「●濱会」
卒業生Kクンが教職に転職するのを祝うために、土曜日、久々に卒業生数名と飲んだ。
Eクン「ここに来るために叔父を一人殺しました」(文字通りの意味じゃないよ)
Wくん「センセイ、俺に会えなくて寂しかったでしょう」
私「別に。だってつい半年前までそこいらにいたじゃん」
もとパッカーのこの二人は東京近郊のとなりあった市に職場があるので、一月に二回はあっているそう。しかしそのあたりで娯楽といえば、パチンコと温泉とキャバクラなので、二人で温泉につかりまくっているという。いいんじゃない健康的で。
で、今日も一緒に車できたらしく、彼らがドライブインでかってきたらしきネタの土産物、あげうどんカレー味とか饅頭飴(まんじゅうあめ)がみなの間でおしつけあいになっている。
幹事は某有名DCブランドにおつとめのJくん。彼はフリーダムチベタンコンサートについて卒論に書いてくれたいい子であるが(私のよい子の基準は私のチベット話を理解するか否か 笑)、受理したあとで、「出典をつけてもう一度提出して」といったら、今にいたるまで再提出してこない。なのでいい子は保留。
で、このJくんの計らいでびっくり。この写真みて。

箸袋がフリーチベットご一行様になっている。
「センセ、乾杯の御発声を」というので
私「みなさんは社会にでられて立派になって、チベットのことなんてすっかり忘れてご活躍のことと思います。しかし、その間も私は毎日チベットの研究をし、チベットのことを考え、チベットをめぐる状況はいよいよ厳しく・・・」
Wくん「センセイ、長くなりますかあ」
私「ちっ、というわけで、フリー・チベット!」
と乾杯。
私の徳のなさか、私のゼミには専修の中でもとくに個性豊か、といえば聞こえはいいけど、破天荒すぎてどこにも行き場のない人が集まってくる
私の研究知って入ってくる人はごくわずかで、大多数は「すいません、単位やばかったんでこのゼミとりました」とか、そんな感じ。私も面倒くさいのでほっとくと、今年は生物多様性元年とかいうが、まさにそのまんまの状態になってる。
まあ、でもみんな素直で〔ないのもいるけど〕いい子。よごれちまったオトナたちに比べてまだまだ純粋無垢である。
というわけで、私のことを年食った友達くらいにしか思っていない卒業生たち(とくにWオマエだ!)は「こういうタイプは会社にいないよな。何か癒されるわ」とか聞こえよがしにいっている。
しかしKくんは少しはお世辞をいうことを覚えたらしく「ボクはセンセイのような教師になりたいと思います」というので、私も
「やめとけ」とやさしく応じる。
聞けば入社してまだ一~三年の彼らは毎日激務。人間関係にはあまり困っていないようだが、とにかく仕事量が多いという。『若者はなぜ三年で会社をやめるのか』とかいう本があったけど、あれって単純に激務とわりにあわない薄給が原因じゃないかと思う。Mくんなんて一人暮らしをはじめたら食事が不規則になったとかで、たった半年で激やせしていて心配。でも、Hちゃんは変わらず元気で生意気だった(笑)。
哀れなのはEくんで、在学中は旅好きで、スナフキンにあこがれて全世界五十カ国とかふらふらしていたのが、今は休みが取れないので期限のきれたパスポートを更新する気力もないという。でも、体育会系の職場にもなじんでいるようで、そんなに不幸そうに見えない。旅で成長する部分もあるけど、一カ所にとどまってがんばって身についていくものもある。今彼は必要なことを必要な時にしているのだと思う。
印象的だったのは、二次会の安居酒屋でお会計とあいなって、私が一万だそうとしたら、「ボクたち働いているんだから、だしますよ。」と割り勘になったこと。
みんないい男になった。
でもね、居酒屋のバイトのおねいちゃんを下の名前で呼ぶのはやめようね。オッサン臭いから。
Eクン「ここに来るために叔父を一人殺しました」(文字通りの意味じゃないよ)
Wくん「センセイ、俺に会えなくて寂しかったでしょう」
私「別に。だってつい半年前までそこいらにいたじゃん」
もとパッカーのこの二人は東京近郊のとなりあった市に職場があるので、一月に二回はあっているそう。しかしそのあたりで娯楽といえば、パチンコと温泉とキャバクラなので、二人で温泉につかりまくっているという。いいんじゃない健康的で。
で、今日も一緒に車できたらしく、彼らがドライブインでかってきたらしきネタの土産物、あげうどんカレー味とか饅頭飴(まんじゅうあめ)がみなの間でおしつけあいになっている。
幹事は某有名DCブランドにおつとめのJくん。彼はフリーダムチベタンコンサートについて卒論に書いてくれたいい子であるが(私のよい子の基準は私のチベット話を理解するか否か 笑)、受理したあとで、「出典をつけてもう一度提出して」といったら、今にいたるまで再提出してこない。なのでいい子は保留。
で、このJくんの計らいでびっくり。この写真みて。

箸袋がフリーチベットご一行様になっている。
「センセ、乾杯の御発声を」というので
私「みなさんは社会にでられて立派になって、チベットのことなんてすっかり忘れてご活躍のことと思います。しかし、その間も私は毎日チベットの研究をし、チベットのことを考え、チベットをめぐる状況はいよいよ厳しく・・・」
Wくん「センセイ、長くなりますかあ」
私「ちっ、というわけで、フリー・チベット!」
と乾杯。
私の徳のなさか、私のゼミには専修の中でもとくに個性豊か、といえば聞こえはいいけど、破天荒すぎてどこにも行き場のない人が集まってくる
私の研究知って入ってくる人はごくわずかで、大多数は「すいません、単位やばかったんでこのゼミとりました」とか、そんな感じ。私も面倒くさいのでほっとくと、今年は生物多様性元年とかいうが、まさにそのまんまの状態になってる。
まあ、でもみんな素直で〔ないのもいるけど〕いい子。よごれちまったオトナたちに比べてまだまだ純粋無垢である。
というわけで、私のことを年食った友達くらいにしか思っていない卒業生たち(とくにWオマエだ!)は「こういうタイプは会社にいないよな。何か癒されるわ」とか聞こえよがしにいっている。
しかしKくんは少しはお世辞をいうことを覚えたらしく「ボクはセンセイのような教師になりたいと思います」というので、私も
「やめとけ」とやさしく応じる。
聞けば入社してまだ一~三年の彼らは毎日激務。人間関係にはあまり困っていないようだが、とにかく仕事量が多いという。『若者はなぜ三年で会社をやめるのか』とかいう本があったけど、あれって単純に激務とわりにあわない薄給が原因じゃないかと思う。Mくんなんて一人暮らしをはじめたら食事が不規則になったとかで、たった半年で激やせしていて心配。でも、Hちゃんは変わらず元気で生意気だった(笑)。
哀れなのはEくんで、在学中は旅好きで、スナフキンにあこがれて全世界五十カ国とかふらふらしていたのが、今は休みが取れないので期限のきれたパスポートを更新する気力もないという。でも、体育会系の職場にもなじんでいるようで、そんなに不幸そうに見えない。旅で成長する部分もあるけど、一カ所にとどまってがんばって身についていくものもある。今彼は必要なことを必要な時にしているのだと思う。
印象的だったのは、二次会の安居酒屋でお会計とあいなって、私が一万だそうとしたら、「ボクたち働いているんだから、だしますよ。」と割り勘になったこと。
みんないい男になった。
でもね、居酒屋のバイトのおねいちゃんを下の名前で呼ぶのはやめようね。オッサン臭いから。
ダメ行にも意味あり
平岡さんが今年も夏のギュメ詣でをして帰ってこられた。お土産に頼んでいた『ギュメ学堂史』が今日届く。南インドのお寺の出版部で刷られる手書きのチベット本は、アマゾンなんかで買えるしろものではないので、とても助かる。備忘に章立てを写すと
第一章 『グヒヤサマージャ・タントラ』解説
第二章 このタントラを説いた持金剛仏からツォンカパに至るまでの系譜
第三章 ツォンカパ伝
第四章 このツォンカパから『グヒヤサマージャ』の相承をうけ、ギュメのもととなる僧伽をたてたシェーラプ・センゲ伝
第五章 ギュメの歴代座主系譜
第六章 セギュの歴代座主
第七章 年間の講義カリキュラム
第八章 法座の際の着席次第
第九章 ギュメの年間行事
第十章 ギュメの地域寮
序文からして1991年に記されたもので、ゴマンの歴史などに比べるとかなり小さな著作である。
平岡さんによると今回のギュメ滞在では、元ギュメの管長の生まれ変わりの十歳少年とはあえなかったそうな。しかし、いつものように管長・副館長の講話を聞いて、平岡さんの奥様いわく「ゼイタクな時間を過ごさせて頂いた」とのこと(彼らの言うゼイタクとは高級ホテルでタラソテラピーとかではなく、南インドの小さな村のはずれにあるジャングルの中にあるギュメでゲストハウスにとまりながら法要の施主になったり、高僧のお話を聞くこと。)。
今のギュメの管長さんは勉強がものすごくできる人だけど対機説法、すなわち、聴衆のレベルにあわせたお話が苦手な方らしい。日本人の学校の先生方を前にいきなり、論理学の話をはじめて、通訳が困り果ていたそうな。
一方、ギュメの副館長さんはオーストラリアで外国人相手に二十年間、説法していたので、一般人が必要としている教えをお話になるのがとてもうまかったそう。たとえば、「誇りを持つということと慢心は違う」というお話など、一般人が日常生活ですぐに「ああ」と思えるようなお話ができる。
だから、同行者の中には、あまりチベット仏教に対して、というか宗教全般に対していいイメージをもっていなかった人もいたが、僧院を辞去する際には「私は宗教というものにあまりいいイメージをもっていませんでしたが、ここにきて、人間が日常を生きて行く上で必要なことを教えてくれるものだということが分かりました」と言っていたそうな。
この講話のうまい副館長は今年74才で、副館長の在任期間は3年、そのあと管長の在任期間は3年なので、任期が終わる頃には八十才という高齢になる。そのため、オーストラリアにいる弟子たちは、「もうお年なんですからオーストラリアに居て下さい」と頼んだのだが、副館長「ダライラマ法王は私よりも年上なのに、仏教の存続のために命をはって世界中を飛び回っている。年下の私が体がつらいからと役職を辞退するわけにはいかない」とおっしゃり、あっつい南インドのギュメ寺の経営につく決意をなさられたそう。
今年からギュメは伝統的なディベートに加え、西洋風のディベートも取り入れはじめたようで、こうなると外国人も参加可能となるので、平岡さんも供養のやり方とかについて質問をしたようだ。いろいろ新しいことを始めようとするのはいいことだ。で、モンゴルからの留学生もギュメにいたそうだ。そう、昔からギュメにはモンゴル僧の留学先として有名。
法王はラダックで講演される際にも、いつまでこのような状態で伝統的な僧院文化を続けられるか分からない。私たちがだめになった時のことも考えて、あなたたちががんばるように、とおっしゃっていた。モンゴル人を受け入れるのも、彼らはまがりなりにも国をもっているので、チベットがダメになった時でも彼らの国で仏の教え(僧伽)が存続できれば、との気持ちがある。副館長の決意といい、亡命後50年ともなるとかなり追い詰められています。
最後に、平岡さんが今回ギュメのお坊さんから聞いた話の中でもっとも私の印象に残ったはなし。
「仏様の生起法をやる時に、言われたような観想がビビッドにできない人は、果たして行をやって意味があるのか。」と聞くと(これは絶対私の行を念頭においた質問だ。本人は否定していたが 笑)、
ギュメの僧曰く「人というものは一日暮らしていたら、何かを言葉にすることになる。その時、口を開いて他人を傷つけるような言葉を言っているくらいだったら、仏様の言葉を口にしていた方がまし。瞑想できなくても、行のマントラとなえるだけでも、供養するだけでも、悪口言っているより、余程善行である」
そうだよな。人間は一日二十四時間、ほんとうにくだらないことをして、見て、話して、過ごしている。でも、お勤めの間は小言幸兵衞でもない限り、毒づきながらお経唱える人はいないわけだから、その間は少なくとも悪いことをしないですんでいる。文字もよめない難民のおばあさんモゥモチェンガも毎日息を吸うように、マントラを唱えていた。
モゥモ・チェンガはわれわれがツイッターやミクシやブログやテレビやうわさ話やその他もろもろで頽落して、悪業をつみまくっている間、仏の言葉を口にしながら善行積んでいるのである。
なっとく。
第一章 『グヒヤサマージャ・タントラ』解説
第二章 このタントラを説いた持金剛仏からツォンカパに至るまでの系譜
第三章 ツォンカパ伝
第四章 このツォンカパから『グヒヤサマージャ』の相承をうけ、ギュメのもととなる僧伽をたてたシェーラプ・センゲ伝
第五章 ギュメの歴代座主系譜
第六章 セギュの歴代座主
第七章 年間の講義カリキュラム
第八章 法座の際の着席次第
第九章 ギュメの年間行事
第十章 ギュメの地域寮
序文からして1991年に記されたもので、ゴマンの歴史などに比べるとかなり小さな著作である。
平岡さんによると今回のギュメ滞在では、元ギュメの管長の生まれ変わりの十歳少年とはあえなかったそうな。しかし、いつものように管長・副館長の講話を聞いて、平岡さんの奥様いわく「ゼイタクな時間を過ごさせて頂いた」とのこと(彼らの言うゼイタクとは高級ホテルでタラソテラピーとかではなく、南インドの小さな村のはずれにあるジャングルの中にあるギュメでゲストハウスにとまりながら法要の施主になったり、高僧のお話を聞くこと。)。
今のギュメの管長さんは勉強がものすごくできる人だけど対機説法、すなわち、聴衆のレベルにあわせたお話が苦手な方らしい。日本人の学校の先生方を前にいきなり、論理学の話をはじめて、通訳が困り果ていたそうな。
一方、ギュメの副館長さんはオーストラリアで外国人相手に二十年間、説法していたので、一般人が必要としている教えをお話になるのがとてもうまかったそう。たとえば、「誇りを持つということと慢心は違う」というお話など、一般人が日常生活ですぐに「ああ」と思えるようなお話ができる。
だから、同行者の中には、あまりチベット仏教に対して、というか宗教全般に対していいイメージをもっていなかった人もいたが、僧院を辞去する際には「私は宗教というものにあまりいいイメージをもっていませんでしたが、ここにきて、人間が日常を生きて行く上で必要なことを教えてくれるものだということが分かりました」と言っていたそうな。
この講話のうまい副館長は今年74才で、副館長の在任期間は3年、そのあと管長の在任期間は3年なので、任期が終わる頃には八十才という高齢になる。そのため、オーストラリアにいる弟子たちは、「もうお年なんですからオーストラリアに居て下さい」と頼んだのだが、副館長「ダライラマ法王は私よりも年上なのに、仏教の存続のために命をはって世界中を飛び回っている。年下の私が体がつらいからと役職を辞退するわけにはいかない」とおっしゃり、あっつい南インドのギュメ寺の経営につく決意をなさられたそう。
今年からギュメは伝統的なディベートに加え、西洋風のディベートも取り入れはじめたようで、こうなると外国人も参加可能となるので、平岡さんも供養のやり方とかについて質問をしたようだ。いろいろ新しいことを始めようとするのはいいことだ。で、モンゴルからの留学生もギュメにいたそうだ。そう、昔からギュメにはモンゴル僧の留学先として有名。
法王はラダックで講演される際にも、いつまでこのような状態で伝統的な僧院文化を続けられるか分からない。私たちがだめになった時のことも考えて、あなたたちががんばるように、とおっしゃっていた。モンゴル人を受け入れるのも、彼らはまがりなりにも国をもっているので、チベットがダメになった時でも彼らの国で仏の教え(僧伽)が存続できれば、との気持ちがある。副館長の決意といい、亡命後50年ともなるとかなり追い詰められています。
最後に、平岡さんが今回ギュメのお坊さんから聞いた話の中でもっとも私の印象に残ったはなし。
「仏様の生起法をやる時に、言われたような観想がビビッドにできない人は、果たして行をやって意味があるのか。」と聞くと(これは絶対私の行を念頭においた質問だ。本人は否定していたが 笑)、
ギュメの僧曰く「人というものは一日暮らしていたら、何かを言葉にすることになる。その時、口を開いて他人を傷つけるような言葉を言っているくらいだったら、仏様の言葉を口にしていた方がまし。瞑想できなくても、行のマントラとなえるだけでも、供養するだけでも、悪口言っているより、余程善行である」
そうだよな。人間は一日二十四時間、ほんとうにくだらないことをして、見て、話して、過ごしている。でも、お勤めの間は小言幸兵衞でもない限り、毒づきながらお経唱える人はいないわけだから、その間は少なくとも悪いことをしないですんでいる。文字もよめない難民のおばあさんモゥモチェンガも毎日息を吸うように、マントラを唱えていた。
モゥモ・チェンガはわれわれがツイッターやミクシやブログやテレビやうわさ話やその他もろもろで頽落して、悪業をつみまくっている間、仏の言葉を口にしながら善行積んでいるのである。
なっとく。
マニマニで働きませんか
マニマニで働きませんか(緊急)
おしゃれな町自由ヶ丘にある歴史あるチベット雑貨のおみせマニマニ(お店の雰囲気はここをどうぞ)で今激しくバイトさんを募集しています。
仕事内容は、お店番とネット通販の処理です。詳しくはこの頁をクリックしてください。
http://tibetshop.blog64.fc2.com/blog-entry-339.html
シンギングボウル、タンカ、チベット国旗、フリチベTシャツなどに囲まれた職場は、お好きな方にはたまらないはずです。ちなみに、私が今日かったのは、本店オリジナルのチベット・セット(法王マグネット、SAVE TIBETミサンガ、チベット国旗マグネット、チベット国旗ステッカー、ポタラ絵はがき 以下、フリチベチラシ四枚(モゥモチェンガ、ヒマラヤを超える子供たち、チベット2008、チベットの危機の声)て、なんじゃこりゃ洗脳セット 笑)とフリチベTシャツです。


さらに、職場環境のすばらしいことはこのお店から徒歩七分に、あの浄土宗の名刹九品仏浄真寺があることです。日本ではじめて1901年にチベット入りした河口慧海氏の顕彰碑などがあり、かつ九体の巨大な阿弥陀仏があなたを涅槃に誘います。
さ・ら・に、自由ヶ丘にはインディア、タージマハル、サンガワとタンドリーチキンとカレーの美味しいみせもあります。自由ヶ丘デパートの2階にはネパール料理屋もあります。亀屋万年堂の本店もあります。ワカケホンセイインコの巣で知られる東工大も近いです(それはオノレの趣味じゃ)。
とてもいい環境です。さあ、チベット好きのあなた。マニマニではたらいてみませんか?
志ある方、ヘルプお願いします! 本当に困っていらっしゃいます。
横浜市民ギャラリーでチベット展覧会(予告)
去年、ダライラマのボディガードのギュルメさんを招聘した、チベット交流会さんが、今年は横浜の市民ギャラリーを借りてチベットの難民の子供たちとチベット医のダワ医師の油彩画、ならびに写真家の野田雅也さんの作品を並べた展覧会を企画されてます。
チベットの絵画ならびに写真展
会場 横浜市民ギャラリー三階C室
期間 9月13日(月)~18日(土)
入場無料
主宰 チベット交流会
詳しくは↓
http://www.tibet-jp.com/newpage6.html
チベット学今昔
二冊目の学術書の出版をめざしているため、そこにおさめる十本の学術論文の耳を揃えるべく、毎日細かい作業を営々としている。一本は書き下ろしだけど、残りは過去に学術雑誌にのせたものである。
この本を作る作業ってミュージシャンがベスト版のアルバム作る作業なんかににていると思う。今まで発表してウケタ論文はむろんのこと、埋もれて惜しいと思うものをとりあげて有機的なつながりのある1つの作品にしあげていくのである。
で、一応一本書き下ろして九本選んだんだけど、そう簡単にいくはずもない。それは何年も昔に書いたものを今みると、文章とか論の運びとかが未熟というか、気に触るというか、自分で自分の書いたものにイラッとするのである。そこで、気になる部分を書き直すと、古い革袋に新しいワインをいれることになり、底が抜けるので、結局手直し部分は拡大していき、最初から書き直した方が早いようなものもでてくる。
また、比較的最近の論文であまりいじらなくていいものでも、発表した後に新しい史料を見つけたりすると、その情報を論文のデータの最初の部分にメモにしておいてる。これをみながら論文内容にもいろいろ修正を行うので、残りの九本もけっこう手間暇かかる。
結果、論文を約2つ書き下ろしつつ、その気晴らしに残る論文に手を入れるということになり、よく言えばマルチタスクの聖徳太子、悪く言えばザッピングADHDである。
で、今回とりあげることを決めた論文の中には、実は一番最初期に書いたものが1つある。これを読み返すと、今なら簡単に分かることが分からないという扱いになっており、時代の変遷を感じた。
かつては聖典名、人間名、事件の流れなど分からないことがたくさんあった。それが今分かるようになったのは、もちろんこの長い年月の間にチベット文化に対する自分の理解が深まったということもあるが、それ以外にもチベット語辞書の完備、チベット関連情報のデータベースの完備などに助けられて、歴史的な人物の伝記や著作について昔よりもお手軽に調べることができるようになったことが大きい。
私が研究始めた頃は、チベット語の辞書は紙媒体のみで『蔵漢大辞典』三冊本もでておらず、チャンドラ・ダスとかイェシュケとかの辞書を使ってテクストを読むかしなかった。しかし、これらの辞書はいかんせん語彙数が少ないので、分からない単語も多かった。東洋文庫に研究員のゴマンの元座主ゲシェ・テンパゲルツェン師もいらしたが、なにしろ私が未熟だったので、テクストに書いてあることの何をどう聞いていいのかも分からない状態だった。ゲシェラも仏教の研究者ならいざしらず、歴史の研究者が何を求めているのか分からないから教えようもない。
まあ、早い話が私が若い頃、チベットを学ぼうと思うと情報沙漠だったのだ。
チベット語のテクストを手に入れようとすると、どこかの図書館に収蔵されているテクストをその図書館の言い値で焼き付けるために、安くても一枚百二十円とかいう焼き付け代を払っていた。1つ丸ごとテクストを手にしようと思うと万単位のお金が軽くとんでいった。
ところが、今はどうよ。
チベット語のオンライン辞書(http://www.nitartha.org/dictionary_search04.html)はあるわ、経典名調べようと思ったら、北京版のオンライン検索はあるわ(http://web.otani.ac.jp/cri/twrp/tibdate/search.html)、高僧の生没年、著作名、伝記などを調べようと思ったらTBRCはあるわ(http://www.tbrc.org/#home)、実際にテキストがほしかったら、スキャンしたデータをPDFにしたものを購入できる。さらに大学などの機関がTBRCに一定の金額を払えばオンラインでダウンロードできるようになっている。
私の青春と金を返してくれ。
思えば、このようなチベット関連のデータは、大谷大学の北京版大蔵経のデータをのぞけば、アメリカやヨーロッパの研究者と関係者ご一同の尽力のたまものである。ここまでチベット関係のデータが欧米でつくられるのは、欧米でチベット文化がちゃんと評価されていて、さらに研究者が多く、さらにはその研究も盛んだからであろう。
満洲史やモンゴル史をはじめる時、こんな行き届いたデータ環境はないだろう。
そこで、ことし四月からチベット語をはじめた院生Mに、「あなた自分がどんなに恵まれているか分かる? もし満洲語とか、古典モンゴル語をやろうと思ったら、まず紙媒体の辞書かうことになるのよ。チベットだからここまでデータが揃っているの。私が若い頃なんてね、テクストよむたびに人名や地名をカードにとってその情報をストックして、それをくりながら論文書いたいたんだよ。それをしなくてすんでんだから、さっさと一人前になって先生に楽をさせて」といってうざがられている。
この本を作る作業ってミュージシャンがベスト版のアルバム作る作業なんかににていると思う。今まで発表してウケタ論文はむろんのこと、埋もれて惜しいと思うものをとりあげて有機的なつながりのある1つの作品にしあげていくのである。
で、一応一本書き下ろして九本選んだんだけど、そう簡単にいくはずもない。それは何年も昔に書いたものを今みると、文章とか論の運びとかが未熟というか、気に触るというか、自分で自分の書いたものにイラッとするのである。そこで、気になる部分を書き直すと、古い革袋に新しいワインをいれることになり、底が抜けるので、結局手直し部分は拡大していき、最初から書き直した方が早いようなものもでてくる。
また、比較的最近の論文であまりいじらなくていいものでも、発表した後に新しい史料を見つけたりすると、その情報を論文のデータの最初の部分にメモにしておいてる。これをみながら論文内容にもいろいろ修正を行うので、残りの九本もけっこう手間暇かかる。
結果、論文を約2つ書き下ろしつつ、その気晴らしに残る論文に手を入れるということになり、よく言えばマルチタスクの聖徳太子、悪く言えばザッピングADHDである。
で、今回とりあげることを決めた論文の中には、実は一番最初期に書いたものが1つある。これを読み返すと、今なら簡単に分かることが分からないという扱いになっており、時代の変遷を感じた。
かつては聖典名、人間名、事件の流れなど分からないことがたくさんあった。それが今分かるようになったのは、もちろんこの長い年月の間にチベット文化に対する自分の理解が深まったということもあるが、それ以外にもチベット語辞書の完備、チベット関連情報のデータベースの完備などに助けられて、歴史的な人物の伝記や著作について昔よりもお手軽に調べることができるようになったことが大きい。
私が研究始めた頃は、チベット語の辞書は紙媒体のみで『蔵漢大辞典』三冊本もでておらず、チャンドラ・ダスとかイェシュケとかの辞書を使ってテクストを読むかしなかった。しかし、これらの辞書はいかんせん語彙数が少ないので、分からない単語も多かった。東洋文庫に研究員のゴマンの元座主ゲシェ・テンパゲルツェン師もいらしたが、なにしろ私が未熟だったので、テクストに書いてあることの何をどう聞いていいのかも分からない状態だった。ゲシェラも仏教の研究者ならいざしらず、歴史の研究者が何を求めているのか分からないから教えようもない。
まあ、早い話が私が若い頃、チベットを学ぼうと思うと情報沙漠だったのだ。
チベット語のテクストを手に入れようとすると、どこかの図書館に収蔵されているテクストをその図書館の言い値で焼き付けるために、安くても一枚百二十円とかいう焼き付け代を払っていた。1つ丸ごとテクストを手にしようと思うと万単位のお金が軽くとんでいった。
ところが、今はどうよ。
チベット語のオンライン辞書(http://www.nitartha.org/dictionary_search04.html)はあるわ、経典名調べようと思ったら、北京版のオンライン検索はあるわ(http://web.otani.ac.jp/cri/twrp/tibdate/search.html)、高僧の生没年、著作名、伝記などを調べようと思ったらTBRCはあるわ(http://www.tbrc.org/#home)、実際にテキストがほしかったら、スキャンしたデータをPDFにしたものを購入できる。さらに大学などの機関がTBRCに一定の金額を払えばオンラインでダウンロードできるようになっている。
私の青春と金を返してくれ。
思えば、このようなチベット関連のデータは、大谷大学の北京版大蔵経のデータをのぞけば、アメリカやヨーロッパの研究者と関係者ご一同の尽力のたまものである。ここまでチベット関係のデータが欧米でつくられるのは、欧米でチベット文化がちゃんと評価されていて、さらに研究者が多く、さらにはその研究も盛んだからであろう。
満洲史やモンゴル史をはじめる時、こんな行き届いたデータ環境はないだろう。
そこで、ことし四月からチベット語をはじめた院生Mに、「あなた自分がどんなに恵まれているか分かる? もし満洲語とか、古典モンゴル語をやろうと思ったら、まず紙媒体の辞書かうことになるのよ。チベットだからここまでデータが揃っているの。私が若い頃なんてね、テクストよむたびに人名や地名をカードにとってその情報をストックして、それをくりながら論文書いたいたんだよ。それをしなくてすんでんだから、さっさと一人前になって先生に楽をさせて」といってうざがられている。
「名を与える」ということ
最近、小石川植物園において、世界最大の花で、かつその香りが死体臭に似ているとかで有名なスマトラオオコンニャクが花開き見物人がつめかけた。ゼミ生Aちゃんもその一人で、炎天下三時間行列つくってまったそうだが、15秒くらいしか見られなかったので臭いもよく分からなかったそうな。
死体臭〔に似たもの〕をかぐために炎天下三時間まつ人々の気持ちって、あれか、心霊スポットにあつまる若者みたいな、普段体験できないものを体験したいという平和だからこそ、安定しているからこそおきる気持ちだろう。パキスタンとか、甘粛省のチベット自治県の人はわざわざスマトラオオコンニャクをかぎにいこうとは思わないだろう。そこいらで死体臭しているから。
で、小石川植物園といえば、その前身は暴れん坊将軍のつくった薬草園であるが、明治三〇(一八九七)年から昭和九(一九三四)年までの三七年間、東京大学理学部植物学教室があり、日本が帝国主義やっていた時代、探検家や学者さんたちがアジアの各地からあつめた植物標本が集められたりしていたのであった。
まずはこれ。↓
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Koishikawa300/02/0200.html
植物園移転前後の、国としての大事件は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦であるが、この結果わが国の勢力圏となった朝鮮、台湾、樺太、南洋諸島など、国外の植物の調査研究も始まり、日本のフロラや周辺地域との関係の解明も進められるようになった。早田文藏の『台湾植物図譜』、中井猛之進の『朝鮮森林植物編』などはその成果の大なるものである。それどころか、明治三七(一九〇四)年に、仏典探究のためチベットへ潜入しようとする河口慧海師に、圭介の孫、伊藤篤太郎は植物標本の採集を依頼しているほどである。彼はすでに、ヒマラヤと日本の植物の類似性について認識していたのである。河口は困難な隠密旅行にもかかわらず、多数の標本を持ち帰ったが、研究者側が遠隔のチベット地域の植物研究まで手を伸ばすにいたらず、あまり利用されなかった。第二次大戦後、ヒマラヤ植物の調査研究が始まると、河口標本の重要性が再認識されるようになった。この標本の多くは国立科学博物館に所蔵されているが、植物自然誌の標本を利用可能な状態で保存管理する標本室の役割を認識させるものである。また第一次世界大戦では多くの研究者の留学先であった先進ドイツとの連絡が途切れた結果、かえって日本の研究の自立をうながしたといわれる(上記サイトより)。
慧海の標本は今は筑波の実験植物園に保存されている(→http://www.tbg.kahaku.go.jp/)。
この慧海の標本を見学しにいった時、筑波の研究員のAさんがしてくれた話は、生物学やっている人、というか、たぶん教養ある人なら誰でもしっているのであろうが、私にとっては耳新しい興味深いものだった。
それは、分類学全盛の時代、新種の動植物が見つかると、その基準となる標本をイギリスの王立植物園に送り、そこで本当に既存の種とかぶっていないことが確認されると学名がつけられて、新種と認定されたということ。もし、似たような種のものがみつかった場合、この基準標本と比べることによって新種か否かを決定するため、基準標本が一箇所に集められ、それがロンドンにあったのだ。
つまり、あらゆる植物の種の基本情報がイギリスに集中していたのだ。その理由は当然のことながら、当時イギリスがもっとも広大な地域を支配下にいれていて、もっとも多量の新種を手に入れられる環境にあったからであろう。
で、うろ覚えだけど、そのあとドイツもイギリスに向こうをはって、基準標本をおさめる研究所をつくった。日本も勢力下にいれたアジアの植物を収集保存するために、小石川植物園が大活躍したわけだ。
自分歴史をやっいてるので、中国皇帝の冊封や、ダライ・ラマによるモンゴルハンの称号授与、イギリスの爵位などの例をあげるまでもなく、「名前をつける者」がいて、それを受け取るものがたくさんいる場合、名づける者にはおのずと現世の権威が備わっていくことがよくわかる。当時のイギリスは植物学のみならず、地理学上の発見に対しても、イギリスの王立地理学協会がもっとも権威ある賞をだしていたので、大英帝国は世界中のあらゆる事象の智を総覧する神のごとき権威をもっていたのだろう(ちなみに現在は国際植物命名規約にのっとってやっているみたい)。
で、何でこんな話するのかといえば、いま私はチベット医学でもちいる薬草の学名をエクセルに入力するというフモーな作業をしているからである。
チベット医学といえば、その聖典はご存じ『四部医典』(ギュシ)この第二部の十九~二十一章に様々な薬材の名前が挙がっている。これらの薬材が調合されてさまざまなチベット薬が作られるのだが、これらの薬材がその伝統的な名のもとに具体的に何使っているのかは、地域とか、人とか、時代とかによって異なっている。そのため、新しく本草書がでるごとに1つの薬材名の下に異なる学名がゾロゾロでてくることになる。
なので、これら複数の学名情報を1つのチベット名のもとに蓄積していけば、チベット医学の伝統の保存の一端にも役立つことができるだろうと、自分の属するとてもちっちゃなチベット医学サークルでこの作業をやっているのである。
※最初はこのグループで助成金もらって入力は人にまかせようと思ったのだけど、見事にはずれたので、自分たちで入力するハメになった。ははは。
植物の学名は輪廻、もといリンネがラテン語表記で、「属名+種小名+発見者の名前」の順で表記することをお決めになった。この発見者が、チベットの植物だとフッカーとか、キングドンウォードとか、プルジェワルスキーとかいう超有名な探検家やプラント・ハンターの名前が続くので、歴史を学ぶものとしては若干嬉しい感じがする。まあ、入力する際は名前の部分はとばすのだが(笑)。
で、わけわかんないラテン語を、とくに中国からでた本草書はラテン語のミスタイプが多いため、オンラインで確認しなきゃいけないし、だるいこときわまりなし。しかも、この作業を通常の研究の気晴らしに合間にやっているのであるが、よく考えたら全然気張らしになっていないことに今気づいた。
死体臭〔に似たもの〕をかぐために炎天下三時間まつ人々の気持ちって、あれか、心霊スポットにあつまる若者みたいな、普段体験できないものを体験したいという平和だからこそ、安定しているからこそおきる気持ちだろう。パキスタンとか、甘粛省のチベット自治県の人はわざわざスマトラオオコンニャクをかぎにいこうとは思わないだろう。そこいらで死体臭しているから。
で、小石川植物園といえば、その前身は暴れん坊将軍のつくった薬草園であるが、明治三〇(一八九七)年から昭和九(一九三四)年までの三七年間、東京大学理学部植物学教室があり、日本が帝国主義やっていた時代、探検家や学者さんたちがアジアの各地からあつめた植物標本が集められたりしていたのであった。
まずはこれ。↓
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1996Koishikawa300/02/0200.html
植物園移転前後の、国としての大事件は日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦であるが、この結果わが国の勢力圏となった朝鮮、台湾、樺太、南洋諸島など、国外の植物の調査研究も始まり、日本のフロラや周辺地域との関係の解明も進められるようになった。早田文藏の『台湾植物図譜』、中井猛之進の『朝鮮森林植物編』などはその成果の大なるものである。それどころか、明治三七(一九〇四)年に、仏典探究のためチベットへ潜入しようとする河口慧海師に、圭介の孫、伊藤篤太郎は植物標本の採集を依頼しているほどである。彼はすでに、ヒマラヤと日本の植物の類似性について認識していたのである。河口は困難な隠密旅行にもかかわらず、多数の標本を持ち帰ったが、研究者側が遠隔のチベット地域の植物研究まで手を伸ばすにいたらず、あまり利用されなかった。第二次大戦後、ヒマラヤ植物の調査研究が始まると、河口標本の重要性が再認識されるようになった。この標本の多くは国立科学博物館に所蔵されているが、植物自然誌の標本を利用可能な状態で保存管理する標本室の役割を認識させるものである。また第一次世界大戦では多くの研究者の留学先であった先進ドイツとの連絡が途切れた結果、かえって日本の研究の自立をうながしたといわれる(上記サイトより)。
慧海の標本は今は筑波の実験植物園に保存されている(→http://www.tbg.kahaku.go.jp/)。
この慧海の標本を見学しにいった時、筑波の研究員のAさんがしてくれた話は、生物学やっている人、というか、たぶん教養ある人なら誰でもしっているのであろうが、私にとっては耳新しい興味深いものだった。
それは、分類学全盛の時代、新種の動植物が見つかると、その基準となる標本をイギリスの王立植物園に送り、そこで本当に既存の種とかぶっていないことが確認されると学名がつけられて、新種と認定されたということ。もし、似たような種のものがみつかった場合、この基準標本と比べることによって新種か否かを決定するため、基準標本が一箇所に集められ、それがロンドンにあったのだ。
つまり、あらゆる植物の種の基本情報がイギリスに集中していたのだ。その理由は当然のことながら、当時イギリスがもっとも広大な地域を支配下にいれていて、もっとも多量の新種を手に入れられる環境にあったからであろう。
で、うろ覚えだけど、そのあとドイツもイギリスに向こうをはって、基準標本をおさめる研究所をつくった。日本も勢力下にいれたアジアの植物を収集保存するために、小石川植物園が大活躍したわけだ。
自分歴史をやっいてるので、中国皇帝の冊封や、ダライ・ラマによるモンゴルハンの称号授与、イギリスの爵位などの例をあげるまでもなく、「名前をつける者」がいて、それを受け取るものがたくさんいる場合、名づける者にはおのずと現世の権威が備わっていくことがよくわかる。当時のイギリスは植物学のみならず、地理学上の発見に対しても、イギリスの王立地理学協会がもっとも権威ある賞をだしていたので、大英帝国は世界中のあらゆる事象の智を総覧する神のごとき権威をもっていたのだろう(ちなみに現在は国際植物命名規約にのっとってやっているみたい)。
で、何でこんな話するのかといえば、いま私はチベット医学でもちいる薬草の学名をエクセルに入力するというフモーな作業をしているからである。
チベット医学といえば、その聖典はご存じ『四部医典』(ギュシ)この第二部の十九~二十一章に様々な薬材の名前が挙がっている。これらの薬材が調合されてさまざまなチベット薬が作られるのだが、これらの薬材がその伝統的な名のもとに具体的に何使っているのかは、地域とか、人とか、時代とかによって異なっている。そのため、新しく本草書がでるごとに1つの薬材名の下に異なる学名がゾロゾロでてくることになる。
なので、これら複数の学名情報を1つのチベット名のもとに蓄積していけば、チベット医学の伝統の保存の一端にも役立つことができるだろうと、自分の属するとてもちっちゃなチベット医学サークルでこの作業をやっているのである。
※最初はこのグループで助成金もらって入力は人にまかせようと思ったのだけど、見事にはずれたので、自分たちで入力するハメになった。ははは。
植物の学名は輪廻、もといリンネがラテン語表記で、「属名+種小名+発見者の名前」の順で表記することをお決めになった。この発見者が、チベットの植物だとフッカーとか、キングドンウォードとか、プルジェワルスキーとかいう超有名な探検家やプラント・ハンターの名前が続くので、歴史を学ぶものとしては若干嬉しい感じがする。まあ、入力する際は名前の部分はとばすのだが(笑)。
で、わけわかんないラテン語を、とくに中国からでた本草書はラテン語のミスタイプが多いため、オンラインで確認しなきゃいけないし、だるいこときわまりなし。しかも、この作業を通常の研究の気晴らしに合間にやっているのであるが、よく考えたら全然気張らしになっていないことに今気づいた。
人の囀りって・・・
ツイッターの使い方を全然理解しないうちに、フォロワーが増えてきて、いやあ、こまった、こまった。わけわからん。ははは。
ぶっちゃけた話、実は自分、ケータイもったのだって今年の三月なのである。しかも、厳密に言えば「持たされた」もの。
今まで、どうしてもケータイが必要な場面ではダンナ様のケータイを借りていたのだが、そのダンナのケータイをご丁寧に外国で落としてしまった。そしたら、ダンナ様がある日、「これから落とすのなら自分の落としてね」とショップで一番安いケータイを私にもってきた。
その時、ちょうどキャンペーン中だったのか、ショップが、白い犬がくっついたトイレットペーパーかけをくれて、今も装着されている。
この犬、振動を感じると、北大路きんやの声で「その手でさわるな」とかしゃべったりして(じゃあトイレットペーパー入れになんかなるな 笑)、「ああ、これが噂にきくおとうさんか」と我が家がついに孫正義に陥落したことが実感された。
しかし、このケータイ、メールを受ける設定も、ネットにもつなぐ設定も何もかもわからんので、単なる「でんわ」。しかも、外出の際にもってでるのを忘れるため、「ケータイ」ですらない。名付けて「家におきっぱ電」もっと言えば常時「充電死んでます電」、つまりケータイという定義にはあてはまらない。
しかし、呼び出し音だけは我が家の愛鳥ごろう様の雄叫びにカスタマイズした。
こんな人間がいきなりツイッターである。
なので、わけわからん。あ、でも、私にこれまでツイートしてくださった方々、ちゃんと読んでます。ツイッターで自分のサイト検索して(きっと他のやり方があるんでしょうね 笑)。でもどうやったら表示するかとか仕方とかわかんないんですよね。ははは。
でも、ブロックの仕方だけはまっ先に覚えた(笑)。
うちのゼミでもツイッターをやっている子は、飲み会の最中とかでもケータイとりだして書き込みをしている。こういう実況がいいんだろうけど、ナマの人間が回りにいる時くらいは目の前の人間と交流しろよ、と思う。
小さな子供や老親を抱えて孤立しがちな女性、何か問題を抱えて不安な人、共通の話題でもりあがりたい人同士には、ツイッターは空間をこえて「大丈夫」「「私もだよ」と共感の輪でつながることは精神衛生にいいであろう。
これなら、140字でできる。
しかし、ものを考える時、研究をする時は、ツイッターは不要。ランケーブルは抜かないと思考に集中できないし、何か考えがまとまりかかってきたら、今度は生身の人間との会話が思考をまとめるのに役に立つ。人に説明することによって、自分の考えもまとまってくるからだ。そして何かを明らかにしても、典拠や論拠をあげて体系的に説明するためには140字は短すぎる。
その日よんで心動かされた名言でもあげようかとも思ったが、これどんどん沈んでいくからメモにもならないし、間に俗っぽい言葉がはいるとムードが壊れる。運営会社が倒産したらこのデータ自体もすっとぶだろうし。記録を残すという機能としてはあまり有用でない。
まあ、直感的にいって、ホームページ>>>ブログ>>>>ツイッター>>>と、この流れ、やっぱ頭を使うよりは、情緒化、アホ化の極みに向かっているような気がする。
我が家の窓辺には毎日、日の出と日没の時、様々な鳥がつどっていっせいにさえずる。これは朝と夕方、鳥たちは群であつまって互いに「一日がはじまるねー」「今日もおわったねーおつかれー」とかコミニュケーションをとりあっているのである。私は鳥が大好きなので、この囀りをきくと本当に和やかな気持ちになる。
しかし、人の囀りであるツイッターは、たしかにみながさえずっているが、そこに参加している人には、個があるのみで、群としての一体感も、安定感もない。コミニュケーションをさらしているといっても基本は一対一である。お互いの顔も見えていない。
はっきりいうと、人の囀りは鳥の囀りに比べるとヤンデル。
ぶっちゃけた話、実は自分、ケータイもったのだって今年の三月なのである。しかも、厳密に言えば「持たされた」もの。
今まで、どうしてもケータイが必要な場面ではダンナ様のケータイを借りていたのだが、そのダンナのケータイをご丁寧に外国で落としてしまった。そしたら、ダンナ様がある日、「これから落とすのなら自分の落としてね」とショップで一番安いケータイを私にもってきた。
その時、ちょうどキャンペーン中だったのか、ショップが、白い犬がくっついたトイレットペーパーかけをくれて、今も装着されている。
この犬、振動を感じると、北大路きんやの声で「その手でさわるな」とかしゃべったりして(じゃあトイレットペーパー入れになんかなるな 笑)、「ああ、これが噂にきくおとうさんか」と我が家がついに孫正義に陥落したことが実感された。
しかし、このケータイ、メールを受ける設定も、ネットにもつなぐ設定も何もかもわからんので、単なる「でんわ」。しかも、外出の際にもってでるのを忘れるため、「ケータイ」ですらない。名付けて「家におきっぱ電」もっと言えば常時「充電死んでます電」、つまりケータイという定義にはあてはまらない。
しかし、呼び出し音だけは我が家の愛鳥ごろう様の雄叫びにカスタマイズした。
こんな人間がいきなりツイッターである。
なので、わけわからん。あ、でも、私にこれまでツイートしてくださった方々、ちゃんと読んでます。ツイッターで自分のサイト検索して(きっと他のやり方があるんでしょうね 笑)。でもどうやったら表示するかとか仕方とかわかんないんですよね。ははは。
でも、ブロックの仕方だけはまっ先に覚えた(笑)。
うちのゼミでもツイッターをやっている子は、飲み会の最中とかでもケータイとりだして書き込みをしている。こういう実況がいいんだろうけど、ナマの人間が回りにいる時くらいは目の前の人間と交流しろよ、と思う。
小さな子供や老親を抱えて孤立しがちな女性、何か問題を抱えて不安な人、共通の話題でもりあがりたい人同士には、ツイッターは空間をこえて「大丈夫」「「私もだよ」と共感の輪でつながることは精神衛生にいいであろう。
これなら、140字でできる。
しかし、ものを考える時、研究をする時は、ツイッターは不要。ランケーブルは抜かないと思考に集中できないし、何か考えがまとまりかかってきたら、今度は生身の人間との会話が思考をまとめるのに役に立つ。人に説明することによって、自分の考えもまとまってくるからだ。そして何かを明らかにしても、典拠や論拠をあげて体系的に説明するためには140字は短すぎる。
その日よんで心動かされた名言でもあげようかとも思ったが、これどんどん沈んでいくからメモにもならないし、間に俗っぽい言葉がはいるとムードが壊れる。運営会社が倒産したらこのデータ自体もすっとぶだろうし。記録を残すという機能としてはあまり有用でない。
まあ、直感的にいって、ホームページ>>>ブログ>>>>ツイッター>>>と、この流れ、やっぱ頭を使うよりは、情緒化、アホ化の極みに向かっているような気がする。
我が家の窓辺には毎日、日の出と日没の時、様々な鳥がつどっていっせいにさえずる。これは朝と夕方、鳥たちは群であつまって互いに「一日がはじまるねー」「今日もおわったねーおつかれー」とかコミニュケーションをとりあっているのである。私は鳥が大好きなので、この囀りをきくと本当に和やかな気持ちになる。
しかし、人の囀りであるツイッターは、たしかにみながさえずっているが、そこに参加している人には、個があるのみで、群としての一体感も、安定感もない。コミニュケーションをさらしているといっても基本は一対一である。お互いの顔も見えていない。
はっきりいうと、人の囀りは鳥の囀りに比べるとヤンデル。
随喜の法則
※お知らせ
学生がツイッターの罠にはまって困り果てていたので、学生のためも考えて、仕方なくツイッタ始めました(かき氷屋か 笑)。
http://twitter.com/okamesaiko
さて、本題。
昨日アンビリバボーで、催眠療法で突然ネパールのタマン語をしゃべりだした主婦の話を特集していた。彼女はネパールに行ったことも、ネパール語を学んだこともないそうなので、「これは前世の人格ではないか」と番組スタッフが彼女の話の裏付けを求めて、ネパールにいくという話。
結局確たる証拠はつかめなかったのだが、彼女が正確なタマン方言をしゃべったという事実に対しては説明はつかなかったのであったった。
で、そのあともうすぐ南インドのギュメ寺に行くという平岡さんと電話で転生話をする。今回の訪問の楽しみとは、元ギュメの管長であるドルジェタシの転生と会うことという。
平岡さんが80年代後半にギュメ寺に留学(修業?)しにいっていた時の副管長さんがこのドルジェタシであった。彼はその後、管長になり、常日頃より「死ぬ時はガンで死にたい。〔卒中などの突然死と違って〕死ぬ準備ができるから」と言っていたそうだが、その言葉の通り1999年12月にガンでなくなった。
で、なくなる間際の死の床に、ダライ・ラマ法王のファックスが届き、そこには「師であるわたし(法王)と観音を一体とみなして死を迎えよ」という旨が記してあり、ドルジェタシ先生はそれを見た瞬間にトゥクダム(医学的には死んでいるのだが、まだ心臓に不滅のティクレがまわっているので腐らない状態)に入ったという。そして、亡くなられる前に、「私のものはそのままにしておけ」といかにもまた戻ってくるという遺言を残されたそうな。
平岡さんはその年もギュメを訪問していたのだが、彼が訪れた時はちょうどトゥクダムが終わった時点で、ドルジェタシ先生は右脇を下にした涅槃の寝姿で法衣をかけられていたそうな。
ドルジェタシ先生はギュメ(密教学堂)の管長になるくらいの方なので、チャクラの観想とかもばっちりできていて「チャクラは経典に書いてあるそのままの形だった」とおっしゃていたそうな(ちなみに経典に説明されているチャクラの形は、よく人体マンダラに描かれる蓮の花型ではない)。
このドルジェタシ先生が今回、10才くらいの少年になってギュメにもどってきたのである。平岡さんは前世の人格と密なおつきあいがあったそうなので、「少年の言動を左脇えぐりこむように観察してきてね」とお願いする。
そいえば、前のエントリーで、ゲルク派では修業と学問が人的評価の基準といったが、まだ何もはじめない子供のうちから転生僧は高僧に扱われるから、おかしいんじゃない?と思う方もいるかもしれない。
その答えはこうである。転生僧であるからこそ、人一倍「できて当たり前」というプレッシャーにさらされ、それに応えられないと、「あーあ」と言われて、なんちゃって転生僧として「今生はもう仕方ない、来世に期待する」とかいわれちゃうのである(笑)。
そして、たとえ、転生僧であっても、大学僧であっても、もし還俗してしまったら、その瞬間にそれまでの評価はがらっと変わる。その人が高潔な行いと言動をしているうちは人々はその人を評価するが、そうしなくなった瞬間に評価は変わるのだ。そこには情も馴れ合いもない。
その人の行いがあるだけ。
私が「チベット仏教の高僧はスゴーイ」というと、「還俗したヤツもいる」「詐欺師もいる」「いい加減なやつもいる」といい「チベットを美化している、だまされるな」とかいう人がいるらしいが、こういう論法をとる人は寂しい人。
私が「すごい」といっているのは、学を究めて、行によって有名になったホンマモンの高僧である。そして、その人を生み出したチベット僧院共同体もすごい、といっているのである。これについて反論ができるのならしてほしい。それをほめるのは、「エエことしている人に、エエことしはったなあ」と随喜をするためである。
わたしはあくまでも「今その人が良いことをした」ことを評価しているのであり、その人が属する集団のすべての人が善い人だといっているわけでもなく、逆に、その人が悪いことをしたら、その行為を指摘するまでで、その人の他の部分について必要以上に責め立てることもしないし、ましてやその人が属している集団すべてが責めを負わされるべきだ、とも思わない。
ひどいといって全てを否定するわけでも、その人が素晴らしいからといって、その人のすべてを無批判に受け入れているわけでもない。このようなものの考え方はチベット的評価方式という。この言葉、今考えついたんだけど(笑)。
チベット人なら誰でもしっている仏典の言葉に「金の真贋を確かめるために、焼いたりこすったりするように、仏の教えも論理によって検討してその教えの真贋を判断せよ」というものがある。
たとえば、ガワン先生が「ロサン・チューキゲルツェン(パンチェンラマ一世)はツォンカパの『五次第を明らかにする灯明』の内容を『五次第の心髄』で解説しているが、難解な箇所は飛ばしている」などとおっしゃっても、これは「自分はパンチェンラマ一世よりできる」などの気持ちでいっているのではなく、パンチェン一世を大学者として認めた上で、この部分は~というかたちで言及しているのである。
ガワン先生がなくなられた直後、平岡先生がダライ・ラマ法王と謁見した時、ガワン先生の遺影をごらんになられて、法王が涙ぐまれた。その時、平岡さんのお父上が
「同世代の人がなくなるのは悲しいですね」みたいなことを言うと法王は
「同世代がなくなって情で悲しいのではない。仏教を究めた碩学がいなくなったのが悲しいのだ」とおっしゃられたという。
たしかに、ガワン先生が若い人にやった説教の口癖も「仏教を学ぶときの動機で、自分の名前を挙げようとか有名になろうとかいう気持ちでやってはならない。私が法王に可愛がられるのは、私が学問と修業をきちんとやっているからである」であった。ガワン先生の評価基準も「修業と勉強」という善をなしたか否か。
ガワン先生の晩年、日本で療養中のガワン先生のもとに、リンリンポチェの転生者があしをのばしてお見舞いにこられた。よれよれだっガワン先生はその時、しゃきっと背筋を伸ばして、わざわざ日本までお見舞いにきてくれたリン・リンポチェに対して、
「若いうちはフラフラ外国に出歩かず、僧院にこもって修業と勉強をやれ」と説教したそうな(笑)。
こうして若い転生僧は高僧に叱責されるうちに、高僧になっていくものと、還俗して寂しい生涯をおくるものとに分かれるのである。転生僧であろうが、何であろが、評価の基準は「どういう善いことをやったか」。
このようなものの考え方には学ばされる。人は極端に走りがち。自分が一人気に入らないヤツがいると、坊主にくけりゃ袈裟までにくい、で、その人の属する集団、そのほかまですべて毛嫌いする。逆に好きとなると、何もかも全面的に受け入れて、金を貢いだりする。しかし、チベット人はもっと理性的に「今その人が何をやっているのか」を問題にする。
そして、何かを言挙げする時は、あの人はああいうワルいことをした、というよりも、いいことをした方をあげる。平岡さんがいうてはったけど、ダライ・ラマ法王はむろんのこと、ニンマ派のお坊さんでも、どこの宗派のお坊さんでも、「高僧」になると他宗派や他宗教人を悪くいう人はいないとのこと。なんで大阪弁がうつってるんや。
批判すべきところは批判し、評価すべきところは評価する。部分をもって全体を否定することも、全体をもって部分を否定することもなく、情やなれあいではなく、事実と結果が重視される、こんなチベット的評価方式をわたしもできるだけ身につけていきたい。
学生がツイッターの罠にはまって困り果てていたので、学生のためも考えて、仕方なくツイッタ始めました(かき氷屋か 笑)。
http://twitter.com/okamesaiko
さて、本題。
昨日アンビリバボーで、催眠療法で突然ネパールのタマン語をしゃべりだした主婦の話を特集していた。彼女はネパールに行ったことも、ネパール語を学んだこともないそうなので、「これは前世の人格ではないか」と番組スタッフが彼女の話の裏付けを求めて、ネパールにいくという話。
結局確たる証拠はつかめなかったのだが、彼女が正確なタマン方言をしゃべったという事実に対しては説明はつかなかったのであったった。
で、そのあともうすぐ南インドのギュメ寺に行くという平岡さんと電話で転生話をする。今回の訪問の楽しみとは、元ギュメの管長であるドルジェタシの転生と会うことという。
平岡さんが80年代後半にギュメ寺に留学(修業?)しにいっていた時の副管長さんがこのドルジェタシであった。彼はその後、管長になり、常日頃より「死ぬ時はガンで死にたい。〔卒中などの突然死と違って〕死ぬ準備ができるから」と言っていたそうだが、その言葉の通り1999年12月にガンでなくなった。
で、なくなる間際の死の床に、ダライ・ラマ法王のファックスが届き、そこには「師であるわたし(法王)と観音を一体とみなして死を迎えよ」という旨が記してあり、ドルジェタシ先生はそれを見た瞬間にトゥクダム(医学的には死んでいるのだが、まだ心臓に不滅のティクレがまわっているので腐らない状態)に入ったという。そして、亡くなられる前に、「私のものはそのままにしておけ」といかにもまた戻ってくるという遺言を残されたそうな。
平岡さんはその年もギュメを訪問していたのだが、彼が訪れた時はちょうどトゥクダムが終わった時点で、ドルジェタシ先生は右脇を下にした涅槃の寝姿で法衣をかけられていたそうな。
ドルジェタシ先生はギュメ(密教学堂)の管長になるくらいの方なので、チャクラの観想とかもばっちりできていて「チャクラは経典に書いてあるそのままの形だった」とおっしゃていたそうな(ちなみに経典に説明されているチャクラの形は、よく人体マンダラに描かれる蓮の花型ではない)。
このドルジェタシ先生が今回、10才くらいの少年になってギュメにもどってきたのである。平岡さんは前世の人格と密なおつきあいがあったそうなので、「少年の言動を左脇えぐりこむように観察してきてね」とお願いする。
そいえば、前のエントリーで、ゲルク派では修業と学問が人的評価の基準といったが、まだ何もはじめない子供のうちから転生僧は高僧に扱われるから、おかしいんじゃない?と思う方もいるかもしれない。
その答えはこうである。転生僧であるからこそ、人一倍「できて当たり前」というプレッシャーにさらされ、それに応えられないと、「あーあ」と言われて、なんちゃって転生僧として「今生はもう仕方ない、来世に期待する」とかいわれちゃうのである(笑)。
そして、たとえ、転生僧であっても、大学僧であっても、もし還俗してしまったら、その瞬間にそれまでの評価はがらっと変わる。その人が高潔な行いと言動をしているうちは人々はその人を評価するが、そうしなくなった瞬間に評価は変わるのだ。そこには情も馴れ合いもない。
その人の行いがあるだけ。
私が「チベット仏教の高僧はスゴーイ」というと、「還俗したヤツもいる」「詐欺師もいる」「いい加減なやつもいる」といい「チベットを美化している、だまされるな」とかいう人がいるらしいが、こういう論法をとる人は寂しい人。
私が「すごい」といっているのは、学を究めて、行によって有名になったホンマモンの高僧である。そして、その人を生み出したチベット僧院共同体もすごい、といっているのである。これについて反論ができるのならしてほしい。それをほめるのは、「エエことしている人に、エエことしはったなあ」と随喜をするためである。
わたしはあくまでも「今その人が良いことをした」ことを評価しているのであり、その人が属する集団のすべての人が善い人だといっているわけでもなく、逆に、その人が悪いことをしたら、その行為を指摘するまでで、その人の他の部分について必要以上に責め立てることもしないし、ましてやその人が属している集団すべてが責めを負わされるべきだ、とも思わない。
ひどいといって全てを否定するわけでも、その人が素晴らしいからといって、その人のすべてを無批判に受け入れているわけでもない。このようなものの考え方はチベット的評価方式という。この言葉、今考えついたんだけど(笑)。
チベット人なら誰でもしっている仏典の言葉に「金の真贋を確かめるために、焼いたりこすったりするように、仏の教えも論理によって検討してその教えの真贋を判断せよ」というものがある。
たとえば、ガワン先生が「ロサン・チューキゲルツェン(パンチェンラマ一世)はツォンカパの『五次第を明らかにする灯明』の内容を『五次第の心髄』で解説しているが、難解な箇所は飛ばしている」などとおっしゃっても、これは「自分はパンチェンラマ一世よりできる」などの気持ちでいっているのではなく、パンチェン一世を大学者として認めた上で、この部分は~というかたちで言及しているのである。
ガワン先生がなくなられた直後、平岡先生がダライ・ラマ法王と謁見した時、ガワン先生の遺影をごらんになられて、法王が涙ぐまれた。その時、平岡さんのお父上が
「同世代の人がなくなるのは悲しいですね」みたいなことを言うと法王は
「同世代がなくなって情で悲しいのではない。仏教を究めた碩学がいなくなったのが悲しいのだ」とおっしゃられたという。
たしかに、ガワン先生が若い人にやった説教の口癖も「仏教を学ぶときの動機で、自分の名前を挙げようとか有名になろうとかいう気持ちでやってはならない。私が法王に可愛がられるのは、私が学問と修業をきちんとやっているからである」であった。ガワン先生の評価基準も「修業と勉強」という善をなしたか否か。
ガワン先生の晩年、日本で療養中のガワン先生のもとに、リンリンポチェの転生者があしをのばしてお見舞いにこられた。よれよれだっガワン先生はその時、しゃきっと背筋を伸ばして、わざわざ日本までお見舞いにきてくれたリン・リンポチェに対して、
「若いうちはフラフラ外国に出歩かず、僧院にこもって修業と勉強をやれ」と説教したそうな(笑)。
こうして若い転生僧は高僧に叱責されるうちに、高僧になっていくものと、還俗して寂しい生涯をおくるものとに分かれるのである。転生僧であろうが、何であろが、評価の基準は「どういう善いことをやったか」。
このようなものの考え方には学ばされる。人は極端に走りがち。自分が一人気に入らないヤツがいると、坊主にくけりゃ袈裟までにくい、で、その人の属する集団、そのほかまですべて毛嫌いする。逆に好きとなると、何もかも全面的に受け入れて、金を貢いだりする。しかし、チベット人はもっと理性的に「今その人が何をやっているのか」を問題にする。
そして、何かを言挙げする時は、あの人はああいうワルいことをした、というよりも、いいことをした方をあげる。平岡さんがいうてはったけど、ダライ・ラマ法王はむろんのこと、ニンマ派のお坊さんでも、どこの宗派のお坊さんでも、「高僧」になると他宗派や他宗教人を悪くいう人はいないとのこと。なんで大阪弁がうつってるんや。
批判すべきところは批判し、評価すべきところは評価する。部分をもって全体を否定することも、全体をもって部分を否定することもなく、情やなれあいではなく、事実と結果が重視される、こんなチベット的評価方式をわたしもできるだけ身につけていきたい。
阿闍梨位顛末
ごろうちゃんの暑中お見舞い頁をあげました。
それとドクター中松の「金剛阿闍梨」位の件についての公式見解が出ました。
チベット仏教とその僧院文化を少しでもしるものであれば、チベットにおいて仏教とは一生をかけて学び・修業するものであり、僧院内での出世は完璧な実力主義であることをよく知っている。これはすなわち、チベット仏教界は、何の修業もしていない外国人に、いきなり位を与えたり、戒律を正式にとってもいない僧侶に僧衣や僧帽を与えたりもしないことを意味している。
チベットのゲルク派における僧の位は、金や力で買えるものではない。
どんなに高貴な生まれでも、お金持ちでも、権力者でも、戒律を護らなければ僧と言われることはないし、高僧と呼ばれるためには、講義・ディベート・著作のすべてが秀でた大学僧と大行者にならなければいけない。高僧という名誉は、金や権力や生まれでは手に入らないのである。
時々、講演を聴きに来て下さった方とかから「私はチベットのマンダラに宇宙を感じるんですけど、どうすればマンダラを学ぶことができますか」とか問いをされるけど、自分の答えはいつもこう。
「チベット語勉強して、正しく戒律をまもったチベットのお坊さんについて、そのお坊さんからマンダラの意味や瞑想法を学んでください」
宮崎駿がiPadブームを批判して「どこでもすぐに手にはいるような情報は実はたいしたものじゃない。〔本当に価値ある情報とは〕自分でその場に出かけていって想像力を注ぎ込んで初めて得られるものだ」といっていたけど、チベットの仏教なんてまさに、その簡単にてに入らない、とびこんで時間をかけてみにつけないとみにつかないスゴイ文化である。
画面をタッチして手に入るようなお手軽な文化ではないのである。
一方の日本の文化はどうだろうか。
日本仏教オタクのH君によると、戒律を護る僧が今よりはいた、近代以前の仏教界においても、高位の僧は高貴な出自の人がなるものであり、修業や学問によって高位にのぼりつめる僧はまれであったとか。
その状況は今はもっと悪化していて、今日本で一番名前を知られている僧侶といえば、芥川賞?をとった某小説家の僧侶とか、某天台宗の尼僧である (坊主頭の有名人はいるが、それは大概落語家である)。つまり、修業や教学で広く知られている坊さんって、いないんだな、これが。
そして、本屋に入ってみると、コメンテーターとか評論家とか、文化人と言われる人々が、どこぞの料亭で語りあった対談が、そのまま本になっている。先ほどの有名なお坊様たちもいろいろな雑誌で対談しまくっている。
こういう対談企画を作る人たちは、きっと、何か「異なった」もの同士をぶつけたら「新しい何か」が見えてくる、とかいう幻想をもっているのだろうけど、それはない。
だって、さっきの話にもどると、日本ではたとえ僧侶であっても、大半は修業も勉強もしていないし、コメンテーターとか評論家とかいっても体系的に何かの学問を究めた人でもなく、ようは本質的な意味ではみな同じ素人だからである。
同じようなものが、いくらぶつかっても新しい何かなんてでてこない。画面をタッチしてでてくるような情報同士をいくら戦わしても何もでてこないのと同じ。新しい刺激、新しい対談相手、新しい出来事を求めて、フラフラ外にむかっていっても、自分にも相手にも核となるものが何もないから、そこから何が始まることもない。
では対するチベット文化には核はあるだろうか、ないだろうか。
もちろん、核はありまくり。
ゲルク派の僧院文化は14世紀に登場したツォンカパがつくった哲学、僧院の体制を、21世紀の今も変えることなく、保持し続けている。
なぜ変わらないのか。
その哲学はあまりにも完成度が高いため、解説はできても、それを乗り越えて新しい体系を生み出す人がでてこないからである。僧院制度についても事情は同じであり、僧院内のカリキュラムや僧侶たちのヒエラルキーは昔とそのまま同じである(他の宗派にはまたそれぞれの事情があるのでまた今度)。
つまり、チベット人は自分たち自身で完成してるいので、その伝統を伝えていくのが一番効率いいわけで、外に学ぶ必要はないのである。
ドクター中松はチベットの高僧とあっても、チベット仏教をまじめに学ぼうとも、理解しようともした形跡がない。つまり、彼らがチベットの高僧にコンタクトしたのは、無数の対談本の企画者の発想なんかと同じで、何かかわった人と出会ったことを、自分の信者に対してアピールすることに意味があったのだろう。
ドクターのお仲間のなにがしかが、「チベット人の格好して〔ドクター中松が〕秋葉原で演説をしたら、チベットのことを皆が知ってくれるでしょう?」と、「ありがたく思えと」いわんばかりの言い訳をいっていたけど、あのような形でねりあるいて、日本人にチベット仏教の価値が伝わるわけもなく、言うまでもなくあれは百害あって一理なし。この件は明らかに日本人である彼らがチベットを利用した構図が浮かび上がる。
ガンデンティパもカルマパもまさか自分たちがこんな形で日本で利用されるとは思ってもいなかっただろう。これにこりて、チベットの高僧たちは、日本人がもってくる内容の分からない書面にサインをしないこと、間にたつ人間を選ぶことをおすすめしたい。
チベット人、警戒心なさすぎ。こういうところが亡国の一因にもなっているのだろうなあ。
それとドクター中松の「金剛阿闍梨」位の件についての公式見解が出ました。
チベット仏教とその僧院文化を少しでもしるものであれば、チベットにおいて仏教とは一生をかけて学び・修業するものであり、僧院内での出世は完璧な実力主義であることをよく知っている。これはすなわち、チベット仏教界は、何の修業もしていない外国人に、いきなり位を与えたり、戒律を正式にとってもいない僧侶に僧衣や僧帽を与えたりもしないことを意味している。
チベットのゲルク派における僧の位は、金や力で買えるものではない。
どんなに高貴な生まれでも、お金持ちでも、権力者でも、戒律を護らなければ僧と言われることはないし、高僧と呼ばれるためには、講義・ディベート・著作のすべてが秀でた大学僧と大行者にならなければいけない。高僧という名誉は、金や権力や生まれでは手に入らないのである。
時々、講演を聴きに来て下さった方とかから「私はチベットのマンダラに宇宙を感じるんですけど、どうすればマンダラを学ぶことができますか」とか問いをされるけど、自分の答えはいつもこう。
「チベット語勉強して、正しく戒律をまもったチベットのお坊さんについて、そのお坊さんからマンダラの意味や瞑想法を学んでください」
宮崎駿がiPadブームを批判して「どこでもすぐに手にはいるような情報は実はたいしたものじゃない。〔本当に価値ある情報とは〕自分でその場に出かけていって想像力を注ぎ込んで初めて得られるものだ」といっていたけど、チベットの仏教なんてまさに、その簡単にてに入らない、とびこんで時間をかけてみにつけないとみにつかないスゴイ文化である。
画面をタッチして手に入るようなお手軽な文化ではないのである。
一方の日本の文化はどうだろうか。
日本仏教オタクのH君によると、戒律を護る僧が今よりはいた、近代以前の仏教界においても、高位の僧は高貴な出自の人がなるものであり、修業や学問によって高位にのぼりつめる僧はまれであったとか。
その状況は今はもっと悪化していて、今日本で一番名前を知られている僧侶といえば、芥川賞?をとった某小説家の僧侶とか、某天台宗の尼僧である (坊主頭の有名人はいるが、それは大概落語家である)。つまり、修業や教学で広く知られている坊さんって、いないんだな、これが。
そして、本屋に入ってみると、コメンテーターとか評論家とか、文化人と言われる人々が、どこぞの料亭で語りあった対談が、そのまま本になっている。先ほどの有名なお坊様たちもいろいろな雑誌で対談しまくっている。
こういう対談企画を作る人たちは、きっと、何か「異なった」もの同士をぶつけたら「新しい何か」が見えてくる、とかいう幻想をもっているのだろうけど、それはない。
だって、さっきの話にもどると、日本ではたとえ僧侶であっても、大半は修業も勉強もしていないし、コメンテーターとか評論家とかいっても体系的に何かの学問を究めた人でもなく、ようは本質的な意味ではみな同じ素人だからである。
同じようなものが、いくらぶつかっても新しい何かなんてでてこない。画面をタッチしてでてくるような情報同士をいくら戦わしても何もでてこないのと同じ。新しい刺激、新しい対談相手、新しい出来事を求めて、フラフラ外にむかっていっても、自分にも相手にも核となるものが何もないから、そこから何が始まることもない。
では対するチベット文化には核はあるだろうか、ないだろうか。
もちろん、核はありまくり。
ゲルク派の僧院文化は14世紀に登場したツォンカパがつくった哲学、僧院の体制を、21世紀の今も変えることなく、保持し続けている。
なぜ変わらないのか。
その哲学はあまりにも完成度が高いため、解説はできても、それを乗り越えて新しい体系を生み出す人がでてこないからである。僧院制度についても事情は同じであり、僧院内のカリキュラムや僧侶たちのヒエラルキーは昔とそのまま同じである(他の宗派にはまたそれぞれの事情があるのでまた今度)。
つまり、チベット人は自分たち自身で完成してるいので、その伝統を伝えていくのが一番効率いいわけで、外に学ぶ必要はないのである。
ドクター中松はチベットの高僧とあっても、チベット仏教をまじめに学ぼうとも、理解しようともした形跡がない。つまり、彼らがチベットの高僧にコンタクトしたのは、無数の対談本の企画者の発想なんかと同じで、何かかわった人と出会ったことを、自分の信者に対してアピールすることに意味があったのだろう。
ドクターのお仲間のなにがしかが、「チベット人の格好して〔ドクター中松が〕秋葉原で演説をしたら、チベットのことを皆が知ってくれるでしょう?」と、「ありがたく思えと」いわんばかりの言い訳をいっていたけど、あのような形でねりあるいて、日本人にチベット仏教の価値が伝わるわけもなく、言うまでもなくあれは百害あって一理なし。この件は明らかに日本人である彼らがチベットを利用した構図が浮かび上がる。
ガンデンティパもカルマパもまさか自分たちがこんな形で日本で利用されるとは思ってもいなかっただろう。これにこりて、チベットの高僧たちは、日本人がもってくる内容の分からない書面にサインをしないこと、間にたつ人間を選ぶことをおすすめしたい。
チベット人、警戒心なさすぎ。こういうところが亡国の一因にもなっているのだろうなあ。
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