「遙かなる歌声」

仏教好きなのでマントラや読経のCDは山ほど持っているが、チベット人の歌手のCDは一枚も持っていなかった。このような私の下に一枚のCDがやってきた。昨年、チベット・イベントで寺原太郎さんというバンスリー奏者とお会いした。彼は私に、「スノー・ライオン遙かなる歌声」というCDをくださり、彼の運営するチャンドニ・プロジェクトは、テンジン・チューゲルというチベット人歌手を定期的に日本に招聘していることを話してくださった。
そこで帰ってから Youtubeとかで彼の名 Tenzin Choegyalで検索すると(たとえばコレとか)、なかなか良い声をしているし曲も聞きやすい。曲も望郷の歌や、マントラを現代風にアレンジしたものなどチベット人性もよくでている。
日本人の歌手とは背負っているものの大きさが違うからか、何か迫力がある。たとえて言えばU2の「魂の叫び」のような感じ。Mantra of compassionとかすっごい声量なので是非聞いてみて。
さらに私の興味を引いたのは彼の名前。テンジン・チューゲルは訳すと「護教法王」。これは1642年にチベットを統一し、ダライラマ五世にチベットを布施し、ダライラマ政権の創立者として知られるホシュート部のグシ・ハーンと同じである。ありがたい・ありがたい。
で、寺原さんからこのテンジン・チューゲルが七月に一週間来日して公演を行うとのお知らせがきた。彼の歌を聴いてみてナマを是非聞きたいという方、ぜひお越しください。このエントリーの末尾にスケジュールを和文・英文の両方でコピペしてあります。
とくに、7月14日(土)はSFTと共催のチャリティ・ライブで、SFTのツェリンドルジェのスピーチもあり、写真展も同時開とあって、より濃い感じになると思います(チラシpdf)。
テンジン・チューゲルはブリスベーン・フェスティバル・オブ・チベットの創設者でもあります。公式ブログはここなので 英語ができる方はこちらもどうぞ。 この人じつに楽しそうに笑う人ですね。
以下、英文サイトから彼のプロフィールを訳してみました。
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テンジンューゲル(bstan 'dzin chos rgyal)は、南西チベットの遊牧民の家庭に生まれ、幼い頃ネパールへと亡命し、インドのダラムサラにある難民社会で育った。ダラムサラではダライラマ法王は言語、仏教、芸術通じてチベット文化を維持するようにとチベット人に説いていた。その教えに従い、テンジン・チューゲルは自らの音楽の才能を磨き始めた。
この二〇年の間、〔14年前に拠点をオーストラリアに移し、〕テンジンはオーストラリア人を始めとする様々な国籍の表現者たちと共演し、そのことを通じて、自らの音楽のリズム、構成などに実験を繰り返し、伝統的なチベット音楽に挑み続けてきた。結果、彼の受賞曲は地球上のさまざまなサウンドを一枚のタペストリーに織り上げたかのようなものとなっている。
テンジンは自分と同じく故郷を失ってさまよう人々の音楽に特別なつながりを感じてきた。テンジンの父は笛(gling bu)の名手で母は美しい歌声の持ち主だった。テンジンはこの二人の美質を引き継いでいる。その音楽は「美しき思い出」(beautifully evocative)、「癒し」(healing)、「蠱惑的」(mesmerizing)、「ゾクゾクする」(spine-tingling)、「超越的」(transcendent)などと評されてきた。
テンジンの音楽のもつ駆け足のリズム、高みへと駆け上がっていく声、技巧的な笛の音は世界中の人々の心をとらえてきた。定期的に、アメリカ、日本、ニューカレドニア、インド、ニュージーランドにおいて定期的にツァーを行い、音楽と人類に対する愛をもって何千人もの人々とふれあってきた。
テンジンはブリスベーン・チベット・フェスティバルを創立し、組織し、作り手として活躍してきた。毎年恒例となったこのフェスティバルは、チベットの未来を脅かす様々問題を啓発し、亡命チベット人のための基金を集める場となっている。
最近の話をすれば、2011年の3月、ニューヨークのカーネギー・ホールで行われた第21回チベット・チャリティ・コンサートで、Philip Glass、Angelique Kidjo、Taj Mahal、James McCartney、Patti Smith、Michael Stipe、Jesse Smith、Michael Campbell 等とともに出演している。
*注 チベット・ハウスとはコロンビア大学のチベット哲学の教授ロバート・サーマンとリチャード・ギアがチベット文化の維持のために1987年に設立した組織で、同ハウスは啓発と資金集めをかね、毎年チベット暦の正月にカーネギー・ホールでチャリティ・コンサートを行っている。
テンジン・チューゲル・日本ツアースケジュール
●東京 浅草 ☆アサヒ・カフェナイトに出演します!日本の歌とチベットの歌、日本の三弦とチベットの三弦、浅草ならではのクロスカルチャーコンサートを。
・日時:7月8日(日) 16:30開場 17:00開演
・入場料: 予約2,500円 当日3,000円(全席自由)
・会場:浅草 アサヒ・アートスクエア
・住所:〒130-0001 東京都墨田区吾妻橋1-23-1 スーパードライホール 4F
・共演:山口英里(民謡)ミカド雅峰(津軽三味線)
・予約:03-3353-6866(P3 art environment)
・主催:アサヒ・カフェナイト実行委員会
●東京 西荻窪 ☆ネパール料理が自慢の音の良いライブハウス
・日時 7月9日(月)18:30open 19:30start
・charge 2,600円 予約不要、自由席
・共演:久野隆昭(ガタム)
・会場 ライブハウス「音や金時」
・住所 杉並区西荻北2-2-14 喜志コーポB1? TEL: 03-5382-2020
・アクセス JR西荻窪駅北口より徒歩3分。
※この会場は予約制をとっておりません。直接ご来店ください
●千葉 ☆平日の昼下がり、クラシックホールで聴くチベットの歌声
・日時 7月10日(火)13:30open 14:00start
・入場料 予約2,000円 4人券6,400円 当日2,500円 ※全席指定
・会場 千葉市若葉文化ホール
・住所 千葉市若葉区千城台2-1-1 TEL.043-237-1911
・アクセス 千葉市モノレール千城台駅より徒歩1分。
・予約 srgm@pure.ne.jp ※参加公演の日付、予約者のお名前、連絡先,枚数をお知らせください。
・チケット取扱い 千葉市文化振興財団 http://www.f-cp.jp/info/kouen.php?serial=1423
●鎌倉 長谷寺駅から徒歩5分の場所にあるオーガニックなカフェ&バーです。
・日時 7月11日(水) 19:00開場 19:30開演
・charge 2,500円 ※要予約
・共演 池田絢子(タブラ)
・会場 麻心(まごころ) 鎌倉市長谷2-8-11 2F Tel.0467-25-1414
●埼玉 越生の山の中にある古民家を改装したアート空間。
・日時 7月12日(木)15:00 open 16:00~映画「ホピの予言」18:00~トーク 19:00~演奏
・参加費 2,000円 (with 1drink) ※要予約
・会場 art station おっぺ 埼玉県入間郡越生町大満516
・アクセス 東武東上線坂出駅より越生線へ乗り換え越生駅より黒山行きバス「大満」下車、徒歩10分
・予約 080-2056-5226(おっぺ きんちゃん)
●新潟 刈羽村 ☆再生された山の中の古民家で、あたたかいひとときを。
「日本の声、チベットの歌、インドの音」
・日時 7月13日(金)18:30 open 19:00 start
・会場 長岡 油田 ひだまりの里 刈羽村 大字油田
・参加費 予約2,800円 当日3,300円
・共演 NUU
・予約 電話 080-8733-9595(灯遊) メール hiasobi.n@gmail.com
●神奈川 金沢文庫 ☆音楽、写真、バター茶とお話で知るチベット
「チベット チャリティーライブ テンジン・チョーギャル+寺原太郎」
・日時:7月14日(土) 16:00open 16:30start(終了予定19:30)
・会場:アサバアートスクエア(神奈川県横浜市金沢区金沢町205 TEL:045-783-9705)
・参加費:1,500円(バター茶付き)※予約不要、当日受付にてお支払い下さい
・出演:テンジン・チョーギャル、SFT Japan代表ツェリン・ドルジェ、寺原太郎
・問:E-mail: sftjcharitylive@gmail.com TEL: 080-3589-7472
※イベント収益は、チベット問題を多くの方に知ってもらうための映画上映会の開催や、配布資料の作成を中心としたSFT Japanの活動費、また若い世代の亡命チベット人が多く住むインドで活動しているSFT Indiaへの支援にあてられます。
●東京 江戸川 ☆日曜日の昼下がり、数寄屋作りの和室で、日本庭園を望みながら。
・日時 7月15日(日)14:00open 15:00start
・参加費 予約2,500円 当日3,000円 ※要予約、自由席
・共演 池田絢子(タブラ)
・会場 江戸川平成庭園 源心庵 江戸川区北葛西3丁目2?1 行船公園内
・予約 srgm@pure.ne.jp (寺原) ※参加公演の日付、予約者のお名前、連絡先,枚数をお知らせください。
Japan Tour schedule 2012
July 8 (Sun.) Asahi Art Square, Asakusa, Tokyo 16:30 open 17:00 start
July 9 (Mon.) Otoya-kintoki, Nishi-ogikubo, Tokyo 18:30 open 19:30 start
July 10 (Tue.) Chibashi-wakaba cultural hall, Chiba 13:30 open 14:00 start
July 11 (Wed.) Magokoro, Kamakura, Kanagawa 19:00 open 19:30 start
July 12 (Thu.) Oppe, Ogose, Saitama 15:00 open 16:00 movie 18:00 talk
19:00 music
July 13 (Fri.) Aburaden-Hidamarinosato, Kariwa-mura, Nigata 18:30open 19:00start
July 14 (Sat.) Asaba Art Square, Kanazawa-bunko, Kanagawa 16:00open 16:30start
July 15 (Sun.) Genshin-an, Edogawa, Tokyo 14:00open 15:00 start
『チベットへのキックオフ』
水曜日、チベット難民社会を舞台にしたドキュメンタリー、「チベットへのキックオフ」と「ミス・チベット」渋谷ユーロスペースで二本立てを見た。
「チベットのキックオフ」(原題 The Forbidden Team / Det forbudte landshold 監督 Rasmus Dinesen and Arnold Krojgard)は、2000年の6月30日にコペンハーゲンで行われたチベット対グリーンランドのサッカーの国際試合が行われるまでのドキュメント。取材期間は、インドのデラドゥンでチベットのナショナル・チームがくまれ、ダラムサラでの一ヶ月間の強化訓練をへて、試合が行われるまで。
普通に考えてもナショナル・チームつくって国際試合にでるにはたくさんの手続きが必要だが、チベット人には国がないので、さらに高いハードルがそびえ立つ。
1. 第一のハードル 対戦国と開催地を見つける
この部分はドキュメンタリーでは描かれなかったが、一番難しいところ。チベットの対戦相手には、中国様の子供じみたいやがらせが炸裂するので、そのような状況に直面してもぶれない高潔な意志が必要となる。日本みたいな道徳観念が希薄で、意志も戦略もない国だと、どこの組織にもいる事なかれ主義者が試合を流してしまう。
しかし、デンマークもグリーンランドも偉かった。グリーランドはデンマークの自治領で独立を求めているという点で、チベットと立場は似ている(ただし、チベットの場合は自治は名ばかりだが、グリーンランドは高度な自治を実現している)。だから、引き受けたのであろうし、試合会場を提供したデンマークも大人である。
ちなみに、FIFAは試合をやめさせようとし、さらには「公式試合でない」と宣言するなど終始腰が引けていたが、その後、2003年におちゃめな事件の当事者になる。西ドイツでワールドカップが行われた際、参加国の紹介をするページで、中国の隣国に「チベット」と記載していた事件である(ぷぷぷ)。記事と写真をあげておく。
チベットを独立国と記述=中国で反発の声-FIFA公式サイト
【北京8日時事】国際サッカー連盟(FIFA)の2006年ワールドカップ(W杯)ドイツ大会に関するインターネット公式サイトでチベットが独立国と扱われていることが分かり、中国で反発を招いている。中国共産党の人民日報社が発行する日刊紙・京華時報が8日伝えたところによると、同サイトの英語版とフランス語版は中国を紹介するコーナーで、同国の自治区であるチベットを「隣国」の一つとして紹介。このため、中国のネット上で憤りの声が相次ぎ、同紙記者はFIFAに電子メールを送って、釈明を求めた。 (時事通信)[2003年12月8日15時2分更新]

2. 第二のハードル 選手がそろわない
現在の国際社会のルールでは、チベット人は中国人になるか、難民として無国籍を通すか、亡命先の国の国籍をとるしかない。中国本土のチベット人はこの試合に参加したら逮捕されてしまうので、難民コミュニティから選手を選抜することになる。すると、難民は無国籍なので、パスポートにかわる身分証をインドから発行してもらわねばならない。つまり、身分証のでない選手は試合に連れて行けない。
この結果、チベット人監督の努力もむなしく、ゴールキーパー(注 イケメン)の身分証が出ず、試合にでられなくなった。
ゴールキーパーなし! という衝撃の現実にチベット・チームを鍛えるために雇われたデンマーク人監督は「あと5-6人いないとチームが編成できない」と悲鳴。
そこで、チベット人監督はスイスの難民社会に電話をして「ゴールキーパーとディフェンスを送ってくれ」と頼み込む
試合直前にゴールキーパー探している時点で、負けは決まった(笑)。
しかし、これだけのハードルがあっても、選手も監督もサポーターも誰もネガティブにならないところが実にすごい。他でもないサッカーを愛するチベット人の気合いとチベットをサポートする人々の熱意が試合を実現させた原動力なのである
一番に賞賛するべきは、チベット・チームを鍛えるために、チベット・サッカー協会に雇われたデンマーク人監督であろう。
彼がダラムサラ唯一のグラウンドに連れてこられた日のことである。
監督「ここは戦場だ。第一次世界大戦のフランダースだ。ここでは私の考えていた練習はできない。」
グラウンドはダラムサラ名物の夕方から毎日ふる雨で、ドロ沼と化していたのであった(笑)。
さらに練習をはじめるとグラウンドの真ん中を悠然とインド人が歩行していく。
デンマーク人監督「今、練習中なんだ。何歩いてるんだ。」
通りすがりのインド人「・・・・」
デンマーク人監督「わかった。分かった。待つよ(失笑)」
チベット人がデンマーク人監督に説明。
「このグラウンドの真ん中は地図の上では道になっているんですよ。」
その後もグラウンドを牛がまったりとよぎって試合は中断(笑)。
でも、デンマーク人監督はこういう。
「彼らの内幾人かはマイナーリーグにも及ばない実力だ。彼らの大半は中途半端だ。しかし、小さな国だからヘタでいいということはない。やるからには本気でやらねば。試合にいけるかどうか分からない選手もいるのに、みなひたむきだ。」
そして、強化練習に疲れ果てたチベット人選手は、日に日に暗くなっていく。チベット人は本来ゆるい民族なんだよ。それを見た監督「彼らはプロじゃない。アマチュアだ。休ませよう」と、四日間の休暇を与える。監督もやさしい。
今回この試合をもっとも実現させたかったのはチベット人監督カルマ・ゴードゥプであろう。彼は
「今度の試合は単なるサッカーの試合ではない。チベットは夢の中の国ではなく、文明国であることを国際社会に示すのだ。われわれの言動・マナーそのすべてがチベットをみせるものでなくてはならない。」と選手たちにぶちあげ、選手たちの身分証をとるためにデリーで奮闘した。
しかし、何人かについて身分証が発行されないことになると
「私はパスポートの件についてはベストを尽くすといった。しかし、最善を尽くしても結果がでなかった時はどうすればいいのか」と本当につらそうだった。そして試合に負けた時もこの人だけはよよと泣き崩れていた。 この人は本当に一生懸命だった。
そして、印象的だったのは、選手たちを見守るTCVの子供たちとサッカー好きのお坊さんたち。お坊さんがなかなかイカしたことを言っていた。
「仏教では心がネガティブにならないように、ポジティブになるように変えていく修行をする。しかし、それは簡単なことではない。心を統御するシステムを心の中につくってはじめて、人は心をポジティブにコントロールすることができる。それはサッカーがただボールを蹴っていても敵に玉を奪われるが、システムをつくって防御し司令塔がボールをコントロールすると、試合に勝てるのと同じだ。仏教とサッカーは似ているんだよ」
そしてコペンハーゲンへ。中国の妨害は続々入り続けるし、FIFAはヘタレだし、「試合にはチベット国旗はもってくるな」などのネガティブな情報が入り続けるが、選手たちは「天国みたいだ」と緑のフィールドに大喜び。チベット難民は生まれた頃から何度もこういう経験しているので、逆に免疫できているのである。ついでにいうと、フリチベもなれっこである 笑。どの局面でも選手たちは基本的に明るい。
そして主将の一言。「明日はスタジアムに人がいるといいな」
確かに。グリーンランドはデンマークの自治領。チベットにとっては絶賛アウェーだ。 試合当日。カメラは選手たちとともにフィールドに入り、観客席を写しだした。すると、
そこにはチベット国旗を手にした白人観客のむれががががが。
泣けた。とあるフリチベさんも同じツボで泣けたらしい。
なぜ泣けるのか考えてみた。
フリチベる(今思いついた言葉 笑)ということは、どういうことか。それは、困難は当然のこととして(だって国がないんだもん。大変に決まっているじゃん)、困難にとらわれることなく、ポジティブにチベットの存在感を演出し続け、その文化を維持すること。
不平不満が満ちあふれたこの世界で、図体ばかり大きなだだっ子を相手にしながら、ポジティブでありつづけるのは、普通の神経ではできない。しかし、なぜか真正フリチベはそれができてしまう。
おそらくは「自分たちは護るべきものを護っている。正しい側にいる」という静かな確信が、どのような状況をもブレずに乗り切り、ハードルを平地に変える力を与えてくれるのだ。でなきゃフリチベは世代をこえて半世紀も続かない。
あのスタジアムの光景は、様々な困難が平地になった瞬間であった。それであるが故に、泣けたのであろう。
試合自体は1-4で負けてしまう。しかし「インビクタス」ではないけど、「勝っても・負けても・引き分けになっても」チベットの存在感は示せたとしう意味で、勝ったと言える。
*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜*:。.:*:・'゜☆。.:*:・'゜
続いて「ミス・チベット」。
これはインドで制作された30分の短いドキュメンタリー。見る前は、国際舞台にチベットの代表を送ってチベットの存在を国際社会に示そうとしたものの、伝統と合わないため参加者が集まらず、主宰者は苦労するという、どちらかというと主宰者よりの話かと思っていた。しかし、事実は逆であった。やっぱ見ないとダメね。
チベット難民社会にも、あまり優秀でないため、学校をでた後も行き場がなくて、街でふらふらしている若者がいる。彼らはアメリカのストリート文化をそのまま体現してズボンずりおろしたファッションで、汚い言葉をまき散らすラップを歌って、プールバーでドラッグすって、ダラムサラにくる外国人女性をガールハントすることに命をかけている。
当然のことながらそのような落ちこぼれた若者たちへの世間の視線は絶対零度。
それがこのフィルムのテーマであった。いわば、ミス・チベットの主催者が、チベットの社会の四方八方から十字砲火を浴びて炎上するお話(笑)。
ミス・チベットの主催者ロプサン・ワンゲルは長身のイケメン。ライダーブーツはいて巨大なバイクのってダラムサラの街を疾駆している。女の子にもてるためであろう(この人『チベットの祈り 中国の揺らぎ』のダラムサラの章に、ダラムサラきっての「好色家」って書いてあった 笑)。
冒頭、彼が狭いダラムサラの細い道をオートバイで疾駆するシーンから始まる。人並みをかきわけながら、進むバイクは最後に緋の衣をきたお坊さんにぶつかりそうになって静止する。
つまり、この最初のシーンは、彼は軽薄な欧化の象徴であり、伝統=僧侶とぶつかっていることを示している。
難民社会の首相をつとめていたサムドンリンポチェ
「変化には二種類あります。良くなることと、悪くなることです。我々はミス・チベットを最初から支援していません。百パーセント西洋文化の悪趣味な猿まねです。女性は社会の縁の下の力もちです。若い娘は人前で脚光をあびるべきではありません」
のっけからキター!!!!
彼の活動はチベット人の活動家なら理解しているでしょうか。
活動家「難民社会には外国の文化がどんどん入りこんでいます。彼らは近代化と西洋化を区別していません。チベット人は肉体の美しさよりも、心の美しさの方を評価します。思いやりの心をもっとも評価します。ミスチベットの舞台で、女の子が私は〔ノーベル平和賞をとった〕マンデラやマザー・テレサを尊敬しています、なんていっても、それはコンテストのためにそう言うように教育されただけでしょう? それは本人の個性じゃない。」
さんざんです。でも、主催者ロプサン・ワンゲル「ボクはチベットの社会にために何かしたいんだ。ミスの舞台にあがることで、チベットの女性も自分を表現して自信をつけ、人前で堂々と振る舞えるようになる」
これに対して、チベット女性協会の担当者「この主催者は社会に信頼されていません。ミス・チベットに選ばれれば名声もお金も手に入ります。でも参加者がいないのはなぜでしょう。保守的な両親はむすめが舞台の上にたってさらしものになるのをいやがるからです。」
で、このような人々の冷たい証言が続く中、合間合間に、たった一人のミス・チベットの参加者は、集まったカメラ小僧の前で、インド風の踊りをくねくね踊り続ける。もの悲しい。
そして、ピンクのスーツをきて司会をつとめるロプサン・ワンゲルにも生卵?がとんでくる。この時点で、絶対零度を記録。
じゃあ、ロックをやっているチベット青年なら理解してもらえるかしら? ということで「エグザイル・ブラザーズ」(ロックバンド)登場。いっておくが、こっちのエグザイルの方が正真正銘のエグザイル(亡命者)である。
はい、彼らが作った曲です。
オレはあんたたちはどーでもいい
あんたたちもオレをどーでもいい
オレがコーヒー(西洋)を飲めば
あんたたちはバター茶(伝統)をのむ。
オレはこの街の王様だ。
これがエンディングでした(笑)。
というわけで、このドキュメンタリーは、チベット難民社会のために働きたいと思いつつも、僧侶になるような高潔さもなし、欧米にでて活躍するような才能もないため、やらかしてしまった若者たちのドキュメントでした。
「チベットのキックオフ」(原題 The Forbidden Team / Det forbudte landshold 監督 Rasmus Dinesen and Arnold Krojgard)は、2000年の6月30日にコペンハーゲンで行われたチベット対グリーンランドのサッカーの国際試合が行われるまでのドキュメント。取材期間は、インドのデラドゥンでチベットのナショナル・チームがくまれ、ダラムサラでの一ヶ月間の強化訓練をへて、試合が行われるまで。
普通に考えてもナショナル・チームつくって国際試合にでるにはたくさんの手続きが必要だが、チベット人には国がないので、さらに高いハードルがそびえ立つ。
1. 第一のハードル 対戦国と開催地を見つける
この部分はドキュメンタリーでは描かれなかったが、一番難しいところ。チベットの対戦相手には、中国様の子供じみたいやがらせが炸裂するので、そのような状況に直面してもぶれない高潔な意志が必要となる。日本みたいな道徳観念が希薄で、意志も戦略もない国だと、どこの組織にもいる事なかれ主義者が試合を流してしまう。
しかし、デンマークもグリーンランドも偉かった。グリーランドはデンマークの自治領で独立を求めているという点で、チベットと立場は似ている(ただし、チベットの場合は自治は名ばかりだが、グリーンランドは高度な自治を実現している)。だから、引き受けたのであろうし、試合会場を提供したデンマークも大人である。
ちなみに、FIFAは試合をやめさせようとし、さらには「公式試合でない」と宣言するなど終始腰が引けていたが、その後、2003年におちゃめな事件の当事者になる。西ドイツでワールドカップが行われた際、参加国の紹介をするページで、中国の隣国に「チベット」と記載していた事件である(ぷぷぷ)。記事と写真をあげておく。
チベットを独立国と記述=中国で反発の声-FIFA公式サイト
【北京8日時事】国際サッカー連盟(FIFA)の2006年ワールドカップ(W杯)ドイツ大会に関するインターネット公式サイトでチベットが独立国と扱われていることが分かり、中国で反発を招いている。中国共産党の人民日報社が発行する日刊紙・京華時報が8日伝えたところによると、同サイトの英語版とフランス語版は中国を紹介するコーナーで、同国の自治区であるチベットを「隣国」の一つとして紹介。このため、中国のネット上で憤りの声が相次ぎ、同紙記者はFIFAに電子メールを送って、釈明を求めた。 (時事通信)[2003年12月8日15時2分更新]

2. 第二のハードル 選手がそろわない
現在の国際社会のルールでは、チベット人は中国人になるか、難民として無国籍を通すか、亡命先の国の国籍をとるしかない。中国本土のチベット人はこの試合に参加したら逮捕されてしまうので、難民コミュニティから選手を選抜することになる。すると、難民は無国籍なので、パスポートにかわる身分証をインドから発行してもらわねばならない。つまり、身分証のでない選手は試合に連れて行けない。
この結果、チベット人監督の努力もむなしく、ゴールキーパー(注 イケメン)の身分証が出ず、試合にでられなくなった。
ゴールキーパーなし! という衝撃の現実にチベット・チームを鍛えるために雇われたデンマーク人監督は「あと5-6人いないとチームが編成できない」と悲鳴。
そこで、チベット人監督はスイスの難民社会に電話をして「ゴールキーパーとディフェンスを送ってくれ」と頼み込む
試合直前にゴールキーパー探している時点で、負けは決まった(笑)。
しかし、これだけのハードルがあっても、選手も監督もサポーターも誰もネガティブにならないところが実にすごい。他でもないサッカーを愛するチベット人の気合いとチベットをサポートする人々の熱意が試合を実現させた原動力なのである
一番に賞賛するべきは、チベット・チームを鍛えるために、チベット・サッカー協会に雇われたデンマーク人監督であろう。
彼がダラムサラ唯一のグラウンドに連れてこられた日のことである。
監督「ここは戦場だ。第一次世界大戦のフランダースだ。ここでは私の考えていた練習はできない。」
グラウンドはダラムサラ名物の夕方から毎日ふる雨で、ドロ沼と化していたのであった(笑)。
さらに練習をはじめるとグラウンドの真ん中を悠然とインド人が歩行していく。
デンマーク人監督「今、練習中なんだ。何歩いてるんだ。」
通りすがりのインド人「・・・・」
デンマーク人監督「わかった。分かった。待つよ(失笑)」
チベット人がデンマーク人監督に説明。
「このグラウンドの真ん中は地図の上では道になっているんですよ。」
その後もグラウンドを牛がまったりとよぎって試合は中断(笑)。
でも、デンマーク人監督はこういう。
「彼らの内幾人かはマイナーリーグにも及ばない実力だ。彼らの大半は中途半端だ。しかし、小さな国だからヘタでいいということはない。やるからには本気でやらねば。試合にいけるかどうか分からない選手もいるのに、みなひたむきだ。」
そして、強化練習に疲れ果てたチベット人選手は、日に日に暗くなっていく。チベット人は本来ゆるい民族なんだよ。それを見た監督「彼らはプロじゃない。アマチュアだ。休ませよう」と、四日間の休暇を与える。監督もやさしい。
今回この試合をもっとも実現させたかったのはチベット人監督カルマ・ゴードゥプであろう。彼は
「今度の試合は単なるサッカーの試合ではない。チベットは夢の中の国ではなく、文明国であることを国際社会に示すのだ。われわれの言動・マナーそのすべてがチベットをみせるものでなくてはならない。」と選手たちにぶちあげ、選手たちの身分証をとるためにデリーで奮闘した。
しかし、何人かについて身分証が発行されないことになると
「私はパスポートの件についてはベストを尽くすといった。しかし、最善を尽くしても結果がでなかった時はどうすればいいのか」と本当につらそうだった。そして試合に負けた時もこの人だけはよよと泣き崩れていた。 この人は本当に一生懸命だった。
そして、印象的だったのは、選手たちを見守るTCVの子供たちとサッカー好きのお坊さんたち。お坊さんがなかなかイカしたことを言っていた。
「仏教では心がネガティブにならないように、ポジティブになるように変えていく修行をする。しかし、それは簡単なことではない。心を統御するシステムを心の中につくってはじめて、人は心をポジティブにコントロールすることができる。それはサッカーがただボールを蹴っていても敵に玉を奪われるが、システムをつくって防御し司令塔がボールをコントロールすると、試合に勝てるのと同じだ。仏教とサッカーは似ているんだよ」
そしてコペンハーゲンへ。中国の妨害は続々入り続けるし、FIFAはヘタレだし、「試合にはチベット国旗はもってくるな」などのネガティブな情報が入り続けるが、選手たちは「天国みたいだ」と緑のフィールドに大喜び。チベット難民は生まれた頃から何度もこういう経験しているので、逆に免疫できているのである。ついでにいうと、フリチベもなれっこである 笑。どの局面でも選手たちは基本的に明るい。
そして主将の一言。「明日はスタジアムに人がいるといいな」
確かに。グリーンランドはデンマークの自治領。チベットにとっては絶賛アウェーだ。 試合当日。カメラは選手たちとともにフィールドに入り、観客席を写しだした。すると、
そこにはチベット国旗を手にした白人観客のむれががががが。
泣けた。とあるフリチベさんも同じツボで泣けたらしい。
なぜ泣けるのか考えてみた。
フリチベる(今思いついた言葉 笑)ということは、どういうことか。それは、困難は当然のこととして(だって国がないんだもん。大変に決まっているじゃん)、困難にとらわれることなく、ポジティブにチベットの存在感を演出し続け、その文化を維持すること。
不平不満が満ちあふれたこの世界で、図体ばかり大きなだだっ子を相手にしながら、ポジティブでありつづけるのは、普通の神経ではできない。しかし、なぜか真正フリチベはそれができてしまう。
おそらくは「自分たちは護るべきものを護っている。正しい側にいる」という静かな確信が、どのような状況をもブレずに乗り切り、ハードルを平地に変える力を与えてくれるのだ。でなきゃフリチベは世代をこえて半世紀も続かない。
あのスタジアムの光景は、様々な困難が平地になった瞬間であった。それであるが故に、泣けたのであろう。
試合自体は1-4で負けてしまう。しかし「インビクタス」ではないけど、「勝っても・負けても・引き分けになっても」チベットの存在感は示せたとしう意味で、勝ったと言える。
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続いて「ミス・チベット」。
これはインドで制作された30分の短いドキュメンタリー。見る前は、国際舞台にチベットの代表を送ってチベットの存在を国際社会に示そうとしたものの、伝統と合わないため参加者が集まらず、主宰者は苦労するという、どちらかというと主宰者よりの話かと思っていた。しかし、事実は逆であった。やっぱ見ないとダメね。
チベット難民社会にも、あまり優秀でないため、学校をでた後も行き場がなくて、街でふらふらしている若者がいる。彼らはアメリカのストリート文化をそのまま体現してズボンずりおろしたファッションで、汚い言葉をまき散らすラップを歌って、プールバーでドラッグすって、ダラムサラにくる外国人女性をガールハントすることに命をかけている。
当然のことながらそのような落ちこぼれた若者たちへの世間の視線は絶対零度。
それがこのフィルムのテーマであった。いわば、ミス・チベットの主催者が、チベットの社会の四方八方から十字砲火を浴びて炎上するお話(笑)。
ミス・チベットの主催者ロプサン・ワンゲルは長身のイケメン。ライダーブーツはいて巨大なバイクのってダラムサラの街を疾駆している。女の子にもてるためであろう(この人『チベットの祈り 中国の揺らぎ』のダラムサラの章に、ダラムサラきっての「好色家」って書いてあった 笑)。
冒頭、彼が狭いダラムサラの細い道をオートバイで疾駆するシーンから始まる。人並みをかきわけながら、進むバイクは最後に緋の衣をきたお坊さんにぶつかりそうになって静止する。
つまり、この最初のシーンは、彼は軽薄な欧化の象徴であり、伝統=僧侶とぶつかっていることを示している。
難民社会の首相をつとめていたサムドンリンポチェ
「変化には二種類あります。良くなることと、悪くなることです。我々はミス・チベットを最初から支援していません。百パーセント西洋文化の悪趣味な猿まねです。女性は社会の縁の下の力もちです。若い娘は人前で脚光をあびるべきではありません」
のっけからキター!!!!
彼の活動はチベット人の活動家なら理解しているでしょうか。
活動家「難民社会には外国の文化がどんどん入りこんでいます。彼らは近代化と西洋化を区別していません。チベット人は肉体の美しさよりも、心の美しさの方を評価します。思いやりの心をもっとも評価します。ミスチベットの舞台で、女の子が私は〔ノーベル平和賞をとった〕マンデラやマザー・テレサを尊敬しています、なんていっても、それはコンテストのためにそう言うように教育されただけでしょう? それは本人の個性じゃない。」
さんざんです。でも、主催者ロプサン・ワンゲル「ボクはチベットの社会にために何かしたいんだ。ミスの舞台にあがることで、チベットの女性も自分を表現して自信をつけ、人前で堂々と振る舞えるようになる」
これに対して、チベット女性協会の担当者「この主催者は社会に信頼されていません。ミス・チベットに選ばれれば名声もお金も手に入ります。でも参加者がいないのはなぜでしょう。保守的な両親はむすめが舞台の上にたってさらしものになるのをいやがるからです。」
で、このような人々の冷たい証言が続く中、合間合間に、たった一人のミス・チベットの参加者は、集まったカメラ小僧の前で、インド風の踊りをくねくね踊り続ける。もの悲しい。
そして、ピンクのスーツをきて司会をつとめるロプサン・ワンゲルにも生卵?がとんでくる。この時点で、絶対零度を記録。
じゃあ、ロックをやっているチベット青年なら理解してもらえるかしら? ということで「エグザイル・ブラザーズ」(ロックバンド)登場。いっておくが、こっちのエグザイルの方が正真正銘のエグザイル(亡命者)である。
はい、彼らが作った曲です。
オレはあんたたちはどーでもいい
あんたたちもオレをどーでもいい
オレがコーヒー(西洋)を飲めば
あんたたちはバター茶(伝統)をのむ。
オレはこの街の王様だ。
これがエンディングでした(笑)。
というわけで、このドキュメンタリーは、チベット難民社会のために働きたいと思いつつも、僧侶になるような高潔さもなし、欧米にでて活躍するような才能もないため、やらかしてしまった若者たちのドキュメントでした。
ダライラマとスーチーさんなごみ2shot
2012年6月16日、ビルマの民主化のリーダー、アウンサン・スーチー氏が、21年目のノーベル平和賞スピーチを行った。ビルマ軍政によって長きにわたり軟禁されていたため、出国をすると、今の中国の民主活動家たちと同じく帰国できない可能性があったため、彼女は出国を断念し、結果、ロンドンに住む愛息二人の成長を側でみまもることもできず、夫の死に立ち会うこともできなかった。しかし、昨年からはじまった軍政の軟化にともない、スーチーさんの外遊も可能となり今回の運びとなったのである。

さらに、2012年6月19日、訪問先のロンドンで、ダライラマ14世とスーチーさんの会合が実現した。
この写真はまたたくまにFBで世界中に共有され、チベット・ビルマ両民族の不幸に心を痛める人々は、みなこの写真に得たいのしれない勇気をもらった。何かポジティブな気があるので、はっておく。
このエントリでも述べたようにスーチーさんのなくなられたダンナ様、Mihcael Arisはチベット研究者。また、スーチーさんは思春期から20才まで母親がインド大使をつとめていた関係でインドにおすまいだった。彼女がマハトマ・ガンディーを尊敬しているのはこのインド滞在が大きく作用している。
また、当然のことながらスーチーさんは仏教徒。ダライラマ法王と同じく彼女の非暴力運動の原動力は、仏教のアヒンサーからくるものだ。スーチーさんとダライラマ法王の人生は常に近いところにあり、それが19日ようやく交った。
ビルマが本当に民主化に向かうかはまだ分からないが、こういうツーショットは猜疑心のあふれる世界に大きな前向きな力を生むものである。
法王とスーチーさんの関係を示す史料で、自分の手元にあったものを参考までにあげておく。
参考1は、ダライラマ法王を含む平和賞受賞者がスーチーさんの解放をもとめてビルマ入国を求めた出来事。ダライラマ14世を含む7人のノーベル平和賞受賞者がスーチーの解放を要求してビルマへの入国を試み、拒否される。7人はビルマ難民キャンプを訪れ支援を表明。そのままジュネーブにとび国連人権委員会(UN Commission for Human Rights)で同じアピールを行う。ダライラマ法王は平和賞受賞者と積極的にリーグをくんでこのような働きかけを行ってきた。そのあとビルマへの投資を抑制するようなよびかけも行っている。
参考2は、法王からスーチーさんへの公開書簡。
参考1 ノーベル賞受賞者がミャンマーのスー・チーさん解放運動(1993年02月21日 朝日朝刊)
ミャンマー(ビルマ)軍事政権によって自宅に軟禁されている九一年のノーベル平和賞受賞者アウン・サン・スー・チーさんの即時釈放や民主化を要求する、歴代平和賞受賞者ら七人が二十日、タイでの五日間の運動を終えた。隣国から国境を越えて吹きつけた“平和の風”に軍事政権が反発を強める中、一行は、全面的な武器禁輸や経済制裁、国連議席停止を求める勧告を携え、運動の舞台を今後は国連に移す。(バンコク=林修平)
●国境の叫び
二十日午後三時、バンコクのチュラロンコン大学に姿を見せたコスタリカのアリアス前大統領や南アフリカ共和国の黒人指導者デズモンド・ツツ大主教ら一行七人は、学生ら聴衆四百人を前に「人権と平和」について語った。
ミャンマーを脱出してタイで暮らす学生の姿も目立った。予想を超える参加者で、教室から講堂に会場が変更される盛況ぶり。
アリアス氏が「スー・チーさんの釈放のために圧政者に圧力を」と、声を張り上げると、会場に拍手がわいた。
ツツ大主教らは十八日には、ミャンマー国境から十キロほどタイ領に入った少数民族カレン族のメラ難民キャンプを訪れた。民族衣装姿の若者らが「平和が欲しい」「アウン・サン・スー・チーを自由に」と手書きのスローガンを掲げて迎えた。
歓迎集会。最後に演壇に立ったツツ大主教は「大きな鉄砲を持ったビルマの政府は小さなアウン・サン・スー・チーを恐れている。小さなあなたたちを恐れている」と語りかけた。
国境の少数民族や学生ら反政府勢力は、八九年六月に軍事政権が行った「ビルマ」から「ミャンマー」への国名変更も認めていない。
次に訪ねたホイクラロック難民キャンプ。八八年九月の武力弾圧で国境地帯に逃げ込んだ学生で組織する全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)のモ・ティ・ズン議長(三一)がツツ大主教に「一緒に写真を」とはにかんだような表情で頼んだ。「世界の人びとの支持を集めることで勝利できる。今回の訪問の意味は大きい」とほおを紅潮させる同議長。
●傾いた天秤
こうした国境の動きをにらみながら、軍事政権を事実上切り回す実力者とされるキン・ニュン国家法秩序回復評議会(SLORC)第一書記は「外部からの干渉で政策を変えるようなことはない」と国営放送などで繰り返し、“平和攻勢”に反発を強める。
軍事政権は、民主勢力が圧勝した九〇年五月の総選挙結果を無視。新憲法の制定を「民政移管」の前提とする、独自の「民主化」路線を進めている。
この路線に沿って今年一月初旬、新憲法の基本原則を定めるために軍事政権が招集した国民会議は、「軍の指導的役割」規定をめぐる反発から、二回の全体会議を開いただけで休会。二月初めに再開された後も、遅々としてもたついているように見える。
だが、首都ヤンゴン(ラングーン)の消息筋は、軍の国民会議運営に反発しているとされる全国民主連盟(NLD)や少数民族のシャン族に、「組織された反政府運動を起こす力はない」と言う。
平和賞受賞者の訪問で、国境で抵抗する少数民族や学生の意気は上がった。だが、国内の民主勢力と軍事政権の力関係の天秤(てんびん)は大きく軍部に傾いたままだ。
●目的は同じ
舞台を提供した隣国タイ政府も微妙な対応を迫られた。タイは、九一年二月のクーデター、昨年五月の民主化運動に対する武力弾圧事件、さらにカンボジアのポル・ポト派に対する経済制裁への消極姿勢と、対外的イメージが揺らいだ。
五月事件から生まれたチュアン内閣には人権や民主主義へ踏み込んだ対応が期待されている。対中国関係を考慮して過去二回、入国を拒否したチベット独立運動指導者ダライ・ラマも、今回は軍部内の不協和音を押さえて入国を認めた。
チュアン首相は二十日、公邸に一行を非公式に招いて一時間半話し合った。一行は前日、武器禁輸や経済制裁、国連議席の停止などを国連に勧告する緊急声明を発表。
会談で、チュアン首相は「ミャンマーに民主主義を回復する目的は同じ。孤立させるのは逆効果」と応じた。
人権と民主主義をめぐる東西の対応には隔たりがある。アリアス前大統領は会議後、「時間がかかるかもしれない。だが、我々の主張が国際社会から支援されるよう望んでいる」と語った。
--------------------
参考2 ダライ・ラマ法王14世からアウンサンスーチー氏への書簡 2005年6月8日
ビルマ(ミャンマー)連邦 ヤンゴン市大学通54-56 国民民主連盟(NLD)気付
アウンサンスーチー様
拝啓
私たちのように海外にいる者や、ビルマ国内のあなたの同志たちと、あなたとの連絡はあまりに長いこと途絶えたままになっているように感じられます。あなたの心身の健康と幸せへの懸念は募るばかりです。あなたはまた、ご家族や多くのご友人方からの愛に満ちた言葉や励ましのメッセージも、これもまた長いこと一切受け取っておられないのではないでしょうか。だからこそ私は、あなたの 60 歳の誕生日というこの機会を通じて、お祝いの言葉を述べさせていただくと共に、あなた自身の健康と長寿を願うのです。そしてまた、あなたがビルマの人々に向ける、心からの厚い好意が成就されるように祈りを捧げるのです。
おわかりのこととは思いますが、私はチベット人として、あなたが現在直面しておられる厳しい事態に特別な共感を覚えています。チベットとビルマの人々は、過去一貫して隣人であり続けるだけでなく、安寧と慈悲を説く仏陀の教えに従うものとして、数々の価値と願いを共有してもいます。また皮肉なことに、ここ数十年来、私たち両国の人々は共に、自然に正当な形で自由を求め、その実現の機会を探っていますが、こうした取り組みは力づくで押さえ込まれ続けています。
私が深く尊敬するのは、こうした不当な抑圧に直面しながら、非暴力的な手段に忠実であり、受動的な抵抗を用い、対話と妥協と交渉を通じた解決を求めるようとするあなたの決意です。しかし、私たち2人には痛いほどわかっていることですが、こうした物事への取り組み方が実を結ぶには、争いの当事者が話し合おうと互いに身を乗り出さなければなりません。したがって、 私はこの場を借りて 、ビルマ政府に対して、今すぐあなたの軟禁を解くよう、またビルマのあらゆる人々の最終的な利益のために、ただちにあなたとあなたが属する政党との対話を再開するよう訴えます。
今が多難な時期であることに間違いはありません。しかし決して希望を失っても、諦めてもいけません。私自身の、また多くの人々のあなたへの思いは、つねに、ビルマというひっそりとした大地(訳注:アウンサンスーチー氏の詩 "In the Quiet Land" を踏まえていると思われる)で隔離されているあなたと共にあるのです。私は確信を持って次のように言うことができます。このような心からの支援の気持ちが、たとえ直接あなたのもとに届かないとしても、あなたは、ここにこめられた思いを通じて、力と恵みを受け取られるのです。そして最終的には真理と自由、正義が勝利するのです。
祈りと厚情を込めて敬具 (ダライ・ラマ法王の署名)(訳、箱田 徹)

さらに、2012年6月19日、訪問先のロンドンで、ダライラマ14世とスーチーさんの会合が実現した。
この写真はまたたくまにFBで世界中に共有され、チベット・ビルマ両民族の不幸に心を痛める人々は、みなこの写真に得たいのしれない勇気をもらった。何かポジティブな気があるので、はっておく。
このエントリでも述べたようにスーチーさんのなくなられたダンナ様、Mihcael Arisはチベット研究者。また、スーチーさんは思春期から20才まで母親がインド大使をつとめていた関係でインドにおすまいだった。彼女がマハトマ・ガンディーを尊敬しているのはこのインド滞在が大きく作用している。
また、当然のことながらスーチーさんは仏教徒。ダライラマ法王と同じく彼女の非暴力運動の原動力は、仏教のアヒンサーからくるものだ。スーチーさんとダライラマ法王の人生は常に近いところにあり、それが19日ようやく交った。
ビルマが本当に民主化に向かうかはまだ分からないが、こういうツーショットは猜疑心のあふれる世界に大きな前向きな力を生むものである。
法王とスーチーさんの関係を示す史料で、自分の手元にあったものを参考までにあげておく。
参考1は、ダライラマ法王を含む平和賞受賞者がスーチーさんの解放をもとめてビルマ入国を求めた出来事。ダライラマ14世を含む7人のノーベル平和賞受賞者がスーチーの解放を要求してビルマへの入国を試み、拒否される。7人はビルマ難民キャンプを訪れ支援を表明。そのままジュネーブにとび国連人権委員会(UN Commission for Human Rights)で同じアピールを行う。ダライラマ法王は平和賞受賞者と積極的にリーグをくんでこのような働きかけを行ってきた。そのあとビルマへの投資を抑制するようなよびかけも行っている。
参考2は、法王からスーチーさんへの公開書簡。
参考1 ノーベル賞受賞者がミャンマーのスー・チーさん解放運動(1993年02月21日 朝日朝刊)
ミャンマー(ビルマ)軍事政権によって自宅に軟禁されている九一年のノーベル平和賞受賞者アウン・サン・スー・チーさんの即時釈放や民主化を要求する、歴代平和賞受賞者ら七人が二十日、タイでの五日間の運動を終えた。隣国から国境を越えて吹きつけた“平和の風”に軍事政権が反発を強める中、一行は、全面的な武器禁輸や経済制裁、国連議席停止を求める勧告を携え、運動の舞台を今後は国連に移す。(バンコク=林修平)
●国境の叫び
二十日午後三時、バンコクのチュラロンコン大学に姿を見せたコスタリカのアリアス前大統領や南アフリカ共和国の黒人指導者デズモンド・ツツ大主教ら一行七人は、学生ら聴衆四百人を前に「人権と平和」について語った。
ミャンマーを脱出してタイで暮らす学生の姿も目立った。予想を超える参加者で、教室から講堂に会場が変更される盛況ぶり。
アリアス氏が「スー・チーさんの釈放のために圧政者に圧力を」と、声を張り上げると、会場に拍手がわいた。
ツツ大主教らは十八日には、ミャンマー国境から十キロほどタイ領に入った少数民族カレン族のメラ難民キャンプを訪れた。民族衣装姿の若者らが「平和が欲しい」「アウン・サン・スー・チーを自由に」と手書きのスローガンを掲げて迎えた。
歓迎集会。最後に演壇に立ったツツ大主教は「大きな鉄砲を持ったビルマの政府は小さなアウン・サン・スー・チーを恐れている。小さなあなたたちを恐れている」と語りかけた。
国境の少数民族や学生ら反政府勢力は、八九年六月に軍事政権が行った「ビルマ」から「ミャンマー」への国名変更も認めていない。
次に訪ねたホイクラロック難民キャンプ。八八年九月の武力弾圧で国境地帯に逃げ込んだ学生で組織する全ビルマ学生民主戦線(ABSDF)のモ・ティ・ズン議長(三一)がツツ大主教に「一緒に写真を」とはにかんだような表情で頼んだ。「世界の人びとの支持を集めることで勝利できる。今回の訪問の意味は大きい」とほおを紅潮させる同議長。
●傾いた天秤
こうした国境の動きをにらみながら、軍事政権を事実上切り回す実力者とされるキン・ニュン国家法秩序回復評議会(SLORC)第一書記は「外部からの干渉で政策を変えるようなことはない」と国営放送などで繰り返し、“平和攻勢”に反発を強める。
軍事政権は、民主勢力が圧勝した九〇年五月の総選挙結果を無視。新憲法の制定を「民政移管」の前提とする、独自の「民主化」路線を進めている。
この路線に沿って今年一月初旬、新憲法の基本原則を定めるために軍事政権が招集した国民会議は、「軍の指導的役割」規定をめぐる反発から、二回の全体会議を開いただけで休会。二月初めに再開された後も、遅々としてもたついているように見える。
だが、首都ヤンゴン(ラングーン)の消息筋は、軍の国民会議運営に反発しているとされる全国民主連盟(NLD)や少数民族のシャン族に、「組織された反政府運動を起こす力はない」と言う。
平和賞受賞者の訪問で、国境で抵抗する少数民族や学生の意気は上がった。だが、国内の民主勢力と軍事政権の力関係の天秤(てんびん)は大きく軍部に傾いたままだ。
●目的は同じ
舞台を提供した隣国タイ政府も微妙な対応を迫られた。タイは、九一年二月のクーデター、昨年五月の民主化運動に対する武力弾圧事件、さらにカンボジアのポル・ポト派に対する経済制裁への消極姿勢と、対外的イメージが揺らいだ。
五月事件から生まれたチュアン内閣には人権や民主主義へ踏み込んだ対応が期待されている。対中国関係を考慮して過去二回、入国を拒否したチベット独立運動指導者ダライ・ラマも、今回は軍部内の不協和音を押さえて入国を認めた。
チュアン首相は二十日、公邸に一行を非公式に招いて一時間半話し合った。一行は前日、武器禁輸や経済制裁、国連議席の停止などを国連に勧告する緊急声明を発表。
会談で、チュアン首相は「ミャンマーに民主主義を回復する目的は同じ。孤立させるのは逆効果」と応じた。
人権と民主主義をめぐる東西の対応には隔たりがある。アリアス前大統領は会議後、「時間がかかるかもしれない。だが、我々の主張が国際社会から支援されるよう望んでいる」と語った。
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参考2 ダライ・ラマ法王14世からアウンサンスーチー氏への書簡 2005年6月8日
ビルマ(ミャンマー)連邦 ヤンゴン市大学通54-56 国民民主連盟(NLD)気付
アウンサンスーチー様
拝啓
私たちのように海外にいる者や、ビルマ国内のあなたの同志たちと、あなたとの連絡はあまりに長いこと途絶えたままになっているように感じられます。あなたの心身の健康と幸せへの懸念は募るばかりです。あなたはまた、ご家族や多くのご友人方からの愛に満ちた言葉や励ましのメッセージも、これもまた長いこと一切受け取っておられないのではないでしょうか。だからこそ私は、あなたの 60 歳の誕生日というこの機会を通じて、お祝いの言葉を述べさせていただくと共に、あなた自身の健康と長寿を願うのです。そしてまた、あなたがビルマの人々に向ける、心からの厚い好意が成就されるように祈りを捧げるのです。
おわかりのこととは思いますが、私はチベット人として、あなたが現在直面しておられる厳しい事態に特別な共感を覚えています。チベットとビルマの人々は、過去一貫して隣人であり続けるだけでなく、安寧と慈悲を説く仏陀の教えに従うものとして、数々の価値と願いを共有してもいます。また皮肉なことに、ここ数十年来、私たち両国の人々は共に、自然に正当な形で自由を求め、その実現の機会を探っていますが、こうした取り組みは力づくで押さえ込まれ続けています。
私が深く尊敬するのは、こうした不当な抑圧に直面しながら、非暴力的な手段に忠実であり、受動的な抵抗を用い、対話と妥協と交渉を通じた解決を求めるようとするあなたの決意です。しかし、私たち2人には痛いほどわかっていることですが、こうした物事への取り組み方が実を結ぶには、争いの当事者が話し合おうと互いに身を乗り出さなければなりません。したがって、 私はこの場を借りて 、ビルマ政府に対して、今すぐあなたの軟禁を解くよう、またビルマのあらゆる人々の最終的な利益のために、ただちにあなたとあなたが属する政党との対話を再開するよう訴えます。
今が多難な時期であることに間違いはありません。しかし決して希望を失っても、諦めてもいけません。私自身の、また多くの人々のあなたへの思いは、つねに、ビルマというひっそりとした大地(訳注:アウンサンスーチー氏の詩 "In the Quiet Land" を踏まえていると思われる)で隔離されているあなたと共にあるのです。私は確信を持って次のように言うことができます。このような心からの支援の気持ちが、たとえ直接あなたのもとに届かないとしても、あなたは、ここにこめられた思いを通じて、力と恵みを受け取られるのです。そして最終的には真理と自由、正義が勝利するのです。
祈りと厚情を込めて敬具 (ダライ・ラマ法王の署名)(訳、箱田 徹)
チベット映画特集(オロ前夜祭)
岩佐寿弥監督のドキュメンタリー「オロ」の公開に先立って、渋谷でチベット映画特集が行われる。
チベット人を主役に据えた映画やアニメは中国においても、また、中国以外においても作られていますが、今回の映画特集は難民社会の少年のドキュメンタリー「オロ」を知るためのものなので、当然中国以外で取られたものが多い。
■上映作品一覧
『白い馬』(1995)椎名誠監督
『風の馬』(1998)ポール・ワグナー監督
『モゥモ・チェンガ』(2002)岩佐寿弥監督
『チベット2002』(2002)岩佐寿弥監督
『チベットへのキックオフ』(2003)アーノルド・クロイガード、ラスムス・ディ、セン監督
『ブラインドサイト』(2006)ルーシー・ウォーカー監督
『ミス・チベット』(2007)シェバウ・ルズール・ヴァン・リーウェン、テンジン・タルドー監督
『雪の下の炎』(2008)楽真琴監督
『恐怖を乗り越えて』(2008)トンドゥプ・ワンチェン監督
『チベット・チベット』(2008)キム・スンヨン監督
『陽に灼けた道』(2010)ソンタルジャ監督
『夏の草原』(2010)リン・トゥルー、ネルソン・ウォーカー監督
※12作品の簡単な解説と会場詳細などはこちらのサイトをごらんください。
■上映スケジュール
6月16日(土)
13:00 モゥモ・チェンガ(104分)
上映後、岩佐寿弥監督ティーチ・イン
15:20 白い馬(106分)
17:30 スペシャル対談「ナランとオロ、そしてぼくたちの少年時代」
椎名誠(『白い馬』監督)×岩佐寿弥(『オロ』監督)
19:00 陽に灼けた道(89分)
6月17日(日)
17:30 夏の草原(85分)
19:00 雪の下の炎(75分)
6月18日(月)
13:00 チベットへのキックオフ(54分)+ミス・チベット(30分)
14:40 チベット2002(68分)+恐怖を乗り越えて(25分)
16:50 ブラインドサイト(104分)
19:00 チベット チベット(95分)
6月19日(火)
13:00 陽に灼けた道(89分)
15:00 雪の下の炎(75分)
16:50 風の馬(97分)
19:00 白い馬(106分)
6月20日(水)
13:00 チベット2002(68分)+恐怖を乗り越えて(25分)
15:00 モゥモ・チェンガ(104分)
上映後、岩佐寿弥監督ティーチ・イン
17:30 チベットへのキックオフ(54分)+ミス・チベット(30分)
19:20 夏の草原(85分)
6月21日(木)
13:00 ブラインドサイト(104分)
15:10 チベット チベット(95分)
17:10 雪の下の炎(75分)
19:00 風の馬(97分)
6月22日(金)
13:00 白い馬(106分)
15:10 夏の草原(85分)
17:00 陽に灼けた道(89分)
18:50 モゥモ・チェンガ(104分)
上映後、岩佐寿弥監督ティーチ・イン
まず岩佐監督の二作品から。一つは難民社会のおばあさんモゥモ・チェンガの生涯とその信仰生活を描いた『モゥモ・チェンガ』、もう一つはダライラマのインタビューなどによって構成されるダラムサラ紹介『チベット2002』。モゥモ・チェンガは非常によくできたドキュメンタリー。もしご覧になっていない方は是非この機会にご覧あれ。
『オロ』の登場人物としては、同じく『モゥモ・チェンガ』と『恐怖を乗り越えて』が必見。モゥモ・チェンガは1959年にインドに亡命する前は遊牧民であった。少年オロも亡命前は東チベットで親の手助けをして放牧をしていた。『オロ』のラスト近く、オロとモゥモ・チェンガが思い出の中のチベットを楽しく語り合う場面は、彼らの思い出の中のチベットがいかに美しいものかを思わせて、胸がつまる。
『恐怖を乗り越えて』とは、本土チベットのチベット人の本音を様々な人々のインタビューから示したものである。中国は恐怖(=本当のことを云うと殺されるという恐怖)によってチベット人を沈黙させているが、このインタビューに応じた人々はあえて顔だしをして、すなわち「恐怖を乗り越えて」中国共産党のチベット支配の非道を訴える。この後、2008年北京オリンピックの年のチベット人蜂起があったため、このインタビューをとったトンドゥプ・ワンチェンは逮捕されて現在も中国の刑務所に収監されている。
『オロ』では、このトンドゥプ・ワンチェンの妻がオロの友達の母として登場する。彼女は未明からおきだし、暗い中パンをかついでバス停留所に向かい、雨の日も風の日も一日そこでパンを売り続ける。帰らぬ夫を待ち続けているのである。暗い。
それから、『雪の下の炎』は、中国政府に35年間も刑務所に入れられていたお坊さんパルデン・ギャツォのお話。彼はアムネスティ・インターナショナルの助けで出獄した後、亡命して、世界中で中国の非道を訴え続けている。このドキュメントの監督さんはアメリカ在住の日本人、楽(ささ)真琴さん。題名は、中国共産党の支配下(雪の下)にあっても、屈しないチベット人の意志を示している。
オリンピックをはじめとし、あらゆる国際的な会合は国単位の参加である。このような状況下においては、チベット人のような国のない難民たちは、自らの存在をアピールする場がない。しかし、ミス・ユニバースとサッカーは地域参加が認められているため、チベット人でも参加は可能である。『ミス・チベット』と『チベットへのキックオフ』は前者はミス・ユニバースに代表をおくるため、後者は国際大会にサッカーチームを派遣するためのチベット難民社会の奮闘をドキュメントしたものである。
ミス・ユニバースは本来美しさで勝負をする場であるが、チベット人の目的はチベット問題のアピールなので、代表となる女性も伝統を体現した女性がのぞましいし、加えて、人前でものおじせずに英語でスピーチできる賢さと度胸がなくてはならん。でもチベットの伝統ではおなごが人前で肌をさらすことはNGなんだよね。てわけで、チベットでミスを選ぶのは大変。参加者がいないんだよ(笑)。
『チベット・チベット』はみなさんご存じですね。キム・スンヨン監督が自らの在日としてのアイデンティティ・クライシスをチベット難民社会ととの出会いの中で昇華していく物語です。
『ブラインド・サイト』は、盲目の西ドイツ女性が、ラサに盲学校を開設し、子供たちに自信をつけるため、ヒマラヤに上ろうとする物語。盲目のチベット人の子供に生きる場を作ったことはすばらしいが、普通のチベット人だって進んではやらないヒマラヤ登山をなぜあえてチベットの盲目の子たちにやらせるのか、誰もが疑問に思うだろう。チベット人にとって山は拝むもので、頂上に上るもんではない。
オロは幼くしてヒマラヤを苦労して越えているので、『ブラインド・サイト』を入れるくらいだったら、子供たちがヒマラヤをこえてダラムサラにたどりつくまでのドキュメント『ヒマラヤを越える子供たち』がふさわしいと思う。『ヒマラヤを越えるこどもたち』をみると、勉強しない日本の子供たちが本当にワガママにみえます。アマゾンで買えるので余裕のある方どうぞ。
12作中、10作がドキュメンタリーな中、『風の馬』と『陽に灼けた道』はいずれも創作もの。しかしいずれも現代のチベットをよく反映した作りとなっている。風の馬は漢化の進む妹と漢化に抵抗する兄が、いとこの尼僧が獄中での暴行で死んだことを契機に、それを告発したことにより、亡命するにいたるまでを描く。
『陽に灼けた道』は見ていないので分からないが、国際的な賞をたくさんとっているので、チベット人性がよく描けているのだと思う。
『恐怖を乗り越えて』、『雪の下の炎』、『ミス・チベット』などについてはダラムサラ在住歴ン10年のN氏のブログ「チベットNOWルンタ」で過去記事をサイト内検索をするとリアル・タイムでのかれらの情報が得られます。
さて、オロは今ダラムサラのチベット子供村で、勉強している。子供村では「仏教に基づく人格教育」が行われているということで、母親は泣く泣くオロをインドへと手放したのだ。この教育内容について知りたい方、子供村の教科書を『チベットの歴史と宗教』(明石書店)で和訳しました。読んでない方、ぜひどうぞ。
以上、コバンザメ宣伝でした!
と書いたら、コバンザメのコバンザメコメントがつきました!
コバンザメ宣伝、お許しください。
このブログにて先生お薦めの『ヒマラヤを越える子供たち』 の上映会があります。
6/25(月) 19時半~ 「ヒマラヤを越える子供たち」書籍出版記念 上映会 & トーク (にっしぃ劇場)
トーク:チベットサポートグループKIKU 代表 久保 隆
参加費:1000円 + オーダー
【要予約】http://www.cafe-ohana.com/news.html
チベット人を主役に据えた映画やアニメは中国においても、また、中国以外においても作られていますが、今回の映画特集は難民社会の少年のドキュメンタリー「オロ」を知るためのものなので、当然中国以外で取られたものが多い。
■上映作品一覧
『白い馬』(1995)椎名誠監督
『風の馬』(1998)ポール・ワグナー監督
『モゥモ・チェンガ』(2002)岩佐寿弥監督
『チベット2002』(2002)岩佐寿弥監督
『チベットへのキックオフ』(2003)アーノルド・クロイガード、ラスムス・ディ、セン監督
『ブラインドサイト』(2006)ルーシー・ウォーカー監督
『ミス・チベット』(2007)シェバウ・ルズール・ヴァン・リーウェン、テンジン・タルドー監督
『雪の下の炎』(2008)楽真琴監督
『恐怖を乗り越えて』(2008)トンドゥプ・ワンチェン監督
『チベット・チベット』(2008)キム・スンヨン監督
『陽に灼けた道』(2010)ソンタルジャ監督
『夏の草原』(2010)リン・トゥルー、ネルソン・ウォーカー監督
※12作品の簡単な解説と会場詳細などはこちらのサイトをごらんください。
■上映スケジュール
6月16日(土)
13:00 モゥモ・チェンガ(104分)
上映後、岩佐寿弥監督ティーチ・イン
15:20 白い馬(106分)
17:30 スペシャル対談「ナランとオロ、そしてぼくたちの少年時代」
椎名誠(『白い馬』監督)×岩佐寿弥(『オロ』監督)
19:00 陽に灼けた道(89分)
6月17日(日)
17:30 夏の草原(85分)
19:00 雪の下の炎(75分)
6月18日(月)
13:00 チベットへのキックオフ(54分)+ミス・チベット(30分)
14:40 チベット2002(68分)+恐怖を乗り越えて(25分)
16:50 ブラインドサイト(104分)
19:00 チベット チベット(95分)
6月19日(火)
13:00 陽に灼けた道(89分)
15:00 雪の下の炎(75分)
16:50 風の馬(97分)
19:00 白い馬(106分)
6月20日(水)
13:00 チベット2002(68分)+恐怖を乗り越えて(25分)
15:00 モゥモ・チェンガ(104分)
上映後、岩佐寿弥監督ティーチ・イン
17:30 チベットへのキックオフ(54分)+ミス・チベット(30分)
19:20 夏の草原(85分)
6月21日(木)
13:00 ブラインドサイト(104分)
15:10 チベット チベット(95分)
17:10 雪の下の炎(75分)
19:00 風の馬(97分)
6月22日(金)
13:00 白い馬(106分)
15:10 夏の草原(85分)
17:00 陽に灼けた道(89分)
18:50 モゥモ・チェンガ(104分)
上映後、岩佐寿弥監督ティーチ・イン
まず岩佐監督の二作品から。一つは難民社会のおばあさんモゥモ・チェンガの生涯とその信仰生活を描いた『モゥモ・チェンガ』、もう一つはダライラマのインタビューなどによって構成されるダラムサラ紹介『チベット2002』。モゥモ・チェンガは非常によくできたドキュメンタリー。もしご覧になっていない方は是非この機会にご覧あれ。
『オロ』の登場人物としては、同じく『モゥモ・チェンガ』と『恐怖を乗り越えて』が必見。モゥモ・チェンガは1959年にインドに亡命する前は遊牧民であった。少年オロも亡命前は東チベットで親の手助けをして放牧をしていた。『オロ』のラスト近く、オロとモゥモ・チェンガが思い出の中のチベットを楽しく語り合う場面は、彼らの思い出の中のチベットがいかに美しいものかを思わせて、胸がつまる。
『恐怖を乗り越えて』とは、本土チベットのチベット人の本音を様々な人々のインタビューから示したものである。中国は恐怖(=本当のことを云うと殺されるという恐怖)によってチベット人を沈黙させているが、このインタビューに応じた人々はあえて顔だしをして、すなわち「恐怖を乗り越えて」中国共産党のチベット支配の非道を訴える。この後、2008年北京オリンピックの年のチベット人蜂起があったため、このインタビューをとったトンドゥプ・ワンチェンは逮捕されて現在も中国の刑務所に収監されている。
『オロ』では、このトンドゥプ・ワンチェンの妻がオロの友達の母として登場する。彼女は未明からおきだし、暗い中パンをかついでバス停留所に向かい、雨の日も風の日も一日そこでパンを売り続ける。帰らぬ夫を待ち続けているのである。暗い。
それから、『雪の下の炎』は、中国政府に35年間も刑務所に入れられていたお坊さんパルデン・ギャツォのお話。彼はアムネスティ・インターナショナルの助けで出獄した後、亡命して、世界中で中国の非道を訴え続けている。このドキュメントの監督さんはアメリカ在住の日本人、楽(ささ)真琴さん。題名は、中国共産党の支配下(雪の下)にあっても、屈しないチベット人の意志を示している。
オリンピックをはじめとし、あらゆる国際的な会合は国単位の参加である。このような状況下においては、チベット人のような国のない難民たちは、自らの存在をアピールする場がない。しかし、ミス・ユニバースとサッカーは地域参加が認められているため、チベット人でも参加は可能である。『ミス・チベット』と『チベットへのキックオフ』は前者はミス・ユニバースに代表をおくるため、後者は国際大会にサッカーチームを派遣するためのチベット難民社会の奮闘をドキュメントしたものである。
ミス・ユニバースは本来美しさで勝負をする場であるが、チベット人の目的はチベット問題のアピールなので、代表となる女性も伝統を体現した女性がのぞましいし、加えて、人前でものおじせずに英語でスピーチできる賢さと度胸がなくてはならん。でもチベットの伝統ではおなごが人前で肌をさらすことはNGなんだよね。てわけで、チベットでミスを選ぶのは大変。参加者がいないんだよ(笑)。
『チベット・チベット』はみなさんご存じですね。キム・スンヨン監督が自らの在日としてのアイデンティティ・クライシスをチベット難民社会ととの出会いの中で昇華していく物語です。
『ブラインド・サイト』は、盲目の西ドイツ女性が、ラサに盲学校を開設し、子供たちに自信をつけるため、ヒマラヤに上ろうとする物語。盲目のチベット人の子供に生きる場を作ったことはすばらしいが、普通のチベット人だって進んではやらないヒマラヤ登山をなぜあえてチベットの盲目の子たちにやらせるのか、誰もが疑問に思うだろう。チベット人にとって山は拝むもので、頂上に上るもんではない。
オロは幼くしてヒマラヤを苦労して越えているので、『ブラインド・サイト』を入れるくらいだったら、子供たちがヒマラヤをこえてダラムサラにたどりつくまでのドキュメント『ヒマラヤを越える子供たち』がふさわしいと思う。『ヒマラヤを越えるこどもたち』をみると、勉強しない日本の子供たちが本当にワガママにみえます。アマゾンで買えるので余裕のある方どうぞ。
12作中、10作がドキュメンタリーな中、『風の馬』と『陽に灼けた道』はいずれも創作もの。しかしいずれも現代のチベットをよく反映した作りとなっている。風の馬は漢化の進む妹と漢化に抵抗する兄が、いとこの尼僧が獄中での暴行で死んだことを契機に、それを告発したことにより、亡命するにいたるまでを描く。
『陽に灼けた道』は見ていないので分からないが、国際的な賞をたくさんとっているので、チベット人性がよく描けているのだと思う。
『恐怖を乗り越えて』、『雪の下の炎』、『ミス・チベット』などについてはダラムサラ在住歴ン10年のN氏のブログ「チベットNOWルンタ」で過去記事をサイト内検索をするとリアル・タイムでのかれらの情報が得られます。
さて、オロは今ダラムサラのチベット子供村で、勉強している。子供村では「仏教に基づく人格教育」が行われているということで、母親は泣く泣くオロをインドへと手放したのだ。この教育内容について知りたい方、子供村の教科書を『チベットの歴史と宗教』(明石書店)で和訳しました。読んでない方、ぜひどうぞ。
以上、コバンザメ宣伝でした!
と書いたら、コバンザメのコバンザメコメントがつきました!
コバンザメ宣伝、お許しください。
このブログにて先生お薦めの『ヒマラヤを越える子供たち』 の上映会があります。
6/25(月) 19時半~ 「ヒマラヤを越える子供たち」書籍出版記念 上映会 & トーク (にっしぃ劇場)
トーク:チベットサポートグループKIKU 代表 久保 隆
参加費:1000円 + オーダー
【要予約】http://www.cafe-ohana.com/news.html
お誕生日とチベット医学
ヨハネの黙示録を典拠に作られたホラー映画「オーメン」によると、反キリストの誕生日とされるのは6月6日。2012年、金星の太陽面通過という天体イベントがおきたのも6月6日、何かおきそうなどちらかという何かロクでもないことがおきそうな6月6日は私の誕生日である。

今年のダンナさまの誕生日ブレゼントは、台所の椅子の張り替え(現実的!)と、カランダーシュのアストロジー・ボールペン・シリーズの双子座のペン。ダンナは使いもしない万年筆を嬉しげに買いまくるような文房具オタクなのできっといいボールペンなのだろう。
そして訪問八百屋さんが、私に紙袋を渡してくださった。送り主はこの八百屋さんを介してしりあったご近所の方。袋の中には、オカメインコシールとごろう様(オカメインコ)の小松菜が入っていた。私が毎週この八百屋さんからごろう様用の有機小松菜を買っているのを知っているのであろう。この方は詳しくは言えないがお身内の介護で大変苦労されている。
それからオカメインコ・ブックカバーは、かつてこのブログでその壮絶な人生を紹介させて頂いたNさんが送ってくださったもの。じつは彼女も今ダンナ様がトラブルを抱えていて大変で、彼女を知るフリチベさんたちはみな心配している。でも、彼女は「ダンナを見捨てる気はない。地獄の底までついていく」と男前である。あまりに情が深いのでちょと心配。
彼女たちはいろいろくぐりぬけていく中で「人生はなるようにしかならない。落ち込んでも仕方ない」とある意味覚っていて、現実に淡々と対処している。不幸をシュミレートするだけでおしつぶされる人が多い中、彼女たちは現に怒濤の中にいながらも、自分をコントロールしてけなげにふんばっている。こういう彼女たちにこそ幸せが訪れてほしいと切に思う
そして大阪のあくびちゃん(オカメインコ)のお母様からは、トスカーナのワイン、梵語般若心経、かご猫シロちゃんの写真集をちょうだいした。かご猫しろちゃんは昔うちで飼っていた餓鬼道を彷彿とさせる顔のデカイ猫で、とてもかわいい。
あくびちゃんのお母さんは初代のあくびちゃん(ノーマルオカメインコ)がダンナ様の不注意で逃げてしまってショックを受けて心配していたのだが、現あくび様が二代目を襲名してから、徐々に元気になってきているようでよかった。それにしても我が家のごろうとるり(虎猫三歳)のファンであるといって、いつもたいそうなプレゼントを贈ってくださるのだが、こんなにして頂いて良いのかいつも悩む。
そして、パソコンのメール、ツイッター、ミクシのメッセージを通じて頂戴した多くの皆様からおめでとうメール本当に嬉しいです。まるで清朝皇帝の万寿節のようです。
こんなヘんなヤツにお気遣いくださり、本当にありがとうございます。
これからもできる範囲内でオカメインコの幸せとチベット文化の維持・発展に微力を尽くしていく所存です。
後日談・・・・・
翌日、授業が終わると、院生Mが「先生おめでとうございまーす」とにやにやしながら教室に入ってきた。彼の手の中には学内の生協においてそうな安いカップケーキがあり、そのケーキの上にはパクチーの葉が何本かさしてあった。
院生M「ボクが育てたパクチーです。先生の年の数だけさしておきました。あ、ヒトケタか一〇桁かはみな考えてね」
私「いやがらせにきたな」
学生A「先生この葉なんですか」
私「パクチーといって中華料理につかう香草で、好きな人は好きだけど、嫌いな人はすごい嫌いだね」
学生B「カメムシみたいな匂いがする」
院生M「そうカメムシの匂いなんですよ。育てるの一ヶ月半もかかったんですよ」
学生B「すごいな一ヶ月半も前からいやがらせを考えていたのか」
私「とりあえずありがとう。」
そういって教室の外にでたところで、
私「あ、これSくんが誕生日のプレゼントにとくれた最中。おいしいっていうから一つあげる」
すると院生Mその場で子供のように袋を破るから、最中飛び出して床におちた・・・・。
院生M「あー、落ちちゃった」
どうするのかと見ていたら、拾って食べた・・・。

この写真はPenbaさんから送って頂いた2012年6月6日のバルセロナのサグダ・ファミリア教会。
ま、気分を変えて、私からみなさんへお知らせ。
20年以上前からチベット医学の勉強会をちんたらやっているのだが、そのチームで、チベット医学の古典『四部医典』に見られる動植物の薬材のオンライン・データベースをつくった。具体的には伝統的なチベット名、漢名、それが現在の臨床においてどのような学名の動植物を実際に用いているかを対照させたものである。
薬材の漢名は清朝時代に編纂された本草書に基づく。それぞれの薬材の薬効を知りたい方は『四部医典』の薬材の章の和訳があるのでそちらを参照していただきたい(『杏雨』7, 13, 15号)。これは薬材の章のみの和訳であるが、『四部医典』のかなりの部分の訳についてはバリー・クラーク(Barry Clark)のの英訳がある。
古典に記された一つの薬材に現実にどのような動植物をあてるかは、医者が身を置く環境によって変わる。本物が手に入らない場合は同じ効能をもつ別の薬材が当てられたりする。「一つの名前の下に現実は様々である」というのが、この表を作った時の感想である。
あらかじめ注意しておくが、リンクミスや、学名の綴りミスがまだ沢山ある。メンバーが気が向いた時にぼちぼち直しているので、このデータベースが完璧なのものになるにはまだ時間がかかる。なのでミススペルとかをいきなりしかりつけたりせず、ナマ温かい目で見ていただけると嬉しいです。

今年のダンナさまの誕生日ブレゼントは、台所の椅子の張り替え(現実的!)と、カランダーシュのアストロジー・ボールペン・シリーズの双子座のペン。ダンナは使いもしない万年筆を嬉しげに買いまくるような文房具オタクなのできっといいボールペンなのだろう。
そして訪問八百屋さんが、私に紙袋を渡してくださった。送り主はこの八百屋さんを介してしりあったご近所の方。袋の中には、オカメインコシールとごろう様(オカメインコ)の小松菜が入っていた。私が毎週この八百屋さんからごろう様用の有機小松菜を買っているのを知っているのであろう。この方は詳しくは言えないがお身内の介護で大変苦労されている。
それからオカメインコ・ブックカバーは、かつてこのブログでその壮絶な人生を紹介させて頂いたNさんが送ってくださったもの。じつは彼女も今ダンナ様がトラブルを抱えていて大変で、彼女を知るフリチベさんたちはみな心配している。でも、彼女は「ダンナを見捨てる気はない。地獄の底までついていく」と男前である。あまりに情が深いのでちょと心配。
彼女たちはいろいろくぐりぬけていく中で「人生はなるようにしかならない。落ち込んでも仕方ない」とある意味覚っていて、現実に淡々と対処している。不幸をシュミレートするだけでおしつぶされる人が多い中、彼女たちは現に怒濤の中にいながらも、自分をコントロールしてけなげにふんばっている。こういう彼女たちにこそ幸せが訪れてほしいと切に思う
そして大阪のあくびちゃん(オカメインコ)のお母様からは、トスカーナのワイン、梵語般若心経、かご猫シロちゃんの写真集をちょうだいした。かご猫しろちゃんは昔うちで飼っていた餓鬼道を彷彿とさせる顔のデカイ猫で、とてもかわいい。
あくびちゃんのお母さんは初代のあくびちゃん(ノーマルオカメインコ)がダンナ様の不注意で逃げてしまってショックを受けて心配していたのだが、現あくび様が二代目を襲名してから、徐々に元気になってきているようでよかった。それにしても我が家のごろうとるり(虎猫三歳)のファンであるといって、いつもたいそうなプレゼントを贈ってくださるのだが、こんなにして頂いて良いのかいつも悩む。
そして、パソコンのメール、ツイッター、ミクシのメッセージを通じて頂戴した多くの皆様からおめでとうメール本当に嬉しいです。まるで清朝皇帝の万寿節のようです。
こんなヘんなヤツにお気遣いくださり、本当にありがとうございます。
これからもできる範囲内でオカメインコの幸せとチベット文化の維持・発展に微力を尽くしていく所存です。
後日談・・・・・
翌日、授業が終わると、院生Mが「先生おめでとうございまーす」とにやにやしながら教室に入ってきた。彼の手の中には学内の生協においてそうな安いカップケーキがあり、そのケーキの上にはパクチーの葉が何本かさしてあった。
院生M「ボクが育てたパクチーです。先生の年の数だけさしておきました。あ、ヒトケタか一〇桁かはみな考えてね」
私「いやがらせにきたな」
学生A「先生この葉なんですか」
私「パクチーといって中華料理につかう香草で、好きな人は好きだけど、嫌いな人はすごい嫌いだね」
学生B「カメムシみたいな匂いがする」
院生M「そうカメムシの匂いなんですよ。育てるの一ヶ月半もかかったんですよ」
学生B「すごいな一ヶ月半も前からいやがらせを考えていたのか」
私「とりあえずありがとう。」
そういって教室の外にでたところで、
私「あ、これSくんが誕生日のプレゼントにとくれた最中。おいしいっていうから一つあげる」
すると院生Mその場で子供のように袋を破るから、最中飛び出して床におちた・・・・。
院生M「あー、落ちちゃった」
どうするのかと見ていたら、拾って食べた・・・。

この写真はPenbaさんから送って頂いた2012年6月6日のバルセロナのサグダ・ファミリア教会。
ま、気分を変えて、私からみなさんへお知らせ。
20年以上前からチベット医学の勉強会をちんたらやっているのだが、そのチームで、チベット医学の古典『四部医典』に見られる動植物の薬材のオンライン・データベースをつくった。具体的には伝統的なチベット名、漢名、それが現在の臨床においてどのような学名の動植物を実際に用いているかを対照させたものである。
薬材の漢名は清朝時代に編纂された本草書に基づく。それぞれの薬材の薬効を知りたい方は『四部医典』の薬材の章の和訳があるのでそちらを参照していただきたい(『杏雨』7, 13, 15号)。これは薬材の章のみの和訳であるが、『四部医典』のかなりの部分の訳についてはバリー・クラーク(Barry Clark)のの英訳がある。
古典に記された一つの薬材に現実にどのような動植物をあてるかは、医者が身を置く環境によって変わる。本物が手に入らない場合は同じ効能をもつ別の薬材が当てられたりする。「一つの名前の下に現実は様々である」というのが、この表を作った時の感想である。
あらかじめ注意しておくが、リンクミスや、学名の綴りミスがまだ沢山ある。メンバーが気が向いた時にぼちぼち直しているので、このデータベースが完璧なのものになるにはまだ時間がかかる。なのでミススペルとかをいきなりしかりつけたりせず、ナマ温かい目で見ていただけると嬉しいです。
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