『ヒマラヤを越える子供たち』と『新しいみんなの公民』
最近、手にする機会のあった、チベット関連書籍『ヒマラヤを越える子供たち』(小学館)、『新しいみんなの公民』(育鵬社)の書評を書く。
前者は本書と同名のドキュメンタリー『ヒマラヤを越える子供たち』の監督マリア・ブルーメンクローン氏の作。この監督、本業は女優であるが、じつに文章がうまい。30分のドキュメンタリー映像では語りきれなかった個々の子供達のプロフィールや撮影動機が魅力的な文章で語られる。
後者は、育鳳社の教科書『中学社会 新しいみんなの公民』。
育鵬社は扶桑社から教科書部門を独立させた会社である。扶桑社とはいえばあの「作る会」の教科書の出版元であることはよく知られている。あの後、扶桑社は韓流本だしてもうけようとしたら、社名を見ただけで韓国側にキョひられ仕事にならなかったため、大人の事情で教科書部門だけが切り離された。
私が手にした中学向けの公民の教科書は、後に述べるように対立する立場の言い分を併記した上で、マスコミのようにそのままにせず、より普遍的な立場でものを考えるように提言している。少なくとも私の耳には「軍靴の音」は聞こえてこなかった(笑)。
で、なぜいきなり公民の教科書なのかと言えば、何とこの教科書フリー・チベットが掲載されている。すべての中学の公民の教科書を読み比べてないから断言はできないけれども、フリー・チベットをとりあげた教科書はおそらくはこれだけではないかと思われる。マーベラス!
ではまず、前者から。
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『ヒマラヤを越える子供たち』
『ヒマラヤを越える子供たち』は、チベットの子供たちが、ヒマラヤをこえて不法出国し、ダライラマの住むインドに逃れるまでのドキュメントである。このドキュメンタリーはドイツの女優マリア・ブルーメンクローンによって撮られた、数数の賞に輝いている。本DVDはチベット・サポート団体KIKUから入手することができる。
まず心打たれた文は、監督がこのドキュメントをとる決意をした1997年のケルンでの出来事であった。
別の公共放送の第2放送に切り替えると、・・・次のテーマは、「両親と別れ、ヒマラヤを越えインドに向かうチベットの子供たち」だ。凍死したらしい女の子と男の子が画面に映し出される。10歳にもなっていない小さな子供たちだ。ネパールとチベットの国境近くのヒマラヤに登った登山家が、偶然に見つけて撮った写真らしい。
画面の子供たちを見た瞬間、いちばん痛い急所を突かれたような衝撃を感じた。親元を離れた絶望感と孤独。世界でいちばん高いヒマラヤの山を越えようとする子供たちの靴は安っぽい布製で、小さな手は素手で、手袋さえしていなかった。高い山の夜の冷たさも薄い空気の苦しさも凍傷の辛さも、私は知っている。登山だけは、かなり自信がある。
自分用の蒲団を柳のかごから取り出すと、テレビを消してソファーに横になったが、今見た映像が頭から離れない。あの写真の子供たちは姉弟だったのだろうか? 2人だけで亡命しようとしたのだろうか? それとも吹雪で、2人だけが道に迷ってしまったのだろうか? 情け知らずの人間が、邪魔になった子供をわざと見捨てていったのだろうか?2人の親は何をしているのだろうか? あんな小さな子供を冬のヒマラヤに送り出すなんて、そんな無責任な親がいるのだろうか? なんで一緒に亡命しなかったのだろうか? 送り出したわが子がヒマラヤで凍死したのを知っているのだろうか? 母親の温かい腕の中ではなく、冷たい氷原で、白分たちの死も親に伝わらないと知りながら死んでいく…。子供たちにとって、こんなに辛く悲しいことはないだろう。私は枕の下で思い切り泣いたが、いつしかそのまま寝入っていた。
夢の中でまた、あの写真がよみがえった。無限に広い氷の世界で2人の子供が迷っている。目印になるような道もなければ、人家の存在を示すヤクの糞もない。暗闇の中、山は不気味な怪物に変わり、凍った雪の上に母親を求めて泣き崩れる弟。姉が一所懸命、弟の冷たい手を温める。朝になったら家に帰ろうねと慰めている。でも、遊牧民に生まれた彼女は、ここが2人の永遠の寝床になると気がついている。
ユルゲンが台所でオレンジをしぼる電気音で目が覚めた。コーヒーのよい香りもする。パン屋はまだ開いていない。
「ねえ、私、何をやるべきかやっとわかったわよ」
「女優」
「はずれ。登山ガイド」
マリアの母の結婚記念日には『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の著者ハインリッヒ・ハラー(チベット最後の日々を目撃したオーストリア人)から結婚祝いが贈られていたというから、彼女とチベットの出会いは生まれる前からということか。
で、この本の見所はドキュメンタリーに出演した子供たちの壮絶な人生である。マリアが初めてのドキュメンタリーをとるために様々な箇所で取材を行っていく間、子供達の事情も同時並行に語られる。
リトル・ペマ(当時7才女子)は父親がアルコール依存症で、娘である彼女にも暴力をふるい続けた。母親は父親の暴力から娘をまもるためにインドへ娘を送る決意をする。
タムディン(当時10才男子)は、三人兄弟の末っ子である。中国支配下のチベットではチベット人は二人までしか子供が作れないことになっているため、三人目のタムディンのために両親は罰金を払いながら貧しい暮らしを強いられている。授業料の上がり続ける本土ではタムディンは教育を受けることができないため、両親は彼をヒマラヤの向こうに送りだすことを決意する。
ロプサン(15才の男子)。ダライラマ14世を否定することを拒否したため、政治犯として投獄されることを畏れ、亡命を決意。
スジャ 中国の軍事組織で牢獄看守として働いていた武装警察漢。ある日年老いたチベット僧が拷問を受けるのを目撃し、拷問のひどさと老僧侶の不屈の精神にうたれて亡命を決心。
という感じでどの子もついでにいえばガイドとなる青年たちも壮絶な過去を背負っている。
なぜ子供たちの父親がみなアルコール依存症だったり、ばくち打ちだったりするのか。アムドのチベット人たちは農民か遊牧民であるため、中国の開発独裁の下では社会の最底辺におしやられ、誇りをもって生きて行くことができないのだ。また、貧困が彼らから教育の機会を奪っている。
なぜ、僧侶は中国人に殴られなければいけないのか。社会主義教育をうけた漢人はチベット仏教の価値を理解できず見下す一方、僧侶たちの不屈の意志に畏れを抱いているからである。
幼い子供たちの断片的な話から、彼らの前身を正確に再構成するのは難しい。マリアもそれについては率直に認め、これは「話のジクソーパズル」であると断っている。彼女がつくりあげた一人一人のジクソーパズルはまるで小説のように読む者をひきつける力がある。ようはこの人は文章がうまい。
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『中学社 新しいみんなの公民』(育鵬社)
チベットに関する記述は『新しい公民』の第二章「私達の生活と政治」の第二節「基本的人権の尊重」(7) 国際社会における人権において触れられる。以下、備忘のためにコピペしておく。
●7 国際社会における人権
世界には地球規模での環境破壊、飢餓や難民の救済など国際的に協力しなければならない問題が数多くあります。しかし、基本的人権が保障されるためには、各国の経済状況や政治・治安状況を一定水準以上に向上・安定させる必要があります。
多くの発展途上国では、さしせまった課題として経済発展、国内の治安維持が求められており、また宗教や歴史・文化を背景にした各国なりの特殊事情もあります。そのため先進国の価値観だけに立って人権保障の遅れを指摘したり、宗教や文化の背景を無視して一方的に非難することには、発展途上国の側から強い批判があります。
また、世界には独裁政治を行ったり、全体主義の体制の下に、国民の人権を侵害したり抑圧したりしている国家も見られます。これに対して国際社会が抗議しても、無視されたり、外国が干渉する権利はない(内政不干渉の原則)として、一方的に退けたりする国もあり、人類共通の願いである人権保障の見地から国際社会で問題になっています。

で、そのページの上部にはフリチベ・デモの写真がのり、
「中国政府のチベット統治に抗議する人々(フランス)」2008年に開催された北京五輪では、チベットでの人権問題について世界各国で抗議行動がおこりました。
以上のように、途上国側の言い分も押さえた上で、その途上国の問題行動、「独裁政治を行ったり、全体主義の体制の下に、国民の人権を侵害したり抑圧したり」「これに対して国際社会が抗議しても、無視されたり、外国が干渉する権利はない(内政不干渉の原則)として、一方的に退けたり」も同時に明記している。この記述と写真から、この独裁国家がたとえば中国を指していることはすぐに分かり、その上で人権を人類共通の願い、とすることによって、ナショナリズムに終始しない、より普遍的な立場からこの件をみるべく誘導している。
さらに本教科書の力の入った箇所にはコラム記事がつけられている。人権についてはとくに気合いが入っており国内・国外の人権問題について二つのコラム記事がある。前者は、部落解放やアイヌ文化の継承に力あった人々を紹介し、後者「世界の人権問題」の冒頭には以下のように「チベット問題とウイグル問題」が取り上げられている。
●世界の人権問題「チベット問題とウイグル問題」
2008(平成20)年,中国で北京オリンピックが開催されました。それに先立ち,日本の長野市など世界各地で聖火リレーが行われました。このとき,中国のチベット自治区や新疆ウイグル自治区での深刻な人権問題に対する抗議活動が繰り広げられました。なぜ,このようなことが行われたのでしょうか。
チベットやウイグルは,18世紀以降,清国の支配下にありました。清国の滅亡後,それぞれの民族が独立を主張しましたが,第二次世界大戦後に中国政府の支配下におかれました。
チベット人の中には,ヒマラヤ山脈をこえてインドヘの亡命をはかる人もいました。
1959年には現在チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世ら,約8万人が亡命しました。またウイグル自治区では,中国の核実験により放射能被害が出ているという報告もあります。
チベットやウイグルの住民は中国政府が民族の伝統や文化を破壊し、信教の自由を侵害していると主張し、たびちび抗議活動を起こしてきました。一方,中国政府はそれを暴動とみなし,武装警察などを出動させて厳重に取り締まり,住民側に多数の死者が出ています。これらの抗議活動が各国のメディアで報道されるにつれ,この人権問題は世界で広く知られるようになりました。

ウイグルとチベットを「清国の支配下にありました。」とさらっと書くけど、これを「チベットが、清朝の実効統治を受けていた」という印象もったらそれは不正確。18世紀の清朝最盛期に君臨した乾隆帝は、チベット仏教を信仰し、チベットの国難にあたっては援軍を派遣し、自らチベット僧の格好をした肖像画を書かせてまわりに拝ませ、莫大な布施をチベットに送り、1780年にパンチェンラマを熱河と北京に迎えた際には叩頭するというくらいチベットを尊重していた。つまり、18世紀の清朝はチベットを植民地支配などはしていないのである。チベットを占領し、文化を否定し、漢人を組織的に入植させる現象は、1951年にはじまる中国共産党の支配から始まった。
この部分をのぞけば、チベット・ウイグルの問題やダライラマ法王について言挙げしているという点で評価できる。少なくとも、「なかったこと」にはされていない。このコラムは以下の小見出しによって終わる。
・国際的な人権尊重のために
人権救済のための国際介入は内政干渉であるとして、しばしば当事国の反発を生むこともあります。
各国の主権を尊重することと、人権という普遍的な価値を擁護していくこと
を、いかにして両立していくのか。それを考えることは、同時に私達が何に価値をおいて生きるのかを考えることにもつながります。
ここでも、途上国のとく内政不干渉と普遍的な価値である人権をはっきり対立させて、「何に価値をおいて生きるのか」を考えるように提言している。
チベット問題に目をつぶっている人は一様にこういう。「中国は気に入らないことについては国際ルールを無視してさまざまないやがらせをするから触らぬ神にたたりなし」あるいは、「中国は投資したり物を売ったりしているお得意様だから、お客様のゴキゲンは損ねない」。しかし、これらの理由はどう言い訳をしても、人としてのあり方などの大きな視点が欠落した、保身に基づくものであろう。
まず、一つの文明、民族の存亡の問題を当事者の頭ごなしに断じている時点で尊大である。さらに言えば、保身とは教えられなくとも人に生まれながらに備わっている感覚である。むしろ本能をこえて護らなければならないことがあることを教えるのが、教育の役目であろう。本能は黙っていても発動する。それを踏まえた上で、小さなオノレの利益を超えた、人はどう生きるべきかという大きな視点からものをみる訓練をするのが教育ではないか。
大津のいじめ自殺事件にあたり、学校はまずいじめ止めることに失敗し、被害者がなくなった後も事件をできるだけ小さくみせようとし、善悪をうやむやにしようとした(そのことが逆に不信感を生み事態の極大化を招いたわけだが)。学校当事者たちは、加害少年たちの人権を守ろうとし、組織と自分の保身を行おうとしたのであろうが、一番大事なことを忘れている。
彼らはは子供たちに「問題が起きた時に、どうなすべきか」という手本を示すことに失敗した。この学校の生徒たちは、学校に不信感をもち失望しているという。この子たちの中からは教師に憧れて教師をめざそうなどという人は現れないだろうし、将来何かトラブルにみまわれた時、他に方法を知らないから、結局はこの教師たちと同じく善悪をうやむやにして問題を直視しない過ちを繰り返すだろう。
「中国が怒ると日本や日本経済にとって不利なので、チベット人の状況には目をつぶりましょう」と教えることは教育ではない。保身は教わらなくても身についている人間の業だ。それよりも、「ダライラマは亡命先で難民社会を作り、そこで本土で否定されている自国の文化を必死で護っています。その文化に基づいて世界平和に貢献してきたため、ダライラマは一難民でありながら今や国際的に道徳的権威となっています。」という奇跡を教えるのが教育ではないか。
チベット人の親たちは、なぜかわいい子供を手放して、危険なヒマラヤを越えさせるのであろうか。大きな理由としては難民社会が運営するチベット人学校では、教育が無料で受けられることが挙げられるが、さらにいえば、中国本土では受けることができない人格教育を受けられることがある。アル中やギャンブル狂の父親の下から、世界の聖者の下に子供たちを送り出すと思えるからこそ、母親は子供を手放すことができるのだ。
今まで、いじめ問題のように「なかった」ことにされてたチベット問題が、教科書に扱われるようになったことは非常に大きな前進である。チベット問題は今の日本の社会のあり方を考える上でも非常によい教材となるであろう。
前者は本書と同名のドキュメンタリー『ヒマラヤを越える子供たち』の監督マリア・ブルーメンクローン氏の作。この監督、本業は女優であるが、じつに文章がうまい。30分のドキュメンタリー映像では語りきれなかった個々の子供達のプロフィールや撮影動機が魅力的な文章で語られる。
後者は、育鳳社の教科書『中学社会 新しいみんなの公民』。
育鵬社は扶桑社から教科書部門を独立させた会社である。扶桑社とはいえばあの「作る会」の教科書の出版元であることはよく知られている。あの後、扶桑社は韓流本だしてもうけようとしたら、社名を見ただけで韓国側にキョひられ仕事にならなかったため、大人の事情で教科書部門だけが切り離された。
私が手にした中学向けの公民の教科書は、後に述べるように対立する立場の言い分を併記した上で、マスコミのようにそのままにせず、より普遍的な立場でものを考えるように提言している。少なくとも私の耳には「軍靴の音」は聞こえてこなかった(笑)。
で、なぜいきなり公民の教科書なのかと言えば、何とこの教科書フリー・チベットが掲載されている。すべての中学の公民の教科書を読み比べてないから断言はできないけれども、フリー・チベットをとりあげた教科書はおそらくはこれだけではないかと思われる。マーベラス!
ではまず、前者から。
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『ヒマラヤを越える子供たち』
『ヒマラヤを越える子供たち』は、チベットの子供たちが、ヒマラヤをこえて不法出国し、ダライラマの住むインドに逃れるまでのドキュメントである。このドキュメンタリーはドイツの女優マリア・ブルーメンクローンによって撮られた、数数の賞に輝いている。本DVDはチベット・サポート団体KIKUから入手することができる。
まず心打たれた文は、監督がこのドキュメントをとる決意をした1997年のケルンでの出来事であった。
別の公共放送の第2放送に切り替えると、・・・次のテーマは、「両親と別れ、ヒマラヤを越えインドに向かうチベットの子供たち」だ。凍死したらしい女の子と男の子が画面に映し出される。10歳にもなっていない小さな子供たちだ。ネパールとチベットの国境近くのヒマラヤに登った登山家が、偶然に見つけて撮った写真らしい。
画面の子供たちを見た瞬間、いちばん痛い急所を突かれたような衝撃を感じた。親元を離れた絶望感と孤独。世界でいちばん高いヒマラヤの山を越えようとする子供たちの靴は安っぽい布製で、小さな手は素手で、手袋さえしていなかった。高い山の夜の冷たさも薄い空気の苦しさも凍傷の辛さも、私は知っている。登山だけは、かなり自信がある。
自分用の蒲団を柳のかごから取り出すと、テレビを消してソファーに横になったが、今見た映像が頭から離れない。あの写真の子供たちは姉弟だったのだろうか? 2人だけで亡命しようとしたのだろうか? それとも吹雪で、2人だけが道に迷ってしまったのだろうか? 情け知らずの人間が、邪魔になった子供をわざと見捨てていったのだろうか?2人の親は何をしているのだろうか? あんな小さな子供を冬のヒマラヤに送り出すなんて、そんな無責任な親がいるのだろうか? なんで一緒に亡命しなかったのだろうか? 送り出したわが子がヒマラヤで凍死したのを知っているのだろうか? 母親の温かい腕の中ではなく、冷たい氷原で、白分たちの死も親に伝わらないと知りながら死んでいく…。子供たちにとって、こんなに辛く悲しいことはないだろう。私は枕の下で思い切り泣いたが、いつしかそのまま寝入っていた。
夢の中でまた、あの写真がよみがえった。無限に広い氷の世界で2人の子供が迷っている。目印になるような道もなければ、人家の存在を示すヤクの糞もない。暗闇の中、山は不気味な怪物に変わり、凍った雪の上に母親を求めて泣き崩れる弟。姉が一所懸命、弟の冷たい手を温める。朝になったら家に帰ろうねと慰めている。でも、遊牧民に生まれた彼女は、ここが2人の永遠の寝床になると気がついている。
ユルゲンが台所でオレンジをしぼる電気音で目が覚めた。コーヒーのよい香りもする。パン屋はまだ開いていない。
「ねえ、私、何をやるべきかやっとわかったわよ」
「女優」
「はずれ。登山ガイド」
マリアの母の結婚記念日には『セブン・イヤーズ・イン・チベット』の著者ハインリッヒ・ハラー(チベット最後の日々を目撃したオーストリア人)から結婚祝いが贈られていたというから、彼女とチベットの出会いは生まれる前からということか。
で、この本の見所はドキュメンタリーに出演した子供たちの壮絶な人生である。マリアが初めてのドキュメンタリーをとるために様々な箇所で取材を行っていく間、子供達の事情も同時並行に語られる。
リトル・ペマ(当時7才女子)は父親がアルコール依存症で、娘である彼女にも暴力をふるい続けた。母親は父親の暴力から娘をまもるためにインドへ娘を送る決意をする。
タムディン(当時10才男子)は、三人兄弟の末っ子である。中国支配下のチベットではチベット人は二人までしか子供が作れないことになっているため、三人目のタムディンのために両親は罰金を払いながら貧しい暮らしを強いられている。授業料の上がり続ける本土ではタムディンは教育を受けることができないため、両親は彼をヒマラヤの向こうに送りだすことを決意する。
ロプサン(15才の男子)。ダライラマ14世を否定することを拒否したため、政治犯として投獄されることを畏れ、亡命を決意。
スジャ 中国の軍事組織で牢獄看守として働いていた武装警察漢。ある日年老いたチベット僧が拷問を受けるのを目撃し、拷問のひどさと老僧侶の不屈の精神にうたれて亡命を決心。
という感じでどの子もついでにいえばガイドとなる青年たちも壮絶な過去を背負っている。
なぜ子供たちの父親がみなアルコール依存症だったり、ばくち打ちだったりするのか。アムドのチベット人たちは農民か遊牧民であるため、中国の開発独裁の下では社会の最底辺におしやられ、誇りをもって生きて行くことができないのだ。また、貧困が彼らから教育の機会を奪っている。
なぜ、僧侶は中国人に殴られなければいけないのか。社会主義教育をうけた漢人はチベット仏教の価値を理解できず見下す一方、僧侶たちの不屈の意志に畏れを抱いているからである。
幼い子供たちの断片的な話から、彼らの前身を正確に再構成するのは難しい。マリアもそれについては率直に認め、これは「話のジクソーパズル」であると断っている。彼女がつくりあげた一人一人のジクソーパズルはまるで小説のように読む者をひきつける力がある。ようはこの人は文章がうまい。
*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
『中学社 新しいみんなの公民』(育鵬社)
チベットに関する記述は『新しい公民』の第二章「私達の生活と政治」の第二節「基本的人権の尊重」(7) 国際社会における人権において触れられる。以下、備忘のためにコピペしておく。
●7 国際社会における人権
世界には地球規模での環境破壊、飢餓や難民の救済など国際的に協力しなければならない問題が数多くあります。しかし、基本的人権が保障されるためには、各国の経済状況や政治・治安状況を一定水準以上に向上・安定させる必要があります。
多くの発展途上国では、さしせまった課題として経済発展、国内の治安維持が求められており、また宗教や歴史・文化を背景にした各国なりの特殊事情もあります。そのため先進国の価値観だけに立って人権保障の遅れを指摘したり、宗教や文化の背景を無視して一方的に非難することには、発展途上国の側から強い批判があります。
また、世界には独裁政治を行ったり、全体主義の体制の下に、国民の人権を侵害したり抑圧したりしている国家も見られます。これに対して国際社会が抗議しても、無視されたり、外国が干渉する権利はない(内政不干渉の原則)として、一方的に退けたりする国もあり、人類共通の願いである人権保障の見地から国際社会で問題になっています。

で、そのページの上部にはフリチベ・デモの写真がのり、
「中国政府のチベット統治に抗議する人々(フランス)」2008年に開催された北京五輪では、チベットでの人権問題について世界各国で抗議行動がおこりました。
以上のように、途上国側の言い分も押さえた上で、その途上国の問題行動、「独裁政治を行ったり、全体主義の体制の下に、国民の人権を侵害したり抑圧したり」「これに対して国際社会が抗議しても、無視されたり、外国が干渉する権利はない(内政不干渉の原則)として、一方的に退けたり」も同時に明記している。この記述と写真から、この独裁国家がたとえば中国を指していることはすぐに分かり、その上で人権を人類共通の願い、とすることによって、ナショナリズムに終始しない、より普遍的な立場からこの件をみるべく誘導している。
さらに本教科書の力の入った箇所にはコラム記事がつけられている。人権についてはとくに気合いが入っており国内・国外の人権問題について二つのコラム記事がある。前者は、部落解放やアイヌ文化の継承に力あった人々を紹介し、後者「世界の人権問題」の冒頭には以下のように「チベット問題とウイグル問題」が取り上げられている。
●世界の人権問題「チベット問題とウイグル問題」
2008(平成20)年,中国で北京オリンピックが開催されました。それに先立ち,日本の長野市など世界各地で聖火リレーが行われました。このとき,中国のチベット自治区や新疆ウイグル自治区での深刻な人権問題に対する抗議活動が繰り広げられました。なぜ,このようなことが行われたのでしょうか。
チベットやウイグルは,18世紀以降,清国の支配下にありました。清国の滅亡後,それぞれの民族が独立を主張しましたが,第二次世界大戦後に中国政府の支配下におかれました。
チベット人の中には,ヒマラヤ山脈をこえてインドヘの亡命をはかる人もいました。
1959年には現在チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世ら,約8万人が亡命しました。またウイグル自治区では,中国の核実験により放射能被害が出ているという報告もあります。
チベットやウイグルの住民は中国政府が民族の伝統や文化を破壊し、信教の自由を侵害していると主張し、たびちび抗議活動を起こしてきました。一方,中国政府はそれを暴動とみなし,武装警察などを出動させて厳重に取り締まり,住民側に多数の死者が出ています。これらの抗議活動が各国のメディアで報道されるにつれ,この人権問題は世界で広く知られるようになりました。

ウイグルとチベットを「清国の支配下にありました。」とさらっと書くけど、これを「チベットが、清朝の実効統治を受けていた」という印象もったらそれは不正確。18世紀の清朝最盛期に君臨した乾隆帝は、チベット仏教を信仰し、チベットの国難にあたっては援軍を派遣し、自らチベット僧の格好をした肖像画を書かせてまわりに拝ませ、莫大な布施をチベットに送り、1780年にパンチェンラマを熱河と北京に迎えた際には叩頭するというくらいチベットを尊重していた。つまり、18世紀の清朝はチベットを植民地支配などはしていないのである。チベットを占領し、文化を否定し、漢人を組織的に入植させる現象は、1951年にはじまる中国共産党の支配から始まった。
この部分をのぞけば、チベット・ウイグルの問題やダライラマ法王について言挙げしているという点で評価できる。少なくとも、「なかったこと」にはされていない。このコラムは以下の小見出しによって終わる。
・国際的な人権尊重のために
人権救済のための国際介入は内政干渉であるとして、しばしば当事国の反発を生むこともあります。
各国の主権を尊重することと、人権という普遍的な価値を擁護していくこと
を、いかにして両立していくのか。それを考えることは、同時に私達が何に価値をおいて生きるのかを考えることにもつながります。
ここでも、途上国のとく内政不干渉と普遍的な価値である人権をはっきり対立させて、「何に価値をおいて生きるのか」を考えるように提言している。
チベット問題に目をつぶっている人は一様にこういう。「中国は気に入らないことについては国際ルールを無視してさまざまないやがらせをするから触らぬ神にたたりなし」あるいは、「中国は投資したり物を売ったりしているお得意様だから、お客様のゴキゲンは損ねない」。しかし、これらの理由はどう言い訳をしても、人としてのあり方などの大きな視点が欠落した、保身に基づくものであろう。
まず、一つの文明、民族の存亡の問題を当事者の頭ごなしに断じている時点で尊大である。さらに言えば、保身とは教えられなくとも人に生まれながらに備わっている感覚である。むしろ本能をこえて護らなければならないことがあることを教えるのが、教育の役目であろう。本能は黙っていても発動する。それを踏まえた上で、小さなオノレの利益を超えた、人はどう生きるべきかという大きな視点からものをみる訓練をするのが教育ではないか。
大津のいじめ自殺事件にあたり、学校はまずいじめ止めることに失敗し、被害者がなくなった後も事件をできるだけ小さくみせようとし、善悪をうやむやにしようとした(そのことが逆に不信感を生み事態の極大化を招いたわけだが)。学校当事者たちは、加害少年たちの人権を守ろうとし、組織と自分の保身を行おうとしたのであろうが、一番大事なことを忘れている。
彼らはは子供たちに「問題が起きた時に、どうなすべきか」という手本を示すことに失敗した。この学校の生徒たちは、学校に不信感をもち失望しているという。この子たちの中からは教師に憧れて教師をめざそうなどという人は現れないだろうし、将来何かトラブルにみまわれた時、他に方法を知らないから、結局はこの教師たちと同じく善悪をうやむやにして問題を直視しない過ちを繰り返すだろう。
「中国が怒ると日本や日本経済にとって不利なので、チベット人の状況には目をつぶりましょう」と教えることは教育ではない。保身は教わらなくても身についている人間の業だ。それよりも、「ダライラマは亡命先で難民社会を作り、そこで本土で否定されている自国の文化を必死で護っています。その文化に基づいて世界平和に貢献してきたため、ダライラマは一難民でありながら今や国際的に道徳的権威となっています。」という奇跡を教えるのが教育ではないか。
チベット人の親たちは、なぜかわいい子供を手放して、危険なヒマラヤを越えさせるのであろうか。大きな理由としては難民社会が運営するチベット人学校では、教育が無料で受けられることが挙げられるが、さらにいえば、中国本土では受けることができない人格教育を受けられることがある。アル中やギャンブル狂の父親の下から、世界の聖者の下に子供たちを送り出すと思えるからこそ、母親は子供を手放すことができるのだ。
今まで、いじめ問題のように「なかった」ことにされてたチベット問題が、教科書に扱われるようになったことは非常に大きな前進である。チベット問題は今の日本の社会のあり方を考える上でも非常によい教材となるであろう。
日本の政治家位負け
話が前後するが、七月の初め中央チベット政府の外務大臣デキチュヤン氏(bde skyid chos dbyangs)が、7日に行われたチベット・ハウス主催のダライラマ法王の誕生日パーティの主賓となるために来日された。
デキチュヤン氏のプロフィールを簡単に言うと、彼女は亡命チベット人二世で、7才でカナダのモントリオールにわたり、カナダのマギル大学で経済の学士号をえた。次にゲルフ大で東チベットの学校教育を専門とし、中央ユーラシア研究と計画・国際開発の修士号を取得した。この関係で三年間中国本土に留学もしている。この結果、彼女はチベット語はむろんのこと、英語、フランス語に加え中国語も流暢に話すことができる。
誕生パーティで奉納されるチベット音楽は、前のエントリーで紹介したテンジンチューゲルと寺原太郎さんの歌と笛。ホテルで一番広い宴会場だったが、テンジンの声量にマイクが負けて、互いの会話がまったく聞こえなくなったため、例年になく参加者がまじめに舞台を注視していたのが笑えた。
このパーティに先立つ前日の6日、新宿常円寺において、外務大臣のスピーチが行われた(スーパーサンガ主催)。私はこれには参加しなかったのだが、参加された方が、質疑応答が面白かったというので録音をとりよせてみた。
人の耳は自分の聞きたい音を意識して拾い必要でない音を消すが、録音機は椅子のきしむ音から何から何まで音を拾うので、人の声、それも英語をよりわけて聞くのはとても大変だった。なので多少不正確でも許してたもれ。
まずデキチュヤン氏のお話を要約。
2011年、ダライラマ法王は政治のトップの地位をおり、チベット社会の民主化プロセスは完了しました。今年は法王が政治のトップから引退してはじめての誕生日です。この日を祝うにあたり、中央チベット政府の各大臣たちは、それぞれ分担して世界中に散ってチベット問題を訴えることとしました。私はアジア地域を担当し、これまでに台湾、韓国で法王の誕生日をお祝いし、明日は日本の会に出席した後インドに帰る予定です。
本土チベットでは中国政府に抗議しての焼身自殺が続いています。焼身は2009年から始まり、現在に至までで41人に上ります。自殺者の内訳を見ると、僧侶もいれば俗人もおり、地域もチベット全土におよび、年齢も17才から60才と幅があります。〔つまりこれは特定の個人が特定の悩みを抱えた結果の自殺というものではないことが分かる〕焼身自殺などという出来事はチベット社会においても前例がありません。
1月に主席大臣ロプサン・センゲが焼身自殺をやめるようにとの緊急メッセージをビデオで流しましたが、憂うべき事態は続いています。自殺者は中国の抑圧に抗議するという明確に政治的な目的をもって死んでいます。彼らはみな「チベットに自由を、ダライラマ法王のチベットへの帰還を」と叫んでいます。チベット本土では、嘆願も許されず、デモを行っても逮捕されるため、焼身より他に手段がないのです。
中国政府はチベット人に〔愛国教育を施し〕マルクス主義レーニン主義を学ぶよう、ダライラマ法王を非難するように強制しています。遊牧は自然破壊だと決めつけ、遊牧民に定住化を強制しています。〔このような非道を行いつつも、〕中国政府は焼身自殺をした人は精神に問題があるなどと〔あたかも自殺者個人に問題があるかのように〕報道しています。ニューヨークタイムズが焼身自殺をしたツェリンキの遺族にインタビューをしていますが、それによると、ツェリンキは、中国語でしか教育がうけられないことに絶望していたといいます。遊牧民だった彼女は、12才になってやっと入った学校でした。
2008年のチベット蜂起以後、〔時間がたち〕チベットに対する関心は下がってきていましたが、焼身自殺の頻発を受けてまた関心が高まっています。中国政府はチベットに巨額の投資をしたとアピールしますが、これはチベット人の心にはまったく響いていません。
質問者 1
1. タシテレ。日本共産党志位委員長が党員数が40万人から31万人に減少したと公式に発表した。日本共産党に限らず、世界中の共産党が衰退としているが、このことはチベット亡命政府の政策に影響するか。
2. インド共産党はチベット亡命政府にいかなる態度をとっているか
3. 今回の来日でどの政党を訪問するのか。アムネスティの事務局とか日本共産党とかを訪問するのか。
デキチュヤン 答え
質問をきちんと準備されているのに驚きました。まずわたしたちの政府の呼び名ついて話したいと思います。チベット亡命政府は去年よりチベット中央政府と改称しました。どこの国においてもこの政府は共産党とは独立した存在です。
インドの共産党に関してですが、一般的にいってインドの社会と政府はチベット人にとって非常に寛容で温かい存在です。亡命直後に定住する土地を提供してくださり、行政の活動ができる場を提供してくれました。私自身は大臣に任命されてまだ10ヶ月、つまり一年に満たないこともあってインドの共産党とは直接のコンタクトをとっていません。私の見る限り、欧米、インドにあるチベット人社会は、宗教的な指導者ダライラマが、選挙によって選ばれたリーダーにとって変わったことに若干居心地の悪さを感じているようです。
〔日本の〕様々な党の議員の方々が後援してくださっています。今回の来日はもちろん法王の誕生パーティをお祝いすることが第一義ですが、日本は根気強く安定して絆を深めてきた国ですので、その友情を確認するという意味もあります。
日本は何度もチベットに共感を示してくれました。法王の来日は何度も実現していますし、私達〔チベット中央政府〕の代表センゲ氏も来日することができました。世界の国の中には私達が訪れることができない韓国、南アフリカなどの国があります。〔それに比較すると入国ビザを出す日本は、チベットに同情的ということ〕
続いて質問者2 は、いきなり中国語で質問をはじめた。すると外務大臣は中国語で「日本語しゃべれるのか」と聞き、質問者は日本語でしゃべりだした。それにしても海外在住のチベット難民に中国語で話しかけるとは失礼な話である(本土チベット人でも失礼である)。しかし、このイミフな質問者に対して大臣がちゃんと中国語できりかえしたのは、かっこよかった。
質問者 2
ダライラマ法王の特使二人(中国政府と話合いのために任命された)が辞任した理由として、中国共産党との話合いがうまくいかなかったこと、あるいは、チベット本土で頻発している焼身自殺は今の難民政府があおっているので、それに抗議をするためにやめたという説があるが、どちらの説が正しいのか真相を教えてください。
答え 今おっしゃっているのは、去年の六月、ダライラマ法王の特使をつとめられていたロディ・ギャリ、ケルサン・ゲルツェンのお二人が辞職したことを指していますね。お二人が辞職された理由は、中国政府からの回答がないことに対する不満と、本土チベットの焼身自殺問題です。彼らは九回中国と話合いをもち、最後の対話は二年前に行われました。法王は中国の憲法の範囲内でチベットの真の自治を実現することを提案しています。
質問者 3
日本の大学には、中国政府を批判して民主化を唱える在日中国人の大学教授がいます。その方とお話した時、「チベットが自治を唱える分には応援するが、独立は賛成しない」というので、「なぜですか」と聞くと「怖い」とのこと。「チベット人から仕返しをされるのが怖い」とおっしゃっていました。そういう方に対するメッセージがあればお願いしたいです。
答え 私も中国人と会う機会がありますが、中国人の中にもチベットの独立を支持する人はいます。しかし非常に少数です。中国人がチベット人をどうみているかを心理学的に見ると非常に興味深いです。言論の自由や民主化を唱えているような人でも、いったんチベット問題に話が及ぶと非常に微妙な態度をとります。彼らには自分の持ちものがとられるような感覚があるようです。
なぜ彼らがこのような反応をするのかは育ってきた環境にによります。歴史を教わる時にチベットは中国の一部であると教えられ、2008年のチベット蜂起時の国営メディアの報道も国内の暴動として報道しても、チベット人が中国政府に抗議して蜂起したと報道することはありません。2008年には300以上の抗議活動がおきました。国営メディアはこれも暴動と片付けようとしましたが、知識人はチベット問題を国内の暴動とするのは不正確であるという意見がでました(劉暁波の08憲章のことか)。
このような国営メディアの報道は様々な実害をチベット人に与えています。成都のような大都市をチベット僧が旅すると〔差別によって〕タクシーがとまってくれません。
質問者 4
中国の仏教徒はこの問題についてはどのような態度でしょうか。
答え 良い質問です。仏教は七世紀にチベットに入りましたが、中国仏教はそれよりも前に中国に入りました。ダライラマ法王に対して敬意もつ中国人も多いです。本土の中国仏教徒と深く語り合った経験はないですが、自治を支持する人はいても独立を支持する人は少ないという感じはします。
台湾の人々は、「チベットでおきていることは台湾でもおきうること」と思っています。中国が宗教に対して、僧院に対して、僧侶に対して今どのような扱いをしているのかは、台湾が中国の支配下に入った時、彼らの身に直接起こることを示しているからです。中国人の仏教徒にとっても、中国政府のチベットの僧院に対する弾圧は人ごとではありません。チベットで何世紀も保存されてきた仏教が今滅びようとしています。チベット問題はただの政治問題ではありません。チベット文化、民族の生き残りをかけた問題なのです。
国際社会はチベット問題をどうみているでしょうか。多くの人が平和を口にし、原理主義やテロリズムへの反対の姿勢を示します。われわれがこれまでやってきた非暴力についても国際社会が認めてきたことです。私たちにとって非暴力とは政治的な戦略ではありません。我々の伝統であるチベット仏教の基本的な思想に基づいた原則であり、物事を根本的に解決する方法として採用しているものです。非暴力がたとえ効率の悪い戦い方でも、すぐに結果がだせるものでなくとも、我々がそれを続け、その意味を国際社会が理解してくれることが重要なのです。
海外のマスコミからよくこう聞かれます。「非暴力をつらぬいても結果が出ていないではないか。他に選択肢があるのか」と。私たちは結果が出る、出ない、支持が得られる、得られないなどを基準に非暴力を採用したわけではなく、我々の文化の原則に忠実であり、根本的な解決をもたらすが故に採用しているのです。真実・正義を求めて非暴力をつらぬいているのです。
質問者 5
誘拐されたパンチェンラマについて。
答え パンチェンラマはゲルク派において、ダライラマにつぐポジションを占める高僧です。1989年にパンチェンラマが逝去された際、ダライラマ法王はパンチェンラマの生まれ変わりを探して認定しましたが、中国政府は彼を拉致し、かわりに別の少年をパンチェンラマへと認定しました。今は二十代となったこの青年は香港のイベントにパンチェンラマとして出席しています。中国政府が宗教に介入しているのです。この青年は政治的な道具として利用されているだけで罪はありません。ダライラマの認定したパンチェンラマの消息は以前不明のままです。
質問者 6
「宗派をこえてチベットの平和を祈念する会」の者です。各宗派の本山はみな中国寄りです。日本の経済と同じで中国の方しか向いていません。仏教は本来経済とは違う価値を説くものです。われわれ心ある僧侶が集まってフリーチベットを応援しています。日本では来週お盆です。日本のお坊さんは先祖供養しかしません。われわれは少ない人数ですが、こういう地道な活動を行っています。こういう心ある僧侶もいるということをお伝えしたいと思います。
以上。
私は翌日の法王誕生パーティでデキチュヤン氏のナマのお姿をはじめて拝見したのだが、四月のセンゲ首相の時と同じく、まあなんてこう頭が良く、マナーを心得た、品のあるそして堂々とした人なのかしらと感銘を受けた。彼らは英語を始めとして数カ国語をぺらぺらに操り、どのような質問にもたんたんと答え、そして物怖じしない。
十万人ちょっとの難民社会の代表なのに、一億三千万人の日本人から選ばれた日本の首相や大臣たちよりも遙かに大きな人間性と能力の高さを感じる。
余談だが、今度早稲田に野田首相が呼ばれるらしいが、これに批判的な先生方が配っていたビラによると、首相スピーチの際に大隈講堂に入れるのは抽選にあたった一部の人で、警察に個人情報をすべて差し出し(前回江沢民の時に本当に大学はそうした)、質問もあらかじめ受け付けたものだけ、とのことである。
一方、ダライラマ法王は、質問者に制限を設けたことはない。どのような質問にもつねに誠実に、ある時は分からないと明るく笑いとばしながら答えている。
このことを学生たちに話すと、とある学生「それはチベット難民社会が小さくて、おかしな人を選んだらつぶれちゃうからですよ。大企業にいくほど、上層部におかしな人間がふえ、小さい企業ほど経営陣がしっかりしているのも同じことですよ」と言われた。
そういえば、チベットも国が安泰の時にはダライラマ九世から十二世はみな成人前に夭折していた。そしてチベットが国難に見舞われた時から、突然英傑なダライラマ、十三世と十四世が連続して出現した。災難が大きければ大きいほど、多くのものが失われるがその灰の中から、輝きだすものもある。
日本もいい加減国難続きなのだから、そろそろ、チベットの政治家の前で位負けしない、頭がよくて、高潔な意見をブレることなく主張できて、どんな状況も軽くいなすことのできる、堂々とした政治家がでてきてもいいはず。てか、出てこないとこの国は沈む。
デキチュヤン氏のプロフィールを簡単に言うと、彼女は亡命チベット人二世で、7才でカナダのモントリオールにわたり、カナダのマギル大学で経済の学士号をえた。次にゲルフ大で東チベットの学校教育を専門とし、中央ユーラシア研究と計画・国際開発の修士号を取得した。この関係で三年間中国本土に留学もしている。この結果、彼女はチベット語はむろんのこと、英語、フランス語に加え中国語も流暢に話すことができる。
誕生パーティで奉納されるチベット音楽は、前のエントリーで紹介したテンジンチューゲルと寺原太郎さんの歌と笛。ホテルで一番広い宴会場だったが、テンジンの声量にマイクが負けて、互いの会話がまったく聞こえなくなったため、例年になく参加者がまじめに舞台を注視していたのが笑えた。
このパーティに先立つ前日の6日、新宿常円寺において、外務大臣のスピーチが行われた(スーパーサンガ主催)。私はこれには参加しなかったのだが、参加された方が、質疑応答が面白かったというので録音をとりよせてみた。
人の耳は自分の聞きたい音を意識して拾い必要でない音を消すが、録音機は椅子のきしむ音から何から何まで音を拾うので、人の声、それも英語をよりわけて聞くのはとても大変だった。なので多少不正確でも許してたもれ。
まずデキチュヤン氏のお話を要約。
2011年、ダライラマ法王は政治のトップの地位をおり、チベット社会の民主化プロセスは完了しました。今年は法王が政治のトップから引退してはじめての誕生日です。この日を祝うにあたり、中央チベット政府の各大臣たちは、それぞれ分担して世界中に散ってチベット問題を訴えることとしました。私はアジア地域を担当し、これまでに台湾、韓国で法王の誕生日をお祝いし、明日は日本の会に出席した後インドに帰る予定です。
本土チベットでは中国政府に抗議しての焼身自殺が続いています。焼身は2009年から始まり、現在に至までで41人に上ります。自殺者の内訳を見ると、僧侶もいれば俗人もおり、地域もチベット全土におよび、年齢も17才から60才と幅があります。〔つまりこれは特定の個人が特定の悩みを抱えた結果の自殺というものではないことが分かる〕焼身自殺などという出来事はチベット社会においても前例がありません。
1月に主席大臣ロプサン・センゲが焼身自殺をやめるようにとの緊急メッセージをビデオで流しましたが、憂うべき事態は続いています。自殺者は中国の抑圧に抗議するという明確に政治的な目的をもって死んでいます。彼らはみな「チベットに自由を、ダライラマ法王のチベットへの帰還を」と叫んでいます。チベット本土では、嘆願も許されず、デモを行っても逮捕されるため、焼身より他に手段がないのです。
中国政府はチベット人に〔愛国教育を施し〕マルクス主義レーニン主義を学ぶよう、ダライラマ法王を非難するように強制しています。遊牧は自然破壊だと決めつけ、遊牧民に定住化を強制しています。〔このような非道を行いつつも、〕中国政府は焼身自殺をした人は精神に問題があるなどと〔あたかも自殺者個人に問題があるかのように〕報道しています。ニューヨークタイムズが焼身自殺をしたツェリンキの遺族にインタビューをしていますが、それによると、ツェリンキは、中国語でしか教育がうけられないことに絶望していたといいます。遊牧民だった彼女は、12才になってやっと入った学校でした。
2008年のチベット蜂起以後、〔時間がたち〕チベットに対する関心は下がってきていましたが、焼身自殺の頻発を受けてまた関心が高まっています。中国政府はチベットに巨額の投資をしたとアピールしますが、これはチベット人の心にはまったく響いていません。
質問者 1
1. タシテレ。日本共産党志位委員長が党員数が40万人から31万人に減少したと公式に発表した。日本共産党に限らず、世界中の共産党が衰退としているが、このことはチベット亡命政府の政策に影響するか。
2. インド共産党はチベット亡命政府にいかなる態度をとっているか
3. 今回の来日でどの政党を訪問するのか。アムネスティの事務局とか日本共産党とかを訪問するのか。
デキチュヤン 答え
質問をきちんと準備されているのに驚きました。まずわたしたちの政府の呼び名ついて話したいと思います。チベット亡命政府は去年よりチベット中央政府と改称しました。どこの国においてもこの政府は共産党とは独立した存在です。
インドの共産党に関してですが、一般的にいってインドの社会と政府はチベット人にとって非常に寛容で温かい存在です。亡命直後に定住する土地を提供してくださり、行政の活動ができる場を提供してくれました。私自身は大臣に任命されてまだ10ヶ月、つまり一年に満たないこともあってインドの共産党とは直接のコンタクトをとっていません。私の見る限り、欧米、インドにあるチベット人社会は、宗教的な指導者ダライラマが、選挙によって選ばれたリーダーにとって変わったことに若干居心地の悪さを感じているようです。
〔日本の〕様々な党の議員の方々が後援してくださっています。今回の来日はもちろん法王の誕生パーティをお祝いすることが第一義ですが、日本は根気強く安定して絆を深めてきた国ですので、その友情を確認するという意味もあります。
日本は何度もチベットに共感を示してくれました。法王の来日は何度も実現していますし、私達〔チベット中央政府〕の代表センゲ氏も来日することができました。世界の国の中には私達が訪れることができない韓国、南アフリカなどの国があります。〔それに比較すると入国ビザを出す日本は、チベットに同情的ということ〕
続いて質問者2 は、いきなり中国語で質問をはじめた。すると外務大臣は中国語で「日本語しゃべれるのか」と聞き、質問者は日本語でしゃべりだした。それにしても海外在住のチベット難民に中国語で話しかけるとは失礼な話である(本土チベット人でも失礼である)。しかし、このイミフな質問者に対して大臣がちゃんと中国語できりかえしたのは、かっこよかった。
質問者 2
ダライラマ法王の特使二人(中国政府と話合いのために任命された)が辞任した理由として、中国共産党との話合いがうまくいかなかったこと、あるいは、チベット本土で頻発している焼身自殺は今の難民政府があおっているので、それに抗議をするためにやめたという説があるが、どちらの説が正しいのか真相を教えてください。
答え 今おっしゃっているのは、去年の六月、ダライラマ法王の特使をつとめられていたロディ・ギャリ、ケルサン・ゲルツェンのお二人が辞職したことを指していますね。お二人が辞職された理由は、中国政府からの回答がないことに対する不満と、本土チベットの焼身自殺問題です。彼らは九回中国と話合いをもち、最後の対話は二年前に行われました。法王は中国の憲法の範囲内でチベットの真の自治を実現することを提案しています。
質問者 3
日本の大学には、中国政府を批判して民主化を唱える在日中国人の大学教授がいます。その方とお話した時、「チベットが自治を唱える分には応援するが、独立は賛成しない」というので、「なぜですか」と聞くと「怖い」とのこと。「チベット人から仕返しをされるのが怖い」とおっしゃっていました。そういう方に対するメッセージがあればお願いしたいです。
答え 私も中国人と会う機会がありますが、中国人の中にもチベットの独立を支持する人はいます。しかし非常に少数です。中国人がチベット人をどうみているかを心理学的に見ると非常に興味深いです。言論の自由や民主化を唱えているような人でも、いったんチベット問題に話が及ぶと非常に微妙な態度をとります。彼らには自分の持ちものがとられるような感覚があるようです。
なぜ彼らがこのような反応をするのかは育ってきた環境にによります。歴史を教わる時にチベットは中国の一部であると教えられ、2008年のチベット蜂起時の国営メディアの報道も国内の暴動として報道しても、チベット人が中国政府に抗議して蜂起したと報道することはありません。2008年には300以上の抗議活動がおきました。国営メディアはこれも暴動と片付けようとしましたが、知識人はチベット問題を国内の暴動とするのは不正確であるという意見がでました(劉暁波の08憲章のことか)。
このような国営メディアの報道は様々な実害をチベット人に与えています。成都のような大都市をチベット僧が旅すると〔差別によって〕タクシーがとまってくれません。
質問者 4
中国の仏教徒はこの問題についてはどのような態度でしょうか。
答え 良い質問です。仏教は七世紀にチベットに入りましたが、中国仏教はそれよりも前に中国に入りました。ダライラマ法王に対して敬意もつ中国人も多いです。本土の中国仏教徒と深く語り合った経験はないですが、自治を支持する人はいても独立を支持する人は少ないという感じはします。
台湾の人々は、「チベットでおきていることは台湾でもおきうること」と思っています。中国が宗教に対して、僧院に対して、僧侶に対して今どのような扱いをしているのかは、台湾が中国の支配下に入った時、彼らの身に直接起こることを示しているからです。中国人の仏教徒にとっても、中国政府のチベットの僧院に対する弾圧は人ごとではありません。チベットで何世紀も保存されてきた仏教が今滅びようとしています。チベット問題はただの政治問題ではありません。チベット文化、民族の生き残りをかけた問題なのです。
国際社会はチベット問題をどうみているでしょうか。多くの人が平和を口にし、原理主義やテロリズムへの反対の姿勢を示します。われわれがこれまでやってきた非暴力についても国際社会が認めてきたことです。私たちにとって非暴力とは政治的な戦略ではありません。我々の伝統であるチベット仏教の基本的な思想に基づいた原則であり、物事を根本的に解決する方法として採用しているものです。非暴力がたとえ効率の悪い戦い方でも、すぐに結果がだせるものでなくとも、我々がそれを続け、その意味を国際社会が理解してくれることが重要なのです。
海外のマスコミからよくこう聞かれます。「非暴力をつらぬいても結果が出ていないではないか。他に選択肢があるのか」と。私たちは結果が出る、出ない、支持が得られる、得られないなどを基準に非暴力を採用したわけではなく、我々の文化の原則に忠実であり、根本的な解決をもたらすが故に採用しているのです。真実・正義を求めて非暴力をつらぬいているのです。
質問者 5
誘拐されたパンチェンラマについて。
答え パンチェンラマはゲルク派において、ダライラマにつぐポジションを占める高僧です。1989年にパンチェンラマが逝去された際、ダライラマ法王はパンチェンラマの生まれ変わりを探して認定しましたが、中国政府は彼を拉致し、かわりに別の少年をパンチェンラマへと認定しました。今は二十代となったこの青年は香港のイベントにパンチェンラマとして出席しています。中国政府が宗教に介入しているのです。この青年は政治的な道具として利用されているだけで罪はありません。ダライラマの認定したパンチェンラマの消息は以前不明のままです。
質問者 6
「宗派をこえてチベットの平和を祈念する会」の者です。各宗派の本山はみな中国寄りです。日本の経済と同じで中国の方しか向いていません。仏教は本来経済とは違う価値を説くものです。われわれ心ある僧侶が集まってフリーチベットを応援しています。日本では来週お盆です。日本のお坊さんは先祖供養しかしません。われわれは少ない人数ですが、こういう地道な活動を行っています。こういう心ある僧侶もいるということをお伝えしたいと思います。
以上。
私は翌日の法王誕生パーティでデキチュヤン氏のナマのお姿をはじめて拝見したのだが、四月のセンゲ首相の時と同じく、まあなんてこう頭が良く、マナーを心得た、品のあるそして堂々とした人なのかしらと感銘を受けた。彼らは英語を始めとして数カ国語をぺらぺらに操り、どのような質問にもたんたんと答え、そして物怖じしない。
十万人ちょっとの難民社会の代表なのに、一億三千万人の日本人から選ばれた日本の首相や大臣たちよりも遙かに大きな人間性と能力の高さを感じる。
余談だが、今度早稲田に野田首相が呼ばれるらしいが、これに批判的な先生方が配っていたビラによると、首相スピーチの際に大隈講堂に入れるのは抽選にあたった一部の人で、警察に個人情報をすべて差し出し(前回江沢民の時に本当に大学はそうした)、質問もあらかじめ受け付けたものだけ、とのことである。
一方、ダライラマ法王は、質問者に制限を設けたことはない。どのような質問にもつねに誠実に、ある時は分からないと明るく笑いとばしながら答えている。
このことを学生たちに話すと、とある学生「それはチベット難民社会が小さくて、おかしな人を選んだらつぶれちゃうからですよ。大企業にいくほど、上層部におかしな人間がふえ、小さい企業ほど経営陣がしっかりしているのも同じことですよ」と言われた。
そういえば、チベットも国が安泰の時にはダライラマ九世から十二世はみな成人前に夭折していた。そしてチベットが国難に見舞われた時から、突然英傑なダライラマ、十三世と十四世が連続して出現した。災難が大きければ大きいほど、多くのものが失われるがその灰の中から、輝きだすものもある。
日本もいい加減国難続きなのだから、そろそろ、チベットの政治家の前で位負けしない、頭がよくて、高潔な意見をブレることなく主張できて、どんな状況も軽くいなすことのできる、堂々とした政治家がでてきてもいいはず。てか、出てこないとこの国は沈む。
テンジンのチャリティライブ
14日テンジン・チューゲル(bstan 'dzin chos rgyal)のSFTチャリティ・コンサートに行ってきた。
SFTはチベット問題を訴え、啓蒙するフリチベ組織。ニューヨークをはじめとして主要都市にSFTの支部があり、ゆるくネットワークしている。アースデーに出店したり、今回のようなチャリティ・コンサートやったりとか。ちなみに、日本のSFTは平均30代から40代か?
会場は金沢文庫の浅羽アートスクエア。ふだんアートを教えている教室が会場となり、そこに入りきれない人は中庭に面したカフェでビールやチャイを片手に、外で聞き、人の隙間を誰に属するか分からない裸足の幼女やミニチュア・ダックスがぺたぺた歩きまわっているという、ヒッピー臭のする集まりであった。
この日は、梅雨の晴れ間で、やや風があり、その風が遮光のために中庭にはられた白い絵柄のはいった布をあおり、セミの鳴き声がするという、小学生の夏休みを思い出させる懐かしい感じの空間だった。

まずはじめに、SFTのツェリンドルジェの挨拶。以下、ツェリンドルジェは赤、テンジン・チューゲルは緑、地の文は黒で行きたいと思います。
ツェリンドルジェ「2008年のオリンピックの年にチベットが蜂起し、その年日本のSFTは再起動しました*(一度休眠している 笑)。その後、日本には大きな地震がおき、津波がきて、チベットをサポートしてくださった多くの方が震災支援にうつっていかれました。日本も大変だと思います。そんな中、このチャリティ・ライブに集まってくださり本当にありがとうございました。面白い話をしましょう。実は、私たち何も打ち合わせをしていません(オイ)。じつは私とテンジン・チューゲルは昔なじみなのです。」
テンジン・チューゲル「私はミュージシャンなので音楽でコミニュケーションすることは得意ですが、話すのは苦手です。しかし、2008年のことがあり、私もチベットのために何かできないかと日本でライブをはじめました。しかし、お話をするのはこれが初めてです。私はムスタンとチベットの間にある地で生まれました。ツェリンドルジェもムスタンに生まれていて、お互いの母親同士は知り合いです。」
ツェリンドルジェ「60年代、ムスタンはCIAの支援を受けたチベットゲリラ*の本拠地となっていました。私の父はこのチベットゲリラの一員でした。母は遊牧民です。だからわたしたちは生まれた場所もとても近いのです。
説明しよう。「CIAとチベット」というドキュメンタリーによると、チベット人ゲリラはムスタンを本拠地としていた。ゲリラは中国人と戦いたかったのだが、彼らの任務の中心は、チベット内を走る郵便トラックなどをおそって当時外にほとんど知られることなかった中国内部の情報を得ることにあった。しかもダライラマ法王にはナイショの隠密行動。理由はもちろん猊下に知られたら絶対反対されるから。中国の国連加盟とともにゲリラは解散させられた。
ネットで調べてもテンジン・チューゲルの年が分からなかった。なので、テンジンを招聘した寺原百合子さんに伺ってみた。
私「難民はいろいろな事情で年を正確に言えない場合が多いですが、実際のところテンジンさん、おいくつなんですか」
寺原百合子さん「テンジンの父母は遊牧民だったので、月や星の位置は覚えていても、何年何月何日に生まれたという記憶はないらしいです。亡命して、学校に入る時、テンジンの弟の方がテンジンより背が高かったので、弟の方がちょっと年上ということになったらしいです」
私「なんて大ざっぱな。じゃあせめて10年刻みで何十代くらいは分かりませんか」。
寺原百合子さん「三十代後半らしいですよ」
というわけで、30代後半のテンジン・チューゲル「父がなくなったあと、母は道路工事の仕事をしながら、われわれ兄弟を育てました。やがてチベット子供村(TCV)の寮母の仕事を見つけてそこに就職しました。わたしもTCVに入りましたが、母の勤めていたTCVではなかったため、1年に二か月とれる休みの期間にしか、母と暮らせませんでした。ツェリンドルジェは二歳で母のつとめるTCVに入寮したので、母と1年のうち10ヶ月は一緒にいました。だから、母は私より、ツェリンドルジェのことをよく知っているばずです。」
TCVとはダライラマ法王が困難をきわめる難民の家庭から、ご存じ子供たちだけを集めてはじめた学校。英語・ヒンドゥー語・チベット文化が教えられるため、ここに入ったチベット人はチベット人性を保ちつつ、新しい環境で生き延びる教養を身につけることができた。
こうやって家族がバラバラになることは、チベット難民の世界ではよくあることでした。何も特別な話ではありません。三つの国で生きるこの難民としての体験は、みなさんは想像することはできないと思います。体験してみないと分からないと思います。」
「体験してみないとこれは分からない」同じことをアキャリンポチェもおっしゃっていた。中国に残ったものも、亡命したものもどちらも大変だったのだ。
ツェリンドルジェ「テンジンチューゲルのお母さんは私の第二のお母さんです。当時のTCVの状況は日本の戦中・戦後直後の混乱した貧しい時代を想像していただけると近いです。当事、教室はなく木の下で授業をしていました。テンジンチューゲルのお母さんも一人で54人の小さな子供たちの面倒をみていました。今から思えば大変だったろうと思います。毎日怒っていましたが、やさしかったです。愛をもって私たちを叱ってくれていました。」
「テンジンの兄はTIPA(ダライラマ法王がチベット音楽・舞踊の伝統を保存すべく設立した機関)の出身で、今はサンフランシスコにいます。テンジンはお兄さんの影響を受けた?」
テンジン・チューゲル「私と兄は別の施設で育ちましたから、兄の影響はありません。小さい頃から音楽が好きでした。TCVで日記をつけるという課題があったのですが、その日記にインドのボリウッドで歌手になりたいとつけたことを覚えています。音楽は私の人生です。」
それにしても、兄はサンフランシスコで舞踊をし、ツェリンドルジェは日本でSFTの活動をしていて、私はオーストラリアで音楽活動をし、そして今、日本で兄のことをツェリン・ドルジェと話ながらコンサートをやるなんて、思ってもみませんでした。」
ツェリンドルジェ「ナクマという音楽はどういう意味ですか。テンジンの歌と楽器の奏法にはすごくアラブなというか、古いものを感じるのだけど」
テンジン「ナクマとはカシミールのイスラーム教徒の音楽です。昔は多くのイスラーム商人がカシミールからラサに商売で訪れていました。そのような人達を介してチベットに入った旋律です。私は馬が軽快に走るリズムを思わせる遊牧民の音楽とか、ナクマのようなイスラーム商人の音楽とか、アムドとか、カムとか、あらゆる地域の音楽を取り入れています。だからどこの旋律とかいうことはありません。テンジンの音楽です(bstan 'dzin's sound)。」
チベットで今起きている問題は、チベットだけの問題ではありません、日本の問題でもあるし、世界の問題でもあります。私たちは非暴力で戦ってきました。世界中で起きる問題はすべてその根底は自分の欲望を通すために障害となるものに対してふるう暴力があります。我々の非暴力の戦いにはみなさんのサポートが必要です。みなさんのサポートがこの暴力に満ちた世界に変化をもたらすことかできます。
ツェリンドルジェ「世界はお金のあるところや(中国のことか?)、〔石〕油のでるところばかりに関心が向いていますが、非暴力の戦いは顧みられることはありません。今チベットでは中国政府の政策に抗議して焼身自殺が相次いで起きています。ラサで焼身自殺が起きた時は、中国政府が電話もインターネットもすべて切断してそれを外部に知らせまいとしました。
日本も地震とか津波とかで大変なことは重々承知しています。手紙一通を日本の政治家に出して戴けるだけでもいいのです。ご協力をお願いいたします」
質問者「チベット人は〔中国によってひきおこされた〕怒りや憎しみをどのようにコントロールしてこの非暴力の戦いに変えているのでしょうか」
テンジン「我々は子供の頃から〔仏になるための修行として〕慈悲と智慧をはぐくむように教えられています。これは非常に良い文化で、世界に対して貢献できる思想です。」
ツェリン「たとえば、三十年間中国の監獄に入れられていたパルデンギャムツォというお坊さんがいます。ダライラマ法王が彼に『監獄の中で何が一番つらかったか』と下問された際、パルデンギャムツォは『中国人に対して慈悲の心を失っていくのが一番怖かった』と言いました。自分を拷問しているような相手に対してもチベット人は慈悲をもちます。それが我々の文化なのです。世界に裨益できる思想でしょう。私たちの文化はあなたたちの心の中にも種としてあるものです。TCVでは虫も殺さないようにと教えられます。夏の暑い道の上でミミズが苦しんでいたら、日陰につれていってあげる、私達はそのようにしつけられてきました。そうでないチベット人もいますが(笑)。」
質問者「オーストラリアのフリーチベットと日本のフリー・チベットはどのように違いますか?」
ツェリン「SFTは世界組織ですので、もちろんオーストラリアにもあります。しかし、テンジンはそこで直接は活動していないので、たぶん事情をよくしらないと思います。日本は諸外国に比べるとよりチベット人によりそった活動をしています。日本には今チベット人が百人ほどいますが、前にでることができるのは、インドで生まれた難民二世だけです。中国本土に家族が残っている本土生まれのチベット人は、家族に累が及ぶことを畏れて、こういう席には顔を出せません。もちろんインド生まれの我々にも本土に親戚はいますが、半世紀以上バラバラなのでもう連絡もとれません。」

それから寺原太郎さんのバンスリーとともにテンジン・チューゲルのコンサート開始。 テンジン曰く「自分は音楽をしている時でもチベット人であることから逃げことはできない。だからどんな歌を歌っていても、チベット人の心を感じ取ってほしい」。一曲目はHeart Sutraそう『般若心経』である。『般若心経』の最後のあの有名なマントラ、ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー・ハラソー・ギャーテー・ボージー・ソワカをメロデイにしちゃうのである。
二曲目はジクテン ('jig rten)。ジクテンは「宇宙」という意味で、仏教でこの宇宙を構成するという四つの元素(四大)、日月、ターラー菩薩などによびかける壮大な曲である。
テンジンが弾くダムニェンは日本の三味線と同じく三線。楽器の胴体は美しい女性のようくびれていて、そのくびれの部分を足に固定して、演奏する。中央チベットの楽器だという。
それから鳥の歌。
寺原太郎さん「テンジンは鳥の歌が好きだよね。「次は何の歌?」と聞くと、『鳥の歌』。「次は何の曲」と聞くと『大きい鳥の歌』。「次は?」『黒い鳥の歌』という具合に、とにかく鳥の歌が好き。
鳥は国境なんて関係なく飛んでいきます。国境なんてものをひいたのは人間たちです。それはヒマラヤを隔てて二つに分断されたチベット人社会をも、鳥は軽々と越えていきます。本土のチベット人はインドのダライラマを思い、海外にでたチベット人たちは故郷のチベットを思い、鳥になって飛んでいきたいと思っています。」
「鳥の歌」が終わると次は「もう一つの鳥の歌(笑)」若い鳥の歌。
鳥の歌を歌うテンジンは本当に楽しそう。たぶん、テンジンはオーストラリアの鳥たちをみていて、これらの曲のインスピレーションを受けたのだと思う。オーストラリア大陸には肉食獣はいないため、固有種の鳥は性格が穏やかで優しい。かくいうマイ・バードごろう様(オカメインコ)もオーストラリア出身であるが、テンジンのように毎日楽しく歌っている。
間に、ゲニェン・テンジンとプンツォク・タシがテチュンの「平和のスノー・ライオン」をデュエット。スノー・ライオンとはチベット国旗にも描かれるチベットの象徴。プンツォクが歌詞をスマホで確認しながら歌っているのが笑えた。歌詞覚えてから出てこい(笑)。この二人もTCV出身。
雪の国チベットにはライオンがいる。
他の国にはいないスノー・ライオン(雪獅子)である。
〔ダライラマ〕法王、平和のスノー・ライオンである。
み心には慈悲という、獅子の青いたてがみ。
お言葉には真実という、獅子の咆哮
行動には、獅子奮迅の勇気。
この方こそ、平和のスノーライオン。世界の飾り。
この飾りが世界で勝利しますように。
雪の国チベットには大軍勢がいる。
他の国にはない聖なる軍隊がいる。
黄色い帽子をかぶった聖なる軍隊である。
体にまとった法衣は平和の鎧である。
手にもつ経帙は人々に利益をもたらす武器である。
非暴力が軍の戦略である。
これが平和の聖なる軍隊、世界の飾り。
この飾りが世界で勝利しますように。
最後から二曲目は観音のマントラ「オン・マ・ニ・ペ・メ・フン」。歌詞の内容は、「体は地上にあっても、心は天上にある。自分は今どこにいるかわからない」というもので、体は亡命先にあっても、心は本土チベットを思うよるべなさを歌ったものである。マントラなのでわれわれ観客も唱和する。サビを客席と共有するのは西洋音楽の手法だが、内容がなにしろマントラだから、ちょっと法会のような雰囲気になっていく。
最後のアンコールの曲は、つい最近にできた新曲。コンサートでサウンドチェックをしている中でできたものという。
テンジン「サウンドチェックというのは始める前に行うものだが、この曲を最後に歌うということは、終わるけど、これから新しく始まるという意味合いがあります。みなさんが協力してくれないとこの曲は歌えません。みなさん、『コルワ(輪廻)・カプ(針)キ(の)ツェモ(先)』と唱和してください。意味は、この煩悩うずまく現象世界は、針の先にのったように不安定なもの」というものです。
そしてテンジンがサビの弾き語りをはじめると、観客は「コルワ・カプキ・ツェモ」と通奏低音のように繰り返すという、これもまた、客観的にいえば念仏会のよう。しかし、テンジンの曲が伝統を押さえていてもどこかモダンなので、抹香臭くならない。
洋楽のようなフォークのような、しかし、法会のような不思議なコンサートであった。
演奏の合間に、主催者の寺原百合子さんから、テンジンの現住所であるオーストラリアの音楽事情について伺った。
寺原百合子さん「テンジンはオーストラリアで成功しています。オーストラリアは音楽が盛んで、全国でミュージック・フェスタが行われており、テンジンはひっぱりだこです。
中でも12月に行われるウッドフォード・フォーク・フェスティバル(woodford folk festival)は有名で、参加希望者が多数にのぼるため、同じミュージシャンは2年に一度しか参加できない規定になっていますが、テンジンは有名なので、特別に毎年参加しています。
民族音楽テントで、アボリジニの方たちなどと一緒に演奏しています。
ウッドフォードはテンジン・チューゲルの住むブリスベーンの郊外です。ブリズベンはゴールドコーストの北のちょっと南国なカンジのヒッピー臭いまちなんです。
2008年にチベットが蜂起した時、テンジンは自分もチベットのために何かしたい、と、ここブリスベーンでもチベット音楽祭り(Festival of Tibet)を組織しました。以来今年で四回目になります。結構大規模なチャリティ・コンサートです。今は、自分たちの作った曲にTCVのこどもたちのコーラスをつけてCD化するという、スクールプロジェクトを行っています。
コンサートの後は中庭でみなで歓談。なんか精神的にBBCをやったような、リア充体験だった。
SFTはチベット問題を訴え、啓蒙するフリチベ組織。ニューヨークをはじめとして主要都市にSFTの支部があり、ゆるくネットワークしている。アースデーに出店したり、今回のようなチャリティ・コンサートやったりとか。ちなみに、日本のSFTは平均30代から40代か?
会場は金沢文庫の浅羽アートスクエア。ふだんアートを教えている教室が会場となり、そこに入りきれない人は中庭に面したカフェでビールやチャイを片手に、外で聞き、人の隙間を誰に属するか分からない裸足の幼女やミニチュア・ダックスがぺたぺた歩きまわっているという、ヒッピー臭のする集まりであった。
この日は、梅雨の晴れ間で、やや風があり、その風が遮光のために中庭にはられた白い絵柄のはいった布をあおり、セミの鳴き声がするという、小学生の夏休みを思い出させる懐かしい感じの空間だった。

まずはじめに、SFTのツェリンドルジェの挨拶。以下、ツェリンドルジェは赤、テンジン・チューゲルは緑、地の文は黒で行きたいと思います。
ツェリンドルジェ「2008年のオリンピックの年にチベットが蜂起し、その年日本のSFTは再起動しました*(一度休眠している 笑)。その後、日本には大きな地震がおき、津波がきて、チベットをサポートしてくださった多くの方が震災支援にうつっていかれました。日本も大変だと思います。そんな中、このチャリティ・ライブに集まってくださり本当にありがとうございました。面白い話をしましょう。実は、私たち何も打ち合わせをしていません(オイ)。じつは私とテンジン・チューゲルは昔なじみなのです。」
テンジン・チューゲル「私はミュージシャンなので音楽でコミニュケーションすることは得意ですが、話すのは苦手です。しかし、2008年のことがあり、私もチベットのために何かできないかと日本でライブをはじめました。しかし、お話をするのはこれが初めてです。私はムスタンとチベットの間にある地で生まれました。ツェリンドルジェもムスタンに生まれていて、お互いの母親同士は知り合いです。」
ツェリンドルジェ「60年代、ムスタンはCIAの支援を受けたチベットゲリラ*の本拠地となっていました。私の父はこのチベットゲリラの一員でした。母は遊牧民です。だからわたしたちは生まれた場所もとても近いのです。
説明しよう。「CIAとチベット」というドキュメンタリーによると、チベット人ゲリラはムスタンを本拠地としていた。ゲリラは中国人と戦いたかったのだが、彼らの任務の中心は、チベット内を走る郵便トラックなどをおそって当時外にほとんど知られることなかった中国内部の情報を得ることにあった。しかもダライラマ法王にはナイショの隠密行動。理由はもちろん猊下に知られたら絶対反対されるから。中国の国連加盟とともにゲリラは解散させられた。
ネットで調べてもテンジン・チューゲルの年が分からなかった。なので、テンジンを招聘した寺原百合子さんに伺ってみた。
私「難民はいろいろな事情で年を正確に言えない場合が多いですが、実際のところテンジンさん、おいくつなんですか」
寺原百合子さん「テンジンの父母は遊牧民だったので、月や星の位置は覚えていても、何年何月何日に生まれたという記憶はないらしいです。亡命して、学校に入る時、テンジンの弟の方がテンジンより背が高かったので、弟の方がちょっと年上ということになったらしいです」
私「なんて大ざっぱな。じゃあせめて10年刻みで何十代くらいは分かりませんか」。
寺原百合子さん「三十代後半らしいですよ」
というわけで、30代後半のテンジン・チューゲル「父がなくなったあと、母は道路工事の仕事をしながら、われわれ兄弟を育てました。やがてチベット子供村(TCV)の寮母の仕事を見つけてそこに就職しました。わたしもTCVに入りましたが、母の勤めていたTCVではなかったため、1年に二か月とれる休みの期間にしか、母と暮らせませんでした。ツェリンドルジェは二歳で母のつとめるTCVに入寮したので、母と1年のうち10ヶ月は一緒にいました。だから、母は私より、ツェリンドルジェのことをよく知っているばずです。」
TCVとはダライラマ法王が困難をきわめる難民の家庭から、ご存じ子供たちだけを集めてはじめた学校。英語・ヒンドゥー語・チベット文化が教えられるため、ここに入ったチベット人はチベット人性を保ちつつ、新しい環境で生き延びる教養を身につけることができた。
こうやって家族がバラバラになることは、チベット難民の世界ではよくあることでした。何も特別な話ではありません。三つの国で生きるこの難民としての体験は、みなさんは想像することはできないと思います。体験してみないと分からないと思います。」
「体験してみないとこれは分からない」同じことをアキャリンポチェもおっしゃっていた。中国に残ったものも、亡命したものもどちらも大変だったのだ。
ツェリンドルジェ「テンジンチューゲルのお母さんは私の第二のお母さんです。当時のTCVの状況は日本の戦中・戦後直後の混乱した貧しい時代を想像していただけると近いです。当事、教室はなく木の下で授業をしていました。テンジンチューゲルのお母さんも一人で54人の小さな子供たちの面倒をみていました。今から思えば大変だったろうと思います。毎日怒っていましたが、やさしかったです。愛をもって私たちを叱ってくれていました。」
「テンジンの兄はTIPA(ダライラマ法王がチベット音楽・舞踊の伝統を保存すべく設立した機関)の出身で、今はサンフランシスコにいます。テンジンはお兄さんの影響を受けた?」
テンジン・チューゲル「私と兄は別の施設で育ちましたから、兄の影響はありません。小さい頃から音楽が好きでした。TCVで日記をつけるという課題があったのですが、その日記にインドのボリウッドで歌手になりたいとつけたことを覚えています。音楽は私の人生です。」
それにしても、兄はサンフランシスコで舞踊をし、ツェリンドルジェは日本でSFTの活動をしていて、私はオーストラリアで音楽活動をし、そして今、日本で兄のことをツェリン・ドルジェと話ながらコンサートをやるなんて、思ってもみませんでした。」
ツェリンドルジェ「ナクマという音楽はどういう意味ですか。テンジンの歌と楽器の奏法にはすごくアラブなというか、古いものを感じるのだけど」
テンジン「ナクマとはカシミールのイスラーム教徒の音楽です。昔は多くのイスラーム商人がカシミールからラサに商売で訪れていました。そのような人達を介してチベットに入った旋律です。私は馬が軽快に走るリズムを思わせる遊牧民の音楽とか、ナクマのようなイスラーム商人の音楽とか、アムドとか、カムとか、あらゆる地域の音楽を取り入れています。だからどこの旋律とかいうことはありません。テンジンの音楽です(bstan 'dzin's sound)。」
チベットで今起きている問題は、チベットだけの問題ではありません、日本の問題でもあるし、世界の問題でもあります。私たちは非暴力で戦ってきました。世界中で起きる問題はすべてその根底は自分の欲望を通すために障害となるものに対してふるう暴力があります。我々の非暴力の戦いにはみなさんのサポートが必要です。みなさんのサポートがこの暴力に満ちた世界に変化をもたらすことかできます。
ツェリンドルジェ「世界はお金のあるところや(中国のことか?)、〔石〕油のでるところばかりに関心が向いていますが、非暴力の戦いは顧みられることはありません。今チベットでは中国政府の政策に抗議して焼身自殺が相次いで起きています。ラサで焼身自殺が起きた時は、中国政府が電話もインターネットもすべて切断してそれを外部に知らせまいとしました。
日本も地震とか津波とかで大変なことは重々承知しています。手紙一通を日本の政治家に出して戴けるだけでもいいのです。ご協力をお願いいたします」
質問者「チベット人は〔中国によってひきおこされた〕怒りや憎しみをどのようにコントロールしてこの非暴力の戦いに変えているのでしょうか」
テンジン「我々は子供の頃から〔仏になるための修行として〕慈悲と智慧をはぐくむように教えられています。これは非常に良い文化で、世界に対して貢献できる思想です。」
ツェリン「たとえば、三十年間中国の監獄に入れられていたパルデンギャムツォというお坊さんがいます。ダライラマ法王が彼に『監獄の中で何が一番つらかったか』と下問された際、パルデンギャムツォは『中国人に対して慈悲の心を失っていくのが一番怖かった』と言いました。自分を拷問しているような相手に対してもチベット人は慈悲をもちます。それが我々の文化なのです。世界に裨益できる思想でしょう。私たちの文化はあなたたちの心の中にも種としてあるものです。TCVでは虫も殺さないようにと教えられます。夏の暑い道の上でミミズが苦しんでいたら、日陰につれていってあげる、私達はそのようにしつけられてきました。そうでないチベット人もいますが(笑)。」
質問者「オーストラリアのフリーチベットと日本のフリー・チベットはどのように違いますか?」
ツェリン「SFTは世界組織ですので、もちろんオーストラリアにもあります。しかし、テンジンはそこで直接は活動していないので、たぶん事情をよくしらないと思います。日本は諸外国に比べるとよりチベット人によりそった活動をしています。日本には今チベット人が百人ほどいますが、前にでることができるのは、インドで生まれた難民二世だけです。中国本土に家族が残っている本土生まれのチベット人は、家族に累が及ぶことを畏れて、こういう席には顔を出せません。もちろんインド生まれの我々にも本土に親戚はいますが、半世紀以上バラバラなのでもう連絡もとれません。」

それから寺原太郎さんのバンスリーとともにテンジン・チューゲルのコンサート開始。 テンジン曰く「自分は音楽をしている時でもチベット人であることから逃げことはできない。だからどんな歌を歌っていても、チベット人の心を感じ取ってほしい」。一曲目はHeart Sutraそう『般若心経』である。『般若心経』の最後のあの有名なマントラ、ギャーテーギャーテーハーラーギャーテー・ハラソー・ギャーテー・ボージー・ソワカをメロデイにしちゃうのである。
二曲目はジクテン ('jig rten)。ジクテンは「宇宙」という意味で、仏教でこの宇宙を構成するという四つの元素(四大)、日月、ターラー菩薩などによびかける壮大な曲である。
テンジンが弾くダムニェンは日本の三味線と同じく三線。楽器の胴体は美しい女性のようくびれていて、そのくびれの部分を足に固定して、演奏する。中央チベットの楽器だという。
それから鳥の歌。
寺原太郎さん「テンジンは鳥の歌が好きだよね。「次は何の歌?」と聞くと、『鳥の歌』。「次は何の曲」と聞くと『大きい鳥の歌』。「次は?」『黒い鳥の歌』という具合に、とにかく鳥の歌が好き。
鳥は国境なんて関係なく飛んでいきます。国境なんてものをひいたのは人間たちです。それはヒマラヤを隔てて二つに分断されたチベット人社会をも、鳥は軽々と越えていきます。本土のチベット人はインドのダライラマを思い、海外にでたチベット人たちは故郷のチベットを思い、鳥になって飛んでいきたいと思っています。」
「鳥の歌」が終わると次は「もう一つの鳥の歌(笑)」若い鳥の歌。
鳥の歌を歌うテンジンは本当に楽しそう。たぶん、テンジンはオーストラリアの鳥たちをみていて、これらの曲のインスピレーションを受けたのだと思う。オーストラリア大陸には肉食獣はいないため、固有種の鳥は性格が穏やかで優しい。かくいうマイ・バードごろう様(オカメインコ)もオーストラリア出身であるが、テンジンのように毎日楽しく歌っている。
間に、ゲニェン・テンジンとプンツォク・タシがテチュンの「平和のスノー・ライオン」をデュエット。スノー・ライオンとはチベット国旗にも描かれるチベットの象徴。プンツォクが歌詞をスマホで確認しながら歌っているのが笑えた。歌詞覚えてから出てこい(笑)。この二人もTCV出身。
雪の国チベットにはライオンがいる。
他の国にはいないスノー・ライオン(雪獅子)である。
〔ダライラマ〕法王、平和のスノー・ライオンである。
み心には慈悲という、獅子の青いたてがみ。
お言葉には真実という、獅子の咆哮
行動には、獅子奮迅の勇気。
この方こそ、平和のスノーライオン。世界の飾り。
この飾りが世界で勝利しますように。
雪の国チベットには大軍勢がいる。
他の国にはない聖なる軍隊がいる。
黄色い帽子をかぶった聖なる軍隊である。
体にまとった法衣は平和の鎧である。
手にもつ経帙は人々に利益をもたらす武器である。
非暴力が軍の戦略である。
これが平和の聖なる軍隊、世界の飾り。
この飾りが世界で勝利しますように。
最後から二曲目は観音のマントラ「オン・マ・ニ・ペ・メ・フン」。歌詞の内容は、「体は地上にあっても、心は天上にある。自分は今どこにいるかわからない」というもので、体は亡命先にあっても、心は本土チベットを思うよるべなさを歌ったものである。マントラなのでわれわれ観客も唱和する。サビを客席と共有するのは西洋音楽の手法だが、内容がなにしろマントラだから、ちょっと法会のような雰囲気になっていく。
最後のアンコールの曲は、つい最近にできた新曲。コンサートでサウンドチェックをしている中でできたものという。
テンジン「サウンドチェックというのは始める前に行うものだが、この曲を最後に歌うということは、終わるけど、これから新しく始まるという意味合いがあります。みなさんが協力してくれないとこの曲は歌えません。みなさん、『コルワ(輪廻)・カプ(針)キ(の)ツェモ(先)』と唱和してください。意味は、この煩悩うずまく現象世界は、針の先にのったように不安定なもの」というものです。
そしてテンジンがサビの弾き語りをはじめると、観客は「コルワ・カプキ・ツェモ」と通奏低音のように繰り返すという、これもまた、客観的にいえば念仏会のよう。しかし、テンジンの曲が伝統を押さえていてもどこかモダンなので、抹香臭くならない。
洋楽のようなフォークのような、しかし、法会のような不思議なコンサートであった。
演奏の合間に、主催者の寺原百合子さんから、テンジンの現住所であるオーストラリアの音楽事情について伺った。
寺原百合子さん「テンジンはオーストラリアで成功しています。オーストラリアは音楽が盛んで、全国でミュージック・フェスタが行われており、テンジンはひっぱりだこです。
中でも12月に行われるウッドフォード・フォーク・フェスティバル(woodford folk festival)は有名で、参加希望者が多数にのぼるため、同じミュージシャンは2年に一度しか参加できない規定になっていますが、テンジンは有名なので、特別に毎年参加しています。
民族音楽テントで、アボリジニの方たちなどと一緒に演奏しています。
ウッドフォードはテンジン・チューゲルの住むブリスベーンの郊外です。ブリズベンはゴールドコーストの北のちょっと南国なカンジのヒッピー臭いまちなんです。
2008年にチベットが蜂起した時、テンジンは自分もチベットのために何かしたい、と、ここブリスベーンでもチベット音楽祭り(Festival of Tibet)を組織しました。以来今年で四回目になります。結構大規模なチャリティ・コンサートです。今は、自分たちの作った曲にTCVのこどもたちのコーラスをつけてCD化するという、スクールプロジェクトを行っています。
コンサートの後は中庭でみなで歓談。なんか精神的にBBCをやったような、リア充体験だった。
王丹の孤独
木曜日、王丹(天安門事件の学生リーダー、アメリカ亡命、台湾在住)が初来日するということで中野にいく。駅を降りたら高齢の女性が「反原発官邸前デモ」のビラ配りをしていた。ちなみに、この日の王丹公演のチラシ、中央線沿線の映画館や本屋など随所におかれていた。我が家のある城南地域ではそのような現象は観測されていないので、反体制文化圏・中央線特有の現象であろう(笑)。500名定員の会場は、若干リベラル臭のする様々な年齢層の聴衆で一杯。フリチベさんたちも幾人かお見えであった。
まず、ダイジェスト版『亡命』(監督 翰光 2008)の上映。監督は別名班忠義といい、この別名で前年に中国人従軍慰安婦の映画をとっている(http://www.pauline.or.jp/cinemas/cinemas200703-3.php/)。なぜ名前を変えているのかは分からない。「日本にきて二〇年」というが、日本語がたどたどしいし、ジョークも感性が違うのか笑えない。
ドキュメンタリーは天安門事件を契機に欧米に亡命した三人の今の心情をつづるもの。その三人とは
作家で元中国ペンクラブ会長、鄭義(1947-)。
画家で後に小説書いて2000年に漢人初のノーベル文学賞を射止めた高行健(1940-)。
天安門事件の学生リーダーであった王丹(1969-)。
王丹は今回のメイン・スピーカーなのでちょっと詳しく説明する。王丹は天安門事件の後、逮捕され収監されるも、1998年に国際的な圧力で解放され、アメリカに亡命。2008年にハーバートで歴史の博士号をとり、現在は台湾で活動中。2011年、元中華民国総統・陳水扁から機密費40万ドルを受け取ったことを台湾メディアに報道され認める。
この三人のモノローグとともに、1989年の6月4日の事件までの流れと、祖国を捨てねばならなかった苦衷が語られる。
この三人のうち、鄭義に一番心を動かされた。この人の語る言葉には他の二人にない精神性と道徳性が感じられ(他の二人にもあるかもしれないけど、このドキュメントでは少なくとも読み取れなかった)、漢人によく見られる功利主義などと無縁であった。これは彼がキリスト教徒であることと無縁ではないだろう。
彼の言葉を以下に引用する。
●鄭義 「文天祥の漢詩「旅懐」のように、夢の中でも祖国に帰りたい。本当の私は中国にいる。〔今彼が実際に暮らしている〕ワシントンには机があるだけ。中国政府は私の読者をすべて奪ってしまった。読者がいなくなった今、私はなぜ売れない文章を書きつづけるのだろうか。読者の有無や原稿料の有無はもはや関係ない。私の執筆は神に対するモノローグなのだ。それは祈りであり、私の意識の奥底に隠されたものをさらけだし、神と魂の交流をすることにある。
作家として私に価値があるなら、それは精神的な価値だ。聞けば、転向して、罪を認めれば中国に帰れるらしい。しかしそんなことをすれば私には存在価値すらなくなる。89年に死んだ人たちに顔向けできない。先人に申し訳ない。世界中に祖国に帰れない亡命作家がいる。困難により人格は磨かれていく。人格こそが何よりも重要なのだ。」
とある中国人留学生は私にこういった。「中国には『貧は笑っても、娼は笑うな』という言葉があります。たとえ道徳的に問題があっても、自助努力をして生きている人はえらいです。体を売らないで飢えている人の方が笑われます」。そして彼によると競争を勝ち抜いて出世する目的とは「お金を稼いで、国にいる母を喜ばせること」。中国人の多くにとって、何よりも大事なのは父母・友人・金なのだ。国が強くなれば自分たちにとってもメリットがあるので、共産党も愛国もありありなのである。
しかし、13億人の中国人がみな、自分と父母のことしか考えず、ルールも道徳も無視して好き放題し続けたら、リヴァイアサンの影響は国内のみならず国際社会もまきこむ。彼らのたくましさは尊敬するが、道徳観の欠如をけろっとした顔で自慢する姿にはいつも違和感を覚える。だから、金よりも人格の向上を是とする鄭義の言葉には心なごむものがあった。
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さて、ダイジェスト上映が終わると、壇上に王丹と監督が現れ、王丹が挨拶をし司会と会場の質問を受け付けた。以下メモ書きに基づく一問一答。
●王丹
天安門から二〇年以上の時がたったのに、みなが覚えていて、こんなにたくさんの人が来てくださったことには感謝したい。取材を受けた2008年は私にとって特別な年であった。天安門20周年であり、ハーバートを卒業したした年でもある。ハーバートでドキュメンタリーをみて討論するという機会に、監督の前の映画(従軍慰安婦の映画)をみた。なので彼の取材を受けることとした。天安門を過去の歴史とみてはならない。近い将来政変が起きたらこの事件の再評価は避けては通れない道だ。将来中国の民主化が実現すれば、この十数年の空白は重要になる。監督はこの空白の期間をフィルムに記録したのだ。
●司会 事件当日の現場はどうでしたか。
●王丹 当時、学生代表と会議をもつために北京大学にいたので、事件の起きた四日の夜には、天安門にはいなかった。現場からかえってきた同級生から長安街で沢山の人が死んでいると聞いた。後に毎年この日を思い出して涙がでたが、その時は涙も出なかった。驚愕して、感想も感情もわかない状態が48時間続いた。〔発砲されるという〕覚悟もしていなかったから、反応もできなかった。
●監督 共産党の洗脳教育を受けていたから、自分にとって共産党は父母と思っていた。親は子供を殺したりしない。親じゃないから子供を殺した。共産党の本質は権力にしがみつく歴史。林彪は「政権があればすべてある」といったがその通り。人を信じすぎていた。
●司会 祖国への思いは
●王丹 昔の犯罪者は悪いところに流されるものであったが、今はいいところに流される。追い出されなくてもアメリカに行っただろう。共産党は私たちの影響力を弱めるために外国に追い出したが、80年代以後に生まれた人はインターネットをやっている。我々の影響力は増している。民主化に身を捧げるのだから、監獄とか亡命とかは通らないと卒業できない民主大学のカリキュラムだ。つらいけど得られるものもある。亡命生活もまあまあだ。
●司会 中国国内で軟禁状態にある人たちをどう感じるか。
●王丹 陳の亡命は家族にとっていいことだった。私は彼に亡命をすすめた。「活動家は後から後からでてくるが、家族にとってあなたは一人だ。」政治よりも家族が大切だ。
●司会 劉暁波は投獄されても国内にいます。
●王丹 私は劉暁波も亡命した方がいいと思う。彼は影響力を失うことを考えているのだろうが、ノーベル平和賞もらったって仕方ない。家族のためには彼も欧米に亡命した方がいいと思う。
●司会 王丹さんはノーベル平和賞に三度ノミネートされていますが、劉暁波さんに先を越されたという気持ちはありますか?
●王丹 私は1998年に中国政府から「監獄に残るか、アメリカに亡命するか」の選択させられ、亡命を選択した。あの時残っていればノーベル賞は私だった。しかし、70近い年老いた母が私にあうために遠路はるばる監獄に通ってきていることを思うと、監獄にはいられなかった。
●質問 あなたのその自信はどこからくるのか。
王丹 80-90年大に生まれた若者に期待する。それは若い人には体力があるからだ。1989年当時、私は北京大学、天安門、北京大学と何度も徒歩で往復した。当時は若かったからできたけど、今は20歩あるいたら冷房のある部屋に入りたくなる。民主化には体力がいる(笑)。
●質問 去年から王立軍はアメリカ大使館、陳光誠はアメリカと亡命者がふえていますよね。
●王丹 ミニブログでひろまったジョークに、「最近高級不動産の広告に、アメリカ大使館に近いです」というのがある。政争に負けた人間がアメリカ大使館にいくということは、国内のもめ事が100%内政ではなく国際社会も絡んでいることを示している。〔王立軍の逃げ込み事件は〕人権ではなく政治問題が裏にある。
●監督 ミニブログにはこういうジョークがはやっている。「今やアメリカに亡命するのは一つのファッション。金持ち、農民、その犬までアメリカ大使館に亡命する。大使館員が金持ちの犬に亡命の理由を聞いた。ゴハンがまずいのか? 犬は違うという。家がないのか?と聞くと犬は3階建ての家があるという。じゃあどうして亡命するのかと館員が聞くと、「犬だから吠えたい」。〔つまり、このジョークは言論の自由がないことを訴えている。犬は共産党によってよい生活をしている階層を示している。〕中国では本当のことをいうと命にかかわる。
●質問 天安門事件をおこすにあたって影響を受けた西洋の思想、人物はあるか。
●王丹 多くの人が私にその質問をするが、実際は西洋の影響は大して受けていない。中国はずっと外国の情報を遮断していて、1988年にいたってはじめて外が見えはじめてきたような状態であった。外人に会う機会もなかった。私に影響を与えたのは西洋の思想よりも士大夫の生き方である。匹夫は天に責任がある。社会に対する責任感がある。あえていえば五四〔愛国〕運動の影響を受けている。
●質問 投獄されても、命をかけても活動を続けるその情熱はどこからくるのか、日本にも原発とか路上生活者の排除問題とか問題がある。
●王丹 私は日本でデモをしたらどうなるのかなんて情報はない。当時の私は自分がどんなに危険なことをしているのか分からなかった。だから私に勇気はない。今、私を動かしているのは「一度決めたらやりとげること」という気持ち。もし、危険ならやめなさい。
●質問 今、四川の徳陽市のシーファンで市民暴動が起きています。だけど、遠い出来事のようです。
●王丹 このデモには高校生が参加している。90年代生まれに〔中国の民主化を実現する力があるのではないかと〕希望を持っている。中国は広大なので簡単にデモは全国規模にならない。民主化には忍耐が必要。各地に暴動が頻発して、それが全国に及ぶ時、頑張ると希望がある。あきらめてはならない。
●質問 中国が民主化する場合、ビルマのように政府が上からの民主化をはかるでしょうか、それともアラブの春のように民衆が立ち上がって政府を倒すでしょうか。
●王丹 中国は後者の道をたどるだろう。統治者は権力を自分から手放さないから。私たちは失敗したが、失敗=過ちではない。やりとげればいい。武力による鎮圧は23年前よりやりづらくなっている。インターネットは当時よりも大人数を動員しやすくなっている。しかも、今全軍を掌握する強い指導者がいないから、昔のように思い切った軍事行動はできない。また、人数が多くなれば鎮圧できなくなる。私は楽観的だ。
●質問 日本人は中国の民主化に具体的にどのように関わることができますか。
●王丹 また私を扇動罪で有罪にするつもりですか(笑)。個人によってできることは違う。同じ意見の人は少なく、民主化運動は孤独だ。それができていたらとっくに成功している。理想主義は失敗するが、功利主義はいけない。覚悟がなければ運動をやってはならない。
以上の王丹の一問一答と『亡命』の中での台詞を見ていて、わたしはこう考えた。
王丹は自分の行動の動機を、同じ年におきている東欧の民主化の流れとは無縁であると断言し、70年も昔の五四愛国運動(日本の植民地主義に抗した中国人の最初の愛国運動)、または、中国の伝統である士大夫思想を持ち出した。 しかし、あの天安門事件がおきた1989年は、ポーランドで自由選挙が実現し、ベルリンの壁がくずれ、チェコスロバキア、ルーマニアが民主化した年で、ソ連の終わりの始まりの年だった。この年は、彼自身が『亡命』の中で述べていたように、大学では西洋人の教師をたくさん招聘し多くの講座が開かれていた、また、ソ連の改革を唱えるゴルバチョフも来中していた。そのような当時の欧米の怒濤のような流れを全否定して、70年前の五四愛国運動をもちだすのは何かへん。
また、『亡命』の中で同じく亡命者の楊建利が、中国共産党の命令によって、軍隊が丸腰の学生に発砲する様を「日本軍が中国の村を焼きはらう映画を思い出した」と表現し、直接の実行者である共産党は父母のようなものだった持ち上げる。彼の怒りは共産党に向いているはずなのに、どうしてここでとってつけたように自分が見たわけでもない日本の話をもちだすのか。
さらに、王丹はその日の朝まで「共産党は発砲しない」と思っていたと繰り返しいうが、Uさんによると三ヶ月前にも共産党はばんばん発砲しているし、前年ビルマの88888蜂起でも政府軍ばんばん市民に発砲している。だいたいチベットで解放軍は占領直後の51年から現在に至るまでばんばん丸腰のデモに発砲している。その共産党をその日の朝まで信じていたなんて本当だろうか。
以上のことは、もちろん後になってすべての情報を総合した結果言えることであり、ひよっとしたら彼の言うとおり本当に彼はそう思っていたのかもしれない。しかし、現在のことはどうだろうか。
彼は大義を示すためにあえて監獄にとどまっている人々を否定し「家族」を大事にして亡命しろ、ノーベル平和賞なんかいらないという。これは意識的に欧米が評価する非暴力的抵抗を批判して、漢人の価値観を宣揚しているように見える。
マンデラも、スーチーさん、劉暁波さんも、ノーベル平和賞をとった人々は、家族と分断されることがわかっていてもあえて長期間にわたる監獄・軟禁状態を選んだ。彼らは外部から連絡を絶たれた場所で孤独に過ごし、世間が自分を忘れ去っていく恐怖と日々戦った。その国に住む人々が異常な状態に置かれていることを、国際社会に告発するためにである。彼らは自分のためではなく、多くの人々のために自己を犠牲にしたからこそ多くの人の共感を得られた。
王丹の戦い方をチベット人と比べるとその差ははっきりする。チベット人は普遍的な価値である人権や自由、チベット文化のもつ高度な哲学をアピールして、世界中の人に助けを求めている。一方、王丹は世界にではなく、特定の集団に向けて繰り返し訴えていることに気づく。それは80年代以後に生まれた本土中国の若者たちだ。
彼らは天安門事件を契機にはじまった反日愛国教育を受け、経済発展の恩恵を受けた結果、強い共産党を受け入れている。このような若者たちに訴えかけようという場合、欧米で支援を受けていると思われること、欧米の思想の影響下にあると思われることは、売国のレっテルをはられて終わる可能性は高い。
以上をまとめると、王丹はを今の愛国青年たちの共感を得るために、ことさらに欧米の影響を消し「家族」や「反日」という現代中国的な価値観を前面にだそうとしているようにも見えた(もちろん推測 笑)。
彼はこれまで二度日本から招聘を受けているが、二度とも向こうの都合で話を流したそうだ。台湾という飛行機ですぐのところにいるにも関わらずである(在学中であるという理由かららしい)。これはうがった見方をすれば、中国本土の若者から「日本にたよっている」と見られるのを嫌ったからとも考えられる。
しかも、もっと悲しい話をすると、彼がラブコールを送っている中国本土の若者たちは、王丹にチョー厳しい。私は講演にいく前に某中国人留学生に「今から王丹の講演いってくるね」と言ったら、留学生「知ってはいるけど、興味ありませんね。中国共産党はいろいろ問題もありますが、強いし、いろいろよくしてくれています。天安門のようなことをやっても殺されて戸籍を剥奪されるだけですから、デモなんてやってもムダですよ」と。これが一般的な中国人の感想だろう。
王丹の言説は、チベットの文化を護りたい人々にもなにげに反感をかっている。天安門事件の時、知り合いが北京にある少数民族の幹部養成学校、中央民族学院(当時は大学でなかった)に留学していた。彼曰く、漢人以外の民族は天安門での王丹等の行動を「漢人の内輪もめ」と冷めた目で見ていたという。
実際、愛国中国青年の目線で民主化を語る今の王丹を見ていると、もし誰であれ愛国青年が民主化を実現した場合、日本を仮想敵にして自国を美化する愛国教育も、チベット人を見下すダーウィニズムも、家族を大事とし公をないがしろにする中国のメンタリティも変わらない気がする。つまり今と何がどう変わるのか分からない。
ちなみに、会場入り口で手渡されたビラ束の中には「社会主義理論学会」の案内があり、二人の報告者一人がかの×西広。2008年のチベット蜂起の時に中国型社会主義マンセーを唱え、チベット人を見下したあのお方。ちなみにWIKIにはこの人こう書かれていた。
六四天安門事件における中国政府の対応を、「小平の決断によるあの弾圧がなければ現在の中国の経済発展はない」と手放しで礼賛する発言を行っている。・・・少数民族の問題に関しても当該民族の自助努力の欠如に原因を求める風が強く、民族や出自など本人の努力をもってしても変えることの不可能な要素にまで自己責任論を持ち込んでいる。
王丹はチベット文化、チベット語、チベットの歴史を知っているのだろうか。アメリカが独立宣言を発した時、自由・平等はWASPのみに保証されるもので、ネイティブ・アメリカンと黒人奴隷には適用されなかった。王丹の話を聞いてこのことを思い出した。天安門事件の時、チベット人たちがこの運動に無関心であった理由がやっと分かった。「フリー・チャイナからフリー・チベット」が実現するとは限らないということ。
でも王丹が最後に述べた「理想を追求することは孤独である」という言葉には共感した。しかしよく考えると、彼の方がより孤独かもしれない。
フリチベは世界中の国々に多国籍の支援者がいるし、中国本土のチベット人もほとんどがダライラマ法王を尊敬している。しかし王丹は、漢人意識を前面にだしているために欧米の支援はおもてだって受けにくいし、彼がラブ・コールを送り続けている本土の若者たちも必ずしも彼に共鳴していない。彼は「孤独」である。
最後に一言。彼は、ドキュメンタリーの中でもハーバートでもらった博士号をバックに語っていたので、それが誇らしいのであろう。彼は未来について多くを語るが、歴史学者は未来を語るべきではない。歴史学者は過去を客観的に研究する学問であり、未来を語るのは予言者の仕事である。
というわけで、日本人の聴衆の大半は例によって心酔して聞いていたけど(このニブさ何とかならんか)、歴史学者の上にフリチベであるが故に、なんかいろいろ王丹のアラが見えて、すっきりしない後味をいだきつつ帰路についたのであった。
まず、ダイジェスト版『亡命』(監督 翰光 2008)の上映。監督は別名班忠義といい、この別名で前年に中国人従軍慰安婦の映画をとっている(http://www.pauline.or.jp/cinemas/cinemas200703-3.php/)。なぜ名前を変えているのかは分からない。「日本にきて二〇年」というが、日本語がたどたどしいし、ジョークも感性が違うのか笑えない。
ドキュメンタリーは天安門事件を契機に欧米に亡命した三人の今の心情をつづるもの。その三人とは
作家で元中国ペンクラブ会長、鄭義(1947-)。
画家で後に小説書いて2000年に漢人初のノーベル文学賞を射止めた高行健(1940-)。
天安門事件の学生リーダーであった王丹(1969-)。
王丹は今回のメイン・スピーカーなのでちょっと詳しく説明する。王丹は天安門事件の後、逮捕され収監されるも、1998年に国際的な圧力で解放され、アメリカに亡命。2008年にハーバートで歴史の博士号をとり、現在は台湾で活動中。2011年、元中華民国総統・陳水扁から機密費40万ドルを受け取ったことを台湾メディアに報道され認める。
この三人のモノローグとともに、1989年の6月4日の事件までの流れと、祖国を捨てねばならなかった苦衷が語られる。
この三人のうち、鄭義に一番心を動かされた。この人の語る言葉には他の二人にない精神性と道徳性が感じられ(他の二人にもあるかもしれないけど、このドキュメントでは少なくとも読み取れなかった)、漢人によく見られる功利主義などと無縁であった。これは彼がキリスト教徒であることと無縁ではないだろう。
彼の言葉を以下に引用する。
●鄭義 「文天祥の漢詩「旅懐」のように、夢の中でも祖国に帰りたい。本当の私は中国にいる。〔今彼が実際に暮らしている〕ワシントンには机があるだけ。中国政府は私の読者をすべて奪ってしまった。読者がいなくなった今、私はなぜ売れない文章を書きつづけるのだろうか。読者の有無や原稿料の有無はもはや関係ない。私の執筆は神に対するモノローグなのだ。それは祈りであり、私の意識の奥底に隠されたものをさらけだし、神と魂の交流をすることにある。
作家として私に価値があるなら、それは精神的な価値だ。聞けば、転向して、罪を認めれば中国に帰れるらしい。しかしそんなことをすれば私には存在価値すらなくなる。89年に死んだ人たちに顔向けできない。先人に申し訳ない。世界中に祖国に帰れない亡命作家がいる。困難により人格は磨かれていく。人格こそが何よりも重要なのだ。」
とある中国人留学生は私にこういった。「中国には『貧は笑っても、娼は笑うな』という言葉があります。たとえ道徳的に問題があっても、自助努力をして生きている人はえらいです。体を売らないで飢えている人の方が笑われます」。そして彼によると競争を勝ち抜いて出世する目的とは「お金を稼いで、国にいる母を喜ばせること」。中国人の多くにとって、何よりも大事なのは父母・友人・金なのだ。国が強くなれば自分たちにとってもメリットがあるので、共産党も愛国もありありなのである。
しかし、13億人の中国人がみな、自分と父母のことしか考えず、ルールも道徳も無視して好き放題し続けたら、リヴァイアサンの影響は国内のみならず国際社会もまきこむ。彼らのたくましさは尊敬するが、道徳観の欠如をけろっとした顔で自慢する姿にはいつも違和感を覚える。だから、金よりも人格の向上を是とする鄭義の言葉には心なごむものがあった。
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さて、ダイジェスト上映が終わると、壇上に王丹と監督が現れ、王丹が挨拶をし司会と会場の質問を受け付けた。以下メモ書きに基づく一問一答。
●王丹
天安門から二〇年以上の時がたったのに、みなが覚えていて、こんなにたくさんの人が来てくださったことには感謝したい。取材を受けた2008年は私にとって特別な年であった。天安門20周年であり、ハーバートを卒業したした年でもある。ハーバートでドキュメンタリーをみて討論するという機会に、監督の前の映画(従軍慰安婦の映画)をみた。なので彼の取材を受けることとした。天安門を過去の歴史とみてはならない。近い将来政変が起きたらこの事件の再評価は避けては通れない道だ。将来中国の民主化が実現すれば、この十数年の空白は重要になる。監督はこの空白の期間をフィルムに記録したのだ。
●司会 事件当日の現場はどうでしたか。
●王丹 当時、学生代表と会議をもつために北京大学にいたので、事件の起きた四日の夜には、天安門にはいなかった。現場からかえってきた同級生から長安街で沢山の人が死んでいると聞いた。後に毎年この日を思い出して涙がでたが、その時は涙も出なかった。驚愕して、感想も感情もわかない状態が48時間続いた。〔発砲されるという〕覚悟もしていなかったから、反応もできなかった。
●監督 共産党の洗脳教育を受けていたから、自分にとって共産党は父母と思っていた。親は子供を殺したりしない。親じゃないから子供を殺した。共産党の本質は権力にしがみつく歴史。林彪は「政権があればすべてある」といったがその通り。人を信じすぎていた。
●司会 祖国への思いは
●王丹 昔の犯罪者は悪いところに流されるものであったが、今はいいところに流される。追い出されなくてもアメリカに行っただろう。共産党は私たちの影響力を弱めるために外国に追い出したが、80年代以後に生まれた人はインターネットをやっている。我々の影響力は増している。民主化に身を捧げるのだから、監獄とか亡命とかは通らないと卒業できない民主大学のカリキュラムだ。つらいけど得られるものもある。亡命生活もまあまあだ。
●司会 中国国内で軟禁状態にある人たちをどう感じるか。
●王丹 陳の亡命は家族にとっていいことだった。私は彼に亡命をすすめた。「活動家は後から後からでてくるが、家族にとってあなたは一人だ。」政治よりも家族が大切だ。
●司会 劉暁波は投獄されても国内にいます。
●王丹 私は劉暁波も亡命した方がいいと思う。彼は影響力を失うことを考えているのだろうが、ノーベル平和賞もらったって仕方ない。家族のためには彼も欧米に亡命した方がいいと思う。
●司会 王丹さんはノーベル平和賞に三度ノミネートされていますが、劉暁波さんに先を越されたという気持ちはありますか?
●王丹 私は1998年に中国政府から「監獄に残るか、アメリカに亡命するか」の選択させられ、亡命を選択した。あの時残っていればノーベル賞は私だった。しかし、70近い年老いた母が私にあうために遠路はるばる監獄に通ってきていることを思うと、監獄にはいられなかった。
●質問 あなたのその自信はどこからくるのか。
王丹 80-90年大に生まれた若者に期待する。それは若い人には体力があるからだ。1989年当時、私は北京大学、天安門、北京大学と何度も徒歩で往復した。当時は若かったからできたけど、今は20歩あるいたら冷房のある部屋に入りたくなる。民主化には体力がいる(笑)。
●質問 去年から王立軍はアメリカ大使館、陳光誠はアメリカと亡命者がふえていますよね。
●王丹 ミニブログでひろまったジョークに、「最近高級不動産の広告に、アメリカ大使館に近いです」というのがある。政争に負けた人間がアメリカ大使館にいくということは、国内のもめ事が100%内政ではなく国際社会も絡んでいることを示している。〔王立軍の逃げ込み事件は〕人権ではなく政治問題が裏にある。
●監督 ミニブログにはこういうジョークがはやっている。「今やアメリカに亡命するのは一つのファッション。金持ち、農民、その犬までアメリカ大使館に亡命する。大使館員が金持ちの犬に亡命の理由を聞いた。ゴハンがまずいのか? 犬は違うという。家がないのか?と聞くと犬は3階建ての家があるという。じゃあどうして亡命するのかと館員が聞くと、「犬だから吠えたい」。〔つまり、このジョークは言論の自由がないことを訴えている。犬は共産党によってよい生活をしている階層を示している。〕中国では本当のことをいうと命にかかわる。
●質問 天安門事件をおこすにあたって影響を受けた西洋の思想、人物はあるか。
●王丹 多くの人が私にその質問をするが、実際は西洋の影響は大して受けていない。中国はずっと外国の情報を遮断していて、1988年にいたってはじめて外が見えはじめてきたような状態であった。外人に会う機会もなかった。私に影響を与えたのは西洋の思想よりも士大夫の生き方である。匹夫は天に責任がある。社会に対する責任感がある。あえていえば五四〔愛国〕運動の影響を受けている。
●質問 投獄されても、命をかけても活動を続けるその情熱はどこからくるのか、日本にも原発とか路上生活者の排除問題とか問題がある。
●王丹 私は日本でデモをしたらどうなるのかなんて情報はない。当時の私は自分がどんなに危険なことをしているのか分からなかった。だから私に勇気はない。今、私を動かしているのは「一度決めたらやりとげること」という気持ち。もし、危険ならやめなさい。
●質問 今、四川の徳陽市のシーファンで市民暴動が起きています。だけど、遠い出来事のようです。
●王丹 このデモには高校生が参加している。90年代生まれに〔中国の民主化を実現する力があるのではないかと〕希望を持っている。中国は広大なので簡単にデモは全国規模にならない。民主化には忍耐が必要。各地に暴動が頻発して、それが全国に及ぶ時、頑張ると希望がある。あきらめてはならない。
●質問 中国が民主化する場合、ビルマのように政府が上からの民主化をはかるでしょうか、それともアラブの春のように民衆が立ち上がって政府を倒すでしょうか。
●王丹 中国は後者の道をたどるだろう。統治者は権力を自分から手放さないから。私たちは失敗したが、失敗=過ちではない。やりとげればいい。武力による鎮圧は23年前よりやりづらくなっている。インターネットは当時よりも大人数を動員しやすくなっている。しかも、今全軍を掌握する強い指導者がいないから、昔のように思い切った軍事行動はできない。また、人数が多くなれば鎮圧できなくなる。私は楽観的だ。
●質問 日本人は中国の民主化に具体的にどのように関わることができますか。
●王丹 また私を扇動罪で有罪にするつもりですか(笑)。個人によってできることは違う。同じ意見の人は少なく、民主化運動は孤独だ。それができていたらとっくに成功している。理想主義は失敗するが、功利主義はいけない。覚悟がなければ運動をやってはならない。
以上の王丹の一問一答と『亡命』の中での台詞を見ていて、わたしはこう考えた。
王丹は自分の行動の動機を、同じ年におきている東欧の民主化の流れとは無縁であると断言し、70年も昔の五四愛国運動(日本の植民地主義に抗した中国人の最初の愛国運動)、または、中国の伝統である士大夫思想を持ち出した。 しかし、あの天安門事件がおきた1989年は、ポーランドで自由選挙が実現し、ベルリンの壁がくずれ、チェコスロバキア、ルーマニアが民主化した年で、ソ連の終わりの始まりの年だった。この年は、彼自身が『亡命』の中で述べていたように、大学では西洋人の教師をたくさん招聘し多くの講座が開かれていた、また、ソ連の改革を唱えるゴルバチョフも来中していた。そのような当時の欧米の怒濤のような流れを全否定して、70年前の五四愛国運動をもちだすのは何かへん。
また、『亡命』の中で同じく亡命者の楊建利が、中国共産党の命令によって、軍隊が丸腰の学生に発砲する様を「日本軍が中国の村を焼きはらう映画を思い出した」と表現し、直接の実行者である共産党は父母のようなものだった持ち上げる。彼の怒りは共産党に向いているはずなのに、どうしてここでとってつけたように自分が見たわけでもない日本の話をもちだすのか。
さらに、王丹はその日の朝まで「共産党は発砲しない」と思っていたと繰り返しいうが、Uさんによると三ヶ月前にも共産党はばんばん発砲しているし、前年ビルマの88888蜂起でも政府軍ばんばん市民に発砲している。だいたいチベットで解放軍は占領直後の51年から現在に至るまでばんばん丸腰のデモに発砲している。その共産党をその日の朝まで信じていたなんて本当だろうか。
以上のことは、もちろん後になってすべての情報を総合した結果言えることであり、ひよっとしたら彼の言うとおり本当に彼はそう思っていたのかもしれない。しかし、現在のことはどうだろうか。
彼は大義を示すためにあえて監獄にとどまっている人々を否定し「家族」を大事にして亡命しろ、ノーベル平和賞なんかいらないという。これは意識的に欧米が評価する非暴力的抵抗を批判して、漢人の価値観を宣揚しているように見える。
マンデラも、スーチーさん、劉暁波さんも、ノーベル平和賞をとった人々は、家族と分断されることがわかっていてもあえて長期間にわたる監獄・軟禁状態を選んだ。彼らは外部から連絡を絶たれた場所で孤独に過ごし、世間が自分を忘れ去っていく恐怖と日々戦った。その国に住む人々が異常な状態に置かれていることを、国際社会に告発するためにである。彼らは自分のためではなく、多くの人々のために自己を犠牲にしたからこそ多くの人の共感を得られた。
王丹の戦い方をチベット人と比べるとその差ははっきりする。チベット人は普遍的な価値である人権や自由、チベット文化のもつ高度な哲学をアピールして、世界中の人に助けを求めている。一方、王丹は世界にではなく、特定の集団に向けて繰り返し訴えていることに気づく。それは80年代以後に生まれた本土中国の若者たちだ。
彼らは天安門事件を契機にはじまった反日愛国教育を受け、経済発展の恩恵を受けた結果、強い共産党を受け入れている。このような若者たちに訴えかけようという場合、欧米で支援を受けていると思われること、欧米の思想の影響下にあると思われることは、売国のレっテルをはられて終わる可能性は高い。
以上をまとめると、王丹はを今の愛国青年たちの共感を得るために、ことさらに欧米の影響を消し「家族」や「反日」という現代中国的な価値観を前面にだそうとしているようにも見えた(もちろん推測 笑)。
彼はこれまで二度日本から招聘を受けているが、二度とも向こうの都合で話を流したそうだ。台湾という飛行機ですぐのところにいるにも関わらずである(在学中であるという理由かららしい)。これはうがった見方をすれば、中国本土の若者から「日本にたよっている」と見られるのを嫌ったからとも考えられる。
しかも、もっと悲しい話をすると、彼がラブコールを送っている中国本土の若者たちは、王丹にチョー厳しい。私は講演にいく前に某中国人留学生に「今から王丹の講演いってくるね」と言ったら、留学生「知ってはいるけど、興味ありませんね。中国共産党はいろいろ問題もありますが、強いし、いろいろよくしてくれています。天安門のようなことをやっても殺されて戸籍を剥奪されるだけですから、デモなんてやってもムダですよ」と。これが一般的な中国人の感想だろう。
王丹の言説は、チベットの文化を護りたい人々にもなにげに反感をかっている。天安門事件の時、知り合いが北京にある少数民族の幹部養成学校、中央民族学院(当時は大学でなかった)に留学していた。彼曰く、漢人以外の民族は天安門での王丹等の行動を「漢人の内輪もめ」と冷めた目で見ていたという。
実際、愛国中国青年の目線で民主化を語る今の王丹を見ていると、もし誰であれ愛国青年が民主化を実現した場合、日本を仮想敵にして自国を美化する愛国教育も、チベット人を見下すダーウィニズムも、家族を大事とし公をないがしろにする中国のメンタリティも変わらない気がする。つまり今と何がどう変わるのか分からない。
ちなみに、会場入り口で手渡されたビラ束の中には「社会主義理論学会」の案内があり、二人の報告者一人がかの×西広。2008年のチベット蜂起の時に中国型社会主義マンセーを唱え、チベット人を見下したあのお方。ちなみにWIKIにはこの人こう書かれていた。
六四天安門事件における中国政府の対応を、「小平の決断によるあの弾圧がなければ現在の中国の経済発展はない」と手放しで礼賛する発言を行っている。・・・少数民族の問題に関しても当該民族の自助努力の欠如に原因を求める風が強く、民族や出自など本人の努力をもってしても変えることの不可能な要素にまで自己責任論を持ち込んでいる。
王丹はチベット文化、チベット語、チベットの歴史を知っているのだろうか。アメリカが独立宣言を発した時、自由・平等はWASPのみに保証されるもので、ネイティブ・アメリカンと黒人奴隷には適用されなかった。王丹の話を聞いてこのことを思い出した。天安門事件の時、チベット人たちがこの運動に無関心であった理由がやっと分かった。「フリー・チャイナからフリー・チベット」が実現するとは限らないということ。
でも王丹が最後に述べた「理想を追求することは孤独である」という言葉には共感した。しかしよく考えると、彼の方がより孤独かもしれない。
フリチベは世界中の国々に多国籍の支援者がいるし、中国本土のチベット人もほとんどがダライラマ法王を尊敬している。しかし王丹は、漢人意識を前面にだしているために欧米の支援はおもてだって受けにくいし、彼がラブ・コールを送り続けている本土の若者たちも必ずしも彼に共鳴していない。彼は「孤独」である。
最後に一言。彼は、ドキュメンタリーの中でもハーバートでもらった博士号をバックに語っていたので、それが誇らしいのであろう。彼は未来について多くを語るが、歴史学者は未来を語るべきではない。歴史学者は過去を客観的に研究する学問であり、未来を語るのは予言者の仕事である。
というわけで、日本人の聴衆の大半は例によって心酔して聞いていたけど(このニブさ何とかならんか)、歴史学者の上にフリチベであるが故に、なんかいろいろ王丹のアラが見えて、すっきりしない後味をいだきつつ帰路についたのであった。
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