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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2011/05/30(月)   CATEGORY: 未分類
モンゴルにガンディー方式
 2008年のチベット人蜂起、2009年のウイグル人蜂起につづいて、今、中国の内モンゴルのシリンゴル盟のモンゴル人が蜂起している(くわしくはこのサイトで)。ちなみに、これらの蜂起の背景にはすべて同じ構図がある。すなわち、中華人民共和国によるこれら諸民族に対する武力制圧に対する恨みつらみ、民族地域へ流入してくる大量の漢人への恨みつらみ(彼らかは伝統的な社会を公害や資本主義によって破壊する)、その結果おきる自分たちの言語と文化の消滅に対する危機感などである。

 日本人の多くは知らないだろうが、実は、チベット人とモンゴル人は歴史的に密接な関係にある。13世紀にモンゴル人が世界帝国をつくるなかでチベットの高僧と出会った。元朝をたてたフビライ=ハーンはサキャ派の高僧パクパを師とし、その後も元朝を通じて皇室はチベット仏教に非常に傾倒した。元朝が崩壊するといったんチベット仏教は衰退するが、1578年にトゥメトのアルタン=ハーンがソナムギャムツォ(後のダライラマ三世)を青海に招いて帰依してより、モンゴルにおいてチベット仏教は爆発的に広がる。17世紀にはハルハ(現在のモンゴル共和国のあるあたりに遊牧していたモンゴル人)の王侯の師弟はチベットに留学し、そこで学んだ教えをモンゴルに移植した。このような留学モンゴル僧の一人ジェプツゥンダムパは、ダライラマと同じく転生によってその座を受け継ぐようになり、20世紀に入り、モンゴルが近代国家として独立を宣言した際に国家元首となりボグド・ゲゲーン政権を樹立した。

 ソ連とモンゴルが社会主義化した際にジェブツゥンダムパの化身を探索することはまかりならん、というお達しがでたが、ジェブツゥンダムパはちゃんとチベットに転生して、チベットが中国に侵略された後はダラムサラに亡命した。で、ソ連が崩壊した後、ジェブツゥンダムパは再びモンゴル共和国に親しく通うようになり、最近モンゴル定住を決意したそうな。ジェブツンダムパが彼の所化であるモンゴル人のもとにもどったのだ。ドナルド・キーンの日本帰化のニュースと同様にええ話しや。

 昨今のモンゴルにはナショナリズムが燃えさかり、チベット仏教も含めて外来の文化を低く見る風潮があるが、チベット仏教は何百年にもわたってモンゴル人の精神の重要な一角を占めてきたまぎれもなくモンゴルの伝統である。日本において仏教・儒教などあらゆる大陸の文化を否定したら日本の文化の大半が語れなくなる以上に、モンゴルにおけるチベット仏教の存在は重い。

 ロシアや中国にのまれたくないのなら、世界的にプレザンスの高いチベット仏教の伝統を復興していくのはモンゴル人にとっても悪いことではない。まあ、モンゴル共和国のチベット仏教はぼちぼちがんばっているみたい。内モンゴル自治区もカムやアムドからお坊さんをつれてきて中国が破壊したチベット寺をどんどん再建するといいよ。

 で、今回のモンゴル蜂起を受けて「民主中国」にモンゴル人作家のタシトンドゥプ(これ、原語のチベット語読み。モンゴル読みではタシドノロプ)の文章がのった。興味深かったのは、モンゴル人もチベット政府のやり方と同じく、モンゴル独自の文化の保持を優先して、独立ではなく「実質的な自治」を求めていること、その方法としても、チベット同様ガンジーの非暴力運動(サティヤグラハ)を採用していることである。

 みな気づいていると思うけど、「武力によって正当な要求をもつ少数者を黙らせる」というイかれた手段は、もはや世界中で通用しなくなっている。独裁政権であれ、イスラーム圏であれ、社会主義圏であれ、隣の拝金国家であれ、武力を用いて国民を黙らせている国がそれを誇り高く内外に示している例は皆無である。みな、自分の行いを必死に隠そうとしている。このような時代に、モンゴルが自分たちの文化をまもろうとする場合テロではなく、ガンディー・スタイルの民衆蜂起が選択されるのは当然の帰結であろう。

 インドが開放経済になった時、ガンディーを「古い」「無力」といって否定した人がいたが、こういう人は「真実」にも賞味期限があり、「真実」を「無力」だと断罪しているに等しい。かりに近視眼的にいって無力に見えることがあっても、真実は時空をこえて生き延びている側面が見えていないだけなのだ。ガンディーが政治的手法として確立した非暴力運動は、1989年の東欧を変え、ソ連を解体し、今年はじめ中東のデモとなって現れた。そして、今、何とモンゴルの民族運動にまで息づいていることがそれを示している。

 以下訳ですが、途中だるくなってはしょりました。興味ある方はここに全文があります。

 「四番目の奇跡:天からいただいた自分のカラーを護ること」タシトンドゥプ

人類の歴史上、かつて数少ない民族だけが奇跡を起こし、人々をして驚かしてきた。いわゆる奇跡とは不可能を可能にすること、例外を現実にすることを指す。中華文明も一つの奇跡だ。彼らのいうことがホントなら、何千年も連綿と続いた古代国家であり、これは歴史の一つの例外と称するに堪えよう。
 日本が近代において起こした奇跡とは、明治維新後、地球上で唯一非白人ながら列強に加わり、今も毎年G7で他全部白人の中で唯一の黄色人種であるということである。・・・。まあ遠からずして中国もこの中に入っていこう。
ここで私が言いたいことは、モンゴル民族はかつて三回奇跡を起こしてきたことだ。それは過去の出来事であるが、記すに値しよう。

第一の奇跡 空前絶後のモンゴル帝国を築いた。これは疑いなく人類の歴史上の一大奇跡である。いわゆる空前絶後とは、かくのごとく広大な帝国はかつてなかったことであり、これ以後もないということである。これが第一の奇跡である。たぶんみんな知っているよね。だから多言をろうしない。

第二の奇跡 モンゴル人の人口は漢人の数百分の一であったにもかかわらず、漢文化に飲まれなかったこと。この種の強大な生命力は一つの奇跡である。真実かって? 歴史を見ると、すぐに気づくだろう。中華を征服した遊牧民はみな同化されて終わった。・・・・もし自分の文化を惜しげもなく捨てたならついには自滅に至る。唯我独尊の儒教文化を受け入れた満洲人は文化を失い、多元的に文化の共生をはかったモンゴル文化はかえって今にいたるまで続いている。

第三の奇跡 民主モンゴルの存在。ソ連が解体した後、新しく独立した中央アジアの国家をのぞけば、ロシアと中国の間で唯一独立国家となったのはモンゴルである。これは明らかな例外であろう。

 清朝末期、漢人の知識人は清朝を倒した後につくる国家の形を論じ、モンゴル文化も検証の対象とし、当時のモンゴル貴族と知識人の心を大いに傷つけた。火器の助けの下、漢人は強大無比となり、〔遊牧民である〕モンゴル人は武力によって漢人がモンゴル地域に流入することを阻止できなくなっていた。ハラチン部の知識人ハイシャンはモンゴル内外をくまなく踏破し、七十人以上の貴族と知識人に遊説した。彼の主張はモンゴル人の純朴な性格同様簡単である。彼はモンゴル人はモンゴル人として存在し続けるためには、Mal(家畜), Hel(言語), Hil(国境)の三つが必要だと思っていた。

 まず家畜。家畜を保有することでモンゴル人は基本的な経済をたもてて、生きる保障を得て、生物として生きることを確保することができる。そして言語。モンゴル語を話すことによって、モンゴル人は自分の文化を保つことができる。

 そして国境。以上の二つを保障するためには、モンゴル人は中国との間に国境を引き、独立国となり、潮のごとく流れ込んでくる漢人の流れを阻止しなければならない。しからざれば、満洲人のように消滅する轍を踏むこととなる。・・・・(このあと、ソ連の後ろ盾をへて独立をしたため、自国文化を自分で消滅させてしまうという悲痛な歴史がながながと語られる。)・・・

 四番目の奇跡は可能であろうか。内モンゴルは中華人民共和国の一部となり、これはいかんともしがたい歴史の帰結である。内モンゴルと中国の間には当然国境線がない。国境線なくして、われわれは自分の言葉をいかにして保つことができようか。ハイシャンの理論に則り、われわれの文化を保つことは絶対に不可能であり、漢人に同化されるのは時間の問題であると思われる。しかし、あなたはどう思う? 本当に不可能だろうか? もしかして奇跡が起きることはないだろうか? まさかわたしたちは奇跡を起こす力を失ってしまったのだろうか?

 漢人と仲良く暮らすこと、同時にわれわれの文化を保ち続けること、これはわれわれの代のモンゴル人の前にある奇跡だ。われわれが起こすのをまっている奇跡だ。しかしてあるものはただ怨んでいるだけ、あるものはただため息をつき、あるものは口論し、努力し、智慧を用いて奇跡を起こすことを忘れていないか。

 現在の国際・国内社会の政治環境の中で、われわれはいかにして戦うべきなのか、自分の事情の許す限りにおいて、・・・われわれはモンゴル人社区をたてねばならない。モンゴル人の自治社区内においてはモンゴル語を公用語に設定しなければならない。カナダのケベックはいい見本だ(ここはカナダの中でもフランス語が公用語)。当然少数の漢人の極端なナショナリストは民族の団結を破壊しようと、みだりにえらそうに漢文化をわれわれの頭上に押し付けようとし、われわれが同化しないことを恨むであろう。これはたいしたことではない。われわれが心の内に堅い信念をもっていれば、完全に彼らに勝つことも可能である。この種の戦いは暴力を通してなされることはない。われわれに剣は必要ない。たとえ対する相手の手の中に剣があったとしても。われわれが必要とするのは不屈の信念なのだ。

 何年も前のこと。南アフリカのある町の道の上を、一人のやせたイギリス人の弁護士が歩いていた。その向かいから白人至上主義の青年がきて、彼のいく道を阻み、舗装された道をおりて土の道をいくよう要求した。弁護士はその青年と争わなかったが、決して譲歩はしなかった。彼の眼には憎しみはなく、ただ堅い信念だけがあった。彼は淡々とその青年に言った。道は広い、われわれは歩くことができる。後にその弁護士と仲間たちは肌の色で人々を区別することを示す身分証を燃やした。居丈高な南アフリカの警察は、警棒で彼をうった。打たれて倒れても、そのたびに彼は再び立ち上がり、身分証を火に投じ続けた。武力で反抗せず、眼に憎しみはなかった。怒り狂った警察の棍棒が彼の頭上に振るわれたあと、集めてきた身分証は彼の手から地上に散乱した。しかし、彼はみをかがめて一つ一つそれを拾い上げ、再び火の中に投じ続けた。彼の額にはずっと血が流れ続けていた。これこそ聖なる英雄ガンディーの故事である。

剣は水をたつことができないのだ。

 われわれは数千年来騎馬民族をやってきて、今は馬から下りて水となった。かつ自分のカラーを保っている。それは青色である。天の色である。あの狼の色である。遠い昔天は自分の色を青き狼に与えた。狼はこの神聖なる青色をおびてチンギス湖をかけぬけて、草原にいたった。これがモンゴル秘史がわれわれに告げてくれる歴史である。われわれはこの狼の子孫である。心には天からさずかった青色が根付いている。漢人は自らを誇って龍の末裔といい、長年にわたりかがやく黄色をカラーとしてきた。民族は平等であり、わが民族のカラーは透き通った青色、天から授かった青色である。・・・・(疲れてきた。とばすとばす)・・
 祖先はかつて武力を用いて世界を征服した。われわれは非暴力をもって自分を救い、内モンゴルを救い、中国を救う。同胞たちよ。われわれの善と不屈の精神をもって夜明けの前の暗闇をとりはらおうではないか。
これ、これこそが、われわれの代の奇跡である。これはわれわれの世代のモンゴル人の奇跡なのである。
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DATE: 2011/05/25(水)   CATEGORY: 未分類
チベット・モンゴル学の東西格差
先週の金曜日の午前、ドイツの有名なモンゴル文献学者ザガスターが東方学会にきhttp://blog51.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=550#て、ヨーロッパのモンゴル学の話をした。

 モンゴル文献学の昨今の業績について触れた後、今後のモンゴル学の展望を述べたのだが、それが興味深かったのでちょっとここにメモっておきたくなった。彼によると、アメリカでもヨーロッパでも、そしてドイツでもモンゴル学が消滅しかかっているという。

 以下青字の部分は、ザガスター師の英文レジュメをテキトーに訳したものです。文中にでてくる学者の名前はモンゴル学者なら誰でも知っている有名な人です。

文語モンゴル語史料の研究には語学、文献学、歴史・文学・宗教・社会に対する知識が必要である。最近にいたるまで、ヨーロッパとアメリカの大学にはこれらの要求にこたえる教育が提供できていた。いわゆる「小さな分野」の状況が許す限りの、一名か二名の先生くらいはいた。しかし不幸なことにこの数十年に状況は変った。古典モンゴル学を提供する大学の数が、アメリカと同様ヨーロッパでも激減したのだ。

 私の知る限りでは、ニコラス・ポッペと岡田英弘をうんだバークレーにあるカリフォルニア大学にはもうモンゴル学者はいない。また、ハーバード大学もクリーブスの伝統は絶えた。ヨーロッパではボーデンが教鞭を執ったロンドン大学がモンゴル学を廃した。
幸いなことにケンブリッジ大学では人類学の範疇でモンゴル学者は存続している。パリも状況は同じだ。・・・(以下東欧・北欧は少しましという話し)・・・

 ドイツではモンゴル学はもう地盤を失った。かつて我々はベルリンとボンの二カ所にモンゴル学のポストをもっていた。ボンの座はモンゴル学とチベット学を合体させた中央アジア学と呼ばれており、このポストはモンゴル学者のウォルター・ハイシッヒがしめていた。彼の引退後、それでもモンゴルを教える四人の教授がいた。ハイシッヒの後継者である私もモンゴルとチベットを教えてきた。

 しかし、私が引退したあとは、チベット学者がついだ。チベットとモンゴルの両分野を扱える学者をみつけられなかったのだ。四人の教授のうちの最後の一人、ヴェロニカ・ヴァイトが引退した後モンゴル学が消滅する危険がある。幸いなことに、モンゴルの学の教授の新しい枠が認められたが、五年の期限付きであった。五年後に何がおきるかは天のみぞ知る(天とはモンゴル人が権威の根源とする崇拝の対象。だから、西洋人でいうところの神のみぞ知るという意味 笑)。

 中央アジア研究所は新しく設立された東洋アジア学研究所に統合された。かつての中央アジア研究所は今は「モンゴル・チベット学部」と名前を変えた。・・・・

 つまり、モンゴル学者をしっかり訓練することのできる保障はもはやどこにもなくなってしまったのである。これは文語史料の研究全般における危機でもある。

 語学・文献学・歴史・文学などのきちんとした教育はもはや別の理由から困難となっている。少なくともヨーロッパでは。何年か前に導入された、ヨーロッパの大半の国に適用されるいわゆる「ボローニャ・プロセス」により、大学教育の構造は基礎から変わった。
私はこのプロセスの長所と短所について論じるつもりはない。みんなも興味がないだろうし、私は引退した人間であり、この改革と戦う痛みから逃げることができたゆえによく知らないということもある。しかし、重要な点を言えば、基礎研究コースの短縮と構造上の変革が東洋學とこのモンゴル学の分野における教育を阻んでいるということである。・・・


つまり、モンゴル学は欧米でひん死の状態で、しかしなにげにチベット学はがんばっている。で、師はこのあと、例の新制度によると、時間をかけないと身につかない学問、とくに「古典」が軽視され、「実学」が重視されている結果「現代」を研究する学問にお金が落ちているとのこと。たぶん西洋文献学は生き延びるけど、東洋文献学はまあ厳しいだろう、とのこと。

 そいえばシンガポールでであった例の現代中国政治の研究者も、中国が台頭してくれたおかげで、教職を得ることができた、といってたっけ。彼は見事に現代中国政治の研究者である。

 実は、アメリカに関して言えば、チベット学はチョー栄えている。ハーバートにもコロンビアなどの名門大学のあそこにもここにもわんさかチベットの仏教学者がいる。仏教学に比べると数はへるけど歴史学者もまあいる。人類学者もわんさかいる。だから、モンゴル学もそこそこがんばっているかなーと思っていたら、そうでなかったことが意外だった。

 ケッサクなのが、日本ではこの状況が全部逆であること。

 日本は、かつて大陸に進出しようとしていた黒歴史のせいかどうか知らないけど、モンゴル学は非常に盛んである。先生がいれば生徒は育つから、日本にはたくさんのモンゴル学の学者がいる。かくいう私の師匠もモンゴル学者である。

 一方、純粋チベット学者の数は本当に少ない。
 チベット文献を用いるのはインド仏教研究のついでだったりして、チベット仏教本体の研究者はほとんどいない。ダライラマの本は一般には売れているけど、その一般の興味に比して、アカデミックな世界におけるプレザンスは無に等しい。山のようにある日本の仏教大学で、じゃあ何を教えているかというと、まずその大学を設立した宗派の教学が重視され、次に日本仏教全般が続く。チベット仏教なんてかすりもしない。

 講座がないということはチベットを教える先生がいないのだから、生徒が沸いてくることもない。

 私が今いるポジションもプロのチベット学者を育てられる環境ではない。 日本のチベット学者はみなチベットとは関係ない部署で就職し、チベット学については手弁当でほそぼそと勉強会やって文献購読したり、果てはチベットのお坊さんに直接ついて文献を読む手ほどきを受けたりして何とかしのいでいるのである。

 つまり、チベット学を志す者は、日本ではたどる道もなく、教えてくれる師もなく、講座なんてさらになく、切磋琢磨する学友もなく、孤独な環境の中で研究をしているのだ。だから、モンゴルが「講座がなくなった」なんて嘆いている時点でゼータクにしか見えない。

 さらに言えば、モンゴル文献学といっても、モンゴル人は遊牧民であるため文字史料には極めて乏しい。一方、チベット語には膨大な文字史料が仏教・歴史・文学のジャンルに残っている。また、チベットの文化は満洲人・モンゴル人に直輸入されてその精神世界の一部を構成しているため、モンゴルや満洲の文化を知るためにもチベット仏教の教養は必須である。

 にもかかわらず、日本には満洲史、モンゴル史はあってもチベット史の講座なんてありゃーしない。モンゴルや満洲をやる人がチベット文化を身につけるという例もほとんどない。

 私の目から見ると、日本では研究すべき文字史料の極小にひしてモンゴル研究者の数は大杉。一方、チベット語の文献は某大なのに、研究者は少なすぎ。日本のバランスは悪すぎる。

 日本の東洋學の状況がかくもバランスが悪いのは、モンゴルや満洲がかつて支配の対象として研究対象とされた時代があったのに比し、チベットの歴史や仏教は日本の歴史にかかわる程度が比較的少なかったからである。つまり、現在の研究者の数の偏りは過去の惰性にすぎない。

 欧米は東洋の精神文明をいいとこどりして効率よく東洋学を構成できたため、チベット学は正当な評価を受けてきた。日本もジャンルの重要度を鑑みて、アカデミズムの世界でもチベットに対し正当な扱いをしてもらいたいなあ。
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DATE: 2011/05/18(水)   CATEGORY: 未分類
チベット教科書出版の状況
 実はTCV(チベット子供村)で使っているチベットの教科書の和訳を入稿してもう三年になるのにまだ出ない。すでにもう催促メールを何十本となくだし、電話もかけ、そして毎度「必ず出します」というので引き下がってきたが、出たためしなし。昨日も恒例の電話をかけたら「今週中に二校を出す」というのだが、これでこなかったら、もう引き上げも考えねばな。

 岩波世界史料集成みたいな、みなでよってたかって作るヤバイ本が何年も遅れるのはよくある話だが、それは原稿がバラバラで統一に時間かかったりとかしていることが多くて、もう入稿して三年でないなんてことは普通ない。

 TCVの教科書の見所は、途上国の教科書にありがちな、ナショナリズムの陥穽に陥っていないこと、チベット人の歴史と文化を教えるものなのに、お釈迦様の伝記やインドの仏教者たちの伝記とか、伝統的なチベット史同様、インドからチベットへの仏教の流れが記されていること、また、ただ単に歴史を教えるだけでなく、仏教の基本的な教えとか、はずせない倫理とか、はては簡単な仏教論理学のディベートの仕方まではいっていることである。

 ようはこの教科書、知識よりも、智慧をつけるように作られているのである。
 日本では「倫理や道徳を国や学校がおしつけると戦前みたいになっちゃうから、家庭でやって」と丸投げした結果、コドモたちの精神的なスペックは親の資質如何でバラバラになってしまった。はては、この国では「善」とか「正義」とか「自由」をまともに考えもしないうちに、「争いの元になる胡散臭いもの」として封印する勢いである。

 一方のTCVはほぼ全寮制で、仮に親のいない子であっても、センセ、寮母さん、コミニュティの坊さんなどがよつてたかってコドモを世話するので、総じて思いやりある大人に育ってくれる。もちろん勉強出来ない子、オチこぼれはいくらでもいる。人間だもの。TCVは支援で動いている学校なので勉強する気のない子は退学にせざるをえないけど、日本にも膨大な不登校児がおり、さらに、難民社会であることを考えれば、仕方ない部分である。

 一方、本土チベットで、チベットの子供たちは、チベット人の歴史を「中国の地方政権」という形で教えられる。つまり彼らが学校で学ぶ歴史の大半は中国史なのだ。
 
 中国の歴史教科書が、それを読んだものをナショナリストに換えてしまうものであることはよく知られている。なにしろ、日本をはじめとする帝国主義諸国(イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ)の悪行がこれでもかと述べられる一方、これに立ち向かった中国人は愛国人士とほめたたえられるため、この教科書を呼んでいるうちに自然と「自国こそが正しく、他国は敵」と憎悪する価値観がばっちり植え付けられるようになるのである。この教育が中国の「統合」を助け、外国との摩擦を生んでいることはよく知られている。

 これは中国に特異な現象ではなく、たいがいの途上国は自国の「統合」のために歴史を「利用」しており、たとえば、ソ連が崩壊した後にできたような歴史のあさい国でも、太古の昔からの歴史を記した教科書がある。今その国を構成している民族と直接関係あるかどうかわからんような過去の民族や国をかきあつめて、その国の前史とするのである。その目的が国への帰属感をもりあげるためであることは言うまでもない。

 途上国の歴史教科書によくある特徴は「自らの帝国は過去には偉大であったが、近代に入ってその大半は失われた」という被害者意識。

 中国の国恥地図なんて、対馬も東南アジアも含まれた広大な地図を提示して、それが帝国主義列強によって奪われた、みたいなことを書いている。カンボジアのクメール帝国なんて黙っていたらインドシナ半島のかなりな部分を占めていて、カンボジアの人々のナショナリズムを刺激している。

 しかし、ご存じのとおり、宗教・民族構成と無関係にひかれた国境に囲まれた領域国家なんて近代の産物である。いわゆる大帝国なるものはその実体はスッカラカンの権威体制で、現在でいうところの実効支配とは無関係。かつ、その権威なるものは権威を主張するものの一方的な主張によるものであり、それが地域で受け入れられていたかもナゾ。そのような過去の帝国を現在の国民国家につなげたら、ああら大変。

 「ボクたちは被害者だぁーっっっ」というバーチャル被害者が世界中にいっぱい生まれることになる。

 一方、リアル被害者なチベット難民たちは、ナショナリズムにもとらわれず、自分たちの文化が世界に通用するものであることを静かに示し、迫害されている当事者である自分たちから「争いではなく話しあいで解決したい」という姿勢をみせることにより、世界が経済力や軍事力ではなく自由や正義などによって変わることを信じて生きている。

 チベットの教科書は伝統的な記述形態をとっているので、一般人にはやや読みにくいかもしれないが(とくにディベートのとこなんて実践やんないといみわかんない)、一見の価値はある。

なので、とにかく早くでてもらいたいのですが、いかんせんこんなことになってます。もし原稿引き上げることになったら、この場で報告しますので、興味ある方、コンタクトください。
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DATE: 2011/05/15(日)   CATEGORY: 未分類
現代史の研究者と話して気づいたこと
 早稲田界隈のみちのく居酒屋の2階にあるナゾのタイ料理屋で某若手研究者と語り合う。
 彼の書いたものは、対立する二つの意見をあげて、その対立の無意味をとくものがおおい。
 そして、中国政府がチベット支配を正当化するために用いる論法に対しては「それは違うよ」という否定を行う。

 たとえば、中国政府が「中国が来てからチベット人の平均寿命はこーんなに伸びたよ」と宣伝したら、彼は「あらゆる途上国が戦後、同じように平均寿命がのびている。別に中国の手柄でない」とか、こういったかんじ。

 そして、対立する二つの言説の間にあるものを探ろうとする。なので、中国政府とフリー・チベット運動を対立させたりすると、フリー・チベット運動のいうことも極端みたいな言い方をすることがある。

 これに対して私は「そもそも中国政府のプロパガンダって文革の時以来全く変わってなくて、後付の論理であることは国際的にもよく知られていること。誰も信用していないような理屈にあれこれコメントしても仕方なくありませんか。
 一方、チベット亡命政府のいう人権弾圧の事件は、一つ一つは事実に基づいている。ウソと真実が存在したら、ウソを捨てて真実をとればいいだけ。両者は全く異なるレベルのものだから、一緒の地平にならべて考える意味がないし、ましてや、両者の落としどころを考えるなんて不毛じゃないですか。」

 と言うと、その若手研究者いはく「ボクがこの論文の読者に考えている人たちは、自分ではすべてウラが分かっていると思いこんでいる中国の研究者たちで、彼らは中国政府とチベット亡命政府の言説を対立的に考えています。そういう人たちには、こういう書き方が説得的なんです」という。

 つまりぶっちゃけ、知らず知らずのうちに中国政府の思考法にはまって中国政府の言語体系で脳内を構成しちゃっている人間には、新しい言語体系で話しかけても通じない。だから、彼らが理解できる言葉を用いて説得するのだ、ということらしい。

 そういえば、お釈迦様は相手のレベルにあわせて対機説法をした。有名な話がある。

 お釈迦様の異母弟ナンダはお釈迦様の命令に従って出家した後も、残してきた美しい妻スンダリーのことを思い鬱々としていた(仏教では本来出家したら独身を護って妻とは関係をもてない。)。そこで、お釈迦様はナンダを天界につれていき、天界の美女をみせた。すると、ナンダは
 「この天女に比べればスンダリーなんて目じゃないわい」と思った。お釈迦様は「仏教の修業をすれば、その功徳で天界に生まれることができるよ」というのでナンダは必死に修業した。

 その後、釈尊はナンダを地獄につれていった。するとそこでは地獄の釜にまさに火が入れられようとしていた。ナンダが「この釜で誰を煮るんですか」と聞くと、「ナンダという男がこの後、天界に生まれ変わってさんざん快楽をつくして地獄に堕ちます。その準備でーす」と答えた。

 そこで、ナンダは天界における快楽はじつは地獄おちの門であることに気づき、不純な動機ぬきにまじめに修業して阿羅漢果を得た。

 つまり、釈尊は 愛欲に執着するナンダにはまず愛欲でつって修業をさせ、しかる後に正しい道に引き入れたわけである。相手のその時の理解レベルに応じてマーベラスな導きを行う釈尊のこの教師としての偉大さはよく知られている。

 つまりこの若手研究者のやっていることは、釈尊がナンダを天界に導いた部分にあたり、「真実」をつきつけて改心を迫る私のやりかたは、ナンダをいきなり地獄につれていくようなものなのである(笑)。我ながら、おおこわ。
 
 言うても、論文って真実を論じるものであって、読み手を選ぶのはおかしい。雑誌とかなら、ある世代の特定の階層をターゲットにして編集するということはありえても、論文はあくまでも誰の目からみてもあきらかな真実を論理的に述べる場。いくら否定対象にするとはいえ、中国政府の用いる言語体系や論理を言挙げすることは、それの存在に力をなにがしか貸すことになると、少なくとも私は思う。

 で、彼が用いるもう一つの手法で気になったのは、「フリー・チベット運動」、「亡命政府」、「中国政府」、「そのどちらでもない普通の本土チベット人」とか、人間集団のグループ化が頻繁に行われること。

 しかし、これらの集団って中国政府以外は一つのレッテル・一つの定義に収まるようなものではない。たとえば、「フリー・チベット」を標榜している人は、チベットが自治を実現することを望む以外、みなそれぞれ異なった主張をもっている。また、「本土チベット人」といっても、ラサの人・アムドの人、お坊さん・俗人、都会・田舎、共産党、留学組など無数の要素が作用した結果、それぞれに複雑なアイデンティティがあり、これまた一言でくくれるようなものでない。

 このように多様な内容をもつものを一グループにしてAあるいはBと名前をつけてみても、Aはこうである、Bはこうである、といった瞬間に反証がでてくる。

 まして、そのような異なったレベルを含む人々を名前をつけただけで同じ地平で論じて、こっちが正しい、いやこっちだ、いやどちらも正しくないその「真ん中」だ、とか言っても実りがないのではないかと、少なくとも私は思う。

これは人間集団についてだが、同じことはチベット人の状況を説明する概念についてもあてはまる。たとえば、チベットの「近代化=漢化」と「伝統的な価値観」というものはよく政治学や社会学で研究対象となり、しばしは両者は対立するものとして言及される。そして、多くの本土チベット人は伝統的な社会と近代化の狭間で苦悩しているかのようにとらえられる。

 でも、コレっておそらくは世界中の壊れゆく伝統的な社会に属する人々に共通する状況で、とくにチベット独自の問題ではない。少なくとも私は、チベットに特異な現象である、「仏教の伝統と近代って全然別次元のものなので、競合しない」という現象の方が興味深い。

 ダライラマという存在はチベットの伝統文化の精髄から生まれて、チベット文化の体現者であるということは言を俟たないであろう。そのチベットの伝統文化の象徴である彼が、1959年に国を失って亡命し、国際社会の孤児となって放り出された後に、自分の育ってきた伝統的な文化を恥じたことがあるだろうか。否定したことがあったろうか。近代化の中で自らのアイデンティティがゆらいだことがあったろうか。ないのである。じゃあ近代化を拒否したかといえば、それもしていない。彼は英語を勉強し、毎日BBCで世界情勢を見て、外国に多くの友人を持ち、経済の発展や科学の力も人間の生活から苦しみを軽減すると賞賛してきた。

 彼の中では伝統的な文化と近代文明はまったくバッティングしていないのである。それどころかダライラマは身につけた英語で自らの文化の精髄を西洋に伝えようとし、その結果、世界中の多くの人がチベット文化の価値に気づき、その文化の担い手であるチベット社会を護ろうとしている。むしろ、「近代」の方が「チベットの伝統」から生み出されたものによって目を覚ましそうな勢いなのである。

 概念化は物事を論じやすくし、ある時は現実の一側面を際だたせることがあるが、概念化が先行して現実をあてはめるようになってくると、そこからは得られるものは少ない。あくまでも事実、現実の観察からはじめて、そこからたちあがるイメージに名前をつける。その場合も、その名前には厳密な定義が必要である。

 たとえば「伝統」と一言でいっても、人によってその伝統のもつ意味は異なる。何かを論じる場では、誰にとってのどんな状況を伝統というのか、厳密に定義しなければ、その先に積み上がっていく発見はない。

 てなことを彼と話しているうちに考えた。

 ちなみに、この話の最中、いきなり店は停電でまっくらに。すると院生M「チーク・タイムですね。これから音楽が変わりますよ」とくだらないギャグをいう。一人あたま490円の予算のナゾのタイ・レストランだから、電気代けちってブレーカーがおちたに決まっているが、これには笑った。まあ他にもいろいろ考えたことはあるのだが、マックラになったのでおいおい。
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DATE: 2011/05/05(木)   CATEGORY: 未分類
ビンラディン殺害を受けて
 2001年に911同時多発テロをおこしたオサマ・ビンラディンがアメリカの特殊部隊に射殺された。

 オバマ大統領は「今日はいい日だ。世界はよりよく、より安全になるだろう」と声明をだし、ホワイトハウスの前でアメリカの青年たちがUSAを連呼した。

 この報道に対して日本のメディアの反応、また、ツイッターでコメントした人の反応は否定的なものが多かった(とはいっても自分30人しかフォローしていないが 笑)。

 否定的なコメントをだす人の大半は、人を殺害して喜ぶことに対する抵抗感、新たなる報復の連鎖が始まるという不安感をのべていた。

 しかし911でアメリカ人が受けた傷を考えると、部外者が口をはさむのは何かはばかられる。

 旅客機をハイジャックし、無辜の旅客ともども、ニューヨークのシンボルであるWTOにつっこみ、WTOがそこにいる人ともども目の前で崩れ落ちていく、その圧倒的な悪意をテレビの前でみたアメリカ人はそれから世界の見方を変えた。

 それを部外者がどう非難できようか。それにあの時、イマジン歌いながらグラウンド・ゼロに集まったのもまたアメリカ人であった。アフガンやイラクに派兵するのを反対したのもまた同じアメリカ人だった。少なくとも私のしるアメリカのチベサポはみな派兵に反対していた。

「アメリカ」なんて単純にひとくくりにできないのである。

 それに、「怒ると何をするかわからない者に対しては、刺激しない方がいい。殴られても我慢しろ」という論理は、どこかの国に対処する際に、一部の日本人がよくもちだす論理と通い合っていて何かひっかかる。

「怒ると何をするか分からない相手」に対しては人は、礼儀正しくにこやかにふるまい、その人が通り過ぎるのを待つ。でも、その人が去ってくれなかったらどうする? その怒らすと何するかわからない危ない人が自分の家族の頭に銃を突きつけた時、それでもあなたは、黙ってみていられますか

 で、ダライラマ法王がアメリカでビンラディン殺害の件で質問を受けて、「どんな人でも赦しと慈悲は必要、だけど、起きたことは忘れてはならない。対抗措置をとる必要があるなら、とれ」とおっしゃっり、その発言にどん引いている人がいる。しかし、この発言は「非暴力で思考停止して、人が殺されるのを傍観しているのは、やりすぎ」とのニュアンスを法王特有のレトリックで伝えたもの。

 実は法王、何年か前にも「家族の頭に銃をつきつけられた時~」という話をされている。だから、これをもって単純に法王が殺害を肯定したみたいなことをいうたらあかんぜよ。

 では、以下にロサンジェルス・タイムズの記事をあげます。英語に自信がないので読める人は原文読んでね。
記事のタイトルはあくまでも記者のつけたものですからね。そこんとこを間違えないように。

ダライラマ、オサマビンラディンの死は正当化されると暗示
2011年5月4日

チベット佛教の指導者として、ダライラマ十四世はこういう。「私は慈悲行を実践しており、機嫌がよくてマラリアの危険がない時には、蚊を叩くことすら避けるほどである。時には蚊が自分の血を吸うのを興味深く見守っている」

しかし、火曜日のUSCにおける謁見において、ダライラマはオサマ・ビン・ラディン殺害についてアメリカは正当化される、とほのめかした。

アルカイダの暗殺について質問を受けたダライラマはそれに答えてこういった。「一人の人間として、ビンラディンは哀れみを受け、許される価値がある。」「しかし、許すことは起きたことを忘れることではない。もし深刻な状況があり、対抗措置をとることが必要なら、対抗措置をとる必要がある。」

たぶん、これはダライラマがわざと人の期待をはずしてみせる一つの例であり、何か楽しんでいるようにも見える。75才の指導者は、日本で病気になり、二日遅れで南カリフォルニアの四日間の旅にでる最初の日に語った。

側近によるとダライラマは、「健康が回復するまでは長いフライトは避けた方がいい」との医者のアドバイスに従い、日曜日のロング・ビーチと月曜日のUCLAでの謁見をキャンセルした。ダライラマは311の地震と津波で死んだ人の慰霊法要と日本の支援のために日本に滞在していた。

火曜日、ダライラマがUSCのガレン・センターのステージにたった時、病の影響は感じられなかった。頑健で上機嫌にみえ、聴衆に向かって「喉の痛みと気が遠くなる薬の副作用に苦しんだ」と語った。ダライラマは赤と金のUSCの野球帽(たまたま彼の着る伝統的な僧衣の色とよくあっていた)をかぶる前に「今日は絶好調だ」と言った。

今回はダライラマがチベット亡命政府の当座の政治的指導者の座をおりて最初のアメリカ訪問であった。彼の意識は精神的な事柄に主に向いていた。ダライラマは中国軍がチベット支配を一段と強化したことを理由に1959年にチベットから亡命し、以来インドに住み、しばしばチベット問題の啓蒙のために世界を旅している。

彼のUSCでの講演は「世俗の倫理、人間の価値、社会」と題され、動物の意識、インドの多文化共生社会、幸福の本質など多岐にわたる話題をカバーできる十分に広いテーマであった。ダライラマは宗教的な寛容の大切さ、主な宗教に共通する価値観について語った。しかしこうも言った。「人は祈るだけでは幸福になれない。この幸せな人生というのは宗教的な概念ではない。幸福は世俗的な概念だ。だから、私の〔この話の〕目的は世俗的なものである」「私は仏教徒だ。私は仏法を尊んでいる。しかし、私はいつも世俗について語っている。」

USCの学生を含む3000人の聴衆は恭しく彼のメッセージを受け取った。しかしその後、ある者がダライラマを理解しがたいと不平をいった。ダライラマは時にトゲのある思考法を癖のある英語で、時たま翻訳者に補ってもらいながら語った。

多くのものたちは啓発された。そしてある者は仏教の指導者について期待される、ある種謎めいた言葉でダライラマについて語った。
アフリカ・メソジスト聖公会の牧師、セシル・チップ・マレイ師は「私は真実は永遠であると思う。だから、新しい真実には期待しない。しかし、私はダライラマから真実をを読みとった。従って、真実は新しい意味を帯びた。彼は形而上であると同時に形而下の存在である」

水曜日、ダライラマはロング・ビーチでアムネスティ・インターナショナルから賞を受け、カリフォルニアをさる前にUCIrvineで講演をする。

原文はここ↓
http://www.latimes.com/news/local/la-me-0504-dalai-lama-20110504,0,7229481.story
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