護国寺で気合の英語ガイド
ごろうちゃんページ更新しました。(→ここクリック)
金曜日に講演を終えたキュパース博士が月曜日には離日してしまうので、土曜日にキュパース博士とジャクソン博士を護国寺観光に御連れする。
お二人はチベットの歴史や美術を研究しているため、チベット・イベントが何度も開催され、かつ、ダライ・ラマ法王も来錫された護国寺はいろんな意味でぴったりな観光スポット。
さらに、護国寺の諸堂は東京を襲った四度の大災害、廃仏毀釈、関東大震災、東京大空襲、戦後の乱開発のすべてを生き延びて江戸期そのままの姿を残しているため、伝統的な日本仏教のスタイルをお見せすることもできる。東京のお寺の大半は今は鉄筋だからね。
ワタクシが日本文化の特殊な部分について何かを例示して解説する場合には、当然共通知識であるチベット文化を使う。したがって、ワタクシのガイドは日本文化をチベット文化にたとえ、英語で語るというアナーキーなものとなる。ちなみに、ワタクシのモットーは「英語は気合い」。
起点は大学の敷地内にある徳川最後の将軍慶喜公ゆかりのイチョウから。
私「私の祖先は武士だったので、究極的にはこの人のために働いてました。この人好きです。」
院生M「うちは長州なのでこの人に反乱おこした側です。」
ジャクソン博士「私の祖先は〔イギリスの〕女王に反旗を翻した反乱軍ですね~。アメリカ人はみな叛徒の末裔ですね~」。
私「護国寺は五代将軍のご母堂が、時代でいえばダライ・ラマ五世の同時代に建立したものです。明治期にはいって将軍の時代が終わると、このお寺もえらいこと衰微しましたが、東京における茶の湯のセンターになることに活路を見出しました。護国寺の境内にはたくさんの茶室が移築され、また、お茶の神さま出雲の不昧公のお墓も勧請され、今の繁栄を得るに至ります。」
ジャクソン博士「創意工夫は大切だね。」
護国寺の仁王門にて
「これは仁王さまです。この寺のガードマンですね」
しかし、護国寺に足を踏み入れてびっくり。何かのイベントをやっているらしく、お寺の境内全体がSogeturyu(草月流)のIkebana(生け花)の展示場となっているのである。この生け花がみな巨大で、現代アーツのオブジェのよう。蓮華型の手水の中にも、ハデなボタンなどがぷかぷか浮いていて、とにかくキレイだけどドハデ。
境内の茶室のあちこちで茶会が開かれており、これまた現代的な華やかな着物をきた女性がいきかっており、それがモダンなオブジェと組み合わさって、何かへん。
この風景はそう、外国映画にでてくるキテレツな日本のイメージそのまま。
その具体的な事例を知りたければ、近いところではファンタスティ・ク・フォーII「銀河の危機」の最後で主人公二人が日本で行う結婚式の風景を参照してください。ハリウッドはある意味日本文化の一側面を正確に描写していたのだ。知らぬは日本人ばかりなり。
気を取り直して、不老門にて
「これはフォーエバー・ヤング・ゲイトですね。この門を通る人はだれでも長寿と健康を授けられまーす。」
そして、伝説の大師堂にて、
私「2008年ここでフリー・チベットイベントが数おおく行われました。大師とは弘法大師のことで、このお寺の宗派の開祖様です。」
院生M「日本のグルリンポチェ(チベット密教の祖)ですね。」
私「うまい」
出雲の不昧公のお茶室にて
私「これはイズモ・スタイルの茶庭です。ところで、出雲ってどういう風に説明したらいいのかね。」
院生M「日本のシャンシュン(西チベットにあるチベットの古代宗教ボン教の発祥の地)でいいんじゃないですか」
私「不昧公は日本のシャンシュン地方の領主にしてお茶の宗匠でした」
多宝塔にて
私「法華経(ペマカルポ)スタイルの仏塔でーす」
重要文化財の日光殿と月光殿にて
私「サンシャイン・シュラインとムーンライト・シュラインでーす」
ウソはいってない。キュパース博士はひたすら境内の写真をとりまくっているので、たぶん楽しいのだと思う。
そしていよいよ本堂の観音様。
私「ご本尊は如意輪観音様(イーシンコルロー・チェンレシー)は五代将軍のご母堂の念持仏で琥珀でできてまーす。今日は厨子はしまってますが、ダライ・ラマ法王が法事を行われた際とか、2007年にチベットの砂曼荼羅が作られた際には開扉され、その美しいお姿を見ることができました。そこにある「悉地院」の扁額は、五代将軍の手です。カレは命あるものすべてを愛し、特に犬を愛して、当時人より犬が大事にされたため、犬公方(DOG SHOGUN)と呼ばれていました。」
ジャクソン博士「カルマパ十世も犬好きだった。仏教徒だねえ。」
というわけで、お二人はたぶん喜んでおられたことと思う。
薬師堂も大師堂も閉鎖されていて中が見られなくて残念であったが、薬師堂のご本尊は今修理中であって、最近になって、平安時代にさかのぼるものではないかといわれているらしい。このお寺の開基は17世紀であるが、仏像はご本尊も含めて古いものが伝わっているらしい。護国寺の薬師様の写真は2007年の大法輪の九月号に見ることができます(同号には護国寺様で開催されたチベット・イベントの記事ものってます)。
金曜日に講演を終えたキュパース博士が月曜日には離日してしまうので、土曜日にキュパース博士とジャクソン博士を護国寺観光に御連れする。
お二人はチベットの歴史や美術を研究しているため、チベット・イベントが何度も開催され、かつ、ダライ・ラマ法王も来錫された護国寺はいろんな意味でぴったりな観光スポット。
さらに、護国寺の諸堂は東京を襲った四度の大災害、廃仏毀釈、関東大震災、東京大空襲、戦後の乱開発のすべてを生き延びて江戸期そのままの姿を残しているため、伝統的な日本仏教のスタイルをお見せすることもできる。東京のお寺の大半は今は鉄筋だからね。
ワタクシが日本文化の特殊な部分について何かを例示して解説する場合には、当然共通知識であるチベット文化を使う。したがって、ワタクシのガイドは日本文化をチベット文化にたとえ、英語で語るというアナーキーなものとなる。ちなみに、ワタクシのモットーは「英語は気合い」。
起点は大学の敷地内にある徳川最後の将軍慶喜公ゆかりのイチョウから。
私「私の祖先は武士だったので、究極的にはこの人のために働いてました。この人好きです。」
院生M「うちは長州なのでこの人に反乱おこした側です。」
ジャクソン博士「私の祖先は〔イギリスの〕女王に反旗を翻した反乱軍ですね~。アメリカ人はみな叛徒の末裔ですね~」。
私「護国寺は五代将軍のご母堂が、時代でいえばダライ・ラマ五世の同時代に建立したものです。明治期にはいって将軍の時代が終わると、このお寺もえらいこと衰微しましたが、東京における茶の湯のセンターになることに活路を見出しました。護国寺の境内にはたくさんの茶室が移築され、また、お茶の神さま出雲の不昧公のお墓も勧請され、今の繁栄を得るに至ります。」
ジャクソン博士「創意工夫は大切だね。」
護国寺の仁王門にて
「これは仁王さまです。この寺のガードマンですね」
しかし、護国寺に足を踏み入れてびっくり。何かのイベントをやっているらしく、お寺の境内全体がSogeturyu(草月流)のIkebana(生け花)の展示場となっているのである。この生け花がみな巨大で、現代アーツのオブジェのよう。蓮華型の手水の中にも、ハデなボタンなどがぷかぷか浮いていて、とにかくキレイだけどドハデ。
境内の茶室のあちこちで茶会が開かれており、これまた現代的な華やかな着物をきた女性がいきかっており、それがモダンなオブジェと組み合わさって、何かへん。
この風景はそう、外国映画にでてくるキテレツな日本のイメージそのまま。
その具体的な事例を知りたければ、近いところではファンタスティ・ク・フォーII「銀河の危機」の最後で主人公二人が日本で行う結婚式の風景を参照してください。ハリウッドはある意味日本文化の一側面を正確に描写していたのだ。知らぬは日本人ばかりなり。
気を取り直して、不老門にて
「これはフォーエバー・ヤング・ゲイトですね。この門を通る人はだれでも長寿と健康を授けられまーす。」
そして、伝説の大師堂にて、
私「2008年ここでフリー・チベットイベントが数おおく行われました。大師とは弘法大師のことで、このお寺の宗派の開祖様です。」
院生M「日本のグルリンポチェ(チベット密教の祖)ですね。」
私「うまい」
出雲の不昧公のお茶室にて
私「これはイズモ・スタイルの茶庭です。ところで、出雲ってどういう風に説明したらいいのかね。」
院生M「日本のシャンシュン(西チベットにあるチベットの古代宗教ボン教の発祥の地)でいいんじゃないですか」
私「不昧公は日本のシャンシュン地方の領主にしてお茶の宗匠でした」
多宝塔にて
私「法華経(ペマカルポ)スタイルの仏塔でーす」
重要文化財の日光殿と月光殿にて
私「サンシャイン・シュラインとムーンライト・シュラインでーす」
ウソはいってない。キュパース博士はひたすら境内の写真をとりまくっているので、たぶん楽しいのだと思う。
そしていよいよ本堂の観音様。
私「ご本尊は如意輪観音様(イーシンコルロー・チェンレシー)は五代将軍のご母堂の念持仏で琥珀でできてまーす。今日は厨子はしまってますが、ダライ・ラマ法王が法事を行われた際とか、2007年にチベットの砂曼荼羅が作られた際には開扉され、その美しいお姿を見ることができました。そこにある「悉地院」の扁額は、五代将軍の手です。カレは命あるものすべてを愛し、特に犬を愛して、当時人より犬が大事にされたため、犬公方(DOG SHOGUN)と呼ばれていました。」
ジャクソン博士「カルマパ十世も犬好きだった。仏教徒だねえ。」
というわけで、お二人はたぶん喜んでおられたことと思う。
薬師堂も大師堂も閉鎖されていて中が見られなくて残念であったが、薬師堂のご本尊は今修理中であって、最近になって、平安時代にさかのぼるものではないかといわれているらしい。このお寺の開基は17世紀であるが、仏像はご本尊も含めて古いものが伝わっているらしい。護国寺の薬師様の写真は2007年の大法輪の九月号に見ることができます(同号には護国寺様で開催されたチベット・イベントの記事ものってます)。
自分の足で立つ「本物の人」
NHKの衛星でCool Japanとかいう番組やっていて、スタジオに呼ばれたガイコクジンたちが彼らから見て日本人が特殊と思うことについて論じていた。
全体がどのような構成か分からないが、私が見た場面では、「日本人は街頭インタビューに応じる人が少ない。一方、外国人は積極的に発言する」というものであった。確かに、銀座をフラフラしている日本人は三分の二が街頭インタビューを断り、ガイコクジンはぼぼ全員がインタビューに応じていた。
スタジオにいたイタリア人も、「もしイタリアで街頭インタビューしたら、みんな自分の意見を言おうとして人が集まりすぎて、マイクは一歩も進めなくなる」と。
で、インタビューを拒否した日本人にその理由を聞くと「恥ずかしいから」。逆にインタビューに応じた外国人たちにその理由を聞くと、「小さい頃から自分の意見をはっきりいうように教育されてきたから」「能動的に社会にかかわるのは義務だから」「哲学や歴史の時間でディベートを学んできて、意見を表明し対話することについて学んできたから」とかいっていた(うろ覚えだけど)。
これ見ていろいろな意味で何か腑に落ちた。
日本人はそもそも「自分の意見がない」のである。ちなみに日本でも自分の考えというものはあるが、これはマイ・ブームとか、自分基準とか、自分の嗜好を指しているに過ぎず、こんなものはどこの世界の人もプライベートにもっているもので、人前でおおっぴらに言アゲするようなシロモノではない。
私が言っているのは、ある公のテーマについて「人の批判を前にしても自分の意見を主張しとおせるような見識を持っているか」という点である。そのような意見を言える日本人ってたぶんあまりいないんじゃないだろうか。
日本は島国だし国土がせまいので、隣の人と争わないようにすることが遺伝子にしみついている。結果、何事につけても白黒つけることなく、問題は常にズブズブに対処され、恥ずかしいことをしていてもそれを恥ずかしいと思うこともなく、逆に立派な行いをする人がいても、それがほめられ顕彰されることもなく、恐ろしいまのでの悪平等で世の中を動かしてきたのである。
普遍的、客観的価値を追及するよりも、場のフンイキ、大多数の意見というものが優先するため、近視眼的に目先の判断を重ねまくり、気がついたら戦争に突入していたり、気がついたらカネの亡者になっていたりしてきたのである。周りに流されてから動くので、周りが悪けりゃ悪い判断もするし、周りがよければよい判断もする。それらの判断の集積が結果としいて節操なく、筋が通らなくなることは言うまでもない。
「恥ずかしいといって自分の意見を言わないのは、謙譲の美徳である。ツバを飛ばして自分の意見をいう人って何かこわい~」とかのたまう人が時々いるが、それはまだママに抱っこされた子供のいうこと。いい大人がいう台詞ではない。
また「恥ずかしいから何もいいません」というのを謙譲の美徳とカンチガイするヒトがいるが、それは違う。謙譲というものは、譲る何かがあって、語る何かをもっていてはじめて意味を持つものである。人前で語るものが何もない、ということは、自信をもって表明できる意見が何もない、ということであり、そういう人には謙譲などという言葉を使用する資格はない。
謙譲という言葉が意味を持つのは、ダライ・ラマ、クラスになってからである。法王は中国に対しても、人間のあり方についてもきちんとした意見を持ち、それはこの五十年間深化することはあってもブレたことはない。彼の意見はつねに理性的であり、彼の意見に論理的に反駁を加えることができた人はいない。なのに、ダライ・ラマはどのような人を相手にしても、無礼きわまりない人でも、無知な人でも、自分を心の底から尊敬している人でも、だれ変わりなく腰が低く、謙譲である。ダライ・ラマがきちんとした「人」であり、さらに言えば比類ない人格者であるがゆえに、その謙譲が美しいのである。
日本人が今までのとおり仲良くムラ(自分、家族、会社、民族、国)を営んでいくのは一向にかまわない。しかし、その場合でも、自分のムラの論理を、倫理とか良識からはずれないところで構築していかないと、所詮そのムラという名前の共依存グループは崩壊する。もし自分のムラを護りたいのだったら、そのムラの論理をつねに自己本位のタコツボにはまっていないか、純粋かつ穢れのないものかをチェックしていく必要がある。そのような論理をかかげるムラ集団こそ、他者から尊重され、また自らも自分に誇りがもつことができ、その構成員を幸せにすることが可能だからである。
そのために必要なことは、「倫理と道徳を逃げずに教える」「論理的にものを考える方法」「自分の考えをきちんと他人に伝える方法」をやっぱ若いうちから教育することである。
ちなみに、自らの伝統を守りながらもきちんと尊重されている成功したムラ社会として、チベット難民社会をお手本にしよう! (ちなみに、チベット難民社会にもしょうもないおちこぼれはいます。あくまでもこれは理想形のチベット社会のこと)
全体がどのような構成か分からないが、私が見た場面では、「日本人は街頭インタビューに応じる人が少ない。一方、外国人は積極的に発言する」というものであった。確かに、銀座をフラフラしている日本人は三分の二が街頭インタビューを断り、ガイコクジンはぼぼ全員がインタビューに応じていた。
スタジオにいたイタリア人も、「もしイタリアで街頭インタビューしたら、みんな自分の意見を言おうとして人が集まりすぎて、マイクは一歩も進めなくなる」と。
で、インタビューを拒否した日本人にその理由を聞くと「恥ずかしいから」。逆にインタビューに応じた外国人たちにその理由を聞くと、「小さい頃から自分の意見をはっきりいうように教育されてきたから」「能動的に社会にかかわるのは義務だから」「哲学や歴史の時間でディベートを学んできて、意見を表明し対話することについて学んできたから」とかいっていた(うろ覚えだけど)。
これ見ていろいろな意味で何か腑に落ちた。
日本人はそもそも「自分の意見がない」のである。ちなみに日本でも自分の考えというものはあるが、これはマイ・ブームとか、自分基準とか、自分の嗜好を指しているに過ぎず、こんなものはどこの世界の人もプライベートにもっているもので、人前でおおっぴらに言アゲするようなシロモノではない。
私が言っているのは、ある公のテーマについて「人の批判を前にしても自分の意見を主張しとおせるような見識を持っているか」という点である。そのような意見を言える日本人ってたぶんあまりいないんじゃないだろうか。
日本は島国だし国土がせまいので、隣の人と争わないようにすることが遺伝子にしみついている。結果、何事につけても白黒つけることなく、問題は常にズブズブに対処され、恥ずかしいことをしていてもそれを恥ずかしいと思うこともなく、逆に立派な行いをする人がいても、それがほめられ顕彰されることもなく、恐ろしいまのでの悪平等で世の中を動かしてきたのである。
普遍的、客観的価値を追及するよりも、場のフンイキ、大多数の意見というものが優先するため、近視眼的に目先の判断を重ねまくり、気がついたら戦争に突入していたり、気がついたらカネの亡者になっていたりしてきたのである。周りに流されてから動くので、周りが悪けりゃ悪い判断もするし、周りがよければよい判断もする。それらの判断の集積が結果としいて節操なく、筋が通らなくなることは言うまでもない。
「恥ずかしいといって自分の意見を言わないのは、謙譲の美徳である。ツバを飛ばして自分の意見をいう人って何かこわい~」とかのたまう人が時々いるが、それはまだママに抱っこされた子供のいうこと。いい大人がいう台詞ではない。
また「恥ずかしいから何もいいません」というのを謙譲の美徳とカンチガイするヒトがいるが、それは違う。謙譲というものは、譲る何かがあって、語る何かをもっていてはじめて意味を持つものである。人前で語るものが何もない、ということは、自信をもって表明できる意見が何もない、ということであり、そういう人には謙譲などという言葉を使用する資格はない。
謙譲という言葉が意味を持つのは、ダライ・ラマ、クラスになってからである。法王は中国に対しても、人間のあり方についてもきちんとした意見を持ち、それはこの五十年間深化することはあってもブレたことはない。彼の意見はつねに理性的であり、彼の意見に論理的に反駁を加えることができた人はいない。なのに、ダライ・ラマはどのような人を相手にしても、無礼きわまりない人でも、無知な人でも、自分を心の底から尊敬している人でも、だれ変わりなく腰が低く、謙譲である。ダライ・ラマがきちんとした「人」であり、さらに言えば比類ない人格者であるがゆえに、その謙譲が美しいのである。
日本人が今までのとおり仲良くムラ(自分、家族、会社、民族、国)を営んでいくのは一向にかまわない。しかし、その場合でも、自分のムラの論理を、倫理とか良識からはずれないところで構築していかないと、所詮そのムラという名前の共依存グループは崩壊する。もし自分のムラを護りたいのだったら、そのムラの論理をつねに自己本位のタコツボにはまっていないか、純粋かつ穢れのないものかをチェックしていく必要がある。そのような論理をかかげるムラ集団こそ、他者から尊重され、また自らも自分に誇りがもつことができ、その構成員を幸せにすることが可能だからである。
そのために必要なことは、「倫理と道徳を逃げずに教える」「論理的にものを考える方法」「自分の考えをきちんと他人に伝える方法」をやっぱ若いうちから教育することである。
ちなみに、自らの伝統を守りながらもきちんと尊重されている成功したムラ社会として、チベット難民社会をお手本にしよう! (ちなみに、チベット難民社会にもしょうもないおちこぼれはいます。あくまでもこれは理想形のチベット社会のこと)
チベットの絵画の講演会
風薫る五月晴れの土曜日、若手研究者二人と院生のMとともに、来日中のディヴィッド・ジャクソン博士(Dr. David Jackson)とクリストファー・キュパース(Dr. Christopher Cuepper)博士を訊ねる。
彼らのいる国際仏教学大学院大学は宗教団体の霊友会が基金をだして建てたもので、定員20名の大学院のみの小さな大学である。現在巷には、仏教に関してそれはもう不正確かつ無責任な言説があふれかえっているが、ここは文献学に基づいて仏教学を研究し学ぶ、今時珍しい普通に骨太でまじめな機関である。
この大学は徳川最後の将軍徳川慶喜のお屋敷跡にたっており、この時期が好きなYさんは「小日向」って先生、これ慶喜の孫の手記にでてくる地名ですよ」と妙なところで興奮している。確かに、この大学のたつ地は護国寺、伝通院、小石川が近い、江戸の武家屋敷ゾーンなのである。
以下Yさんよりのメール転載
昨日はどうもありがとうございました。
家に帰って榊原喜佐子『徳川慶喜家の子供部屋』角川文庫、2000年
(著者は徳川慶喜の孫、故高松宮妃喜久子妃殿下の妹さんです)
を読み返したところ、やはりまさにあの場所が慶喜邸でした!
慶喜が晩年住んでた家で、戦後売却されて、つい先日まで財務省の職員住宅があったそうです。
http://clam-chowder.blog.so-net.ne.jp/2009-11-21
「徳川慶喜家は、小石川小日向第六天町の、南に江戸川(現・神田川)、西に茗荷谷を望む高台にあった。
家の横の急な坂をさらに登ると軒の低い焦点が並ぶ広い通りに出たが、その通りを少し東に行くと伝通院があった。
第六天町という地名は、その昔このあたりに第六天神社があったためだと聞いている。
現代の文京区春日二丁目にあたる」(榊原喜佐子『徳川慶喜家の子供部屋』p.10)
私たちも、まさに「横の急な坂」を登って(北門から出たのでちょっとでしたが…)、「広い通り」にでましたよね。
同書の見取り図を見ると、ジャクソン先生たちがお泊りの宿舎がある場所には、家臣たちの家があり、
裏手は当時も崖っぷち(直立)でした。正直ビミョウな土地です。
巣鴨に住んでた慶喜は、山の手線が開通してうるさいのがイヤで小日向に引っ越したらしいです。
まさかこの家の裏手にも電車が通るとは、思いもしなかったでしょう…。
でも慶喜の時代にはまだ開通してなかったので、慶喜は静かな晩年を送れてよかったですね。
師弟そろって笑える英語力であったが、両博士は忍耐強く我々のいわんと欲することをくみとって下さった。

ジャクソン氏はいろいろ研究されているが、最近はチベットの絵画芸術についての学識で世界的に名高い。現在はあのニューヨークのルービン美術館(Rubin Museum)の所属で、最近もカギュ派をとりあげた企画展「Patron and Painter: Situ Panchen and the Revival of the Encampment Style」(パトロンと画家、シトゥ・パンチェンと幕営スタイルのリバイバル)をプロデュースしたりしている。院生のMはカギュの歴史を研究しようとしているので、いい刺激になったみたい。
一方のキュパース氏はお釈迦様の生まれた地、ルンピニーに霊友会がたてた研究所の所長さんをしていて、今回は短期の来日。17世紀のチベット史ばかりか、現在お住まいのネパールの歴史についてもとても詳しい。グルカ戦争のネパール文コピーを探すYさんはキュパース氏から熱心にネパールにおける文書資料閲覧の可否について聞いている。
しかしてその内容は・・・・。一杯資料はあるけど、その中身をみるためには、大学や国を動かしてプロジェクトでもおこさないとむりだろう。とにかくしつこく通って、催促して、一緒に食事して、などを積み重ねたら「いつかはその資料の束を見ることができるだろう」みたいな、トホホな話である。
で、キュパース氏はポタラ宮の三階に描かれた、ダライ・ラマ五世の摂政サンゲギャムツォの伝記壁画について行っている研究についてチラ見させてくださる。この壁画を全面スキャンニングする話が進んでいたそうだが、2008年のオリンピック年のチベット蜂起で全てが頓挫しているそうな。二人とも、「トゥーサウザンド・エイト、イヤー(2008年のあの件だよ、あーあ)」みたいな感じであの蜂起を語っていた。あの年の蜂起を境に中国政府が硬化し、研究者の世界にも影響が出ているのだ。
まあ全体主義と実証的研究くらい相性の悪いものはないので仕方ない。対抗策としては、現場にいかなければできない研究を減らし、文書研究に重点おくしかないですな。
さて、両博士が来日中に、この大学内の講堂において講演会があります。「通訳がつくかどうか分からない」とのことですが、かりにつかなくとも、お二人はかなりゆっくり分かりやすい英語をしゃべるし、また、パワーポイントも使用するので、少々英語聞き取り能力が怪しくとも、楽しめることと思います。是非どうぞ。
「キュパース博士を囲む会」御案内
講師: Dr. Christoph Cuppers
演題: 「摂政サンゲギャムツォの生涯と著作」(Autobiographical remarks by the Regent Sangs-rgyas
rgya-mtsho (1653-1705) on his Life and Work)
日時: 平成22年5月28日(金) 午後4時30分~6時
場所: 本学春日講堂
「ジャクソン博士を囲む会」御案内
講師: Prof. Dr. David P. Jackson
演題: 「覚りの境地の表現: チベット仏教の開祖たちの絵画表現」(Reflections of Enlightenment:Painted Images of Founding Masters in Tibetan Buddhism
日時: 平成22年6月18日(金) 午後4時30分~6時
場所: 本学春日講堂
※聴講御希望の方は、電話、ファックス、葉書または電子メールで5月27日(木)までにお申し込みください。電子メール・ファックスなどによるお申し込みに返信はいたしませんが、当日のお越しをお待ち申し上げます。
電話:03-5981-5271 FAX:03-5981-5283 E-mail: iibs@icabs.ac.jp
大学所在地地図(http://www.icabs.ac.jp/icabs/2-2-5.html)
彼らのいる国際仏教学大学院大学は宗教団体の霊友会が基金をだして建てたもので、定員20名の大学院のみの小さな大学である。現在巷には、仏教に関してそれはもう不正確かつ無責任な言説があふれかえっているが、ここは文献学に基づいて仏教学を研究し学ぶ、今時珍しい普通に骨太でまじめな機関である。
この大学は徳川最後の将軍徳川慶喜のお屋敷跡にたっており、この時期が好きなYさんは「小日向」って先生、これ慶喜の孫の手記にでてくる地名ですよ」と妙なところで興奮している。確かに、この大学のたつ地は護国寺、伝通院、小石川が近い、江戸の武家屋敷ゾーンなのである。
以下Yさんよりのメール転載
昨日はどうもありがとうございました。
家に帰って榊原喜佐子『徳川慶喜家の子供部屋』角川文庫、2000年
(著者は徳川慶喜の孫、故高松宮妃喜久子妃殿下の妹さんです)
を読み返したところ、やはりまさにあの場所が慶喜邸でした!
慶喜が晩年住んでた家で、戦後売却されて、つい先日まで財務省の職員住宅があったそうです。
http://clam-chowder.blog.so-net.ne.jp/2009-11-21
「徳川慶喜家は、小石川小日向第六天町の、南に江戸川(現・神田川)、西に茗荷谷を望む高台にあった。
家の横の急な坂をさらに登ると軒の低い焦点が並ぶ広い通りに出たが、その通りを少し東に行くと伝通院があった。
第六天町という地名は、その昔このあたりに第六天神社があったためだと聞いている。
現代の文京区春日二丁目にあたる」(榊原喜佐子『徳川慶喜家の子供部屋』p.10)
私たちも、まさに「横の急な坂」を登って(北門から出たのでちょっとでしたが…)、「広い通り」にでましたよね。
同書の見取り図を見ると、ジャクソン先生たちがお泊りの宿舎がある場所には、家臣たちの家があり、
裏手は当時も崖っぷち(直立)でした。正直ビミョウな土地です。
巣鴨に住んでた慶喜は、山の手線が開通してうるさいのがイヤで小日向に引っ越したらしいです。
まさかこの家の裏手にも電車が通るとは、思いもしなかったでしょう…。
でも慶喜の時代にはまだ開通してなかったので、慶喜は静かな晩年を送れてよかったですね。
師弟そろって笑える英語力であったが、両博士は忍耐強く我々のいわんと欲することをくみとって下さった。

ジャクソン氏はいろいろ研究されているが、最近はチベットの絵画芸術についての学識で世界的に名高い。現在はあのニューヨークのルービン美術館(Rubin Museum)の所属で、最近もカギュ派をとりあげた企画展「Patron and Painter: Situ Panchen and the Revival of the Encampment Style」(パトロンと画家、シトゥ・パンチェンと幕営スタイルのリバイバル)をプロデュースしたりしている。院生のMはカギュの歴史を研究しようとしているので、いい刺激になったみたい。
一方のキュパース氏はお釈迦様の生まれた地、ルンピニーに霊友会がたてた研究所の所長さんをしていて、今回は短期の来日。17世紀のチベット史ばかりか、現在お住まいのネパールの歴史についてもとても詳しい。グルカ戦争のネパール文コピーを探すYさんはキュパース氏から熱心にネパールにおける文書資料閲覧の可否について聞いている。
しかしてその内容は・・・・。一杯資料はあるけど、その中身をみるためには、大学や国を動かしてプロジェクトでもおこさないとむりだろう。とにかくしつこく通って、催促して、一緒に食事して、などを積み重ねたら「いつかはその資料の束を見ることができるだろう」みたいな、トホホな話である。
で、キュパース氏はポタラ宮の三階に描かれた、ダライ・ラマ五世の摂政サンゲギャムツォの伝記壁画について行っている研究についてチラ見させてくださる。この壁画を全面スキャンニングする話が進んでいたそうだが、2008年のオリンピック年のチベット蜂起で全てが頓挫しているそうな。二人とも、「トゥーサウザンド・エイト、イヤー(2008年のあの件だよ、あーあ)」みたいな感じであの蜂起を語っていた。あの年の蜂起を境に中国政府が硬化し、研究者の世界にも影響が出ているのだ。
まあ全体主義と実証的研究くらい相性の悪いものはないので仕方ない。対抗策としては、現場にいかなければできない研究を減らし、文書研究に重点おくしかないですな。
さて、両博士が来日中に、この大学内の講堂において講演会があります。「通訳がつくかどうか分からない」とのことですが、かりにつかなくとも、お二人はかなりゆっくり分かりやすい英語をしゃべるし、また、パワーポイントも使用するので、少々英語聞き取り能力が怪しくとも、楽しめることと思います。是非どうぞ。
「キュパース博士を囲む会」御案内
講師: Dr. Christoph Cuppers
演題: 「摂政サンゲギャムツォの生涯と著作」(Autobiographical remarks by the Regent Sangs-rgyas
rgya-mtsho (1653-1705) on his Life and Work)
日時: 平成22年5月28日(金) 午後4時30分~6時
場所: 本学春日講堂
「ジャクソン博士を囲む会」御案内
講師: Prof. Dr. David P. Jackson
演題: 「覚りの境地の表現: チベット仏教の開祖たちの絵画表現」(Reflections of Enlightenment:Painted Images of Founding Masters in Tibetan Buddhism
日時: 平成22年6月18日(金) 午後4時30分~6時
場所: 本学春日講堂
※聴講御希望の方は、電話、ファックス、葉書または電子メールで5月27日(木)までにお申し込みください。電子メール・ファックスなどによるお申し込みに返信はいたしませんが、当日のお越しをお待ち申し上げます。
電話:03-5981-5271 FAX:03-5981-5283 E-mail: iibs@icabs.ac.jp
大学所在地地図(http://www.icabs.ac.jp/icabs/2-2-5.html)
牛供養
職場の飲み会でメジロの駅前のオサレなモンサンミッシェルというフランス料理屋さんにいった。その前の教授会が予定より早くおわったことからみなすでに飲み始めていたらしく、始まりからみな相当出来上がっている。
A先生「モンサンミッシェルって要は江ノ島だろう」
B先生「砂州で陸地とつながっているという意味では同じですね」
そこで、お店の人はお料理の説明は最初の一品しかせず、あとはあきれ果てられて放置される。あんな集まりなら早稲田の居酒屋一休が会場の方がよかったのではないか。何か前もこんなことをいっていたような。
さて、口蹄疫のために数万単位で家畜が死んでいる、あるいは予防的に殺されている。
「処分」にあたっているのは、その動物たちを飼育していた人々であるから、たとえいずれ出荷されるウシであったとしても、毎日毎日愛情を持って育てていた人たちだろうから、彼ら飼育者にとって「処分」に明け暮れる日々は地獄でしかあるまい。
「どうせ殺される運命にある牛たちだったんだから、どこで死んでも同じこと」というのは違う。食べものになるために死ぬのと、「処分」されるのとではまったく意味合いが違う。人間の命であると、それが胎児であれ、遠い国の言葉も通じない人々のことであっても、真剣な感情が沸き起こるのに、これが動物となると胸を痛めるものがぐっと少なくなるのは、やはり人の驕りであろう。
仏教の輪廻思想では、人と動物の間に本質的な境界線をひかない。今人であるものが前世に動物であったかもしれないし、来世に動物になったりすることもあるなどと普通に考える。だから、輪廻思想の残る国、インドやタイでは、人が動物に対してとてもやさしい。牛が道の真ん中にいたら、牛がどくまで車は道をうごかない。お寺の門前ではカゴに入った小鳥を売っている人がいて、参詣者はその命を買い取って空に放って善行とする。参詣者がいるから小鳥はカゴにいれられるのであって、かなり意味がない気もするが、とにかく小鳥をはなすとスッキリするよ!。これらの国にも動物をボウガンで射たり石を投げたりするようなゆがんだガキもほとんどいない。
彼らも肉をまったく食べないわけでなく、ニワトリとかは殺戮されているが、基本的に動物をむやみに見下すような風潮はない。
チベットにおいてはもっと徹底していて、ダライ・ラマ十三世は森を禁足地にして、森の伐採や動物の狩猟を禁じる法令を何度もだしていた。仏教のこのような思想は、穏やかな心をはぐくむと同時に自然環境の維持に役立っていたことは言うまでもない。
今年は生物多様性元年だけど、現在地球は氷河期以来の大生物絶滅期を迎えている。過去においては、隕石とか寒さとかが生物絶滅の原因となったのだが、今回の原因はもちろん言うまでもなく人間の増えすぎである。
人間様が世界中をひとつに結んで「開発」しちゃったもんだから、今まで哺乳類のいなかった南太平洋の島々に人間が持ち込んだネズミ、ネコ、などがふえ、また、人のもちこんだ細菌に感染して、希少な美しい小鳥たちが数多く絶滅した。
うちの愛鳥ごろう様はオーストラリアの鳥であるが、オーストラリアには肉食獣がいなかったため、この大陸の動物はきわめて平和的ではっきりいってトロイ。真っ黒い目をして愛くるしいけど、飛べなかったり、驚いたら死んだり、暑さ寒さに弱く、細菌にもヨワイ。グローバル化にさらされたらあっという間にどんどん数を減らすような種ばかりである。そのため、ここ二百年で美しい鳥たちがたくさんこの世界から姿を消した。
一方、人間にとって有効な生き物、薬効成分があるとか、食えるとか、そんな種は人工繁殖によってふえていった。密集飼育するが故に、大量感染を生みやすく、今回のような大量死につながりやすい。しかし、ただ人間だけが種の運命を左右する特権を神からふされた存在なのだろうか。否、人間だってこの惑星の生命の一部である。この惑星の生態系が壊れたら滅びの途につくしかないちっぽけな存在であることには変わりない。
なのにいまや人口はかるく六十億を超え、人間以外の生命はどんどん消滅していく。こんな状態なのに経済が悲鳴をあげるたびに、成長戦略とか景気刺激策とか唱えて、さらにこのムダの多い消費文明を拡大しようとしている。これはどう考えても先がない。
あらゆる生命は生まれて、成長して、老いて死んでいくのであり、永遠に成長し続けるものなどない。永遠に成長を続けるのはガン細胞くらいで、今の地球における人間の位置は立派なガン細胞である。遠からず宿主である地球を殺して自らも滅びの途につくことだろう。みんなそれを意識のどこかで理解しているから、最近の若者はまったく向上心がないし、ハリウッドではパニックものの終末映画が量産され続けるのだ。
仏教の思想によるとこの事態はすでに予見されており、世界は生成し(成)、とどまり(住)、壊れ(壊)、無に帰す(空)、という四段階をたどって終わり、この後同じ経路をたどって再び次の世が始まる。この伝でいくと、現代はまさに壊劫の時代ということになる。
人の一生なんて短いから私が生きている間に終末がくるかどうか分からないけど、この壊劫の時代、とりあえず、失われていく牛豚さんの命を悼んで、一人牛供養をやる。
宮崎県民の方のミクシ日記から
今一番ありがたいのはこの現状を知ってもらうこと世論で政府を動かすしかもう手が無いんです
昨日日記に書いた仲間の輪による消毒剤の話も、政府の圧力がかかり、
“各県まず自分所の防疫の徹底をせよ。宮崎は農相みずから出向き全力で対応している”
との電話があったみたいです。
消毒剤が圧倒的に足りません。
消毒剤の事は昨日書きましたが、
人手も圧倒的に足りません。
政府は“現場スタッフを国としても確保している”と発表してますが、一昨日までの現場スタッフ350人のほとんどは県のスタッフ。
九州農政局から3人の獣医師と20人のスタッフ、追加で30人の自衛隊。
農政局の獣医師はペーパー獣医師で現場しゃまともに牛に触ることも出来ない、追加で来た自衛隊は4日出たら2日休み実質2/3の労力。
昨日から宮崎による確保と九州各県の応援により倍の700人体勢に。
それでも殺処分対称の1割しか処分出来てません。
県も、保健所も、獣医師も、JAも、市町村も、休みなしで必死になって頑張ってます。
保健所の友人はGWどころか、発生からずっと休み無し、6~21時の重労働。爪は割れ、消毒剤で手の皮膚が爛れ…
それでも必死になって戦ってます。
マイミクさんの旦那さんも新婚、子供が産まれて初めてのGWも休み無しで頑張ってくれてます。
ホントに感謝しています。
それでも全然処分が追い付かないんです。
今、処分対称の10万頭のうち、20日間で処分が終わったのは1万頭にも届きません。
今1日の処分頭数が千頭。毎日発症する頭数の方が圧倒的に多いんです。
感染した牛は毎日10億個、豚は5兆個のウイルスを撒き散らします。感染拡大が止まりません。
4月末に発症した友人の農場では、今のペースでは5月内に処分出来るかどうかと言った所です。
全て殺されてしまう。それでも弱れば排出するウイルスが増える。だから、殺されるのがわかってても、毎日餌をやり、ビタミンをやり、あらゆる手を尽くして少しでも牛を健康に保とうとしてます。
でも、農場全ての牛に広がり、弱い子牛から次々に弱り、死んでいきます。
死んでも処理業者も出入りできないため、死体の上に大量の石灰を乗せても、腐敗し異臭を放ち始め、
それでも親牛は自分の子を一生懸命舐め、石灰を落とそうとします。
消毒剤の不足から、本来は牛に使わないような強い薬を大量に毎日浴びせられ、牛は毛が抜けぼろぼろになっていきます。
そんな中で、自分の家族同然の牛を殺す事も出来ず、飼い続けなければならないんです。
また、保健所や獣医師が殺処分現場に集中せざるを得ず、発症が疑われる農場の検査も出来ず、
テレビや報道では50件80000頭となっていますが、
俺が把握してるだけで発症の疑いがあり検査待ちの所があと40農場あります。
とにかく人手が足りないんです。
もう殺処分が追い付かないんです。首相が激甚災害に認定し、自衛隊を出さない限り、拡大は収まりません。
「その必要があるかどうかを関係閣僚と話し合い、必要とあれば検討する」とか言ってる場合じゃないんです!!
ワクチンと言う手も有りますが、現行の法律では使えず、
しかも大臣は「参院選後の国会で立案立法を…」
とか言ってますが、
その頃には国内の牛・豚・山羊・羊・鹿・猪…等の偶蹄類はいなくなってるでしょう。
皆さんにお願いです。
とにかく、今、宮崎で大変な事が起こってると言うことを、多くの人に伝えて下さい。もう世論で政府を動かすしか方法がないんです。
資材機材も、人手も、予算も…
もう国に頼るしかないんです。
よろしくお願いします。
A先生「モンサンミッシェルって要は江ノ島だろう」
B先生「砂州で陸地とつながっているという意味では同じですね」
そこで、お店の人はお料理の説明は最初の一品しかせず、あとはあきれ果てられて放置される。あんな集まりなら早稲田の居酒屋一休が会場の方がよかったのではないか。何か前もこんなことをいっていたような。
さて、口蹄疫のために数万単位で家畜が死んでいる、あるいは予防的に殺されている。
「処分」にあたっているのは、その動物たちを飼育していた人々であるから、たとえいずれ出荷されるウシであったとしても、毎日毎日愛情を持って育てていた人たちだろうから、彼ら飼育者にとって「処分」に明け暮れる日々は地獄でしかあるまい。
「どうせ殺される運命にある牛たちだったんだから、どこで死んでも同じこと」というのは違う。食べものになるために死ぬのと、「処分」されるのとではまったく意味合いが違う。人間の命であると、それが胎児であれ、遠い国の言葉も通じない人々のことであっても、真剣な感情が沸き起こるのに、これが動物となると胸を痛めるものがぐっと少なくなるのは、やはり人の驕りであろう。
仏教の輪廻思想では、人と動物の間に本質的な境界線をひかない。今人であるものが前世に動物であったかもしれないし、来世に動物になったりすることもあるなどと普通に考える。だから、輪廻思想の残る国、インドやタイでは、人が動物に対してとてもやさしい。牛が道の真ん中にいたら、牛がどくまで車は道をうごかない。お寺の門前ではカゴに入った小鳥を売っている人がいて、参詣者はその命を買い取って空に放って善行とする。参詣者がいるから小鳥はカゴにいれられるのであって、かなり意味がない気もするが、とにかく小鳥をはなすとスッキリするよ!。これらの国にも動物をボウガンで射たり石を投げたりするようなゆがんだガキもほとんどいない。
彼らも肉をまったく食べないわけでなく、ニワトリとかは殺戮されているが、基本的に動物をむやみに見下すような風潮はない。
チベットにおいてはもっと徹底していて、ダライ・ラマ十三世は森を禁足地にして、森の伐採や動物の狩猟を禁じる法令を何度もだしていた。仏教のこのような思想は、穏やかな心をはぐくむと同時に自然環境の維持に役立っていたことは言うまでもない。
今年は生物多様性元年だけど、現在地球は氷河期以来の大生物絶滅期を迎えている。過去においては、隕石とか寒さとかが生物絶滅の原因となったのだが、今回の原因はもちろん言うまでもなく人間の増えすぎである。
人間様が世界中をひとつに結んで「開発」しちゃったもんだから、今まで哺乳類のいなかった南太平洋の島々に人間が持ち込んだネズミ、ネコ、などがふえ、また、人のもちこんだ細菌に感染して、希少な美しい小鳥たちが数多く絶滅した。
うちの愛鳥ごろう様はオーストラリアの鳥であるが、オーストラリアには肉食獣がいなかったため、この大陸の動物はきわめて平和的ではっきりいってトロイ。真っ黒い目をして愛くるしいけど、飛べなかったり、驚いたら死んだり、暑さ寒さに弱く、細菌にもヨワイ。グローバル化にさらされたらあっという間にどんどん数を減らすような種ばかりである。そのため、ここ二百年で美しい鳥たちがたくさんこの世界から姿を消した。
一方、人間にとって有効な生き物、薬効成分があるとか、食えるとか、そんな種は人工繁殖によってふえていった。密集飼育するが故に、大量感染を生みやすく、今回のような大量死につながりやすい。しかし、ただ人間だけが種の運命を左右する特権を神からふされた存在なのだろうか。否、人間だってこの惑星の生命の一部である。この惑星の生態系が壊れたら滅びの途につくしかないちっぽけな存在であることには変わりない。
なのにいまや人口はかるく六十億を超え、人間以外の生命はどんどん消滅していく。こんな状態なのに経済が悲鳴をあげるたびに、成長戦略とか景気刺激策とか唱えて、さらにこのムダの多い消費文明を拡大しようとしている。これはどう考えても先がない。
あらゆる生命は生まれて、成長して、老いて死んでいくのであり、永遠に成長し続けるものなどない。永遠に成長を続けるのはガン細胞くらいで、今の地球における人間の位置は立派なガン細胞である。遠からず宿主である地球を殺して自らも滅びの途につくことだろう。みんなそれを意識のどこかで理解しているから、最近の若者はまったく向上心がないし、ハリウッドではパニックものの終末映画が量産され続けるのだ。
仏教の思想によるとこの事態はすでに予見されており、世界は生成し(成)、とどまり(住)、壊れ(壊)、無に帰す(空)、という四段階をたどって終わり、この後同じ経路をたどって再び次の世が始まる。この伝でいくと、現代はまさに壊劫の時代ということになる。
人の一生なんて短いから私が生きている間に終末がくるかどうか分からないけど、この壊劫の時代、とりあえず、失われていく牛豚さんの命を悼んで、一人牛供養をやる。
宮崎県民の方のミクシ日記から
今一番ありがたいのはこの現状を知ってもらうこと世論で政府を動かすしかもう手が無いんです
昨日日記に書いた仲間の輪による消毒剤の話も、政府の圧力がかかり、
“各県まず自分所の防疫の徹底をせよ。宮崎は農相みずから出向き全力で対応している”
との電話があったみたいです。
消毒剤が圧倒的に足りません。
消毒剤の事は昨日書きましたが、
人手も圧倒的に足りません。
政府は“現場スタッフを国としても確保している”と発表してますが、一昨日までの現場スタッフ350人のほとんどは県のスタッフ。
九州農政局から3人の獣医師と20人のスタッフ、追加で30人の自衛隊。
農政局の獣医師はペーパー獣医師で現場しゃまともに牛に触ることも出来ない、追加で来た自衛隊は4日出たら2日休み実質2/3の労力。
昨日から宮崎による確保と九州各県の応援により倍の700人体勢に。
それでも殺処分対称の1割しか処分出来てません。
県も、保健所も、獣医師も、JAも、市町村も、休みなしで必死になって頑張ってます。
保健所の友人はGWどころか、発生からずっと休み無し、6~21時の重労働。爪は割れ、消毒剤で手の皮膚が爛れ…
それでも必死になって戦ってます。
マイミクさんの旦那さんも新婚、子供が産まれて初めてのGWも休み無しで頑張ってくれてます。
ホントに感謝しています。
それでも全然処分が追い付かないんです。
今、処分対称の10万頭のうち、20日間で処分が終わったのは1万頭にも届きません。
今1日の処分頭数が千頭。毎日発症する頭数の方が圧倒的に多いんです。
感染した牛は毎日10億個、豚は5兆個のウイルスを撒き散らします。感染拡大が止まりません。
4月末に発症した友人の農場では、今のペースでは5月内に処分出来るかどうかと言った所です。
全て殺されてしまう。それでも弱れば排出するウイルスが増える。だから、殺されるのがわかってても、毎日餌をやり、ビタミンをやり、あらゆる手を尽くして少しでも牛を健康に保とうとしてます。
でも、農場全ての牛に広がり、弱い子牛から次々に弱り、死んでいきます。
死んでも処理業者も出入りできないため、死体の上に大量の石灰を乗せても、腐敗し異臭を放ち始め、
それでも親牛は自分の子を一生懸命舐め、石灰を落とそうとします。
消毒剤の不足から、本来は牛に使わないような強い薬を大量に毎日浴びせられ、牛は毛が抜けぼろぼろになっていきます。
そんな中で、自分の家族同然の牛を殺す事も出来ず、飼い続けなければならないんです。
また、保健所や獣医師が殺処分現場に集中せざるを得ず、発症が疑われる農場の検査も出来ず、
テレビや報道では50件80000頭となっていますが、
俺が把握してるだけで発症の疑いがあり検査待ちの所があと40農場あります。
とにかく人手が足りないんです。
もう殺処分が追い付かないんです。首相が激甚災害に認定し、自衛隊を出さない限り、拡大は収まりません。
「その必要があるかどうかを関係閣僚と話し合い、必要とあれば検討する」とか言ってる場合じゃないんです!!
ワクチンと言う手も有りますが、現行の法律では使えず、
しかも大臣は「参院選後の国会で立案立法を…」
とか言ってますが、
その頃には国内の牛・豚・山羊・羊・鹿・猪…等の偶蹄類はいなくなってるでしょう。
皆さんにお願いです。
とにかく、今、宮崎で大変な事が起こってると言うことを、多くの人に伝えて下さい。もう世論で政府を動かすしか方法がないんです。
資材機材も、人手も、予算も…
もう国に頼るしかないんです。
よろしくお願いします。
チベットの青蓮華
というわけで、チベット仏教の伝統に見事に絡めとられて、ターラーの生起を毎日やることになってしまった。

平岡先生によると、「観想がカンペキにできなくとも、印がなんちゃってでも、とにかく毎日続けることが大事」なんだそうな。センセによると「最初は一週間続ける、と決意してやり、次は一ヶ月、と徐々に期間を延ばしていくと毎日できるようになりますよ」とのことである。
私は「アル中が断酒をする時のやり方と同じですね」と心中思ったが、不謹慎なので口にしなかった(ここで書いたら同じじゃ)。まあでも、飲酒という悪い習慣を断ち切るのも、仏のイメトレという良い習慣を身につけるのも、習慣にするという意味では同じであるからこの喩えもまんざらはずれてはいない。
アル中患者の半分は断酒に失敗して最後は死にいたるというが、生起法を途中でやめたらどんな罰があたるのか、怖いので聞けない。ちなみに、具足戒とった僧侶が還俗したら、七回地獄に落ちるらしいが、それよりは軽いよね。そうあってほしい。
で、平岡先生によると、「最初は長いとつらいだろうから、省略できるところをして短いバージョンでやってもいい。しかし、なれてきて一座にかかる時間が短くなってきたら、省略した部分をフルバージョンでやるといい」とのこと。
こうして、世界一たよりないターラー行者が誕生した。私のことだから簡単には成仏できないので、将来私に救われる予定の有情さま、しばしお待ちくださいませ。
密教をちょっとでもかじった人はご存知だろうが、密教のさまざまな仏様たちは、形はあるけれど肉体をもたず、その実は空である。なので、どのような仏様を本尊にする場合も、まず、「なにかが無い」というような相対的な無ではなく、絶対的な無(空)の状態から、本尊の姿を起こしていく。
で、なにもない空の世界に、形あるものとないものの中間の存在としてまず「音」があらわれる。これは本尊を示す文字(種字)で表され、たとえばターラー尊だとtaMである。そして次にその種字が本尊を示すシンボルに姿を変える。ターラー尊の場合だと青蓮華である。そして、このシンボルが姿をかえて、衆生を救うための姿、本尊の姿になるのである。
だから、チベットの密教の仏様の姿は、みな空なのである。仏様の徳のさまざまな側面をイメージしやすくするためにさまざまな姿に表現しているだけである。
で、ターラー尊の重要なシンボルである青蓮華をみてて面白いことに気づいた。仏画の中でターラー尊が手にする青蓮華は、蓮華の形をしていない。どちらかというとこれまでいくつかのエントリーで取り上げたヒマラヤの青いケシ、メコノプシスである。ターラーの手にする青蓮華はチベット語でウトパラというので、チベットの薬材辞典でウトパラutpalaをひいてみると、やはりどの本でもメコノプシスが学名としてあがっている。

チベットの青蓮華は蓮華でなくメコノプシスだったのだっ。
ターラー尊はチベットで感得された仏様で、遊牧民や農民にいたるまでこの仏さまに対する信仰はさかんである。チベットの守護尊は観音菩薩であり、ターラーはその眷属であると考えられていることと、あらゆる災難から人を救ってくれるというその大きな救済力が人気の秘密であろう。
一方、メコノプシスはヒマラヤ山中にわけいった多くの欧米人のプラント・ハンター(フッカー、キングドンウォード)の心を例外なくとらえてきた。
つまり、メコノプシスは欧米人にとっても憧れの花であり、それよりずっと昔からチベットでもっとも人気のある女尊のシンボルとしてチベット人にめでられてきたのである。
まさにヒマラヤの女王。
そういえば、むかーし、自分がぴっちぴちの女子大生だった頃、いまはなきH先生のところでチベット語を学んでいた。その時H先生が「これは蓮華と訳しますが、日本でみる睡蓮やはすの花とは違います。ウトパラとはチベットの仏画によく書かれるこの花です。」という話題がでたことを思い出した。あまりにも昔なので、その時どんな仏画をみたかは記憶にないが、ターラー尊の仏画だったかもしれない。
今思えば、ターラーを感得したガルワンは、チベット人がもっとも美しいと思う女尊の姿を身近に咲くもっとも美しい花の中に見たのだろう。
いやあ、物事に対する理解というものは年を取るにつれて深りますなあ。
修行も続けたらきっと深まっていくのでしょうなあ。
今のところ、三日は続いてます(笑)。

平岡先生によると、「観想がカンペキにできなくとも、印がなんちゃってでも、とにかく毎日続けることが大事」なんだそうな。センセによると「最初は一週間続ける、と決意してやり、次は一ヶ月、と徐々に期間を延ばしていくと毎日できるようになりますよ」とのことである。
私は「アル中が断酒をする時のやり方と同じですね」と心中思ったが、不謹慎なので口にしなかった(ここで書いたら同じじゃ)。まあでも、飲酒という悪い習慣を断ち切るのも、仏のイメトレという良い習慣を身につけるのも、習慣にするという意味では同じであるからこの喩えもまんざらはずれてはいない。
アル中患者の半分は断酒に失敗して最後は死にいたるというが、生起法を途中でやめたらどんな罰があたるのか、怖いので聞けない。ちなみに、具足戒とった僧侶が還俗したら、七回地獄に落ちるらしいが、それよりは軽いよね。そうあってほしい。
で、平岡先生によると、「最初は長いとつらいだろうから、省略できるところをして短いバージョンでやってもいい。しかし、なれてきて一座にかかる時間が短くなってきたら、省略した部分をフルバージョンでやるといい」とのこと。
こうして、世界一たよりないターラー行者が誕生した。私のことだから簡単には成仏できないので、将来私に救われる予定の有情さま、しばしお待ちくださいませ。
密教をちょっとでもかじった人はご存知だろうが、密教のさまざまな仏様たちは、形はあるけれど肉体をもたず、その実は空である。なので、どのような仏様を本尊にする場合も、まず、「なにかが無い」というような相対的な無ではなく、絶対的な無(空)の状態から、本尊の姿を起こしていく。
で、なにもない空の世界に、形あるものとないものの中間の存在としてまず「音」があらわれる。これは本尊を示す文字(種字)で表され、たとえばターラー尊だとtaMである。そして次にその種字が本尊を示すシンボルに姿を変える。ターラー尊の場合だと青蓮華である。そして、このシンボルが姿をかえて、衆生を救うための姿、本尊の姿になるのである。
だから、チベットの密教の仏様の姿は、みな空なのである。仏様の徳のさまざまな側面をイメージしやすくするためにさまざまな姿に表現しているだけである。
で、ターラー尊の重要なシンボルである青蓮華をみてて面白いことに気づいた。仏画の中でターラー尊が手にする青蓮華は、蓮華の形をしていない。どちらかというとこれまでいくつかのエントリーで取り上げたヒマラヤの青いケシ、メコノプシスである。ターラーの手にする青蓮華はチベット語でウトパラというので、チベットの薬材辞典でウトパラutpalaをひいてみると、やはりどの本でもメコノプシスが学名としてあがっている。

チベットの青蓮華は蓮華でなくメコノプシスだったのだっ。
ターラー尊はチベットで感得された仏様で、遊牧民や農民にいたるまでこの仏さまに対する信仰はさかんである。チベットの守護尊は観音菩薩であり、ターラーはその眷属であると考えられていることと、あらゆる災難から人を救ってくれるというその大きな救済力が人気の秘密であろう。
一方、メコノプシスはヒマラヤ山中にわけいった多くの欧米人のプラント・ハンター(フッカー、キングドンウォード)の心を例外なくとらえてきた。
つまり、メコノプシスは欧米人にとっても憧れの花であり、それよりずっと昔からチベットでもっとも人気のある女尊のシンボルとしてチベット人にめでられてきたのである。
まさにヒマラヤの女王。
そういえば、むかーし、自分がぴっちぴちの女子大生だった頃、いまはなきH先生のところでチベット語を学んでいた。その時H先生が「これは蓮華と訳しますが、日本でみる睡蓮やはすの花とは違います。ウトパラとはチベットの仏画によく書かれるこの花です。」という話題がでたことを思い出した。あまりにも昔なので、その時どんな仏画をみたかは記憶にないが、ターラー尊の仏画だったかもしれない。
今思えば、ターラーを感得したガルワンは、チベット人がもっとも美しいと思う女尊の姿を身近に咲くもっとも美しい花の中に見たのだろう。
いやあ、物事に対する理解というものは年を取るにつれて深りますなあ。
修行も続けたらきっと深まっていくのでしょうなあ。
今のところ、三日は続いてます(笑)。
仏になるためのイメトレ
土日は出雲の伝授の際のメモを整理する。早くしておかないと細かいところを忘れてしまうから。
で、大体和訳がしあがったらびっちびちに打ち出してA419枚くらいになった。ちなみに、儀軌は参考書みたいなものなので、たとえばチベット人ならだれでも暗記しているマンダラ供養文、七支供養文、21尊ターラー経などの常用の文章は本文からは省かれている。なので実質的には19枚以上になるか。
私が今回伝授して戴いた生起法は、チッタマニ・ターラー尊という女性の仏様である。英語で言うとグリーン・ターラー。この仏様はチベット人が感得したものなので、インドにこの儀軌は存在しない。
で、生起法というのは、密教の修業の一つで、簡単に言うと、仏様(人格者)の境地をめざすためのシミュレーションである。ターラーさんの場合は、仏さまのもつさまざまな側面の中でも、とにかくいろいろな災難から大量の人々を救う能力を象徴しているので、その境地を私が得ることができたアカツキには、ワタクシもターラー尊なみに地引網で大量にそこいらの衆生を救い上げることができるわけである。理論的には。
で、そのやり方なのだが、一言でいうと、その仏様のお姿を空(なにもない状態)からありありと思い浮かべ、その姿に仏の境地(菩提)から智慧そのものをインストールしてそのイメージを生きたものにして、そのイメージを自分と一体化させることによって、その仏の境地になじむ訓練なのである。
したがって、生起法は基本的には毎日行うものである。毎日毎日、一切衆生に対する無限の愛と哀れみをもち、偏らない中道の心をもつことを自らの心であると思いなじませ、いずれ、「将来あるべき人格者の自分」を作り上げていくのである。
最初は口にするのもこっぱずかしいセリフも、毎日毎日唱え続けて、十年もたてば自分の一部になる。そしてそのようなイメージ・トレーニングを毎日していれば、自然と、日常生活にあってもおかしなことをやらなくなるらしい。
日本仏教では禅宗とかは座禅を通じて自らの心をみつめ、仏様に近づく実践修業をかろうじて行っているが、大半の宗派は実践の習慣を忘れてしまい、「救っていただく」ようなスタンスが蔓延し、果てはただ死ぬことを成仏するとかいいだしているが、今はそのような形しか残っていない宗派でも、かつては、たとえば阿弥陀様を熱烈に恋求め、臨終にあたっては阿弥陀様をありありと観想するような作法があった。
究極の人格者をイメージしてそのイメージと一体化する生起法はとにかく実践の基本。「ダライ・ラマは自分が変わらないままで、人を変えようと思うな」とおっしゃり、怒りやすい人は怒る時間を短くするように、自分の心を客観的にみつめ自己本位にならないようにしなさい、と日々これ実践修業であることを説いておられる。
今の時代、自分はそのままでいながら、まわりを自分にあわせるように要求する人であふれている。親や教師や医者や政治家や役人、とにかく自分以外の他人には、絶対的な愛と自分への奉仕をもとめるかわりに、自分が世界ではたすべき義務を考えるものはない。で、自分に心地よく世界を変えようと思っても、世界中の人はみな同じことを考えているので、必然的に様々な価値観がぶつかりあい、うまくいくことはない。
で、シャーンティデーヴァはこういった。「足が傷つかないように全世界に毛皮の敷物をしきつめることができればいいが、それは不可能である。自分が靴を履いた方がはやい」と。
ド汚い自分をそのままにして、自分を傷つけたくないから、世の中に対して自分に合わせろと吠え続けてもむなしいだけである。しかし、心をトレーニングしあらゆることに臆せずあたれる強い心をもつようになったら、その心をもってどこへでも行けるようになる。
人格者になると自分を抑えて他人に尽くすことになるので、自分がソンをして他人が得をすると思っている人がいるが、それはあたらない。人格者は人を愛し、その結果人に愛されるから、人に尽くすことを喜びと考え、さらに多くの人から愛を返されるので、結局は幸せな人生を送るのである。したがって、人格者になるための修業は本来、楽しんでやるものなのだ。
それは平岡先生の言葉を借りれば、お祭りの山車をおいかけてフラフラ歩いていて気がついたら、隣町まで来ていた、みたいな感じ。楽しいことに心奪われていたら、気がついたら昔に比べてずいぶんマトモな人になっているわ、みたいな感じで修業をしていくのである。
で、生起法をはじめたら、寝る時、フロ入る時、ゴハンたべる時、みな自分の中に生起しているあるべき人格者の自分を安らがせ、清め、栄養をあげていると思いなんでも修業にしてしまうのである。ああら、簡単。
じっさい、南インドに再建されたチベットの僧院社会を訊ねてみると、その明るさにびっくりする。質素な単調な生活であるにも関わらず、彼らは実に楽しそうに笑って暮らしている。
というわけで、ターラー仏の生起法をはじめるモチベーションをあげてみたのでした。でもこれとにかく長いんだよね、ははは。
で、大体和訳がしあがったらびっちびちに打ち出してA419枚くらいになった。ちなみに、儀軌は参考書みたいなものなので、たとえばチベット人ならだれでも暗記しているマンダラ供養文、七支供養文、21尊ターラー経などの常用の文章は本文からは省かれている。なので実質的には19枚以上になるか。
私が今回伝授して戴いた生起法は、チッタマニ・ターラー尊という女性の仏様である。英語で言うとグリーン・ターラー。この仏様はチベット人が感得したものなので、インドにこの儀軌は存在しない。
で、生起法というのは、密教の修業の一つで、簡単に言うと、仏様(人格者)の境地をめざすためのシミュレーションである。ターラーさんの場合は、仏さまのもつさまざまな側面の中でも、とにかくいろいろな災難から大量の人々を救う能力を象徴しているので、その境地を私が得ることができたアカツキには、ワタクシもターラー尊なみに地引網で大量にそこいらの衆生を救い上げることができるわけである。理論的には。
で、そのやり方なのだが、一言でいうと、その仏様のお姿を空(なにもない状態)からありありと思い浮かべ、その姿に仏の境地(菩提)から智慧そのものをインストールしてそのイメージを生きたものにして、そのイメージを自分と一体化させることによって、その仏の境地になじむ訓練なのである。
したがって、生起法は基本的には毎日行うものである。毎日毎日、一切衆生に対する無限の愛と哀れみをもち、偏らない中道の心をもつことを自らの心であると思いなじませ、いずれ、「将来あるべき人格者の自分」を作り上げていくのである。
最初は口にするのもこっぱずかしいセリフも、毎日毎日唱え続けて、十年もたてば自分の一部になる。そしてそのようなイメージ・トレーニングを毎日していれば、自然と、日常生活にあってもおかしなことをやらなくなるらしい。
日本仏教では禅宗とかは座禅を通じて自らの心をみつめ、仏様に近づく実践修業をかろうじて行っているが、大半の宗派は実践の習慣を忘れてしまい、「救っていただく」ようなスタンスが蔓延し、果てはただ死ぬことを成仏するとかいいだしているが、今はそのような形しか残っていない宗派でも、かつては、たとえば阿弥陀様を熱烈に恋求め、臨終にあたっては阿弥陀様をありありと観想するような作法があった。
究極の人格者をイメージしてそのイメージと一体化する生起法はとにかく実践の基本。「ダライ・ラマは自分が変わらないままで、人を変えようと思うな」とおっしゃり、怒りやすい人は怒る時間を短くするように、自分の心を客観的にみつめ自己本位にならないようにしなさい、と日々これ実践修業であることを説いておられる。
今の時代、自分はそのままでいながら、まわりを自分にあわせるように要求する人であふれている。親や教師や医者や政治家や役人、とにかく自分以外の他人には、絶対的な愛と自分への奉仕をもとめるかわりに、自分が世界ではたすべき義務を考えるものはない。で、自分に心地よく世界を変えようと思っても、世界中の人はみな同じことを考えているので、必然的に様々な価値観がぶつかりあい、うまくいくことはない。
で、シャーンティデーヴァはこういった。「足が傷つかないように全世界に毛皮の敷物をしきつめることができればいいが、それは不可能である。自分が靴を履いた方がはやい」と。
ド汚い自分をそのままにして、自分を傷つけたくないから、世の中に対して自分に合わせろと吠え続けてもむなしいだけである。しかし、心をトレーニングしあらゆることに臆せずあたれる強い心をもつようになったら、その心をもってどこへでも行けるようになる。
人格者になると自分を抑えて他人に尽くすことになるので、自分がソンをして他人が得をすると思っている人がいるが、それはあたらない。人格者は人を愛し、その結果人に愛されるから、人に尽くすことを喜びと考え、さらに多くの人から愛を返されるので、結局は幸せな人生を送るのである。したがって、人格者になるための修業は本来、楽しんでやるものなのだ。
それは平岡先生の言葉を借りれば、お祭りの山車をおいかけてフラフラ歩いていて気がついたら、隣町まで来ていた、みたいな感じ。楽しいことに心奪われていたら、気がついたら昔に比べてずいぶんマトモな人になっているわ、みたいな感じで修業をしていくのである。
で、生起法をはじめたら、寝る時、フロ入る時、ゴハンたべる時、みな自分の中に生起しているあるべき人格者の自分を安らがせ、清め、栄養をあげていると思いなんでも修業にしてしまうのである。ああら、簡単。
じっさい、南インドに再建されたチベットの僧院社会を訊ねてみると、その明るさにびっくりする。質素な単調な生活であるにも関わらず、彼らは実に楽しそうに笑って暮らしている。
というわけで、ターラー仏の生起法をはじめるモチベーションをあげてみたのでした。でもこれとにかく長いんだよね、ははは。
出雲でターラー伝授
というわけで、チベッと仏教の伝統の前では、「連休中ダラダラしたい」という私の意志などはまったく無力であり、三連休は平岡さんのご命令によりチッタマニの伝授を受けるべく出雲の古刹峯寺にこもる。
平岡さん曰く、伝授の場に魔が入ると、たとえば、私か平岡さんのどちらかかが病気や事故で目的地までこれなかったり、近所で火事があってジャマが入ったりして、最後まで終わらないらしい。逆に言えば、伝授がつつがなく終わることはとてもいいことなのだそうな。
たしかに、ネット上の謎の旅行会社から買った格安航空券がホンモノだったことも驚きだし、金剛鈴とか金剛杵とかカパーラとかはいったカートが羽田の保安検査を通ったのも不思議である。平岡さんが巨大なターラー仏のタンカをもって怪しまれずにつくことができたのも、みな何かの力によるものであろう(笑)。
峯寺はかつてガワン先生が在世の折に無上ヨーガのダーキニーの灌頂を行った地である。そして、平岡さんのご命令によって整えられた勝手に命名「伝授の間」は、ガワン先生在世の折、平岡さんがここで密教を学んだ場であり、さらに先生の死後も、先生のご遺言で当寺に送られたダーキニーの像が祭られている。つまりはこの場は「聖者によって祝福された空間」なのである。
これまで渋谷のスターバックスで伝授を行っていたのに比べると格段に気合いが入っている。
そして、三日間、ひたすらチベット語の儀軌を前にマニアックな話を拝聴する。
平岡さんはこのチッタマニの伝授を1989年8月、当時のギュメの管長からまずうけており、2006年にはガワン先生からも受けている。平岡さんはガワン先生の24時間にわたる伝授のテープを見ていて、ガワン先生の口伝は自分以外に伝わっていないことに気がついたそうな。
そのため、ガワン先生なき今、平岡さんは自分のところでこの口伝がとまることに大層責任を感じ、密教の素養は?でも、ともかくチベット語を読める私にこの法を伝授しようと思いたった訳である。
そのような事情もあり、伝授を終えると平岡さんは本当に安堵した表情を浮かべられた。しかしよく考えてみたら、今度は自分にも「この法をしかるべき人に授ける」という義務が生じたわけで「ああこうして密教の法統はつながってきたのね」と理解する。
中日の3日には峯寺の書院でチベット仏教のお話をさせて戴く。
島根ばかりか、広島、岡山、鳥取からチベット・サポーターの方が集まって下さり、峯寺は一瞬にしてチベット仏教の菩提道場と化す。
お昼は峯寺さんの管理する遊山荘でテントゥクのご接待があったのだが、テントゥクに用いた小麦粉はこの日記のエントリー「生きる」で紹介させて戴いたNさんが送ってきて下さったもの。これが象徴するように、とてもよい集まりとなった。
伝授の合間にも、平岡さんの奥様の妃女さんが、ご自分でたてた御抹茶やコーヒーを出して下さり、峯寺の御夕食も、ご当地料理の焼鯖のちらし寿司に始まり、副住職のKさんがその朝掘ったという筍や、本堂の裏にはえるギボウシ、また裏の弥山でとれるゼンマイが精進料理となって食卓に並び、彩りには境内の紅葉が添えてあったりして、私の腐りきった普段の生活からは想像もつかない、精神的にも肉体的にも和の心とチベットの心がまざりあったスローライフでゼイタクな時を過ごさせて戴いた。
最終日の朝には六時起きして、峯寺のたつ聖山、弥山に昇る。
この登山も行の中に組み込まれており、頂上では平岡先生が導師となり、チベットでもよく高山のてっぺんで行われるグヒヤサマージャ尊のトルマ供養を行った。峯寺の副住職のKさん、平岡さんの奥様、私、Tさんと遊山荘の方が、眷属なってお経を聞く。
この供養の際には土地の神々もお祭りするため、出雲大社の遙拝場である弥山にふさわしい行と言える。
平岡センセの行が始まると、突然風が吹き始め、神秘的な気持ちになる。五月の弥山は若葉が美しく、鳥がさえずり、頂上にたつテレビ塔さえ見なかったことにすれば本当に美しい大気に満ちた世界であった。
不思議なことに、峯寺について伝授をはじめたとたん風邪気味だった体調はよくなり、四月はじめから続いていた肩こり、頭痛、ダルさなどもいつのまにか治っていた。家に帰ったとたんこれが全部もとにもどったので、やはり峯寺の、山中の自然と食べ物と空気と水と、峯寺ファミリーの穏やかな心と伝授の伝統が、私の不定愁訴を治していたのだろう。
幸せとか健康とかは、やはり人と人の和、つながり、食事その他すべてがくみあわさって生まれてくるものであることが、今回の体調の変化を見てもよく分かった。
最後に読者の方々のために、今回の伝授でもっとも印象に残った平岡先生のおことばを伝える。
「1989年、私ギュメ寺でこの伝授を受けていた時、当時は通信事情が悪かったので、昭和が終わったことを知りませんでした。11月にルーマニアでチャウシエスク政権が倒れた時(つまり東欧革命が起きた時)、インドの新聞にその写真がのったのですが、チベット人がインドの地方で暴動が起きたといっていたので、そうだと思っていました」
さすがわ行者。
平岡さん曰く、伝授の場に魔が入ると、たとえば、私か平岡さんのどちらかかが病気や事故で目的地までこれなかったり、近所で火事があってジャマが入ったりして、最後まで終わらないらしい。逆に言えば、伝授がつつがなく終わることはとてもいいことなのだそうな。
たしかに、ネット上の謎の旅行会社から買った格安航空券がホンモノだったことも驚きだし、金剛鈴とか金剛杵とかカパーラとかはいったカートが羽田の保安検査を通ったのも不思議である。平岡さんが巨大なターラー仏のタンカをもって怪しまれずにつくことができたのも、みな何かの力によるものであろう(笑)。

これまで渋谷のスターバックスで伝授を行っていたのに比べると格段に気合いが入っている。
そして、三日間、ひたすらチベット語の儀軌を前にマニアックな話を拝聴する。
平岡さんはこのチッタマニの伝授を1989年8月、当時のギュメの管長からまずうけており、2006年にはガワン先生からも受けている。平岡さんはガワン先生の24時間にわたる伝授のテープを見ていて、ガワン先生の口伝は自分以外に伝わっていないことに気がついたそうな。
そのため、ガワン先生なき今、平岡さんは自分のところでこの口伝がとまることに大層責任を感じ、密教の素養は?でも、ともかくチベット語を読める私にこの法を伝授しようと思いたった訳である。

中日の3日には峯寺の書院でチベット仏教のお話をさせて戴く。
島根ばかりか、広島、岡山、鳥取からチベット・サポーターの方が集まって下さり、峯寺は一瞬にしてチベット仏教の菩提道場と化す。
お昼は峯寺さんの管理する遊山荘でテントゥクのご接待があったのだが、テントゥクに用いた小麦粉はこの日記のエントリー「生きる」で紹介させて戴いたNさんが送ってきて下さったもの。これが象徴するように、とてもよい集まりとなった。
伝授の合間にも、平岡さんの奥様の妃女さんが、ご自分でたてた御抹茶やコーヒーを出して下さり、峯寺の御夕食も、ご当地料理の焼鯖のちらし寿司に始まり、副住職のKさんがその朝掘ったという筍や、本堂の裏にはえるギボウシ、また裏の弥山でとれるゼンマイが精進料理となって食卓に並び、彩りには境内の紅葉が添えてあったりして、私の腐りきった普段の生活からは想像もつかない、精神的にも肉体的にも和の心とチベットの心がまざりあったスローライフでゼイタクな時を過ごさせて戴いた。
最終日の朝には六時起きして、峯寺のたつ聖山、弥山に昇る。

この供養の際には土地の神々もお祭りするため、出雲大社の遙拝場である弥山にふさわしい行と言える。
平岡センセの行が始まると、突然風が吹き始め、神秘的な気持ちになる。五月の弥山は若葉が美しく、鳥がさえずり、頂上にたつテレビ塔さえ見なかったことにすれば本当に美しい大気に満ちた世界であった。
不思議なことに、峯寺について伝授をはじめたとたん風邪気味だった体調はよくなり、四月はじめから続いていた肩こり、頭痛、ダルさなどもいつのまにか治っていた。家に帰ったとたんこれが全部もとにもどったので、やはり峯寺の、山中の自然と食べ物と空気と水と、峯寺ファミリーの穏やかな心と伝授の伝統が、私の不定愁訴を治していたのだろう。
幸せとか健康とかは、やはり人と人の和、つながり、食事その他すべてがくみあわさって生まれてくるものであることが、今回の体調の変化を見てもよく分かった。
最後に読者の方々のために、今回の伝授でもっとも印象に残った平岡先生のおことばを伝える。
「1989年、私ギュメ寺でこの伝授を受けていた時、当時は通信事情が悪かったので、昭和が終わったことを知りませんでした。11月にルーマニアでチャウシエスク政権が倒れた時(つまり東欧革命が起きた時)、インドの新聞にその写真がのったのですが、チベット人がインドの地方で暴動が起きたといっていたので、そうだと思っていました」
さすがわ行者。
歴史教育とは何か
頭と舌でチベットを体験!
出雲の講演明日(3日)になりました! うわもうははは。
と き:平成22年5月3日(憲法記念日)午前11時から1時間http://blog51.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=456#
場 所:出雲大峯 中嶺山 峯寺 島根県雲南市三刀屋町給下1381
入 場 料:無料 講演会終了後「テントゥク」をご接待 詳しくはここクリック
出雲の講演明日(3日)になりました! うわもうははは。
と き:平成22年5月3日(憲法記念日)午前11時から1時間http://blog51.fc2.com/control.php?mode=editor&process=load&eno=456#
場 所:出雲大峯 中嶺山 峯寺 島根県雲南市三刀屋町給下1381
入 場 料:無料 講演会終了後「テントゥク」をご接待 詳しくはここクリック
大学院に入ったピンガ大王が「歴史教育って何でしょうか」みたいな質問をしてきたので、もうすぐ教育実習にいく学生も多いことだし、何かの参考になるかとその時彼に返したメールをあげとく。
歴史研究とは、史料批判を行いつつその時代特有の現象を明らかにしていく営為のことです。
過去に起きたことはその時代特有の環境、考え方、伝統、習慣などが組み合わさって生じてきたものです。したがって、ある時代に存在した現象を明らかにしようとするならば、その時代の環境なり価値観なり、思想なりをその当時の文脈に正確に位置づけて読み取る作業からはじめねばなりません。歴史家の優秀さは根拠を提示しながらどれだけその時代の空気を再現できるかによります。
しかし、過去は今から簡単に想像できるようなものではありません。
たとえば、ケータイが常用されるまえ、待ち合わせがどのようにされていたか、思い出せますか。ネットがない時代、スーパーがない時代、買い物はどうでしたか。思い出せますか。こんな風に、短い間にもいろいろな概念が大きく変わっていることに気づけば、百年二百年前になるとどれだけ違った価値観でものごとが動いていたか想像つくでしょう。
それに、ある事件がどうして起きたかを考える時、それが昨日起きた事件であってもそれが起きるに際してはいろいろな要因があったことはわかり、そこから過去に起きた様々な事件も一つの原因だけではなく、多くの要因を勘案しなければいけないことは分かるでしょう。
これが歴史研究です。なので、過去のある時代のある現象を断定的に見てきたように語り、単純化し、果ては断罪したり褒め称えたりするような歴史家は「かなりヤバイ」ことは自ずと分かるでしょう。
たとえば、某国を例に挙げますと、現在の体制を正当化するために、過去の時代について、その当時には存在しない概念「封建領主」、「農奴」、「宗教はアヘン」などの言葉をもっておとしめようとします。これが客観的な歴史研究たりえないことは四才児だって分かることです。
歴史教育とはまさにこのような予断をもったものの見方をさせないために行うものです。
歴史教育とは、過去におきた出来事はすべて、史料に基づいて証明できる範囲内において考えるべきであることを教えることです。それ以上のこと、資料にないことを言う場合、その先は妄想、政治的信条、プロパガンダの類となり、歴史ではないことを教えることです。
歴史はただそこにあるもので、自然と一緒で、観察の対象です。古生物学が過去の地層からでてくるものを科学的に分析して、恐竜の時代を解明していくように、歴史は史料をほりさげてその時代の特殊な現象がどのような体系であったのかを解明していくものです。
つまり、歴史を研究することはデマや感情によって曇った目によって過去を見るのではなく、史料によって解明できる範囲内において言えることを積み上げていく作業だといえます。こうして見ると、歴史研究は物事を客観的にみる訓練になるとも言えますね。
ここまでしか分からない、ここまでしか言えないことを教えることが歴史教育です。
ソクラテスもいうように「自分がいかに無知かを知るものが一番の智者」といえるので、歴史教育においてもそのセンで行くことがいいかと思います。
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