チベットのお正月
チベット暦は閏月の置き方が旧暦とは異なるため、チベットのお正月は旧暦の正月とは一日から一ヶ月くらい毎年ずれる。チベット暦はラサ・ダラムサラ両方にあるチベット医学・暦学センター(メンツィーカン)から、毎年発行され、これによってチベットの新年(ロサル)や祭日が西暦の何日にあたるのか、吉日・凶日は何日にあたるのかを知ることができる。
2008年にチベット暦について一文を書いた時、どうせなら具体例があった方がいいだろうとその年のチベット暦をとりよせてみてみると、四川大地震(チベット人の住むアバ自治州が震源)が起きた時期に「地震が起きやすい期間」と書かれていたのを見つけて本当にびっくりした。チベット文化はなんか奥深い。
今年のチベット暦の新年は二月二十二日、つまり先週の水曜日だった。今年の旧暦正月は一月二十二日だったので、旧暦よりほぼ一ヶ月遅いお正月である。
日本では正月がもっとも「日本」が表出する期間であるように、チベットでも新年最初の三週間は、もっともチベットらしさが凝縮する時間である。チベットの社会は、仏教が重要な位置をしめ、世俗の上にたつため、この期間は、目に見える形で、僧院社会が俗世間の上に立つことになる。
伝統的なチベットのロサルではまず、新年第一日目は高僧に対し、二日目は国王に対して拝礼が行われる。国王より高僧に対する拝礼が先に行われることがチベットの俗事に対する精神性の優位を表している。
ところで、ダライラマは政教一致のトップにいるため、初日は仏教界のトップとしてのダライラマに、二日目は国王としてのダライラマにたいして拝礼が行われ、ようは二日間続けてダライラマを拝礼するのである(去年法王は政治のトップの座から降りたので今年どうしたかは分からない)。
そして新年四日からラサの中心にたつチョカン(釈迦牟尼殿)に僧侶が集結し、祈願会(ムンラム)が開始される。それから続く三週間の間、ラサの司法は俗人ではなく僧侶の手にとどめられる。これもまたチベットを支配するものは仏の教えであることを示すものである。
一大集会イベントである祈願会(モンラム)は、政府によって主催され、仏教の興隆、国家の安泰、ダライラマ法王の長寿、五穀の豊穣など祈願される。元は14世紀にチベットの最大宗派ゲルク派の開祖ツォンカパが開始したものである。
祈願会の行われる舞台となるチョカンは、チベットの国土を人に喩えた場合の心臓にあたり、7世紀にチベットを開国したソンツェンガムポ王の妃がたてた由緒ある古刹である。祭りがもっとも盛り上がるチベット暦十五日の満月の日、普段人前に姿を現さないダライラマは人々の前にでて、仏の前世譚を講義する。チョカンの回廊壁画には釈尊の本生譚が描かれているので、場所もぴったり。
さらにこの法要の期間、僧侶の最高学位を決める試験も行われるため、かつてラサには多くの僧侶と巡礼が雲集した。チョカンの本尊である釈迦牟尼仏の前には人々が行列をなした。
つまり、お正月の元旦から三週間、ラサの町は僧侶の支配する神聖都市になったのである。
ちなみに、一般人のロサルの過ごし方については法王事務所のこのページとか参考になる。
このようなフルセット形での伝統的なロサルは、もちろんダライラマがチベットを離れた1959年以後、本土チベットで行われたことはない。しかし、祈願会自体は現在も難民社会、また本土チベットの僧院内で続いている。
では、中国共産党治下のチベットにおいてロサルはどうなったかというと、まず文革の際、本土チベットのお寺はすべて破壊されるか、社会主義中国の施設に転用されてなくなった。お坊さんはものすごく山奥の洞窟で修行している行者とかを除けば、もちろんまったく存在を許されなくなった。ちなみに、チョカンは事務所と家畜小屋に転用されたことは、ウーセルさんの『殺劫』に詳しい。
文革がようやく終わって僧院の再建が許され、出家が限定的に許され始めた後も、「人が集まると抗議行動が始まる」という理由から、僧侶たちの集会は制限を受け続け、「人の集まる正月の祈願会は論外」ということになり、正月になると高僧たちはラサから退去するように命令じられた。
しかし、庶民が個々の家でお正月を祝うことは許されているため、庶民はロサルになるとお寺に詣で、チョカンの釈迦牟尼にお供えものをし、ごちそうをつくって食べるなどして新年を祝ってきた。
そして今年のロサルである。
このページには今年のチベットにおいても各大僧院でロサルが行われていること、人々がお寺に詣で、ツァンパ(主食の麦焦がし)を天に向かって供養していることが記されているが、写真をみても分かるように、チョカンの釈迦牟尼仏の人出が激しくしょぼい。
それもそのはず、亡命政府のセンゲ首相は2011年に焼身抗議者があいついだことを受けて、「今年のロサルはみなで静かに祈ろう。お寺に参ることなどは今までどおりに」と呼びかけたからである。
BBCも普段のお正月と今年のお正月の違いを報道。チベットnowルンタに報道の和訳がある。
情報を遮断され、愛国教育をおしつけられ、自分の文化を否定するように強要されている本土チベットの人々も、犠牲者の哀悼を通じて、難民社会と強くつながっていることがこれによっても明らかである。
で、お正月の日において、お祝いの代わりに欧米・日本などの主立った国々の首都において、難民チベット人たちが断食を行い国連に対して「中国の政策を改めさせるよう国連が圧力を」とアピールした(日本の一日はここ)。
日本でも15人のチベット難民の方が、国連大学前で焼身抗議者の写真を並べて断食座り込み、さらに国連大学は要望書も受け取ってくれた。
声明文を読みあげたドルマさんは「〔焼身した人々は〕中国人誰一人の命も奪っていない。それにも関わらず、中国政府は『焼身自殺はチベット人を本物のテロ行為に向かわせる破滅的なテロ行為に他ならない』と強弁している。国際社会が平和を望むのなら非暴力で自由を訴える人たちにこそ関心を向けるべきだ。」
続いて「中国はチベット人を殺すのをやめろー」と英語でシュプレヒコール。富士には月見草がよく似合うように、フリーチベットには間延びした日本語よりも、英語シュプレヒコールがよく似合う。
本土チベットではチベット人のナショナリズムは法の取り締まりの対象となるものの、漢人の大漢族主義は野放しである。つまり、「チベット人を同化政策でいずれ漢人にしてしまおう」という中国政府の姿勢は明白なのであるが、この政策はもちろんチベット人にとって受け入れられるものではない。ここで叫んでいる若者たちは亡国の時から三世代目である。親の代は1959年に、子の代は1988年から89年に、孫の代は2008年に蜂起した。中国によるチベットの解放が、彼らの言うようにチベットに幸せをもたらしているのなら、チベットの若者が何世代にもわたって、こうして叫び続けることはないだろう。
ロサルの日、ロンドンにある中国大使館で、チベット人が抗議を行っていると、大使館関係者が大使館を警備するイギリスの警察に「あいつらを黙らせろ」といったところ、イギリスの警官は「彼らには叫ぶ権利がある。あなたの国とは違うんです」と答えた。さすが言論の自由と人権の揺籃の地である。警察官も何を守るべきなのかちゃんと分かっている。
日本の「知識人」たちが欧米の論理を批判しつつも、欧米がかちとってきた人権や言論の自由の論理にあぐらをかいて、善も悪もないんですよ、とかのたまっているのに比べて、明快である。また、日本の政治家が「中国に配慮して=恐れて」、チベット問題をなかったかのように扱うこととも異なって、明快である。
新年のお祝いをしているはずのこの日、チベット人は寒空の中座り込んで断食をした。チベット人の目を直視できる人は日本には本当に少ないだろうなあと思う。
2008年にチベット暦について一文を書いた時、どうせなら具体例があった方がいいだろうとその年のチベット暦をとりよせてみてみると、四川大地震(チベット人の住むアバ自治州が震源)が起きた時期に「地震が起きやすい期間」と書かれていたのを見つけて本当にびっくりした。チベット文化はなんか奥深い。
今年のチベット暦の新年は二月二十二日、つまり先週の水曜日だった。今年の旧暦正月は一月二十二日だったので、旧暦よりほぼ一ヶ月遅いお正月である。
日本では正月がもっとも「日本」が表出する期間であるように、チベットでも新年最初の三週間は、もっともチベットらしさが凝縮する時間である。チベットの社会は、仏教が重要な位置をしめ、世俗の上にたつため、この期間は、目に見える形で、僧院社会が俗世間の上に立つことになる。
伝統的なチベットのロサルではまず、新年第一日目は高僧に対し、二日目は国王に対して拝礼が行われる。国王より高僧に対する拝礼が先に行われることがチベットの俗事に対する精神性の優位を表している。
ところで、ダライラマは政教一致のトップにいるため、初日は仏教界のトップとしてのダライラマに、二日目は国王としてのダライラマにたいして拝礼が行われ、ようは二日間続けてダライラマを拝礼するのである(去年法王は政治のトップの座から降りたので今年どうしたかは分からない)。
そして新年四日からラサの中心にたつチョカン(釈迦牟尼殿)に僧侶が集結し、祈願会(ムンラム)が開始される。それから続く三週間の間、ラサの司法は俗人ではなく僧侶の手にとどめられる。これもまたチベットを支配するものは仏の教えであることを示すものである。
一大集会イベントである祈願会(モンラム)は、政府によって主催され、仏教の興隆、国家の安泰、ダライラマ法王の長寿、五穀の豊穣など祈願される。元は14世紀にチベットの最大宗派ゲルク派の開祖ツォンカパが開始したものである。
祈願会の行われる舞台となるチョカンは、チベットの国土を人に喩えた場合の心臓にあたり、7世紀にチベットを開国したソンツェンガムポ王の妃がたてた由緒ある古刹である。祭りがもっとも盛り上がるチベット暦十五日の満月の日、普段人前に姿を現さないダライラマは人々の前にでて、仏の前世譚を講義する。チョカンの回廊壁画には釈尊の本生譚が描かれているので、場所もぴったり。
さらにこの法要の期間、僧侶の最高学位を決める試験も行われるため、かつてラサには多くの僧侶と巡礼が雲集した。チョカンの本尊である釈迦牟尼仏の前には人々が行列をなした。
つまり、お正月の元旦から三週間、ラサの町は僧侶の支配する神聖都市になったのである。
ちなみに、一般人のロサルの過ごし方については法王事務所のこのページとか参考になる。
このようなフルセット形での伝統的なロサルは、もちろんダライラマがチベットを離れた1959年以後、本土チベットで行われたことはない。しかし、祈願会自体は現在も難民社会、また本土チベットの僧院内で続いている。
では、中国共産党治下のチベットにおいてロサルはどうなったかというと、まず文革の際、本土チベットのお寺はすべて破壊されるか、社会主義中国の施設に転用されてなくなった。お坊さんはものすごく山奥の洞窟で修行している行者とかを除けば、もちろんまったく存在を許されなくなった。ちなみに、チョカンは事務所と家畜小屋に転用されたことは、ウーセルさんの『殺劫』に詳しい。
文革がようやく終わって僧院の再建が許され、出家が限定的に許され始めた後も、「人が集まると抗議行動が始まる」という理由から、僧侶たちの集会は制限を受け続け、「人の集まる正月の祈願会は論外」ということになり、正月になると高僧たちはラサから退去するように命令じられた。
しかし、庶民が個々の家でお正月を祝うことは許されているため、庶民はロサルになるとお寺に詣で、チョカンの釈迦牟尼にお供えものをし、ごちそうをつくって食べるなどして新年を祝ってきた。
そして今年のロサルである。
このページには今年のチベットにおいても各大僧院でロサルが行われていること、人々がお寺に詣で、ツァンパ(主食の麦焦がし)を天に向かって供養していることが記されているが、写真をみても分かるように、チョカンの釈迦牟尼仏の人出が激しくしょぼい。
それもそのはず、亡命政府のセンゲ首相は2011年に焼身抗議者があいついだことを受けて、「今年のロサルはみなで静かに祈ろう。お寺に参ることなどは今までどおりに」と呼びかけたからである。
BBCも普段のお正月と今年のお正月の違いを報道。チベットnowルンタに報道の和訳がある。
情報を遮断され、愛国教育をおしつけられ、自分の文化を否定するように強要されている本土チベットの人々も、犠牲者の哀悼を通じて、難民社会と強くつながっていることがこれによっても明らかである。
で、お正月の日において、お祝いの代わりに欧米・日本などの主立った国々の首都において、難民チベット人たちが断食を行い国連に対して「中国の政策を改めさせるよう国連が圧力を」とアピールした(日本の一日はここ)。
日本でも15人のチベット難民の方が、国連大学前で焼身抗議者の写真を並べて断食座り込み、さらに国連大学は要望書も受け取ってくれた。
声明文を読みあげたドルマさんは「〔焼身した人々は〕中国人誰一人の命も奪っていない。それにも関わらず、中国政府は『焼身自殺はチベット人を本物のテロ行為に向かわせる破滅的なテロ行為に他ならない』と強弁している。国際社会が平和を望むのなら非暴力で自由を訴える人たちにこそ関心を向けるべきだ。」
続いて「中国はチベット人を殺すのをやめろー」と英語でシュプレヒコール。富士には月見草がよく似合うように、フリーチベットには間延びした日本語よりも、英語シュプレヒコールがよく似合う。
本土チベットではチベット人のナショナリズムは法の取り締まりの対象となるものの、漢人の大漢族主義は野放しである。つまり、「チベット人を同化政策でいずれ漢人にしてしまおう」という中国政府の姿勢は明白なのであるが、この政策はもちろんチベット人にとって受け入れられるものではない。ここで叫んでいる若者たちは亡国の時から三世代目である。親の代は1959年に、子の代は1988年から89年に、孫の代は2008年に蜂起した。中国によるチベットの解放が、彼らの言うようにチベットに幸せをもたらしているのなら、チベットの若者が何世代にもわたって、こうして叫び続けることはないだろう。
ロサルの日、ロンドンにある中国大使館で、チベット人が抗議を行っていると、大使館関係者が大使館を警備するイギリスの警察に「あいつらを黙らせろ」といったところ、イギリスの警官は「彼らには叫ぶ権利がある。あなたの国とは違うんです」と答えた。さすが言論の自由と人権の揺籃の地である。警察官も何を守るべきなのかちゃんと分かっている。
日本の「知識人」たちが欧米の論理を批判しつつも、欧米がかちとってきた人権や言論の自由の論理にあぐらをかいて、善も悪もないんですよ、とかのたまっているのに比べて、明快である。また、日本の政治家が「中国に配慮して=恐れて」、チベット問題をなかったかのように扱うこととも異なって、明快である。
新年のお祝いをしているはずのこの日、チベット人は寒空の中座り込んで断食をした。チベット人の目を直視できる人は日本には本当に少ないだろうなあと思う。
近刊の慧海・等観本(書評)
19世紀末から20世紀初頭にかけて、チベットは外国人に対して固く国を閉ざしており、欧米人にとってチベットは地理学上の空白地帯で、神王ダライラマの君臨する憧れの地であった。そのため各国探検隊はあの手この手でチベットに潜入しラサをめざしたが、多くは途中で見破られ地方官に追い返され、荷を運ぶ家畜を飢えと寒さで失い一部の者は命まで落とした。

このラサ到達レースは1904年に英国のヤングハズバンド隊のチベット侵攻で一応幕を下ろす。しかし、その三年前の1901年、黄檗宗の僧、河口慧海(1866-1945)が仏典を求めてチベットに潜入し、ラサに到達していた。他国に先駆けてのチベット入りは評判を博し、その探検記Three Years in Tibet(チベットの三年) は世界的に知られ、日本においても欧米人の鼻を明かしたと快哉をもって受け入れられた。
というわけで、慧海といえば日本人のチベット密入国者第一号と知られるが、高山龍三先生の近著『河口慧海への旅 釈迦生誕地に巡礼した人びと』によると、彼は日本人初のネパール密入国者でもあるらしい。
慧海はチベットに潜入する直前に下準備としてチベット僧としてのマナーを身につけ言葉を覚えるために、シッキムやネパールに滞在しており、チベット滞在の後正体がばれて国外に脱出した後もやはりネパールやシッキムにもどっている。本書はこの間の主にヒマラヤ南斜面での慧海の足取りをおったものである。
著者高山龍三はチベット文化研究会の会長先生で、もともとヒマラヤ南斜面側のチベット文化圏(中国の支配下に入ったヒマラヤ北側は長期間フィールド調査ができなかった 笑)をフィールドとする人類学者さん。河口慧海に関する評伝や資料をこれまでも数々出版されており、本書は、河口慧海研究の現在を知るにも良い一書である。
また、二月の初めに高本康子著『チベット学問僧として生きた日本人: 多田等観の生涯』がでた。中国が支配する前にチベットに入った日本人は、有名な人だけ挙げても十人はくだらない。中でも多田等観は正式なルートでチベットに入り、ゲルク派の僧として八年間チベットの僧院で修行しており、チベットにもっとも濃く関わった日本人と言える。

本書は著者が一昨年に発表した専門書『近代日本におけるチベット像の形成と展開』の知見も随所にもりこまれているため、日本におけるチベット・イメージの変遷を簡単に知ることもできる。著者によると、チベット文化を曇りのない目で理解・評価した日本人は少数いたものの、報道・新聞記事などによって醸成される一般人のチベット認識は、チベットを珍奇なもの、未開のなものと蔑む傾向、つまり、アジアの一等国の奢りむきだしのものであった。
これは現在中国共産党がチベットを語る時の上から目線とよく似通っている。アジアでいちはやく明治維新の後に近代化をとげた日本から、中国がさまざまな概念を学び、その語彙を取り入れたことはよく知られている。チベット・イメージに関しても、中国は近代日本のある時点のチベット評価をそのまま受け継いで、ついでに言えばそこで止まって変質・肥大化したことが分かる。同時代の欧米人がチベット文化の本質を理解し、その高度な精神性を高く評価していたことに比して、開化直後の日本の知的レベルはやはり前近代であったことが分かる。
河口慧海、多田等観以外のチベットに入った人々についても、数多くの著作集、評伝、史料集などが出されており、一大ジャンルを形成している。これらの研究は共通して「日本人の目を通してみたチベット」「日本人がチベットに向かう動機」に焦点を結んでおり、彼らを受け入れた一方の、ダライラマ13世、ダライラマ14世の宮廷、チベットの貴族社会・僧院社会、五台山・北京のチベット仏教界などの実情・思惑などについてほとんど注意を払うことはない。
しかし、多田等観は八年もの間、チベットに滞在し、おそらくはチベットとの間に他の誰よりも強い絆を築いていた人と思われる。そこで、高本康子氏の引用した多田等観の著作より、チベット側が彼に託していた思いを探ると、このような記事が見いだせる。
多田等観がゲルク派の本山ガンデン大僧院に巡礼し、ガンデン大座主の座を仰いだ時、「座主である旧師に、自分がチベット仏教を日本によく伝えることができるように、この高座の上で祈ってください」と真剣に頼んだという。この当時、彼(多田等観)はチベット仏教僧として日本人の自分が何をしていくべきなのか、しきりと考えていたという(『チベット滞在記』p.82)。
そして、ダライラマ13世も多田等観に「おまえは大切な人間だ、日本に帰ってから仏教を拡(ひろ)める役がある」(ibid. p.77)
とあることからも、ダライラマ13世が多田等観をチベットの僧院に受け入れ学ばせた理由は、いずれ日本において彼にチベット仏教を布教させるためであり、多田等観もその任務についてはよく自覚していたことが分かる。
まず、王侯貴族に法を説き、配下のものから出家者を出させ、そのものを中央チベットのゲルク派の大僧院で教育し、学なりて後には本国に戻してその王侯の支援の下に僧院を建立させ、そこでゲルク派の哲学と実践を行う場をつくる、というのは実はゲルク派の伝統的な行動様式である。
西本願寺派の法主、大谷光瑞の後ろ盾によってチベットの僧院に入った多田等観の場合、ダライラマ13世の目からみれば、日本の王侯にあたるものが大谷光瑞で、多田等観がそこから受け入れた外国留学生ということになる。ダライラマ5世がジェブツンダムパ一世に目を掛け、モンゴルに返した後、モンゴル仏教の象徴的な僧となるようにバックアップしたように、ダライラマ13世は日本におけるチベット仏教布教の中核人物とするために多田等観を教育していた可能性は高い。
そして多田等観もチベットでの八年の僧院生活を通じて、チベット仏教を高く評価していたことは以下の言葉より明らかである。
日本の仏教は布教に重点をおき、外へと教えを拡張することを尊ぶ。しかしチベット仏教はそうではない。「布教するということは余程の力があり、従って余程腹ができていなければ出来ないものと思っている。もし布教出来るような偉い人が布教した場合には、十人が十人聴いたものがことごとく従って来るような布教でなければならない。それよりも自分の教を完全に把握してそれを守っていくことに努力する。従って外に出すということより、内で守ることが目的である。」(『多田等観』p.353)
しかし、多田等観は帰国後、チベット仏教を広めるどころではない現実に直面する。まず大谷光瑞が〔探検で散財しすぎて〕失脚して宗派内で力を失っていた。さらに、日本には戒律を護る僧が勉学や修行に励む場=僧院がない。彼がチベットで学んできた哲学は僧院生活の中で継承されるものであり、僧院のない日本においてはその教えを伝える術もなかったのである。
帰国後四年たった1926年、等観は結婚をする。彼の属する浄土真宗は日本仏教の中でも妻帯を公式に認めている宗派であるから、真宗的には別に不思議ではない。しかし、戒律をまもるゲルク派の僧侶としては、等観は結婚した時点で破戒したことになる。そのため、結婚に際しては等観にも何らかの葛藤があったと思われるが、その裏をとる気力はない(笑)。
その後の多田等観は仏教者というよりは、学者としての活躍が目立ち始める。東京大学、東北大学、モンゴル、スタンフォード大学、東洋文庫などで教鞭をとり、チベット仏教を教え、後進を育て、彼の持ち帰った経典類は河口慧海の将来文献とともに、日本のチベット学の発展に裨益した。多田等観の学者への転身は、1959年以後、ゲルク派の還俗僧の多くが、チベット学のインフォーマントとして活躍した事実を思い起こさせてくれる。
「布教をすれば十人聴けば十人従う人でなければ布教はできない」、とゲルク派の学問仏教の威力を知り尽くし多田等観であったからこそ、等観は帰国後、あえて多言を弄することなく、還俗し東洋学者となったのかもしれない。
多田等観がチベット学に多くの利益をもたらしたことは言うまでもない。かくいう私も東大に収蔵されていた多田等観のチベット聖典にはよくお世話になった。彼の持ち帰った聖典は紙質がよく、印刷もはっきりしていて非常に読みやすい。河口慧海将来のテクストは同じものでも、向こう側が透けて見えるようなボロ版本が多かったから。
多田等観は東洋文庫にチベット人の研究員を呼ぼうという時、インドに自ら出向いてダライラマ14世と対面して「自分はゲルク派はよく知っているから、サキャ派かニンマ派の人」を要望して、そして来日されたのが、サキャ派はソナムギャムツォ先生、ニンマ派からはケツンサンポ師であった(多田等観先生の最後の弟子北村甫先生談)。等観なきあと、東洋文庫の外国人研究員となったゲルク派のゲシェ・テンパゲルツェン師は、うちのダンナにチベットの論理学を教えてくださるなど、チベットを学ぶ多くの日本人学者に影響を与えた。
北村甫先生(言語学)はその後、東洋文庫長をつとめられ、チベット研究室を支えてくださったが、その北村先生もなくなって久しい。今や、ダンナもわたしも「読者が2-3人しかいない」などといいつつ、歴史や論理学の研究をほそぼそとやる今日この頃。多田等観の遺志を果たして我々が継いでいるのかは永遠の謎である。
というわけで、未来に限りない不安を覚えることもないこともないが、チベット文化は内容が確かなのだから、研究され続けるし、支えてくれる人も現れ続けるだろうと思う。そう思わないとやっとられんわ。

このラサ到達レースは1904年に英国のヤングハズバンド隊のチベット侵攻で一応幕を下ろす。しかし、その三年前の1901年、黄檗宗の僧、河口慧海(1866-1945)が仏典を求めてチベットに潜入し、ラサに到達していた。他国に先駆けてのチベット入りは評判を博し、その探検記Three Years in Tibet(チベットの三年) は世界的に知られ、日本においても欧米人の鼻を明かしたと快哉をもって受け入れられた。
というわけで、慧海といえば日本人のチベット密入国者第一号と知られるが、高山龍三先生の近著『河口慧海への旅 釈迦生誕地に巡礼した人びと』によると、彼は日本人初のネパール密入国者でもあるらしい。
慧海はチベットに潜入する直前に下準備としてチベット僧としてのマナーを身につけ言葉を覚えるために、シッキムやネパールに滞在しており、チベット滞在の後正体がばれて国外に脱出した後もやはりネパールやシッキムにもどっている。本書はこの間の主にヒマラヤ南斜面での慧海の足取りをおったものである。
著者高山龍三はチベット文化研究会の会長先生で、もともとヒマラヤ南斜面側のチベット文化圏(中国の支配下に入ったヒマラヤ北側は長期間フィールド調査ができなかった 笑)をフィールドとする人類学者さん。河口慧海に関する評伝や資料をこれまでも数々出版されており、本書は、河口慧海研究の現在を知るにも良い一書である。
また、二月の初めに高本康子著『チベット学問僧として生きた日本人: 多田等観の生涯』がでた。中国が支配する前にチベットに入った日本人は、有名な人だけ挙げても十人はくだらない。中でも多田等観は正式なルートでチベットに入り、ゲルク派の僧として八年間チベットの僧院で修行しており、チベットにもっとも濃く関わった日本人と言える。

本書は著者が一昨年に発表した専門書『近代日本におけるチベット像の形成と展開』の知見も随所にもりこまれているため、日本におけるチベット・イメージの変遷を簡単に知ることもできる。著者によると、チベット文化を曇りのない目で理解・評価した日本人は少数いたものの、報道・新聞記事などによって醸成される一般人のチベット認識は、チベットを珍奇なもの、未開のなものと蔑む傾向、つまり、アジアの一等国の奢りむきだしのものであった。
これは現在中国共産党がチベットを語る時の上から目線とよく似通っている。アジアでいちはやく明治維新の後に近代化をとげた日本から、中国がさまざまな概念を学び、その語彙を取り入れたことはよく知られている。チベット・イメージに関しても、中国は近代日本のある時点のチベット評価をそのまま受け継いで、ついでに言えばそこで止まって変質・肥大化したことが分かる。同時代の欧米人がチベット文化の本質を理解し、その高度な精神性を高く評価していたことに比して、開化直後の日本の知的レベルはやはり前近代であったことが分かる。
河口慧海、多田等観以外のチベットに入った人々についても、数多くの著作集、評伝、史料集などが出されており、一大ジャンルを形成している。これらの研究は共通して「日本人の目を通してみたチベット」「日本人がチベットに向かう動機」に焦点を結んでおり、彼らを受け入れた一方の、ダライラマ13世、ダライラマ14世の宮廷、チベットの貴族社会・僧院社会、五台山・北京のチベット仏教界などの実情・思惑などについてほとんど注意を払うことはない。
しかし、多田等観は八年もの間、チベットに滞在し、おそらくはチベットとの間に他の誰よりも強い絆を築いていた人と思われる。そこで、高本康子氏の引用した多田等観の著作より、チベット側が彼に託していた思いを探ると、このような記事が見いだせる。
多田等観がゲルク派の本山ガンデン大僧院に巡礼し、ガンデン大座主の座を仰いだ時、「座主である旧師に、自分がチベット仏教を日本によく伝えることができるように、この高座の上で祈ってください」と真剣に頼んだという。この当時、彼(多田等観)はチベット仏教僧として日本人の自分が何をしていくべきなのか、しきりと考えていたという(『チベット滞在記』p.82)。
そして、ダライラマ13世も多田等観に「おまえは大切な人間だ、日本に帰ってから仏教を拡(ひろ)める役がある」(ibid. p.77)
とあることからも、ダライラマ13世が多田等観をチベットの僧院に受け入れ学ばせた理由は、いずれ日本において彼にチベット仏教を布教させるためであり、多田等観もその任務についてはよく自覚していたことが分かる。
まず、王侯貴族に法を説き、配下のものから出家者を出させ、そのものを中央チベットのゲルク派の大僧院で教育し、学なりて後には本国に戻してその王侯の支援の下に僧院を建立させ、そこでゲルク派の哲学と実践を行う場をつくる、というのは実はゲルク派の伝統的な行動様式である。
西本願寺派の法主、大谷光瑞の後ろ盾によってチベットの僧院に入った多田等観の場合、ダライラマ13世の目からみれば、日本の王侯にあたるものが大谷光瑞で、多田等観がそこから受け入れた外国留学生ということになる。ダライラマ5世がジェブツンダムパ一世に目を掛け、モンゴルに返した後、モンゴル仏教の象徴的な僧となるようにバックアップしたように、ダライラマ13世は日本におけるチベット仏教布教の中核人物とするために多田等観を教育していた可能性は高い。
そして多田等観もチベットでの八年の僧院生活を通じて、チベット仏教を高く評価していたことは以下の言葉より明らかである。
日本の仏教は布教に重点をおき、外へと教えを拡張することを尊ぶ。しかしチベット仏教はそうではない。「布教するということは余程の力があり、従って余程腹ができていなければ出来ないものと思っている。もし布教出来るような偉い人が布教した場合には、十人が十人聴いたものがことごとく従って来るような布教でなければならない。それよりも自分の教を完全に把握してそれを守っていくことに努力する。従って外に出すということより、内で守ることが目的である。」(『多田等観』p.353)
しかし、多田等観は帰国後、チベット仏教を広めるどころではない現実に直面する。まず大谷光瑞が〔探検で散財しすぎて〕失脚して宗派内で力を失っていた。さらに、日本には戒律を護る僧が勉学や修行に励む場=僧院がない。彼がチベットで学んできた哲学は僧院生活の中で継承されるものであり、僧院のない日本においてはその教えを伝える術もなかったのである。
帰国後四年たった1926年、等観は結婚をする。彼の属する浄土真宗は日本仏教の中でも妻帯を公式に認めている宗派であるから、真宗的には別に不思議ではない。しかし、戒律をまもるゲルク派の僧侶としては、等観は結婚した時点で破戒したことになる。そのため、結婚に際しては等観にも何らかの葛藤があったと思われるが、その裏をとる気力はない(笑)。
その後の多田等観は仏教者というよりは、学者としての活躍が目立ち始める。東京大学、東北大学、モンゴル、スタンフォード大学、東洋文庫などで教鞭をとり、チベット仏教を教え、後進を育て、彼の持ち帰った経典類は河口慧海の将来文献とともに、日本のチベット学の発展に裨益した。多田等観の学者への転身は、1959年以後、ゲルク派の還俗僧の多くが、チベット学のインフォーマントとして活躍した事実を思い起こさせてくれる。
「布教をすれば十人聴けば十人従う人でなければ布教はできない」、とゲルク派の学問仏教の威力を知り尽くし多田等観であったからこそ、等観は帰国後、あえて多言を弄することなく、還俗し東洋学者となったのかもしれない。
多田等観がチベット学に多くの利益をもたらしたことは言うまでもない。かくいう私も東大に収蔵されていた多田等観のチベット聖典にはよくお世話になった。彼の持ち帰った聖典は紙質がよく、印刷もはっきりしていて非常に読みやすい。河口慧海将来のテクストは同じものでも、向こう側が透けて見えるようなボロ版本が多かったから。
多田等観は東洋文庫にチベット人の研究員を呼ぼうという時、インドに自ら出向いてダライラマ14世と対面して「自分はゲルク派はよく知っているから、サキャ派かニンマ派の人」を要望して、そして来日されたのが、サキャ派はソナムギャムツォ先生、ニンマ派からはケツンサンポ師であった(多田等観先生の最後の弟子北村甫先生談)。等観なきあと、東洋文庫の外国人研究員となったゲルク派のゲシェ・テンパゲルツェン師は、うちのダンナにチベットの論理学を教えてくださるなど、チベットを学ぶ多くの日本人学者に影響を与えた。
北村甫先生(言語学)はその後、東洋文庫長をつとめられ、チベット研究室を支えてくださったが、その北村先生もなくなって久しい。今や、ダンナもわたしも「読者が2-3人しかいない」などといいつつ、歴史や論理学の研究をほそぼそとやる今日この頃。多田等観の遺志を果たして我々が継いでいるのかは永遠の謎である。
というわけで、未来に限りない不安を覚えることもないこともないが、チベット文化は内容が確かなのだから、研究され続けるし、支えてくれる人も現れ続けるだろうと思う。そう思わないとやっとられんわ。
2月8日焼身自殺者の法要(実録)
チベット難民社会の首相センゲ氏が、焼身自殺でなくなったチベット人のために、「白い水曜日」(チベットでは水曜は祈りの日)に世界中で法要を行うことを呼びかけた(首相の声明文はここクリック)。それに答えて日本では急遽護国寺様(桂昌殿)で法要が行われることとなった。以下はその『実録』である。
桂昌殿入り口には、広末涼子さんのダンナ様キャンドルJun氏によるキャンドルが並ぶ。建物にはいるとカメラマン野田雅也氏のチベット潜入写真が並べられている。受付・会場係はボランティアのみなさま。
挨拶して殿内に入ると、中央の祭壇にはダライラマ法王が護国寺様に奉献した釈迦牟尼像(2008年のGWにダライラマ法王から護国寺さまに寄贈されたもの。前年護国寺様が龍樹の仏画をさしあげた返礼。)と、華道家の方がいけた豪華な花が供えられ、焼身自殺した僧侶・尼僧たちの写真が並んでいる。椅子の上にはチベット語にカタカナルビるふられた経典、センゲ首相の声明文などがおかれている。
International Campaign for Tibetのサイトから、焼身抗議者の名前、年齢、焼身の日をリストアップすると以下のようになる(2012年2月11日時点)。

2009年
1. 2月27日 Tapey 20代 ガバのキルティ僧(入院中)
2011年
2. 3月16日 Phuntsog 20才 ガバのキルティ僧
3. 8月15日 Tsewang Norbu 29才 ガンツェのタウの僧
4. 9月26日 Lobsang Kunchok 18-19才 ガバのキルティ僧
5. Lobsang Kelsang 18-19才 ガバのキルティ僧
6. 10月3日 Kelsang Wangchuk 17才 ガバのキルティ僧
7. 10月7日 Choepel 19才 元ガバのキルティ僧
8. Kayang 18才 元ガバのキルティ僧
9. 10月15日 Norbu Damdrul19才 元ガバのキルティ僧
10. 10月17日 Tenzin Wangmo 20才 ガパの尼僧
11. 10月25日 Dawa Tsering 38才 ガンツェ
12. 11月3日 Palden Choetso 35才 ガンツェの尼僧
13. 12月1日 Tenzin Phuntsog 40代 チャムドのカルマ寺
2012年
14. 1月6日 Tsultrim 20代 ガバのキルティ
15. Tennyi 20代 ガバのキルティ
16. 1月8日 Sonam Wangyal 40代 ゴロク
17. 1月14日 Losang Jamyang 20代 ガバ
18. 2月3日 Tsabtsel Tsering 60代 ガンツェのセルタの僧
19. キャリ 30才前後
20. 名前不明
21. 2月8日 Rinzin Dorje119 ガバで焼身。僧。
22. 2月8日 Sonam Rabyang 30代半 ギグド(玉樹)の僧
23. 2月13日 Tenzin Choedron 18才ガバの尼僧
気がつかれたかと思うが、20番目のソナムラプチャンは、この法要の行われたまさにその日、その時間に炎上していた。
式次第は以下の通り。導師は広島からかけつけたゲンギャウ師である。
〔式次第〕三帰依・発心・開経偈・『般若心経典』・21尊ターラー経・七句偈・除災偈・パドマサンバヴァ真言・観音菩薩偈・六字真言・ダライラマ14世長寿祈願・回向とすべてチベット語。2008年から護国寺様ではチベットにお祈りを捧げているので、チベット語の法要が定型化している。そのあと、漢文の般若心経読誦。
そして、ラクパ・ツォコ代表の挨拶。大体忠実にうつしたつもりだが、ラクパさんの日本語がときに曖昧な場合は、推測で文を補った。
一日のお仕事のあとで、それから寒い中で、大勢集まっていただいたことを心から感謝いたしております。本当に日本人の中に温かい理解者がいるということは、私達チベット人にとっても大変励みになります。私達日本に住んでいるチベット人だけでなく、チベットの中に住んでいるチベット人たちも「日本でこういうことが行われた」というニュースを〔聞く〕だけでも大変ありがたいです。ですので、私が日本におけるチベット人、チベット亡命政府、ダライラマの代表として心から感謝を申し上げます。
みなさんご存じのように、わたしたちが法要をやっている理由は、目の前に焼身自殺を行って亡くなった方そして、行方不明になった方で確認のとれた方たちの写真と名前がかかっております。しかし、チベットの中で焼身自殺をはかり、そして殺された人の数はこれよりもはるかに多いです。状況は本当に深刻です。
世界中にいる(難民社会の)チベット人は15万人です。チベットの全体の人口が400万人くらいです。〔しかし、ここ数年弾圧や天災で多くのチベット人が死んでいます。〕2008年の〔北京オリンピックの年のチベット蜂起で〕中国政府はチベット人の死者は20名と発表しましたが、我々の情報によると万単位のチベット人が殺されています。四川大地震の時、中国政府はチベット人が2000人死んだと発表しましたが、実際のところ万単位のチベット人が死んでいます。
そして今チベット人は本当にひどいめにあっています。チベット人はいつ自分の部屋に警察が踏み込んでくるのかと不安な状態で暮らしています。こういう状況を世界中が知っています。しかし、国と国の経済の関係で〔批判できず〕日光の三猿のように〔中国がチベットに行っている弾圧に対して〕見ざる・聞かざる・言わざるの状態が続いています。
このような状況下でわれわれに残されたただ一つの手段は、これを国際社会の一人一人の理解をえて世論を高めることです。したがって、みなさんが今夜時間を割いてくださったことは、チベット人にとって大変ありがたいサポートになります。みなさんは「〔ここにいる〕200人の人たちで何ができようか」と思うかもしれませんが、一人一人の力はものすごく大きい力なんです。みなさんが周囲の人にチベットの状況を伝えてくれると、さらに大きい力になります。
わたしたちはもう日本で40年以上辛抱して地道な活動をして、我慢して我慢して参りました。20年以上前にくらべると状況はものすごく変わって〔日本人はチベット状勢をよく理解するようになって〕います。ですからわたしたちの今頼りとすることは、日本国民一人一人の理解を得ることなのです。それを得るため私達から努力して、こういう形で努力してこのような形でみなさんが反応してくれたことは、日本人がチベットの状況を忘れていないということを示しております。
チベットには今何の力もありません。日本人にとってプラスになることは何もありません。国民一人一人に強くアピールして、個人的に理解をえても組織の中ではなかなか理解か得られにくい大変な状況です。しかし、みなさんを通じて日本国民に訴えたいことがあります。日本はアジアの中でものすごい存在感のある国なんです。日本の幸せだけを永遠に保証するためには日本の〔今の〕やり方はぴったし(ママ)かもしれません。でも、日本も変化しています。50年前とは明らかに変わっています。つらい時にはまわりに手をさしのべること、自分がよい時には苦しんでいる人を理解するそういう義務があると思います。
わたしは日本と中国の仲を悪くするつもりはありません。〔日本は中国に〕言うべきことを言ってほしいのです。欧米は中国と経済的な関係がありますが、言いたいことは言っています。日本は今難しい状況(震災とか?)が続いていますが、それでも他の国々と比較すると日本はまだありがたいところがあります。四川省のチベット人居住域、ガバ、タンゴ、セルタは完全に戦争のような状況です。軍がはいっています。2008年の〔チベット蜂起の時〕ラサに軍隊が入り〔それも〕撤退していません。チベットの僧と尼の数より、軍人の数の方が遥かにおおいです。チベット人の数より軍隊の数がはるかに多いのです。チベット全土にあるチベットの戸口窓の数と、中国政府のチベット人を監視するカメラの数を比較すると、監視カメラの数が圧倒的に多いです。こういう状況が続いています。
わたしたちは、中国政府が自分たちの憲法の中に記している少数民族の自治権の内容を実行して下さいと頼んでいるだけです。チベットは中国から独立したいとか、分裂したいとか一言もいってません。すべてを文書で明確化して国際社会にも開示しています。ダライラマの特使と中国の代表が何度も会見した折に、向こうからすべての疑問点を出してもらって、それに対してチベット側からすべて答えているにも関わらず、最後に中国政府は「チベット問題は存在しない。ダライラマ個人の問題である」と言ってきた。
これはダライラマ法王個人の問題ではなくチベット人全体の問題なのです。われわれは中道のアプローチ(独立と植民地化の真ん中。実質的な自治をめざすこと)をとって、中国政府にとってもよい方法をとるよう努力してきました。にもかかわらず何も成果が得られませんでした。失敗だということになり、〔2008年に民意をとう投票をしましたが、その結果〕それでもまだ中道のアプローチをとっています。去年ダライラマ法王が政治権力を民主的な選挙で選ばれた新しい首相に譲りましたが、この首相も中道のアプローチの政策を続けています。
ここまで我々が譲歩しているにもかかわらず、中国政府はますます締め付けを厳しくし、お寺を壊し、遊牧民を定住化させ、つまりはチベットの文化を完全に抹殺するというずるい政策(ママ)に力をいれています。チベット問題を解決する鍵はすべて中国政府の手の中にあります。中国政府がチベット人を人間らしく扱えばこのような問題はおきません。受け入れられないことを中国政府が行うため、チベット人たちは追い詰められて国際社会の注目を向けるめためにそれぞれの決断の上で焼身自殺という最終手段をとっているのです。焼身自殺はチベット仏教の中ではもちろん良いこととはされていません。しかしそれ以上に彼らの決断(ラクパさん判断といってたけど)は固かったのです。
今日は世界中のチベット人が、その支援者とともに法要を行っています。ダラムサラではインド時間の三時に大きな法要を行います。〔アジア地域では〕日本でも隣の韓国でもオーストラリアでもやっています。この法要の目的は苦しい状況の中で命まで犠牲にした方々に、「あなたたちは一人ではないよ」と表明すること、それから国際社会にアピールすることを目標にしています。
今日はお集まり頂きまして本当にありがとうございました。
で、そのあとキャンドルJun氏のキャンドルを囲んで、「言論の自由がない」という字の書かれた黒いマスクをつけて、みなでキャンドル記念撮影。これは全世界標準装備(笑)。

わたしはキャンドルの間、ジャーナリストの福島香織さんとお話していたので、残念ながらJun氏の謎なスピーチは聞けなかったのだが、なかなかいい絵がとれたよう。報道の人はそこそこ来てくれていたようで、翌9日の午前四時のNHKニュースには映像入りで長く紹介された。NHKありがとう。
会場をかしてくださった護国寺さま、会場設営ならびに準備を整えてくださったボランティアの方々、平日の七時に集まってくれた方々すべてに頭が下がる。法要の席にお見えにならない人でも、チベット人の子供を里子にして就学を応援していたり、チベット文化の源泉である僧院を援助したりといった形で、チベット文化と共同体を守ろうとしてくれる方は数多い。
意見が異なる者が、利権のある所ではがっちりスクラム組むことはよく見られることである。しかし、ラクパ代表も言うように、チベットに味方しても何のメリットもないこの状況下において、これほどの人がチベットのことを思い動いてくれているのは、異例である。やはりチベット問題は、人類の良心が問われている問題であり、それを理解した上で人々が集まっているため、みな何とか続けてこられたのだと思う。
焼身自殺をした人々は誰も道連れにすることなく、ただ「チベットに自由を!」「ダライラマ法王のチベットへの帰還を!」「ダライラマ法王のご長寿を!」といって死んでいる。弾圧者である中国人にも、それをみすごす国際社会に対して、怒りをもってではなく、哀れみをもって対しているのである。利権にむらがる人々は利権がなくなれば解散するが、良心をまもろうと集まった人々は、「良心」がこの世からなくなったら、人の社会でなくなることを知っているため、そう簡単には諦めない。
中国はチベット人に銃を向け、「再教育」を行うことを「治安の安定のため」という。しかし、銃によって安定がもたらされないことは、人類史が証明してきたことである。中国が今のままチベットの文化を土足で踏みにじり、同化政策・植民政策を続ける限り、チベットに限らずあらゆる少数派は中国に対して愛をもたず、また、中国政府の国際評価は下がり続けるであろう。
とここまで書いたところで、長田さんが焼身抗議者のリストをチベット式に発表。午前中をかけてつくった表が一瞬にしてムダになりました(笑)。この記事には焼身抗議が行われた場所の地名の中国の行政区上の位置とカタカナ表記ものっています。報道の方、地名のカタカナ書きの際に参考にして戴けると、記事検索をする際にいろいろなヴァリエーションが生まれないので助かります。
桂昌殿入り口には、広末涼子さんのダンナ様キャンドルJun氏によるキャンドルが並ぶ。建物にはいるとカメラマン野田雅也氏のチベット潜入写真が並べられている。受付・会場係はボランティアのみなさま。
挨拶して殿内に入ると、中央の祭壇にはダライラマ法王が護国寺様に奉献した釈迦牟尼像(2008年のGWにダライラマ法王から護国寺さまに寄贈されたもの。前年護国寺様が龍樹の仏画をさしあげた返礼。)と、華道家の方がいけた豪華な花が供えられ、焼身自殺した僧侶・尼僧たちの写真が並んでいる。椅子の上にはチベット語にカタカナルビるふられた経典、センゲ首相の声明文などがおかれている。
International Campaign for Tibetのサイトから、焼身抗議者の名前、年齢、焼身の日をリストアップすると以下のようになる(2012年2月11日時点)。

2009年
1. 2月27日 Tapey 20代 ガバのキルティ僧(入院中)
2011年
2. 3月16日 Phuntsog 20才 ガバのキルティ僧
3. 8月15日 Tsewang Norbu 29才 ガンツェのタウの僧
4. 9月26日 Lobsang Kunchok 18-19才 ガバのキルティ僧
5. Lobsang Kelsang 18-19才 ガバのキルティ僧
6. 10月3日 Kelsang Wangchuk 17才 ガバのキルティ僧
7. 10月7日 Choepel 19才 元ガバのキルティ僧
8. Kayang 18才 元ガバのキルティ僧
9. 10月15日 Norbu Damdrul19才 元ガバのキルティ僧
10. 10月17日 Tenzin Wangmo 20才 ガパの尼僧
11. 10月25日 Dawa Tsering 38才 ガンツェ
12. 11月3日 Palden Choetso 35才 ガンツェの尼僧
13. 12月1日 Tenzin Phuntsog 40代 チャムドのカルマ寺
2012年
14. 1月6日 Tsultrim 20代 ガバのキルティ
15. Tennyi 20代 ガバのキルティ
16. 1月8日 Sonam Wangyal 40代 ゴロク
17. 1月14日 Losang Jamyang 20代 ガバ
18. 2月3日 Tsabtsel Tsering 60代 ガンツェのセルタの僧
19. キャリ 30才前後
20. 名前不明
21. 2月8日 Rinzin Dorje119 ガバで焼身。僧。
22. 2月8日 Sonam Rabyang 30代半 ギグド(玉樹)の僧
23. 2月13日 Tenzin Choedron 18才ガバの尼僧
気がつかれたかと思うが、20番目のソナムラプチャンは、この法要の行われたまさにその日、その時間に炎上していた。
式次第は以下の通り。導師は広島からかけつけたゲンギャウ師である。
〔式次第〕三帰依・発心・開経偈・『般若心経典』・21尊ターラー経・七句偈・除災偈・パドマサンバヴァ真言・観音菩薩偈・六字真言・ダライラマ14世長寿祈願・回向とすべてチベット語。2008年から護国寺様ではチベットにお祈りを捧げているので、チベット語の法要が定型化している。そのあと、漢文の般若心経読誦。
そして、ラクパ・ツォコ代表の挨拶。大体忠実にうつしたつもりだが、ラクパさんの日本語がときに曖昧な場合は、推測で文を補った。
一日のお仕事のあとで、それから寒い中で、大勢集まっていただいたことを心から感謝いたしております。本当に日本人の中に温かい理解者がいるということは、私達チベット人にとっても大変励みになります。私達日本に住んでいるチベット人だけでなく、チベットの中に住んでいるチベット人たちも「日本でこういうことが行われた」というニュースを〔聞く〕だけでも大変ありがたいです。ですので、私が日本におけるチベット人、チベット亡命政府、ダライラマの代表として心から感謝を申し上げます。
みなさんご存じのように、わたしたちが法要をやっている理由は、目の前に焼身自殺を行って亡くなった方そして、行方不明になった方で確認のとれた方たちの写真と名前がかかっております。しかし、チベットの中で焼身自殺をはかり、そして殺された人の数はこれよりもはるかに多いです。状況は本当に深刻です。
世界中にいる(難民社会の)チベット人は15万人です。チベットの全体の人口が400万人くらいです。〔しかし、ここ数年弾圧や天災で多くのチベット人が死んでいます。〕2008年の〔北京オリンピックの年のチベット蜂起で〕中国政府はチベット人の死者は20名と発表しましたが、我々の情報によると万単位のチベット人が殺されています。四川大地震の時、中国政府はチベット人が2000人死んだと発表しましたが、実際のところ万単位のチベット人が死んでいます。
そして今チベット人は本当にひどいめにあっています。チベット人はいつ自分の部屋に警察が踏み込んでくるのかと不安な状態で暮らしています。こういう状況を世界中が知っています。しかし、国と国の経済の関係で〔批判できず〕日光の三猿のように〔中国がチベットに行っている弾圧に対して〕見ざる・聞かざる・言わざるの状態が続いています。
このような状況下でわれわれに残されたただ一つの手段は、これを国際社会の一人一人の理解をえて世論を高めることです。したがって、みなさんが今夜時間を割いてくださったことは、チベット人にとって大変ありがたいサポートになります。みなさんは「〔ここにいる〕200人の人たちで何ができようか」と思うかもしれませんが、一人一人の力はものすごく大きい力なんです。みなさんが周囲の人にチベットの状況を伝えてくれると、さらに大きい力になります。
わたしたちはもう日本で40年以上辛抱して地道な活動をして、我慢して我慢して参りました。20年以上前にくらべると状況はものすごく変わって〔日本人はチベット状勢をよく理解するようになって〕います。ですからわたしたちの今頼りとすることは、日本国民一人一人の理解を得ることなのです。それを得るため私達から努力して、こういう形で努力してこのような形でみなさんが反応してくれたことは、日本人がチベットの状況を忘れていないということを示しております。
チベットには今何の力もありません。日本人にとってプラスになることは何もありません。国民一人一人に強くアピールして、個人的に理解をえても組織の中ではなかなか理解か得られにくい大変な状況です。しかし、みなさんを通じて日本国民に訴えたいことがあります。日本はアジアの中でものすごい存在感のある国なんです。日本の幸せだけを永遠に保証するためには日本の〔今の〕やり方はぴったし(ママ)かもしれません。でも、日本も変化しています。50年前とは明らかに変わっています。つらい時にはまわりに手をさしのべること、自分がよい時には苦しんでいる人を理解するそういう義務があると思います。
わたしは日本と中国の仲を悪くするつもりはありません。〔日本は中国に〕言うべきことを言ってほしいのです。欧米は中国と経済的な関係がありますが、言いたいことは言っています。日本は今難しい状況(震災とか?)が続いていますが、それでも他の国々と比較すると日本はまだありがたいところがあります。四川省のチベット人居住域、ガバ、タンゴ、セルタは完全に戦争のような状況です。軍がはいっています。2008年の〔チベット蜂起の時〕ラサに軍隊が入り〔それも〕撤退していません。チベットの僧と尼の数より、軍人の数の方が遥かにおおいです。チベット人の数より軍隊の数がはるかに多いのです。チベット全土にあるチベットの戸口窓の数と、中国政府のチベット人を監視するカメラの数を比較すると、監視カメラの数が圧倒的に多いです。こういう状況が続いています。
わたしたちは、中国政府が自分たちの憲法の中に記している少数民族の自治権の内容を実行して下さいと頼んでいるだけです。チベットは中国から独立したいとか、分裂したいとか一言もいってません。すべてを文書で明確化して国際社会にも開示しています。ダライラマの特使と中国の代表が何度も会見した折に、向こうからすべての疑問点を出してもらって、それに対してチベット側からすべて答えているにも関わらず、最後に中国政府は「チベット問題は存在しない。ダライラマ個人の問題である」と言ってきた。
これはダライラマ法王個人の問題ではなくチベット人全体の問題なのです。われわれは中道のアプローチ(独立と植民地化の真ん中。実質的な自治をめざすこと)をとって、中国政府にとってもよい方法をとるよう努力してきました。にもかかわらず何も成果が得られませんでした。失敗だということになり、〔2008年に民意をとう投票をしましたが、その結果〕それでもまだ中道のアプローチをとっています。去年ダライラマ法王が政治権力を民主的な選挙で選ばれた新しい首相に譲りましたが、この首相も中道のアプローチの政策を続けています。
ここまで我々が譲歩しているにもかかわらず、中国政府はますます締め付けを厳しくし、お寺を壊し、遊牧民を定住化させ、つまりはチベットの文化を完全に抹殺するというずるい政策(ママ)に力をいれています。チベット問題を解決する鍵はすべて中国政府の手の中にあります。中国政府がチベット人を人間らしく扱えばこのような問題はおきません。受け入れられないことを中国政府が行うため、チベット人たちは追い詰められて国際社会の注目を向けるめためにそれぞれの決断の上で焼身自殺という最終手段をとっているのです。焼身自殺はチベット仏教の中ではもちろん良いこととはされていません。しかしそれ以上に彼らの決断(ラクパさん判断といってたけど)は固かったのです。
今日は世界中のチベット人が、その支援者とともに法要を行っています。ダラムサラではインド時間の三時に大きな法要を行います。〔アジア地域では〕日本でも隣の韓国でもオーストラリアでもやっています。この法要の目的は苦しい状況の中で命まで犠牲にした方々に、「あなたたちは一人ではないよ」と表明すること、それから国際社会にアピールすることを目標にしています。
今日はお集まり頂きまして本当にありがとうございました。
で、そのあとキャンドルJun氏のキャンドルを囲んで、「言論の自由がない」という字の書かれた黒いマスクをつけて、みなでキャンドル記念撮影。これは全世界標準装備(笑)。

わたしはキャンドルの間、ジャーナリストの福島香織さんとお話していたので、残念ながらJun氏の謎なスピーチは聞けなかったのだが、なかなかいい絵がとれたよう。報道の人はそこそこ来てくれていたようで、翌9日の午前四時のNHKニュースには映像入りで長く紹介された。NHKありがとう。
会場をかしてくださった護国寺さま、会場設営ならびに準備を整えてくださったボランティアの方々、平日の七時に集まってくれた方々すべてに頭が下がる。法要の席にお見えにならない人でも、チベット人の子供を里子にして就学を応援していたり、チベット文化の源泉である僧院を援助したりといった形で、チベット文化と共同体を守ろうとしてくれる方は数多い。
意見が異なる者が、利権のある所ではがっちりスクラム組むことはよく見られることである。しかし、ラクパ代表も言うように、チベットに味方しても何のメリットもないこの状況下において、これほどの人がチベットのことを思い動いてくれているのは、異例である。やはりチベット問題は、人類の良心が問われている問題であり、それを理解した上で人々が集まっているため、みな何とか続けてこられたのだと思う。
焼身自殺をした人々は誰も道連れにすることなく、ただ「チベットに自由を!」「ダライラマ法王のチベットへの帰還を!」「ダライラマ法王のご長寿を!」といって死んでいる。弾圧者である中国人にも、それをみすごす国際社会に対して、怒りをもってではなく、哀れみをもって対しているのである。利権にむらがる人々は利権がなくなれば解散するが、良心をまもろうと集まった人々は、「良心」がこの世からなくなったら、人の社会でなくなることを知っているため、そう簡単には諦めない。
中国はチベット人に銃を向け、「再教育」を行うことを「治安の安定のため」という。しかし、銃によって安定がもたらされないことは、人類史が証明してきたことである。中国が今のままチベットの文化を土足で踏みにじり、同化政策・植民政策を続ける限り、チベットに限らずあらゆる少数派は中国に対して愛をもたず、また、中国政府の国際評価は下がり続けるであろう。
とここまで書いたところで、長田さんが焼身抗議者のリストをチベット式に発表。午前中をかけてつくった表が一瞬にしてムダになりました(笑)。この記事には焼身抗議が行われた場所の地名の中国の行政区上の位置とカタカナ表記ものっています。報道の方、地名のカタカナ書きの際に参考にして戴けると、記事検索をする際にいろいろなヴァリエーションが生まれないので助かります。
報道に求められていること
自由報道協会が設立一周年を記念して賞を創設した。1月27日、その第1回目の授賞式が行われ、この席上プレゼンテーターの日隅一雄(元弁護士・元記者)が、無名の自分を自虐する文脈で「私は昨日、東電の前でチベットの高僧のようにですね、火を、自殺をして私の名前を上げたほうがいいのかな」(本人のブログより)と発言した。この発言は会場において笑いを誘った。
この発言内容は、チベットサポーターに知れ、チベット人に知れ、ダライラマ法王事務所の耳に入り、彼らが抗議をするに至り、ついに、31日午後、発言者が自らのブログ内で発言を謝罪(http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/5de3523badbeec519452cc1553de13d7)、協会も法王事務所にでかけ混乱を謝罪するにいたった(http://fpaj.jp/?p=2425)。
この事件については終わったことでもあるし、協会の対応もはやかったのでこれ以上言うことはない。しかし、この間、チベット人やサポーターに対してなされた「過敏すぎる」「ダライラマ法王なら怒らないだろう」類の発言については、チベット事情をしらない漢人がチベット人に対して投げつける言葉と同じでもあり、非常に不愉快な気持ちになった。発言者は自分たちのみならず、彼らが庇っている対象の評価も落としている。
私はかの協会の「記者クラブに対抗してインターネットなどを活用して情報発信する」などの姿勢についてはもちろん賛同している。問題としたいのは、あの授賞式の雰囲気が如実に示していた、彼らのジャーナリズムの未熟さと内向きさである。
思えば、チベット問題はこれまでずっとこのような未熟で内向きな日本のジャーナリズムの犠牲者であった。外側から日本の報道をみるとよくわかる。
日本の報道の自由度は世界ランキングで22位、イギリス(28位)よりもアメリカ(47位)よりも上である。日本では自分たちが民主的な選挙で選んだリーダーでさえ、自らの考えとあわない政策を発表すると、上は新聞記者から下は民間のブロガーまで批判しまくる。果ては自分のかってな妄想、デマ、ウソに至るまで発表する「自由」はある。もちろん、その結果、逮捕されることも処刑されることもない。反原発デモでも格差デモでも、どんなデモでもルールさえ守れば自由に行うことができる。
日本には世界標準で「報道の自由」はある。このような日本で求められているのは「報道の自由」よりも、報道の質である。何故なら、「報道の自由」の下、不確定な情報やデマも思い切り世の中に流れていくので、判断力のない人・情報弱者は混乱するからである。
質の高い報道とは、情報発信者が取材対象についてのあらゆる知識・情報をもち、取材対象からあがってきた材料を分析し、事実を切り出す能力をもってはじめてできるものである。そのような質の高い報道こそが、多くの人の共感を得て社会を動かすことができるものであろう。
そのような丁寧な報道を行っているジャーナリストが今日本でどのくらいいるだろうか。少なくとも、去年の11月、この報道自由協会がダライラマ法王に対して行った記者会見をみる限り、怪しいものである。そこに集まった人や質問者のほとんどは、ダライラマ法王という方がどのような人生を送ってきて、どのような考えをもっているかという基本的な理解さえなく、ただ自分のすでにもっている見解に対するコメントをダライラマに一方的に二択でおしつけていた(これについては過去のエントリーで記した)。
予断が先にあり、それを証明するために材料を繋ぎあわせてニュースをつくることは、検察であれば、先に有罪無罪のストーリーを決めて、それに都合のいい証拠だけを選んで並べるのと同じである。それが検察であれ、学者であれ、一般人の日常的な判断であれ、このようなことを繰り返すものに信用は生まれない。
そして悲しいかな、日本の報道は、自分の主張を通すために現実に起こっていることに目をふさいできた過去がある。1960-70年までの間、中国において文化大革命の嵐がふきあれた時、中国では無辜の人々が文字通り辱められ、リンチで殺されていた。
この時、北京で事実を追求しようとしたジャーナリストたちは、中国当局により次々と北京から追放された。1970年、北京に残っていた支局は、秋岡家栄を支局長とした朝日新聞のみ。なぜこの人が1972年まで支局を維持できたかというと、周恩来の崇拝者で新華社報道をそのまま伝えて、文革を批判しなかったからである (ちなみに、こないだ行われた上海万博の日本産業館の館長秋岡栄子さんはこの人の娘さん)。
朝日に限らず、日本の「知識人」は中国が報道統制下にあってその実態がよく分からないことを良いことに、長く中国に理想の国家のあり方を重ねようとしていた。なぜかというと「知識人」はアメリカや日本やソ連の体制を批判するために、美化された第三極が必要だったからである。
つまり、日本の報道もそれを信じた知識人の多くも、自分たちの主義主張のために中国の文化大革命の醜悪さに目をつぶった。日本の報道が日中友好をお題目のように唱え、「チベットは平和解放され、近代化によって発展している」とかき立てていたこの間、チベットでは内地以上に多くの人が殺され、教典が焼かれ、佛像が壊され、僧侶は辱められ、還俗を迫られていた。
そして、その副作用は今も続いている。この時代に人格を形成した人の多くは、夢から目覚めた今もチベットに対する姿勢は変わっていない。彼らは、チベット・サポーターのことを「チべットを夢の国みたいに美化している」「中国が嫌いだからチベット問題を利用している」「ダライラマはしたたかな政治家(封建領主 笑)だ」と批判する。私は「それはあなたがやってきたことでしょう」と言い返すことン十年。もう耳タコである。
チベット難民社会は中国と違って情報を隠してない。良いことも悪いこともみな開示している。とくに、サポーターは難民とふれあう機会も多いので、その素晴らしさも問題点もよく知っている。ダライラマのような聖人もいれば、なんちゃってダメ坊主がいるのも知っている。仮にチベットをディズニーランドみたい思っているサポーターが少数いたとしても、それが今チベットで起きていることを無視する理由にはならない。
そう、日本の知識人は国外の紛争に関しては「善悪の判断は紛争の火種となる」と不思議なくらい沈黙する。「圧倒的な強者が圧倒的な弱者」を殺戮しているチベット問題のような場合でも「みて見ぬふり」がデフォルトてある。
しかし、国内問題については、たとえば、未確定の情報を元にしてであっても、躊躇なく企業・政府に対して悪の判断を下し、糾弾する。「善悪の判断をしないこと」を自分たちの道徳であると決めたのであれば、それも一つの見識であるが、国外の問題についてはどのような不公正についても沈黙し、国内の問題については不安の種でもあれば糾弾するとあっては、叩いてもやり返さないと分かっているものを叩き、強いものに対しては仕返しが怖いので沈黙していると言われても仕方ないだろう。
チベットを支配する中国は、世界の報道の自由度ランキングで言えば下から六位の174位、北朝鮮よりかろうじて上という情報統制国家である(国境なき記者団調べ 2012年発表)。中国において、国家の指導者を批判すること、少数民族政策を批判することは、たとえそれが個人のブログであったもツイッターであっても削除され、その影響度に応じて逮捕され、刑務所に送られることにもなる。
08憲章起草した劉暁波と余傑さんは、前者は獄中(2010年のノーベル平和賞受賞者)、後者はつい半月前アメリカに亡命した。漢族の有名知識人でもこの扱いであるから植民地のチベット人に対する中国政府の扱いは輪をかけて非道い。
2008年のチベット蜂起以後、当局は年々チベット人居住域に対する包囲を狭め、人が集まるところは僧院であれ、何であれ武装警察を駐留させ、監視カメラで常時チベット人を見張り、伝統的な祭りや儀式にも抗議行動が始まるという理由から干渉・制限を繰り返してきた。
また、漢人に対してさえ今や行っていない、社会主義プロパガンダ教育を、僧侶におしつけている。世界に名高い高度な論理学を身につけた究極の知識人に、プロパガンダ教育を強制し、さらにその文脈で、チベット仏教のトップにたつ彼らが最も尊敬するダライラマを非難するように強制し、彼らの思考の自由を奪う。
しかも、中国の旧正月の1月23日以後、東チベットのガンツェにおいて当局とチベット住民が衝突したため、事態はさらに深刻化している。RFA(ラジオ・フリー・アジア)に集まってくる現地の証言によると、事件の梗概はこのようである。
去年から今年にかけて17人の僧侶の焼身自殺が相次いだことを受けて、年初にブッダガヤで行われたカーラチャクラ灌頂の法話において、ダライラマ法王は「今年のお正月は自殺した人たちを悼んで、お祝いを控えて、静かに祈りましょう。お正月の準備に使うお金は募金しましょう・・」と言った。
ところが、空気の読めない中国政府は、「正月なのでこれを目立つところに掲げるように」と、中国の歴代指導者のご真影と小平語録などの共産党マンセーグッズを配布した。
ここでチベット人がきれた。
カム(東チベットのガンツェ地域)のダンゴにおいてビラがまかれ、「年明けそうそう四人のお坊さんが中国政府に抗議して焼身自殺する」という予告がなされた。すると当局、「正月早々、自殺者がでては共産党のメンツがつぶれる」と、春節の深夜、焼身自殺しそうな男たちを200人くらい警察署にひっぱっていった。家族を奪われたチベット人は当然帰せと警察署におしかけると、そこに、警察は発砲。今の時点で6人は死んでいるとのこと(RFA発表)。丸腰のチベット人に発砲したことについて当局は「警察署が襲われたから」と述懐。日本で西成の警察署が本物の暴徒に襲われた時でも、警察は発砲はしなかったけどね。
つまり、今この時、チベットには報道の自由はおろか、デモをする自由、さらに思考の自由さえ奪われている。自分たちの苦境を変える手段が何ひとつない状況下において、一部の僧侶が抗議の意志を焼身自殺という形で示しているのである。
さらに、彼らが守ろうとしているチベットの文化は、これまで国や人種を越えて高い評価を受けてきたきわめて普遍性の高い高度な精神文明である。彼らの文化を知れば知るほど、「よその国の話だから関係ない」とは言えないと気づくはずである。これは我々の問題でもある(チベット問題を一冊で知りたい方は拙著『世界を魅了するチベット』第二章と巻末の年表をみればすぐに分かる!)。
これは「放射能の害が将来あるかもしれない」などという曖昧な問題ではない。確固とした「事実」で、「そこにある」ものである。また、真に報道の自由がないのは、日本ではなくチベットなのである。
今、衝突のおきているガンツェはもはやネットもケータイも当局に遮断され、外界から孤立している。真のジャーナリストであるならば、ガンツェに命をかけて潜入して、何が行われているかを取材するだろう。もしそれに成功すれば、内輪受けの笑いに満ちた賞ではなく、ジャーナリストのノーベル賞、ピュリッツァー賞がとれるだろう。
2008年、チベットが蜂起した時、法王事務所のラクパ代表は広島での講演で「チベット人の非暴力の戦いは報道にとりあげられないのに、自爆テロはニュースにとりあげられる。チベットの非暴力の文化は世界の平和に貢献している。なのにチベット人の戦いが無視されるのはおかしいじゃないですか。」と叫んでいた。去年法王が自由報道協会の記者会見の席でも「ジャーナリストの方々は中国政府・チベット人どちらのいうことが本当なのか、現地にいって事実を調べてきてください」と話していた。
この叫び声に応えられるジャーナリストがどれほど日本にいるのだろうか。
この発言内容は、チベットサポーターに知れ、チベット人に知れ、ダライラマ法王事務所の耳に入り、彼らが抗議をするに至り、ついに、31日午後、発言者が自らのブログ内で発言を謝罪(http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/5de3523badbeec519452cc1553de13d7)、協会も法王事務所にでかけ混乱を謝罪するにいたった(http://fpaj.jp/?p=2425)。
この事件については終わったことでもあるし、協会の対応もはやかったのでこれ以上言うことはない。しかし、この間、チベット人やサポーターに対してなされた「過敏すぎる」「ダライラマ法王なら怒らないだろう」類の発言については、チベット事情をしらない漢人がチベット人に対して投げつける言葉と同じでもあり、非常に不愉快な気持ちになった。発言者は自分たちのみならず、彼らが庇っている対象の評価も落としている。
私はかの協会の「記者クラブに対抗してインターネットなどを活用して情報発信する」などの姿勢についてはもちろん賛同している。問題としたいのは、あの授賞式の雰囲気が如実に示していた、彼らのジャーナリズムの未熟さと内向きさである。
思えば、チベット問題はこれまでずっとこのような未熟で内向きな日本のジャーナリズムの犠牲者であった。外側から日本の報道をみるとよくわかる。
日本の報道の自由度は世界ランキングで22位、イギリス(28位)よりもアメリカ(47位)よりも上である。日本では自分たちが民主的な選挙で選んだリーダーでさえ、自らの考えとあわない政策を発表すると、上は新聞記者から下は民間のブロガーまで批判しまくる。果ては自分のかってな妄想、デマ、ウソに至るまで発表する「自由」はある。もちろん、その結果、逮捕されることも処刑されることもない。反原発デモでも格差デモでも、どんなデモでもルールさえ守れば自由に行うことができる。
日本には世界標準で「報道の自由」はある。このような日本で求められているのは「報道の自由」よりも、報道の質である。何故なら、「報道の自由」の下、不確定な情報やデマも思い切り世の中に流れていくので、判断力のない人・情報弱者は混乱するからである。
質の高い報道とは、情報発信者が取材対象についてのあらゆる知識・情報をもち、取材対象からあがってきた材料を分析し、事実を切り出す能力をもってはじめてできるものである。そのような質の高い報道こそが、多くの人の共感を得て社会を動かすことができるものであろう。
そのような丁寧な報道を行っているジャーナリストが今日本でどのくらいいるだろうか。少なくとも、去年の11月、この報道自由協会がダライラマ法王に対して行った記者会見をみる限り、怪しいものである。そこに集まった人や質問者のほとんどは、ダライラマ法王という方がどのような人生を送ってきて、どのような考えをもっているかという基本的な理解さえなく、ただ自分のすでにもっている見解に対するコメントをダライラマに一方的に二択でおしつけていた(これについては過去のエントリーで記した)。
予断が先にあり、それを証明するために材料を繋ぎあわせてニュースをつくることは、検察であれば、先に有罪無罪のストーリーを決めて、それに都合のいい証拠だけを選んで並べるのと同じである。それが検察であれ、学者であれ、一般人の日常的な判断であれ、このようなことを繰り返すものに信用は生まれない。
そして悲しいかな、日本の報道は、自分の主張を通すために現実に起こっていることに目をふさいできた過去がある。1960-70年までの間、中国において文化大革命の嵐がふきあれた時、中国では無辜の人々が文字通り辱められ、リンチで殺されていた。
この時、北京で事実を追求しようとしたジャーナリストたちは、中国当局により次々と北京から追放された。1970年、北京に残っていた支局は、秋岡家栄を支局長とした朝日新聞のみ。なぜこの人が1972年まで支局を維持できたかというと、周恩来の崇拝者で新華社報道をそのまま伝えて、文革を批判しなかったからである (ちなみに、こないだ行われた上海万博の日本産業館の館長秋岡栄子さんはこの人の娘さん)。
朝日に限らず、日本の「知識人」は中国が報道統制下にあってその実態がよく分からないことを良いことに、長く中国に理想の国家のあり方を重ねようとしていた。なぜかというと「知識人」はアメリカや日本やソ連の体制を批判するために、美化された第三極が必要だったからである。
つまり、日本の報道もそれを信じた知識人の多くも、自分たちの主義主張のために中国の文化大革命の醜悪さに目をつぶった。日本の報道が日中友好をお題目のように唱え、「チベットは平和解放され、近代化によって発展している」とかき立てていたこの間、チベットでは内地以上に多くの人が殺され、教典が焼かれ、佛像が壊され、僧侶は辱められ、還俗を迫られていた。
そして、その副作用は今も続いている。この時代に人格を形成した人の多くは、夢から目覚めた今もチベットに対する姿勢は変わっていない。彼らは、チベット・サポーターのことを「チべットを夢の国みたいに美化している」「中国が嫌いだからチベット問題を利用している」「ダライラマはしたたかな政治家(封建領主 笑)だ」と批判する。私は「それはあなたがやってきたことでしょう」と言い返すことン十年。もう耳タコである。
チベット難民社会は中国と違って情報を隠してない。良いことも悪いこともみな開示している。とくに、サポーターは難民とふれあう機会も多いので、その素晴らしさも問題点もよく知っている。ダライラマのような聖人もいれば、なんちゃってダメ坊主がいるのも知っている。仮にチベットをディズニーランドみたい思っているサポーターが少数いたとしても、それが今チベットで起きていることを無視する理由にはならない。
そう、日本の知識人は国外の紛争に関しては「善悪の判断は紛争の火種となる」と不思議なくらい沈黙する。「圧倒的な強者が圧倒的な弱者」を殺戮しているチベット問題のような場合でも「みて見ぬふり」がデフォルトてある。
しかし、国内問題については、たとえば、未確定の情報を元にしてであっても、躊躇なく企業・政府に対して悪の判断を下し、糾弾する。「善悪の判断をしないこと」を自分たちの道徳であると決めたのであれば、それも一つの見識であるが、国外の問題についてはどのような不公正についても沈黙し、国内の問題については不安の種でもあれば糾弾するとあっては、叩いてもやり返さないと分かっているものを叩き、強いものに対しては仕返しが怖いので沈黙していると言われても仕方ないだろう。
チベットを支配する中国は、世界の報道の自由度ランキングで言えば下から六位の174位、北朝鮮よりかろうじて上という情報統制国家である(国境なき記者団調べ 2012年発表)。中国において、国家の指導者を批判すること、少数民族政策を批判することは、たとえそれが個人のブログであったもツイッターであっても削除され、その影響度に応じて逮捕され、刑務所に送られることにもなる。
08憲章起草した劉暁波と余傑さんは、前者は獄中(2010年のノーベル平和賞受賞者)、後者はつい半月前アメリカに亡命した。漢族の有名知識人でもこの扱いであるから植民地のチベット人に対する中国政府の扱いは輪をかけて非道い。
2008年のチベット蜂起以後、当局は年々チベット人居住域に対する包囲を狭め、人が集まるところは僧院であれ、何であれ武装警察を駐留させ、監視カメラで常時チベット人を見張り、伝統的な祭りや儀式にも抗議行動が始まるという理由から干渉・制限を繰り返してきた。
また、漢人に対してさえ今や行っていない、社会主義プロパガンダ教育を、僧侶におしつけている。世界に名高い高度な論理学を身につけた究極の知識人に、プロパガンダ教育を強制し、さらにその文脈で、チベット仏教のトップにたつ彼らが最も尊敬するダライラマを非難するように強制し、彼らの思考の自由を奪う。
しかも、中国の旧正月の1月23日以後、東チベットのガンツェにおいて当局とチベット住民が衝突したため、事態はさらに深刻化している。RFA(ラジオ・フリー・アジア)に集まってくる現地の証言によると、事件の梗概はこのようである。
去年から今年にかけて17人の僧侶の焼身自殺が相次いだことを受けて、年初にブッダガヤで行われたカーラチャクラ灌頂の法話において、ダライラマ法王は「今年のお正月は自殺した人たちを悼んで、お祝いを控えて、静かに祈りましょう。お正月の準備に使うお金は募金しましょう・・」と言った。
ところが、空気の読めない中国政府は、「正月なのでこれを目立つところに掲げるように」と、中国の歴代指導者のご真影と小平語録などの共産党マンセーグッズを配布した。
ここでチベット人がきれた。
カム(東チベットのガンツェ地域)のダンゴにおいてビラがまかれ、「年明けそうそう四人のお坊さんが中国政府に抗議して焼身自殺する」という予告がなされた。すると当局、「正月早々、自殺者がでては共産党のメンツがつぶれる」と、春節の深夜、焼身自殺しそうな男たちを200人くらい警察署にひっぱっていった。家族を奪われたチベット人は当然帰せと警察署におしかけると、そこに、警察は発砲。今の時点で6人は死んでいるとのこと(RFA発表)。丸腰のチベット人に発砲したことについて当局は「警察署が襲われたから」と述懐。日本で西成の警察署が本物の暴徒に襲われた時でも、警察は発砲はしなかったけどね。
つまり、今この時、チベットには報道の自由はおろか、デモをする自由、さらに思考の自由さえ奪われている。自分たちの苦境を変える手段が何ひとつない状況下において、一部の僧侶が抗議の意志を焼身自殺という形で示しているのである。
さらに、彼らが守ろうとしているチベットの文化は、これまで国や人種を越えて高い評価を受けてきたきわめて普遍性の高い高度な精神文明である。彼らの文化を知れば知るほど、「よその国の話だから関係ない」とは言えないと気づくはずである。これは我々の問題でもある(チベット問題を一冊で知りたい方は拙著『世界を魅了するチベット』第二章と巻末の年表をみればすぐに分かる!)。
これは「放射能の害が将来あるかもしれない」などという曖昧な問題ではない。確固とした「事実」で、「そこにある」ものである。また、真に報道の自由がないのは、日本ではなくチベットなのである。
今、衝突のおきているガンツェはもはやネットもケータイも当局に遮断され、外界から孤立している。真のジャーナリストであるならば、ガンツェに命をかけて潜入して、何が行われているかを取材するだろう。もしそれに成功すれば、内輪受けの笑いに満ちた賞ではなく、ジャーナリストのノーベル賞、ピュリッツァー賞がとれるだろう。
2008年、チベットが蜂起した時、法王事務所のラクパ代表は広島での講演で「チベット人の非暴力の戦いは報道にとりあげられないのに、自爆テロはニュースにとりあげられる。チベットの非暴力の文化は世界の平和に貢献している。なのにチベット人の戦いが無視されるのはおかしいじゃないですか。」と叫んでいた。去年法王が自由報道協会の記者会見の席でも「ジャーナリストの方々は中国政府・チベット人どちらのいうことが本当なのか、現地にいって事実を調べてきてください」と話していた。
この叫び声に応えられるジャーナリストがどれほど日本にいるのだろうか。
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