電撃! 真実の炎リレー
30日、仙台において「真実の炎リレー」が行われたという。このニュースに各地のチベット・サポーターは驚愕した。なぜなら仙台のチベサポすら、その開催をその日の朝になるまで知らなかったからである(笑)。
その前に、真実の炎リレー(flame of truth relay) がいかなるものかについて説明しよう。
いっこうによくならない本土チベットの状況を憂い、今年3月27日、チベット亡命政権議会(TPiE)が「真実の炎リレー」というアクションを決議をした。それは、以下の三つの要求をかかげて世界各地をまわって署名を集めるというもの。
1 国連は、1959年、1961年及び1965年に可決した国連決議に基づき、チベット問題について議論し、その決議内容の実現の為にたゆまず努力すべきである。
2 チベットで進行中の危機的状況を調査するために、直ちに独立した国際機関による実情調査の代表団を送らなければならない。
3 国連は、チベット内部のチベット人の基本的な望みが叶えられるよう、きちんとした責任を負うべきである。
リレーは法王の誕生日7月6日にあわせてダラムサラを出発し、署名を集めつつ、最終日には国際人権デーの12月10日に、ニューヨークの国連本部、ジュネーブの国連人権理事会およびニューデリーの国連事務所で声明文を読み上げて終わるというもの。
チベットをめぐる国連決議は歴史資料ともいえるので、以下に転載しておく。
というわけで、このリレー・アクションは二ヶ月前から始まっていたことは小耳に挟んでいたのだが、それが突如30日仙台にきたというのだ。そこで、亡命政府のニュースサイト「パユル」(祖国)を真実の炎リレー(flame of truth)で検索してみたら、だいたい以下のタイトルが並んだ。
●リレー関連の記事
7/12 真実の炎リレーは南インドを横断する。
7/21 バイラクッペで数千人が真実の炎リレーを歓迎
7/24 真実の炎リレーは亡命政府の中枢に到着する
7/26 亡命政権の指導者たちは真実の炎リレーに参加するようにと促す
7/30 真実の炎リレー・キャンペーンは公式にインドを横断する。
8/9 チベットの真実の炎はマイソールに到着
8/22 チベットの真実の炎は9月2日に三十カ国以上でキャンペーンを開始。
8/25 チベットの真実の炎はインドを旅し続ける
8/27 ゴアがチベットの真実の炎を歓迎する
8/29 ゴアの州首相Parrikarが真実の炎代表団を歓迎
9/3 真実の炎リレーの第二支隊が台湾でバイク旅行を開始
9/3 北米ワシントンとカナダのオタワで同時にリレーが始まる。
9/10 真実の炎キャンペーンはニューヨークに向かう。
9/12 チベットの真実の炎は北米とヨーロッパを旅し続ける
※この記事の写真にはそれに先立つ週のカナダの下院議員 Peggy Nashと上院議員Consiglio Di Ninoのリレー写真を掲載。
9/14 ロンドンからイルクーツクへ。真実の炎は旅を続ける
9/18 真実の炎はメルボルンとブリュッセルで光を放つ
記事を読んでみても、予定やルートなどの全体像もいまいちわからず、なんか各地が同時並行しているようでもあり、さらに、ここ半月ニュースが途切れており、全体にわけわからん。
で、いきなり30日に仙台に上陸したのである(その後、9月17日に被災地の石巻に上陸していたとの情報も届く 笑)。謎は深まるばかり。
当然のことながら、
「ツイッターにもホームページにも告知がないのはなぜだろう?」
「覆面タクシーみたいで、めだたせない方針なのか?」
「アクションを電撃でやってどうする(笑)!」
「2008年の聖火リレーをリスペクストしているのか?」
(欧米でもりあがったチベサポがアジアにくると竜頭蛇尾になったことを指すのか)。
などの憶測がとびかった。
私も何が真実なのかさっぱり分からない。
例によってゆるいだけなのかもしれない(笑)。
とりあえず、事務所のHPに東京渋谷のアクションについては告知があるので転載する。
署名は右オンラインでもできる。 http://www.tibethouse.jp/fot/petition.html
なんだかよく分からないリレーだけど、国連に過去の決議の履行を求め、現在のチベット本土の状況改善のために動いてくれ、という趣旨は至極もっともだと思うので、エントリをあげました。
署名、よろしくです。にょほん(はるかぜちゃんのぱくり)。
その前に、真実の炎リレー(flame of truth relay) がいかなるものかについて説明しよう。
いっこうによくならない本土チベットの状況を憂い、今年3月27日、チベット亡命政権議会(TPiE)が「真実の炎リレー」というアクションを決議をした。それは、以下の三つの要求をかかげて世界各地をまわって署名を集めるというもの。
1 国連は、1959年、1961年及び1965年に可決した国連決議に基づき、チベット問題について議論し、その決議内容の実現の為にたゆまず努力すべきである。
2 チベットで進行中の危機的状況を調査するために、直ちに独立した国際機関による実情調査の代表団を送らなければならない。
3 国連は、チベット内部のチベット人の基本的な望みが叶えられるよう、きちんとした責任を負うべきである。
リレーは法王の誕生日7月6日にあわせてダラムサラを出発し、署名を集めつつ、最終日には国際人権デーの12月10日に、ニューヨークの国連本部、ジュネーブの国連人権理事会およびニューデリーの国連事務所で声明文を読み上げて終わるというもの。
チベットをめぐる国連決議は歴史資料ともいえるので、以下に転載しておく。
● 国連総会決議1353
(1959年 ニューヨーク)
国連総会は、国連憲章および1948年12月10日の総会で採択された世界人権宣言に謳われた基本的人権と自由に関する原則を想起し、他の人民同様、チベット民族にも認められた平等な世俗的・宗教的自由権を含む基本的人権および自由を考慮し、チベット民族独自の文化および宗教の伝統、そして因習的に彼らが享受してきた自治の存在を忘れず、チベット民族の基本的人権と自由が侵害されてきたという趣旨の、ダライ・ラマ法王の公式声明を含む報告の内容を深く懸念し、信頼できる指導者らが国際社会の緊張緩和と国際関係向上を目指して真剣に前向きな努力をする一方、緊張を高め人民間関係を悪化させる動きがあることを遺憾に思い、
1)法の支配に基づく平和的世界秩序のためには国連憲章および世界人権宣言の原則を尊重することが不可欠であることを再確認し、
2)チベット民族の基本的人権とその特有の文化および宗教生活を尊重することを要請する。
(1959年 ニューヨーク)
国連総会は、国連憲章および1948年12月10日の総会で採択された世界人権宣言に謳われた基本的人権と自由に関する原則を想起し、他の人民同様、チベット民族にも認められた平等な世俗的・宗教的自由権を含む基本的人権および自由を考慮し、チベット民族独自の文化および宗教の伝統、そして因習的に彼らが享受してきた自治の存在を忘れず、チベット民族の基本的人権と自由が侵害されてきたという趣旨の、ダライ・ラマ法王の公式声明を含む報告の内容を深く懸念し、信頼できる指導者らが国際社会の緊張緩和と国際関係向上を目指して真剣に前向きな努力をする一方、緊張を高め人民間関係を悪化させる動きがあることを遺憾に思い、
1)法の支配に基づく平和的世界秩序のためには国連憲章および世界人権宣言の原則を尊重することが不可欠であることを再確認し、
2)チベット民族の基本的人権とその特有の文化および宗教生活を尊重することを要請する。
● 国連総会議決議1723
(1961年 ニューヨーク)
国連総会は、1959年10月21日に採択された総会決議1353のチベットに関する質疑を想起し、
チベット民族の基本的人権が侵害され、チベット古来の特有の文化および宗教が抑圧されるなどの行為がチベット内部で継続的に行われていることを深く懸念し、それらの行為によって、チベット難民の近隣諸国への大規模流出に証明される厳しい状況にチベットの人々がおかれている状況を、深い懸念とともに指摘する。
それらの行為が、国連憲章および世界人権宣言に謳われた民族決議主義を含む基本的人権と自由を侵害し、国際的な緊張を高め、人民間関係を悪化させる憂慮すべき影響力をもっていることを考慮し、
1) 法の支配に基づく平和的世界秩序のためには国連憲章および世界人権宣言の原則への信念が不可欠であることを再確認し、
2) チベット民族の基本的人権と自由を奪う行為を止めることを厳粛に再要請する。
3) 加盟国が本決議の目的達成のため、必要に応じて最善の努力をすることを希望する。
(1961年 ニューヨーク)
国連総会は、1959年10月21日に採択された総会決議1353のチベットに関する質疑を想起し、
チベット民族の基本的人権が侵害され、チベット古来の特有の文化および宗教が抑圧されるなどの行為がチベット内部で継続的に行われていることを深く懸念し、それらの行為によって、チベット難民の近隣諸国への大規模流出に証明される厳しい状況にチベットの人々がおかれている状況を、深い懸念とともに指摘する。
それらの行為が、国連憲章および世界人権宣言に謳われた民族決議主義を含む基本的人権と自由を侵害し、国際的な緊張を高め、人民間関係を悪化させる憂慮すべき影響力をもっていることを考慮し、
1) 法の支配に基づく平和的世界秩序のためには国連憲章および世界人権宣言の原則への信念が不可欠であることを再確認し、
2) チベット民族の基本的人権と自由を奪う行為を止めることを厳粛に再要請する。
3) 加盟国が本決議の目的達成のため、必要に応じて最善の努力をすることを希望する。
● 国連総会決議2079
(1965年 ニューヨーク)
「総会は、国連連合憲章に規定され、世界人権宣言に宣命された人権と基本的自由に関する諸原則を銘記し、チベット問題に関する1959年10月21日の総会決議1353及び1961年12月20日の総会決議1723を再確認し、
チベット難民の隣接諸国への大規模流出によって証明されているように、チベット人民の基本的な権利と自由の継続的侵害及びチベット民族独自の文化的及び宗教的生活の継続的抑圧に重大な関心をよせ
チベット民族の基本的権利及び自由を継続的に侵害していることを非難し、
国際連合憲章及び世界人権宣言の諸原則の尊重が法の支配に基づく世界秩序の進展に不可欠であるとの確信を再確認し、
チベットにおける人権と基本的自由の侵害ならびにチベット民族の独自の文化的及び宗教的生活の抑圧は、国際の緊張を増加し、かつ人民の関係を悪化させるとの信念を宣言し、
チベット民族が常に享受している人権と基本的自由を剥奪するあらゆる行為を停止するようにとの要請を厳粛に行い、全ての国に対し、本会議の目的を達成するために、最善の努力を払うよう訴える」
(1965年 ニューヨーク)
「総会は、国連連合憲章に規定され、世界人権宣言に宣命された人権と基本的自由に関する諸原則を銘記し、チベット問題に関する1959年10月21日の総会決議1353及び1961年12月20日の総会決議1723を再確認し、
チベット難民の隣接諸国への大規模流出によって証明されているように、チベット人民の基本的な権利と自由の継続的侵害及びチベット民族独自の文化的及び宗教的生活の継続的抑圧に重大な関心をよせ
チベット民族の基本的権利及び自由を継続的に侵害していることを非難し、
国際連合憲章及び世界人権宣言の諸原則の尊重が法の支配に基づく世界秩序の進展に不可欠であるとの確信を再確認し、
チベットにおける人権と基本的自由の侵害ならびにチベット民族の独自の文化的及び宗教的生活の抑圧は、国際の緊張を増加し、かつ人民の関係を悪化させるとの信念を宣言し、
チベット民族が常に享受している人権と基本的自由を剥奪するあらゆる行為を停止するようにとの要請を厳粛に行い、全ての国に対し、本会議の目的を達成するために、最善の努力を払うよう訴える」
というわけで、このリレー・アクションは二ヶ月前から始まっていたことは小耳に挟んでいたのだが、それが突如30日仙台にきたというのだ。そこで、亡命政府のニュースサイト「パユル」(祖国)を真実の炎リレー(flame of truth)で検索してみたら、だいたい以下のタイトルが並んだ。
●リレー関連の記事
7/12 真実の炎リレーは南インドを横断する。
7/21 バイラクッペで数千人が真実の炎リレーを歓迎
7/24 真実の炎リレーは亡命政府の中枢に到着する
7/26 亡命政権の指導者たちは真実の炎リレーに参加するようにと促す
7/30 真実の炎リレー・キャンペーンは公式にインドを横断する。
8/9 チベットの真実の炎はマイソールに到着
8/22 チベットの真実の炎は9月2日に三十カ国以上でキャンペーンを開始。
8/25 チベットの真実の炎はインドを旅し続ける
8/27 ゴアがチベットの真実の炎を歓迎する
8/29 ゴアの州首相Parrikarが真実の炎代表団を歓迎
9/3 真実の炎リレーの第二支隊が台湾でバイク旅行を開始
9/3 北米ワシントンとカナダのオタワで同時にリレーが始まる。
9/10 真実の炎キャンペーンはニューヨークに向かう。
9/12 チベットの真実の炎は北米とヨーロッパを旅し続ける
※この記事の写真にはそれに先立つ週のカナダの下院議員 Peggy Nashと上院議員Consiglio Di Ninoのリレー写真を掲載。
9/14 ロンドンからイルクーツクへ。真実の炎は旅を続ける
9/18 真実の炎はメルボルンとブリュッセルで光を放つ
記事を読んでみても、予定やルートなどの全体像もいまいちわからず、なんか各地が同時並行しているようでもあり、さらに、ここ半月ニュースが途切れており、全体にわけわからん。
で、いきなり30日に仙台に上陸したのである(その後、9月17日に被災地の石巻に上陸していたとの情報も届く 笑)。謎は深まるばかり。
当然のことながら、
「ツイッターにもホームページにも告知がないのはなぜだろう?」
「覆面タクシーみたいで、めだたせない方針なのか?」
「アクションを電撃でやってどうする(笑)!」
「2008年の聖火リレーをリスペクストしているのか?」
(欧米でもりあがったチベサポがアジアにくると竜頭蛇尾になったことを指すのか)。
などの憶測がとびかった。
私も何が真実なのかさっぱり分からない。
例によってゆるいだけなのかもしれない(笑)。
とりあえず、事務所のHPに東京渋谷のアクションについては告知があるので転載する。
「真実の炎リレー」
10/7(日) 渋谷・宮下公園 13時集合 14:20デモ出発
ルート:宮下公園~東電前~宮益坂~青山通り~南青山~外苑西~明治公園四季の庭(解散)
10/7(日) 渋谷・宮下公園 13時集合 14:20デモ出発
ルート:宮下公園~東電前~宮益坂~青山通り~南青山~外苑西~明治公園四季の庭(解散)
署名は右オンラインでもできる。 http://www.tibethouse.jp/fot/petition.html
なんだかよく分からないリレーだけど、国連に過去の決議の履行を求め、現在のチベット本土の状況改善のために動いてくれ、という趣旨は至極もっともだと思うので、エントリをあげました。
署名、よろしくです。にょほん(はるかぜちゃんのぱくり)。
宮沢賢治と多田等観
今年のゼミ合宿の目的地は花巻市。花巻といえば、「己を無にして人のためにつくす」法華経行者・宮沢賢治(1896-1933)の出身地。さらに、花巻にゆかりの仏教者としては、ダライラマ13世の時代、チベットの僧院に10年もの間留学した多田等観(1890-1967)がいる。多田等観は残念ながら日本でチベット仏教を伝える機会をもてず、東北大学や東洋文庫やアメリカの大学で教鞭をとりながら、チベット学に裨益することでチベットを日本に広めた。花巻には多田等観がチベットから将来した数数の品と、彼が愛した観音山とその頂上にたつ彼の住居一燈庵がある。
旅程の概要は、初日に宮沢賢治関連、中日に多田等観関連の史跡をたずね、最終日は宮城県の閖上において、三日間かけておりあげた千羽鶴をもって慰霊。
初日
高田馬場Big Box前からバスで花巻に向けて出発。
バスのマイクを握り「みなさん、こんにちは。これからみなさんと花巻までお供をさしていただく●シ×マです。花巻は宮沢賢治の故郷として知られます。宮沢賢治の生き方と作品には、「本当の幸せとは、人のために生きること」という思想があります。
かつてこのような生き方は軍国主義の滅私奉公に重ねられ、不当に過小評価されていました。しかし昨今あまりに自分のことしか考えない風潮が蔓延し、社会に様々な問題が現れているため、賢治の思想はみなおされています。
賢治は法華経行者であり、彼の説く利他は「一切の人を幸せにするまでは自らの幸せを求めない」という大乗仏教の理想の人間像、菩薩の生きかたです。

みなさんにとって、「本当の幸せ」は何ですか? お金がたくさんもうかること、美味しいものを食べる、好きな音楽を聴く、など自分を楽しませることを幸せだと思っていませんか。
しかしそれは違います。単なる気晴らしにすぎません。その証拠に続けているとすぐに飽きてしまいます。さらによく考えて見ればこの世の様々な問題は、人のことをかまわず自分のことだけを考える人によって生じています。自分、自分の家族、自分の国、自分の宗教、と自分のためには他人をかまわない人がこの世にトラブルをおこしているのです。しかし、みながエゴを鎮めようと努力し、人のために生きようとしたらどうなるでしょう。理想郷が出現します。
賢治はまさに「人のために生きること」が本当の幸せであると思いました。賢治は仏教徒です。仏教はエゴを鎮めるトレーニングの集大成です。ダライラマが心底幸せそうに人のために生きているように、人のために生きることはじつはは決してつらいことではありません。人を喜ばせることができた時、人を幸せにできた時、思考が自分のみに向いていた時には僧像もできなかった幸せを感じることができます。みなさんも人のことを喜ばせることによって幸せを感じられた時、大人になったということです。今から賢治についてのパワーポイントがはいったパソコンを回すので、現地につくまでみてください」
学生A「センセ~、なんでパソコンの画面がこんなに指紋だらけなんですか」
私「ふいといてください。ところで安いパソコンのロゴも葵のご紋シールって隠すと高級そうに見えるでしょ」
学生B「いえもっと安っぽく見えます」
私「多田等観についての本(高本康子先生の本)もまわしますので、興味ある方はよんでください。ちなみに、最終日までに一人20羽の折り鶴をノルマとして課します」
学生C「折り方わかりません」
私「オリガミは日本を代表する文化の一つです。折り鶴くらい折れないと、女の子にももてないし、子供に伝統文化を伝えられません。この機会に覚えましょう。折上がった鶴はレジ袋へいれてください」
午後三時に花巻に到着。
土地の人によると、宮沢家は花巻の名家であり、花巻中の土地がかなり宮沢家のものだそうで、現在の商工会の会頭も宮沢家の人。議会で決まったことも彼が首をタテにふらないとひっくり返るのだそうな。
バスは賢治の墓、生家などの前を通って、宮沢賢治記念館につく。記念館の壁には名作の生原稿の一ページ目がずらっとかかり、銀河鉄道の夜にちなんで部屋の真ん中にはプラネタリウムが設置されている。そして、賢治の童話を各ブースで聞くことができる。
見れば館内には中央アジアの沙漠の写真や地図、さらには何とチベットのマナサロワル湖の写真やチベット地図も掲示されている。宮沢賢治は一度も日本から出たことはなかったけれども、経典に説かれるインド由来のイメージと当時一世を風靡した大谷探検隊とかに影響を受けたのか、なぜかインド・中央アジア色がみられる。
そこでふと、宮沢賢治はチベットに行った多田等観と交流があったのかどうか気になった。多田等観は秋田の出身で、東北大学にも奉職していた。花巻とも縁が深い。会いたいと思えば両者は会えたのではないか。そこで、記念館の学芸員さんを急襲すると、両者の交遊はなかったとのこと。しかし、金子民雄先生が「宮沢賢治とチベット」という本をだしていらっしゃることを教えて頂いた(『宮沢賢治と西域幻想』のことか?)。金子民雄先生は本記念館とご縁が深く、「アラビアンナイトと宮沢賢治」という企画展の監修をされている。
記念館をでたあと、賢治が農民のために開いた学校、羅須地人協会(一青窈がここで歌歌っていた 笑)を訪れ、その後、イギリス海岸のモデルとなった有名な北上川の河岸へ。今年は水量が少ないため、あの有名な岩が浮き上がってイギリス海岸らしい趣になっている。折しも夕暮れ。JRの「イーハトーブ岩手」の宣伝そのままの風景が目の前にひろがる。そこいらに吉永小百合が歩いていそう。

ホテルは「渡り温泉 さつき」。幹事がものすごく有能であるためこの高級ホテルに格安でとまれているのだが、東北を応援しようとして東北にきてみたものの、これでは搾取である。このような団体にはサービスは無用であるのに、わたしたちがバスででかける時は従業員の方は並んでお見送りしてくださり、かなり居心地が悪い。
二日目
午前に、花巻市博物館の収蔵庫を訪れて、多田等観がチベットから持ち帰った仏画、仏像、日用品、経典、錫杖などをみせていただく。中でも、釈迦牟尼の伝記を描いた25枚セットの仏画は圧巻。こういうチベットの僧院常備の仏画が将来されていることをみても、多田等観は日本にチベット仏教を伝えることが期待され、また本人もそう思っていたであろうことが推測される。
多田等観がチベットで学んだ仏教は、日本の誰にも伝えられることもなくやがて仏像や仏画は博物館の持ちものに・・・。戦前の軍国主義から戦後物質主義へと日本社会は流れ、その中で多田等観が有していたチベット仏教の智慧はたえて日本に根付くことがなかったのである。
多田等観の将来品の中で歴史性のあるものといえば、ダライラマ13世の手形とラサの中心にある釈迦牟尼尊の手形。ダライラマ13世の手形は合わせてみると、私とほぼ同じ大きさで、釈迦牟尼尊はありえないくらい指ながい。ダライラマのハンコ(持金剛仏ダライラマ印)もちゃんとおしてある。
余談であるが、多田等観の将来品について研究していたことで名高い寺澤 尚学芸員は去年の十二月急逝されていた。謹んでご冥福をお祈りしたい。
博物館を後にして、次は多田等観の甥御さんが住職をつとめられているという光徳寺へ。このお寺の境内には1951年に多田等観のもってきたチベットの経典類を収蔵する蔵修館があったはず。お寺を訪れてみると、多田等観そっくりの人が現れてびっくり。副住職であるというこの鎌倉さんは、多田等観と血はつながっていないというが、生まれ変わりかというくらい似ていた。副住職によると、蔵修館は老朽化によりとりこわされて、現在は跡形もないという。
お昼ごはんは仙台のWさんオススメのマルカン食堂へ。この食堂、マルカンデパートという地場デパートの六階に入っているのだが、ウエイトレスさんの服装や、メニューの内容が、高倉健が座ってそうな昭和の大衆食堂そのまま。しかも、意識してレトロをオサレに演出しているのではなく、そのままでレトロになってしまっていたという感じ (笑)。
このマルカンデパートを代表として花巻の駅前にある地元資本のデパートと商店街は寂れていく一方、郊外には大手資本のマックス・バリューや「銀河モール」がたち車でのりつける客を集めている。人文地理の先生によるとこのような商店街やビルは土地と建物の持ち主が別々である場合が多く、権利関係は複雑で、なかなか建て直すこともままならず、国からの補助金があるため、このままにしていても暮らせてしまうのでどうしようもないのだという。
そして、午後一時花巻の観音山(花巻市西郊外)の頂上にたつ一燈庵にむかう。迎えてくださるのは、観音山と多田等観の史跡をまもる郷土史家の畠山さん、岩手県議の名須川さん、先ほどもお会いした多田等観クリソツの光徳寺の副住職・鎌倉さんのお三方である。

観音山の頂上からは花巻と北上山地がみわたせる。「花巻八景」の一つに数えられるだけのことはあり、美しい。県議の方も「この山からみる花巻の美しさは格別。田んぼに水がはられる季節には、たんぼに点在する屋敷林が、湖に浮かぶ島のように見える。四季折々に見にきてほしい」とのこと。
観音山の頂上には八坂神社と円万寺があるが廃仏毀釈で荒れたまま。多田等観は花巻にきた際にこの観音山を気に入り、本尊が失われていた円万寺の観音堂に、ダライラマ十三世から下賜されたロンドルラマの千手観音を献上した。ロンドルラマ(1719-1794 klong rdol bla ma ngag dbang blo bzang)は18世紀のゲルク派の学僧で、歴史・哲学・天文学など様々な著作を残したことで名高い。ロンドルラマの千手観音というからには、ロンドルラマの念持仏をダライラマ13世経由で下賜されたのであろう。

観音像は金箔を貼った磚仏で、「観音山を守る会」が購入した耐火金庫の中に保管されている。地元の人々が多田等観がこの寺に本尊を奉納してくれた恩に報いて、この円万寺の境内に、戦後まもない物資の少ない1947年に、一燈庵を建設した。畠山さんによると花巻も空襲を受けたそうで、そのような物資欠乏の折り、多田等観のファンの人々はこの山の上に彼の庵を建てたのである。ご厚意で、普段は開いていない庵の中も拝見させていただいた。
観音堂にはこの他にも、多田等観が高村光太郎の弟子にほらせた聖観音像、観音堂にまつわる出来事を記した等観筆の観音山記録、多田等観がチベットからもってきた紙に、高村光太郎が揮毫した団扇などがある。
本尊の横にはカター(チベット仏教圏で高僧や仏像に捧げる白い絹のスーフ)がかけられていて、これ以前にチベット関係者が何度も訪れたことを示している。カターの一つにはモンゴル語が入っている。このカターを持ってきそうな方といえばアキャ・リンポチェ。リンポチェは石巻に慰霊にこられた際ここにも足を伸ばされたのかなとちらっと思う(ちがった仙台のWさんの寄進だった 笑)。
この他にも境内には、観音山の歴史を刻んだチベット語銘文入り梵鐘、一番新しいところでは多田等観の生誕120周年を記念して一昨年建てられた業績碑文がある。この碑文の落慶に際しては渡辺一枝さんがお見えになったそうである。碑文は多田等観の出身の秋田の石と、インドの黒い石で作られている。これも畠山さんの熱意によって回りが動いた結果のものらしい。
廃仏毀釈でダメージを受けた円万寺は今は無住の寺である。一燈庵も老朽化がはじまっている。畠山さんはこの山を地域のシンボルとして護ってきた方で、水をひいて山上に水洗トイレをつくり、道を整備してきた。しかし、このような状態であるため、観音山が多田等観にまつわる史跡も含めて、いずれ護る者もなく荒廃していくのではないか、と心を痛めておられた。
山から下りてバスにのると、学生の一人が「畠山さんって無償であの活動をやっているんですか」と聞いてきた。地域の歴史遺産をまもり、郷土の偉人の業績を記録しようという情熱は、学生にもほのかに伝わっているよう。
夜、みなでおった折り鶴を女の子たちが糸にとおしていく。30羽ずつ通して10本で300数十羽。思い切り千羽にたりん。やはり人手がたりなかったか。
三日目
東京まで距離があり、なおかつ、夕方の渋滞を避けるため出発は朝早い。今回東北にいくということで帰路、被災地に一か所よるつもりであったが、東北自動車道からあまりはずれずにいける被災地ということで、名取市の閖上地区にいく。
仙台のWさんの指示で東部自動車道を通るが、海側にでた途端、道路の左側が一面被災地となった。右側は収穫を待つ稲が黄色く波うっているのに、左側は荒野である。

震災当日つけっぱなしのテレビが、NHKのヘリからおくられてくるこの地域の津波の映像を流していた。津波は仙台平野をなめつくし、名取川を遡り、東部自動車道路でやっととまった。あの映像の結果が今目の前にある。

ここ閖上は人口密集地帯であり、かつ、高速道路以外高台がなかったため犠牲者が多くでた。Wさんの案内で閖上中学校にいく。学校の正面にかかる時計は震災発生時刻で止まっていた。Wさんによると震災発生当日はこの中学の卒業式の日で、三階の黒板にはいまも「祝 卒業!」のハッピーな板書が残っているという。一階と二階は震災後、自衛隊が入り、連絡事項が書かれたため元の板書は消されている、その落差をみるのが悲しいという。

震災がおきた時に卒業式は終わっていたので、ここで犠牲になった学生は14名。あとの犠牲者はこの中学校に避難してきた一般の方である。学校の前は何もない荒野がひろがっているが、かつては住宅密集地帯であった。入り口付近には慰霊碑とお供えをおく台が置かれている。Wさんは準備していたお線香をお供えする。
ここでWさんは昨年、アキャ・リンポチェがこの地に慰霊に訪れた際の話をした。リンポチェが校舎からでてくると、赤い傘をさした女性の方がいた。その女の人はリンポチェに「この校舎にむかって、津波から逃げようという人がいまも駆け込んでいる。何度も何度も同じことを繰り返している。『もう逃げなくて良いんだ』と彼らに伝えてくれ」と。
その方はこの校舎で息子さんを亡くしたお母さんであった。年をとって円満に迎える死ではなく、まだこれからの中学生に訪れた死。痛々しい話である。
次に、日和山に向かう。日和山といえば石巻の日和山が有名であるが、ここ閖上にも人工の小さな築山、日和山がある。Wさんによると、漁師が漁にでるかでないかを判断するために海の状態をみるべくのぼる山がなべて日和山と呼ばれるという。
閖上は平野なので、この小さな日和山からでも被災した地域がみわたせる。震災から一年半たった今も、人の気配がない荒野がひろがる。Wさんによると、政治がもめているので復興計画がストップしているとのこと。折しも、中国で反日暴動が起きていたので、震災時の略奪について伺うと、石巻はとくにひどくて、県外ナンバーで乗り付けたバンダナ無頼漢が「ヒャッハー!」で北斗の拳状態であったという。人間のクズは民族区分に関係なく普遍的に存在することをこのエピソードは教えてくれる。
山の上には震災でなくなった二万人を弔う卒塔婆がたつ。
私「みんなは死を年をとってからやってくるものと思っているだろうけど、若くても病気や災害によって死ぬことはある。人はいつ死ぬか分からないのだから、それを肝に銘じて、毎日を丁寧に生きていけ」と述べる。
ここで三百羽鶴をお供えして読経。
突然の死を迎えた魂が少しでも安らかになりますように。
そしてWさんと別れを告げ東京へと帰還。平日は東北道は工事が多いので行きよりも時間がかかるとのことだったが、スムーズに東京へ。
お疲れ様でした。
旅程の概要は、初日に宮沢賢治関連、中日に多田等観関連の史跡をたずね、最終日は宮城県の閖上において、三日間かけておりあげた千羽鶴をもって慰霊。
初日
高田馬場Big Box前からバスで花巻に向けて出発。
バスのマイクを握り「みなさん、こんにちは。これからみなさんと花巻までお供をさしていただく●シ×マです。花巻は宮沢賢治の故郷として知られます。宮沢賢治の生き方と作品には、「本当の幸せとは、人のために生きること」という思想があります。
かつてこのような生き方は軍国主義の滅私奉公に重ねられ、不当に過小評価されていました。しかし昨今あまりに自分のことしか考えない風潮が蔓延し、社会に様々な問題が現れているため、賢治の思想はみなおされています。
賢治は法華経行者であり、彼の説く利他は「一切の人を幸せにするまでは自らの幸せを求めない」という大乗仏教の理想の人間像、菩薩の生きかたです。

みなさんにとって、「本当の幸せ」は何ですか? お金がたくさんもうかること、美味しいものを食べる、好きな音楽を聴く、など自分を楽しませることを幸せだと思っていませんか。
しかしそれは違います。単なる気晴らしにすぎません。その証拠に続けているとすぐに飽きてしまいます。さらによく考えて見ればこの世の様々な問題は、人のことをかまわず自分のことだけを考える人によって生じています。自分、自分の家族、自分の国、自分の宗教、と自分のためには他人をかまわない人がこの世にトラブルをおこしているのです。しかし、みながエゴを鎮めようと努力し、人のために生きようとしたらどうなるでしょう。理想郷が出現します。
賢治はまさに「人のために生きること」が本当の幸せであると思いました。賢治は仏教徒です。仏教はエゴを鎮めるトレーニングの集大成です。ダライラマが心底幸せそうに人のために生きているように、人のために生きることはじつはは決してつらいことではありません。人を喜ばせることができた時、人を幸せにできた時、思考が自分のみに向いていた時には僧像もできなかった幸せを感じることができます。みなさんも人のことを喜ばせることによって幸せを感じられた時、大人になったということです。今から賢治についてのパワーポイントがはいったパソコンを回すので、現地につくまでみてください」
学生A「センセ~、なんでパソコンの画面がこんなに指紋だらけなんですか」
私「ふいといてください。ところで安いパソコンのロゴも葵のご紋シールって隠すと高級そうに見えるでしょ」
学生B「いえもっと安っぽく見えます」
私「多田等観についての本(高本康子先生の本)もまわしますので、興味ある方はよんでください。ちなみに、最終日までに一人20羽の折り鶴をノルマとして課します」
学生C「折り方わかりません」
私「オリガミは日本を代表する文化の一つです。折り鶴くらい折れないと、女の子にももてないし、子供に伝統文化を伝えられません。この機会に覚えましょう。折上がった鶴はレジ袋へいれてください」
午後三時に花巻に到着。
土地の人によると、宮沢家は花巻の名家であり、花巻中の土地がかなり宮沢家のものだそうで、現在の商工会の会頭も宮沢家の人。議会で決まったことも彼が首をタテにふらないとひっくり返るのだそうな。
バスは賢治の墓、生家などの前を通って、宮沢賢治記念館につく。記念館の壁には名作の生原稿の一ページ目がずらっとかかり、銀河鉄道の夜にちなんで部屋の真ん中にはプラネタリウムが設置されている。そして、賢治の童話を各ブースで聞くことができる。
見れば館内には中央アジアの沙漠の写真や地図、さらには何とチベットのマナサロワル湖の写真やチベット地図も掲示されている。宮沢賢治は一度も日本から出たことはなかったけれども、経典に説かれるインド由来のイメージと当時一世を風靡した大谷探検隊とかに影響を受けたのか、なぜかインド・中央アジア色がみられる。
そこでふと、宮沢賢治はチベットに行った多田等観と交流があったのかどうか気になった。多田等観は秋田の出身で、東北大学にも奉職していた。花巻とも縁が深い。会いたいと思えば両者は会えたのではないか。そこで、記念館の学芸員さんを急襲すると、両者の交遊はなかったとのこと。しかし、金子民雄先生が「宮沢賢治とチベット」という本をだしていらっしゃることを教えて頂いた(『宮沢賢治と西域幻想』のことか?)。金子民雄先生は本記念館とご縁が深く、「アラビアンナイトと宮沢賢治」という企画展の監修をされている。
記念館をでたあと、賢治が農民のために開いた学校、羅須地人協会(一青窈がここで歌歌っていた 笑)を訪れ、その後、イギリス海岸のモデルとなった有名な北上川の河岸へ。今年は水量が少ないため、あの有名な岩が浮き上がってイギリス海岸らしい趣になっている。折しも夕暮れ。JRの「イーハトーブ岩手」の宣伝そのままの風景が目の前にひろがる。そこいらに吉永小百合が歩いていそう。

ホテルは「渡り温泉 さつき」。幹事がものすごく有能であるためこの高級ホテルに格安でとまれているのだが、東北を応援しようとして東北にきてみたものの、これでは搾取である。このような団体にはサービスは無用であるのに、わたしたちがバスででかける時は従業員の方は並んでお見送りしてくださり、かなり居心地が悪い。
二日目
午前に、花巻市博物館の収蔵庫を訪れて、多田等観がチベットから持ち帰った仏画、仏像、日用品、経典、錫杖などをみせていただく。中でも、釈迦牟尼の伝記を描いた25枚セットの仏画は圧巻。こういうチベットの僧院常備の仏画が将来されていることをみても、多田等観は日本にチベット仏教を伝えることが期待され、また本人もそう思っていたであろうことが推測される。
多田等観がチベットで学んだ仏教は、日本の誰にも伝えられることもなくやがて仏像や仏画は博物館の持ちものに・・・。戦前の軍国主義から戦後物質主義へと日本社会は流れ、その中で多田等観が有していたチベット仏教の智慧はたえて日本に根付くことがなかったのである。
多田等観の将来品の中で歴史性のあるものといえば、ダライラマ13世の手形とラサの中心にある釈迦牟尼尊の手形。ダライラマ13世の手形は合わせてみると、私とほぼ同じ大きさで、釈迦牟尼尊はありえないくらい指ながい。ダライラマのハンコ(持金剛仏ダライラマ印)もちゃんとおしてある。
余談であるが、多田等観の将来品について研究していたことで名高い寺澤 尚学芸員は去年の十二月急逝されていた。謹んでご冥福をお祈りしたい。
博物館を後にして、次は多田等観の甥御さんが住職をつとめられているという光徳寺へ。このお寺の境内には1951年に多田等観のもってきたチベットの経典類を収蔵する蔵修館があったはず。お寺を訪れてみると、多田等観そっくりの人が現れてびっくり。副住職であるというこの鎌倉さんは、多田等観と血はつながっていないというが、生まれ変わりかというくらい似ていた。副住職によると、蔵修館は老朽化によりとりこわされて、現在は跡形もないという。
お昼ごはんは仙台のWさんオススメのマルカン食堂へ。この食堂、マルカンデパートという地場デパートの六階に入っているのだが、ウエイトレスさんの服装や、メニューの内容が、高倉健が座ってそうな昭和の大衆食堂そのまま。しかも、意識してレトロをオサレに演出しているのではなく、そのままでレトロになってしまっていたという感じ (笑)。
このマルカンデパートを代表として花巻の駅前にある地元資本のデパートと商店街は寂れていく一方、郊外には大手資本のマックス・バリューや「銀河モール」がたち車でのりつける客を集めている。人文地理の先生によるとこのような商店街やビルは土地と建物の持ち主が別々である場合が多く、権利関係は複雑で、なかなか建て直すこともままならず、国からの補助金があるため、このままにしていても暮らせてしまうのでどうしようもないのだという。
そして、午後一時花巻の観音山(花巻市西郊外)の頂上にたつ一燈庵にむかう。迎えてくださるのは、観音山と多田等観の史跡をまもる郷土史家の畠山さん、岩手県議の名須川さん、先ほどもお会いした多田等観クリソツの光徳寺の副住職・鎌倉さんのお三方である。

観音山の頂上からは花巻と北上山地がみわたせる。「花巻八景」の一つに数えられるだけのことはあり、美しい。県議の方も「この山からみる花巻の美しさは格別。田んぼに水がはられる季節には、たんぼに点在する屋敷林が、湖に浮かぶ島のように見える。四季折々に見にきてほしい」とのこと。
観音山の頂上には八坂神社と円万寺があるが廃仏毀釈で荒れたまま。多田等観は花巻にきた際にこの観音山を気に入り、本尊が失われていた円万寺の観音堂に、ダライラマ十三世から下賜されたロンドルラマの千手観音を献上した。ロンドルラマ(1719-1794 klong rdol bla ma ngag dbang blo bzang)は18世紀のゲルク派の学僧で、歴史・哲学・天文学など様々な著作を残したことで名高い。ロンドルラマの千手観音というからには、ロンドルラマの念持仏をダライラマ13世経由で下賜されたのであろう。

観音像は金箔を貼った磚仏で、「観音山を守る会」が購入した耐火金庫の中に保管されている。地元の人々が多田等観がこの寺に本尊を奉納してくれた恩に報いて、この円万寺の境内に、戦後まもない物資の少ない1947年に、一燈庵を建設した。畠山さんによると花巻も空襲を受けたそうで、そのような物資欠乏の折り、多田等観のファンの人々はこの山の上に彼の庵を建てたのである。ご厚意で、普段は開いていない庵の中も拝見させていただいた。
観音堂にはこの他にも、多田等観が高村光太郎の弟子にほらせた聖観音像、観音堂にまつわる出来事を記した等観筆の観音山記録、多田等観がチベットからもってきた紙に、高村光太郎が揮毫した団扇などがある。
本尊の横にはカター(チベット仏教圏で高僧や仏像に捧げる白い絹のスーフ)がかけられていて、これ以前にチベット関係者が何度も訪れたことを示している。カターの一つにはモンゴル語が入っている。このカターを持ってきそうな方といえばアキャ・リンポチェ。リンポチェは石巻に慰霊にこられた際ここにも足を伸ばされたのかなとちらっと思う(ちがった仙台のWさんの寄進だった 笑)。
この他にも境内には、観音山の歴史を刻んだチベット語銘文入り梵鐘、一番新しいところでは多田等観の生誕120周年を記念して一昨年建てられた業績碑文がある。この碑文の落慶に際しては渡辺一枝さんがお見えになったそうである。碑文は多田等観の出身の秋田の石と、インドの黒い石で作られている。これも畠山さんの熱意によって回りが動いた結果のものらしい。
廃仏毀釈でダメージを受けた円万寺は今は無住の寺である。一燈庵も老朽化がはじまっている。畠山さんはこの山を地域のシンボルとして護ってきた方で、水をひいて山上に水洗トイレをつくり、道を整備してきた。しかし、このような状態であるため、観音山が多田等観にまつわる史跡も含めて、いずれ護る者もなく荒廃していくのではないか、と心を痛めておられた。
山から下りてバスにのると、学生の一人が「畠山さんって無償であの活動をやっているんですか」と聞いてきた。地域の歴史遺産をまもり、郷土の偉人の業績を記録しようという情熱は、学生にもほのかに伝わっているよう。
夜、みなでおった折り鶴を女の子たちが糸にとおしていく。30羽ずつ通して10本で300数十羽。思い切り千羽にたりん。やはり人手がたりなかったか。
三日目
東京まで距離があり、なおかつ、夕方の渋滞を避けるため出発は朝早い。今回東北にいくということで帰路、被災地に一か所よるつもりであったが、東北自動車道からあまりはずれずにいける被災地ということで、名取市の閖上地区にいく。
仙台のWさんの指示で東部自動車道を通るが、海側にでた途端、道路の左側が一面被災地となった。右側は収穫を待つ稲が黄色く波うっているのに、左側は荒野である。

震災当日つけっぱなしのテレビが、NHKのヘリからおくられてくるこの地域の津波の映像を流していた。津波は仙台平野をなめつくし、名取川を遡り、東部自動車道路でやっととまった。あの映像の結果が今目の前にある。

ここ閖上は人口密集地帯であり、かつ、高速道路以外高台がなかったため犠牲者が多くでた。Wさんの案内で閖上中学校にいく。学校の正面にかかる時計は震災発生時刻で止まっていた。Wさんによると震災発生当日はこの中学の卒業式の日で、三階の黒板にはいまも「祝 卒業!」のハッピーな板書が残っているという。一階と二階は震災後、自衛隊が入り、連絡事項が書かれたため元の板書は消されている、その落差をみるのが悲しいという。

震災がおきた時に卒業式は終わっていたので、ここで犠牲になった学生は14名。あとの犠牲者はこの中学校に避難してきた一般の方である。学校の前は何もない荒野がひろがっているが、かつては住宅密集地帯であった。入り口付近には慰霊碑とお供えをおく台が置かれている。Wさんは準備していたお線香をお供えする。
ここでWさんは昨年、アキャ・リンポチェがこの地に慰霊に訪れた際の話をした。リンポチェが校舎からでてくると、赤い傘をさした女性の方がいた。その女の人はリンポチェに「この校舎にむかって、津波から逃げようという人がいまも駆け込んでいる。何度も何度も同じことを繰り返している。『もう逃げなくて良いんだ』と彼らに伝えてくれ」と。
その方はこの校舎で息子さんを亡くしたお母さんであった。年をとって円満に迎える死ではなく、まだこれからの中学生に訪れた死。痛々しい話である。
次に、日和山に向かう。日和山といえば石巻の日和山が有名であるが、ここ閖上にも人工の小さな築山、日和山がある。Wさんによると、漁師が漁にでるかでないかを判断するために海の状態をみるべくのぼる山がなべて日和山と呼ばれるという。
閖上は平野なので、この小さな日和山からでも被災した地域がみわたせる。震災から一年半たった今も、人の気配がない荒野がひろがる。Wさんによると、政治がもめているので復興計画がストップしているとのこと。折しも、中国で反日暴動が起きていたので、震災時の略奪について伺うと、石巻はとくにひどくて、県外ナンバーで乗り付けたバンダナ無頼漢が「ヒャッハー!」で北斗の拳状態であったという。人間のクズは民族区分に関係なく普遍的に存在することをこのエピソードは教えてくれる。
山の上には震災でなくなった二万人を弔う卒塔婆がたつ。
私「みんなは死を年をとってからやってくるものと思っているだろうけど、若くても病気や災害によって死ぬことはある。人はいつ死ぬか分からないのだから、それを肝に銘じて、毎日を丁寧に生きていけ」と述べる。
ここで三百羽鶴をお供えして読経。
突然の死を迎えた魂が少しでも安らかになりますように。
そしてWさんと別れを告げ東京へと帰還。平日は東北道は工事が多いので行きよりも時間がかかるとのことだったが、スムーズに東京へ。
お疲れ様でした。
死者の数(下)
ちょっとゼミ合宿とかいっていたので、更新が遅くなってすみません。前回の続きをやっとあげました。
要は、亡命政府のいう120万人は統計的な基礎に乏しいが、それを批判するなら中国側は人口統計資料を開示せよ。しかし、中国が史料を開示しないのは、自分にとって都合が悪いからであるとする。
そして、チベット高原において大量死があったことは事実であり、それを証明する手段として、本土チベット人の回顧録や、公開されているデータにおいて1982年当時チベット高原の男女比率が著しく男性が少ない不均衡を示していることなどによって裏付けられる。
死者の規模はできる限り、正確に把握する努力をせねばならない。それと同時に死者をたんなる数字にしてしまうのではなく、一人一人の顔と名前を取り戻す試みも必要である、という主張である。
(続く・・・)
2008年にダラムサラで出版された『ナクツァン・ヌブロの回顧録』は以上述べた批判の類に耐えるものとなっている。
〔中国政府に好意的な〕ソートマンやグリューンフェルドたちなら「典型的な誇張された亡命者の話」とみなすであろう一節において、ナクツァン・ヌブロは荒廃の年1958年に、玉樹地域(前述した人骨のでた地域である)で目撃したことについて記す。この年より前に、彼の父親は殺され、その後彼は収容所に入れられた。
川に沿って走っていると、何かが腐った臭いがたちこめ始めた。さらに進むと、川の両岸に遺体がちらばっていた。
遺体はみな裸で、青黒く変色していた。・・・遺体が怖くなくなってきた。さらに進むと、たくさんの子供の遺体と、子供を抱いた母親の遺体があった。そこには全部で26から27人の遺体があった。髪型から察するにほとんどは母親と子供であった。・・・山の麓に高い岩棚と低い岩棚があった。
高い方の岩棚には父親とロチュ(Lochu)が座っていた。ここについた時、みなは激しく驚いて、口々に「ああ、観音様ご覧ください」と叫んだ。大地は完全に男、女、僧侶、ヤク、馬の遺体に覆われていた。見渡すかぎり、そこには死があった。・・・
〔ナクツァンは〕ついに捕まり、チュマルレプ(Chu-dmar-leb)の街の収容所についた。
街を歩くと、自分の足音以外何の音も聞こえなかった。門を通り抜けると、高い壁が目の前にそびえ立った。・・・・軍人が囚人を隊列にして行進させていた。しかし、壁の真ん中まで進むと囚人は消えたように見えた。私は思った。不思議だな、ここでは何がおきているんだろう。・・・ ・・・壁の真ん中のところにつくと、中国人の軍人が地面に開いた深い穴を覆った戸をあけた。暗闇からひどい臭いがした。軍人は囚人にその孔に一人ずつ飛び込むようにと命令した。
囚人たちが孔の下の地面に着地する音が聞こえた。孔の底からは痛みで叫ぶ声が聞こえた。・・・「ひどい。まだ子供だぞ。」ずっと下にいる誰かがいった。彼は手を伸ばしてわたしを下に降ろした。・・・・開けた場所にでた時、中庭が何百人もの囚人でい一杯なのを見て驚いた。・・・あたりを見渡すと、別の孔があり、そこには複数の死体があるようだった。・・・・
タクパは「男子囚人は2300人いる。」と言った。「女性囚人は1600人だ。」料理人は囚人が何人いるかをつねに正確に知っている。・・・中国人の軍人に残忍に殺された死体が、毎朝、門の外に運ばれていった。二人の囚人がかつぎ棒に死体をくくりつけて、壁の外にある死体捨て場へと運んでいった。
この報告は典型的なもののように思われる。ここで詳述されている死と苦しみの大きさは、ダラムサラで出版された中国支配下の生活を描いた作品を読んできた人にとってなじみない規模であろう。
そう、これは亡命者の証言ではないのである。〔著者のナクツァンは〕は引退した元官僚で、彼がチベット本土にいながら書いた自叙伝なのである。1948年生まれのこの官僚は自分が子供の頃みたものを描いたのである。
ナクツァン・ヌブロは前述した囚人孔から引き出され、社会主義体制の中で再教育されることとなった。結局ヌブロは司法警察官となり、最終的にはチュマレプの副県知事の地位にまでのぼりつめた。チュマレプは彼が子供の頃、つれていかれた囚人孔があった地である。
ナクツァン・ヌブロの回顧録は2006年に西寧において、アムド方言で出版された。その後、標準的なチベット文語へと翻訳されてダラムサラで出版された。
わたしが先ほど引用した文章は、アムド語の元テクストから英訳された英語版である。本書は出版元がみつからないため未出版であるが、この本の出版のために努力した著者と翻訳者にはそれだけの価値があるので、早く出版元が見つかってほしい。
いかに牽強付会をしようとしても、このナクツァン・ヌブロの証言を「亡命政府を喜ばすためにねつ造したもの」と片付けることはできまい。
このような回顧録に以外にも、抑圧された虐殺の歴史を明らかにすることによって、中国政府が人々に強いてきた沈黙の壁を打ち破る方法もある。ここに挙げたのは、1999年に北京で発行された『中国蔵学』の論文から抜粋したものである。

この抜粋記事は、玉樹にあるラプゴン(lab dgon)僧院で行われていた伝統的な経済構造と経済状態について論じた論文からの引用である(前エントリーの地図はチュマルレプの街と県の中心にある玉樹の街とラプゴン僧院の位置関係を示している。)。
大きな僧院は内部にそこに拠点をもつ複数の高僧たちの館 (ラブラン=その高僧とその弟子たちの生活を支える人的・経済的組織)を抱えているが、この論文はこれらの館の主なもものをあげ、その後、館の主である高僧たちについても言及している。
この論文の著者も、この論文を査読した人も、編集した人々も、この無味乾燥な論文記事が示す事に気づいていないようだ。たしかに、ほとんどの読者は何の感慨もなくこの情報を読み飛ばしていくだろう。
しかし、一呼吸おいて、ページから目をそらしてみよう(これには文語チベット語の知識は必要ない)、すると過去が流した血が、紙の上にしたたり落ちてくるのがわかる。ここで名前の挙がっている僧院内の高僧たちは、1958年当時生きていた人間は1958年のその年にすべて死んでいるのである。ナクツァン・ヌブロが旅をした土地に散らばっていた死体と同じく、彼らはこの年に死んでいるのである。
さらにもう一つの画像が、チベットでおきた大量殺人についての証言や報告を無視することをより難しくしている。
1980年代に中国が最初に行った比較的信頼できる人口統計(1982年の人口統計から引き出されたデータ)を照合し分析した結果、加工されていないデータからすぐには見えてこなかった絵が見えてきたのである。
背筋が再び寒くなる。統計がとられた1982年、チベット高原では男性と女性のバランスが極端に悪いのである。この不均衡はただ暴力闘争によってのみ説明することができるものである。
以下の地図の中で赤色に示されている部分は女性の数が恒常的に男性の数をしのいでいる部分である。この地図が明らかに示すように、中華人民共和国全体を見渡しても、チベット高原は最大の規模で、男女比の不均衡の大きさを示す赤色がめだっている。
男たちが少ないことを示すこの赤色て示された地域の中に玉樹がある。

まさに現時点で、チベットでの大量殺戮が実際にあったことを否定するのは、悪意のあると見なさなければならない。ホロコースト否認事例の多くもそうであるが、それは統計的方法論に基づく客観的な否定ではないのである。
これは究極的には政治的な課題にねざしている。然り、関連する中国の記録に誰も公的にはアクセスできないのである。然り、亡命者の証言は誇張されがちである。然り、ダラムサラからあがってくる数字には信頼すべき統計的な基盤はない。これらはみな事実である。しかし、われわれが得た証言の背後に、むごたらしい恐ろしい真実があることも明かな事実である。
中華人民共和国はここ数十年来、高度に官僚化した国家となった。この官僚国家は1950年代から60年代にかけてチベットで起こった大量死の輪郭を人々が決定的に知ることがないように、無数の文書を結局は隠さずにはいられない。このような記録へのアクセスを国家が否定していることが、その文書の内容から分かることが、その国家にとって不利なものであることを雄弁に物語っている。
しかし中国政府が自らのもつ記録・文書類をかたくなに公開しないことよりも、チベット人が悲劇の規模をきちんと統計的に証明することができていないという点にばかり目を向ける人がいる。また、チベット人の努力が、「何人の人が死んだのか」という疑問に答えをだすことにとって悪意のある障害だとみなす人もいる。しかし、〔チベット政府の死者数の証明の不備についてのみ糾弾する〕このような姿勢には、悪意ある先入観があることは明かであろう。
結局、日の光の下にさらされるべきは、中国がもっている記録である。個人の証言から直接的にであれ、他の史料からの間接的な引用であれ、ただ「何か残忍で恐ろしいことがチベットでおきた」と知るだけでは十分ではない。確かに、その残酷な時代の中で具体的に何人の人が亡くなったのかを知るべく、あらゆる手段をつくす必要がある。
しかし、ここで私が最初に引用した文章に話を戻そう。そう、何人が亡くなったかを知ることと同時に必要なことは、それら亡くなった人たちを統計上の数字としてとらえるのではなく、名前と顔のある「人」として扱ってゆくことである。
そうしなければ、大量殺戮の実行者が我々の「人間性」を作り出すことを許すことになってしまうであろう。
中国側の記録が開示された暁には、我々はジャムヤン・イェーシェー・ソナムチョクドゥプ(’Jam-dbyangs ye-shes bsod-nams mchog-grub)がどこにいたかを正しく知ることができるだろう。
ジャムヤンはラプゴン僧院のアテン三世(a brtan)すなわち、転生僧として『中国蔵学』の論文にその名前がはっきりと記されている。
ジャムヤンはその生涯をアムド地域における仏教の布教に捧げ、前世者たちと同じくラプゴン僧院の支院に入門しそこで教育を受け、多くの弟子たちを得た。そして、24才の時に、1958年に、それ以上のことは何もなくなった。
彼は死んだのである。
要は、亡命政府のいう120万人は統計的な基礎に乏しいが、それを批判するなら中国側は人口統計資料を開示せよ。しかし、中国が史料を開示しないのは、自分にとって都合が悪いからであるとする。
そして、チベット高原において大量死があったことは事実であり、それを証明する手段として、本土チベット人の回顧録や、公開されているデータにおいて1982年当時チベット高原の男女比率が著しく男性が少ない不均衡を示していることなどによって裏付けられる。
死者の規模はできる限り、正確に把握する努力をせねばならない。それと同時に死者をたんなる数字にしてしまうのではなく、一人一人の顔と名前を取り戻す試みも必要である、という主張である。
(続く・・・)
2008年にダラムサラで出版された『ナクツァン・ヌブロの回顧録』は以上述べた批判の類に耐えるものとなっている。
〔中国政府に好意的な〕ソートマンやグリューンフェルドたちなら「典型的な誇張された亡命者の話」とみなすであろう一節において、ナクツァン・ヌブロは荒廃の年1958年に、玉樹地域(前述した人骨のでた地域である)で目撃したことについて記す。この年より前に、彼の父親は殺され、その後彼は収容所に入れられた。
川に沿って走っていると、何かが腐った臭いがたちこめ始めた。さらに進むと、川の両岸に遺体がちらばっていた。
遺体はみな裸で、青黒く変色していた。・・・遺体が怖くなくなってきた。さらに進むと、たくさんの子供の遺体と、子供を抱いた母親の遺体があった。そこには全部で26から27人の遺体があった。髪型から察するにほとんどは母親と子供であった。・・・山の麓に高い岩棚と低い岩棚があった。
高い方の岩棚には父親とロチュ(Lochu)が座っていた。ここについた時、みなは激しく驚いて、口々に「ああ、観音様ご覧ください」と叫んだ。大地は完全に男、女、僧侶、ヤク、馬の遺体に覆われていた。見渡すかぎり、そこには死があった。・・・
〔ナクツァンは〕ついに捕まり、チュマルレプ(Chu-dmar-leb)の街の収容所についた。
街を歩くと、自分の足音以外何の音も聞こえなかった。門を通り抜けると、高い壁が目の前にそびえ立った。・・・・軍人が囚人を隊列にして行進させていた。しかし、壁の真ん中まで進むと囚人は消えたように見えた。私は思った。不思議だな、ここでは何がおきているんだろう。・・・ ・・・壁の真ん中のところにつくと、中国人の軍人が地面に開いた深い穴を覆った戸をあけた。暗闇からひどい臭いがした。軍人は囚人にその孔に一人ずつ飛び込むようにと命令した。
囚人たちが孔の下の地面に着地する音が聞こえた。孔の底からは痛みで叫ぶ声が聞こえた。・・・「ひどい。まだ子供だぞ。」ずっと下にいる誰かがいった。彼は手を伸ばしてわたしを下に降ろした。・・・・開けた場所にでた時、中庭が何百人もの囚人でい一杯なのを見て驚いた。・・・あたりを見渡すと、別の孔があり、そこには複数の死体があるようだった。・・・・
タクパは「男子囚人は2300人いる。」と言った。「女性囚人は1600人だ。」料理人は囚人が何人いるかをつねに正確に知っている。・・・中国人の軍人に残忍に殺された死体が、毎朝、門の外に運ばれていった。二人の囚人がかつぎ棒に死体をくくりつけて、壁の外にある死体捨て場へと運んでいった。
この報告は典型的なもののように思われる。ここで詳述されている死と苦しみの大きさは、ダラムサラで出版された中国支配下の生活を描いた作品を読んできた人にとってなじみない規模であろう。
そう、これは亡命者の証言ではないのである。〔著者のナクツァンは〕は引退した元官僚で、彼がチベット本土にいながら書いた自叙伝なのである。1948年生まれのこの官僚は自分が子供の頃みたものを描いたのである。
ナクツァン・ヌブロは前述した囚人孔から引き出され、社会主義体制の中で再教育されることとなった。結局ヌブロは司法警察官となり、最終的にはチュマレプの副県知事の地位にまでのぼりつめた。チュマレプは彼が子供の頃、つれていかれた囚人孔があった地である。
ナクツァン・ヌブロの回顧録は2006年に西寧において、アムド方言で出版された。その後、標準的なチベット文語へと翻訳されてダラムサラで出版された。
わたしが先ほど引用した文章は、アムド語の元テクストから英訳された英語版である。本書は出版元がみつからないため未出版であるが、この本の出版のために努力した著者と翻訳者にはそれだけの価値があるので、早く出版元が見つかってほしい。
いかに牽強付会をしようとしても、このナクツァン・ヌブロの証言を「亡命政府を喜ばすためにねつ造したもの」と片付けることはできまい。
このような回顧録に以外にも、抑圧された虐殺の歴史を明らかにすることによって、中国政府が人々に強いてきた沈黙の壁を打ち破る方法もある。ここに挙げたのは、1999年に北京で発行された『中国蔵学』の論文から抜粋したものである。

この抜粋記事は、玉樹にあるラプゴン(lab dgon)僧院で行われていた伝統的な経済構造と経済状態について論じた論文からの引用である(前エントリーの地図はチュマルレプの街と県の中心にある玉樹の街とラプゴン僧院の位置関係を示している。)。
大きな僧院は内部にそこに拠点をもつ複数の高僧たちの館 (ラブラン=その高僧とその弟子たちの生活を支える人的・経済的組織)を抱えているが、この論文はこれらの館の主なもものをあげ、その後、館の主である高僧たちについても言及している。
この論文の著者も、この論文を査読した人も、編集した人々も、この無味乾燥な論文記事が示す事に気づいていないようだ。たしかに、ほとんどの読者は何の感慨もなくこの情報を読み飛ばしていくだろう。
しかし、一呼吸おいて、ページから目をそらしてみよう(これには文語チベット語の知識は必要ない)、すると過去が流した血が、紙の上にしたたり落ちてくるのがわかる。ここで名前の挙がっている僧院内の高僧たちは、1958年当時生きていた人間は1958年のその年にすべて死んでいるのである。ナクツァン・ヌブロが旅をした土地に散らばっていた死体と同じく、彼らはこの年に死んでいるのである。
さらにもう一つの画像が、チベットでおきた大量殺人についての証言や報告を無視することをより難しくしている。
1980年代に中国が最初に行った比較的信頼できる人口統計(1982年の人口統計から引き出されたデータ)を照合し分析した結果、加工されていないデータからすぐには見えてこなかった絵が見えてきたのである。
背筋が再び寒くなる。統計がとられた1982年、チベット高原では男性と女性のバランスが極端に悪いのである。この不均衡はただ暴力闘争によってのみ説明することができるものである。
以下の地図の中で赤色に示されている部分は女性の数が恒常的に男性の数をしのいでいる部分である。この地図が明らかに示すように、中華人民共和国全体を見渡しても、チベット高原は最大の規模で、男女比の不均衡の大きさを示す赤色がめだっている。
男たちが少ないことを示すこの赤色て示された地域の中に玉樹がある。

まさに現時点で、チベットでの大量殺戮が実際にあったことを否定するのは、悪意のあると見なさなければならない。ホロコースト否認事例の多くもそうであるが、それは統計的方法論に基づく客観的な否定ではないのである。
これは究極的には政治的な課題にねざしている。然り、関連する中国の記録に誰も公的にはアクセスできないのである。然り、亡命者の証言は誇張されがちである。然り、ダラムサラからあがってくる数字には信頼すべき統計的な基盤はない。これらはみな事実である。しかし、われわれが得た証言の背後に、むごたらしい恐ろしい真実があることも明かな事実である。
中華人民共和国はここ数十年来、高度に官僚化した国家となった。この官僚国家は1950年代から60年代にかけてチベットで起こった大量死の輪郭を人々が決定的に知ることがないように、無数の文書を結局は隠さずにはいられない。このような記録へのアクセスを国家が否定していることが、その文書の内容から分かることが、その国家にとって不利なものであることを雄弁に物語っている。
しかし中国政府が自らのもつ記録・文書類をかたくなに公開しないことよりも、チベット人が悲劇の規模をきちんと統計的に証明することができていないという点にばかり目を向ける人がいる。また、チベット人の努力が、「何人の人が死んだのか」という疑問に答えをだすことにとって悪意のある障害だとみなす人もいる。しかし、〔チベット政府の死者数の証明の不備についてのみ糾弾する〕このような姿勢には、悪意ある先入観があることは明かであろう。
結局、日の光の下にさらされるべきは、中国がもっている記録である。個人の証言から直接的にであれ、他の史料からの間接的な引用であれ、ただ「何か残忍で恐ろしいことがチベットでおきた」と知るだけでは十分ではない。確かに、その残酷な時代の中で具体的に何人の人が亡くなったのかを知るべく、あらゆる手段をつくす必要がある。
しかし、ここで私が最初に引用した文章に話を戻そう。そう、何人が亡くなったかを知ることと同時に必要なことは、それら亡くなった人たちを統計上の数字としてとらえるのではなく、名前と顔のある「人」として扱ってゆくことである。
そうしなければ、大量殺戮の実行者が我々の「人間性」を作り出すことを許すことになってしまうであろう。
中国側の記録が開示された暁には、我々はジャムヤン・イェーシェー・ソナムチョクドゥプ(’Jam-dbyangs ye-shes bsod-nams mchog-grub)がどこにいたかを正しく知ることができるだろう。
ジャムヤンはラプゴン僧院のアテン三世(a brtan)すなわち、転生僧として『中国蔵学』の論文にその名前がはっきりと記されている。
ジャムヤンはその生涯をアムド地域における仏教の布教に捧げ、前世者たちと同じくラプゴン僧院の支院に入門しそこで教育を受け、多くの弟子たちを得た。そして、24才の時に、1958年に、それ以上のことは何もなくなった。
彼は死んだのである。
死者の数(上)
前回の若手チベット学者会議で、Erhar, Franz Xzverという人類学者が、「アムドの歴史を記憶にとどめる」という題名で、大躍進や文革の時期の、アムド(東北チベット)における被害を明らかにした証言集や伝記などが近年あいついで出版されていることなどを発表した。発表のあと若手の人類学者が集まって、その伝記の著者であるナクツァン・ヌブロの話でもりあがっていた。
折しも、インディアナ大学でチベットと中国の関係史を教えているエリオット・スパーリンクが、このナクツァンの伝記も含めた記事をRangzen Allianceにあげた。文章は、今年の五月、アムドのナンチェンの工事現場から、人骨がごろごろでてきた事件をもとに、中国の占領によってひきおこされたチベット人の死者(飢餓と戦闘・処刑)数について論じるものである。 全文を翻訳しようと思ったが、長い。そこで前後編にわけました。原文はここ。時間がなくてかなり適当に訳したので、英語力のある人は原文にあたってください。
「死者の数」
エリオット・スパーリンク 2012年 9月14日
ティモシー・スナイデル(Timothy Snyder)の『血塗られた大地』(Bloodlands)の結びの一文〔「死者を数字にとどめるのてはなく、人間に戻すのだ」という主張〕は、記憶する価値がある。
というのも、こういった文章は大量殺戮について「一人の人間の死は悲劇だが、数十万人の死は単なる統計上の数字だ」(怪しいがスターリンの言葉と言われている)と、悲劇を斜めから見下ろすような発言を控えさせることに役立つからだ。
皮肉にもこういった意見は時折、チベット現代史の悲劇に関心ある人々に予想以上の影響をもたらしてきたように思われる。1980年代にチベットの政治指導者たちは、中国占領開始以後の三十年間に、チベット人の死者が120万人を数えたと発表し、この数字がつねに引用されてきたからである。
これはあらゆる感覚を麻痺させるキリの良い数字だ。この数字は、信頼性の低いランダムサンプリングによってひきだされているという事実にもかかわらず、厳として存在している。
実際には、もっとも無知なチベット・ゲリラでも、この死者数を信じることはないだろう。もっとも客観的な観察者(それはチベットに同情的なことを隠さない多くの人々を含む)もこの死者数を否定するだろう。
120万という数字は大まかには、亡命者からの聞き取り調査とともに、1979年から何回が行われた、ダラムサラから本土チベットに送られた視察団、とくに第一次視察団の概算から引き出されたものだ。
視察団のメンバーは人口統計学データの取り方についての訓練は受けておらず、さらに言えば、たとえ、開かれた国で住人の数を数える時にもさまざまな困難があることを考えると、「閉じた国のある一時代にどれほどの人がなくなったか」という数を正確に数えることは、データをとる訓練を受けている受けていないにかかわらず非常に困難な作業であることは明らかだ。
わたしがこのように発言しているのは、チベットでおきた大量虐殺の規模を過小評価するためではなく、根拠を示そうという真剣な努力なしに数字をただあげることはできないと指摘するためである。単純に数字をあげることは、百万人の死者を、単なる統計上の数字に凍り付かせることになる。
では、120万という死者数は、却下されるべきなのか? その通り。その理由はチベット高原で恐ろしいことが起きなかったからではなく、この数字に信頼すべき根拠がないからだ。1950年から1975年までの期間に、チベットにおいて大量死があったことは論争の余地のないことである。しかし、120万人かといえば、今の時点ではイエスとは言い難い。
実際の死者数はもっと少ないとしても、それは非常に多いことには変わりない。中国の記録にアクセスできない現時点では、単に正確な数字を知ることができないということだ。しかし、非常に大規模な虐殺が起こったという事実は疑う余地のないことである。
チベットにおける大量死は、中華人民共和国では少なくとも公式には話題になることはなかった。話題になったとしてもそれは集団虐殺があったという主張に反駁するためのみである。
そしてここ数年、チベット亡命政府の公式発表においてもほとんど死者数に言及することはない。その理由はたぶん、何年か前、共産党の統一戦線工作部が「チベット人は中国政府を攻撃してはならない」との禁止命令を出したせいであろう(私たちの知る限り、この禁令はダライラマの特使ロディ・ギャリに言い渡され、ダライラマによって公にされた。)。
しかし、歴史の痕跡は、政治家の願いと常にうらはらである。
ほんの数ヶ月前の五月、青海省玉樹チベット自治県のナンチェン地域で、建物の建築にあたって準備作業が行われていた。ナンチェンの一部は上カムのナンチェン王国の一部である。この地域はここ数年チベット全土と亡命社会で続いている焼身抗議が起きている地でもある。

家を建てるために地面を掘り返すと、地中から恐ろしい予測もしなかった招かれざるものが突然目の前に現れた。人骨が土の下から現れ始めたのである。
過去は集団埋葬地の姿でやってきた。そして過去は中国政府を困らせることなどかまいはしないのである。
画像は鮮明であり、土地の人々は「あそこは1958年に僧や俗人が殺された場所だよ。人のたくさん死んだ恐ろしい年だった」とささやきあった。

玉樹の他の場所、ペルタン近くの草原で、別の家屋建設計画が始まると、同じようなことがまたおきた。
人間の遺骸でいっぱいの三つの大きな埋葬孔が現れたのだ。
遺骸はすべてが分解しきっていなかったという。孔に投げ込まれた時、犠牲者が来ていた着物の残骸もあった。僧服の場合も俗人の服もあった。死者の長い頭髪はまだそのまま残っていた。年配の人の話によると、これらの孔は1958年から作られはじめ、1960年の飢餓の時代の死者の遺体も加わったものだという。何台ものトラックがこれらの遺品をもちさっていった。
20世紀の歴史は集団埋葬地に事欠かなかった。ナチスに殺されたユダヤ人の埋まっているBabi Yar(33771人)、 ソ連によるポーランド将校の虐殺の場Katyn(22000人), ボスニア戦争時に殺された人々の埋まるSrebrenica(8373人)の地、集団虐殺の埋葬リストは長大である。戦後約70年の間、また一つまた一つと集団埋葬地が発掘されるたびに、そのようなものを引き起こした人の残虐さ、罪、弱さ、憎しみ、全体主義などを思い起こすよすがとなった。
『ひどいことが起きてしまったことを自覚すれば、それが再び起きる可能性を減らすであろう』との希望の下、「流血の20世紀は誠実に記録され、未来の世代に伝えられていくべきだ」との議論がある一方、「中国はその過去、とくにチベットにおける過去によって苦しむべきではない」という無言の意見が明らかに存在している。
また、共産党は中国人をリベラルな思考法から遮断しなければならないと考えているたため、チベットでの集団虐殺の証拠はとくに中国人にとって非常に害があるとし、それがチベットの虐殺に関心を薄くしているようにも見える。まことに、二十世紀の大量殺戮実行者の一人(毛沢東のこと)を崇拝することを命じる政治文化の中で、上品にもチベットの虐殺はまったく等閑に付されてきたようである。
このような考え方に基づけば、チベットでおきた大量虐殺に対して偽装否定がなされることも驚くことではない。
中国政府はこの数十年チベットで起きた事に関して、何らの記録の開示も行ってこなかった。これに対して、厳しい非難を行うどころか、一種迎合するような空気(それを神の摂理と言ってもよい)が生まれている。それは中国の行動は一種の天災であり、天災に対して裁いたり批判したりすることは想像もつかかないという反応である。
裁かれるべきなのは、別の行為である。たとえば、利用可能な、しかし問題の多い中国の統計を選択的に利用したり、チベット地域における人口の減少の多くの原因(最大の原因ではないにしても)を、移住や亡命のせいにすることである。チベット亡命政府の情報は誇張されていて、信頼できないという、いつもの批判もある。
基本的な事実を見つけるために誇張表現に向き合うどころか、この120万人という修辞的表現は、チベットから亡命したひとたちからの証言を単純に台無しにするように働いている。
したがって、ソートマンの(Barry Sautman): 「120万という数字は生存者の目撃情報に基づく者でも、国家規模の統計にアクセスしたものでもなく、亡命者の報告も往々にして亡命政府を喜ばせるためにゆがめられている。」という発言がでるのである。
この発言によれば、少なくともこの問題に関する中国の記録は存在していることになる。もしあまりすばやくこれらの記録が不問に付されるのであれば、読者はその記録に含まれている批判は、記録にアクセスすることを妨げる中国ではなく、その記録を用いないチベット人に向いているとは、思わないだろう。中国人もまじめな研究者もいずれも閲覧できない記録。
そして、次のような正気とも思えない考え方がある:
(1) 目撃者も含めて亡命者の報告はすべて考慮しない。なぜなら、それはゆがめられているから。
(2) チベット人の大量虐殺の目撃証言はない。
もちろん120万人という数はまったく信用できず、それはまじめな観察者の論争テーマとはならない。たとえば、ヒューマン・ライツ・ウォッチはすでに1988年にこの数字を信憑性がないと述べている。
しかし、このことは中国共産党の支配した最初の数十年間に、チベットで大量虐殺があったという事実を却下するものではない。
ダラムサラで2008年に出版された『ナクツァン・ヌブロの回顧録』は以上述べてきたような避難の類に耐えるものとなっている。(続く・・・)
折しも、インディアナ大学でチベットと中国の関係史を教えているエリオット・スパーリンクが、このナクツァンの伝記も含めた記事をRangzen Allianceにあげた。文章は、今年の五月、アムドのナンチェンの工事現場から、人骨がごろごろでてきた事件をもとに、中国の占領によってひきおこされたチベット人の死者(飢餓と戦闘・処刑)数について論じるものである。 全文を翻訳しようと思ったが、長い。そこで前後編にわけました。原文はここ。時間がなくてかなり適当に訳したので、英語力のある人は原文にあたってください。
「死者の数」
エリオット・スパーリンク 2012年 9月14日
ティモシー・スナイデル(Timothy Snyder)の『血塗られた大地』(Bloodlands)の結びの一文〔「死者を数字にとどめるのてはなく、人間に戻すのだ」という主張〕は、記憶する価値がある。
というのも、こういった文章は大量殺戮について「一人の人間の死は悲劇だが、数十万人の死は単なる統計上の数字だ」(怪しいがスターリンの言葉と言われている)と、悲劇を斜めから見下ろすような発言を控えさせることに役立つからだ。
皮肉にもこういった意見は時折、チベット現代史の悲劇に関心ある人々に予想以上の影響をもたらしてきたように思われる。1980年代にチベットの政治指導者たちは、中国占領開始以後の三十年間に、チベット人の死者が120万人を数えたと発表し、この数字がつねに引用されてきたからである。
これはあらゆる感覚を麻痺させるキリの良い数字だ。この数字は、信頼性の低いランダムサンプリングによってひきだされているという事実にもかかわらず、厳として存在している。
実際には、もっとも無知なチベット・ゲリラでも、この死者数を信じることはないだろう。もっとも客観的な観察者(それはチベットに同情的なことを隠さない多くの人々を含む)もこの死者数を否定するだろう。
120万という数字は大まかには、亡命者からの聞き取り調査とともに、1979年から何回が行われた、ダラムサラから本土チベットに送られた視察団、とくに第一次視察団の概算から引き出されたものだ。
視察団のメンバーは人口統計学データの取り方についての訓練は受けておらず、さらに言えば、たとえ、開かれた国で住人の数を数える時にもさまざまな困難があることを考えると、「閉じた国のある一時代にどれほどの人がなくなったか」という数を正確に数えることは、データをとる訓練を受けている受けていないにかかわらず非常に困難な作業であることは明らかだ。
わたしがこのように発言しているのは、チベットでおきた大量虐殺の規模を過小評価するためではなく、根拠を示そうという真剣な努力なしに数字をただあげることはできないと指摘するためである。単純に数字をあげることは、百万人の死者を、単なる統計上の数字に凍り付かせることになる。
では、120万という死者数は、却下されるべきなのか? その通り。その理由はチベット高原で恐ろしいことが起きなかったからではなく、この数字に信頼すべき根拠がないからだ。1950年から1975年までの期間に、チベットにおいて大量死があったことは論争の余地のないことである。しかし、120万人かといえば、今の時点ではイエスとは言い難い。
実際の死者数はもっと少ないとしても、それは非常に多いことには変わりない。中国の記録にアクセスできない現時点では、単に正確な数字を知ることができないということだ。しかし、非常に大規模な虐殺が起こったという事実は疑う余地のないことである。
チベットにおける大量死は、中華人民共和国では少なくとも公式には話題になることはなかった。話題になったとしてもそれは集団虐殺があったという主張に反駁するためのみである。
そしてここ数年、チベット亡命政府の公式発表においてもほとんど死者数に言及することはない。その理由はたぶん、何年か前、共産党の統一戦線工作部が「チベット人は中国政府を攻撃してはならない」との禁止命令を出したせいであろう(私たちの知る限り、この禁令はダライラマの特使ロディ・ギャリに言い渡され、ダライラマによって公にされた。)。
しかし、歴史の痕跡は、政治家の願いと常にうらはらである。
ほんの数ヶ月前の五月、青海省玉樹チベット自治県のナンチェン地域で、建物の建築にあたって準備作業が行われていた。ナンチェンの一部は上カムのナンチェン王国の一部である。この地域はここ数年チベット全土と亡命社会で続いている焼身抗議が起きている地でもある。

家を建てるために地面を掘り返すと、地中から恐ろしい予測もしなかった招かれざるものが突然目の前に現れた。人骨が土の下から現れ始めたのである。
過去は集団埋葬地の姿でやってきた。そして過去は中国政府を困らせることなどかまいはしないのである。


玉樹の他の場所、ペルタン近くの草原で、別の家屋建設計画が始まると、同じようなことがまたおきた。
人間の遺骸でいっぱいの三つの大きな埋葬孔が現れたのだ。
遺骸はすべてが分解しきっていなかったという。孔に投げ込まれた時、犠牲者が来ていた着物の残骸もあった。僧服の場合も俗人の服もあった。死者の長い頭髪はまだそのまま残っていた。年配の人の話によると、これらの孔は1958年から作られはじめ、1960年の飢餓の時代の死者の遺体も加わったものだという。何台ものトラックがこれらの遺品をもちさっていった。
20世紀の歴史は集団埋葬地に事欠かなかった。ナチスに殺されたユダヤ人の埋まっているBabi Yar(33771人)、 ソ連によるポーランド将校の虐殺の場Katyn(22000人), ボスニア戦争時に殺された人々の埋まるSrebrenica(8373人)の地、集団虐殺の埋葬リストは長大である。戦後約70年の間、また一つまた一つと集団埋葬地が発掘されるたびに、そのようなものを引き起こした人の残虐さ、罪、弱さ、憎しみ、全体主義などを思い起こすよすがとなった。
『ひどいことが起きてしまったことを自覚すれば、それが再び起きる可能性を減らすであろう』との希望の下、「流血の20世紀は誠実に記録され、未来の世代に伝えられていくべきだ」との議論がある一方、「中国はその過去、とくにチベットにおける過去によって苦しむべきではない」という無言の意見が明らかに存在している。
また、共産党は中国人をリベラルな思考法から遮断しなければならないと考えているたため、チベットでの集団虐殺の証拠はとくに中国人にとって非常に害があるとし、それがチベットの虐殺に関心を薄くしているようにも見える。まことに、二十世紀の大量殺戮実行者の一人(毛沢東のこと)を崇拝することを命じる政治文化の中で、上品にもチベットの虐殺はまったく等閑に付されてきたようである。
このような考え方に基づけば、チベットでおきた大量虐殺に対して偽装否定がなされることも驚くことではない。
中国政府はこの数十年チベットで起きた事に関して、何らの記録の開示も行ってこなかった。これに対して、厳しい非難を行うどころか、一種迎合するような空気(それを神の摂理と言ってもよい)が生まれている。それは中国の行動は一種の天災であり、天災に対して裁いたり批判したりすることは想像もつかかないという反応である。
裁かれるべきなのは、別の行為である。たとえば、利用可能な、しかし問題の多い中国の統計を選択的に利用したり、チベット地域における人口の減少の多くの原因(最大の原因ではないにしても)を、移住や亡命のせいにすることである。チベット亡命政府の情報は誇張されていて、信頼できないという、いつもの批判もある。
基本的な事実を見つけるために誇張表現に向き合うどころか、この120万人という修辞的表現は、チベットから亡命したひとたちからの証言を単純に台無しにするように働いている。
したがって、ソートマンの(Barry Sautman): 「120万という数字は生存者の目撃情報に基づく者でも、国家規模の統計にアクセスしたものでもなく、亡命者の報告も往々にして亡命政府を喜ばせるためにゆがめられている。」という発言がでるのである。
この発言によれば、少なくともこの問題に関する中国の記録は存在していることになる。もしあまりすばやくこれらの記録が不問に付されるのであれば、読者はその記録に含まれている批判は、記録にアクセスすることを妨げる中国ではなく、その記録を用いないチベット人に向いているとは、思わないだろう。中国人もまじめな研究者もいずれも閲覧できない記録。
そして、次のような正気とも思えない考え方がある:
(1) 目撃者も含めて亡命者の報告はすべて考慮しない。なぜなら、それはゆがめられているから。
(2) チベット人の大量虐殺の目撃証言はない。
もちろん120万人という数はまったく信用できず、それはまじめな観察者の論争テーマとはならない。たとえば、ヒューマン・ライツ・ウォッチはすでに1988年にこの数字を信憑性がないと述べている。
しかし、このことは中国共産党の支配した最初の数十年間に、チベットで大量虐殺があったという事実を却下するものではない。
ダラムサラで2008年に出版された『ナクツァン・ヌブロの回顧録』は以上述べてきたような避難の類に耐えるものとなっている。(続く・・・)
第三回若手チベット学者会議
九月の三日から六日までの四日間にわたり、神戸外国語大学において第三回若手チベット学者会議(International Seminar of Young Tibetologist)が行われた。「若手」と銘打つだけのことはあり、この会議の参加資格は、研究職について六年以内、博士号とって六年以内という縛りがあるので、いずれの期間も超過した自分は正式にはエントリーできない。そこで、主に自分の専門の発表が行われる五日の一日のみオブザーバーとして参加した。
神戸には前日四日に入り、会議の正式な参加者であるK嬢とツインの部屋にとまる。K嬢は翌日発表なので遅くまで当日も朝から早く起きて練習していた。朝、私がいつまでも、うだうだ寝ていると
K嬢「先生、食事にいきましょう」
私「はいはいはい、大丈夫、わたしは起きてから一分半で出発できる特技があるから」
K嬢「それは威張っていうことではありません。」
私「だってホテルの一階に朝ご飯食べにいくだけでしょ」
K嬢「だめです。どんな人と会うわからないから、ちゃんとしていきましょう」
と叱られつつ、階下に降りていくと、お馴染みのメンバーが朝食を食べている。国際学会とはいえ日本がホスト国なので日本人が多い。
国際会議を行うためには、開催期間はむろんのこと、企画段階から膨大な事務が発生する。具体的には、会場準備、発表者の選定、定時連絡、当日には受付、タイムキーパー、電子機器の設定、予定変更にともなうプログラムの書き換え、通訳業務などであるが、日本の若手学者たちはこれらの仕事をほんとうに彼らの中ですべてまわしていた。とくにホスト大学のIくんが中心にたって有能に仕切っていた。
見れば彼らはお互い同士仲が良い。研究ジャンルは人類学、歴史学、言語学などとさまざまで、出身大学もさまざまなのにである(しかし、スタッフにも発表者にも純粋に仏教の思想を扱う人が少なかったのは気になった)。
私が国際学会に初参加した26才の時には、日本からきた学者は私一人だった。その後も、自分に問題があったのか、当時のチベット学が低調だったからか、同世代のチベット学者と仲良くチベットについて語り合う場などまったくなかった。なのでこの状況には隔世の感。かつて、ヒッピー世代が一時代を築いたように、彼らも協力しあって一時代を築き、チベット学をもりたてていってくれるといいのだけど。
本会議の歴史はなかなか興味深いので詳しく説明する。この会議は1977年に始まったが、それがいつのまにか現在最大のチベット系国際会議、国際チベット会議に吸収され、それが巨大化したため、2007年から再び若手チベット学者だけを分離して新しい会議を作ったのである。とくに、後に第一回国際チベット学会として知られる会議が、マイケル・アリス、アウンサン・スーチーさんによって主催されていたことは知らなかった。
若手チベット学者会議の歴史
1977年、マーチン・ブルーエン (Martin Brauen) とクヴァルネ (Per Kvaerne) がチューリッヒで若手チベット学者のセミナーを開いた。彼らは60人の学者を招き、そのうち三十人が招待に応じ、五日間の会議に参加した。この会議の成功を受けて、次の会議がイギリスのオックスフォードで行われることになった。
オックスフォードの会議はマイケル・アリスとアウンサン・スーチー夫妻によって開かれ、これは現在まで続く国際チベット学会(IATS)の始まりと位置づけられている。後に、この会議は遡及して第一回国際チベット学会と呼ばれるようなった。
国際チベット学会は回を重ねるごとに参加者が倍増し、チョーマドケレス・シンポジウムとならんで、チベット学で随一の規模の学会となった。学会が成功するごとに、参加者が増加し、日本の成田山で行われた第四回セミナーの時までには、参加者がすべての発表を聞くことは事実上不可能となった。この嘆くべき状況は現在も続いている。
※ チョーマド・ケレス (1784-1842) はチベット学のパイオニアであるハンガリー人学者。その彼に捧げた学会。
・2006年、復活する若手学者会議
2006年にドイツで開催された第十一回国際チベット学会において、キャリアのまだ浅いチベット学者を中心にした、本体とは別個に、しかし本体と関係した組織をつくろうとの案が議題に上った。国際チベット学会は大きくなりすぎて、あらゆる研究テーマに関係した発表を行うことは難しくなってきた。たぶんヒゲが伸びすぎたのである(文意不明)。いずれにせよ、学会から離反した少数のグループが会合を開き、国際チベット学会よりもっと小さなパネル構成で、もっと若いアプローチの、もっと長い時間発表のできる会議を開くことを決定した。
若手チベット学者の学会を復活させようというわれわれの目的の一つは従って、われわれの学会の慎ましい最初の日々の姿に回帰することであった。研究分野が増え続けているので、パネルディスカッションと時間制限なしに会議の遂行は不可能になっていた。しかし、我々はアイディアを共有するために形式張らない環境を提供しようとしている。
こうして第一回若手チベット学者会議が、2007年の8月9日から13日、ティム・ミャト(Tim Myatt)とブランドン・ドッドソン(Brandon Dotson)の主催で、ロンドンのアジア・アフリカ研究学校において開催された。アカデミックな厳密さと若者が必要とし探求するものに配慮した姿勢はうまく両立し、会議は大成功であった。
この会議で、若手チベット学者会議の会則が採択され、運営委員会が選出され、第二回目のパリで行われる案が全会一致で裁決された。
第二回若手チベット学者会議は、2009年の9月7日から11日にかけてパリで行われた。15カ国から50名が集まり、水準の高い研究発表が楽しい雰囲気の中で行われ、非常な成功を収めた。
以上の歴史を踏まえて、国際チベット学会の今の会長が、若手チベット学者に送ったスピーチを最後に付した。冬虫夏草やらチョウやらを引き合いにだして、若手チベット学者に成長を促す、名文?である。
若手チベット学者の未来
チャールズ・ランブル(Charles Ramble 国際チベット学会会長)
若手チベット学者の寿命は短い。今回その延長が決まったけれど、公式には五年の寿命である。この悲しいまでの短さは、今回のホスト国、日本の芸術や文学をつらぬく「つかの間の美」という観念を思い起こさせてくれる。
しかし、チベットの荒涼とした高原に桜は咲かないし、若さの儚さについて瞑想することもない。若さとは「散っていく」ものではなく「成熟する」に至るものであることは、動物学的なモデルによって理解できるだろう。
わたしは今、チョウについて考えている。チベット学は、従来の文献学、歴史学、宗教学の根幹的な分野から、今や人類学やエコロジーのような無数の分野を吸収しつつ拡大している。その中で、チョウ学や菌類学の分野も目立ってきていることは、嬉しいことだ。
人類学の分野でとくに注意をひいているチョウ、レピドプテラは、いわゆるコウモリ蛾の一種である。このコウモリ蛾は、五年間「幼虫」という遷移状態にあり、地下の巣穴に籠もって、植物の根を食べてくらす。この点で若手チベット学者と共通点がある。五年以上幼虫の状態のままでいることはお勧めできないし、危険でもある。巣穴に住み続ければ真菌感染症にかかりやすく、いったん感染症にかかればコウモリ蛾の場合は死に至るからだ。
〔死んでも一銭にもならない〕若手チベット学者とは反対に、コウモリ蛾の幼虫はいったん死ぬと、その商業的な価値は跳ね上がる。カビが生えてひからびたコウモリ蛾の幼虫は、チベット人の村人や企業家たちにとって「冬虫夏草」(dbyar rtswa dgun 'bu) という名の重要な経済資源となる。この冬虫夏草をめぐる経済現象は、回り回って老若問わずチベット学者にとって、さまざまな研究対象を生み出している。
コウモリ蛾の幼虫が長くその状態にとどまりすぎるとまずいように、ヨーロッパの大きな青いチョウ(学名 Phengaris arion)のライフサイクルにも同じ現象が見られる。

ヨーロッパの大きな青いチョウの幼虫は、木の根ではなく野生のタイムやリンドウを食べる。三度目の脱皮の後、幼虫は蟻にであう。蟻は幼虫を探るように優しくさすると、幼虫は甘い液を滲出させ蟻を喜ばせるので、蟻は幼虫を自分の巣へとつれていく。蟻の巣の中で一冬越冬した幼虫は、春になって目覚め、蟻にミルクをやりながら、そのかわりに蟻の卵と幼虫を食べ続ける。
九ヶ月の間、幼虫は蟻の卵や幼虫を食べ尽くした後、チョウの幼虫は巣穴の中でさなぎになる。そして春になって土の下で蝶になる時、さなぎは蟻にエスコートされて広い場所にでて、羽が乾いて飛べるようになるまで蟻はその回りをとりまいて護衛する。
このような複雑な遷移の期間、チョウの幼虫はさまざまなリスクにさらされる。若いチベット学者たちはここから学ぶことがあるだろう。青いチョウの幼虫のかなり多くは、食糧である蟻の卵と幼虫が枯渇することによって、餓死する。そうでなくとも、もし何らかの理由で、幼虫が適当な音を出すことに失敗すれば、宿主である蟻は幼虫が偽物であることに気づき、食ってしまう。イギリスでは青いチョウを育てる蟻の種は、短い草の生える場所に生息し、これは野生の鹿がたくさんいた中世にはよくある草原の状態であった。鹿は徐々にノルマン人がもたらした兎にとってかわった。しかし、1960年代にイギリスの兎の数は疫病(myxamatosi)によって急激に減少し、草は深くなり、自然保護活動家が気がつかないうちに、青いチョウを育てていた蟻は、青いチョウに敵対的な種にとってかわっられてしまった。
1979年、イギリスにおいて青い大きなチョウは、正式に絶滅が宣言された。これが持つ意味は、あなたたちにはわかるであろう。1979年とは、そう、国際チベット学会が創立した年である。
若手チベット学者の象徴となるチョウがあるとすれば〔冬虫夏草や青いチョウではなく〕、アポロ(学名Parnassius apollo)であろう。アポロは雑菌のあふれる地中ではなく岩の上で、きまぐれな宿主にたよることもなく、何冬も越冬する。アポロは50種以上を数え、アルプスから高度5600mのチベット高原に至るまでひろく分布している。一つの種の中ですら、多くの異種が確認されている。

アゲハチョウ科メンバーとして、アポロはイギリスのスワロウテイルというアゲハチョウとラージャ・ブルック・バードウィングの一種とも親戚関係にあるものの、後者の派手さはない。アポロは過酷な環境にあっても完璧にリラックスしている。アポロの一種は太陽から熱を得るために羽の色は暗く、氷河のさむさに対抗するために脂肪と体毛が豊富に備わっている。
にもかかわらず、アポロは注意深い〔ので〕、飛んでいる姿は明るい太陽の中でしか見られない。アポロの一種の成蝶が何千ドルもの高値で売られていることを考えると、世間でかなり話題になった冬虫夏草の高値は無意味となっていく。
儚さは、より頑丈で精力的で世の中に適合した姿で現れたことは決してなかったし、輝く未来が約束されることもなかったのである。
つまりこのスピーチが意味することは、若手チベット学者よ、今はいもむしだが、アポロのように寒い冬を誰にもたよらず、たくましく生き抜け、ということ。あまり土の中にながくいすぎて冬虫夏草にならないでね、とも(笑)。
神戸には前日四日に入り、会議の正式な参加者であるK嬢とツインの部屋にとまる。K嬢は翌日発表なので遅くまで当日も朝から早く起きて練習していた。朝、私がいつまでも、うだうだ寝ていると
K嬢「先生、食事にいきましょう」
私「はいはいはい、大丈夫、わたしは起きてから一分半で出発できる特技があるから」
K嬢「それは威張っていうことではありません。」
私「だってホテルの一階に朝ご飯食べにいくだけでしょ」
K嬢「だめです。どんな人と会うわからないから、ちゃんとしていきましょう」
と叱られつつ、階下に降りていくと、お馴染みのメンバーが朝食を食べている。国際学会とはいえ日本がホスト国なので日本人が多い。
国際会議を行うためには、開催期間はむろんのこと、企画段階から膨大な事務が発生する。具体的には、会場準備、発表者の選定、定時連絡、当日には受付、タイムキーパー、電子機器の設定、予定変更にともなうプログラムの書き換え、通訳業務などであるが、日本の若手学者たちはこれらの仕事をほんとうに彼らの中ですべてまわしていた。とくにホスト大学のIくんが中心にたって有能に仕切っていた。
見れば彼らはお互い同士仲が良い。研究ジャンルは人類学、歴史学、言語学などとさまざまで、出身大学もさまざまなのにである(しかし、スタッフにも発表者にも純粋に仏教の思想を扱う人が少なかったのは気になった)。
私が国際学会に初参加した26才の時には、日本からきた学者は私一人だった。その後も、自分に問題があったのか、当時のチベット学が低調だったからか、同世代のチベット学者と仲良くチベットについて語り合う場などまったくなかった。なのでこの状況には隔世の感。かつて、ヒッピー世代が一時代を築いたように、彼らも協力しあって一時代を築き、チベット学をもりたてていってくれるといいのだけど。
本会議の歴史はなかなか興味深いので詳しく説明する。この会議は1977年に始まったが、それがいつのまにか現在最大のチベット系国際会議、国際チベット会議に吸収され、それが巨大化したため、2007年から再び若手チベット学者だけを分離して新しい会議を作ったのである。とくに、後に第一回国際チベット学会として知られる会議が、マイケル・アリス、アウンサン・スーチーさんによって主催されていたことは知らなかった。
若手チベット学者会議の歴史
1977年、マーチン・ブルーエン (Martin Brauen) とクヴァルネ (Per Kvaerne) がチューリッヒで若手チベット学者のセミナーを開いた。彼らは60人の学者を招き、そのうち三十人が招待に応じ、五日間の会議に参加した。この会議の成功を受けて、次の会議がイギリスのオックスフォードで行われることになった。
オックスフォードの会議はマイケル・アリスとアウンサン・スーチー夫妻によって開かれ、これは現在まで続く国際チベット学会(IATS)の始まりと位置づけられている。後に、この会議は遡及して第一回国際チベット学会と呼ばれるようなった。
国際チベット学会は回を重ねるごとに参加者が倍増し、チョーマドケレス・シンポジウムとならんで、チベット学で随一の規模の学会となった。学会が成功するごとに、参加者が増加し、日本の成田山で行われた第四回セミナーの時までには、参加者がすべての発表を聞くことは事実上不可能となった。この嘆くべき状況は現在も続いている。
※ チョーマド・ケレス (1784-1842) はチベット学のパイオニアであるハンガリー人学者。その彼に捧げた学会。
・2006年、復活する若手学者会議
2006年にドイツで開催された第十一回国際チベット学会において、キャリアのまだ浅いチベット学者を中心にした、本体とは別個に、しかし本体と関係した組織をつくろうとの案が議題に上った。国際チベット学会は大きくなりすぎて、あらゆる研究テーマに関係した発表を行うことは難しくなってきた。たぶんヒゲが伸びすぎたのである(文意不明)。いずれにせよ、学会から離反した少数のグループが会合を開き、国際チベット学会よりもっと小さなパネル構成で、もっと若いアプローチの、もっと長い時間発表のできる会議を開くことを決定した。
若手チベット学者の学会を復活させようというわれわれの目的の一つは従って、われわれの学会の慎ましい最初の日々の姿に回帰することであった。研究分野が増え続けているので、パネルディスカッションと時間制限なしに会議の遂行は不可能になっていた。しかし、我々はアイディアを共有するために形式張らない環境を提供しようとしている。
こうして第一回若手チベット学者会議が、2007年の8月9日から13日、ティム・ミャト(Tim Myatt)とブランドン・ドッドソン(Brandon Dotson)の主催で、ロンドンのアジア・アフリカ研究学校において開催された。アカデミックな厳密さと若者が必要とし探求するものに配慮した姿勢はうまく両立し、会議は大成功であった。
この会議で、若手チベット学者会議の会則が採択され、運営委員会が選出され、第二回目のパリで行われる案が全会一致で裁決された。
第二回若手チベット学者会議は、2009年の9月7日から11日にかけてパリで行われた。15カ国から50名が集まり、水準の高い研究発表が楽しい雰囲気の中で行われ、非常な成功を収めた。
以上の歴史を踏まえて、国際チベット学会の今の会長が、若手チベット学者に送ったスピーチを最後に付した。冬虫夏草やらチョウやらを引き合いにだして、若手チベット学者に成長を促す、名文?である。
若手チベット学者の未来
チャールズ・ランブル(Charles Ramble 国際チベット学会会長)
若手チベット学者の寿命は短い。今回その延長が決まったけれど、公式には五年の寿命である。この悲しいまでの短さは、今回のホスト国、日本の芸術や文学をつらぬく「つかの間の美」という観念を思い起こさせてくれる。
しかし、チベットの荒涼とした高原に桜は咲かないし、若さの儚さについて瞑想することもない。若さとは「散っていく」ものではなく「成熟する」に至るものであることは、動物学的なモデルによって理解できるだろう。
わたしは今、チョウについて考えている。チベット学は、従来の文献学、歴史学、宗教学の根幹的な分野から、今や人類学やエコロジーのような無数の分野を吸収しつつ拡大している。その中で、チョウ学や菌類学の分野も目立ってきていることは、嬉しいことだ。
人類学の分野でとくに注意をひいているチョウ、レピドプテラは、いわゆるコウモリ蛾の一種である。このコウモリ蛾は、五年間「幼虫」という遷移状態にあり、地下の巣穴に籠もって、植物の根を食べてくらす。この点で若手チベット学者と共通点がある。五年以上幼虫の状態のままでいることはお勧めできないし、危険でもある。巣穴に住み続ければ真菌感染症にかかりやすく、いったん感染症にかかればコウモリ蛾の場合は死に至るからだ。
〔死んでも一銭にもならない〕若手チベット学者とは反対に、コウモリ蛾の幼虫はいったん死ぬと、その商業的な価値は跳ね上がる。カビが生えてひからびたコウモリ蛾の幼虫は、チベット人の村人や企業家たちにとって「冬虫夏草」(dbyar rtswa dgun 'bu) という名の重要な経済資源となる。この冬虫夏草をめぐる経済現象は、回り回って老若問わずチベット学者にとって、さまざまな研究対象を生み出している。
コウモリ蛾の幼虫が長くその状態にとどまりすぎるとまずいように、ヨーロッパの大きな青いチョウ(学名 Phengaris arion)のライフサイクルにも同じ現象が見られる。

ヨーロッパの大きな青いチョウの幼虫は、木の根ではなく野生のタイムやリンドウを食べる。三度目の脱皮の後、幼虫は蟻にであう。蟻は幼虫を探るように優しくさすると、幼虫は甘い液を滲出させ蟻を喜ばせるので、蟻は幼虫を自分の巣へとつれていく。蟻の巣の中で一冬越冬した幼虫は、春になって目覚め、蟻にミルクをやりながら、そのかわりに蟻の卵と幼虫を食べ続ける。
九ヶ月の間、幼虫は蟻の卵や幼虫を食べ尽くした後、チョウの幼虫は巣穴の中でさなぎになる。そして春になって土の下で蝶になる時、さなぎは蟻にエスコートされて広い場所にでて、羽が乾いて飛べるようになるまで蟻はその回りをとりまいて護衛する。
このような複雑な遷移の期間、チョウの幼虫はさまざまなリスクにさらされる。若いチベット学者たちはここから学ぶことがあるだろう。青いチョウの幼虫のかなり多くは、食糧である蟻の卵と幼虫が枯渇することによって、餓死する。そうでなくとも、もし何らかの理由で、幼虫が適当な音を出すことに失敗すれば、宿主である蟻は幼虫が偽物であることに気づき、食ってしまう。イギリスでは青いチョウを育てる蟻の種は、短い草の生える場所に生息し、これは野生の鹿がたくさんいた中世にはよくある草原の状態であった。鹿は徐々にノルマン人がもたらした兎にとってかわった。しかし、1960年代にイギリスの兎の数は疫病(myxamatosi)によって急激に減少し、草は深くなり、自然保護活動家が気がつかないうちに、青いチョウを育てていた蟻は、青いチョウに敵対的な種にとってかわっられてしまった。
1979年、イギリスにおいて青い大きなチョウは、正式に絶滅が宣言された。これが持つ意味は、あなたたちにはわかるであろう。1979年とは、そう、国際チベット学会が創立した年である。
若手チベット学者の象徴となるチョウがあるとすれば〔冬虫夏草や青いチョウではなく〕、アポロ(学名Parnassius apollo)であろう。アポロは雑菌のあふれる地中ではなく岩の上で、きまぐれな宿主にたよることもなく、何冬も越冬する。アポロは50種以上を数え、アルプスから高度5600mのチベット高原に至るまでひろく分布している。一つの種の中ですら、多くの異種が確認されている。

アゲハチョウ科メンバーとして、アポロはイギリスのスワロウテイルというアゲハチョウとラージャ・ブルック・バードウィングの一種とも親戚関係にあるものの、後者の派手さはない。アポロは過酷な環境にあっても完璧にリラックスしている。アポロの一種は太陽から熱を得るために羽の色は暗く、氷河のさむさに対抗するために脂肪と体毛が豊富に備わっている。
にもかかわらず、アポロは注意深い〔ので〕、飛んでいる姿は明るい太陽の中でしか見られない。アポロの一種の成蝶が何千ドルもの高値で売られていることを考えると、世間でかなり話題になった冬虫夏草の高値は無意味となっていく。
儚さは、より頑丈で精力的で世の中に適合した姿で現れたことは決してなかったし、輝く未来が約束されることもなかったのである。
つまりこのスピーチが意味することは、若手チベット学者よ、今はいもむしだが、アポロのように寒い冬を誰にもたよらず、たくましく生き抜け、ということ。あまり土の中にながくいすぎて冬虫夏草にならないでね、とも(笑)。
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