"禁じられた歌"
ユーチューブにチベット人の女の子、セラ(Serlha)とユラ(Youlha)の歌う綺麗だけれども哀しい曲があがっていました。歌詞に和訳つけてみましたので、泣けます。
冒頭で二人がこの歌を、チベット人ばかりでなく、あらゆる抑圧された人々に捧げていることから、チベット人が自らの国の幸せをいかに普遍的な人々の幸せに結びつけているかを認識してくれたらと。
わたしたちはこの歌を、チベットにいる兄弟姉妹・東トルキスタン・内モンゴル、そして中国の兄弟姉妹に捧げます。私たちはみな非人道的な体制の抑圧と腐敗に苦しんでいます。
私達はよりよい未来を望んでいます。
禁じられた歌
Red stars waving high
赤旗が高く掲げられたなびいている
on the mountains of my land
私達の国の山々の上に
hear my people cry
わが民族の嘆きを聞いてください
sadness in their mind
彼らの心の悲しみを聞いてください。
You feel like a god
銃を手にしたあなたたち(中国人)は
with the gun in your hand
自分を神のように感じている。
sorrow you have brought
あなたたちが私達の平和な国に
to my peaceful land
悲しみをもたらした。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ
stand up for your right
権利のために立ち上がって
Justice will always guide us
正義はいつも私達を導いてくれる
Never lose the light
決して光を見失わないで
Still we sing a song
それでも私達は歌を歌う
A song of love and peace
愛と平和の歌を歌う
Hatred we don't long
憎しみは望んでいない
No more silent tears
これ以上沈黙の涙は見たくない
You may laugh at me
あなたたちは私をあざ笑う
And torture with devils skill
そして悪魔のような手段で拷問する
Never will you see
あなたたちは決して見ることはないでしょう
How you break my will
わたしたちの意志が挫けるのを。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
Justice will always guide us
正義はいつも私たちを導いてくれる。
Never lose the light
決して光を見失わないで。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
Justice will always guide us
正義はいつも私たちを導いてくれる。
Never lose the light
決して光を見失わないで。
Never lose the light
決して光を見失わないで。
冒頭で二人がこの歌を、チベット人ばかりでなく、あらゆる抑圧された人々に捧げていることから、チベット人が自らの国の幸せをいかに普遍的な人々の幸せに結びつけているかを認識してくれたらと。
わたしたちはこの歌を、チベットにいる兄弟姉妹・東トルキスタン・内モンゴル、そして中国の兄弟姉妹に捧げます。私たちはみな非人道的な体制の抑圧と腐敗に苦しんでいます。
私達はよりよい未来を望んでいます。
禁じられた歌
Red stars waving high
赤旗が高く掲げられたなびいている
on the mountains of my land
私達の国の山々の上に
hear my people cry
わが民族の嘆きを聞いてください
sadness in their mind
彼らの心の悲しみを聞いてください。
You feel like a god
銃を手にしたあなたたち(中国人)は
with the gun in your hand
自分を神のように感じている。
sorrow you have brought
あなたたちが私達の平和な国に
to my peaceful land
悲しみをもたらした。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ
stand up for your right
権利のために立ち上がって
Justice will always guide us
正義はいつも私達を導いてくれる
Never lose the light
決して光を見失わないで
Still we sing a song
それでも私達は歌を歌う
A song of love and peace
愛と平和の歌を歌う
Hatred we don't long
憎しみは望んでいない
No more silent tears
これ以上沈黙の涙は見たくない
You may laugh at me
あなたたちは私をあざ笑う
And torture with devils skill
そして悪魔のような手段で拷問する
Never will you see
あなたたちは決して見ることはないでしょう
How you break my will
わたしたちの意志が挫けるのを。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
Justice will always guide us
正義はいつも私たちを導いてくれる。
Never lose the light
決して光を見失わないで。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
brothers and sisters
兄弟たちよ、姉妹たちよ。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
stand up for your right
権利のために立ち上がって。
Justice will always guide us
正義はいつも私たちを導いてくれる。
Never lose the light
決して光を見失わないで。
Never lose the light
決して光を見失わないで。
バレンタインとチベット・イベント
バレンタインの日、新宿のチベット・イベント(Independence 100)で講演した。バレンタインは、日本では女性から男性にチョコを贈って愛を告白する日となっているが、本来は友情を確かめ合う日。そういった意味ではバレンタインの日にチベット・イベントを行ったのは正解である。全国から集まってきた人たちが友情を確認していた。
私の場合、まず、朝、TCPのIさんからチベット暦新年のおめでとうカードを頂戴した。孤児院の子供たちの手書きの絵と、Iさんの私を気遣ってくれるきれいな手書きの文章に非常に感動する(自分Iさんに比べたら何もやってませんて)。また、今回のイベントに学生がボランティアにきてくれたことも嬉しかった。このイベントのために博多からかけつけて下さった司会のOさんからも「博多通りもん」を頂く。若手研究者たちとOさんの德を讃えながら頂きます。
またはじめての方ともお会いし(何と淡路島石濱一族のお一人も出現)、なじみの方からも様々なプレゼントを頂戴した。はまオカメさんからは「黒い媚薬」(笑)というチョコとインコ柄紙袋、MIさんからはロクシタンのハンドクリームとDebailleulのチョコレート、そして、インド(おそらくはダラムサラ)に行かれたKさんからは、ソーラー・マニ車(キター)、インド紅茶(ニルギリ)、木製のインコの置物とインコ鉛筆でした。少し前までは、花束とか女性的な贈り物を下さる方もいたような気がするが、最近内容が男性化してきているような気がするのはきっと気のせい。

会場は新宿から一駅の初台が最寄り駅なので、新宿から各停の京王線にのった。しかしなぜか一駅目が笹塚なので慌てておりると、じつは京王線ではなく京王新線にのらねばならなかったことが判明。その後もふらふら迷いながら会場につくと、「センセー何してたんですか」と呆れられ、ケータイを見ると着信の嵐。
ケータイの画面をみせて笑ってごまかす。
例によってイベントのレポートをあげます。
冒頭はSFT代表のツェリンドルジェの挨拶。たどたどしい日本語で「みなさんのお時間を使ってくださりありがとうございます。昨日、抗議の焼身自殺が100名に達しました。ネパールでも一人焼身者があらたに出ました」と暗い挨拶。次がダライラマ法王事務所ラクパ代表の挨拶。次は、三人のチベットの女子学生による「高位の方の即位を祝う舞」。三人の女性の装束はチベットを構成するカム(東チベット)ウ・ツァン(中央チベット)・アムド(東北チベット)のそれぞれの装いであり、つまり、全チベットが祝福するという意味の舞。
そのあと、アルピニストの野口健氏スピーチ。手書きメモ帳からの復元なので細かい表現の相異はあるかもしれないが、大意ははずしてないと思う。
僕は2001年にはじめてチベットに入りました。山の中で二ヶ月間お風呂にも入れない生活を続けた後、ラサにつくと、そこは想像した以上の近代都市で、暖かいお風呂にも入れて快適だった。そこで家に帰って父(お父上は外交官)に「ラサは楽しかった」、というと、父は「お前中国に騙されたな。中国はチベット人に便利な生活を与えて、元に戻れないようにして、チベット人の中から独立なんて声があがらないようにしているんだ。かつて〔敗戦国の〕日本にアメリカがしたことと同じことをしているんだ」と言われたんです。
こうして僕は、ものごとにA面があればB面があるように、チベットのB面にも目を向けるようになりました。それからチベットに入るたびに、町が激変していくのに気づきました。伝統的なチベット建築がつらなる路地裏はどんどん壊されて、近代的な建物に変わっていきます。
ヤクを使う人たちと仲良くなり、心を許してくれると、彼らはいろいろなことを話してくれました。
ヤク使いたちは「中国人の監視も怖いが、何が怖いかといって自分たちの子供が怖い」と言います。彼らの子供は学校に入り、中国人の教師に洗脳されると、親が家の中に飾ってあるダライラマ法王の写真などを当局に密告するとのこと。親達は「〔家族が信じられないのなら〕もう何を信じていいのか分からない」と。
僕が最後にチベットに入ったのは北京オリンピックの前年の2007年でした。チョモランマ(エベレストのチベット名)のベースキャンプに入って目を疑いました。道は舗装され、ホテルや民宿などの宿がたちならび、女の人と遊ぶ店までが建ち並んでいました。それを中国人たちは
「来年は中国でオリンピックをやり、その時聖火リレーがこのチョモランマの頂上にもいく。世界中からマスコミがくるだろうから、発展した中国の姿をみせるのだ。すばらしいだろう」
と誇らしげにいうんです。僕はヒマラヤの清掃活動に携わってきましたが、〔彼らにはヒマラヤの自然を保護するとかの概念まったくなく〕ゴミ問題以前のそのズレた感覚に驚きました。
チョモランマのベース・キャンプには立派な公安の詰め所がたち、外国からくる登山隊に厳しい監視を行っていました。2004年、ナンパ峠を越えて亡命するチベット人を中国の国境警備隊が次々と射殺する光景を、ジョーオユーに上ろうとしていたルーマニア人の登山家が、偶然フィルムに収めました。その映像がユーチューブにアップされた時、ボクは「ああこれでやっと中国がチベットに対して行っている非道を、ごく一部だけど世界が目にすることになる。これで少しは中国もチベット人に対して露骨な迫害はやめるだろう」と思いました。
ところが状況はもっと悪くなりました。ベースキャンプでの公安の監視はいっそう厳しくなり、政治的な話はダメ、また荷物を検査してそこにフリー・チベット旗とかでてきたりすると、その人はどこかへ連れて行かれます。とあるアメリカ人が〔政治的な話をしてはだめというので〕フリーチベットと紙に書いて無言で公安にみせたら、その人はどこかへ連れて行かれました。僕は「あれはやりすぎだろう」というと、シェルパたちは
「ケン、黙れ。そんなこといったら、お前も捕まるぞ」と言われたんで、僕はすぐに黙りました(笑)。
そして2008年のオリンピックの年にチベット人が暴動を起こしました。それを見て、「ああ、ついに彼らは立ち上がったのか。オリンピックで中国に注目が集まっている機会をとらえて、命をすてて立ち上がったんだ」と思いました。チベット人が政府を批判するのは命がけです。知覧から飛び立つ特攻隊員みたいな覚悟を決めていたのでしょう。日本みたいにデモをやろうが、政府をギャーギャー批判しようが、何の危険もない国じゃないんです。
〔チベット人が命をかけて立ち上がったにも関わらず、〕驚いたことに世界は変わりませんでした。ニュースの解説員もチベット問題について何もふれず、日本の野球の監督(星野監督)は「聖火リレーを走れて光栄です」とまで言いました。そして何事もなかったかのようにオリンピックは開催され、どの国もボイコットすることなく開会式が開かれました。僕はあの時世界がチベット問題をスルーして中国にオリンピックを開催させたことは大きな問題だったと思います。
日本の著名人は、ただ単に知らないのか、あるいは無関心なのか、公の場で政治的な問題について自分の意見をのべないものですが、これはとてもよくないことだと思います。中国は気に入らない人間に登山許可をだしません。登山家として山に登れなくなるのは痛いです。僕にはチョモランマをチベット側からのぼりネパール側におりるという夢がありますが、〔中国を怒らせたら、チベット側からの登山許可がおりなくなるため〕それが叶わなくなるかもしれません。だけど、もしチベットのことに沈黙してこの冒険が成功したとしても、僕は100%ハッピーにはなれないと思うんです。知ってて沈黙することは中国政府のやっていることに対して加担することと同じで、十字架を背負うことになる。
僕にもスポンサーがついています。そして日本の企業は自分がスポンサーをしている人に政治的な色がつくのを嫌います。事務所のスタッフはスポンサー探しの営業をしていますから、当然僕には政的な発言して欲しくない。そこで僕は夜中にブログを書くんです(笑)。そうしたら朝になってスタッフが発言を削除しても、それまでに誰かがコピーしてリツイートしてくれる。だから僕は夜ブログを書くんです(笑)。
〔チベット問題について発言したら〕すごい反響がきました。大半は「よく言ってくれた」ですが、中には罵詈雑言もありました。でも抗議する人の日本語がどっかおかしいんですよね(笑)。スポンサーのところにもジャンジャン抗議の電話がかかりました。でも一社ずつ説明していったら、みな腰が据わっていて、降りたのは十社中一社だけでした(その一社の名前が聞きたいところ 笑)。スタッフも僕のことを理解してくれていますから、最終的には好きにさせてくれました。
それ以後、チベット問題をどう続けていくのか難しかったのですが、ツェリンドルジェ(SFT代表)と出会って一緒に活動をやることにしました。ツェリンドルジェがみせてくれたドキュメンタリー「恐怖を乗り越えて」は、ぜひ見てください。オリンピック前夜、チベット人が中国に対する思いを本音でしゃべっています。このドキュメンタリーをとったトンドゥプワンチェンは逮捕されて懲役六年の刑に服しています。中国では体制に対して批判的なことをいっただけで逮捕されるのです。このドキュメンタリーでトンドゥプワンチェンにインタビューされてるチベット人は、みな本人了解の上で顔にぼかしをいれていません。みな命をかけて証言しているんです。
しかし、日本人はこのようなチベットの状況に無関心です。今回のイベントについてもマスコミに声をかけましたが、来てくれるのは産経の記者さんくらいです。でも日本にとってチベットは明日は我が身です。
2010年、尖閣で海上保安庁の船が中国の漁船に衝突された事件が起きた時、僕はアフリカにいました。アフリカは今中国一色です。中国政府はアフリカに多額の援助を行っており、どこにいっても中国人が道を作ったり、建物を作ったりしています。また国を挙げて観光キャンペーンをやっているため、たとえばケニアには大量の中国人観光客がおしよせています。かつて、ケニアの国立公園は白人観光客の世界でしたが、今は一つのロッジの半分は中国人観光客に占められています。
中国人がアフリカにお金を落とすと、アフリカの人も中国人と商売をしようとし、中国語に興味をもちます。ケニアのナイロビ大学で十年前には中国語を学ぶ人は7人でしたが、今は700人になったそうです。そうして中国に興味をもった学生は中国の国費で北京大学に入学します。
さらにアフリカのニュースはすべて中国国営テレビ(CCTV)の翻訳です。僕がアフリカの記者に「どうして中国のの発信するニュースなんか翻訳するのか」と聞いたら、CCTVはアフリカ各地に百数十人の記者がいて、自分の会社は二名しかない。情報力が格段に違うからCCTVのニュースを使わざるを得ないのだとのこと。
そしてアフリカの人は僕の顔をみると、「ニイハオ」といいます。
JICAは35年も前からアフリカで農業指導をしており、地味ながらも成果をあげ稲作技術は格段にあがりましたが、現地のアフリカ人にその事業を誰がやっているのかと聞くと「中国人」と応えます。なぜ彼らが日本人の存在を知らないのかというとJICAの事業のどこにも日の丸がたっていないのです。僕が「税金を投じての事業なのになぜ日の丸を立てないのか? 」と関係者に聞くと「援助に国を前面にだすのはスマートでない」との答え。〔アフリカにおける中国の存在感はかくも圧倒的なのに、そんなこと言ってる場合か〕アフリカとチベットで起こっていることを目にすれば、日本も人ごとでないことにすぐ気づくはずです。
ほっとけば尖閣にどんどん中国は入ってきますよ。僕は三年前(2010年)「尖閣もぐらを守る会」というのを作りました。世界のもぐらが42本の歯を持つのに対して、尖閣もぐらは38本と大変めずらしい種ですが、現在絶滅危惧種となっています。その保護活動のために尖閣に上陸することを提案しています。
中国は外国からチベット問題を指摘されるたびに「内政に干渉するな」と言いますが、〔チベットはもともと中国の一部ではありません。〕百歩譲ってチベットが中国の一部だとしても、中国が行っていることは国際人権規約にうたわれた民族自決権、ジェノサイド条約に抵触していて完全にアウト。人権問題を内政干渉で言い逃れることは世界に通用しません。
チベットやアフリカで起きていることは明日の日本に起きることです。中国には彼らの正義があります。それは13億人を食べさせていくため世界中の資源を奪い尽くすことです。日本人がぽかーんと指をくわえているうちに、中国にやられてしまえば、それは中国が悪いというよりも日本政府が悪いのだと思います。政権が変わって安倍首相はチベット問題について発言しているので少しは変化があるかもしれません。
みなさま、夜分遅くの会合に起こし頂いた上、数数のお気遣い、本当にありがとうございました。
私の場合、まず、朝、TCPのIさんからチベット暦新年のおめでとうカードを頂戴した。孤児院の子供たちの手書きの絵と、Iさんの私を気遣ってくれるきれいな手書きの文章に非常に感動する(自分Iさんに比べたら何もやってませんて)。また、今回のイベントに学生がボランティアにきてくれたことも嬉しかった。このイベントのために博多からかけつけて下さった司会のOさんからも「博多通りもん」を頂く。若手研究者たちとOさんの德を讃えながら頂きます。
またはじめての方ともお会いし(何と淡路島石濱一族のお一人も出現)、なじみの方からも様々なプレゼントを頂戴した。はまオカメさんからは「黒い媚薬」(笑)というチョコとインコ柄紙袋、MIさんからはロクシタンのハンドクリームとDebailleulのチョコレート、そして、インド(おそらくはダラムサラ)に行かれたKさんからは、ソーラー・マニ車(キター)、インド紅茶(ニルギリ)、木製のインコの置物とインコ鉛筆でした。少し前までは、花束とか女性的な贈り物を下さる方もいたような気がするが、最近内容が男性化してきているような気がするのはきっと気のせい。

会場は新宿から一駅の初台が最寄り駅なので、新宿から各停の京王線にのった。しかしなぜか一駅目が笹塚なので慌てておりると、じつは京王線ではなく京王新線にのらねばならなかったことが判明。その後もふらふら迷いながら会場につくと、「センセー何してたんですか」と呆れられ、ケータイを見ると着信の嵐。
ケータイの画面をみせて笑ってごまかす。
例によってイベントのレポートをあげます。
冒頭はSFT代表のツェリンドルジェの挨拶。たどたどしい日本語で「みなさんのお時間を使ってくださりありがとうございます。昨日、抗議の焼身自殺が100名に達しました。ネパールでも一人焼身者があらたに出ました」と暗い挨拶。次がダライラマ法王事務所ラクパ代表の挨拶。次は、三人のチベットの女子学生による「高位の方の即位を祝う舞」。三人の女性の装束はチベットを構成するカム(東チベット)ウ・ツァン(中央チベット)・アムド(東北チベット)のそれぞれの装いであり、つまり、全チベットが祝福するという意味の舞。
そのあと、アルピニストの野口健氏スピーチ。手書きメモ帳からの復元なので細かい表現の相異はあるかもしれないが、大意ははずしてないと思う。
僕は2001年にはじめてチベットに入りました。山の中で二ヶ月間お風呂にも入れない生活を続けた後、ラサにつくと、そこは想像した以上の近代都市で、暖かいお風呂にも入れて快適だった。そこで家に帰って父(お父上は外交官)に「ラサは楽しかった」、というと、父は「お前中国に騙されたな。中国はチベット人に便利な生活を与えて、元に戻れないようにして、チベット人の中から独立なんて声があがらないようにしているんだ。かつて〔敗戦国の〕日本にアメリカがしたことと同じことをしているんだ」と言われたんです。
こうして僕は、ものごとにA面があればB面があるように、チベットのB面にも目を向けるようになりました。それからチベットに入るたびに、町が激変していくのに気づきました。伝統的なチベット建築がつらなる路地裏はどんどん壊されて、近代的な建物に変わっていきます。
ヤクを使う人たちと仲良くなり、心を許してくれると、彼らはいろいろなことを話してくれました。
ヤク使いたちは「中国人の監視も怖いが、何が怖いかといって自分たちの子供が怖い」と言います。彼らの子供は学校に入り、中国人の教師に洗脳されると、親が家の中に飾ってあるダライラマ法王の写真などを当局に密告するとのこと。親達は「〔家族が信じられないのなら〕もう何を信じていいのか分からない」と。
僕が最後にチベットに入ったのは北京オリンピックの前年の2007年でした。チョモランマ(エベレストのチベット名)のベースキャンプに入って目を疑いました。道は舗装され、ホテルや民宿などの宿がたちならび、女の人と遊ぶ店までが建ち並んでいました。それを中国人たちは
「来年は中国でオリンピックをやり、その時聖火リレーがこのチョモランマの頂上にもいく。世界中からマスコミがくるだろうから、発展した中国の姿をみせるのだ。すばらしいだろう」
と誇らしげにいうんです。僕はヒマラヤの清掃活動に携わってきましたが、〔彼らにはヒマラヤの自然を保護するとかの概念まったくなく〕ゴミ問題以前のそのズレた感覚に驚きました。
チョモランマのベース・キャンプには立派な公安の詰め所がたち、外国からくる登山隊に厳しい監視を行っていました。2004年、ナンパ峠を越えて亡命するチベット人を中国の国境警備隊が次々と射殺する光景を、ジョーオユーに上ろうとしていたルーマニア人の登山家が、偶然フィルムに収めました。その映像がユーチューブにアップされた時、ボクは「ああこれでやっと中国がチベットに対して行っている非道を、ごく一部だけど世界が目にすることになる。これで少しは中国もチベット人に対して露骨な迫害はやめるだろう」と思いました。
ところが状況はもっと悪くなりました。ベースキャンプでの公安の監視はいっそう厳しくなり、政治的な話はダメ、また荷物を検査してそこにフリー・チベット旗とかでてきたりすると、その人はどこかへ連れて行かれます。とあるアメリカ人が〔政治的な話をしてはだめというので〕フリーチベットと紙に書いて無言で公安にみせたら、その人はどこかへ連れて行かれました。僕は「あれはやりすぎだろう」というと、シェルパたちは
「ケン、黙れ。そんなこといったら、お前も捕まるぞ」と言われたんで、僕はすぐに黙りました(笑)。
そして2008年のオリンピックの年にチベット人が暴動を起こしました。それを見て、「ああ、ついに彼らは立ち上がったのか。オリンピックで中国に注目が集まっている機会をとらえて、命をすてて立ち上がったんだ」と思いました。チベット人が政府を批判するのは命がけです。知覧から飛び立つ特攻隊員みたいな覚悟を決めていたのでしょう。日本みたいにデモをやろうが、政府をギャーギャー批判しようが、何の危険もない国じゃないんです。
〔チベット人が命をかけて立ち上がったにも関わらず、〕驚いたことに世界は変わりませんでした。ニュースの解説員もチベット問題について何もふれず、日本の野球の監督(星野監督)は「聖火リレーを走れて光栄です」とまで言いました。そして何事もなかったかのようにオリンピックは開催され、どの国もボイコットすることなく開会式が開かれました。僕はあの時世界がチベット問題をスルーして中国にオリンピックを開催させたことは大きな問題だったと思います。
日本の著名人は、ただ単に知らないのか、あるいは無関心なのか、公の場で政治的な問題について自分の意見をのべないものですが、これはとてもよくないことだと思います。中国は気に入らない人間に登山許可をだしません。登山家として山に登れなくなるのは痛いです。僕にはチョモランマをチベット側からのぼりネパール側におりるという夢がありますが、〔中国を怒らせたら、チベット側からの登山許可がおりなくなるため〕それが叶わなくなるかもしれません。だけど、もしチベットのことに沈黙してこの冒険が成功したとしても、僕は100%ハッピーにはなれないと思うんです。知ってて沈黙することは中国政府のやっていることに対して加担することと同じで、十字架を背負うことになる。
僕にもスポンサーがついています。そして日本の企業は自分がスポンサーをしている人に政治的な色がつくのを嫌います。事務所のスタッフはスポンサー探しの営業をしていますから、当然僕には政的な発言して欲しくない。そこで僕は夜中にブログを書くんです(笑)。そうしたら朝になってスタッフが発言を削除しても、それまでに誰かがコピーしてリツイートしてくれる。だから僕は夜ブログを書くんです(笑)。
〔チベット問題について発言したら〕すごい反響がきました。大半は「よく言ってくれた」ですが、中には罵詈雑言もありました。でも抗議する人の日本語がどっかおかしいんですよね(笑)。スポンサーのところにもジャンジャン抗議の電話がかかりました。でも一社ずつ説明していったら、みな腰が据わっていて、降りたのは十社中一社だけでした(その一社の名前が聞きたいところ 笑)。スタッフも僕のことを理解してくれていますから、最終的には好きにさせてくれました。
それ以後、チベット問題をどう続けていくのか難しかったのですが、ツェリンドルジェ(SFT代表)と出会って一緒に活動をやることにしました。ツェリンドルジェがみせてくれたドキュメンタリー「恐怖を乗り越えて」は、ぜひ見てください。オリンピック前夜、チベット人が中国に対する思いを本音でしゃべっています。このドキュメンタリーをとったトンドゥプワンチェンは逮捕されて懲役六年の刑に服しています。中国では体制に対して批判的なことをいっただけで逮捕されるのです。このドキュメンタリーでトンドゥプワンチェンにインタビューされてるチベット人は、みな本人了解の上で顔にぼかしをいれていません。みな命をかけて証言しているんです。
しかし、日本人はこのようなチベットの状況に無関心です。今回のイベントについてもマスコミに声をかけましたが、来てくれるのは産経の記者さんくらいです。でも日本にとってチベットは明日は我が身です。
2010年、尖閣で海上保安庁の船が中国の漁船に衝突された事件が起きた時、僕はアフリカにいました。アフリカは今中国一色です。中国政府はアフリカに多額の援助を行っており、どこにいっても中国人が道を作ったり、建物を作ったりしています。また国を挙げて観光キャンペーンをやっているため、たとえばケニアには大量の中国人観光客がおしよせています。かつて、ケニアの国立公園は白人観光客の世界でしたが、今は一つのロッジの半分は中国人観光客に占められています。
中国人がアフリカにお金を落とすと、アフリカの人も中国人と商売をしようとし、中国語に興味をもちます。ケニアのナイロビ大学で十年前には中国語を学ぶ人は7人でしたが、今は700人になったそうです。そうして中国に興味をもった学生は中国の国費で北京大学に入学します。
さらにアフリカのニュースはすべて中国国営テレビ(CCTV)の翻訳です。僕がアフリカの記者に「どうして中国のの発信するニュースなんか翻訳するのか」と聞いたら、CCTVはアフリカ各地に百数十人の記者がいて、自分の会社は二名しかない。情報力が格段に違うからCCTVのニュースを使わざるを得ないのだとのこと。
そしてアフリカの人は僕の顔をみると、「ニイハオ」といいます。
JICAは35年も前からアフリカで農業指導をしており、地味ながらも成果をあげ稲作技術は格段にあがりましたが、現地のアフリカ人にその事業を誰がやっているのかと聞くと「中国人」と応えます。なぜ彼らが日本人の存在を知らないのかというとJICAの事業のどこにも日の丸がたっていないのです。僕が「税金を投じての事業なのになぜ日の丸を立てないのか? 」と関係者に聞くと「援助に国を前面にだすのはスマートでない」との答え。〔アフリカにおける中国の存在感はかくも圧倒的なのに、そんなこと言ってる場合か〕アフリカとチベットで起こっていることを目にすれば、日本も人ごとでないことにすぐ気づくはずです。
ほっとけば尖閣にどんどん中国は入ってきますよ。僕は三年前(2010年)「尖閣もぐらを守る会」というのを作りました。世界のもぐらが42本の歯を持つのに対して、尖閣もぐらは38本と大変めずらしい種ですが、現在絶滅危惧種となっています。その保護活動のために尖閣に上陸することを提案しています。
中国は外国からチベット問題を指摘されるたびに「内政に干渉するな」と言いますが、〔チベットはもともと中国の一部ではありません。〕百歩譲ってチベットが中国の一部だとしても、中国が行っていることは国際人権規約にうたわれた民族自決権、ジェノサイド条約に抵触していて完全にアウト。人権問題を内政干渉で言い逃れることは世界に通用しません。
チベットやアフリカで起きていることは明日の日本に起きることです。中国には彼らの正義があります。それは13億人を食べさせていくため世界中の資源を奪い尽くすことです。日本人がぽかーんと指をくわえているうちに、中国にやられてしまえば、それは中国が悪いというよりも日本政府が悪いのだと思います。政権が変わって安倍首相はチベット問題について発言しているので少しは変化があるかもしれません。
みなさま、夜分遅くの会合に起こし頂いた上、数数のお気遣い、本当にありがとうございました。
法王の帰還
チベット暦の元旦は、今年はたまたま日本の建国記念日と同じ日となった(チベットは太陰太陽暦なので太陽暦にあわせると毎年日付は変わる)。
かつてのチベットでは元旦から15日の満月までの間、国をあげての一大ページェントを繰り広げていた。ラサの中枢にあるトゥルナン寺では一切の生き物の平安を祈る法要(モンラム)が行われ、寺の東広場では僧侶の最高学位をだす論理学の試験が公開で行われ、15日にはダライラマ自ら民衆の前にたち仏典講義を行うため、ラサには地方からも多くの人が訪れた。正月は一年で一番ラサがもりあがる期間であった。
現在も、チベットの難民社会は法王のお膝元であるダラムサラではもちろんのこと、各僧院で新年の祈願会(モンラム)を行っている。しかし、中国占領下のチベットでは中国政府が「伝統的な行事でたくさんのチベット人が集まれば、抗議行動に変わっちゃうかも」と疑っているため、各僧院の高僧を予備拘束したり、ラサから遠ざけたりして、伝統的な新年の祝いを陰に日向に妨害してくださっている。
実際、お正月の期間は一年で一番人が集まってもりあがるので、チベットの歴史において様々な国家的な重要な出来事や事件が新年の行事の間、あるいは直後に起きてきた。
たとえば、ダライラマ13世があの有名な布告を発布した(翻訳は年頭のエントリーを見てね! )のも、百年前の1913年の正月であった。
20世紀初頭、清朝はモンゴルとチベットに露骨に植民地化の触手を伸ばし始めたため、チベットとモンゴルはつくづく中国との関係にいや気がさしていた。さらに、1911年、辛亥革命がおき満洲人王朝であった清朝は崩壊し,さらにヤバい漢人政権となったため、チベットもモンゴルも全力をあげて中国と絶縁することとした。モンゴルはさっさと独立宣言を出しロシアに後援を求め(袁世凱は旧社会を護ると約束したので袁世凱についた人もいるけど)、チベットにおいても清末期にチベットに侵入してきた中国軍を全土で駆逐しはじめた。
ダライラマは亡命先のシッキムから道々人々に祝福を授けながらゆっくりとチベットへ戻り、中国軍の完全撤退を確認した後、吉日であるチベット暦の12月16日(満月)にラサ入りした。
このときのダライラマ13世伝の記述は以下のように昂揚した人々の姿を伝える。
それからラサ(lha ldan)において中国人とチベットの間に平和条約が結ばれて〔清朝から送られてきた〕二人の大臣も軍隊とともに中国へと戻り、平和になったので、〔ダライラマ法王は〕12月6日にチューコルヤンツェ僧院から出立してニェタンのターラー堂に供物を捧げて、聖地拝観をされた。
翌日デプン大僧院の高僧たち、ネチュン学堂(国家の行く末について託宣する神託官の寺)の僧官などが、法王のお出迎えに整列する中、ツァグル苑に向かわれた。法王は政府の官僚を始めとする何千人もの貴賤の人々に謁見し、手灌頂(払子の先ですらっと頭をなでる略式灌頂)を授けた。
・・・・それから、摂政ツェムリン・フトクトを初めとする聖俗のすべての人々と三大僧院の高僧と化身僧たち、僧官たちなどがお供のものたちとともに整列する中、政教一致の地・かつて観音が現れた地・聖なる無量宮(ポタラ宮)におみ足を止められた(ようはポタラ宮に帰還した)。
「日光殿(ポタラ宮の白宮最上階のダライラマの居間)において、焼き菓子をそろえた歓迎の宴席をしつらえています」と申し上げると、お喜びになって〔宴会を〕楽しまれた。
その前後に中国軍を駆逐する戦いを始めた時、危険を顧みず雪の国(チベット)の政教一致の体制を大切に思い敵(中国人)と戦って勇敢で軍功を挙げたものたちに対して、ある者(僧侶)には仏の教えを供養するための基金を授け、ある者(俗人)には昇任を行い、或者には現金を授けるなど、その人に適した褒美を順に授けるなど、論功行賞を綿密に行われた。
「勝者王一切智者猊下(ダライラマ13世)がインドから涼しき地(チベット)の人々の守護尊として障りなくお戻りになられた」という感謝の品が届き、さらに「旧年の厄を祓い、法王様が長寿を授ける仏たちと同様に百千万劫にわたって健勝であるように」と祈るための資を、政府の恩給で暮らしている聖俗の人々が〔ダライラマ法王の〕順次献じてきた(KA秩 117b1-118b4)。
この時に供物を捧げてきた人々の内訳をみると、当時のチベットの紳士録を見るかのようである。具体的には三大僧院(セラ、デプン、ガンデン)の高僧・化身僧、有力学堂、タシルンポの宗務庁、〔タシルンポの高僧〕パンチェンラマ個人、ラル、ヤプシなどの有力貴族、他宗派ではディグン派、カギュ派、ニンマ派、サキャ派の主要な高僧たちが、それぞれの経済力にみあった献上品をだしている。
こうして、暮れも押し詰まってラサ入りを果たしたダライラマ13世は、新年の開始とともに臣民に自立を説くあの布告文を発表したのである。
この百年前のダライラマのラサ帰還は、現在ダライラマが亡命中のチベット人にとっても非常に感慨深いものがある。まず、ダライラマ14世が1959年にインドに亡命したのも54年前の正月の行事が終わった直後であった。
ダライラマ14世はこの年の正月、僧侶の最高学位をかけた論理学の試験に合格し、その直後、にらみ合うチベット人と中国軍との直接衝突を回避すべく、亡命を余儀なくされた。つまりダライラマ14世はラサで伝統的な教育を受け、最高学位を獲得した最後の最後の世代なのである(以後ももちろん僧院の教育システムは健在であるが、やはり昔にくらべると「ゆとり」になっている 笑)。
現在の本土チベット人にとって、中国軍がチベットから出て行き、ダライラマ13世がポタラ宮に帰還した百年前の出来事は、今すぐにでもダライラマ14世においても実現してほしい声にだせない希望である。焼身自殺をするチベット人たちの多くは「法王のチベットへのご帰還を」を最後の言葉としている。チベット人が自らの尊敬する人が本来の地に帰還することを公言できるのは死の間際というのが今のチベットの現状なのである(厳密に言えば死後も焼身者の家族は迫害を受ける)。
ダライラマ13世が1913年にチベットに帰還した後、1951年の人民中国の侵入までの間、ダライラマをトップとするチベット社会は事実上の独立状態で推移した(ちなみに、この時はじめて独立したわけではない。1910年に帝国主義化した清朝は、その前はチベットを実効支配してない)。
今週木曜2月14日のイベントでは、今はなき伝統的なチベットの写真をたくさんもっていきますので、期待してね! なんか会場、交通不便なところみたいだけど、話は面白いから、来てね!
詳細はここ
お待ちしております。
かつてのチベットでは元旦から15日の満月までの間、国をあげての一大ページェントを繰り広げていた。ラサの中枢にあるトゥルナン寺では一切の生き物の平安を祈る法要(モンラム)が行われ、寺の東広場では僧侶の最高学位をだす論理学の試験が公開で行われ、15日にはダライラマ自ら民衆の前にたち仏典講義を行うため、ラサには地方からも多くの人が訪れた。正月は一年で一番ラサがもりあがる期間であった。
現在も、チベットの難民社会は法王のお膝元であるダラムサラではもちろんのこと、各僧院で新年の祈願会(モンラム)を行っている。しかし、中国占領下のチベットでは中国政府が「伝統的な行事でたくさんのチベット人が集まれば、抗議行動に変わっちゃうかも」と疑っているため、各僧院の高僧を予備拘束したり、ラサから遠ざけたりして、伝統的な新年の祝いを陰に日向に妨害してくださっている。
実際、お正月の期間は一年で一番人が集まってもりあがるので、チベットの歴史において様々な国家的な重要な出来事や事件が新年の行事の間、あるいは直後に起きてきた。
たとえば、ダライラマ13世があの有名な布告を発布した(翻訳は年頭のエントリーを見てね! )のも、百年前の1913年の正月であった。
20世紀初頭、清朝はモンゴルとチベットに露骨に植民地化の触手を伸ばし始めたため、チベットとモンゴルはつくづく中国との関係にいや気がさしていた。さらに、1911年、辛亥革命がおき満洲人王朝であった清朝は崩壊し,さらにヤバい漢人政権となったため、チベットもモンゴルも全力をあげて中国と絶縁することとした。モンゴルはさっさと独立宣言を出しロシアに後援を求め(袁世凱は旧社会を護ると約束したので袁世凱についた人もいるけど)、チベットにおいても清末期にチベットに侵入してきた中国軍を全土で駆逐しはじめた。
ダライラマは亡命先のシッキムから道々人々に祝福を授けながらゆっくりとチベットへ戻り、中国軍の完全撤退を確認した後、吉日であるチベット暦の12月16日(満月)にラサ入りした。
このときのダライラマ13世伝の記述は以下のように昂揚した人々の姿を伝える。
それからラサ(lha ldan)において中国人とチベットの間に平和条約が結ばれて〔清朝から送られてきた〕二人の大臣も軍隊とともに中国へと戻り、平和になったので、〔ダライラマ法王は〕12月6日にチューコルヤンツェ僧院から出立してニェタンのターラー堂に供物を捧げて、聖地拝観をされた。
翌日デプン大僧院の高僧たち、ネチュン学堂(国家の行く末について託宣する神託官の寺)の僧官などが、法王のお出迎えに整列する中、ツァグル苑に向かわれた。法王は政府の官僚を始めとする何千人もの貴賤の人々に謁見し、手灌頂(払子の先ですらっと頭をなでる略式灌頂)を授けた。
・・・・それから、摂政ツェムリン・フトクトを初めとする聖俗のすべての人々と三大僧院の高僧と化身僧たち、僧官たちなどがお供のものたちとともに整列する中、政教一致の地・かつて観音が現れた地・聖なる無量宮(ポタラ宮)におみ足を止められた(ようはポタラ宮に帰還した)。
「日光殿(ポタラ宮の白宮最上階のダライラマの居間)において、焼き菓子をそろえた歓迎の宴席をしつらえています」と申し上げると、お喜びになって〔宴会を〕楽しまれた。
その前後に中国軍を駆逐する戦いを始めた時、危険を顧みず雪の国(チベット)の政教一致の体制を大切に思い敵(中国人)と戦って勇敢で軍功を挙げたものたちに対して、ある者(僧侶)には仏の教えを供養するための基金を授け、ある者(俗人)には昇任を行い、或者には現金を授けるなど、その人に適した褒美を順に授けるなど、論功行賞を綿密に行われた。
「勝者王一切智者猊下(ダライラマ13世)がインドから涼しき地(チベット)の人々の守護尊として障りなくお戻りになられた」という感謝の品が届き、さらに「旧年の厄を祓い、法王様が長寿を授ける仏たちと同様に百千万劫にわたって健勝であるように」と祈るための資を、政府の恩給で暮らしている聖俗の人々が〔ダライラマ法王の〕順次献じてきた(KA秩 117b1-118b4)。
この時に供物を捧げてきた人々の内訳をみると、当時のチベットの紳士録を見るかのようである。具体的には三大僧院(セラ、デプン、ガンデン)の高僧・化身僧、有力学堂、タシルンポの宗務庁、〔タシルンポの高僧〕パンチェンラマ個人、ラル、ヤプシなどの有力貴族、他宗派ではディグン派、カギュ派、ニンマ派、サキャ派の主要な高僧たちが、それぞれの経済力にみあった献上品をだしている。
こうして、暮れも押し詰まってラサ入りを果たしたダライラマ13世は、新年の開始とともに臣民に自立を説くあの布告文を発表したのである。
この百年前のダライラマのラサ帰還は、現在ダライラマが亡命中のチベット人にとっても非常に感慨深いものがある。まず、ダライラマ14世が1959年にインドに亡命したのも54年前の正月の行事が終わった直後であった。
ダライラマ14世はこの年の正月、僧侶の最高学位をかけた論理学の試験に合格し、その直後、にらみ合うチベット人と中国軍との直接衝突を回避すべく、亡命を余儀なくされた。つまりダライラマ14世はラサで伝統的な教育を受け、最高学位を獲得した最後の最後の世代なのである(以後ももちろん僧院の教育システムは健在であるが、やはり昔にくらべると「ゆとり」になっている 笑)。
現在の本土チベット人にとって、中国軍がチベットから出て行き、ダライラマ13世がポタラ宮に帰還した百年前の出来事は、今すぐにでもダライラマ14世においても実現してほしい声にだせない希望である。焼身自殺をするチベット人たちの多くは「法王のチベットへのご帰還を」を最後の言葉としている。チベット人が自らの尊敬する人が本来の地に帰還することを公言できるのは死の間際というのが今のチベットの現状なのである(厳密に言えば死後も焼身者の家族は迫害を受ける)。
ダライラマ13世が1913年にチベットに帰還した後、1951年の人民中国の侵入までの間、ダライラマをトップとするチベット社会は事実上の独立状態で推移した(ちなみに、この時はじめて独立したわけではない。1910年に帝国主義化した清朝は、その前はチベットを実効支配してない)。
今週木曜2月14日のイベントでは、今はなき伝統的なチベットの写真をたくさんもっていきますので、期待してね! なんか会場、交通不便なところみたいだけど、話は面白いから、来てね!
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お待ちしております。
仏のお言葉により
二月に入って最初の日は、若手研究者二人と勉強会を行った。
100年前のチベット・モンゴルの状況について、お互い得意ジャンルで報告しあい、情報を交換・共有する目的だったのだが、情報が共有されていくうちにそれぞれの提示したビジョンが合体・立体化していき、当時の時代状況が見えてくるという非常に有意義な体験となった。
二人とも頭がきれる。なので彼らのいうことも納得できるし、こちらの話に対する理解も早い。
ここのところ、学問以前のものすごく低いレベルの学生指導に明け暮れていたので、「ああこんなスマートな世界もあるのか」となごみまくった。たった三人の研究会だったけど、間違いなくこの時代、このジャンルの研究では世界一のレベルであったと思う。いや誇張でなく。
彼らのような優秀な人材がもっとわんさかいて日本国内であれアメリカあれどこでもいいから研究者の職についてくれれば、チベットも安泰なのだけど、いかんせん人数が少なすぎ。
中華世界、イスラーム世界には売るほど研究者がいるのに、チベット仏教世界のマンパワーの少なさは壊滅的。数の少なさを質で補うしかないので、英語で発表することも含めてがんばる。インターナショナルな評価を得られたら、少数でも影響力を増すから。
そして特殊な話を続けた最後に、以下の概念的な三項目を何となく相互に確認。
(1) 蒙蔵条約にしてもシムラ条約にしても、これらを後世になって生まれた概念で云々することは不毛である。たとえばこれらの条約が有効か無効かという議論は学説が変われば有効無効のラインも変わるので無意味。むしろ、当時どのような背景によってそれらの条約が締結されることとなり、条文は当時どのような意味合いで理解されていたかを確認することから始めるべき。
(2) チベット・モンゴルも漢人政権である中華民国を拒否するという点は共通していた。
(3) 1911年(辛亥革命・モンゴル独立の年)、1913年(蒙蔵条約・13年ダライラマ布告)は確かに、それを境にチベットやモンゴルに近代が始まる節目であったが、ただ、この年を境に突然上から下まで近代が始まるわけではない。過去の延長として理解すべきものも多く、1911年や1913年以後の言葉に一気に近代的な概念を読みとろうとするのはムリがある(モンゴルは即座に国際法をモンゴル語訳しているが、チベットはしていない)。
わたしはここのところダライラマ13世の布告文について調べているので、その話をした。マクラの話はこんな感じ。
ダライラマ13世の布告文や仏画や仏像の中に書いた祈願文などの文面の変遷をおっていくと、やはり1913年を境に政府に対する言及の仕方、自称表現などが変わっている。
たとえば、1899年にダライラマがだした布告の冒頭には、自分の称号を
大皇帝(満洲皇帝)の勅命によって、西方の最勝に善なる地の勝者王・地上の勝者の教えの主たるもの・一切智者・ヴァジラダラ・ダライラマと呼ばれる者の勅。
gong ma chen po'i bka' lung gis nub phyogs mchog tu dge ba'i zhing gi rgyal dbang sa steng gi rgyal bstan yongs kyi bdag po thams (2) cad mkhyen pa badzra dhara t'ala'i bla mar 'bod pa'i gtam(ji帙1a)
と名乗っている。これは1578年にモンゴルのアルタン・ハーンがダライラマ三世に奉ったヴァジラダラ・ダライラマ号に、1653年に清朝の順治帝が「大善・自在仏・所領天下之釋教」という称号をたしてダライラマ五世に送ったもののチベット語訳である。
ちなみに、祈願文の中ではダライラマは中国の政とガンデンポタン(チベット政府)の政を並列に讃え、前者を王、後者を仏教集団として、両者一体となって非仏教徒に対抗すべしという文章をよく作っている。つまり、中国との関係は政治レベルでは対等で、仏教界では施主と高僧一体化して仏教界を護持するものとみなしていた模様。
一方、清朝が崩壊すると、ダライラマの文章の中から中国の名前は消え、1913年の布告文の冒頭でダライラマ13世はみずからを
聖地から仏のお言葉により、勝者王・三界の依怙尊たるもの・三時の地上のすべての主・一切智者・ヴァジラダラ・ダライラマと呼ばれたものの勅
'phags pa'i yul nas sangs rgyas kyi bka' lung rgyal dbang 'jig rten gsum mgon dus kun sa steng yongs rzogs kyi bdag po thams cad mkhyen pa rdo rje 'chang rgya mtsho'i bla mar 'bod pa'i gtam
と述べ、自らの名を仏から授かったものと規定している。13年を境とした自称の変化は、シャカッパを始めとする学者に指摘されてきたこともあり、読み飛ばしていたけれど、よく考えると「仏のお言葉により」とは、不思議な表現である。
しかし数日前、腑に落ちた。12世紀くらいから、チベットには、「チベットは観音様の教化する地である」という思想が広まり始めるが、その際によく引用される典籍の『函経』(za ma tog bkod pa , 北京版 No. 785)の中に、以下のようなエピソードがのっている。
御仏が涅槃に近づかれた時(なくなる間際)、
『〔御仏が〕まだ足を運ばれていない、御言葉によって守っていない、北方・有雪国(チベット)の者たちのために、〔御仏よ〕もう少しこの世に留まって下さい』とお願いすると、世尊曰く『私の所化(教化対象)は尽きた。今所化となるものはないので、怠けものを仏法に導くため、常見論者を批判するためにも、涅槃に入る様を示す(死ぬ)。
北方・有雪国の有情は今は畜生なので、人の名のつく有情はいない。真っ暗闇になっている。一切の死を退けることができず、海に雪がふるごとくに悪趣(地獄・畜生・餓鬼)の世間に向かっている。従って、未来に私の教えが力を失っていく時に、菩薩よ、汝の所化とするがよい。まず菩薩の化身は人の生を生みだす。それから物によってその人をまとめる。それから法によってまとめる。衆生の利益となるであろう。』
つまり、仏様が亡くなられる直前に、チベットの地の教化を、観音菩薩に任せたのである。この伝説を受けてチベットでは7世紀の開国の王ソンツェンガンポ王から、現在のダライラマ14世に至るまで、チベットの支配者は観音菩薩の化身と讃えられている。ダライラマ13世は布告文の中でもチベットを「自らの護るべき地」と記しており、観音菩薩としてチベットを治める旨を明記している。
つまり、冒頭の仏の命令とは、『函経』などに記されている、「チベットの地を観音にまかせる」としたこの仏の遺言を指すものか。
満洲皇帝というパトロンがいなくなって、満洲皇帝を施主とするチベット仏教界最高位の僧という立場がなくなった時、ダライラマは、チベットの地を教化する観音菩薩という原点に立ち返って、チベット人たちに自立を説いたのである。
100年前のチベット・モンゴルの状況について、お互い得意ジャンルで報告しあい、情報を交換・共有する目的だったのだが、情報が共有されていくうちにそれぞれの提示したビジョンが合体・立体化していき、当時の時代状況が見えてくるという非常に有意義な体験となった。
二人とも頭がきれる。なので彼らのいうことも納得できるし、こちらの話に対する理解も早い。
ここのところ、学問以前のものすごく低いレベルの学生指導に明け暮れていたので、「ああこんなスマートな世界もあるのか」となごみまくった。たった三人の研究会だったけど、間違いなくこの時代、このジャンルの研究では世界一のレベルであったと思う。いや誇張でなく。
彼らのような優秀な人材がもっとわんさかいて日本国内であれアメリカあれどこでもいいから研究者の職についてくれれば、チベットも安泰なのだけど、いかんせん人数が少なすぎ。
中華世界、イスラーム世界には売るほど研究者がいるのに、チベット仏教世界のマンパワーの少なさは壊滅的。数の少なさを質で補うしかないので、英語で発表することも含めてがんばる。インターナショナルな評価を得られたら、少数でも影響力を増すから。
そして特殊な話を続けた最後に、以下の概念的な三項目を何となく相互に確認。
(1) 蒙蔵条約にしてもシムラ条約にしても、これらを後世になって生まれた概念で云々することは不毛である。たとえばこれらの条約が有効か無効かという議論は学説が変われば有効無効のラインも変わるので無意味。むしろ、当時どのような背景によってそれらの条約が締結されることとなり、条文は当時どのような意味合いで理解されていたかを確認することから始めるべき。
(2) チベット・モンゴルも漢人政権である中華民国を拒否するという点は共通していた。
(3) 1911年(辛亥革命・モンゴル独立の年)、1913年(蒙蔵条約・13年ダライラマ布告)は確かに、それを境にチベットやモンゴルに近代が始まる節目であったが、ただ、この年を境に突然上から下まで近代が始まるわけではない。過去の延長として理解すべきものも多く、1911年や1913年以後の言葉に一気に近代的な概念を読みとろうとするのはムリがある(モンゴルは即座に国際法をモンゴル語訳しているが、チベットはしていない)。
わたしはここのところダライラマ13世の布告文について調べているので、その話をした。マクラの話はこんな感じ。
ダライラマ13世の布告文や仏画や仏像の中に書いた祈願文などの文面の変遷をおっていくと、やはり1913年を境に政府に対する言及の仕方、自称表現などが変わっている。
たとえば、1899年にダライラマがだした布告の冒頭には、自分の称号を
大皇帝(満洲皇帝)の勅命によって、西方の最勝に善なる地の勝者王・地上の勝者の教えの主たるもの・一切智者・ヴァジラダラ・ダライラマと呼ばれる者の勅。
gong ma chen po'i bka' lung gis nub phyogs mchog tu dge ba'i zhing gi rgyal dbang sa steng gi rgyal bstan yongs kyi bdag po thams (2) cad mkhyen pa badzra dhara t'ala'i bla mar 'bod pa'i gtam(ji帙1a)
と名乗っている。これは1578年にモンゴルのアルタン・ハーンがダライラマ三世に奉ったヴァジラダラ・ダライラマ号に、1653年に清朝の順治帝が「大善・自在仏・所領天下之釋教」という称号をたしてダライラマ五世に送ったもののチベット語訳である。
ちなみに、祈願文の中ではダライラマは中国の政とガンデンポタン(チベット政府)の政を並列に讃え、前者を王、後者を仏教集団として、両者一体となって非仏教徒に対抗すべしという文章をよく作っている。つまり、中国との関係は政治レベルでは対等で、仏教界では施主と高僧一体化して仏教界を護持するものとみなしていた模様。
一方、清朝が崩壊すると、ダライラマの文章の中から中国の名前は消え、1913年の布告文の冒頭でダライラマ13世はみずからを
聖地から仏のお言葉により、勝者王・三界の依怙尊たるもの・三時の地上のすべての主・一切智者・ヴァジラダラ・ダライラマと呼ばれたものの勅
'phags pa'i yul nas sangs rgyas kyi bka' lung rgyal dbang 'jig rten gsum mgon dus kun sa steng yongs rzogs kyi bdag po thams cad mkhyen pa rdo rje 'chang rgya mtsho'i bla mar 'bod pa'i gtam
と述べ、自らの名を仏から授かったものと規定している。13年を境とした自称の変化は、シャカッパを始めとする学者に指摘されてきたこともあり、読み飛ばしていたけれど、よく考えると「仏のお言葉により」とは、不思議な表現である。
しかし数日前、腑に落ちた。12世紀くらいから、チベットには、「チベットは観音様の教化する地である」という思想が広まり始めるが、その際によく引用される典籍の『函経』(za ma tog bkod pa , 北京版 No. 785)の中に、以下のようなエピソードがのっている。
御仏が涅槃に近づかれた時(なくなる間際)、
『〔御仏が〕まだ足を運ばれていない、御言葉によって守っていない、北方・有雪国(チベット)の者たちのために、〔御仏よ〕もう少しこの世に留まって下さい』とお願いすると、世尊曰く『私の所化(教化対象)は尽きた。今所化となるものはないので、怠けものを仏法に導くため、常見論者を批判するためにも、涅槃に入る様を示す(死ぬ)。
北方・有雪国の有情は今は畜生なので、人の名のつく有情はいない。真っ暗闇になっている。一切の死を退けることができず、海に雪がふるごとくに悪趣(地獄・畜生・餓鬼)の世間に向かっている。従って、未来に私の教えが力を失っていく時に、菩薩よ、汝の所化とするがよい。まず菩薩の化身は人の生を生みだす。それから物によってその人をまとめる。それから法によってまとめる。衆生の利益となるであろう。』
つまり、仏様が亡くなられる直前に、チベットの地の教化を、観音菩薩に任せたのである。この伝説を受けてチベットでは7世紀の開国の王ソンツェンガンポ王から、現在のダライラマ14世に至るまで、チベットの支配者は観音菩薩の化身と讃えられている。ダライラマ13世は布告文の中でもチベットを「自らの護るべき地」と記しており、観音菩薩としてチベットを治める旨を明記している。
つまり、冒頭の仏の命令とは、『函経』などに記されている、「チベットの地を観音にまかせる」としたこの仏の遺言を指すものか。
満洲皇帝というパトロンがいなくなって、満洲皇帝を施主とするチベット仏教界最高位の僧という立場がなくなった時、ダライラマは、チベットの地を教化する観音菩薩という原点に立ち返って、チベット人たちに自立を説いたのである。
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