ソローの名言
最近、優秀で、まじめで、性格もよく、容姿も人並みかそれ以上な学生が、おしなべて暗い。自分に自信がもてず、鬱々として、始める前からもう「勝てる気がしない」みたいな表情をして全般に無気力であるなんてことが多い。
複数の学生がこう言うのを聞いた。
「自分たちは生まれた時にはすでに日本は景気後退期に入っており、幼少のみぎりには阪神大震災で、大學に入ったらリーマンショック、そしてあまつさえ今年は東日本大震災まできて未曾有の就職難。自分たちの世代はそれ以前の世代にくらべて割をくっている。
昔は才能があろうがなかろうが時代の波にのって誰でも社長になれたが、自分たちの時代は才能があっても不景気でチャンスがこない」
また、ある青年も「こんな世界を作っておいて、このような事態になるとオトナは『若者に期待する』とかいうが、無責任。若者がそこに至ることができるように、大人は具体的にサポートせよ」みたいな、ことを言い出す。
これら若者の主張からは、若さゆえのパワーも、きらめきも、さわやかさも、そして愚かさも、なにも感じられない。むしろ、人生にゆきづまったオッサンの加齢臭がする(笑)。そしてなぜか若者は「昭和」を『オールウェイズ三丁目の夕日』に描かれていたような、貧しいけど、互いが互いを思いやり合い、未来への希望に満ちた時代のように思っている。
おそらくは大人の皆様方は、先ほどの若者の主張に対して、青筋たててこうおっしゃることだろう。
「何でもかんでも回りのせいにするんじゃない。我々は米ソ中の大気中水爆実験で今よりもっと高い放射能をあびまくり、河川も海もヘドロでどろどろ、残留農薬食品食べまくり、排ガス規制もなく、禁煙車もなく、女性専用車もなく、石油ショック、ジャパンバッシング、円高不況の最中も身を粉にして働き続けた(バブルは棚上げ 笑)。社会にはあらゆる差別が当然のことのように蔓延していた。なにが楽園だ、甘えてんじゃねえ」と。
しかし、新旧の世代間で「へたれ!」「上から目線!」と言い合っていても仕方ない。まあ、かつての人々には、貧しさ、過酷な自然、とか、差別とか、階級格差とか、戦うべき不条理があった。人はそれを乗り越える過程で、智慧をしぼってテクノロジーを発展させ、他人と協調するすべを身につけ、精神的にもタフになり、自然と大人になっていった(一部なれないまま社会のお荷物になっている年だけオトナもいるけど)。
しかし、今の子供たちは生まれた頃からすべてを手にしている。彼らは生来、平等、平和、共生、などの反論をゆるさない正義の産湯につかり、ものわかりの良い親、しからない先生などに囲まれて育つため、基本苦労を知らない。うたれ弱い。
そして、頭のいい子は、早くから周囲に因縁を付けるべき対象がないことに気づき、本当の問題は「正義を実行できない自分の無力」「自分の未熟」であることに気づく。すると、失敗に対して極端に臆病となり、失敗とも言えないような躓きで心が折れてしまう。
一方、もう少し未熟な子は、自分が理想を実現できないことを天災・人災・時代のせいにして、自分の欠点の直視を避ける。でもいずれの場合も、問題の根本的解決にはなってないため、そこからは成長も発展も生まれてこない。
適度の不幸・不条理は(適度の基準はその人の耐性によっって大きくも小さくもなる 笑)、かえって生長を促す。しかし、今の子は、そういうものが何もないぬるま湯の中で育つから、頭はでっかち、肉体は快楽追求という、外見的には怠惰で無気力な悩める個体となる。今時の精密機器と同じく、多機能で精巧だが簡単に壊れるので、ソユーズのように単機能で頑丈なオッサンたちには理解不能。
かくして、院生Mが嬉しげに「今はシンガポール人の方が国民一人頭がGNP稼いでるんですよー」ということになる。そりゃそうだろう、現にあんたも働いてないしな。
このような悩める若者たちに福音となるのは、当たり前のことである。
「無力な自分」を克服するためには「あるべき自分」を実現することである。「あるべき自分」とは、自他に恥じない普遍的な人格である。
一方、それを実現するためには、能力が必要である。なので、子供はまずはスキル(ワザ)を身につけるために、そのワザを保持する世間と交わり、失敗や成功を繰り返す中で、時間をかけてそのワザを身につけ、それに伴って自分を成長させていかねばならない。
これについて19世紀のアメリカの思想家ディビッド・ソローは『森の生活』の結びの中で、このような美しい文章を書いている。
われわれアメリカ人、つまり現代人は、古代人、いやエリザベス朝の人々と比較しても知的に子供である。だからどうだというのだ?・・・自分が子供であるという理由で、自分で首をつって死んでしまえば、なれる可能性があったかもしれない、最も立派な子供になることもできなくなると思わないか?
どんな人間にも自分に与えられた仕事がある。己が人間としての人格を身につける努力をしようではないか。
なぜ、そんなに死にもの狂いになって成功を急ぎ、死にもの狂いになって事業に成功したいのか? ・・
クールーの町に一人の工匠がいて、完璧な仕事を目指して努力していた。ある日のこと、杖を作ることを思い立った。不完全な仕事をするなら時間が気になるが、完璧な仕事をしよう七思えば、時間など気にする事はない、と彼は考えていたので、自分の生涯で他に何も作ることがないとしても、この杖だけは、あらゆる点で完璧なものに仕上げよう、と自分に言い聞かせた。
不適当な素材で作るべきでけないと決心して、早速、材料の木を求めて森林に 入り、一本ずつ木を吟味しては捨てていくと、一緒にいた友人たちは徐々に彼を見捨てていった。というのは、友人たちが森で仕事中に年を取って死んで行ったからである。
ところが彼は瞬時たりとも年を取ることはなかったからだ。この工匠が一心不乱に仕事をし、そして、彼の気高い敬虔さのゆえに、知らず識らず、永遠の青春が彼に与えられた。彼は(時間》と妥協しなかったので、《時間》の方が遠慮し、離れた所から溜息をもらした。
・・・〔そしてこの職人は永劫の時をかけて一つの美しい細工の杖をつくる〕・・・彼が杖の石突きと頭部に宝石で飾りを付ける時までに、ブラフマンは何度も目を覚したり、微睡を繰り返していた。ところで、最後の仕上の一彫りを完了した時、その作品は突然、驚ろきうろたえる工匠の眼前で膨張し、ブラフマンが創造したあらゆる作品の中で、最も素晴らしい作品となった。こうして、彼は杖を作るうえで、新しい体系、完全で、見事な均整をもつ世界を作り出したのである。古い都も、王朝もすでに消滅していたけれども、それ以上に栄光に輝く都と王朝がこの場所に取って代わっていたのだった。
・・・われわれが物事のひょうめんだけをうまく繕っても、結局、真実に値するほど役立つものではない。永続するのは、ただ真実だけである。
今の若者は数々の問題を解決した時代に育っているため、飢えないためとか、お金儲けのため、名誉のためなどの、表層的な動機から仕事を選んでも、「望む成功を手に入れましたが、結果、思ったように幸せでありませんでした」などというオチがつくことをちゃんと分かっている。
しかし、時間を忘れるほど没頭できるような仕事を手に入れるのは難しいことである。なぜなら、そのような境地になるためには仕事をする主体に、気高い動機と、謙虚さと、勤勉さと、根気が要求されるからである。
このような美徳は今の若者にはもっとも欠けているものだから、こっからが悲劇である。若者はいろいろ手を出しては、結果がでないとみると、「~をやらない理由」「~をやめる理由」ばかりを考え始め、途中で投げ出す。しかし、そのような繰り返しの人生からは、真の意味の満足感も幸福感も得られることはない。
天職とは選ぶものではなく、天から授かるものなのである。
自分で選んだり、投げ出したりできると考えることがそもそもおこがましい。
より高いものと自らをシンクロさせつつ、己をむなしうして、まず目の前の小さなことに、取り組んでみる。
それを毎日続けているウチに、気がつくと、かつて、手が届かないと思っていたあるべき自分の姿が自然と手の届くものとなっていく。
従って重要なのは、できることを今日から始めること、そして続けることなのである。
複数の学生がこう言うのを聞いた。
「自分たちは生まれた時にはすでに日本は景気後退期に入っており、幼少のみぎりには阪神大震災で、大學に入ったらリーマンショック、そしてあまつさえ今年は東日本大震災まできて未曾有の就職難。自分たちの世代はそれ以前の世代にくらべて割をくっている。
昔は才能があろうがなかろうが時代の波にのって誰でも社長になれたが、自分たちの時代は才能があっても不景気でチャンスがこない」
また、ある青年も「こんな世界を作っておいて、このような事態になるとオトナは『若者に期待する』とかいうが、無責任。若者がそこに至ることができるように、大人は具体的にサポートせよ」みたいな、ことを言い出す。
これら若者の主張からは、若さゆえのパワーも、きらめきも、さわやかさも、そして愚かさも、なにも感じられない。むしろ、人生にゆきづまったオッサンの加齢臭がする(笑)。そしてなぜか若者は「昭和」を『オールウェイズ三丁目の夕日』に描かれていたような、貧しいけど、互いが互いを思いやり合い、未来への希望に満ちた時代のように思っている。
おそらくは大人の皆様方は、先ほどの若者の主張に対して、青筋たててこうおっしゃることだろう。
「何でもかんでも回りのせいにするんじゃない。我々は米ソ中の大気中水爆実験で今よりもっと高い放射能をあびまくり、河川も海もヘドロでどろどろ、残留農薬食品食べまくり、排ガス規制もなく、禁煙車もなく、女性専用車もなく、石油ショック、ジャパンバッシング、円高不況の最中も身を粉にして働き続けた(バブルは棚上げ 笑)。社会にはあらゆる差別が当然のことのように蔓延していた。なにが楽園だ、甘えてんじゃねえ」と。
しかし、新旧の世代間で「へたれ!」「上から目線!」と言い合っていても仕方ない。まあ、かつての人々には、貧しさ、過酷な自然、とか、差別とか、階級格差とか、戦うべき不条理があった。人はそれを乗り越える過程で、智慧をしぼってテクノロジーを発展させ、他人と協調するすべを身につけ、精神的にもタフになり、自然と大人になっていった(一部なれないまま社会のお荷物になっている年だけオトナもいるけど)。
しかし、今の子供たちは生まれた頃からすべてを手にしている。彼らは生来、平等、平和、共生、などの反論をゆるさない正義の産湯につかり、ものわかりの良い親、しからない先生などに囲まれて育つため、基本苦労を知らない。うたれ弱い。
そして、頭のいい子は、早くから周囲に因縁を付けるべき対象がないことに気づき、本当の問題は「正義を実行できない自分の無力」「自分の未熟」であることに気づく。すると、失敗に対して極端に臆病となり、失敗とも言えないような躓きで心が折れてしまう。
一方、もう少し未熟な子は、自分が理想を実現できないことを天災・人災・時代のせいにして、自分の欠点の直視を避ける。でもいずれの場合も、問題の根本的解決にはなってないため、そこからは成長も発展も生まれてこない。
適度の不幸・不条理は(適度の基準はその人の耐性によっって大きくも小さくもなる 笑)、かえって生長を促す。しかし、今の子は、そういうものが何もないぬるま湯の中で育つから、頭はでっかち、肉体は快楽追求という、外見的には怠惰で無気力な悩める個体となる。今時の精密機器と同じく、多機能で精巧だが簡単に壊れるので、ソユーズのように単機能で頑丈なオッサンたちには理解不能。
かくして、院生Mが嬉しげに「今はシンガポール人の方が国民一人頭がGNP稼いでるんですよー」ということになる。そりゃそうだろう、現にあんたも働いてないしな。
このような悩める若者たちに福音となるのは、当たり前のことである。
「無力な自分」を克服するためには「あるべき自分」を実現することである。「あるべき自分」とは、自他に恥じない普遍的な人格である。
一方、それを実現するためには、能力が必要である。なので、子供はまずはスキル(ワザ)を身につけるために、そのワザを保持する世間と交わり、失敗や成功を繰り返す中で、時間をかけてそのワザを身につけ、それに伴って自分を成長させていかねばならない。
これについて19世紀のアメリカの思想家ディビッド・ソローは『森の生活』の結びの中で、このような美しい文章を書いている。
われわれアメリカ人、つまり現代人は、古代人、いやエリザベス朝の人々と比較しても知的に子供である。だからどうだというのだ?・・・自分が子供であるという理由で、自分で首をつって死んでしまえば、なれる可能性があったかもしれない、最も立派な子供になることもできなくなると思わないか?
どんな人間にも自分に与えられた仕事がある。己が人間としての人格を身につける努力をしようではないか。
なぜ、そんなに死にもの狂いになって成功を急ぎ、死にもの狂いになって事業に成功したいのか? ・・
クールーの町に一人の工匠がいて、完璧な仕事を目指して努力していた。ある日のこと、杖を作ることを思い立った。不完全な仕事をするなら時間が気になるが、完璧な仕事をしよう七思えば、時間など気にする事はない、と彼は考えていたので、自分の生涯で他に何も作ることがないとしても、この杖だけは、あらゆる点で完璧なものに仕上げよう、と自分に言い聞かせた。
不適当な素材で作るべきでけないと決心して、早速、材料の木を求めて森林に 入り、一本ずつ木を吟味しては捨てていくと、一緒にいた友人たちは徐々に彼を見捨てていった。というのは、友人たちが森で仕事中に年を取って死んで行ったからである。
ところが彼は瞬時たりとも年を取ることはなかったからだ。この工匠が一心不乱に仕事をし、そして、彼の気高い敬虔さのゆえに、知らず識らず、永遠の青春が彼に与えられた。彼は(時間》と妥協しなかったので、《時間》の方が遠慮し、離れた所から溜息をもらした。
・・・〔そしてこの職人は永劫の時をかけて一つの美しい細工の杖をつくる〕・・・彼が杖の石突きと頭部に宝石で飾りを付ける時までに、ブラフマンは何度も目を覚したり、微睡を繰り返していた。ところで、最後の仕上の一彫りを完了した時、その作品は突然、驚ろきうろたえる工匠の眼前で膨張し、ブラフマンが創造したあらゆる作品の中で、最も素晴らしい作品となった。こうして、彼は杖を作るうえで、新しい体系、完全で、見事な均整をもつ世界を作り出したのである。古い都も、王朝もすでに消滅していたけれども、それ以上に栄光に輝く都と王朝がこの場所に取って代わっていたのだった。
・・・われわれが物事のひょうめんだけをうまく繕っても、結局、真実に値するほど役立つものではない。永続するのは、ただ真実だけである。
今の若者は数々の問題を解決した時代に育っているため、飢えないためとか、お金儲けのため、名誉のためなどの、表層的な動機から仕事を選んでも、「望む成功を手に入れましたが、結果、思ったように幸せでありませんでした」などというオチがつくことをちゃんと分かっている。
しかし、時間を忘れるほど没頭できるような仕事を手に入れるのは難しいことである。なぜなら、そのような境地になるためには仕事をする主体に、気高い動機と、謙虚さと、勤勉さと、根気が要求されるからである。
このような美徳は今の若者にはもっとも欠けているものだから、こっからが悲劇である。若者はいろいろ手を出しては、結果がでないとみると、「~をやらない理由」「~をやめる理由」ばかりを考え始め、途中で投げ出す。しかし、そのような繰り返しの人生からは、真の意味の満足感も幸福感も得られることはない。
天職とは選ぶものではなく、天から授かるものなのである。
自分で選んだり、投げ出したりできると考えることがそもそもおこがましい。
より高いものと自らをシンクロさせつつ、己をむなしうして、まず目の前の小さなことに、取り組んでみる。
それを毎日続けているウチに、気がつくと、かつて、手が届かないと思っていたあるべき自分の姿が自然と手の届くものとなっていく。
従って重要なのは、できることを今日から始めること、そして続けることなのである。
死後に持っていけるもの(後編)
第一章 四節
この有暇具足は極めて得難い。〔人身を得ることによって〕人の目的(解脱と一切智者の境地)を達成可能なものとなる。dal 'byor 'di ni rnyed par shin tu dka' / skyes bu'i don sgrub thob par gyur pa la
この〔人の身を得た〕チャンスを活用できないとするなら、後で〔このような仏教を学べる条件が〕揃うことがどうしてあろうか。/ gal te 'di la phan pa ma bsgrubs na / phyis 'di yang dag 'byor bar ga la 'gyur
ダライラマ法王はいつもこうおっしゃっている。昔は仏教徒の父母をもっていたから仏教徒となり、僧院に入ると回りのみなが仏教を勉強しているから自分も仏教を勉強するというものであった。しかし、21世紀の仏教徒のあり方はそのようである必要はない。仏の教えと言われるのものであっても盲信してはならず、金の真贋を確かめるように、注意深くその教えと言われるものを分析し、その結果、真だと思ったものを修しなさい。仏教とは自分の欲をつらぬくためにではなく、世界のためにあるものである。従って、仏教徒だから仏教を修するのではなく、我々一人一人が仏の教えを分析して、その結果、仏教とは世のため人のためになる普遍的な教えであるから、それを修しよう、という意識をもたねばならない。
この最初の文章の「人の目的」とは、仏の境地(人格者)を得ることである。業(行為)と煩悩がなくなると輪廻から解脱することができる。この輪廻に我々を縛り付けているのは、エゴ(我執)である。私というものは、じつは様々な条件のもとによりあつまった精神と肉体(五蘊)に名前がついただけのものであり、その実体はない(無我)。しかし、我々はこの精神と肉体だけのものに独立した実体である「私」(我)をみいだし、それに拘って様々な苦しみを生み出している。
このエゴ(我執)を取り除いてくれるのが、「空を理解する智」である。グンタンリンポチェもこういうておる「空を理解する智なくしては、仏陀がこの世に現れた目的を達成することはできない」と。
心は本来清浄なものである。濁った水もしばらく時間がたつと、汚れが沈殿して水は澄んでいく。水と汚れは別のものであるからこのように分離するのである。また、雲に覆われた空も、時間がたつと雲がはれ、空が見えることから、空と雲も別の者であることが分かる。
心と煩悩もこのようなものであり、心から煩悩を取り去ることは可能である。煩悩はあくまでも心にとって外からきた客なのである(客塵煩悩)。従って、すべての人は煩悩をとりさって仏となることができるのである。
死はいつやってくるか分からない。したがって、今すぐ体と言葉と心を正すことをはじめよ。今日始めれば、来週はずいぶん変わってくる。そして一年後にはもっと変わっている。毎日行い、慣れてくると、善行も難しいことではなく、とても簡単なものになっていく。だから、今すぐはじめなさい。死ぬ瞬間に後悔しても、もう遅い。今からはじめなさい。
第二章三十三節~三十五節
信用できない死神は〔悪業を浄化する〕行為をしたかどうかを問うことはない。病気であっても健康であっても皆、〔寿命が来ないのに〕突然〔死ぬのであるから、〕何も確固としたものはないのである。
〔友も財産も生を受けたこの体も〕すべてを捨てて〔この世を〕去らねばならないのに、それを理解することなく、親しき者の〔を護る〕ためにも、親しくない者〔を憎む〕のためにも、様々な罪業をおかしてきた。
親しくない者もいなくなり、親しい者もいなくなり、そして私もいなくなるだろう。全てのものが無くなっていく。
死は突然やってくるものだ。それがいつ訪れるのか、誰にもわからない。病でなくても人は死ぬので、病で死ぬ時期が決まるというものでもない。だから病は死の条件の一つであって原因ではない。しかし、覚りを開いた者は別名、勝者(jina)という。これは何に勝利したのかというと、四つのものすなわち、死魔(=死)、蘊魔、煩悩魔、天魔に勝った者という意味だ。菩薩はより多くの人を救うためにより効果的な転生をするために死ぬ時期も、死後の転生先もコントロールすることができる。
煩悩に勝利したとはこういうことである。ある二つの国が戦争している。戦争をしている間だ、その両国は敵同士である。しかし、戦争はいずれ終わる。戦争が終わるともはやその相手国は敵国ではない。永遠の敵国などは存在しないのである。一方、我々の煩悩の元にあるエゴ(我執)は、始まりのない昔から自分を苦しめ、自らを幾度も地獄に落とし続けてきた。本当の敵は実は自分の内にある煩悩なのである。
第二障四十節~四十一節
死の床に臥せる時、家族や友人たちがいくら私を取り囲んでいても
命を断つ苦しみは、自分一人だけで味わわなければならない。
死神の使者(死)に捕まるとき、家族や友達が何の役に立つだろうか。
その時、救ってくれるのは福徳(善業)だけだというのに、私は無為に過ごしてきてしまった。
死の床にあっては、家族も友人も何の役に立たない。あの世につれていくこともできない。真の敵は自分の中にある煩悩であるとするなら、死後もつれていくことのできる真の友は〔意識の中に残る〕善行、すなわち、体によって行う良い行い、正しい言葉使い、正しい心の持ち方である。だから、生きている間に無為に過ごしてはならない。
第二章五十四節~五十八節
普通の病気であっても、おびえて医師の言葉に従おうとするのであれば、執着などの百罪の病に常に襲われている〔ものが、最上の医者である仏の言葉に従うべきな〕のは言うまでもない。
たった一つの煩悩であっても、贍部州(世界)に住む全ての人を破滅させる。その〔ような煩悩という大病〕を治す薬は〔仏のお言葉以外の〕どこを探しても見つからない。
その〔煩悩という病〕を〔治す〕医者である一切智者(仏)は、すべての痛みを除きさる。それゆえ仏の教えに従わない者は、何とも無知なものだと非難される。
ただの低い崖においても注意して立つべきであるならば、〔地獄に落ちるという〕千由旬も落下しなければならない断崖については言うまでもない。
今日だけは死なないと、どうして安心していられるのか。私が無に帰する時は、確実にやってくるのである。
肺がんで死んだら来世は地獄に落ちるとか、脳卒中で死んだら餓鬼道に落ちるとか、そのようなことはない。病と悪しき転生はまったく無関係である。では何によって地獄や餓鬼などの境涯におちて苦しむのかといえば、自らの煩悩によってである。今生におけるこのような大したことのない病気に罹っても、医者に頼ってあれこれ健康になろうと努力するのであれば、始まりのない昔から自分を苦しめてきた煩悩を、最高の医者(仏)の教えに従って、エゴを治そうと努力するのが当然ではないか。
ダライラマ法王はこうおっしゃっておる。「僧侶は兵隊のようなものである。慈悲(菩提心)と智慧という武器をもって、煩悩という敵と戦っている」。
ちょっとした高さの段差にも手すりをつけたりして落ちないように人は努力するのに、自分を千由旬も下の奈落におとす煩悩をなぜ滅しようとしないのか。
今日だけは死なないと思うのは甘いのである。必ず人は死ぬのであーる。
第三章 二十一節~三十二節
地などの四大(世界を構成する地・水・火・風の四つの要素)や虚空〔が有情たちを支えている〕ように、どんな時でも常に無数の有情たちの様々な生きる糧とならんことを。
過去の善逝たちが菩提心を起こして菩薩行を順序正しく〔行じ〕続けたように、私も衆生の利益のために菩提心を起こし、〔善逝たちと〕同じように〔菩薩〕行を順序正しく行じられますように。
以上のように、智慧ある人は純粋な心で菩提心を保ち、最後には増大させるために、心は以下のように〔喜びを生じて〕褒め称えるべきべきである。すなわち、
今こそ私の人生は実りあるものとなり、人としての存在を得た〔ことも、実りあるものとなった〕。今日、〔私は〕仏の家系(種姓)に生まれ、仏子(菩薩)となったのである。
今や、私は何としても〔仏の〕家系に相応しい〔身口意の三〕業を始めて、欠点のない、高貴なこの〔仏の〕家系を汚さぬように〔努力〕しよう。
盲人がゴミの中から宝を得る〔のが稀有である〕ように、私がこの菩提心を起こしたのは極めて稀有なことである。
衆生〔を滅ぼす〕死神を駆逐する最上の甘露も、この〔菩提心〕である。衆生の貧困を解消する無尽蔵の宝石も、この〔菩提心〕である。
衆生の〔あらゆる〕病を癒す最上の薬も、この〔菩提心〕である。輪廻の道に迷い悩む衆生が憩う樹も、この〔菩提心〕である。
〔菩提心は〕一切の衆生を悪趣から解放する普遍的な橋である。衆生の煩悩による苦しみを取り除く心の月が登ったのである。
〔菩提心は〕衆生の無知の眼病を根底から引き抜く偉大なる太陽である。正しい法の乳を攪拌し、乳酪という神髄を得たのである。
この一節はイスラーム教徒であるインドの11代大統領アブドゥル・カラム(Abdul Kalam)が、注釈して本を出したことで有名である。時間がなくなってきたので、とんで、次の文に行こう。
第六章十節
もしも修復可能なら、それを憂うべき〔理由は〕一体何があるだろう。もしも修復不可能ならそれを憂うことに一体何の意味があるだろう。
これは「忍耐」の章からの一節である。本当の敵は今険悪な状態にある外国などではなく、自分の中にある煩悩である。仏教は実は難しいことではない。簡単なことだ。この体と言葉と心を通じてよりよい方向に向かっていくことだ。それが仏教の教えである。心は修復可能なものである。死はいつでもすぐにやってくるから、今すぐに体による行動を正しい、言葉をただし、心を正すこと始めなさい。
●ちなみに、テクストの原典はサンスクリット語ですが、ゲン・ロサン先生はチベット語の解説書を使っているわけですし、何より私がサンスクリット語よめないのでチベット語から訳しています。
この有暇具足は極めて得難い。〔人身を得ることによって〕人の目的(解脱と一切智者の境地)を達成可能なものとなる。dal 'byor 'di ni rnyed par shin tu dka' / skyes bu'i don sgrub thob par gyur pa la
この〔人の身を得た〕チャンスを活用できないとするなら、後で〔このような仏教を学べる条件が〕揃うことがどうしてあろうか。/ gal te 'di la phan pa ma bsgrubs na / phyis 'di yang dag 'byor bar ga la 'gyur
ダライラマ法王はいつもこうおっしゃっている。昔は仏教徒の父母をもっていたから仏教徒となり、僧院に入ると回りのみなが仏教を勉強しているから自分も仏教を勉強するというものであった。しかし、21世紀の仏教徒のあり方はそのようである必要はない。仏の教えと言われるのものであっても盲信してはならず、金の真贋を確かめるように、注意深くその教えと言われるものを分析し、その結果、真だと思ったものを修しなさい。仏教とは自分の欲をつらぬくためにではなく、世界のためにあるものである。従って、仏教徒だから仏教を修するのではなく、我々一人一人が仏の教えを分析して、その結果、仏教とは世のため人のためになる普遍的な教えであるから、それを修しよう、という意識をもたねばならない。
この最初の文章の「人の目的」とは、仏の境地(人格者)を得ることである。業(行為)と煩悩がなくなると輪廻から解脱することができる。この輪廻に我々を縛り付けているのは、エゴ(我執)である。私というものは、じつは様々な条件のもとによりあつまった精神と肉体(五蘊)に名前がついただけのものであり、その実体はない(無我)。しかし、我々はこの精神と肉体だけのものに独立した実体である「私」(我)をみいだし、それに拘って様々な苦しみを生み出している。
このエゴ(我執)を取り除いてくれるのが、「空を理解する智」である。グンタンリンポチェもこういうておる「空を理解する智なくしては、仏陀がこの世に現れた目的を達成することはできない」と。
心は本来清浄なものである。濁った水もしばらく時間がたつと、汚れが沈殿して水は澄んでいく。水と汚れは別のものであるからこのように分離するのである。また、雲に覆われた空も、時間がたつと雲がはれ、空が見えることから、空と雲も別の者であることが分かる。
心と煩悩もこのようなものであり、心から煩悩を取り去ることは可能である。煩悩はあくまでも心にとって外からきた客なのである(客塵煩悩)。従って、すべての人は煩悩をとりさって仏となることができるのである。
死はいつやってくるか分からない。したがって、今すぐ体と言葉と心を正すことをはじめよ。今日始めれば、来週はずいぶん変わってくる。そして一年後にはもっと変わっている。毎日行い、慣れてくると、善行も難しいことではなく、とても簡単なものになっていく。だから、今すぐはじめなさい。死ぬ瞬間に後悔しても、もう遅い。今からはじめなさい。
第二章三十三節~三十五節
信用できない死神は〔悪業を浄化する〕行為をしたかどうかを問うことはない。病気であっても健康であっても皆、〔寿命が来ないのに〕突然〔死ぬのであるから、〕何も確固としたものはないのである。
〔友も財産も生を受けたこの体も〕すべてを捨てて〔この世を〕去らねばならないのに、それを理解することなく、親しき者の〔を護る〕ためにも、親しくない者〔を憎む〕のためにも、様々な罪業をおかしてきた。
親しくない者もいなくなり、親しい者もいなくなり、そして私もいなくなるだろう。全てのものが無くなっていく。
死は突然やってくるものだ。それがいつ訪れるのか、誰にもわからない。病でなくても人は死ぬので、病で死ぬ時期が決まるというものでもない。だから病は死の条件の一つであって原因ではない。しかし、覚りを開いた者は別名、勝者(jina)という。これは何に勝利したのかというと、四つのものすなわち、死魔(=死)、蘊魔、煩悩魔、天魔に勝った者という意味だ。菩薩はより多くの人を救うためにより効果的な転生をするために死ぬ時期も、死後の転生先もコントロールすることができる。
煩悩に勝利したとはこういうことである。ある二つの国が戦争している。戦争をしている間だ、その両国は敵同士である。しかし、戦争はいずれ終わる。戦争が終わるともはやその相手国は敵国ではない。永遠の敵国などは存在しないのである。一方、我々の煩悩の元にあるエゴ(我執)は、始まりのない昔から自分を苦しめ、自らを幾度も地獄に落とし続けてきた。本当の敵は実は自分の内にある煩悩なのである。
第二障四十節~四十一節
死の床に臥せる時、家族や友人たちがいくら私を取り囲んでいても
命を断つ苦しみは、自分一人だけで味わわなければならない。
死神の使者(死)に捕まるとき、家族や友達が何の役に立つだろうか。
その時、救ってくれるのは福徳(善業)だけだというのに、私は無為に過ごしてきてしまった。
死の床にあっては、家族も友人も何の役に立たない。あの世につれていくこともできない。真の敵は自分の中にある煩悩であるとするなら、死後もつれていくことのできる真の友は〔意識の中に残る〕善行、すなわち、体によって行う良い行い、正しい言葉使い、正しい心の持ち方である。だから、生きている間に無為に過ごしてはならない。
第二章五十四節~五十八節
普通の病気であっても、おびえて医師の言葉に従おうとするのであれば、執着などの百罪の病に常に襲われている〔ものが、最上の医者である仏の言葉に従うべきな〕のは言うまでもない。
たった一つの煩悩であっても、贍部州(世界)に住む全ての人を破滅させる。その〔ような煩悩という大病〕を治す薬は〔仏のお言葉以外の〕どこを探しても見つからない。
その〔煩悩という病〕を〔治す〕医者である一切智者(仏)は、すべての痛みを除きさる。それゆえ仏の教えに従わない者は、何とも無知なものだと非難される。
ただの低い崖においても注意して立つべきであるならば、〔地獄に落ちるという〕千由旬も落下しなければならない断崖については言うまでもない。
今日だけは死なないと、どうして安心していられるのか。私が無に帰する時は、確実にやってくるのである。
肺がんで死んだら来世は地獄に落ちるとか、脳卒中で死んだら餓鬼道に落ちるとか、そのようなことはない。病と悪しき転生はまったく無関係である。では何によって地獄や餓鬼などの境涯におちて苦しむのかといえば、自らの煩悩によってである。今生におけるこのような大したことのない病気に罹っても、医者に頼ってあれこれ健康になろうと努力するのであれば、始まりのない昔から自分を苦しめてきた煩悩を、最高の医者(仏)の教えに従って、エゴを治そうと努力するのが当然ではないか。
ダライラマ法王はこうおっしゃっておる。「僧侶は兵隊のようなものである。慈悲(菩提心)と智慧という武器をもって、煩悩という敵と戦っている」。
ちょっとした高さの段差にも手すりをつけたりして落ちないように人は努力するのに、自分を千由旬も下の奈落におとす煩悩をなぜ滅しようとしないのか。
今日だけは死なないと思うのは甘いのである。必ず人は死ぬのであーる。
第三章 二十一節~三十二節
地などの四大(世界を構成する地・水・火・風の四つの要素)や虚空〔が有情たちを支えている〕ように、どんな時でも常に無数の有情たちの様々な生きる糧とならんことを。
過去の善逝たちが菩提心を起こして菩薩行を順序正しく〔行じ〕続けたように、私も衆生の利益のために菩提心を起こし、〔善逝たちと〕同じように〔菩薩〕行を順序正しく行じられますように。
以上のように、智慧ある人は純粋な心で菩提心を保ち、最後には増大させるために、心は以下のように〔喜びを生じて〕褒め称えるべきべきである。すなわち、
今こそ私の人生は実りあるものとなり、人としての存在を得た〔ことも、実りあるものとなった〕。今日、〔私は〕仏の家系(種姓)に生まれ、仏子(菩薩)となったのである。
今や、私は何としても〔仏の〕家系に相応しい〔身口意の三〕業を始めて、欠点のない、高貴なこの〔仏の〕家系を汚さぬように〔努力〕しよう。
盲人がゴミの中から宝を得る〔のが稀有である〕ように、私がこの菩提心を起こしたのは極めて稀有なことである。
衆生〔を滅ぼす〕死神を駆逐する最上の甘露も、この〔菩提心〕である。衆生の貧困を解消する無尽蔵の宝石も、この〔菩提心〕である。
衆生の〔あらゆる〕病を癒す最上の薬も、この〔菩提心〕である。輪廻の道に迷い悩む衆生が憩う樹も、この〔菩提心〕である。
〔菩提心は〕一切の衆生を悪趣から解放する普遍的な橋である。衆生の煩悩による苦しみを取り除く心の月が登ったのである。
〔菩提心は〕衆生の無知の眼病を根底から引き抜く偉大なる太陽である。正しい法の乳を攪拌し、乳酪という神髄を得たのである。
この一節はイスラーム教徒であるインドの11代大統領アブドゥル・カラム(Abdul Kalam)が、注釈して本を出したことで有名である。時間がなくなってきたので、とんで、次の文に行こう。
第六章十節
もしも修復可能なら、それを憂うべき〔理由は〕一体何があるだろう。もしも修復不可能ならそれを憂うことに一体何の意味があるだろう。
これは「忍耐」の章からの一節である。本当の敵は今険悪な状態にある外国などではなく、自分の中にある煩悩である。仏教は実は難しいことではない。簡単なことだ。この体と言葉と心を通じてよりよい方向に向かっていくことだ。それが仏教の教えである。心は修復可能なものである。死はいつでもすぐにやってくるから、今すぐに体による行動を正しい、言葉をただし、心を正すこと始めなさい。
●ちなみに、テクストの原典はサンスクリット語ですが、ゲン・ロサン先生はチベット語の解説書を使っているわけですし、何より私がサンスクリット語よめないのでチベット語から訳しています。
死後にもっていけるものは(前編)
土曜日は午後から護国寺様でゲン・ロサン先生の御法話があるので、勉強会は午前に前倒しした。
護国寺につくと会場の忠霊殿をしめすポスターの地図が間違っており、みな思い切り迷った。そしてプログラムはあっさりと変更され、最初に法王事務所の代表ラクパさんのお話があり、次にゲン・ロサン先生の法話になり、その法話が思い切り長引いたため、法要はなしになった。このアバウトさ、チベット的でいいわ。
まず、代表事務所のラクパさんから、ダライラマ法王が政治のトップから退任された話について、わかりやすく説明がある(なんせベーシック・チベットでbTibeですから)。以下箇条書き。
五年前の選挙でサムドン・リンポチェがチベット亡命社会の首相に再任された際、ダライラマ法王は「宗教のボスは私だが、政治のボスは彼だ」と述べ、半分引退していることを表明された。今回の選挙でロプサン・センゲという若い首相が誕生したことを境に、本格的に政治のトップから退任されることを表明し、このように、ダライラマ法王の政治の長からの引退は時間をかけて行われており、かつ、法王はいままでとおりチベット人のスポークスマンとしての立場は勤めるといっていることから、チベット人は法王の引退をあまり不安に思っていない。これをチベット人が、ダライラマに頼らずに自分たちの社会を運営する、自立するべき機会ととらえている(来るべきダライラマの不在期間に備えている)。
また、政府の名称も「ダライラマ猊下の中央チベット管理組織」(Central Tibetan Administration of His Holiness the Dalai Lama) となったため、「政府」(goverment)という言葉を非難していた中国は、さらに非難の対象をなくす。
中国政府は亡命政府の特使とまったく実質的な対話をすることはなかった。ただ、国際社会からの非難をそらすために対話のポーズをとっていただけである。中国はダライラマの私設特使とのみ交渉すると言い張ってきたため、ダライラマが政治の世界から引退するとこれまで言い続けてきた百万大言が無効になるため、非常に困るだろうとのこと。
ダライラマが採用してきた「実質的な自治」を求める独立と同化政策の中間の「中道のアプローチ」を受け入れていれば中国にとってもよいことであったのに、彼らは自らそのチャンスをつぶしてきたのだ。
2008年以後、中国政府のチベット人に対する締め付けはさらにひどくなっている。チベット仏教が存在する限りチベットは中国人に同化しないことに気づいた中国は、アムドの地方の小さな学校を合併して一つにし、中国語教育を行いはじめている。また、僧院に対する弾圧もひどくなっている。さらに、遊牧民は移動を禁じられて一つの地域に定住させられ、彼らが遊牧していた草原には、中国人がやってきて工場を建て、鉱山をほり、軍事基地を作っている。などのお話でした。
そして、次にゲン・ロサン先生の御法話。
実は午前中の勉強会で読んでいた、テクストで、18世紀前半、ダライラマ七世の時代に権勢をふるったチベット貴族ポラネーがなくなったくだりを読んでいたのだが、ゲン・ロサン先生の法話は見事にこれにシンクロしていた。私達が午前中読んでいたテクストにはこうあった。
ヨーガ行者が「王子よ、どのようにあなたが富んでいても / 死んで、あの世に行く時は / 荒れ地で敵に殺されるように / 一人で子もなく妃もなく / 着物もなく、友もない / 王政もなく、家もない / 無量の力や軍隊をもっていたとしても / ご覧になることはない。お聞きになることもない。/ ひとりぼっちで来世への道に従うものもない / つまり、あなたの名前すらも / その時はなくなるなら / その他のものがあるはずもない」と仰ったことがそのまま現実になったのを見て、〔著者ツェリンワンゲルは〕心につきせぬ痛みを感じて、輪廻の中のことは重要でないと覚り、(ポラネーが死んだ)その日に、ワンドゥーカンサル館の傍らで死んだばかりの乞食をみて、経典などに「死の朝には転輪聖王の遷御と乞食の死の二つは何も区別がない」と説かれていることは、このことだったのか、と思い確かな智が生まれた。
なんてところを読んでいたら、午後の護国寺様で行われたゲン・ロサン先生の法話がまさにそのようなお話であった。勉強会のメンバーをそのまま連れて行ったので、17世紀から21世紀にいたるまでチベット人のメンタリティが見事に変わっていないことを実感できたはずである。
まず、ゲン・ロサン先生は『現観荘厳論』の最初の一節を唱え、次にテクストとなったシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』について解説された。このシャーンティデーヴァは八世紀のインド人であるが、先生の説明法は14世紀のチベット人ツォンカパが大成した修道階梯に則って行われている。
まず、多くの人が聞き取れなかったであろう、最初のこの一節の解説をまんま披露。
この有暇具足は極めて得難い 人の目的(解脱と一切智者の境地)を達成可能なものである。
このチャンスを活用できないとするなら、後で全うすることができようか。
この一文の中の「有暇具足」とは仏教を学ぶことのできる八つの機縁と十種の条件である。
まず、「仏教を学ぶための八つの機縁」(有暇)とは、「仏教を学ぶ機縁のない八つの状況」(八難)から離れることである。その八つとは以下のようなものである。
(1) 四部僧(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)がいない辺境の地に生を受けること
(2) 障害をもって生まれたため(知能が低かったり、四肢に障害があったり、耳などの感覚器官に問題があるなど)、仏の教えに接することが難しいこと。
(3) 仏教の基礎的な概念である前世・来世、業果、三宝などをないと考える間違った哲学を持っていること。
(4) 仏が出現しないため、仏の教えのない世界に生を受けること。
(5) 地獄に生をうけること。(以下5、6、7は三悪趣)
(6) 餓鬼に生を受けること。
(7) 畜生に生を受けること。
(8) 天に生をうけること。
さらに、人に生まれたとしても、五つの条件が自分に備わってなければ仏教を学ぶことはできない。
すなわち「人として生を受けること。中央に生まれること。障害がないこと。無間業をおかしていないこと。聖典を信じていることの五つである。」
「人として生を受けること」とは、仏教を理解し修行できる能力があるのは人間だけであるため、人間に生まれることである。
「中央に生を受ける」とは、四種僧のいる地に生まれることである。
「障害がない」とは、知能が低かったりせず、四肢や目や耳などの器官に問題がないことである。
「無間業をおかしてない」とは、極悪な罪(五無間罪=殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)を自らおかしてなく、また他者におかさせていないことである。
「聖典を信じること」とは、世俗的な意味での良いことと本質的な意味で良いこと、などすべての意味でよいことの生じるもとである聖典(三蔵)のことを言う。
以上の五つによって自分の精神を整えて仏教に接する機縁があることを、「自分が備えているべき五つの良い条件」という。
人に生まれ、上述した五つの条件が備わっていたとしても、さらに以下の五つの条件が環境に備わっていなければならない。
すなわち、「仏が出現すること。仏が教えを説くこと。その教えがこの世にとどまっていること。教えに従うものがいること。その者たちの生活を支えるものがいること」という。
このうち、「仏が出現すること」とは、三阿僧祇劫もの長大な時間をかけて良い行いを重ねてきたものが覚りを開き仏となることである。
「仏が教えを説くこと」とは、仏やその弟子である声聞がその覚りの内容を説いてくれること。
「仏の教えがこの世にとどまっていること」とは、仏が覚りを開いて、教えを説いて、涅槃に入る(死ぬ)までの間に、意識の上で直接に体験した覚りが、衰えずに残っていること。
「そのとどまっている教えを伝えるものがいること。」とは、仏には人々に真実(勝法)を覚らせる力があると知って、その教えに従うものがいること。
「教えに従うものの生活を支えるものがいること」とは法衣などを作ってくれ生活を支えるパトロン(施主)が社会内にいることである。この五つが環境にあって仏教を学ぶ機縁が生まれるので「環境が備えるべきもの」という。
以下次のエントリに続きます。
護国寺につくと会場の忠霊殿をしめすポスターの地図が間違っており、みな思い切り迷った。そしてプログラムはあっさりと変更され、最初に法王事務所の代表ラクパさんのお話があり、次にゲン・ロサン先生の法話になり、その法話が思い切り長引いたため、法要はなしになった。このアバウトさ、チベット的でいいわ。
まず、代表事務所のラクパさんから、ダライラマ法王が政治のトップから退任された話について、わかりやすく説明がある(なんせベーシック・チベットでbTibeですから)。以下箇条書き。
五年前の選挙でサムドン・リンポチェがチベット亡命社会の首相に再任された際、ダライラマ法王は「宗教のボスは私だが、政治のボスは彼だ」と述べ、半分引退していることを表明された。今回の選挙でロプサン・センゲという若い首相が誕生したことを境に、本格的に政治のトップから退任されることを表明し、このように、ダライラマ法王の政治の長からの引退は時間をかけて行われており、かつ、法王はいままでとおりチベット人のスポークスマンとしての立場は勤めるといっていることから、チベット人は法王の引退をあまり不安に思っていない。これをチベット人が、ダライラマに頼らずに自分たちの社会を運営する、自立するべき機会ととらえている(来るべきダライラマの不在期間に備えている)。
また、政府の名称も「ダライラマ猊下の中央チベット管理組織」(Central Tibetan Administration of His Holiness the Dalai Lama) となったため、「政府」(goverment)という言葉を非難していた中国は、さらに非難の対象をなくす。
中国政府は亡命政府の特使とまったく実質的な対話をすることはなかった。ただ、国際社会からの非難をそらすために対話のポーズをとっていただけである。中国はダライラマの私設特使とのみ交渉すると言い張ってきたため、ダライラマが政治の世界から引退するとこれまで言い続けてきた百万大言が無効になるため、非常に困るだろうとのこと。
ダライラマが採用してきた「実質的な自治」を求める独立と同化政策の中間の「中道のアプローチ」を受け入れていれば中国にとってもよいことであったのに、彼らは自らそのチャンスをつぶしてきたのだ。
2008年以後、中国政府のチベット人に対する締め付けはさらにひどくなっている。チベット仏教が存在する限りチベットは中国人に同化しないことに気づいた中国は、アムドの地方の小さな学校を合併して一つにし、中国語教育を行いはじめている。また、僧院に対する弾圧もひどくなっている。さらに、遊牧民は移動を禁じられて一つの地域に定住させられ、彼らが遊牧していた草原には、中国人がやってきて工場を建て、鉱山をほり、軍事基地を作っている。などのお話でした。
そして、次にゲン・ロサン先生の御法話。
実は午前中の勉強会で読んでいた、テクストで、18世紀前半、ダライラマ七世の時代に権勢をふるったチベット貴族ポラネーがなくなったくだりを読んでいたのだが、ゲン・ロサン先生の法話は見事にこれにシンクロしていた。私達が午前中読んでいたテクストにはこうあった。
ヨーガ行者が「王子よ、どのようにあなたが富んでいても / 死んで、あの世に行く時は / 荒れ地で敵に殺されるように / 一人で子もなく妃もなく / 着物もなく、友もない / 王政もなく、家もない / 無量の力や軍隊をもっていたとしても / ご覧になることはない。お聞きになることもない。/ ひとりぼっちで来世への道に従うものもない / つまり、あなたの名前すらも / その時はなくなるなら / その他のものがあるはずもない」と仰ったことがそのまま現実になったのを見て、〔著者ツェリンワンゲルは〕心につきせぬ痛みを感じて、輪廻の中のことは重要でないと覚り、(ポラネーが死んだ)その日に、ワンドゥーカンサル館の傍らで死んだばかりの乞食をみて、経典などに「死の朝には転輪聖王の遷御と乞食の死の二つは何も区別がない」と説かれていることは、このことだったのか、と思い確かな智が生まれた。
なんてところを読んでいたら、午後の護国寺様で行われたゲン・ロサン先生の法話がまさにそのようなお話であった。勉強会のメンバーをそのまま連れて行ったので、17世紀から21世紀にいたるまでチベット人のメンタリティが見事に変わっていないことを実感できたはずである。
まず、ゲン・ロサン先生は『現観荘厳論』の最初の一節を唱え、次にテクストとなったシャーンティデーヴァの『入菩薩行論』について解説された。このシャーンティデーヴァは八世紀のインド人であるが、先生の説明法は14世紀のチベット人ツォンカパが大成した修道階梯に則って行われている。
まず、多くの人が聞き取れなかったであろう、最初のこの一節の解説をまんま披露。
この有暇具足は極めて得難い 人の目的(解脱と一切智者の境地)を達成可能なものである。
このチャンスを活用できないとするなら、後で全うすることができようか。
この一文の中の「有暇具足」とは仏教を学ぶことのできる八つの機縁と十種の条件である。
まず、「仏教を学ぶための八つの機縁」(有暇)とは、「仏教を学ぶ機縁のない八つの状況」(八難)から離れることである。その八つとは以下のようなものである。
(1) 四部僧(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)がいない辺境の地に生を受けること
(2) 障害をもって生まれたため(知能が低かったり、四肢に障害があったり、耳などの感覚器官に問題があるなど)、仏の教えに接することが難しいこと。
(3) 仏教の基礎的な概念である前世・来世、業果、三宝などをないと考える間違った哲学を持っていること。
(4) 仏が出現しないため、仏の教えのない世界に生を受けること。
(5) 地獄に生をうけること。(以下5、6、7は三悪趣)
(6) 餓鬼に生を受けること。
(7) 畜生に生を受けること。
(8) 天に生をうけること。
さらに、人に生まれたとしても、五つの条件が自分に備わってなければ仏教を学ぶことはできない。
すなわち「人として生を受けること。中央に生まれること。障害がないこと。無間業をおかしていないこと。聖典を信じていることの五つである。」
「人として生を受けること」とは、仏教を理解し修行できる能力があるのは人間だけであるため、人間に生まれることである。
「中央に生を受ける」とは、四種僧のいる地に生まれることである。
「障害がない」とは、知能が低かったりせず、四肢や目や耳などの器官に問題がないことである。
「無間業をおかしてない」とは、極悪な罪(五無間罪=殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)を自らおかしてなく、また他者におかさせていないことである。
「聖典を信じること」とは、世俗的な意味での良いことと本質的な意味で良いこと、などすべての意味でよいことの生じるもとである聖典(三蔵)のことを言う。
以上の五つによって自分の精神を整えて仏教に接する機縁があることを、「自分が備えているべき五つの良い条件」という。
人に生まれ、上述した五つの条件が備わっていたとしても、さらに以下の五つの条件が環境に備わっていなければならない。
すなわち、「仏が出現すること。仏が教えを説くこと。その教えがこの世にとどまっていること。教えに従うものがいること。その者たちの生活を支えるものがいること」という。
このうち、「仏が出現すること」とは、三阿僧祇劫もの長大な時間をかけて良い行いを重ねてきたものが覚りを開き仏となることである。
「仏が教えを説くこと」とは、仏やその弟子である声聞がその覚りの内容を説いてくれること。
「仏の教えがこの世にとどまっていること」とは、仏が覚りを開いて、教えを説いて、涅槃に入る(死ぬ)までの間に、意識の上で直接に体験した覚りが、衰えずに残っていること。
「そのとどまっている教えを伝えるものがいること。」とは、仏には人々に真実(勝法)を覚らせる力があると知って、その教えに従うものがいること。
「教えに従うものの生活を支えるものがいること」とは法衣などを作ってくれ生活を支えるパトロン(施主)が社会内にいることである。この五つが環境にあって仏教を学ぶ機縁が生まれるので「環境が備えるべきもの」という。
以下次のエントリに続きます。
2011年6月のチベット・イベント
ぎりぎりになってしまいましたが、明日、大阪在住のチベットの歌姫が東京公演します。
このコンサート、本来ギグド大地震の一周年を意識して計画されたものでしたが、ご存じの通り今年3:11の東日本大震災が起きた結果、日本も地震の被災国になってしまいました。
なので、なかなか宣伝とかしづらかったらしいですが、同じ痛みを受けたものとして、共感の場となるのかと思います。歌はもちろんのこと、美人でお話が面白い方です。予定の合う方、どうぞ。
そして、調度一週間後、デプン大僧院の高僧、ゲン・ロサン先生の来日公演があります。去年、早稲田でお話いただいた際の内容はここにあがっています。
早大生をびびらしたあの僧兵のような迫力がふたたびこの東京でおがめます。わたくしも知り合いをひきつれて参上いたしますです。
このコンサート、本来ギグド大地震の一周年を意識して計画されたものでしたが、ご存じの通り今年3:11の東日本大震災が起きた結果、日本も地震の被災国になってしまいました。
なので、なかなか宣伝とかしづらかったらしいですが、同じ痛みを受けたものとして、共感の場となるのかと思います。歌はもちろんのこと、美人でお話が面白い方です。予定の合う方、どうぞ。
そして、調度一週間後、デプン大僧院の高僧、ゲン・ロサン先生の来日公演があります。去年、早稲田でお話いただいた際の内容はここにあがっています。
早大生をびびらしたあの僧兵のような迫力がふたたびこの東京でおがめます。わたくしも知り合いをひきつれて参上いたしますです。
バイマーヤンジン・コンサート
◎日時 2011年6月12日 19:00開演18:30開場
◎場所 文京シビック小ホール http://www.b-academy.jp/b-civichall/access/access.html
◎参加費 一般3,000円 学生2,000円
◎チケットのお取り扱い
◆シビックチケット(窓口販売のみ)
文京シビックセンター2階 10:00~19:00(土・日・祝日も受付)
◆チケットぴあ ℡0570-02-9999 (Pコード 133-390)
インターネットでの購入 http://pia.jp./t/
お店での購入 チケットぴあ、セブンイレブン、サークルK・サンクス
◎日時 2011年6月12日 19:00開演18:30開場
◎場所 文京シビック小ホール http://www.b-academy.jp/b-civichall/access/access.html
◎参加費 一般3,000円 学生2,000円
◎チケットのお取り扱い
◆シビックチケット(窓口販売のみ)
文京シビックセンター2階 10:00~19:00(土・日・祝日も受付)
◆チケットぴあ ℡0570-02-9999 (Pコード 133-390)
インターネットでの購入 http://pia.jp./t/
お店での購入 チケットぴあ、セブンイレブン、サークルK・サンクス
bTibet XI Spring Tokyo2011
◎ 日時 2011年6月18日(土)13:00 – 17:30
◎ 会場 大本山護国寺 〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1 有楽町線 護国寺駅下車すぐ
◎ 特別講師 クンデリン・ヨンジン・ゲシェーラランパ・ロサン・ツルティム師(ゲン・ロサン先生)
ダライ・ラマ法王日本・東アジア代表部事務所 ラクパ・ツォコ代表
◎プログラム詳細
13:00 – 14:30 ゲン・ロサン先生ご法話「ダライ・ラマ法王の教え:菩薩の祈り」
15:00 – 16:30 ラクパ・ツォコ氏講演「ダライ・ラマ法王の御引退とチベットの最新状況」
17:00 – 17:30 ダライ・ラマ法王の長寿とチベットの平和を祈る(※先日のダライ・ラマ法王東日本大震災四十九日特別慰霊法要の際のお経をお持ちの方はご持参ください。)
◎参加料:無料
◎ 日時 2011年6月18日(土)13:00 – 17:30
◎ 会場 大本山護国寺 〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1 有楽町線 護国寺駅下車すぐ
◎ 特別講師 クンデリン・ヨンジン・ゲシェーラランパ・ロサン・ツルティム師(ゲン・ロサン先生)
ダライ・ラマ法王日本・東アジア代表部事務所 ラクパ・ツォコ代表
◎プログラム詳細
13:00 – 14:30 ゲン・ロサン先生ご法話「ダライ・ラマ法王の教え:菩薩の祈り」
15:00 – 16:30 ラクパ・ツォコ氏講演「ダライ・ラマ法王の御引退とチベットの最新状況」
17:00 – 17:30 ダライ・ラマ法王の長寿とチベットの平和を祈る(※先日のダライ・ラマ法王東日本大震災四十九日特別慰霊法要の際のお経をお持ちの方はご持参ください。)
◎参加料:無料
誕生月の喜び
六月六日にはたくさんの方からバースデー・メッセージをいただきました(ツイートしたからだけど 笑)。この場をかりて御礼もうしあげます。ありがとうございました。
よく、「女は年をとると損」というけれど、自分に限っていえば、年齢を増すことにより迫力と手練手管が増した結果、若い頃よりも自分の意見が通る確率が高くなり、そういう意味では幸せ。また、佐野元春ではないが、「若すぎてなんだか分からなかったことがリアル」にわかってきて、いろいろなものの見通しがはっきりしたため、若い頃にくらべて心も平安。
でもなんといっても、年をとって一番いいことは、一朝一夕では得られないもの、年を重ねることによって得られるものが手に入ることである。人との関係も自分とのつきあいも、リセットすることなく、毎日誠実につきあっていくと、より自分に近く親しいものとなってくる。
まあ、凡夫なので毎日怠惰とか悪い習慣ともきっちりひきずっているし、体も相応に老化していくので、もちろんマイナス面もある。しかし、生物である以上生まれたら死んで行くに決まっているので、それはそれで自然の祝福と思えばやりすごせる。
以下、バースデープレゼントのお裾分け(写真はクリックすると大きくなります)。
まず、一週間早く某生物学の大家I先生から頂戴した写真。東博の仏様である。笑顔がきれいなので送って下さったそう。ありがとうございます。

次は、ダンナ様の送ってくれた花。実物は巨大鉢植えです。

ダンナ「名前がよかったから買ってきた」
私「これベゴニアだよね。●正日花っていわれてない? 私が金×日だってこと? 」
※ 金正▲花は彼の誕生日を祝うために寒い二月にも花をつけるベゴニアを改良した特別種であり、これとは別のもの。
ダンナ「ちがうよ、名札みてよ。」
みるとエラチオールとある。
私「つまり、私が偉そうだってこと」
ダンナ「違うよ、学名の下の品種みて」
見るとジャンヌダルクであった。
私「ということは、魔女呼ばわりのあげく最後は火あぶりに」
そして、九州の山男、Wさんからはカンリカルポ山系の峯の写真。この写真をとられた時、ザックの中には拙著を入れて下さっていたそうである。ありがとうございます。

大阪のオカメインコあくびちゃんのお母さんからは、有名な青いバラ、とその石けん。この青いバラはサントリーが開発したもので日比谷花壇で販売されている。法界体性智を思わせる青いバラは本当にきれい。法界体性智は怒りが修業により、到達できる智である。もともと紫のバラはかぐわしいが、この青いバラもとてもいい香り。
そして、品種名は「喝采」(applause)
自然光でとるために写真は庭でとりました。雑草ボーボーなのは放射能をすってもらうためです(もちろん言い訳です)。


また、メッセージを下さったみなさま、ありがとうございました。
よく、「女は年をとると損」というけれど、自分に限っていえば、年齢を増すことにより迫力と手練手管が増した結果、若い頃よりも自分の意見が通る確率が高くなり、そういう意味では幸せ。また、佐野元春ではないが、「若すぎてなんだか分からなかったことがリアル」にわかってきて、いろいろなものの見通しがはっきりしたため、若い頃にくらべて心も平安。
でもなんといっても、年をとって一番いいことは、一朝一夕では得られないもの、年を重ねることによって得られるものが手に入ることである。人との関係も自分とのつきあいも、リセットすることなく、毎日誠実につきあっていくと、より自分に近く親しいものとなってくる。
まあ、凡夫なので毎日怠惰とか悪い習慣ともきっちりひきずっているし、体も相応に老化していくので、もちろんマイナス面もある。しかし、生物である以上生まれたら死んで行くに決まっているので、それはそれで自然の祝福と思えばやりすごせる。
以下、バースデープレゼントのお裾分け(写真はクリックすると大きくなります)。
まず、一週間早く某生物学の大家I先生から頂戴した写真。東博の仏様である。笑顔がきれいなので送って下さったそう。ありがとうございます。

次は、ダンナ様の送ってくれた花。実物は巨大鉢植えです。

ダンナ「名前がよかったから買ってきた」
私「これベゴニアだよね。●正日花っていわれてない? 私が金×日だってこと? 」
※ 金正▲花は彼の誕生日を祝うために寒い二月にも花をつけるベゴニアを改良した特別種であり、これとは別のもの。
ダンナ「ちがうよ、名札みてよ。」
みるとエラチオールとある。
私「つまり、私が偉そうだってこと」
ダンナ「違うよ、学名の下の品種みて」
見るとジャンヌダルクであった。
私「ということは、魔女呼ばわりのあげく最後は火あぶりに」
そして、九州の山男、Wさんからはカンリカルポ山系の峯の写真。この写真をとられた時、ザックの中には拙著を入れて下さっていたそうである。ありがとうございます。

大阪のオカメインコあくびちゃんのお母さんからは、有名な青いバラ、とその石けん。この青いバラはサントリーが開発したもので日比谷花壇で販売されている。法界体性智を思わせる青いバラは本当にきれい。法界体性智は怒りが修業により、到達できる智である。もともと紫のバラはかぐわしいが、この青いバラもとてもいい香り。
そして、品種名は「喝采」(applause)
自然光でとるために写真は庭でとりました。雑草ボーボーなのは放射能をすってもらうためです(もちろん言い訳です)。


また、メッセージを下さったみなさま、ありがとうございました。
チベット首相選挙の意味するもの
ダライラマ法王が政教一致のガンデンポタン政権の、政治の長の座から引退を表明したことについてはよく知られている。この件について亡命チベット社会のニュースサイト、パユルに、ロバート・バーネットの一文がのった。
彼はチベット学の中心地であるコロンビア大学で、現代チベット研究の部署の統括をしている人である。
原文はここにあるので、原文を読める方はここどうぞ。
ダライラマ、チベットの政治権力を新世代へと委譲する準備
ロバート・バーネット(コロンビア大学現代チベット研究所長)2011/5/27
水曜日、ダライラマは「中国外のチベット社会の政治指導者の役割を続けて下さい」とのいかなる要請をも明確に拒絶することを宣言した。この宣言により、まもなく亡命政府の政治的な権威者の地位につこうとしているロプサン・センゲに対する関心が再び再燃した。センゲはすでにメディアの注目に慣れてきてるようだが。
そう、先月行われた、チベット亡命政権の首相選挙は、スロヴァキアからインドネシアにいたるまで世界中のメディアによって報道された。いかなる国によっても公式に承認められていない政府の選挙がこのように大きく報道されるのは異例である。しかし、この喧噪の中で、選挙の実質的な意義の多くは見失われてきた。話題の大半は新しい指導者の経歴とスタイルに集中していた。つまり、43才のセンゲは育ちの良い弁護士の着こなしをし、自信に満ちた話し方をし、過去十年間ハーバート大學のロースクールで特別研究員をつとめていた。このセンゲのスタイルは、多くの亡命チベット人に見られる、控えめで優しいスタイルとはかけ離れている。
メディアの取材の大半は「アメリカのエリート大學で異例の出世をとげたチベット難民」という彼の経歴報道に集中した。CNNのヘッドラインニュースは「チベット亡命政府の新しい首相はハーバート大学のロースクールにつとめている」と流した。インドのメディアも同様に熱狂し、センゲが「自らの慎ましい出自」と呼ぶところの少年時代に焦点をあてた。これによると、インドのシッキムにあるダージリン近郊の小さな村で二~三頭の牛と暮らしており、そのうちの一匹は彼の学費を捻出するために売られたという。
せンゲの個人的なスタイルは重要と言えないこともない。彼の「インド・アメリカ風選挙運動アプローチ」は、公的な場でのディベートや容赦ない批判を行う選挙用ウェブを呼び物にして、活気ない二人の前任者たちよりも活発な選挙戦を展開した。
せンゲは「優先事項は伝統的なものである」という。それは「ダライラマがチベットの都ラサのポタラ宮のあるべき座へと帰還するための道ならしをする」ことである。しかし、彼は「チベット問題に新しいエネルギー、新しいアイディア、新しい勢いをもたらす」ことも約束し、「司法研究者としてのキャリアは中国との対話に助けとなる」とも主張した。センゲは55パーセントの得票をしニューヨークタイムズはこの勝利を「チベット運動における世代交代のシグナルである」と評した。
かくして、重要なのは、選ばれた人間よりも有権者の変化である。
選挙結果は、過度に官僚的で、教養に乏しく、変化を嫌うと広く認められている亡命政府の行政に亡命社会が変化をみたがっていることを示した。
有権者は亡命社会での教育と政府を改革するという約束を行使するかどうか厳しく監視することとなるであろう。そして、すでに亡命チベット人の中では、武力闘争か独立を求めるかといった通常の議論をこえた、洗練された議論が起きている。
例えば、若い亡命チベット人の知識人集団は未来の指導者の主張が履行されるか否かをチェックするためのウェブサイトを開いた。彼らはすでにセンゲの財源についての議論を喚起した。ある者は「センゲの財源は彼が主張するようにハーバートからではなく、彼に特別研究員の資格を与えるように台湾の基金が大学にだしたものからであるという。
このように予期せずして政治が活性化し、亡命社会の中から批判が生まれたことは、ダライラマが正しかったことを証明している。ダライラマは亡命チベット人が彼の死後も生き抜いていく、強い指導体制をつくりあげるように亡命チベットに人にずっと働きかけ続けてきた。この三月、ダライラマは、未来に選出される官僚たちがチベット政府の代表として今の、そして彼の後に続くダライラマを、交代させるために憲法を変えるよう、亡命者議会を招集した。
チベット亡命社会は20年前に同じ内容のダライラマの提案を退けた。しかし今回はダライラマの戦略は予期せずして成功した。つまり、多くのチベット人とその組織は公式に世俗の近代的な政治体制の誕生を歓迎したのである。これは理論的には中国に対して圧力を加えている。なぜなら北京の戦略が予期したように、精神的な指導者が死ねば亡命社会の企図はすべて崩壊するということはほぼありえなくなったからだ。
しかしセンゲの登場は、主に国内問題とインドにあるよりダイナミックな亡命社会の将来に対して衝撃を与えた。国際的な観点においては、今回の選挙で重要なのは、選挙が中国と中国がチベットを支配する能力について示していることである。選挙は現在のニューデリー政府に対する北京政府の影響力は、限定されたものであることを示した。そうでなければ投票がインドで行うことは許されなかっただろう。このことはほとんどメディアでは報じられなかった。ネパール政府のスポークスマンによると、ネパールにいる13000人のチベット人は「亡命政府による選挙は反中活動にあたる、従って、ネパールの外交政策に反する」という革新的な理由から投票用紙をネパールの機動隊に奪われた。これは中国はかつてない重要な影響力をネパールにおいて獲得しつつあることを意味している。
これらのより大きな問題については、チベット人の97パーセントにあたるチベット本土にとどまった540万人のチベット人について言及するダライラマを除けば、亡命社会ができることは限られている。
なぜなら、北京政府はつねに「自分たちはダライラマ個人の代理としか話しをしない」と主張し、亡命政府を攻撃しセンゲの選出を不法とし、「亡命チベット人はダライラマが引退しようがすまいがダライラマが北京政府との接触を主導し続けろと要求する」と主張しているからである。いずれにせよ、中国の戦略は主に亡命政府の政治家ではなく、ダライラマにむいている。なぜなら、ダライラマこそが中国の支配するチベット本土にすむ何百万人もの信奉者たちが、唯一従うカリスマ的な指導者だからだ。だから、北京の亡命社会に対する政策は、ダライラマが生きている間はダライラマとのまじめな話し合いを引き伸ばし続けること、ダライラマが死んだ後にはその後継者の選択をコントロールすることに集中し続けるだろう。
しかし、北京はこれらの政策を続けがたいと気づくことであろう。たとえば、今は四川省に含まれているチベットのガバ地域では、北京はチベット人との大きな衝突にまきこまれている。その土地の僧院(キルティゴンパ)はもう数ヶ月にわたって軍事封鎖されており、この僧院の三百人の僧侶が法的な教育のために連れ出され、二人の村人が兵士に殴り殺された。この事件はすべて一人の土地の僧侶が三月十六日にたった一人で抗議の焼身自殺をしたことから始まった。彼の行動は三年前(2008年)にここでおきた抗議行動で中国の警察に撃たれて死んだ十人のチベット人を悼んでのことであった。
亡命チベット人の新しい指導者がこのガバの弾圧についてできることは少ない。しかし、ダライラマは(先週カリフォルニアで学生を相手にして倫理について講演をした)特に、もし北京政府が過去にそうしたように、ダライラマに具体的な助力を求めるならば、まだ大きな影響力をもつことができる。なぜかというと、センゲの登場により、ダライラマは公的な政治的な役割から解放されているため、北京政府はメンツをつぶすことなしにダライラマにアプローチすることが容易になったからである。我々が問わねばならない問題は、従って、かっこいい首相が亡命政府の内閣を震え上がらせることについてではなく、蜂起している中国のチベット人が中国の支配を受け入れるか否か、また、他の人がダライラマの政治的な地位を引き継いだ今、続く抵抗活動が北京政府を最後にはダライラマとの対話へとおしやるのかということなのである。
彼はチベット学の中心地であるコロンビア大学で、現代チベット研究の部署の統括をしている人である。
原文はここにあるので、原文を読める方はここどうぞ。
ダライラマ、チベットの政治権力を新世代へと委譲する準備
ロバート・バーネット(コロンビア大学現代チベット研究所長)2011/5/27
水曜日、ダライラマは「中国外のチベット社会の政治指導者の役割を続けて下さい」とのいかなる要請をも明確に拒絶することを宣言した。この宣言により、まもなく亡命政府の政治的な権威者の地位につこうとしているロプサン・センゲに対する関心が再び再燃した。センゲはすでにメディアの注目に慣れてきてるようだが。
そう、先月行われた、チベット亡命政権の首相選挙は、スロヴァキアからインドネシアにいたるまで世界中のメディアによって報道された。いかなる国によっても公式に承認められていない政府の選挙がこのように大きく報道されるのは異例である。しかし、この喧噪の中で、選挙の実質的な意義の多くは見失われてきた。話題の大半は新しい指導者の経歴とスタイルに集中していた。つまり、43才のセンゲは育ちの良い弁護士の着こなしをし、自信に満ちた話し方をし、過去十年間ハーバート大學のロースクールで特別研究員をつとめていた。このセンゲのスタイルは、多くの亡命チベット人に見られる、控えめで優しいスタイルとはかけ離れている。
メディアの取材の大半は「アメリカのエリート大學で異例の出世をとげたチベット難民」という彼の経歴報道に集中した。CNNのヘッドラインニュースは「チベット亡命政府の新しい首相はハーバート大学のロースクールにつとめている」と流した。インドのメディアも同様に熱狂し、センゲが「自らの慎ましい出自」と呼ぶところの少年時代に焦点をあてた。これによると、インドのシッキムにあるダージリン近郊の小さな村で二~三頭の牛と暮らしており、そのうちの一匹は彼の学費を捻出するために売られたという。
せンゲの個人的なスタイルは重要と言えないこともない。彼の「インド・アメリカ風選挙運動アプローチ」は、公的な場でのディベートや容赦ない批判を行う選挙用ウェブを呼び物にして、活気ない二人の前任者たちよりも活発な選挙戦を展開した。
せンゲは「優先事項は伝統的なものである」という。それは「ダライラマがチベットの都ラサのポタラ宮のあるべき座へと帰還するための道ならしをする」ことである。しかし、彼は「チベット問題に新しいエネルギー、新しいアイディア、新しい勢いをもたらす」ことも約束し、「司法研究者としてのキャリアは中国との対話に助けとなる」とも主張した。センゲは55パーセントの得票をしニューヨークタイムズはこの勝利を「チベット運動における世代交代のシグナルである」と評した。
かくして、重要なのは、選ばれた人間よりも有権者の変化である。
選挙結果は、過度に官僚的で、教養に乏しく、変化を嫌うと広く認められている亡命政府の行政に亡命社会が変化をみたがっていることを示した。
有権者は亡命社会での教育と政府を改革するという約束を行使するかどうか厳しく監視することとなるであろう。そして、すでに亡命チベット人の中では、武力闘争か独立を求めるかといった通常の議論をこえた、洗練された議論が起きている。
例えば、若い亡命チベット人の知識人集団は未来の指導者の主張が履行されるか否かをチェックするためのウェブサイトを開いた。彼らはすでにセンゲの財源についての議論を喚起した。ある者は「センゲの財源は彼が主張するようにハーバートからではなく、彼に特別研究員の資格を与えるように台湾の基金が大学にだしたものからであるという。
このように予期せずして政治が活性化し、亡命社会の中から批判が生まれたことは、ダライラマが正しかったことを証明している。ダライラマは亡命チベット人が彼の死後も生き抜いていく、強い指導体制をつくりあげるように亡命チベットに人にずっと働きかけ続けてきた。この三月、ダライラマは、未来に選出される官僚たちがチベット政府の代表として今の、そして彼の後に続くダライラマを、交代させるために憲法を変えるよう、亡命者議会を招集した。
チベット亡命社会は20年前に同じ内容のダライラマの提案を退けた。しかし今回はダライラマの戦略は予期せずして成功した。つまり、多くのチベット人とその組織は公式に世俗の近代的な政治体制の誕生を歓迎したのである。これは理論的には中国に対して圧力を加えている。なぜなら北京の戦略が予期したように、精神的な指導者が死ねば亡命社会の企図はすべて崩壊するということはほぼありえなくなったからだ。
しかしセンゲの登場は、主に国内問題とインドにあるよりダイナミックな亡命社会の将来に対して衝撃を与えた。国際的な観点においては、今回の選挙で重要なのは、選挙が中国と中国がチベットを支配する能力について示していることである。選挙は現在のニューデリー政府に対する北京政府の影響力は、限定されたものであることを示した。そうでなければ投票がインドで行うことは許されなかっただろう。このことはほとんどメディアでは報じられなかった。ネパール政府のスポークスマンによると、ネパールにいる13000人のチベット人は「亡命政府による選挙は反中活動にあたる、従って、ネパールの外交政策に反する」という革新的な理由から投票用紙をネパールの機動隊に奪われた。これは中国はかつてない重要な影響力をネパールにおいて獲得しつつあることを意味している。
これらのより大きな問題については、チベット人の97パーセントにあたるチベット本土にとどまった540万人のチベット人について言及するダライラマを除けば、亡命社会ができることは限られている。
なぜなら、北京政府はつねに「自分たちはダライラマ個人の代理としか話しをしない」と主張し、亡命政府を攻撃しセンゲの選出を不法とし、「亡命チベット人はダライラマが引退しようがすまいがダライラマが北京政府との接触を主導し続けろと要求する」と主張しているからである。いずれにせよ、中国の戦略は主に亡命政府の政治家ではなく、ダライラマにむいている。なぜなら、ダライラマこそが中国の支配するチベット本土にすむ何百万人もの信奉者たちが、唯一従うカリスマ的な指導者だからだ。だから、北京の亡命社会に対する政策は、ダライラマが生きている間はダライラマとのまじめな話し合いを引き伸ばし続けること、ダライラマが死んだ後にはその後継者の選択をコントロールすることに集中し続けるだろう。
しかし、北京はこれらの政策を続けがたいと気づくことであろう。たとえば、今は四川省に含まれているチベットのガバ地域では、北京はチベット人との大きな衝突にまきこまれている。その土地の僧院(キルティゴンパ)はもう数ヶ月にわたって軍事封鎖されており、この僧院の三百人の僧侶が法的な教育のために連れ出され、二人の村人が兵士に殴り殺された。この事件はすべて一人の土地の僧侶が三月十六日にたった一人で抗議の焼身自殺をしたことから始まった。彼の行動は三年前(2008年)にここでおきた抗議行動で中国の警察に撃たれて死んだ十人のチベット人を悼んでのことであった。
亡命チベット人の新しい指導者がこのガバの弾圧についてできることは少ない。しかし、ダライラマは(先週カリフォルニアで学生を相手にして倫理について講演をした)特に、もし北京政府が過去にそうしたように、ダライラマに具体的な助力を求めるならば、まだ大きな影響力をもつことができる。なぜかというと、センゲの登場により、ダライラマは公的な政治的な役割から解放されているため、北京政府はメンツをつぶすことなしにダライラマにアプローチすることが容易になったからである。我々が問わねばならない問題は、従って、かっこいい首相が亡命政府の内閣を震え上がらせることについてではなく、蜂起している中国のチベット人が中国の支配を受け入れるか否か、また、他の人がダライラマの政治的な地位を引き継いだ今、続く抵抗活動が北京政府を最後にはダライラマとの対話へとおしやるのかということなのである。
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