留年生の最終講義
本来なら現在進行中のチベットの悲劇のこととか書きたいところであるが、ここのところずっと体調が悪くて複雑な思考ができない。また、あまりブログを放置すると、きて下っている皆様に申し訳ないので、『『実録モノ』』に流れます。
昨日、どこかの誰かが卒論の口頭試問を行った。
Mくん「すみません結論決めてから、本論かきました」
Nちゃん〔文章の意味不明を指摘されて〕「最後の日の深夜二時に書いたので脳が溶けてました」などのしょうもないやりとりの後、最終授業恒例のお茶会となった。
すると、留年を繰り返しているBが別の授業の試験を終えて教室に入ってきた。
私「じゃあ最後になったけどBの口頭試問はじめようか。まず私の講評読んでみて」
その講評とは、彼の卒論が何1つ明らかにしていないどころか、そこいらのブログツイッターをコピペしたシロモノ(引用元は明示してあるので剽窃にならないところが老獪)であることを糾弾したものである。
私「それでは今期最高アカデミー賞はI君に決定するとして、ラズベリー賞はBとAくんのどちらかだな。」
するといつもBをかばうK太(K太とBは同期)が「先生、Bは本当にバカなんです。彼にとってはこの卒論は超大作なんです」
私「つまりバカなりにがんばったBの方が上と言いたいわけ? 去年のYの卒論もひどかったけど、彼はゼミの出席だけはちゃんとしていた。しかし、BとA、あなたたちゼミにほとんど来てないでしょ。」
K太「たしかにYは外国史概説も全出席でした。問題はYは全出席しても、授業から何1つ学ばなかったところです。Bは留年してから三年間、ゼミに顔を出し続けてていますから、全出席数を合わせれば一年分の出席日数になります」
私「BとA、あなたたちね。一年の学費を百万として、卒論をのぞく四年間の授業コマ数をそれでわると一授業4444円になるの。親御さんは授業料を生活きりつめて払っているのに、あなたちはなんだかんだで4444円を何度も簡単に休んだりして、あまつさえこの卒論の出来。問題を感じない? あなたたちが将来親になって子供が早稲田に入って遊んでばかりいたら、どう思う?」
B「そうしたら、子供を呼び出して叱りますよ。『お前、そんなことをしているとお父ちゃんみたいになっちゃうぞって』」(全員爆笑)
私「そもそもあなた卒業できるわけ?」
K太「あと卒論単位除いて6単位だろ」
B「〔満面の笑みで〕できます。でも、前期は20単位登録してゼロ単位しか帰ってきませんでした」
私「下手な鉄砲も数打ちゃあたるってわけ」
B「あたりませんでしたね。でも今期は大丈夫です。□×の先生には内定通知みせて『先生に教わったことを社会で生かします』と訴えて、フラ語の先生にも『先生の授業で学んだコミニュケーション力を会社で生かします』といったら、今日テストが終わったあと『おめでとう』と握手を求められました」
全員、留年おめでとうの意味じゃないかと思いつつも、口にしない。
そしてBは大学のコンセントから勝手にiPhoneの充電を始める。
私「何トウデンしているの」
B「〔満面の笑みで〕東京電力ですか」
私「盗電よ。だいたいあなたね、フランス語とかいってるけど、ボンジュールとジュマペールしか言えなくて大学卒業のクオリティが身についたと言えるわけ。」
B「これでもボクは高校受験の時は勉強したんです。〔爆笑しながら〕それからずっと右肩下がりですが 」
M子ちゃん「でもBは中学の頃からサバだったんでしょ」
私「何そのサバって」
B「いや、中学校で書き初めとかで優秀な出来の習字を教室に張り出したりしますよね。そこで自分で勝手に習字書いて張り出して何日ばれないかやってみたんです。下の学年の教室に忍び込んで、皆が「初日の出」とか書いているところに『鯖』と一文字書いたのを張り出しました。みな気がつかないんですよ。
こんなボクでも勉強したのは塾の先生のおかげですね。塾の先生が『一生懸命勉強したらオウム真理教の教本をくれる』というので一生懸命勉強して、それで早稲田の系列校に入れたんです」
私「何その塾。だから、あなた私のことを尊師というのか。」
B「先生はドープですよ」
私「何そのドープって。それとその気味の悪い手と首の動きやめてくれる。」
B「ヒップホップ用語ですよ~」
と、お茶会の席はいつのまにかBの卒業記念ワンマンショーと化していた。
帰ってからツイッターみたらBが
「最終講義を終えて家に帰る」
とつぶやいていた。
日本の悪平等教育、何とかしないと、国際競争力以前に国が滅ぶ。
昨日、どこかの誰かが卒論の口頭試問を行った。
Mくん「すみません結論決めてから、本論かきました」
Nちゃん〔文章の意味不明を指摘されて〕「最後の日の深夜二時に書いたので脳が溶けてました」などのしょうもないやりとりの後、最終授業恒例のお茶会となった。
すると、留年を繰り返しているBが別の授業の試験を終えて教室に入ってきた。
私「じゃあ最後になったけどBの口頭試問はじめようか。まず私の講評読んでみて」
その講評とは、彼の卒論が何1つ明らかにしていないどころか、そこいらのブログツイッターをコピペしたシロモノ(引用元は明示してあるので剽窃にならないところが老獪)であることを糾弾したものである。
私「それでは今期最高アカデミー賞はI君に決定するとして、ラズベリー賞はBとAくんのどちらかだな。」
するといつもBをかばうK太(K太とBは同期)が「先生、Bは本当にバカなんです。彼にとってはこの卒論は超大作なんです」
私「つまりバカなりにがんばったBの方が上と言いたいわけ? 去年のYの卒論もひどかったけど、彼はゼミの出席だけはちゃんとしていた。しかし、BとA、あなたたちゼミにほとんど来てないでしょ。」
K太「たしかにYは外国史概説も全出席でした。問題はYは全出席しても、授業から何1つ学ばなかったところです。Bは留年してから三年間、ゼミに顔を出し続けてていますから、全出席数を合わせれば一年分の出席日数になります」
私「BとA、あなたたちね。一年の学費を百万として、卒論をのぞく四年間の授業コマ数をそれでわると一授業4444円になるの。親御さんは授業料を生活きりつめて払っているのに、あなたちはなんだかんだで4444円を何度も簡単に休んだりして、あまつさえこの卒論の出来。問題を感じない? あなたたちが将来親になって子供が早稲田に入って遊んでばかりいたら、どう思う?」
B「そうしたら、子供を呼び出して叱りますよ。『お前、そんなことをしているとお父ちゃんみたいになっちゃうぞって』」(全員爆笑)
私「そもそもあなた卒業できるわけ?」
K太「あと卒論単位除いて6単位だろ」
B「〔満面の笑みで〕できます。でも、前期は20単位登録してゼロ単位しか帰ってきませんでした」
私「下手な鉄砲も数打ちゃあたるってわけ」
B「あたりませんでしたね。でも今期は大丈夫です。□×の先生には内定通知みせて『先生に教わったことを社会で生かします』と訴えて、フラ語の先生にも『先生の授業で学んだコミニュケーション力を会社で生かします』といったら、今日テストが終わったあと『おめでとう』と握手を求められました」
全員、留年おめでとうの意味じゃないかと思いつつも、口にしない。
そしてBは大学のコンセントから勝手にiPhoneの充電を始める。
私「何トウデンしているの」
B「〔満面の笑みで〕東京電力ですか」
私「盗電よ。だいたいあなたね、フランス語とかいってるけど、ボンジュールとジュマペールしか言えなくて大学卒業のクオリティが身についたと言えるわけ。」
B「これでもボクは高校受験の時は勉強したんです。〔爆笑しながら〕それからずっと右肩下がりですが 」
M子ちゃん「でもBは中学の頃からサバだったんでしょ」
私「何そのサバって」
B「いや、中学校で書き初めとかで優秀な出来の習字を教室に張り出したりしますよね。そこで自分で勝手に習字書いて張り出して何日ばれないかやってみたんです。下の学年の教室に忍び込んで、皆が「初日の出」とか書いているところに『鯖』と一文字書いたのを張り出しました。みな気がつかないんですよ。
こんなボクでも勉強したのは塾の先生のおかげですね。塾の先生が『一生懸命勉強したらオウム真理教の教本をくれる』というので一生懸命勉強して、それで早稲田の系列校に入れたんです」
私「何その塾。だから、あなた私のことを尊師というのか。」
B「先生はドープですよ」
私「何そのドープって。それとその気味の悪い手と首の動きやめてくれる。」
B「ヒップホップ用語ですよ~」
と、お茶会の席はいつのまにかBの卒業記念ワンマンショーと化していた。
帰ってからツイッターみたらBが
「最終講義を終えて家に帰る」
とつぶやいていた。
日本の悪平等教育、何とかしないと、国際競争力以前に国が滅ぶ。
学術論文(歴史)の書き方
卒論読んでいたらいろいろ考えることがあったので、歴史系の学術論文の書き方について講釈します。まず、質の良い学術論文の見分け方について四つの要素を確認しましょう。
●質の良い学術論文の見分け方
(1) そのテーマについて過去になされてきた研究 (先行研究)にきちんと言及しており、著者がそれに対してどのようなスタンスをとるのかが明示されている(先行研究を別の視点からみるのか、批判して新しい知見を提示するのか、それが正しいことを別の資料で証明するのか etc.)。
(2) 論をなすにあたって、一次史料に直接あたって吟味・考察をしている。質の悪い論文は他人の概説書を根拠として引いたりする。
(3) 一次史料を丹念に探索し、その記述から見えてくるものを、結論にだしていること。その逆のダメ論文は「結論が先にあって、その結論に合致する資料を集める」。これはたとえばジャーナリストの報道、検察の立件などすべてに言えることで、自分の思い込みや予断で原資料を都合良く利用しないこと。
(4) 著者の思考が論理的であること。根拠にならないものを根拠にして無理矢理結論をだそうとしたりしていないかどうかを確認。
(5) 掲載されている雑誌が査読付きの学会誌である場合、その論文の質はある程度保証される。
●卒業論文を書くための具体的なアドバイス
レポートと論文は違うことを肝に銘じる。レポートは既存の研究を調べてまとめて「報告」することだが、論文は「これまで知られていなかった新しい知見を、根拠を示して論理的に提示する」こと。自分はどのパターンの論文が書けるのかを考えてみて。
1. 論文のパターン
2. 論文完成までの手順
3. 論文の形式
●質の良い学術論文の見分け方
(1) そのテーマについて過去になされてきた研究 (先行研究)にきちんと言及しており、著者がそれに対してどのようなスタンスをとるのかが明示されている(先行研究を別の視点からみるのか、批判して新しい知見を提示するのか、それが正しいことを別の資料で証明するのか etc.)。
(2) 論をなすにあたって、一次史料に直接あたって吟味・考察をしている。質の悪い論文は他人の概説書を根拠として引いたりする。
(3) 一次史料を丹念に探索し、その記述から見えてくるものを、結論にだしていること。その逆のダメ論文は「結論が先にあって、その結論に合致する資料を集める」。これはたとえばジャーナリストの報道、検察の立件などすべてに言えることで、自分の思い込みや予断で原資料を都合良く利用しないこと。
(4) 著者の思考が論理的であること。根拠にならないものを根拠にして無理矢理結論をだそうとしたりしていないかどうかを確認。
(5) 掲載されている雑誌が査読付きの学会誌である場合、その論文の質はある程度保証される。
●卒業論文を書くための具体的なアドバイス
レポートと論文は違うことを肝に銘じる。レポートは既存の研究を調べてまとめて「報告」することだが、論文は「これまで知られていなかった新しい知見を、根拠を示して論理的に提示する」こと。自分はどのパターンの論文が書けるのかを考えてみて。
1. 論文のパターン
- これまでだれも研究しなかった人・事・組織などの歴史的経緯を新たに一次史料に基づいて明らかにする。
- よく知られた歴史的な人・事・組織をいままでなされていない視点から検討する。
- これまでの研究を検討して、その中にある誤りをみつけて論理的にただす。
- 複数の説が対立している場合、それらを批判検討してどの説が正しいかを論じる。
2. 論文完成までの手順
- 自分が興味をもてそうな地域・時代・ジャンルをおおまかに決める
- それについて記した概説書 = 一般書をよむ。
- その記述の元となった史料・専門書・専門論文をnacsis plusの連想検索, cinii論文検索などによって探しだし、目を通す。→ 先行研究の確認
- 一次史料を読んでいるうちに明らかとなった問題点を整理して、テーマを決める。ここでいくつか自分で仮説をたててもいい。注意点 1.この場合、視点は絞れば絞るほど、良い結果のでる確率は高くなる。バクゼンとしたテーマを掲げると一般書のまるうつしに終わることが多い。人生と一緒。注意点 2.「やりたいこと」ではなく「できそうなこと」をやる。言い換えれば、そのテーマを明らかにするための資料が存在し、かつ、その資料がよめる言語で書かれており、適度に先行研究があることが必要条件。史料は原文で読むことが原則だが、アラビア語などの特殊言語の場合は英訳などを用いることも許可される。
- 自らのたてた仮説に根拠がみつけられるかどうかを、直接史料にあたって吟味する。もし途中で自らの仮説が成り立たないことが分かったら、すぐに方向を変えて別の仮説をたてる。これを繰り返す。
- 結論を出す。
3. 論文の形式
- 序論(はじめに) → 時代背景・問題提起・言葉の定義・あれば仮説の提示
- 論証部分(章・節・項 ~の順) → 結論をだすに至った根拠を述べる。注意点 3.その際に、原資料や他人の意見を引用する際には、本文から二文字分さげて自分の意見と他人の意見をはっきりわける。また、引用元の典拠を必ずページ数も含めて明示する。それをしないと剽窃=カンニングとなる。注意点 4.昨今ネットの情報(Wikipedia, 新聞記事、ブログ記事、広辞苑、ブリタニカ)を長文、論文にはりつける例があとをたたない。そもそも周知に属することは自分の言葉で述べればいいことであり、Wikipediaや広辞苑やブリタニカなどを引用することはない。特殊な定義で言葉を用いるのならなおさら自分の言葉で述べるべきである。また、ブログや新聞記事などの場合もそのまま長文をコピペするのではなく簡潔に自分の言葉でまとめてのせよ。そして、全文は論の末尾に資料として添付せよ。
- 結論(おわりに) である。→ 以上の証拠に基づき、わたしはかくかくしかじかの説を主張する。
- 注 → 本文の流れを乱すようなもの(出典・説明文・枝葉末節な議論)を注とする。
- 参考文献 → 史料・専門書・論文の順に挙げ、それぞれの中は著者のアイウエオ順。
- 史料の場合は、著者・題名・編纂年・出版社・出版年
例 于敏中編『日下舊聞考』乾隆39年, 北京古籍出版社, 1983 - 専門書の場合は、著者・『題名』・出版社・出版年
例 住友太郎『邪馬台国は南極にあった!』 ありえない出版、1978 - 論文の場合は、著者・「題名」・『掲載紙名』・掲載紙ページ数・発行年
例 三井みずほ「邪馬台国は東南アジアにあった」『月刊 古代』 4-3、pp.45-58, 2000 - 参考文献の本文中での引用の仕方
著者名・発行年・ページ数のみ。同じ人が同じ年に何冊も書いている場合は、1978a, 1978b, 1978cと区別する。例・住友太郎, 1978, pp.51-53
- 史料の場合は、著者・題名・編纂年・出版社・出版年
年が改まっても改まらないもの
私のゼミ生の内、卒論提出を予定していた学生は「一応」全員卒論を提出した。また、院生Mも奇跡的に修論を提出できた。とりあえず、学問の神様に感謝したい。
院生Mについては、正月二日に高田馬場駅前のエクセルシオール・カフェであった時には、たった一章分しか仕上がっておらず、その五日後に提出できたことは21世紀の奇跡といっていい。
ろ 提出日最終日には彼のケータイには三十分おきに先輩から確認の電話がかかってきたそうで、私のところには一時頃「今から提出にいきまーす」という電話があったので、安心していたら、原稿のサイズをA4なのに、彼は「A3でうちだして半分におって製本すればA4になる」と勝手に思い、事務所で拒否され、もう一度セブンイレブンで印刷しなおして提出したのは、事務所閉室時間三分前。
刑事ドラマか!
卒論提出学生の一部も相変わらずどうしようもなくて、年末に卒論の指導日をつくったのに、有馬記念を優先してこなかったやつ、「パーティー・ピープルの政治行動」という題でアンケートをとるようにいった学生は暮れもおしつまって電話がきて「先生みなパーティに夢中でアンケートに答えてくれません。無理です。意味が分からないといわれました」。今までやってきたことは何だったのか。もちろん卒論内容もひどいもの。
私はこの学生に六年間倫理を説いてきたが、まるで壁に向かってしゃべっているようだった。そして、今日も変わらず快楽原則に忠実な日々を送っている。彼曰く「先生の言うことをもっともだと聞こうとする自分と、勝手にやりたい自分が二人いるんですよね」と。
K太はいつもこの学生をかばって「でも、先生コイツこれでもずいぶん人間になってきたんですよ」
妖怪人間か!
年が明けてからのゼミで「規定枚数に達したのを確認しなければ指導票はわたさない」といっているにも関わらず、データをもってこないヤツ四人。さらに初回のゼミはみな指導票ほしさに出席していたが、卒論提出後のゼミはがっくり人数へって半分以下。
まあ礼儀がなってないというか、こんなんで社会でやっていけるのか、呆れるばかり。
木曜日には人生に難破中の知り合いがグチを言いにやって来る。彼女に問題の構造を分からせるべく、ホワイトボードにこれまでの経緯を時系列で書き上げ、どこで選択を誤ったのか、なぜこうすることがいけないのか、について諄々と諭す。しかし、これまでも「あなたのしていることはヒモなしバンジージャンプよ」などのわかりやすい言葉でさとしてきたのに、まったく聞き入れられなかったので、今回も耳に届くどうか疑問。
私は相手がそれを聞こうか聞くまいが、泣こうが怒ろうがとにかく、常に直球でものをいうことにしている。その人が失敗した時に「何でとめてくれなかったのか」と怨まれるのがいやだし「どうせ聞く気がないでしょ」と見て見ぬふりをすることは見殺しと同義語だと思うから。
まあ難破している人はもう自分のことしか考えられなくなっているので、何をいっても「当事者じゃないから私の気持ちは分からない」になっている。でも、当事者じゃないからそこから抜ける方法も知っているというふうに視点を変えてくれるといいんだけど。
今年の卒業旅行は至極普通で沖縄である。行く前に行き先が言えるなんて自由の国って素晴らしい(そんなのオノレだけじゃ 笑)。珍しく国内になったのは、K太が飛行機苦手であまり遠距離のれないこと、今年は沖縄が本土に復帰して40年だし、40年前はアメリカだし、もっと昔は独立国だったわけだから、考えようによっちゃ海外だということから。
わたしは、首里城とか、ユタとか伝統文化に興味がある。そこで、るるぶっぽい表紙の沖縄のガイドブック『沖縄修学旅行』をアマゾンでとりよせた。
届いたものを見ると、何これ。地図も観光地情報もゼロ。どころか、目次を見ると。ひめゆりとか、反戦地主とか、一女子高生の訴えとか、被害者の会とか、集団自決とか、もう八割が「被害者としての沖縄の歴史」。
よくみると出版社は地図の昭文社ではなく、オキナワ反戦ものばかりだしている高文●であった。ガイドブックと見まごう装丁により、アマゾンで間違えて買う人は多いと思う。
沖縄の人々は古くは島津藩と琉球国に搾取され、琉球処分で明治政府によって独立を奪われ、戦争中は本土と違って陸上戦場にされ、戦後はアメリカ、アメリカが去ったあともそのまま基地は残り、と、確かに大変な歴史だと思う。しかし、沖縄独自の歴史や文化を紹介した上で、この話がでるならまだしも、最初から最後まで「被害者沖縄」の現代史って、かなり偏っている。
そういうわけで、もうすぐ四年生ともお別れ。少しでもお別れを悲しいものにしないために、彼らの卒論でも読んで腹を立てたいと思う。
院生Mについては、正月二日に高田馬場駅前のエクセルシオール・カフェであった時には、たった一章分しか仕上がっておらず、その五日後に提出できたことは21世紀の奇跡といっていい。
ろ 提出日最終日には彼のケータイには三十分おきに先輩から確認の電話がかかってきたそうで、私のところには一時頃「今から提出にいきまーす」という電話があったので、安心していたら、原稿のサイズをA4なのに、彼は「A3でうちだして半分におって製本すればA4になる」と勝手に思い、事務所で拒否され、もう一度セブンイレブンで印刷しなおして提出したのは、事務所閉室時間三分前。
刑事ドラマか!
卒論提出学生の一部も相変わらずどうしようもなくて、年末に卒論の指導日をつくったのに、有馬記念を優先してこなかったやつ、「パーティー・ピープルの政治行動」という題でアンケートをとるようにいった学生は暮れもおしつまって電話がきて「先生みなパーティに夢中でアンケートに答えてくれません。無理です。意味が分からないといわれました」。今までやってきたことは何だったのか。もちろん卒論内容もひどいもの。
私はこの学生に六年間倫理を説いてきたが、まるで壁に向かってしゃべっているようだった。そして、今日も変わらず快楽原則に忠実な日々を送っている。彼曰く「先生の言うことをもっともだと聞こうとする自分と、勝手にやりたい自分が二人いるんですよね」と。
K太はいつもこの学生をかばって「でも、先生コイツこれでもずいぶん人間になってきたんですよ」
妖怪人間か!
年が明けてからのゼミで「規定枚数に達したのを確認しなければ指導票はわたさない」といっているにも関わらず、データをもってこないヤツ四人。さらに初回のゼミはみな指導票ほしさに出席していたが、卒論提出後のゼミはがっくり人数へって半分以下。
まあ礼儀がなってないというか、こんなんで社会でやっていけるのか、呆れるばかり。
木曜日には人生に難破中の知り合いがグチを言いにやって来る。彼女に問題の構造を分からせるべく、ホワイトボードにこれまでの経緯を時系列で書き上げ、どこで選択を誤ったのか、なぜこうすることがいけないのか、について諄々と諭す。しかし、これまでも「あなたのしていることはヒモなしバンジージャンプよ」などのわかりやすい言葉でさとしてきたのに、まったく聞き入れられなかったので、今回も耳に届くどうか疑問。
私は相手がそれを聞こうか聞くまいが、泣こうが怒ろうがとにかく、常に直球でものをいうことにしている。その人が失敗した時に「何でとめてくれなかったのか」と怨まれるのがいやだし「どうせ聞く気がないでしょ」と見て見ぬふりをすることは見殺しと同義語だと思うから。
まあ難破している人はもう自分のことしか考えられなくなっているので、何をいっても「当事者じゃないから私の気持ちは分からない」になっている。でも、当事者じゃないからそこから抜ける方法も知っているというふうに視点を変えてくれるといいんだけど。
今年の卒業旅行は至極普通で沖縄である。行く前に行き先が言えるなんて自由の国って素晴らしい(そんなのオノレだけじゃ 笑)。珍しく国内になったのは、K太が飛行機苦手であまり遠距離のれないこと、今年は沖縄が本土に復帰して40年だし、40年前はアメリカだし、もっと昔は独立国だったわけだから、考えようによっちゃ海外だということから。
わたしは、首里城とか、ユタとか伝統文化に興味がある。そこで、るるぶっぽい表紙の沖縄のガイドブック『沖縄修学旅行』をアマゾンでとりよせた。
届いたものを見ると、何これ。地図も観光地情報もゼロ。どころか、目次を見ると。ひめゆりとか、反戦地主とか、一女子高生の訴えとか、被害者の会とか、集団自決とか、もう八割が「被害者としての沖縄の歴史」。
よくみると出版社は地図の昭文社ではなく、オキナワ反戦ものばかりだしている高文●であった。ガイドブックと見まごう装丁により、アマゾンで間違えて買う人は多いと思う。
沖縄の人々は古くは島津藩と琉球国に搾取され、琉球処分で明治政府によって独立を奪われ、戦争中は本土と違って陸上戦場にされ、戦後はアメリカ、アメリカが去ったあともそのまま基地は残り、と、確かに大変な歴史だと思う。しかし、沖縄独自の歴史や文化を紹介した上で、この話がでるならまだしも、最初から最後まで「被害者沖縄」の現代史って、かなり偏っている。
そういうわけで、もうすぐ四年生ともお別れ。少しでもお別れを悲しいものにしないために、彼らの卒論でも読んで腹を立てたいと思う。
東博の故宮展に行ってみた
日曜日の朝、K嬢から耳よりなニュースが入る。
K嬢「先生、昨日上野の東博の故宮展に行ったのですが、乾隆帝菩薩画像来てましたよ」というので、急遽、午後は上野「北京故宮博物院200選」にいくことにする。
前エントリーでも連呼したが、乾隆帝菩薩画像は私の研究対象で三種類あり、今回来日する画像のタイプは一作例しかなく、去年北京まで行ったのにデジタル画像しかみせてもらえなかった因縁の画像である。
拙著『清朝とチベット仏教』にはデジタルで読み取れる範囲のものをのせたので、五体の仏の名前が謎のまま残っている。現物が見られるとあっては当然出撃せねばなるまい。
展示の行われる平成館にいく道には立て看が二つ据えられており、それは「乾隆帝大閲図」と「乾隆帝菩薩画像」であった。
カンバンの絵は実物より拡大されているので、このカンバンをみると乾隆帝菩薩画像中の小さな仏の銘文も読み取れる。しかし、この元になったデータは去年私が北京故宮でみたものと同じデータに基づいているらしく、結局同じ箇所が読み取れない。

トーハクへいく途中の道の立て看板にとりついて、「この後ろの文字はspyanかな~」とか、「この棒もった仏は~」とか騒いでいる人がいたら、それは○チガイではありません。ただの学者です。
やっと会場に入る。エスカレーターを夾んで左右に分かれる展示室は、左が第一部で右が第二部となっている。第一部は「故宮博物院の至宝 皇帝たちの名品」、第二部は「清朝宮廷文化の精粋 多文化の中の共生」である。
前者は、元東京国立博物館副館長の西岡康宏氏解説によると「故宮博物院が収蔵する多数の作品の中から、選りすぐった名品90件により、世界に冠たる中国美術の粋をごらん頂こうとするもの」(図録より)らしい。しかし、第一部の展示室にはテーマ別のコーナーはなく、ただ有名な品を並べただけという感じ。解説も様式とか材質とかの「もの」の情報ばかりで中央アジアの歴史を研究する私には、つまらん以外に言う言葉はなし。
先ほどの元副館長さんのうたい文句にしても、中国美術という特定のジャンルに属するものを「世界に冠たる」=「世界最高峰」と銘打つことはあまりにも非論理的である。というわけで、
第一部は清明上河図も含めて華麗にスルー。
清朝の多文化共生をテーマとした第二部は第一部に比べ、テーマ性もあり、コーナーごとに総説も掲げられ、啓蒙的な展示になっている。
清明上河図の来日が決まったのは去年の暮れも押し詰まってのことだったので、もしアレがこなかったら、おそらくはこの第二部が中心になったのだろう。表のカンバンも2枚とも乾隆帝の肖像画だったし。私としてはその方がよかったんだけど。
学者は一つ一つの品がどのような歴史的・文化的文脈で作られ、どのように受け継がれてきたかを研究する。だから、自分が研究対象にしている時代のものは、会場でみると、そこだけ輝いて浮き上がって見える。ちなみに、大新聞のあおりでもっとも話題となっている清明上河図は、興味ないので、暗闇に沈んで見えた(実際照明も絞ってるし 笑)。
さて、第二部は第一部と違ってコーナーがあるので、コーナーの名前とそこで展示されている内容をまとめるとこうなる。
第一章 「清朝の礼制文化」 → 儒教における「天子」としての皇帝
第二章 「清朝の文化事業」 → 中国文化の保護者としての皇帝
第三章 「清朝の宗教」 → チベット仏教の「文殊菩薩皇帝」。
第四章 「清朝の国際交流」 → 西洋の技術によって作られた文物。各国の使節団を描いた図など
まず言わせてもらえば、「多文化共生」をテーマにするという割には、、中国文化に偏っている。第三章にやっとチベット文化が扱われたのが唯一の良心。
私が責任をもって内容を論じられるのは第三章であるが、この展示品の解説はレベルが低かった。展示品の図録の署名から執筆者がわかるが、この第三章に限らず展示品の解説はすべて中国人名であった。つまり向こうがつくった原稿を和訳したものなのである。
しかし、コーナーごとに置かれている総説は、東博の学芸員が担当しているようで、やや見られる。第三章の総説は短すぎるけどまあ良い。しかし、第四章の解説は清朝史をまだ消化しきれていないという感じでまとまっておらずビミョウ。
私からみた第二部最大の見所は、清朝最盛期の皇帝・乾隆帝の5枚の肖像画。内訳は、
「乾隆帝像」(91番)満洲人の礼装姿の乾隆帝(即位の年の25歳)
「乾隆帝是一是二図軸」(126番)漢人文人姿で古物を鑑賞する乾隆帝
「乾隆帝古装像屏」(142番)漢人文人姿で筆をとる乾隆帝
「乾隆帝菩薩画像」(174番)チベット僧の装束の乾隆帝
「乾隆帝大閲像軸」(192番)甲冑騎馬姿の乾隆帝。
とくに、192番の騎馬姿の乾隆帝の絵は大きく美しい。その構図から「ヨーロッパの君主風」と解説されているが、装いの内容から言えば、「八旗の長としての乾隆帝」の姿を描いたものである。
で、問題の174番の乾隆帝菩薩画像であるが、やはりアナログではデジタルで見えなかったものが見えた。たとえば、この絵は真ん中に畳んだ時のシワがあって、そのシワに入った文字はデジタル画像では読めないのだが、現物はシワの下からのぞきこめばいいので、そこが読めた。
しかし、乾隆帝の図像の小さな仏の銘文は、そこに金文字があるのは分かっても、やはりすごく近くに顔を近づけなければ読めそうにない。がっかり~。
なので腹いせに、この図像の解説がいかにダメかについて論じることとする。
トーハクの図録より
〔前略〕この画像は仏の装いをし、法器を手にした乾隆帝を、文殊菩薩に見立てて描いたものである。きらめく両目には叡智が満ちあふれ、ゆつたりと落ち着いた姿には世俗を超越した趣がある。その上方には色とりどりの乾隆帝へと至る仏教伝承の流れが示され、乾隆帝が仏界における至尊の地位にあることを表している。その下方の台座には金泥のチベット文字で、乾隆帝こそが文殊菩薩の化身であり、世界の支配者であるという事が明記されている。
どうです、内容がない上に、なにげに共産党のプロパガンダ臭が漂っていますね(笑)。ちなみに、私だったらこう書きます。
この画像はチベット仏教の仏画の一形式「ラマ供養像」様式で描かれている。乾隆帝をラマ供養の形式で描く図像は現在三種類知られており、そのいずれにおいても乾隆帝は文殊菩薩の化身した転輪聖王の姿で描かれている。大乗仏教には、菩薩は人々を救うために理想的な宇宙帝王・転輪聖王家に生まれ、転輪聖王となって人々を平和に導くという思想がある。この思想に基づいて乾隆帝は文殊菩薩の化身した転輪聖王として描かれている。乾隆帝の左の掌にのる法輪は転輪聖王のシンボルであり、転法輪印を結ぶ右手には文殊菩薩のシンボルである剣と経帙ののった蓮の花の茎が握られている。ちなみに、チベットの支配者であるダライラマは観音菩薩の化身した転輪聖王として描かれる。
乾隆帝の頭上に展開する仏のうち、直上にいるのは乾隆帝の師僧であったチャンキャ三世である。その上に展開する仏たちは、師僧チャンキャを通じて乾隆帝に伝えられた仏法の主尊たちを描いている。
乾隆帝の座る台座にはチベット文字で
'jam dpal rnon po mi yi rje bor
〔乾隆帝は〕文殊菩薩が人の王として
rol pa'i bdag chen chos kyi rgyal
遊戯された偉大なる仏教王(法王)である。
rdo rje'i khri la zhabs brtan cing
金剛の王座におみ足をしっかりと据え(治世が安泰という意味)
bzhed don lhun grub skal ba bzang
望むこともすべて自然とかなっている。良い仏教者である。
と乾隆帝を仏教王として言祝ぐ文字が刻まれている。
というわけです。乾隆帝は「仏」でなくて「菩薩」の装いをしていること、王座の銘文も「世界の支配者」なんて乱暴なまとめ方はできないことがこれで分かるはず。他の章についての解説は専門でないので詳しいツッコミはしないが、多かれ少なかれ似たようなものだろう。
チベット仏教世界の中の乾隆帝像についてきちんとした知識を持ちたい方は、特別展の売店で拙著『清朝とチベット仏教』をお求めください。特別展の売店の奥まった列のところに置いてあります(このブログの欄外一番上をクリックしたら明日にもみなさんのお手元に 笑)。大学や地域の図書館にリクエストをいれてくれたりしたら、私と仏縁が結べるという特典もあります(笑)。
K嬢「先生、昨日上野の東博の故宮展に行ったのですが、乾隆帝菩薩画像来てましたよ」というので、急遽、午後は上野「北京故宮博物院200選」にいくことにする。
前エントリーでも連呼したが、乾隆帝菩薩画像は私の研究対象で三種類あり、今回来日する画像のタイプは一作例しかなく、去年北京まで行ったのにデジタル画像しかみせてもらえなかった因縁の画像である。
拙著『清朝とチベット仏教』にはデジタルで読み取れる範囲のものをのせたので、五体の仏の名前が謎のまま残っている。現物が見られるとあっては当然出撃せねばなるまい。
展示の行われる平成館にいく道には立て看が二つ据えられており、それは「乾隆帝大閲図」と「乾隆帝菩薩画像」であった。
カンバンの絵は実物より拡大されているので、このカンバンをみると乾隆帝菩薩画像中の小さな仏の銘文も読み取れる。しかし、この元になったデータは去年私が北京故宮でみたものと同じデータに基づいているらしく、結局同じ箇所が読み取れない。

トーハクへいく途中の道の立て看板にとりついて、「この後ろの文字はspyanかな~」とか、「この棒もった仏は~」とか騒いでいる人がいたら、それは○チガイではありません。ただの学者です。
やっと会場に入る。エスカレーターを夾んで左右に分かれる展示室は、左が第一部で右が第二部となっている。第一部は「故宮博物院の至宝 皇帝たちの名品」、第二部は「清朝宮廷文化の精粋 多文化の中の共生」である。
前者は、元東京国立博物館副館長の西岡康宏氏解説によると「故宮博物院が収蔵する多数の作品の中から、選りすぐった名品90件により、世界に冠たる中国美術の粋をごらん頂こうとするもの」(図録より)らしい。しかし、第一部の展示室にはテーマ別のコーナーはなく、ただ有名な品を並べただけという感じ。解説も様式とか材質とかの「もの」の情報ばかりで中央アジアの歴史を研究する私には、つまらん以外に言う言葉はなし。
先ほどの元副館長さんのうたい文句にしても、中国美術という特定のジャンルに属するものを「世界に冠たる」=「世界最高峰」と銘打つことはあまりにも非論理的である。というわけで、
第一部は清明上河図も含めて華麗にスルー。
清朝の多文化共生をテーマとした第二部は第一部に比べ、テーマ性もあり、コーナーごとに総説も掲げられ、啓蒙的な展示になっている。
清明上河図の来日が決まったのは去年の暮れも押し詰まってのことだったので、もしアレがこなかったら、おそらくはこの第二部が中心になったのだろう。表のカンバンも2枚とも乾隆帝の肖像画だったし。私としてはその方がよかったんだけど。
学者は一つ一つの品がどのような歴史的・文化的文脈で作られ、どのように受け継がれてきたかを研究する。だから、自分が研究対象にしている時代のものは、会場でみると、そこだけ輝いて浮き上がって見える。ちなみに、大新聞のあおりでもっとも話題となっている清明上河図は、興味ないので、暗闇に沈んで見えた(実際照明も絞ってるし 笑)。
さて、第二部は第一部と違ってコーナーがあるので、コーナーの名前とそこで展示されている内容をまとめるとこうなる。
第一章 「清朝の礼制文化」 → 儒教における「天子」としての皇帝
第二章 「清朝の文化事業」 → 中国文化の保護者としての皇帝
第三章 「清朝の宗教」 → チベット仏教の「文殊菩薩皇帝」。
第四章 「清朝の国際交流」 → 西洋の技術によって作られた文物。各国の使節団を描いた図など
まず言わせてもらえば、「多文化共生」をテーマにするという割には、、中国文化に偏っている。第三章にやっとチベット文化が扱われたのが唯一の良心。
私が責任をもって内容を論じられるのは第三章であるが、この展示品の解説はレベルが低かった。展示品の図録の署名から執筆者がわかるが、この第三章に限らず展示品の解説はすべて中国人名であった。つまり向こうがつくった原稿を和訳したものなのである。
しかし、コーナーごとに置かれている総説は、東博の学芸員が担当しているようで、やや見られる。第三章の総説は短すぎるけどまあ良い。しかし、第四章の解説は清朝史をまだ消化しきれていないという感じでまとまっておらずビミョウ。
私からみた第二部最大の見所は、清朝最盛期の皇帝・乾隆帝の5枚の肖像画。内訳は、
「乾隆帝像」(91番)満洲人の礼装姿の乾隆帝(即位の年の25歳)
「乾隆帝是一是二図軸」(126番)漢人文人姿で古物を鑑賞する乾隆帝
「乾隆帝古装像屏」(142番)漢人文人姿で筆をとる乾隆帝
「乾隆帝菩薩画像」(174番)チベット僧の装束の乾隆帝
「乾隆帝大閲像軸」(192番)甲冑騎馬姿の乾隆帝。
とくに、192番の騎馬姿の乾隆帝の絵は大きく美しい。その構図から「ヨーロッパの君主風」と解説されているが、装いの内容から言えば、「八旗の長としての乾隆帝」の姿を描いたものである。
で、問題の174番の乾隆帝菩薩画像であるが、やはりアナログではデジタルで見えなかったものが見えた。たとえば、この絵は真ん中に畳んだ時のシワがあって、そのシワに入った文字はデジタル画像では読めないのだが、現物はシワの下からのぞきこめばいいので、そこが読めた。
しかし、乾隆帝の図像の小さな仏の銘文は、そこに金文字があるのは分かっても、やはりすごく近くに顔を近づけなければ読めそうにない。がっかり~。
なので腹いせに、この図像の解説がいかにダメかについて論じることとする。
トーハクの図録より
〔前略〕この画像は仏の装いをし、法器を手にした乾隆帝を、文殊菩薩に見立てて描いたものである。きらめく両目には叡智が満ちあふれ、ゆつたりと落ち着いた姿には世俗を超越した趣がある。その上方には色とりどりの乾隆帝へと至る仏教伝承の流れが示され、乾隆帝が仏界における至尊の地位にあることを表している。その下方の台座には金泥のチベット文字で、乾隆帝こそが文殊菩薩の化身であり、世界の支配者であるという事が明記されている。
どうです、内容がない上に、なにげに共産党のプロパガンダ臭が漂っていますね(笑)。ちなみに、私だったらこう書きます。
この画像はチベット仏教の仏画の一形式「ラマ供養像」様式で描かれている。乾隆帝をラマ供養の形式で描く図像は現在三種類知られており、そのいずれにおいても乾隆帝は文殊菩薩の化身した転輪聖王の姿で描かれている。大乗仏教には、菩薩は人々を救うために理想的な宇宙帝王・転輪聖王家に生まれ、転輪聖王となって人々を平和に導くという思想がある。この思想に基づいて乾隆帝は文殊菩薩の化身した転輪聖王として描かれている。乾隆帝の左の掌にのる法輪は転輪聖王のシンボルであり、転法輪印を結ぶ右手には文殊菩薩のシンボルである剣と経帙ののった蓮の花の茎が握られている。ちなみに、チベットの支配者であるダライラマは観音菩薩の化身した転輪聖王として描かれる。
乾隆帝の頭上に展開する仏のうち、直上にいるのは乾隆帝の師僧であったチャンキャ三世である。その上に展開する仏たちは、師僧チャンキャを通じて乾隆帝に伝えられた仏法の主尊たちを描いている。
乾隆帝の座る台座にはチベット文字で
'jam dpal rnon po mi yi rje bor
〔乾隆帝は〕文殊菩薩が人の王として
rol pa'i bdag chen chos kyi rgyal
遊戯された偉大なる仏教王(法王)である。
rdo rje'i khri la zhabs brtan cing
金剛の王座におみ足をしっかりと据え(治世が安泰という意味)
bzhed don lhun grub skal ba bzang
望むこともすべて自然とかなっている。良い仏教者である。
と乾隆帝を仏教王として言祝ぐ文字が刻まれている。
というわけです。乾隆帝は「仏」でなくて「菩薩」の装いをしていること、王座の銘文も「世界の支配者」なんて乱暴なまとめ方はできないことがこれで分かるはず。他の章についての解説は専門でないので詳しいツッコミはしないが、多かれ少なかれ似たようなものだろう。
チベット仏教世界の中の乾隆帝像についてきちんとした知識を持ちたい方は、特別展の売店で拙著『清朝とチベット仏教』をお求めください。特別展の売店の奥まった列のところに置いてあります(このブログの欄外一番上をクリックしたら明日にもみなさんのお手元に 笑)。大学や地域の図書館にリクエストをいれてくれたりしたら、私と仏縁が結べるという特典もあります(笑)。
新春東博のみどころ(笑)
明けましておめでとうございます。
お正月なので文化の香りのするお話をいたしましょう(何か怪しい前ふり 笑)。
正月二日より東京国立博物館で北京故宮200選が開催されます。
世の人は、国立の博物館で何らかの企画展が行われる場合、そのジャンルの専門家はアドバイザーとして招かれ、企画・立案・カタログの作成すべてにかかわっていると思っているかもしれないが、それは大きな誤解。
たとえば中国から文物を借りる場合には、中国人ブローカーが核となって、新聞社なり航空会社なりの協賛企業をつないで、当該博物館の人たちと話合ってその内容を決める。専門家といえるのは当該博物館のキュレーターだけ。企画の内容によってはそのジャンルの直接の専門家ゼロで行われる場合だってある。
推測するに、今年は日中国交樹立40周年?であるため、何かしようという人たちが今回の故宮展を企画し、中国とぶっといパイプのある朝日新聞とNHKが主催者となったのであろう。
なので、当然のことながら、学者であるわたしはこの展覧会については、何がくるのやら、誰がやるのやら、いや存在自体まったく知らなかった(毎日新聞だし 笑)。そういう状態で展覧会の初日まで一月をきった十二月の初め頃、とある人から、今回の展覧会には、拙著で扱った乾隆帝仏装像(乾隆帝がチベット仏教のラマとして描かれた図)がくると聞いた。

乾隆帝がチベット僧の姿をしたチベット絵画は三種類ある。今回来日が予定されているのは、私が去年の夏、北京に見に行ったあの絵で、私の本でタイプAといっているものである。私はデジタル画像しか見ていないので、すべてのイコンの金文字を読み取れていない。しかし、日本に現物がくるなら、いろいろな角度からみることができる(金文字は角度によって見えたり見えなかったりする)。
さらに、私の頭の中には、仏装像を見た見学者が「なんで乾隆帝がダライラマみたいな格好しているの?」と疑問をもち、売店にそのナゾを説く私の本があったら手に取るのではないか。との直列思考がつながった。
というわけで、「拙著『清朝とチベット仏教』はまさにこの絵を扱っています。東博の売店に置いてください」と関係者に頼み、関係各位の協力もあり、拙著は売店に20冊ほど置かれることとなった。
しかし、喜んだのもつかの間、12月23日に新聞のったこの展覧会の告知記事には、騎馬姿の乾隆帝像、文人姿の乾隆帝像などがあるのみで、肝腎のチベット僧姿の乾隆帝像がない。さらに、展覧会の内容は、清明上河圖(宋代の庶民文化を描いた絵画)が緊急来日することに置かれていた。私が聞いた話と明らかに違う。
そこで、関係者にきくと、バツの悪そうな感じで、「それがですね、いろいろあって契約がこの時期までずれ込んだため、乾隆帝仏装像が期間中に到着するかどうか分からないんですよ。だから、仏装像の紹介もはずして、「清明上河圖」のかり出しが記事のメインになったんです。」
ぬわにぃぃぃ(怒)。
念のために言っておくが、乾隆帝仏装像は、学界の注目を集めている。欧米で開催される故宮の展覧会では必ず展示されるし (Splendors of China's Forbidden City)、おおくの研究書においても表紙になったり(羅文華『龍袍与袈裟』etc.)、挿絵になったり (『境界を超えて』etc.)、研究対象になったり(Patricia Berger, Empire of Emptiness etc.)、清朝皇帝の王権像を語る時には必ず引用される画像である。
故宮(かつての宮殿という意味)がまだ紫禁城という名前で清朝皇帝が君臨していた頃、、皇帝はチベット仏教に帰依していたため、紫禁城内には数々の仏殿が作られていた。とくに最盛期の皇帝・乾隆帝は自らを仏教王として演出していたため、非常によくチベット仏教を理解し実践していた。それを文字通り視覚化したこの絵画は重要なのである。
それが来なくて、故宮と全然関係ない宋代の清明上河圖の扱いが上になるとわ。
これは、トプカビ宮殿展やるのに、オスマントルコ皇帝像がキャンセルされ、突厥碑文がくるようなもの。
エルミタージュ展やるのに、ロシア皇帝の肖像画がキャンセルされて、キプチャク汗国の細密画がくるようなもの。
ウインザー展やるのにアーサー王の円卓が目玉になるようなもの(て、現存するのかこのテーブル 笑)。
大徳川展やるのに、大御所様の絵がキャンセルされて、平安時代の源氏物語絵巻がくるようなもの。
カフェオレにミルクが入っていないようなもんなのである。
何いってるのか自分でもわからなくなってきた(笑)。
仏装像が結局来ないなんてことになったら、学術的に言っても、一貫性の問題からいっても本当に格好悪いと思う。
従って、関係各位は、仏装像の期日内の来日のために力を尽くしていただきたいと思います。
お正月なので美術の話をしてみました(笑)。
今年もよろしくお願いいたします。
といってたら、来場した若手研究者の話では、乾隆帝仏装像、来ていたそうです。
清明上河図は、一月7日時点で3時間まちだそうです。第一部の清明上河図はスルーして、第二部の清朝の宮廷コーナーからみはじめましょう。
お正月なので文化の香りのするお話をいたしましょう(何か怪しい前ふり 笑)。
正月二日より東京国立博物館で北京故宮200選が開催されます。
世の人は、国立の博物館で何らかの企画展が行われる場合、そのジャンルの専門家はアドバイザーとして招かれ、企画・立案・カタログの作成すべてにかかわっていると思っているかもしれないが、それは大きな誤解。
たとえば中国から文物を借りる場合には、中国人ブローカーが核となって、新聞社なり航空会社なりの協賛企業をつないで、当該博物館の人たちと話合ってその内容を決める。専門家といえるのは当該博物館のキュレーターだけ。企画の内容によってはそのジャンルの直接の専門家ゼロで行われる場合だってある。
推測するに、今年は日中国交樹立40周年?であるため、何かしようという人たちが今回の故宮展を企画し、中国とぶっといパイプのある朝日新聞とNHKが主催者となったのであろう。
なので、当然のことながら、学者であるわたしはこの展覧会については、何がくるのやら、誰がやるのやら、いや存在自体まったく知らなかった(毎日新聞だし 笑)。そういう状態で展覧会の初日まで一月をきった十二月の初め頃、とある人から、今回の展覧会には、拙著で扱った乾隆帝仏装像(乾隆帝がチベット仏教のラマとして描かれた図)がくると聞いた。

乾隆帝がチベット僧の姿をしたチベット絵画は三種類ある。今回来日が予定されているのは、私が去年の夏、北京に見に行ったあの絵で、私の本でタイプAといっているものである。私はデジタル画像しか見ていないので、すべてのイコンの金文字を読み取れていない。しかし、日本に現物がくるなら、いろいろな角度からみることができる(金文字は角度によって見えたり見えなかったりする)。
さらに、私の頭の中には、仏装像を見た見学者が「なんで乾隆帝がダライラマみたいな格好しているの?」と疑問をもち、売店にそのナゾを説く私の本があったら手に取るのではないか。との直列思考がつながった。
というわけで、「拙著『清朝とチベット仏教』はまさにこの絵を扱っています。東博の売店に置いてください」と関係者に頼み、関係各位の協力もあり、拙著は売店に20冊ほど置かれることとなった。
しかし、喜んだのもつかの間、12月23日に新聞のったこの展覧会の告知記事には、騎馬姿の乾隆帝像、文人姿の乾隆帝像などがあるのみで、肝腎のチベット僧姿の乾隆帝像がない。さらに、展覧会の内容は、清明上河圖(宋代の庶民文化を描いた絵画)が緊急来日することに置かれていた。私が聞いた話と明らかに違う。
そこで、関係者にきくと、バツの悪そうな感じで、「それがですね、いろいろあって契約がこの時期までずれ込んだため、乾隆帝仏装像が期間中に到着するかどうか分からないんですよ。だから、仏装像の紹介もはずして、「清明上河圖」のかり出しが記事のメインになったんです。」
ぬわにぃぃぃ(怒)。
念のために言っておくが、乾隆帝仏装像は、学界の注目を集めている。欧米で開催される故宮の展覧会では必ず展示されるし (Splendors of China's Forbidden City)、おおくの研究書においても表紙になったり(羅文華『龍袍与袈裟』etc.)、挿絵になったり (『境界を超えて』etc.)、研究対象になったり(Patricia Berger, Empire of Emptiness etc.)、清朝皇帝の王権像を語る時には必ず引用される画像である。
故宮(かつての宮殿という意味)がまだ紫禁城という名前で清朝皇帝が君臨していた頃、、皇帝はチベット仏教に帰依していたため、紫禁城内には数々の仏殿が作られていた。とくに最盛期の皇帝・乾隆帝は自らを仏教王として演出していたため、非常によくチベット仏教を理解し実践していた。それを文字通り視覚化したこの絵画は重要なのである。
それが来なくて、故宮と全然関係ない宋代の清明上河圖の扱いが上になるとわ。
これは、トプカビ宮殿展やるのに、オスマントルコ皇帝像がキャンセルされ、突厥碑文がくるようなもの。
エルミタージュ展やるのに、ロシア皇帝の肖像画がキャンセルされて、キプチャク汗国の細密画がくるようなもの。
ウインザー展やるのにアーサー王の円卓が目玉になるようなもの(て、現存するのかこのテーブル 笑)。
大徳川展やるのに、大御所様の絵がキャンセルされて、平安時代の源氏物語絵巻がくるようなもの。
カフェオレにミルクが入っていないようなもんなのである。
何いってるのか自分でもわからなくなってきた(笑)。
仏装像が結局来ないなんてことになったら、学術的に言っても、一貫性の問題からいっても本当に格好悪いと思う。
従って、関係各位は、仏装像の期日内の来日のために力を尽くしていただきたいと思います。
お正月なので美術の話をしてみました(笑)。
今年もよろしくお願いいたします。
といってたら、来場した若手研究者の話では、乾隆帝仏装像、来ていたそうです。
清明上河図は、一月7日時点で3時間まちだそうです。第一部の清明上河図はスルーして、第二部の清朝の宮廷コーナーからみはじめましょう。
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