期末のドシュラバを乗り切った(のか)
震災で新学期のはじまりが一ヶ月遅れ、あらゆる会合、会議、締め切りが七月にずれこみ、ヒャッハーな一週間だった。暑かったり寒かったり極端なので、肩がこりまくり、頭痛はしまくり、口内炎はできまくりで、そうでなくともないやる気がますま失せていく。しかし、そんなこといっていてはハタチそこそこのうちの学生と同じになってしまうので、何とか踏みとどまって予定をこなした。
一つ一つの仕事はアレレになっても、流れをとめてイタタになるよりは、これでいいのだ。バカボンのパパか。
疲れてくるため、授業も地がでまくる。卒論の書き方、指導がこんなことに。
私「先行研究は資料aと史料Bをもとに白傘盖仏の寺を「佛香閣」であると結論しているのだが、この二つの史料aとbの内容には明らかに矛盾がある。とくに史料Dをみれば、先行研究のだす「佛香閣」という結論にムリがあることは明白だ。この問題意識をもちながら史料をさがすと、以下の三つの史料が見つかる。この三つに基づけば別の結論「白傘盖仏の寺は闡福寺である」に導かれるはずである。」
私「さてここで質問。これだけでも闡福寺説は確定的だが、さらに確実に自分の説をより強固にするためにはあとどのような証明が必要か」
学生たち「・・・・・」
私「簡単だ。乾隆年間に佛香閣の本尊が白傘盖仏でなかったことを宮廷の財産目録で裏をとればいい。こうすれば、相手の息の根を完全に止めることができる」
学生たち「卒論の目的って相手の息の根を止めることなんですか」
さて、本題。いろいろな方からご寄贈いただいていた書籍を今回は一括してご紹介。出てから久しいものもあるので、すでにもっている人は要注意。
◎まず、アジアで草の根支援を行っているお坊さん集団、四方僧伽の『Little Tibet』(集広舎)。インド、ネパールのチベット難民キャンプの写真集で、収益の一部は難民コミニュティ支援に使われるとのこと。四方僧伽の活動その他はこのサイトに詳しいよ!
◎そして、これは本ではなく雑誌の『火鍋子』現代中国の作家の書いた文章を和訳して紹介する雑誌のようであるが、毎号32才で夭折したチベット人作家トンドゥプゲ(1953年生まれ)の小説が翻訳されている。この作家についてはI love Tibetでも紹介されているので詳しくはここくりっく。
この小説を和訳しているグループの一人であるO氏によると、彼の評価は相半ばしており、中国よりとして非難する人と、チベット語で小説書いているんだから(多くのチベット人作家は漢語で小説を書く)、チベットをないがしろにしてないよー、という人などいろいろ。
何にせよ、彼の小説を読むと、本土に踏みとどまって、なおかつ僧侶になるでもない、俗世の知識人のチベット人はアイデンティティが定まらず悩みが多いなあという印象を受けた。O氏によると、欧米人は漢語よりもチベット語が堪能な人が多いため、チベット人作家でもチベット語で書く人はグローバルな評価を受け、漢語で書く人は漢語を解する中国において評価を受けるらしい。
さらに、東チベットにずいずい入っている川田進先生の現地調査も毎号のっており、これもまたこの雑誌の見所。中国書籍の出版で有名な京都の朋友書店から出ているのですが、アマゾンでかえません。このレアな文学雑誌を買いたい方は直接朋友書店に連絡してください。
◎ 最新刊は『ラダック・ザンスカールの仏教壁画』(渡辺出版)

インドの東北にあたるラダック・ザンスカールはチベット文化圏。中国共産党が支配したチベット本土は社会主義思想に基づいて寺や仏像や仏塔は破壊されたが、インドの支配下にはいったこの地域は、古いチベットの姿がなお残っている。この地域には、かつて、高野山大学、種智院大学、成田山新勝寺など多くの大学が探検隊を送って報告書をつらねている。この写真集は森一司という今年80才を越えるお医者さんが1986年から2005年まで32回にわたり、平均で一年に二回この地に入り、とり続けた壁画の写真を、私財をなげうって出版されたものである。
ご本人による「あとがき」などをみると、「何のために書かれたのか分からない」仏たち、「複数の僧侶グループによって書かれたのかサインもない」などの表現があり、仏画をとり続けた情熱が、純粋に美術的なものであることが分かる(心の声; マンダラなんだから、修行や信仰を目的として書かれたにきまっとるがな 笑)。
まあ、つっこむのはそのくらいでやめておきます。写真の角度修正はチベットの建築の研究者である大岩先生、仏画の仏さまの説明についてはチベットの仏教美術の専門家である田中先生が監修しているため、そのあたりの品質は確かです。ラダック・ザンスカール好きの方、どうぞ。
一つ一つの仕事はアレレになっても、流れをとめてイタタになるよりは、これでいいのだ。バカボンのパパか。
疲れてくるため、授業も地がでまくる。卒論の書き方、指導がこんなことに。
私「先行研究は資料aと史料Bをもとに白傘盖仏の寺を「佛香閣」であると結論しているのだが、この二つの史料aとbの内容には明らかに矛盾がある。とくに史料Dをみれば、先行研究のだす「佛香閣」という結論にムリがあることは明白だ。この問題意識をもちながら史料をさがすと、以下の三つの史料が見つかる。この三つに基づけば別の結論「白傘盖仏の寺は闡福寺である」に導かれるはずである。」
私「さてここで質問。これだけでも闡福寺説は確定的だが、さらに確実に自分の説をより強固にするためにはあとどのような証明が必要か」
学生たち「・・・・・」
私「簡単だ。乾隆年間に佛香閣の本尊が白傘盖仏でなかったことを宮廷の財産目録で裏をとればいい。こうすれば、相手の息の根を完全に止めることができる」
学生たち「卒論の目的って相手の息の根を止めることなんですか」
さて、本題。いろいろな方からご寄贈いただいていた書籍を今回は一括してご紹介。出てから久しいものもあるので、すでにもっている人は要注意。
◎まず、アジアで草の根支援を行っているお坊さん集団、四方僧伽の『Little Tibet』(集広舎)。インド、ネパールのチベット難民キャンプの写真集で、収益の一部は難民コミニュティ支援に使われるとのこと。四方僧伽の活動その他はこのサイトに詳しいよ!
◎そして、これは本ではなく雑誌の『火鍋子』現代中国の作家の書いた文章を和訳して紹介する雑誌のようであるが、毎号32才で夭折したチベット人作家トンドゥプゲ(1953年生まれ)の小説が翻訳されている。この作家についてはI love Tibetでも紹介されているので詳しくはここくりっく。
この小説を和訳しているグループの一人であるO氏によると、彼の評価は相半ばしており、中国よりとして非難する人と、チベット語で小説書いているんだから(多くのチベット人作家は漢語で小説を書く)、チベットをないがしろにしてないよー、という人などいろいろ。
何にせよ、彼の小説を読むと、本土に踏みとどまって、なおかつ僧侶になるでもない、俗世の知識人のチベット人はアイデンティティが定まらず悩みが多いなあという印象を受けた。O氏によると、欧米人は漢語よりもチベット語が堪能な人が多いため、チベット人作家でもチベット語で書く人はグローバルな評価を受け、漢語で書く人は漢語を解する中国において評価を受けるらしい。
さらに、東チベットにずいずい入っている川田進先生の現地調査も毎号のっており、これもまたこの雑誌の見所。中国書籍の出版で有名な京都の朋友書店から出ているのですが、アマゾンでかえません。このレアな文学雑誌を買いたい方は直接朋友書店に連絡してください。
◎ 最新刊は『ラダック・ザンスカールの仏教壁画』(渡辺出版)

インドの東北にあたるラダック・ザンスカールはチベット文化圏。中国共産党が支配したチベット本土は社会主義思想に基づいて寺や仏像や仏塔は破壊されたが、インドの支配下にはいったこの地域は、古いチベットの姿がなお残っている。この地域には、かつて、高野山大学、種智院大学、成田山新勝寺など多くの大学が探検隊を送って報告書をつらねている。この写真集は森一司という今年80才を越えるお医者さんが1986年から2005年まで32回にわたり、平均で一年に二回この地に入り、とり続けた壁画の写真を、私財をなげうって出版されたものである。
ご本人による「あとがき」などをみると、「何のために書かれたのか分からない」仏たち、「複数の僧侶グループによって書かれたのかサインもない」などの表現があり、仏画をとり続けた情熱が、純粋に美術的なものであることが分かる(心の声; マンダラなんだから、修行や信仰を目的として書かれたにきまっとるがな 笑)。
まあ、つっこむのはそのくらいでやめておきます。写真の角度修正はチベットの建築の研究者である大岩先生、仏画の仏さまの説明についてはチベットの仏教美術の専門家である田中先生が監修しているため、そのあたりの品質は確かです。ラダック・ザンスカール好きの方、どうぞ。
マニマニ森川さんの思い出
16日の土曜日、マニマニの店長さん森川さんの追悼会が自由が丘の某イタリアンのお店で開かれた。参加者の大半は私の知らない方たちであったが、どなたもステキで、こういう方たちが回りに集まってくるという意味でも森川さんの遺徳がしのばれた。
森川さんの最期の様子について知りたい方もいらっしゃると思うので、簡単にご報告いたします。最初に断っておきますが、森川さんには本当に近くで彼女を支えていたたくさんのお友達がいらっしゃって、私の以下のお話なぞは外野中の外野であることをお含み置き下さい。
昨年、8/21 四年の学生が「話がある」というので自由が丘であう。聞けば、彼女子供がてきて、卒業前に子供が生まれるけれど、大学は休学しないで卒業したいという報告であった。
まあ、おめでとうということで、そのあと、その子にマニマニを連れて行くと、森川さんが「話がある」という。聞けば「国島店長が重病で、入院中である、この猛暑で自分も体調が悪く、一人ではもう仕事がまわせなくなっている。バイトを雇いたいと思うが、こんな状態なのであまり多額のお給料も払えない」とのこと。
私は癌で母親を亡くしているので、その時の森川さんの様子を一目みただけで、かなりまずいことが分かった。
癌は休養が第一なので、何とか力になれないかと、私のブログでチベットマニアに訴えかけてみた。もし誰も応じなかったら、自分がパートに出ようかと思っていた矢先、9月5日に森川さんからメールがあり、「すごい会社につとめていた、有能な方がバイトにきてくれた。チベットにも興味をもってくれていて、話も合う。これで心も体も少しはラクになった」との連絡があった。
この時バイトにきてくれたFさんは、まさに守護天使のような方であった。
イギリス帰り、仕事万能、滑舌良し。何より、精神的に強くて明るい。これ以後、1/17日にマニマニが閉店するまで、このFさんは次元の違うパワーで病で沈みがちな森川さんの心と体を支えてくれた。
こういう方が彼女の回りにたくさんいることが、彼女の人徳なのだと思う。
11月2日、ついに国島店長が逝去。森川さんはものすごくショックをうけてお通夜の席では支えられないと歩けないほどの状態だったという。Fさんはこの時まで彼女の真の病名を知らなかったのだが、「本当のことを言ってください」と問い、はじめて真の病名を知った。
12月15日にゼミのクリパでくばるプレゼントをかいにマニマニ行く。どうも定休日であったらしいが、気づかずにずいずい入っていったら、森川さんは仲間達と福袋の製作中であった。彼女は、私に気づくといきなりだきついて泣き出した。国島店長がなくなり、お店のしまい支度をしなければいけない、何となく彼女の気持ちがよく分かった。
病気の具合は見るからに進んでいて、そもそも閉店まで体が持つのか心配。
遠回しにご家族について伺うと、実家は千葉にあり、お姉さんもお母さんも健在だという。なので、お店が閉店したら実家でゆっくりされてはどうかと勧めてみる。不思議なことに、この日、森川さんの病気をはじめて知った日にマニマニに連れてきていたあの妊娠中の学生が愛でたく身二つになった。生まれてくるもの、去りゆくもの、これはたぶん同じことなんだ。
明けて、2011年。正月十五日に閉店するマニマニの最期にたちあうため、森川さんは酸素を連日、すいながら長年の顧客を接客し続けた。そして、マニマニは1月15日の最後の日を迎えた。Fさんが森川さんのところにきた時点では、柑橘類しか口に入らなくなっており、1月17日の森川さんの誕生日の日は、もう食べられるものがないので、ゼリーをプレゼントに贈ったという。
マニマニの閉店して一ヶ月ちょっとたったチベット暦正月(3月5日)、森川さんとFさんと、二人のお友達とともに、自由が丘でチベット正月ランチ。この頃もう森川さんは、休み休みでないと歩けない状態であった。お友達二人のうち、一人は某新聞社におつとめのAさん、もう一人は輸入会社をやってらっしゃるEさんで二人ともとても聡明でステキな女性。
そして、三月十一日の震災勃発。東京は電力不足に陥り、駅のエスカレーターは止まり、地下鉄を使って病院に通っていた森川さんは、階段をのぼることを強いられ、体力がつきていく。その後、彼女は近くのO病院に通いモルヒネをだしてもらうこととなる。
5月23日になり、お姉様のところに森川さんより「今日どうしてもO病院に入院する」という電話があり、お姉様、入院手続きのために急遽上京。森川さんの愛猫プーちゃんは、プーちゃんの兄弟がひきとられたおうちに預けられることとなる(プーちゃんは現在もこのお宅で兄弟猫とともに元気にしています!)。しかし、程なくして病院での検査や処置をいやがるようになり、どうしても家に帰りたいというので、6月4日に病院近くの彼女の部屋に戻る。家に戻ったとたんに表情はとても穏やかなものに変わったという。
翌6月5日 ご実家から、ご両親、叔母様、など多くの人がお見舞いに訪れる中、みなが集まるのを見届けたかのように、上半身を起こしたままで静かに逝去。直前まで、呼びかけると手を握り返すなどの反応があって、意識があることは確かであったという。
今日、追悼会の席には森川さんの小さな分骨用の骨壺が置かれていた。この御骨はお友達の手によって、彼女がなくなる直前まで、「元気になったらブッダガヤにもう一度いく」といっていた、ブッダガヤに散骨されるという。
この言葉からも分かるように、森川さんはなくなる直前まで自分がもうすぐ死ぬという意識がなく、本当に亡くなる直前にはじめて死を前提にした「国島店長のお母様にお世話になったのでよろしく」という言葉を口にされたという。私は目の前で母が衰弱していく過程を五年もかけて見ていたので、森川さんの場合も今、大体どのステージにあるかは分かったが、森川家は長命の家系なので、本人もご家族もまさかこんなに早く彼女がいってしまうとは思っていなかったようである。だから、まわりのお友達はみな気をもんで、「入院しようよ」「実家に戻ったら」と言い続けたが、彼女は自分に死に向かっているという意識がなかったため、まったくそのアドバイスを受け付けなかった。でも、彼女のこの最期を今日聞いて、彼女は行くべき時に行ったのだな、となんとなく思った。あのマニマニのあった自由が丘でマニマニのお友達のいるところで、彼女は生を終えたかったのだろう。
プーちゃん愛し、チベットを愛し、マニマニを愛し、マニマニにくるたくさんのお客さんたち愛した。
もうすぐ49日。森川さん、安らかにお休みください。
森川さんの最期の様子について知りたい方もいらっしゃると思うので、簡単にご報告いたします。最初に断っておきますが、森川さんには本当に近くで彼女を支えていたたくさんのお友達がいらっしゃって、私の以下のお話なぞは外野中の外野であることをお含み置き下さい。
昨年、8/21 四年の学生が「話がある」というので自由が丘であう。聞けば、彼女子供がてきて、卒業前に子供が生まれるけれど、大学は休学しないで卒業したいという報告であった。
まあ、おめでとうということで、そのあと、その子にマニマニを連れて行くと、森川さんが「話がある」という。聞けば「国島店長が重病で、入院中である、この猛暑で自分も体調が悪く、一人ではもう仕事がまわせなくなっている。バイトを雇いたいと思うが、こんな状態なのであまり多額のお給料も払えない」とのこと。
私は癌で母親を亡くしているので、その時の森川さんの様子を一目みただけで、かなりまずいことが分かった。
癌は休養が第一なので、何とか力になれないかと、私のブログでチベットマニアに訴えかけてみた。もし誰も応じなかったら、自分がパートに出ようかと思っていた矢先、9月5日に森川さんからメールがあり、「すごい会社につとめていた、有能な方がバイトにきてくれた。チベットにも興味をもってくれていて、話も合う。これで心も体も少しはラクになった」との連絡があった。
この時バイトにきてくれたFさんは、まさに守護天使のような方であった。
イギリス帰り、仕事万能、滑舌良し。何より、精神的に強くて明るい。これ以後、1/17日にマニマニが閉店するまで、このFさんは次元の違うパワーで病で沈みがちな森川さんの心と体を支えてくれた。
こういう方が彼女の回りにたくさんいることが、彼女の人徳なのだと思う。
11月2日、ついに国島店長が逝去。森川さんはものすごくショックをうけてお通夜の席では支えられないと歩けないほどの状態だったという。Fさんはこの時まで彼女の真の病名を知らなかったのだが、「本当のことを言ってください」と問い、はじめて真の病名を知った。
12月15日にゼミのクリパでくばるプレゼントをかいにマニマニ行く。どうも定休日であったらしいが、気づかずにずいずい入っていったら、森川さんは仲間達と福袋の製作中であった。彼女は、私に気づくといきなりだきついて泣き出した。国島店長がなくなり、お店のしまい支度をしなければいけない、何となく彼女の気持ちがよく分かった。
病気の具合は見るからに進んでいて、そもそも閉店まで体が持つのか心配。
遠回しにご家族について伺うと、実家は千葉にあり、お姉さんもお母さんも健在だという。なので、お店が閉店したら実家でゆっくりされてはどうかと勧めてみる。不思議なことに、この日、森川さんの病気をはじめて知った日にマニマニに連れてきていたあの妊娠中の学生が愛でたく身二つになった。生まれてくるもの、去りゆくもの、これはたぶん同じことなんだ。
明けて、2011年。正月十五日に閉店するマニマニの最期にたちあうため、森川さんは酸素を連日、すいながら長年の顧客を接客し続けた。そして、マニマニは1月15日の最後の日を迎えた。Fさんが森川さんのところにきた時点では、柑橘類しか口に入らなくなっており、1月17日の森川さんの誕生日の日は、もう食べられるものがないので、ゼリーをプレゼントに贈ったという。
マニマニの閉店して一ヶ月ちょっとたったチベット暦正月(3月5日)、森川さんとFさんと、二人のお友達とともに、自由が丘でチベット正月ランチ。この頃もう森川さんは、休み休みでないと歩けない状態であった。お友達二人のうち、一人は某新聞社におつとめのAさん、もう一人は輸入会社をやってらっしゃるEさんで二人ともとても聡明でステキな女性。
そして、三月十一日の震災勃発。東京は電力不足に陥り、駅のエスカレーターは止まり、地下鉄を使って病院に通っていた森川さんは、階段をのぼることを強いられ、体力がつきていく。その後、彼女は近くのO病院に通いモルヒネをだしてもらうこととなる。
5月23日になり、お姉様のところに森川さんより「今日どうしてもO病院に入院する」という電話があり、お姉様、入院手続きのために急遽上京。森川さんの愛猫プーちゃんは、プーちゃんの兄弟がひきとられたおうちに預けられることとなる(プーちゃんは現在もこのお宅で兄弟猫とともに元気にしています!)。しかし、程なくして病院での検査や処置をいやがるようになり、どうしても家に帰りたいというので、6月4日に病院近くの彼女の部屋に戻る。家に戻ったとたんに表情はとても穏やかなものに変わったという。
翌6月5日 ご実家から、ご両親、叔母様、など多くの人がお見舞いに訪れる中、みなが集まるのを見届けたかのように、上半身を起こしたままで静かに逝去。直前まで、呼びかけると手を握り返すなどの反応があって、意識があることは確かであったという。
今日、追悼会の席には森川さんの小さな分骨用の骨壺が置かれていた。この御骨はお友達の手によって、彼女がなくなる直前まで、「元気になったらブッダガヤにもう一度いく」といっていた、ブッダガヤに散骨されるという。
この言葉からも分かるように、森川さんはなくなる直前まで自分がもうすぐ死ぬという意識がなく、本当に亡くなる直前にはじめて死を前提にした「国島店長のお母様にお世話になったのでよろしく」という言葉を口にされたという。私は目の前で母が衰弱していく過程を五年もかけて見ていたので、森川さんの場合も今、大体どのステージにあるかは分かったが、森川家は長命の家系なので、本人もご家族もまさかこんなに早く彼女がいってしまうとは思っていなかったようである。だから、まわりのお友達はみな気をもんで、「入院しようよ」「実家に戻ったら」と言い続けたが、彼女は自分に死に向かっているという意識がなかったため、まったくそのアドバイスを受け付けなかった。でも、彼女のこの最期を今日聞いて、彼女は行くべき時に行ったのだな、となんとなく思った。あのマニマニのあった自由が丘でマニマニのお友達のいるところで、彼女は生を終えたかったのだろう。
プーちゃん愛し、チベットを愛し、マニマニを愛し、マニマニにくるたくさんのお客さんたち愛した。
もうすぐ49日。森川さん、安らかにお休みください。
震災ボランティア二題
そろそろ震災から四ヶ月たつため、被災地にボランティアに行った学生に報告してもらうこととした。一人は被災地の子供に勉強を教える教育ボランティアで、一人は普通のがれきの撤去である。以下は聞き書きですので、細かいところは不正確かも。
教育ボランティアはボランティアの中では結構珍しいものと思うので説明すると、彼の所属する教職大学院にたまたま被災地出身の子がいて、この子が何かできることはないかと考えて、教育経験を積みたい教師の卵を教師の足りてない被災地のこどもたちのもとに送ろうという組織を考えついた。
それで、毎土日、レンタカー借りて東北自動車道に乗って被災地に入り、ハードな体験をした被災地の子供たちに勉強を教えているということ。
彼の写真に映し出された学校は一階が津波でグチャグチャになって使えず、二階三階は避難所になっていた。給食も給食センターが被災してまだ貧困なものしか出せないので、へんな話だが、同じ学校内にいる避難所の人々は自衛隊の炊き出しでカレーとか食べていても、同じ学校内にいる食べ盛りの子供達がまともなものを食べられないという状態らしい。
仮設住宅は一応あるにはあるのだが、不便で無機質で、入った瞬間に食糧支援が切られるので、みな避難所からなかなか出て行かないという。被災地の人の仮設住宅への感想は、都内に住んでいた人が多摩川の河川敷に住め、と言われるような感覚らしい。そのため、学校もなかなか正常化しないのである。
そして、彼の写真は石巻とかから車で一時間くらいの小規模な集落を映し出すのだが、ここはまったく被災した時のそのまんま。、石巻や気仙沼みたいなメディアの露出の多いところはがれきの撤去も早いが、こういう地方になると「復興? それどこの国の話?」みたいになるらしい。
で、ゴールデンウィークは地元のコーディネーターが裁けないくらいのボランティアが集まったが、その後はがくっと数がへって足りないそう。阪神淡路大震災の時には、すぐ近くに無傷の大阪とか、ちょっと離れれば広島とかあったので、元気な人がすぐにかけつけられたが、今回はそもそも人口密集地から離れた沿岸部が広範囲にやられたので、とくに小さな集落なんかはそのまんまらしい。
で、避難所がうまく回っているかは子供達の表情を見ると分かるのだそうな。避難所のまとめ役をやっている人と避難所の人がうまくいっている場所では、子供は基本的に明るいし、過酷な体験をしても結構笑っているという。
しかし、大人同士がケンカしていて、クーデターとかがおきそうな避難所は子供も笑顔がなくて、ボランティアの彼らが、一緒に遊ぼうとかいっても、ボランティア、子供にバットでばんばん殴られたりするらしい。大人、仲良くしようや。
また、ボランティアの方も、長期被災地にはりついている人は、仕事してないか、仕事やめてきたか、仕事休んでいるかという人で、そういう人の中には自分のやりたいことをやりにきた、みたいな姿勢なので、現地の人と物議を醸すこともあるらしい。
で、彼らの組織は夏休みに入ったら他大の教師の卵も糾合して精力的に被災地での教師活動をやりたいらしいが、試算したら200万かかるという。レンタカー代、高速代、ガソリン代、現地の飲食費というが、それちょっとかかりすぎではないか。人間関係を培ったあとは、スカイプとか、ネットで分からないところを教えてあげるとか、もう少し効率よくしないと持続的にサービスは続けられないと思う。
次はがれき撤去のボランティアに行ったBちゃんの報告。
初日は養殖業の漁師さんが、何年後かでも事業を再開できるように、タネガキをほって集める作業。二日目はシンプルにがれきの撤去。
マスク、メット、釘とかガラスとかをふみぬかないようにするために鉄板入りの靴(消防士がはくやつでドンキに売っているらしい)をはき、特製ゴム手袋(ガラスとかで簡単にきれないやつ)で身を固めるため、ものすごく暑いらしい。これから夏に向かいボランティアの熱中症なんて話もでてきそう。
あの多数の犠牲者をだした大川小学校の先の集落に入ったそうだが、80家族のうち60家族はもうここには戻らないといい、その残ったおうちの一つの家と敷地を70人で一日かけて清掃したのだそうな。A君も言うように、テレビにうつらないもっと周辺にある集落は橋はおちっぱなし、がれきはそのまんま、まったく手つかずの状態だという。
津波で土台しか残らなかった家や横転した鉄筋ビルを見るにつけても津波の攻撃力の高さははんぱないことが分かる(7/10のNHK特集で鉄筋のビルがひっくり返ったのは液状化のためと報道されていた)。
二人が共通して言っていることは、「手つかずのところが広範囲にある」ということ、また、がれきを一応撤去したといっても、それは町の一箇所に集積されているだけで、それをどうするのかも決まっていないということ。人手は全く足りていないということ。
Bちゃんはボランティアに行った先の被災地の人の言葉に感動したという。それは、「自然の力もすごかったけど、こうしてみなさんにいろいろ助けて戴いて、人の力もすごいと思う」と。
まあ、みんなできるところからやっていきましょう。ちなみに、Aくん、「具体的な年齢をあげて、××才の人もきてるから、先生も大丈夫ですよ、いや、先生はとにかく金出してください」いうのヤメてくんない。
教育ボランティアはボランティアの中では結構珍しいものと思うので説明すると、彼の所属する教職大学院にたまたま被災地出身の子がいて、この子が何かできることはないかと考えて、教育経験を積みたい教師の卵を教師の足りてない被災地のこどもたちのもとに送ろうという組織を考えついた。
それで、毎土日、レンタカー借りて東北自動車道に乗って被災地に入り、ハードな体験をした被災地の子供たちに勉強を教えているということ。
彼の写真に映し出された学校は一階が津波でグチャグチャになって使えず、二階三階は避難所になっていた。給食も給食センターが被災してまだ貧困なものしか出せないので、へんな話だが、同じ学校内にいる避難所の人々は自衛隊の炊き出しでカレーとか食べていても、同じ学校内にいる食べ盛りの子供達がまともなものを食べられないという状態らしい。
仮設住宅は一応あるにはあるのだが、不便で無機質で、入った瞬間に食糧支援が切られるので、みな避難所からなかなか出て行かないという。被災地の人の仮設住宅への感想は、都内に住んでいた人が多摩川の河川敷に住め、と言われるような感覚らしい。そのため、学校もなかなか正常化しないのである。
そして、彼の写真は石巻とかから車で一時間くらいの小規模な集落を映し出すのだが、ここはまったく被災した時のそのまんま。、石巻や気仙沼みたいなメディアの露出の多いところはがれきの撤去も早いが、こういう地方になると「復興? それどこの国の話?」みたいになるらしい。
で、ゴールデンウィークは地元のコーディネーターが裁けないくらいのボランティアが集まったが、その後はがくっと数がへって足りないそう。阪神淡路大震災の時には、すぐ近くに無傷の大阪とか、ちょっと離れれば広島とかあったので、元気な人がすぐにかけつけられたが、今回はそもそも人口密集地から離れた沿岸部が広範囲にやられたので、とくに小さな集落なんかはそのまんまらしい。
で、避難所がうまく回っているかは子供達の表情を見ると分かるのだそうな。避難所のまとめ役をやっている人と避難所の人がうまくいっている場所では、子供は基本的に明るいし、過酷な体験をしても結構笑っているという。
しかし、大人同士がケンカしていて、クーデターとかがおきそうな避難所は子供も笑顔がなくて、ボランティアの彼らが、一緒に遊ぼうとかいっても、ボランティア、子供にバットでばんばん殴られたりするらしい。大人、仲良くしようや。
また、ボランティアの方も、長期被災地にはりついている人は、仕事してないか、仕事やめてきたか、仕事休んでいるかという人で、そういう人の中には自分のやりたいことをやりにきた、みたいな姿勢なので、現地の人と物議を醸すこともあるらしい。
で、彼らの組織は夏休みに入ったら他大の教師の卵も糾合して精力的に被災地での教師活動をやりたいらしいが、試算したら200万かかるという。レンタカー代、高速代、ガソリン代、現地の飲食費というが、それちょっとかかりすぎではないか。人間関係を培ったあとは、スカイプとか、ネットで分からないところを教えてあげるとか、もう少し効率よくしないと持続的にサービスは続けられないと思う。
次はがれき撤去のボランティアに行ったBちゃんの報告。
初日は養殖業の漁師さんが、何年後かでも事業を再開できるように、タネガキをほって集める作業。二日目はシンプルにがれきの撤去。
マスク、メット、釘とかガラスとかをふみぬかないようにするために鉄板入りの靴(消防士がはくやつでドンキに売っているらしい)をはき、特製ゴム手袋(ガラスとかで簡単にきれないやつ)で身を固めるため、ものすごく暑いらしい。これから夏に向かいボランティアの熱中症なんて話もでてきそう。
あの多数の犠牲者をだした大川小学校の先の集落に入ったそうだが、80家族のうち60家族はもうここには戻らないといい、その残ったおうちの一つの家と敷地を70人で一日かけて清掃したのだそうな。A君も言うように、テレビにうつらないもっと周辺にある集落は橋はおちっぱなし、がれきはそのまんま、まったく手つかずの状態だという。
津波で土台しか残らなかった家や横転した鉄筋ビルを見るにつけても津波の攻撃力の高さははんぱないことが分かる(7/10のNHK特集で鉄筋のビルがひっくり返ったのは液状化のためと報道されていた)。
二人が共通して言っていることは、「手つかずのところが広範囲にある」ということ、また、がれきを一応撤去したといっても、それは町の一箇所に集積されているだけで、それをどうするのかも決まっていないということ。人手は全く足りていないということ。
Bちゃんはボランティアに行った先の被災地の人の言葉に感動したという。それは、「自然の力もすごかったけど、こうしてみなさんにいろいろ助けて戴いて、人の力もすごいと思う」と。
まあ、みんなできるところからやっていきましょう。ちなみに、Aくん、「具体的な年齢をあげて、××才の人もきてるから、先生も大丈夫ですよ、いや、先生はとにかく金出してください」いうのヤメてくんない。
ダライラマin ワッシントン
ダライラマ法王はワシントンで七月六日の76才の誕生日を迎えられた。
その様子がチベット亡命社会ニュースサイト「パユル」にのっていたので、和訳してみました。
Phayul(2011 7/7)。
このニュースで述べられている通り、インド独立の父マハトマ・ガンジーの孫、公民権運動の父キング牧師の息子、アパルトヘイトを排するのに力あったデズモンド・ツツが、お祝いに参加していることは、ダライラマはこの非暴力運動の聖者たちの正当な継承者であることを示している。
では、ニュースいってみましょう。
ワシントンのベリゾン・センターには、ダライラマ猊下の76才の水曜日の誕生日を祈るために、6000人を越えるチベット人とチベット・サポーターが集まった。
この日はまた、カーラチャクラの灌頂儀礼の準備行の初日でもあった。
午前十時に「首都圏チベット人協会」(CATA)の子供達が歌を歌って、ステージ上にダライラマ法王をお迎えし、誕生日祝いのプログラムは始まった。マルチン・ルーサー・キング三世(キング牧師の息子)とアルン・ガンディー(マハトマ・ガンディーの孫)がダライラマ猊下とともにステージに上がった。
インド人、カルムキア人、モンゴル人、日本人、中国人、ブータン人、ベトナム人、アメリカ人、そしてチベット人など、様々なコミニュティの代表がダライラマ法王を称えるために伝統的な謁見の行列を作った。ダライラマ猊下はまた、猊下の人生をとった写真から構成される「JIgten Migpe」("世界のお手本"という意味 笑)という表題の写真集の初版もプレゼントされた。
ダライラマ猊下の長年にわたる友人であり、支援者であるデズモンド・ツツ司教からのビデオ・メッセージがスクリーンに映し出された。司教はダライラマ猊下に挨拶をし、猊下が世界において「比類ない、前向きな力と慈悲の存在である」ことを褒め称えた。
アルン・ガンディーはみなに猊下への誕生プレゼントとして非暴力の誓いを立てるようにと聴衆へと呼びかけた。
マルチン・ルーサー・キング三世はダライラマを「巨大な精神的な指導者」と呼び、「今日われわれは平和と善意に対する勇気と献身の素晴らしいお手本を祝している。われわれはあなたのビジョンあるリーダーシップから、希望とインスピレーションを得ている。」
ダライラマ猊下は演説の中で、デズモンド・ツツ大司教、アルン・ガンディー、マルチン・ルーサー・キング三世と聴衆に感謝をした。ダライラマ猊下は繰り返し宗教的な調和を強調し、「幸福の真の源泉は我々の外にではなく、内側にある」ことを述べた。
猊下はチベットにいるチベット人とベリゾン・センターに集まったチベット人にチベット語で、話しかけた。
チベットの精神的な指導者はチベット語を維持していくことの重要性を強調し、「ただチベット語だけが、仏陀の教えをもっとも理解しやすく記録できる言語である」と述べ、チベットの学生たちに、高等教育を受けること、様々な分野で専門教育を受けるように勧めた。
また、最近、政治権力を委譲したことについて触れて、ダライラマ猊下は「〔この政治権力の委譲は〕私がチベット問題の解決に絶望して行ったことではありません。それどころか、この変化はポジティブな発展なのです。この政治権力の委譲が成功裏にすすめば、チベット亡命政府により正当性がますばかりか、チベット政府の長い目でみた存続のための基礎を固めることとなるのです。」
中国は繰り返し『チベット問題はただ一人ダライラマとだけ議論する』と主張し続けていますが、私が政治的な権限を委譲したことは完全にこの主張の根拠をなくすこととなります。」
カーラチャクラ灌頂の参加者は、ダライラマ猊下の人生と偉業を祝うためにナショナル・モールでパレードを行い、最後はこれらのパレードの参加者がハッピバースディ・ソングを歌って、プログラムは締めくくられた。
これはダライラマ猊下の三十一回目のカーラチャクラ灌頂である。このイベントは「首都圏チベット人協会」によって企画されたものである。
例によって訳はいい加減です。原文みたい人はphayulで検索してください。
ちなみに、文章中で猊下に奉呈された「世界のお手本」という写真集には世界中の人から誕生日メッセージがのっているはずである。かくいう私も、法王事務所から一文よせてくれと言われていたから。
でもね、その締め切りが三月十五日だったんですよ。そう、震災の四日後。
あの三月十五日、わたしは刻々とあがっていく放射能値をみながら、つけっぱなしのNHKが「マジデヤバイ」と言うのをききながら、みながはだしで首都圏から逃げ出すのを横目でみながら、
「法王様、お誕生日おめでとうございます」なんて文作していたんですよ。我ながら、すごいぜ自分。
で、メールで事務所に原稿送って、念のため電話を入れたら、事務所応答なし。それから一週間くらいまったく連絡とれず。というわけで、あの時の私の原稿はちゃんとインドに届いてこの写真集にのっているのか、謎なのである。載っていることを祈る。
その様子がチベット亡命社会ニュースサイト「パユル」にのっていたので、和訳してみました。
Phayul(2011 7/7)。
このニュースで述べられている通り、インド独立の父マハトマ・ガンジーの孫、公民権運動の父キング牧師の息子、アパルトヘイトを排するのに力あったデズモンド・ツツが、お祝いに参加していることは、ダライラマはこの非暴力運動の聖者たちの正当な継承者であることを示している。
では、ニュースいってみましょう。
ワシントンのベリゾン・センターには、ダライラマ猊下の76才の水曜日の誕生日を祈るために、6000人を越えるチベット人とチベット・サポーターが集まった。
この日はまた、カーラチャクラの灌頂儀礼の準備行の初日でもあった。
午前十時に「首都圏チベット人協会」(CATA)の子供達が歌を歌って、ステージ上にダライラマ法王をお迎えし、誕生日祝いのプログラムは始まった。マルチン・ルーサー・キング三世(キング牧師の息子)とアルン・ガンディー(マハトマ・ガンディーの孫)がダライラマ猊下とともにステージに上がった。
インド人、カルムキア人、モンゴル人、日本人、中国人、ブータン人、ベトナム人、アメリカ人、そしてチベット人など、様々なコミニュティの代表がダライラマ法王を称えるために伝統的な謁見の行列を作った。ダライラマ猊下はまた、猊下の人生をとった写真から構成される「JIgten Migpe」("世界のお手本"という意味 笑)という表題の写真集の初版もプレゼントされた。
ダライラマ猊下の長年にわたる友人であり、支援者であるデズモンド・ツツ司教からのビデオ・メッセージがスクリーンに映し出された。司教はダライラマ猊下に挨拶をし、猊下が世界において「比類ない、前向きな力と慈悲の存在である」ことを褒め称えた。
アルン・ガンディーはみなに猊下への誕生プレゼントとして非暴力の誓いを立てるようにと聴衆へと呼びかけた。
マルチン・ルーサー・キング三世はダライラマを「巨大な精神的な指導者」と呼び、「今日われわれは平和と善意に対する勇気と献身の素晴らしいお手本を祝している。われわれはあなたのビジョンあるリーダーシップから、希望とインスピレーションを得ている。」
ダライラマ猊下は演説の中で、デズモンド・ツツ大司教、アルン・ガンディー、マルチン・ルーサー・キング三世と聴衆に感謝をした。ダライラマ猊下は繰り返し宗教的な調和を強調し、「幸福の真の源泉は我々の外にではなく、内側にある」ことを述べた。
猊下はチベットにいるチベット人とベリゾン・センターに集まったチベット人にチベット語で、話しかけた。
チベットの精神的な指導者はチベット語を維持していくことの重要性を強調し、「ただチベット語だけが、仏陀の教えをもっとも理解しやすく記録できる言語である」と述べ、チベットの学生たちに、高等教育を受けること、様々な分野で専門教育を受けるように勧めた。
また、最近、政治権力を委譲したことについて触れて、ダライラマ猊下は「〔この政治権力の委譲は〕私がチベット問題の解決に絶望して行ったことではありません。それどころか、この変化はポジティブな発展なのです。この政治権力の委譲が成功裏にすすめば、チベット亡命政府により正当性がますばかりか、チベット政府の長い目でみた存続のための基礎を固めることとなるのです。」
中国は繰り返し『チベット問題はただ一人ダライラマとだけ議論する』と主張し続けていますが、私が政治的な権限を委譲したことは完全にこの主張の根拠をなくすこととなります。」
カーラチャクラ灌頂の参加者は、ダライラマ猊下の人生と偉業を祝うためにナショナル・モールでパレードを行い、最後はこれらのパレードの参加者がハッピバースディ・ソングを歌って、プログラムは締めくくられた。
これはダライラマ猊下の三十一回目のカーラチャクラ灌頂である。このイベントは「首都圏チベット人協会」によって企画されたものである。
例によって訳はいい加減です。原文みたい人はphayulで検索してください。
ちなみに、文章中で猊下に奉呈された「世界のお手本」という写真集には世界中の人から誕生日メッセージがのっているはずである。かくいう私も、法王事務所から一文よせてくれと言われていたから。
でもね、その締め切りが三月十五日だったんですよ。そう、震災の四日後。
あの三月十五日、わたしは刻々とあがっていく放射能値をみながら、つけっぱなしのNHKが「マジデヤバイ」と言うのをききながら、みながはだしで首都圏から逃げ出すのを横目でみながら、
「法王様、お誕生日おめでとうございます」なんて文作していたんですよ。我ながら、すごいぜ自分。
で、メールで事務所に原稿送って、念のため電話を入れたら、事務所応答なし。それから一週間くらいまったく連絡とれず。というわけで、あの時の私の原稿はちゃんとインドに届いてこの写真集にのっているのか、謎なのである。載っていることを祈る。
法王の76才誕生パーティ
7月6日はダライラマ法王の誕生日なので、その直前の土曜日である2日、恒例の法王のお誕生日を祝う会が開催された。まず、午後一に新宿の常圓寺で、チベット・サポーターによる、チベット・コスプレお誕生日会が行われていた。
そして夕方より、法王事務所主催でホテルの宴会場で法王の76才のお誕生日パーティが開催された。私は毎年行くわけではないのだが、今年は訳あって参上した。会場には三和書籍のO君も来ている。
最初にダライラマ法王に対して在日チベット人が長寿儀礼(テンシュク)を献ずる。
そしてラクパ代表のご挨拶。今年法王が政治のトップから退かれ、難民たちがダライラマに依存せずにコミニュティをまわす準備ができたこと、今月の6日から16日まで法王はワシントンに滞在されて、カーラチャクラの灌頂を行い、アメリカの平和と繁栄ならびに世界平和を祈ること(詳細はココ)、今まで中国にびびってダライラマ法王にビザをだしてこなかった韓国ももうすぐ法王がいく可能性があること、2008年以来、中国政府の本土チベットに対する締め付けはサイアクであり、今もキルティ寺の僧侶150名が当局に連行されて行方不明であることなどが述べられた。
続いて、チベット問題を考える議員連盟の牧野聖修議員のお話。政治家なので、なんかしゃべりが選挙演説っほ゜い。話の内容「チベット問題を考える議員連盟は19年前から始まったが、そのメンバーだった鳩山さん、枝のさんはご存じの通りの出世で」というところで、ビミョウな雰囲気が会場に流れた。だって、彼らは確かに出世したけど、チベット問題には何も寄与していなんだもん。鳩山さんに至っては日米関係をグチャグチャに・・・。むなしい。
で、次が猊下を沖縄にお呼びした長嶺医師。本土チベットを始めて旅行されたとかで、ラサの厳戒体制を語る。で、次のスピーチが今年秋に猊下を日本にお招きする高野山大学副学長。法王は高野山で金剛界マンダラの灌頂を授けられる。
で、私の番。もう聴衆はそうとう飽きてきていて、前の方の人しか聞いてないが、その方が気楽でいい。ラクパさんから、「今年法王が政治から引退した話を解説して」と頼まれていたので、
「ダライラマ法王を政教のトップにすえる体制が、1642年にはじまり、以後1959年のダライラマの亡命までの間、チベットでは王や貴族は単なる行政官であり、政治の最高責任者はダライラマであった。
しかし、今年三月の法王の引退表明によって、1642年に始まった政教一致のガンデンポタン政権が終わり、これはチベット史の画期であること。
1959年にチベットが失われた時、ダライラマはダライラマ一人にすべてが集中する今のままの体制では、自分に何かあった時、チベット文化は終わってしまうことを憂慮して、ずっと難民たちに自分たちで自立して政治を行うように働きかけてきた。
しかし、国を失って混乱する難民たちは、ダライラマに従うことを選び、それでもことあるごとにダライラマはチベット難民たちに自立を呼びかけてきた。で、ダライラマ法王が高齢になってきたことを受け、ここ十年は難民社会もじょじょに腹を括ってきた。それをみたダライラマ法王は、今年の首相選で俗人のロプサン・センゲが首相に選出されたことを契機に、政治の実権を彼にゆずることを正式に表明したのである。
ダライラマは一人の人間が転生しているため、前のダライラマがなくなって次のダライラマがつくまでの間には最低でも20年間の政治的空白が生じる。今のチベット難民社会で、そのような長期にわたる政治的空白が致命的なダメージになることは言うまでもない。ダライラマはX-dayの後にも難民たちが自分たちで政治をきりもりする能力を持てるようにと、今年あえて賢人政治に幕を引いたのである。
しかし、ダライラマが宗教のトップであることは今も変わらないわけで、宗教は政治よりもはるかに包括的であるため、考えようによっては法王は俗事から解放されて純粋に宗教的な存在になったとも言える。
法王はよく「私は奇跡など起こせません。だから重い病気を患っているひとなどが、ムリをして私のところに来ることはありません。」とおっしゃっているが、国を失った24才の青年が何万もの難民の生活の世話をし、それから50年以上もチベットの文化を保持することに成功したこのことこそ、奇跡ではありませんか。
法王は4月に護国寺で震災の49日法要で来られた際に、中国軍が迫ってきた時に、チベットは国をあげて国難の打開を祈ったが、だめだった。今も私は全力をあげて祈ったが、保証はない。これからはあなたたち次第だ、とおっしゃられたが、国を失った難民たちも、震災で痛めつけられた日本人も、法王の示した道を最後は自分で辿っていかねばならない。
法王はこの前いらした時、自分は長生きするよ、とおっしゃっていた。その通り法王のご長寿を皆様とともにお祈りしたい。」てな話をする。
で、乾杯の発声は去年法王を大阪にお招きした大阪の青年商工会議所の方。
あとはみなさん各自歓談。KIKUのKさんがチベット音楽を披露したりする。写真家の野町和嘉先生が「希望はありますか」と話しかけてこられたので、「何を希望とするかによります。中国が態度を改めるかどうかということに希望があるかと言えば今の時点では厳しいです。しかし、この50年で世界がダライラマとチベットの文化を知ったこと、なんだかんだいって、武力で物事を解決することを公に良しという国が存在しないことは、法王の考え方が世界に浸透してきたことでもある。そういった意味ではわれわれには希望はある。どこに希望を設定するかですよ。」と答える。
誰かが「野町先生はイスラーム教徒だ」といっていたので、そうかと思っていたが、話を伺ってみると、意外にイスラームに対して冷めた見方をしていて、チベット仏教に対して評価が高い。やはり断片的な噂で人のカラーを決めつけてはいけないな。
今日はウイグル蜂起二周年のデモも日比谷公園であった。なんか毎月のように中国共産党は世界的に有名な不名誉な記念日をもっているね。ダライラマの誕生日は世界中の人々が純粋な気持ちでお祝いしているが、中国が盛大に祝う記念日は、世界中から冷ややかな目で見られている。
チャイナ基準が世界基準になる日だけはとにかく来てほしくねー。
そして夕方より、法王事務所主催でホテルの宴会場で法王の76才のお誕生日パーティが開催された。私は毎年行くわけではないのだが、今年は訳あって参上した。会場には三和書籍のO君も来ている。
最初にダライラマ法王に対して在日チベット人が長寿儀礼(テンシュク)を献ずる。
そしてラクパ代表のご挨拶。今年法王が政治のトップから退かれ、難民たちがダライラマに依存せずにコミニュティをまわす準備ができたこと、今月の6日から16日まで法王はワシントンに滞在されて、カーラチャクラの灌頂を行い、アメリカの平和と繁栄ならびに世界平和を祈ること(詳細はココ)、今まで中国にびびってダライラマ法王にビザをだしてこなかった韓国ももうすぐ法王がいく可能性があること、2008年以来、中国政府の本土チベットに対する締め付けはサイアクであり、今もキルティ寺の僧侶150名が当局に連行されて行方不明であることなどが述べられた。
続いて、チベット問題を考える議員連盟の牧野聖修議員のお話。政治家なので、なんかしゃべりが選挙演説っほ゜い。話の内容「チベット問題を考える議員連盟は19年前から始まったが、そのメンバーだった鳩山さん、枝のさんはご存じの通りの出世で」というところで、ビミョウな雰囲気が会場に流れた。だって、彼らは確かに出世したけど、チベット問題には何も寄与していなんだもん。鳩山さんに至っては日米関係をグチャグチャに・・・。むなしい。
で、次が猊下を沖縄にお呼びした長嶺医師。本土チベットを始めて旅行されたとかで、ラサの厳戒体制を語る。で、次のスピーチが今年秋に猊下を日本にお招きする高野山大学副学長。法王は高野山で金剛界マンダラの灌頂を授けられる。
で、私の番。もう聴衆はそうとう飽きてきていて、前の方の人しか聞いてないが、その方が気楽でいい。ラクパさんから、「今年法王が政治から引退した話を解説して」と頼まれていたので、
「ダライラマ法王を政教のトップにすえる体制が、1642年にはじまり、以後1959年のダライラマの亡命までの間、チベットでは王や貴族は単なる行政官であり、政治の最高責任者はダライラマであった。
しかし、今年三月の法王の引退表明によって、1642年に始まった政教一致のガンデンポタン政権が終わり、これはチベット史の画期であること。
1959年にチベットが失われた時、ダライラマはダライラマ一人にすべてが集中する今のままの体制では、自分に何かあった時、チベット文化は終わってしまうことを憂慮して、ずっと難民たちに自分たちで自立して政治を行うように働きかけてきた。
しかし、国を失って混乱する難民たちは、ダライラマに従うことを選び、それでもことあるごとにダライラマはチベット難民たちに自立を呼びかけてきた。で、ダライラマ法王が高齢になってきたことを受け、ここ十年は難民社会もじょじょに腹を括ってきた。それをみたダライラマ法王は、今年の首相選で俗人のロプサン・センゲが首相に選出されたことを契機に、政治の実権を彼にゆずることを正式に表明したのである。
ダライラマは一人の人間が転生しているため、前のダライラマがなくなって次のダライラマがつくまでの間には最低でも20年間の政治的空白が生じる。今のチベット難民社会で、そのような長期にわたる政治的空白が致命的なダメージになることは言うまでもない。ダライラマはX-dayの後にも難民たちが自分たちで政治をきりもりする能力を持てるようにと、今年あえて賢人政治に幕を引いたのである。
しかし、ダライラマが宗教のトップであることは今も変わらないわけで、宗教は政治よりもはるかに包括的であるため、考えようによっては法王は俗事から解放されて純粋に宗教的な存在になったとも言える。
法王はよく「私は奇跡など起こせません。だから重い病気を患っているひとなどが、ムリをして私のところに来ることはありません。」とおっしゃっているが、国を失った24才の青年が何万もの難民の生活の世話をし、それから50年以上もチベットの文化を保持することに成功したこのことこそ、奇跡ではありませんか。
法王は4月に護国寺で震災の49日法要で来られた際に、中国軍が迫ってきた時に、チベットは国をあげて国難の打開を祈ったが、だめだった。今も私は全力をあげて祈ったが、保証はない。これからはあなたたち次第だ、とおっしゃられたが、国を失った難民たちも、震災で痛めつけられた日本人も、法王の示した道を最後は自分で辿っていかねばならない。
法王はこの前いらした時、自分は長生きするよ、とおっしゃっていた。その通り法王のご長寿を皆様とともにお祈りしたい。」てな話をする。
で、乾杯の発声は去年法王を大阪にお招きした大阪の青年商工会議所の方。
あとはみなさん各自歓談。KIKUのKさんがチベット音楽を披露したりする。写真家の野町和嘉先生が「希望はありますか」と話しかけてこられたので、「何を希望とするかによります。中国が態度を改めるかどうかということに希望があるかと言えば今の時点では厳しいです。しかし、この50年で世界がダライラマとチベットの文化を知ったこと、なんだかんだいって、武力で物事を解決することを公に良しという国が存在しないことは、法王の考え方が世界に浸透してきたことでもある。そういった意味ではわれわれには希望はある。どこに希望を設定するかですよ。」と答える。
誰かが「野町先生はイスラーム教徒だ」といっていたので、そうかと思っていたが、話を伺ってみると、意外にイスラームに対して冷めた見方をしていて、チベット仏教に対して評価が高い。やはり断片的な噂で人のカラーを決めつけてはいけないな。
今日はウイグル蜂起二周年のデモも日比谷公園であった。なんか毎月のように中国共産党は世界的に有名な不名誉な記念日をもっているね。ダライラマの誕生日は世界中の人々が純粋な気持ちでお祝いしているが、中国が盛大に祝う記念日は、世界中から冷ややかな目で見られている。
チャイナ基準が世界基準になる日だけはとにかく来てほしくねー。
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