今年も一年ありがとうございました
今年も一年ありがとうございました。2012年も残すところあと僅かです。アノ去年に比べたら今年は平穏な一年であったと言えましょう。さて、最後なので固い話題はなしにして年内最後のゼミならびに勉強会の納会実録といきます。
年内最後のゼミのあとは冬至のお祭り(世間的にはクリスマスパーティ)。恒例のプレゼント交換は、500円というしばりの中でどれだけ回りを笑わせ、意外性によってうけるかを競い合う。もしどうしても何もネタを思いつかなかったら、とにかく「男女どちらに当たってもいいものにしてくれ」とお触れをまわしてある。
実はそういっている自分、その週の前半体調が悪くてプレゼントを買う時間がなくなったので、知人OL二人に泣きついた。すると、彼女らが海外旅行して買ってきたお土産類を放出してくれるというので、職場までもらいにいく(笑)。
そしたら、これがトルコセット(トルコ国旗のライター)、韓国セット(スパイダーマン柄の男性用パックとか)、インドセット(カレー、バングルなど)、チベットセット(フリチベステッカー)とかいろいろバラエティに富んでいるので、それぞれの土地柄にあったクイズをだしてその景品とする。
当日は、映画『2012年』ですっかりお馴染みになった世界の終わりの日であったため、ネタで世界最後の日という文字を一文字ずつもってツリーの前で記念撮影。今日世界が終わらなければ学生時代最後の年のよい思い出になる。
ちなみに、あの映画、2012年に世界が大災害に見舞われるんだけど、それを察知した各国がチベット高原でノアの箱船を共同開発して、お金もっている人と技術もっている人をのせて生き延びようとする話。
チベット僧がでてくるのはいいのだが、彼がつく終末の鐘が日本の鐘という意味不明。チベットには釣り鐘はないんだよ。大体「この世の終わりを告げる鐘」って発想はキリスト教だろうが。
で話戻して、会場は大学近くのカフェ。恒例のプレゼント交換は籤でひいてその番号のプレゼントをとるのだが、今年も笑いとふしぎな巡り合わせがあった。
まず、二十代前半にして脂肪肝となってしまったKくんには、北京大学帰りのHから三徳(スーパー)で買った大根と白菜と野菜ジュースのプレゼント。節制しろという神のお告げであろう。しかし、これはウケ的にいって微妙。
そして、三年のAくんのプレゼントは四年のIクンにあたる。包みを開けると
入れ歯洗浄剤ポリデント・・・
三年Aくん「男性にあたっても女性にあたってもいいものにしろと言われたので」
Iくん「確かにそうだけど、あと40年は使わないと思うよ」
で、授業があったので遅れてきた三年の幹事は途中入場の利点をいかしてサンタの格好をしてきた。彼のもってきたプレゼントは巨大で重く、それは四年のOクンにあたった。
私「こんな大きくて重くて本当に500円以内なの?」
三年幹事「460円くらいかな」
開けてみると、ペットボトルの水が6本・・・・
私「12kgあってもたしかに500円以内だけど・・・。よくこんなものクリスマスの包装してもらえたね。」
みんな「それをいうならポリデントをクリスマス包装した店はどうなるんですか!」
そして、私がわたされた紙袋には一見何も入っていない。しかしよく見ると新幹線のチケットみたいなものが入っている。
手にとると、有馬記念の十レース目の三単連の馬券。
送り主はポリデントのI(十分罰は当たっている 笑)。
I「先生ここに当日の出走表があります。ボクが選んだ馬には○をつけてあるので、勉強してください」
私「ちょっと待て。これ外れたらただの紙だし、当たったら場外馬券とかで換金するわけ? どんな罰ゲームだよ。」
誰か「先生、三位までに一番人気の馬入ってませんよ。これ絶対あたりませんよ」
もちろん結果はかすりもしなかった(笑)。
そして、私のプレゼント(モンゴルTシャツとチベット・カレンダー)は、今の学生の中で唯一チベット縁のあるNくんにあたった。彼は平岡先生の学校の卒業生で、在学中は「校長先生はチベットやっている人」くらいの認識で、大学にはいって私のゼミに入ってきたのも偶然。つまり彼にとって新旧の師がチベット関係者ってわけ(笑)。この巡り合わせも23分の一のプレゼント交換も考えるとすごい確率。
いろいろな意味で不思議。
もう一つ不思議だったのは、四年幹事のクリプレが三年幹事にいったこと。
人と人って目に見えない部分でつながっていて、それが時々こういう形で目に見える形で現れるのかも。
で、四年のDくんとAちゃんが、Dくんのアコースティックギターの演奏で、グレイのハウエバーとジャクソン5の失恋ソングを歌ってくれた。来年はだれかジョン・レノンのハッピークリスマスを歌ってほしい。
しかし、そのあと三年の四人が激しくハイになり、彼らは、私が苦労してつくった三択クイズを、全部の選択肢にハーイ・ハイハイハと手を挙げるため、最後は何だか分からないことに。盛り上がったということできれいにまとめたいが、そのノリに入りきれない学生がどう思っていたのかは謎である。
そして、28日は年内最後の勉強会。奇しくも三年前にはじめたテクストを読了する日。いつもより読む量が多いので、昼前集まりにしたが、珍しく予習をしてそのうえ無駄口たたかなかったら四時に終わった。いつもどれだけ予習がいい加減で、無駄話が多かったか、そしてお菓子を食べまくっていたかが分かった。これが本年最後の収穫だった。
終了後、南インドカレー屋でうちあげ。私のたのんだほうれん草カレーは美味しかったのだが、みんなの頼んだマサラドーサは微妙な味だったよう。体の半分はインドカレーでできているという院生Mの指定の店だったのだが、本人病欠でおすすめ料理が分からなかったのが敗因。
ちなみにこの勉強会院生Mが修士に入った時に始めたのだが、肝腎のMは掉尾を飾るべきこの勉強会にインフルで欠席。某国際学会に申し込みをする英文要旨を英作しているうちに、英作文が脳内に木霊して幻聴が聞こえはじめたのだという。霊がついたのかと思ったらたんに高熱による幻覚であったと。院生Mの高熱は大学受験の時以来十年ぶりで、英作文を契機に発症したので、きっと知恵熱である。
院生M「この状態で22号館入ったら、みなインフルうつって卒論かけなくて卒業できない者が続出して生物兵器になりますよ」
説明しよう。22号館とは24時間オープンのパソコンルームで、この時期卒論を書く人間が徹夜で泊まり込んでいる。年末でメンテナンスがなくなるため、ゴミ箱はあふれ、トイレットペーパーはなくなり、風呂に入らない学生の臭いと風邪菌が充満する、行ってはいけないすごい空間なのである。てか、卒論は余裕をもって早くに書き始めたらここに詰めることにはならないのだが。
ちなみに、年内締め切りだったはずの学会参加申し込みはいきなり一ヶ月延長が発表された。それをMに告げると、
「じゃあボクもう英作文忘れて実家に帰ります」
そして彼は体調を崩して食べられなかった100円クリスマスケーキを28日になって食した後、青春18切符をにぎりしめて実家に向かった。
おばあちゃんにお年玉をもらいにいくのだろう。
あいもかわらずしょうもない話ですみません。
一年このブログを愛読してくださったみなさまに、あつく御礼申し上げます。来年もよろしくね!
年内最後のゼミのあとは冬至のお祭り(世間的にはクリスマスパーティ)。恒例のプレゼント交換は、500円というしばりの中でどれだけ回りを笑わせ、意外性によってうけるかを競い合う。もしどうしても何もネタを思いつかなかったら、とにかく「男女どちらに当たってもいいものにしてくれ」とお触れをまわしてある。
実はそういっている自分、その週の前半体調が悪くてプレゼントを買う時間がなくなったので、知人OL二人に泣きついた。すると、彼女らが海外旅行して買ってきたお土産類を放出してくれるというので、職場までもらいにいく(笑)。
そしたら、これがトルコセット(トルコ国旗のライター)、韓国セット(スパイダーマン柄の男性用パックとか)、インドセット(カレー、バングルなど)、チベットセット(フリチベステッカー)とかいろいろバラエティに富んでいるので、それぞれの土地柄にあったクイズをだしてその景品とする。
当日は、映画『2012年』ですっかりお馴染みになった世界の終わりの日であったため、ネタで世界最後の日という文字を一文字ずつもってツリーの前で記念撮影。今日世界が終わらなければ学生時代最後の年のよい思い出になる。
ちなみに、あの映画、2012年に世界が大災害に見舞われるんだけど、それを察知した各国がチベット高原でノアの箱船を共同開発して、お金もっている人と技術もっている人をのせて生き延びようとする話。
チベット僧がでてくるのはいいのだが、彼がつく終末の鐘が日本の鐘という意味不明。チベットには釣り鐘はないんだよ。大体「この世の終わりを告げる鐘」って発想はキリスト教だろうが。
で話戻して、会場は大学近くのカフェ。恒例のプレゼント交換は籤でひいてその番号のプレゼントをとるのだが、今年も笑いとふしぎな巡り合わせがあった。
まず、二十代前半にして脂肪肝となってしまったKくんには、北京大学帰りのHから三徳(スーパー)で買った大根と白菜と野菜ジュースのプレゼント。節制しろという神のお告げであろう。しかし、これはウケ的にいって微妙。
そして、三年のAくんのプレゼントは四年のIクンにあたる。包みを開けると
入れ歯洗浄剤ポリデント・・・
三年Aくん「男性にあたっても女性にあたってもいいものにしろと言われたので」
Iくん「確かにそうだけど、あと40年は使わないと思うよ」
で、授業があったので遅れてきた三年の幹事は途中入場の利点をいかしてサンタの格好をしてきた。彼のもってきたプレゼントは巨大で重く、それは四年のOクンにあたった。
私「こんな大きくて重くて本当に500円以内なの?」
三年幹事「460円くらいかな」
開けてみると、ペットボトルの水が6本・・・・
私「12kgあってもたしかに500円以内だけど・・・。よくこんなものクリスマスの包装してもらえたね。」
みんな「それをいうならポリデントをクリスマス包装した店はどうなるんですか!」
そして、私がわたされた紙袋には一見何も入っていない。しかしよく見ると新幹線のチケットみたいなものが入っている。
手にとると、有馬記念の十レース目の三単連の馬券。
送り主はポリデントのI(十分罰は当たっている 笑)。
I「先生ここに当日の出走表があります。ボクが選んだ馬には○をつけてあるので、勉強してください」
私「ちょっと待て。これ外れたらただの紙だし、当たったら場外馬券とかで換金するわけ? どんな罰ゲームだよ。」
誰か「先生、三位までに一番人気の馬入ってませんよ。これ絶対あたりませんよ」
もちろん結果はかすりもしなかった(笑)。
そして、私のプレゼント(モンゴルTシャツとチベット・カレンダー)は、今の学生の中で唯一チベット縁のあるNくんにあたった。彼は平岡先生の学校の卒業生で、在学中は「校長先生はチベットやっている人」くらいの認識で、大学にはいって私のゼミに入ってきたのも偶然。つまり彼にとって新旧の師がチベット関係者ってわけ(笑)。この巡り合わせも23分の一のプレゼント交換も考えるとすごい確率。
いろいろな意味で不思議。
もう一つ不思議だったのは、四年幹事のクリプレが三年幹事にいったこと。
人と人って目に見えない部分でつながっていて、それが時々こういう形で目に見える形で現れるのかも。
で、四年のDくんとAちゃんが、Dくんのアコースティックギターの演奏で、グレイのハウエバーとジャクソン5の失恋ソングを歌ってくれた。来年はだれかジョン・レノンのハッピークリスマスを歌ってほしい。
しかし、そのあと三年の四人が激しくハイになり、彼らは、私が苦労してつくった三択クイズを、全部の選択肢にハーイ・ハイハイハと手を挙げるため、最後は何だか分からないことに。盛り上がったということできれいにまとめたいが、そのノリに入りきれない学生がどう思っていたのかは謎である。
そして、28日は年内最後の勉強会。奇しくも三年前にはじめたテクストを読了する日。いつもより読む量が多いので、昼前集まりにしたが、珍しく予習をしてそのうえ無駄口たたかなかったら四時に終わった。いつもどれだけ予習がいい加減で、無駄話が多かったか、そしてお菓子を食べまくっていたかが分かった。これが本年最後の収穫だった。
終了後、南インドカレー屋でうちあげ。私のたのんだほうれん草カレーは美味しかったのだが、みんなの頼んだマサラドーサは微妙な味だったよう。体の半分はインドカレーでできているという院生Mの指定の店だったのだが、本人病欠でおすすめ料理が分からなかったのが敗因。
ちなみにこの勉強会院生Mが修士に入った時に始めたのだが、肝腎のMは掉尾を飾るべきこの勉強会にインフルで欠席。某国際学会に申し込みをする英文要旨を英作しているうちに、英作文が脳内に木霊して幻聴が聞こえはじめたのだという。霊がついたのかと思ったらたんに高熱による幻覚であったと。院生Mの高熱は大学受験の時以来十年ぶりで、英作文を契機に発症したので、きっと知恵熱である。
院生M「この状態で22号館入ったら、みなインフルうつって卒論かけなくて卒業できない者が続出して生物兵器になりますよ」
説明しよう。22号館とは24時間オープンのパソコンルームで、この時期卒論を書く人間が徹夜で泊まり込んでいる。年末でメンテナンスがなくなるため、ゴミ箱はあふれ、トイレットペーパーはなくなり、風呂に入らない学生の臭いと風邪菌が充満する、行ってはいけないすごい空間なのである。てか、卒論は余裕をもって早くに書き始めたらここに詰めることにはならないのだが。
ちなみに、年内締め切りだったはずの学会参加申し込みはいきなり一ヶ月延長が発表された。それをMに告げると、
「じゃあボクもう英作文忘れて実家に帰ります」
そして彼は体調を崩して食べられなかった100円クリスマスケーキを28日になって食した後、青春18切符をにぎりしめて実家に向かった。
おばあちゃんにお年玉をもらいにいくのだろう。
あいもかわらずしょうもない話ですみません。
一年このブログを愛読してくださったみなさまに、あつく御礼申し上げます。来年もよろしくね!
今年の五大チベット・ニュース(付 SFTカレンダー)
今年もはや、残すところあと僅かとなりました。今年も発行されたSFTのチベット卓上カレンダー。
「チベットを一年あなたのお側に」
をモットーに、去年、一昨年と美しいチベットの風景写真を中心としたカレンダーは好評を博しました(本当 500部も売れた 笑)。

今年は焼身抗議が百人に達しようという深刻な状況もあり、「人」がテーマとなっています。それでもチベット人ですから、ダライラマの笑顔は明るいし、子供も無邪気です。ダラムサラのダイ・イン写真はちょっとアレですが、あれ本当に死んでませんからね。気にしないで机に飾ってください(え? この月はムリ?)
撮影者は写真の隅っこにうすーく、白い文字で入っています。ダラムサラ生活30年、すっかりチベット化の進んだ中原一博さん(中原氏のブログはここ)、チベットや福島の写真で知られる写真家の野田雅也さん(野田さんのホムペはここ)、そして、SFTのツェリンドルジェ(ツェリンドルジェについて扱ったエントリーはここ)の三人です。中原さんの写真歴はものすごく長く、野田さんはプロ、ツェリンドルジェの写真の腕前はよく知らないけど、チベット人がみたチベットだから、とても意味がある写真だと思う。
何度も言うけどSFTはチベットの文化や現況を知ってもらうためのヒジョーに穏健な団体。メンバーは手弁当持ち出しのボランティア、仕事の合間をぬってのお手伝の集団。ぶっちゃけお金がなくなったら自然消滅なので、趣旨に賛同される方はよろしかったらカレンダー注文して戴けると助かります。こちらのサイトから、申し込みができます。500部限定販売です!
件の、問題の、例の、アノ旅雑誌が「CIAがSFTにお金だしている」て書いた時、メンバーは全員がものすごい勢いで「そんな怪しい金あるか」と、反論していました(笑)。そのあと様々なチベット系団体が、「〔~のイベントやるのに〕自分いくら借金したか」とか、「どんなに持ち出ししているか」とか不幸自慢が始まったのには、悲しい中にもちょっと笑った。
というわけで、チベットを一年お側に置いて戴ければと思います。薄く広くいろいろな方に広めて戴けると嬉しいです。チベットの休日やチベット国旗のページもありますので、お好みの面を立てて机の上に置いて下さい。
さて、毎年恒例、チベット・オタクが独断と偏見で選ぶ今年の五大ニュース。
今年もいろいろありました。
1. 8月12日 ゲシェ・テンパゲルツェン師遷化。
東洋文庫の外国人研究員として日本に長く滞在され、また、文殊師利大乗仏教会のラマとして親しまれていた、元ゴマン学堂座主・テンパゲルツェン師が、南インドのデプン僧院内自坊で遷化されました。詳細はこのエントリーを参照してください。
昨日、天台宗の尼僧、明世様から、奇しくも以下の手紙を頂戴しました。
ゲシェラ(テンパゲルツェン師の尊称)の御遺骨が納められた小さな仏塔のお写真を送らせて戴きます。
十月にゴマン学堂に出かけて参りました。
ゲシェラにお会いすることはもうかないませんが、その深く大きな慈悲の御心でご縁ある皆さまを守って下さっていると実感する旅でもありました。
仏塔はゴマン本堂、法王様の王座のすぐ近くに安置されています。

2. 9月3日~9月5日 神戸の外国語大学で若手チベット学者国際会議開催
国際チベット学会の第1回大会はあのマイケル・アリスとアウンサン・スーチーさん主宰による、オックスフォードの会議であるとされている(このエントリーに詳しくレポート)。それから会は年年巨大化し、そのため若手の学者だけの発表と交流の場をつくろうと2006年にドイツで「第1回若手チベット学者会議」が開催された。今年はその三回目。この国際的な学会が日本の神戸外国語大学で行われた。
これが日本の若手チベット学者たちに良い影響を与えたことは、たぶんあと何年かするとはっきりしてくると思う。盛会に終わってよかった。
3. 9月29日「どん底で迎える日中国交正常化40周年」
このタイトル私が考えたのではありません。件の時期に放映されたかのNHKすぺさるのタイトルです。
ご存じの通り、尖閣を巡る問題で、9月に中国で反日デモがおき、日本車がブチ壊され、イオンなどの日系スーパーが破壊され、山東省の工場が文字通り炎上。この最悪の空気の中で迎えた国交正常化当日、メインイベント軒並み中止。11月の党大会が終わっても日本人だけチベットの入境許可証は発給されず。チャイナリスクを日本全国津々浦々の人が体で理解した一年でした。
個人的には、これを記念するために、新年早々、国立博物館で行われた故宮博物院100選が嬉しかった。自分の研究対象の絵画が来日したから(笑)。
4. 11月13日「チベット支援国会議員連盟」発足
かねてより「チベット問題を考える議員連盟」は存在していたのだが、中心となっていた議員が、牧野聖修(元)議員、枝野幸男議員、鳩山由紀夫(元)議員と民主党員ばかりであったため、民主党が政権につくと同時になんかぴったり活動が停止してしまった。そこで、今度は保革両方の議員に参加して頂き、どの党が政権とろうとも、メンバーのうち誰かが在野にいたらチベットを安定的にサポートできるだろうということで生まれたのがこの「チベット支援国会議員連盟」である(設立趣旨は私見です 笑)。
ダライラマ法王が国家内で演説し、100人以上の議員が参加して発足が宣言された(MSNの関連記事はここ)。
5. 通年 焼身抗議
現時点で中国政府に抗議して行われたチベット人の焼身抗議はすでに100人に達しようとしている。今年はとくに三月と十月十一月の各月にそれぞれ10人以上が焼身抗議を行っている。
三月にはダライラマが1959年にチベットを去った記念日があり、その記念日があることによって2008年に大規模な蜂起が起きた。三月に流れる血は過去のものではなく、現在も流れ続けている。
十月は十年に一度の共産党指導部の交代を決める大会があり、チベット政策の転換を求めての抗議が行われたことから、死者の数が増えたと思われる。
中国の反体制作家王力雄は、本土で続く焼身抗議を分析してこのような趣旨のコメントをしている。
「本土チベット人は今まで、亡命チベット社会に希望を託してきた。亡命社会が国際社会にチベットの状況を訴え、国際社会が中国に圧力をかける、そうすれば北京はチベット人に対する態度を改めるのではないか、と。しかし、2008年の北京オリンピックの年、その期待は裏切られた。ダライラマ法王の対話に答えず、中国政府は約束を破ったにも関わらず、どの国も北京オリンピックをボイコットをしなかった。
これに絶望して、本土のチベット人ははじめて自ら立ち上がった。しかし、中国政府は1989年の例をみれば分かるように、抗議をするものは漢人であっても殺戮する。従って、僅かな少数民族の声に耳を傾けるはずもない。監視社会の中でデモをするのも難しい。チベット人にとって唯一残された抗議の手段が個人の焼身なのだ」と。
「チベットを一年あなたのお側に」
をモットーに、去年、一昨年と美しいチベットの風景写真を中心としたカレンダーは好評を博しました(本当 500部も売れた 笑)。

今年は焼身抗議が百人に達しようという深刻な状況もあり、「人」がテーマとなっています。それでもチベット人ですから、ダライラマの笑顔は明るいし、子供も無邪気です。ダラムサラのダイ・イン写真はちょっとアレですが、あれ本当に死んでませんからね。気にしないで机に飾ってください(え? この月はムリ?)
撮影者は写真の隅っこにうすーく、白い文字で入っています。ダラムサラ生活30年、すっかりチベット化の進んだ中原一博さん(中原氏のブログはここ)、チベットや福島の写真で知られる写真家の野田雅也さん(野田さんのホムペはここ)、そして、SFTのツェリンドルジェ(ツェリンドルジェについて扱ったエントリーはここ)の三人です。中原さんの写真歴はものすごく長く、野田さんはプロ、ツェリンドルジェの写真の腕前はよく知らないけど、チベット人がみたチベットだから、とても意味がある写真だと思う。
何度も言うけどSFTはチベットの文化や現況を知ってもらうためのヒジョーに穏健な団体。メンバーは手弁当持ち出しのボランティア、仕事の合間をぬってのお手伝の集団。ぶっちゃけお金がなくなったら自然消滅なので、趣旨に賛同される方はよろしかったらカレンダー注文して戴けると助かります。こちらのサイトから、申し込みができます。500部限定販売です!
件の、問題の、例の、アノ旅雑誌が「CIAがSFTにお金だしている」て書いた時、メンバーは全員がものすごい勢いで「そんな怪しい金あるか」と、反論していました(笑)。そのあと様々なチベット系団体が、「〔~のイベントやるのに〕自分いくら借金したか」とか、「どんなに持ち出ししているか」とか不幸自慢が始まったのには、悲しい中にもちょっと笑った。
というわけで、チベットを一年お側に置いて戴ければと思います。薄く広くいろいろな方に広めて戴けると嬉しいです。チベットの休日やチベット国旗のページもありますので、お好みの面を立てて机の上に置いて下さい。
さて、毎年恒例、チベット・オタクが独断と偏見で選ぶ今年の五大ニュース。
今年もいろいろありました。
1. 8月12日 ゲシェ・テンパゲルツェン師遷化。
東洋文庫の外国人研究員として日本に長く滞在され、また、文殊師利大乗仏教会のラマとして親しまれていた、元ゴマン学堂座主・テンパゲルツェン師が、南インドのデプン僧院内自坊で遷化されました。詳細はこのエントリーを参照してください。
昨日、天台宗の尼僧、明世様から、奇しくも以下の手紙を頂戴しました。
ゲシェラ(テンパゲルツェン師の尊称)の御遺骨が納められた小さな仏塔のお写真を送らせて戴きます。
十月にゴマン学堂に出かけて参りました。
ゲシェラにお会いすることはもうかないませんが、その深く大きな慈悲の御心でご縁ある皆さまを守って下さっていると実感する旅でもありました。
仏塔はゴマン本堂、法王様の王座のすぐ近くに安置されています。

2. 9月3日~9月5日 神戸の外国語大学で若手チベット学者国際会議開催
国際チベット学会の第1回大会はあのマイケル・アリスとアウンサン・スーチーさん主宰による、オックスフォードの会議であるとされている(このエントリーに詳しくレポート)。それから会は年年巨大化し、そのため若手の学者だけの発表と交流の場をつくろうと2006年にドイツで「第1回若手チベット学者会議」が開催された。今年はその三回目。この国際的な学会が日本の神戸外国語大学で行われた。
これが日本の若手チベット学者たちに良い影響を与えたことは、たぶんあと何年かするとはっきりしてくると思う。盛会に終わってよかった。
3. 9月29日「どん底で迎える日中国交正常化40周年」
このタイトル私が考えたのではありません。件の時期に放映されたかのNHKすぺさるのタイトルです。
ご存じの通り、尖閣を巡る問題で、9月に中国で反日デモがおき、日本車がブチ壊され、イオンなどの日系スーパーが破壊され、山東省の工場が文字通り炎上。この最悪の空気の中で迎えた国交正常化当日、メインイベント軒並み中止。11月の党大会が終わっても日本人だけチベットの入境許可証は発給されず。チャイナリスクを日本全国津々浦々の人が体で理解した一年でした。
個人的には、これを記念するために、新年早々、国立博物館で行われた故宮博物院100選が嬉しかった。自分の研究対象の絵画が来日したから(笑)。
4. 11月13日「チベット支援国会議員連盟」発足
かねてより「チベット問題を考える議員連盟」は存在していたのだが、中心となっていた議員が、牧野聖修(元)議員、枝野幸男議員、鳩山由紀夫(元)議員と民主党員ばかりであったため、民主党が政権につくと同時になんかぴったり活動が停止してしまった。そこで、今度は保革両方の議員に参加して頂き、どの党が政権とろうとも、メンバーのうち誰かが在野にいたらチベットを安定的にサポートできるだろうということで生まれたのがこの「チベット支援国会議員連盟」である(設立趣旨は私見です 笑)。
ダライラマ法王が国家内で演説し、100人以上の議員が参加して発足が宣言された(MSNの関連記事はここ)。
5. 通年 焼身抗議
現時点で中国政府に抗議して行われたチベット人の焼身抗議はすでに100人に達しようとしている。今年はとくに三月と十月十一月の各月にそれぞれ10人以上が焼身抗議を行っている。
三月にはダライラマが1959年にチベットを去った記念日があり、その記念日があることによって2008年に大規模な蜂起が起きた。三月に流れる血は過去のものではなく、現在も流れ続けている。
十月は十年に一度の共産党指導部の交代を決める大会があり、チベット政策の転換を求めての抗議が行われたことから、死者の数が増えたと思われる。
中国の反体制作家王力雄は、本土で続く焼身抗議を分析してこのような趣旨のコメントをしている。
「本土チベット人は今まで、亡命チベット社会に希望を託してきた。亡命社会が国際社会にチベットの状況を訴え、国際社会が中国に圧力をかける、そうすれば北京はチベット人に対する態度を改めるのではないか、と。しかし、2008年の北京オリンピックの年、その期待は裏切られた。ダライラマ法王の対話に答えず、中国政府は約束を破ったにも関わらず、どの国も北京オリンピックをボイコットをしなかった。
これに絶望して、本土のチベット人ははじめて自ら立ち上がった。しかし、中国政府は1989年の例をみれば分かるように、抗議をするものは漢人であっても殺戮する。従って、僅かな少数民族の声に耳を傾けるはずもない。監視社会の中でデモをするのも難しい。チベット人にとって唯一残された抗議の手段が個人の焼身なのだ」と。
最新研究による百年前のチベットとモンゴル
最近チベット近現代史の知識強化を行っている。そのため、土曜日は早稲田大学の「中央ユーラシア歴史文化研究所」主催のシンポジウム「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」に行き、日曜日は北大スラブ研究所主催のワークショップ「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」と立て続けに行ってきた。
しかし、「まじめに座って勉強する」をやりすぎたせいか、日曜日の晩に20時きっかりに激しい悪寒に襲われど派手に体調が崩れた。状況から察して知恵熱かと思われる(おい)。
教訓: わたしはまじめに勉強すると死ぬ。
さて、こんな肉体的な苦労をともなったシンポジウムなので、一般人にも分かるように適当な報告して元を取ろうと思う(正確かつまじめな文作をする体力はまだない 笑)。
●●●「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」●●●
まず、早稲田のシンポジウムの方は発表者は以下の三人で、最初のゲストをのぞく残り二人は自分の後輩。古巣でシンポちゅうわけ。
(1)オーホノイ・バトサイハン(モンゴル科学アカデミー国際研究所)「20世紀初頭のモンゴル人がモンゴル史に対して取った姿勢」
(2)橘誠「モンゴルの国史編纂と翻訳事業」
(3)青木雅浩「モンゴル人民党におけるモンゴル帝国史」
.
○チベット史の自分にとって一番興味深かったのは、最初のバトサイハン先生の研究。しかし、この人のみ遅刻して聞けなかった(爆笑)。でもレジュメがあるので大丈夫。バトサイハン先生の話を背景から説明するとこんなカンジ。
清朝は満洲人が漢人征服して作った国家である。そのため、モンゴルは同盟者として、またダライラマは師僧として尊重されていた。しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、清朝が弱体化し、満洲人が力を失い漢人官僚が力をもち始めると、「チベットやモンゴルは植民地化しちまえ」という政策が順次行われるようになる。そこで、チベット・モンゴルの王侯層たちは自分たちを護るため、地域、立場によって様々な行動をとりはじめる。
モンゴル高原の王侯たちは、1911年12月29日ジェブツンダンパ八世(モンゴル最高位の転生僧)をモンゴルのハーン(王)位につけ、清朝からの独立を宣言した。で、バトサイハン先生はこのジェブツンダンパ八世の即位式に焦点をあて、即位式の際に何が献じられたのか、印璽には何が刻まれていたのか、元号は何なのか、国号は何なのかを文献に基づいて明らかにした。
以下自分コメント。
即位の際にジェブツンダンパには、杯、「政教一致の権力を握る者・日光ボクド・ハーンの印璽」(mongGul ulus-un ejen shasin toru qoslon bariGci naran gereltU qaGan)と刻まれた印璽、冊、マンダラ、佛像・仏典・仏塔、輪王七宝、無量寿仏、長寿の祝辞などが次々と献ぜられた。
これ、微妙な違いはあるもののダライラマの即位式と全く同じ。
そして、元号の「共載」(「多くの者に推戴された人」という意味)であるが、これは、仏典に説かれる人類最初の王「マハーサマンタ? 王」のこと。
『阿毘達磨倶舎論』(か『彰所知論』)には人類の歴史についてこう述べられている。人類が発生してしばらくは、人々は穏やかに暮らしていたが、「私有」という観念が生まれると争いが生じるようになった。この時、人々は人格者を選んでみなで推戴して王として争いを収めた。この人類最初の王がマハーサマディー王である。
アウンサン・スーチーさんが、軍事政権から「民主主義は西洋人の思想であり、ビルマには合わない(スーチーさんがイギリス人と結婚したことを揶揄している)。」と批判された際に、「民主主義はビルマの固有の思想である」ことを示すためにこの王の故事を引いたことからも分かるように、この王は仏教徒の王権観を語る際には転輪聖王と並んではずせないものである。しかし、会場には仏教に理解のあるものが皆無であったため私の感じている「ああ、分かる分かる」という感じは全く共有されていなかった。なんなんだろうね。
大半の研究者は、人の動き(政治)とか制度とか経済とかで社会を見て、文化面からみる人は数少ない。当時の人はこう考えていたからこう行動した」という思考回路は大切なんだけどね。
ちなみに、ジェブツンダンパ八世に捧げられた祝辞も、仏典の修辞が凝らされており、この時、彼の尊称として用いられたヴァジラダラ(持金剛仏=密教の根源仏)はダライラマの尊称と同じである。
ダライラマの即位と異なる点をあげておけば、ジェブツンダンパには妃がいたので、妃の即位式が伴った点、またこれらの吉祥の品を献ずるものたちがチンギス・ハーンの子孫の王侯たちであることから、チンギス・ハーンの子孫たちの国であることが強調された点である。
ボグド・ハーン(ジェブツンダムパ)政権のモデルがダライラマ政権であったことは明かである。この後モンゴルは1921年のキャフタ条約によってソ連の後援の下、自治を獲得し、現在にいたるまで国として存続することに成功した。一方の本家のダライ・ラマ政権は清朝の影響力はモンゴルに比べればはるかに小さかったのに今は中国に占領されている。
来年はちょうどチベット・モンゴル条約が結ばれて100年。しかし、心ないモンゴル人の中には「チベットは国がないから、記念する意味もない」みたいなことをいう人もいるらしい。それ聞いて、ものすごい腹立ったが、ここで私が腹を立てても百劫にわたって積んだ善業が焼けてしまうので、「チベット仏教は国がなくとも世界平和に貢献しとるわ。その上仏教哲学は世界中を敬服させとるわ!世に数ある失敗国家に比べればチベット人はよほどちゃんと世の中に貢献しているわい」と毒づくにとどめることとする(怒ってはいない)。
○二番目の橘君の発表は、1934年に社会主義モンゴルの国史として編纂されたアマル著『モンゴル略史』において、資治通鑑などの中国の史書が参考にされていたことを示した。
この発表で自分びっくりしたのが、アマルの国史の参考文献の一つである1927年編纂のバトオチルのモンゴル史には、匈奴から鮮卑まで、モンゴル高原に勃興した遊牧民は何から何までモンゴル人になっていること。こりゃ中国の史書でも使わないと確かに記述できないわな(笑)。
そしてワロタのが、この同じ人の史書では、モンゴル帝国以後の歴史は、チベット仏教の影響を強く受けた構成となっていること。たとえば、最後の三つの章(26-28章)のタイトルとなっている三人のハーン、グシ・ハーン、ガルダン・ボショクト・ハーン、アユキ・ハーンは三人ともダライ・ラマ政権が仏教の護持者として称号を授けた三人である。
ちなみに、この三人の出身部族はホシュート、ジュンガル、トルグートと、今のモンゴル共和国の主力を形成するハルハの人々とは異なる。これだけ見ても、帝国以後のモンゴル史においてチベット仏教の存在感の大きさを知ることができる。社会主義に伝統を破壊される前のモンゴルは、自分たちの歴史を、中国由来とチベット由来の史観によって見ていたことが、社会主義モンゴル発足直後のモンゴル史から見て取れるのである。
○三番目の青木君は、1920年代の社会主義モンゴルでは、世襲王侯を否定し、民主制を礼賛するために、チンギス・ハーンを引き合いにだすことを行っており、後のようにタブー視していなかったことを発表。たしかにチンギスは世襲でなく実力でハーンになった人だよ。後にソヴィエトはチンギスに虐殺者の烙印を押して、何であれその肯定的な評価を行うことを禁止した。ロシアはロシア平原を支配したチンギスの長男の家系(ジョチ・ウルス)と戦いながら国を拡張していったから、チンギスをまじめに研究されると自分のお里がしれてまずいよね!
●●●「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」●●●
体力がつきてきたので、ややザッパになるのを許して。
(1)杉山清彦「ユーラシアの中の大清帝国」
(2)小林亮介「チベットから見た清朝の変容過程」
(3)阿部由美子「中華民国と北京政府と清室との関係から見る清朝・中華民国の連続性と正当性観」
○ まず最初の発表は流行の「帝国論」を清朝にあてはめたもの。彼によると、モンゴル、ウイグル、チベットの王侯と清朝皇帝は個人的な主従関係にあり、清朝はそれに満足してそれぞれの地域を直接支配しようとは思わなかった。だから、清朝が崩壊して満洲皇帝がいなくなると、キャップがとれてみなバラバラになった。という話。
この話によると、ダライラマと清朝皇帝の間には、モンゴルやウイグルと清朝皇帝の間にかわされていたような主従関係があることになるけど、最盛期の皇帝乾隆帝ですら、チベットno2の高僧、パンチェンラマの前で叩頭していること(しかも儒教官僚の面前で)、清朝にとってチベットはあくまでもチベット仏教の聖地として尊敬の対象であったことを思うと、これを主従関係と呼ぶにはあまりにも実体と乖離していると思われる。
そもそも「帝国」って当時存在しない概念を過去にあてはめても、ただ言葉があるからそこに実体のようなものを見いだすという、中観帰謬論証派のいう空でしかないのでは。現実を見るより概念がお好きな方は、中観帰謬論証派について学ばれることを強くお勧めする。
○二番目の発表は、私のお目当て、小林亮介くんの「チベットから見た清朝の変容」。
簡単に言うと、19世紀後半、東チベットにおいて清朝が現地勢力から実権を奪い直接支配下にいれようとし始めると(改土帰流)、清朝はダライラマからの直接の抗議を受け付けず現地の官僚を通すようにさせた。そのため、ダライラマは清朝の行動に対して不信感を持ちつつも直接皇帝と接触できれば状況は改善すると望みを抱いていた。しかし20世紀初頭に入り、ダライラマ政権と清朝を結んでいたちゃんねるの一つ成都将軍の権限が縮小され、東チベットに省を建てることすら建議されるようになると、ダライラマの清朝に対する期待・信頼は低下していく。
興味深かったのはダライラマが1912年にイギリスにあてた以下の書簡。
「中国とチベットは僧と施主の関係であり、〔チベットは中国の〕支配下にあるということはないなどの前後のいきさつを何であれ文書にしたためてあることはご存じの通りです・・・チベット国家の仏教に基づく政治に関する権限の独立(rang btsan)の上に、制度が発展していくために、ラサに、ロシア・英国国家の交渉をされる代表(駐在官)をそれぞれ配置して頂きたい。そうでなければ、中国人によりチベットが害されないように、実質的な意味〔において〕はチベットの自主独立(nang don bod dbang rang btsan)となるように、各外国に交渉して〔頂きたい〕。〔各地各国の〕人々に対しては、〔チベットの〕状況についての援助・保護を求める」
1913年のいわゆる布告文よりも前に、rang btsanという言葉が用いられており、中国との関係も対外的にはっきり師僧と施主の関係と主張している(清朝最盛期の皇帝、乾隆帝の時代も両者の関係は師僧と施主だったことは、拙ブログのここ参照)ことは、非常に興味深い。
○三番目は、清朝が崩壊した後も清朝の皇室や満洲・モンゴルの王侯たちの地位は保全されていたため、旧社会は続いていた。たとえば、退位した宣統帝溥儀の下にも独立したモンゴルの王・ジェブツンダンパの使者がやってきたり、溥儀の誕生日にチャンキャ・フトクトがやってきたりとか。この社会が決定的に壊れたのは1924年の優待条項の廃止によって、清朝宮廷が消滅した時である。これにより、宮廷で働いていた職員・宦官・宮女・八旗人は無職となり、「一方的に切られた」という思いをもつ人々が、後に日本が背後にある蒙古自治政府や満洲国の成立へ協力するようになっていく。
しかし、「まじめに座って勉強する」をやりすぎたせいか、日曜日の晩に20時きっかりに激しい悪寒に襲われど派手に体調が崩れた。状況から察して知恵熱かと思われる(おい)。
教訓: わたしはまじめに勉強すると死ぬ。
さて、こんな肉体的な苦労をともなったシンポジウムなので、一般人にも分かるように適当な報告して元を取ろうと思う(正確かつまじめな文作をする体力はまだない 笑)。
●●●「近代モンゴルにおける『モンゴル史』の構築」●●●
まず、早稲田のシンポジウムの方は発表者は以下の三人で、最初のゲストをのぞく残り二人は自分の後輩。古巣でシンポちゅうわけ。
(1)オーホノイ・バトサイハン(モンゴル科学アカデミー国際研究所)「20世紀初頭のモンゴル人がモンゴル史に対して取った姿勢」
(2)橘誠「モンゴルの国史編纂と翻訳事業」
(3)青木雅浩「モンゴル人民党におけるモンゴル帝国史」
.
○チベット史の自分にとって一番興味深かったのは、最初のバトサイハン先生の研究。しかし、この人のみ遅刻して聞けなかった(爆笑)。でもレジュメがあるので大丈夫。バトサイハン先生の話を背景から説明するとこんなカンジ。
清朝は満洲人が漢人征服して作った国家である。そのため、モンゴルは同盟者として、またダライラマは師僧として尊重されていた。しかし、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、清朝が弱体化し、満洲人が力を失い漢人官僚が力をもち始めると、「チベットやモンゴルは植民地化しちまえ」という政策が順次行われるようになる。そこで、チベット・モンゴルの王侯層たちは自分たちを護るため、地域、立場によって様々な行動をとりはじめる。
モンゴル高原の王侯たちは、1911年12月29日ジェブツンダンパ八世(モンゴル最高位の転生僧)をモンゴルのハーン(王)位につけ、清朝からの独立を宣言した。で、バトサイハン先生はこのジェブツンダンパ八世の即位式に焦点をあて、即位式の際に何が献じられたのか、印璽には何が刻まれていたのか、元号は何なのか、国号は何なのかを文献に基づいて明らかにした。
以下自分コメント。
即位の際にジェブツンダンパには、杯、「政教一致の権力を握る者・日光ボクド・ハーンの印璽」(mongGul ulus-un ejen shasin toru qoslon bariGci naran gereltU qaGan)と刻まれた印璽、冊、マンダラ、佛像・仏典・仏塔、輪王七宝、無量寿仏、長寿の祝辞などが次々と献ぜられた。
これ、微妙な違いはあるもののダライラマの即位式と全く同じ。
そして、元号の「共載」(「多くの者に推戴された人」という意味)であるが、これは、仏典に説かれる人類最初の王「マハーサマンタ? 王」のこと。
『阿毘達磨倶舎論』(か『彰所知論』)には人類の歴史についてこう述べられている。人類が発生してしばらくは、人々は穏やかに暮らしていたが、「私有」という観念が生まれると争いが生じるようになった。この時、人々は人格者を選んでみなで推戴して王として争いを収めた。この人類最初の王がマハーサマディー王である。
アウンサン・スーチーさんが、軍事政権から「民主主義は西洋人の思想であり、ビルマには合わない(スーチーさんがイギリス人と結婚したことを揶揄している)。」と批判された際に、「民主主義はビルマの固有の思想である」ことを示すためにこの王の故事を引いたことからも分かるように、この王は仏教徒の王権観を語る際には転輪聖王と並んではずせないものである。しかし、会場には仏教に理解のあるものが皆無であったため私の感じている「ああ、分かる分かる」という感じは全く共有されていなかった。なんなんだろうね。
大半の研究者は、人の動き(政治)とか制度とか経済とかで社会を見て、文化面からみる人は数少ない。当時の人はこう考えていたからこう行動した」という思考回路は大切なんだけどね。
ちなみに、ジェブツンダンパ八世に捧げられた祝辞も、仏典の修辞が凝らされており、この時、彼の尊称として用いられたヴァジラダラ(持金剛仏=密教の根源仏)はダライラマの尊称と同じである。
ダライラマの即位と異なる点をあげておけば、ジェブツンダンパには妃がいたので、妃の即位式が伴った点、またこれらの吉祥の品を献ずるものたちがチンギス・ハーンの子孫の王侯たちであることから、チンギス・ハーンの子孫たちの国であることが強調された点である。
ボグド・ハーン(ジェブツンダムパ)政権のモデルがダライラマ政権であったことは明かである。この後モンゴルは1921年のキャフタ条約によってソ連の後援の下、自治を獲得し、現在にいたるまで国として存続することに成功した。一方の本家のダライ・ラマ政権は清朝の影響力はモンゴルに比べればはるかに小さかったのに今は中国に占領されている。
来年はちょうどチベット・モンゴル条約が結ばれて100年。しかし、心ないモンゴル人の中には「チベットは国がないから、記念する意味もない」みたいなことをいう人もいるらしい。それ聞いて、ものすごい腹立ったが、ここで私が腹を立てても百劫にわたって積んだ善業が焼けてしまうので、「チベット仏教は国がなくとも世界平和に貢献しとるわ。その上仏教哲学は世界中を敬服させとるわ!世に数ある失敗国家に比べればチベット人はよほどちゃんと世の中に貢献しているわい」と毒づくにとどめることとする(怒ってはいない)。
○二番目の橘君の発表は、1934年に社会主義モンゴルの国史として編纂されたアマル著『モンゴル略史』において、資治通鑑などの中国の史書が参考にされていたことを示した。
この発表で自分びっくりしたのが、アマルの国史の参考文献の一つである1927年編纂のバトオチルのモンゴル史には、匈奴から鮮卑まで、モンゴル高原に勃興した遊牧民は何から何までモンゴル人になっていること。こりゃ中国の史書でも使わないと確かに記述できないわな(笑)。
そしてワロタのが、この同じ人の史書では、モンゴル帝国以後の歴史は、チベット仏教の影響を強く受けた構成となっていること。たとえば、最後の三つの章(26-28章)のタイトルとなっている三人のハーン、グシ・ハーン、ガルダン・ボショクト・ハーン、アユキ・ハーンは三人ともダライ・ラマ政権が仏教の護持者として称号を授けた三人である。
ちなみに、この三人の出身部族はホシュート、ジュンガル、トルグートと、今のモンゴル共和国の主力を形成するハルハの人々とは異なる。これだけ見ても、帝国以後のモンゴル史においてチベット仏教の存在感の大きさを知ることができる。社会主義に伝統を破壊される前のモンゴルは、自分たちの歴史を、中国由来とチベット由来の史観によって見ていたことが、社会主義モンゴル発足直後のモンゴル史から見て取れるのである。
○三番目の青木君は、1920年代の社会主義モンゴルでは、世襲王侯を否定し、民主制を礼賛するために、チンギス・ハーンを引き合いにだすことを行っており、後のようにタブー視していなかったことを発表。たしかにチンギスは世襲でなく実力でハーンになった人だよ。後にソヴィエトはチンギスに虐殺者の烙印を押して、何であれその肯定的な評価を行うことを禁止した。ロシアはロシア平原を支配したチンギスの長男の家系(ジョチ・ウルス)と戦いながら国を拡張していったから、チンギスをまじめに研究されると自分のお里がしれてまずいよね!
●●●「ユーラシア地域帝国としての清朝研究」●●●
体力がつきてきたので、ややザッパになるのを許して。
(1)杉山清彦「ユーラシアの中の大清帝国」
(2)小林亮介「チベットから見た清朝の変容過程」
(3)阿部由美子「中華民国と北京政府と清室との関係から見る清朝・中華民国の連続性と正当性観」
○ まず最初の発表は流行の「帝国論」を清朝にあてはめたもの。彼によると、モンゴル、ウイグル、チベットの王侯と清朝皇帝は個人的な主従関係にあり、清朝はそれに満足してそれぞれの地域を直接支配しようとは思わなかった。だから、清朝が崩壊して満洲皇帝がいなくなると、キャップがとれてみなバラバラになった。という話。
この話によると、ダライラマと清朝皇帝の間には、モンゴルやウイグルと清朝皇帝の間にかわされていたような主従関係があることになるけど、最盛期の皇帝乾隆帝ですら、チベットno2の高僧、パンチェンラマの前で叩頭していること(しかも儒教官僚の面前で)、清朝にとってチベットはあくまでもチベット仏教の聖地として尊敬の対象であったことを思うと、これを主従関係と呼ぶにはあまりにも実体と乖離していると思われる。
そもそも「帝国」って当時存在しない概念を過去にあてはめても、ただ言葉があるからそこに実体のようなものを見いだすという、中観帰謬論証派のいう空でしかないのでは。現実を見るより概念がお好きな方は、中観帰謬論証派について学ばれることを強くお勧めする。
○二番目の発表は、私のお目当て、小林亮介くんの「チベットから見た清朝の変容」。
簡単に言うと、19世紀後半、東チベットにおいて清朝が現地勢力から実権を奪い直接支配下にいれようとし始めると(改土帰流)、清朝はダライラマからの直接の抗議を受け付けず現地の官僚を通すようにさせた。そのため、ダライラマは清朝の行動に対して不信感を持ちつつも直接皇帝と接触できれば状況は改善すると望みを抱いていた。しかし20世紀初頭に入り、ダライラマ政権と清朝を結んでいたちゃんねるの一つ成都将軍の権限が縮小され、東チベットに省を建てることすら建議されるようになると、ダライラマの清朝に対する期待・信頼は低下していく。
興味深かったのはダライラマが1912年にイギリスにあてた以下の書簡。
「中国とチベットは僧と施主の関係であり、〔チベットは中国の〕支配下にあるということはないなどの前後のいきさつを何であれ文書にしたためてあることはご存じの通りです・・・チベット国家の仏教に基づく政治に関する権限の独立(rang btsan)の上に、制度が発展していくために、ラサに、ロシア・英国国家の交渉をされる代表(駐在官)をそれぞれ配置して頂きたい。そうでなければ、中国人によりチベットが害されないように、実質的な意味〔において〕はチベットの自主独立(nang don bod dbang rang btsan)となるように、各外国に交渉して〔頂きたい〕。〔各地各国の〕人々に対しては、〔チベットの〕状況についての援助・保護を求める」
1913年のいわゆる布告文よりも前に、rang btsanという言葉が用いられており、中国との関係も対外的にはっきり師僧と施主の関係と主張している(清朝最盛期の皇帝、乾隆帝の時代も両者の関係は師僧と施主だったことは、拙ブログのここ参照)ことは、非常に興味深い。
○三番目は、清朝が崩壊した後も清朝の皇室や満洲・モンゴルの王侯たちの地位は保全されていたため、旧社会は続いていた。たとえば、退位した宣統帝溥儀の下にも独立したモンゴルの王・ジェブツンダンパの使者がやってきたり、溥儀の誕生日にチャンキャ・フトクトがやってきたりとか。この社会が決定的に壊れたのは1924年の優待条項の廃止によって、清朝宮廷が消滅した時である。これにより、宮廷で働いていた職員・宦官・宮女・八旗人は無職となり、「一方的に切られた」という思いをもつ人々が、後に日本が背後にある蒙古自治政府や満洲国の成立へ協力するようになっていく。
『ダライ・ラマ法王と日本人』と『伊東忠太』
今年も長野のリンゴ農家の方から、フリー・チベットリンゴをご恵送頂きました。ごろう様(オカメインコ)とのツーショット写真をとろうとしたら、下心がばれて逃げられました(しかし剥いたらショリショリ美味しそうに食べていました)。

そこで、ベッドで寝ているるり(猫)なら逃げないだろうとリンゴをいれたら、いやな顔をされたので、とりあえずこんなアングルになりました。
●●●『ダライ・ラマ法王と日本人』●●●

『ダライ・ラマと日本人』(徳間書店Mook)がでた。本書は、七つ前のエントリー「事実の重みを知れ」で扱った某オサレ旅雑誌(やはりMook本)とはあらゆる意味で対照的であった。
某旅雑誌が中表紙にダライ・ラマ法王のお笑い写真をつかい、「楽しいチベット」と題して、チベット仏教自体にあまり興味を示さなかったこととは対照的に、本誌の表紙は品格あるダライラマ法王のご真影。
キャッチは「人生のゴールは幸せになること ただ待っているだけでは幸せはやってきません。今すぐ『心の陶冶』をはじめなさい」。短い中にもチベット仏教の特徴をよく示す法王の言葉を引用している。
オサレ旅雑誌が、チベット文化圏の美しい写真をちりばめ、チベット文化の紹介をしてはいても、チベット仏教の内容は具体的に述べられず、ダライ・ラマインタビューはもちろんなく、チベット人もチベット・ファンも揶揄されていたのに、一方、この『ダライ・ラマと日本人』は、美しい写真(しかもオフセット印刷でなくキレイ!)、紀行文、チベット文化の紹介に加えて、チベット仏教自体の説明が詳しい。
しかもこの解説は専門家によってなされている (仏教は奥山直司先生、マンダラなどチベット密教美術は田中公明先生、歴史はインコ先生)。ダライ・ラマ法王についても、その半生が伝記からまとめられており、法王の日本での講演記録がふんだんに取り入れられている。高野山真言宗金剛峯寺座主・松長有慶先生によるダライ・ラマ法王とチベット仏教に関する原稿、日本大学の合田秀行先生によるダライ・ラマ法王と科学者との対話の解説などもあり、チベット仏教にずっと具体的に親しめる構成となっている。
件の旅雑誌が専門家に原稿を依頼せず、編集が専門家を取材して作文していたことは、今思えば、依頼原稿にすると原稿料を払わねばならず(取材なら、専門家の知識をタダで使える)、さらに文章を自分の好きなようにかけないからだったと思い至る。それを思うと某旅雑誌は本当にんんんであった。
そういうわけで、件の旅雑誌を手に取り、その美しい写真ゆえに「欲しい」と思い、しかしその内容をみて、またその値段を見て(1800円)「無理」と買うのをやめたアナタ。『ダライ・ラマと日本人』は美しい写真、紀行文はもちろんのこと、それに加えて専門家によるチベット仏教も文化の解説もついていて、お値段は860円。
断然こちらの方がオトクでオススメ。
『ダライ・ラマと日本人』の編集の方には二回しかお会いしなかったが、まだ構成もできていない最初の時点ですでに『新アジア仏教史』のチベット仏教の巻をちゃんと読んでいたし、法王の思想の枢要な部分は押さえていた。「この人はまあそんな変な仕事はしないだろう」と思ったその勘は当たった。
この雑誌なら売れてもいい(笑)。
以下、本誌の中にある法王来日講演の抜粋をご紹介。基本的なものが入っているでしょ。
ゆるしとは
許しの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは
「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
「自分を自由にする手段です」(2011年来日講演より)
慈しみの心とは
慈悲とは自分の友人に親切にすることではありません。それは期待に基づいているので、執着です。慈しみの心とは、何の期待もなしに、そして他人がそれを知ることさえなしに、何かよいことをする心です。
絶望が無意味なこと
難民であるというのは、本当に希望のない、危険な状況です。人々は現実に直面し『世の中は美しい』といっている場合ではないのです。経験しないと分かりません(そういえばこの言葉、複数のチベット難民の口から聞いた)。・・・危険な時期、激しい変化の時代にあっては「すべてがうまくいっている」というフリはできません。・・・もし問題が解決可能であり、それに対処することができるのであれば、心配することは何もありません。反対に解決不能の問題であれば、思い悩んでも仕方ありません。・・(2012年法王インタビューより)
死について
死について考えるのを避けるより、
死の意味について考えた方がよいのではないでしょうか。
遅かれ早かれいずれ死はやってきます。
死は人生の一部だ、という心構えが前もってできれていれば、死に直面するのも楽になるでしょう。
●●●雑誌『東京人 ---特集伊東忠太 アジアを生きる---』●●●

先月号の『東京人』は明治の日本を代表する建築家、伊東忠太(1867-1954)を特集していた。
伊東忠太は1892年に26才で帝都工科大学(東大工学部)を卒業し、1901年(35才)に義和団であれた北京に出張し清朝末期の荒れ果てた紫禁城の貴重な姿を調査・撮影した。そして翌年、1902年から3年かけて、中国、インド、トルコ、エジプト、ギリシア、ヨーロッパ、アメリカなどを訪問し、忠太は世界の様々な建築物を目にし、この体験と帝国主義の時代相が、彼をして、近代ヨーロッパに対して抱く憧憬が漂いつつも、それを打ち消すかのように強烈に押し出されるアジア臭、しかして素材は近代的なコンクリートと鉄筋という何とも屈折した建築群を作らせることとなった。
まあそのリストをごらんあれ。
神社系
1890年、柏原神宮、1895年 平安神宮、1910年 樺太神宮(ユジノ・サハリンスク 今はない)、1920年 明治神宮、1925年朝鮮神宮(ソウル 今はない)、1930年 靖国神社遊就館
仏閣系
1910年 二楽荘(大谷光瑞の別荘)、1918年 日泰寺仏舎利奉安塔、1934年 築地本願寺、1937年 善光寺毘沙門堂(新潟)・総持寺大僧堂・新勝寺太子堂 1942年 延暦寺内供養塔
彼は神社仏閣、大学の校舎、セレブの豪邸と数知れない有名建築物を手がけている。
しかし、私にとっての伊東忠太は、大陸のチベット仏教寺院を、チベット仏教を理解しない漢人が破壊する前に調査してその記録を残してくれたありがたい方である。
たとえば、義和団事件の最中1901年、伊東忠太は西太后が逃げて空になった紫禁城を調査している。その時の写真集が『清國北京皇城寫真帖』 (中身はここで見られます。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846264)。写真を撮影した小川一眞って、あの有名な夏目漱石の肖像写真をとった小川一眞である。
わたしはこの写真集のおかげで今はなきチベット寺、闡福寺と萬佛樓の旧観を知ることができた(いずれも乾隆帝が都城の鎮護のためにたてた巨大なチベット寺。今はない)。
また、忠太が1909年にだした、満洲・モンゴルのチベット仏教僧院の調査報告書「満洲の佛寺建築」『東洋協会調査部学術報告』により、今はなき盛京(今の瀋陽)の東西南北にたてられた四つの寺、護国四塔寺の当時の姿や平面図の概要を知ることができた。
ここに彼のフィールドノートが見られる場所がある(http://news-sv.aij.or.jp/da2/gallery_3_chuta1.htm)。ここにでてくる清朝末期の北京のチベット仏教の塔などのイラストが、チベット・オタクにはたまらんのだよ。
君のおかげで私はずいぶん論文書かせてもらった。ありがとう忠太(ネズミか)。
また、彼は西本願寺の法主大谷光瑞(大谷探検隊を組織した人)をパトロンとした。築地本願寺がアジャンターみたいなエキゾチックというにはあまりな姿になったのも、彼の別荘二楽荘がタージマハルになったのも(本当)、当時の日本仏教の源流たるインド仏教に対するリスペクトからである。
大谷探検隊の発見したものは、大谷光瑞が大陸、朝鮮半島にもっていたいくつかの別荘、そして、この二楽荘などに保管されていたが、光瑞が破産したため、その遺産は現在かなりのものが散逸した。二楽荘もいまはない。敗戦による焦土化と戦後の大陸の混乱によって、忠太の多くの作品は今は写真によってしか知ることができない。
いつも言ってるけど、戦争、共産(社会)主義、開発は歴史的遺物にとって三大疫病神である。この三つがなければ歴史家もっと仕事がやりやすい。
本誌には大谷光瑞と忠太との関係を解説する、真名子晃征氏の文章が掲載されている。彼の建築作品に対する興味に編集が偏っていて、当時の日本のアジアに対する意識とか、大陸調査に関する分析が薄いのがちょっと寂しいが、伊東忠太の年譜も主な作品リストもあり、保存しておくにはよい史料と言える。
最後に、もう一度、アジアのチベット仏教僧院を調査しておいてくれてありがとう、忠太。

そこで、ベッドで寝ているるり(猫)なら逃げないだろうとリンゴをいれたら、いやな顔をされたので、とりあえずこんなアングルになりました。
●●●『ダライ・ラマ法王と日本人』●●●

『ダライ・ラマと日本人』(徳間書店Mook)がでた。本書は、七つ前のエントリー「事実の重みを知れ」で扱った某オサレ旅雑誌(やはりMook本)とはあらゆる意味で対照的であった。
某旅雑誌が中表紙にダライ・ラマ法王のお笑い写真をつかい、「楽しいチベット」と題して、チベット仏教自体にあまり興味を示さなかったこととは対照的に、本誌の表紙は品格あるダライラマ法王のご真影。
キャッチは「人生のゴールは幸せになること ただ待っているだけでは幸せはやってきません。今すぐ『心の陶冶』をはじめなさい」。短い中にもチベット仏教の特徴をよく示す法王の言葉を引用している。
オサレ旅雑誌が、チベット文化圏の美しい写真をちりばめ、チベット文化の紹介をしてはいても、チベット仏教の内容は具体的に述べられず、ダライ・ラマインタビューはもちろんなく、チベット人もチベット・ファンも揶揄されていたのに、一方、この『ダライ・ラマと日本人』は、美しい写真(しかもオフセット印刷でなくキレイ!)、紀行文、チベット文化の紹介に加えて、チベット仏教自体の説明が詳しい。
しかもこの解説は専門家によってなされている (仏教は奥山直司先生、マンダラなどチベット密教美術は田中公明先生、歴史はインコ先生)。ダライ・ラマ法王についても、その半生が伝記からまとめられており、法王の日本での講演記録がふんだんに取り入れられている。高野山真言宗金剛峯寺座主・松長有慶先生によるダライ・ラマ法王とチベット仏教に関する原稿、日本大学の合田秀行先生によるダライ・ラマ法王と科学者との対話の解説などもあり、チベット仏教にずっと具体的に親しめる構成となっている。
件の旅雑誌が専門家に原稿を依頼せず、編集が専門家を取材して作文していたことは、今思えば、依頼原稿にすると原稿料を払わねばならず(取材なら、専門家の知識をタダで使える)、さらに文章を自分の好きなようにかけないからだったと思い至る。それを思うと某旅雑誌は本当にんんんであった。
そういうわけで、件の旅雑誌を手に取り、その美しい写真ゆえに「欲しい」と思い、しかしその内容をみて、またその値段を見て(1800円)「無理」と買うのをやめたアナタ。『ダライ・ラマと日本人』は美しい写真、紀行文はもちろんのこと、それに加えて専門家によるチベット仏教も文化の解説もついていて、お値段は860円。
断然こちらの方がオトクでオススメ。
『ダライ・ラマと日本人』の編集の方には二回しかお会いしなかったが、まだ構成もできていない最初の時点ですでに『新アジア仏教史』のチベット仏教の巻をちゃんと読んでいたし、法王の思想の枢要な部分は押さえていた。「この人はまあそんな変な仕事はしないだろう」と思ったその勘は当たった。
この雑誌なら売れてもいい(笑)。
以下、本誌の中にある法王来日講演の抜粋をご紹介。基本的なものが入っているでしょ。
ゆるしとは
許しの気持ちを身につければ、その記憶にまつわる負の感情だけを心から手放すことができるのです。ゆるしとは
「相手を無罪放免にする手段」ではなく、
「自分を自由にする手段です」(2011年来日講演より)
慈しみの心とは
慈悲とは自分の友人に親切にすることではありません。それは期待に基づいているので、執着です。慈しみの心とは、何の期待もなしに、そして他人がそれを知ることさえなしに、何かよいことをする心です。
絶望が無意味なこと
難民であるというのは、本当に希望のない、危険な状況です。人々は現実に直面し『世の中は美しい』といっている場合ではないのです。経験しないと分かりません(そういえばこの言葉、複数のチベット難民の口から聞いた)。・・・危険な時期、激しい変化の時代にあっては「すべてがうまくいっている」というフリはできません。・・・もし問題が解決可能であり、それに対処することができるのであれば、心配することは何もありません。反対に解決不能の問題であれば、思い悩んでも仕方ありません。・・(2012年法王インタビューより)
死について
死について考えるのを避けるより、
死の意味について考えた方がよいのではないでしょうか。
遅かれ早かれいずれ死はやってきます。
死は人生の一部だ、という心構えが前もってできれていれば、死に直面するのも楽になるでしょう。
●●●雑誌『東京人 ---特集伊東忠太 アジアを生きる---』●●●

先月号の『東京人』は明治の日本を代表する建築家、伊東忠太(1867-1954)を特集していた。
伊東忠太は1892年に26才で帝都工科大学(東大工学部)を卒業し、1901年(35才)に義和団であれた北京に出張し清朝末期の荒れ果てた紫禁城の貴重な姿を調査・撮影した。そして翌年、1902年から3年かけて、中国、インド、トルコ、エジプト、ギリシア、ヨーロッパ、アメリカなどを訪問し、忠太は世界の様々な建築物を目にし、この体験と帝国主義の時代相が、彼をして、近代ヨーロッパに対して抱く憧憬が漂いつつも、それを打ち消すかのように強烈に押し出されるアジア臭、しかして素材は近代的なコンクリートと鉄筋という何とも屈折した建築群を作らせることとなった。
まあそのリストをごらんあれ。
神社系
1890年、柏原神宮、1895年 平安神宮、1910年 樺太神宮(ユジノ・サハリンスク 今はない)、1920年 明治神宮、1925年朝鮮神宮(ソウル 今はない)、1930年 靖国神社遊就館
仏閣系
1910年 二楽荘(大谷光瑞の別荘)、1918年 日泰寺仏舎利奉安塔、1934年 築地本願寺、1937年 善光寺毘沙門堂(新潟)・総持寺大僧堂・新勝寺太子堂 1942年 延暦寺内供養塔
彼は神社仏閣、大学の校舎、セレブの豪邸と数知れない有名建築物を手がけている。
しかし、私にとっての伊東忠太は、大陸のチベット仏教寺院を、チベット仏教を理解しない漢人が破壊する前に調査してその記録を残してくれたありがたい方である。
たとえば、義和団事件の最中1901年、伊東忠太は西太后が逃げて空になった紫禁城を調査している。その時の写真集が『清國北京皇城寫真帖』 (中身はここで見られます。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/846264)。写真を撮影した小川一眞って、あの有名な夏目漱石の肖像写真をとった小川一眞である。
わたしはこの写真集のおかげで今はなきチベット寺、闡福寺と萬佛樓の旧観を知ることができた(いずれも乾隆帝が都城の鎮護のためにたてた巨大なチベット寺。今はない)。
また、忠太が1909年にだした、満洲・モンゴルのチベット仏教僧院の調査報告書「満洲の佛寺建築」『東洋協会調査部学術報告』により、今はなき盛京(今の瀋陽)の東西南北にたてられた四つの寺、護国四塔寺の当時の姿や平面図の概要を知ることができた。
ここに彼のフィールドノートが見られる場所がある(http://news-sv.aij.or.jp/da2/gallery_3_chuta1.htm)。ここにでてくる清朝末期の北京のチベット仏教の塔などのイラストが、チベット・オタクにはたまらんのだよ。
君のおかげで私はずいぶん論文書かせてもらった。ありがとう忠太(ネズミか)。
また、彼は西本願寺の法主大谷光瑞(大谷探検隊を組織した人)をパトロンとした。築地本願寺がアジャンターみたいなエキゾチックというにはあまりな姿になったのも、彼の別荘二楽荘がタージマハルになったのも(本当)、当時の日本仏教の源流たるインド仏教に対するリスペクトからである。
大谷探検隊の発見したものは、大谷光瑞が大陸、朝鮮半島にもっていたいくつかの別荘、そして、この二楽荘などに保管されていたが、光瑞が破産したため、その遺産は現在かなりのものが散逸した。二楽荘もいまはない。敗戦による焦土化と戦後の大陸の混乱によって、忠太の多くの作品は今は写真によってしか知ることができない。
いつも言ってるけど、戦争、共産(社会)主義、開発は歴史的遺物にとって三大疫病神である。この三つがなければ歴史家もっと仕事がやりやすい。
本誌には大谷光瑞と忠太との関係を解説する、真名子晃征氏の文章が掲載されている。彼の建築作品に対する興味に編集が偏っていて、当時の日本のアジアに対する意識とか、大陸調査に関する分析が薄いのがちょっと寂しいが、伊東忠太の年譜も主な作品リストもあり、保存しておくにはよい史料と言える。
最後に、もう一度、アジアのチベット仏教僧院を調査しておいてくれてありがとう、忠太。
真言宗とチベット仏教
シンポジウム(内容については後述)の後、同じシンポにでていたMさんと待ち合わせているUさんとお茶した。
Uさん「実は昨日もMさんと食事してたんです。Mさんが『矢島保次郎(明治期にチベットに潜入し、チベット人の妻もいた有名な探検家)をテーマに語ろう』ということで、席も『矢島』で予約しました。」
私「なんじゃそりゃ」
Uさん「で、私が店の人に案内されて席についたら、まだMさんは来ていなくて、しばらく待っていると、衝立の向こうから『ダラムサラ』とかいう声が聞こえてくるんです」
私は今まで数々の空耳を聞いてきて、恥をかいてきたので、最初は動じませんでした。あっちで「チベット」って聞こえたからみると、ベッドの話だったり、こっちで「チベット」て聞こえたら,「ペット」の話だったりしたから」
Kさん「ぶはははは」
Uさん「『タンカ(チベットの仏画)をやっています』っていうから、絵の話かと思ったら短歌だったりしたこともあります」
私「ぶはははは」
Uさん「でもやっぱりチベットの話が聞こえてくるので覗いてみたら、そこにマリア・リンチェンさんと、ダライラマ法王事務所のボランティアの方がいらっしゃって、そこにこっちにいるはずのMさんもいるんですよ。」
私「話が見えない」
Uさん「つまり、たまたま別のチベット関係者の集まりが衝立一つ隔てて隣の席にきたんです。あの何万人もが食事している広い新宿で、チベット料理でも何でもない火鍋屋で、しかも初めて使った店で、70席はあるのに、偶然隣り合わせになったんです!!!」
私「そいえばあなたとカチン料理屋(ビルマの少数民族)でばったり会ったことあったよね」
Uさん「あそこで会うのは普通です」(普通なのか?)
私「では、やはり前世の因縁なのか?」
Uさん「それにしてもMさんなんで向こうのグループにはいっていたのか、少しは疑問に思ってほしかったです。自分が呼んでない人がたくさんいることに疑問を感じなかったんでしょうか」
笑い話はここまでにして、゙本体のシンポジウムをレポート。例によって手書きメモと記憶とパワーポイントの画面写真に基づいたものなので、裏は自分でとって。
シンポジウムのタイトルは「戦時期日本の喇嘛教(チベット仏教)・回教(イスラーム)工作」わたしは前半の日本とチベット仏教の関わりの部分だけ聞き、イスラーム工作はパスさせて頂いた。
このセクションの発表者は二人いて、一人はこの前の内陸アジア史学会の発表者でもあった高本康子さん。演題は「満州国における『喇嘛教』工作」について。明治初期からの日本とチベットの関わりを概説し、特に、満州国については詳しく、熱河省承徳と興安嶺省における日本軍部の行ったチベット仏教へのコンタクトならびに庇護策などについて述べた。
で、二人目の発表者がナラン・ゴアさん(オーストラリア国立大学)。
彼女の演題は「内モンゴルにおける日本の仏教者たちの活動」(当初英語でやるはずが日本語で発表。この方ドイツ語で博士論文書いているし、モンゴル人は本当に語学に堪能!)
日本は大陸に侵攻する中で、清朝やモンゴル・チベット地域において広く信仰されていたチベット仏教と出会う。そして宗教を否定する社会主義ソ連や、民族の文化を尊重しない中華思想の漢人と対抗するべく、満洲・モンゴル地域において民族の文化を尊重し、その一環として、チベット仏教の復興を行った。
当時の日本仏教の諸派は、大陸に布教使を送り込んで、布教所をたて、「西洋がキリスト教によって一大勢力を結集しているのだから、アジアも仏教によって一致団結して西洋帝国主義と戦わねばならない」みたいなPan Buddhismな宣伝をチベット仏教徒たちに行っていた。
で、アジアの仏教者が同盟する、ということになれば、当然、重要となるのは、チベット仏教世界のトップ、ダライラマ。このような流れの中で、東本願寺の僧、寺本婉雅が暗躍して、ダライラマ13世と東本願寺のトップ(代理)との会見を成功させたりしたのは有名な話。
ナランゴアさんは、日本仏教各派の中でも真言宗は、単純に国策にのった以上の働きをしていたこと、チベット仏教自体に興味をもってチベット仏教徒と接していたという点を指摘された。
その根拠としては、真言宗はチベット仏教自体を学ぼうとしていること、チベット仏教を学術的に研究していること、戦争末期に日本の国策が南方工作に向かう中、真言宗が東南アジア布教に割いた費用は微々たるものであった一方、モンゴル地域のチベット仏教振興に対する予算は増え続けていたこと。また、高野山は満洲国から多くの留学僧(モンゴル人)を日本に受け入れ、「日満親善」ではなく「日蒙親善」と銘打っていたことなどを挙げた。
真言宗がなぜ他の宗派よりもチベット仏教と深いつながりをもつようになったのかの理由について、ナランゴアさんは「真言宗の教学である密教はチベット仏教と重なる点が多いからではないか」と言う。
以下、高野山とモンゴルのチベット仏教徒との具体的な関係を箇条書きにする。
●真言宗高野山派は1938年、北京の報国寺に高野山別院を建てることを始めとして、各地に布教所をたてて布教使を送り込んだ。大陸に送られる人は、大陸布教講習会、蒙疆派遣僧訓練道場などにおいて、モンゴル語・チベット語・中国語を勉強し、さらに医療知識を身につけさせられた。
●1941年10月 東京智山専門学校で、五ヶ月間研修を行った14人の内、六人がチベット仏教を学ぶためにモンゴルへ送られた。
●大陸に送られた真言宗徒の中でも高橋大善はフフホト(当時は厚和といっていた。今の呼和浩特)において、日本から送られてくる研究生の世話役として活躍した(1941年に大酒飲み過ぎて死ぬ)。
●一方、高野山には、興安密教学院を設立して、ここにはチベット仏教の僧侶を集め、日本語・歴史・地理などを教えた。ここで教師をしていた田中千明さんによると、チベット人は一人、漢人が一人で、あとはすべてモンゴル人僧だったという。
●1941年10月に、東京に、真言宗によるチベット仏教の研究所、東京真言宗喇嘛教研究所がたつ。研究所長は倉持秀雄、顧問(交渉中 笑)は、河口慧海、青木文教、矢島保次郎、栂尾祥雲、などそうそうたるメンバーが名を連ねている。
このように、真言宗は、チベット仏教の僧院に日本人の研修生を送り込み、高野山にチベット仏教僧に近代教育を施す施設を作ったり、東京にチベット仏教の研究所を作ったりと、明らかにチベット仏教自体を理解しようとしていたのである。
以上の発表に対してコメンテーターは新潟大学の広川佐保先生は
日本人がチベット仏教に対する時、仏教の源流を求めるという意識があったので、西洋人の宣教師が未開の人々にキリスト教を伝えるといったような、上から目線の布教ではなかったのではないか。「チベットから教えていただく」という感じであったのではないか。
長尾雅人(広川先生は長尾先生を宗教学者といっていたが、彼はチベット仏教学者)の『蒙古学問寺』を見ると、『チベット仏教はあまりにも深淵で、チベット仏教僧はそれを日本人に教えてくれないと』書いてある。そんな状態でモンゴルに布教することに、日本側は矛盾を感じなかったのか。また、清朝の庇護を失ってモンゴルのチベット仏教は経済的にも人的にも衰退していた。モンゴルの側には、チベット仏教を改革せねばという危機感があったのではないか。
などのコメントを述べられた。
次に質問タイム
まず中見先生。
『成吉思汗傳』などの著者として有名なモンゴル史の研究者小林高四郎(1905-1987)先生は、外務部の調査部にいて、ようはスパイだったんだけど、まあ見識がある人で、あの橋本光宝(外務省でモンゴルのチベット仏教担当して、チベット仏教史の基本的な文献を和訳している)が「河口慧海を青海省にパラシュートで降下させて、現地の工作にあたらせろ」といったのを聞いて、「あれはどうしようもないバカだ」といっていた。
独立後のインドで首相にまでなったRaghu Biraは、子供の頃に高野山につれてこられている。彼の息子がシャタピタカ・シリーズ(チベット仏教の基本的なテクストを影印したシリーズ)をだしたLokesh Chandraで、あのシリーズにモンゴル大蔵経が入っているのは、父親が〔高野山で〕モンゴルのツェデンバルと交友関係があったので、後にウランバートルにいった際、大蔵経を撮影する許可がとれたのだ(このあたりメモが読み取れないのでシャタピタカのモンゴル大蔵経の序文を確認する必要あり)。
当時、ナチスドイツもイタリアのファシストも西洋文明の起源としてチベットへ興味をもっていた。ドイツ・イタリアのチベットブームは日本には影響を与えていないのか、それだけ聞きたい。
などのモンゴル近現代史の研究者ならではのトリビアが炸裂していた。私は面白かったのだが、司会者は先生の話を露骨にさえぎって「あとで三人で話してください」とまとめたのにはわろた。
で、私の雑感。
このお二方の発表はモンゴルを舞台にしているものの日本語史料のみを用いて日本人の視点からみたチベット仏教との関わりを述べている。つまり日本史である。で、その日本人の視点から見ると、真言宗以外の他の宗派の僧侶たちは、やはり国策にのっとった布教を大陸で行っていたわけで、チベット仏教の振興を行ったといっても、純粋にチベット仏教自体の価値を理解して支えようと思っていた訳ではなく、どこか国益臭(日本人のエゴ)がただよう。
当時の日本の史料には喇嘛教(チベット仏教)、活仏(転生僧のこと)などのチベット語に対応する概念のない言葉を常用していたことなどが、日本人や漢人のチベット仏教に対する理解の限界をよく示している(むろん発表者はそれを認識した上で、当時用いられていたから便宜上これらの言葉を用いる、と前置きしている)。
そして思うのが、現在のこと。チベットは中国に占領され、仏教文化はかろうじてインドのチベット難民社会で保持されている状態である。しかしこの土俵際において、チベット仏教にふれる機会を持った先進各国の人々は、チベット文化そのものの価値に気づき、その文化の存続を強く願い始めた。しかし、今度は「中国に対する配慮」という各国の国策が邪魔をして、チベット支援が自由に行えない状態となっている。
皮肉な話である。
そして注目すべきは、今に至っても、チベット仏教文化に対して理解と尊敬と支援を行ってきた人々の中には、真言宗の関係者が目立つことである。
昨年、真言宗高野山派の高野山大学がダライラマ14世をお招きして胎蔵界の灌頂を行ったこと、東京では真言宗豊山派の護国寺様がダライラマ14世を何度かお招きしていること、成田山で国際チベット学会が行われたこと、などが象徴的であろう。ラダックやスピティのマンダラ調査も智山派・高野山派など真言宗系の研究者の活動が目立っている。
敗戦を境に何もかもがリセットされたように見えても、真言宗とチベット仏教の教義の共通点が、いまもほそぼそと両者の関係を続けさせているとも言える。思えばウチの父方も真言宗高野山派である。自分では意識しない内に自分も歴史の系譜の中にいたんだなあ、と、何か感慨深かった。
Uさん「実は昨日もMさんと食事してたんです。Mさんが『矢島保次郎(明治期にチベットに潜入し、チベット人の妻もいた有名な探検家)をテーマに語ろう』ということで、席も『矢島』で予約しました。」
私「なんじゃそりゃ」
Uさん「で、私が店の人に案内されて席についたら、まだMさんは来ていなくて、しばらく待っていると、衝立の向こうから『ダラムサラ』とかいう声が聞こえてくるんです」
私は今まで数々の空耳を聞いてきて、恥をかいてきたので、最初は動じませんでした。あっちで「チベット」って聞こえたからみると、ベッドの話だったり、こっちで「チベット」て聞こえたら,「ペット」の話だったりしたから」
Kさん「ぶはははは」
Uさん「『タンカ(チベットの仏画)をやっています』っていうから、絵の話かと思ったら短歌だったりしたこともあります」
私「ぶはははは」
Uさん「でもやっぱりチベットの話が聞こえてくるので覗いてみたら、そこにマリア・リンチェンさんと、ダライラマ法王事務所のボランティアの方がいらっしゃって、そこにこっちにいるはずのMさんもいるんですよ。」
私「話が見えない」
Uさん「つまり、たまたま別のチベット関係者の集まりが衝立一つ隔てて隣の席にきたんです。あの何万人もが食事している広い新宿で、チベット料理でも何でもない火鍋屋で、しかも初めて使った店で、70席はあるのに、偶然隣り合わせになったんです!!!」
私「そいえばあなたとカチン料理屋(ビルマの少数民族)でばったり会ったことあったよね」
Uさん「あそこで会うのは普通です」(普通なのか?)
私「では、やはり前世の因縁なのか?」
Uさん「それにしてもMさんなんで向こうのグループにはいっていたのか、少しは疑問に思ってほしかったです。自分が呼んでない人がたくさんいることに疑問を感じなかったんでしょうか」
笑い話はここまでにして、゙本体のシンポジウムをレポート。例によって手書きメモと記憶とパワーポイントの画面写真に基づいたものなので、裏は自分でとって。
シンポジウムのタイトルは「戦時期日本の喇嘛教(チベット仏教)・回教(イスラーム)工作」わたしは前半の日本とチベット仏教の関わりの部分だけ聞き、イスラーム工作はパスさせて頂いた。
このセクションの発表者は二人いて、一人はこの前の内陸アジア史学会の発表者でもあった高本康子さん。演題は「満州国における『喇嘛教』工作」について。明治初期からの日本とチベットの関わりを概説し、特に、満州国については詳しく、熱河省承徳と興安嶺省における日本軍部の行ったチベット仏教へのコンタクトならびに庇護策などについて述べた。
で、二人目の発表者がナラン・ゴアさん(オーストラリア国立大学)。
彼女の演題は「内モンゴルにおける日本の仏教者たちの活動」(当初英語でやるはずが日本語で発表。この方ドイツ語で博士論文書いているし、モンゴル人は本当に語学に堪能!)
日本は大陸に侵攻する中で、清朝やモンゴル・チベット地域において広く信仰されていたチベット仏教と出会う。そして宗教を否定する社会主義ソ連や、民族の文化を尊重しない中華思想の漢人と対抗するべく、満洲・モンゴル地域において民族の文化を尊重し、その一環として、チベット仏教の復興を行った。
当時の日本仏教の諸派は、大陸に布教使を送り込んで、布教所をたて、「西洋がキリスト教によって一大勢力を結集しているのだから、アジアも仏教によって一致団結して西洋帝国主義と戦わねばならない」みたいなPan Buddhismな宣伝をチベット仏教徒たちに行っていた。
で、アジアの仏教者が同盟する、ということになれば、当然、重要となるのは、チベット仏教世界のトップ、ダライラマ。このような流れの中で、東本願寺の僧、寺本婉雅が暗躍して、ダライラマ13世と東本願寺のトップ(代理)との会見を成功させたりしたのは有名な話。
ナランゴアさんは、日本仏教各派の中でも真言宗は、単純に国策にのった以上の働きをしていたこと、チベット仏教自体に興味をもってチベット仏教徒と接していたという点を指摘された。
その根拠としては、真言宗はチベット仏教自体を学ぼうとしていること、チベット仏教を学術的に研究していること、戦争末期に日本の国策が南方工作に向かう中、真言宗が東南アジア布教に割いた費用は微々たるものであった一方、モンゴル地域のチベット仏教振興に対する予算は増え続けていたこと。また、高野山は満洲国から多くの留学僧(モンゴル人)を日本に受け入れ、「日満親善」ではなく「日蒙親善」と銘打っていたことなどを挙げた。
真言宗がなぜ他の宗派よりもチベット仏教と深いつながりをもつようになったのかの理由について、ナランゴアさんは「真言宗の教学である密教はチベット仏教と重なる点が多いからではないか」と言う。
以下、高野山とモンゴルのチベット仏教徒との具体的な関係を箇条書きにする。
●真言宗高野山派は1938年、北京の報国寺に高野山別院を建てることを始めとして、各地に布教所をたてて布教使を送り込んだ。大陸に送られる人は、大陸布教講習会、蒙疆派遣僧訓練道場などにおいて、モンゴル語・チベット語・中国語を勉強し、さらに医療知識を身につけさせられた。
●1941年10月 東京智山専門学校で、五ヶ月間研修を行った14人の内、六人がチベット仏教を学ぶためにモンゴルへ送られた。
●大陸に送られた真言宗徒の中でも高橋大善はフフホト(当時は厚和といっていた。今の呼和浩特)において、日本から送られてくる研究生の世話役として活躍した(1941年に大酒飲み過ぎて死ぬ)。
●一方、高野山には、興安密教学院を設立して、ここにはチベット仏教の僧侶を集め、日本語・歴史・地理などを教えた。ここで教師をしていた田中千明さんによると、チベット人は一人、漢人が一人で、あとはすべてモンゴル人僧だったという。
●1941年10月に、東京に、真言宗によるチベット仏教の研究所、東京真言宗喇嘛教研究所がたつ。研究所長は倉持秀雄、顧問(交渉中 笑)は、河口慧海、青木文教、矢島保次郎、栂尾祥雲、などそうそうたるメンバーが名を連ねている。
このように、真言宗は、チベット仏教の僧院に日本人の研修生を送り込み、高野山にチベット仏教僧に近代教育を施す施設を作ったり、東京にチベット仏教の研究所を作ったりと、明らかにチベット仏教自体を理解しようとしていたのである。
以上の発表に対してコメンテーターは新潟大学の広川佐保先生は
日本人がチベット仏教に対する時、仏教の源流を求めるという意識があったので、西洋人の宣教師が未開の人々にキリスト教を伝えるといったような、上から目線の布教ではなかったのではないか。「チベットから教えていただく」という感じであったのではないか。
長尾雅人(広川先生は長尾先生を宗教学者といっていたが、彼はチベット仏教学者)の『蒙古学問寺』を見ると、『チベット仏教はあまりにも深淵で、チベット仏教僧はそれを日本人に教えてくれないと』書いてある。そんな状態でモンゴルに布教することに、日本側は矛盾を感じなかったのか。また、清朝の庇護を失ってモンゴルのチベット仏教は経済的にも人的にも衰退していた。モンゴルの側には、チベット仏教を改革せねばという危機感があったのではないか。
などのコメントを述べられた。
次に質問タイム
まず中見先生。
『成吉思汗傳』などの著者として有名なモンゴル史の研究者小林高四郎(1905-1987)先生は、外務部の調査部にいて、ようはスパイだったんだけど、まあ見識がある人で、あの橋本光宝(外務省でモンゴルのチベット仏教担当して、チベット仏教史の基本的な文献を和訳している)が「河口慧海を青海省にパラシュートで降下させて、現地の工作にあたらせろ」といったのを聞いて、「あれはどうしようもないバカだ」といっていた。
独立後のインドで首相にまでなったRaghu Biraは、子供の頃に高野山につれてこられている。彼の息子がシャタピタカ・シリーズ(チベット仏教の基本的なテクストを影印したシリーズ)をだしたLokesh Chandraで、あのシリーズにモンゴル大蔵経が入っているのは、父親が〔高野山で〕モンゴルのツェデンバルと交友関係があったので、後にウランバートルにいった際、大蔵経を撮影する許可がとれたのだ(このあたりメモが読み取れないのでシャタピタカのモンゴル大蔵経の序文を確認する必要あり)。
当時、ナチスドイツもイタリアのファシストも西洋文明の起源としてチベットへ興味をもっていた。ドイツ・イタリアのチベットブームは日本には影響を与えていないのか、それだけ聞きたい。
などのモンゴル近現代史の研究者ならではのトリビアが炸裂していた。私は面白かったのだが、司会者は先生の話を露骨にさえぎって「あとで三人で話してください」とまとめたのにはわろた。
で、私の雑感。
このお二方の発表はモンゴルを舞台にしているものの日本語史料のみを用いて日本人の視点からみたチベット仏教との関わりを述べている。つまり日本史である。で、その日本人の視点から見ると、真言宗以外の他の宗派の僧侶たちは、やはり国策にのっとった布教を大陸で行っていたわけで、チベット仏教の振興を行ったといっても、純粋にチベット仏教自体の価値を理解して支えようと思っていた訳ではなく、どこか国益臭(日本人のエゴ)がただよう。
当時の日本の史料には喇嘛教(チベット仏教)、活仏(転生僧のこと)などのチベット語に対応する概念のない言葉を常用していたことなどが、日本人や漢人のチベット仏教に対する理解の限界をよく示している(むろん発表者はそれを認識した上で、当時用いられていたから便宜上これらの言葉を用いる、と前置きしている)。
そして思うのが、現在のこと。チベットは中国に占領され、仏教文化はかろうじてインドのチベット難民社会で保持されている状態である。しかしこの土俵際において、チベット仏教にふれる機会を持った先進各国の人々は、チベット文化そのものの価値に気づき、その文化の存続を強く願い始めた。しかし、今度は「中国に対する配慮」という各国の国策が邪魔をして、チベット支援が自由に行えない状態となっている。
皮肉な話である。
そして注目すべきは、今に至っても、チベット仏教文化に対して理解と尊敬と支援を行ってきた人々の中には、真言宗の関係者が目立つことである。
昨年、真言宗高野山派の高野山大学がダライラマ14世をお招きして胎蔵界の灌頂を行ったこと、東京では真言宗豊山派の護国寺様がダライラマ14世を何度かお招きしていること、成田山で国際チベット学会が行われたこと、などが象徴的であろう。ラダックやスピティのマンダラ調査も智山派・高野山派など真言宗系の研究者の活動が目立っている。
敗戦を境に何もかもがリセットされたように見えても、真言宗とチベット仏教の教義の共通点が、いまもほそぼそと両者の関係を続けさせているとも言える。思えばウチの父方も真言宗高野山派である。自分では意識しない内に自分も歴史の系譜の中にいたんだなあ、と、何か感慨深かった。
| ホーム |