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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2011/02/27(日)   CATEGORY: 未分類
辛亥革命百年
  今年は中華民国暦100年、つまり辛亥革命から100年。
 今年はやはり臺灣でしょ、ということで、卒業旅行は臺灣へ。
 初日は台北の発祥の地、万華地区の龍山寺からはじめる。

 臺灣といえば中国共産党に追われて大陸から移り住んだ国民党の国と思う人が多いだろうが、そんな単純なもんでない。万華(ばんか)の語源が臺灣の先住民ケダガラン族のつかう丸木舟「モンガ」にあることが示しているように、臺灣はじつはついこの間までケダガラン族のようなマライポリネシア系の人々が住んでいた。
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 しかし、300年間続いた、とくに1949年以後の漢人の大量移民の結果(日本の統治期もあった)、いまやケダガラン族はどこかにいっちゃって、その文化がどんなもんかもわからなくなっちゃった。おとろしや。

 で、このようなマライポリネシアの先住民や、初期の大陸からの移民「内省人」、1949年以後大量移住してきた中国人である「外省人」をはじめとし、中国共産党の圧政を逃れて逃げてきた、ロシア人、チベット人、満洲人、仏教僧などの様々なグループが台湾には存在する。

 そこで、せっかく台湾きたので、院生Mの手引きで国民党とともに台湾に亡命したチベット僧たちの旧跡をめぐることとする(ちなみに、近代中国で活躍したチベット僧については、コロンビア大学のGrey Tuttle著Tibetan Buddhism in the making of modern Chinaが詳しいよ)。

 不思議な話なのだが、まだ院生Mがチベットを研究しようなんて微塵も思っていなかったバックパッカーとしてふらふらしていた19の時(今でもフラフラしているか)台湾で定宿にしてい台北ホステルの真横に、善導寺なるビル寺があった。

 彼がチベットに興味をもった後に、この寺には昔中国仏教会があり、台湾に亡命したチャンキャ・フトクト(歴代転生者が清朝皇帝の師僧をつとめていた)が国民党を施主にして法要したりしていたことを知った。そこで面白くなった彼は台湾とチャンキャの旧跡とかを歩きまわっていたおかげで、今回、ヒジョーに効率よく台北のチベットめぐりができた。

ありがとう、院生M。
 
 まず、歴代の転生者が康煕帝や乾隆帝といった清朝皇帝に仕えたチャンキャ=フトクト(lcang skya > 章嘉)が蒋介石のために法要を開催した善導寺にいく。チャンキャは臺灣にきてまもなく入寂したが、カンギュルワ=フトクト(bka' 'gyur ba > 甘珠爾)などはもう少し長生きして日本本土にも来ている。しかし、夜だったので善導寺はまっくら。大きな寺なのに修行僧一人いないのか。

 翌日午前は故宮博物院にもいくが、全部見ている時間なんてないので中華文明の遺産をガン無視して、ダライラマ五世に時代の宝石マンダラや、ダライラマ三世と四世の手元にあった金剛杵と金剛鈴とか、チベット大蔵経(龍蔵)の期間展示を見る。

 そして、午後は北投にあるチベットゆかりの地をまわる。まず、カンギュルワ・フトクトが滞在していたという普済寺にいく。この寺、どっからみても日本の寺。もとは真言宗だったという。院生Mによると、日本人がでていった後、ぬけがらになった日本寺に、大陸からきた僧侶たちがすっぽりおさまったのではないかという。寺を護るおばさんはカンギュルワを生きているうちに見たことがあるという。

 次に、学生たちを台北の熱海、北投温泉につけこんで、Mと私は北投郊外にある中和禅寺にあるチャンキャの遺骸を納めたチベット仏塔にいく。チャンキャは台湾にきてまもなく台湾医院で入寂し、この山の中にあるチベット式仏塔に納められた。仏塔には一人のおじさんがいて、掃除をしたり、香華をたむけたりしていた。彼によると奇しくも今年はチャンキャが入寂して55年で、来週法要だという。
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 このおじさん、私たちがチャンキャに詳しいとみるや、いろいろ親切にしてくれ、チャンキャのプロマイドをくれたりして、果ては、写真を撮りたいというわたしたちのために、ベストショットがとれるように脚立まで準備してくれた。

 せっかくなので、私はチャンキャのブロマイドを掲げ、院生Mは故宮でかったカタログの表紙の乾隆帝を掲げ「施主と応供」というベタな記念撮影をする(チャンキャ三世と乾隆帝は歴史的に有名な施主と応供僧)。で、チャンキャの仏塔を七回マントラ唱えてコルラしながら、そういえば、去年は乾隆帝のお墓の上をこうしてマントラ唱えてコルラしたなと思いだす。

 さらに、三日目は清朝の皇族クンガ老人のミイラを本尊にまつる永花寺にいく。院生Mによると、クンガ老人は太虚法師の命でカムにいってリメーのチベット佛教を学んで台湾にもどり、その教えを伝えたため、台湾のチベット佛教は今もリメーが強いのだという。カルマパ17(ウルケゲンテインレー)世のプロマイドがおいてあったのでありがたく頂戴する。

 永花寺で理藩院の後継組織、蒙蔵委員会の住所を聞いたので、次は蒙蔵委員会にいく。現代の理藩院は奇しくもチャンキャが生を終えた台湾医院隣のビルの四階にあり、近代的な組織になっていた。蔵事部にはインド出身のチベットの方もいたりして、いいカンジである(何が)。で、その足で財団法人仏教教育基金にいく。ここは先にもいったように、佛教の普及のための機関で、仏典を印刷して無料で配布している。

 院生Mが、入り口のところで警備のおじさんに呼び止められ「三階の図書館にいきまーす」とか答えているが、二階の無料本の倉庫につれていかれる。

 院生M「ほとんど漢文の経典なんですが、チベット語の経典もあるんですよ」と院生Mが指さす先にはたしかに棚三つ分くらい、チベット語の本がおいてある。みると、これがデプン大僧院の歴史だったり、サムエ大僧院の目録であったり、タルマリンチェンの論理学書であったり、なかなかつかえる。中共支配下の本土チベットだったら一冊ン千円とられるような本が無料でどかどか置いてある。

 私がほいほい棚から本をとって積み上げていくと、あきれた院生Mが「先生、午後から九分(観光地)いくのに、それもっていくんですか」というので

 私「郵便局から日本へ送るから大丈夫」

 そして、辞去する際にタダだから本をたくさんもっていく恥ずかしい人と思われているような気がして、小さい声で「ありがとうございまーす」といって出て行こうとすると、そこにいた女性に呼び止められる。
 
やっぱ欲張りすぎ?と、ビクっと立ち止まると、その女性、「手にもつのは大変だろう」と、ダンボール箱をくれた。

 すばらしすぎるぜ台湾。

 台湾のお寺にいくと、このように無料でお経や仏様のご真影がおいてあるコーナーがある。また、台湾はテレビのチャンネルが百以上あり、そのうち六つくらいで常時どこかのお坊さんが佛教を説いている。
 
 本土中国は共産党が佛教を徹底的にぶちこわし、現在も徹底的に管理しているため、出家僧の修行も在家の信仰もどこか殺伐としたものになっているが、台湾には昔ながらの漢人の信心の伝統が残っている。

 台北の中心部に残る歴史的建造物や、市場をみると、そこには日本の戦中・戦後直後の古い姿がそこはかとなく残っていて、何か懐かしいような、すすけた悪い夢をみているような気持ちになる。台湾人のこの佛教に対する在家と出家の真摯な姿勢を見ていても、何か戦後日本人が失った信仰心みたいなものを感じた。日本はいろいろなものを敗戦ともに捨ててきたんだな。

 そして、かの台北ホステル横、元浄土真宗の寺、善導寺にいく。院生Mは台北ホステルに長く何度も滞在していたにものの、門前払いをくらわされ続け、本堂内部に入ったことはなかったいう。しかし、今回はたまたま翌日の行事を控えて本堂が開いていたのでずいずい入る。チャンキャがいた頃とは建物も組織も変わっているが、かつてチャンキャが立っていた同じ場所にたつ感慨は深い。中身のチベット関連のものは高雄にうつって今はないそうな。
 
 以上の台北チベットめぐりは他の学生たちを野放し、もとい自由時間にして行ったが、学生たちと行動する時は、台湾史をできるだけ体感できる場所をまわった。蒋介石の巨像をまつる台北の天安門、中正紀念堂、日本総督府の建物をそのまま使っている総統府、今は博物館になっている旧NHKなどをまわり、要所で専門じゃないけど台湾の近代史を説いた。

 院生Mは食事の場所にまで気を配ってくれ、ミャンマーから独裁をきらって逃げてきたミャンマー華僑によるミャンマー街、台北駅近くの亡命ロシア人がたてたロシア料理屋アトスリア、日本語をしゃべる内省人おばあさんが日本家屋で経営する中正祈念堂近くの杭州小籠包、国父記念館近くの新疆のムスリムの老舗「清真中国牛肉館」、などに学生たちをつれていってくれる。しかし、せっかくの歴史の生き証人を前にしても、一部を除いてほとんどの学生は食事とショッピングとマッサージにうつつをぬかし興味をもたない。子供だから仕方ないか。

 そして、一泊地方という時には、228事件を描いた映画「悲情城市」のロケ地にして、千と千尋の神隠しの世界観のモデルとなったといわれる九份にいく。
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 ここは日本統治時代に金鉱として栄えた町で、金が掘り尽くされた跡、急速に衰退していたが、千と千尋と悲情で観光都市としてよみがえったものである。

 で、今回のメインイベントは二つ。

(1)革命百周年なので、蒋介石を顕彰する中正紀念堂の階段下では、孫文先生のご遺言

 「革命尚未成功」(革命いまだならず)

を一文字ずつA4にうちだしたのを学生にもたせて記念撮影した。そしたら我々をみて爆笑するアジア系の観光客がいたので、私が「we are Japanese」といったら、彼らは「我々は香港だ」といって、「革命尚未成功」を貸してくれというので、彼らに貸してあげたら彼らもゲラゲラ笑いながら写真をとってぃた。

 真実は民族と国をこえて共感をよぶね。

 (2) 九分では有名な旧正月の天灯とばしをやる。

提灯に私は、「Free Tibet」「Long Live Dalai Lama」「世界平和」と大書したが、その周囲に学生たちが、巨人のスタメンとか、煩悩とかを書き込むので、なんか意味不明な提灯となった。

 しかし、その提灯は他のどの提灯よりも高速に空にあがった。これはとても縁起良い。学生の煩悩はどうでもいいが、Free Tibetとダライラマのご長寿だけは速やかに実現してほしい。

 大学生だから自分の身は自分で守れるし、自分たちで遊んでくれるので楽だが、常時一緒にいると一部の男子学生の幼さが鼻につき、最後はへとへとに疲れた。世の親御さんのご苦労が忍ばれた。

 まあ、調査がとどこおりなく進み、学生に死人怪我人病人がでなかったので贅沢いわずこれでよしとしよう。
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DATE: 2011/02/21(月)   CATEGORY: 未分類
22年目のリプリント
 一年最大の祭り、入試がオワタ。毎年のことながら疲れた。

で、今日は、とある出版社さんと打ち合わせ。

東欧民主化がおきたあの1989年に、ダンナと私は(財)東洋文庫から『梵・蔵・漢 翻訳名義大集』(マハーヴュットパティ)をだした。

 さくっと説明すると、この翻訳名義大集とは、9世紀の古代チベット時代にインドの仏典をチベット語に翻訳する際に、翻訳者によっていろいろ訳が異なったりして問題になった。そこで、できたのが、このマハーヴュットパティ。これは仏教の基本的な単語、表現法を、カテゴリーごとにまとめて、サンスクリット語とチベット語の対訳をつけたもの。

 これはチベットの教科書にのっている程有名な話し。

 その後、清朝に入って、モンゴル僧が勉強のためにここにモンゴル語をつけていった。

 かくして、サンスクリット、チベット、モンゴルのトリリンガル辞書が誕生したのである。

簡単な例を挙げると
〔サンスクリット語〕bhagavAn
〔チベット語〕bcom ldan 'das
〔モンゴル語〕ilajU tegUs nOgcigsen
〔漢語〕世尊
 こんな感じ。

 短いものは一項目一単語から長い項目は文章まで、とにかく9565の項目を写本の数だけ(北京版、ナルタン版、デルゲ版、チョーネ版、モンゴル・テンギュル版、モンゴル・レニングラード版)校訂し、つまりは9565項目×6回みなおし作業をいれると8回くらい9565項目を見たので、廃人になりそーだった。若かったからできたこと。

でも、おかげでモンゴル語の直訳仏教用語をみると、すぐに元のチベット語が分かり、単語の意味が分かるから文章がよめるようになった。モンゴル研究者の大半が社会主義政権の影響で、仏教が盛んな次第の歴史文献が正確によめなくなっている中、モンゴル仏教関連文献が読めるという貴重なスペックを持つこととなった(笑)。

 しかしいい仕事だったのに半官半民の財団法人から出版したので、その後うもれた。Alice Sarkoziという研究者がモンゴル語部分だけをドイツの著名な専門書の出版社オットー・ハラソイッツから出したりしたけど、こっちの知名度はイマイチ・・・。

 しかし、今年に入って突然G出版社のK社長から連絡があり、「この翻訳名義大集に漢訳つけて、索引つけて再刊したい」という申し出があった。もちろん出版助成金がとれることが前提だが、そもそもこんな22年前にでたものを彼が知っていたことに感動した。

 彼曰く「いいものは着実に時間をかけて売れていく。海外でも売る」ということで、序文などは英語にして海外で売ること前提であるという。

 念願の翻訳名義大集のグローバル・デビュー。これに英訳とかつけるともっと外国でウケルだろうが、そこまでやるのはメンドクサ。

 内容が内容だけに出版社がやる仕事がほとんどなく、古い本のOCR読み取りも特殊文字入力も校訂作業も全部こっちでやることになる。いっとくけど国の補助を受けて出すので、印税もゼロ。どころか持ち出しである。

 面白いのが、こうやって世間一般でいえば金にもならず、手もかかるという本ほど、息長く売れ、それを手にとった人から感じの善いコンタクトがある。

 1989年の東欧民主化の年に編集した本が、22年たって再び中東・北アフリカ民主化の年にパワーアップして登場するのもまた一興。あくまでも助成金でたらの話しだけどね。というわけで、今年の夏も去年に引き続き家にひきこもってリトリートを行うことが確定。

 文化に貢献したり、専門家の研究の役に立つような仕事を残すことは、建築家が橋をかけたりするような作業にもにている。手がかかって大変だけど、何か個人の人生をこえて、もっと大きいものにつながっていくような感じである。これがあるから学者っちゅうのはやめられん。

 あと、デリーの法王事務所でダライラマ法王の誕生75周年写真集の企画が進んでいるそうで、文章部分にはファンからのメッセージがよせられるらしい。そのメッセを書く一人に光栄にも指命されたので、今文作中。

 歴史学者らしく、観音からはじまるダライラマの系譜を織り込んで長寿祈願文でも書くかあ(笑)。出版の暁にはみなさん、よろしこ!

 こういう原稿書きは楽しい。
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DATE: 2011/02/16(水)   CATEGORY: 未分類
エジプト革命
 エジプトの民衆蜂起は、とうとう30年もの間エジプトで長期独裁をしいてきたムバラク政権を倒した。11日深夜、例によって最初はツイッターに「ムバラクカイロを離れる」という一報が流れたので、すぐにNHKをつけたが、NHKは平常心でいつもの番組編成。ニュースになったのはずっと後のことだった。
 
 そして、翌日の世界のニュースにかぶりつく。BBC、CNNと歓喜にわくタハリール広場の熱気がつたわってくる。みな、恍惚とした表情で「自由だ!!!!!」「今までは意味がなかったけど、これからは選挙にいく」「オレは三十歳だが、ムバラク以外の為政者をみたことない。これからは誰でも大統領になれる」というような、象徴的な言動とともに人々の熱狂を伝えていた。
 
タハリール広場にいるABCのレポーターは明らかに感動を押さえきれない高揚した表情をしていた。
 
 で、対照的につまんなかったのが日本の報道。NHKは一応特番をくんでいたけど例によって「識者」が数人よばれて、明らかに中東の情勢に通じていない女性アナウンサーが司会をして、今後エジプトがどうなるのか、というような話しをえんえんとしていた。そもそも全員が「こんなに早くエジプトの体制が崩れるなんて思っても見なかった」と認めている方々が、「今後」のエジプトの未来について正確な予知ができるのかちょと疑問。

 もうNHK、BBCとCNNを流すだけでえーよ。

 今回のエジプト革命の最大の見所(失礼)は、グーグルの幹部ゴネム氏の涙によって引き起こされた11日の金曜礼拝後のデモであった。あの日のデモは明らかに〔どの神かは知らんが〕神が降りていた。

 チュニジアでの政変が1/25日にエジプトに飛び火した時、指導者なきデモは日に日に参加者は増えていくものの、人々は不安な顔をしていた。
 日本のような平和な国に住んでいたら理解不能であろうが、独裁国家というものは、体制をゆるがす、と判断したら、則令状なしで逮捕拘束。言論の自由もへったくれもあったもんじゃない。教育がなくて給料安くて賄賂とか要求する警察が強権ふるう社会なのだ。

 そんなところで、体制批判どころかデモをやるのは命を捨てる覚悟がないとできない。 
 やがて、エジプト軍が国民を撃たないことを表明したので、民衆はもりあがった(第一次ピーク期 笑)。しかし、ムバラクはなかなか辞任しないため、民衆は広場にとどまり続けた。

 そして、二月にはいってすぐの二日と三日、突然エジプトの国営テレビ(もちろん背後にいるのはムバ)は「デモ隊は外国から金をもらって騒ぎを起こしている無頼漢」「外国のマスコミはそれをあおっている」と言い始め、地上波しか見られない貧困層を洗脳しはじめた。そこでカイロにいた外国のジャーナリストがいっせいに街角のエジプト人から憎悪を向けられ、報道陣は安全のためホテルから出るなと禁足がだされた。

 さらに反体制派が集まるタハリール広場にはラクダや馬にのったオッサンたち(一説には与党議員に頼まれてやったとな 笑)がつっこみ、デモ隊を傷つけ始めたため、それまで非暴力を貫いていた民衆の中に憎悪が生まれはじめた。エジプト人同士が憎み合う姿を見て、これ以上デモを続ける意味があるのか、と思い始める人がでてきてデモはぐだぐだになっていく・・・。

 カメラを持っているだけでおそわれた外国マスコミたちもエジプト人の阿Q(by魯迅)ぶりに、「あーあ」とため息。

 しかし、そのようなぐだぐだな民衆が一夜にして変わった。一人の青年の涙で。

 その青年ゴニム氏はグーグルの幹部であって、ドバイに駐在中にフェースブックで反政府デモをよびかけ、帰国と同時に逮捕され12日間にわたってエジプト政府に拘束されていた。そして、7日に釈放された足でテレビにでて、自分の呼びかけたデモで命を落とした若者たちの写真を見て絶句。「僕は安全なところからキーボードをたたいただけだ。英雄は街頭にいるあなたたちだ。権力にしがみつくやつらが悪いんだ」と泣きながら語った。

 この映像はYoutubeにのってまたたくまに広まった。
 翌日タハリール広場のデモに加わったゴニム氏は、CNNのカメラに向かって
「自分はいつ死んでもいい。死ぬ用意がある」と言い切った。

 まるで十字架を背負ったキリストである。

 彼はまだ30歳。正義を信じて民衆を蜂起させるところまではよかったが、自分の呼びかけで動いた人が死ぬ、という結果までは想像していなかったのだろう。

 ガンジーも自分が動員したデモ隊が暴徒になったり、また、警官隊と衝突して死者がでた時は(アムリッツァーの悲劇)、ただちに不服従運動を停止して断食した。インドとパキスタンが分離した時の暴動の時には、死線をさまようほどの断食をした。
そして、自分はインド人を融和させることはできなかった、として、ノーベル平和賞を何度も辞退している。彼は命をかけて真理=愛のために生き、それを実現できない民衆の前で苦しんでいた。宗旨は違うけどキリストである。

 余談だが、その昔アップリンクでお話させてもらった時に、客席にいたとある大学教授(その週の朝日で顔写真入りで文章書いていたので、すぐわかった)が立ち上がり「ガンジーは平和を壊してばかりだ」みたいなことをいって、非暴力思想を平和と安定の敵みたいに決めつけた。しかし、彼の見識はムバラクと同じ。

 ガンジーも反政府デモの民衆も、平和と安定を乱すためにあんなことをやっているのではない。自由と信頼と愛のある社会を求めて立ち上がっただけなのだ。独裁政権は体制を批判しただけで人々を公開処刑して、恐怖によって人々を黙らせている。そうして得られた治安は平和と言えるのだろうか。

 2007年にダライラマがアメリカの下院から授与されたゴールド・メダルには有名なダライラマの言葉「暴力がなくなったたけでは平和とはいえない。真の平和は他者を思いやることからはじまる」が刻まれている。

 「治安」「平和」を理由に掲げて居座っているあらゆる独裁者に対してこの言葉を捧げたい。
 で、このグーグル幹部の青年の涙によって、デモはゾンビのように息を吹き返した。
 今度は人々には憎悪も恐怖もなかった、まるでお祭りの時のように、広場に子供をつれてピクニックのようにやってきた。

 そして、11日の金曜礼拝後のデモは1/25日に反政府デモが始まって以来最大規模となり、ムバラクを退陣に追い込んだ。
 
 人の心に響く言葉というものがある。
ムバラクの言葉は民衆に響かなかったけど、命を捨てた青年の言葉にみなは動かされた。

 独裁者は自分をまもるために、力尽くで人を動かそうとするけど
 非暴力の聖人は自分の命を捨てて、人を自分から動くようにする。
 そして動いた人間は前とは同じではなくなっている。成長しているのだ。

 11日のタハリール広場ではもはや欧米のジャーナリストが襲われることはなく、みなが我先にカメラに向かって〔無血で体制を覆した〕「自分たちを誇りに思う。エジプト人であることを誇りに思う」と叫び続けていた。

 ここは感動する場面だろう。

 革命の熱狂はいずれ冷める。すぐに現実がはじまるからこそ、この人間の尊厳とか可能性を示す一瞬の輝きに酔わなければ。

 久しぶりにええもん見させてもらいました。

 おまけ
 再び余談だけど、Oくんがツイッターでつぶやいていたが、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式を欠席した国は、以下の19カ国。

中国、ロシア、カザフスタン、キューバ、モロッコ、イラク、コロンビア、チュニジア、サウジアラビア、パキスタン、セルビア、イラン、ベトナム、アフガニスタン、ベネズエラ、フィリピン、エジプト、スーダン、ウクライナ。

 見事に独裁政権が並んでいる(爆笑)。
 チュニジアとエジプトはいってますな。中国様とロシア様の息のかかった見事な独裁連帯。
 フェースブックでもやるか(笑)。
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DATE: 2011/02/11(金)   CATEGORY: 未分類
二人のカルマパ17世
 1月29日にカルマパ17世(ウルゲンティンレーの方)が滞在するギュトー僧院をインドの警察が捜索したというニュースが流れた。大量の外貨を保持することがインドの為替法に抵触したとの理由からである。インドがどのような為替法をもっているか知らないので、ここでインド警察のやることをすぐに非難したくはないが、今回の手入れはかなり難癖つけてるっぽい。国籍をもたないチベット難民が土地を購入したり、基金を創設したり、ということをインドで行うためには、インド社会の非効率性とインドの法律がインド国籍重視もあいまってたくさんの困難があるからね。

 そして、何よりも許し難いのが、あろうことか彼を「中国のスパイ」呼ばわりするインドのメディアが現れたことだ。根拠はカルマパの所持金の中に中国元が混じっていたことらしい。今本土チベットは中国に支配されているんだから、彼らが布施する時は中国元でだってするだろうよ。

 大金については、去年の十二月、第一世カルマパが誕生して900年目を祝うためにブッダガヤでカルマパ祭りが行われた。この時に山ほど彼を慕う信者たちが集まったので、そりゃ米ドルもユーロも集まるだろう。それは信者が喜んで出しているもので、汚い金ではない。うちの院生Mだってギリギリまでカルマパに会いにブッダガヤいく~、とうなされていたし。

 で、何よりも呆れたのが、このインドのメディアの憶測を読売・産経・朝日がそのまま日本語にして流したこと。中でも香ばしかった読売新聞の記事がこれ。「活仏」表記をしている時点で「あーあ」で、その内容はもっとヒドイ。

 カルマパ活仏、中国スパイ説…資金提供や接触?(2011年2月3日09時16分 読売新聞)

 【ニューデリー=新居益】チベット仏教カギュー派の最高活仏カルマパ17世(25)が、出所不明の大量の現金を保有していたとして、インド当局が捜査に乗り出した。
 2000年に中国からインドに逃れたカルマパが、実は中国当局から支援を受け続けていたのではないかという疑念もあり、チベット亡命政府は衝撃を受けている。
 カルマパは、チベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世(75)の後継体制でも中心的役割を果たすとみられる高僧。警察は1月27日、カルマパが 滞在するインド北部ダラムサラの僧院を家宅捜索し、人民元や日本円を含む現金約1億5000万円相当を発見した。2日までに側近5人が逮捕され、カルマパ 本人も事情聴取を受けた。脱税や外国為替法違反の疑いによるものだが、警察は、特に現金の出所が中国だったかどうかを厳しく追及している。
 インド紙デカン・クロニクル(電子版)は当局者の話として、カルマパ側近はダラムサラ周辺で他人名義により約400か所の土地を購入していたほ か、「中国友好文化センター」の建設を計画していたと報じた。また、インディアン・エクスプレス紙によると、カルマパが09年、香港で中国政府当局者と接 触したことが確認されている。


 この報道がでた瞬間、チベサポのツイッターでは、「カルマパ17世は2008年のアメリカ行き以外出国が許されてないよ! 2009年も、そしてその翌年も香港いったのはもう一人のカルマパだよ!!」と呆れたツイートがとびかった。このインディアン・エキスプレス紙は、カルマパが二人いるの知らないんだ。

 日本人の大半は忘れているだろうからいうけど、カルマパ16世がなくなった時、カギュ派の高僧シャマル、ゲルツァプ、タイシトゥ、ジャムゴンの四人が17世の探索を行った。タイシトゥがカルマパ16世からもらった護符の中に前代の残した書き付けを見つけそれに基づいてカルマパ17世ウルゲンティンレーが選ばれた。しかし、シャマルのみはこの書き付けを贋作とし、もう一人のカルマパ、ターイェードルジェをかついでいる。

 その結果、カルマパ16世の座であったシッキムのルムテク僧院をどちらが継ぐかで法廷闘争が行われている。香港や台湾で法を説いているのは、このシャマルが押しているターイェーさんの方。

 これ有名な話しじゃないですか。

 で、ターイェーの後見人のシャマルは、因縁の人。

 18世紀後半にシャマル(今のシャマルは13世)が10世(1742-1792)だった時、パンチェンラマ三世の遺産をめぐる争いに不満をもち、ネパールのグルカ王朝にいき、グルカがチベットに攻めてくるきっかけをつくった。そのおかげでシャマルの転生はチベット政府により長い間公認が禁止されていたが、現ダライラマはご存じの通りお優しい方なので、シャマルの転生を解禁されたのだ。で、解禁されたとたんに「またかよ」とみな思ったとか思わないとか(笑)。

 ちなみに、ウルゲンティンレーの評判がおちて一番得をするのはターイェードルジェとシャマルだったりする(今のところ逆効果だけど)。

 ルムテクはインドが滅ぼしたチベット系王国シッキムにたつため、インド政府にとってカルマパ問題は国境問題でもある。中国はインドがシッキムを滅ぼしたあとも、この国を独立国として表示しつづけていた。それに対して、インドも中国がチベットを滅ぼしたあと、長い間チベットを独立国と表示していた。

 なので、大体がこんな筋の悪い話しが背景がある情報に飛びつく日本のマスコミもどうかと思う。

 ちなみに、CNNはこのニュースはスルー、BBCはスパイ説を書かず、ただインド警察の手入れのみを報道。AP通信はインド警察の手入れと「カルマパの事務所がカルマパのスパイ説を否定した」という文脈でのみスパイ説を掲載したことを考えると、〔インドと〕日本のマスコミの取材力と分析力のなさが光り輝く
 
 ちなみに、ウルゲンティンレーの方のカルマパ17世は、2000年初頭に中国から亡命した後にダライラマのお膝もとで生長しており、その父子のような仲の良さが評判になっているので、広範なチベット人の人気を得ている。そのため今回のインド警察の行動に対して、カルマパ支持するためのキャンドルナイトが行われ、亡命政府もカルマパをまもる方向で迅速に動いている。

 過去に、一人の人間が複数に転生するなんて何度もあるのだから(笑)、二人のカルマパを「身体と心の化身が分かれて生まれちゃったわ」とかいって、二人で協力してカギュ派のカンバンはればいいのにな、と思う。

 というわけで、日本のマスコミもメディア・リテラシーをちゃんとして、まず「活仏」表記やめて、さっさと誤報を訂正しましょう。

 あと、誤報を流さなかった毎日新聞はエライ!

後日談

カルマパの蓄財「側近の過失」=中国スパイ疑惑はシロ―インド当局

時事通信 2月17日(木)17時44分配信
 【ニューデリー時事】チベット仏教指導者カルマパ17世が居住するインド北部ダラムサラ近郊の寺院で警察が多額の現金を押収、不正蓄財の疑いで捜査している問題で、PTI通信は16日、カルマパ側近の過失により不適正な資金管理が行われていたとインド当局が結論づけたと報じた。不正蓄財疑惑を引き金に、カルマパが中国のスパイであるとの説も流れたが、インド当局は事実上、シロと認定した形だ。
 寺院内で見つかったのは、約1億3800万円相当の米ドルや中国人民元などの現金。1999年に中国を脱出したカルマパに同国政府がひそかに資金援助し、インド側のチベット仏教勢力への影響力行使を画策したとの見方が浮上した。これに対し中国は、カルマパは自国のスパイではないと全面否定し、中印間に波風が立っていた。 
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DATE: 2011/02/07(月)   CATEGORY: 未分類
東洋史学者は欧米をめざせ
 新暦は観念的すぎて生活感がないけど、旧暦は季節の変化と暦が一致しているので、節分が過ぎ旧正月が過ぎると、春が来たことが肌感覚で分かる。今年のチベットの正月は三月五日なのでもう少し遅いけど。

 6日から大学がロックアウトになるので最終日の5日に勉強会を行う。
 まずメンバーと一緒にお昼ご飯を食べて、研究室に向かう。

 研究室の扉には三年のHが書いたしょうもない張り紙がはってある。
 
 「これでもう一度きたら、三回目になり三顧の礼になります。

 先生は孔明ですか?

 あのな。自分の都合で書類がほしいなら、まずアポイントとれ。

 ふと院生Mの手元をみると、なぜかガンジーの肖像画を持っている。あのインドの神様のポスターにある独特のやにっこい感じで描かれたガンジーである。

 院生M「先生ガンジー好きでしょ。その目立つところに飾ってください」

 彼が六年にわたりバイトをしてきたインドカレー屋が最近閉店したため、店内にかかっていたガンジー像をもらってきたという。

 「気が利くじゃない、ありがとう」というと

 院生M「最初ゲストハウス(彼は住所不定でゲストハウス暮らし)にかけてたんですけど、みんなが気持ち悪いっていうんで」

 一言多い。

 で、そのつぶれたバイト先の名物であるカボチャアイスが大量に売れ残ったとかで勉強会のみんなにプレゼントしてくれた。ミニカボチャの中身をくりぬいてアイスをつめたあれである。

 で、カボチャアイスつついて大相撲の八百長の話とかしているとテクストを読む時間がだんだん短くなり、それでも無理矢理いつもの分量進もうとするため、結局私の一人語りが多くなる(勉強会になっとらん)。

 そのうえK嬢は「今日、頭脳警察のPANTAのお誕生日なんです。今から初台いかなきゃ」と四時ちょっと過ぎに退出。

 アナーキーな勉強会だ。

 みなはこの休みを利用して、インドの文献館にいったり、青海・甘粛のチベット地域でフィールド調査したり、両親にあいに帰国したりと様々なよう。

 私は五月に出版の決まった専門書の完成原稿を一月いっぱいにあげていなければいけないのに、まだあがっておらず。どこまで粘れるのかチキンレース中。それが終わっても、四月のはじめにシンガポールである某国際円卓会議のためにまた英語でペーパーを書かねばならない。

 この会議、二十人から三十人規模の小さなもので、去年はバンクーバーであって、「時差があるからイヤ」と断ったら、「今度はシンガポールでやる。時差ないだろうからこい」と、行かざるを得ない展開に。

 勉強会のメンバーは「先生は国際学会の場数ふんでらっしゃるから大丈夫でしょ」と簡単に言うが、ところがすっとこどっこい。今までの私のすべての国際的な活動は義務感・使命感から仕方なくやってきたことで、決してできるから、好きだからでやっていることではない。
 
 なにしろ、香港の雑誌から書評頼まれた時、向こうから頼んで来たくせに

「あんたの英語はひどい、何とかしろ」という失礼なコメントとともにつきかえされてきたので、

 「そっちから頼んだ原稿だろ。こっちは母語じゃないんだから、そっちで直せアホ。! 日本は植民地になったことないんで(香港はかつてイギリスの植民著)英語かけないんだよ!」

 と言うような、どこにも出せない武勇伝もある(笑)。

 しかし、英語の不得意な東洋史の学者のみなさん、逆に言えばこんな私がなんとかなっているんだから、みなさんだったらもっと何とかなるはず。日本の東洋史のレベルは非常に高いから、あなたの業績を国外にアピールしてごらん、きっと反響あるから。

  情けない話しであるが、日本の大学は経営優先で、哲学や史学といった伝統的な学問のポストはどんどんへらされ、実学やサブカルを教えるポストばかりがふえていく(不景気とゆとり教育があいまって実用的なものか分かりやすいもの以外に客が集まらないから 笑)。こういう時には欧米である。自分の研究を英語で表現できるようになったら、日本の東洋史学のレベルは高いので、欧米の大学の歴史学のポストは十分ねらえる。英語ができればね。
 
 そういうわけで、国際会議に行くのは気が進まないけど、少し早くいってシンガポール名物ジュロン・バードパークを訪問するのが唯一の楽しみ。このバードパークは世界各国のオウム・インコが舞い踊る、世界の鳥マニア垂涎の地、鳥マニアの竜宮城なのである。

 国際会議の気の重さをバードパーク訪問で相殺してこれから何とか二ヶ月、がんばる
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DATE: 2011/02/02(水)   CATEGORY: 未分類
中東ドミノの行方
 チュニジアからはじまったツイッター民主化のうねりは、ヨルダンの政権交代を促し、エジプトで長期独裁をしてきたムバラクちゃんをゆさぶっている。

 カイロの中央部に集まる数十万人の人の群衆を見て、1989年の東欧の民主化ドミノを思い出した人も多いだろう。

 1989年の民主化革命は、事実上、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ二世が1978年に教皇位についたことから始まった。
 ポーランド人は敬虔なカソリック教徒であったため、ポーランド人教皇の出現に大慶び。しかもこの教皇、就任式で「畏れることはない」なんて言ったもんだから、ポーランド国民これを「教皇様が共産党政権をおそれるな、とおっしゃっている」と受け取り、それが共産党政権を崩壊に導いた。

 時のソ連の支配者はかの開明的なゴルバチョフどんであったため、ポーランド人の民主化を阻害しなかった。その結果1989年にポーランドで初の自由選挙が実現して、共産党が政権を追われ、その後、共産党と長年にわたって戦ってきたワレサさんが大統領になったわけ。ポーランドの成功は燎原の火のように東欧中に飛び火しあちこちでぼーぼー燃えさかった。

 1989年に東ドイツにおいて30年も独裁していたホーネッカー政権が崩壊し、ベルリンの壁がくずれ、チェコではビロード革命がおき、ルーマニアではチャウシェスク大統領が失脚・銃殺された。ドミノである。

 ポーランド、東ドイツ、チェコの三国の体制転換はほぼ無血であった。独裁体制の側は軍隊を動員してデモ隊を鎮圧しようとしたが、民衆の数が圧倒的だったこと、また、民衆の行動が非暴力で粛々としたものであったため、独裁者側も引かざるを得なかったのである。

 ちなみに、民主ポーランドの大統領となったワレサさんと、民主チェコの大統領となったハベルさんはダライラマと大の仲良しであり、ダライラマはワルシャワの市民権もたしかプラハの市民権ももっていたはずである(ちなみにこのブログに誤変換が多く時にあやふやなのは、書いたものを見直さないからです)。

 東欧の体制変革の際にもっとも感動的だった場面は、軍隊が民衆を撃たないと決意した、あるいは、それがわかった瞬間であった。それは同時に、体制の敗北が決定した瞬間でもあった。
 
 ちなみにこの1989年、もっとも感動的でなかったのは、ビルマと中国の対応であった。
 1988年にはビルマで、翌1989年には、中国においても天安門前で民主化をもとめる学生がピケをはったが、この両国は丸腰の学生を機関銃でうち、戦車でひきころして、今もなお独裁体制を続けている。中国とビルマでは、軍が国民に銃を向けることに疑問を持たなかった。

 今回、チュニジアからヨルダン、そしてエジプトに民衆蜂起がひろがった時に、国際社会がまず心配したのは、民衆が非暴力を貫けるか(テロとかに走らないか)、軍が国民を天安門の時のように武力で弾圧しないか、ということであった。前者については微妙で、一部は暴徒化して博物館の展示品を壊したりショッピングモールの略奪とかしているようである。しかし、後者については二月一日、エジプトの国軍がデモ隊の容認を公式に表明したので、今のところは大丈夫なよう。つまり、中東は、民度については東欧よりは低く、国軍のモラルについては1988年のビルマと1989年の中国よりは高いということか。
 
 国際社会が次に心配しているのは、かりに中東で民主化が進んだとしても、民主主義が衆愚化して、その結果、国際社会にメイワクをかけるような政権が生まれないかということ。

 たとえば、「イスラームの教えに従うと偶像崇拝はいかんからファラオの像を壊せ」とか、「イスラエルにジハードを」とかいう宗教過激派の政権をつくっちゃったりとか、また、混乱を鎮めるためには力が必要、とかいって、ムキムキの軍事独裁政権をまた作っちゃったりすることである。ようは自国をまとめるために他国を攻撃するような、しょうもない政権ができないかと心配しているのである。

 思えば、神様は共産党よりも強いが、世俗的な政権(王制・民主制)よりも強い。世俗的な政権は人間の肉体しか支配しえないが、宗教家は心を含めて全人的に人を導くことができるから。世俗の政治家がダメダメで、宗教者が人格者なら、世論が後者をおすこともあろう。

 その宗教者の教えが、普遍的かつ道徳的であり、他者を排斥しない博愛的なものであれば、その国の民は幸せだろうし国際社会もその政権の存在を喜ぶだろう(チベット難民社会のように)。このような人がトップにたつ政権が出現した場合は、イスラーム政権だからと毛嫌いせず、みんなで生暖かくみまもりましょう。

 一方、戦闘的で自己本位で、自分の煩悩を炸裂させるためだけに神の名を妄りにかたるようなエセ宗教者がリーダーになったなら、どうしたものか。国民は苦しむだろうし、国際社会もその扱いに困るだろう。

 そうなったら、エジプトの基幹産業は観光なので、とりあえずみなでエジプト旅行をボイコットして(笑)、日本人なら北陸に雪かきのボランティアに、アメリカ人ならカリブ海沿岸の重油被害の洗浄ボランティアにいきましょう。

 
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