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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/09/28(火)   CATEGORY: 未分類
10年ゼミ合宿顛末
9月24日

ゼミ合宿は恒例七月末だったが、大学の授業が年年八月に食い込むので、思い切って九月の末にしてみた。で、秋だと海よりは山ということで、今年は甲府の石和温泉。

まず石和温泉駅で昼ご飯時となるので、甲府といえば「ほうとう」だろうということで、私のグルーブは駅からちょっと離れた噂の店にいく。

この店はテーマパーク化が進んでいて、客席は映画館のように暗く、店の舞台には大画面で甲府の映像が流れていた。 で、みなで食事をしていると、武田信玄の扮装したオジサンが現れて、「〔武田信玄の軍師〕山本勘助です。」という。

しかし、あなたの着ている鎧、武田信玄のですから。山本勘助ならせめて隻眼で、足を不自由にしないとリアリティがありませんから。

〔自称〕山本勘助「みなさん、一人暮らしですか」
みなが答えに窮していたので、自分学者の本能で、事の白黒をはっきさせようと
「え?それはどういう意味できいていらっしゃるんですか」と聞くと
〔自称〕山本勘助「いや、私も学生の頃は一人暮らしだったので、食事とか外食が多くなって大変だなと思って」

と素の答えが返ってきた。どうつっこんでいいか分からず沈黙していると、勘助別のテーブルにいってしまった。

「山本勘助のコスプレしているのなら中身まで勘助になりきらないとだめじゃない。プロ意識がなさすぎる」というと、
学生たち「先生、あんなふうに問い詰めるから勘助いっちゃったじゃないですか」と責められる。

そして、午後は武田信玄の菩提寺である臨済宗恵林寺に行く。増上寺からもってきた徳川灯籠が一杯あるため、西武グループによる二大将軍廟の破壊の歴史や、二代将軍秀忠の呪いまで解説する。どういう歴史だ。
えりんじ

武田信玄の顔をうつしたという不動明王はなかなかいいお姿で、お庭も禅寺なのでとても美しい。参道の彼岸花がきれい。みな信玄のお墓の小ささにびっくりしていた。宝物殿に入ると話し相手に飢えていた管理人のオジサンの餌食になる。

で、帰り道一日ご本しかない最終バスをまっていると、みな携帯でニュースをチェックして、
Aくん「先生、例の中国人船長処分保留で解放されたそうですよ。」と教えてくれる。
国際社会に対して自分たちの立場を何一つ明らかにすることなく、ただ無法者に成功体験を与えただけの最悪のタインミングでの最悪の決断である。

そのあと日本政府の外交下手にもあきれ果てた私が荒れていると、 四年生から
「ボクたちは慣れていますが、三年生と宿の人の前では自重してください。」と言われる。

まるで松の廊下における浅野長矩の扱いである。

宿のテレビはCCTV(×国国営放送)と日本の情報を中国語で流すちゃんねるがあり(ちなみに日本の衛星放送は見られない)、温泉も外人観光客にあわせてお湯の温度が低いので、まんま温水プールである。日本の観光業が外国人頼みなことがひしひしと伝わってきて、ますます陰鬱な気分になる。

9月25日

二日目、まずは甲斐善光寺様と東光院に行く。

信州の善光寺が戦火にまきこまれて焼失するのを畏れた武田信玄が、善光寺のご本尊と僧侶たちをまるごと甲斐にうつしてたてた由緒のあるもので、しかし、その後、ご本尊様は京都などを点点として今は信州にもどっているので、お前立ちの阿弥陀様が今は甲斐の善光寺のご本尊となっている。 本家と同じく戒壇めぐりができるようになっているので、みなで一度死んで仏様の子供になって生まれ変わりましょうと戒壇めぐりをする。
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私「これでみんなは仏様の子、兄弟になりました」
Cくん「その言い方やめてくれませんか」

そのあと、●×▲のワイナリーで明治時代からのラインセラーとワインの作り方を見せて戴く。

地下のワインセラーは秘密基地のようで、とくに一番広い倉庫は自動ドアがあくとみな
「バイオハザードだー」と喜んでいる。
その倉庫には彼らの畑をうるおすという薬師観音様が祀られていた。像の形は普通に観音様である。
私「この像は薬師仏の要素はないのですが、それぞれがそれぞれの信仰に基づいていろいろ名前をつけるのはいいと思います」というと 、学生からワイナリーのオジサンを威圧していると批判された。私はありのままを言うただけなのに。

聞けばこのワイナリーは戦時中は潜水艦のソナーにつかう酒石酸を作っていたため、終戦の年の七月十日の甲府大空襲の際にやまほど爆弾を落とされて、焼けたのだそう。 そしてこのワイナリーでもっとも最高の出来は私の生まれた年だという。そこで、私は記念日にでも開けようと三万円もする生まれ年のヴィンテージ・ワインを買って

・・・・ 悲劇に見舞われることとなる。

甲府駅前の「小作」でほうとう鍋を食した後、甲府城跡にみなで登り甲府盆地を一望しながら、フリーチベット旗で記念撮影して、柳澤吉保や江戸をしのぶ。

すると、その城の一角にオベリスク状の構造物がある。戦没者慰霊碑かと思ってみてみると、維新の元勲で陸軍の創設者山県有朋が揮毫した明治天皇の顕彰碑だった。 みな、グーグル先生とかにいろいろ質問していたが、なぜ甲府のこの顕彰碑がエジプトのオベリスクの形をしているかは誰もつきとめられなかった。

そして城を下ろうとして、自分、さっきかったばかりの自分の生まれ年ワインをもっていないことに気づく。さっき記念撮影し本丸跡に忘れてきたに違いない。 AくんとBくんが走ってとりにいってくれる。しかし、彼らが見つけたのは・・・・。

外袋だけ。

見事に置き引きにあっていた。本丸跡の上から空の袋をふるBくんの姿をみて、四年のEが、文字通り腹を抱えて笑い転げていた。関係ないけど、文字通り腹を抱えて笑い転げる人を始めてみた。

みなの哀れむような視線を浴びつつ、駅前の交番にいき、も一度現場にもどって実況見分をし、「ここでとられました」と自分で現場を指さす記念写真を警察にとられ、五十代後半のオジサン刑事が私になりきって書いてくれた被害調書に吹き出しながら、その日一日が終わる。

学生たちは口々に「先生楽しいです」「面白かったです」と声を掛けてくれるのが唯一の救い。まあ誰かが笑ってくれるなら、サービス業としては成功である。しかし、大学の先生ってサービス業だったっけ?

そして夕飯の時間、幹事の五年生Dくんが「先生、みんなからのプレゼントです」といい、例のワイナリーの袋を渡してくれる。私が「気い遣わなくていいよ。みんなで呑んで」というと、「でも、ごろうちゃん(わたくしの溺愛鳥)の生まれた年1997年のワインですよ」と言われ、しかも、Fさんが切り紙でつくってくれたごろうちゃんラベルまでついている。

「やっぱもらっとくわ」

この子たちを育てた親御さんたちはさぞや人間的に立派な方たちであるに違いない。すばらしすぎる。
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そのあとの宴会は推して知るべし。 Gくんが「消えるワイン、謎のオベリスク、呪われた甲府城」とか「名探偵コナンだったら、あの場で城の降り口をすべて封鎖してすぐに犯人みぬきましたよ」とか、ものすごくへんな盛り上がり方をしていた。


7月28日

そして最終日、近くのぶどう園で、ぶどうがりをする。

園のおばさんが、いろいろシステムを説明するが、何言っているのかぜんぜん分からないので、私が「選択肢を整理していってください」というと、また学生から 「先生」 と怒られる。

しかし、このおばさんも「いちご狩りと同じです」とか説明にもなっていない返事をするのである。 初日の山本勘助といい、このぶどう園のおばさんといい、自分が今何をなすべきなのか、この状況ではどう伝えるべきなのか、という工夫がたりない。つまり、鎧をきて山本勘助を名乗る以上、その状況にあわせてやるべきことがあるし、果物狩りの客に対して、自分の園のシステムをフローチャート式に整理して説明する能力が要求されよう 。

地場産業の振興とかいうのはまずこういうところの意識改革からやらないと、いくらお金をつぎ込んでも効果があがらないのではないかと思う。

最後に一言。

単なる自動販売機置き場を、ハッピー・ドリンク・ショップというのは、ちょっとないと思う。
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DATE: 2010/09/24(金)   CATEGORY: 未分類
「思いつき」と「ひらめき」の間
 今日も×国様は元気で日本向けレアアースを禁輸とかいっているそうな。
 卒業生で金属関係にいった学生に聞いたら、レアアースは単に×国が安いから90%のシェアもっているだけで、高くていいんだったら他の国にも出るというから、少々お高くてもよその国から買いましょうよ。

 ちなみに、×国と伏せ字にしているのは、検索でやって来る無頼漢を防ぐためだよーん。

 どこかの釣具屋さんのホームページが、「釣」って入っていただけで、「釣魚島」と間違えて、ハッカー攻撃に遭っているっていうから、赤色ハッカー集団は、日本語読まなくてただ、「釣」とかで反応するのである。ようは釣られやすいのである。

 でも、日本もあんまり某国のことを笑えない。日本ではエリート中のエリートである特捜部の検事が証拠改竄で逮捕。

 私は検事っていう人は、人一倍倫理感・道徳観の強い人が、人の範たる生き方を示すため法の番人になるものだと思っていた。しかし、少なくともこの逮捕された検事のやったことは証拠を検察の書いたシナリオに都合のよいように改竄するというサイテーなもの。道徳観ゼロでないとできない荒技である。
 
 これ歴史家だったら、史料を書き換えて、その史料に基づいて「新発見をした」とかいいだすようなもの。そういえば考古学の石器時代でこれやった学者もいたよね。F村Sとかいう人。

 昔、モンゴルから来た、とある先生もスゴイこと言っていた。社会主義時代、資料輯を何度も刊行したけど、国策にあわせて史料を改竄していました、と。こうなると事実も真実もへったくれもなくなる。

 ここまで悪質ではなくとも、あまりにもできないがために、史料を予断で読むという歴史家はわんさかいる。まず思い込みからはじまって、その思い込みで史料を読むから、文脈も何もすっとばして自分の都合のいいところだけをつなぎあわせて論を立てる。思い込みがきついから、自信満々で押し出しが強いので、「あいつできる」と言われて本人もその気になり、あとはどこぞの先生にでも就職しちゃったらもう手が出せない。

 て程でもないけど、若い人がでてきて、このシナリオはおかしい、というまで、それが世の中の趨勢になってしまったりする。マルクス史観とかまさにそれやね。
 
 ある一つの現象がそれが何であるのかを知るためには、一番重要なのは、検察だったら地道な捜査、歴史家だったら研究、ジャーナリストなら取材である。

 たとえば皿にのったトマトがあるとしよう。このトマトがどうしてここにあるのかは、いろいろな経緯が考えられるだろう。それが我が家の食卓なら、それは私かダンナかどちらかのものだ。

 で、私はトマトがあまり好きでないが、ダンナ様果物のように食べる程好き。
 そして、私は好きなものから先に食べていくが、ダンナは好きな者を最後に残す性格である。

 つまり、もしこれがダンナの皿だとしたら、このトマトはこれから一番美味しいものとして食べられようとしているトマトであり、これが私の皿なら、「誰が食べてくれないかな」と残された残り物のトマトなのだ。

 同じように皿の上に残っているトマトでもそれぞれ文脈の中に位置づけてみると、そのトマトは違うものになっていく。

 でも、それぞれに聞き込みをして、それぞれの皿の持ち主にどういう食癖があるのかを聞き込みした上でならこのトマトが正確にどういう経緯でここにあるかわかるだろう。これが、捜査であり、研究であり、取材であり、そして論理的な正しい推論なのだ(え? ちがう?)。

 アホはこの研究や取材や捜査に基づく論理的な推論の過程をすっとばして、自分の予断でものをいう。
 この逮捕された特捜検事はこの一番やらなきゃいけない地味ぃな捜査・地味ぃな内偵をやっていなかったか、やっていても、自分の思いつきに囚われて、客観的に自分の認識の誤りを修正する能力がなかったんだろうな。

 私が研究をしている学生によく言う言葉は、思いつきひらめきは違うということ。

 予断を持たない知性が地味な観察と論理的思考と努力の末に、ひらめきを手にする。
 一方、予断を持つもの、あるいは、思考も観察も取材もしないものの頭に浮かぶものは、いかに素晴らしい考えにみえても、それは単なる、思いつき。

 もちろん、自分も研究の上で同じ様な過ちを犯しているかも知れないけど、少なくとも自分は、可能な限り予断を常に排するように意識しながら、事に当たっているつもりである。

 というわけで、二冊目の専門書の原稿やっとあがって、22日に助成金の書類申請をした。結果がでるのは十二月末で、通ったら、一応来年五月刊行予定。

 前作が2001年だから2011年と調度十年後の著作。研究者的にはいい感じの間隔での発行になる。もしこの後十年後も生きていたらやはり2021年に三冊目が出せるのかな。十年前に比べて確実に気力・体力が落ちているし。十年後はもっと落ちているだろう。そもそも徹夜できなくなっているし。

 ちなみに、助成金の申請落ちたら、刊行はいつになるかわかりまへん。

 でも、何度でもトライします。私はしつこいので。
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DATE: 2010/09/21(火)   CATEGORY: 未分類
「歪み」の自覚
むかーし、台湾に民進党の政権ができた時、目黒の台北経済文化代表処(ぶっちゃけ台湾大使館)に見学に行った。会議室に通されると、そこにはもちろん歴代総統の写真もあったが、正面中心は孫文の肖像画であった。
http://blog51.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=494#
 応対にでてくださった広報担当のAさんは、なぜかカギュ派のチベット仏教徒で、まあぶっちゃけた話をしたわけだ。
 十年以上前の話なのでうろ覚えだけど、彼が話した話の中で最も印象に残ったのは、×国は自分が弱い時には、ニコニコして仲良くしましょうといって、こちらの批判をかわすくせに、反撃できるような体勢が整うと、強圧的にでる。だから騙されてはいけない、とおっしゃっていたことだった。

 フロンティアにいる国の人ならではのお言葉であった。
 2005年の反日デモの時、また今、しみじみ体感してまーす。

 あれだけ国民を大切にしない政府が、それどころか、真っ当な権利を主張しているチベット人や民主運動家を牢屋に放り込んでいる政府が、巡視船に特攻してきた船長を釈放しろ、と主張する滑稽さ。


中国反発…なぜ船長の勾留延長 悪質な船体衝突

産経新聞 9月21日(火)7時57分配信
 中国漁船衝突事件で、中国側が一層反発を強めたのは、公務執行妨害容疑で逮捕された漁船船長の勾留が10日間延長されたからだ。それでも検察当局は「法と証拠に基づいて厳正に処分する」(検察幹部)として、船長を起訴する方向で検討しているとされる。

 海保関係者によると、日本の領海内で起きた外国漁船の違法操業で乗組員らの身柄が勾留されるケースは極めて異例だ。なぜ今回、漁船船長は逮捕、勾留された上、10日間の勾留延長となったのか。

 海保の巡視船「よなくに」は7日、中国漁船に対し、領海から立ち去るよう警告したが、漁船はよなくにに接触して逃走。海保は漁業法に基づく立ち入り検査を行おうと無線などで再三停船を呼びかけたが、漁船は逃走を続け、さらに別の巡視船「みずき」に船体を衝突させた。意図的な海上保安官の立ち入り検査妨害として公務執行妨害容疑で漁船船長は逮捕された。

 証拠となったのは接触の様子を撮影した映像。左前方を走るみずきに対し、漁船が徐々に左へ寄せていき、衝突する様子が映っているという。海保関係者は「避けようとした様子はない」と説明し、漁船の行為が悪質だったことを強調している。

 元最高検検事の土本武司筑波大名誉教授(刑法)は「漁船を衝突させる行為は最悪の場合、巡視船が航行不能に陥る危険性もあり、公務執行妨害の程度が大きい。悪質性の観点からも逮捕、勾留は適切で当然の判断。日本は法に基づき毅然とした措置を取るという姿勢を示した」と指摘する。勾留延長については「延長したということは捜査すべき点が残っているということであり、検察当局は略式処分ではなく、公判請求(起訴)を視野に入れている可能性がある」とみる。

 一般的に、容疑者が取り調べに非協力的であったり、完全に黙秘するなどした場合、捜査すべき点が残るケースは多い。

 しかも、自分で日×友好のために上海万博に招待するといった学生千人を、今度は自分から招待破棄。

 一個人であれだけ性格が悪かったら、みんなから疎まれて孤立して孤独死するだけだけど、あの人数とあの図体なので、扱いかねてる。

 
 知り合いの心理学の先生B先生は、刑務所とかまわって看守の方にアンガーマネジメント(怒り理の対処法)とか、「囚人の論法」にオルグされないための方法とかを教えていらっしゃる。

 その方に七月にお会いした機会に、「大学の先生には発達障害とか人格障害とかが多くて、ぶっちゃけ巣窟と言われてるけど、同じように人格に問題があっても、学問分野で秀でて大学の先生にまでなんとかなる人と、就職も恋愛もうまくいかず、家族とすら正常な関係を築けない人がいる、その境目は何か」と伺ってみた。

 すると、その先生「それは自分の性格の歪みを自覚していて、「自分がこうしたいからこうする」ではなく、「こういう時はこうする」という状況ごとのパターン化を覚えて自覚して反応できる人は社会の中で生きていける」とのこと。

 つまり、「自覚」が大事とのこと。

 もって生まれた、あるいは成長過程で身についた性格の歪みは、もう仕方ないものとしても、それによって自分を不幸にしないためには自分の性格の歪みを理解し、心のままに行動せず、「今自分がやろうとしていることは、回りにどのような影響を与えるのか」とつねに自問できる人は社会でなんとかやってける。

 ただ、人は元来自分に甘いものであり、まして人格に歪みがある人が自分でその「歪み」に気づくのは至難の業。あちこちにぶつかってどうにもしようがなくなったどん底で気づくか、回りが悪いとつっぱり続けて居場所を失い最後は犯罪にまでいっちゃうか、あるいは神様とか神様のように性格のいい人に根気よく導かれることによって、自分の性格の歪みに気づくか。

 歪んだ考えをもった集団に「歪み」を自覚させる方法として「非暴力」なる思想がある。キリストの山上の垂訓の「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ、上着を取られたら下着もさしだせ」みたいなことをすることによって、相手に歪みを自覚させて、心を入れ替えさせるのである。これをできた人は、ヒンドゥー教の教えに敬虔なガンジーとか、キリスト教の牧師のキングさんとか、仏教徒のダライラマさんとか、スーパー忍耐力のある人ばかり。

 しかし、そういう神のように性格のいい人が現れても、やはり相手のあること。

 むかし、キング牧師が、「山の上の垂訓は、個人対個人の関係では有効かもしれないが、黒人対白人などの集団同士の争いになったら、無力であると思っていたが、ガンジーがそうではないことを自分に教えてくれた」といっていた。でも、ガンジーが相手にしていたのは曲がりなりにも文明国のイギリス。キング牧師が相手にしていたのはまがりなりにもアメリカの白人。

 もちろん一人一人の×国人を教育していくことによって、あの国がまともになる可能性もゼロではないが、悪名高い愛国教育を行っている今の状態では、なかなか民度の上昇はのぞめない。

 ダライラマ法王は「×国に貢献(教育)できますよ」とありがたくも申し出て下さっているのに、そのありがたさが分からないのが今の×国。

 一人一人の×国人が自らの国の「歪み」を自覚する日はいつくるのか。
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DATE: 2010/09/16(木)   CATEGORY: 未分類
赤と青のエクスタシー
 横浜市民ギャラリーで開かれているチベット交流会主催の「チベット大自然作品展」(入場無料)を見に行く。

 会場は中華街で有名なJR関内駅のど真ん前。私の前にも中国人女子二人が改札口を通っていった。

 会場は広く入って左がチベットの子供たちの絵、真ん中がご存じ野田雅也さんの写真、右がドクター・ダワの油彩画である。

 主宰者Aさんが「カナガワ・ビエンナーレ国際児童画展」に応募するためにインドのチベット子供村五つに呼びかけて書いてもらったものである。中学生の絵と小学生の絵があり、応募作品だけあってどれも気合いが入っている。

 プロテストものあり、自然を称えたものあり、伝統文化を描いたものあり、なかなか面白い。とくに中学生の書いたプロテストものは、中国国旗から手がはえて、チベット国旗が料理されていたり、東からのびる赤い手(笑)が、チベットの上におおいかぶさっていたり、よく書けている。

 中国国旗とチベット国旗が頻繁にモチーフに使われているので、やたら赤と青がめだつ。赤と青のエクスタシーである。

 涙なくしてはみられないのが、自然を描いた絵。チベットの聖山や遊牧民のテントのある草原やチョルテン、彼らはあっついインドで難民暮らしをしながら、遠く離れたチベットを思っているのだ。美しいほど泣けてくる。

 野田雅也さんはみなさんご存じだからいいとして、ドクター・ダワさんはチベット医。本土で病院につとめていたのだが、チベット人の患者さんと漢人の患者さんに対する態度があまりに違うことにドンビキして、病院やめてインドにでてきた。彼の書くチベットの風景や伝統を描いた油彩画は欧米で評価が高く、よく売れているそう。たしかに、廊下のつきあたりの、グラジオラスの花瓶とかおいてある上にかけたら合いそう。品の良い絵。

 家にチベット仏壇作って毎朝読経しているようなアメリカ人の大金持ちだったら、この人の絵まとめ買いして屋敷のあちこちにかけるだろう。ダワ先生の絵はがきを五枚かって、ついでにギグド震災募金もする。

 最終日の18日は終わりが早いので、早めに家をでましょう。
 詳しくはここ→http://www.tibet-jp.com/newpage6.html

 会場でにこやかに握手を求めてくる男性一人。例によってどっかで見たような気がするけど思い出せない顔。
 そういう時は聞いてみることである。

 私「どちらかでお会いしたことがありますよね、どちら様でしたっけ」

 Cさん「すでに二度くらい会ってますよ。Cです」

 私「チベットの方ですね、インドからいらしたんですか」

 Cさん不審な顔。そりゃそうだ。後で思い出したけど、前にタシルンポのイベントで会った時、けっこう長い立ち話して、彼が東チベットから来たこと、今何を勉強しているかなどを聞いていたし(笑)。

 しかしその時は記憶が初期化していたので、一通りまた話してもらう。
 話を聞きながら、Cさんはしっかりした考えをもった、なかなかキレる男であることに気づく。なので、今度こそ忘れないように、チベット文字で名前を書いてもらい、写真もとり、こうやって記録にもとっておく。

 自分ぼけ老人みたい。

 で、Cさんによると、横浜市国際学生会館主催でチベットのお話がるという。そのタイトルも

 「なぜチベット仏教がグローバルな注目を浴びているのか その魅力を探る」(11月27日土 13:00-15:00)

 私「私三月にまさにこういう本だしたんだけど」

 Cさん「先生の本読みましたよ、他のチベット人にも勧めています」

 私は一人でも多くの日本人にチベットの文化の価値をしってもらい、チベット文化の存続に協力してもらおうと思ってあの本を書いた(そしてあわよくば日本人の道徳レベルもちっとはあげられたらな、と)、でも、チベット人が自分の文化に自信をもってくれる契機になったら、もっと嬉しい。

 そうだよねえ、本土チベットで教育を受けると、ダライラマは悪魔呼ばわりで、劣等民族みたいに扱われるから、漢語覚えたりすることでせいいっばいで、自分の文化に誇りなんてもてないよねえ。

 若き日のガンジーはイギリス紳士にあこがれロンドンに留学したが、神智学にふれてインド文化の価値にめざめ、インド独立の父へと脱皮していったのである。もし、私の本をよんだチベット人の中からチベット文化に誇りをもち、チベット完全自治を実現する人が育ったら、なんてワンダホーな話だろう。自分はジャパニーズ・アニー・ベサントとして長く語り継がれることになるであろう。

って、脳みそ腐ってます。

 鶴見の横浜市国際学生会館では9/30-12/9までの毎週木曜日間、「初めて学ぶチベット語」という語学講座もやつています。 専用電話は045-507-0318です。
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DATE: 2010/09/12(日)   CATEGORY: 未分類
乾隆帝菩薩像
今、自分がかつて英文で書いた論文を本に採録するべく和訳しているのだが、これが大変。

 論文のテーマは、乾隆帝がラマの形で描かれているタンカで、欧米でも研究者がたくさんとりついている人気あるものなんだけど、なにせ書いたのが五年も前。いろいろなことを忘れてしまっていて、英語が下手だからその時自分は何を考えてこんな表現したのか英語みているだけでは思い出せない。

けんりゅう


 私は一つの論文を書きおえると、その時、やり残したこと、日本語だったら表現できたのに、英語だから複雑すぎて表現できず苦渋の選択でけずった部分とかをメモして、最終原稿と同じフォルダにのこしておく。

 いわば未来の私に向けてのメッセージ。仕方ないのでそれを読んで見ると、その時思いついたことを断片的に投げ込んだパンドーラの匣。読んだら最後、いろいろ論文に手を入れたくなりというか、入れざるを得なくなり、ますます仕事の完遂時期が遠のく。

 一般の人にも分かりやすいたとえを用いるなら、大掃除をしている最中、懐かしい日記帳かなんかでてきて、その日記を読んでいるうちに、ああ、そうかあれも捨てられない、これも捨てられないとかいってるうちに、何も進まなくなるあのような感じである。

 そしてしみじみ感じることは、五年前の自分は他人であるということ。

 当時のメモとか調査記録とかみていると、すっかり忘れていたことを地引き網のように思い出して、楽しくなった。以下に当時の調査記録をちぢめてはっときます。

 ある文献や書画をみるために世界を回る、まあ一種のオタクの巡礼です。でもこの記録よんだら当時の自分が蘇ってきて、ずいぶんいろいろ思い出してきた。そう、この論文は乾隆帝のこのタイプの画像をラマ・ヨーガの本尊として見るべきという論点のもとに、チャンキャ三世とか二世とかの著作を引用したものだった。



○発端

 2003年2月23日、渋谷で買い物をしていると、様々な流行の発信地となる渋谷交差点のビルの側面に、なぜか乾隆帝86才のみぎりの朝服像が大垂れ幕となってかかっていた。近所のデパートで清朝の展覧会でもやっているのかと思いきや、Go!Go!7188というバンドの新アルバム「たてがみ」の宣伝であった。
 わけのわからない世の中である。
しかし、今思えばこの時点から乾隆帝の肖像画との縁は始まっていたのかもしれない。その後まもなくして、『雍和宮唐喀瑰寶』をぺらぺらめくっていて、ふと、乾隆帝がチベット僧の扮装をして描かれている二枚の肖像画に目にとまる。二枚にはいずれも

「文殊菩薩が人の王に遊戯した偉大なる法王が、金剛の王座にいつまでも健康であるように。望みが自ずとかなうように。良き運命をもてるものよ」

と、乾隆帝を「文殊菩薩にして法王」と称えるチベット語の銘文が共通して入っており、明らかに同じ筆致で描かれている。また、眼をこらしてみると、乾隆帝を取り囲む無数の仏・菩薩・ラマ・護法尊のそれぞれにも名前らしきものが記されている。解像度の悪い写真では文字の内容までは読み取れないが、もしこれが全部読み取れ、これらの尊像が持つ意味を明らかにすれば、チベット仏教世界における乾隆帝の位置づけが明らかとなろう。そこで、このタイプの乾隆帝の肖像画の調査を開始することとした。

 いろいろ調べた結果、前述の同じ銘文を刻んだ乾隆帝の僧形図は全部で3タイプあり、かりにこれをABCと呼ぶことにすると、とくにタイプCは作例がおおく、故宮博物院、雍和宮、『清代帝后像』、ワシントンのアーサー・サックラー・ギャラリー(Arthur Sackler Gallery)、ポタラ宮の五箇所に収蔵されていることがわかった。
 
○SARSで閑散とした雍和宮へ (2003年夏)

 ここまでは分かったものの、絵画の閲覧にあたってどのような手続きが必要かは皆目検討もつかない。そこで、いろいろ聞き込んでみると、中央民族大学のA先生が雍和宮にお知り合いの方がおり、何とか閲覧できるかもしれないとのこと。そこで早速、北京行きの航空券のチケットを買いにいくと、チケット代は異様に安く、入金の際には当初聞いていた値段よりもさらに下っていた。それもそのはず、2003年の初頭勃発したSARS騒ぎにより、北京へいく観光客は激減していたのである。躊躇しないでもなかったが、8月28日の夜遅く北京に着いた。

 翌8月29日、朝早くより雍和宮に入った。雍和宮のラマたちは歓待してくれ、かつ、乾隆帝の僧形図は戒体楼内にある展覧コーナーに二枚とも公開展示されていたので、調査は楽勝に進むかと思われた。が、よく聞いてみると、文物の管理権は雍和宮のラマたちとは別の管理組織にあるとかで、そこの許可がなければ展示ガラスから絵画を出すことはできないという。見ると、このガラスははめこみ式で、鍵をあければ中に入れるとかいう簡単な構造ではない。しかも、管理組織のトップはしばらく不在という。確かに、展示品の説明は経典の名前が間違っていたりとラマが関わったていたらありえないであろう基本的な間違いが随所にみられる。

 警備のラマたちは、ガラス越しであれば、写真とろうがどうしようが構いませんよ、とおっしゃって下さるものの、ガラス越しではフラッシュがガラスに反射してまともな写真はとれない。仕方ないので、ガラス越しにひたすらイコンの名前を書き写しまくる。ちなみにイコンの数はタイプBで119体、Cは106体ある・・・・・。SARSで観光客が少なく、他の客を気にすることなく書き写しができるのはありがたかったものの、照明が暗く、長い年月をかけて摩滅したイコンの金文字はひたすら読みにくい。そこで、民族大学近くにあるフランス資本のデパート、カルフール(家楽富)で強力ライトを購入して、31日に再び雍和宮に赴き、ライトをあてまくって文字を読み取る。この結果、タイプBのイコンの名前はほとんどつぶすことができた。しかし、タイプCは金文字がかなり薄くなっていたこともあり、ライトをあてても読めないものが多い。こうしてこの夏の雍和宮の乾隆帝画像調査は終了した。

○改築工事に便乗し僧形図を実見(2004年3月)。

 2004年2月24日、北京に電話して衝撃の時日を知る。乾隆帝僧形像は海外の展示会に出品中とのことで、一枚はマカオ、もう一枚はシカゴにあるという。何の冗談かと思い、Chicago Museum Chinaの三文字でネットで検索してみると、確かにシカゴのフィールド美術館 (Field Museum)で「中国紫禁城の栄光・乾隆帝の輝かしき治世」(Splendors of China's Forbidden City the Glorious Reign of Emperor Qianlong) なる企画展が行われている。期間を見ると一年以上とあり、当分絵は中国にかえってこない。こういう時は期が熟すのを待つ外ない。

 その二ヶ月後の3月27日、別の調査で北京にいった時、知人に会いがてら、雍和宮に入場してみた。半年前に絵が展示されていた戒体楼についてみると、閉鎖されている。中をのぞきこむと、かなり大がかりな改装工事が行われており、展示品は撤去されている。この瞬間、私の頭の中では、展示スペースが改築中→いまいましいガラスはとりはずされており→絵はどこかにとりおかれていて→直接間近でみられる、との解析が瞬時に行われ、となりにいる人の携帯電話をかりて、別れたばかりのEさんに電話を入れ、今どこかに所蔵されているはずの絵画をみたい、もう一度雍和宮にかけあってくれ、と頼みこむ。答えは一両日中にでるという。

  3月29日、E氏のご尽力により、雍和宮の乾隆帝僧形図を倉庫からだしてもらい実見させて頂くことに成功する。机の上にひろげたタイプBCの肖像画を、アップでみることにより、ガラス越しには判読できなかった金文字が随分読み取れた。おかげで、雍和宮所蔵のタイプBCの二枚は、ほとんど読み取りに成功する。実はこの日、故宮の事務室に今あるだけの乾隆帝の僧形図を閲覧できるかどうかの問い合わせもしてあったのだが、マカオから戻ってきているはずのタイプAはまだ梱包を解いていないという理由で、閲覧は許可されなかった。というわけで、故宮所蔵の乾隆帝像の調べはいっこうに進まない。

○ポタラ宮での僧形図調査(2004年8月)

 その年の夏、早稲田大学の諸先生方をチベット旅行にご案内することとなった。ポタラ宮は当然訪問先に入っているため、その際、ポタラ宮に所蔵されている乾隆帝の僧形図の確認も行うことにした。その日8月19日は土砂降りの雨であった。チベット建築が平屋根であることが示しているように、チベットは本来雨が少ない地域である。しかし、この年に限っては各地に大雨がふり、道路は寸断され被害が至る所にでていた。チベット人によるとこれは青藏鉄道の工事によって眠りを妨げられた地下の大蛙の祟りであるという。このような噂は、中国政府が行う鉄道事業に対して、チベット人がどのような感情を抱いているかを示していよう。その日ポタラ宮は赤い涙を流していた。このような大雨を想定して作られていないので、赤宮をぬった塗料が雨で溶けだしているのである。

 乾隆帝僧形図がかけられているのは、赤宮四階のサスムナムゲル(sa gsum rnam rgyal) 殿である。扎西次仁 1997によると、この像は1798年(嘉慶3年)に掲げられたという。改めてこの絵を見上げると、悲しいことに、ガラスケースに入っている上にそのガラスケースには絵をよこぎる金飾りが多数ついており、あまつさえ頭より高い位置に掲げられている。その上部屋は暗い。とてもイコンを書き写せるような環境ではない。せめて、台座の銘文だけでも読み取れないかと、同行者にチベット文字で書いてこれと同じ形の文章があるかどうかを確認してもらうと、ある、という。

 絵をこの頑丈なケースから出すには、さぞやいろいろな手続きを踏まねばならないだろう。めんどくさ。というわけでポタラの画像は今にいたるまでみてない。

○そしてアメリカへ(2005年3月)

 明けて、2005年ネパールのカトマンドゥに『悪趣清浄タントラ』とTCVの調査を予定していたところ、周知の通りのギャネンドラ国王の王政復古クーデターにより、断念を余儀なくされる。ネパール行きを断念するのはこれで二度目である。最近、中国を含めたアジア情勢は流動的であり、アジアの平和に大くを依存する東洋史の研究には暗雲がたちこめている。これに対抗するためにはフットワークは軽く、研究テーマは複数に、である。そこで、研究目標を乾隆帝僧形図に切り替え、アメリカに飛び、アメリカで放浪中の故宮所蔵のタイプCとサックラー・ギャラリー所蔵のタイプCを閲覧することとした。

 再び、N先生にアメリカの事情をお伺いすると、サックラーの方をご紹介いだたく。これは本当に助かった。実は、アメリカ調査旅行を決定した段階で、 サックラー・ギャラリーにはメールを打って僧形図の閲覧の可否を問い合わせていたのだが、ネットで公開されている宛先のどの部署におくっても返事はなく、サックラー・ギャラリーの上部機関であるスミソニアン(Smithonian)博物館にまでメールを打ってみたものの、なしのつぶてであったからである。また、乾隆帝の展覧会がどこで開催されているかをネットで調べてみると、件の「中国紫禁城の栄光展」は現在はダラス美術館(Dallas Museum)にいるようである。 

 次に、サックラー ギャラリーの位置をネットで確認するとボストンのハーバート大学内とでてきたので、ハーバート大学の先生に連絡をとる。しかし、後に旅行社より電話がかかり、サックラー・ギャラリーはボストンではなく、ワシントンにあるのではないかと言われ、確認してみると、確かに乾隆帝の僧形図はワシントンの方のサックラーに所蔵されていた。あわてて、先生に断りの電話をするが、結局ボストンにも行くことになる。

 こうしてわずか一ヶ月のあわただしい準備期間をへて、2005年の3月アメリカに飛んだ。そして、3月5日に、ダラス美術館において、故宮所蔵の乾隆帝の僧形図を無事確認できた。ダラス美術館で見る故宮所蔵の僧形図は、雍和宮の僧形図とくらべると、一見して状態が悪く、金文字はあちこちはげ、またもともとブランクと思われる箇所も多かった。ちなみに、このほかのチベット仏教関連の展示品の中で目を引いたものは、有名な乾隆帝のマントラ入り甲冑や文殊の忿怒形のヤマーンタカ仏像、灌頂儀礼ではおる豪華な法衣、1777年に建立された皇太后の遺髪をおさめたストゥーパなどである。

 3月7日には、ワシントンのサックラー ギャラリーを訪れ、キュレーターさん立ち会いのもと、乾隆帝僧形図を収蔵庫で拝見させていただく。二日前に故宮所蔵のものをダラスで見たばかりの目で、この僧形図をみると、細部の違いにいろいろ気付く。例えば、故宮所蔵のタイプCでは、五人のダーキニーたちは、それぞれの性質を示す、法輪、寶珠、金剛杵、勝磨金剛、蓮華などの持ち物をもつが、サックラーのダーキニーたちはみな同じカルトリ斧を持つ。乾隆帝を取り囲む小さなイコンのさらにその持ち物ともなると写真の解像度ではとうてい識別はできないので、やはり実地調査には意味があった。一日の間しかおかずに両タイプのサブグループを実見できたことによりはじめてこれらの差異に気づけた。
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DATE: 2010/09/08(水)   CATEGORY: 未分類
旱天の慈雨
 いつ果てるとも知らない真夏日が本日の雨によってやっと打ち切られた。
 今朝、雨の音がした時は幻聴かと思ったが、それが本当の雨だと知った時は本当にうれしかった。しかし、午後になると台風くずれの土砂降りは半端なく、ぬけてしまったタルの水のよう。昨今のご時世と同じく天候も極端で、程度とかバランスとかいうもんがわかってない。
 
 台風銀座だった高知に去年に引き続き今年も台風は上陸しないのに、今日は何と観測史上はじめて北陸に台風が上陸した。もともと台風の通り道にある地域は、それを織り込み済みの生活をしているけど、北陸の人はなれない台風に困っていることだろう。気候変動は一つの地域の産業構造も変えてしまうかもしれない。

 いや、北陸ばかりではない。このままこの極端な天候が定着すれば、日本の俳句文学はカイメツである。だって四季が夏と冬しかないから、季語が半分不要になるし、そもそもこんな天気に文学的に詠嘆できるかい。

 かつて、日本の四季は十二単の裾のグラデーションのようにおだやかにセンスよくかわっていったので、歌に詠もうか、という気にもなったのである。なのに、昨今の猛暑とゲリラ豪雨では狂歌か川柳しか作りようがない。

 だいたい、この夏の東京の気温はデリーを上回ることもしばしばだったので、サンスクリットの韻文読んだ方がしっくりくる(ちなみに、チベットは文学においては仏典を通じてサンスクリット文学の影響を受けているので、少々チベットの文化にあわないことがあっても、サンスクリット文学の修辞世界を受け入れている。)。

 サンスクリット文学はあっついインドではぐくまれたので、修辞が日本とはずいぶん違う。雲が生まれ、雷がなり、雨がふり、クジャクたちが喜んで羽をひろげることはみな吉兆とされた。西洋で雷が神の怒りとみなされるのとは対照的だ。

 ちなみに、インドでは太陽(スーリヤ)はもちろん世界の他の地域同様あがめられるが、涼しい夜になってそらに浮かぶ月(チャンドラ)はさらに愛され、人の名前になり、いろいろな文学のテーマにもなっている。暑いが故にそうなるのだろう。
 
 毎日毎日三十四度になるものだから、夕方になって三十度になると涼しい~とか感じている自分もかなりおかしくなっている。国文のIセンセイが「ボクが子供の頃は三十度を超えたらニュースになってましたよ」と言うとおり、明らかに今の気候はヤバい。

 隣の一人暮らしのおばあ様も、「今度孫が結婚するんだけど、あの子の子供たちが成人する頃にこの世界あるのかしら」とか厭世的なことをいってる。それなりの長さ生きてきた人たちほど、昨今の気候の異常さをリアルに肌で感じている。

 この強欲をストップできない精神性ゼロの文明を放置しておけば、ますます気候変動は進み、人類のカウントダウンは確実にはじまる。自業自得の生き方をしてきた人たちはともかく、僧院文化を護っているチベット人とか、自然界の生き物たちがまっさきにこの気候変動に影響を受けて苦しんでいるかと思うと、やりきれない。

 最近思うことは、もし来世があるのなら、この広い宇宙の別の星で知的生命体が不在の、できたら、鳥類が進化の頂点にある星にうまれたい。今生で仲のよかった人とか良縁のあった人とかも、セットで転生してみんなで、その星で鳥になって楽しく暮らす。

 チベットで仏の浄土を瞑想する時に、何もない「空」から花が咲き乱れ、水鳥があそぶ池に彩られた美しい大地を観相する。浄土のイメージは花と鳥。
 そこにはほ乳類っていないんだよね。
 きっとそういう星があるから、チベット人もそういう観相をしたんだと思う。
すいません、仕事がつまっていて逃避的になってます。
 
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DATE: 2010/09/04(土)   CATEGORY: 未分類
愛機に捧げる鎮魂歌
マニマニにいい方が来て下さったそうです。ご心配いただいたみなさま方、ありがとうございました。

 思うところがあって、開闢以来の使用済みのワープロ、パソコンを業者に引き取ってもらうことにした。

 ただ、やはりどの機体にも思い出があり、手放しがたい。

 この手の機械で最初に手にしたのは、リコーのワープロだった。たしか、三十数万くらいしたんじゃなかったっけ。

 これを使って『西蔵仏教宗義研究モンゴルの章』と仏教理学の古典『プラマーナヴァールティカ』の注釈書の節の対照表をだした。

 はじめて買ったパソコンで、かつもっとも長く使うことになったのがエプソンである。当時NECが日本のパソコン市場を独占していたのだが、エプソンが互換機をだしたので、それを買った。

 このエプソンは実に多くの著作を生み出した。まず、『梵・蔵・漢対照仏教語彙集マハービュットパティ』は、9565項目の仏教の熟語を、チベット語についてはデルゲ・チョーネー・ナルタン・ペキン大蔵経四版とモンゴル語については、レニングラード写本とモンゴルテンギュル版二版と校訂したため、9564×6回の校訂作業中は発狂するかと思った。

 サンスクリットの長音記号やモンゴル文字のガンマなどはテクノメイトというソフトでうちだした。

 それから、次に思い出深いのは、このエプソンとLP7000のレーザープリンターでだした、『ダライラマの仏教入門』と『ダライラマの密教入門』の二つの原稿。そしてこのエプソンの最後の仕事は博士論文である。

 追い込みのかかったあの年の七月、来る日も来る日もこのパソコンの前に座り、寝、座り、寝を繰り返して博士論文を書いた。まだヒナヒナだった愛鳥ごろう様がいつもブラウン管の上にとまっていたので、そこにはごろう様のフ●チあとがついている。そういえば、ごろう様はヒナの頃は体が弱くて、フ●チがゆるかった。今は立派な成鳥になって、それはもう健康的なフンチをしてる。

 博士論文を出版する際には、私が原稿をテキスト文書でつくって、それをダンナ様が自分のパソコンでTeXという版下作成ソフトを使って、縦書きの専門書にしあげてくれた。つまり、表紙のデザイン以外はまったく編集者の手を煩わすことなく、版下まで家庭内の工房つくったのである。

 ちなみに助成金も減らされたので、足りない分は自腹を切っているので、私の博論『チベット仏教世界の歴史的研究』をお手元にもっている方、ゆめゆめおろそかに扱うなかれ。

 こうして私が一機を長く使い続けている間、ダンナは壊れた、壊れたといってはMacを次々とかえていった。しかし、熱狂的なマカーであるため、壊れた機種も初期のアップルの名作SE30にはじまり、次のパワーマッキントッシュも全部捨てずにとってある (でもごろう様の秘密基地の土台になっている)。

 自分は、機械音痴だしメカフェチではないので、その時その時のコストパーフォーマンスでテキトーな買い物をしていた。機械に対する思い入れもそれが名器であるからではなく、その機械でつくりだした著作との思い出があるからである。

 結局、エプソンはまだ動いたものの、処理能力が遅いため、別のパソコンにシフトしていくことになった。デスクトップについてはダンナ様手作りしたパソコン、ノートパソコンはLet'snoteなでである。しかし、これらはみなやわで、頻繁に壊れてマザーボードをとりかえたり、ブラウン管を取り替えたりしたため、なんか愛着がわかなかった。ノートパソコンも液晶がダダモレたり、自分で落としたりとこれも愛着がわくほどの期間使えたものはいまだない。

 そう考えると、最後まで壊れなかったエプソンは本当にあっぱれであった。

 エプソンも、長持ちしなかったそれ以後のパソも、みんな本当にありがとう。

 とりあえずリサイクル処理法にのっとってだしたので、どこかで何らかの形で一部は利用されるだろう。これって、臓器だけでもどこかで生きていれば、みたいな改正臓器移植法下の遺族の気持ちである。

 君たちのことを忘れないためにこの文章を書きました。

 本当にありがとう。
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