真理はいつも当たり前
ブログの更新が震災にかこつけて週一なってしまった。そろそろ平常に復さねばと思いつつも、一度覚えてしまった怠惰の味は忘れられん。
26日はダライラマ法王事務所主催で東日本大震災の犠牲者の追悼供養ならびに鎮護国家の祈りが護国寺様で行われた。護国寺様のあの広い本堂を埋め尽くす人達が集まった。
チベット勢は広島の龍蔵院からアボとゲンギャウの両名が参加、日本勢からは宗派を超えてチベットの平和を祈念する会が参加し、聴衆はオールスター、チベサポ。まずラクパさんが全体の挨拶をして、それから護国寺の御前様が今回の震災の犠牲者に対する哀悼の意と般若心経の説く智慧の重要性を説く。
バリー・カーズィン博士(アメリカ人のチベット僧)が般若心経の意味を解説。般若心経のマントラ、「ギャーテー・ギャーテー・ハーラー・ギャーテー・ハラソウギャーテー・ボーディーソーハー。」の一節一節を覚りにいたる5つの道(五道)に関係づける解説をし、全てのものは依存性の中で存在するように見えているだけで、不変の本質のようなものはない、ということが智慧であり、しかし、それは「何もない」ということではない。この震災はリアルである。そのような意味では世の中は存在するが、そこに何か不変の実体のよなものを見いだしてはいけない、と説かれ、何度も「これは智慧についてのお経であるが、智慧と対になる慈悲ももって唱えるべし。ダライラマ法王と倶に唱えていると思いなさい」みたいな話をされる。
それから、チベット語の般若心経・障害消除の経典(bar chad lam sel)・グルリンポチェのマントラ・ダライラマ法王の長寿祈願文や四大にお静まりいただく以下の文が読まれた。配布された読誦経典では和訳がなかったので、とりあえずつけてみました。
地神と四大(この世界を構成する4つの元素)の女神に対する供養文
(sa bdag 'byung bzhi'i lha mor gsol mchod)
金色の大地の主よ。堅固なる大地の女神よ。
東方の木、南方の火。西方の金(鉄)、北方の水。
四維の大地の女神達よ。お聞き下さい、黄金の飲み物(酒)などの
供養の品をお取りになって、寺の建つこの地などに
憎しみや嫉妬なさらずに、幸せになるようにお守りください。
不快に感じられず喜んでください。災いをなさず愛してください。
傷つけても我慢してください。不祥な地震などの
四大による災いを鎮め、吉祥安楽にして下さるように。
グルリンポチェは八世紀に飛来した密教行者で、チベットの山や湖にやどる土地神様を次々と調伏して護法神へと変えていった方なので、このような現世の大災害についてはグルリンポチェへのお経がよく読まれる。
護国寺様はご存じ将軍綱吉の母によって建立された名刹で、その本堂は明治元年の騒動も、関東大震災も東京大空襲も逃れてきた、何かに護られてきたかのような希有な建造物である。「護国」という名前のお寺において行われた祈りはこの雑音おおき日本においてもかなりピュアだと思うので、突然の死に襲われた震災の犠牲者や地の神に届いてほしい。
私事になるが、その前日くらいから風邪の症状が出始めていたので、暖房のない護国寺本堂の読経はちょとつらかったが、それもまたよし。人は生命にさしせまった危険を感じている時は免疫力満開になるのでそうそう病気にはならない。風邪ひくくらいのヨユウが自分の中に生まれたのかと思えば平和である。
今現在、人々の恐怖は水道水からでてくる放射能とかに移っているようであるが、それにびびってウツになったりしては放射能で死ぬ前に、社会的に死んでしまう。自分はもともと両親ガンで死んでいて、ガン化するかもしれない恐怖は人一倍よく知っているので、その対処法についてもエキスパートである。
ガン死の恐怖との戦い方を伝授しよう。えっへん。
たとえ八十年生き続けることができても、その毎日が鳥インフルエンザを気にして野鳥を毛嫌いし、インフルエンザの予防注射をうち、家の中を消毒しまくって、あらゆる健康食品を食べ、放射能のない水を求めてさまようことに時間の大部分を費やしていたならば、客観的にいってその人は「ただ長生きすること」を目的に生きることになる。少なくとも私はそのような人生は送りたくないし、そのような人生を幸せとも思えない。
そこでこう思った。「仮に短くとも、納得のいく人生が送れれば、ただ長生きを目的とした人生よりは楽しく充実したものになるではないか。どんな人だって遅かれ早かれ必ず死ぬ。だったら、死を避けようとする努力に時間をつかのうはムダ。それよりゃ、いつ死んでも悔いのないように、いますぐ、本質的なことだけを考えて、自分のできることやろう。そうして死に備えれば、結果として死が怖くなくなる」とふっきれた。
自分は何のために生きているのか、それを考えてみるといい。自分の体にばかり注意を向けることが、本当に幸せなことなのか。自分のことばかり考えている人生はじつは煉獄ではないか。
孔子はこうのたまった。
「朝に道をきかば夕べに死すとも可なり。」
津波でなくなった方たちは、親しい人に「ありがとう」も「さようなら」もいうヒマもなく流されていった。私たちは少なくとも愛する人たちに、自分の気持ちを伝える時間がある。そしてそれぞれ何かをなしとげる時間も余命に応じてあるはずである。
最後にツイッターで流れていた笑える話し。
rogcig「原発問題で、いらいらしてなにもできません。ラマに占ってもらって
ください」とチベット人の知人にメールしたら、返事がかえってきて「『般若心経』を一万回となえてください、だそうです」「私が一万回唱えても原発が鎮まると思えないけど」「いや鎮まるのはあなたの心です」あたりまえすぎてワラタ
真理はいつも当たり前。
26日はダライラマ法王事務所主催で東日本大震災の犠牲者の追悼供養ならびに鎮護国家の祈りが護国寺様で行われた。護国寺様のあの広い本堂を埋め尽くす人達が集まった。
チベット勢は広島の龍蔵院からアボとゲンギャウの両名が参加、日本勢からは宗派を超えてチベットの平和を祈念する会が参加し、聴衆はオールスター、チベサポ。まずラクパさんが全体の挨拶をして、それから護国寺の御前様が今回の震災の犠牲者に対する哀悼の意と般若心経の説く智慧の重要性を説く。
バリー・カーズィン博士(アメリカ人のチベット僧)が般若心経の意味を解説。般若心経のマントラ、「ギャーテー・ギャーテー・ハーラー・ギャーテー・ハラソウギャーテー・ボーディーソーハー。」の一節一節を覚りにいたる5つの道(五道)に関係づける解説をし、全てのものは依存性の中で存在するように見えているだけで、不変の本質のようなものはない、ということが智慧であり、しかし、それは「何もない」ということではない。この震災はリアルである。そのような意味では世の中は存在するが、そこに何か不変の実体のよなものを見いだしてはいけない、と説かれ、何度も「これは智慧についてのお経であるが、智慧と対になる慈悲ももって唱えるべし。ダライラマ法王と倶に唱えていると思いなさい」みたいな話をされる。
それから、チベット語の般若心経・障害消除の経典(bar chad lam sel)・グルリンポチェのマントラ・ダライラマ法王の長寿祈願文や四大にお静まりいただく以下の文が読まれた。配布された読誦経典では和訳がなかったので、とりあえずつけてみました。
地神と四大(この世界を構成する4つの元素)の女神に対する供養文
(sa bdag 'byung bzhi'i lha mor gsol mchod)
金色の大地の主よ。堅固なる大地の女神よ。
東方の木、南方の火。西方の金(鉄)、北方の水。
四維の大地の女神達よ。お聞き下さい、黄金の飲み物(酒)などの
供養の品をお取りになって、寺の建つこの地などに
憎しみや嫉妬なさらずに、幸せになるようにお守りください。
不快に感じられず喜んでください。災いをなさず愛してください。
傷つけても我慢してください。不祥な地震などの
四大による災いを鎮め、吉祥安楽にして下さるように。
グルリンポチェは八世紀に飛来した密教行者で、チベットの山や湖にやどる土地神様を次々と調伏して護法神へと変えていった方なので、このような現世の大災害についてはグルリンポチェへのお経がよく読まれる。
護国寺様はご存じ将軍綱吉の母によって建立された名刹で、その本堂は明治元年の騒動も、関東大震災も東京大空襲も逃れてきた、何かに護られてきたかのような希有な建造物である。「護国」という名前のお寺において行われた祈りはこの雑音おおき日本においてもかなりピュアだと思うので、突然の死に襲われた震災の犠牲者や地の神に届いてほしい。
私事になるが、その前日くらいから風邪の症状が出始めていたので、暖房のない護国寺本堂の読経はちょとつらかったが、それもまたよし。人は生命にさしせまった危険を感じている時は免疫力満開になるのでそうそう病気にはならない。風邪ひくくらいのヨユウが自分の中に生まれたのかと思えば平和である。
今現在、人々の恐怖は水道水からでてくる放射能とかに移っているようであるが、それにびびってウツになったりしては放射能で死ぬ前に、社会的に死んでしまう。自分はもともと両親ガンで死んでいて、ガン化するかもしれない恐怖は人一倍よく知っているので、その対処法についてもエキスパートである。
ガン死の恐怖との戦い方を伝授しよう。えっへん。
たとえ八十年生き続けることができても、その毎日が鳥インフルエンザを気にして野鳥を毛嫌いし、インフルエンザの予防注射をうち、家の中を消毒しまくって、あらゆる健康食品を食べ、放射能のない水を求めてさまようことに時間の大部分を費やしていたならば、客観的にいってその人は「ただ長生きすること」を目的に生きることになる。少なくとも私はそのような人生は送りたくないし、そのような人生を幸せとも思えない。
そこでこう思った。「仮に短くとも、納得のいく人生が送れれば、ただ長生きを目的とした人生よりは楽しく充実したものになるではないか。どんな人だって遅かれ早かれ必ず死ぬ。だったら、死を避けようとする努力に時間をつかのうはムダ。それよりゃ、いつ死んでも悔いのないように、いますぐ、本質的なことだけを考えて、自分のできることやろう。そうして死に備えれば、結果として死が怖くなくなる」とふっきれた。
自分は何のために生きているのか、それを考えてみるといい。自分の体にばかり注意を向けることが、本当に幸せなことなのか。自分のことばかり考えている人生はじつは煉獄ではないか。
孔子はこうのたまった。
「朝に道をきかば夕べに死すとも可なり。」
津波でなくなった方たちは、親しい人に「ありがとう」も「さようなら」もいうヒマもなく流されていった。私たちは少なくとも愛する人たちに、自分の気持ちを伝える時間がある。そしてそれぞれ何かをなしとげる時間も余命に応じてあるはずである。
最後にツイッターで流れていた笑える話し。
rogcig「原発問題で、いらいらしてなにもできません。ラマに占ってもらって
ください」とチベット人の知人にメールしたら、返事がかえってきて「『般若心経』を一万回となえてください、だそうです」「私が一万回唱えても原発が鎮まると思えないけど」「いや鎮まるのはあなたの心です」あたりまえすぎてワラタ
真理はいつも当たり前。
パワー・トゥ・ザ・ピーポー
不幸な時間は体感時間ながくて、幸福な時間は一瞬に感じるというけど、いやあ、地震起きてから一日一日が長いわ。早く状況落ち着いてくれ。
パニック映画ってのは、映画だからいいのであって、現実に『ディープインパクト』に、『ザ・コア』な日々を過ごしていると、もう自然災害モノのパニック映画は一生見たくない。チンタラしたフランスの恋愛映画みたい。
日常が一番。
不幸が板についたカマボコになっていて、ちょっと余震が少なくなると、昔だったら「これで収束にむかうのかな」とか思った、今は「おっきいのが来る前だから静かなのでは」とか、明らかに疑い深くなっている。
さてナチスに占領されたパリもかくや、というひっそりとした東京において、シンディローパーのコンサートが開かれた。
多くのミュージシャンがコンサートをとりやめる中、地震当日に来日したシンディはあえて続行を決意。彼女はもともと親日家で、ジョン・レノン追悼コンサートに出たり、地雷撲滅運動に加わったりと一線で活躍しているので、自分のできる事、すなわち歌で日本人を元気づけようとしたのである。
チケットは放射能にびびって関西に逃げたとある方のものを半額でゆずってもらった。
で、オーチャドホールにいく。渋谷はカトマンドゥかサイゴンもかくやという暗さであった。いや、十分でしょこの明るさで。デジカメで2011年の渋谷を記録しようと思うが、最近のデジカメは賢すぎて暗い景色も明るくしてしまう。ちっ。
席は三階の壁際にはりついた前から四番目という微妙というか、はっきりいって、これこの前と同じ揺れがきたら下に落ちるだろ、という怖い席。ホールの人からも「立つな」と言われる。頼まれても立たねーよ。手すりモモのあたりまでしかないもん。
開場間際になってテリー伊藤やデーブスペクターさまご一行が入場し、一階のまん中席に並んで席をとる。それを見て「ホールの屋根が落ちたら、デーブはかわいそうなことになるけど、壁際の自分はダイジョブだな」とか、311以後そんなことばかり考えるようになっている自分に気づく。サバイバルな毎日だ。
ツァー名はメンフィス・ブルースで、ブルースの名曲をカバーしたりもしてるんだけど、スタンダードナンバーもちゃんとあって、相変わらず素晴らしい元気のでる声。57なのにステップがピッチピチ。そして、トゥルー・カラーズ、ドント・クライ(泣かないで)、などの震災を意識した曲もしっとりと歌い上げた。
そして、最後に、こぶしを握って高く上げて、
「Power to the people」(人々に力を!)と日本人にエールを送ってくれた。
ジョン・レノンだよ(涙)!
そして、「〔チベサポで有名な湯川〕礼子さんの提案で、出口のところで有名人が募金箱もっています。私も後でいきます。被災者のために募金お願いしまーす」と挨拶。そうか、デーブは募金の協力のための助っ人で来ていたのか。
私はじつはデーブ・スペクターのことは薄目で見ていた。
その昔、彼はフジテレビでハリウッド情報を伝えるコーナーをもっていた。で、リチャードギアが第一子をもうけて、チベサポらしく息子にチベット名のテンジン君とつけた時、彼はあろうことかこのテンジン君を中国名といい、しかも、「どんな漢字をあてるかアグネス・チャンに聞いたけど分からなかった」といったのである。
リチャギがチベット・サポーターなのはハリウッドでは有名な話で、アカデミー賞でオスカーのプレゼンテーターやった時に、中国を批判するスピーチやる人だし、そもそもテンジン君のおかあさんと知り合ったのだって、チベットハウス主宰のチャリティでだよ。それも知らないで、ハリウッド情報を伝えるコーナーに座るってどうよ。
しかし、たぶんデーブは変わったんだ。こうやってチベサポの湯川さんの呼びかけに応えて、震災支援をしているということは、きっと今はチベットのことを理解しているよね(そう思わないと)。
非常にシンプルな舞台で、シンディの服装も黒が基調で、ライトもムダにつかっていなかったし、節電云々して中止するよりも、あのパワーは今の日本に必要だと思った。
で、火曜日はゲリラ卒業コンパ。震災があったため、恒例の卒業コンパを中止し、それでも本式はあるだろうと思っていたら何と大学まで卒業式を中止してしまった。「せっかく作った思い出の動画の発表の場がなくなる」じゃなくて、「今年卒業の四年生がかわいそう」ということになった。
すると、ハイパーに気の利く性格のいい三年生の女の子が、「先生、何とか集まれる人たちだけでも集まってやりましょう」という。そして彼女はやってしまった。期待以上の働きをもって。
いつ大きな余震があるかもしれない、電車がとまるかもしれない、放射能くるかもしれない、戦時下の開催であるため、集まる決意をするだけでも緊張する。しかし、四年生は一人(被災地に連絡のとれない親戚の方がいた。その後無事判明)を除いてみな集まってくれた。
そして私は放射能に効くというビールの中ジョッキを片手に、インディペンデンスディのアメリカ大統領さながらにスピーチをする。
「みんな不安だろう。しかし、大丈夫だ。先生はスリーマイルも中国の核実験も、チェルノブイリもみな浴びている。子供の頃は薬害と公害のオンパレードで六価クロムだヒ素ミルクも同時代だが、こうして元気だ。両親は死んでいるけどな」
学生「結局死んでいるんじゃん」
私「わたしは生きている。逆境は人を強くする。カンパーイ!」と乾杯して、恒例の動画お披露目。
私目が二年間カメラ小僧になって学生追い回してとった写真を、独断と偏見で言いたい放題なコメントつけて好きな曲にのせて送るプレゼントである。
今年も笑ってもらえた。動画の選曲は時節にあわせて中島みゆきの「宙船」とミスチルの「HANABI」である。
何とあのよく出来た三年生の幹事が一人一人の卒業証書を手作りしてくれていた。もちろん、チベット国旗つきオリジナル卒業証書。そこで、私はジョッキを片手にビールをあおりながら、一人一人に証書を授与。なんとTちゃんはゼミ・オリジナル・グッズまで作ってきてくれて、感動モノ。
四年生にこれはサービスしすぎでわ・・・。
三年生、できすぎ・・・
で、良い感じに泥酔したし、余震があるといやだから、一次会でかいさーん、というと、みなカラオケにいくという。そこで、
私「私もうかなり酔っているし、地震がきても正確な判断であなたたち誘導できないよ」というと
学生「僕たちもう二十二ですよ、素面が何人かいるから、あの子たちに判断させましょう」ということで、いい加減にカラオケ屋にいくことが決定。
、
いきなり宙船をうたわされる。今の日本はこの歌にある宙船といっしょ。サビは四年生総立ちでもりあがる。
完全に全員ヤケクソである。
それから、私の記憶によるとチャゲアスの『Ya-Ya-Ya』を、全員で拳つきあげてがなって、
『リンダ・リンダ』ではねて、運動でアルコールが消化されて酔いが覚めていく。
彼らの選曲をみていると、We are the worldとか、岡本真夜とか、前向きな曲ばかり。
そのうち、気分は、あの往年の名画カサブランカの有名な酒場のシーンもかくやといわんばかりの、
「このままですむと思うなよ、チクショーめ!!!」という雰囲気で盛り上がったのであった。
そのあと学生は尾崎豊の「15の夜」とか絶唱しだし、「あなたたちもうハタチすぎてんだから、盗んだバイクで走り出すのはやめてよ」といっても「いや、まだいけますよ、尾崎」とか子供である。
この子たちはダイジョブだ。
そして、この子たちが大丈夫な内は日本も大丈夫だ。
卒業おめでとう。
パニック映画ってのは、映画だからいいのであって、現実に『ディープインパクト』に、『ザ・コア』な日々を過ごしていると、もう自然災害モノのパニック映画は一生見たくない。チンタラしたフランスの恋愛映画みたい。
日常が一番。
不幸が板についたカマボコになっていて、ちょっと余震が少なくなると、昔だったら「これで収束にむかうのかな」とか思った、今は「おっきいのが来る前だから静かなのでは」とか、明らかに疑い深くなっている。
さてナチスに占領されたパリもかくや、というひっそりとした東京において、シンディローパーのコンサートが開かれた。
多くのミュージシャンがコンサートをとりやめる中、地震当日に来日したシンディはあえて続行を決意。彼女はもともと親日家で、ジョン・レノン追悼コンサートに出たり、地雷撲滅運動に加わったりと一線で活躍しているので、自分のできる事、すなわち歌で日本人を元気づけようとしたのである。
チケットは放射能にびびって関西に逃げたとある方のものを半額でゆずってもらった。
で、オーチャドホールにいく。渋谷はカトマンドゥかサイゴンもかくやという暗さであった。いや、十分でしょこの明るさで。デジカメで2011年の渋谷を記録しようと思うが、最近のデジカメは賢すぎて暗い景色も明るくしてしまう。ちっ。
席は三階の壁際にはりついた前から四番目という微妙というか、はっきりいって、これこの前と同じ揺れがきたら下に落ちるだろ、という怖い席。ホールの人からも「立つな」と言われる。頼まれても立たねーよ。手すりモモのあたりまでしかないもん。
開場間際になってテリー伊藤やデーブスペクターさまご一行が入場し、一階のまん中席に並んで席をとる。それを見て「ホールの屋根が落ちたら、デーブはかわいそうなことになるけど、壁際の自分はダイジョブだな」とか、311以後そんなことばかり考えるようになっている自分に気づく。サバイバルな毎日だ。
ツァー名はメンフィス・ブルースで、ブルースの名曲をカバーしたりもしてるんだけど、スタンダードナンバーもちゃんとあって、相変わらず素晴らしい元気のでる声。57なのにステップがピッチピチ。そして、トゥルー・カラーズ、ドント・クライ(泣かないで)、などの震災を意識した曲もしっとりと歌い上げた。
そして、最後に、こぶしを握って高く上げて、
「Power to the people」(人々に力を!)と日本人にエールを送ってくれた。
ジョン・レノンだよ(涙)!
そして、「〔チベサポで有名な湯川〕礼子さんの提案で、出口のところで有名人が募金箱もっています。私も後でいきます。被災者のために募金お願いしまーす」と挨拶。そうか、デーブは募金の協力のための助っ人で来ていたのか。
私はじつはデーブ・スペクターのことは薄目で見ていた。
その昔、彼はフジテレビでハリウッド情報を伝えるコーナーをもっていた。で、リチャードギアが第一子をもうけて、チベサポらしく息子にチベット名のテンジン君とつけた時、彼はあろうことかこのテンジン君を中国名といい、しかも、「どんな漢字をあてるかアグネス・チャンに聞いたけど分からなかった」といったのである。
リチャギがチベット・サポーターなのはハリウッドでは有名な話で、アカデミー賞でオスカーのプレゼンテーターやった時に、中国を批判するスピーチやる人だし、そもそもテンジン君のおかあさんと知り合ったのだって、チベットハウス主宰のチャリティでだよ。それも知らないで、ハリウッド情報を伝えるコーナーに座るってどうよ。
しかし、たぶんデーブは変わったんだ。こうやってチベサポの湯川さんの呼びかけに応えて、震災支援をしているということは、きっと今はチベットのことを理解しているよね(そう思わないと)。
非常にシンプルな舞台で、シンディの服装も黒が基調で、ライトもムダにつかっていなかったし、節電云々して中止するよりも、あのパワーは今の日本に必要だと思った。
で、火曜日はゲリラ卒業コンパ。震災があったため、恒例の卒業コンパを中止し、それでも本式はあるだろうと思っていたら何と大学まで卒業式を中止してしまった。「せっかく作った思い出の動画の発表の場がなくなる」じゃなくて、「今年卒業の四年生がかわいそう」ということになった。
すると、ハイパーに気の利く性格のいい三年生の女の子が、「先生、何とか集まれる人たちだけでも集まってやりましょう」という。そして彼女はやってしまった。期待以上の働きをもって。
いつ大きな余震があるかもしれない、電車がとまるかもしれない、放射能くるかもしれない、戦時下の開催であるため、集まる決意をするだけでも緊張する。しかし、四年生は一人(被災地に連絡のとれない親戚の方がいた。その後無事判明)を除いてみな集まってくれた。
そして私は放射能に効くというビールの中ジョッキを片手に、インディペンデンスディのアメリカ大統領さながらにスピーチをする。
「みんな不安だろう。しかし、大丈夫だ。先生はスリーマイルも中国の核実験も、チェルノブイリもみな浴びている。子供の頃は薬害と公害のオンパレードで六価クロムだヒ素ミルクも同時代だが、こうして元気だ。両親は死んでいるけどな」
学生「結局死んでいるんじゃん」
私「わたしは生きている。逆境は人を強くする。カンパーイ!」と乾杯して、恒例の動画お披露目。
私目が二年間カメラ小僧になって学生追い回してとった写真を、独断と偏見で言いたい放題なコメントつけて好きな曲にのせて送るプレゼントである。
今年も笑ってもらえた。動画の選曲は時節にあわせて中島みゆきの「宙船」とミスチルの「HANABI」である。
何とあのよく出来た三年生の幹事が一人一人の卒業証書を手作りしてくれていた。もちろん、チベット国旗つきオリジナル卒業証書。そこで、私はジョッキを片手にビールをあおりながら、一人一人に証書を授与。なんとTちゃんはゼミ・オリジナル・グッズまで作ってきてくれて、感動モノ。
四年生にこれはサービスしすぎでわ・・・。
三年生、できすぎ・・・
で、良い感じに泥酔したし、余震があるといやだから、一次会でかいさーん、というと、みなカラオケにいくという。そこで、
私「私もうかなり酔っているし、地震がきても正確な判断であなたたち誘導できないよ」というと
学生「僕たちもう二十二ですよ、素面が何人かいるから、あの子たちに判断させましょう」ということで、いい加減にカラオケ屋にいくことが決定。
、
いきなり宙船をうたわされる。今の日本はこの歌にある宙船といっしょ。サビは四年生総立ちでもりあがる。
完全に全員ヤケクソである。
それから、私の記憶によるとチャゲアスの『Ya-Ya-Ya』を、全員で拳つきあげてがなって、
『リンダ・リンダ』ではねて、運動でアルコールが消化されて酔いが覚めていく。
彼らの選曲をみていると、We are the worldとか、岡本真夜とか、前向きな曲ばかり。
そのうち、気分は、あの往年の名画カサブランカの有名な酒場のシーンもかくやといわんばかりの、
「このままですむと思うなよ、チクショーめ!!!」という雰囲気で盛り上がったのであった。
そのあと学生は尾崎豊の「15の夜」とか絶唱しだし、「あなたたちもうハタチすぎてんだから、盗んだバイクで走り出すのはやめてよ」といっても「いや、まだいけますよ、尾崎」とか子供である。
この子たちはダイジョブだ。
そして、この子たちが大丈夫な内は日本も大丈夫だ。
卒業おめでとう。
何もできない人にできる事
3月11日、私は某マスコミ人を相手に駅前のカフェ(鉄筋の一階)で、チベット問題のレクチャーをしていた。四十分くらいたったところで、揺れが始まった。
「縦揺れじゃないから直下でないですね」とか言っているうちに、揺れはさらに強くなり嵐の中の船にのっているような状態に。私の視線の先にある窓の外では、駅前の信号がダンシングフラワーのように狂ったようにブンブンまわり、駐車中のタクシーがエビのようにはねている。
こりゃいかん。
私はコートとカバンをつかんで、「ということで、家がボロ屋で心配なので、さよなら」
と話をぶったぎって店を飛び出す。
後ろに残された某マスコミのPDは「●浜先生って面白いですね~」といっている。
イヤ、あんたらの危険感知度が鈍すぎるだけだから。
明らかにヤバイでしょ。
ホームにいた人や駅前の建物で買い物をしていた人がみな駅前広場にでてきていて不安そうに、肩を寄せ合っている。その凍り付いた人並みをかきわけつつ、停電していませんようにと念じつつ、駐輪場にいく。
停電していたら自転車だせない。幸いにして停電はしていなかったので、自転車にとびのって家に飛んで帰る。
シロアリに土台から食われているとはいえ(笑)、家は無事であった。
愛鳥ごろう(オカメインコ)さまはダンナ様の肩でびびって細くなっていた。築44年の我が家はそれはゆれて、ダンナ様はごろうを片手でつかんで、お風呂場に逃げたが、お風呂の水が揺れでこぼれていたそうな。
それから一時間、家は数珠つなぎでおきる余震に揺れ続けた。電気の傘がそれから二時間ずっと大小の地震で揺れ続けた。仕方ないので、キャリーに入れたごろう様を抱いて机の下に潜っていた。
それから、つけっぱなしのテレビは押し寄せる津波の映像をうつしだす。ヤバイ。
その日の晩、川崎方面に向かう国道沿いは歩いて帰宅する人々の波に埋め尽くされた。警察署の前には東京都の地図が貼られ、ライトアップされており、みなそこによって帰路を確認していた。多摩川にかかる橋を一方向のみに向かってとぼとぼ歩いていく人の群はどこからみても「難民」そのものだった。
で、それからはご存じの通りの展開に。
普通の災害なら揺れが収まったら終わりだが、そのあと津波がきた。その津波が原子力発電所をこわし、原子力発電所がとまったことによる電力低下で都市機能ダウン→日本経済大打撃→さらに原発爆発して放射能モレ→都民パニック・イベント中止・買いだめ・都心脱出者多数←イマココ
とくに興味深かったのが、テレビやネットにしがみついている人々の間で、安否情報やまっとうな呼びかけ以外にも、不信・不安・恐怖・虚報が増幅されていったことだ。
わたしはチベットの歴史なんかについて研究してきたけど、私の体験した範囲内でも新聞記者とかテレビの解説員とか、一般のジャーナリストとか、たとえ研究者であっても専門から少しでも外れると、その人の語るチベットの知識についての不正確さと視野の狭さは驚く程であった。でも、素人の彼らが公器を使ってある意見を垂れ流すと、チベット人の言葉はいつもかき消されてきた。
だから、まして理系の難しい原子力の問題なんかを、専門家でもない「あの」新聞記者やテレビ解説員たちがまともに理解しているのか疑問だと思ったので、基本、東電や政府の言うことはまったく信用しないことは無論のこと、マスコミの煽る恐怖感も何割引か引いて考えていた。
一応マスコミについて多少擁護すれば、彼らは毎日新しく起きる世界中のニュースに対応せねばならないのだから、その全てについて専門的な知識をもっていないため、「それに通じているらしいアクセスしやすい素人」の意見を聞いてしまうのも、仕方ないことだと思う。しかし、それがこと多くの人の雪崩をうったような行動を誘発する原発事故の報道となると、仕方ないとも言ってられない。
仮に首都圏汚染がおきるかもしれないことであったとしても、ホンモノノ専門家がそう宣言するまではギャーギャー言わない方が社会にとってはいい。素人が不安になって脱出したいなら黙ってすればいいだけで、その脱出情報をネットで流してまわりに動揺を拡散するに至っては、目も当てられない。
ツイートを見ていると「今は日常に戻るべき時ではない」とかつぶやいて知らずに不安感を煽っている人がいたが、このようなつぶやきが集まって世の中が不穏になってき、みなが買い占めと給油に走り、最も食糧と燃料を必要としている被災地にものが届かなくなった。この上パニックを拡散させてみなが持ち場を離れたら、最も弱い立場にいる人たちはその日の晩にでも即凍死である。
今の時点で安全な場所にいるにもかかわらず、不安心理を垂れ流す人がいる一方、汚染源に近い場所で自らも被災しながらも不眠不休で治療にあたっているお医者さんや看護しさん、孤立した集落に食べ物を届けるべく道を復旧している自衛隊の方、スーパーに物が並んでいるということは(並んでないものもあるけど 笑)流通の方が動いている。逃げる人が東海道新幹線やバスにのって、ものを買い占めして逃げられるのはそれらを動かし補給している人達がいるからなのだ。
何もかも投げ出して逃げている人たちは、はっきりいって今の時点では何も役にたっていない人たちである。何もできない人は、せめてネガティブなことをいわないくらいの気配りはしてほしい。ネガティブな言葉はパニックを拡散させ、犠牲者を増やす。逃げるなら何も買い占めしないで徒手空拳で黙って逃げて。
こういう時何もできない人がすることと言えば、回りを和ますか、募金するか、節電するか、祈るしかないのである(いろいろできるじゃん 笑)。
最後の1つは不安心理を鎮めるのに非常に有効である。
ネットの利点は世界中の人々の声を直できけることで、日本大使館の前に、今回の悲劇に対して哀悼の意を表する献花が行われたこと、世界中の街角で人々が「日本の被災者と私達は心は共にあります」という言葉をかけてくれ、できるだけの支援をするといってくれた。それは感動的な光景だった。
私はチベサポなのでチベットの話をすると、ダライラマ法王は即日、菅直人に哀悼の意を表する手紙を送り、三大僧院の僧尼に般若心経の読誦を命じた。また、チベット人は自ら難民であるにも関わらず、被災者のための募金を始めているそうである。「三大僧院の読経」って、世が世なからチベットの国家を揚げての祈りなのである。
自分も外国のチベット学者から「大丈夫か」というメールが来たので、何も考えずに作文したらこんな返事になつた。
Big earthquake hit atomic power plant in Fukushima Area.
I am safe and thank you for your kindness.
City function is down as Eelectrial Power is running out .
Its hard time but we Japanese have gone through The Great Kanto Earthquake,Hiroshima Nagasaki Atomic bomb and Great Hanshin Earthquake.
we can hold on.
Thank you
[訳]
大きな地震が福島の原発を襲った。
私は無事だ。心配してくれてありがとう。
電力が足りないので都市機能が麻痺している。
つらい時だ。しかし、我々日本人は関東大震災、広島・長崎原爆、阪神大震災を経験してきた。
我々は大丈夫だ。
ありがとう。
アメリカンな受け答えになった。
全然日本人ダイジョブじゃないけどね(笑)
だけど、こうやって外に目を向けると心が静まるよ。
結局、このパニックは英国大使館情報と呼ばれる情報や東大理学部の教授のツイート情報などによって徐々に収まっていった。
日本政府も東電も新聞も信用できないけど、彼らと関係ない専門家や外国人がいっているから信用できると思われたのだ。
このド修羅場では日本人は日本国内の人間はもう信用していない。だから、マスコミは、最初から憶測やネガティブなありそうな未来をかき立てるのではなく、「サイアクの事態」となった場合に具体的にどこまで被害が及ぶのか、について外国の専門家引っ張ってきて、具体的にコメントさせればよかったのである。
何度も言うけど、どんな場面でも専門家は大事にしよう。
憶測でものを言うのはやめよう。
何もできないならせめてネガティブな言葉を回りに拡散するのはやめよう。
「縦揺れじゃないから直下でないですね」とか言っているうちに、揺れはさらに強くなり嵐の中の船にのっているような状態に。私の視線の先にある窓の外では、駅前の信号がダンシングフラワーのように狂ったようにブンブンまわり、駐車中のタクシーがエビのようにはねている。
こりゃいかん。
私はコートとカバンをつかんで、「ということで、家がボロ屋で心配なので、さよなら」
と話をぶったぎって店を飛び出す。
後ろに残された某マスコミのPDは「●浜先生って面白いですね~」といっている。
イヤ、あんたらの危険感知度が鈍すぎるだけだから。
明らかにヤバイでしょ。
ホームにいた人や駅前の建物で買い物をしていた人がみな駅前広場にでてきていて不安そうに、肩を寄せ合っている。その凍り付いた人並みをかきわけつつ、停電していませんようにと念じつつ、駐輪場にいく。
停電していたら自転車だせない。幸いにして停電はしていなかったので、自転車にとびのって家に飛んで帰る。
シロアリに土台から食われているとはいえ(笑)、家は無事であった。
愛鳥ごろう(オカメインコ)さまはダンナ様の肩でびびって細くなっていた。築44年の我が家はそれはゆれて、ダンナ様はごろうを片手でつかんで、お風呂場に逃げたが、お風呂の水が揺れでこぼれていたそうな。
それから一時間、家は数珠つなぎでおきる余震に揺れ続けた。電気の傘がそれから二時間ずっと大小の地震で揺れ続けた。仕方ないので、キャリーに入れたごろう様を抱いて机の下に潜っていた。
それから、つけっぱなしのテレビは押し寄せる津波の映像をうつしだす。ヤバイ。
その日の晩、川崎方面に向かう国道沿いは歩いて帰宅する人々の波に埋め尽くされた。警察署の前には東京都の地図が貼られ、ライトアップされており、みなそこによって帰路を確認していた。多摩川にかかる橋を一方向のみに向かってとぼとぼ歩いていく人の群はどこからみても「難民」そのものだった。
で、それからはご存じの通りの展開に。
普通の災害なら揺れが収まったら終わりだが、そのあと津波がきた。その津波が原子力発電所をこわし、原子力発電所がとまったことによる電力低下で都市機能ダウン→日本経済大打撃→さらに原発爆発して放射能モレ→都民パニック・イベント中止・買いだめ・都心脱出者多数←イマココ
とくに興味深かったのが、テレビやネットにしがみついている人々の間で、安否情報やまっとうな呼びかけ以外にも、不信・不安・恐怖・虚報が増幅されていったことだ。
わたしはチベットの歴史なんかについて研究してきたけど、私の体験した範囲内でも新聞記者とかテレビの解説員とか、一般のジャーナリストとか、たとえ研究者であっても専門から少しでも外れると、その人の語るチベットの知識についての不正確さと視野の狭さは驚く程であった。でも、素人の彼らが公器を使ってある意見を垂れ流すと、チベット人の言葉はいつもかき消されてきた。
だから、まして理系の難しい原子力の問題なんかを、専門家でもない「あの」新聞記者やテレビ解説員たちがまともに理解しているのか疑問だと思ったので、基本、東電や政府の言うことはまったく信用しないことは無論のこと、マスコミの煽る恐怖感も何割引か引いて考えていた。
一応マスコミについて多少擁護すれば、彼らは毎日新しく起きる世界中のニュースに対応せねばならないのだから、その全てについて専門的な知識をもっていないため、「それに通じているらしいアクセスしやすい素人」の意見を聞いてしまうのも、仕方ないことだと思う。しかし、それがこと多くの人の雪崩をうったような行動を誘発する原発事故の報道となると、仕方ないとも言ってられない。
仮に首都圏汚染がおきるかもしれないことであったとしても、ホンモノノ専門家がそう宣言するまではギャーギャー言わない方が社会にとってはいい。素人が不安になって脱出したいなら黙ってすればいいだけで、その脱出情報をネットで流してまわりに動揺を拡散するに至っては、目も当てられない。
ツイートを見ていると「今は日常に戻るべき時ではない」とかつぶやいて知らずに不安感を煽っている人がいたが、このようなつぶやきが集まって世の中が不穏になってき、みなが買い占めと給油に走り、最も食糧と燃料を必要としている被災地にものが届かなくなった。この上パニックを拡散させてみなが持ち場を離れたら、最も弱い立場にいる人たちはその日の晩にでも即凍死である。
今の時点で安全な場所にいるにもかかわらず、不安心理を垂れ流す人がいる一方、汚染源に近い場所で自らも被災しながらも不眠不休で治療にあたっているお医者さんや看護しさん、孤立した集落に食べ物を届けるべく道を復旧している自衛隊の方、スーパーに物が並んでいるということは(並んでないものもあるけど 笑)流通の方が動いている。逃げる人が東海道新幹線やバスにのって、ものを買い占めして逃げられるのはそれらを動かし補給している人達がいるからなのだ。
何もかも投げ出して逃げている人たちは、はっきりいって今の時点では何も役にたっていない人たちである。何もできない人は、せめてネガティブなことをいわないくらいの気配りはしてほしい。ネガティブな言葉はパニックを拡散させ、犠牲者を増やす。逃げるなら何も買い占めしないで徒手空拳で黙って逃げて。
こういう時何もできない人がすることと言えば、回りを和ますか、募金するか、節電するか、祈るしかないのである(いろいろできるじゃん 笑)。
最後の1つは不安心理を鎮めるのに非常に有効である。
ネットの利点は世界中の人々の声を直できけることで、日本大使館の前に、今回の悲劇に対して哀悼の意を表する献花が行われたこと、世界中の街角で人々が「日本の被災者と私達は心は共にあります」という言葉をかけてくれ、できるだけの支援をするといってくれた。それは感動的な光景だった。
私はチベサポなのでチベットの話をすると、ダライラマ法王は即日、菅直人に哀悼の意を表する手紙を送り、三大僧院の僧尼に般若心経の読誦を命じた。また、チベット人は自ら難民であるにも関わらず、被災者のための募金を始めているそうである。「三大僧院の読経」って、世が世なからチベットの国家を揚げての祈りなのである。
自分も外国のチベット学者から「大丈夫か」というメールが来たので、何も考えずに作文したらこんな返事になつた。
Big earthquake hit atomic power plant in Fukushima Area.
I am safe and thank you for your kindness.
City function is down as Eelectrial Power is running out .
Its hard time but we Japanese have gone through The Great Kanto Earthquake,Hiroshima Nagasaki Atomic bomb and Great Hanshin Earthquake.
we can hold on.
Thank you
[訳]
大きな地震が福島の原発を襲った。
私は無事だ。心配してくれてありがとう。
電力が足りないので都市機能が麻痺している。
つらい時だ。しかし、我々日本人は関東大震災、広島・長崎原爆、阪神大震災を経験してきた。
我々は大丈夫だ。
ありがとう。
アメリカンな受け答えになった。
全然日本人ダイジョブじゃないけどね(笑)
だけど、こうやって外に目を向けると心が静まるよ。
結局、このパニックは英国大使館情報と呼ばれる情報や東大理学部の教授のツイート情報などによって徐々に収まっていった。
日本政府も東電も新聞も信用できないけど、彼らと関係ない専門家や外国人がいっているから信用できると思われたのだ。
このド修羅場では日本人は日本国内の人間はもう信用していない。だから、マスコミは、最初から憶測やネガティブなありそうな未来をかき立てるのではなく、「サイアクの事態」となった場合に具体的にどこまで被害が及ぶのか、について外国の専門家引っ張ってきて、具体的にコメントさせればよかったのである。
何度も言うけど、どんな場面でも専門家は大事にしよう。
憶測でものを言うのはやめよう。
何もできないならせめてネガティブな言葉を回りに拡散するのはやめよう。
三月のチベサポはちょと過敏
本日三月十日はチベット蜂起記念日。
1959年、チベット暦正月に行われる恒例の論理学の最高学位の試験にパスしたばかりのダライラマ十四世の下に、ラサを占領する中国軍営から「三月十日に中国軍営に護衛なしで観劇にくるように」との要請があった。
それを聞いたチベット人たちは、「如意宝珠(ダライラマの美称)が中国に拉致られる」と、ダライラマの滞在するノルブリンカ宮の周りに集結した。
中国軍のチベット占領はこれより九年前の1950年に始まっていた。
精神的な豊かさを追求するチベット人が物質的な豊かさを追求する社会主義・漢人文化と相容れるはずもなく、東チベットから漢人に追われて逃げ込んできた難民たちでその年のラサは一杯であった。そして、中国全土は1958年に始まる毛沢東の失政「大躍進政策」で飢えに包まれていた。
この時点でチベット人が爆発することは起こるべくしておきたものである。
というわけで、ダライラマの離宮のまわりにはあっという間にチベット人があつまり、その集団には日を追うごとに秩序ができはじめた。それはあたかも2011年のエジプト・タハリール広場の様相を呈したという。
中国軍はこの群衆を解散させようと、殺気立っていき、群衆と中国軍との間にたかまっていく緊張を見て、ダライラマは破滅的結末を避けるため、「チベット人が命をかけても守るダライラマ」すなわち自分を彼らの目の前から消すために亡命の途についたのである。
というわけで、チベット人の亡命社会では、以来、この三月十日に人々はキャンドルをともして集まり、初期はチベットの独立を叫び、80年代後半からはチベットの自治を訴え、ダライラマ14世猊下の恒例のスピーチがある。しかし、本土チベットでは毎年恒例、情報のシャットダウンと公安によるチベット人包囲が築かれる。
早稲田大学で講義をされている孔子学院の先生方によると、「中国は年々よくなっている」そうだが、客観的な事実として、中国におけるネット検閲やチベット人やウイグル人などの漢人以外に対する抑圧はここ数年幾何級数的にひどくなっている。
従って、三月十日前後の本土チベットは、今年は「寒いから外国人は入境禁止」「ツイッターもユーチューブもケータイも何かも外につながらないわ」状態になる。そして、主立った僧院にはいつもいる警官が倍増しいや数倍増し。高僧たちはお正月だからといって説法にいくこともままならず(人を集めたら何が起きるか分からないから笑)。
で、そんな蜂起記念日の前日の九日に、某旅行社でチベット話をした。しかし、この会社、何度目からメールで「ダライラマと政治の話しはできるかぎりしないで」とか言ってきた。
私はぶちきれた(as usual)。
「ダライラマぬいてチベットの歴史が語れるか。あんたらの会社はチベット旅行でポタラ宮いって、ダライラマのミイラの入った仏塔の前にいって「これはんんんんの遺体を納めた仏塔です」とか伏せ字にしてガイドするのか?
あんたたちは「エジプト」とか、「チベット」とかいれて検索すると、「エジプト観光」と「西蔵観光」しか表示しない中国のネットかあっ。
だいたいこれまで講演内容を指図してきた講演依頼主なんていなかったわ。何様じゃ。
不愉快な気持ちになって黙っていると、日が近づくにつれて、さらに勝手に演題がつけられ、Ustreamで流すことか一方的に通告されてきて、不快感はいやます。
怒ってても仕方ないので、七日の月曜日、一応電話して意図を聞いてみることとする(それまではメール)。私は喧嘩せずに穏やかにいくつもりだったが、ダンナ曰く「完全にドスがきいていた」そうな。。
件の担当者「お返事がないのでこっちで判断しました。お客様の中で政治の話しをいやがる人がいるもんですから。先生のお話の内容に指図するつもりはありません。先生のご判断にまかせます」。とのこと。
そこでまたゲキド。なんじゃその曖昧な「お客様」って表現は。あんたらは「関係する法律に触れた」という曖昧な理由で外国人ジャーナリストを逮捕する中国政府か。
そもそもダライラマの話を「政治の話し」だといって不愉快になるような「お客様」はチベットに旅行なんていかないわ。そんな曖昧な「お客様の気持ち」のためにオノレは専門家の口にフィルタリングをかけるのか。大体ダライラマを知らないで生きてく「お客様」は幸せか?
学者はセールスマンじゃないわっ。事実を語るのみじゃあ。チベットはシャングリラで秘境でみたいなイメージを話してほしいなら、自社社員を講師にしろ。新聞記者が専門家の話しを、自分たちの都合で編集したり、削ったりするのと同じで、学者の鬼門じゃあ。
事実と真実をなめんなよ。
とここまで書いてきて、よく学生から「先生はいつも何かに怒っている」と言われたことがあるが、確かにそうかもしれない。
そのようなんことがあったものだから、当日現場にむかう足取りがものすごく重かった。しかし、実際いってみたらメールをくれた担当者はともかく、その上司の方は良識的な人で、いろいろなことをめぐる見解もほぼ私と同じカンカクであり、「お客様」も良識的なご年配の方ばかりであった。
聞けば去年尖閣の事件があったから、「中国旅行の問い合わせがばったり減りました」「ジャスミン革命やエジプト革命のおかげで、かき入れ時の北アフリカ観光が大打撃」ということなので、たぶん、あのメールを書いた人も、経営戦略上、チベットを夢の世界にしておきたかったのかもしれない。意思疎通のできないあのカンジは個人の資質の問題だろう。
でも、いくら隠しても、今の本土チベット人が言論の信教の自由も奪われて巨大な刑務所に入っている事実にかわりない。ちゃんとチベットの歴史と文化と現状を知った上で旅した方が、結果としては旅人の満足度は上がるだろう。漢人ガイドが通り一遍の説明をして、おきまりのコースを行くよりも、訪問先のお坊さんとも関係のいいチベット人ガイドと歩いた方が、いろいろなものが見えてくる楽しい旅になるに決まっている。
大体が何かを隠さないと売れないような商品、いかんだろ、それは。商品のグレードをアップすれば事実と真実を話しても、イヤ逆にそれだから売れるはず。
BBCが70年代に流した30年代のチベット社会のカラーフィルムをみせながら、絵巻物のような美しいチベットの旧社会について解説する。Ustreamで流していたのを見ていたKさんが。お笑い中継をしてくれていて、私が演台をはなれて画面の方に歩いていって直接指さして説明すると
「先生、マイク放すと無音になるんですってばあ」とか、中継していたことをうちのダンナが帰ったら伝えてくれた(笑)。そりゃ知らなかった。
で、私の話のあと、旅行説明会が続いたのだが、JTBとか風の旅行社さんとかで講演やった時は、旅先の土地を知るためのカルチャー講義と旅行販売は別部門でやっていた。それを一緒にするからこれまでのごたごたもおきたとも言える。
というわけで、蓋を開けてみれば、同じ人間、そんな怒るほどの事でもありませんでした。三月のチベサポはちょっと過敏、そういうまとめ方もできるしもかしれません(笑)。
1959年、チベット暦正月に行われる恒例の論理学の最高学位の試験にパスしたばかりのダライラマ十四世の下に、ラサを占領する中国軍営から「三月十日に中国軍営に護衛なしで観劇にくるように」との要請があった。
それを聞いたチベット人たちは、「如意宝珠(ダライラマの美称)が中国に拉致られる」と、ダライラマの滞在するノルブリンカ宮の周りに集結した。
中国軍のチベット占領はこれより九年前の1950年に始まっていた。
精神的な豊かさを追求するチベット人が物質的な豊かさを追求する社会主義・漢人文化と相容れるはずもなく、東チベットから漢人に追われて逃げ込んできた難民たちでその年のラサは一杯であった。そして、中国全土は1958年に始まる毛沢東の失政「大躍進政策」で飢えに包まれていた。
この時点でチベット人が爆発することは起こるべくしておきたものである。
というわけで、ダライラマの離宮のまわりにはあっという間にチベット人があつまり、その集団には日を追うごとに秩序ができはじめた。それはあたかも2011年のエジプト・タハリール広場の様相を呈したという。
中国軍はこの群衆を解散させようと、殺気立っていき、群衆と中国軍との間にたかまっていく緊張を見て、ダライラマは破滅的結末を避けるため、「チベット人が命をかけても守るダライラマ」すなわち自分を彼らの目の前から消すために亡命の途についたのである。
というわけで、チベット人の亡命社会では、以来、この三月十日に人々はキャンドルをともして集まり、初期はチベットの独立を叫び、80年代後半からはチベットの自治を訴え、ダライラマ14世猊下の恒例のスピーチがある。しかし、本土チベットでは毎年恒例、情報のシャットダウンと公安によるチベット人包囲が築かれる。
早稲田大学で講義をされている孔子学院の先生方によると、「中国は年々よくなっている」そうだが、客観的な事実として、中国におけるネット検閲やチベット人やウイグル人などの漢人以外に対する抑圧はここ数年幾何級数的にひどくなっている。
従って、三月十日前後の本土チベットは、今年は「寒いから外国人は入境禁止」「ツイッターもユーチューブもケータイも何かも外につながらないわ」状態になる。そして、主立った僧院にはいつもいる警官が倍増しいや数倍増し。高僧たちはお正月だからといって説法にいくこともままならず(人を集めたら何が起きるか分からないから笑)。
で、そんな蜂起記念日の前日の九日に、某旅行社でチベット話をした。しかし、この会社、何度目からメールで「ダライラマと政治の話しはできるかぎりしないで」とか言ってきた。
私はぶちきれた(as usual)。
「ダライラマぬいてチベットの歴史が語れるか。あんたらの会社はチベット旅行でポタラ宮いって、ダライラマのミイラの入った仏塔の前にいって「これはんんんんの遺体を納めた仏塔です」とか伏せ字にしてガイドするのか?
あんたたちは「エジプト」とか、「チベット」とかいれて検索すると、「エジプト観光」と「西蔵観光」しか表示しない中国のネットかあっ。
だいたいこれまで講演内容を指図してきた講演依頼主なんていなかったわ。何様じゃ。
不愉快な気持ちになって黙っていると、日が近づくにつれて、さらに勝手に演題がつけられ、Ustreamで流すことか一方的に通告されてきて、不快感はいやます。
怒ってても仕方ないので、七日の月曜日、一応電話して意図を聞いてみることとする(それまではメール)。私は喧嘩せずに穏やかにいくつもりだったが、ダンナ曰く「完全にドスがきいていた」そうな。。
件の担当者「お返事がないのでこっちで判断しました。お客様の中で政治の話しをいやがる人がいるもんですから。先生のお話の内容に指図するつもりはありません。先生のご判断にまかせます」。とのこと。
そこでまたゲキド。なんじゃその曖昧な「お客様」って表現は。あんたらは「関係する法律に触れた」という曖昧な理由で外国人ジャーナリストを逮捕する中国政府か。
そもそもダライラマの話を「政治の話し」だといって不愉快になるような「お客様」はチベットに旅行なんていかないわ。そんな曖昧な「お客様の気持ち」のためにオノレは専門家の口にフィルタリングをかけるのか。大体ダライラマを知らないで生きてく「お客様」は幸せか?
学者はセールスマンじゃないわっ。事実を語るのみじゃあ。チベットはシャングリラで秘境でみたいなイメージを話してほしいなら、自社社員を講師にしろ。新聞記者が専門家の話しを、自分たちの都合で編集したり、削ったりするのと同じで、学者の鬼門じゃあ。
事実と真実をなめんなよ。
とここまで書いてきて、よく学生から「先生はいつも何かに怒っている」と言われたことがあるが、確かにそうかもしれない。
そのようなんことがあったものだから、当日現場にむかう足取りがものすごく重かった。しかし、実際いってみたらメールをくれた担当者はともかく、その上司の方は良識的な人で、いろいろなことをめぐる見解もほぼ私と同じカンカクであり、「お客様」も良識的なご年配の方ばかりであった。
聞けば去年尖閣の事件があったから、「中国旅行の問い合わせがばったり減りました」「ジャスミン革命やエジプト革命のおかげで、かき入れ時の北アフリカ観光が大打撃」ということなので、たぶん、あのメールを書いた人も、経営戦略上、チベットを夢の世界にしておきたかったのかもしれない。意思疎通のできないあのカンジは個人の資質の問題だろう。
でも、いくら隠しても、今の本土チベット人が言論の信教の自由も奪われて巨大な刑務所に入っている事実にかわりない。ちゃんとチベットの歴史と文化と現状を知った上で旅した方が、結果としては旅人の満足度は上がるだろう。漢人ガイドが通り一遍の説明をして、おきまりのコースを行くよりも、訪問先のお坊さんとも関係のいいチベット人ガイドと歩いた方が、いろいろなものが見えてくる楽しい旅になるに決まっている。
大体が何かを隠さないと売れないような商品、いかんだろ、それは。商品のグレードをアップすれば事実と真実を話しても、イヤ逆にそれだから売れるはず。
BBCが70年代に流した30年代のチベット社会のカラーフィルムをみせながら、絵巻物のような美しいチベットの旧社会について解説する。Ustreamで流していたのを見ていたKさんが。お笑い中継をしてくれていて、私が演台をはなれて画面の方に歩いていって直接指さして説明すると
「先生、マイク放すと無音になるんですってばあ」とか、中継していたことをうちのダンナが帰ったら伝えてくれた(笑)。そりゃ知らなかった。
で、私の話のあと、旅行説明会が続いたのだが、JTBとか風の旅行社さんとかで講演やった時は、旅先の土地を知るためのカルチャー講義と旅行販売は別部門でやっていた。それを一緒にするからこれまでのごたごたもおきたとも言える。
というわけで、蓋を開けてみれば、同じ人間、そんな怒るほどの事でもありませんでした。三月のチベサポはちょっと過敏、そういうまとめ方もできるしもかしれません(笑)。
故宮のチベット秘宝
ご存じ台北の故宮所蔵の宝物は、北京の紫禁城にあった清朝皇帝の遺産を、日本軍や共産党の破壊からまもるために蒋介石が大陸から台湾に持ち出したものである。故宮の秘宝というと、玉でできた白菜や豚の角煮で有名であるが、ここは一つチベットの秘宝に注目してみよう。
清朝皇帝、とくに最盛期の乾隆帝は敬虔なチベット仏教徒であったため、故宮には宮廷内でもちいられていたチベット仏教関連の法具とかも所蔵されている。1994年にはチベット仏教をテーマにした『皇権と仏法』という展覧会も開催されており、同名のカタログはたぶんいまでもネットで買える。
また、今回副院長さんの話しによると、三年後にまた大規模なチベット関連の展覧会を行うそうだ。
私が今回故宮で閲覧を楽しみにしていたのは康煕8年につくられたチベット大蔵経(通称龍蔵)と、ダライラマ五世の時代の豪華宝石マンダラである。
我々は24日の午前に故宮に到着した。タクシーだとエントランスに直接乗り付けることになるが、記念撮影ポイントは牌楼からみる故宮の全体像であるため、わざわざ牌楼まで歩いて戻る。
すると、入り口には法輪功のみなさまが中国共産党の非道を訴えるピケをはっていらした。しかもその前を本土から来た中国人観光客がぞろぞろ歩いている。私はガイド旗代わりにチベット小旗をもっていたので、ちょと緊張したが、本土から来た観光客はなんだかよく分からない表情を浮かべて記念撮影する我々と法輪功のみなさまの前を通っていった。

しょっぱなからムダな気を遣ってしまったが、ダライラマ五世の時代のマンダラは美しかった。我々ビンボー人は観想のマンダラとかをラマに送るが、清朝皇帝ともなると、マンダラを金銀宝石でつくってラマに奉献するのだ。写真をみると分かるけど、このマンダラ、ちゃんとスメール山とそれを同心円状に囲む七金山、その東西南北に四大部州を配置してつくってある。順治帝が1653年にダライラマ五世を北京にお招きした折に、このマンダラは黄寺に祀られ、乾隆帝の時代に皇帝のプライベートルームである乾清宮に持ち込まれたという。
このマンダラはダライラマ五世と乾隆帝が見つめていたものなのである。
そしてちょうど期間展示中の龍蔵は素晴らしかった。
この写真では大きさは分からないだろうが、一帙一秩が各50kgある。前にモンゴル大蔵経を見た時は、新生児の遺体くらいの大きさだな、と思ったが、これは子馬の遺体くらいある(この喩えどうにかならないかとダンナにいわれたが、チベット圏では遺体を布でぐるぐるまきにしてこれと形状がそっくりなんでついこのような喩えに)。

経典は一葉一葉が紺紙金泥で、一秩ごとに美しい彫刻を施された厚い板で上下を挟まれ、金襴緞子のおくるみに包まれて、虹色の紐をかけられている。こんな立派なチベット大蔵経ナマでみたのはじめて。美しい。
この経典を発願されたのは二代目ホンタイジの妃である孝荘皇太后。彼女はチンギスハンの弟の末裔ホルチン部の出身で、満洲人たちはこのホルチン部の女性を皇室に娶ることによって、モンゴルと同盟し、中国を征服したのである。
で、このホルチン部出身の皇太后、まだ十代前半の孫、康煕帝の尻をひっぱたき、私財を投じて、また国庫を傾けてこの美しい大蔵経をつくった。筆者にあたる坊さんが疲れて字を乱さないように、当番制にして、おなかいっぱい食べて休んでもらい、心をこめて写経させた。
こうしてこの立派な経典は康煕帝の親政開始の年1669年に完成したのである。思えばこの孝荘皇太后のお墓、去年乾隆帝のお墓にいったついでにお参りしていた。皇太后の墓は清朝皇室の墓域の外にあり、観光地でないため荒れ果てていて、壁には大穴があき、境内では畑が作られていた。おいたわしい・・・。親政の開始にあたってこんな立派な大蔵経を建立したから、その功徳で康煕帝の御代は未曾有の長さと繁栄を誇った、と当時の人は思っただろうなあ。
この龍蔵は今回出版されたが、その基金はディグン・カギュ派のkatarinen Stifungファンデーションが負担したんだそうな。先に述べたクンガ老人がカギュ派の元で修行して台湾でブレイクしたためであろう。こんなところでもカギュが活躍している。
また、清朝時代、大蔵経はモンゴル語と満洲語に翻訳されたが、満洲大蔵経も展示されていた。こちらは常識的な大きさ(それでも新生児くらい・・・くどい)。
今回は展示されていなかったが、この他にも故宮には、貴金属製のマンダラは五つから六っつ、おそらくはチベットのラマから灌頂をうけた際に皇帝がかぶった宝石きんきらの五佛冠(ラマがかぶるにしちゃ豪華すぎ)、ダライラマが清朝皇帝の長寿儀礼を行った時に授けた數珠、などの歴史的名品がたくさんある。
国宝みすぎて消化不良になったアナタは、一回のティールームで台湾の特産高級ウーロン茶をのみましょう。雰囲気いいですよ。また、敷地内にあるレストランは地下はリーゾナブル、地上はちょっと高級でなかなかステキ。史料を閲覧したい人も、身分証一つで閲覧証作ってくれて、北京の故宮よりもずっと風通しがいい。
比べるのもなんだが、本当に北京の故宮はメンドクサイ・・・
というわけで、みなさん台北故宮にいってチベットの秘宝を見よう。龍蔵は七月まで展示されているよ!
清朝皇帝、とくに最盛期の乾隆帝は敬虔なチベット仏教徒であったため、故宮には宮廷内でもちいられていたチベット仏教関連の法具とかも所蔵されている。1994年にはチベット仏教をテーマにした『皇権と仏法』という展覧会も開催されており、同名のカタログはたぶんいまでもネットで買える。
また、今回副院長さんの話しによると、三年後にまた大規模なチベット関連の展覧会を行うそうだ。
私が今回故宮で閲覧を楽しみにしていたのは康煕8年につくられたチベット大蔵経(通称龍蔵)と、ダライラマ五世の時代の豪華宝石マンダラである。
我々は24日の午前に故宮に到着した。タクシーだとエントランスに直接乗り付けることになるが、記念撮影ポイントは牌楼からみる故宮の全体像であるため、わざわざ牌楼まで歩いて戻る。
すると、入り口には法輪功のみなさまが中国共産党の非道を訴えるピケをはっていらした。しかもその前を本土から来た中国人観光客がぞろぞろ歩いている。私はガイド旗代わりにチベット小旗をもっていたので、ちょと緊張したが、本土から来た観光客はなんだかよく分からない表情を浮かべて記念撮影する我々と法輪功のみなさまの前を通っていった。

しょっぱなからムダな気を遣ってしまったが、ダライラマ五世の時代のマンダラは美しかった。我々ビンボー人は観想のマンダラとかをラマに送るが、清朝皇帝ともなると、マンダラを金銀宝石でつくってラマに奉献するのだ。写真をみると分かるけど、このマンダラ、ちゃんとスメール山とそれを同心円状に囲む七金山、その東西南北に四大部州を配置してつくってある。順治帝が1653年にダライラマ五世を北京にお招きした折に、このマンダラは黄寺に祀られ、乾隆帝の時代に皇帝のプライベートルームである乾清宮に持ち込まれたという。
このマンダラはダライラマ五世と乾隆帝が見つめていたものなのである。
そしてちょうど期間展示中の龍蔵は素晴らしかった。
この写真では大きさは分からないだろうが、一帙一秩が各50kgある。前にモンゴル大蔵経を見た時は、新生児の遺体くらいの大きさだな、と思ったが、これは子馬の遺体くらいある(この喩えどうにかならないかとダンナにいわれたが、チベット圏では遺体を布でぐるぐるまきにしてこれと形状がそっくりなんでついこのような喩えに)。

経典は一葉一葉が紺紙金泥で、一秩ごとに美しい彫刻を施された厚い板で上下を挟まれ、金襴緞子のおくるみに包まれて、虹色の紐をかけられている。こんな立派なチベット大蔵経ナマでみたのはじめて。美しい。
この経典を発願されたのは二代目ホンタイジの妃である孝荘皇太后。彼女はチンギスハンの弟の末裔ホルチン部の出身で、満洲人たちはこのホルチン部の女性を皇室に娶ることによって、モンゴルと同盟し、中国を征服したのである。
で、このホルチン部出身の皇太后、まだ十代前半の孫、康煕帝の尻をひっぱたき、私財を投じて、また国庫を傾けてこの美しい大蔵経をつくった。筆者にあたる坊さんが疲れて字を乱さないように、当番制にして、おなかいっぱい食べて休んでもらい、心をこめて写経させた。
こうしてこの立派な経典は康煕帝の親政開始の年1669年に完成したのである。思えばこの孝荘皇太后のお墓、去年乾隆帝のお墓にいったついでにお参りしていた。皇太后の墓は清朝皇室の墓域の外にあり、観光地でないため荒れ果てていて、壁には大穴があき、境内では畑が作られていた。おいたわしい・・・。親政の開始にあたってこんな立派な大蔵経を建立したから、その功徳で康煕帝の御代は未曾有の長さと繁栄を誇った、と当時の人は思っただろうなあ。
この龍蔵は今回出版されたが、その基金はディグン・カギュ派のkatarinen Stifungファンデーションが負担したんだそうな。先に述べたクンガ老人がカギュ派の元で修行して台湾でブレイクしたためであろう。こんなところでもカギュが活躍している。
また、清朝時代、大蔵経はモンゴル語と満洲語に翻訳されたが、満洲大蔵経も展示されていた。こちらは常識的な大きさ(それでも新生児くらい・・・くどい)。
今回は展示されていなかったが、この他にも故宮には、貴金属製のマンダラは五つから六っつ、おそらくはチベットのラマから灌頂をうけた際に皇帝がかぶった宝石きんきらの五佛冠(ラマがかぶるにしちゃ豪華すぎ)、ダライラマが清朝皇帝の長寿儀礼を行った時に授けた數珠、などの歴史的名品がたくさんある。
国宝みすぎて消化不良になったアナタは、一回のティールームで台湾の特産高級ウーロン茶をのみましょう。雰囲気いいですよ。また、敷地内にあるレストランは地下はリーゾナブル、地上はちょっと高級でなかなかステキ。史料を閲覧したい人も、身分証一つで閲覧証作ってくれて、北京の故宮よりもずっと風通しがいい。
比べるのもなんだが、本当に北京の故宮はメンドクサイ・・・
というわけで、みなさん台北故宮にいってチベットの秘宝を見よう。龍蔵は七月まで展示されているよ!
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