『ダライ・ラマこころの自伝』
本エントリーは『ダライ・ラマこころの自伝』という最新刊の書評です。
原文はフランス語で、ソフィア・ストリル=ルヴェというフランス人の女性が、ダライラマ法王に対して行ったインタビューに基づいている。インタビューというのはインタビュアーが対象者をどれだけ理解しているかに応じて、対象から引き出されてくる話の善し悪し、深浅もきまってくるが、このソフィアさんはその点については申し分ない。
パリ大学でサンスクリット学を学び、ダラムサラに滞在して15年にわたりダライラマ法王の『カーラチャクラ・タントラ』の講義をきき、西欧の言葉に翻訳した方であるため、チベット文化にも、法王の思想についても精通している。
で、フランス語から日本語訳してくださった訳者もこれまたスゴイ。大体仏教を知らなかったり、ダライラマという方をご存じなかったりすると、とんちんかんな訳が炸裂するものだが、今回の訳者のルトランジェ治美さんは、本当にチベットをよく理解し、愛している方である。
ご主人は有名なフランス人の画家で、ご本人も美人で品があってマッダームなカンジで、チベット語の口語もできて、何より謙虚で敬虔。
その昔、私がチベット本土で、スタディ・ツァーを行った時のことである。このツァーは私がその時ツォンカパの伝記を翻訳していたこともあり(はい、アマゾンのページはここクリック)、ツォンカパゆかりの聖地をまわるツァーであった。
その旅のお笑い内容は「犬も合掌ツォンカパ聖跡ツァー」という旅行記に明らかである(はい旅行記はここクリック)。
わたしたちが巡る地はチベット資料をたどっていくものなので、ガイドブックにのっているような一般的な聖地でなく、現地のガイドの方に調べて戴いてやっとたどり着くような場所で、そこについてみると、もちろん中国による破壊の後はすさまじいのだが、それでも破壊しきれなかった、石に浮き出た像とか文字とかさまざまな聖遺物があり、そこを何とか護り続けているお坊さんの姿がけなげであった。
で、この旅行記の後半に、セラ大僧院の裏山セラチューディン(ツォンカパが説法していた時にはまだセラはなく、その裏山で法を説いていた。)を求めて山の登りをして挫折する件があるが、この時私についてきてくれた三人のうちの一人が治美さんであった。で、この旅行記にもあるように目の前にあるのだが、そこに至る道が分からないので、どうにもならず、頭上にハゲタカもまうので私たち四人は負け犬となってしおしおと帰った。
しかし、治美さんは諦めなかった。彼女は我々のツアーが帰ったそのあとも、ツォンカパが名著『菩提道次第論』を記したラデン大僧院にお参りし、ラサにもどると、もう一度セラチューディンにトライしてちゃんと行き着いたのである。そして、その写真を私の先ほどの訳書の口絵に提供して下さったのである。
菩薩様のような信仰心と行動力である。その菩薩様がフランス語から和訳を行っているのだから、内容は確かである。
ダライラマ法王が自身の立ち位置を(1) 一人の人間として (2) 一僧侶として (3) 一チベット難民としてという、普遍から特殊にいたる三つに分けていることはよく知られている。第一の立場で語る時は人種、宗教、体制、国を超えて用いられる普遍的な言葉を用いて「人のあるべき姿」「とるべき行動」について述べる。
第二の立場からは、一人の宗教者として、宗教の違いによる紛争を和解させることを行っている。無宗教は神も仏も信じないという無宗教という宗教なので、まちろん社会主義と資本主義みたいなイデオロギー対立も無意味と説くのがこの立場からである。
第三の立場とは、チベット難民のスポークスマンとして、チベットが中国によって国を奪われ、その文化を維持できない状態になっていることを訴えるものである。この三つの立場は矛盾しておらず、チベット文化は非常に普遍的な性格を持つため、世界文化に貢献できるので、この文化を維持することは人類にとっても非常に良いことである、という視点からチベット問題の平和的解決は訴えられる。
で、本書はこの三つの立場にそって部が分かれているので、一般的な意味で自伝と考える部分は従って、第三部に主に記されている。ただし、他二部においても若い頃のエピソードとかが入るのであまり固く考えずに、これ一冊でダライラマの人生も考え方も分かる、くらいの気持ちでいるといいと思う。
日本では平和思想というと、「なすべき事もなさざるべき事も、良いことも悪いことも、すべて曖昧にして、争いを行わない」という実にどうしようもないスタンスをとる人が多いが、
ダライラマ法王の平和思想は、この両者をきちんと分けた上で、その上で悪をなすものに対して、怒りをもって糾弾するのではなく、その醜い行いに対して、哀れみをもって「大人になれ、それがあなたに本当の幸せをもたらす」と呼びかける。
これまでの人類の歴史は戦いの連続であった。戦争には勝つ者と負ける者がおり、チベットはまさにその敗者となったわけであるが、著者ソフィアも言うように、ダライラマ法王はこのような古くさい争いの次元にはたっていない。ダライラマが過去五十年間とってきた徳の高い行いは「戦争に対する勝利」であり、こう考えると、亡命してから「過ぎ去ったこの五十年は空しい時間でも、失われた年月でもなく」なるのである。
そして、もしチベット問題が平和的に解決すれば、これは人類がはじめて軍事力や経済力ではなく、その徳の力で歴史を動かした瞬間となる。つまり、ダライラマの思想や生き方は人類の存続の希望なのである。
そのことを示すべく、本書は、「絶望は何も生み出さない、希望の根源たれ」という旨のダライラマの詩で結ばれている。
ダライラマ法王は亡命直後にMy land My people(邦題『チベット、わが祖国』中公文庫)という自伝を、ノーベル賞平和賞受賞後の1990年にはFreedom in Exile (邦題『ダライ・ラマ自伝』文春文庫)が書かれている。本書は2010年のものなので、それぞれの時期の自伝をくらべ読むと、後になるほど、法王が昔をゆったりと思い出すようになっていくことがわかって面白い。
原文はフランス語で、ソフィア・ストリル=ルヴェというフランス人の女性が、ダライラマ法王に対して行ったインタビューに基づいている。インタビューというのはインタビュアーが対象者をどれだけ理解しているかに応じて、対象から引き出されてくる話の善し悪し、深浅もきまってくるが、このソフィアさんはその点については申し分ない。
パリ大学でサンスクリット学を学び、ダラムサラに滞在して15年にわたりダライラマ法王の『カーラチャクラ・タントラ』の講義をきき、西欧の言葉に翻訳した方であるため、チベット文化にも、法王の思想についても精通している。
で、フランス語から日本語訳してくださった訳者もこれまたスゴイ。大体仏教を知らなかったり、ダライラマという方をご存じなかったりすると、とんちんかんな訳が炸裂するものだが、今回の訳者のルトランジェ治美さんは、本当にチベットをよく理解し、愛している方である。
ご主人は有名なフランス人の画家で、ご本人も美人で品があってマッダームなカンジで、チベット語の口語もできて、何より謙虚で敬虔。
その昔、私がチベット本土で、スタディ・ツァーを行った時のことである。このツァーは私がその時ツォンカパの伝記を翻訳していたこともあり(はい、アマゾンのページはここクリック)、ツォンカパゆかりの聖地をまわるツァーであった。
その旅のお笑い内容は「犬も合掌ツォンカパ聖跡ツァー」という旅行記に明らかである(はい旅行記はここクリック)。
わたしたちが巡る地はチベット資料をたどっていくものなので、ガイドブックにのっているような一般的な聖地でなく、現地のガイドの方に調べて戴いてやっとたどり着くような場所で、そこについてみると、もちろん中国による破壊の後はすさまじいのだが、それでも破壊しきれなかった、石に浮き出た像とか文字とかさまざまな聖遺物があり、そこを何とか護り続けているお坊さんの姿がけなげであった。
で、この旅行記の後半に、セラ大僧院の裏山セラチューディン(ツォンカパが説法していた時にはまだセラはなく、その裏山で法を説いていた。)を求めて山の登りをして挫折する件があるが、この時私についてきてくれた三人のうちの一人が治美さんであった。で、この旅行記にもあるように目の前にあるのだが、そこに至る道が分からないので、どうにもならず、頭上にハゲタカもまうので私たち四人は負け犬となってしおしおと帰った。
しかし、治美さんは諦めなかった。彼女は我々のツアーが帰ったそのあとも、ツォンカパが名著『菩提道次第論』を記したラデン大僧院にお参りし、ラサにもどると、もう一度セラチューディンにトライしてちゃんと行き着いたのである。そして、その写真を私の先ほどの訳書の口絵に提供して下さったのである。
菩薩様のような信仰心と行動力である。その菩薩様がフランス語から和訳を行っているのだから、内容は確かである。
ダライラマ法王が自身の立ち位置を(1) 一人の人間として (2) 一僧侶として (3) 一チベット難民としてという、普遍から特殊にいたる三つに分けていることはよく知られている。第一の立場で語る時は人種、宗教、体制、国を超えて用いられる普遍的な言葉を用いて「人のあるべき姿」「とるべき行動」について述べる。
第二の立場からは、一人の宗教者として、宗教の違いによる紛争を和解させることを行っている。無宗教は神も仏も信じないという無宗教という宗教なので、まちろん社会主義と資本主義みたいなイデオロギー対立も無意味と説くのがこの立場からである。
第三の立場とは、チベット難民のスポークスマンとして、チベットが中国によって国を奪われ、その文化を維持できない状態になっていることを訴えるものである。この三つの立場は矛盾しておらず、チベット文化は非常に普遍的な性格を持つため、世界文化に貢献できるので、この文化を維持することは人類にとっても非常に良いことである、という視点からチベット問題の平和的解決は訴えられる。
で、本書はこの三つの立場にそって部が分かれているので、一般的な意味で自伝と考える部分は従って、第三部に主に記されている。ただし、他二部においても若い頃のエピソードとかが入るのであまり固く考えずに、これ一冊でダライラマの人生も考え方も分かる、くらいの気持ちでいるといいと思う。
日本では平和思想というと、「なすべき事もなさざるべき事も、良いことも悪いことも、すべて曖昧にして、争いを行わない」という実にどうしようもないスタンスをとる人が多いが、
ダライラマ法王の平和思想は、この両者をきちんと分けた上で、その上で悪をなすものに対して、怒りをもって糾弾するのではなく、その醜い行いに対して、哀れみをもって「大人になれ、それがあなたに本当の幸せをもたらす」と呼びかける。
これまでの人類の歴史は戦いの連続であった。戦争には勝つ者と負ける者がおり、チベットはまさにその敗者となったわけであるが、著者ソフィアも言うように、ダライラマ法王はこのような古くさい争いの次元にはたっていない。ダライラマが過去五十年間とってきた徳の高い行いは「戦争に対する勝利」であり、こう考えると、亡命してから「過ぎ去ったこの五十年は空しい時間でも、失われた年月でもなく」なるのである。
そして、もしチベット問題が平和的に解決すれば、これは人類がはじめて軍事力や経済力ではなく、その徳の力で歴史を動かした瞬間となる。つまり、ダライラマの思想や生き方は人類の存続の希望なのである。
そのことを示すべく、本書は、「絶望は何も生み出さない、希望の根源たれ」という旨のダライラマの詩で結ばれている。
ダライラマ法王は亡命直後にMy land My people(邦題『チベット、わが祖国』中公文庫)という自伝を、ノーベル賞平和賞受賞後の1990年にはFreedom in Exile (邦題『ダライ・ラマ自伝』文春文庫)が書かれている。本書は2010年のものなので、それぞれの時期の自伝をくらべ読むと、後になるほど、法王が昔をゆったりと思い出すようになっていくことがわかって面白い。
蜘蛛の糸(40万匹の殺処分を救おう!)
実はもうすぐ五年に一度の動物愛護管理法の改正が行われます。
この法律の改正にあたって環境省は一般の人の意見を広く聞いています。
↓
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=14069
現在、実は日本では年間40万匹の犬猫が殺処分されています。もちろん先進国ではサイアクであり、日本の民度の低さを世界にさらす結果となっています。
なぜこんなにも多くの殺処分がでるかというと、その背景の一つにはペットを世話する能力のない人が簡単にペットを手に入れ、捨てるということがあります。
ご存じの通り、最近はペットをインターネットや深夜遅くまで営業しているペット屋さんで買うことができます。だから中にはよつぱらった勢いで、無責任にその場の衝動で犬や猫を買う人もいて、そういう人は、世話ができなくなると捨てる・虐待するといった結果になってしまいます。。
人間の子供が養子にとられる際には、親として引き取る人にはさまざまな調査が行われますが、ペットの場合は飼い主としてペットを世話することのできる度量・経済力・時間的な余裕があるかなどの審査は一切行われません。
そのため、無責任な人に世話されている多くのペットが捨てられ、あるいは不幸な死に方をしています。
で、このような悲惨な現状を少しでも軽減すべく、今度の法改正に際して意見をいってみませんか。たとえば、インターネットや、深夜の店頭での生きた犬・猫の販売を規制すること、母犬、母猫から子犬子猫を引き離す時期を規制することなどについて、もし、賛成という方がいらっしゃるなら、冒頭の環境書のホームページに意見を述べて戴けると嬉しいです。
実は今週の土曜日がコメント期限です。
忙しくて文作している暇がないという方は、以下のフォームを用いれば、必要な事項をうめて、自分が賛同できるというコメントにチェックをいれるだけで、数分でコメント完了できます(内閣府承認団体である公益財団法人どうぶつ基金が作成)。
コメント送信用フォーム
https://business.form-mailer.jp/fms/070fc0ed8311
一箇所でも指定の欄が埋まっていないと送信できませんので、送信状態にならない場合は、記入もれがないかの確認をしてください。みなさんのコメントが、多くの犬猫の命を救います。命を大切にする社会は人間にとっても優しい社会です。ちなみに、私が家には大体つねに猫が一匹おりますが、お店から買ったことはありません。歴代、由緒正しいノラちゃんあがりです。
みなさんのモチベーションを高めるために、芥川龍之介の名作、蜘蛛の糸をお聞き下さい。有名なお話ですが、カンダタは極悪人であったにも関わらず、たった一匹の蜘蛛を助けただけで、セカンドチャンスがもらえたのです。みなさまがこのアクションに参加して一匹でも犬猫の殺処分をへらすこととなれば、みなさんが地獄に堕ちた暁には、天国からナイロンザイルがおりてくるでしょう。
来世に福を積むためにも、環境省にコメント送りましょう。
明日が期限です。環境省へのパブリックコメントの受付は今週土曜日(27日)までです。
この法律の改正にあたって環境省は一般の人の意見を広く聞いています。
↓
http://www.env.go.jp/press/press.php?serial=14069
現在、実は日本では年間40万匹の犬猫が殺処分されています。もちろん先進国ではサイアクであり、日本の民度の低さを世界にさらす結果となっています。
なぜこんなにも多くの殺処分がでるかというと、その背景の一つにはペットを世話する能力のない人が簡単にペットを手に入れ、捨てるということがあります。
ご存じの通り、最近はペットをインターネットや深夜遅くまで営業しているペット屋さんで買うことができます。だから中にはよつぱらった勢いで、無責任にその場の衝動で犬や猫を買う人もいて、そういう人は、世話ができなくなると捨てる・虐待するといった結果になってしまいます。。
人間の子供が養子にとられる際には、親として引き取る人にはさまざまな調査が行われますが、ペットの場合は飼い主としてペットを世話することのできる度量・経済力・時間的な余裕があるかなどの審査は一切行われません。
そのため、無責任な人に世話されている多くのペットが捨てられ、あるいは不幸な死に方をしています。
で、このような悲惨な現状を少しでも軽減すべく、今度の法改正に際して意見をいってみませんか。たとえば、インターネットや、深夜の店頭での生きた犬・猫の販売を規制すること、母犬、母猫から子犬子猫を引き離す時期を規制することなどについて、もし、賛成という方がいらっしゃるなら、冒頭の環境書のホームページに意見を述べて戴けると嬉しいです。
実は今週の土曜日がコメント期限です。
忙しくて文作している暇がないという方は、以下のフォームを用いれば、必要な事項をうめて、自分が賛同できるというコメントにチェックをいれるだけで、数分でコメント完了できます(内閣府承認団体である公益財団法人どうぶつ基金が作成)。
コメント送信用フォーム
https://business.form-mailer.jp/fms/070fc0ed8311
一箇所でも指定の欄が埋まっていないと送信できませんので、送信状態にならない場合は、記入もれがないかの確認をしてください。みなさんのコメントが、多くの犬猫の命を救います。命を大切にする社会は人間にとっても優しい社会です。ちなみに、私が家には大体つねに猫が一匹おりますが、お店から買ったことはありません。歴代、由緒正しいノラちゃんあがりです。
みなさんのモチベーションを高めるために、芥川龍之介の名作、蜘蛛の糸をお聞き下さい。有名なお話ですが、カンダタは極悪人であったにも関わらず、たった一匹の蜘蛛を助けただけで、セカンドチャンスがもらえたのです。みなさまがこのアクションに参加して一匹でも犬猫の殺処分をへらすこととなれば、みなさんが地獄に堕ちた暁には、天国からナイロンザイルがおりてくるでしょう。
来世に福を積むためにも、環境省にコメント送りましょう。
明日が期限です。環境省へのパブリックコメントの受付は今週土曜日(27日)までです。
自らを灯明と化す
ブログの更新が滞っていて、すみません。去年のちょうど今頃内容を固めていた専門書がめでたく学内審査に通り、出版の運びとなり、いま再校原稿を見ている最中でこれが大変。
過去の原稿と今回の書き下ろしを一緒に出版するのだが通読してみると、誤記、表記・表現の不統一、考え方の深まりによる訂正箇所などは象のふんのように多量にでてくるし(他に表現はないのか)、さらに、専門書というものは、とにかく山のようにチェックせねばならない点があり、見直しても見直しても気になる点がでてくる。
原典にあたり、満洲語・モンゴル語・サンスクリット語・チベット語の綴りのチェックあり、もういつ果てるともしれない作業がてんこもり。でももうそれも明日再校提出して終わるのだが、もうがまんできないので書く。
今年三月十日のチベット蜂起記念日のあと、ガバの御坊さんプンツォさんが中国政府に対して抗議の焼身自殺をされました。この時もみな憤激したのですが、さらにこの八月十五日、今度は東チベットのタウのお坊さんツェワン・ノルブ師がやはり抗議の焼身自殺をされました(ここにニュースが)。そして、在日チベット人が故ツェワン・ノルブ師に対する追悼法要を新宿常圓寺にて行います。詳しくはここくりっく
北京オリンピックの開幕式に世界中でキャンドル・ヴィジルを呼びかけたあのフランスのお金持ちが主宰するCandle4Tibet(チベットのためキャンドルをともそうという意味)もここ数日精力的に世界中に追悼法要を呼びかけています。
チベサポがみなきれてます。
キリスト教において自殺は御法度。自殺した人はたとえ洗礼をうけた人であっても教会でお葬式をあげてもらえない。なぜなら命は神様に戴いたもので、自分でかってに始末していいようなものでないため(同じ理由から中絶も御法度)である。
ドラキュラ伯爵がバケモノ化したのは、自殺した妻ミナの葬式を教会があげてくれなかったことにきれてのこと。これくらい自殺はキリスト教徒にとって重い罪である。
一方、仏教では、他者のために自己を犠牲にする自殺は究極の布施としてお釈迦様のような聖者の行動として褒め称えられる。お釈迦様の前世譚ジャータカにおいてお釈迦様は動物だった時も、王だった時も、王子だった時も、地獄に落ちた時も、何度も何度も他者のために身を捨てた。
なので、仏教では他者のため、という自殺は理論的にはありということになるしかし、今回のツェワン・ノルブ師の自殺は、本当に悲しい話しである。
知らない人のために言うと、チベットは1951年から中国の実効支配がはじまり、以後、チベット仏教の神髄であった仏教については、初期は完全なる破壊をうけ、そのあと、僧院の形だけの復興は許されたものの、それは観光産業のためであり、実際に自由な仏教の研究・修行がままならない状態にある。
一党独裁の中国においては、一般の中国人にだって自分たちの意見を通すために、指導者も政策も選ぶ権利はない。それどころか、政府を批判する言論の自由すらない。デモの自由もない。ましてもっとも弱い立場にいる植民地チベットの御坊さんたちが、彼らの希望を上にあげる手段なんてなんもない。
で、このような八方ふさがりの状況の中で今回のような焼身自殺が生まれるのである。
50才より上の方は、僧侶の焼身自殺と言えば、1963年、ベトナムのアメリカ大使館前で、ゴ・ジンジェム政権の仏教弾圧に抗議して、ティック・クアン・ドック師が焼身自殺した件を思い出すのではないか。
彼は弟子をひきつれてしずしずとアメリカ大使館にきて、弟子たちが読経に囲まれながら、結跏趺坐をくんだ姿勢のまま炎上した。それは逐一それは録画されたのでYoutubeで見られるはずである。この映像はアメリカ人に衝撃をもたらし「我々は果たして正しい側にたっているのか」との思いをみなが抱いた。
しかも、これについてゴ・ディンジェムの弟の嫁が「僧侶がバーベキューになったってだけじゃない。大体矛盾しているわよ。彼らがつかったガソリンはアメリカ製じゃない」という空気の読めない発言をしたため、さらに世界中の若者たちが、南ベトナムの政権ってこれないんじゃない?という空気が漂った。
1990年にデビューした、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの1stアルバムのジャケが、この炎上するティック・クアン・ドック師の写真であることはよく知られている。そうあのマトリックスのエンディングWake UP!の入っているアルバムである。
今回自殺したチベットの僧侶はは火につつまれながら絶命するまで、
「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王に長寿を!法王の帰還を!」と叫び続けたという。
本土のチベット人にとってこの心の言葉を公の場で口にできるのは死の間際だけなのだ。
この焼身自殺が利他(自分の死によってチベット文化の危機を世界にしってもらいチ中国政府に改心をせまらせ、チベット人を救うというような)を動機としているかどうかは私は生前のこの人を知らないので何ともいえない。
しかし、私は基本的に僧侶は、僧院内でしっかり修行と学問に励んで、仏教の伝統をみにつけ人格者になることを通じて、道徳感の欠如した共産党とたたかってほしいと思っているので、今回の件は本当に悲しい。
表題の「自らを灯明と化す」とは、N氏によるとチベット人がこの焼身自殺にたいしてとる表現だそうである。
灯明とは暗闇の中の一点の明かりであり、古今東西キリスト教であっても、仏教であっても、ニンゲンの意識はそのままだと暗黒状態であり、世界は闇であるが、そこに、他者を思う愛が(仏教だと慈悲)、一点の灯火となって周りをてらすという思想がある。
我々の心の中にある善なるものは本当に小さな光であるが、神や仏の意識は太陽のように絶対的な光輝である。
つまり、チベット人はツェワン・ノルブ師の死を共産党支配下の暗黒のチベットに自らを犠牲にして小さな光をともしたものとして捉えているのだ。こんな言い方をしないと、彼の死が悲しすぎるからであろう。
丹羽大使が今、日本大使としてははじめてチベットに足を踏みいれて直接チベット人と対話しようとしているが、私服警察間がばつちりまわりにいるので、チベット人はもちろん本音なんて言えません。もちろん丹羽さんもそのあたりは分かっていることでしょう。
中国政府が自らの行いを恥じる日が一日でも早くくることを祈ります。
フリチベキャンドルの作り方は簡単ですよ。チベット国旗をダウンロードして紙コップかって、それにはりつけて、百円ショップでかったあろまてらひー用のろうそくいれたらはいできあり。
過去の原稿と今回の書き下ろしを一緒に出版するのだが通読してみると、誤記、表記・表現の不統一、考え方の深まりによる訂正箇所などは象のふんのように多量にでてくるし(他に表現はないのか)、さらに、専門書というものは、とにかく山のようにチェックせねばならない点があり、見直しても見直しても気になる点がでてくる。
原典にあたり、満洲語・モンゴル語・サンスクリット語・チベット語の綴りのチェックあり、もういつ果てるともしれない作業がてんこもり。でももうそれも明日再校提出して終わるのだが、もうがまんできないので書く。
今年三月十日のチベット蜂起記念日のあと、ガバの御坊さんプンツォさんが中国政府に対して抗議の焼身自殺をされました。この時もみな憤激したのですが、さらにこの八月十五日、今度は東チベットのタウのお坊さんツェワン・ノルブ師がやはり抗議の焼身自殺をされました(ここにニュースが)。そして、在日チベット人が故ツェワン・ノルブ師に対する追悼法要を新宿常圓寺にて行います。詳しくはここくりっく
北京オリンピックの開幕式に世界中でキャンドル・ヴィジルを呼びかけたあのフランスのお金持ちが主宰するCandle4Tibet(チベットのためキャンドルをともそうという意味)もここ数日精力的に世界中に追悼法要を呼びかけています。
チベサポがみなきれてます。
キリスト教において自殺は御法度。自殺した人はたとえ洗礼をうけた人であっても教会でお葬式をあげてもらえない。なぜなら命は神様に戴いたもので、自分でかってに始末していいようなものでないため(同じ理由から中絶も御法度)である。
ドラキュラ伯爵がバケモノ化したのは、自殺した妻ミナの葬式を教会があげてくれなかったことにきれてのこと。これくらい自殺はキリスト教徒にとって重い罪である。
一方、仏教では、他者のために自己を犠牲にする自殺は究極の布施としてお釈迦様のような聖者の行動として褒め称えられる。お釈迦様の前世譚ジャータカにおいてお釈迦様は動物だった時も、王だった時も、王子だった時も、地獄に落ちた時も、何度も何度も他者のために身を捨てた。
なので、仏教では他者のため、という自殺は理論的にはありということになるしかし、今回のツェワン・ノルブ師の自殺は、本当に悲しい話しである。
知らない人のために言うと、チベットは1951年から中国の実効支配がはじまり、以後、チベット仏教の神髄であった仏教については、初期は完全なる破壊をうけ、そのあと、僧院の形だけの復興は許されたものの、それは観光産業のためであり、実際に自由な仏教の研究・修行がままならない状態にある。
一党独裁の中国においては、一般の中国人にだって自分たちの意見を通すために、指導者も政策も選ぶ権利はない。それどころか、政府を批判する言論の自由すらない。デモの自由もない。ましてもっとも弱い立場にいる植民地チベットの御坊さんたちが、彼らの希望を上にあげる手段なんてなんもない。
で、このような八方ふさがりの状況の中で今回のような焼身自殺が生まれるのである。
50才より上の方は、僧侶の焼身自殺と言えば、1963年、ベトナムのアメリカ大使館前で、ゴ・ジンジェム政権の仏教弾圧に抗議して、ティック・クアン・ドック師が焼身自殺した件を思い出すのではないか。
彼は弟子をひきつれてしずしずとアメリカ大使館にきて、弟子たちが読経に囲まれながら、結跏趺坐をくんだ姿勢のまま炎上した。それは逐一それは録画されたのでYoutubeで見られるはずである。この映像はアメリカ人に衝撃をもたらし「我々は果たして正しい側にたっているのか」との思いをみなが抱いた。
しかも、これについてゴ・ディンジェムの弟の嫁が「僧侶がバーベキューになったってだけじゃない。大体矛盾しているわよ。彼らがつかったガソリンはアメリカ製じゃない」という空気の読めない発言をしたため、さらに世界中の若者たちが、南ベトナムの政権ってこれないんじゃない?という空気が漂った。
1990年にデビューした、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの1stアルバムのジャケが、この炎上するティック・クアン・ドック師の写真であることはよく知られている。そうあのマトリックスのエンディングWake UP!の入っているアルバムである。
今回自殺したチベットの僧侶はは火につつまれながら絶命するまで、
「チベットに自由を!ダライ・ラマ法王に長寿を!法王の帰還を!」と叫び続けたという。
本土のチベット人にとってこの心の言葉を公の場で口にできるのは死の間際だけなのだ。
この焼身自殺が利他(自分の死によってチベット文化の危機を世界にしってもらいチ中国政府に改心をせまらせ、チベット人を救うというような)を動機としているかどうかは私は生前のこの人を知らないので何ともいえない。
しかし、私は基本的に僧侶は、僧院内でしっかり修行と学問に励んで、仏教の伝統をみにつけ人格者になることを通じて、道徳感の欠如した共産党とたたかってほしいと思っているので、今回の件は本当に悲しい。
表題の「自らを灯明と化す」とは、N氏によるとチベット人がこの焼身自殺にたいしてとる表現だそうである。
灯明とは暗闇の中の一点の明かりであり、古今東西キリスト教であっても、仏教であっても、ニンゲンの意識はそのままだと暗黒状態であり、世界は闇であるが、そこに、他者を思う愛が(仏教だと慈悲)、一点の灯火となって周りをてらすという思想がある。
我々の心の中にある善なるものは本当に小さな光であるが、神や仏の意識は太陽のように絶対的な光輝である。
つまり、チベット人はツェワン・ノルブ師の死を共産党支配下の暗黒のチベットに自らを犠牲にして小さな光をともしたものとして捉えているのだ。こんな言い方をしないと、彼の死が悲しすぎるからであろう。
丹羽大使が今、日本大使としてははじめてチベットに足を踏みいれて直接チベット人と対話しようとしているが、私服警察間がばつちりまわりにいるので、チベット人はもちろん本音なんて言えません。もちろん丹羽さんもそのあたりは分かっていることでしょう。
中国政府が自らの行いを恥じる日が一日でも早くくることを祈ります。
フリチベキャンドルの作り方は簡単ですよ。チベット国旗をダウンロードして紙コップかって、それにはりつけて、百円ショップでかったあろまてらひー用のろうそくいれたらはいできあり。
事実と論理の力を報道が否定してどうするの
まずは、多くの人がもう知っているであろうこのニュースをごらんください。
護摩木に被災地の松、京都の「送り火」中止<日テレNEWS24 2011年8月9日 20:03 >
京都の「五山の送り火」で燃やすはずだった松の木が8日、岩手県内で「迎え火」として燃やされた。
岩手・陸前高田市で燃やされた松の木は、津波で流された名勝「高田松原」の松で作られた約330本の護摩木。護摩木には、東日本大震災の犠牲者の名前などが書き込まれ、当初は、京都の「五山の送り火」で燃やし、犠牲者の冥福を祈る予定だった。しかし、京都市内での実施に対し、放射能汚染を心配する声が寄せられ、計画した大文字保存会が中止を決定し、8日夜、陸前高田市内で「迎え火」として燃やされた。
一方、護摩木からは放射性物質が検出されておらず、過剰反応だなどとして、中止を批判する声が京都市役所に寄せられている。その数は約470件に上っている。
京都市・門川大作市長は「この度の大文字保存会の決定は極めて残念であり、寂しい限りです。安心・安全が確認されている限り、京都で色んな被災地のものを受け入れていくのは当然のことだと思う」と述べている。
京都の大文字焼はご存じお盆で戻ってきた死者の霊をあの世におくる送り火である。従って、震災でなくなった方をあの世に送るために、被災地の松の木を護摩木にしてこの送り火で焼くというのは非常に日本的でまっとうな美談になるはずであった。
しかし、この話が公になると「この松を燃やすと放射能が飛散して子供に影響がでるのではないか」みたいな電話が40本ほど「送り火保存会」にかかってきた。どこの地域にもいろいろな精神状態の人がいるから、ここまではよくある話であろう。しかし、問題はこのあとである。この松からはまったく放射能が検出されていないにもかかわらず、あろうことか保存会はこの企画を中止したのである。
この松には放射能は含まれていないのだから、実害は全くない。にもかかわらずこれを中止したことは、京都を代表する伝統的な風物詩の威力をもって、風評被害を大々的に肯定したことになる。
この決定を行った「保存会」の人たちの気持ちを僭越ながら察するにたぶんこんとなところだろう。
「少しでも、一%でもこの火を不安な思いで見る人がいるのなら中止した方が無難だろう」
しかし、これがいかに視野の狭いものであるかは、その後京都市役所その他にかかってきた中止の決定に対する批判の電話が2500件(9日夜時点)に達っしたことが示している。存在しない放射能を不安がる敏感すぎる人の数よりも、はるかに多くの被災地の人々の、また、論理と事実に力をもってほしいと思う人々(私はこの範疇に入ります 笑)を、この中止の決定は落胆させたのだ。
今回五山の送り火を見る人は、九十何%くらいの確率で、不安どころか、不快の気持ちを持つことになるだろう。
中止によってもたらされる巨大なデメリットと淡々と予定通り送り火を行った場合にもたらされたメリットを比べれば、誰でも後者を選ぶ。つまり、もうちょっと広い視野でものを見るという能力が「送り火保存会」のメンバーの中にあれば、企画は予定通り遂行されたはずなのだ。
このダメすぎる決定を京都人の閉鎖性に帰する意見が内外に多々みられたが、私はこのような「事の軽重がまったく見えず」「目先のことしか考えられず」「広い視点からものが見られない」という特徴は、日本人の多くに広く見られる宿痾だと思う。
事実、この送り火騒動について、お昼のNHKニュース、夕方の日テレ、22時からの報道ステーションでの報道の仕方を比べて見たが、報道ステーションはしょうもなかったから。 NHKは事実をたんたんと伝え、日テレは特集のような形で大々的に扱い、京都市民の町の声として「放射能ないんですからやってもよかったんじゃないですか」を流し、また、被災地のけなげさを流し、「送り火保存会」決定がいかに多方面を落胆させたのか、と暗に中止の決定を批判する構成にした。おそらくはこの日テレの報道の後、さらに苦情電話の数は天文学的に増えただろう(ただし五時を過ぎているので市役所の電話は応答しないかもしれないが 笑)。
しかし、報道ステーションの扱いはひと味違った(笑)。まずトップニュースでこのニュースが出てきたので、風評被害の愚かさについて報道するのかと思えば、話は送り火から、大船渡のがれき処理の話になった。そして、県内では処理能力がいっぱいいっぱいなので県外で処理してもらおうと思ったが、放射能汚染の不安のために引き取り手がない、みたいなニュースである。
そしてこの二つのニュースに対して、誰だかしらん番組の解説員が「被災地で風評被害に苦しむ方も、放射能の不安に苦しむ方も同じ被害者だ、京都バッシングになってはいけない」とまとめたのである。
あのねえ。被災地で苦しんでいる人は実際に肉親を失ったり、家を失ったり、今回のような風評被害とかで、根拠のある悲しみを抱え、それでもけなげにがんばっているのである。しかし、今回送り火を中止させた40本からの電話をかけた人々は、安全な所にいて何も失っていないにも関わらず、根拠のない不安にとりつかれていただけ。「送り火保存会」はこのような人の不安に感染して、判断を狂わせ、その不安を全国に拡散しただけ。
なんでこれを一緒くたに論じられるのかさっぱりわかりません。人々の祈りのつまったスピリチュアルな護摩木と、処理をまつがれき(これも元をただせば思いがつまっているけど祈りはこめられていない)を一緒にするという無神経もすごいと思った。これは一般論であるが、サヨク的な人には、道徳的なもの、精神的なものに対する感度が鈍いという共通点がある。
それと、報道ステーションの解説員が「このような放射能に対する不安を抱えている人には放射能が検出されない、と論理でおしても解決しないんですよね」と言っているが、根拠のない不安を抱えている人に、「あなたの不安は根拠がないんですよ」と事実を提示する以外にどんな不安の解決法があるのか。報道ステーションの解説員のいったことは、事実と論理の無力を公言したことになり、報道機関として言ってはならないことである。
で、唖然としているとニュースは次に進み、ロンドンで続いている暴動の話題になった。画面には炎上するエンフィールドのソニーの倉庫がうつしだされ、火が出る前倉庫からは盗品を抱えた暴徒がたくさんでてきて、そのあと火が出た、と暴徒が盗難の結果を隠すために放火をしたことを報道していた。
さらに、暴動の中核にいるカリブ系移民の街頭インタビューが流れる。うろ覚えだけどこの人こんなこといってました。
「でかいことやってやろうと思っていたが、チャンスがきた。この暴動は決して終わらない。チャンスがあれば何度でも起きるだろう」
で、画面がきりかわって、バカンス先から急遽帰国したキャメロン首相が私にでもききとれるキレーな英語で「これは純粋な犯罪だ。犯罪者にはその結果がつきつけられるであろう。正義は実行されねばならない」みたいなことを言った。
これに対する報道ステーションの字幕には「正義」の二文字も翻訳されず、解説もまた、失業問題とか、貧困問題とかが原因であるとして、暴徒の犯した犯罪に対するコメントはまったくなし。
文化大革命の最中、紅衛兵が暴力的に暴れまわっていたとき、日本の知識人の方々の多くは「革命にゆきすぎはつきもの」とかいって温かく見守っていたことを思い出す。
貧困とか失業が大きな社会的な問題であるのは事実である。しかし、それが、他人の生命財産を奪うことによって解決するのかといったら、解決しないでしょう。民主的な法治国家に生きる以上、法に基づいて自分たちの主張を代弁する政治家を選ぶなりして社会は変革さるべきであり、報道はまず彼らの犯罪性について一言あってしかるべきではないか。
報道ステーションの論理に則ると、根拠のない不安にさいなまれているナーバスすぎる人たちも、商店を略奪する悪のりギャングたちも、加害者ではなく、すべて、犠牲者ということになる。でも前者は不安によって、後者は暴力的な衝動によつて我を忘れている煩悩の人である。まちがっても、犠牲者ではない。
社会には常に一定数、教育の不備や精神の病によって、自分の心や体をコントロールできない人たちがいる。しかし、こういう人が力を持つ世の中には、破壊と混乱が生まれるだけ。破壊と混乱を心の底から望む人がいない以上、やはり彼らのことはどんな形であれ肯定してはいけない。送り火騒動の一件にしたって、もし40本の不安な人々からの電話があるなら、面倒臭くても一人一人説得して予定通り実行すべきだったのだ。報ステも過敏すぎる人の反応なんかに同情の念をよせ、風評被害のさらなる拡大に手をかすべきではないのだ。
何かを決定する、あるいは、中止することができる立場にある人は、その決定・中止に際して、誰が本当の被害者なのか、それを決定・中止する際のメリット・デメリットの査定、何を護るべきで、何を捨てるべきなのかを、より広い視点から判断する能力がないといけない。その基準はもちろん、事なかれ主義でもなければ、ラクしたいとかではない。多くの人にメリットをもたらすことのできる普遍的な価値観だ。
日本人はこの普遍的なものの考え方がとにかく苦手。しかし、今回の送り火保存会の人々の轍を踏まないためにも、やはり、下は市井の民から、上は政治家・高級官僚にいたるまでもう少し広い視野で、こう普遍的な立場から行動した方がいい。悪いこたいわんから。
※追記 このあとご存じの通り、京都府は一転して薪を受け入れるといって、そのあと新しくとりよせた薪にセシウムがでたらさらに一転して、中止になりました。すると、「放射能でたじゃないか」というコメントがついたのですが、まったく本文章の趣旨も理解していないため、削除しました(笑)。
護摩木に被災地の松、京都の「送り火」中止<日テレNEWS24 2011年8月9日 20:03 >
京都の「五山の送り火」で燃やすはずだった松の木が8日、岩手県内で「迎え火」として燃やされた。
岩手・陸前高田市で燃やされた松の木は、津波で流された名勝「高田松原」の松で作られた約330本の護摩木。護摩木には、東日本大震災の犠牲者の名前などが書き込まれ、当初は、京都の「五山の送り火」で燃やし、犠牲者の冥福を祈る予定だった。しかし、京都市内での実施に対し、放射能汚染を心配する声が寄せられ、計画した大文字保存会が中止を決定し、8日夜、陸前高田市内で「迎え火」として燃やされた。
一方、護摩木からは放射性物質が検出されておらず、過剰反応だなどとして、中止を批判する声が京都市役所に寄せられている。その数は約470件に上っている。
京都市・門川大作市長は「この度の大文字保存会の決定は極めて残念であり、寂しい限りです。安心・安全が確認されている限り、京都で色んな被災地のものを受け入れていくのは当然のことだと思う」と述べている。
京都の大文字焼はご存じお盆で戻ってきた死者の霊をあの世におくる送り火である。従って、震災でなくなった方をあの世に送るために、被災地の松の木を護摩木にしてこの送り火で焼くというのは非常に日本的でまっとうな美談になるはずであった。
しかし、この話が公になると「この松を燃やすと放射能が飛散して子供に影響がでるのではないか」みたいな電話が40本ほど「送り火保存会」にかかってきた。どこの地域にもいろいろな精神状態の人がいるから、ここまではよくある話であろう。しかし、問題はこのあとである。この松からはまったく放射能が検出されていないにもかかわらず、あろうことか保存会はこの企画を中止したのである。
この松には放射能は含まれていないのだから、実害は全くない。にもかかわらずこれを中止したことは、京都を代表する伝統的な風物詩の威力をもって、風評被害を大々的に肯定したことになる。
この決定を行った「保存会」の人たちの気持ちを僭越ながら察するにたぶんこんとなところだろう。
「少しでも、一%でもこの火を不安な思いで見る人がいるのなら中止した方が無難だろう」
しかし、これがいかに視野の狭いものであるかは、その後京都市役所その他にかかってきた中止の決定に対する批判の電話が2500件(9日夜時点)に達っしたことが示している。存在しない放射能を不安がる敏感すぎる人の数よりも、はるかに多くの被災地の人々の、また、論理と事実に力をもってほしいと思う人々(私はこの範疇に入ります 笑)を、この中止の決定は落胆させたのだ。
今回五山の送り火を見る人は、九十何%くらいの確率で、不安どころか、不快の気持ちを持つことになるだろう。
中止によってもたらされる巨大なデメリットと淡々と予定通り送り火を行った場合にもたらされたメリットを比べれば、誰でも後者を選ぶ。つまり、もうちょっと広い視野でものを見るという能力が「送り火保存会」のメンバーの中にあれば、企画は予定通り遂行されたはずなのだ。
このダメすぎる決定を京都人の閉鎖性に帰する意見が内外に多々みられたが、私はこのような「事の軽重がまったく見えず」「目先のことしか考えられず」「広い視点からものが見られない」という特徴は、日本人の多くに広く見られる宿痾だと思う。
事実、この送り火騒動について、お昼のNHKニュース、夕方の日テレ、22時からの報道ステーションでの報道の仕方を比べて見たが、報道ステーションはしょうもなかったから。 NHKは事実をたんたんと伝え、日テレは特集のような形で大々的に扱い、京都市民の町の声として「放射能ないんですからやってもよかったんじゃないですか」を流し、また、被災地のけなげさを流し、「送り火保存会」決定がいかに多方面を落胆させたのか、と暗に中止の決定を批判する構成にした。おそらくはこの日テレの報道の後、さらに苦情電話の数は天文学的に増えただろう(ただし五時を過ぎているので市役所の電話は応答しないかもしれないが 笑)。
しかし、報道ステーションの扱いはひと味違った(笑)。まずトップニュースでこのニュースが出てきたので、風評被害の愚かさについて報道するのかと思えば、話は送り火から、大船渡のがれき処理の話になった。そして、県内では処理能力がいっぱいいっぱいなので県外で処理してもらおうと思ったが、放射能汚染の不安のために引き取り手がない、みたいなニュースである。
そしてこの二つのニュースに対して、誰だかしらん番組の解説員が「被災地で風評被害に苦しむ方も、放射能の不安に苦しむ方も同じ被害者だ、京都バッシングになってはいけない」とまとめたのである。
あのねえ。被災地で苦しんでいる人は実際に肉親を失ったり、家を失ったり、今回のような風評被害とかで、根拠のある悲しみを抱え、それでもけなげにがんばっているのである。しかし、今回送り火を中止させた40本からの電話をかけた人々は、安全な所にいて何も失っていないにも関わらず、根拠のない不安にとりつかれていただけ。「送り火保存会」はこのような人の不安に感染して、判断を狂わせ、その不安を全国に拡散しただけ。
なんでこれを一緒くたに論じられるのかさっぱりわかりません。人々の祈りのつまったスピリチュアルな護摩木と、処理をまつがれき(これも元をただせば思いがつまっているけど祈りはこめられていない)を一緒にするという無神経もすごいと思った。これは一般論であるが、サヨク的な人には、道徳的なもの、精神的なものに対する感度が鈍いという共通点がある。
それと、報道ステーションの解説員が「このような放射能に対する不安を抱えている人には放射能が検出されない、と論理でおしても解決しないんですよね」と言っているが、根拠のない不安を抱えている人に、「あなたの不安は根拠がないんですよ」と事実を提示する以外にどんな不安の解決法があるのか。報道ステーションの解説員のいったことは、事実と論理の無力を公言したことになり、報道機関として言ってはならないことである。
で、唖然としているとニュースは次に進み、ロンドンで続いている暴動の話題になった。画面には炎上するエンフィールドのソニーの倉庫がうつしだされ、火が出る前倉庫からは盗品を抱えた暴徒がたくさんでてきて、そのあと火が出た、と暴徒が盗難の結果を隠すために放火をしたことを報道していた。
さらに、暴動の中核にいるカリブ系移民の街頭インタビューが流れる。うろ覚えだけどこの人こんなこといってました。
「でかいことやってやろうと思っていたが、チャンスがきた。この暴動は決して終わらない。チャンスがあれば何度でも起きるだろう」
で、画面がきりかわって、バカンス先から急遽帰国したキャメロン首相が私にでもききとれるキレーな英語で「これは純粋な犯罪だ。犯罪者にはその結果がつきつけられるであろう。正義は実行されねばならない」みたいなことを言った。
これに対する報道ステーションの字幕には「正義」の二文字も翻訳されず、解説もまた、失業問題とか、貧困問題とかが原因であるとして、暴徒の犯した犯罪に対するコメントはまったくなし。
文化大革命の最中、紅衛兵が暴力的に暴れまわっていたとき、日本の知識人の方々の多くは「革命にゆきすぎはつきもの」とかいって温かく見守っていたことを思い出す。
貧困とか失業が大きな社会的な問題であるのは事実である。しかし、それが、他人の生命財産を奪うことによって解決するのかといったら、解決しないでしょう。民主的な法治国家に生きる以上、法に基づいて自分たちの主張を代弁する政治家を選ぶなりして社会は変革さるべきであり、報道はまず彼らの犯罪性について一言あってしかるべきではないか。
報道ステーションの論理に則ると、根拠のない不安にさいなまれているナーバスすぎる人たちも、商店を略奪する悪のりギャングたちも、加害者ではなく、すべて、犠牲者ということになる。でも前者は不安によって、後者は暴力的な衝動によつて我を忘れている煩悩の人である。まちがっても、犠牲者ではない。
社会には常に一定数、教育の不備や精神の病によって、自分の心や体をコントロールできない人たちがいる。しかし、こういう人が力を持つ世の中には、破壊と混乱が生まれるだけ。破壊と混乱を心の底から望む人がいない以上、やはり彼らのことはどんな形であれ肯定してはいけない。送り火騒動の一件にしたって、もし40本の不安な人々からの電話があるなら、面倒臭くても一人一人説得して予定通り実行すべきだったのだ。報ステも過敏すぎる人の反応なんかに同情の念をよせ、風評被害のさらなる拡大に手をかすべきではないのだ。
何かを決定する、あるいは、中止することができる立場にある人は、その決定・中止に際して、誰が本当の被害者なのか、それを決定・中止する際のメリット・デメリットの査定、何を護るべきで、何を捨てるべきなのかを、より広い視点から判断する能力がないといけない。その基準はもちろん、事なかれ主義でもなければ、ラクしたいとかではない。多くの人にメリットをもたらすことのできる普遍的な価値観だ。
日本人はこの普遍的なものの考え方がとにかく苦手。しかし、今回の送り火保存会の人々の轍を踏まないためにも、やはり、下は市井の民から、上は政治家・高級官僚にいたるまでもう少し広い視野で、こう普遍的な立場から行動した方がいい。悪いこたいわんから。
※追記 このあとご存じの通り、京都府は一転して薪を受け入れるといって、そのあと新しくとりよせた薪にセシウムがでたらさらに一転して、中止になりました。すると、「放射能でたじゃないか」というコメントがついたのですが、まったく本文章の趣旨も理解していないため、削除しました(笑)。
前期最後の学生との語らい
八月四日は前期の授業最終日であった。めでたいことにあまり暑い日が続かなかったため一応最期の日まで教室に冷房は入った。
解放感にあふれつつエレベーターにのると、去年現代史研究の授業を前の方で聞いていてくれた男の子がいた。
私「君、現代史研究の授業で割と前の方で聞いていたよね。今年に入っていろいろあったけどどう?」と聞くと
Aくん「先生のあの授業で興味をもって、春休み、ポーランドとか東ドイツとかベルリンとかに個人旅行しました。」
私「ライプチヒへ行った?」
*注 ライプチヒのニコライ教会ではじまった水曜デモが首都ベルリンに飛び火してベルリンの壁がくずれた。
Aくん「行きました。授業でいろいろ話を聞いていたので、ただ観光旅行するよりも感慨深かったです。ニコライ教会から水曜デモのルートを辿って歩いたんですよ」
私「ライプチヒを囲むリング(環状道路)を?」
Aくん「ええそうです。でゲバントハウス*の所まで来たら、みながキャンドルともしてデモをやっていたんです」
*ゲバントハウスとはライプチヒの歴史アルコンサートホール。1989年にはここの指揮者が市民に非暴力を訴えて、市民がそれに答えたため、東ドイツ当局は市民に発砲できなかった。
私「ええええ、1989年の水曜デモの再来?」
Aくん「いえ日本の原発事故を受けて、反原発デモやっていたんです。その日から日に日にデモが大きくなっていきました。ちなみに、ボクはテレビもない安いユースホステルとまっていたので震災のことよく知らなくて、でも、日本人だと分かるとみなが『家族は大丈夫なのか』『家は東北か』と聞かれて180度回りの反応が変わりました。で、ちょっと高いホテルにとまってみて、テレビをつけたら怒濤のように日本の震災のニュースを流していて、やっと『ああ、日本オワタ』と思いました」
私「まあ自分もあの爆撃痕のような津波後の風景みてオワタと思ったからね。しかし、2011年のデモの理由は日本ってところがシャレにならん。で、急いで日本に帰ってきたの?」
Aくん「震災の四日後に成田空港についたのですが、放射能の影響で着陸できないとかで、名古屋空港につれていかれました」
私「15日は東京の放射能値高かったからね。だから、外国機がみなびびって東京を避けたんだよ。中国の航空会社なんて日本線運休したもんだから、日本から逃げたい中国人が成田空港にあふれかえって、何でもいいから飛行機にのせろってパニクってすごかったよ。B先生が震災の三日後、北京出張だったんだけど、もうこんな状況だから出張キャンセルしようとしたら、キャンセルの電話すらつながらなかったって。電話パンクしてたってわけ」
Aくん「というわけで、外から日本の震災を見るという貴重な体験をしました」
1989年のあの自由が勝利した1989年を体感しに、ライプチヒとベルリンにいったら、2011年の日本を体感してしまったというお話でした。
さて、明けて翌日、いろいろあったので世話になった学生とまったりと食事をすることとする。
ところが、受けねらいでみなを連れて行こうと思っていたタイ料理屋が金曜日だというのに店を開けていない。そこで、このあたりに住み着いて長い院生Mに電話していい店を聞くことにする。
私「今明治通りの交差点にいるんだけど、エスニックの良い店しらない?」
M「ちょっと遠いですけど、新宿の駅前にマレーシア料理屋があります。KくんとHくんはいますか。」
私「いる。お金もっているなら一緒に食事する? 別に来てもいいよ」
M「いや今弁当食べたばかりですし、今夜十二時までにレポート提出しなきゃいけないし、お金も本当に厳しいんで行きません」
私「あそ」ということで、Mの情報も役にたたず、歩くのも面倒臭いので交差点に面した店にテキトーに入る。するとしばらくして、何ともいえない笑顔を顔にうかべながらMがやってくる。
M「ビール一杯だけつきあいます」といいつつ、食事の注文をはじめ、あまつさえでてきた食事をつつきだす。
私「あなたお金持っていないって言ってなかった?なのにどうして食事食べているわけ」
M「さっき食べてきたばっかりで、お腹は空いてないんで」
私「もう一度聞く。食べるということはお金払うということだね」
ところが、それに対して返事をしない。
なぜここまで私がしつこく確認するかというと、お金をもたずに飲み会にとびこんできては回りに借財を重ねるという悪業を積み続けてきたため、まったく信用がないからである(彼の名誉のために言うと、返そうという意志はある)。
そして、二時間はいたと思うが、おもむろに
M「ボクレポート間に合わないので帰ります」
そこで、「やめてくださいいい」という彼の財布をとりあげて、お札の部分をみなに向かって無言で提示する。
もちろん、レシート以外何もはいっていませんでした。
解放感にあふれつつエレベーターにのると、去年現代史研究の授業を前の方で聞いていてくれた男の子がいた。
私「君、現代史研究の授業で割と前の方で聞いていたよね。今年に入っていろいろあったけどどう?」と聞くと
Aくん「先生のあの授業で興味をもって、春休み、ポーランドとか東ドイツとかベルリンとかに個人旅行しました。」
私「ライプチヒへ行った?」
*注 ライプチヒのニコライ教会ではじまった水曜デモが首都ベルリンに飛び火してベルリンの壁がくずれた。
Aくん「行きました。授業でいろいろ話を聞いていたので、ただ観光旅行するよりも感慨深かったです。ニコライ教会から水曜デモのルートを辿って歩いたんですよ」
私「ライプチヒを囲むリング(環状道路)を?」
Aくん「ええそうです。でゲバントハウス*の所まで来たら、みながキャンドルともしてデモをやっていたんです」
*ゲバントハウスとはライプチヒの歴史アルコンサートホール。1989年にはここの指揮者が市民に非暴力を訴えて、市民がそれに答えたため、東ドイツ当局は市民に発砲できなかった。
私「ええええ、1989年の水曜デモの再来?」
Aくん「いえ日本の原発事故を受けて、反原発デモやっていたんです。その日から日に日にデモが大きくなっていきました。ちなみに、ボクはテレビもない安いユースホステルとまっていたので震災のことよく知らなくて、でも、日本人だと分かるとみなが『家族は大丈夫なのか』『家は東北か』と聞かれて180度回りの反応が変わりました。で、ちょっと高いホテルにとまってみて、テレビをつけたら怒濤のように日本の震災のニュースを流していて、やっと『ああ、日本オワタ』と思いました」
私「まあ自分もあの爆撃痕のような津波後の風景みてオワタと思ったからね。しかし、2011年のデモの理由は日本ってところがシャレにならん。で、急いで日本に帰ってきたの?」
Aくん「震災の四日後に成田空港についたのですが、放射能の影響で着陸できないとかで、名古屋空港につれていかれました」
私「15日は東京の放射能値高かったからね。だから、外国機がみなびびって東京を避けたんだよ。中国の航空会社なんて日本線運休したもんだから、日本から逃げたい中国人が成田空港にあふれかえって、何でもいいから飛行機にのせろってパニクってすごかったよ。B先生が震災の三日後、北京出張だったんだけど、もうこんな状況だから出張キャンセルしようとしたら、キャンセルの電話すらつながらなかったって。電話パンクしてたってわけ」
Aくん「というわけで、外から日本の震災を見るという貴重な体験をしました」
1989年のあの自由が勝利した1989年を体感しに、ライプチヒとベルリンにいったら、2011年の日本を体感してしまったというお話でした。
さて、明けて翌日、いろいろあったので世話になった学生とまったりと食事をすることとする。
ところが、受けねらいでみなを連れて行こうと思っていたタイ料理屋が金曜日だというのに店を開けていない。そこで、このあたりに住み着いて長い院生Mに電話していい店を聞くことにする。
私「今明治通りの交差点にいるんだけど、エスニックの良い店しらない?」
M「ちょっと遠いですけど、新宿の駅前にマレーシア料理屋があります。KくんとHくんはいますか。」
私「いる。お金もっているなら一緒に食事する? 別に来てもいいよ」
M「いや今弁当食べたばかりですし、今夜十二時までにレポート提出しなきゃいけないし、お金も本当に厳しいんで行きません」
私「あそ」ということで、Mの情報も役にたたず、歩くのも面倒臭いので交差点に面した店にテキトーに入る。するとしばらくして、何ともいえない笑顔を顔にうかべながらMがやってくる。
M「ビール一杯だけつきあいます」といいつつ、食事の注文をはじめ、あまつさえでてきた食事をつつきだす。
私「あなたお金持っていないって言ってなかった?なのにどうして食事食べているわけ」
M「さっき食べてきたばっかりで、お腹は空いてないんで」
私「もう一度聞く。食べるということはお金払うということだね」
ところが、それに対して返事をしない。
なぜここまで私がしつこく確認するかというと、お金をもたずに飲み会にとびこんできては回りに借財を重ねるという悪業を積み続けてきたため、まったく信用がないからである(彼の名誉のために言うと、返そうという意志はある)。
そして、二時間はいたと思うが、おもむろに
M「ボクレポート間に合わないので帰ります」
そこで、「やめてくださいいい」という彼の財布をとりあげて、お札の部分をみなに向かって無言で提示する。
もちろん、レシート以外何もはいっていませんでした。
観音様がお茶の間ショッピングに
突然ですが、北京いってきました。もうすぐ出版する本にのせる情報をよりカンペキにするために、急いでいって二泊三日、初日は夜遅くつき最終日は明け方出発なので、実働一日の強行軍である(こんなのばかし 笑)。
空港で私を迎えでたCITSのTさんは私の名前を書いたボードを掲げつつも、ケータイでどこかへ電話をしていた。そして話をしながら目で「こっちへこい」と合図して、私は荷物をひきずってその女性ガイドの後をのこのこついていくことに。やっと車にのる時点で、このガイドはケータイをやめて自己紹介をした。
しかしその後もこのガイド、ひたすら車の中からメールをうったり、電話をかけたり。そして、私のとまるホテルにつくと、彼女は「パソコンもってますか」と聞くので、「インターネットの接続やってくれるのかなラッキー」と思ったので、「もってます」というと、部屋まで来てインターネットにつないでくれた。
ちょっと彼女をみなおしたが甘かった。彼女いきなり「ちょっとパソコン使っても良いですか」というので「日本語仕様ですよ」といっても「いい」というので、その場をかすと、いきなりどこかの銀行にふりこみを始めようと、へんなソフトをダウンロードしはじめた。しかし、もちろんできない。だってわたしのパソコンは日本で買ったのでスパイウエアはいってないから中国では認証されないんだよ。
で、これは株だと直感したので、「あなた株で失敗したんでしょう」といったら、ガイド曰く「何とか今夜十二時までに振り込みをのばすことを承知してもらいました。お友達にお金をかりて払います」とのこと。私が「もう中国バブルも終わるから株なんてやめて結婚資金を地味にためないと」と進言すると
「イギリスの株だから大丈夫です。今は下がっているけど、九月十月には上がります。ちなみに結婚してます」。
みれば彼女はルイヴィトンのバッグをもち、ネイルをして、シルクのミニドレスをみにまとい、結婚式帰りかというバブルまっさかりな服装。GAPとSWEET CAMELのアメリカンな私とは次元が違う。彼女が株でどうなろうとそれは彼女のカルマであるが、あさって私を送り出すまでは夜逃げしないでね、と手を合わせる。
私が今回とまったホテルは胡同の中にあるコッテコテの中国式ホテル。もちろん中国チャンネルしかうつらないので西蔵テレビを見ていたら、お茶の間ショッピングのような通販番組が流れていた。
すると、日本の通販番組で宝石を売るようなノリで、男女二人がかけあいをしながら、翡翠と金でできた、仏様と観音様のペンダントヘッドを「ここだけの特価」で売っている。で、観音様と仏様の御利益を述べたり、八分の一の価格になっていると安値を強調し、さらにこの仏様を首からさげているイケているおにいちゃんやおねえちゃんの姿がうつしだされる。
そして、「熱にも氷にもつよい」といいながら観音様を凍りづけにしたり、いきなり、バーナーをとりだして観音様をやきはじめた。
観音様をバーナーで焼くなああああ
というわけで、北京はバブルまっさかりで、とはいってももうかげりがみえてきて、日本がかつて諸外国からどう見えていたのか非常によくわかるような状態でした。
翌日、このホテルの界隈にある護国寺にいってみた。この寺はモンゴル人王朝元朝支配下で建立されたチベット仏教の大寺で、黄著『在北京蔵族文物』によると、境内には元代から清代にいたるチベット文や漢文の碑文がんごろんごろあるはず。が・・・・ホテルの人にきくと「寺はない。」
そんなはずはない、と地図をたよりに歩き出すと、道に座ってぼーっとしているおじいさんがいた。このおじいさんは革命から反右派闘争から、文化大革命から、改革開放まで、この中国をこの年まで生き抜いてきたのだから、そこいらの若者とは違う答えをもつているはずである。
そこでおじいさんに近寄ろうとすると、私とおじいさんの間の足下にあったチェーンの柵にひっかかって転びそうになった。幸い転ばなかったので、おじいさんに護国寺の史料をみせながら、どこにあるのか聞くと、案の定ご存じで「公開されていないが、金剛殿は残っている」という。そして、私が「ありがとう」といって後ろ歩きでおじいさんから離れようとすると、私の足下をさして「転ばないように」と合図してくれた。ええ人や。
で、現場にいくんと、おじいさんの言う通りで、金剛殿を残してあとはみなどこかの何かの敷地になってしまっていた。20年前に来た時はたしかもう少し回りの建物が立て込んだ中にあったので(この時も入れず)、この間ずいぶん回りの建物かこわされたみたい。殿内にあるというパクパ像とかどうなっているのだろう。共産中国とバブル中国は文化財破壊マシーンである。
そのあと今回のメインイベントである、研究中の乾隆帝の画像の閲覧に向かう。前回この画像を見ようとアレンジした時には、知り合いの先生の紹介で私たちに画像をみせてくれるはずの人が待ち合わせの場所に来なかった、という苦い経験があるため、今回、待ち合わせの場所に担当者が自転車でやってきた時は担当者の後ろに後光がさしてみえた。
画像を判別すると30体のうち7体は状態がわるくて読み取れないが、ほぼ読み取れたのでよしとする。今の時点でできることをするのが重要だ。
昼ご飯はZ先生と毛沢東のコックがはじめた有名な店で、毛沢東の好物だったという武昌魚をいただく。そのあと紫禁城出版社に行きたいというと、Z先生連れて行ってくれるという。で、それが遠くて。紫禁城出版社は故宮の東華門近くにある。われわれはなぜかその逆の西華門からはいった。この日は34度あったそうで、さえぎるもののない故宮の境内は敷石からの照り返しがものすごく、ときたまある鉄板の上を歩く時などは熱気がむおおおおと下から襲ってくる。
武英殿の展示をひやかし、午門の前を通過する頃には水をかぶったみたいに汗をかいていた。やっと紫禁城出版社の建物についたら、ここはかつては何かの詰め所だった歴史的建造物をそのまま用いているため、ひたすら平屋の建物が先につづき、その果てに書籍販売部があった。
しかし、ここで、梵華楼の写真集全四巻を手に入れた。梵華楼って故宮の中にある乾隆帝がたてたすてきなチベット仏殿。その仏伝の内部が解説つきで細かく分かるようになっている。一冊400元だけど。日本で買うことを考えたら、飛行機代のかなりの元が取れる(せこい)。
しかし非力な私はこの本四冊もつともう何も持てないので、Z先生と別れてホテルに戻ることとする。先生はひたすらまたまっすぐに前を向いてあるきだし、何と、故宮の後門までわれわれを送り出した。つまり、熱暑の中、故宮を四分の三逆コルラした見当になる。故宮の後門近辺は規制でタクシーがひろえないので、人民とタクシーとりあいのバトルをした末に、30分後にやっとタクシーをゲット。この時点で体内の水分は2Lは減っていた。ちなみに、今北京はインフレでタクシーも値上がりしたのだが、メーターの調整が間に合わず、メーターに必ず2元上乗せしてお金をとる。最初はワイロを要求しているのかと思ったよ。誤解してごめんね。
で、ホテルに豪華本をおいて、再び本を買いに出る(笑)。三聯書店で買い、商務院書館に行き、やる気があるなら五四書店と中国書店に行くところだが、もうそこまでの体力も気力もなし。王府井で食事して帰る。翌日、カートにパンパンに本をつめこみ、さらに本の入った紙袋をさげて、空港に向かう。そして、飛行機は出発準備を15分はやくおえて、滑走路にいたのだが、北京管制塔の指示がでないため、40分放置されて、飛行機は一時間遅れで北京を出発。
おそらくは高速鉄道の事故で安全確認のおふれが全国にでていて、今までだったら、「こみあっているから1分間隔で次の飛行機いれちゃえー」とかいってたのが、国際標準を護ったらきっとこれだけ遅れるんだ。
で、成田についてカートをピックアップして、さあ大学へ行こうと紙袋を持ち上げたら、袋の底がぬけて本が散乱。どうにも身動きがとれなくなった。税関でばらばらの本をせっせとはこんできて、さらに「このカート、重いんですが台の上にのせましょかー」と聞くと、職員、哀れを催したのか「結構です」。
それから紙袋を買って本をまとめるまでが地獄のピストン輸送(誰もこんな本とらんがな 笑)。
同業者の方へ教訓、丈夫なビニールバッグを日本から何枚かもっていきましょう。
空港で私を迎えでたCITSのTさんは私の名前を書いたボードを掲げつつも、ケータイでどこかへ電話をしていた。そして話をしながら目で「こっちへこい」と合図して、私は荷物をひきずってその女性ガイドの後をのこのこついていくことに。やっと車にのる時点で、このガイドはケータイをやめて自己紹介をした。
しかしその後もこのガイド、ひたすら車の中からメールをうったり、電話をかけたり。そして、私のとまるホテルにつくと、彼女は「パソコンもってますか」と聞くので、「インターネットの接続やってくれるのかなラッキー」と思ったので、「もってます」というと、部屋まで来てインターネットにつないでくれた。
ちょっと彼女をみなおしたが甘かった。彼女いきなり「ちょっとパソコン使っても良いですか」というので「日本語仕様ですよ」といっても「いい」というので、その場をかすと、いきなりどこかの銀行にふりこみを始めようと、へんなソフトをダウンロードしはじめた。しかし、もちろんできない。だってわたしのパソコンは日本で買ったのでスパイウエアはいってないから中国では認証されないんだよ。
で、これは株だと直感したので、「あなた株で失敗したんでしょう」といったら、ガイド曰く「何とか今夜十二時までに振り込みをのばすことを承知してもらいました。お友達にお金をかりて払います」とのこと。私が「もう中国バブルも終わるから株なんてやめて結婚資金を地味にためないと」と進言すると
「イギリスの株だから大丈夫です。今は下がっているけど、九月十月には上がります。ちなみに結婚してます」。
みれば彼女はルイヴィトンのバッグをもち、ネイルをして、シルクのミニドレスをみにまとい、結婚式帰りかというバブルまっさかりな服装。GAPとSWEET CAMELのアメリカンな私とは次元が違う。彼女が株でどうなろうとそれは彼女のカルマであるが、あさって私を送り出すまでは夜逃げしないでね、と手を合わせる。
私が今回とまったホテルは胡同の中にあるコッテコテの中国式ホテル。もちろん中国チャンネルしかうつらないので西蔵テレビを見ていたら、お茶の間ショッピングのような通販番組が流れていた。
すると、日本の通販番組で宝石を売るようなノリで、男女二人がかけあいをしながら、翡翠と金でできた、仏様と観音様のペンダントヘッドを「ここだけの特価」で売っている。で、観音様と仏様の御利益を述べたり、八分の一の価格になっていると安値を強調し、さらにこの仏様を首からさげているイケているおにいちゃんやおねえちゃんの姿がうつしだされる。
そして、「熱にも氷にもつよい」といいながら観音様を凍りづけにしたり、いきなり、バーナーをとりだして観音様をやきはじめた。
観音様をバーナーで焼くなああああ
というわけで、北京はバブルまっさかりで、とはいってももうかげりがみえてきて、日本がかつて諸外国からどう見えていたのか非常によくわかるような状態でした。
翌日、このホテルの界隈にある護国寺にいってみた。この寺はモンゴル人王朝元朝支配下で建立されたチベット仏教の大寺で、黄著『在北京蔵族文物』によると、境内には元代から清代にいたるチベット文や漢文の碑文がんごろんごろあるはず。が・・・・ホテルの人にきくと「寺はない。」
そんなはずはない、と地図をたよりに歩き出すと、道に座ってぼーっとしているおじいさんがいた。このおじいさんは革命から反右派闘争から、文化大革命から、改革開放まで、この中国をこの年まで生き抜いてきたのだから、そこいらの若者とは違う答えをもつているはずである。
そこでおじいさんに近寄ろうとすると、私とおじいさんの間の足下にあったチェーンの柵にひっかかって転びそうになった。幸い転ばなかったので、おじいさんに護国寺の史料をみせながら、どこにあるのか聞くと、案の定ご存じで「公開されていないが、金剛殿は残っている」という。そして、私が「ありがとう」といって後ろ歩きでおじいさんから離れようとすると、私の足下をさして「転ばないように」と合図してくれた。ええ人や。
で、現場にいくんと、おじいさんの言う通りで、金剛殿を残してあとはみなどこかの何かの敷地になってしまっていた。20年前に来た時はたしかもう少し回りの建物が立て込んだ中にあったので(この時も入れず)、この間ずいぶん回りの建物かこわされたみたい。殿内にあるというパクパ像とかどうなっているのだろう。共産中国とバブル中国は文化財破壊マシーンである。
そのあと今回のメインイベントである、研究中の乾隆帝の画像の閲覧に向かう。前回この画像を見ようとアレンジした時には、知り合いの先生の紹介で私たちに画像をみせてくれるはずの人が待ち合わせの場所に来なかった、という苦い経験があるため、今回、待ち合わせの場所に担当者が自転車でやってきた時は担当者の後ろに後光がさしてみえた。
画像を判別すると30体のうち7体は状態がわるくて読み取れないが、ほぼ読み取れたのでよしとする。今の時点でできることをするのが重要だ。
昼ご飯はZ先生と毛沢東のコックがはじめた有名な店で、毛沢東の好物だったという武昌魚をいただく。そのあと紫禁城出版社に行きたいというと、Z先生連れて行ってくれるという。で、それが遠くて。紫禁城出版社は故宮の東華門近くにある。われわれはなぜかその逆の西華門からはいった。この日は34度あったそうで、さえぎるもののない故宮の境内は敷石からの照り返しがものすごく、ときたまある鉄板の上を歩く時などは熱気がむおおおおと下から襲ってくる。
武英殿の展示をひやかし、午門の前を通過する頃には水をかぶったみたいに汗をかいていた。やっと紫禁城出版社の建物についたら、ここはかつては何かの詰め所だった歴史的建造物をそのまま用いているため、ひたすら平屋の建物が先につづき、その果てに書籍販売部があった。
しかし、ここで、梵華楼の写真集全四巻を手に入れた。梵華楼って故宮の中にある乾隆帝がたてたすてきなチベット仏殿。その仏伝の内部が解説つきで細かく分かるようになっている。一冊400元だけど。日本で買うことを考えたら、飛行機代のかなりの元が取れる(せこい)。
しかし非力な私はこの本四冊もつともう何も持てないので、Z先生と別れてホテルに戻ることとする。先生はひたすらまたまっすぐに前を向いてあるきだし、何と、故宮の後門までわれわれを送り出した。つまり、熱暑の中、故宮を四分の三逆コルラした見当になる。故宮の後門近辺は規制でタクシーがひろえないので、人民とタクシーとりあいのバトルをした末に、30分後にやっとタクシーをゲット。この時点で体内の水分は2Lは減っていた。ちなみに、今北京はインフレでタクシーも値上がりしたのだが、メーターの調整が間に合わず、メーターに必ず2元上乗せしてお金をとる。最初はワイロを要求しているのかと思ったよ。誤解してごめんね。
で、ホテルに豪華本をおいて、再び本を買いに出る(笑)。三聯書店で買い、商務院書館に行き、やる気があるなら五四書店と中国書店に行くところだが、もうそこまでの体力も気力もなし。王府井で食事して帰る。翌日、カートにパンパンに本をつめこみ、さらに本の入った紙袋をさげて、空港に向かう。そして、飛行機は出発準備を15分はやくおえて、滑走路にいたのだが、北京管制塔の指示がでないため、40分放置されて、飛行機は一時間遅れで北京を出発。
おそらくは高速鉄道の事故で安全確認のおふれが全国にでていて、今までだったら、「こみあっているから1分間隔で次の飛行機いれちゃえー」とかいってたのが、国際標準を護ったらきっとこれだけ遅れるんだ。
で、成田についてカートをピックアップして、さあ大学へ行こうと紙袋を持ち上げたら、袋の底がぬけて本が散乱。どうにも身動きがとれなくなった。税関でばらばらの本をせっせとはこんできて、さらに「このカート、重いんですが台の上にのせましょかー」と聞くと、職員、哀れを催したのか「結構です」。
それから紙袋を買って本をまとめるまでが地獄のピストン輸送(誰もこんな本とらんがな 笑)。
同業者の方へ教訓、丈夫なビニールバッグを日本から何枚かもっていきましょう。
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