母語を失うということ
同僚にチベット人と結婚した方がおり、教授会でたまたま席がとなりあったので、「息子さん元気?」とか聞いてみたら、その方が、「息子には妻の郷里でラマにつけてもらったチベット名があるのだが、私は漢字の当て字しか分からない、妻はチベット語はしゃべれるけど、書くことはではない」というので、教授会資料にチベット文字で彼の息子さんの名前をつづり、その部分だけ切り取り「これでいいと思うけど、この夏郷里にもどったらラマに確認をとってくれ」と渡す。
彼の奥さんが特殊なのではない。
今やどれだけの多くの本土チベット人が、チベット語の読み書き能力を失っているだろう。チベット文字は発音とスペルの差が大きいので、しゃべるからといって書ける訳でなく、かつ、ちょっと教養があっても、綴りを正確にできる人は少ない。
日本で学力のない学生が漢字が書けなくてカタカナを多用する文章を書くようなあんな感じ。日本の学生は単なる学力不足だが、チベット人の読み書き能力の低下は漢語社会の拡大によって、チベット人が公的な場面でチベット文字を使用する機会を失ってしまったからである。
スリランカ独立の父、アナガリカ・ダルマパーラによると、彼は小さい頃はデイヴィッドとイギリス名で呼ばれ、学校や公共機関で用いられていた言葉もすべて英語だったそうな。ガンジーの自伝中にも、ロンドン留学中に、自分がインドの言葉ができないことを恥じたという件があるので、母語の読み書き能力は怪しかったのだろう。
植民地になるということはそういうことなのだ。
チベット語の読み書き能力は、じつはもう本土のチベット人僧侶と、難民チベット人とガイジン学者が、ほそぼそと支えているという状態なのだ。
そいえば、世界放浪中の院生Mが外国のゲスト・ハウスでチベット文字のテクストを読んでいると、同い年のイギリス人が、
「それチベット語?ボクもダラムサラで仏教を学んでいるんだ」と話しかけてきた。で、二人でそのテクストを読んでみたら、イギリス人の方が読めたのだそうな。院生Mによると、イギリス人の方が仏教に対する教養があるからだろう、とのこと。
どんな言語でもそうであろうが、アルファベットが読めて辞書がひけたら、その言語が読めるというものではない。
たとえば、我々は日本語を母語とするが、日本語で書かれていても、理系の論文や、難解な哲学はその背後にある知識がないと読めないのと同じである。
チベット文化はとくにあらゆる面で仏教と関係しているので、仏教に対する知識、それによって築かれたチベット文化に対する理解がなければ、正確に読めるはずもない。
昨今中国からチベット語文献の漢訳が多数出版されており、多くの若手学者たちはこの漢訳を用いて研究するが(情けない!)、この漢訳には言葉の説明、その背後にある文化的な諸状況にたいして1つも解説を行っていない、ただのベタ訳である。そのため当然のことながら、特殊な意味をもつ言葉も漢訳されると同時には普通名詞となってその意味は消滅し、そこから何か論を立てることなど望みようもない。
院生Mはこの春、チベット語の綴りを覚え、辞書がひけるようになった時、
「チベット語簡単じゃーん」
と言って私のこめかみに青筋を浮かせたが、今や1つの言語とその言語が表す文化を理解することが「簡単」と言えるようなもんでないことに気づいたはずである。
ところで、院生Mとそのイギリス人がチベット国旗をはさんで記念写真をとっているが、このチベット国旗、Mが日本から持ち込んだものだろうか? 頼むから、それもって本土に行くなよ、逮捕されるから。彼の旅行が進むにつれて、この国旗を伴う記念写真が増えそうな予感。
彼の奥さんが特殊なのではない。
今やどれだけの多くの本土チベット人が、チベット語の読み書き能力を失っているだろう。チベット文字は発音とスペルの差が大きいので、しゃべるからといって書ける訳でなく、かつ、ちょっと教養があっても、綴りを正確にできる人は少ない。
日本で学力のない学生が漢字が書けなくてカタカナを多用する文章を書くようなあんな感じ。日本の学生は単なる学力不足だが、チベット人の読み書き能力の低下は漢語社会の拡大によって、チベット人が公的な場面でチベット文字を使用する機会を失ってしまったからである。
スリランカ独立の父、アナガリカ・ダルマパーラによると、彼は小さい頃はデイヴィッドとイギリス名で呼ばれ、学校や公共機関で用いられていた言葉もすべて英語だったそうな。ガンジーの自伝中にも、ロンドン留学中に、自分がインドの言葉ができないことを恥じたという件があるので、母語の読み書き能力は怪しかったのだろう。
植民地になるということはそういうことなのだ。
チベット語の読み書き能力は、じつはもう本土のチベット人僧侶と、難民チベット人とガイジン学者が、ほそぼそと支えているという状態なのだ。
そいえば、世界放浪中の院生Mが外国のゲスト・ハウスでチベット文字のテクストを読んでいると、同い年のイギリス人が、
「それチベット語?ボクもダラムサラで仏教を学んでいるんだ」と話しかけてきた。で、二人でそのテクストを読んでみたら、イギリス人の方が読めたのだそうな。院生Mによると、イギリス人の方が仏教に対する教養があるからだろう、とのこと。
どんな言語でもそうであろうが、アルファベットが読めて辞書がひけたら、その言語が読めるというものではない。
たとえば、我々は日本語を母語とするが、日本語で書かれていても、理系の論文や、難解な哲学はその背後にある知識がないと読めないのと同じである。
チベット文化はとくにあらゆる面で仏教と関係しているので、仏教に対する知識、それによって築かれたチベット文化に対する理解がなければ、正確に読めるはずもない。
昨今中国からチベット語文献の漢訳が多数出版されており、多くの若手学者たちはこの漢訳を用いて研究するが(情けない!)、この漢訳には言葉の説明、その背後にある文化的な諸状況にたいして1つも解説を行っていない、ただのベタ訳である。そのため当然のことながら、特殊な意味をもつ言葉も漢訳されると同時には普通名詞となってその意味は消滅し、そこから何か論を立てることなど望みようもない。
院生Mはこの春、チベット語の綴りを覚え、辞書がひけるようになった時、
「チベット語簡単じゃーん」
と言って私のこめかみに青筋を浮かせたが、今や1つの言語とその言語が表す文化を理解することが「簡単」と言えるようなもんでないことに気づいたはずである。
ところで、院生Mとそのイギリス人がチベット国旗をはさんで記念写真をとっているが、このチベット国旗、Mが日本から持ち込んだものだろうか? 頼むから、それもって本土に行くなよ、逮捕されるから。彼の旅行が進むにつれて、この国旗を伴う記念写真が増えそうな予感。
チベット旧社会に学べ
毎日のように続く真っ白な猛暑日、ジブリ映画の封切り、蝉がなきはじめ、いよいよ夏休みである。
ゲストハウスで寝泊まりしていて住所不定の院生のMは、夏休みに入ると習性で長い旅にでる。
その際、これまではゲストハウスをまるめこんで荷物をおかせてもらっていたらしいが、今年はゲストハウスはお客さんで一杯で、荷物をおけるような状況でないらしい。
そこで、自転車はH君のいえ、洋服類はKの家、チベット関係の本は私の研究室へと勝手に決めて、荷物の移動をはじめた。ここまで荷物が増えたのなら、もうゲストハウス暮らしはムリである。迷惑だからどこかに部屋借りろ。
とはいっても、院生Mはあまりにも自己中心的な性格であるため、「面倒臭い」の一言ですべての思考を停止する。この性格は至る所で物議をかもしており、Mに迷惑をかけられた人々の不満はいきおい躾をしない私に向けられる。
躾をしないのではなく、できないのである。
Mは自分にとって役に立つこと以外はすべて耳に入れないので、忠言なんかが耳に残るはずもない。長い目でみればまわりの意見を聞かないのは、彼にとってのデメリットなのに、そこに気づかないところがアホである。とにかくどんな生き方をしてもいいが、人に迷惑をかけることだけはやめてくれ。ああ、世間の親の気持ちが少しだけ分かってきた。
夏休みに入ると、何年か前までは「これで研究ができる」と嬉しいだけだったが、ここ数年夏の暑さに体が負けるので、梅雨が明けると気が重い。
入道雲を見上げて夏休みの入りを喜んだ、あのパワフルな小学生時代が懐かしいわい。
この時期とにかく余りに暑いので、我が家の妖精さんたち(オカメインコ、セキセイインコ、猫)の熱射病が心配。温度計と湿度計をにらみながら、少しでも涼しい部屋に移動させる。そして、どうしようもない温度に達すると除湿をかけた部屋にお入り頂くこととなる。
おかげで、宅配の人が、「エアコンついていたので在宅だと思って、何度もベルをならしました」と恨みがましくいうことになる。
本当はこんな非エコをしたくないのだが、妖精さんたちの命をまもるためには仕方ない。無精な私にしては珍しく、妖精さんたちの部屋の窓にゴーヤでエコカーテンをつくりはじめたのだが、いかんせんはじめたのが梅雨明けからなので、殺人光線をはばむほどのボリュームはいまだない。
こんなクソ暑いのも人間が六十数億も増えすぎて、森林を伐採して、エアコンぼーぼーつけるからである。いい加減もう成長とか、発展とか、開発とか、消費とか、何かしてくれ、何かちょうだい、削減するなら文化教養部門、とかいう、一人一人の価値観を改める時に来ていよう。
ではどう変えればいいのか。そう五十年前のチベットを手本にできるだけそこに近づいて行く努力をするのだ。かつてチベットでは成人男性の三割は僧院にはいって生涯を独身で過ごし、残る社会生活を営む人々も姉妹は一人の夫を、兄弟は一人の妻を共有していた。一世代の結婚を一組にして人口爆発と資産の分割を防ぎ、人口を一定数に保ってきたのである。
チベットの僧院は一握りの天才とそれを支えるその他大勢の善良な人々によって構成される。勉強におちこぼれた人は僧院内の様々な仕事をこなして、それ以外の時はマントラ唱えて精神修養に励んでいきるので、社会にでて結婚や事業に失敗して孤独死することを考えたらずっと幸せな日々である。
今の社会だったら、ニートとかひきこもりになっている人とかも、居場所を見つけることができるし、僧院は修業と学習の場だから、就職にあぶれたオーバードクターも衣食住の心配をすることなく生涯研究が続けられる。
80年代につくられたBBCのドキュメンタリー・フィルムを見ると、イギリス人でギャンツェに滞在していたヒュー・リチャードソンも、ラサに亡命してきたオーストリア人のハインリッヒ・ハラーも、「チベットは完全に中世社会であり、物質的には遅れているが、組織化は周到に行き届いており、高度に洗練された完成された社会だ」と賞賛を惜しまない。
実際、そのカラーフィルムにうつる1930年代から59年までの間のチベット人は乞食から貴族にいたるまで、みな楽しそうに笑っている(チベット人は善行を積むために乞食に布施をしまくるので、乞食が楽して生きられた 笑)。チベット人は仏教徒なので虫一匹殺さないようにつとめるため、高原にも豊かな森にも動植物が満ちあふれていた。
虫一匹殺さないように生きてきたそのチベット人は1950年以後、中国によって虫のように殺されていった。イギリス人が精神的に進んだ豊かな社会とみたチベットは、共産主義の中国人には「遅れた化石のような社会」とさげすむべき対象として映ったのである。
さげすまれるべきは、この物質の発展を至上とする近代社会であろう。
ダライ・ラマがいつも次のようにおっしゃっている。「科学の発展は人間の苦痛を取り除いてきたので、否定するべきものではない。しかしこの社会に、自制、道徳、精神の陶冶などというものが加わることによって、より人は幸せに生きられるのではないか。」
この外に向かって求めすぎる心を、自分の内に向けて自分の問題に気づく時、この行き詰まった社会にも一筋の光明がさしこんでくることになるのである。
ゲストハウスで寝泊まりしていて住所不定の院生のMは、夏休みに入ると習性で長い旅にでる。
その際、これまではゲストハウスをまるめこんで荷物をおかせてもらっていたらしいが、今年はゲストハウスはお客さんで一杯で、荷物をおけるような状況でないらしい。
そこで、自転車はH君のいえ、洋服類はKの家、チベット関係の本は私の研究室へと勝手に決めて、荷物の移動をはじめた。ここまで荷物が増えたのなら、もうゲストハウス暮らしはムリである。迷惑だからどこかに部屋借りろ。
とはいっても、院生Mはあまりにも自己中心的な性格であるため、「面倒臭い」の一言ですべての思考を停止する。この性格は至る所で物議をかもしており、Mに迷惑をかけられた人々の不満はいきおい躾をしない私に向けられる。
躾をしないのではなく、できないのである。
Mは自分にとって役に立つこと以外はすべて耳に入れないので、忠言なんかが耳に残るはずもない。長い目でみればまわりの意見を聞かないのは、彼にとってのデメリットなのに、そこに気づかないところがアホである。とにかくどんな生き方をしてもいいが、人に迷惑をかけることだけはやめてくれ。ああ、世間の親の気持ちが少しだけ分かってきた。
夏休みに入ると、何年か前までは「これで研究ができる」と嬉しいだけだったが、ここ数年夏の暑さに体が負けるので、梅雨が明けると気が重い。
入道雲を見上げて夏休みの入りを喜んだ、あのパワフルな小学生時代が懐かしいわい。
この時期とにかく余りに暑いので、我が家の妖精さんたち(オカメインコ、セキセイインコ、猫)の熱射病が心配。温度計と湿度計をにらみながら、少しでも涼しい部屋に移動させる。そして、どうしようもない温度に達すると除湿をかけた部屋にお入り頂くこととなる。
おかげで、宅配の人が、「エアコンついていたので在宅だと思って、何度もベルをならしました」と恨みがましくいうことになる。
本当はこんな非エコをしたくないのだが、妖精さんたちの命をまもるためには仕方ない。無精な私にしては珍しく、妖精さんたちの部屋の窓にゴーヤでエコカーテンをつくりはじめたのだが、いかんせんはじめたのが梅雨明けからなので、殺人光線をはばむほどのボリュームはいまだない。
こんなクソ暑いのも人間が六十数億も増えすぎて、森林を伐採して、エアコンぼーぼーつけるからである。いい加減もう成長とか、発展とか、開発とか、消費とか、何かしてくれ、何かちょうだい、削減するなら文化教養部門、とかいう、一人一人の価値観を改める時に来ていよう。
ではどう変えればいいのか。そう五十年前のチベットを手本にできるだけそこに近づいて行く努力をするのだ。かつてチベットでは成人男性の三割は僧院にはいって生涯を独身で過ごし、残る社会生活を営む人々も姉妹は一人の夫を、兄弟は一人の妻を共有していた。一世代の結婚を一組にして人口爆発と資産の分割を防ぎ、人口を一定数に保ってきたのである。
チベットの僧院は一握りの天才とそれを支えるその他大勢の善良な人々によって構成される。勉強におちこぼれた人は僧院内の様々な仕事をこなして、それ以外の時はマントラ唱えて精神修養に励んでいきるので、社会にでて結婚や事業に失敗して孤独死することを考えたらずっと幸せな日々である。
今の社会だったら、ニートとかひきこもりになっている人とかも、居場所を見つけることができるし、僧院は修業と学習の場だから、就職にあぶれたオーバードクターも衣食住の心配をすることなく生涯研究が続けられる。
80年代につくられたBBCのドキュメンタリー・フィルムを見ると、イギリス人でギャンツェに滞在していたヒュー・リチャードソンも、ラサに亡命してきたオーストリア人のハインリッヒ・ハラーも、「チベットは完全に中世社会であり、物質的には遅れているが、組織化は周到に行き届いており、高度に洗練された完成された社会だ」と賞賛を惜しまない。
実際、そのカラーフィルムにうつる1930年代から59年までの間のチベット人は乞食から貴族にいたるまで、みな楽しそうに笑っている(チベット人は善行を積むために乞食に布施をしまくるので、乞食が楽して生きられた 笑)。チベット人は仏教徒なので虫一匹殺さないようにつとめるため、高原にも豊かな森にも動植物が満ちあふれていた。
虫一匹殺さないように生きてきたそのチベット人は1950年以後、中国によって虫のように殺されていった。イギリス人が精神的に進んだ豊かな社会とみたチベットは、共産主義の中国人には「遅れた化石のような社会」とさげすむべき対象として映ったのである。
さげすまれるべきは、この物質の発展を至上とする近代社会であろう。
ダライ・ラマがいつも次のようにおっしゃっている。「科学の発展は人間の苦痛を取り除いてきたので、否定するべきものではない。しかしこの社会に、自制、道徳、精神の陶冶などというものが加わることによって、より人は幸せに生きられるのではないか。」
この外に向かって求めすぎる心を、自分の内に向けて自分の問題に気づく時、この行き詰まった社会にも一筋の光明がさしこんでくることになるのである。
「解放」言説のまやかし
日曜日、ブログラムが面白そうだったので第八回目になる文京区民センターで行われているチベット勉強会に行く。プログラムはこの通り。
(1)特別講義「“チベット解放”の言説をめぐって」講師:大川謙作
(2)映像『チベット〜失われた世界 II』(イギリス制作)
(3)特別文化講義「チベットの芸能と民族楽器」講師:小野田俊蔵・テンジン・トゥンドゥップ[チベット漫談・歌手]
(4)最新チベット情報「 ジェグド大地震~今 私たちにできること~」進行:長田幸康
(1) 大川さんは新進気鋭の学者さん。論点は二つあり、最初のは中国がよく口にする「チベットを解放してやった」というその解放の対象が、自分たちの都合でころころ変わっているということ。
具体的には最初は帝国主義・国民党からの解放といってダライ・ラマ政権を批判していなかったにもかかわらず、ダライ・ラマが1959年に亡命したとたんに、旧体制を批判しはじめて、封建社会からの解放とか言い出したこと。日本において必要なくなった大型公共事業などを継続する時に、お役人様が後つけの理屈をひねりだしていくがアレと同じ。公共事業のゴリ押しでは人は死なないが、中国様によるチベット侵略の既成事実化は、大量の人の死と文化財の破壊をもたらし、洗練されたひとつの文明を終わらせようとしている。
大義なきチベット侵略をいい加減反省してくれませんかね。
後半の論点は、農奴制について。農奴という言葉は漢語からの直訳で、チベットに伝統的にある言葉ではミセーという。しかし、チベットでは広大な土地に人がちょっとしか住んでいないため、慢性的労働力不測のチベッとにおいてミセーの立場は強い。また、ミセーが出家すれば、僧院の中での出世も可能だし、僧官になれば高級官僚にもなれるので、まったく職業選択の自由がないわけでもない。また、ミセーはネパール人、在チベット四川人、いすらーむや酒屋のオヤジなども含む広い概念、という。
中立的・学術的にチベットの近現代史に取り組む若い世代の学者がでてきたことはとてもいいこと。これからも末永く活躍してほしい。
(2) 次はイギリスが撮影した旧社会のカラーフィルム。お坊さんは今と同じだけど、貴族のヘアスタイルとか装束とかが伝統的なものでしびれるう。つか、法王若い。うちの院生Mにかぶってみえる。でも院生Mはまったく修行していないから、法王と同じ年になっても似ても似つかない大人になるんだろうなあ。
(3) 歌って踊れる大学教授小野田先生の解説とともに、在豊橋のチベット人、タシ・トンドゥプさんによる、チベット漫才。小野田先生が漫才のテクストを和訳してくだっさいるので大体の内容はわかる。これがクチが悪くて面白い。古典落語をこよなく愛する自分は何かとてもこの芸能に心奪われるところがあった。この芸人さん、日本語流暢になったら吉本でられるよ。
(4) ギグド大地震、今私たちにできること。
Tibetan Village Projectという欧米のNGOが震災後十日にとった映像をまずみる。現地は爆撃の後みたい。地震から数ヶ月たったいまは、寒くてコンクリートが固まらない冬がくる前に、あるいはチベット人に対する虐待をまわりからあれこれいわれないように、中国政府はものすごい速さで瓦礫を片付けて、今中心地は更地になっているという。古い町なので土地の権利関係がはっきりしないため、土地は強制収用しているとのこと。
地震から一ヶ月は医療費がタダだったらしいが、その後は有料になったため、当然けが人は病院にかかることができないという。被災地域は広大だが街中に支援は集中し村レベルには届いていない。「救災」の青いテントは一家族にいっこと決まっているので家族の多いチベット人の実情にあっていないそうな。
たくさんのNGOが現地に入っているが、当局は現地に入った人を把握していて、その情報を外にもらすことをとても気にしているという。で、そんな状態なので、かくかくしかじかのルートを使って支援金を届けます、とはっきりいえません。しかし、集めたお金はかならず現地に届くようにしますので、カンパお願いします、とのこと。
余談になるが、自分はパソコンでノートとるので、バックライトがジャマにならないようにと一番後ろの席に陣取り、後ろにだれもいないのをいいことに、首のストレッチとかしていたら、ひょっと後ろをみたら、歌って踊れる大学教授が出番が終わって補助いすにすわっていらした。・・・・。
恥ずかしかった。
(1)特別講義「“チベット解放”の言説をめぐって」講師:大川謙作
(2)映像『チベット〜失われた世界 II』(イギリス制作)
(3)特別文化講義「チベットの芸能と民族楽器」講師:小野田俊蔵・テンジン・トゥンドゥップ[チベット漫談・歌手]
(4)最新チベット情報「 ジェグド大地震~今 私たちにできること~」進行:長田幸康
(1) 大川さんは新進気鋭の学者さん。論点は二つあり、最初のは中国がよく口にする「チベットを解放してやった」というその解放の対象が、自分たちの都合でころころ変わっているということ。
具体的には最初は帝国主義・国民党からの解放といってダライ・ラマ政権を批判していなかったにもかかわらず、ダライ・ラマが1959年に亡命したとたんに、旧体制を批判しはじめて、封建社会からの解放とか言い出したこと。日本において必要なくなった大型公共事業などを継続する時に、お役人様が後つけの理屈をひねりだしていくがアレと同じ。公共事業のゴリ押しでは人は死なないが、中国様によるチベット侵略の既成事実化は、大量の人の死と文化財の破壊をもたらし、洗練されたひとつの文明を終わらせようとしている。
大義なきチベット侵略をいい加減反省してくれませんかね。
後半の論点は、農奴制について。農奴という言葉は漢語からの直訳で、チベットに伝統的にある言葉ではミセーという。しかし、チベットでは広大な土地に人がちょっとしか住んでいないため、慢性的労働力不測のチベッとにおいてミセーの立場は強い。また、ミセーが出家すれば、僧院の中での出世も可能だし、僧官になれば高級官僚にもなれるので、まったく職業選択の自由がないわけでもない。また、ミセーはネパール人、在チベット四川人、いすらーむや酒屋のオヤジなども含む広い概念、という。
中立的・学術的にチベットの近現代史に取り組む若い世代の学者がでてきたことはとてもいいこと。これからも末永く活躍してほしい。
(2) 次はイギリスが撮影した旧社会のカラーフィルム。お坊さんは今と同じだけど、貴族のヘアスタイルとか装束とかが伝統的なものでしびれるう。つか、法王若い。うちの院生Mにかぶってみえる。でも院生Mはまったく修行していないから、法王と同じ年になっても似ても似つかない大人になるんだろうなあ。
(3) 歌って踊れる大学教授小野田先生の解説とともに、在豊橋のチベット人、タシ・トンドゥプさんによる、チベット漫才。小野田先生が漫才のテクストを和訳してくだっさいるので大体の内容はわかる。これがクチが悪くて面白い。古典落語をこよなく愛する自分は何かとてもこの芸能に心奪われるところがあった。この芸人さん、日本語流暢になったら吉本でられるよ。
(4) ギグド大地震、今私たちにできること。
Tibetan Village Projectという欧米のNGOが震災後十日にとった映像をまずみる。現地は爆撃の後みたい。地震から数ヶ月たったいまは、寒くてコンクリートが固まらない冬がくる前に、あるいはチベット人に対する虐待をまわりからあれこれいわれないように、中国政府はものすごい速さで瓦礫を片付けて、今中心地は更地になっているという。古い町なので土地の権利関係がはっきりしないため、土地は強制収用しているとのこと。
地震から一ヶ月は医療費がタダだったらしいが、その後は有料になったため、当然けが人は病院にかかることができないという。被災地域は広大だが街中に支援は集中し村レベルには届いていない。「救災」の青いテントは一家族にいっこと決まっているので家族の多いチベット人の実情にあっていないそうな。
たくさんのNGOが現地に入っているが、当局は現地に入った人を把握していて、その情報を外にもらすことをとても気にしているという。で、そんな状態なので、かくかくしかじかのルートを使って支援金を届けます、とはっきりいえません。しかし、集めたお金はかならず現地に届くようにしますので、カンパお願いします、とのこと。
余談になるが、自分はパソコンでノートとるので、バックライトがジャマにならないようにと一番後ろの席に陣取り、後ろにだれもいないのをいいことに、首のストレッチとかしていたら、ひょっと後ろをみたら、歌って踊れる大学教授が出番が終わって補助いすにすわっていらした。・・・・。
恥ずかしかった。
白雪姫と銀行
銀行から電話がかかってきて、時間があったら会えないかと言われる。いつもはガン無視だがたまたま用があったので、ついうっかり「会う」といってしまった。
で、いったら、当座に入ってるお金を何かに運用しないかという。
私「そういわれましてもねー、何年あずけようが金利なんて零コンマの世界でしょ。前にそういったら、「じゃあドル預金はいかがですか、資産を分散するのはいいことです」みたいなこというから、ドル預金したら、あれからどんどん円高になってもうドルの塩漬けじゃん」というと
銀行員「お客様がお預けのときは一ドル114円で、今は89円です」
私「とほほほほ。ところで、私ずっと通帳の記帳をしていないんですけど。定期の通帳なんてここ数年」
銀行員「では通帳をお預かりします。」しばらくして、呆れながら 「普通ですら半年も記帳してませんよ。定期はたしかにここ数年やってませんね。ご提案なのですが、今円が強いので、安いドルをかえば、お客様のドル購入の値段を相対的に下げることができます」
私「なるほど、泥棒に追い銭ですね」
銀行員「違います。ドル・コスト平準法です。で、今おすすめするのはドル建ての保険です。一ドルが71円にならない限り、元本われはしません」
私「ふーん、保険なのねー、私がこの十年で死んだらどうなるの」
銀行員「法定相続人がうけとることになります」
私「子供いないんだけど。」
銀行員「遺言書の作成もお手伝いしております」
私「私死んだあと、残った動物たちの世話してくれる人に毎月だすお金を残して、残りは全部寄付しちゃおうと思ってるんだよね」
銀行員「エライですね~」
私「子供がいないと博愛になるものよ。で、銀行で遺言書作成したら、私のペットが天寿を全うするまで見届けてくれるんでしょうか」
銀行員「銀行ができるのは、遺産の処理までです。」
私「じゃあ、そういう金融商品つくってくださいよ。残されたペットの世話をする人に月々一定額を支払う保険?年金?みたいな商品を。相続人だって、ペットが生きているうちはお金が入るのだから、ペッとを大事にするでしょう。銀行は地域に密着していて、さらに倒産のリスクもほかよりは低いから、相続人がペットをちゃんと世話しているか見届けられるでしょ。」
副支店長「面白そうですね。今度提案してみます」
私「少子化社会だし、ペットの地位は年々上がっているし、飼い主の死後のペットの幸せを見届ける仕事って絶対ビジネスになりますよ。人は愛のためにはお金をいくらでもだします。愛するペットにかける愛情と金は無限です。大体こんなドル保険よりも、こっちの商品の方が売ってて楽しいですよ。住友さん、まず中国に進出する前に、まず国内での需要を掘り起こしてください。私この商品でたらオカメ友達を相続人に指定して買いますわ。」
副支店長「この場合どこと協力するといいと思いますか」
私「もし悪意の相続人がペットの死後に別の個体をかってきて、生きているといいはって、配当金を受け続けたら困りますから、獣医師会と連携するんですよ。で、ペットのDNA登録をして、相続人に対して半年なり、一年にいっぺん健康診断でペットをつれての来院を義務つけるのです。そしたら不正の生まれる余地もないし、獣医師ももうかるのでウハウハです」
銀行員「面白いですね。もしこの商品が通ったら、お知らせします」
私「「通ったら」でないでしょ、「通す」、そう言いなさい」
そのあとは、人民元をくさし、中国進出を思いとどまるよう説得する一大演説をぶったのであった。
銀行にいって新ビジネスモデルを提案し、銀行の経営方針にまで口をだす、立派なモンスター・カスタマーである。当分、銀行からの呼び出しはかからないであろう。
で、いったら、当座に入ってるお金を何かに運用しないかという。
私「そういわれましてもねー、何年あずけようが金利なんて零コンマの世界でしょ。前にそういったら、「じゃあドル預金はいかがですか、資産を分散するのはいいことです」みたいなこというから、ドル預金したら、あれからどんどん円高になってもうドルの塩漬けじゃん」というと
銀行員「お客様がお預けのときは一ドル114円で、今は89円です」
私「とほほほほ。ところで、私ずっと通帳の記帳をしていないんですけど。定期の通帳なんてここ数年」
銀行員「では通帳をお預かりします。」しばらくして、呆れながら 「普通ですら半年も記帳してませんよ。定期はたしかにここ数年やってませんね。ご提案なのですが、今円が強いので、安いドルをかえば、お客様のドル購入の値段を相対的に下げることができます」
私「なるほど、泥棒に追い銭ですね」
銀行員「違います。ドル・コスト平準法です。で、今おすすめするのはドル建ての保険です。一ドルが71円にならない限り、元本われはしません」
私「ふーん、保険なのねー、私がこの十年で死んだらどうなるの」
銀行員「法定相続人がうけとることになります」
私「子供いないんだけど。」
銀行員「遺言書の作成もお手伝いしております」
私「私死んだあと、残った動物たちの世話してくれる人に毎月だすお金を残して、残りは全部寄付しちゃおうと思ってるんだよね」
銀行員「エライですね~」
私「子供がいないと博愛になるものよ。で、銀行で遺言書作成したら、私のペットが天寿を全うするまで見届けてくれるんでしょうか」
銀行員「銀行ができるのは、遺産の処理までです。」
私「じゃあ、そういう金融商品つくってくださいよ。残されたペットの世話をする人に月々一定額を支払う保険?年金?みたいな商品を。相続人だって、ペットが生きているうちはお金が入るのだから、ペッとを大事にするでしょう。銀行は地域に密着していて、さらに倒産のリスクもほかよりは低いから、相続人がペットをちゃんと世話しているか見届けられるでしょ。」
副支店長「面白そうですね。今度提案してみます」
私「少子化社会だし、ペットの地位は年々上がっているし、飼い主の死後のペットの幸せを見届ける仕事って絶対ビジネスになりますよ。人は愛のためにはお金をいくらでもだします。愛するペットにかける愛情と金は無限です。大体こんなドル保険よりも、こっちの商品の方が売ってて楽しいですよ。住友さん、まず中国に進出する前に、まず国内での需要を掘り起こしてください。私この商品でたらオカメ友達を相続人に指定して買いますわ。」
副支店長「この場合どこと協力するといいと思いますか」
私「もし悪意の相続人がペットの死後に別の個体をかってきて、生きているといいはって、配当金を受け続けたら困りますから、獣医師会と連携するんですよ。で、ペットのDNA登録をして、相続人に対して半年なり、一年にいっぺん健康診断でペットをつれての来院を義務つけるのです。そしたら不正の生まれる余地もないし、獣医師ももうかるのでウハウハです」
銀行員「面白いですね。もしこの商品が通ったら、お知らせします」
私「「通ったら」でないでしょ、「通す」、そう言いなさい」
そのあとは、人民元をくさし、中国進出を思いとどまるよう説得する一大演説をぶったのであった。
銀行にいって新ビジネスモデルを提案し、銀行の経営方針にまで口をだす、立派なモンスター・カスタマーである。当分、銀行からの呼び出しはかからないであろう。
「力は心の中にある」
FIFAワールドカップがスペインの勝利に終わった。
スペインのカルレス・プジョル選手が、チベット語の入れ墨をいれるくらいのチベット・サポーターだということで、チベット界ではスペインを応援した人が多かったと思う。
この選手は母親を亡くした喪失感の中でチベット仏教と出会い、立ち直れたんだそうな。私も母親が死んだあとの超無気力状態の中でチベット仏教と出会い、今のようなナイロンザイルのような精神を持つにいたるので、人ごととは思えない。
つらいことを避けて、傷つかないことばかりを考えて、ラクな方、ラクな方を選択してそこへ流れようとする人がいる。しかしそんなことしてもムダ。人生、自分で選択できることなんてほとんどない。まず国籍、性別、容姿、才能が生まれつきなことから始まって、さらに、人生の過程では容赦なく襲ってくる不幸もほとんど不可抗力。
若くして母親が死んだり、会社がつぶれたり、国が大借金せおって年金が減額されたり(笑)、とか。こういうことはオノレの望むと望まないとに関わらず、来る時はくる。不幸は避けようがないのである。法王だって国を滅ぼされているのである。
不幸や逆境が不可抗力ならば、それはもうじたばたせずに受け入れるしかない。しかしそこから先にできることはある。逆境につぶれて沈没するのではなく、それを利用してタフになるのである。タフになって得た未来の幸せは、自分で選択して得た幸せである。これは不幸を避けるための消極的な選択とは異なり、強く確かなものである。
そもそも母親が死ぬとなぜこんなに悲しいのであろうか。それは母親に愛されていたからである。いいことじゃないか。では、その恩ある母親に自分は何か返したものがあるだろうか。何も返していない。これに気づいた時点で、自分を哀れんで泣くのをやめた。
次にこう考える。これから自分が道を踏み外さず生きてけば、自分を育ててくれた母親の名を汚すことはない。そして、ちゃんと生きていれば身の丈にあった幸せはやってくる。そして子供が幸せになること、これはおそらくは亡き母が一番望んでいたことであろう。ここまで考えがいたると、夭折した母親の思い出は、子供の中でつらいものから、美しいものにかわるのである。
ちなみに、母親に愛されなかった人はどーするんだ、という人もいるかもしれない。そういう人は、母親が死んでもダメージ受けないから、ウツにならなくていいじゃん、と前向きに考えましょう。ウツはつらいよ~。
自分の親はダメ親だからいない方がまし。死ね、とかいう人もいるかもしれない。こういう場合もダメ親をもってしまった不幸を前向きに考えましょう。ダメ親は反面教師にすることができる。ダメ親を観察して、自分の中にあるそのダメ親に影響された部分を注意深くとりのぞくのである。こうすればダメ親も人格の向上に役立つ。
そしてさっさとダメ親から自立するのである。で長い時間がたって、上級コースに進む余裕がうまれてきたら、老いたダメ親の面倒でもみてやることである。その時しみじみと感じる「ああ、この親から自立するために自分ががんばったなあ。それで今の自分があるんだ」という気持ちは、過去のすべての思い出をいとおしいものに変えてくれる。災い転じて福となす。
世界の頂点にたって、スペインのプジョル選手は今、幸せだろう。彼の母親もカソリックの天国で喜んでいることだろう。
以下、そのニュースを翻訳しときます。
準決勝戦のスペインのヒーローは仏教が好きで2007年にダライ・ラマにも会っていた。(2010年7月10日ソース phayul)
Spain's semi final hero fascinated by Buddhism, met Dalai Lama in 2007
Phayul[Saturday, July 10, 2010 09:37]
[ダラムサラ7月10日]
ドイツとの準決勝戦でスペインのために特典を上げたカルロス・プジェルは、仏教に対して強い興味を持っている(バルセロナにあるチベットの家のトゥプテン・ワンチェン談)。
Dharamsala, July 10 - Barcelona and Spain defender Carles "Tarzan" Puyol who scored the only goal of the semi final against Germany to send his country into the first ever world cup final has a keen interest in Buddhism, according to his friend Ven. Thupten Wangchen of the Casa del Tibet, Barcelona.
トゥプテン・ワンチェンは「アメリカの声」で、プジョルのチベット文化と仏教に関する興味はソギャルリンポチェの本『チベット生と死の書』(はいここで日本語訳買えます 笑 同名の日本人の著書と間違えないでね)に始まったと説いた。この本によってプジョルは家族の死を乗り越えたのだという。プジョルは左手にこういうチベット語の入れ墨を入れている。
「力は心の中にある。強きものは持ちこたえることができる」
Ven Wangchen told VOA that Puyol's interest in Tibetan culture and Buddhism started after reading Sogyal Rinpoche’s book, The Tibetan Book of Living and Dying which helped him deal with death of a family member. Puyol, Ven. Wangchen said, has a Tibetan tattoo on his left arm which reads “Power is inside the Mind. The strong can endure.”
プジョルはチベットの指導者の崇拝者でもある。彼は2007年にバルセロナでダライ・ラマ法王と出会った。ワンチェンによると、プジョルは将来チベットのナショナル・サッカー・チームを手助けしたい、と表明していたという。
Puyol, also an admirer of the Tibetan leader has met His Holiness the Dalai Lama during the latter's visit to Barcelona in 2007. Ven. Wangchen said Puyol has also expressed his interest in helping the Tibetan national football team in the future.
プジョルは2000年11月にシニアのナショナル・チームでデビューし、その直後にシドニーオリンピックで銀メダルをとったチームでプレイした。その時から、彼の名前はスペインのナショナルチームのリストを常時飾っている。ワールドカップにも二回参加し、UEFA欧州選手権にも二回出場している。プジョルの攻撃的なディフェンドは2008年の欧州選手権においてスペインのチーム、ラ・ロサ(La Roja)に待望の勝利をもたらした。
Puyol made his senior national-team debut in November 2000, shortly after playing his part in the Olympic squad which picked up silver at the Games in Sydney. Since then his name has been a constant in the Spain squad list, including appearances at two FIFA World Cups and two UEFA EUROs. Indeed, Puyol's tigerish defending was another key factor in La Roja's long-awaited success at the Euro 2008.
スペインのカルレス・プジョル選手が、チベット語の入れ墨をいれるくらいのチベット・サポーターだということで、チベット界ではスペインを応援した人が多かったと思う。
この選手は母親を亡くした喪失感の中でチベット仏教と出会い、立ち直れたんだそうな。私も母親が死んだあとの超無気力状態の中でチベット仏教と出会い、今のようなナイロンザイルのような精神を持つにいたるので、人ごととは思えない。
つらいことを避けて、傷つかないことばかりを考えて、ラクな方、ラクな方を選択してそこへ流れようとする人がいる。しかしそんなことしてもムダ。人生、自分で選択できることなんてほとんどない。まず国籍、性別、容姿、才能が生まれつきなことから始まって、さらに、人生の過程では容赦なく襲ってくる不幸もほとんど不可抗力。
若くして母親が死んだり、会社がつぶれたり、国が大借金せおって年金が減額されたり(笑)、とか。こういうことはオノレの望むと望まないとに関わらず、来る時はくる。不幸は避けようがないのである。法王だって国を滅ぼされているのである。
不幸や逆境が不可抗力ならば、それはもうじたばたせずに受け入れるしかない。しかしそこから先にできることはある。逆境につぶれて沈没するのではなく、それを利用してタフになるのである。タフになって得た未来の幸せは、自分で選択して得た幸せである。これは不幸を避けるための消極的な選択とは異なり、強く確かなものである。
そもそも母親が死ぬとなぜこんなに悲しいのであろうか。それは母親に愛されていたからである。いいことじゃないか。では、その恩ある母親に自分は何か返したものがあるだろうか。何も返していない。これに気づいた時点で、自分を哀れんで泣くのをやめた。
次にこう考える。これから自分が道を踏み外さず生きてけば、自分を育ててくれた母親の名を汚すことはない。そして、ちゃんと生きていれば身の丈にあった幸せはやってくる。そして子供が幸せになること、これはおそらくは亡き母が一番望んでいたことであろう。ここまで考えがいたると、夭折した母親の思い出は、子供の中でつらいものから、美しいものにかわるのである。
ちなみに、母親に愛されなかった人はどーするんだ、という人もいるかもしれない。そういう人は、母親が死んでもダメージ受けないから、ウツにならなくていいじゃん、と前向きに考えましょう。ウツはつらいよ~。
自分の親はダメ親だからいない方がまし。死ね、とかいう人もいるかもしれない。こういう場合もダメ親をもってしまった不幸を前向きに考えましょう。ダメ親は反面教師にすることができる。ダメ親を観察して、自分の中にあるそのダメ親に影響された部分を注意深くとりのぞくのである。こうすればダメ親も人格の向上に役立つ。
そしてさっさとダメ親から自立するのである。で長い時間がたって、上級コースに進む余裕がうまれてきたら、老いたダメ親の面倒でもみてやることである。その時しみじみと感じる「ああ、この親から自立するために自分ががんばったなあ。それで今の自分があるんだ」という気持ちは、過去のすべての思い出をいとおしいものに変えてくれる。災い転じて福となす。
世界の頂点にたって、スペインのプジョル選手は今、幸せだろう。彼の母親もカソリックの天国で喜んでいることだろう。
以下、そのニュースを翻訳しときます。
準決勝戦のスペインのヒーローは仏教が好きで2007年にダライ・ラマにも会っていた。(2010年7月10日ソース phayul)
Spain's semi final hero fascinated by Buddhism, met Dalai Lama in 2007
Phayul[Saturday, July 10, 2010 09:37]
[ダラムサラ7月10日]
ドイツとの準決勝戦でスペインのために特典を上げたカルロス・プジェルは、仏教に対して強い興味を持っている(バルセロナにあるチベットの家のトゥプテン・ワンチェン談)。
Dharamsala, July 10 - Barcelona and Spain defender Carles "Tarzan" Puyol who scored the only goal of the semi final against Germany to send his country into the first ever world cup final has a keen interest in Buddhism, according to his friend Ven. Thupten Wangchen of the Casa del Tibet, Barcelona.
トゥプテン・ワンチェンは「アメリカの声」で、プジョルのチベット文化と仏教に関する興味はソギャルリンポチェの本『チベット生と死の書』(はいここで日本語訳買えます 笑 同名の日本人の著書と間違えないでね)に始まったと説いた。この本によってプジョルは家族の死を乗り越えたのだという。プジョルは左手にこういうチベット語の入れ墨を入れている。
「力は心の中にある。強きものは持ちこたえることができる」
Ven Wangchen told VOA that Puyol's interest in Tibetan culture and Buddhism started after reading Sogyal Rinpoche’s book, The Tibetan Book of Living and Dying which helped him deal with death of a family member. Puyol, Ven. Wangchen said, has a Tibetan tattoo on his left arm which reads “Power is inside the Mind. The strong can endure.”
プジョルはチベットの指導者の崇拝者でもある。彼は2007年にバルセロナでダライ・ラマ法王と出会った。ワンチェンによると、プジョルは将来チベットのナショナル・サッカー・チームを手助けしたい、と表明していたという。
Puyol, also an admirer of the Tibetan leader has met His Holiness the Dalai Lama during the latter's visit to Barcelona in 2007. Ven. Wangchen said Puyol has also expressed his interest in helping the Tibetan national football team in the future.
プジョルは2000年11月にシニアのナショナル・チームでデビューし、その直後にシドニーオリンピックで銀メダルをとったチームでプレイした。その時から、彼の名前はスペインのナショナルチームのリストを常時飾っている。ワールドカップにも二回参加し、UEFA欧州選手権にも二回出場している。プジョルの攻撃的なディフェンドは2008年の欧州選手権においてスペインのチーム、ラ・ロサ(La Roja)に待望の勝利をもたらした。
Puyol made his senior national-team debut in November 2000, shortly after playing his part in the Olympic squad which picked up silver at the Games in Sydney. Since then his name has been a constant in the Spain squad list, including appearances at two FIFA World Cups and two UEFA EUROs. Indeed, Puyol's tigerish defending was another key factor in La Roja's long-awaited success at the Euro 2008.
紫禁城の古写真
土曜日は「清朝末期の写真展」をみるため、国立博物館にいった。最終日前日である。
院生や研究者とそろいでぞろぞろいったのだが、一人が遅刻してきたので、彼女を待つために徳川家康公をまつる上野東照宮にいく。自分が家康ファンだからである。
そしたら、東照宮、絵だった。詳しくはこの写真をくりっくして拡大。

ゼミ生とともに韓国旅行にいった去年、ソウルでみた南大門の工事現場とタメをはるすごさ(やはり南大門は絵だった)。銭湯の壁画も裸足で逃げ出す情けなさである。↓
博物館に行くと、特別展をやっていない時期だし、東洋舘は改装中なので敷地内は閑散としている。写真展をやっている平成館に入ると、係官が英語で話しかけてくる。原因は私の濃い顔か、それとも院生Mのダサダサな旅行者ファッションか。
ちなみに、この前法王がヨコハマにいらした時、韓国の仏教テレビのクルーが取材に来ていた。事務所のラクパさんが私をそのクルーに「日本のチベット学者です」と紹介してくれたので、ちょっとお話したら、その若い韓国のレポーターも私を「ハーフか」と聞いてきた。
言下に「I am genuine Japanese(私は純正の日本人)」と答えるが、日本にいても日本人に扱われない自分に情けなくなる。学生の間でインド人の血を引くとかいうデマが流れたこともあったし。しかして、この顔は南方系日本人のスタンダードである。
で、写真展だが、これは1901年義和団の乱によって西太后がはだしで西安に逃げていて紫禁城がからっぽになっていて、北京が八カ国連合軍の占領下にあった時代にとられたものである。この北京ガラ空き状況を利用して、日本から東京大学の伊藤忠太先生をはじめとするご一行様が写真家の小川一真を同伴して北京入りし、紫禁城や西苑の調査ならびに写真撮影を行ったのだ。
今も紫禁城内にはたくさんのチベット寺があるが、当時はもっと多くがその外観をとどめており(内部は義和団や八カ国連合軍によって略奪されてなくなってる)、このご一行様が残した写真は貴重な歴史資料となっている。今回の展覧会では自分がかつて書いた論文で利用した写真もあった。200枚くらいはここで現物が見られます。ここに清国北京皇城写真帖と入力して検索をぽちっと推してみてください。いい時代になりました。
たとえば、このサイトの第二冊目の61コマ目の写真を例にとると、この画面中央にうつる石の橋はいまは風情のない自動車道路になっており、湖のかなたに浮かぶ二つのたてもの、すなわち、万仏樓と闡福寺もない。しかしこの写真にはそれが全部ばっちりうつっているのだ。この二つの寺は両者ともチベット寺で、闡福寺は乾隆帝が即位の九年目に白傘盖仏を祭るためにたてたものであり、万仏樓は乾隆帝がお誕生日に献上されたチベットの仏像の収納のためにつくったものである。
ちなみに、この前の砂マンダラトークの時には、KさんとSさんから、「遅い、お誕生日プレゼント」と、神のようにプリティなオカメグッズを頂戴した。この場をかりて、お二人に御礼もうしあげたいと思います。ホームページで近いうちに発表しますので、その時にはこちらにもリンクをはりますね。
話を戻すと、この時とられた約四百枚の写真のうち三百枚ちょっとは国立博物館所蔵になっているようである。一緒にいった若手研究者Kさんは、
「先生、宮中草ボーボーですね。これから数年後に溥儀の即位式があるのに、そういときだけ草むしりしたんですかね。それともボーボーのままやったんですかね」と聞く。私もまだ滅びていない王朝なのにその廃墟っぷりに驚く。うちの庭よりは雑草少ないけど、屋根からとかもぺんぺん生えているのは一朝一夕にはできないだろう。
とはいえ、伝統的な工法でたてられた建築物は美しく、廃墟であるがゆえのロマン性も十分。
むかし今村仁司が「廃墟を見る眼は歴史を見る眼である」といってたが(うろ覚え)、そんな感じか(どんな感じだよ 笑)。
また、景山からのぞむ紫禁城の写真などみても、意外と昔の北京には木が多い。つまり、北京が今のような木のないはげちょろけのコキタナイ町になったのは、その後の内戦と社会主義政権の貧困によるものだろう。
事情は日本も同じで、江戸末期の写真をみると、その町並みはとても美しいものだが、近代にはいるととたんに写真にうつる光景はスラム化してくる。
これはダンナから昔聞いたことである。アンモナイトの化石をみると、進化の最盛期にはアンモナイトの巻きは美しい黄金率のフォルムをみせているが、滅びる直前には、その巻き方は傍目にもみにくく乱れ、むざんな姿となっていく。
どんな怪談よりもこういう話の方がずっと怖い。
院生や研究者とそろいでぞろぞろいったのだが、一人が遅刻してきたので、彼女を待つために徳川家康公をまつる上野東照宮にいく。自分が家康ファンだからである。
そしたら、東照宮、絵だった。詳しくはこの写真をくりっくして拡大。

ゼミ生とともに韓国旅行にいった去年、ソウルでみた南大門の工事現場とタメをはるすごさ(やはり南大門は絵だった)。銭湯の壁画も裸足で逃げ出す情けなさである。↓
博物館に行くと、特別展をやっていない時期だし、東洋舘は改装中なので敷地内は閑散としている。写真展をやっている平成館に入ると、係官が英語で話しかけてくる。原因は私の濃い顔か、それとも院生Mのダサダサな旅行者ファッションか。
ちなみに、この前法王がヨコハマにいらした時、韓国の仏教テレビのクルーが取材に来ていた。事務所のラクパさんが私をそのクルーに「日本のチベット学者です」と紹介してくれたので、ちょっとお話したら、その若い韓国のレポーターも私を「ハーフか」と聞いてきた。
言下に「I am genuine Japanese(私は純正の日本人)」と答えるが、日本にいても日本人に扱われない自分に情けなくなる。学生の間でインド人の血を引くとかいうデマが流れたこともあったし。しかして、この顔は南方系日本人のスタンダードである。
で、写真展だが、これは1901年義和団の乱によって西太后がはだしで西安に逃げていて紫禁城がからっぽになっていて、北京が八カ国連合軍の占領下にあった時代にとられたものである。この北京ガラ空き状況を利用して、日本から東京大学の伊藤忠太先生をはじめとするご一行様が写真家の小川一真を同伴して北京入りし、紫禁城や西苑の調査ならびに写真撮影を行ったのだ。
今も紫禁城内にはたくさんのチベット寺があるが、当時はもっと多くがその外観をとどめており(内部は義和団や八カ国連合軍によって略奪されてなくなってる)、このご一行様が残した写真は貴重な歴史資料となっている。今回の展覧会では自分がかつて書いた論文で利用した写真もあった。200枚くらいはここで現物が見られます。ここに清国北京皇城写真帖と入力して検索をぽちっと推してみてください。いい時代になりました。
たとえば、このサイトの第二冊目の61コマ目の写真を例にとると、この画面中央にうつる石の橋はいまは風情のない自動車道路になっており、湖のかなたに浮かぶ二つのたてもの、すなわち、万仏樓と闡福寺もない。しかしこの写真にはそれが全部ばっちりうつっているのだ。この二つの寺は両者ともチベット寺で、闡福寺は乾隆帝が即位の九年目に白傘盖仏を祭るためにたてたものであり、万仏樓は乾隆帝がお誕生日に献上されたチベットの仏像の収納のためにつくったものである。
ちなみに、この前の砂マンダラトークの時には、KさんとSさんから、「遅い、お誕生日プレゼント」と、神のようにプリティなオカメグッズを頂戴した。この場をかりて、お二人に御礼もうしあげたいと思います。ホームページで近いうちに発表しますので、その時にはこちらにもリンクをはりますね。
話を戻すと、この時とられた約四百枚の写真のうち三百枚ちょっとは国立博物館所蔵になっているようである。一緒にいった若手研究者Kさんは、
「先生、宮中草ボーボーですね。これから数年後に溥儀の即位式があるのに、そういときだけ草むしりしたんですかね。それともボーボーのままやったんですかね」と聞く。私もまだ滅びていない王朝なのにその廃墟っぷりに驚く。うちの庭よりは雑草少ないけど、屋根からとかもぺんぺん生えているのは一朝一夕にはできないだろう。
とはいえ、伝統的な工法でたてられた建築物は美しく、廃墟であるがゆえのロマン性も十分。
むかし今村仁司が「廃墟を見る眼は歴史を見る眼である」といってたが(うろ覚え)、そんな感じか(どんな感じだよ 笑)。
また、景山からのぞむ紫禁城の写真などみても、意外と昔の北京には木が多い。つまり、北京が今のような木のないはげちょろけのコキタナイ町になったのは、その後の内戦と社会主義政権の貧困によるものだろう。
事情は日本も同じで、江戸末期の写真をみると、その町並みはとても美しいものだが、近代にはいるととたんに写真にうつる光景はスラム化してくる。
これはダンナから昔聞いたことである。アンモナイトの化石をみると、進化の最盛期にはアンモナイトの巻きは美しい黄金率のフォルムをみせているが、滅びる直前には、その巻き方は傍目にもみにくく乱れ、むざんな姿となっていく。
どんな怪談よりもこういう話の方がずっと怖い。
砂マンダラ・トーク
金曜日は大学で授業を三コマやったあと、ダッシュで有楽町にむかい、あいだみつを美術館で作られているマンダラの解説。今年はダライ・ラマ法王生誕75周年ということで、七月六日の誕生日にあわせた砂マンダラ作成ならびに記念連続講演なのである。
最初は授業の直後で疲れているからムリとお断りしたのだが、ヴォランティアの講師もそうそういないだろうし、そもそもマンダラを解説する人がいなければせっかく砂マンダラをつくっても来た人もわけわんないだろうし、と引き受けることとする。しかし、会場についてみたらタシルンポのお坊さんが、砂マンダラを前にちゃんと胎蔵界マンダラの解説をしていた。私の存在意味なし(笑)。
ていうか、関係者がみつからず、パソコンの設定をどこに頼めばいいかわからない。まぎれこんだコーナーでカメラマンの野田雅也さんがなぜかバター茶のバーテンをやっているのを発見。学園祭か。
つか、会場狭い。お客さんに立ち見とか地べた座りとかさせて、もうちょっとどうにかならないものでしょうか。タシルンポのお坊さんが胎蔵界の説明をしていたので、私はチベット文化においてマンダラがどういう意味を持つのかという一般的なお話に重点をおくことにする。
チベットではマンダラは修業のため、あるいは灌頂などの入門儀礼のため作られる。さらに言えば、僧院内で唱えられる声明、舞踊、音楽などもすべて仏教の修業の一環としてなされるもので、それ単体として鑑賞の対象にするものではない。
マンダラの場合も、灌頂儀礼などの場合、導師が聴衆に対して仏教を説き、聴衆が一定の理解に達したと思った瞬間にマンダラの構造を明らかにする。だから、本来は今回のイベントのように修業や儀式と切り離してただマンダラをつくり、それを多くの人の眼にふれさせるということは伝統的には許されることではない。
私は本当は阿修羅王を博物館でみるのもあまり好ましいことではないと思っている。仏像は本来の伝統の文脈の中で拝されるのが望ましく、美しい女性を鑑賞するように仏像についてあれこれ言及するのはもう末世もきわまった感がする。
日本仏教はいまや形骸化してしまったので、このような私の感覚はなかなか理解されないかと思うが、たとえばキリスト教世界において、マリア像が単なる美術品として博物館に展示されて、衆人環視にさらされるような状況を考えたら、その違和感は分かるかと思う。マリア様をキリスト教の伝統世界で見上げる人々にとっては、ミケランジェロが作った芸術性の高いマリア像も、スペインの田舎の祠の中にあるなもない素朴なマリア像も本質的には変わらないものであろう。
チベットにおけるマンダラも美しいけれど、見せ物ではない。だから本来このようなピンでつくることはしないものだが、まあこんな状況(国がなくなってしまって食べていけない状況)なのでこのようなイベントが行われているのである。
でも、声明を組み合わせたり、お坊さんがマンダラの説明をしたりしているので、できる範囲内でがんばっているとは思う。
マンダラの形は、世界の中心にある超高山(須弥山)、そのてっぺんにある転輪聖王の宮殿をかたどっている。つまり、マンダラは外的には「全世界」を表している。
しかして、マンダラは、全世界を表すと同時に、われわれの意識が修業の結果、仏様の意識に変わった時の脳内構造をも表現している。
チベットのマンダラはどのようなものであれ、必ず東西南北の四方を四色に塗り分け、中央に本尊を据えその四方に四人の仏を据えるが、これは、「根源的な意識」とそこから派生する四つの意識を示している。つまり、世界を表すと同時に、内的な意識の構造をも表現しているのである。
チベットでは王宮も寺院もこのマンダラ型に建てられるので、そのお寺で一番高位の僧は本尊とみなされ、その寺院の一番上にお部屋がつくられる、などのマニアむけ話をする。
授業の後で疲労困憊だったため、かなりいい加減な感じになったと思うが、疲れていたので許して下さい。
平日の夜遅くであるにも関わらず、多くの方におこしいただき本当に嬉しかったです。ありがとうございました。
砂マンダラは日曜日はこわされます。午後二時から僧侶による舞踊、三時から砂マンダラ完成法要、ならびに、破壇(はやっ)、四時半から川にながしにいくとのことです。時間に余裕のあるかたは完成したマンダラを是非みにいってみてください。
最初は授業の直後で疲れているからムリとお断りしたのだが、ヴォランティアの講師もそうそういないだろうし、そもそもマンダラを解説する人がいなければせっかく砂マンダラをつくっても来た人もわけわんないだろうし、と引き受けることとする。しかし、会場についてみたらタシルンポのお坊さんが、砂マンダラを前にちゃんと胎蔵界マンダラの解説をしていた。私の存在意味なし(笑)。
ていうか、関係者がみつからず、パソコンの設定をどこに頼めばいいかわからない。まぎれこんだコーナーでカメラマンの野田雅也さんがなぜかバター茶のバーテンをやっているのを発見。学園祭か。
つか、会場狭い。お客さんに立ち見とか地べた座りとかさせて、もうちょっとどうにかならないものでしょうか。タシルンポのお坊さんが胎蔵界の説明をしていたので、私はチベット文化においてマンダラがどういう意味を持つのかという一般的なお話に重点をおくことにする。
チベットではマンダラは修業のため、あるいは灌頂などの入門儀礼のため作られる。さらに言えば、僧院内で唱えられる声明、舞踊、音楽などもすべて仏教の修業の一環としてなされるもので、それ単体として鑑賞の対象にするものではない。
マンダラの場合も、灌頂儀礼などの場合、導師が聴衆に対して仏教を説き、聴衆が一定の理解に達したと思った瞬間にマンダラの構造を明らかにする。だから、本来は今回のイベントのように修業や儀式と切り離してただマンダラをつくり、それを多くの人の眼にふれさせるということは伝統的には許されることではない。
私は本当は阿修羅王を博物館でみるのもあまり好ましいことではないと思っている。仏像は本来の伝統の文脈の中で拝されるのが望ましく、美しい女性を鑑賞するように仏像についてあれこれ言及するのはもう末世もきわまった感がする。
日本仏教はいまや形骸化してしまったので、このような私の感覚はなかなか理解されないかと思うが、たとえばキリスト教世界において、マリア像が単なる美術品として博物館に展示されて、衆人環視にさらされるような状況を考えたら、その違和感は分かるかと思う。マリア様をキリスト教の伝統世界で見上げる人々にとっては、ミケランジェロが作った芸術性の高いマリア像も、スペインの田舎の祠の中にあるなもない素朴なマリア像も本質的には変わらないものであろう。
チベットにおけるマンダラも美しいけれど、見せ物ではない。だから本来このようなピンでつくることはしないものだが、まあこんな状況(国がなくなってしまって食べていけない状況)なのでこのようなイベントが行われているのである。
でも、声明を組み合わせたり、お坊さんがマンダラの説明をしたりしているので、できる範囲内でがんばっているとは思う。
マンダラの形は、世界の中心にある超高山(須弥山)、そのてっぺんにある転輪聖王の宮殿をかたどっている。つまり、マンダラは外的には「全世界」を表している。
しかして、マンダラは、全世界を表すと同時に、われわれの意識が修業の結果、仏様の意識に変わった時の脳内構造をも表現している。
チベットのマンダラはどのようなものであれ、必ず東西南北の四方を四色に塗り分け、中央に本尊を据えその四方に四人の仏を据えるが、これは、「根源的な意識」とそこから派生する四つの意識を示している。つまり、世界を表すと同時に、内的な意識の構造をも表現しているのである。
チベットでは王宮も寺院もこのマンダラ型に建てられるので、そのお寺で一番高位の僧は本尊とみなされ、その寺院の一番上にお部屋がつくられる、などのマニアむけ話をする。
授業の後で疲労困憊だったため、かなりいい加減な感じになったと思うが、疲れていたので許して下さい。
平日の夜遅くであるにも関わらず、多くの方におこしいただき本当に嬉しかったです。ありがとうございました。
砂マンダラは日曜日はこわされます。午後二時から僧侶による舞踊、三時から砂マンダラ完成法要、ならびに、破壇(はやっ)、四時半から川にながしにいくとのことです。時間に余裕のあるかたは完成したマンダラを是非みにいってみてください。
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