ウツの処方箋は人を思いやること(後半)
〔直前のエントリーの続きです。〕ここで、午後の講演についてメモに基づいて再構成。とくにウツに苦しんでいるアナタ! 必見です。
幸せの本質 共生と共存の未来に向かって
20世紀は物質的発展の世紀であった。技術によって肉体的な苦しみはずいぶん軽減された。しかし、心はどうだうろか。私には億万長者の友人がいるが、心は不安定であり、いつも不幸である。20世紀は肉体の苦しみを取り除いても、心の苦しみは取り除けないことが分かった時代ではないか。
私は楽観主義者である。21世紀はきっと社会は平和となり建設的な時代となるであろう。
心が平安であると健康であり、家庭も平和になり、ひいては社会も平和となる。愛情と慈悲が大切なのものであり、ウソや喧嘩から何もいいものが生まれないのは明らかである。
世の中には愛を説くのに3つグループがある。
一つ目は神を設定し、それを信じる宗教がとく愛であり、
二つ目は神を設定しない、たとえば仏教のような宗教が説く慈悲である。仏教の因果の法に基づけば、悪いことをすれば、悪い結果を受けなければいけないし、善いことをすれば善い結果がでると考えるので、みな他人を思いやるようになる。
三つ目は世俗的な倫理感から説かれる愛である。
この講演では〔多くの人に他者を思いやることの重要性を知ってもらうために〕宗教の枠にとらわれずに、世俗的な立場から愛を考えるものである。
あらゆる生き物は母から生まれ、その愛情を受けて育つため、愛情を持っている。科学者は愛情深い人は免疫系が活発に動いており、憎しみ・不安・恐怖の感情の強い人は免疫系が弱いといっている。つまり、宗教でなくとも、健康に幸せに生きるためには愛と思いやりが不可欠であると言っているのである。
このように〔宗教ではなく〕世俗の倫理においても愛が必要であるというのは、何も最近に始まった話ではなく、インドの伝統的な考え方の中にもある。順世外道と呼ばれる一派は「宗教を信じるか否かは自由である。愛は宗教でなくとも生き物にとって必要不可欠なものである」と説いている。
ほ乳類は母親の乳を飲んで育つし、鳥だって雛は親鳥に大切に世話されて大きくなる。愛は生き物に不可欠なものである。
しかし、特定の対象に執着する偏った愛はいかん。自分に良くしているくれる人に執着し、自分に害をなす人を憎むのは偏った感情である。自分にどうこうするみたいなものを超越して偏りのない愛(無縁の大悲)が必要なのである。そして、このような愛を持つためには智慧が必要である。かりに自分に害をなす人がいたとしても、それは自分と同じ苦しみを嫌い、安楽を求める一人の人がいるだけであると思えば、そんなに腹も立つまい。
偏見のない愛情の種は母親が子供を思う気持ちである。すべての生物にはこの心が備わっているのである。
昔は私の国、私の民族、私の宗教という考え方が強かったが、今は世界は互いに密接に絡んでおり、経済も環境もすべて相互依存状態である。自分のことだけいってはいられない。私と彼の間に線引きを行っていては地球が滅びてしまう。地球規模の責任感を感じなければならない。
今の人は自分のことばかり考え続ける結果、ささいな問題に耐えられない小さな人になっている。他者のためを考えるようになれば、たとえ大きな問題がふりかかろうともそれを乗り越えられる強さが生まれる。問題を受容できる強さが生まれる※(このあたり、法王が来日直後に、日本の若者の引きこもりや自殺の多さについて意見を求められて、英語を学んで世界にでよ、そしてあなたたちの能力を世界中で生かしなさい、とおっしゃったこととリンクしている。今の若者は誰かにエゴを撫でて甘やかされることばかり期待して、結果ウツになっている。人の役に立てた、という考え方が自分に誇りと強さをもたらすと法王様は言うてはるわけ)。
健康な体には健康な精神が宿るのだ。
----------------------------
質疑応答
(1)
問「本日のテクストである『縁起賛(善説心髄)』のルン(テクストを読む口頭の祝福)を下さい」
DL「花がその色や形によってあるように、その色や形を離れて花の本質を探してみてもそれはどこにもない。「私」を分析してみても、この肉体と精神を離れたところに「私」を探してみてもどこにもない。それが縁起の意味である」※(ちなみに、法王が実際に行ったのはルンでなくティー(導き))
(2)
問い「猊下は日本を何度も訪れていると思いますが、日本人はここン十年でどう変化しましたか」
DL「私はたまーに訪れて短期間滞在するだけです。日本人の方々自身の方がその変化に詳しいでしょう」(笑)
(3)
問い「大学で仏教を学んでいますが、仏教徒の自覚を持つにはどうしたらいいでしょうか」
DL「覚りの境地に至るには天文学的な時間(三阿僧祇劫)がかかる。仏の境地に達するのはとても難しいこと。お経を唱えるだけではだめ。その意味を考えなさい。勉強しなさい。そして、その内容を心を安定させる瞑想(止)と分析的瞑想(観)によって身につけなさい」
(4)
問い「次のダライ・ラマは誰が指名するのか。パンチェンラマについて手を打たなくていいのか」※(この質問政治好きな人のテンプレ質問 笑)
DL「転生者は伝統に則って決める。制度としてのダライ・ラマが存続するか否かはチベット人が望むか否かにかかっている」
(5)
問い「親がいない、虐待などで愛情を受けずに育ってしまった場合は、愛がない人に育ってしまったらどうしたらいいのか」
DL「そうなってしまったものが、すぐに変わるのはムリです。当事者が愛情を少しずつ心になじましていくしかないね。」
(6)
問い「結婚を控えています。執着はいけないとのことですが、執着せずに愛情を持つにはどうしたらいいでしょうか」(会場祝福ムードの拍手)
DL「相手の長所や美点を見いだして、それを尊敬することです。ただ好きだからといってすぐに飛びついて結婚するのはいけません」
(7)
問い「日本に住むアメリカ人です。私はキリスト教で育ちました。でも日本にきて仏教も素晴らしいと思います。でもキリスト様に対して申し訳ない気持ちがします。どうしたらいいでしょうか」
DL「どのような宗教も愛や思いやりや忍耐の素晴らしさを説き、それを身につけるよう説きます。そのような共通部分の修業を行いなさい。しかし、中・上級レヴェルになるとキリストの教えと仏教の教えには矛盾するものもあるので、それから先はキリスト教の教えに従いなさい」
(8)
問い「科学者です。思いやりを動機に行動しても実際には失敗することが多い。どうたらいいでしょう」
DL「教師や医者なら今の仕事で他人のために行動していればいい。自然を観察する科学者であれば、精神の成長というものは徐々に訪れるもの。赤ん坊も一夜にして大人にはならない。花が咲くにも時間はかかる。何年も前と比べたら、今は善くなっているというちよっとの発展でもいい。とにかく思いやりの心育んでいきなさい」
(9)
問い「法王に質問します最高ですかー? 釈迦が説いたのはそのままで人はサイコーだということです」(法の華だよ 笑)
DL「この講演がおわって身体検査するまでは最高の状態かどうかは分からないね。今感じている幸せは、長い目でみたら幸せなことではない。※〔永続する幸せは精神を利他の心のなじますことによってしか生まれない〕」
(10)
問い「自己否定感が強く、子供を持つ気になれません。こういう考え方は改めなければならないのでしょうが、どうしたらいいでしょうか」
DL「心の基礎が不安定なら何をやっても不安になり、ささいなことで動揺することになる。他の人の役に立つことによって、正直に生きることによって、時針が生まれ、心の安定が生まれる。」※印(ウツっぽい人のテンプレ質問。つか、法王の講演聞いてたらこの質問はでないはず。)
(11)
問い「今回のテクストの作者であるツォンカパが法王にとってどういう方か教えてください」
DL「ツォンカパはお釈迦様の教えを解説したものだ。お釈迦様の教えはインドの賢者によって解説され、そしてツォンカパによって解説された。インドの賢者たちの著作は日本語があるはずだ。それを読みなさい」
(12)
問い「心の本質である光明は物質のもつエネルギーと同じですか」
DL「光明の心は愛である。これはエネルギーではあるが、物質のもつエネルギーとは異なるレベルのものである。」
(13)アングロ・サクソン系の男性
問い「法王は子牛の肉をたしなむとのことですが、世界の指導者が子牛を痛めつけて食べるというのはいかがなものか」※(この質問はサヨクのダライ・ラマの金時計批判と並んで、西洋人の批判者のテンプレ質問)
DL「チベットは標高が高く野菜が生育しない。昔から肉を食べ続けていた。1965-1967年まで二年間菜食主義になったが胆嚢を病んで、2008年には胆嚢をとった。※〔つまりチベット人の体は菜食に向かない。〕戒律でも僧侶は人に食べ物を布施されて生きているので、選り好みをしてはいけないことから、肉食を禁じてはない。しかし、インドにある難民社会では〔野菜がとれるので〕菜食をしている僧院もあるし、養豚場、養鶏場もない。」※(うーん、クレバーな答えだ)
(14)
問い「この前美術館でチベットの素晴らしい工芸品をたくさんみました。そして男女が合体したパワフルな仏をみたが、あのような表現について教えてほしい」※(これは密教に隠微なものをもとたいオジサンたちのテンプレ質問)
DL「匠の技だ。full stop!」(爆笑)
幸せの本質 共生と共存の未来に向かって
20世紀は物質的発展の世紀であった。技術によって肉体的な苦しみはずいぶん軽減された。しかし、心はどうだうろか。私には億万長者の友人がいるが、心は不安定であり、いつも不幸である。20世紀は肉体の苦しみを取り除いても、心の苦しみは取り除けないことが分かった時代ではないか。
私は楽観主義者である。21世紀はきっと社会は平和となり建設的な時代となるであろう。
心が平安であると健康であり、家庭も平和になり、ひいては社会も平和となる。愛情と慈悲が大切なのものであり、ウソや喧嘩から何もいいものが生まれないのは明らかである。
世の中には愛を説くのに3つグループがある。
一つ目は神を設定し、それを信じる宗教がとく愛であり、
二つ目は神を設定しない、たとえば仏教のような宗教が説く慈悲である。仏教の因果の法に基づけば、悪いことをすれば、悪い結果を受けなければいけないし、善いことをすれば善い結果がでると考えるので、みな他人を思いやるようになる。
三つ目は世俗的な倫理感から説かれる愛である。
この講演では〔多くの人に他者を思いやることの重要性を知ってもらうために〕宗教の枠にとらわれずに、世俗的な立場から愛を考えるものである。
あらゆる生き物は母から生まれ、その愛情を受けて育つため、愛情を持っている。科学者は愛情深い人は免疫系が活発に動いており、憎しみ・不安・恐怖の感情の強い人は免疫系が弱いといっている。つまり、宗教でなくとも、健康に幸せに生きるためには愛と思いやりが不可欠であると言っているのである。
このように〔宗教ではなく〕世俗の倫理においても愛が必要であるというのは、何も最近に始まった話ではなく、インドの伝統的な考え方の中にもある。順世外道と呼ばれる一派は「宗教を信じるか否かは自由である。愛は宗教でなくとも生き物にとって必要不可欠なものである」と説いている。
ほ乳類は母親の乳を飲んで育つし、鳥だって雛は親鳥に大切に世話されて大きくなる。愛は生き物に不可欠なものである。
しかし、特定の対象に執着する偏った愛はいかん。自分に良くしているくれる人に執着し、自分に害をなす人を憎むのは偏った感情である。自分にどうこうするみたいなものを超越して偏りのない愛(無縁の大悲)が必要なのである。そして、このような愛を持つためには智慧が必要である。かりに自分に害をなす人がいたとしても、それは自分と同じ苦しみを嫌い、安楽を求める一人の人がいるだけであると思えば、そんなに腹も立つまい。
偏見のない愛情の種は母親が子供を思う気持ちである。すべての生物にはこの心が備わっているのである。
昔は私の国、私の民族、私の宗教という考え方が強かったが、今は世界は互いに密接に絡んでおり、経済も環境もすべて相互依存状態である。自分のことだけいってはいられない。私と彼の間に線引きを行っていては地球が滅びてしまう。地球規模の責任感を感じなければならない。
今の人は自分のことばかり考え続ける結果、ささいな問題に耐えられない小さな人になっている。他者のためを考えるようになれば、たとえ大きな問題がふりかかろうともそれを乗り越えられる強さが生まれる。問題を受容できる強さが生まれる※(このあたり、法王が来日直後に、日本の若者の引きこもりや自殺の多さについて意見を求められて、英語を学んで世界にでよ、そしてあなたたちの能力を世界中で生かしなさい、とおっしゃったこととリンクしている。今の若者は誰かにエゴを撫でて甘やかされることばかり期待して、結果ウツになっている。人の役に立てた、という考え方が自分に誇りと強さをもたらすと法王様は言うてはるわけ)。
健康な体には健康な精神が宿るのだ。
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質疑応答
(1)
問「本日のテクストである『縁起賛(善説心髄)』のルン(テクストを読む口頭の祝福)を下さい」
DL「花がその色や形によってあるように、その色や形を離れて花の本質を探してみてもそれはどこにもない。「私」を分析してみても、この肉体と精神を離れたところに「私」を探してみてもどこにもない。それが縁起の意味である」※(ちなみに、法王が実際に行ったのはルンでなくティー(導き))
(2)
問い「猊下は日本を何度も訪れていると思いますが、日本人はここン十年でどう変化しましたか」
DL「私はたまーに訪れて短期間滞在するだけです。日本人の方々自身の方がその変化に詳しいでしょう」(笑)
(3)
問い「大学で仏教を学んでいますが、仏教徒の自覚を持つにはどうしたらいいでしょうか」
DL「覚りの境地に至るには天文学的な時間(三阿僧祇劫)がかかる。仏の境地に達するのはとても難しいこと。お経を唱えるだけではだめ。その意味を考えなさい。勉強しなさい。そして、その内容を心を安定させる瞑想(止)と分析的瞑想(観)によって身につけなさい」
(4)
問い「次のダライ・ラマは誰が指名するのか。パンチェンラマについて手を打たなくていいのか」※(この質問政治好きな人のテンプレ質問 笑)
DL「転生者は伝統に則って決める。制度としてのダライ・ラマが存続するか否かはチベット人が望むか否かにかかっている」
(5)
問い「親がいない、虐待などで愛情を受けずに育ってしまった場合は、愛がない人に育ってしまったらどうしたらいいのか」
DL「そうなってしまったものが、すぐに変わるのはムリです。当事者が愛情を少しずつ心になじましていくしかないね。」
(6)
問い「結婚を控えています。執着はいけないとのことですが、執着せずに愛情を持つにはどうしたらいいでしょうか」(会場祝福ムードの拍手)
DL「相手の長所や美点を見いだして、それを尊敬することです。ただ好きだからといってすぐに飛びついて結婚するのはいけません」
(7)
問い「日本に住むアメリカ人です。私はキリスト教で育ちました。でも日本にきて仏教も素晴らしいと思います。でもキリスト様に対して申し訳ない気持ちがします。どうしたらいいでしょうか」
DL「どのような宗教も愛や思いやりや忍耐の素晴らしさを説き、それを身につけるよう説きます。そのような共通部分の修業を行いなさい。しかし、中・上級レヴェルになるとキリストの教えと仏教の教えには矛盾するものもあるので、それから先はキリスト教の教えに従いなさい」
(8)
問い「科学者です。思いやりを動機に行動しても実際には失敗することが多い。どうたらいいでしょう」
DL「教師や医者なら今の仕事で他人のために行動していればいい。自然を観察する科学者であれば、精神の成長というものは徐々に訪れるもの。赤ん坊も一夜にして大人にはならない。花が咲くにも時間はかかる。何年も前と比べたら、今は善くなっているというちよっとの発展でもいい。とにかく思いやりの心育んでいきなさい」
(9)
問い「法王に質問します最高ですかー? 釈迦が説いたのはそのままで人はサイコーだということです」(法の華だよ 笑)
DL「この講演がおわって身体検査するまでは最高の状態かどうかは分からないね。今感じている幸せは、長い目でみたら幸せなことではない。※〔永続する幸せは精神を利他の心のなじますことによってしか生まれない〕」
(10)
問い「自己否定感が強く、子供を持つ気になれません。こういう考え方は改めなければならないのでしょうが、どうしたらいいでしょうか」
DL「心の基礎が不安定なら何をやっても不安になり、ささいなことで動揺することになる。他の人の役に立つことによって、正直に生きることによって、時針が生まれ、心の安定が生まれる。」※印(ウツっぽい人のテンプレ質問。つか、法王の講演聞いてたらこの質問はでないはず。)
(11)
問い「今回のテクストの作者であるツォンカパが法王にとってどういう方か教えてください」
DL「ツォンカパはお釈迦様の教えを解説したものだ。お釈迦様の教えはインドの賢者によって解説され、そしてツォンカパによって解説された。インドの賢者たちの著作は日本語があるはずだ。それを読みなさい」
(12)
問い「心の本質である光明は物質のもつエネルギーと同じですか」
DL「光明の心は愛である。これはエネルギーではあるが、物質のもつエネルギーとは異なるレベルのものである。」
(13)アングロ・サクソン系の男性
問い「法王は子牛の肉をたしなむとのことですが、世界の指導者が子牛を痛めつけて食べるというのはいかがなものか」※(この質問はサヨクのダライ・ラマの金時計批判と並んで、西洋人の批判者のテンプレ質問)
DL「チベットは標高が高く野菜が生育しない。昔から肉を食べ続けていた。1965-1967年まで二年間菜食主義になったが胆嚢を病んで、2008年には胆嚢をとった。※〔つまりチベット人の体は菜食に向かない。〕戒律でも僧侶は人に食べ物を布施されて生きているので、選り好みをしてはいけないことから、肉食を禁じてはない。しかし、インドにある難民社会では〔野菜がとれるので〕菜食をしている僧院もあるし、養豚場、養鶏場もない。」※(うーん、クレバーな答えだ)
(14)
問い「この前美術館でチベットの素晴らしい工芸品をたくさんみました。そして男女が合体したパワフルな仏をみたが、あのような表現について教えてほしい」※(これは密教に隠微なものをもとたいオジサンたちのテンプレ質問)
DL「匠の技だ。full stop!」(爆笑)
瞑想だけでは悟れない(法王横浜講演)
土曜日はダライ・ラマ法王の横浜講演にでかける。ものすごい人出で嬉しい。日本における法王の人気もやっと先進各国の下の方まで来たかという感じ。物事を曖昧にして白黒決しない日本人の欠点故、ホンモノが認識されるまでじつに半世紀の時を必要としたわけである。法王事務所のラクパさんのお話だと12000人入ったとのこと。いつもは平日だけど今回は土曜日だし、駅貼りのポスターが功を奏したのかも。
午前はツォンカパ著の『釈尊が縁起をお説きにになったことを褒め称える書 善説の心髄』(rten 'brel bstod pa 以下善説心髄)に関する講義である。そのあとはお昼の時間に行われる声明や音楽のパフォーマンスを挟んで、午後は、一般的な演題での講演。
『善説心髄』はチベット仏教の大成者である天才ツォンカパ(1357-1419)が、その哲学の神髄を完成した時に、感動のあまり著した短い詩である。フルタイトルの通り、「仏の教えの心髄は縁起である」ことを歌ったものである(経緯は『聖ツォンカパ伝』192頁を見てね)。
ここに説かれている哲学とは手短に言うと、世俗の真実(世俗諦)である縁起(すべてのものは何かに依存して存在している)と究極の真実(勝義諦)である空(すべてのものに実体はない)は実は異なるものではなく、「縁起しているが故に空である」という関係にあることである。ただし、解説の時間がたりず、途中から逐語解説がなくなり、とにかく「他者の役にたちたいという心」(菩提心)を起こすんだよ、と最後はラッシュ。
法王はまず、『解深密教』に説かれる、お釈迦様が生涯三種類の教えを説かれたという、いわゆる三転法輪の話からはじめられた。その、三転法輪とは
初転法輪 四聖諦(1. 苦しみという真理・2. 苦しみの原因は我執であるという真理・3.苦しみを滅するという真理 4.苦しみを滅するための修道という真理)
第二法輪 般若系経典 四聖諦の第三の真理にあたる
第三法輪 如来蔵系経典 四聖諦の第四の真理にあたる
で、このようなお釈迦様の教えはとくにインドのナーランダ大僧院で栄えて、このナーランダ出身のナーガールジュナが中観について、ダルマキールティ、ディグナーガとかが論理学などを説いた。
このナーガルジュナこう言っている
「真実のありようと一致しないものは、釈尊の言葉であっても言葉通りにうけとっては行けない」
これは仏様の教えには様々なものがあるため、時にはある教えとある教えが矛盾するかのように見えるが、それは弟子の資質にあわせて臨機応変にお釈迦差が説法してるいからである。つまり法王様がここでおっしゃりたいことは、「御釈迦様の言葉であるといってもそれを言葉通りに受け取るのではなく、ちゃんと分析してから理解しなさいよ」ということ。
そして、次にこのナーガールジュナの哲学が八世紀のチベットに伝わった話が続く。時のチベット王ティソンデツェン王がナーランダ大僧院からシャーンタラクシタを招き、彼は中観を説いて、そしてこの哲学を支える論理学もチベットに導入された。八世紀にはこのシャーンタラクシタが落慶したチベット初の大僧院、サムエにおいて中国禅を説く和尚と、インド仏教の哲学を奉じるカマラシーラとの間で論争が行われ、カマラシーラが勝利した。
この論争の際、和尚は瞑想(禅定、要するに座禅)するだけで悟れると主張したことに対し、インド仏教の代弁者であるカマラシーラは仏教哲学を勉強し、智慧を育むことによって悟ることができる、と主張した。つまり、勉強しなければいつまでたっても悟れないのである。
さてここからテクストの説明
●第一偈
〔縁起を〕見て〔それを〕説かれたため
〔釈尊は〕無上の智者であり、無上の師である
〔故に〕縁起を見て、それを説かれた
勝利者(仏陀)に礼拝いたします。
ここの解説のポイントは行ごとに前半と後半が対応していることである。つまり、
「縁起を見る」=「無上の智者」
「縁起を説く」=「無上師」
で、これをしたお釈迦様スゴーイ!!という意味である。
●そして、第二偈
この世のいかなる堕落も
その源は無知(無明)である
〔縁起を〕見ることにより、それ(無明)を滅することができるため
縁起〔の教え〕が説かれた。
●法王は縁起には2つの意味があると説く。
1つ目は「あらゆるものは原因に依存して存在している」という因果の法則という意味での縁起。
2つ目の意味とは「あらゆるものは他のものに依拠して名付けられただけの存在である」という意味での縁起。
●そして縁起が2つなので、それに対応して無知(無明)にも二種類あり、その説明とそれぞれに対する対処法を含めて以下のように説いた。
まず世俗レベルの無知とは「因果の法を知らないこと」なので、この愚かさを滅するためには「あらゆるものは原因に依存して存在している」と知ることである。これを知れば来世人や天人に生まれることができる。
次に、究極の意味での無知とは「ものごとの真実のあり方を知らないこと」である。この無知を滅するためには「あらゆるものは何らかの他のものに依存して考えられた(名付けられた)ものであるがゆえに空である」と知ることである。このタイプの無知を滅すると解脱の境地に至る。
●お釈迦様は「祈ることよって悟れる」などとは決して説いていない。四聖諦も「自分で自分の煩悩を滅して解脱しろ」と言っている。
●悟る、つまり、仏になるためには、善行を行い(福徳)智慧を育む(智慧)という二種類の資糧を積まねばならない。
・因果に基づく縁起を知ると、善いことをすれば善い結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果がでると理解できるので、他の人に害を与えることを慎み善行(福徳)を行うようになり、仏の色身(身体)が得られる。
・そして「他者の役に立ちたい」という菩提心を育むと、智慧の資糧を積んで、仏の法身(空性を悟っている智慧)が得られる。
この福徳と智慧の2つが揃うと仏になれるのである。
あらゆるものはそれ自身の力でなりたっているのではなく、他に依存して存在している。従って、意識の対象に対して実体を見いだしてはならない。世の中は戯論である。
●最後に、みなで菩提心(他者の役に立ちたいと思う心)の生起をやりましょう。
というわけで、以上の法王様の講義を端的にいうと、縁起の法を学ばずして、つまりは仏教哲学を勉強せずに、ただ瞑想してても悟れないよ。ものごとの有り様とは「すべて何らかのもの原因に依存してなりたっている」(縁起)ので、その実体なるものを探し求めても何もない(空)、ということなのである。
はいここで時間切れ。平岡センセが2つおいた席にいらっしゃったので、ご挨拶をし一緒にお昼に行く。平岡センセは昨日から横浜にいらしていて、法王がお泊まりのホテルの10階下に部屋をとっており、昨晩謁見されたそう。
今回は、密教の観想定番である、「世界中のすべての生き物が仏の姿に変わって自分自身にしみこんでいく」ことの意味について伺ってみたそう。法王様の答えはこれは世界をかたどったマンダラを自分の身1つに収斂する瞑想と同じで、体全体にめぐっている「風」(生命エネルギー)を心臓のところにある「不滅の滴」(死に際して最終的に顕現する意識)に収斂していくためのトレーニングだそうな。つまり、前者が器世間(環境世界)で、後者が情世間(その環境世界の中に住む生き物たち)を用いて、風を収斂するトレーニングをしているということ。
お昼は事務所の計らいで準備された立食パーティのお部屋でいただく。そのお部屋に法王さまが顔を出して下さり、ダンナ様と私と法王様という並びでスリーショットを撮ることに成功。しかして、その写真を見た院生のM
「先生、囚われの宇宙人みたいですね」
吹いた。
疲れたので午後の部は次のエントリーで。
午前はツォンカパ著の『釈尊が縁起をお説きにになったことを褒め称える書 善説の心髄』(rten 'brel bstod pa 以下善説心髄)に関する講義である。そのあとはお昼の時間に行われる声明や音楽のパフォーマンスを挟んで、午後は、一般的な演題での講演。
『善説心髄』はチベット仏教の大成者である天才ツォンカパ(1357-1419)が、その哲学の神髄を完成した時に、感動のあまり著した短い詩である。フルタイトルの通り、「仏の教えの心髄は縁起である」ことを歌ったものである(経緯は『聖ツォンカパ伝』192頁を見てね)。
ここに説かれている哲学とは手短に言うと、世俗の真実(世俗諦)である縁起(すべてのものは何かに依存して存在している)と究極の真実(勝義諦)である空(すべてのものに実体はない)は実は異なるものではなく、「縁起しているが故に空である」という関係にあることである。ただし、解説の時間がたりず、途中から逐語解説がなくなり、とにかく「他者の役にたちたいという心」(菩提心)を起こすんだよ、と最後はラッシュ。
法王はまず、『解深密教』に説かれる、お釈迦様が生涯三種類の教えを説かれたという、いわゆる三転法輪の話からはじめられた。その、三転法輪とは
初転法輪 四聖諦(1. 苦しみという真理・2. 苦しみの原因は我執であるという真理・3.苦しみを滅するという真理 4.苦しみを滅するための修道という真理)
第二法輪 般若系経典 四聖諦の第三の真理にあたる
第三法輪 如来蔵系経典 四聖諦の第四の真理にあたる
で、このようなお釈迦様の教えはとくにインドのナーランダ大僧院で栄えて、このナーランダ出身のナーガールジュナが中観について、ダルマキールティ、ディグナーガとかが論理学などを説いた。
このナーガルジュナこう言っている
「真実のありようと一致しないものは、釈尊の言葉であっても言葉通りにうけとっては行けない」
これは仏様の教えには様々なものがあるため、時にはある教えとある教えが矛盾するかのように見えるが、それは弟子の資質にあわせて臨機応変にお釈迦差が説法してるいからである。つまり法王様がここでおっしゃりたいことは、「御釈迦様の言葉であるといってもそれを言葉通りに受け取るのではなく、ちゃんと分析してから理解しなさいよ」ということ。
そして、次にこのナーガールジュナの哲学が八世紀のチベットに伝わった話が続く。時のチベット王ティソンデツェン王がナーランダ大僧院からシャーンタラクシタを招き、彼は中観を説いて、そしてこの哲学を支える論理学もチベットに導入された。八世紀にはこのシャーンタラクシタが落慶したチベット初の大僧院、サムエにおいて中国禅を説く和尚と、インド仏教の哲学を奉じるカマラシーラとの間で論争が行われ、カマラシーラが勝利した。
この論争の際、和尚は瞑想(禅定、要するに座禅)するだけで悟れると主張したことに対し、インド仏教の代弁者であるカマラシーラは仏教哲学を勉強し、智慧を育むことによって悟ることができる、と主張した。つまり、勉強しなければいつまでたっても悟れないのである。
さてここからテクストの説明
●第一偈
〔縁起を〕見て〔それを〕説かれたため
〔釈尊は〕無上の智者であり、無上の師である
〔故に〕縁起を見て、それを説かれた
勝利者(仏陀)に礼拝いたします。
ここの解説のポイントは行ごとに前半と後半が対応していることである。つまり、
「縁起を見る」=「無上の智者」
「縁起を説く」=「無上師」
で、これをしたお釈迦様スゴーイ!!という意味である。
●そして、第二偈
この世のいかなる堕落も
その源は無知(無明)である
〔縁起を〕見ることにより、それ(無明)を滅することができるため
縁起〔の教え〕が説かれた。
●法王は縁起には2つの意味があると説く。
1つ目は「あらゆるものは原因に依存して存在している」という因果の法則という意味での縁起。
2つ目の意味とは「あらゆるものは他のものに依拠して名付けられただけの存在である」という意味での縁起。
●そして縁起が2つなので、それに対応して無知(無明)にも二種類あり、その説明とそれぞれに対する対処法を含めて以下のように説いた。
まず世俗レベルの無知とは「因果の法を知らないこと」なので、この愚かさを滅するためには「あらゆるものは原因に依存して存在している」と知ることである。これを知れば来世人や天人に生まれることができる。
次に、究極の意味での無知とは「ものごとの真実のあり方を知らないこと」である。この無知を滅するためには「あらゆるものは何らかの他のものに依存して考えられた(名付けられた)ものであるがゆえに空である」と知ることである。このタイプの無知を滅すると解脱の境地に至る。
●お釈迦様は「祈ることよって悟れる」などとは決して説いていない。四聖諦も「自分で自分の煩悩を滅して解脱しろ」と言っている。
●悟る、つまり、仏になるためには、善行を行い(福徳)智慧を育む(智慧)という二種類の資糧を積まねばならない。
・因果に基づく縁起を知ると、善いことをすれば善い結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果がでると理解できるので、他の人に害を与えることを慎み善行(福徳)を行うようになり、仏の色身(身体)が得られる。
・そして「他者の役に立ちたい」という菩提心を育むと、智慧の資糧を積んで、仏の法身(空性を悟っている智慧)が得られる。
この福徳と智慧の2つが揃うと仏になれるのである。
あらゆるものはそれ自身の力でなりたっているのではなく、他に依存して存在している。従って、意識の対象に対して実体を見いだしてはならない。世の中は戯論である。
●最後に、みなで菩提心(他者の役に立ちたいと思う心)の生起をやりましょう。
というわけで、以上の法王様の講義を端的にいうと、縁起の法を学ばずして、つまりは仏教哲学を勉強せずに、ただ瞑想してても悟れないよ。ものごとの有り様とは「すべて何らかのもの原因に依存してなりたっている」(縁起)ので、その実体なるものを探し求めても何もない(空)、ということなのである。
はいここで時間切れ。平岡センセが2つおいた席にいらっしゃったので、ご挨拶をし一緒にお昼に行く。平岡センセは昨日から横浜にいらしていて、法王がお泊まりのホテルの10階下に部屋をとっており、昨晩謁見されたそう。
今回は、密教の観想定番である、「世界中のすべての生き物が仏の姿に変わって自分自身にしみこんでいく」ことの意味について伺ってみたそう。法王様の答えはこれは世界をかたどったマンダラを自分の身1つに収斂する瞑想と同じで、体全体にめぐっている「風」(生命エネルギー)を心臓のところにある「不滅の滴」(死に際して最終的に顕現する意識)に収斂していくためのトレーニングだそうな。つまり、前者が器世間(環境世界)で、後者が情世間(その環境世界の中に住む生き物たち)を用いて、風を収斂するトレーニングをしているということ。
お昼は事務所の計らいで準備された立食パーティのお部屋でいただく。そのお部屋に法王さまが顔を出して下さり、ダンナ様と私と法王様という並びでスリーショットを撮ることに成功。しかして、その写真を見た院生のM
「先生、囚われの宇宙人みたいですね」
吹いた。
疲れたので午後の部は次のエントリーで。
中央線の呪い
ダライ・ラマ猊下75才生誕記念にトークやります。
お仕事帰りにどうぞ!
演題「チベット仏教のマンダラ」
日時: 7月2日 19:00 場所:あいだみつを美術館
会場では大日経の砂マンダラが作られています!
詳しく知りたい方、ここクリック
日曜日、西荻窪の雑貨や兼カフェ旅茶箱さんで行われている、チベットの写真展を見に行く
旅茶箱というお店は、入り口の掲示板といい、本棚の本の内容といい、インドのバックパッカー御用達の安宿がそのまま勧請されてきた感じ。
お店のテーブルの一角では、日替わりで、アラビア語、中国語、韓国語、トルコ語などのリーゾナブルな勉強会が行われているとのこと(店内に掲げられた予定ボードの情報に基づく)。祭壇にはチベットのお香が煙をあげており、雑貨はインドのものが大半。
チベットの写真はつきあたりのソファ・スペースにあり美しい写真が多い。サムエ大僧院の空撮とか、ラブラン、クンブムなどの最近の写真とかもなかなか参考になった。
で、その脇にはSFTの紹介とか、チベット人にとってのダライ・ラマとかの説明もちゃんとしてあり、かつ、チベット関連書籍が手にとってその場でよめるようになっている(若干旅ものに比重が置かれているけど、会場が会場だから)。
本を手にとってソファに座ると、何か超若い頃にとまったインドの宿を思い出す。で、私が読書していると横に四人連れの女性グルーブがきて、どうもチベットのことをあまり知らないようなので、「チベット、いいとこですよ」営業をかける(笑)。すると、彼らはこの写真展を知る契機になった、別の展示会の存在を教えてくれた。
じつは、そのあとチベット医学の勉強会があったのだが、時間に余裕があったので、その彼らの教えてくれた展示会に行くことにする。今度は西荻窪の南口に出て、ちょっと歩くと、貸しギャラリーがあり「Himalayan Natural Arts 水晶展示即売会」をやっていた。その狭いギャラリーには、カイラス周辺とかで掘りだされた水晶の結晶の原石や、水晶の加工品の数珠や玉やアクセとかをグラム単位で販売していた。
販売している人はトランス系のクラブに出入りしてそうないでたちで、「掌に水晶をのせたら、水晶の波動で熱くなる」とかいう会話がとびかっている。で、結晶やアクセがホイホイ売れていく、人はまじないグッズにヨワイ。
ちなみに、私はまじないグッズは身につけていない。唯一それっぽいのは母の形見の金のペンダントだけ。指輪も腕輪も貴石もなし。何かに頼ると結局はそれに依存してにぶって弱くなるような気がするので、自分の身は自力で守ることをモットーとしているのである(いや単に面倒臭いだけ 笑)。
しかし、ここまできて、西荻の濃さに徐々に気がつきはじめる。わたしは東急線沿線の住人であるため、中央線沿線を利用することはまあない。この前中央線の駅を利用したのは何と2008年のチベット蜂起の年に中野のポレポレ座で行われたチベットイベントに行って以来である。
あの時の記憶とあわせても、中央線沿線の雰囲気って東急線沿線と全然違う。一言でいうと70年代、80年代のスピリチュアル、ヒッピー文化が現役で残っているかんじ。妙に目につく新宗教の施設や占いの店、古本屋、さらにエスニック雑貨の店。
そいえばうちの駅前なんかこの二十年で面目を一新しているのに、どうも高円寺とか中野とか西荻窪って何十年も前にきた時と、駅前の雰囲気があまりかわっていない様な気がする。つまり、全国で死に絶えていった商店街がいまだ健在なのである。しかも、その商店の一つ一つが濃い。うちの近辺で死に絶えた個人経営の本屋も西荻にはまだたくさんあり、入ってみると一つ一つの本屋さんに個性があって、宗教関係ならそれ一本、旅関係ならそればかりと、品揃えに工夫がある。だから、個人経営でも死なないのだと納得。
そしてアビアントという針金細工の店で、オカメインコをゲットォ!!!私の特殊な趣味にも細やかに答えることのできるこのラインナップ、恐るべし、西荻。で次に入った古本屋で(勉強会の時間大丈夫なのかよ)、私は沙漠で神にであって道を知らされたように、一冊の本に出会うこととなる。その名も
三善 里沙子著「中央線の呪い」
裏表紙のアオリから、この本は私が今いる場所がどういう場所なのかを教えてくれる本だと直感。1993年に出た本なのに版を重ね今も売れ続けているという。以下アオリ・・
高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪…中央線沿線に住むと、人は知らず知らず“中央線の呪い”を受けるという。その“呪い”にかかってDNAが中央線人化すると、能書きを垂れて金を出さずに口を出すようになり、食べ物にうるさくなり、ズルズルがやめられなくなるばかりか、頑固でしかも天の邪鬼になる!?呑み屋、旨い物屋、古本屋、猫、インド服、パンク、ヒッピー、エコロジー…ヘンテコなものが集中する中央線。一度住んだらヤメられない中央線。その魔力を痛快に解き明かす!魔界(沿線の町)ガイドとしてもどうぞ。
どうも中央線沿線に住むと、反権力、反お金持、マイノリティ大好き、だけどよそ者嫌いの常連主義になるらしい。ああ、だから、メジャーが相手にしてくれないチベット関係の催しものはみなこの沿線で行われるのね。
本書によると、中央線は富士山から江戸城に流れ込む龍脈の上にあり、大本教の教祖様によると〔西〕荻窪は神が空から降臨した土地なのだそうな。あー、だから新宗教の道場が多いのか~、と納得。
つまり、中央線沿線は日本のインドなんだ~ なーんて、感心しているうちに、勉強会に遅刻。いやまた絶対行くね。
お仕事帰りにどうぞ!
演題「チベット仏教のマンダラ」
日時: 7月2日 19:00 場所:あいだみつを美術館
会場では大日経の砂マンダラが作られています!
詳しく知りたい方、ここクリック
日曜日、西荻窪の雑貨や兼カフェ旅茶箱さんで行われている、チベットの写真展を見に行く
旅茶箱というお店は、入り口の掲示板といい、本棚の本の内容といい、インドのバックパッカー御用達の安宿がそのまま勧請されてきた感じ。
お店のテーブルの一角では、日替わりで、アラビア語、中国語、韓国語、トルコ語などのリーゾナブルな勉強会が行われているとのこと(店内に掲げられた予定ボードの情報に基づく)。祭壇にはチベットのお香が煙をあげており、雑貨はインドのものが大半。
チベットの写真はつきあたりのソファ・スペースにあり美しい写真が多い。サムエ大僧院の空撮とか、ラブラン、クンブムなどの最近の写真とかもなかなか参考になった。
で、その脇にはSFTの紹介とか、チベット人にとってのダライ・ラマとかの説明もちゃんとしてあり、かつ、チベット関連書籍が手にとってその場でよめるようになっている(若干旅ものに比重が置かれているけど、会場が会場だから)。
本を手にとってソファに座ると、何か超若い頃にとまったインドの宿を思い出す。で、私が読書していると横に四人連れの女性グルーブがきて、どうもチベットのことをあまり知らないようなので、「チベット、いいとこですよ」営業をかける(笑)。すると、彼らはこの写真展を知る契機になった、別の展示会の存在を教えてくれた。
じつは、そのあとチベット医学の勉強会があったのだが、時間に余裕があったので、その彼らの教えてくれた展示会に行くことにする。今度は西荻窪の南口に出て、ちょっと歩くと、貸しギャラリーがあり「Himalayan Natural Arts 水晶展示即売会」をやっていた。その狭いギャラリーには、カイラス周辺とかで掘りだされた水晶の結晶の原石や、水晶の加工品の数珠や玉やアクセとかをグラム単位で販売していた。
販売している人はトランス系のクラブに出入りしてそうないでたちで、「掌に水晶をのせたら、水晶の波動で熱くなる」とかいう会話がとびかっている。で、結晶やアクセがホイホイ売れていく、人はまじないグッズにヨワイ。
ちなみに、私はまじないグッズは身につけていない。唯一それっぽいのは母の形見の金のペンダントだけ。指輪も腕輪も貴石もなし。何かに頼ると結局はそれに依存してにぶって弱くなるような気がするので、自分の身は自力で守ることをモットーとしているのである(いや単に面倒臭いだけ 笑)。
しかし、ここまできて、西荻の濃さに徐々に気がつきはじめる。わたしは東急線沿線の住人であるため、中央線沿線を利用することはまあない。この前中央線の駅を利用したのは何と2008年のチベット蜂起の年に中野のポレポレ座で行われたチベットイベントに行って以来である。
あの時の記憶とあわせても、中央線沿線の雰囲気って東急線沿線と全然違う。一言でいうと70年代、80年代のスピリチュアル、ヒッピー文化が現役で残っているかんじ。妙に目につく新宗教の施設や占いの店、古本屋、さらにエスニック雑貨の店。
そいえばうちの駅前なんかこの二十年で面目を一新しているのに、どうも高円寺とか中野とか西荻窪って何十年も前にきた時と、駅前の雰囲気があまりかわっていない様な気がする。つまり、全国で死に絶えていった商店街がいまだ健在なのである。しかも、その商店の一つ一つが濃い。うちの近辺で死に絶えた個人経営の本屋も西荻にはまだたくさんあり、入ってみると一つ一つの本屋さんに個性があって、宗教関係ならそれ一本、旅関係ならそればかりと、品揃えに工夫がある。だから、個人経営でも死なないのだと納得。
そしてアビアントという針金細工の店で、オカメインコをゲットォ!!!私の特殊な趣味にも細やかに答えることのできるこのラインナップ、恐るべし、西荻。で次に入った古本屋で(勉強会の時間大丈夫なのかよ)、私は沙漠で神にであって道を知らされたように、一冊の本に出会うこととなる。その名も
三善 里沙子著「中央線の呪い」
裏表紙のアオリから、この本は私が今いる場所がどういう場所なのかを教えてくれる本だと直感。1993年に出た本なのに版を重ね今も売れ続けているという。以下アオリ・・
高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪…中央線沿線に住むと、人は知らず知らず“中央線の呪い”を受けるという。その“呪い”にかかってDNAが中央線人化すると、能書きを垂れて金を出さずに口を出すようになり、食べ物にうるさくなり、ズルズルがやめられなくなるばかりか、頑固でしかも天の邪鬼になる!?呑み屋、旨い物屋、古本屋、猫、インド服、パンク、ヒッピー、エコロジー…ヘンテコなものが集中する中央線。一度住んだらヤメられない中央線。その魔力を痛快に解き明かす!魔界(沿線の町)ガイドとしてもどうぞ。
どうも中央線沿線に住むと、反権力、反お金持、マイノリティ大好き、だけどよそ者嫌いの常連主義になるらしい。ああ、だから、メジャーが相手にしてくれないチベット関係の催しものはみなこの沿線で行われるのね。
本書によると、中央線は富士山から江戸城に流れ込む龍脈の上にあり、大本教の教祖様によると〔西〕荻窪は神が空から降臨した土地なのだそうな。あー、だから新宗教の道場が多いのか~、と納得。
つまり、中央線沿線は日本のインドなんだ~ なーんて、感心しているうちに、勉強会に遅刻。いやまた絶対行くね。
チベット折り鶴
本日、ダライ・ラマ法王が成田に到着。今回のメイン招聘元は長野の善光寺さま。2008年の●京オリンピックの際に、聖火リレーの出発時点を辞退したため、フリー・チベットの聖地となったあの清き寺である。
そのあと、金沢での講演などをへて来週は横浜に移ってご講演です。ここのところ毎回十一月に来日されていたので、梅雨の日本の湿気が申し訳ない。まあインドにも雨期はあるから大丈夫か。
来日記念に縁起物(?)のORIGAMIのご紹介。ある日、ゼミのSNちゃんがチベット国旗と合体した折鶴を折ってきてくれた。
はい、これごらんください。この12羽の鶴と国旗はまとめて一枚の紙から折られたものです。すごいでしょ!

素人さんはたぶんもう少し簡単なところで、一枚の紙から国旗一つに鶴二羽をおるののやり方を伝授します。ここにpdfでSNちゃんみずから書いてくれた折り方図解をつけます。
ちょっと変わり鶴になってますが、できあがりはこんな感じになります。
真ん中の国旗は好みでいろいろ変えてみてください。

SNちゃんありがとう! 彼女は手製のとびだすオカメインコカードもプレゼントしてくれて、女の子って手先が器用!(オノレは女じゃないのか 笑)
パユルから
ダライ・ラマを歓迎する官僚がいない日本(phayul June 17, 2010)
No Official Welcome For The Dalai Lama
ダライ・ラマが二月にワシントン訪れた際、バラク・オバマ大統領がダライ・ラマをホワイトハウスでもてなした。チベットの指導者の一週間にわたる東京滞在の間、猊下はいかなる政治家ともあう計画はない(ツェワン・ゲルポ・アリヤ氏談)。
When the Dalai Lama visited Washington in February, President Barack Obama hosted him at the White House. During the exiled Tibetan leader’s week-long visit to Tokyo starting this Sunday, “His Holiness has no plans to meet any political figures,” according to spokesman Tsewang Gyalpo Arya.
ダライ・ラマが菅直人首相を訪れない、すなわち日本の指導者に避けられるのはこれが初めてではない。ダライ・ラマは去年の十一月にも日本を訪れた時、鳩山由紀夫に避けられている。鳩山氏は日本の民主党のメンバーと付随する政策立案者のグループを通じて非公式のメッセージをダライ・ラマに送りはしたが。
The Dalai’s Lama’s non-visit with Prime Minister Naoto Kan is not the first time he has been shunned by a Japanese leader. The Dalai Lama was also given a wide berth by Yukio Hatoyama when visiting last November, although it was reported that Mr. Hatoyama sent an unofficial message to him through a member of the ruling Democratic Party of Japan and an accompanying group of policy makers.
外務省の中国・モンゴル局によると「ダライ・ラマはただ宗教的な目的のために日本を訪れている。したがってダライ・ラマが日本の首相と公式の席で会う機会はない。」ダライ・ラマの来日は北京を怒らせないか、と聞くと、その官僚はコメントを拒否した。
An official at the foreign ministry’s China and Mongolia division told JRT: “The Dalai Lama only visits Japan for religious purposes and so there has never been an opportunity for him to meet with a Japanese prime minister in an official capacity.” When asked if this was for fear of angering Beijing, the official declined to comment.
民主党は中国とより密接な絆を結ぶことを採択した。中国の温家宝首相は鳩山氏が辞職する直前に先月東京を訪れ、日本の新首相が中国を訪問するように誘い、菅氏はそれを承諾した。
The DPJ has advocated closer ties with China. Chinese Premier Wen Jibao visited Tokyo late last month, shortly before Mr. Hatoyama’s resignation, and has already invited the new Japanese prime minister to visit China ? and invitation Mr. Kan has accepted.
ダライ・ラマの旅の公式の目的は宗教的・文化的なものであるものの、6/20日に善光寺を訪れることは政治的なニュアンスがある。このお寺は二年前北京オリンピックの聖火リレーを主宰することを拒否した時、国際的なメディアの騒動のまっただ中ににあった。この行為は当時チベットで起きていた宗教的な衝突に抗議してのことであった。
Although the official purpose of the Dalai Lama’s trip may be religious and cultural, his visit to Zenkoji on June 20, a 7th century temple in Nagano, carries political overtones. The temple became the centrer of an international media furor two years ago when it refused to host the Japan leg of the Beijing Olympic torch relay. This was in protest against the religious clashes taking place in Tibet at the time.
そのあと、金沢での講演などをへて来週は横浜に移ってご講演です。ここのところ毎回十一月に来日されていたので、梅雨の日本の湿気が申し訳ない。まあインドにも雨期はあるから大丈夫か。
来日記念に縁起物(?)のORIGAMIのご紹介。ある日、ゼミのSNちゃんがチベット国旗と合体した折鶴を折ってきてくれた。
はい、これごらんください。この12羽の鶴と国旗はまとめて一枚の紙から折られたものです。すごいでしょ!

素人さんはたぶんもう少し簡単なところで、一枚の紙から国旗一つに鶴二羽をおるののやり方を伝授します。ここにpdfでSNちゃんみずから書いてくれた折り方図解をつけます。
ちょっと変わり鶴になってますが、できあがりはこんな感じになります。
真ん中の国旗は好みでいろいろ変えてみてください。

SNちゃんありがとう! 彼女は手製のとびだすオカメインコカードもプレゼントしてくれて、女の子って手先が器用!(オノレは女じゃないのか 笑)
パユルから
ダライ・ラマを歓迎する官僚がいない日本(phayul June 17, 2010)
No Official Welcome For The Dalai Lama
ダライ・ラマが二月にワシントン訪れた際、バラク・オバマ大統領がダライ・ラマをホワイトハウスでもてなした。チベットの指導者の一週間にわたる東京滞在の間、猊下はいかなる政治家ともあう計画はない(ツェワン・ゲルポ・アリヤ氏談)。
When the Dalai Lama visited Washington in February, President Barack Obama hosted him at the White House. During the exiled Tibetan leader’s week-long visit to Tokyo starting this Sunday, “His Holiness has no plans to meet any political figures,” according to spokesman Tsewang Gyalpo Arya.
ダライ・ラマが菅直人首相を訪れない、すなわち日本の指導者に避けられるのはこれが初めてではない。ダライ・ラマは去年の十一月にも日本を訪れた時、鳩山由紀夫に避けられている。鳩山氏は日本の民主党のメンバーと付随する政策立案者のグループを通じて非公式のメッセージをダライ・ラマに送りはしたが。
The Dalai’s Lama’s non-visit with Prime Minister Naoto Kan is not the first time he has been shunned by a Japanese leader. The Dalai Lama was also given a wide berth by Yukio Hatoyama when visiting last November, although it was reported that Mr. Hatoyama sent an unofficial message to him through a member of the ruling Democratic Party of Japan and an accompanying group of policy makers.
外務省の中国・モンゴル局によると「ダライ・ラマはただ宗教的な目的のために日本を訪れている。したがってダライ・ラマが日本の首相と公式の席で会う機会はない。」ダライ・ラマの来日は北京を怒らせないか、と聞くと、その官僚はコメントを拒否した。
An official at the foreign ministry’s China and Mongolia division told JRT: “The Dalai Lama only visits Japan for religious purposes and so there has never been an opportunity for him to meet with a Japanese prime minister in an official capacity.” When asked if this was for fear of angering Beijing, the official declined to comment.
民主党は中国とより密接な絆を結ぶことを採択した。中国の温家宝首相は鳩山氏が辞職する直前に先月東京を訪れ、日本の新首相が中国を訪問するように誘い、菅氏はそれを承諾した。
The DPJ has advocated closer ties with China. Chinese Premier Wen Jibao visited Tokyo late last month, shortly before Mr. Hatoyama’s resignation, and has already invited the new Japanese prime minister to visit China ? and invitation Mr. Kan has accepted.
ダライ・ラマの旅の公式の目的は宗教的・文化的なものであるものの、6/20日に善光寺を訪れることは政治的なニュアンスがある。このお寺は二年前北京オリンピックの聖火リレーを主宰することを拒否した時、国際的なメディアの騒動のまっただ中ににあった。この行為は当時チベットで起きていた宗教的な衝突に抗議してのことであった。
Although the official purpose of the Dalai Lama’s trip may be religious and cultural, his visit to Zenkoji on June 20, a 7th century temple in Nagano, carries political overtones. The temple became the centrer of an international media furor two years ago when it refused to host the Japan leg of the Beijing Olympic torch relay. This was in protest against the religious clashes taking place in Tibet at the time.
ヒーローの孤独
最近、ロバート・ダウニー・ジュニアのファンなもんで、封切られたばかりのアイアンマン2を見に行く。ファンになったきっかけは『トロピック・サンダー史上最低の作戦』で黒人になりきる白人の役をした彼に大笑いさせてもらったから。
前回の彼の主演作『シャーロック・ホームズ』もなかなかよかった。いろいろいう人もいるけど、あれ原作に忠実なんだよね。ヴィクトリア朝の男たちは、じつはとても男臭くて体育会だったからね。
ネタバレ炸裂で話をさせてもらう。ロバートの役所は巨大軍需産業スターク社のCEO、トニー・スタークである。
トニーは物理学の天才で20才で事故死した両親の跡を継いでスターク社を相続した。しかし、会社の経営は他人にまかせっぱなしで、自分のラボで発明・研究ばかりしてあとは遊び暮らすという天才肌。そのうち、社内のワルが、トニーの発明した技術を金儲けに利用しようとして、彼を拉致監禁、協力を迫るが、彼は協力するとみせかけて、武装ハイテク・スーツを開発してそれ着て自力で逃げ出す。アイアン・マンとなった彼は社内外のワルをたたきのめす。
ここまでが前作である。そして今回。アイアン・マンはヒーローとして世界中の人々に慕われている。なにしろどの国にも属さない最強の兵器が民間に存在するため、かえって国家間には平和が保たれ、「世界平和が民営化」されたからだ。
アメリカ軍はトニーにアイアン・マンの技術をわたすように執拗に要求しているが、アメリカ軍にいまいち信をおけないトニーは(今までのアメリカの行動みたら確かに分からんでもない 笑)、北朝鮮やイランがアイアン・マンの技術をコピーするのは二十年以上かかる、とアメリカ軍の提案を却下する。
しかし、賞賛の渦の中にいるトニーを嫉妬と怒りによってにらみつけるロシア人がいた。彼はトニーの父ちゃんの研究パートナーだったロシア人ヴァンコの息子イワンである。ヴァンコはかつてトニーの父ちゃんと二人で発明した新技術をヤバイ国に金儲けのために売ろうとし、トニーの父ちゃんにソ連に追い返された。息子イワンは父親のルサンチマンを聞きながら育ったためスターク一族に対する恨みは骨髄に達していた。
世界平和を考えて国ともガチの勝負をしているトニーに対して、イワンの頭には父ちゃんの受けた屈辱の仕返しかない。同じ天才でも育った環境が違うとこうもその頭の使い道が違ってくるという一例である。
イワンはペンタゴンの武器商人ハマーを後ろ盾にしてワル・ロボットの戦隊を作り上げる。ハマーはとにかく笑っちゃうくらい無能な実業家として描かれていて、こういうのがペンタゴンの御用商人になっていて、トニーのような天才が協力しないあたりに、アメリカ軍に対する作者の評価がすけてみえて笑える。
しかし、今回最大の敵は、じつはロシアからきたファザコンの復讐魔イワンではない。本当の敵はトニー自身の「自らの死」、そして「父親に愛されなかったという自信のなさ」。
トニーは前作で監禁から逃げ出す際に自分の心臓にパラジウム・リアクターを埋め込んだのだが、パラジウムの毒素が体にまわってじつはもう長くない。しかし、彼はそのことを恋人でもあり自分の秘書であるミス・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)にも、友人の中佐ローズ(ドン・チードル)にも打ち明けられない。
前者の背後には自分の技術をまもっていく自分の会社があるし、後者の背後には自分の技術をほしがっているアメリカ軍がいるからだ。そこで、トニーはたった一人で苦しみまくる。そして結局、恋人に会社をゆずり。親友にわざと愛想を尽かさせてアイアン・マンスーツを奪わせて軍にわたすことにする。
トニーはその置かれている立場から、迫り来る死に対して、死の恐怖以外の、世界平和とか、その技術をささえる会社の未来とかも考えなければいけない。恋人にも親友にも自分の不安を話すことのできない絶対的な孤独にある。ヒーローの孤独、これこそがこの映画のテーマなのである。
そいえば、バットマンも、スパイダーマンも孤独だったのう。
大きな力は大きな責任を生む。正気の天才は孤独なのである。
それに比べてバカは楽で良い。ハマーはお金儲けしか考えていないし、イワンは復讐しか考えていないし、軍隊はトニーの技術をパクることしか考えていない。バカは気楽だから世の中のほとんどの人はバカになりたがる。
今のアメリカで各分野のトップにいる人は多かれ少なかれこの孤独を感じているのだろう。彼らは自分以外の他者のこと、世界のことを考えざるをえない。この孤独はそういうアメリカ人にしか本当の意味ではわからん部分だろうな。アジア人はハマー、とかイワンの立ち位置だからな。
で、トニーを救うのは結局自分自身なのである。
トニーが20才の時に死んだオヤジはじつは早熟の天才である息子トニーを愛していた。「私最大の創作品は息子である」という映像を見つけてトニーは親に愛されていたことを知る。さらに、父親が「今の技術では実現は不可能だが、お前の時代には可能となっているだろう」という言葉にインスパイアされて新元素(笑)をつくりだし、副作用の多いパラジウム・リアクターを使わなくてすむようになる。
父親が死後二十年たって息子を導き、その命を救ったのである。育ちがいいってすばらしいね。死後もその息子をミスリードするイワンのオヤジとは大違い。イワンももっと真っ当な親に育てられていたら、普通にその天才で成功しただろうね。
というわけで、ヒーローの真の敵は自分の煩悩、そしてそれを救うのもまた自分という、これもまたアメコミの隠されたテーマの一つなのであったった。
前回の彼の主演作『シャーロック・ホームズ』もなかなかよかった。いろいろいう人もいるけど、あれ原作に忠実なんだよね。ヴィクトリア朝の男たちは、じつはとても男臭くて体育会だったからね。
ネタバレ炸裂で話をさせてもらう。ロバートの役所は巨大軍需産業スターク社のCEO、トニー・スタークである。
トニーは物理学の天才で20才で事故死した両親の跡を継いでスターク社を相続した。しかし、会社の経営は他人にまかせっぱなしで、自分のラボで発明・研究ばかりしてあとは遊び暮らすという天才肌。そのうち、社内のワルが、トニーの発明した技術を金儲けに利用しようとして、彼を拉致監禁、協力を迫るが、彼は協力するとみせかけて、武装ハイテク・スーツを開発してそれ着て自力で逃げ出す。アイアン・マンとなった彼は社内外のワルをたたきのめす。
ここまでが前作である。そして今回。アイアン・マンはヒーローとして世界中の人々に慕われている。なにしろどの国にも属さない最強の兵器が民間に存在するため、かえって国家間には平和が保たれ、「世界平和が民営化」されたからだ。
アメリカ軍はトニーにアイアン・マンの技術をわたすように執拗に要求しているが、アメリカ軍にいまいち信をおけないトニーは(今までのアメリカの行動みたら確かに分からんでもない 笑)、北朝鮮やイランがアイアン・マンの技術をコピーするのは二十年以上かかる、とアメリカ軍の提案を却下する。
しかし、賞賛の渦の中にいるトニーを嫉妬と怒りによってにらみつけるロシア人がいた。彼はトニーの父ちゃんの研究パートナーだったロシア人ヴァンコの息子イワンである。ヴァンコはかつてトニーの父ちゃんと二人で発明した新技術をヤバイ国に金儲けのために売ろうとし、トニーの父ちゃんにソ連に追い返された。息子イワンは父親のルサンチマンを聞きながら育ったためスターク一族に対する恨みは骨髄に達していた。
世界平和を考えて国ともガチの勝負をしているトニーに対して、イワンの頭には父ちゃんの受けた屈辱の仕返しかない。同じ天才でも育った環境が違うとこうもその頭の使い道が違ってくるという一例である。
イワンはペンタゴンの武器商人ハマーを後ろ盾にしてワル・ロボットの戦隊を作り上げる。ハマーはとにかく笑っちゃうくらい無能な実業家として描かれていて、こういうのがペンタゴンの御用商人になっていて、トニーのような天才が協力しないあたりに、アメリカ軍に対する作者の評価がすけてみえて笑える。
しかし、今回最大の敵は、じつはロシアからきたファザコンの復讐魔イワンではない。本当の敵はトニー自身の「自らの死」、そして「父親に愛されなかったという自信のなさ」。
トニーは前作で監禁から逃げ出す際に自分の心臓にパラジウム・リアクターを埋め込んだのだが、パラジウムの毒素が体にまわってじつはもう長くない。しかし、彼はそのことを恋人でもあり自分の秘書であるミス・ポッツ(グウィネス・パルトロウ)にも、友人の中佐ローズ(ドン・チードル)にも打ち明けられない。
前者の背後には自分の技術をまもっていく自分の会社があるし、後者の背後には自分の技術をほしがっているアメリカ軍がいるからだ。そこで、トニーはたった一人で苦しみまくる。そして結局、恋人に会社をゆずり。親友にわざと愛想を尽かさせてアイアン・マンスーツを奪わせて軍にわたすことにする。
トニーはその置かれている立場から、迫り来る死に対して、死の恐怖以外の、世界平和とか、その技術をささえる会社の未来とかも考えなければいけない。恋人にも親友にも自分の不安を話すことのできない絶対的な孤独にある。ヒーローの孤独、これこそがこの映画のテーマなのである。
そいえば、バットマンも、スパイダーマンも孤独だったのう。
大きな力は大きな責任を生む。正気の天才は孤独なのである。
それに比べてバカは楽で良い。ハマーはお金儲けしか考えていないし、イワンは復讐しか考えていないし、軍隊はトニーの技術をパクることしか考えていない。バカは気楽だから世の中のほとんどの人はバカになりたがる。
今のアメリカで各分野のトップにいる人は多かれ少なかれこの孤独を感じているのだろう。彼らは自分以外の他者のこと、世界のことを考えざるをえない。この孤独はそういうアメリカ人にしか本当の意味ではわからん部分だろうな。アジア人はハマー、とかイワンの立ち位置だからな。
で、トニーを救うのは結局自分自身なのである。
トニーが20才の時に死んだオヤジはじつは早熟の天才である息子トニーを愛していた。「私最大の創作品は息子である」という映像を見つけてトニーは親に愛されていたことを知る。さらに、父親が「今の技術では実現は不可能だが、お前の時代には可能となっているだろう」という言葉にインスパイアされて新元素(笑)をつくりだし、副作用の多いパラジウム・リアクターを使わなくてすむようになる。
父親が死後二十年たって息子を導き、その命を救ったのである。育ちがいいってすばらしいね。死後もその息子をミスリードするイワンのオヤジとは大違い。イワンももっと真っ当な親に育てられていたら、普通にその天才で成功しただろうね。
というわけで、ヒーローの真の敵は自分の煩悩、そしてそれを救うのもまた自分という、これもまたアメコミの隠されたテーマの一つなのであったった。
チベットのミスコン
ダラムサラ在住のNさんのブログでダラムサラで開催されたミスコンについて書かれていた。
なぜ、亡国の非常時にあってお気楽にミスコンしているのかって? もちろん、かなり仕方なくてやっていることである。
チベット人には国がないので、国単位で参加するようなイベントに参加して存在感を示すことができない。しかし、たとえばサッカーとか、ミスコンとかは国単位でなく地域単位などで参加が認められているため、少しでも「チベット」を認知してもらうために、このようなミスマッチな努力を強いられる事態となっているのである。まあ、チベット人楽しんでいるからいいけど。
しかし、何と水着審査まであるそうで(本大会であるから仕方ないのだろうが)、やはりかなりの娘さんがどん引いて参加しないそうな。そういえば自分も大学生だった頃、大学内のミスコンに参加しないかと勧誘されたけど、「水着審査」の一言で参加やめたよ。なぜかはご想像に任せます(笑)。
もともとチベット服も肌を露出しないし、そのチベット社会で水着審査を覚悟してまでステージに上がる女の子は、根性座っている。チベット的愛国である。
で、ミスコンの結果なのだが、評判の美人がおそらくは教育の低さがネックとなって二位になり、容姿はまあまあだけど大卒(ベナレスのサンスクリット大学)の女の子が一位になったそう。それはいろいろ取りざたされているけど、私的にはこの判断はいいと思う。だってミスコンに参加する目的はチベット問題のアピールのためなのだから、やはり英語がそこそこ話せて、チベットを知的にアピールできる表現力があった方がいい。いくら綺麗でも国際舞台でももじもじしていたら埋もれちゃうからね。そもそもミスコンの採点には知的レベル、人としてのあり方みたいなものも基準にはいっているし。
何より、チベット史を見渡しても、著名な女性は美しいだけでなく「叡智」が必ず備わっている。開国の王ソンツェンガムポはネパールと唐それぞれから妃を娶ったが、この二人はもちろん口から蓮華の香りがする美人だったりするわけだが、ネパール妃はヴェーダの典籍に通じており、唐からきた妃は八卦の書に通じていた。両者は輿入れとともに両国の文化をチベットに広めるのである。
もともと、チベットで男尊は方便、女尊は叡智を示しており、ただ美しいだけでなく智の象徴なのである。従って、サンスクリット大学卒の女性がミスコンの女王になるのは伝統に叶っているのである。
この「地域で参加」という話で、何年か前、アメリカに行った時、そこに留学していたTさんから聞いた話を思い出した(前に書いていたらごめん)。
ボストンの大学に留学する留学生たちの交流イベントがあって、そこでそれぞれ自分たちの国の文化を発表することとなった。そこに、チベット人、台湾人の人たちもエントリーしたら、●国人留学生たちが、彼らは国でないから参加資格がない、と猛烈抗議。当局が●国人に「ここは自由の国なのだから」とたしなめても一向に聞く耳を持たず。結局、地域単位の参加と明示して、参加ができることとなったそうな。
ちなみに、Tさんに「あなたは日本文化をどのようにプレゼンするの?」聞くと、「寒い中、浴衣でKaraoke歌います」とのこと。
アメリカにおける日本イメージが混乱するのはたぶん日本人自身にも問題がある。
なぜ、亡国の非常時にあってお気楽にミスコンしているのかって? もちろん、かなり仕方なくてやっていることである。
チベット人には国がないので、国単位で参加するようなイベントに参加して存在感を示すことができない。しかし、たとえばサッカーとか、ミスコンとかは国単位でなく地域単位などで参加が認められているため、少しでも「チベット」を認知してもらうために、このようなミスマッチな努力を強いられる事態となっているのである。まあ、チベット人楽しんでいるからいいけど。
しかし、何と水着審査まであるそうで(本大会であるから仕方ないのだろうが)、やはりかなりの娘さんがどん引いて参加しないそうな。そういえば自分も大学生だった頃、大学内のミスコンに参加しないかと勧誘されたけど、「水着審査」の一言で参加やめたよ。なぜかはご想像に任せます(笑)。
もともとチベット服も肌を露出しないし、そのチベット社会で水着審査を覚悟してまでステージに上がる女の子は、根性座っている。チベット的愛国である。
で、ミスコンの結果なのだが、評判の美人がおそらくは教育の低さがネックとなって二位になり、容姿はまあまあだけど大卒(ベナレスのサンスクリット大学)の女の子が一位になったそう。それはいろいろ取りざたされているけど、私的にはこの判断はいいと思う。だってミスコンに参加する目的はチベット問題のアピールのためなのだから、やはり英語がそこそこ話せて、チベットを知的にアピールできる表現力があった方がいい。いくら綺麗でも国際舞台でももじもじしていたら埋もれちゃうからね。そもそもミスコンの採点には知的レベル、人としてのあり方みたいなものも基準にはいっているし。
何より、チベット史を見渡しても、著名な女性は美しいだけでなく「叡智」が必ず備わっている。開国の王ソンツェンガムポはネパールと唐それぞれから妃を娶ったが、この二人はもちろん口から蓮華の香りがする美人だったりするわけだが、ネパール妃はヴェーダの典籍に通じており、唐からきた妃は八卦の書に通じていた。両者は輿入れとともに両国の文化をチベットに広めるのである。
もともと、チベットで男尊は方便、女尊は叡智を示しており、ただ美しいだけでなく智の象徴なのである。従って、サンスクリット大学卒の女性がミスコンの女王になるのは伝統に叶っているのである。
この「地域で参加」という話で、何年か前、アメリカに行った時、そこに留学していたTさんから聞いた話を思い出した(前に書いていたらごめん)。
ボストンの大学に留学する留学生たちの交流イベントがあって、そこでそれぞれ自分たちの国の文化を発表することとなった。そこに、チベット人、台湾人の人たちもエントリーしたら、●国人留学生たちが、彼らは国でないから参加資格がない、と猛烈抗議。当局が●国人に「ここは自由の国なのだから」とたしなめても一向に聞く耳を持たず。結局、地域単位の参加と明示して、参加ができることとなったそうな。
ちなみに、Tさんに「あなたは日本文化をどのようにプレゼンするの?」聞くと、「寒い中、浴衣でKaraoke歌います」とのこと。
アメリカにおける日本イメージが混乱するのはたぶん日本人自身にも問題がある。
マイ・バースデー

木曜日、大阪のあくびちゃんのおかあさまからプリザーブド・フラワーを誕生日のプレゼントにいただく(ありがとうございました)。さきたての花=若い女性、ドライフラワー=ヨボヨボ 造花=金の力で作った人工的な若さ というイメージからいうと、ホンモノノ花を咲いた状態のまま保ったプリザーブド・フラワーは、たとえていえば、死んでも腐らないカソリックの聖女である。
チベットでも、徳の高い人は死後嫌な臭いを発しない。高僧がなくなると高僧は「死の瞑想」(thugs dam)に入ってその意識を完成させるため、その期間死体は腐らず、それどころか、花の香りがするともいわれている。
今年もギュメのロサン・カンデン師がこの状態に入ったと言われ、FPMTのOさんによると、今年1月8日に逝去されたニンマ派の修業者であった俗名Jeanne Hogue、僧名アニ・トゥプテン・ペルチェンも、なくなった後臭いがせず、その部屋の空気は「ほんっとにさわやか」(quite refreshing)だったため、「これはトゥクダムだ」と評判になったそう。たまたまその週読んでいた、18世紀のチベットの大臣ツェリンワンゲルの伝記にも、ニンマ派の大行者ダルマシュリーがジュンガル軍に殺されそうになった時、その前に自らの意識を体からぬいてトゥクダムになった話がのっていて、チベット文化の腰の強さに恐れ入った。
カソリックの聖女のような、チベットのトゥクダム高僧のようなプリザーブド・フラワーには、ちゃんと香りも残っている。自分もプリザーブド・フラワー目指してがんばるど。
金曜日、授業の後に年長のゼミ生たちが、サプライズ・パーティを開いてくれた。最近のケーキには年齢をあらわす算用数字のローソクがついているのだが、それが年齢でなく39になっている。理由を聞くと「我々から感謝の気持ちをこめて、Thank youです。年齢もごまかせていいでしょう」と言われた。私の年齢は学生に気遣われるような領域に入った模様。
しかし、そのような気遣いをされるということは、まだ一応女性の範疇に入れられているからともいえ、そのような意味ではまだ若いか・・・・しかし、若いってそんないいことかな、若いは苦いという言葉と姿が通じるように、ある意味痛い苦しい時代でもあった。今の方が幸せな部分も多々ある。そう考えると年をとることも悪くないな。腰がっ、とか、足がっとか健康がガタガタしてくるとそうも言ってられなくなるのだろうけど。
誕生日当日の日曜日は去年と同じで横浜のグラウンド・ゼロにたつフランス料理屋アクア・オリビンで食事をする。窓をあけるとすぐ前は象の鼻パークをはさんで海。潮の香りが気持ちいい。ここ数年このお店にはお邪魔しているけど、とにかくリーゾナブルでとても美味しい。なので法王の講演を聴くために横浜にこられる方、是非訊ねてみてください。赤レンガ倉庫、大桟橋などの観光もかねて訪れることができます。みなとみらい線の日本大通りの駅から数分です。




あっという間に年ばかり重ねてしまったけど、そろそろ考えることは人生の仕舞い方について。命が終わる時に「良い人生だった」と思えるように、毎日まじめに生きて行こう。それがこの世に生を受けたことに対する礼儀であると思う。
末筆ながら、心のこもったお誕生日メールをくださったみなさま、がんちゃん、まことさん、おやきさん、Kゆりさん、宰相くん、HHさん、TTさん、KNちゃん、Penbaさん、るりJrの育ての母さん、ありがとうございました。ターラー行者がみなみなさまのより一層のお幸せを祈らせていただきます。
チベット月間のお知らせ(六・七月)
六月はダライ・ラマ法王の来日、七月は法王の誕生月です。
今回は長野と横浜と金沢で講演されるもようで、長野ではチベット研究者の金子英一先生が住職をつとめる浄土宗の西方寺で製作中のチベットの仏像が完成するのに伴い、21日にダライ・ラマ法王をお招きして落慶儀礼を行うとのことです(ただしこの儀式参列は西方寺の壇信徒限定)。善光寺さまにお参りされた方は、是非西方寺において仏像を拝観することをお勧めします。善光寺さま(エンマ様の横)ではチベット・グッズの販売も行われているとのことです。
その昔、チベットの高僧がいろいろなところに布教のために巡錫した折、行く先々で寺の開基のイニシアチブをとったり、仏像の落慶供養を行ったり、転生僧の任命とかやっていたので、このたびの西方寺の落慶のような古式にのっとった予定が入っていると嬉しくなる。
以下に、ダライ・ラマ法王関連行事のご紹介とさらに、西荻窪のカフェでチベットを旅したバックパッカーたちの写真展、大阪の民博で行われていた「ポン教の神々」の東京展示のお知らせをいたします。自分が直接ご案内を戴いたり、自分がかかわったものしかあげてませんのでご了承下さい。
●長野 講演
〈講演〉善き光に導かれて─今、伝えたい心─
平成22年6月20日(日)会場:ビッグハット(長野市)
・主催 善光寺
・共催 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
・後援 全日本仏教会、長野県仏教会、長野市仏教会、全国善光寺会
・協力 長野県仏教青年会
●横浜講演
<法話> 縁起賛と発菩提心
<講演> 『幸せの本質』~共生と共存の未来へ向けて~
平成22年6月26日(土)会場:パシフィコ横浜 展示ホール
・主催 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
・後援 在日チベット人コミュニティ
●金沢講演
→ 般若心経の解説 ~希望へのみちしるべ
平成22年6月22日(火)石川県立音楽堂コンサートホール
・主催 チベット難民支援グループ 佛性會
・後援 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
以上、ダライ・ラマ法王の講演会
----------------------------
●ダライ・ラマ法王生誕75年 祝賀特別記念行事「チベット砂曼荼羅の世界」(詳しくはここクリック)
講演者 石濱裕美子
ところ あいだみつを美術館
日時 7/02(金) 19:00~20:00
演題 「チベット仏教のマンダラ」
●チベット写真展@西荻窪 (6月5日(土)~6月27日)
期間: 6月5日(土)~6月27日(日)
場所: 旅茶箱(西荻窪) 杉並区西荻北4-4-2
詳しくは→http://d.hatena.ne.jp/rfuj/20100601/1275364210
●チベットポン教の神々
開催期間 2010年7月2日-9月10日
会場 国文学研究資料館(地図はここクリック)
入場料 無料
今回は長野と横浜と金沢で講演されるもようで、長野ではチベット研究者の金子英一先生が住職をつとめる浄土宗の西方寺で製作中のチベットの仏像が完成するのに伴い、21日にダライ・ラマ法王をお招きして落慶儀礼を行うとのことです(ただしこの儀式参列は西方寺の壇信徒限定)。善光寺さまにお参りされた方は、是非西方寺において仏像を拝観することをお勧めします。善光寺さま(エンマ様の横)ではチベット・グッズの販売も行われているとのことです。
その昔、チベットの高僧がいろいろなところに布教のために巡錫した折、行く先々で寺の開基のイニシアチブをとったり、仏像の落慶供養を行ったり、転生僧の任命とかやっていたので、このたびの西方寺の落慶のような古式にのっとった予定が入っていると嬉しくなる。
以下に、ダライ・ラマ法王関連行事のご紹介とさらに、西荻窪のカフェでチベットを旅したバックパッカーたちの写真展、大阪の民博で行われていた「ポン教の神々」の東京展示のお知らせをいたします。自分が直接ご案内を戴いたり、自分がかかわったものしかあげてませんのでご了承下さい。
●長野 講演
〈講演〉善き光に導かれて─今、伝えたい心─
平成22年6月20日(日)会場:ビッグハット(長野市)
・主催 善光寺
・共催 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
・後援 全日本仏教会、長野県仏教会、長野市仏教会、全国善光寺会
・協力 長野県仏教青年会
●横浜講演
<法話> 縁起賛と発菩提心
<講演> 『幸せの本質』~共生と共存の未来へ向けて~
平成22年6月26日(土)会場:パシフィコ横浜 展示ホール
・主催 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
・後援 在日チベット人コミュニティ
●金沢講演
→ 般若心経の解説 ~希望へのみちしるべ
平成22年6月22日(火)石川県立音楽堂コンサートホール
・主催 チベット難民支援グループ 佛性會
・後援 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
以上、ダライ・ラマ法王の講演会
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●ダライ・ラマ法王生誕75年 祝賀特別記念行事「チベット砂曼荼羅の世界」(詳しくはここクリック)
講演者 石濱裕美子
ところ あいだみつを美術館
日時 7/02(金) 19:00~20:00
演題 「チベット仏教のマンダラ」
●チベット写真展@西荻窪 (6月5日(土)~6月27日)
期間: 6月5日(土)~6月27日(日)
場所: 旅茶箱(西荻窪) 杉並区西荻北4-4-2
詳しくは→http://d.hatena.ne.jp/rfuj/20100601/1275364210
●チベットポン教の神々
開催期間 2010年7月2日-9月10日
会場 国文学研究資料館(地図はここクリック)
入場料 無料
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