしている。

(a) ヴェ・カッシス『チベット横断記』(1956, ベースボール・マガジン社) ←ソ連の記者。

(b) アラン・ウィニントン『チベット 上・下』(1957 岩波新書) ←イギリスの左翼系新聞Daily Workerの記者。1950年唯一の外国人特派員として北朝鮮側から朝鮮戦争に従軍。板門店会談の終わりまでとどまる。

(c) オフチンニコフ『素顔のチベット』(1959 講談社) ←ソ連共産党の機関誌『プラウダ』の記者で、執筆当時は北京駐在。

(d) A.L.アームストロング(1885-1970)『チベット日記』(1960 岩波新書) ←アメリカの左翼系ジャーナスリスト。著書に『中国人は中国を征服する』(1949)、『中国からの手紙』(1964)、『人民公社は拡がり深まる』 (1959)、『転換期支那』(1928)、『サマルカンドの赤い星 : 中央亜細亜黎明紀行』(1929)、『スターリン時代』(1956)

(e) 高野好久『今日のチベット;新日本新書20』(1966 新日本出版社)←ご存じ赤旗の北京特派員

(f) ハン・スーイン『太陽の都ラサ』(1977 白水社)←1917年生まれ。父は中国人・母は
ベルギー人。21歳で中国に戻り、国民党の青年将校と結婚。しかし国民党の腐敗に気がつき夫と別れ、香港において医療活動に従事する。半自伝的小説『慕情』が1955年に映画化され一躍有名に。晩年は新中国の擁護者として評論活動に邁進。著書に『2001年の中国』(1971)、『不死鳥の国』(1986)、『中国の目・アジアの目』(1971)、『毛沢東』 (1973)、『自伝的中国現代史』(1970)。

 
 以上の出版活動の結果、多田等観・河口慧海・寺本婉雅などの旅行記で形成されていた「ダライラマの統治する仏教国家」というチベット・イメージは一気に、「中国に解放されて喜ぶ未開の民」へと塗り変わった。少し考えれば、征服者による歴史の改ざんに乗せられたことは自明なのであるが、当時それを疑う人はいなかった(ちなみに、チベット人には今本音を話す自由はない。「幸せです」と言わなきゃ投獄)。

 1997年にハインリッヒ・ハラーの体験したチベット最後の日々を映画化した『セブン・イヤーズ・イン・チベット』がでた時も、「知識人」はそれはまあ冷たい態度をとった。当時チベット通と言われていた〔チベット語も読めない〕研究者は、例によってこの映画を「西洋の視点で描かれたもの」とほのめかし、ラサの中国の代表處の官吏の服装が清朝風であることを指摘し、時代考証ができてない=西洋人の視点、という口調で揶揄した。

 あの映画の中国に関する時代考証はずさんである。しかし、それが西洋人の視点には直列しない。日本で「暴れん坊将軍」を映画化する時、既婚の女性の役をする女優さんにお歯黒強要しますか? 服装とかも江戸時代のものをちゃんと着せてますか?  さらにいえば、現在中国国内であまた作られている清朝時代のドラマも時代考証ガン無視。

 つまりある映画で時代考証がなっていないのはスタッフの怠慢を示すものであっても、西洋の視点うんぬんは関係ない。ちなみに、あの映画ではチベット側の服飾とか髪型とかはよく再現されていた(笑)。なんたって、ダライラマの母親役を現ダライラマの実妹が演じるというリアルさだし(笑)。

 で、問題なのは『キリング・フィールド』を揶揄した本多×一にしても『セブン・イヤーズ・イン・チベット』を批判した中国学者にしても、これらの映画のテーマは、一つの伝統ある共同体が、暴力によって破壊されていく悲劇を描いたところにあるのに、その肝腎なところには全く言及していない点である。なのに映画に感動する人を「無知」な人々と揶揄する点も共通している。

 それは現在も続いていて、チベットを研究していると、なぜか右からも左からもアメリカ帝国主義とかレッテルを貼られる。レッテルを貼る人々にとっては、絶対平和主義やナショナリズムが最優先事項であるらしく、レッテルを貼る対象について正確に理解する気は端からない。「このマターは利用できる」と思えば賛成にまわり、不利だと思えば揶揄・批判に向かうだけで、彼らの思考は徹底してパワーバランスに固定している。レッテルを貼る対象の中身は考えたこともない。スルー。

 一方、わたしはその中身を研究しているのである。私がチベット史を研究しているのは、アメリカをまもるためでも、中国を非難するためでもなく、ただ当時の認識に基づいて予断のないチベット史を解明しようとしているだけ。それにレッテル貼られるんだから、まじめな話、最初は批判者が何を言ってるのかすらわからなかった。あまりにも価値観=波長が違いすぎて。

 で、ここで思った。アメリカが嫌いで、中国と手を結ばなきゃと思っているレッテル貼りの人たちも、その反対の主張をするレッテル貼りの人たちも、自分が生きているこの平和な世界を失いたくないという点では共通していますよね。昨日と同じ生活を明日もしたいとおもっていますよね(この世界なんか滅びてしまえと自暴自棄になっている人はここで便宜上省きます 笑)。だとするなら、レッテルをはり、思考停止することをまずやめないと。レッテル貼りという行為自体が、じつはあなたたちが護りたい世界を壊すもの。あらゆる憎悪も戦争もレッテル貼りからはじまるのだから。

 問題を解決するためにレッテルを貼るよりまず先にすることがあるはず。まず、両目をあけて現実・事実を直視すること。現実をみることによって問題を解決するための策もうまれてくるし、そこに自分の才能なり力なりを具体的に注入する道もみえてくる。

 事実(但: 妄想によりゆがめられたのを事実とするのは不可)の正確な把握こそが道を示してくれる。ちなみに、「事実なんて立場によって変わる」という人には、「そこに座れ」と言いたくなるのでまた今度。
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