実録・研究者の春休み
昨日はチベ語購読会。気まぐれではじめた勉強会であるが、なんともう四月で3年めに入る。二人を除いて残りはみなドクター号もっている一人前ということもあり、ここでしか通じないマニアな会話がかわされる。この勉強会の最大の特徴といえば、皆が手土産にもってくる日本全国の銘菓であろう。チベ語テクストよみながらくだらない話に花を咲かせ、お菓子食べまくり、糖尿まっしぐらである。
今回購読した部分では、ダライラマ七世(18世紀)の逝去の事情が語られた。面白いのが、七世の葬儀を行おうとしても、ダライラマ五世は摂政が五世の死を17年間隠していたので葬式がなかったこと、ダライラマ六世は中国に護送される途上アムドで急死して、時の権力者が六世と対立していたのでお葬式出せなかったことから、誰もダライラマの葬儀に関する先例を知らなかったことである。
つまり、この時代、もっとも近い時代のダライラマの葬儀は、17世紀の初頭になくなったダライラマ四世にまで遡り、その葬儀を目撃した人が生きているハズもなく、仮にその内容が分かったとしてもまだゲルク派がチベットを制圧するまえのことなので、政教一致の長の座にあったダライラマ七世の葬儀にふさわしいか否かも微妙なのである。
もう一つ面白かったのが、資料の著者であるチベット貴族ツェリンワンゲルは、過去のダライラマについて言及する際に、清朝に廃されたダライラマ六世をちゃんと六世と明記していることである。清朝はダライラマ七世を「六世」と呼ぶことによって、六世の存在を記録から抹消していたので、ダライラマ六世をちゃんと六世と記録したツェリンワンゲルは清朝の方針をガン無視していたことになる。そもそも、ダライラマ七世は六世の転生者なのだから、七世を認めた時点で、清朝は六世を認めたことになるから、例によってメンツにこだわった姑息なごまかしなんだけど。
そして、購読の合間にみなの帰朝報告に花が咲く。Aちゃんは台北故宮、Bくんはイギリスの大英図書館、Cくんも臺灣、Eちゃんはブータン、Dくんは被災地の親戚を訪ねている。※院生Mが休み中どこにいったのかはあまりにもくだらなくてコメント不能。
中でも収穫があったのはイギリスにいったBくん。
Bくんはラサ条約(1904年のチベットが条約主体となってイギリスと結んだ条約)のチベット語版を探そうと思って(条約文は当該国の言語で必ず記される。イギリスとチベットなら英語版とチベット語版が必ずある)、イギリスに行く前にこの件に詳しいと思われる某研究者にメールした。すると、『いろいろな人が自分にその話を聞いてきたけど、どこにあるか分からないんだよね』と「分からない」との答え。
そこでBくん文書館(TNA)にあるかと別の人に聞いてみると、やはり「ここにはないんじゃないか」という答えが。そこでBくん、自分で文書館に入ると、「もしあるとしたらここだろう」と思うフォルダの中にくだんのチベット語版は入っていた。一時間もかけずに見つかったという(笑)。
私「自分が本当に知りたいことは、人に聞いてすませちゃいけない。自分で調べなきゃ。その場に足を運ぶと、こうやって「ない」と言われたものがでてきたりするしね。絶好調の時には資料の方からこちらにやってくるように感じることもあるよ」
で、笑ったのは臺灣に資料みにいったCくん。
Cくん「台北の近くの山の上に『セデック・バレ』(霧社事件を題材にした臺灣映画。一見反日映画に見えて実はそうでない 笑)のオープン・セットがそのままテーマパークになっているというので、行ってきました。」
私「どうだった?」
Cくん「京都の太秦映画村が江戸時代のコスプレできるのをウリにしているうちに、最近はメイド服とか着る人たちが集まってきてますが、それと同じでセデック・バレのセットにも、普通にコスプレイヤーが集まっていました。笑」
私「臺灣どこまで日本好きなんだ」
Cくん「で、この時車だしてくれた女の子にお礼にと日本語の書類作るのを手伝っていたら、午前一時までかかりました。翌日午前五時おきで空港だったのに。三時間のドライブの対価が14時間労働です。しかも、その女の子の家の前に犬の○ンコがあって、それを片付けるのまで手伝いました。」
セデック・バレからなぜ犬の○ンコに話が飛ぶ。
そこで負けじと、自分も休み中の発見を語る。
自分は清朝のチベット仏教をテーマにする中で、しばしば寺本婉雅の『蔵蒙旅日記』を参照してきた。寺本は滅びる直前の清朝に滞在し清朝皇室と交流し、北京や五台山のチベット仏教界とも深く関わった。その体験は一級の価値をもつ上に、観察者・記録者としても優秀たっので彼の記録は歴史資料として非常に有用である。
現在公表されている寺本婉雅の歴史関係の著作は、彼が大陸に滞在していた折の日記、『蔵蒙旅日記』だけである。、そこで、他にもチベット仏教界に関する資料がないかと、寺本婉雅がチベット学の講座をもっていた大谷大学を尋ねてみた。
大谷大学の担当者の話によると、寺本婉雅関連の資料は散逸しており、戦後弟子の横地祥原によって出版された『蔵蒙旅日記』の原本すら、どこにいったのか分からないという。私が「横地祥原に連絡は取ったのか」と聞くと、去年102才でなくなったので、確認とれないという。多田等観は記念館まであり、河口慧海には山ほど研究書がでて、像が刻まれ、碑文がたちまくっているのに、寺本婉雅はその全部がない上に関係資料すら散逸している。
この惨状は、寺本婉雅が工作員であったことに一因があるらしい。GHQが寺本婉雅について大学に聞き取りにきたりしたので、大学は関わり合いになることを恐れ資料を遺族に返したりしたという。またその後も、戦後民主主義の中で、戦時中の政治性が嫌われ、寺本婉雅は能海寛、河口慧海などに比べると、冷たい扱いを受けることとなったのである。
何それ。これって石川啄木が生活破綻者で借金まみれだったから、彼の詩文を研究したくない、っていってるようなもので、寺本婉雅が現代の我々からみて政治的にどうこうしていたとしても、価値ある資料を散逸させ存在を無視する理由にはならない。
多少の朗報があるとすれば、2006年、寺本関連の資料の一部が関係する寺から発見されたこと。それが現在大谷大学に所蔵されているというので、見せていただく。みな包んであるので
私「中身は何ですか?」
担当者「よくあるものですよ」
私「ああ、常用経典とかですか」とかいいながら、一番上にある箱を試しにぱかっと明けてみると、これがびっくり。
美しい手書きの絵入りの本草書である。ぴらっと一枚ページめくると、奥書に「寺本婉雅が明治31(1898)年に雍和宮でえた」と書いてあり、これが清朝時代の雍和宮の医学堂で用いられていたことが分かる。寺本婉雅27才の時である。
私「これのどこがよくあるモノなんですか! すごいですよ、これ。他にもあるんじゃないですか? お宝がっ」
担当者「日記類が二セットあるんですが、一つは出版されていない部分の日記、もう一つは既出の蒙蔵旅日記の第二回の北京滞在にあたる部分ですが、出版されたものと異なります。こちらは、何かの目的で抜き書きしたもののようです」
そこで、出版された『蔵蒙旅日記』と目の前にある寺本の手書き稿本を比べてみると、明らかに稿本の方が編集前の趣を残している。たとえば、二つを比べてみよう。●が出版された文章、○が今目の前にある稿本である。
●・・・十五日午後より北京宮城の西華門内にある大黒神廟に至る。廟は昨夏義和団の兵?を逃れて安全なりき。
○十五日・・・午後一時より北京宮城の西華門内にある大黒神廟(マハカラ廟)に至る。廟は昨夏義和団の兵?に逃れて安全なりし。
●建築物大にあらざるも本堂一棟、内部はよく整頓せり。何年頃の建築物なるやは知らざれども、境内一の石碑だになきより見れも、未だ一度も天子の巡拝なきを証すべし。
○余り大寺建築物大に非ざるも、整頓森厳にて本堂一棟のみ。何時分の建築なるやは知らざれど、境内一の石碑だになきより見れば、一度も天子の巡拝なきを証すべし。
●本堂の外額は御筆にかかるも何朝何帝の御筆にるを知らず。
○本堂の外額は御筆に関わり「brte慈 skyob済 khang殿」×、何朝何帝の御筆になるかを知らず。
一部を確認しただけでは何とも言えないが、明らかに稿本の方が情報多いし、書き込みも多いので、既出のものの抜き書きとは思えない。むしろ、稿本が出版本の底本と考えるべきであろう。たとえば、稿本のみにマハーカーラ廟の殿の正式名称が記録されており、出版本にないのは、出版の際に読者が理解できないチベット文字を削ったと説明できる。
というわけで、やはり自分が知りたいことは、聞くより自分で調べるのが早いということがここでも証明された。
「こんな有名な人なら誰かが研究しているだろう」「こんな有名な資料なら誰かが保存しているだろう」って、チベットに関してはこの予断通用しない。誰も研究しないし、資料も散逸するだけだし、歴史の闇に消えていくだけ。
寺本婉雅は戊戌の政変、義和団事件、光緒帝の死などの激動の現代史中にあって、それらの目撃者でありプレイヤーであった。そのうえ自分の見聞きしたことを記録に残してくれた。亡命中のダライラマ13世とも会見し、詳細な記録を残してくれた。歴史家にとってこれほどありがたい人はいない。
この男、歴史の闇に葬るのはもったいない。
ふとみると、本棚の上に、図書館の中でチベット文献を参観している若い僧のパネル写真がある。
私「ダライラマのお若い頃みたいなイイ男が写ってますね」といったら
担当者「ご本人ですよ。北京版チベット大蔵経を見に来られた時のものです。チベット学会が大谷で開かれた時にパネル展示したものを置いてあるんです」
マジか。写真からみて、法王三十くらいの頃か。若き日のダライラマがご覧になっているこの北京版大蔵経も、寺本婉雅が義和団事件で混乱する北京から日本に持ち帰ったものである。この北京版は鈴木学術財団から影印出版されて、世界のチベット学に限りなく裨益した。
やってみようかなあ、寺本婉雅。でも、これまでの自分の研究テーマは17-18世紀。いっきに20世紀、それも若干日本史入るテーマが自分にできるのか謎。そもそも寺本の手書き文字達筆すぎて読めないし(笑)。
今回購読した部分では、ダライラマ七世(18世紀)の逝去の事情が語られた。面白いのが、七世の葬儀を行おうとしても、ダライラマ五世は摂政が五世の死を17年間隠していたので葬式がなかったこと、ダライラマ六世は中国に護送される途上アムドで急死して、時の権力者が六世と対立していたのでお葬式出せなかったことから、誰もダライラマの葬儀に関する先例を知らなかったことである。
つまり、この時代、もっとも近い時代のダライラマの葬儀は、17世紀の初頭になくなったダライラマ四世にまで遡り、その葬儀を目撃した人が生きているハズもなく、仮にその内容が分かったとしてもまだゲルク派がチベットを制圧するまえのことなので、政教一致の長の座にあったダライラマ七世の葬儀にふさわしいか否かも微妙なのである。
もう一つ面白かったのが、資料の著者であるチベット貴族ツェリンワンゲルは、過去のダライラマについて言及する際に、清朝に廃されたダライラマ六世をちゃんと六世と明記していることである。清朝はダライラマ七世を「六世」と呼ぶことによって、六世の存在を記録から抹消していたので、ダライラマ六世をちゃんと六世と記録したツェリンワンゲルは清朝の方針をガン無視していたことになる。そもそも、ダライラマ七世は六世の転生者なのだから、七世を認めた時点で、清朝は六世を認めたことになるから、例によってメンツにこだわった姑息なごまかしなんだけど。
そして、購読の合間にみなの帰朝報告に花が咲く。Aちゃんは台北故宮、Bくんはイギリスの大英図書館、Cくんも臺灣、Eちゃんはブータン、Dくんは被災地の親戚を訪ねている。※院生Mが休み中どこにいったのかはあまりにもくだらなくてコメント不能。
中でも収穫があったのはイギリスにいったBくん。
Bくんはラサ条約(1904年のチベットが条約主体となってイギリスと結んだ条約)のチベット語版を探そうと思って(条約文は当該国の言語で必ず記される。イギリスとチベットなら英語版とチベット語版が必ずある)、イギリスに行く前にこの件に詳しいと思われる某研究者にメールした。すると、『いろいろな人が自分にその話を聞いてきたけど、どこにあるか分からないんだよね』と「分からない」との答え。
そこでBくん文書館(TNA)にあるかと別の人に聞いてみると、やはり「ここにはないんじゃないか」という答えが。そこでBくん、自分で文書館に入ると、「もしあるとしたらここだろう」と思うフォルダの中にくだんのチベット語版は入っていた。一時間もかけずに見つかったという(笑)。
私「自分が本当に知りたいことは、人に聞いてすませちゃいけない。自分で調べなきゃ。その場に足を運ぶと、こうやって「ない」と言われたものがでてきたりするしね。絶好調の時には資料の方からこちらにやってくるように感じることもあるよ」
で、笑ったのは臺灣に資料みにいったCくん。
Cくん「台北の近くの山の上に『セデック・バレ』(霧社事件を題材にした臺灣映画。一見反日映画に見えて実はそうでない 笑)のオープン・セットがそのままテーマパークになっているというので、行ってきました。」
私「どうだった?」
Cくん「京都の太秦映画村が江戸時代のコスプレできるのをウリにしているうちに、最近はメイド服とか着る人たちが集まってきてますが、それと同じでセデック・バレのセットにも、普通にコスプレイヤーが集まっていました。笑」
私「臺灣どこまで日本好きなんだ」
Cくん「で、この時車だしてくれた女の子にお礼にと日本語の書類作るのを手伝っていたら、午前一時までかかりました。翌日午前五時おきで空港だったのに。三時間のドライブの対価が14時間労働です。しかも、その女の子の家の前に犬の○ンコがあって、それを片付けるのまで手伝いました。」
セデック・バレからなぜ犬の○ンコに話が飛ぶ。
そこで負けじと、自分も休み中の発見を語る。
自分は清朝のチベット仏教をテーマにする中で、しばしば寺本婉雅の『蔵蒙旅日記』を参照してきた。寺本は滅びる直前の清朝に滞在し清朝皇室と交流し、北京や五台山のチベット仏教界とも深く関わった。その体験は一級の価値をもつ上に、観察者・記録者としても優秀たっので彼の記録は歴史資料として非常に有用である。
現在公表されている寺本婉雅の歴史関係の著作は、彼が大陸に滞在していた折の日記、『蔵蒙旅日記』だけである。、そこで、他にもチベット仏教界に関する資料がないかと、寺本婉雅がチベット学の講座をもっていた大谷大学を尋ねてみた。
大谷大学の担当者の話によると、寺本婉雅関連の資料は散逸しており、戦後弟子の横地祥原によって出版された『蔵蒙旅日記』の原本すら、どこにいったのか分からないという。私が「横地祥原に連絡は取ったのか」と聞くと、去年102才でなくなったので、確認とれないという。多田等観は記念館まであり、河口慧海には山ほど研究書がでて、像が刻まれ、碑文がたちまくっているのに、寺本婉雅はその全部がない上に関係資料すら散逸している。
この惨状は、寺本婉雅が工作員であったことに一因があるらしい。GHQが寺本婉雅について大学に聞き取りにきたりしたので、大学は関わり合いになることを恐れ資料を遺族に返したりしたという。またその後も、戦後民主主義の中で、戦時中の政治性が嫌われ、寺本婉雅は能海寛、河口慧海などに比べると、冷たい扱いを受けることとなったのである。
何それ。これって石川啄木が生活破綻者で借金まみれだったから、彼の詩文を研究したくない、っていってるようなもので、寺本婉雅が現代の我々からみて政治的にどうこうしていたとしても、価値ある資料を散逸させ存在を無視する理由にはならない。
多少の朗報があるとすれば、2006年、寺本関連の資料の一部が関係する寺から発見されたこと。それが現在大谷大学に所蔵されているというので、見せていただく。みな包んであるので
私「中身は何ですか?」
担当者「よくあるものですよ」
私「ああ、常用経典とかですか」とかいいながら、一番上にある箱を試しにぱかっと明けてみると、これがびっくり。
美しい手書きの絵入りの本草書である。ぴらっと一枚ページめくると、奥書に「寺本婉雅が明治31(1898)年に雍和宮でえた」と書いてあり、これが清朝時代の雍和宮の医学堂で用いられていたことが分かる。寺本婉雅27才の時である。
私「これのどこがよくあるモノなんですか! すごいですよ、これ。他にもあるんじゃないですか? お宝がっ」
担当者「日記類が二セットあるんですが、一つは出版されていない部分の日記、もう一つは既出の蒙蔵旅日記の第二回の北京滞在にあたる部分ですが、出版されたものと異なります。こちらは、何かの目的で抜き書きしたもののようです」
そこで、出版された『蔵蒙旅日記』と目の前にある寺本の手書き稿本を比べてみると、明らかに稿本の方が編集前の趣を残している。たとえば、二つを比べてみよう。●が出版された文章、○が今目の前にある稿本である。
●・・・十五日午後より北京宮城の西華門内にある大黒神廟に至る。廟は昨夏義和団の兵?を逃れて安全なりき。
○十五日・・・午後一時より北京宮城の西華門内にある大黒神廟(マハカラ廟)に至る。廟は昨夏義和団の兵?に逃れて安全なりし。
●建築物大にあらざるも本堂一棟、内部はよく整頓せり。何年頃の建築物なるやは知らざれども、境内一の石碑だになきより見れも、未だ一度も天子の巡拝なきを証すべし。
○余り大寺建築物大に非ざるも、整頓森厳にて本堂一棟のみ。何時分の建築なるやは知らざれど、境内一の石碑だになきより見れば、一度も天子の巡拝なきを証すべし。
●本堂の外額は御筆にかかるも何朝何帝の御筆にるを知らず。
○本堂の外額は御筆に関わり「brte慈 skyob済 khang殿」×、何朝何帝の御筆になるかを知らず。
一部を確認しただけでは何とも言えないが、明らかに稿本の方が情報多いし、書き込みも多いので、既出のものの抜き書きとは思えない。むしろ、稿本が出版本の底本と考えるべきであろう。たとえば、稿本のみにマハーカーラ廟の殿の正式名称が記録されており、出版本にないのは、出版の際に読者が理解できないチベット文字を削ったと説明できる。
というわけで、やはり自分が知りたいことは、聞くより自分で調べるのが早いということがここでも証明された。
「こんな有名な人なら誰かが研究しているだろう」「こんな有名な資料なら誰かが保存しているだろう」って、チベットに関してはこの予断通用しない。誰も研究しないし、資料も散逸するだけだし、歴史の闇に消えていくだけ。
寺本婉雅は戊戌の政変、義和団事件、光緒帝の死などの激動の現代史中にあって、それらの目撃者でありプレイヤーであった。そのうえ自分の見聞きしたことを記録に残してくれた。亡命中のダライラマ13世とも会見し、詳細な記録を残してくれた。歴史家にとってこれほどありがたい人はいない。
この男、歴史の闇に葬るのはもったいない。
ふとみると、本棚の上に、図書館の中でチベット文献を参観している若い僧のパネル写真がある。
私「ダライラマのお若い頃みたいなイイ男が写ってますね」といったら
担当者「ご本人ですよ。北京版チベット大蔵経を見に来られた時のものです。チベット学会が大谷で開かれた時にパネル展示したものを置いてあるんです」
マジか。写真からみて、法王三十くらいの頃か。若き日のダライラマがご覧になっているこの北京版大蔵経も、寺本婉雅が義和団事件で混乱する北京から日本に持ち帰ったものである。この北京版は鈴木学術財団から影印出版されて、世界のチベット学に限りなく裨益した。
やってみようかなあ、寺本婉雅。でも、これまでの自分の研究テーマは17-18世紀。いっきに20世紀、それも若干日本史入るテーマが自分にできるのか謎。そもそも寺本の手書き文字達筆すぎて読めないし(笑)。
ロビバによる「焼身抗議」解説
3月21日のBS1ワールドWaveトゥナイトでチベットの焼身抗議がとりあげられた。
NHKはまずぼかしの入ったチベット人の焼身映像を流し、さらに現地に入った記者がぼかしの入ったお坊さんからインタビューをとり、亡命政府のセンゲ首相と温家宝の主張をそれぞれ併記し、今月に入ってさらに焼身者が増えていることを時系列の表で示し、〔少数民族とはいっても中国と比べるから少数なのであって〕チベット人は300万人おり、モンゴル共和国よりも人口が多いといい、先だっての3月10日の先進諸国でのデモの映像を流した。
「シルクロード」「大黄河」など、中国を舞台にしたドキュメンタリーでならしてきたNHKには、中国との間にぶっとい絆があることはよく知られている。そのため従来NHKは中国での取材を円滑に進めたいがため、チベット報道も中国政府が許す範囲内で行い、その結果、NHKのチベット報道と言えば、観光か、環境か、近代化の中で変わるチベット事情(このような番組の中ではチベット人が妻のために冷蔵庫をしょって山道を歩いたりする 笑)みたいなものが多く、たまーにチベット問題を扱う場合でも、よく見れば中国政府を批判しているものの、リテラシーのない人がみれば中国政府の言い分しか記憶に残らないような「察して」みたいな、すばらしい(アメリカン・ジョーク)番組を作っていた。
しかし、今回の特集は違った。まあ直球の報道であり、「事実をありのままに伝える」という報道の本来の精神に則っていた。チベサポもこの番組を全体としては評価していたが、こういう声もあった。それは、スタジオに呼ばれていた解説者がした「チベットは中国にとって核心的利益だから、チベットに対する姿勢は変わらないだろう。各国も中国と経済的な関係が密接だから圧力が加えられないだろう」という旨の発言に、「チベット人が今怒っているのは領土問題というより愛国教育である。愛国教育をやめるだけでも焼身はとまる」というもの。また、「焼身はチベットの利他の文化に基づく部分もあるのに、それに対する解説がない」という意見もあった。
では、この焼身の件について誰の解説がよいだろうかと言えば、やはりロビバ (コロンビア大学の現代チベット研究課程の所長、ロバート・バーネット)であろうということで、「彼の2月24日のインタビュー記事、誰か訳さない?」、じゃあチベサポ界の書記(笑)がやるか、という流れで、私がへたくそな和訳を行うこととなったのである(前置き長)
※原文はココ。また、( )内は訳者注。
ロビー・バーネットへインタビュー: なぜチベット人は自らの身に火を放つのか?
2012年2月24日by Alex Ortolani Asia Blogより
今週初め、中国によるチベット支配に抗議するべく焼身したチベット僧は、少なくとも22人にのぼった(2月24日時点。今は30人)。コロンビア大学現代チベット研究課程の所長、ロバート・バーネットは「これは新しいタイプのチベット人の政治的な抵抗である。中国政府がこの地域における政策を変えないならば、焼身は異議申し立ての形として継続するだろう。」と述べた。以下、アジア・ブログによるロバート・バーネットへの電話インタビューである。
●なぜチベットの僧侶や尼僧は中国政府に対してこのような特殊な形の抗議を行うのか?
ロビバ: なぜ彼らがこのような抵抗の方法を選んだのかという理由ははっきりしません。本土のチベット人、とくに地方にいる人々は、「アメリカの声」(voice of America)や「ラジオ自由アジア」(radio free Asia)のような、外からくるチベット・ニュースを時には聞くことができます。しかし、去年、チュニジア革命の発端となった焼身自殺についてはたぶん知らないはずですし、まして、五十年前にベトナム〔反戦運動の引き金となったティック・クアン・ドック師〕の焼身自殺についてはもっと知らないはずです。しかし、彼らはアラブの春をもたらしたデモについては聞いているでしょう。そして、これは一般的な意味で人々を奮い立たせ、大衆による抗議運動を変革の手段とみているかもしれません。
しかし、チベット人がこのような抗議の手段をとった背景には2008年におきた前回のチベットの騒動時の体験があるかもしれません。当時は、約150人の大規模な街頭デモがおき、この中の約20人が暴徒化しました。この暴力は、中国政府がチベットと中国の間にある基本的な問題の解決や抗議者の不満の解消に取り組むことを避ける状況を生み出しました。
従って、今行われている焼身抗議は、伝統的な大規模な街頭デモの否定的な側面(一歩間違えると暴徒化)を避ける一つの手段と見られているのかもしれません。つまり、焼身を行う者は「私の希望は他人の生命・財産に害を与えていない。また、争乱も引き起こしていない。従って、簡単に無視できないだろう」、というような形で中国政府に対してメッセージを送っているのです。
焼身抗議者は「自由を!」「ダライラマ法王のチベットへの帰還を!」と叫んでいます。〔この叫びから見ても〕1994年に始まった中国の劇的なチベット政策の転換が彼らの焼身の引き金となっているように思われます。1994年、僧侶や尼僧にダライラマを否定するように強制し、僧院やチベット人居住域に関する規則を増大させることによって、中国はダライラマを攻撃する政策に重点的に取り組むことを決定しました。
この政策は最初は、チベット自治区、すなわちラサを中心とするチベット高原の西半分でのみ運用されていましたが、この十年間で次第に高原の東半分にある僧院・尼僧院にも適用されるようになりました。これらの地域はチベット人の人口の大半が住む地域であり、そして、現在焼身抗議が行われている場所でもあります。
この中国の政策は、「僧侶の再教育プログラム」「ダライラマの尊崇の禁止」「学校におけるチベット語教育の削減」「チベット人居住域への他民族の入植奨励」ほかもろもろの禁令により成り立っています。それまで東チベットの人々はきわめてリラックスして平和裡に暮らしていたので、中国がなぜこの政策を東チベット地域にまで適用することを決意したのかは誰も知りません。
●仏教文化にはこの種の特殊な抗議を行う伝統があるのですか?
ロビバ: 中国の報道では「焼身抗議は仏教の教義や戒律を犯すものだ」と言い立てていますが、実は焼身は仏教の伝統と深く共鳴しています。個人的な理由からそれを行うのならば、自殺は仏教で禁止されています。しかし、より気高い動機を持って行われる自己犠牲は高く評価されます。
仏陀がその前世において自己犠牲を行っていた物語(ジャータカ)はよく知られています。もっとも有名なエピソードとしては、飢えた母虎が自分の生んだばかりの子虎を食わないように、自らの体を虎に差し出した話です(日本の法隆寺の玉虫の厨子はこの捨身飼虎を描いたもの。仏陀の前世者によって命を救われた子虎は後に仏陀が最初に法を説いた際の最初の五人の聴衆となった)。従って、社会の利益のためになされた行いは、気高いものとみなされますし、もしそれが僧侶によってなされるのなら、特に尊敬を受けます。
焼身が僧侶・尼僧・元僧によってなされているのはまさにこの理由からです。彼らは社会的に尊敬されていた人たちであったため、中国政府は抗議者たちの信用を落とすことに成功していません。
かつて、2001年に法輪功の信者とされる五人の中国人が北京で集団で焼身抗議を行った事件については、中国政府はかれらの評判を落とすことにかなり成功しました。中国政府は、「この焼身はかれら五人が法輪功によって洗脳され、騙されていた証拠」と宣伝したのです。中国の報道は今回もこのやり方をチベット僧たちに適用しようとしましたが、その試みはうまくいきませんでした。焼身抗議者たちの大半はチベット社会の中で広く尊敬されていた人々であったからです。
●なぜ、チベット・中国双方はチベットの管理に関して共通の基盤を見いだすことができないのでしょうか?
ロビバ: チベット・中国の間に存在する問題を理解する一つのやり方として、「チベットの地位」という問題があります。つまり、「チベットは中国の一部なのか」あるいは「もし中国の一部ならどの程度の自治があるのか」という問題です。この問題は中国軍が最初にチベットを併合し、中国の領土へと統合しようとした少なくとも百年前に遡る問題です(1911年の清朝軍の侵略に追われてダライラマ13世がインドへ亡命し、その後清朝が13世を廃位した事件)。この問題は非常に解決に時間がかかる問題です。
しかし、この最初の問題と混同されがちな第二の問題があります。それは、中国が最近になって導入した諸政策、特に1994年以後に導入したダライラマを敵視する政策、それに加えて再教育プログラム、チベット語教育の軽視、経済発展のおしつけ、といった諸政策が同時に強化されていく問題です。
この二番目の問題の要因は不変ではなく、常時新たな形態をとっているが故に、中国に、容易に妥協できるようなチャンスを提供しています。もし彼らが妥協するならば、ある種の緊張の緩和が生まれ、最初の問題であった自治と地位に関する問題も解決する時間が得られるでしょう。
●これらの焼身には終わりが見えますか?
ロビバ: 中国は少なくとも1980年代初頭からは「自分たちはチベット人を寛大に遇している」と思っています。なぜなら中国はチベット地域での経済発展を促すために莫大な助成を行っているし、中国は焼身抗議を、チベットを独立させて中国を分裂させようと企図しているダライラマや他の亡命者たちの策謀とみなしているからです。
亡命者たちはもちろんこの中国の疑念を否定しますが、同時に、予想通りの強力なナショナリスティックなレトリックを用います。従って、この両サイドの指導者間における交渉による解決という可能性は排除されていないとはいえ、現在の情勢ではこれは実現できそうもありません。
当分の間、今頭にきている東チベットの人々の意志は固いでしょう。というのも、かれらは、地域や僧院に対する中国の様々な攻撃について長くつらい記憶をもっているからです。彼らは自らの核心的な価値を守りづけるでしょう。
従って、現在の緊張状態は中国共産党からの譲歩なしに終わることはないでしょう。
その譲歩は、人々が自殺を止めようと決意するためには、それほど大きなものである必要はないでしょう。
本土のチベット人は活動家ですら、大概の場合驚く程穏健で、一般的にプラグマティツクです。だから、中国が形だけの改心を示しても、とても大きなインパクトがあるでしょう。
たとえば、中国は再教育プログラムをやめることができます。また、ダライラマを悪魔と罵る政治キャンペーンも中止することができます。
これらの政策はもはや何十年にもわたり中国内地ですら施行されたことはないのではないでしょうか?
また、香港で行っているように、チベットへの入植者の数を規制することもできます。
もしそうしないならば、緊張状態は加速し、もしさらに多くの人々が殺されるなら、状況はコントロール不能となり、いかなる意味のある形でも解決することは難しくなるでしょう。
●一番最近の焼身では、警察から焼身者をまもるために千人の人々が取り囲んでいたという。なぜ彼らはこんなことをするのだろうか?
ロビバ: チベット文化では、人が死んだあと、〔転生に向かう過程を邪魔しないように〕遺体をできるかぎりそっとしておきます。
そして残された人は特別な儀式を行い、死者の意識が穏やかになり、よりすばらしい転生へ向かうようにと祈ります。
しかし、いかなる宗教においても、様々な説明のレベルがあります。たとえば、一般的に、適切な形で身を捨てる、たとえば、遺体を鳥や魚に食べさせることは、慈悲のあらわれであるために、中国によって行われる通常の火葬などよりもよい、という考え方があります。
チベットの伝統では、焼身抗議は明らかに、地方政府がいうような「絶望した個人による自殺」ではなく、「他者を利するための自己犠牲」とみなされます。従って、土地の人々は適切な儀式が僧侶たちによって行われると保証することによって、死者に対して敬意を払いたいのでしょう。ですから、死者の体を警察に没収されることに対する抗議以外にも、多くの要因があるのです。
以上です。まとめると、すぐに領土問題とか安全保障とかに結びつけて思考停止するな。中国人にすら今は行っていいないあの悪質な愛国教育を中国政府がやめれば、チベット人はやさしいから今の抵抗運動をやめるだろう、ということである。あと、利他のための焼身は菩薩行とみなされること、そして、修業者は死の直後には仏の意識により近い状態にあるので、遺体を動かさないことを求めている、というのもたしかにチベット仏教の思想です。
抵抗運動がそのまま仏教の精神修行となること、その死ですら伝統文化の現れとなることはフリー・チベット運動の特徴である。中国政府の弾圧というネガティブな力もチベット人の中をとおると民族文化の維持と世界平和というポジティブな力へと昇華していく。
従って、チベット人の意志を弱らせたいなら、中国がそのネガティブな行動を抑制すればいい、というロビバの意見は非常に理にかなっている。
ちなみに、焼身抗議に対する調査を求めて行われていた、チベット人の無期限ハンストは、国連が調査を約束することによってようやく今日終わったようである。
NHKはまずぼかしの入ったチベット人の焼身映像を流し、さらに現地に入った記者がぼかしの入ったお坊さんからインタビューをとり、亡命政府のセンゲ首相と温家宝の主張をそれぞれ併記し、今月に入ってさらに焼身者が増えていることを時系列の表で示し、〔少数民族とはいっても中国と比べるから少数なのであって〕チベット人は300万人おり、モンゴル共和国よりも人口が多いといい、先だっての3月10日の先進諸国でのデモの映像を流した。
「シルクロード」「大黄河」など、中国を舞台にしたドキュメンタリーでならしてきたNHKには、中国との間にぶっとい絆があることはよく知られている。そのため従来NHKは中国での取材を円滑に進めたいがため、チベット報道も中国政府が許す範囲内で行い、その結果、NHKのチベット報道と言えば、観光か、環境か、近代化の中で変わるチベット事情(このような番組の中ではチベット人が妻のために冷蔵庫をしょって山道を歩いたりする 笑)みたいなものが多く、たまーにチベット問題を扱う場合でも、よく見れば中国政府を批判しているものの、リテラシーのない人がみれば中国政府の言い分しか記憶に残らないような「察して」みたいな、すばらしい(アメリカン・ジョーク)番組を作っていた。
しかし、今回の特集は違った。まあ直球の報道であり、「事実をありのままに伝える」という報道の本来の精神に則っていた。チベサポもこの番組を全体としては評価していたが、こういう声もあった。それは、スタジオに呼ばれていた解説者がした「チベットは中国にとって核心的利益だから、チベットに対する姿勢は変わらないだろう。各国も中国と経済的な関係が密接だから圧力が加えられないだろう」という旨の発言に、「チベット人が今怒っているのは領土問題というより愛国教育である。愛国教育をやめるだけでも焼身はとまる」というもの。また、「焼身はチベットの利他の文化に基づく部分もあるのに、それに対する解説がない」という意見もあった。
では、この焼身の件について誰の解説がよいだろうかと言えば、やはりロビバ (コロンビア大学の現代チベット研究課程の所長、ロバート・バーネット)であろうということで、「彼の2月24日のインタビュー記事、誰か訳さない?」、じゃあチベサポ界の書記(笑)がやるか、という流れで、私がへたくそな和訳を行うこととなったのである(前置き長)
※原文はココ。また、( )内は訳者注。
ロビー・バーネットへインタビュー: なぜチベット人は自らの身に火を放つのか?
2012年2月24日by Alex Ortolani Asia Blogより
今週初め、中国によるチベット支配に抗議するべく焼身したチベット僧は、少なくとも22人にのぼった(2月24日時点。今は30人)。コロンビア大学現代チベット研究課程の所長、ロバート・バーネットは「これは新しいタイプのチベット人の政治的な抵抗である。中国政府がこの地域における政策を変えないならば、焼身は異議申し立ての形として継続するだろう。」と述べた。以下、アジア・ブログによるロバート・バーネットへの電話インタビューである。
●なぜチベットの僧侶や尼僧は中国政府に対してこのような特殊な形の抗議を行うのか?
ロビバ: なぜ彼らがこのような抵抗の方法を選んだのかという理由ははっきりしません。本土のチベット人、とくに地方にいる人々は、「アメリカの声」(voice of America)や「ラジオ自由アジア」(radio free Asia)のような、外からくるチベット・ニュースを時には聞くことができます。しかし、去年、チュニジア革命の発端となった焼身自殺についてはたぶん知らないはずですし、まして、五十年前にベトナム〔反戦運動の引き金となったティック・クアン・ドック師〕の焼身自殺についてはもっと知らないはずです。しかし、彼らはアラブの春をもたらしたデモについては聞いているでしょう。そして、これは一般的な意味で人々を奮い立たせ、大衆による抗議運動を変革の手段とみているかもしれません。
しかし、チベット人がこのような抗議の手段をとった背景には2008年におきた前回のチベットの騒動時の体験があるかもしれません。当時は、約150人の大規模な街頭デモがおき、この中の約20人が暴徒化しました。この暴力は、中国政府がチベットと中国の間にある基本的な問題の解決や抗議者の不満の解消に取り組むことを避ける状況を生み出しました。
従って、今行われている焼身抗議は、伝統的な大規模な街頭デモの否定的な側面(一歩間違えると暴徒化)を避ける一つの手段と見られているのかもしれません。つまり、焼身を行う者は「私の希望は他人の生命・財産に害を与えていない。また、争乱も引き起こしていない。従って、簡単に無視できないだろう」、というような形で中国政府に対してメッセージを送っているのです。
焼身抗議者は「自由を!」「ダライラマ法王のチベットへの帰還を!」と叫んでいます。〔この叫びから見ても〕1994年に始まった中国の劇的なチベット政策の転換が彼らの焼身の引き金となっているように思われます。1994年、僧侶や尼僧にダライラマを否定するように強制し、僧院やチベット人居住域に関する規則を増大させることによって、中国はダライラマを攻撃する政策に重点的に取り組むことを決定しました。
この政策は最初は、チベット自治区、すなわちラサを中心とするチベット高原の西半分でのみ運用されていましたが、この十年間で次第に高原の東半分にある僧院・尼僧院にも適用されるようになりました。これらの地域はチベット人の人口の大半が住む地域であり、そして、現在焼身抗議が行われている場所でもあります。
この中国の政策は、「僧侶の再教育プログラム」「ダライラマの尊崇の禁止」「学校におけるチベット語教育の削減」「チベット人居住域への他民族の入植奨励」ほかもろもろの禁令により成り立っています。それまで東チベットの人々はきわめてリラックスして平和裡に暮らしていたので、中国がなぜこの政策を東チベット地域にまで適用することを決意したのかは誰も知りません。
●仏教文化にはこの種の特殊な抗議を行う伝統があるのですか?
ロビバ: 中国の報道では「焼身抗議は仏教の教義や戒律を犯すものだ」と言い立てていますが、実は焼身は仏教の伝統と深く共鳴しています。個人的な理由からそれを行うのならば、自殺は仏教で禁止されています。しかし、より気高い動機を持って行われる自己犠牲は高く評価されます。
仏陀がその前世において自己犠牲を行っていた物語(ジャータカ)はよく知られています。もっとも有名なエピソードとしては、飢えた母虎が自分の生んだばかりの子虎を食わないように、自らの体を虎に差し出した話です(日本の法隆寺の玉虫の厨子はこの捨身飼虎を描いたもの。仏陀の前世者によって命を救われた子虎は後に仏陀が最初に法を説いた際の最初の五人の聴衆となった)。従って、社会の利益のためになされた行いは、気高いものとみなされますし、もしそれが僧侶によってなされるのなら、特に尊敬を受けます。
焼身が僧侶・尼僧・元僧によってなされているのはまさにこの理由からです。彼らは社会的に尊敬されていた人たちであったため、中国政府は抗議者たちの信用を落とすことに成功していません。
かつて、2001年に法輪功の信者とされる五人の中国人が北京で集団で焼身抗議を行った事件については、中国政府はかれらの評判を落とすことにかなり成功しました。中国政府は、「この焼身はかれら五人が法輪功によって洗脳され、騙されていた証拠」と宣伝したのです。中国の報道は今回もこのやり方をチベット僧たちに適用しようとしましたが、その試みはうまくいきませんでした。焼身抗議者たちの大半はチベット社会の中で広く尊敬されていた人々であったからです。
●なぜ、チベット・中国双方はチベットの管理に関して共通の基盤を見いだすことができないのでしょうか?
ロビバ: チベット・中国の間に存在する問題を理解する一つのやり方として、「チベットの地位」という問題があります。つまり、「チベットは中国の一部なのか」あるいは「もし中国の一部ならどの程度の自治があるのか」という問題です。この問題は中国軍が最初にチベットを併合し、中国の領土へと統合しようとした少なくとも百年前に遡る問題です(1911年の清朝軍の侵略に追われてダライラマ13世がインドへ亡命し、その後清朝が13世を廃位した事件)。この問題は非常に解決に時間がかかる問題です。
しかし、この最初の問題と混同されがちな第二の問題があります。それは、中国が最近になって導入した諸政策、特に1994年以後に導入したダライラマを敵視する政策、それに加えて再教育プログラム、チベット語教育の軽視、経済発展のおしつけ、といった諸政策が同時に強化されていく問題です。
この二番目の問題の要因は不変ではなく、常時新たな形態をとっているが故に、中国に、容易に妥協できるようなチャンスを提供しています。もし彼らが妥協するならば、ある種の緊張の緩和が生まれ、最初の問題であった自治と地位に関する問題も解決する時間が得られるでしょう。
●これらの焼身には終わりが見えますか?
ロビバ: 中国は少なくとも1980年代初頭からは「自分たちはチベット人を寛大に遇している」と思っています。なぜなら中国はチベット地域での経済発展を促すために莫大な助成を行っているし、中国は焼身抗議を、チベットを独立させて中国を分裂させようと企図しているダライラマや他の亡命者たちの策謀とみなしているからです。
亡命者たちはもちろんこの中国の疑念を否定しますが、同時に、予想通りの強力なナショナリスティックなレトリックを用います。従って、この両サイドの指導者間における交渉による解決という可能性は排除されていないとはいえ、現在の情勢ではこれは実現できそうもありません。
当分の間、今頭にきている東チベットの人々の意志は固いでしょう。というのも、かれらは、地域や僧院に対する中国の様々な攻撃について長くつらい記憶をもっているからです。彼らは自らの核心的な価値を守りづけるでしょう。
従って、現在の緊張状態は中国共産党からの譲歩なしに終わることはないでしょう。
その譲歩は、人々が自殺を止めようと決意するためには、それほど大きなものである必要はないでしょう。
本土のチベット人は活動家ですら、大概の場合驚く程穏健で、一般的にプラグマティツクです。だから、中国が形だけの改心を示しても、とても大きなインパクトがあるでしょう。
たとえば、中国は再教育プログラムをやめることができます。また、ダライラマを悪魔と罵る政治キャンペーンも中止することができます。
これらの政策はもはや何十年にもわたり中国内地ですら施行されたことはないのではないでしょうか?
また、香港で行っているように、チベットへの入植者の数を規制することもできます。
もしそうしないならば、緊張状態は加速し、もしさらに多くの人々が殺されるなら、状況はコントロール不能となり、いかなる意味のある形でも解決することは難しくなるでしょう。
●一番最近の焼身では、警察から焼身者をまもるために千人の人々が取り囲んでいたという。なぜ彼らはこんなことをするのだろうか?
ロビバ: チベット文化では、人が死んだあと、〔転生に向かう過程を邪魔しないように〕遺体をできるかぎりそっとしておきます。
そして残された人は特別な儀式を行い、死者の意識が穏やかになり、よりすばらしい転生へ向かうようにと祈ります。
しかし、いかなる宗教においても、様々な説明のレベルがあります。たとえば、一般的に、適切な形で身を捨てる、たとえば、遺体を鳥や魚に食べさせることは、慈悲のあらわれであるために、中国によって行われる通常の火葬などよりもよい、という考え方があります。
チベットの伝統では、焼身抗議は明らかに、地方政府がいうような「絶望した個人による自殺」ではなく、「他者を利するための自己犠牲」とみなされます。従って、土地の人々は適切な儀式が僧侶たちによって行われると保証することによって、死者に対して敬意を払いたいのでしょう。ですから、死者の体を警察に没収されることに対する抗議以外にも、多くの要因があるのです。
以上です。まとめると、すぐに領土問題とか安全保障とかに結びつけて思考停止するな。中国人にすら今は行っていいないあの悪質な愛国教育を中国政府がやめれば、チベット人はやさしいから今の抵抗運動をやめるだろう、ということである。あと、利他のための焼身は菩薩行とみなされること、そして、修業者は死の直後には仏の意識により近い状態にあるので、遺体を動かさないことを求めている、というのもたしかにチベット仏教の思想です。
抵抗運動がそのまま仏教の精神修行となること、その死ですら伝統文化の現れとなることはフリー・チベット運動の特徴である。中国政府の弾圧というネガティブな力もチベット人の中をとおると民族文化の維持と世界平和というポジティブな力へと昇華していく。
従って、チベット人の意志を弱らせたいなら、中国がそのネガティブな行動を抑制すればいい、というロビバの意見は非常に理にかなっている。
ちなみに、焼身抗議に対する調査を求めて行われていた、チベット人の無期限ハンストは、国連が調査を約束することによってようやく今日終わったようである。
第53回チベット蜂起記念日
3月9日は早稲田エクステンションセンターの講義(チベット仏教)の最終日であった。私の講義(現代史)パターンは、その時々の心に触れるニュースを導入とし、季節のメニューとして1月は中東革命、3月はチベット蜂起、6月は天安門、10月は1989年の東欧革命、11月はノーベル平和賞、12月はクリスマスといった具合に色をだす。
今回の講義はチベット仏教がテーマであるが、仏教は人の心のあり方の哲学なので、現代史上の人々の行動を例に引くことが可能であること、かつ、翌日が3月10日のチベット蜂起記念日、3月11日が震災の日ということもあり、当然ウザい感じに仕上がった(笑)。
「去年の震災に際してはダライラマは個人で一千万の寄付を行いました。ダライラマは難民ですよ? もし日本で、たとえば9.11の時に天皇陛下が「アメリカに一千万だす」といったらどうでしょう。きっと「日本人も困っているのに豊かなアメリカにお金だすことはない」とか言う人がでてくるでしょう。だけど何とチベット人はダライラマにならって、みなでなけなしのお金を集めて日本に送ってきました。これ一つとってみても社会の隅々にまで行き渡ったチベット人の利他性は明かです。
そのチベット人にお手本を示しているチベットの高僧は、どのようなつらい状況に直面しても、無気力や恨みや憎しみや不安にとらわれることはありません。ダライラマを見ても分かるように、究極の逆境にあってもいきいきと人のために生きています。一方、先進国には物質的には充たされているのに心を病んだ人があふれています。このことが示すことは、わたしたちを幸せにするのは外からやってくるものではなく、我々の内側にある心の平安であるということです。
短期的な快楽の充足は本質的な意味で人を幸福にすることはありません。長い目で見た幸せは心を安定させてはじめて得られるものです。そして心の安定とは自分と自分の延長にあるものにとらわれることから脱し、他者を愛することによって得られます。
チベットの仏教哲学によれば、一切のもの、すなわち現象にも自我にも、確固とした本質はありません。従って、人の性質も、良く変わることもできれば、悪く変わることもできると考えます。ところが、心の平安とは、何かの魔法で一足とびに手に入るものではなく、昨日よりは今日、今日よりは明日と、毎日性格を良い方に改変する努力を積み重ねた末に達成されていくものです。
たとえば、歯磨きの習慣をいったん身につけると、歯を磨かなければ朝がはじまらなくなるように、チベット人も毎日心のチェックを行い、それを毎日続けていることを習慣にした結果、自然とあのような利他的な行いができるようになったのです。だからチベット仏教の修行は結構地味です。
性格を良くすることを通じて心の平安を得るには天文学的な時間がかかります。なので、いろいろな言い訳(親が悪い、仕事が忙しい、聖人になるのはムリ)を並べ立てて良くなる努力を先延ばしすることは許されません。チベットの高僧の法話の定番は「いますぐ心のチェックをはじめなさい、死はすぐにやってくる」です。
講義の終了後、一人の年輩の学生さんがやってきて「先生、今日の『朝日』の朝刊みましたか? チベットが一面でしたよ。」と話しかけてきた。
私「二年前、柄谷行人が朝日に書いた『西洋における仏教受容の歴史』の書評があまりにひどかったので(もしあの書評が真っ当だという意見があるならいつでも議論を受けて立つ!!)、以来購読をやめて見てません。」というと、
学生さん「ダライラマが外国人から選ばれるって書いてました」
私「それは本土チベットでなくて、難民社会に生まれるという意味じゃないですか。確認してみます」
そこで帰宅して、朝日新聞のデータサイトにいって紙面のpdfを見てみると確かに一面と三面にチベットでの焼身抗議や当局による情報統制の記事が載っている。奥寺淳という記者が、チベット人居住域に潜入取材を試みて途中で警察に捕まって脅されて送り返されている。中国当局は「外国人はどこでも好きなところにいける」といってたらしいが(爆笑)。
余談だがこの奥寺淳さん、それから四日後の13日にジャーナリストに与えられるボーン・上田賞を受賞した。受賞理由は、去年の中国高速鉄道の事故の現場取材やチベットやウイグルの報道を中国当局の圧力に屈せず行ったからという。ちなみに、経歴を読むとこの人元産経記者(笑)。私が購読をやめる最後のあたりからチベット報道が劇的に改善したのはこういう人がいたからか。
朝日新聞、あともう少し頑張って、社会面とか文化面とかでとりあげる「知識人」のラインナップを刷新しない? 戦後ずっと金太郎飴状態で、少なくとも私はもうあきた(笑)。
話を戻すと9日、講義を終えた自分は、よく講義を聴きに来てくださる5名の聴講生さんとともにビルマの少数民族カチンの料理屋に入った。なぜカチンかというと、カチンの人たちの住む地域はカカボラジ山を越えればチベットだし、彼らも国がない難民なのでできるだけお金おとしたいし、何より安くておいしいし、「チベサポでーす」と言うと、サービスが良くなるからである(笑)。
というわけでカチン食堂に入ると、なぜかチベサポの重鎮AさんとBさんがいた(笑)。このカチン食堂、すでにチベサポのたまり場に(笑)。
私「明日(3/10)の打ち合わせですか」
A「違います。もっと中長期的なチベット支援についての秘密会談です」
とはいいつつも、狭い店で隣の机にいるAさんのしゃべりはダダモレで、秘密会談になってない。そもそも日本国内で隠すことなんてないけど。
で翌、3月10日はチベット蜂起記念日である。
53年前の1959年のこの日、チベット人が自然にダライラマを守るべくノルブリンカ離宮のまわりに集結した。この日からチベットの群衆と中国軍のにらみ合いがはじまり、両者衝突の危険を避けるためダライラマはインドに亡命するにいたったのである。
以後、この日には、世界中でチベット難民が先頭に立ち平和行進が行われている。具体的にはあのド派手なチベット旗を翻らせて街頭を練り歩いてチベットの現状を訴える。たとえば今年なら、「中国国内のチベット人は声をあげることすらできません。なので自らの身を燃やして抗議しています」と焼身抗議を人々に訴えるのである。この行進はチベット人に「チベット問題は忘れられてませんよ」というメッセージを送る意味もあるので、きっちり撮影されYoutubeに挙げられる。
以下は、Youtubeにアップされた各国の平和行進の模様。ニューヨークでは国連前でチベット人が無期限ハンストに入っている。
ちなみに、ドイツでは1200の都市でチベット旗が翻った。
翻るド派手なチベット旗に、途切れない人の波。横断幕を見ると中国の民主化を求める集団とかいろいろ加わっている。探せばカチンの人とかいそう(笑)。
そしてこれが今年の東京。
ツイッターに「諸外国に比べて人数少ない」と嘆いていた人がいたけど、僧侶と同じで数を増やせばいいってもんじゃない。やはり質である。私は2008年からミクシやツイッターでチベサポをウォッチングをしてきたけど、チベサポの中核にいる人たちは、本当にただの個人だけど、タダモノでない人たちばかり。
まずチベットは票にもお金にも力にも結びつかないから、彼らにはそういう意味でのスポイルがない。本当に個人である。なのに、去年震災が起きた時、しめしあわせたようにチベサポの中核メンバーは被災地に入って物資を届けたり、東京で支援品を集めて送ったり、あるいは写真を洗ったりなどの体を動かすボランティアを行っていた。つまり、この人たちはとにかく、つらい状態にある人(&動物)たちを見捨てられないのだ。
チベットのために歩いている動機も、「すぐ隣の国で行われている不当な出来事に対し、その国と深く関わっている日本人が知らないふりはできない」あるいは、「チベットの利他の文化は人類共通の遺産。この文化と言語をまもらねば」などの「良心」である。
見て見ぬふりができない人たち。世に満ちあふれている「何かを要求しても何かに反対しても、それを実現するための行動はまったくとらない、権利は主張しても義務は果たさない活動家」とは真逆なのだ。簡単にいうと、チベサポは菩薩(修行中)である。
それに見れば意外に数も集まっている。だって、日本人にとって3月10日は1945年の東京大空襲の日だし、さらに去年からは東日本大震災勃発の前日になった。このイヤガラセかとしか思えない巡り合わせにもかかわらず、よく集まっているよ。
それに9日の朝日の一面を飾ったチベット記事も、明らかにチベット蜂起記念日の10日を意識したものである。つい最近まで、朝日は新華社の報じる「西蔵解放記念日」の報道はしてもチベット蜂起記念日はガン無視だったことを考えると、日本のチベット・サポート環境も改善したものである(しみじみ)。
南アでアパルトヘイトが行われていた20世紀の後半、黒人の権利を求めた人たちは治安維持法で拘置所にひっぱられ、相次いで不審な死に方をした。たとえばスティーブ・ビコが死んだ時、時の法務大臣クルーガーは平然と「ハンストで死んだ」と発表したが、ビコの死体は全身に殴られた痕があり死因は頭部打撲であり、明らかに拘置所内でのリンチが原因であった。白人と共存しつつ黒人の権利を求めるというANCの憲章は、当時の南ア政府によって禁書にされ、国民に読ませないようにした。憲章を読めばそこに書いてある内容があまりに真っ当でみながANCに共感してしまうからだ。そして、南ア政府はANCはテロリスト集団だ、と国民に教え込んだ。
この過去の南ア政府の行動って今の中国のチベット政策と激しくかぶっている。中国当局はまず情報統制によって相次ぐ抗議の焼身をなかったことにして、何か発表せねばならない場合にも〔焼身した人は〕「犯罪者だった」「個人的に問題を抱えていた」「テロリストだ」などと死者に原因があるかのような声明をだしている。しかし、焼身する人は死ぬ前に死の動機を録画しているので、これがウソであることは報道の自由のある国の人は知っている。
中国がいくら経済的に強くなったと言っても軍事費は毎年二桁まし、、国際ルールは守れない、チベット問題に関しても文革時と変わらないプロパガンダを繰り返しウソまでつく、さらには日本以上の格差社会を実現しているのを見ると、この国の発展を手放しで暖かく見守る人は少ないと思う。
一方 国がなくなって53年もたつのに、チベット人は文化を守り続け、かつ、運動の品格も失わず、世界中の心ある人のサポートを受けてがんばり続けている。
これを見ていると、この人たちが負けるような気がしないから不思議である。
今回の講義はチベット仏教がテーマであるが、仏教は人の心のあり方の哲学なので、現代史上の人々の行動を例に引くことが可能であること、かつ、翌日が3月10日のチベット蜂起記念日、3月11日が震災の日ということもあり、当然ウザい感じに仕上がった(笑)。
「去年の震災に際してはダライラマは個人で一千万の寄付を行いました。ダライラマは難民ですよ? もし日本で、たとえば9.11の時に天皇陛下が「アメリカに一千万だす」といったらどうでしょう。きっと「日本人も困っているのに豊かなアメリカにお金だすことはない」とか言う人がでてくるでしょう。だけど何とチベット人はダライラマにならって、みなでなけなしのお金を集めて日本に送ってきました。これ一つとってみても社会の隅々にまで行き渡ったチベット人の利他性は明かです。
そのチベット人にお手本を示しているチベットの高僧は、どのようなつらい状況に直面しても、無気力や恨みや憎しみや不安にとらわれることはありません。ダライラマを見ても分かるように、究極の逆境にあってもいきいきと人のために生きています。一方、先進国には物質的には充たされているのに心を病んだ人があふれています。このことが示すことは、わたしたちを幸せにするのは外からやってくるものではなく、我々の内側にある心の平安であるということです。
短期的な快楽の充足は本質的な意味で人を幸福にすることはありません。長い目で見た幸せは心を安定させてはじめて得られるものです。そして心の安定とは自分と自分の延長にあるものにとらわれることから脱し、他者を愛することによって得られます。
チベットの仏教哲学によれば、一切のもの、すなわち現象にも自我にも、確固とした本質はありません。従って、人の性質も、良く変わることもできれば、悪く変わることもできると考えます。ところが、心の平安とは、何かの魔法で一足とびに手に入るものではなく、昨日よりは今日、今日よりは明日と、毎日性格を良い方に改変する努力を積み重ねた末に達成されていくものです。
たとえば、歯磨きの習慣をいったん身につけると、歯を磨かなければ朝がはじまらなくなるように、チベット人も毎日心のチェックを行い、それを毎日続けていることを習慣にした結果、自然とあのような利他的な行いができるようになったのです。だからチベット仏教の修行は結構地味です。
性格を良くすることを通じて心の平安を得るには天文学的な時間がかかります。なので、いろいろな言い訳(親が悪い、仕事が忙しい、聖人になるのはムリ)を並べ立てて良くなる努力を先延ばしすることは許されません。チベットの高僧の法話の定番は「いますぐ心のチェックをはじめなさい、死はすぐにやってくる」です。
講義の終了後、一人の年輩の学生さんがやってきて「先生、今日の『朝日』の朝刊みましたか? チベットが一面でしたよ。」と話しかけてきた。
私「二年前、柄谷行人が朝日に書いた『西洋における仏教受容の歴史』の書評があまりにひどかったので(もしあの書評が真っ当だという意見があるならいつでも議論を受けて立つ!!)、以来購読をやめて見てません。」というと、
学生さん「ダライラマが外国人から選ばれるって書いてました」
私「それは本土チベットでなくて、難民社会に生まれるという意味じゃないですか。確認してみます」
そこで帰宅して、朝日新聞のデータサイトにいって紙面のpdfを見てみると確かに一面と三面にチベットでの焼身抗議や当局による情報統制の記事が載っている。奥寺淳という記者が、チベット人居住域に潜入取材を試みて途中で警察に捕まって脅されて送り返されている。中国当局は「外国人はどこでも好きなところにいける」といってたらしいが(爆笑)。
余談だがこの奥寺淳さん、それから四日後の13日にジャーナリストに与えられるボーン・上田賞を受賞した。受賞理由は、去年の中国高速鉄道の事故の現場取材やチベットやウイグルの報道を中国当局の圧力に屈せず行ったからという。ちなみに、経歴を読むとこの人元産経記者(笑)。私が購読をやめる最後のあたりからチベット報道が劇的に改善したのはこういう人がいたからか。
朝日新聞、あともう少し頑張って、社会面とか文化面とかでとりあげる「知識人」のラインナップを刷新しない? 戦後ずっと金太郎飴状態で、少なくとも私はもうあきた(笑)。
話を戻すと9日、講義を終えた自分は、よく講義を聴きに来てくださる5名の聴講生さんとともにビルマの少数民族カチンの料理屋に入った。なぜカチンかというと、カチンの人たちの住む地域はカカボラジ山を越えればチベットだし、彼らも国がない難民なのでできるだけお金おとしたいし、何より安くておいしいし、「チベサポでーす」と言うと、サービスが良くなるからである(笑)。
というわけでカチン食堂に入ると、なぜかチベサポの重鎮AさんとBさんがいた(笑)。このカチン食堂、すでにチベサポのたまり場に(笑)。
私「明日(3/10)の打ち合わせですか」
A「違います。もっと中長期的なチベット支援についての秘密会談です」
とはいいつつも、狭い店で隣の机にいるAさんのしゃべりはダダモレで、秘密会談になってない。そもそも日本国内で隠すことなんてないけど。
で翌、3月10日はチベット蜂起記念日である。
53年前の1959年のこの日、チベット人が自然にダライラマを守るべくノルブリンカ離宮のまわりに集結した。この日からチベットの群衆と中国軍のにらみ合いがはじまり、両者衝突の危険を避けるためダライラマはインドに亡命するにいたったのである。
以後、この日には、世界中でチベット難民が先頭に立ち平和行進が行われている。具体的にはあのド派手なチベット旗を翻らせて街頭を練り歩いてチベットの現状を訴える。たとえば今年なら、「中国国内のチベット人は声をあげることすらできません。なので自らの身を燃やして抗議しています」と焼身抗議を人々に訴えるのである。この行進はチベット人に「チベット問題は忘れられてませんよ」というメッセージを送る意味もあるので、きっちり撮影されYoutubeに挙げられる。
以下は、Youtubeにアップされた各国の平和行進の模様。ニューヨークでは国連前でチベット人が無期限ハンストに入っている。
ちなみに、ドイツでは1200の都市でチベット旗が翻った。
翻るド派手なチベット旗に、途切れない人の波。横断幕を見ると中国の民主化を求める集団とかいろいろ加わっている。探せばカチンの人とかいそう(笑)。
そしてこれが今年の東京。
ツイッターに「諸外国に比べて人数少ない」と嘆いていた人がいたけど、僧侶と同じで数を増やせばいいってもんじゃない。やはり質である。私は2008年からミクシやツイッターでチベサポをウォッチングをしてきたけど、チベサポの中核にいる人たちは、本当にただの個人だけど、タダモノでない人たちばかり。
まずチベットは票にもお金にも力にも結びつかないから、彼らにはそういう意味でのスポイルがない。本当に個人である。なのに、去年震災が起きた時、しめしあわせたようにチベサポの中核メンバーは被災地に入って物資を届けたり、東京で支援品を集めて送ったり、あるいは写真を洗ったりなどの体を動かすボランティアを行っていた。つまり、この人たちはとにかく、つらい状態にある人(&動物)たちを見捨てられないのだ。
チベットのために歩いている動機も、「すぐ隣の国で行われている不当な出来事に対し、その国と深く関わっている日本人が知らないふりはできない」あるいは、「チベットの利他の文化は人類共通の遺産。この文化と言語をまもらねば」などの「良心」である。
見て見ぬふりができない人たち。世に満ちあふれている「何かを要求しても何かに反対しても、それを実現するための行動はまったくとらない、権利は主張しても義務は果たさない活動家」とは真逆なのだ。簡単にいうと、チベサポは菩薩(修行中)である。
それに見れば意外に数も集まっている。だって、日本人にとって3月10日は1945年の東京大空襲の日だし、さらに去年からは東日本大震災勃発の前日になった。このイヤガラセかとしか思えない巡り合わせにもかかわらず、よく集まっているよ。
それに9日の朝日の一面を飾ったチベット記事も、明らかにチベット蜂起記念日の10日を意識したものである。つい最近まで、朝日は新華社の報じる「西蔵解放記念日」の報道はしてもチベット蜂起記念日はガン無視だったことを考えると、日本のチベット・サポート環境も改善したものである(しみじみ)。
南アでアパルトヘイトが行われていた20世紀の後半、黒人の権利を求めた人たちは治安維持法で拘置所にひっぱられ、相次いで不審な死に方をした。たとえばスティーブ・ビコが死んだ時、時の法務大臣クルーガーは平然と「ハンストで死んだ」と発表したが、ビコの死体は全身に殴られた痕があり死因は頭部打撲であり、明らかに拘置所内でのリンチが原因であった。白人と共存しつつ黒人の権利を求めるというANCの憲章は、当時の南ア政府によって禁書にされ、国民に読ませないようにした。憲章を読めばそこに書いてある内容があまりに真っ当でみながANCに共感してしまうからだ。そして、南ア政府はANCはテロリスト集団だ、と国民に教え込んだ。
この過去の南ア政府の行動って今の中国のチベット政策と激しくかぶっている。中国当局はまず情報統制によって相次ぐ抗議の焼身をなかったことにして、何か発表せねばならない場合にも〔焼身した人は〕「犯罪者だった」「個人的に問題を抱えていた」「テロリストだ」などと死者に原因があるかのような声明をだしている。しかし、焼身する人は死ぬ前に死の動機を録画しているので、これがウソであることは報道の自由のある国の人は知っている。
中国がいくら経済的に強くなったと言っても軍事費は毎年二桁まし、、国際ルールは守れない、チベット問題に関しても文革時と変わらないプロパガンダを繰り返しウソまでつく、さらには日本以上の格差社会を実現しているのを見ると、この国の発展を手放しで暖かく見守る人は少ないと思う。
一方 国がなくなって53年もたつのに、チベット人は文化を守り続け、かつ、運動の品格も失わず、世界中の心ある人のサポートを受けてがんばり続けている。
これを見ていると、この人たちが負けるような気がしないから不思議である。
シンディとトモダチとハーディングが示したこと
3月10日、一年ぶりに渋谷のオーチャドホールを訪れシンディ・ローパのコンサートを聴いた。その理由は去年に遡る。去年のこの時期のにブログにも記したように、一年前の原発パニックの最中、自分は渋谷で開かれたシンディのコンサートにいった。
これはいろいろな意味でスゴイ体験だった。
外国人はとっくに日本から逃げ出しており、下りの新幹線と西に向かう飛行機は乳幼児をつれた日本人の母親でごった返していた。そもそもこのコンサートのチケット自体、大阪に逃げた人から半額でゆずってもらったものである。
あの日、計画停電で電車は鈍行しか走っておらず、ついた渋谷は節電でまっ暗。道は店内の電気の反射で照らされているのみなので、まわりに店のないハチ公前広場はマックラで、あやうく●ロを踏みそうになった。
その時の自分の装備であるが、余震で電車が止まった時のことを考えて、カカトのない靴、厚着、ホッカイロ、歩いて帰る場合の地図、懐中電灯、カロリーメートまでカバンにいれていた。何しろひっきりなしに余震がある。
ニュースで茨城空港や九段会館の天井がくずれるシーンを目の当たりにしていたので、柱のないホールの広大な空間に入るのが、正直とても怖かったのを覚えている。
で、会場に入ると案の定席はガラガラ。本来の観客の多くはドタキャンしてどこかに逃げているのだろう。あの時、早稲田の文化構想学部のA先生も「逃走論」とかいって西に逃げたため、西●×と揶揄されていた。彼に限らず多くの小説家・知識人の先生方は西へ西へと逃げていた。
しかし、開場間際となると当日券で入ってくる人により、ほぼ満員となった。見ると、デーブスペクターとか、湯川れい子とか複数の著名人が一階席の中央部に並んでいる。シンディの心意気に答えてチャリティーを行うために来ていたのであった。
コンサートは忘れられないものとなった。このような状況下であえて一つの空間に集まったことにより、妙な連帯感のようなものが生まれていた。シンディ・ローパの曲はもともと非常にノリのよい曲なので、そのままで震災を忘れて元気がでる。
True Colors
悲しい目をしたあなた、
落ち込まないで。
わかっている、
頑張るのは難しいこと。
人々に満ちたこの世界で、
あなたは先が見えなくなっている。
あなたの中にある暗闇が
あなたを小さくみせている。
でも、わたしはあなたの本当の色が
輝き出しているのが見える。
あなたの本当の色がみえる。
だから私はあなたを愛しているの。
ためらわないで、あなたの本当の色を見せるのを。
あなたの色は美しい。
虹のように。
とシンディが歌うと、会場は「ホント先が見えないよー」と思ったかどうか、みな涙ぐんでいた。
最後は、シンディの先導でジョン・レノンの「人々に力を」(Power to the people)を全員で唱和。
その時、「みんな元気を出して、来年もまた来るわ! 」と言ったら本当に一年後、やってきたのである。去年のお礼もかねて行かねばなるまい。
今回シンディはコンサートの前に石巻の小学校も訪れていて、ヒット曲を謳い、桜の苗木をプレゼントした。オーチャード・ホールのコンサートの様子も、被災三県映画館で無料でライブ中継されたという。
びっくりしたのは日本語で「忘れないで」という曲を絶唱し、彼女は被災地を、日本を忘れないと日本語で伝えたこと。
トークでは時折声を詰まらせて、「泣かないわ」と気合いをいれるなど、つおいだけではなく、女性らしい細やかな雰囲気であった。
シンディは来日にあたってのNHKのインタビューでこう言った。
「世界ではさまざまな困難があり、どんな人も困難に直面するが、でもだからこそ、お互いがお互いのために存在しているし、お互いが支え合っていけば必ず困難は乗り越えられる」
そして一年後の来日の動機について
「忘れていないと伝えたいのです。みんなにも被災地や子どもたちたちに何ができるか、私が来ることで思い出してほしいのです」
これって、「世界は相互に依存しているから、自分が幸福になろうと思ったら、自分が不幸であることにばかりとらわれるのではなく、まず他者を思いなさい。」というダライラマの言葉にも通じる。
外国人であるシンディが、あえて危険な日本に残ってコンサートを続けたのは、自分の元気をもらった人がもっと弱い立場にある人に手を貸すようにと示すためだったのだ。
その翌日3/11に放映されたテレ朝の特番「3/11トモダチ作戦の全貌」(レンズが震えた! 3.11映像の証言 第4部)においてもシンディやダライラマと同じ精神を見た。
3/11当日に、日本からの救援要請がないうちに、アメリカ軍の太平洋司令官は、中東に向けて航海中の空母ロナルド・レーガンをして日本に向かわせた。そして韓国から飛ばした偵察機により被害の甚大さを知ると、救援軍を派遣することを決定した。
「放射能の危険があるが、行きたくない者は行かなくていい」といったが、誰一人任務につくことを拒否するものはいなかった。
中でもロナルド・レーガン付きの黒い騎士団(Black Knight)というヘリ部隊はほれぼれするような救援活動を実行。津波で孤立した300人に水や食料を届けた。被災者はヘリを涙ながらに迎えていた。この時、被災地の多くで目撃された若いヘリ・パイロット、ナディアたんはもう天女状態である。
3000人が住む孤立した島(気仙沼の大島)に上陸したアメリカ海軍もすごかった。強襲揚陸艦エセックスから兵士をのせた小型艇兵士を上陸させ(普通の船ではがれきだらけの浜辺に接岸できなかった)、たった6日で大島の港を片付けて、本土からの船が接岸できるようにした。
最初は米軍を遠巻きにしていた住民も、若いアメリカ軍兵士ががれきを撤去する様をみると、その作業に一人加わり二人加わり、最後は一緒に港の復旧をはじめた。アメリカ兵は、住民たちの要望にこたえて食器類の内割れていないものを拾い集めるというような細かい作業まで行った。今、島で食堂を再開している夫婦は、その時兵士が広い集めた食器を使っている。
夫婦「もしこの食器がなかったら、食堂を再開する気にはならなかった。こうして拾い集めてもらったことで、店を再開するように励まされたような気がした」。
アメリカ兵は島の人にもう一度がんばってみようという気力を与えていたのである。アメリカ軍が引き上げる日、島の人はみなで "Thank you very very much USA" と書いた横断幕をもって、手を振って名残を惜しんだ。言葉が通じないもの同士である。心が通じなければこのような笑顔の別れはなかっただろう。
震災直後ツイッターで「この地震はアメリカが日本に恩を着せるために起こしたものだ。だから、空母ロナルド・レーガンがあんなに早く日本に到着したのだ」と発言している人がいたが、地震で脳内にダメージを受けたにしてもアホな発言である。
もちろん、アメリカ軍とならんで忘れてはならないのは自衛隊の奮闘である。「自分たちはこの国の最後の砦である。自分たちが引いたら後には何もない。自分たちが頑張るしかない」と言いながら、自衛隊員も危機の時に現れる人の美質を示した。「~論」とか理屈をいって西に逃げた人たちよりも、この素朴な自衛隊員の言葉の方が何倍も心に触れる。
そして、シンディのコンサートから帰った晩、、「3.11のマーラー」というNHKドキュメンタリーが流れた。これは震災当日、行われた魂のコンサートの記録である。
これについては個人的に笑える話がある。何ヶ月か前、同僚の先生と帰り道が一緒になった。
私「震災の時、先生はどこで何してましたか?」
x先生「本震があった時は、編集の方と打ち合わせ中で、そのあとハーディングがマーラーの五番をふるっていうんで、隅田のホールに向かったんだけど」
私「ええ、震災当日コンサートがあったんですか?」
X先生「事務局に電話したらやるっていうんで、タクシーで向かったんだけど、渋滞に巻き込まれてとても時間内につかないと思って引き返した。そしたら律儀なもんで、6月にハーディングもう一度来日して再演したんだ」
私「震災当日、電車とまっていたでしょ? お客さん集まったんですか?」
x先生「それが根性で会場にたどりついた人が105人いたらしい。」
という震災当日に行われたマーラー五番の物語である。
イギリスの若き指揮者ハーディングが震災にあったのは、車でホールに向かう途中であった(ちなみにシンディは着陸直前なのであの揺れは体験していない)。
ハーディング「地震になれているはずの日本人が動揺しているのを見て、ただ事でないと思った」。そして、新日本フィル事務局は「ホールの安全が確認できて、演奏の質が確保できるなら、一人のお客様のためでも演奏会やりましょう」と決断。
とはいっても、93人の楽団員のうち、ホルン奏者の一人は、新橋で電車がとまって他に交通手段もないのでスカイツリーを目標に走っていた。ついた時は本番45分前。同じく気合いでホールに徒歩で向かった観客も途中道に迷ったりして大変だったようである。X先生も気合いで歩けば伝説のコンサートに行けたのに(笑)。
ゲネプロ(リハーサル)の時には、楽団員は浮き足立っており、音はこわばっていた。しかし、ハーディングはいつも通り、何もなかったかのように皆のまえに現れた。「地震のない国から来たから、さぞや動揺しているかと思ったら、いつも通りでした」。悲惨な津波の映像をみた後で動揺していた団員の心は、ハーディングによって音楽に集中していく。
ハーディングは後にこういった「こういう時には一人になってはいけない。演奏会をやれば人が集まる。音楽がそこにある。演奏会が終わればみな現実に戻るが、音楽が続いている間は、マーラーが、我々を暗闇から光が差し込む場所につれていってくれる。うまく演奏できたかどうかが問題ではない。大切なことは聴衆も演奏者も音楽を必要としたあのときに、音楽を演奏できたことです。そこに価値があったのです。」
団員の数は93人、お客さんの数は105人。この晩の演奏は楽団員も観客も口をそろえて「特別だった」という神の降りたものであった。マーラーの五番って、とくに第四楽章があのルキノ・ヴィスコンティ監督の 「ベニスの死す」のハイライトで使われた、心に触れる美しい楽曲である。シンディのコンサートから類推しても、余震の続く3/11の当日に行われたコンサートはそりゃスゴかっただろう。みな自分のいろいろな思いを演奏に入れたから、うまいヘタを超えたハンパでない音がでたのである。
「音楽は苦しんでいる人の苦しみを理解する助けになります。マーラーを聞いたことにより、被災した人たちの痛みをより理解できるのではないでしょうか。」(ハーディング談)
これ、本質的にはシンディと同じことを言っている。
人は地獄を見るといろいろな反応をする。多くは自分と自分の延長にあるものだけを考えて、うろたえて逃げる、無気力になる、不安を怒りにかえるなど、ネガティブな行動に走る。
しかし、「最後の砦」自衛隊や、トモダチ作戦のアメリカ軍や、シンディや、ハーディングは違った。逃げても、止めても誰にも責められないような状況下で、あえて「自分のできること」を決行することを通じて、魂の錬金術をみせてくれたのである。ちなみに、ダライラマもその後、震災の49日法要でこの錬金術をみせてくれた。
彼らが口にすることはみな同じである。「自分の力を他人のために使いなさい。世界は依存しあって存在しているのだから、他者を思うことは、自分の幸せにもつながることなのだよ」ということ。苦難に直面するからこそ、人は人を思う。人の心は鉄から金になることもある。地獄と天国は実は次元の違う隣り合わせである。
思えばこの震災を境に、政府・報道・官僚・知識人・市民運動はその未熟さ・機能不全を示して信用を失墜した。一方、自衛隊、アメリカ軍、英米人気質からは教えられることが多かった。しかし、自衛隊、アメリカ軍、英米人気質のすべては、戦後日本の知識人が極端なまでに排除してきたものである。傍観者の立場から、既成の社会を批判しまくるにもかかわらず、批判・排除しているものに支えてもらっているという状態は、思春期の子供と同じである。この過渡期の不安定さを戦後60年も続けてきたわけだから、そりゃ日本全体が病むのも当然の理であった。
震災当時「公のために我慢することを賛美することは軍国主義の始まり」という極端な主張のもとに、自分のことだけを考えろ、というネガティブな言動が限りなく蔓延した(今もそれを続けている人はいる)。しかし、ここで問いたいのだが、困っている人のためにエゴを押さえること、任務を誠実にこなす人を賞賛すること、社会に貢献することなどを非難する真っ当な理由がどこにあるのか。
誰もが社会貢献、自立の努力などの市民の義務を果たさず、ただ権利ばかりを主張するようになれば、早晩その社会は崩壊する。たとえば、あの震災の時、みなが自分のことだけ考えて現場から逃げだしていたら、自衛隊やお医者さんやアメリカ兵が逃げだしていたら、死傷者数はもっと増えただろう。
もちろん人には逃げる自由もあれば、不安や不満を表明する自由もある。とくに逃げることが普遍的な意味をもつ場合は、社会に訴えることもアリだと思う。たとえば、障害者を世話している人が、「自分一人ではこの子たちを救えない、助けて」みたいな場合はこれにあたる。しかし、ただ〔根拠なく起きる〕心の不安を原因とするネガティブな言動は、個人的な問題なので、回りに賛同を求めてはいけないし、周りもその内容に振り回されるべきではない(ただし、こういう人には心のケアは必要である)。
震災一周年にあたって強く思ったことは、震災を契機に、日本社会も思春期を脱して責任ある大人になる努力をはじめる時がきたということ。旧来の価値はすべて再検討をし、残すべきものは残し、捨てるべきものは捨てる。そして自らがこうあるべき社会の姿をもっているのなら、ただ既存の体制を批判して誰かを動かす、という人任せではなく、個々人が自ら責任ある関わり合い方をすること。能力があるなら、その能力を提供すればいいし、能力がないのなら能力のある人をサポートすればいい。
3月10日のチベット蜂起記念日については次のエントリーで。
これはいろいろな意味でスゴイ体験だった。
外国人はとっくに日本から逃げ出しており、下りの新幹線と西に向かう飛行機は乳幼児をつれた日本人の母親でごった返していた。そもそもこのコンサートのチケット自体、大阪に逃げた人から半額でゆずってもらったものである。
あの日、計画停電で電車は鈍行しか走っておらず、ついた渋谷は節電でまっ暗。道は店内の電気の反射で照らされているのみなので、まわりに店のないハチ公前広場はマックラで、あやうく●ロを踏みそうになった。
その時の自分の装備であるが、余震で電車が止まった時のことを考えて、カカトのない靴、厚着、ホッカイロ、歩いて帰る場合の地図、懐中電灯、カロリーメートまでカバンにいれていた。何しろひっきりなしに余震がある。
ニュースで茨城空港や九段会館の天井がくずれるシーンを目の当たりにしていたので、柱のないホールの広大な空間に入るのが、正直とても怖かったのを覚えている。
で、会場に入ると案の定席はガラガラ。本来の観客の多くはドタキャンしてどこかに逃げているのだろう。あの時、早稲田の文化構想学部のA先生も「逃走論」とかいって西に逃げたため、西●×と揶揄されていた。彼に限らず多くの小説家・知識人の先生方は西へ西へと逃げていた。
しかし、開場間際となると当日券で入ってくる人により、ほぼ満員となった。見ると、デーブスペクターとか、湯川れい子とか複数の著名人が一階席の中央部に並んでいる。シンディの心意気に答えてチャリティーを行うために来ていたのであった。
コンサートは忘れられないものとなった。このような状況下であえて一つの空間に集まったことにより、妙な連帯感のようなものが生まれていた。シンディ・ローパの曲はもともと非常にノリのよい曲なので、そのままで震災を忘れて元気がでる。
True Colors
悲しい目をしたあなた、
落ち込まないで。
わかっている、
頑張るのは難しいこと。
人々に満ちたこの世界で、
あなたは先が見えなくなっている。
あなたの中にある暗闇が
あなたを小さくみせている。
でも、わたしはあなたの本当の色が
輝き出しているのが見える。
あなたの本当の色がみえる。
だから私はあなたを愛しているの。
ためらわないで、あなたの本当の色を見せるのを。
あなたの色は美しい。
虹のように。
とシンディが歌うと、会場は「ホント先が見えないよー」と思ったかどうか、みな涙ぐんでいた。
最後は、シンディの先導でジョン・レノンの「人々に力を」(Power to the people)を全員で唱和。
その時、「みんな元気を出して、来年もまた来るわ! 」と言ったら本当に一年後、やってきたのである。去年のお礼もかねて行かねばなるまい。
今回シンディはコンサートの前に石巻の小学校も訪れていて、ヒット曲を謳い、桜の苗木をプレゼントした。オーチャード・ホールのコンサートの様子も、被災三県映画館で無料でライブ中継されたという。
びっくりしたのは日本語で「忘れないで」という曲を絶唱し、彼女は被災地を、日本を忘れないと日本語で伝えたこと。
トークでは時折声を詰まらせて、「泣かないわ」と気合いをいれるなど、つおいだけではなく、女性らしい細やかな雰囲気であった。
シンディは来日にあたってのNHKのインタビューでこう言った。
「世界ではさまざまな困難があり、どんな人も困難に直面するが、でもだからこそ、お互いがお互いのために存在しているし、お互いが支え合っていけば必ず困難は乗り越えられる」
そして一年後の来日の動機について
「忘れていないと伝えたいのです。みんなにも被災地や子どもたちたちに何ができるか、私が来ることで思い出してほしいのです」
これって、「世界は相互に依存しているから、自分が幸福になろうと思ったら、自分が不幸であることにばかりとらわれるのではなく、まず他者を思いなさい。」というダライラマの言葉にも通じる。
外国人であるシンディが、あえて危険な日本に残ってコンサートを続けたのは、自分の元気をもらった人がもっと弱い立場にある人に手を貸すようにと示すためだったのだ。
その翌日3/11に放映されたテレ朝の特番「3/11トモダチ作戦の全貌」(レンズが震えた! 3.11映像の証言 第4部)においてもシンディやダライラマと同じ精神を見た。
3/11当日に、日本からの救援要請がないうちに、アメリカ軍の太平洋司令官は、中東に向けて航海中の空母ロナルド・レーガンをして日本に向かわせた。そして韓国から飛ばした偵察機により被害の甚大さを知ると、救援軍を派遣することを決定した。
「放射能の危険があるが、行きたくない者は行かなくていい」といったが、誰一人任務につくことを拒否するものはいなかった。
中でもロナルド・レーガン付きの黒い騎士団(Black Knight)というヘリ部隊はほれぼれするような救援活動を実行。津波で孤立した300人に水や食料を届けた。被災者はヘリを涙ながらに迎えていた。この時、被災地の多くで目撃された若いヘリ・パイロット、ナディアたんはもう天女状態である。
3000人が住む孤立した島(気仙沼の大島)に上陸したアメリカ海軍もすごかった。強襲揚陸艦エセックスから兵士をのせた小型艇兵士を上陸させ(普通の船ではがれきだらけの浜辺に接岸できなかった)、たった6日で大島の港を片付けて、本土からの船が接岸できるようにした。
最初は米軍を遠巻きにしていた住民も、若いアメリカ軍兵士ががれきを撤去する様をみると、その作業に一人加わり二人加わり、最後は一緒に港の復旧をはじめた。アメリカ兵は、住民たちの要望にこたえて食器類の内割れていないものを拾い集めるというような細かい作業まで行った。今、島で食堂を再開している夫婦は、その時兵士が広い集めた食器を使っている。
夫婦「もしこの食器がなかったら、食堂を再開する気にはならなかった。こうして拾い集めてもらったことで、店を再開するように励まされたような気がした」。
アメリカ兵は島の人にもう一度がんばってみようという気力を与えていたのである。アメリカ軍が引き上げる日、島の人はみなで "Thank you very very much USA" と書いた横断幕をもって、手を振って名残を惜しんだ。言葉が通じないもの同士である。心が通じなければこのような笑顔の別れはなかっただろう。
震災直後ツイッターで「この地震はアメリカが日本に恩を着せるために起こしたものだ。だから、空母ロナルド・レーガンがあんなに早く日本に到着したのだ」と発言している人がいたが、地震で脳内にダメージを受けたにしてもアホな発言である。
もちろん、アメリカ軍とならんで忘れてはならないのは自衛隊の奮闘である。「自分たちはこの国の最後の砦である。自分たちが引いたら後には何もない。自分たちが頑張るしかない」と言いながら、自衛隊員も危機の時に現れる人の美質を示した。「~論」とか理屈をいって西に逃げた人たちよりも、この素朴な自衛隊員の言葉の方が何倍も心に触れる。
そして、シンディのコンサートから帰った晩、、「3.11のマーラー」というNHKドキュメンタリーが流れた。これは震災当日、行われた魂のコンサートの記録である。
これについては個人的に笑える話がある。何ヶ月か前、同僚の先生と帰り道が一緒になった。
私「震災の時、先生はどこで何してましたか?」
x先生「本震があった時は、編集の方と打ち合わせ中で、そのあとハーディングがマーラーの五番をふるっていうんで、隅田のホールに向かったんだけど」
私「ええ、震災当日コンサートがあったんですか?」
X先生「事務局に電話したらやるっていうんで、タクシーで向かったんだけど、渋滞に巻き込まれてとても時間内につかないと思って引き返した。そしたら律儀なもんで、6月にハーディングもう一度来日して再演したんだ」
私「震災当日、電車とまっていたでしょ? お客さん集まったんですか?」
x先生「それが根性で会場にたどりついた人が105人いたらしい。」
という震災当日に行われたマーラー五番の物語である。
イギリスの若き指揮者ハーディングが震災にあったのは、車でホールに向かう途中であった(ちなみにシンディは着陸直前なのであの揺れは体験していない)。
ハーディング「地震になれているはずの日本人が動揺しているのを見て、ただ事でないと思った」。そして、新日本フィル事務局は「ホールの安全が確認できて、演奏の質が確保できるなら、一人のお客様のためでも演奏会やりましょう」と決断。
とはいっても、93人の楽団員のうち、ホルン奏者の一人は、新橋で電車がとまって他に交通手段もないのでスカイツリーを目標に走っていた。ついた時は本番45分前。同じく気合いでホールに徒歩で向かった観客も途中道に迷ったりして大変だったようである。X先生も気合いで歩けば伝説のコンサートに行けたのに(笑)。
ゲネプロ(リハーサル)の時には、楽団員は浮き足立っており、音はこわばっていた。しかし、ハーディングはいつも通り、何もなかったかのように皆のまえに現れた。「地震のない国から来たから、さぞや動揺しているかと思ったら、いつも通りでした」。悲惨な津波の映像をみた後で動揺していた団員の心は、ハーディングによって音楽に集中していく。
ハーディングは後にこういった「こういう時には一人になってはいけない。演奏会をやれば人が集まる。音楽がそこにある。演奏会が終わればみな現実に戻るが、音楽が続いている間は、マーラーが、我々を暗闇から光が差し込む場所につれていってくれる。うまく演奏できたかどうかが問題ではない。大切なことは聴衆も演奏者も音楽を必要としたあのときに、音楽を演奏できたことです。そこに価値があったのです。」
団員の数は93人、お客さんの数は105人。この晩の演奏は楽団員も観客も口をそろえて「特別だった」という神の降りたものであった。マーラーの五番って、とくに第四楽章があのルキノ・ヴィスコンティ監督の 「ベニスの死す」のハイライトで使われた、心に触れる美しい楽曲である。シンディのコンサートから類推しても、余震の続く3/11の当日に行われたコンサートはそりゃスゴかっただろう。みな自分のいろいろな思いを演奏に入れたから、うまいヘタを超えたハンパでない音がでたのである。
「音楽は苦しんでいる人の苦しみを理解する助けになります。マーラーを聞いたことにより、被災した人たちの痛みをより理解できるのではないでしょうか。」(ハーディング談)
これ、本質的にはシンディと同じことを言っている。
人は地獄を見るといろいろな反応をする。多くは自分と自分の延長にあるものだけを考えて、うろたえて逃げる、無気力になる、不安を怒りにかえるなど、ネガティブな行動に走る。
しかし、「最後の砦」自衛隊や、トモダチ作戦のアメリカ軍や、シンディや、ハーディングは違った。逃げても、止めても誰にも責められないような状況下で、あえて「自分のできること」を決行することを通じて、魂の錬金術をみせてくれたのである。ちなみに、ダライラマもその後、震災の49日法要でこの錬金術をみせてくれた。
彼らが口にすることはみな同じである。「自分の力を他人のために使いなさい。世界は依存しあって存在しているのだから、他者を思うことは、自分の幸せにもつながることなのだよ」ということ。苦難に直面するからこそ、人は人を思う。人の心は鉄から金になることもある。地獄と天国は実は次元の違う隣り合わせである。
思えばこの震災を境に、政府・報道・官僚・知識人・市民運動はその未熟さ・機能不全を示して信用を失墜した。一方、自衛隊、アメリカ軍、英米人気質からは教えられることが多かった。しかし、自衛隊、アメリカ軍、英米人気質のすべては、戦後日本の知識人が極端なまでに排除してきたものである。傍観者の立場から、既成の社会を批判しまくるにもかかわらず、批判・排除しているものに支えてもらっているという状態は、思春期の子供と同じである。この過渡期の不安定さを戦後60年も続けてきたわけだから、そりゃ日本全体が病むのも当然の理であった。
震災当時「公のために我慢することを賛美することは軍国主義の始まり」という極端な主張のもとに、自分のことだけを考えろ、というネガティブな言動が限りなく蔓延した(今もそれを続けている人はいる)。しかし、ここで問いたいのだが、困っている人のためにエゴを押さえること、任務を誠実にこなす人を賞賛すること、社会に貢献することなどを非難する真っ当な理由がどこにあるのか。
誰もが社会貢献、自立の努力などの市民の義務を果たさず、ただ権利ばかりを主張するようになれば、早晩その社会は崩壊する。たとえば、あの震災の時、みなが自分のことだけ考えて現場から逃げだしていたら、自衛隊やお医者さんやアメリカ兵が逃げだしていたら、死傷者数はもっと増えただろう。
もちろん人には逃げる自由もあれば、不安や不満を表明する自由もある。とくに逃げることが普遍的な意味をもつ場合は、社会に訴えることもアリだと思う。たとえば、障害者を世話している人が、「自分一人ではこの子たちを救えない、助けて」みたいな場合はこれにあたる。しかし、ただ〔根拠なく起きる〕心の不安を原因とするネガティブな言動は、個人的な問題なので、回りに賛同を求めてはいけないし、周りもその内容に振り回されるべきではない(ただし、こういう人には心のケアは必要である)。
震災一周年にあたって強く思ったことは、震災を契機に、日本社会も思春期を脱して責任ある大人になる努力をはじめる時がきたということ。旧来の価値はすべて再検討をし、残すべきものは残し、捨てるべきものは捨てる。そして自らがこうあるべき社会の姿をもっているのなら、ただ既存の体制を批判して誰かを動かす、という人任せではなく、個々人が自ら責任ある関わり合い方をすること。能力があるなら、その能力を提供すればいいし、能力がないのなら能力のある人をサポートすればいい。
3月10日のチベット蜂起記念日については次のエントリーで。
チベットゼミ in 琉球(後半)
三月二日
三日目は琉球村経由で那覇に戻る。琉球村は沖縄の古民家を移築してつくったテーマパークで、それぞれの民家でサトウキビジュース飲んだり、三線聞ぃたり、琉球舞踊見たりとかの体験ができるようになっている。
まず、幹事キジムナー0の計らいによってタダでついている琉球伝統衣装着付け写真撮影を行う。赤ちゃんの衣装まで用意してあり、アホみたいな集合写真がとれた。
沖縄にいくと、自動販売機はシークワーサー・ジュースとさんぴん茶ばかりが入っているが、暑かったので私はあえてゴーヤビールを飲む。

ユタB「センセー、シーサー(獅子)の絵付け体験は最低四十分とかいっているので、もう行かなきゃ時間がなくなります」
私「ライオンの餌付け体験? そりゃ楽しそう」とオヤジ・ギャグをかます。
シーサー絵付け体験とは、無地のシーサーにアクリル絵の具で色付けをするのだが、ユタたちはスマホで画像検索してシーサーの色を確認してオレンジにぬった。しかし、私は写真のようなオカメインコ・カラーで色分けした(写真をクリックして大きくしてみてね 笑)。

そして、那覇について国際通り入り口にあるホテルにチェックインして、そのまますぐに世界遺産、斎場御嶽(セーファ・ウタキ)に向かう。ここは沖縄の神女たちを統括する聞得大君(きこえのおおきみ)の即位式が行われた場。かつてこの霊場には神女しか入れず、とくに久高島を遙拝する最奥部は聞得大君しか足を踏み入れることができなかった。しかし今は世界遺産になったため、男の観光客までどかどか入れるようになっている。
敷地内に入ると完全な熱帯雨林。キジムナーbが「森も拝所も熊野古道とそっくり」と言うように、古層の日本の文化がここには保存されている。ここ数日間あれる一方だった私のお肌がみるみる潤っていく。これはすごい。
キジムナーa「センセー、あの池からすごい霊気を感じます」
私「解説をよく読め。沖縄戦の艦砲射撃であいた穴に水がたまっているだけだっ」
キジムナーa「センセ-、今日のスタイル白なので教祖様みたいです。教祖様、足下気をつけて」
私「教祖様言うな」
などの小芝居をしながら、聖地のもっとも奥に入る。キジムナーeはiPhnoneを羅針盤にし、この拝所が東を向いていることを確認する。とにかく荘厳な霊気である。

拝所で真剣に、ダライラマ法王のご長寿と、チベットの平和を祈願する。もっとも古い自然霊につながっている聖地だから、自然を大切にするチベット文化はきっと加護がいただけるはず。て、アバターか。
斎場御嶽を出た直後から海が見えないほどの濃い霧がたちこめてくる。景色を見るために御嶽の近くの岬公園にいったが、一面乳白色で海はおろか、自分たちが立っている緑地以外何も見えない。まるで龍の巣の中にある天空の城ラピュタである。
景色がみえないので、仕方ないので四つ葉のクローバーを探す。ユタDが五つ葉、キジムナーdが四つ葉のクローバーを短時間で探し当てる。
ユタB「センセーこんなところに花束があります。誰かここから飛び込んだのかな」
私「たぶん最近でないよ。沖縄戦の時に追い詰められて集団自決をした場所じゃないかな。」
といったら、やはりそう。ここは多くの人が飛び込んだ断崖だった。
私たちが岬公園からでる時には不思議に霧が晴れてきた。しかし、那覇市内に入るやスコールが降り出し、ワイパーもきかない洗車状態に。じつは昨日謎のオジサンとともにドライブしていた時、舗装されていない泥道を走って車がめちゃめちゃに汚れたので、「返す時に洗車しなきゃねー」といっていたのが、このスコールで「ま、洗車しなくてもいっか」というレベルにまで綺麗になった。御嶽のご加護である。
夜はステーキとロブスターの食べ放題。最初にでてきたトマト・スープがネパールやインドでのむトマト・スープに激しくにていたので、キジムナーaに「これ、インドカレー屋ででるスープににているよね」というと、ユタDが「私今朝の夢で先生とaさんがこのトマトスープで会話している夢見ました。私時々予知夢を見るんです」。
「東京直下型地震を予知夢で見たら教えてね」と頼んでおく。
三月三日
沖縄最後の朝である。間違えて一時間早く起きたので、ホテル近くの牧志御嶽にお参りにいく。国際通り近くの繁華街の中にある御嶽なのに。小さいながら聖所には森がくっついている。
今日はいよいよ世界遺産首里城の参観である。首里城前では沖縄戦時代の不発弾処理をしていて、道が封鎖されている。少し上がると有名な守礼門がある。
ユタB「昨日コンビニのATMでお金おろしたら、2000円札がでてきました。沖縄で流通していたんですね」といって、2000円札に描かれた守礼門を掲げて実物の守礼門を写真撮影。

次に、琉球王と王族の墓、玉陵(たまうどん)を参観。かつて国王の死体はここで腐らせた後に洗骨し、王族の骨は左、王の骨は右の墓室に納めた。ぱっと見マヤの天文台のようで、本当に迫力がある。境内にはガジュマルの木がある。昨日斎場御嶽でガイドさんが

「ガジュマルの木は枝から気根が下にのび、地面に着地するとものすごい勢いで成長をはじめます。その気根が周囲の木にまきついて枯らしていくことから、"絞め殺しの木"と呼ばれています」というのを聴いていたユタDは
「ガジュマルの側にたっていたらいつか木に巻き取られて死ねるのかな」とアブナイ発言をする。そこでみな「どんだけ長く立ってるつもり?」とフォローする(え? フォローになってない?)。
それから、首里城コンプレックスの一部弁天堂、円覚寺址をめぐる。弁天堂にも円覚寺跡にもお経を読んだり、瞑想したりしている人がいて、ここはいまなお沖縄の霊的な中心であることが分かる。実際に拝んでいる人を見たのは首里城のこの二カ所だけだが、どの拝所も線香の灰などがおちていて今もなお人々が頻繁に拝みに来ていることが分かる。
その後、いよいよ首里城城壁内に入場する。じつは首里城は沖縄戦の際日本軍司令部が置かれたため、アメリカ軍に徹底的に砲撃されて破壊しつくされた。いわゆる「鉄の暴風」によって城はおろか、城内の御嶽も、熱帯雨林もすべて丸焼けになったのである。
私「なんでわざわざ歴史的建造物に司令部なんて作るんだよ。おかげで何も残らなかったじゃん」というと
キジムナーbが「当時は世界遺産なんて概念もないですし、琉球処分の後は廃城ですから。それにここは首里全体が見渡せる岡なので戦略的にここに司令部つくるのはありでしょう」と冷静な意見。
まず入り口には清朝からきた冊封使の揮毫が碑文に刻まれている。当然元号は乾隆とか嘉慶とか中国風である。そして復元された味気ない鉄筋御殿に入ると、かつての王朝時代の遺物が展示されている。清朝から琉球国王に送られた勅書や、清朝が琉球国王を任命してだす国王印などである。

清朝であるからハンコの文面とかは当然満洲語と漢語が合壁になっている。キジムナーaと私が「満洲語だー liu ciu gurun i wang ni durun(琉球国の王の印)」と二人で満洲語を声をあげて読み始めると他の学生は他人のふりをする。
正殿の一階の床にはガラスがはまっており、首里城の土台がよく見える。今帰仁城のガイドさんは「首里城はみんなニセモンですわ。正殿の床にガラスがはまっていて縁の下が見えるようになっていますが、そこから見える石壁の残骸だけが本物の首里城です。そこだけは必ず見なさいよ」と言っていたそれである。

そして琉球国王の玉座の間である。ここはさらに清朝臭い。何しろ、玉座の真後ろに、頭上に康煕帝、向かって右には雍正帝、向かって左は乾隆帝の揮毫がかかっている。どこからみても清朝の朝貢国である。

しかし、清朝時代、琉球は薩摩の実効統治下にあった。ではなぜ、薩摩が、琉球が清朝の朝貢国としてふるまうことを許していたのかといえば、清朝の冊封体制下に入ることを拒否した日本は、中国と直接貿易ができなかったため、沖縄を中国貿易の窓口として必要としていたからである。
そして、清朝皇帝も琉球が日本の統治下にあったことを知っていた。清朝皇帝はロシアやタイの王様も臣下として遇さず、対等におつきあいしていたのだが、国内向けの宣伝ではロシアやタイも朝貢国、すなわち臣下扱いしていた。彼らにとって朝貢儀礼は、統治下の人々に清朝が偉大であることを信じさせるための装置であり、内政問題であり、実態はある意味どうでもよかったのである。
思えば、現代中国やロシアの指導者は今もこの種の政策をそのまま採用しているといえる。国内の情報を統制し「我が国は世界の中心である」と国民に信じさせ、ナショナリズムをあおることを通じて(言い換えれば愚民扱いすることにより)、支配の強化につなげている。
つまり、今の中国が過去の琉球と清朝との間に形成していた形式的な上下関係を、現代的な領土主張にすり替える危険は常にあるのである。反日デモが起きるたびに「沖縄は中国の領土だ」というプラカードが書かれること、あの台湾ですら沖縄は内地扱いしていることなどがそれを証明している。
沖縄の人が中国の占領下に喜んで入ると言うのなら私は何もいわない。しかし、普通に考えても、ここまで平和教育が浸透している沖縄の人が、「権力は銃口によって作られる」という中国共産党の治下で幸せになれるとも思えない。沖縄の人が基地がいやでしょうがなくとも、自衛隊や米軍が一人残らず島からでていけ、と思っている人は少ないと思う。この島は中国の目と鼻の先にある。丸裸になったら何がおきるかは一目瞭然だからである。
沖縄からアメリカ軍基地がなくなる日がくればいいと私も思う。だけどその前にまず、中国に大人の国になってもらわねばならない。
首里城を出た後は、ユタAとキジムナーabとともに金城石畳(首里から島尻に向かう街道)をくだってみる。この道の途中にはアメリカの艦砲射撃を生き延びた熱帯雨林とその中にある京内御嶽がある。それはもう荘厳な御嶽である。ここで心をこめて、ダライラマ法王のご長寿とチベットの平和を祈る。
チベットは中国に道徳的な目覚めをもたらそうとしている。中国が紳士な国になることは、日本の安全保障にとっても良いことなのは言うまでもない。日本人にはもはや中国を教育できるだけの道徳性がないことを考えると、チベットの存在は希有である。
つまり、サヨク・ウヨクともに、平和を守りたいなら、国を守りたいなら、チベットを支援しない理由はないのである。今の中国のあり方が世界のスタンダードになったら、信教の自由も言論の自由も思想の自由もなくなり、金儲けの自由しか残らない世界になる。それでいいのかと。
ウタキで祈っていると雨が強くなっていく。祈りが聞き届けられたのだと思いたい。
三日目は琉球村経由で那覇に戻る。琉球村は沖縄の古民家を移築してつくったテーマパークで、それぞれの民家でサトウキビジュース飲んだり、三線聞ぃたり、琉球舞踊見たりとかの体験ができるようになっている。
まず、幹事キジムナー0の計らいによってタダでついている琉球伝統衣装着付け写真撮影を行う。赤ちゃんの衣装まで用意してあり、アホみたいな集合写真がとれた。
沖縄にいくと、自動販売機はシークワーサー・ジュースとさんぴん茶ばかりが入っているが、暑かったので私はあえてゴーヤビールを飲む。

ユタB「センセー、シーサー(獅子)の絵付け体験は最低四十分とかいっているので、もう行かなきゃ時間がなくなります」
私「ライオンの餌付け体験? そりゃ楽しそう」とオヤジ・ギャグをかます。
シーサー絵付け体験とは、無地のシーサーにアクリル絵の具で色付けをするのだが、ユタたちはスマホで画像検索してシーサーの色を確認してオレンジにぬった。しかし、私は写真のようなオカメインコ・カラーで色分けした(写真をクリックして大きくしてみてね 笑)。

そして、那覇について国際通り入り口にあるホテルにチェックインして、そのまますぐに世界遺産、斎場御嶽(セーファ・ウタキ)に向かう。ここは沖縄の神女たちを統括する聞得大君(きこえのおおきみ)の即位式が行われた場。かつてこの霊場には神女しか入れず、とくに久高島を遙拝する最奥部は聞得大君しか足を踏み入れることができなかった。しかし今は世界遺産になったため、男の観光客までどかどか入れるようになっている。
敷地内に入ると完全な熱帯雨林。キジムナーbが「森も拝所も熊野古道とそっくり」と言うように、古層の日本の文化がここには保存されている。ここ数日間あれる一方だった私のお肌がみるみる潤っていく。これはすごい。
キジムナーa「センセー、あの池からすごい霊気を感じます」
私「解説をよく読め。沖縄戦の艦砲射撃であいた穴に水がたまっているだけだっ」
キジムナーa「センセ-、今日のスタイル白なので教祖様みたいです。教祖様、足下気をつけて」
私「教祖様言うな」
などの小芝居をしながら、聖地のもっとも奥に入る。キジムナーeはiPhnoneを羅針盤にし、この拝所が東を向いていることを確認する。とにかく荘厳な霊気である。

拝所で真剣に、ダライラマ法王のご長寿と、チベットの平和を祈願する。もっとも古い自然霊につながっている聖地だから、自然を大切にするチベット文化はきっと加護がいただけるはず。て、アバターか。
斎場御嶽を出た直後から海が見えないほどの濃い霧がたちこめてくる。景色を見るために御嶽の近くの岬公園にいったが、一面乳白色で海はおろか、自分たちが立っている緑地以外何も見えない。まるで龍の巣の中にある天空の城ラピュタである。
景色がみえないので、仕方ないので四つ葉のクローバーを探す。ユタDが五つ葉、キジムナーdが四つ葉のクローバーを短時間で探し当てる。
ユタB「センセーこんなところに花束があります。誰かここから飛び込んだのかな」
私「たぶん最近でないよ。沖縄戦の時に追い詰められて集団自決をした場所じゃないかな。」
といったら、やはりそう。ここは多くの人が飛び込んだ断崖だった。
私たちが岬公園からでる時には不思議に霧が晴れてきた。しかし、那覇市内に入るやスコールが降り出し、ワイパーもきかない洗車状態に。じつは昨日謎のオジサンとともにドライブしていた時、舗装されていない泥道を走って車がめちゃめちゃに汚れたので、「返す時に洗車しなきゃねー」といっていたのが、このスコールで「ま、洗車しなくてもいっか」というレベルにまで綺麗になった。御嶽のご加護である。
夜はステーキとロブスターの食べ放題。最初にでてきたトマト・スープがネパールやインドでのむトマト・スープに激しくにていたので、キジムナーaに「これ、インドカレー屋ででるスープににているよね」というと、ユタDが「私今朝の夢で先生とaさんがこのトマトスープで会話している夢見ました。私時々予知夢を見るんです」。
「東京直下型地震を予知夢で見たら教えてね」と頼んでおく。
三月三日
沖縄最後の朝である。間違えて一時間早く起きたので、ホテル近くの牧志御嶽にお参りにいく。国際通り近くの繁華街の中にある御嶽なのに。小さいながら聖所には森がくっついている。
今日はいよいよ世界遺産首里城の参観である。首里城前では沖縄戦時代の不発弾処理をしていて、道が封鎖されている。少し上がると有名な守礼門がある。
ユタB「昨日コンビニのATMでお金おろしたら、2000円札がでてきました。沖縄で流通していたんですね」といって、2000円札に描かれた守礼門を掲げて実物の守礼門を写真撮影。

次に、琉球王と王族の墓、玉陵(たまうどん)を参観。かつて国王の死体はここで腐らせた後に洗骨し、王族の骨は左、王の骨は右の墓室に納めた。ぱっと見マヤの天文台のようで、本当に迫力がある。境内にはガジュマルの木がある。昨日斎場御嶽でガイドさんが

「ガジュマルの木は枝から気根が下にのび、地面に着地するとものすごい勢いで成長をはじめます。その気根が周囲の木にまきついて枯らしていくことから、"絞め殺しの木"と呼ばれています」というのを聴いていたユタDは
「ガジュマルの側にたっていたらいつか木に巻き取られて死ねるのかな」とアブナイ発言をする。そこでみな「どんだけ長く立ってるつもり?」とフォローする(え? フォローになってない?)。
それから、首里城コンプレックスの一部弁天堂、円覚寺址をめぐる。弁天堂にも円覚寺跡にもお経を読んだり、瞑想したりしている人がいて、ここはいまなお沖縄の霊的な中心であることが分かる。実際に拝んでいる人を見たのは首里城のこの二カ所だけだが、どの拝所も線香の灰などがおちていて今もなお人々が頻繁に拝みに来ていることが分かる。
その後、いよいよ首里城城壁内に入場する。じつは首里城は沖縄戦の際日本軍司令部が置かれたため、アメリカ軍に徹底的に砲撃されて破壊しつくされた。いわゆる「鉄の暴風」によって城はおろか、城内の御嶽も、熱帯雨林もすべて丸焼けになったのである。
私「なんでわざわざ歴史的建造物に司令部なんて作るんだよ。おかげで何も残らなかったじゃん」というと
キジムナーbが「当時は世界遺産なんて概念もないですし、琉球処分の後は廃城ですから。それにここは首里全体が見渡せる岡なので戦略的にここに司令部つくるのはありでしょう」と冷静な意見。
まず入り口には清朝からきた冊封使の揮毫が碑文に刻まれている。当然元号は乾隆とか嘉慶とか中国風である。そして復元された味気ない鉄筋御殿に入ると、かつての王朝時代の遺物が展示されている。清朝から琉球国王に送られた勅書や、清朝が琉球国王を任命してだす国王印などである。

清朝であるからハンコの文面とかは当然満洲語と漢語が合壁になっている。キジムナーaと私が「満洲語だー liu ciu gurun i wang ni durun(琉球国の王の印)」と二人で満洲語を声をあげて読み始めると他の学生は他人のふりをする。
正殿の一階の床にはガラスがはまっており、首里城の土台がよく見える。今帰仁城のガイドさんは「首里城はみんなニセモンですわ。正殿の床にガラスがはまっていて縁の下が見えるようになっていますが、そこから見える石壁の残骸だけが本物の首里城です。そこだけは必ず見なさいよ」と言っていたそれである。

そして琉球国王の玉座の間である。ここはさらに清朝臭い。何しろ、玉座の真後ろに、頭上に康煕帝、向かって右には雍正帝、向かって左は乾隆帝の揮毫がかかっている。どこからみても清朝の朝貢国である。

しかし、清朝時代、琉球は薩摩の実効統治下にあった。ではなぜ、薩摩が、琉球が清朝の朝貢国としてふるまうことを許していたのかといえば、清朝の冊封体制下に入ることを拒否した日本は、中国と直接貿易ができなかったため、沖縄を中国貿易の窓口として必要としていたからである。
そして、清朝皇帝も琉球が日本の統治下にあったことを知っていた。清朝皇帝はロシアやタイの王様も臣下として遇さず、対等におつきあいしていたのだが、国内向けの宣伝ではロシアやタイも朝貢国、すなわち臣下扱いしていた。彼らにとって朝貢儀礼は、統治下の人々に清朝が偉大であることを信じさせるための装置であり、内政問題であり、実態はある意味どうでもよかったのである。
思えば、現代中国やロシアの指導者は今もこの種の政策をそのまま採用しているといえる。国内の情報を統制し「我が国は世界の中心である」と国民に信じさせ、ナショナリズムをあおることを通じて(言い換えれば愚民扱いすることにより)、支配の強化につなげている。
つまり、今の中国が過去の琉球と清朝との間に形成していた形式的な上下関係を、現代的な領土主張にすり替える危険は常にあるのである。反日デモが起きるたびに「沖縄は中国の領土だ」というプラカードが書かれること、あの台湾ですら沖縄は内地扱いしていることなどがそれを証明している。
沖縄の人が中国の占領下に喜んで入ると言うのなら私は何もいわない。しかし、普通に考えても、ここまで平和教育が浸透している沖縄の人が、「権力は銃口によって作られる」という中国共産党の治下で幸せになれるとも思えない。沖縄の人が基地がいやでしょうがなくとも、自衛隊や米軍が一人残らず島からでていけ、と思っている人は少ないと思う。この島は中国の目と鼻の先にある。丸裸になったら何がおきるかは一目瞭然だからである。
沖縄からアメリカ軍基地がなくなる日がくればいいと私も思う。だけどその前にまず、中国に大人の国になってもらわねばならない。
首里城を出た後は、ユタAとキジムナーabとともに金城石畳(首里から島尻に向かう街道)をくだってみる。この道の途中にはアメリカの艦砲射撃を生き延びた熱帯雨林とその中にある京内御嶽がある。それはもう荘厳な御嶽である。ここで心をこめて、ダライラマ法王のご長寿とチベットの平和を祈る。
チベットは中国に道徳的な目覚めをもたらそうとしている。中国が紳士な国になることは、日本の安全保障にとっても良いことなのは言うまでもない。日本人にはもはや中国を教育できるだけの道徳性がないことを考えると、チベットの存在は希有である。
つまり、サヨク・ウヨクともに、平和を守りたいなら、国を守りたいなら、チベットを支援しない理由はないのである。今の中国のあり方が世界のスタンダードになったら、信教の自由も言論の自由も思想の自由もなくなり、金儲けの自由しか残らない世界になる。それでいいのかと。
ウタキで祈っていると雨が強くなっていく。祈りが聞き届けられたのだと思いたい。
チベットゼミ in 沖縄(前半)
今年は、沖縄がアメリカから日本に返還されて40周年。また、もめまくっている普天間移設問題などもあるため、卒業旅行は沖縄に行くこととした。
※以下、個人情報保護のため、男子学生はキジムナーabcde、女子学生はユタABCDと表記する。キジムナーはガジュマルの木に住むいたずら精霊、ユタは沖縄の民間でひろく活躍するシャーマンである(笑)。
二月二十九日
※ すべての写真はクリックすると大きくなります。
出発の朝は四年に一度しか出現しない日。二日前、幹事のキジムナー〇が体調を理由に旅行不参加を決定した上、当日は大雪で、交通網は乱れあまつさえ蒲田・川崎間の京浜東北線が人身事故でストップ。なんかいやな感じの出だしである。女の子は規定の時間にそろったが男共はキジムナーdをのぞいて誰も来ない。最後のキジムナーaが現れたのは予定離陸時間の十五分前、もう見捨てて荷物検査に入ろうとした矢先であった。この後も時間を守れないキジムナーたちとユタたちの間の溝は広がっていく・・・。
飛行機は除雪作業のため滑走路で一時間以上を過ごし、遅れに遅れて出発。那覇についたら夕方になるというのに国内線なので昼食もでない。サンドウイッチ(有料)を注文したら「売り切れ」。「何でもいいから食べるものありませんか」と聴くと、ハーゲンダッツしかないというので、それを食べる。かつてANAの国内線は当たり前のように機内食がでて、音楽プログラムや英会話教材のサービスまであったことを思うと隔世の感。貧乏になったな日本。
やっと那覇空港に着陸すると滑走路には航空自衛隊の戦闘機や軍用ヘリがずらっと並び、爆音をたてて戦闘機が空を舞う。うちのゼミはアレでコレなので(笑)、「これが台湾と東シナ海の平和を〔中国から〕守っているんだ。沖縄だなあ」と感心。空港内のヌイグルミキャッチャーでキジムナーdにぴよりーな一号をとってもらい、レンタカー屋の送迎でレンタカー屋に向かう。
空港周辺には自衛隊の基地があり、古い航空機などが展示されている。レンタカー屋の運転手さんは我々の反応をみて自衛隊に好意的と判断したのか、「あそこでとんでいるのはジミー二号です」「そこのシバの生えた山の下にはジェット燃料が入っています」「あそこの森の中には迎撃ミサイル(パトリオット)がしこまれています」とやたら詳しく説明してくれる。聴けばもと航空自衛隊の管制官でかつては、四機をいっぺんに誘導し、北は北海道から日本列島全体をレーダーで監視していた方であった。
私「東日本大震災の時、混乱に乗じて中国が東シナ海を制圧しないように、米軍とともにここ沖縄の自衛隊が発進して警戒にあたったんですよね。」と震災一年をしみじみ振り返る。
さてそれからレンタカーを借りて初日の宿かりゆしビーチリゾートに向かう。男車はキジムナーcが運転し、女の子車はユタBが運転し、わたしは席にゆとりのある男車にのった。女の子車は安定した運転なのに、男車の運転は荒く、そのうえ「オレはナビの言う通りに動くのはイヤだ。高速のる」とかいう姿勢であるため、とばすわりには男車は目的地につくのが遅い。男と女の人生に対する対処の仕方の違いを象徴的に見たようで笑えた。
途中女の子車は嘉手納基地で休憩、男車は普天間の見える嘉数(かかず)高台公園で休憩。普天間のある宜野湾市は市の四分の一が基地。この基地移設問題が混迷する中、つい半月前移設を主張しつつも国と話合うという保守系の市長さんが誕生したばかり。
キジムナーたちと展望台に上ると普天間基地が見える。この日ヘリコプターは一台もとまっておらず、静かであった。この公園は実は太平洋戦争中日本軍の第一防衛戦の中核陣地であった。

以下平和教育によく用いられる『沖縄修学旅行』からこの高台をめぐる攻防を引用しよう。
〔沖縄〕上陸後のアメリカ軍は、細長い沖縄本島の中央部を突っ切って島を南北に分断、海兵隊の部隊はそこから北部へ向かい、主力の陸軍部隊は日本軍指令部のある首里をめざして南へ向かった。・・・一週間後の四月九日、アメリカ軍は嘉数高地に対する攻撃を開始した。・・アメリカ軍は激しい砲撃を加え、戦車を先頭に猛攻を繰り返したが、嘉数高地はびくともしなかった。高地には網の目状のトンネルで結ばれたトーチカが要所に構築されており、日本軍はそこから迫撃砲や機関銃で的確に反撃したからだ。
前進を阻まれたアメリカ軍は四月十九日、戦線を立て直して総攻撃を開始した。地上軍の火砲のほか、船艦以下18隻の軍艦からの艦砲射撃、それに戦闘機650機による爆弾やナパーム弾投下まで加わったこの総攻撃はこれまでの太平洋での戦闘の中でも最大規模の砲爆撃だったという。打ち込まれた砲弾は176万発にも及んだ。
しかしそれでも嘉数高地は落ちなかった。日本軍は地下にもぐって砲爆撃を避け、アメリカ軍の戦車が迫ってくると対戦車砲で撃退、さらには地下から飛び出して急造爆雷を戦車の下に投げ込んだ。破壊されたアメリカ軍の戦車は総数60台にも達した。・・・こうして嘉数高地は、アメリカ軍に多大な出血を強いながら四月二十四日まで持ちこたえた。
何というかもう壮絶である。このどろどろの殺戮戦をへたのち、まだアメリカ軍の基地が沖縄には残ったわけだから沖縄の人も複雑な気持ちであろう。しかし、だからといって、米軍がいなくなって中国に占領されて大躍進政策や文革を経験するのもいやだったろうから、沖縄の地政学上の位置は本当に悲惨である。
展望台下には当時のトーチカが保存され、慰霊碑が並んでいる。高台の上なのに妙に暗く空気がよどんでいる。こういうところにチベットの高僧つれてくるといきなりお経をあげだしたりして怖いんだよな。今枝由郎先生が自分のラマ(ブータン人)をアメリカ連れて行った時、いきなり車をとめろといって、お経を唱えだして、あとで調べたらそこは先住民が虐殺された地だった、という(もちろんブータンの先生はそれを知らずにやっている)。
三月一日
明けて三月一日。男共はほとんど概日リズムが崩れた昼夜逆転人ばかりで、誰も時間通りに起きてこない。起きてきてもすごく機嫌が悪い。そして、今日は九時に、大学によって四年生の単位発表が行われる。つまり、卒業できるかどうかが決まる。男共はみなスマホで大学のページに接続し、卒業確認を行い始めた。この時、キジムナーcのスマホを持つ手は覚醒剤の禁断症状のように震えていた(笑)。ていうか、なんでみんな卒業にこんなに自信がないんだ(笑)。
しばらくして卒業を確認したキジムナーcはケダモノのような雄叫びをあげはじめた(面白いので動画にとった)。もちろん女子は何の問題もなく確定。今日は沖縄三山時代の北山の王城の地、今帰仁城(ナキジングスク)に行く。むろん、世界遺産であーる。
現地ガイドのオジサンがまず城の構造を模型で説明してくれて、この石垣が沖縄の他の城とは異なり固い岩で作られていること、外郭まで含めると首里より大きい城廓であることを説明してくれる。

ガイドさん「この木は沖縄を代表するデイゴの木です。成長が早くこの大木もまだン十年しかたっていません」
キジムナーa「先生とほぼ同じ年ですね」
aを無視して城に入るとガイドさん(八年前に沖縄に北海道から移住してきた人)は米軍がつけたジープ道をきらい石畳の旧道に我々を導く。折しも雨がふりはじめ、この地域独特の毛の生えたかたつむりを手にとってくれる。城のてっぺんにつくと城全体が見渡せて、マチュピチュにいるようなエキゾチックな感じがする。
これから何度も見ることになる火之神をまつった祠、そこにささげられるお線香、紙銭、御嶽(うたき=自然霊の拝所)などの概念をここで教え込まれる。勉強になるう。
この城の上には乾隆14年の碑文があり、沖縄が薩摩の実効統治下にありつつも公式には中国元号を用いていたことがわかる。以後清朝の臭いを至るところにかぎわける私であった。この城の近くには子供の産み分けまでできるというすごいウタキがあり、秋篠宮もここで拝んで悠仁親王を授かったという。
三山(北山・中山・南山)はそれぞれ明朝に朝貢使をおくって自らの沖縄支配権をアピールしたが、最終的には中山が勝利して三山は第一尚氏王朝に統一される。

このあと美ら海水族館にいき、その前に広がるエメラルドビーチでフリー・チベット記念撮影。折しも太陽が顔をだし、海は文字通りエメラルド色に。この後も不思議なことにウタキに行く時は雨で、そこからでると雨は上がった。女の子たちが結構カワイイ子揃いなので、ユタ認定されて自然霊がお喜びになったのかもしれない。
エメラルド・ビーチで女の子たちのジャンプを撮影していると、謎のオジサンが現れた。
謎のオジサン「この岬の先端には自然のタイドプールがあって熱帯魚が自然の状態で見られるよ。あと、ここの備瀬(びせ)という集落は琉球村みたいな作り物じゃなくて、今も人が住んでいる昔ながらの本物の集落だよ。
集落は台風から集落を護るフク木並木に囲まれていてきれいだよ。昔、この地域は本当に閉鎖的で青年団の人が外から入ってきた人をボコボコニにしていたんだ」というので、俄然興味がわいてきて、お昼ご飯の後にこの岬に行こうということになる。しかし、ここで問題が。

今までの卒業旅行は主要な観光地はみなで訪問しても二日目からは自由行動にして、歴史が好きな人は歴史遺跡へ、町歩きしたい人は町歩きと別れて行動していた。しかし、沖縄はレンタカーでないと移動できないため、どうしても集団行動が多くなる。
そのため、集団行動は小学校以来初めてというキジムナーcがオリの中の猛獣のようにいらだち、さらに、バイト戦士で今回はその骨休めでリゾートにきたものの、無神経なキジムナーaの発言に、職場で部下にきれるようにキれてしまうキジムナーdがヤバイ感じに(キジムナーaが一番年上なのに全く尊敬されていないのが笑える。それをいうなら私もかW)。
そこで、私が「車が二台しかないから誰かは我慢してもらわないといけない。ここは沖縄だ。女の子の意見を尊重しよう(琉球国王は女性シャーマン聞得大君(きこえのおおきみ)の託宣を聞いて政治していた)。午後だが、男性陣でホテルに帰りたい人は一台使って帰ってください。明日は那覇に早めにいき、そのあと自由に行動にするから今日は我慢して」と恫喝・懐柔半々で話す。
すると、キジムナーcが「女の意見を通すって、じゃあ福島●穂の意見を沖縄で通していいんですか」というアブナイ発言をするが、無視する。そして気まずい中結局、みなで岬に行くことにする。岬につくとなぜかさっきの謎のオジサンがそこにいた(笑)。
オジサンは我々を導いてタイドプールに連れて行く。そこにはハデなブルーな魚がたしかに自然の状態で泳いでいるのが見えた。
キジムナーa「東京湾とちがーう」
謎のオジサン「比べるな」
そして、オジサンが「星の砂があるよ」というので、みなでビーチに座り込んで星の砂を探す。そして「どこから来たのか」と聞かれたので、東京の人民大学のチベットゼミの卒業旅行だというと、
オジサン「チベットが中国の支配下にあるのはおかしいね」
今だかつてゼミ旅行に行った先でチベット問題について的確な発言を聞けた事があったろうか。さすが沖縄である。感涙にむせぶ。そこでチベット旗を掲げてまた記念撮影(こればっかりやW)。オジサンによると沖縄に原発がないのは、原発が事故るとアメリカ軍が無力化し東アジアがえらいことになるからだという。
私達がチベットなことがわかったせいかどうか知らないが、オジサンは観光客絶対いけないところにつれていってくれるという。彼に連れて行かれたそのビーチは、ナビにもでない道なき道をいったところにあり、先ほどの岬よりもさらに俗化が進んでいなかった。ここの方がさらに星の砂が見つかりやすいというので、みなでまた座り込んで星の砂を探す。沖縄のビーチは珊瑚の死骸が多いので、写真にとると白くぬける。
そのあと、謎のオジサンはさらに我々を某ゴルフコースの所有になる「癒しの展望台」なるところにつれていってくれる。ここは岬をほぼ一望できる場所にあり、見晴らしがいい。みな、社会人になったあと休暇とってさっきのプライベートビーチに行くんだ、としきりにいっている。
一触即発の我々の前に現れ、空気をなごませ、チベットに理解を示してくれたあの謎のオジサンはおそらくは何かの化身であろう。その夜、キジムナーcdを除くみなで、沖縄バンドの入っている海風というレストランで食事をする。もりあがってくると、沖縄の民族衣装をきたカワイイ娘さんのあとを、客の若者たちがおどりながらついていく。
ユタCD「先生、何かの宗教みたいですね」
私「動画とってあげるから、あなたたちも一緒に踊ってきたら」
ユタABCD「いいです」
こうして人間関係に若干の問題をはらみながらも二日目の夜もくれていったのである(続く)。
※以下、個人情報保護のため、男子学生はキジムナーabcde、女子学生はユタABCDと表記する。キジムナーはガジュマルの木に住むいたずら精霊、ユタは沖縄の民間でひろく活躍するシャーマンである(笑)。
二月二十九日
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出発の朝は四年に一度しか出現しない日。二日前、幹事のキジムナー〇が体調を理由に旅行不参加を決定した上、当日は大雪で、交通網は乱れあまつさえ蒲田・川崎間の京浜東北線が人身事故でストップ。なんかいやな感じの出だしである。女の子は規定の時間にそろったが男共はキジムナーdをのぞいて誰も来ない。最後のキジムナーaが現れたのは予定離陸時間の十五分前、もう見捨てて荷物検査に入ろうとした矢先であった。この後も時間を守れないキジムナーたちとユタたちの間の溝は広がっていく・・・。
飛行機は除雪作業のため滑走路で一時間以上を過ごし、遅れに遅れて出発。那覇についたら夕方になるというのに国内線なので昼食もでない。サンドウイッチ(有料)を注文したら「売り切れ」。「何でもいいから食べるものありませんか」と聴くと、ハーゲンダッツしかないというので、それを食べる。かつてANAの国内線は当たり前のように機内食がでて、音楽プログラムや英会話教材のサービスまであったことを思うと隔世の感。貧乏になったな日本。
やっと那覇空港に着陸すると滑走路には航空自衛隊の戦闘機や軍用ヘリがずらっと並び、爆音をたてて戦闘機が空を舞う。うちのゼミはアレでコレなので(笑)、「これが台湾と東シナ海の平和を〔中国から〕守っているんだ。沖縄だなあ」と感心。空港内のヌイグルミキャッチャーでキジムナーdにぴよりーな一号をとってもらい、レンタカー屋の送迎でレンタカー屋に向かう。
空港周辺には自衛隊の基地があり、古い航空機などが展示されている。レンタカー屋の運転手さんは我々の反応をみて自衛隊に好意的と判断したのか、「あそこでとんでいるのはジミー二号です」「そこのシバの生えた山の下にはジェット燃料が入っています」「あそこの森の中には迎撃ミサイル(パトリオット)がしこまれています」とやたら詳しく説明してくれる。聴けばもと航空自衛隊の管制官でかつては、四機をいっぺんに誘導し、北は北海道から日本列島全体をレーダーで監視していた方であった。
私「東日本大震災の時、混乱に乗じて中国が東シナ海を制圧しないように、米軍とともにここ沖縄の自衛隊が発進して警戒にあたったんですよね。」と震災一年をしみじみ振り返る。
さてそれからレンタカーを借りて初日の宿かりゆしビーチリゾートに向かう。男車はキジムナーcが運転し、女の子車はユタBが運転し、わたしは席にゆとりのある男車にのった。女の子車は安定した運転なのに、男車の運転は荒く、そのうえ「オレはナビの言う通りに動くのはイヤだ。高速のる」とかいう姿勢であるため、とばすわりには男車は目的地につくのが遅い。男と女の人生に対する対処の仕方の違いを象徴的に見たようで笑えた。
途中女の子車は嘉手納基地で休憩、男車は普天間の見える嘉数(かかず)高台公園で休憩。普天間のある宜野湾市は市の四分の一が基地。この基地移設問題が混迷する中、つい半月前移設を主張しつつも国と話合うという保守系の市長さんが誕生したばかり。
キジムナーたちと展望台に上ると普天間基地が見える。この日ヘリコプターは一台もとまっておらず、静かであった。この公園は実は太平洋戦争中日本軍の第一防衛戦の中核陣地であった。

以下平和教育によく用いられる『沖縄修学旅行』からこの高台をめぐる攻防を引用しよう。
〔沖縄〕上陸後のアメリカ軍は、細長い沖縄本島の中央部を突っ切って島を南北に分断、海兵隊の部隊はそこから北部へ向かい、主力の陸軍部隊は日本軍指令部のある首里をめざして南へ向かった。・・・一週間後の四月九日、アメリカ軍は嘉数高地に対する攻撃を開始した。・・アメリカ軍は激しい砲撃を加え、戦車を先頭に猛攻を繰り返したが、嘉数高地はびくともしなかった。高地には網の目状のトンネルで結ばれたトーチカが要所に構築されており、日本軍はそこから迫撃砲や機関銃で的確に反撃したからだ。
前進を阻まれたアメリカ軍は四月十九日、戦線を立て直して総攻撃を開始した。地上軍の火砲のほか、船艦以下18隻の軍艦からの艦砲射撃、それに戦闘機650機による爆弾やナパーム弾投下まで加わったこの総攻撃はこれまでの太平洋での戦闘の中でも最大規模の砲爆撃だったという。打ち込まれた砲弾は176万発にも及んだ。
しかしそれでも嘉数高地は落ちなかった。日本軍は地下にもぐって砲爆撃を避け、アメリカ軍の戦車が迫ってくると対戦車砲で撃退、さらには地下から飛び出して急造爆雷を戦車の下に投げ込んだ。破壊されたアメリカ軍の戦車は総数60台にも達した。・・・こうして嘉数高地は、アメリカ軍に多大な出血を強いながら四月二十四日まで持ちこたえた。
何というかもう壮絶である。このどろどろの殺戮戦をへたのち、まだアメリカ軍の基地が沖縄には残ったわけだから沖縄の人も複雑な気持ちであろう。しかし、だからといって、米軍がいなくなって中国に占領されて大躍進政策や文革を経験するのもいやだったろうから、沖縄の地政学上の位置は本当に悲惨である。
展望台下には当時のトーチカが保存され、慰霊碑が並んでいる。高台の上なのに妙に暗く空気がよどんでいる。こういうところにチベットの高僧つれてくるといきなりお経をあげだしたりして怖いんだよな。今枝由郎先生が自分のラマ(ブータン人)をアメリカ連れて行った時、いきなり車をとめろといって、お経を唱えだして、あとで調べたらそこは先住民が虐殺された地だった、という(もちろんブータンの先生はそれを知らずにやっている)。
三月一日
明けて三月一日。男共はほとんど概日リズムが崩れた昼夜逆転人ばかりで、誰も時間通りに起きてこない。起きてきてもすごく機嫌が悪い。そして、今日は九時に、大学によって四年生の単位発表が行われる。つまり、卒業できるかどうかが決まる。男共はみなスマホで大学のページに接続し、卒業確認を行い始めた。この時、キジムナーcのスマホを持つ手は覚醒剤の禁断症状のように震えていた(笑)。ていうか、なんでみんな卒業にこんなに自信がないんだ(笑)。
しばらくして卒業を確認したキジムナーcはケダモノのような雄叫びをあげはじめた(面白いので動画にとった)。もちろん女子は何の問題もなく確定。今日は沖縄三山時代の北山の王城の地、今帰仁城(ナキジングスク)に行く。むろん、世界遺産であーる。
現地ガイドのオジサンがまず城の構造を模型で説明してくれて、この石垣が沖縄の他の城とは異なり固い岩で作られていること、外郭まで含めると首里より大きい城廓であることを説明してくれる。

ガイドさん「この木は沖縄を代表するデイゴの木です。成長が早くこの大木もまだン十年しかたっていません」
キジムナーa「先生とほぼ同じ年ですね」
aを無視して城に入るとガイドさん(八年前に沖縄に北海道から移住してきた人)は米軍がつけたジープ道をきらい石畳の旧道に我々を導く。折しも雨がふりはじめ、この地域独特の毛の生えたかたつむりを手にとってくれる。城のてっぺんにつくと城全体が見渡せて、マチュピチュにいるようなエキゾチックな感じがする。
これから何度も見ることになる火之神をまつった祠、そこにささげられるお線香、紙銭、御嶽(うたき=自然霊の拝所)などの概念をここで教え込まれる。勉強になるう。
この城の上には乾隆14年の碑文があり、沖縄が薩摩の実効統治下にありつつも公式には中国元号を用いていたことがわかる。以後清朝の臭いを至るところにかぎわける私であった。この城の近くには子供の産み分けまでできるというすごいウタキがあり、秋篠宮もここで拝んで悠仁親王を授かったという。
三山(北山・中山・南山)はそれぞれ明朝に朝貢使をおくって自らの沖縄支配権をアピールしたが、最終的には中山が勝利して三山は第一尚氏王朝に統一される。

このあと美ら海水族館にいき、その前に広がるエメラルドビーチでフリー・チベット記念撮影。折しも太陽が顔をだし、海は文字通りエメラルド色に。この後も不思議なことにウタキに行く時は雨で、そこからでると雨は上がった。女の子たちが結構カワイイ子揃いなので、ユタ認定されて自然霊がお喜びになったのかもしれない。
エメラルド・ビーチで女の子たちのジャンプを撮影していると、謎のオジサンが現れた。
謎のオジサン「この岬の先端には自然のタイドプールがあって熱帯魚が自然の状態で見られるよ。あと、ここの備瀬(びせ)という集落は琉球村みたいな作り物じゃなくて、今も人が住んでいる昔ながらの本物の集落だよ。
集落は台風から集落を護るフク木並木に囲まれていてきれいだよ。昔、この地域は本当に閉鎖的で青年団の人が外から入ってきた人をボコボコニにしていたんだ」というので、俄然興味がわいてきて、お昼ご飯の後にこの岬に行こうということになる。しかし、ここで問題が。

今までの卒業旅行は主要な観光地はみなで訪問しても二日目からは自由行動にして、歴史が好きな人は歴史遺跡へ、町歩きしたい人は町歩きと別れて行動していた。しかし、沖縄はレンタカーでないと移動できないため、どうしても集団行動が多くなる。
そのため、集団行動は小学校以来初めてというキジムナーcがオリの中の猛獣のようにいらだち、さらに、バイト戦士で今回はその骨休めでリゾートにきたものの、無神経なキジムナーaの発言に、職場で部下にきれるようにキれてしまうキジムナーdがヤバイ感じに(キジムナーaが一番年上なのに全く尊敬されていないのが笑える。それをいうなら私もかW)。
そこで、私が「車が二台しかないから誰かは我慢してもらわないといけない。ここは沖縄だ。女の子の意見を尊重しよう(琉球国王は女性シャーマン聞得大君(きこえのおおきみ)の託宣を聞いて政治していた)。午後だが、男性陣でホテルに帰りたい人は一台使って帰ってください。明日は那覇に早めにいき、そのあと自由に行動にするから今日は我慢して」と恫喝・懐柔半々で話す。
すると、キジムナーcが「女の意見を通すって、じゃあ福島●穂の意見を沖縄で通していいんですか」というアブナイ発言をするが、無視する。そして気まずい中結局、みなで岬に行くことにする。岬につくとなぜかさっきの謎のオジサンがそこにいた(笑)。
オジサンは我々を導いてタイドプールに連れて行く。そこにはハデなブルーな魚がたしかに自然の状態で泳いでいるのが見えた。
キジムナーa「東京湾とちがーう」
謎のオジサン「比べるな」
そして、オジサンが「星の砂があるよ」というので、みなでビーチに座り込んで星の砂を探す。そして「どこから来たのか」と聞かれたので、東京の人民大学のチベットゼミの卒業旅行だというと、
オジサン「チベットが中国の支配下にあるのはおかしいね」
今だかつてゼミ旅行に行った先でチベット問題について的確な発言を聞けた事があったろうか。さすが沖縄である。感涙にむせぶ。そこでチベット旗を掲げてまた記念撮影(こればっかりやW)。オジサンによると沖縄に原発がないのは、原発が事故るとアメリカ軍が無力化し東アジアがえらいことになるからだという。
私達がチベットなことがわかったせいかどうか知らないが、オジサンは観光客絶対いけないところにつれていってくれるという。彼に連れて行かれたそのビーチは、ナビにもでない道なき道をいったところにあり、先ほどの岬よりもさらに俗化が進んでいなかった。ここの方がさらに星の砂が見つかりやすいというので、みなでまた座り込んで星の砂を探す。沖縄のビーチは珊瑚の死骸が多いので、写真にとると白くぬける。
そのあと、謎のオジサンはさらに我々を某ゴルフコースの所有になる「癒しの展望台」なるところにつれていってくれる。ここは岬をほぼ一望できる場所にあり、見晴らしがいい。みな、社会人になったあと休暇とってさっきのプライベートビーチに行くんだ、としきりにいっている。
一触即発の我々の前に現れ、空気をなごませ、チベットに理解を示してくれたあの謎のオジサンはおそらくは何かの化身であろう。その夜、キジムナーcdを除くみなで、沖縄バンドの入っている海風というレストランで食事をする。もりあがってくると、沖縄の民族衣装をきたカワイイ娘さんのあとを、客の若者たちがおどりながらついていく。
ユタCD「先生、何かの宗教みたいですね」
私「動画とってあげるから、あなたたちも一緒に踊ってきたら」
ユタABCD「いいです」
こうして人間関係に若干の問題をはらみながらも二日目の夜もくれていったのである(続く)。
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