FC2ブログ
白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/08/02(月)   CATEGORY: 未分類
阿闍梨位顛末
ごろうちゃんの暑中お見舞い頁をあげました。

それとドクター中松の「金剛阿闍梨」位の件についての公式見解が出ました。

チベット仏教とその僧院文化を少しでもしるものであれば、チベットにおいて仏教とは一生をかけて学び・修業するものであり、僧院内での出世は完璧な実力主義であることをよく知っている。これはすなわち、チベット仏教界は、何の修業もしていない外国人に、いきなり位を与えたり、戒律を正式にとってもいない僧侶に僧衣や僧帽を与えたりもしないことを意味している。

 チベットのゲルク派における僧の位は、金や力で買えるものではない。

 どんなに高貴な生まれでも、お金持ちでも、権力者でも、戒律を護らなければ僧と言われることはないし、高僧と呼ばれるためには、講義・ディベート・著作のすべてが秀でた大学僧と大行者にならなければいけない。高僧という名誉は、金や権力や生まれでは手に入らないのである。

時々、講演を聴きに来て下さった方とかから「私はチベットのマンダラに宇宙を感じるんですけど、どうすればマンダラを学ぶことができますか」とか問いをされるけど、自分の答えはいつもこう。

「チベット語勉強して、正しく戒律をまもったチベットのお坊さんについて、そのお坊さんからマンダラの意味や瞑想法を学んでください」

 宮崎駿がiPadブームを批判して「どこでもすぐに手にはいるような情報は実はたいしたものじゃない。〔本当に価値ある情報とは〕自分でその場に出かけていって想像力を注ぎ込んで初めて得られるものだ」といっていたけど、チベットの仏教なんてまさに、その簡単にてに入らない、とびこんで時間をかけてみにつけないとみにつかないスゴイ文化である。

 画面をタッチして手に入るようなお手軽な文化ではないのである。

 一方の日本の文化はどうだろうか。

日本仏教オタクのH君によると、戒律を護る僧が今よりはいた、近代以前の仏教界においても、高位の僧は高貴な出自の人がなるものであり、修業や学問によって高位にのぼりつめる僧はまれであったとか。

 その状況は今はもっと悪化していて、今日本で一番名前を知られている僧侶といえば、芥川賞?をとった某小説家の僧侶とか、某天台宗の尼僧である (坊主頭の有名人はいるが、それは大概落語家である)。つまり、修業や教学で広く知られている坊さんって、いないんだな、これが。

 そして、本屋に入ってみると、コメンテーターとか評論家とか、文化人と言われる人々が、どこぞの料亭で語りあった対談が、そのまま本になっている。先ほどの有名なお坊様たちもいろいろな雑誌で対談しまくっている。

 こういう対談企画を作る人たちは、きっと、何か「異なった」もの同士をぶつけたら「新しい何か」が見えてくる、とかいう幻想をもっているのだろうけど、それはない。

 だって、さっきの話にもどると、日本ではたとえ僧侶であっても、大半は修業も勉強もしていないし、コメンテーターとか評論家とかいっても体系的に何かの学問を究めた人でもなく、ようは本質的な意味ではみな同じ素人だからである。

 同じようなものが、いくらぶつかっても新しい何かなんてでてこない。画面をタッチしてでてくるような情報同士をいくら戦わしても何もでてこないのと同じ。新しい刺激、新しい対談相手、新しい出来事を求めて、フラフラ外にむかっていっても、自分にも相手にも核となるものが何もないから、そこから何が始まることもない。

 では対するチベット文化には核はあるだろうか、ないだろうか。
 もちろん、核はありまくり。

 ゲルク派の僧院文化は14世紀に登場したツォンカパがつくった哲学、僧院の体制を、21世紀の今も変えることなく、保持し続けている。

なぜ変わらないのか。

その哲学はあまりにも完成度が高いため、解説はできても、それを乗り越えて新しい体系を生み出す人がでてこないからである。僧院制度についても事情は同じであり、僧院内のカリキュラムや僧侶たちのヒエラルキーは昔とそのまま同じである(他の宗派にはまたそれぞれの事情があるのでまた今度)。

 つまり、チベット人は自分たち自身で完成してるいので、その伝統を伝えていくのが一番効率いいわけで、外に学ぶ必要はないのである。

 ドクター中松はチベットの高僧とあっても、チベット仏教をまじめに学ぼうとも、理解しようともした形跡がない。つまり、彼らがチベットの高僧にコンタクトしたのは、無数の対談本の企画者の発想なんかと同じで、何かかわった人と出会ったことを、自分の信者に対してアピールすることに意味があったのだろう。

 ドクターのお仲間のなにがしかが、「チベット人の格好して〔ドクター中松が〕秋葉原で演説をしたら、チベットのことを皆が知ってくれるでしょう?」と、「ありがたく思えと」いわんばかりの言い訳をいっていたけど、あのような形でねりあるいて、日本人にチベット仏教の価値が伝わるわけもなく、言うまでもなくあれは百害あって一理なし。この件は明らかに日本人である彼らがチベットを利用した構図が浮かび上がる。
 
 ガンデンティパもカルマパもまさか自分たちがこんな形で日本で利用されるとは思ってもいなかっただろう。これにこりて、チベットの高僧たちは、日本人がもってくる内容の分からない書面にサインをしないこと、間にたつ人間を選ぶことをおすすめしたい。

 チベット人、警戒心なさすぎ。こういうところが亡国の一因にもなっているのだろうなあ。
[ TB*0 | CO*7 ] page top
Copyright © 白雪姫と七人の小坊主達. all rights reserved. ページの先頭へ