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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2010/07/03(土)   CATEGORY: 未分類
砂マンダラ・トーク
 金曜日は大学で授業を三コマやったあと、ダッシュで有楽町にむかい、あいだみつを美術館で作られているマンダラの解説。今年はダライ・ラマ法王生誕75周年ということで、七月六日の誕生日にあわせた砂マンダラ作成ならびに記念連続講演なのである。

 最初は授業の直後で疲れているからムリとお断りしたのだが、ヴォランティアの講師もそうそういないだろうし、そもそもマンダラを解説する人がいなければせっかく砂マンダラをつくっても来た人もわけわんないだろうし、と引き受けることとする。しかし、会場についてみたらタシルンポのお坊さんが、砂マンダラを前にちゃんと胎蔵界マンダラの解説をしていた。私の存在意味なし(笑)。

 ていうか、関係者がみつからず、パソコンの設定をどこに頼めばいいかわからない。まぎれこんだコーナーでカメラマンの野田雅也さんがなぜかバター茶のバーテンをやっているのを発見。学園祭か。

 つか、会場狭い。お客さんに立ち見とか地べた座りとかさせて、もうちょっとどうにかならないものでしょうか。タシルンポのお坊さんが胎蔵界の説明をしていたので、私はチベット文化においてマンダラがどういう意味を持つのかという一般的なお話に重点をおくことにする。

 チベットではマンダラは修業のため、あるいは灌頂などの入門儀礼のため作られる。さらに言えば、僧院内で唱えられる声明、舞踊、音楽などもすべて仏教の修業の一環としてなされるもので、それ単体として鑑賞の対象にするものではない。

 マンダラの場合も、灌頂儀礼などの場合、導師が聴衆に対して仏教を説き、聴衆が一定の理解に達したと思った瞬間にマンダラの構造を明らかにする。だから、本来は今回のイベントのように修業や儀式と切り離してただマンダラをつくり、それを多くの人の眼にふれさせるということは伝統的には許されることではない。

 私は本当は阿修羅王を博物館でみるのもあまり好ましいことではないと思っている。仏像は本来の伝統の文脈の中で拝されるのが望ましく、美しい女性を鑑賞するように仏像についてあれこれ言及するのはもう末世もきわまった感がする。

 日本仏教はいまや形骸化してしまったので、このような私の感覚はなかなか理解されないかと思うが、たとえばキリスト教世界において、マリア像が単なる美術品として博物館に展示されて、衆人環視にさらされるような状況を考えたら、その違和感は分かるかと思う。マリア様をキリスト教の伝統世界で見上げる人々にとっては、ミケランジェロが作った芸術性の高いマリア像も、スペインの田舎の祠の中にあるなもない素朴なマリア像も本質的には変わらないものであろう。

 チベットにおけるマンダラも美しいけれど、見せ物ではない。だから本来このようなピンでつくることはしないものだが、まあこんな状況(国がなくなってしまって食べていけない状況)なのでこのようなイベントが行われているのである。

 でも、声明を組み合わせたり、お坊さんがマンダラの説明をしたりしているので、できる範囲内でがんばっているとは思う。
 

 マンダラの形は、世界の中心にある超高山(須弥山)、そのてっぺんにある転輪聖王の宮殿をかたどっている。つまり、マンダラは外的には「全世界」を表している。

 しかして、マンダラは、全世界を表すと同時に、われわれの意識が修業の結果、仏様の意識に変わった時の脳内構造をも表現している。

 チベットのマンダラはどのようなものであれ、必ず東西南北の四方を四色に塗り分け、中央に本尊を据えその四方に四人の仏を据えるが、これは、「根源的な意識」とそこから派生する四つの意識を示している。つまり、世界を表すと同時に、内的な意識の構造をも表現しているのである。

 チベットでは王宮も寺院もこのマンダラ型に建てられるので、そのお寺で一番高位の僧は本尊とみなされ、その寺院の一番上にお部屋がつくられる、などのマニアむけ話をする。
 
 授業の後で疲労困憊だったため、かなりいい加減な感じになったと思うが、疲れていたので許して下さい。

 平日の夜遅くであるにも関わらず、多くの方におこしいただき本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

 砂マンダラは日曜日はこわされます。午後二時から僧侶による舞踊、三時から砂マンダラ完成法要、ならびに、破壇(はやっ)、四時半から川にながしにいくとのことです。時間に余裕のあるかたは完成したマンダラを是非みにいってみてください。
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