インディペンデンス100
今年のバレンタインデーは百年前の1913年、ダライラマ13世が亡命先のシッキムから帰還して、チベット人に向けて布告をだした日にあたる。日本では↓この日を記念したイベントが新宿区のホールであり、そこにお呼ばれして講演することとなりました。布告100周年の記念の日であることから、百年前のダライラマ13世の時代のチベットについて、パワーポイントとかでお話いたします。

もう一人の講演者である野口健さんは、七大陸最高峰を最年少で登頂した記録を持ち、その後は、ヒマラヤの清掃登山などの社会的な活動でも知られています。有名な方なのにチベットのためとなるとヴォランティア講演してくださるそうで、頭が下がります。
画面をクリックすると詳細が分かります。
※ちなみに、平日ということで会場設営・物販などのボランティアの人数確保が不安であるそうなので、もし会場に五時入りできる方がいらっしゃいましたら、SFTの方へご連絡ください(講演者も主催者もボランティア。後援なし。超クリーンです 爆笑)。
さて、百年前の二月十四日、ダライラマ13世がどのような状況にあったかを簡単に説明しよう。1904年に英軍のラサ侵攻を受けて、ダライラマ13世はモンゴルに亡命した。ダライラマのモンゴル訪問は、ダライラマ三世以来であり、ハルハははじめてということもあり、三次にわたる迎接使に迎えられて、フレー(現在のウランバートル)に入城した。
生ダライラマのご降臨とあって、モンゴルの大衆は大フィーバーし、数千人から時には万単位の群衆が集まってきて、ダライラマは毎日毎日祝福を授け続けた。
しかし、面白くないのはモンゴル最高位の僧、ジェブツンダンパ八世。地方のスターの前に全国区の有名人がきたようなもので、人気を奪われて面白くないことこの上ない。各国の外交官の記録やダライラマ13世の伝記には、ジェブツンダンパが、ダライラマに対して非常に複雑な感情を抱いていたことが記録されている。
とりあえずダライラマ13世伝にはこう書かれている。
ハルハ(現在のモンゴル共和国のある地域に遊牧していた人々)の政府(khal kha gzhung)とガンデンポタン政庁(ダライラマをトップとするチベット政府)両者は、昔から高僧と施主として関係を結んできた。一切智者蓮華手(観音菩薩=ダライラマ)と歴代のジェブツンダンパは互いに師弟の清浄な関係があるのみであった。従って、この時にハルハのすべてのあらゆる人々が、〔私のもとに〕挨拶にきて、わたしの天幕をととのえ生活基盤を支えるなど、まっすぐな心に動かされて、政治と仏教の善なるものが一つになったごときであった。〔そのお返しとしてこちらから〕相手に対しても・・・下賜品を盛大に与え、前例を参照しながら相当の褒美をとらせた。
しかし、『カーダム宝冊』に、「ああ、青空を翔る鵬を、鶏は家の中から中傷するように、智慧の領域に飛ぶ私を、怒りっぽいものは非難する」と言われているように、最高なる猊下(ダライラマ13世)を、この方面にいる全てのものが、ただ一人の應供僧ととらえて貴賤すべてが競って敬意を捧げ、教えや 指示(rjes bstan)を求めに来たりなどし、〔ダライラマ13世の〕令名が広がるにつれ、ジェブツンダンパ・フトクトは五濁の凡人と同じく、少しいやな態度をされ、信心深いふりをして御座を破壊したり、猊下の御前でタバコを吸われるなど、仏の教えに従わない様々な異端な振る舞いによって、三界の導き手をツタ国人※のように様々に中傷された。
※ 『サキャ格言集』の第三章の「礼儀を失ったものは、礼儀を守っている人を中傷する。一本足のツタ国の人は二本足を中傷する」という韻文に基づく。一本足のツタ国の人は堕落した人間、すなわちジェブツンダンパを、二本足はダライラマ13世をここでは指している。
この時の、ダライラマ13世とジェブツンダンパ8世の地位を簡単に説明すると、ローマ教皇と各国の司教の関係のようなものであった。ローマ教皇の権威は国も民族もこえて大きな影響力を持つが、各教区の司教の権力はその土地限定である。これと同様にダライラマの権威はチベット仏教徒ばかりか、欧米諸国にもその名は知られていたが、一方のジェブツンダンパの権威はあくまでもモンゴル人に限定されたものであった。
この事件の六年後、モンゴルは独立を宣言し、ジェブツンダンパ8世は国王として推戴されるが、この時のモンゴルはすでに、国民国家の建設に舵を切り始めていたため、ジェブツンダンパは自らの権威を損なうような危険はおかせなかった。
もしジェブツンダンパ8世がダライラマ13世と公式に会見することになれば、彼の座席は確実にダライラマより低い位置にしつらえられる。ジェブツンダンパは第一世の頃からダライラマの弟子であるし、歴代ジェブツンダンパは妻帯をし戒律を守っていないため、師弟関係からいっても、仏教の教義の観点からいっても、さらに学識の点からいっても、あらゆる意味でジェブツンダンパはダライラマの下座に座るべき存在であるからだ。しかし、そのような姿をジェブツンダンパはモンゴルの衆目にさらすことはできない。
また、17世紀にはダライラマの代理とジェブツンダンパ一世が同じ高さの座についたことが原因で、清朝をもまきこむ大戦争が十年にわたって続いたため、この故事を考えても、彼はダライラマと対等な席を要求する危険はおかせなかった。だから、ジェブツンダンパはモンゴルにきたダライラマと公式に会見することを避け、ひたすらひきこもり続けた。
というわけで、ダライラマ13世はモンゴル人には歓待されたものの、ジェブツンダンパにはいやな顔をされたため、モンゴルの地を離れ、もう一人の施主満洲皇帝のもとに向かう。しかし、清朝宮廷もまたダライラマに対して冷たかった。ダライラマ13世は光緒帝との謁見にあたり皇帝の座より遠くかつ低い席につかされ、属国の長のような扱いを受けたのである。清朝もあいつぐロシアや西洋列強の進出を受けて、領域国家への転換をはかり、チベットを植民地化する方向に舵を切っていたのである。ダライラマ13世に随行した僧たちは伝統を無視した清朝皇帝の無礼に憤り、北京の日本公使館に相談に訪れた記録が残っている。
つまり、1904年からはじまる行脚の中でダライラマ13世は、モンゴル人と満洲人はすでに施主として機能しなくなっていることに否応なしに気づかされた。
こうして百年前の二月十四日、ひさかたぶりにチベットに帰還したダライラマ13世は、チベット人に向けて前々回のエントリーで翻訳した布告を行うことになるのである。
ここでダライラマはチベット人に対して「もはや、モンゴル人も満洲人も施主ではなくなったこと、自分で食べていかねばならないこと、自力で国を護らねばならないこと」を宣言したのである。

もう一人の講演者である野口健さんは、七大陸最高峰を最年少で登頂した記録を持ち、その後は、ヒマラヤの清掃登山などの社会的な活動でも知られています。有名な方なのにチベットのためとなるとヴォランティア講演してくださるそうで、頭が下がります。
画面をクリックすると詳細が分かります。
※ちなみに、平日ということで会場設営・物販などのボランティアの人数確保が不安であるそうなので、もし会場に五時入りできる方がいらっしゃいましたら、SFTの方へご連絡ください(講演者も主催者もボランティア。後援なし。超クリーンです 爆笑)。
さて、百年前の二月十四日、ダライラマ13世がどのような状況にあったかを簡単に説明しよう。1904年に英軍のラサ侵攻を受けて、ダライラマ13世はモンゴルに亡命した。ダライラマのモンゴル訪問は、ダライラマ三世以来であり、ハルハははじめてということもあり、三次にわたる迎接使に迎えられて、フレー(現在のウランバートル)に入城した。
生ダライラマのご降臨とあって、モンゴルの大衆は大フィーバーし、数千人から時には万単位の群衆が集まってきて、ダライラマは毎日毎日祝福を授け続けた。
しかし、面白くないのはモンゴル最高位の僧、ジェブツンダンパ八世。地方のスターの前に全国区の有名人がきたようなもので、人気を奪われて面白くないことこの上ない。各国の外交官の記録やダライラマ13世の伝記には、ジェブツンダンパが、ダライラマに対して非常に複雑な感情を抱いていたことが記録されている。
とりあえずダライラマ13世伝にはこう書かれている。
ハルハ(現在のモンゴル共和国のある地域に遊牧していた人々)の政府(khal kha gzhung)とガンデンポタン政庁(ダライラマをトップとするチベット政府)両者は、昔から高僧と施主として関係を結んできた。一切智者蓮華手(観音菩薩=ダライラマ)と歴代のジェブツンダンパは互いに師弟の清浄な関係があるのみであった。従って、この時にハルハのすべてのあらゆる人々が、〔私のもとに〕挨拶にきて、わたしの天幕をととのえ生活基盤を支えるなど、まっすぐな心に動かされて、政治と仏教の善なるものが一つになったごときであった。〔そのお返しとしてこちらから〕相手に対しても・・・下賜品を盛大に与え、前例を参照しながら相当の褒美をとらせた。
しかし、『カーダム宝冊』に、「ああ、青空を翔る鵬を、鶏は家の中から中傷するように、智慧の領域に飛ぶ私を、怒りっぽいものは非難する」と言われているように、最高なる猊下(ダライラマ13世)を、この方面にいる全てのものが、ただ一人の應供僧ととらえて貴賤すべてが競って敬意を捧げ、教えや 指示(rjes bstan)を求めに来たりなどし、〔ダライラマ13世の〕令名が広がるにつれ、ジェブツンダンパ・フトクトは五濁の凡人と同じく、少しいやな態度をされ、信心深いふりをして御座を破壊したり、猊下の御前でタバコを吸われるなど、仏の教えに従わない様々な異端な振る舞いによって、三界の導き手をツタ国人※のように様々に中傷された。
※ 『サキャ格言集』の第三章の「礼儀を失ったものは、礼儀を守っている人を中傷する。一本足のツタ国の人は二本足を中傷する」という韻文に基づく。一本足のツタ国の人は堕落した人間、すなわちジェブツンダンパを、二本足はダライラマ13世をここでは指している。
この時の、ダライラマ13世とジェブツンダンパ8世の地位を簡単に説明すると、ローマ教皇と各国の司教の関係のようなものであった。ローマ教皇の権威は国も民族もこえて大きな影響力を持つが、各教区の司教の権力はその土地限定である。これと同様にダライラマの権威はチベット仏教徒ばかりか、欧米諸国にもその名は知られていたが、一方のジェブツンダンパの権威はあくまでもモンゴル人に限定されたものであった。
この事件の六年後、モンゴルは独立を宣言し、ジェブツンダンパ8世は国王として推戴されるが、この時のモンゴルはすでに、国民国家の建設に舵を切り始めていたため、ジェブツンダンパは自らの権威を損なうような危険はおかせなかった。
もしジェブツンダンパ8世がダライラマ13世と公式に会見することになれば、彼の座席は確実にダライラマより低い位置にしつらえられる。ジェブツンダンパは第一世の頃からダライラマの弟子であるし、歴代ジェブツンダンパは妻帯をし戒律を守っていないため、師弟関係からいっても、仏教の教義の観点からいっても、さらに学識の点からいっても、あらゆる意味でジェブツンダンパはダライラマの下座に座るべき存在であるからだ。しかし、そのような姿をジェブツンダンパはモンゴルの衆目にさらすことはできない。
また、17世紀にはダライラマの代理とジェブツンダンパ一世が同じ高さの座についたことが原因で、清朝をもまきこむ大戦争が十年にわたって続いたため、この故事を考えても、彼はダライラマと対等な席を要求する危険はおかせなかった。だから、ジェブツンダンパはモンゴルにきたダライラマと公式に会見することを避け、ひたすらひきこもり続けた。
というわけで、ダライラマ13世はモンゴル人には歓待されたものの、ジェブツンダンパにはいやな顔をされたため、モンゴルの地を離れ、もう一人の施主満洲皇帝のもとに向かう。しかし、清朝宮廷もまたダライラマに対して冷たかった。ダライラマ13世は光緒帝との謁見にあたり皇帝の座より遠くかつ低い席につかされ、属国の長のような扱いを受けたのである。清朝もあいつぐロシアや西洋列強の進出を受けて、領域国家への転換をはかり、チベットを植民地化する方向に舵を切っていたのである。ダライラマ13世に随行した僧たちは伝統を無視した清朝皇帝の無礼に憤り、北京の日本公使館に相談に訪れた記録が残っている。
つまり、1904年からはじまる行脚の中でダライラマ13世は、モンゴル人と満洲人はすでに施主として機能しなくなっていることに否応なしに気づかされた。
こうして百年前の二月十四日、ひさかたぶりにチベットに帰還したダライラマ13世は、チベット人に向けて前々回のエントリーで翻訳した布告を行うことになるのである。
ここでダライラマはチベット人に対して「もはや、モンゴル人も満洲人も施主ではなくなったこと、自分で食べていかねばならないこと、自力で国を護らねばならないこと」を宣言したのである。
年初の大学風物詩
卒論、修論など学位をかけた論文は、学生生活の総括である。提出できないと内定がでていようと卒業はパーとなるので、提出期限の最終日には人生をかけた様々なドラマがうまれる。
まず、一月の第一週に修論提出日がきた。二日間ある受付期間の初日、Sちゃんが中国人留学生Xくんを慰めながら研究室に入ってきた。何でもXくんは修論の下書きを指導教授にみせたら、「書き直せ」と言われ、それが一月五日だったので、もう提出を諦めたのだという。
慰める側のSちゃんも修論の提出を予定しているのに、最終締め切り日を明日に控えたその日もまだパソコンを開いて論文で使う史料の整形をしていた。この時点ではできあがった本文の誤字をなおすくらいをやっていないとまずい状態なのに、まだ史料の書式をととのえているのである。
そうこうするうちに院生Mが現れ、その二人の有様を見て
院生M「Sちゃん何か手伝うことある?」
Sちゃん「ない。黙ってて」
院生M「この期に及んで細かいことを気にしている場合じゃないよ。とにかく書くんだよ。死にかけたアサリが泥を吐くように文字を吐き続けるんだよ。僕はもう手が勝手に動き続けたよ。」
院生Mの修論は死にかけた貝がはくドロだったのか。そいえば去年の正月二日、彼の修論の話を聞くために高田馬場のエクセルシオールカフェにいったな。とくだらない思い出がよみがえる。
中国人留学生xくんはいつになく元気がなく、院生Mが買ってきたお菓子にも手を付けず、Sちゃんも、「もう三日寝ていないの。食べると眠くなるからいらない」というので、院生Mと私は二人でアイスクリームを食べながら、二人をナマ温かく見守る。
その後、Xくんと私はアメリカのテレビドラマについて語りだし、
Xくん「先生にお勧めのドラマがあります。ホワイト・カラーはイケメン二人が主人公ですよ」
私「主人公二人の顔キボンヌ」とか、腐った会話(Xくんがこう表現した)をしていたところ、Sちゃんが突然
Sちゃん「何かもうどうでもよくなってきた。」
するとすかさずXくん「あきらめちゃダメだよ」
そして、研究室をでる時、Xくんは通りすがりに彼女の肩にそっと手をおいて、でていった。
何かとてもキレイなものを見たような気がする。そこには民族をこえたグダグダな友情が芽生えていた・・・。
そのせいかどうかSちゃんは翌日無事提出に成功。こうやってここに書けるわけである。
その一週間後、今度は卒論の提出日が訪れた。今回提出予定者は私のゼミで六人。
しつこいくらい何度も、規定の書式で印刷せねばならないこと、製本しなければならないこと、私が判をついた指導票をつけなければ受け付けられないことをメールで流しつづけたのに、最後の最終日の前日になっても三人がハンコをとりにこない。
なので、その三人限定で、自分が授業をやっている教室の部屋番号を教えて、とにかく早くハンコをとりにくるように言う。しかし、ここまで言っても最後の一人Kくんが2時半すぎてもやってこない。即日製本は午後一時までにだすのが決まりなので、午後一時には卒論は完成しているはずなのに。
仕方ないので、kのケータイに「ハンコとりにこい」とメッセージをうちこむと
k「先生今どこですか」という緊迫感のないメールが届く。
何のハンコかも分かっていないかのような反応である。あれだけ口を酸っぱくして授業でも、メールでも連呼したのに。信じられない鈍さである。
そして、四限の授業が始まってしばらくたつと、戸口にぬーっとKが立った。「授業終わってからこいよ」と言いたいところだが、時間が迫っているため、仕方なく対応する。授業を中断してKの下にいき
「ハンコおすから書類は?」と聞くと、何と書類をもってきてない。ありえない。
しかし、私の方もハンコをだそうとしたら前の授業をやった教室に忘れてきていることに気づいたので、いい勝負である。呪われている。
「16号館の2階のサービスルームいって書類とってこい」とKをたたきだし、授業を続ける。そして授業が終わった後、Kの処にいき書類にハンコおすも、肝腎の卒論がない。聞けば
「即日製本の最終受付一時に間に合わなくて、それでも受け付けてもらって、その製本ができるのが四時半なんです。」
私「四時半って五時で受付終わるのに、三十分きるじゃない。もし形式とかではねられても、なおす時間もない。ありえない。あんたヤバイよ」
しかし、三日間寝ていないKは、朦朧としていてことの重大性に気づいていない模様。ふらふらと製本された卒論をお店にとりにいった。もうほとんどダメだろうと思いつつ、受付終了四分前の四時五十六分にKのケータイに電話をすると、
Kくん「今事務所の方にいろいろ叱られていますが、受け取ってもらえました」
奇跡の逆転である。この後彼は、「クウェート人の友達が日本に来ているので接待しなければならないんです」と去ってしまった。
そして翌日の授業に顔を見せないので、メールすると(これはいつものこと。下宿が大学の側なのでメールするとやってくる)珍しく返事がない。あとで聞くと、クウェート人の友達と別れたあと19時間寝続けたため、授業時間を寝過ごしたのだという。
クウェート人の接待が授業に優先されることといい、ハンコを授業中にとりにくることといい、最終日四分前の提出といい、彼の社会生活能力はあまりにも低い。
、彼はこれからアメリカの大学で哲学を学んで、夢はハーバート講義のマイケル・サンデル教授らしいが、才能以前にここまで社会生活力に欠けていて、向こうの学位をとるまで行き着けるのか。
以下、中国ネタ?の余談です。
関東以北に雪がふった1/14日、勉強会で大学に行った。成人式で休みであったため人気はなく、まるでスキー場のような趣であった。なので、雪にFree Tibetと傘で書いて記念撮影をしようと、たまたま通りかかった、三人の女学生に声をかけようとすると、本土中国語をしゃべる中国人であった・・・。仕方ないので記念撮影は自力でした。
それから、五日後、昔の学生が研究室に遊びにきた。みな卒業後もチベットときれないでいてくれる子たちであったため、記念撮影をしたいと言い出した。しかし、人気のない研究室フロア。先生たちしかいないし、誰に頼もう? と困っている内に、パントリーで院生らしい女の子が水道を使っていた。
そこで彼女に頼むこととしてその院生の女の子は研究室に入ってきた。しかし、何かドン引きしている。それに彼女の話し言葉はアクセントがちょっと違う。聞けば、中国の方であった。そりゃチベット旗見ればドンビキするわ。しかし、いい子だったのでシャッターは押してもらえた。彼女が立ち去った後、「世界の五人に一人は中国人だもんね。本土からきたチベットの子たちも、チベット語はラサ語とアムド語で通じなかったりしても、中国語で意思疎通ができたりするんだよね」と会話は暗い方向に。
いずれ、日本国内でも「チベット」とか言えない雰囲気になっていくなんてことはないよね!
そして、今日。某商社につとめる元学生と久しぶりにあって話をしていると、彼曰く
「アフリカやアジアのビジネスでは中国人がものすごく強い。中国人は現地の有力者に賄賂でもなんでもどんどんつぎこんで契約とり、囚人働かせて現地にみあった安い商品を作ってどんどん売っていく。ルールを護っている我々に勝ち目はない。このまま中国が台頭を続けていくと、〔道徳もルールもなしの〕金だけが尺度となる世の中がくる。みたいな話をする。
中国人がルールを守り、倫理をもつようになってくれるといいんだけど、あの国の教育は排外思想と、中華民族教育は行っても、他者の尊重、異なるものとの共生は教えないからな。ルールも倫理もない人が唯一理解できる言語は、今も昔も力のみ。金の力、武力、とにかく何かの力。もちろん、彼らが、慈悲の力とか恥を知るとかいう概念を理解てきるようになるのが一番いいんだけどね。
まず、一月の第一週に修論提出日がきた。二日間ある受付期間の初日、Sちゃんが中国人留学生Xくんを慰めながら研究室に入ってきた。何でもXくんは修論の下書きを指導教授にみせたら、「書き直せ」と言われ、それが一月五日だったので、もう提出を諦めたのだという。
慰める側のSちゃんも修論の提出を予定しているのに、最終締め切り日を明日に控えたその日もまだパソコンを開いて論文で使う史料の整形をしていた。この時点ではできあがった本文の誤字をなおすくらいをやっていないとまずい状態なのに、まだ史料の書式をととのえているのである。
そうこうするうちに院生Mが現れ、その二人の有様を見て
院生M「Sちゃん何か手伝うことある?」
Sちゃん「ない。黙ってて」
院生M「この期に及んで細かいことを気にしている場合じゃないよ。とにかく書くんだよ。死にかけたアサリが泥を吐くように文字を吐き続けるんだよ。僕はもう手が勝手に動き続けたよ。」
院生Mの修論は死にかけた貝がはくドロだったのか。そいえば去年の正月二日、彼の修論の話を聞くために高田馬場のエクセルシオールカフェにいったな。とくだらない思い出がよみがえる。
中国人留学生xくんはいつになく元気がなく、院生Mが買ってきたお菓子にも手を付けず、Sちゃんも、「もう三日寝ていないの。食べると眠くなるからいらない」というので、院生Mと私は二人でアイスクリームを食べながら、二人をナマ温かく見守る。
その後、Xくんと私はアメリカのテレビドラマについて語りだし、
Xくん「先生にお勧めのドラマがあります。ホワイト・カラーはイケメン二人が主人公ですよ」
私「主人公二人の顔キボンヌ」とか、腐った会話(Xくんがこう表現した)をしていたところ、Sちゃんが突然
Sちゃん「何かもうどうでもよくなってきた。」
するとすかさずXくん「あきらめちゃダメだよ」
そして、研究室をでる時、Xくんは通りすがりに彼女の肩にそっと手をおいて、でていった。
何かとてもキレイなものを見たような気がする。そこには民族をこえたグダグダな友情が芽生えていた・・・。
そのせいかどうかSちゃんは翌日無事提出に成功。こうやってここに書けるわけである。
その一週間後、今度は卒論の提出日が訪れた。今回提出予定者は私のゼミで六人。
しつこいくらい何度も、規定の書式で印刷せねばならないこと、製本しなければならないこと、私が判をついた指導票をつけなければ受け付けられないことをメールで流しつづけたのに、最後の最終日の前日になっても三人がハンコをとりにこない。
なので、その三人限定で、自分が授業をやっている教室の部屋番号を教えて、とにかく早くハンコをとりにくるように言う。しかし、ここまで言っても最後の一人Kくんが2時半すぎてもやってこない。即日製本は午後一時までにだすのが決まりなので、午後一時には卒論は完成しているはずなのに。
仕方ないので、kのケータイに「ハンコとりにこい」とメッセージをうちこむと
k「先生今どこですか」という緊迫感のないメールが届く。
何のハンコかも分かっていないかのような反応である。あれだけ口を酸っぱくして授業でも、メールでも連呼したのに。信じられない鈍さである。
そして、四限の授業が始まってしばらくたつと、戸口にぬーっとKが立った。「授業終わってからこいよ」と言いたいところだが、時間が迫っているため、仕方なく対応する。授業を中断してKの下にいき
「ハンコおすから書類は?」と聞くと、何と書類をもってきてない。ありえない。
しかし、私の方もハンコをだそうとしたら前の授業をやった教室に忘れてきていることに気づいたので、いい勝負である。呪われている。
「16号館の2階のサービスルームいって書類とってこい」とKをたたきだし、授業を続ける。そして授業が終わった後、Kの処にいき書類にハンコおすも、肝腎の卒論がない。聞けば
「即日製本の最終受付一時に間に合わなくて、それでも受け付けてもらって、その製本ができるのが四時半なんです。」
私「四時半って五時で受付終わるのに、三十分きるじゃない。もし形式とかではねられても、なおす時間もない。ありえない。あんたヤバイよ」
しかし、三日間寝ていないKは、朦朧としていてことの重大性に気づいていない模様。ふらふらと製本された卒論をお店にとりにいった。もうほとんどダメだろうと思いつつ、受付終了四分前の四時五十六分にKのケータイに電話をすると、
Kくん「今事務所の方にいろいろ叱られていますが、受け取ってもらえました」
奇跡の逆転である。この後彼は、「クウェート人の友達が日本に来ているので接待しなければならないんです」と去ってしまった。
そして翌日の授業に顔を見せないので、メールすると(これはいつものこと。下宿が大学の側なのでメールするとやってくる)珍しく返事がない。あとで聞くと、クウェート人の友達と別れたあと19時間寝続けたため、授業時間を寝過ごしたのだという。
クウェート人の接待が授業に優先されることといい、ハンコを授業中にとりにくることといい、最終日四分前の提出といい、彼の社会生活能力はあまりにも低い。
、彼はこれからアメリカの大学で哲学を学んで、夢はハーバート講義のマイケル・サンデル教授らしいが、才能以前にここまで社会生活力に欠けていて、向こうの学位をとるまで行き着けるのか。
以下、中国ネタ?の余談です。
関東以北に雪がふった1/14日、勉強会で大学に行った。成人式で休みであったため人気はなく、まるでスキー場のような趣であった。なので、雪にFree Tibetと傘で書いて記念撮影をしようと、たまたま通りかかった、三人の女学生に声をかけようとすると、本土中国語をしゃべる中国人であった・・・。仕方ないので記念撮影は自力でした。
それから、五日後、昔の学生が研究室に遊びにきた。みな卒業後もチベットときれないでいてくれる子たちであったため、記念撮影をしたいと言い出した。しかし、人気のない研究室フロア。先生たちしかいないし、誰に頼もう? と困っている内に、パントリーで院生らしい女の子が水道を使っていた。
そこで彼女に頼むこととしてその院生の女の子は研究室に入ってきた。しかし、何かドン引きしている。それに彼女の話し言葉はアクセントがちょっと違う。聞けば、中国の方であった。そりゃチベット旗見ればドンビキするわ。しかし、いい子だったのでシャッターは押してもらえた。彼女が立ち去った後、「世界の五人に一人は中国人だもんね。本土からきたチベットの子たちも、チベット語はラサ語とアムド語で通じなかったりしても、中国語で意思疎通ができたりするんだよね」と会話は暗い方向に。
いずれ、日本国内でも「チベット」とか言えない雰囲気になっていくなんてことはないよね!
そして、今日。某商社につとめる元学生と久しぶりにあって話をしていると、彼曰く
「アフリカやアジアのビジネスでは中国人がものすごく強い。中国人は現地の有力者に賄賂でもなんでもどんどんつぎこんで契約とり、囚人働かせて現地にみあった安い商品を作ってどんどん売っていく。ルールを護っている我々に勝ち目はない。このまま中国が台頭を続けていくと、〔道徳もルールもなしの〕金だけが尺度となる世の中がくる。みたいな話をする。
中国人がルールを守り、倫理をもつようになってくれるといいんだけど、あの国の教育は排外思想と、中華民族教育は行っても、他者の尊重、異なるものとの共生は教えないからな。ルールも倫理もない人が唯一理解できる言語は、今も昔も力のみ。金の力、武力、とにかく何かの力。もちろん、彼らが、慈悲の力とか恥を知るとかいう概念を理解てきるようになるのが一番いいんだけどね。
チベット・モンゴル条約百周年!
昨日、院生Mに言われて、本日が調度百年前にチベット・モンゴル条約が締結された日であることを思い出した。なので本日急遽チベット・モンゴル条約に関するエントリーをあげる (確認の甘い部分があると思うので、気がついたところからあとで治す)。
20世紀初頭、清朝は主要な地に限って官員を駐在させ、チベットとモンゴルの社会と文化は尊重するという伝統的な政策を一方的に廃し、モンゴルと東チベットにおいていわゆる「新政」という名の実効統治を開始した。この情勢を受けてチベットとモンゴルの王侯たちはそれぞれの立場から様々な対抗措置をとった。
ハルハ・モンゴルは1911年に中国からの独立を宣言し、モンゴルにおけるチベット仏教界のトップ、ジェブツンダンパ八世を国王として推戴した。このあとモンゴルはロシアの庇護を受けることに成功し、結果として現在も独立国として存続している。
一方、チベットにおいては、チベット仏教界のトップ、ダライラマ13世が1913年に亡命先の英領シッキムから帰還して、チベット人に対して、施主であった清朝は崩壊したこと自立すべきこと布告し(前回のエントリー)、一ヶ月後、チベットとモンゴルとの間に互いの独立を承認しあう友好条約を結んだ。それが、百年前の今日、締結されたチベット・モンゴル条約である。
以後、チベットは1950年まで事実上の独立国として機能したものの、その後共産党の軍隊に占領されて現在に至る。清朝の影響力という視点から見れば、はるかに影響力の小さいチベットが現在中国の支配下にあり、より強かったモンゴルは独立国として存在するという対照的な結果となったのである。
実は、この条約は全権大使がドルジエフである。しかし、イギリスの行政官チャールズベルに対して時のチベット政府は、このドルジエフにダライラマ13世は全権委任していない、といっているし、某研究者は(名前だしてよかったら出しますので連絡ください)、この条約の締結の状況が現在不明であるため、はっきりしたことは言えないが、条約の言葉使いがチベット側の承認を得たものとはとてもいえないこと、たとえば、「チベットが清朝の支配下からでた」という表現は、モンゴルにおいては妥当であっても、前述したようにダライラマ13世は一貫して「チベットが清朝皇帝の支配下にいた」という認識を否定しているので、矛盾すること、この条約はモンゴル主導で締結されたものではないかという。
まあ、そういうわけで、いろいろ物議をかもしている条約だけど、当時のダライラマ13世とモンゴルのジェブツンダンパ8世が、チベット仏教という共通の文化を基盤に、助け合うことを誓い、文化の違う中華民国を全否定していたという事実には変わりない。
●「チベット・モンゴル条約」(1913年1月11日) 調印地 フレー(現ウランバートル)
我々モンゴルとチベット両〔国〕は,満洲政権の支配下から脱し中国と別れてチベット・モンゴルそれぞれ独立国家を為した。過去より現在に至るまで,チベットとモンゴルの両者は仏教政治を一つにして,大変緊密な関係であるので,今、〔それを〕さらに確かなものとする方法として条約を締結する。その内容は,
モンゴル国の皇帝のご命令により条約締結の権限を与えられたりは:
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビリクト=〔ラプタン〕
副大臣にして将軍職にあるマンレー=バートゥル=ベイレ〔ダムディスレン〕
チベットの国の皇帝であるダライラマ御前のご命令によって条約締結の権限を与えられたのは、
侍従ツェンシャプ=ケンチェ=ロサン=ガワン(ドルジエフ),
ツェドゥン・ガワン=チューズィン、フレー(ウランバートル)の布施管理官ツェドゥン=イェシェー=ギャツォ
書記ゲンドゥン、ケルサンが条約を締結した。
第一条:モンゴル〔人〕が独立国家を為し,黄帽派の主たるジェツンダンパ=ホトクト御前を鉄の豚の年11月9日に皇帝として推戴したことを,チベットの皇帝であるダライラマ御前は称揚して,確認し変わらないものとした。
第二条:チベット人が独立国家をなした上で,ダライラマ御前を皇帝として推戴したことを,モンゴルの皇帝であるジェツンダンパ御前は称揚し,確認し変わらないものとした。
第三条:尊い仏の教えを衰えさせず興隆させるために,我々両国は協議のうえで努力せねばならない。
第四条:チベットとモンゴルの両〔国〕はこれより後,常に,内外の脅威より相互に,護り合い助け合うものとする。
第五条:仏教政治の仕事や仏教政治の学習のために,〔チベットとモンゴルを〕相互に往来する者達は,それぞれの地において援助しあうこと。
第六条:チベットとモンゴルの両者はそれぞれの地域から産出される産物・家畜・皮革製品などの商品の移動,金の移動の中で決済の時期がきた時には,従来と同様〔その決済を〕妨げることはない。
第七条:今後,金銭の貸し付けをおこなう時には,貸借時に印務処に申請して押印して確認を行っていない時には,負債を取り立てる時,役所に申し立てないこと。ただ、条約を締結する前の債権者で互いに苦境にあって実際の関係がある時には、〔債務者を〕取りたて支払わせてもよい。しかし,〔債務者の〕シャビや旗民に対して負債を負わせない。
第八条:この条約を締結した後,追加すべき重要事項がある場合には,チベットとモンゴルの両国は,権限を付与された大臣らを任命して,協議してもよい。
第九条:この条約文を締結して押印し確認した不変なものとなしてからは,この内容そのままに〔実行〕すること。
モンゴル国の皇帝の地から任命されて、条約締結の権限を与えられた
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビレクトゥ〔ラプテン〕、
副大臣にして将軍職にあるマンレー=パートゥル貝勒〔ダムジスレン〕
チベット国の皇帝である勝者王ダライラマ御前が任命して条約締結の権限を与えた大臣
ツェンシャプ=ケンチェ=ロプサンガワン
ツェドゥン=ガワン=チューズィン
ウランバートルの金融管理官(布施管理官)ツェドゥン=イェシェーギャムツォ
書記のゲンドゥン、ケルサン
モンゴル国の共戴2年12月4日〔に締結した〕。
*(13年2月25日に前のテキトーな訳を下げて、チベット語原文よりの訳をいれました。)
20世紀初頭、清朝は主要な地に限って官員を駐在させ、チベットとモンゴルの社会と文化は尊重するという伝統的な政策を一方的に廃し、モンゴルと東チベットにおいていわゆる「新政」という名の実効統治を開始した。この情勢を受けてチベットとモンゴルの王侯たちはそれぞれの立場から様々な対抗措置をとった。
ハルハ・モンゴルは1911年に中国からの独立を宣言し、モンゴルにおけるチベット仏教界のトップ、ジェブツンダンパ八世を国王として推戴した。このあとモンゴルはロシアの庇護を受けることに成功し、結果として現在も独立国として存続している。
一方、チベットにおいては、チベット仏教界のトップ、ダライラマ13世が1913年に亡命先の英領シッキムから帰還して、チベット人に対して、施主であった清朝は崩壊したこと自立すべきこと布告し(前回のエントリー)、一ヶ月後、チベットとモンゴルとの間に互いの独立を承認しあう友好条約を結んだ。それが、百年前の今日、締結されたチベット・モンゴル条約である。
以後、チベットは1950年まで事実上の独立国として機能したものの、その後共産党の軍隊に占領されて現在に至る。清朝の影響力という視点から見れば、はるかに影響力の小さいチベットが現在中国の支配下にあり、より強かったモンゴルは独立国として存在するという対照的な結果となったのである。
実は、この条約は全権大使がドルジエフである。しかし、イギリスの行政官チャールズベルに対して時のチベット政府は、このドルジエフにダライラマ13世は全権委任していない、といっているし、某研究者は(名前だしてよかったら出しますので連絡ください)、この条約の締結の状況が現在不明であるため、はっきりしたことは言えないが、条約の言葉使いがチベット側の承認を得たものとはとてもいえないこと、たとえば、「チベットが清朝の支配下からでた」という表現は、モンゴルにおいては妥当であっても、前述したようにダライラマ13世は一貫して「チベットが清朝皇帝の支配下にいた」という認識を否定しているので、矛盾すること、この条約はモンゴル主導で締結されたものではないかという。
まあ、そういうわけで、いろいろ物議をかもしている条約だけど、当時のダライラマ13世とモンゴルのジェブツンダンパ8世が、チベット仏教という共通の文化を基盤に、助け合うことを誓い、文化の違う中華民国を全否定していたという事実には変わりない。
●「チベット・モンゴル条約」(1913年1月11日) 調印地 フレー(現ウランバートル)
我々モンゴルとチベット両〔国〕は,満洲政権の支配下から脱し中国と別れてチベット・モンゴルそれぞれ独立国家を為した。過去より現在に至るまで,チベットとモンゴルの両者は仏教政治を一つにして,大変緊密な関係であるので,今、〔それを〕さらに確かなものとする方法として条約を締結する。その内容は,
モンゴル国の皇帝のご命令により条約締結の権限を与えられたりは:
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビリクト=〔ラプタン〕
副大臣にして将軍職にあるマンレー=バートゥル=ベイレ〔ダムディスレン〕
チベットの国の皇帝であるダライラマ御前のご命令によって条約締結の権限を与えられたのは、
侍従ツェンシャプ=ケンチェ=ロサン=ガワン(ドルジエフ),
ツェドゥン・ガワン=チューズィン、フレー(ウランバートル)の布施管理官ツェドゥン=イェシェー=ギャツォ
書記ゲンドゥン、ケルサンが条約を締結した。
第一条:モンゴル〔人〕が独立国家を為し,黄帽派の主たるジェツンダンパ=ホトクト御前を鉄の豚の年11月9日に皇帝として推戴したことを,チベットの皇帝であるダライラマ御前は称揚して,確認し変わらないものとした。
第二条:チベット人が独立国家をなした上で,ダライラマ御前を皇帝として推戴したことを,モンゴルの皇帝であるジェツンダンパ御前は称揚し,確認し変わらないものとした。
第三条:尊い仏の教えを衰えさせず興隆させるために,我々両国は協議のうえで努力せねばならない。
第四条:チベットとモンゴルの両〔国〕はこれより後,常に,内外の脅威より相互に,護り合い助け合うものとする。
第五条:仏教政治の仕事や仏教政治の学習のために,〔チベットとモンゴルを〕相互に往来する者達は,それぞれの地において援助しあうこと。
第六条:チベットとモンゴルの両者はそれぞれの地域から産出される産物・家畜・皮革製品などの商品の移動,金の移動の中で決済の時期がきた時には,従来と同様〔その決済を〕妨げることはない。
第七条:今後,金銭の貸し付けをおこなう時には,貸借時に印務処に申請して押印して確認を行っていない時には,負債を取り立てる時,役所に申し立てないこと。ただ、条約を締結する前の債権者で互いに苦境にあって実際の関係がある時には、〔債務者を〕取りたて支払わせてもよい。しかし,〔債務者の〕シャビや旗民に対して負債を負わせない。
第八条:この条約を締結した後,追加すべき重要事項がある場合には,チベットとモンゴルの両国は,権限を付与された大臣らを任命して,協議してもよい。
第九条:この条約文を締結して押印し確認した不変なものとなしてからは,この内容そのままに〔実行〕すること。
モンゴル国の皇帝の地から任命されて、条約締結の権限を与えられた
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビレクトゥ〔ラプテン〕、
副大臣にして将軍職にあるマンレー=パートゥル貝勒〔ダムジスレン〕
チベット国の皇帝である勝者王ダライラマ御前が任命して条約締結の権限を与えた大臣
ツェンシャプ=ケンチェ=ロプサンガワン
ツェドゥン=ガワン=チューズィン
ウランバートルの金融管理官(布施管理官)ツェドゥン=イェシェーギャムツォ
書記のゲンドゥン、ケルサン
モンゴル国の共戴2年12月4日〔に締結した〕。
*(13年2月25日に前のテキトーな訳を下げて、チベット語原文よりの訳をいれました。)
ダライラマ13世の国民への布告(1913年)
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
今年はチベットにとって特別な年である。じつは今から調度100年前の1913年1月、ダライラマ13世は亡命先の英領シッキムからチベットに帰還し、二月に国民に向けて有名な布告文をだした。
この年以後、中国共産党の侵略をうける1950年まで、チベットが事実上の独立国であったことは様々な人々の証言、史料によって証明されている。年頭にあたって、このダライラマ13世の百年前のチベット人への布告文をチベット語から和訳してみた。
この文書はダライラマ十三世が「施主の満洲人もモンゴル人ももういない。だから、みなは自力更生し、僧侶は修行に、役人は職分に励み、国境地域の人々は外からの脅威からチベットを守れ。荒れ地を開墾せよ。」と呼びかけたもの。
特に、五つの項目は、臣民への自力更生を説いているので箇条書きであげる。
(1) 仏教こそがチベットの根本であるため、僧院・僧団の維持を行うこと。
(2) 僧侶は修行に励んで、戒律・寺規を守ること。
(3) 役人は領民を重税によって苦しめないこと。
(4) 軍隊を編成して国境をパトロールし、中国軍とスパイの侵入を防ぐこと。
(5) 開墾の奨励
ダライラマ13世は人々の圧倒的な支持を得ていたが、13世の言うとおりにする者は少なく、何とかなるだろう」「こんな高地まで中国軍はこないだろう」と思っていたら、どうなったかは歴史が教えてくれる。
この布告文はチベット人によって「独立宣言」と言い習わされているけど、「独立」という言葉はどこかの支配に入っていたということを暗に示す言葉なのに、ダライラマは清朝皇帝を施主とは思っても主人とはさらさら思っていなかったので、これを独立宣言と表現するのはちょっと語弊がある。
1913年に布告されたので、とりあえず13年布告といっておく。
〔ダライラマ13世の1913年2月布告文〕
〔詔勅の発信者〕 聖地(インド)から、仏の勅命。勝者王・三界の依怙尊・全ての時において地上の勝者の教え(仏教)の主たるもの・一切を知るもの「持金剛仏・海の高僧」(ダライラマ)*1と呼ばれるものの勅である。
*1(「」内より前はダライラマの尊称。「」内は1678年にモンゴルのアルタン=ハンがダライラマ三世に対して授けた称号。)
〔詔勅の受取手〕 涼しき白き雪の柵によって囲まれた偉大なる薬草の園(チベット)*2に住む僧俗の貴き者・賤しきもの全てと、和平・戦争の使者として派遣されしもの全てに対して告げる。
*2(涼しき白き柵に囲まれたもの・薬草の園は、いずれもチベットの美称)
〔チベットの守護尊は観音菩薩〕 聖地から発せられた我らが慈悲深き仏ご自身の預言の通りに、この涼しき薬草の園には、最も優れた聖者である世自在(観音菩薩)が化身の姿で、法王三祖*3以来、今にいたるまでずっと途切れることなく現れて、この地(チベット)を支配し、命あるもの達を様々な方策と偉大なる慈悲の心によって護ってきた。
*3(古代チベットを代表する三聖王、ソンツェンガムポ・ティソンデツェン・ティレルパチェンの三人)
〔モンゴルと満洲は施主〕 かつて、チンギス=ハンやアルタン=ハン*4などのモンゴル王や、明王朝などの中国の王などが順次現れた。最も優れた勝者である偉大なる五世(ダライラマ五世)の御世に至った時、満洲の皇帝と「施主と高僧の関係」(mchod yon) を結び互いに護り合ってきた。
*4(モンゴルトゥメト部の王。1578年、ダライラマ号の起源となる称号をダライラマ三世に奉じた。)
〔四川の役人の横暴〕 ところが、数年来、四川と雲南の中国の役人はチベットの地を蚕食せんとの心から、専制政治の苛政を計り知れず行い、そればかりか、条約によって開かれた交易場を監視するとの口実をもって、中央チベットに大規模な中国軍を、王都「仏の座」(ラサ)に送りこんできた。
したがって私は中国とチベットの関係が「施主と高僧の関係」であるだけで、一方が他方に属する従属関係に基づくものではなかったことを明らかにするために、私と大臣は国境に行って北京に電信を通じて伝えようとした。しかし、私が出発した後に、生死に関わらず私を捕縛せよとの命令を受けた中国兵に追われて、余儀なく国境を越えた。インド到着後、私は何通かの電報を中国に向けて打電した。しかるに堕落した北京の官吏の妨害のために満洲皇帝の返答はなかなか来なかった。
〔清朝の崩壊・中国人の放逐・ダライラマ13世のチベットへの帰還〕
欺くことのできない前世の業の力によってまもなく満洲皇帝の政は倒れた。
チベット人の貴賤すべては自力で中国軍と戦い続け、ウ・ツァン(中央チベット地域)より中国人を放逐した。 私も自分の護るべき国・仏教の地(チベット)に無事に帰還し、現在カム(東チベット)より残留兵を一掃しつつある。今や「施主と高僧の関係」を口実にチベットを奴隷化しようとした中国の陰謀は、塵のごとく、または虚空の虹のごとくに消えた。命あるものが、再び仏教と富によって幸福な新たな黄金時代を享受し始めている。以下に述べたことを、汝ら僧俗貴賤のすべてが実行するべきこととして、〔以下の五条がある〕
第一条 〔仏法と僧伽の維持〕この世界において、すべての公共の福祉が生まれる基盤は、宝のごとき勝者の教え(仏教)が供養を通じて長く地上に留まることにある。したがって、ラサのトゥルナン寺、ラモチェ、タンドゥク寺、サムイェ寺などの聖地とラサの三大僧院*(セラ、デプン、ガンデン)などの、宗派を問わないあらゆる僧伽において、布施が途切れなく集まり、維持することができるように管理せよ。
第二条 〔僧院の綱紀粛正〕宗派を問わず各僧院の僧院長・阿闍梨・比丘たちは、自派の顕教・密教の新旧の清浄な修行が廃れないように、栄えるようにすること。廃れているなら回復すること。儀軌(式次第)・教授、聞・思・修 (三学) に勤しみ、護ると誓った寺規などを遵守することを第一とすべきである。
第三条 〔役人は良民を苦しめないこと〕すべての駅伝の差配をする人は、徴税し、法を執行する仕事すべてを、正しさを重視し、政府と臣民両者に益あるように怠りなくすること。ガリコルスム(西チベット)、ドメー(東北チベット)方面などここから遠くに行ったものに対して信じられない賦役をとり、押し売りをし、法で定めた制限をこえた馬・人・駄獣の三つを無数に徴発するなどして、臣下が生活することができないほどの損害を与え、ささいな罪で責めては土地や家屋を没収し、感覚器官や四肢を切断することをしてきた。これなどは、今生・来世の業果も〔悪く〕、何の名誉にもならない悪行の類である。これらは名前も残らないくらい無くさねばならないことである。
第四条 〔中国の侵入に備えて国境の守備をすること〕チベットは他の国のような経済・軍事力・機械は持たないけれども、仏法に則った平和な独立国家(rgyal khab rang dbang)であるので、今、外交・軍事のあらゆる事務において監督をいっそう強化することにより自分の土地を固守できる大規模な軍備を布くとすれば、すぐに兵を送る義務がある。カムの沿道にやや問題があるようなので、中国が不当な占領行為を前後に行ったという過去を思い、みなで言われなくとも実行することを通じて、自分の土地を自分で護り、自分の村を自分でまもる方策について、みなが真摯に責任を持たねばならない。それのみならず、東西南北の国境における巡回パトロールを怠りなく行い、外国人のスパイがやってこないように、厳しく締め付けること。もし少しでも疑わしい話があれば、すぐにすべての政府の領地の騎馬の使者を派遣して、昼夜兼行で王都に報告せよ。たるんでいることによっておきる、無意味な、原因は小さいが結果は大きいような争乱をとくに起こすようなことは決して許さない。
第五条 〔開墾の奨励〕このチベットは人口が少なく、人が住まない不毛の土地が非常にたくさんあるが、努力をする人が耕そうという心を起こしても、支配者が食料供出を求め、地主たちも自身で開墾することはできないのに、他人が開墾することは我慢できずに、嫉妬から様々な因縁を付けて、地域が発展する基礎を破壊し捨てる風潮がある。これらは自分にとっても他人にとっても益のないことであり、何もいいことがない。
従ってこれから以後、不毛な人の住んでいない山河などの共有地すべてについて、努力を厭わない奇特な俗人が、畑を耕すこと、柳を育てることなどの公共の利益となる植樹を何であれ行おうとするなら、その者に対して、政府の人間であれ、貴族であれ、僧院関係者であれ、決して妨げてはならない。
開墾地は、3年の間無税で利用させ、その後に土地の広さと利用度を加味して、政府と地主の税を二年間課すことができる。開墾地の所有権は永遠に安堵して、政府・臣民両者に戻りがあるようにするべきである。
以上に述べたことを皆が実践するならば、政府に恩返しをする助けとなり、自分と他人、あらゆる地域において幸福の兆が大きくかつ自然に増えていくことは確実である。何が損で何が得かを考えて、仏教と人法の取るべきもの、捨てるべきものを間違えないこと、なすべき事は完遂せねばならない。以上の条文をすべての地域において、理解していない者、聞いない者がいないように宣告すること。複製したものを人の集まる場所、高位の人のいる地に張り出すこと、実際の政府の土地の帳簿に記録した上で、毎日の仕事について、ひき続き、正しく行うように。
以上のように理解すべき文書を、水の牛の年の神変月の吉日に*5、第二補陀洛の無量宮ポタラ*6で書いた。 *( ) 〔〕内は訳者の解説
*5(Zhva sgab paによるとチベット暦の水牛年一月八日=1913年2月14日)
*6(補陀洛は観音の聖地。第二とつくことで観音の化身ダライラマの住所ポタラ宮を示す。)
(Zhva sgab pa, bod kyi srid don rgyal rabs, pp.219-221よりチベット語から試訳。
今年はチベットにとって特別な年である。じつは今から調度100年前の1913年1月、ダライラマ13世は亡命先の英領シッキムからチベットに帰還し、二月に国民に向けて有名な布告文をだした。
この年以後、中国共産党の侵略をうける1950年まで、チベットが事実上の独立国であったことは様々な人々の証言、史料によって証明されている。年頭にあたって、このダライラマ13世の百年前のチベット人への布告文をチベット語から和訳してみた。
この文書はダライラマ十三世が「施主の満洲人もモンゴル人ももういない。だから、みなは自力更生し、僧侶は修行に、役人は職分に励み、国境地域の人々は外からの脅威からチベットを守れ。荒れ地を開墾せよ。」と呼びかけたもの。
特に、五つの項目は、臣民への自力更生を説いているので箇条書きであげる。
(1) 仏教こそがチベットの根本であるため、僧院・僧団の維持を行うこと。
(2) 僧侶は修行に励んで、戒律・寺規を守ること。
(3) 役人は領民を重税によって苦しめないこと。
(4) 軍隊を編成して国境をパトロールし、中国軍とスパイの侵入を防ぐこと。
(5) 開墾の奨励
ダライラマ13世は人々の圧倒的な支持を得ていたが、13世の言うとおりにする者は少なく、何とかなるだろう」「こんな高地まで中国軍はこないだろう」と思っていたら、どうなったかは歴史が教えてくれる。
この布告文はチベット人によって「独立宣言」と言い習わされているけど、「独立」という言葉はどこかの支配に入っていたということを暗に示す言葉なのに、ダライラマは清朝皇帝を施主とは思っても主人とはさらさら思っていなかったので、これを独立宣言と表現するのはちょっと語弊がある。
1913年に布告されたので、とりあえず13年布告といっておく。
〔ダライラマ13世の1913年2月布告文〕
〔詔勅の発信者〕 聖地(インド)から、仏の勅命。勝者王・三界の依怙尊・全ての時において地上の勝者の教え(仏教)の主たるもの・一切を知るもの「持金剛仏・海の高僧」(ダライラマ)*1と呼ばれるものの勅である。
*1(「」内より前はダライラマの尊称。「」内は1678年にモンゴルのアルタン=ハンがダライラマ三世に対して授けた称号。)
〔詔勅の受取手〕 涼しき白き雪の柵によって囲まれた偉大なる薬草の園(チベット)*2に住む僧俗の貴き者・賤しきもの全てと、和平・戦争の使者として派遣されしもの全てに対して告げる。
*2(涼しき白き柵に囲まれたもの・薬草の園は、いずれもチベットの美称)
〔チベットの守護尊は観音菩薩〕 聖地から発せられた我らが慈悲深き仏ご自身の預言の通りに、この涼しき薬草の園には、最も優れた聖者である世自在(観音菩薩)が化身の姿で、法王三祖*3以来、今にいたるまでずっと途切れることなく現れて、この地(チベット)を支配し、命あるもの達を様々な方策と偉大なる慈悲の心によって護ってきた。
*3(古代チベットを代表する三聖王、ソンツェンガムポ・ティソンデツェン・ティレルパチェンの三人)
〔モンゴルと満洲は施主〕 かつて、チンギス=ハンやアルタン=ハン*4などのモンゴル王や、明王朝などの中国の王などが順次現れた。最も優れた勝者である偉大なる五世(ダライラマ五世)の御世に至った時、満洲の皇帝と「施主と高僧の関係」(mchod yon) を結び互いに護り合ってきた。
*4(モンゴルトゥメト部の王。1578年、ダライラマ号の起源となる称号をダライラマ三世に奉じた。)
〔四川の役人の横暴〕 ところが、数年来、四川と雲南の中国の役人はチベットの地を蚕食せんとの心から、専制政治の苛政を計り知れず行い、そればかりか、条約によって開かれた交易場を監視するとの口実をもって、中央チベットに大規模な中国軍を、王都「仏の座」(ラサ)に送りこんできた。
したがって私は中国とチベットの関係が「施主と高僧の関係」であるだけで、一方が他方に属する従属関係に基づくものではなかったことを明らかにするために、私と大臣は国境に行って北京に電信を通じて伝えようとした。しかし、私が出発した後に、生死に関わらず私を捕縛せよとの命令を受けた中国兵に追われて、余儀なく国境を越えた。インド到着後、私は何通かの電報を中国に向けて打電した。しかるに堕落した北京の官吏の妨害のために満洲皇帝の返答はなかなか来なかった。
〔清朝の崩壊・中国人の放逐・ダライラマ13世のチベットへの帰還〕
欺くことのできない前世の業の力によってまもなく満洲皇帝の政は倒れた。
チベット人の貴賤すべては自力で中国軍と戦い続け、ウ・ツァン(中央チベット地域)より中国人を放逐した。 私も自分の護るべき国・仏教の地(チベット)に無事に帰還し、現在カム(東チベット)より残留兵を一掃しつつある。今や「施主と高僧の関係」を口実にチベットを奴隷化しようとした中国の陰謀は、塵のごとく、または虚空の虹のごとくに消えた。命あるものが、再び仏教と富によって幸福な新たな黄金時代を享受し始めている。以下に述べたことを、汝ら僧俗貴賤のすべてが実行するべきこととして、〔以下の五条がある〕
第一条 〔仏法と僧伽の維持〕この世界において、すべての公共の福祉が生まれる基盤は、宝のごとき勝者の教え(仏教)が供養を通じて長く地上に留まることにある。したがって、ラサのトゥルナン寺、ラモチェ、タンドゥク寺、サムイェ寺などの聖地とラサの三大僧院*(セラ、デプン、ガンデン)などの、宗派を問わないあらゆる僧伽において、布施が途切れなく集まり、維持することができるように管理せよ。
第二条 〔僧院の綱紀粛正〕宗派を問わず各僧院の僧院長・阿闍梨・比丘たちは、自派の顕教・密教の新旧の清浄な修行が廃れないように、栄えるようにすること。廃れているなら回復すること。儀軌(式次第)・教授、聞・思・修 (三学) に勤しみ、護ると誓った寺規などを遵守することを第一とすべきである。
第三条 〔役人は良民を苦しめないこと〕すべての駅伝の差配をする人は、徴税し、法を執行する仕事すべてを、正しさを重視し、政府と臣民両者に益あるように怠りなくすること。ガリコルスム(西チベット)、ドメー(東北チベット)方面などここから遠くに行ったものに対して信じられない賦役をとり、押し売りをし、法で定めた制限をこえた馬・人・駄獣の三つを無数に徴発するなどして、臣下が生活することができないほどの損害を与え、ささいな罪で責めては土地や家屋を没収し、感覚器官や四肢を切断することをしてきた。これなどは、今生・来世の業果も〔悪く〕、何の名誉にもならない悪行の類である。これらは名前も残らないくらい無くさねばならないことである。
第四条 〔中国の侵入に備えて国境の守備をすること〕チベットは他の国のような経済・軍事力・機械は持たないけれども、仏法に則った平和な独立国家(rgyal khab rang dbang)であるので、今、外交・軍事のあらゆる事務において監督をいっそう強化することにより自分の土地を固守できる大規模な軍備を布くとすれば、すぐに兵を送る義務がある。カムの沿道にやや問題があるようなので、中国が不当な占領行為を前後に行ったという過去を思い、みなで言われなくとも実行することを通じて、自分の土地を自分で護り、自分の村を自分でまもる方策について、みなが真摯に責任を持たねばならない。それのみならず、東西南北の国境における巡回パトロールを怠りなく行い、外国人のスパイがやってこないように、厳しく締め付けること。もし少しでも疑わしい話があれば、すぐにすべての政府の領地の騎馬の使者を派遣して、昼夜兼行で王都に報告せよ。たるんでいることによっておきる、無意味な、原因は小さいが結果は大きいような争乱をとくに起こすようなことは決して許さない。
第五条 〔開墾の奨励〕このチベットは人口が少なく、人が住まない不毛の土地が非常にたくさんあるが、努力をする人が耕そうという心を起こしても、支配者が食料供出を求め、地主たちも自身で開墾することはできないのに、他人が開墾することは我慢できずに、嫉妬から様々な因縁を付けて、地域が発展する基礎を破壊し捨てる風潮がある。これらは自分にとっても他人にとっても益のないことであり、何もいいことがない。
従ってこれから以後、不毛な人の住んでいない山河などの共有地すべてについて、努力を厭わない奇特な俗人が、畑を耕すこと、柳を育てることなどの公共の利益となる植樹を何であれ行おうとするなら、その者に対して、政府の人間であれ、貴族であれ、僧院関係者であれ、決して妨げてはならない。
開墾地は、3年の間無税で利用させ、その後に土地の広さと利用度を加味して、政府と地主の税を二年間課すことができる。開墾地の所有権は永遠に安堵して、政府・臣民両者に戻りがあるようにするべきである。
以上に述べたことを皆が実践するならば、政府に恩返しをする助けとなり、自分と他人、あらゆる地域において幸福の兆が大きくかつ自然に増えていくことは確実である。何が損で何が得かを考えて、仏教と人法の取るべきもの、捨てるべきものを間違えないこと、なすべき事は完遂せねばならない。以上の条文をすべての地域において、理解していない者、聞いない者がいないように宣告すること。複製したものを人の集まる場所、高位の人のいる地に張り出すこと、実際の政府の土地の帳簿に記録した上で、毎日の仕事について、ひき続き、正しく行うように。
以上のように理解すべき文書を、水の牛の年の神変月の吉日に*5、第二補陀洛の無量宮ポタラ*6で書いた。 *( ) 〔〕内は訳者の解説
*5(Zhva sgab paによるとチベット暦の水牛年一月八日=1913年2月14日)
*6(補陀洛は観音の聖地。第二とつくことで観音の化身ダライラマの住所ポタラ宮を示す。)
(Zhva sgab pa, bod kyi srid don rgyal rabs, pp.219-221よりチベット語から試訳。
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