アポ・ガワンジクメ死去
12月23日に北京でアポ・ガワンジクメ氏(99)がなくなった。
この人物は1936年に26才で旧ダライ・ラマ政府の下で働き初め、1950年にはラルにかわってアムド(東チベット)総督に任命され、同年アムドになだれこんできた中国軍に戦わずしてチャムドを明け渡し、1951年にダライ・ラマ14世の同意なく17条協定の調印を行った人物として知られている。
その後も中国政府の支配下にあるチベットにおいて要職をつとめ、ドキュメンタリー映画『達頼喇嘛』(アカデミー賞監督スコセッシが1997年に製作したダライ・ラマ14世の自伝映画「クンドゥン」に対抗して中国政府が製作したダライ・ラマを封建領主とするプロパガンダ映画)にもバリバリ登場している。
アポ氏の生涯の詳細はGoldsteinのA History of Modern Tibet 1913-1951、ツェリンワンゲルのA Witness to Tibetan Historyなどをみてね。
こんなアポさんですから、 当然、中国メディアはアポ氏を祖国(この場合の祖国は彼らのいう多民族国家中国を指す)への貢献者として死亡記事を流しました。しかし、一方のチベット亡命政府もアポ氏は「パンチェンラマ同様、チベットの言語と文化をまもった愛国者(この場合愛すべき国はチベットを指す)」と称え、旧チベット政府の官僚の死を悼んでいます。
パンチェンラマが1989年になくなった時もそうであったが、亡命政府は中国共産党の制圧下にあって行動にも言論にも制約を受けていたチベット人の要人を悪く言うことはない。とにかくいいところを見つけて随喜する。パンチェンラマは実際あの環境下でよくがんばっていたし。
実は20代の頃、中国蔵学研究中心(北京にあるチベット学研究センター)の記念学会でアポ氏とお会いしたことがある。この学会については何年か前にもちょと触れた。
この学会のパーティ・ゲストとして呼ばれていたのがアポ氏。おじいさんがきて一人一人と握手をしていたので、とれあえず握手したら、後で聞いたらなんとあのアポさんとな。余談だけど、この学会の出席者はほとんとが中国の意をくんだ発言をする学者たちで、欧米からきたわずか十数人の学者はプロパガンダ学会にどんびきして固まるうちに、互いに仲良くなった。
で去年。チベット学者が中国政府に対してチベット政策を改めよ、と呼びかけたあの文書に署名した学者たちは、この時の学会にでていたメンバーがかなりかぶっている。プロパガンダとは、信じ込んでそのまま影響をうける人もいるだろうが、それがウソであることを知っている人はかえって奮い立つことを忘れてはならない。真実はウソよりもつねに強いのだ。
というわけで、アポ氏と握手をした貴重な体験を懐かしく思い出しつつ、物持ちのいい自分はその時の学会でもらったお土産をまだもっていたので、公開。伝統的なチベットの筆記用具はいいとして、ショルダーバッグに「中国ラサ」って書いてあるのがお茶目である。

09年ももう終わり。よいお年を、そして来年もチベットをよろしくお願いいたします。
この人物は1936年に26才で旧ダライ・ラマ政府の下で働き初め、1950年にはラルにかわってアムド(東チベット)総督に任命され、同年アムドになだれこんできた中国軍に戦わずしてチャムドを明け渡し、1951年にダライ・ラマ14世の同意なく17条協定の調印を行った人物として知られている。
その後も中国政府の支配下にあるチベットにおいて要職をつとめ、ドキュメンタリー映画『達頼喇嘛』(アカデミー賞監督スコセッシが1997年に製作したダライ・ラマ14世の自伝映画「クンドゥン」に対抗して中国政府が製作したダライ・ラマを封建領主とするプロパガンダ映画)にもバリバリ登場している。
アポ氏の生涯の詳細はGoldsteinのA History of Modern Tibet 1913-1951、ツェリンワンゲルのA Witness to Tibetan Historyなどをみてね。
こんなアポさんですから、 当然、中国メディアはアポ氏を祖国(この場合の祖国は彼らのいう多民族国家中国を指す)への貢献者として死亡記事を流しました。しかし、一方のチベット亡命政府もアポ氏は「パンチェンラマ同様、チベットの言語と文化をまもった愛国者(この場合愛すべき国はチベットを指す)」と称え、旧チベット政府の官僚の死を悼んでいます。
パンチェンラマが1989年になくなった時もそうであったが、亡命政府は中国共産党の制圧下にあって行動にも言論にも制約を受けていたチベット人の要人を悪く言うことはない。とにかくいいところを見つけて随喜する。パンチェンラマは実際あの環境下でよくがんばっていたし。
実は20代の頃、中国蔵学研究中心(北京にあるチベット学研究センター)の記念学会でアポ氏とお会いしたことがある。この学会については何年か前にもちょと触れた。
この学会のパーティ・ゲストとして呼ばれていたのがアポ氏。おじいさんがきて一人一人と握手をしていたので、とれあえず握手したら、後で聞いたらなんとあのアポさんとな。余談だけど、この学会の出席者はほとんとが中国の意をくんだ発言をする学者たちで、欧米からきたわずか十数人の学者はプロパガンダ学会にどんびきして固まるうちに、互いに仲良くなった。
で去年。チベット学者が中国政府に対してチベット政策を改めよ、と呼びかけたあの文書に署名した学者たちは、この時の学会にでていたメンバーがかなりかぶっている。プロパガンダとは、信じ込んでそのまま影響をうける人もいるだろうが、それがウソであることを知っている人はかえって奮い立つことを忘れてはならない。真実はウソよりもつねに強いのだ。
というわけで、アポ氏と握手をした貴重な体験を懐かしく思い出しつつ、物持ちのいい自分はその時の学会でもらったお土産をまだもっていたので、公開。伝統的なチベットの筆記用具はいいとして、ショルダーバッグに「中国ラサ」って書いてあるのがお茶目である。

09年ももう終わり。よいお年を、そして来年もチベットをよろしくお願いいたします。
アジア系の情けないイメージ
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冬休みに入った途端、緊張の糸が途切れて、朝から晩まで海外ドラマを見倒して廃人化する。このような不謹慎なことを書くと、どこかの編集さんの悲鳴が聞こえてくるような気もするが、今日からちゃんとやります。ダラダラした後なので集中力は倍増しです。
本当でーす。
ひたすら見たのは、スーパーナチュラルの第四シーズン、プリズン・ブレイクの最終シーズン。主な目的は主演のイケメン俳優、ジェンセン・アクレスとウェントワース・ミラーを鑑賞するためである。
プリズン・ブレイクは最初は、無実の罪で刑務所に入れられた兄を死刑から救うべく、弟であるマイケル(ウエントワース・ミラー)がその天才的な頭脳を駆使して、難攻不落のフォックス・リバー刑務所を脱獄するという話であった。
話の内容上脱獄すれば終わりで、シーズンを重ねるには無理があると思われたが、マイケルに人気がでてしまったために強引に話は続き、最終シーズンとなった今回は、なんと兄ちゃんを無実の罪に陥れたカンパニー(自分たちの金儲けのために大統領すら殺す官・軍・民一体のゼニ設けマシーン組織)を倒すために、かつての看守、彼らを追っていたFBI捜査官、監獄内で対立していた囚人仲間といったサブキャラが総出演で、恩讐をこえて協力しあうヒューマン・ロンダリングな話になっておる。
で、この最終シーズンにきてはじめてローランドという役名のアジア系のオタクが新たに加わった。この男を見ているうちに、アメリカ人がアジア系の人々にどのようなイメージをもっているかが分かり、もの悲しい気持ちになった。
それがどういうものかを話す前に登場人物の役割を説明すると、マイケルと元FBIのアレックスは頭脳担当で、マイケルのにいちゃんと囚人仲間のスクレは肉体労働担当。マイケルの恋人サラはお色気で敵に近づく担当。マイケルに便乗して脱獄した凶悪犯ティーバックとカンパニーの元殺し屋グレッチェンは銃乱射担当、現役FBIは裏切り担当。で、このアジア系のローランドは天才的なハッカーとしてマイケル・チームを助けるという設定である。ローランドはハッカーの罪で服役を免れるために協力をしている。
で、このローランド、長髪・無精ひげでまんまオタク。二言目には「逃げちゃおう、どうせ無理だよ。オレはキーボードうつだけという約束。〔撃たれたくないから〕外には出ない。」とか、自分のことしか考えていない。
欧米系のサブキャラたちは、カンパニーを倒すという目的のもと、献身的に身を挺して動き、過去のさまざまな自分の行いを精算して成長していくのに、このローランドだけはラリホーなまま。
あげくターゲットの情報を吸わなければならない場面で、あろうことかスロットマシーンの情報をすって、そのスロットで大もうけしようとしたところで警備員にみつかり、機密のはいった機器(携帯電話状のものであるが、周囲にある情報をワイヤレスで吸う機械)をとりあげられてしまう。この機器がなくなった時点で彼はお払い箱となるが、他メンバーから「刑務所に戻るか、さもなければ、上でおとなしくしていろ」と言われると、メンツをつぶされたと思ったのか、敵の殺し屋に電話をしてマイケルたちの居場所を売ろうとする。
どこまでこの男はダメなのだろう。
自分のミス(しかも原因がギャンブル)で計画を頓挫させ、みなにメイワクをかけたあげく、金銭目的で仲間を売るのである。
頭脳明晰なマイケルは即座にローランドの裏切りを察知するが、ローランドは「オレを疑うなんてサイテーだ!謝れよ」とか逆キレ(どう考えても謝るのはオマエの方だ!)。ローランドの言動は倫理的に恥じない行いをしているか否というような大人な思考で回っておらず、「自分がはずされた」(はずされるようなことをしたからだ!)「自分が疑われた」(つか、オマエ敵に内通しているだろうが。疑われて当然)という点のみでまわっている。
自分の感情に支配されてまわりを顧みない子供の思考である。
ローランドは殺し屋に対して取引を持ちかけるが、殺し屋はまずローランドの両足を打ち抜き、次に腹をうち、「オマエはこれから五分後に激痛の中で死ぬが、いますぐ頭をうちぬいてもらいたかったら、マイケルたちの居所をいえ」とか言われる。
まあ殺しが仕事ですから。
ローランド自業自得。
マイケルたちが駆けつけた時、ローランドはもう虫の息であった。みなは「こんなやつほっておけ」というが、やさしいマイケルはこのアホの手を取って、最期を看取ってやる。
アホは最期に一言、「ごめん」(I'm sorry)。
やっとまともになったな。
ちなみにローランドがギャンブル好きという性格をもつのは、アメリカ人が中国人、韓国人に対してもつイメージの典型である。そして「メンツが傷ついた」とかいう主観的な甘えた理由で仕事をジャマしまくるローランドの性格はたぶん中国系のイメージ。
そして、倫理的なもの(マイケルたち)と非倫理的なもの(カンパニー)の間でふらふらしながら、最期はお金ほしさに非倫理的なものにふれるローランドのへたれな態度は日本人に対して欧米人が感じているイメージの最たるものでないだろうか。
日本はこれまで欧米と協調する一方、倫理的・人道的にダメダメな国(中国やミャンマーetc)に対して毅然とした態度をとってこなかった。表面的には「頭ごなしに命令しても言うことは聞かない、援助を続けることによってこちらの意見を聞いてもらうことも可能となる」とかいう屁理屈をこねているが、ようは隙間ビジネスによって利益をあげるため、このような情けない対応をとっているのである。
でそれを「食べるために仕方ないから」と恥じているのならまだ救いもあるが、学者にいたるまで「西洋人は少数派の人権をまもることを白人の使命(White man's burden)であるとし、世界中で混乱をひきおこしている。」とか、他人のために献身的に活動している人を揶揄する連中が多い。
自らのエゴや非倫理性については顧みることなく、倫理的に振る舞っている人を攻撃(ようは逆ギレ)するようなこの言動はあまりにも醜い。
その子供性ゆえに誰からも尊敬されない、尊重されない、最期は自業自得で死んでいくローランドの行く末は、なんか欧米(倫理性)にもアジア(非倫理性)にも相手にされずに一人沈んでいく今の日本を見ているようで痛い。
冬休みに入った途端、緊張の糸が途切れて、朝から晩まで海外ドラマを見倒して廃人化する。このような不謹慎なことを書くと、どこかの編集さんの悲鳴が聞こえてくるような気もするが、今日からちゃんとやります。ダラダラした後なので集中力は倍増しです。
本当でーす。
ひたすら見たのは、スーパーナチュラルの第四シーズン、プリズン・ブレイクの最終シーズン。主な目的は主演のイケメン俳優、ジェンセン・アクレスとウェントワース・ミラーを鑑賞するためである。
プリズン・ブレイクは最初は、無実の罪で刑務所に入れられた兄を死刑から救うべく、弟であるマイケル(ウエントワース・ミラー)がその天才的な頭脳を駆使して、難攻不落のフォックス・リバー刑務所を脱獄するという話であった。
話の内容上脱獄すれば終わりで、シーズンを重ねるには無理があると思われたが、マイケルに人気がでてしまったために強引に話は続き、最終シーズンとなった今回は、なんと兄ちゃんを無実の罪に陥れたカンパニー(自分たちの金儲けのために大統領すら殺す官・軍・民一体のゼニ設けマシーン組織)を倒すために、かつての看守、彼らを追っていたFBI捜査官、監獄内で対立していた囚人仲間といったサブキャラが総出演で、恩讐をこえて協力しあうヒューマン・ロンダリングな話になっておる。
で、この最終シーズンにきてはじめてローランドという役名のアジア系のオタクが新たに加わった。この男を見ているうちに、アメリカ人がアジア系の人々にどのようなイメージをもっているかが分かり、もの悲しい気持ちになった。
それがどういうものかを話す前に登場人物の役割を説明すると、マイケルと元FBIのアレックスは頭脳担当で、マイケルのにいちゃんと囚人仲間のスクレは肉体労働担当。マイケルの恋人サラはお色気で敵に近づく担当。マイケルに便乗して脱獄した凶悪犯ティーバックとカンパニーの元殺し屋グレッチェンは銃乱射担当、現役FBIは裏切り担当。で、このアジア系のローランドは天才的なハッカーとしてマイケル・チームを助けるという設定である。ローランドはハッカーの罪で服役を免れるために協力をしている。
で、このローランド、長髪・無精ひげでまんまオタク。二言目には「逃げちゃおう、どうせ無理だよ。オレはキーボードうつだけという約束。〔撃たれたくないから〕外には出ない。」とか、自分のことしか考えていない。
欧米系のサブキャラたちは、カンパニーを倒すという目的のもと、献身的に身を挺して動き、過去のさまざまな自分の行いを精算して成長していくのに、このローランドだけはラリホーなまま。
あげくターゲットの情報を吸わなければならない場面で、あろうことかスロットマシーンの情報をすって、そのスロットで大もうけしようとしたところで警備員にみつかり、機密のはいった機器(携帯電話状のものであるが、周囲にある情報をワイヤレスで吸う機械)をとりあげられてしまう。この機器がなくなった時点で彼はお払い箱となるが、他メンバーから「刑務所に戻るか、さもなければ、上でおとなしくしていろ」と言われると、メンツをつぶされたと思ったのか、敵の殺し屋に電話をしてマイケルたちの居場所を売ろうとする。
どこまでこの男はダメなのだろう。
自分のミス(しかも原因がギャンブル)で計画を頓挫させ、みなにメイワクをかけたあげく、金銭目的で仲間を売るのである。
頭脳明晰なマイケルは即座にローランドの裏切りを察知するが、ローランドは「オレを疑うなんてサイテーだ!謝れよ」とか逆キレ(どう考えても謝るのはオマエの方だ!)。ローランドの言動は倫理的に恥じない行いをしているか否というような大人な思考で回っておらず、「自分がはずされた」(はずされるようなことをしたからだ!)「自分が疑われた」(つか、オマエ敵に内通しているだろうが。疑われて当然)という点のみでまわっている。
自分の感情に支配されてまわりを顧みない子供の思考である。
ローランドは殺し屋に対して取引を持ちかけるが、殺し屋はまずローランドの両足を打ち抜き、次に腹をうち、「オマエはこれから五分後に激痛の中で死ぬが、いますぐ頭をうちぬいてもらいたかったら、マイケルたちの居所をいえ」とか言われる。
まあ殺しが仕事ですから。
ローランド自業自得。
マイケルたちが駆けつけた時、ローランドはもう虫の息であった。みなは「こんなやつほっておけ」というが、やさしいマイケルはこのアホの手を取って、最期を看取ってやる。
アホは最期に一言、「ごめん」(I'm sorry)。
やっとまともになったな。
ちなみにローランドがギャンブル好きという性格をもつのは、アメリカ人が中国人、韓国人に対してもつイメージの典型である。そして「メンツが傷ついた」とかいう主観的な甘えた理由で仕事をジャマしまくるローランドの性格はたぶん中国系のイメージ。
そして、倫理的なもの(マイケルたち)と非倫理的なもの(カンパニー)の間でふらふらしながら、最期はお金ほしさに非倫理的なものにふれるローランドのへたれな態度は日本人に対して欧米人が感じているイメージの最たるものでないだろうか。
日本はこれまで欧米と協調する一方、倫理的・人道的にダメダメな国(中国やミャンマーetc)に対して毅然とした態度をとってこなかった。表面的には「頭ごなしに命令しても言うことは聞かない、援助を続けることによってこちらの意見を聞いてもらうことも可能となる」とかいう屁理屈をこねているが、ようは隙間ビジネスによって利益をあげるため、このような情けない対応をとっているのである。
でそれを「食べるために仕方ないから」と恥じているのならまだ救いもあるが、学者にいたるまで「西洋人は少数派の人権をまもることを白人の使命(White man's burden)であるとし、世界中で混乱をひきおこしている。」とか、他人のために献身的に活動している人を揶揄する連中が多い。
自らのエゴや非倫理性については顧みることなく、倫理的に振る舞っている人を攻撃(ようは逆ギレ)するようなこの言動はあまりにも醜い。
その子供性ゆえに誰からも尊敬されない、尊重されない、最期は自業自得で死んでいくローランドの行く末は、なんか欧米(倫理性)にもアジア(非倫理性)にも相手にされずに一人沈んでいく今の日本を見ているようで痛い。
人と人をつなぐ見えない糸
木曜日はわがゼミの「冬至のお祭り」であった。闇の中から光が力をとりもどしはじめるこのよき日を祝って、わがゼミでは500円以内のプレゼント交換を行う(笑)。
ちなみに、500円というのは買いに行く場合の目安で、家の中にある不要品をもってくる場合は実勢価格は500円をこす場合もある。
プレゼント交換は一種の籤で、みんなが提出したプレゼントにポストイットで番号つけて、もう一方で番号札ひいてあたった番号のプレゼントを自分のものとする。自分のものがあたったりする場合もあって、システムは万全ではないが、この方法が一番楽なので、なんとなく毎年こうしている。
で、いつもながら不思議に思うのだけど、誰の買ったものが誰にあたるのか、というのを見ていると、やはりそのプレゼントを交換したもの同士にはすべてにあてはまるわけではないけど、やはり見えない糸がつながっているように見える。
たとえば、去年自分が準備したジブリ・カレンダーはMにあたったが、Mはこのブログでもたびたび肴にしてきたチベット史を勉強するために大学院にあがってくるあのMである。もうずいぶんチベット語が読めるようになっている。
そして、今年私の準備した教会型キャンドルをうけとったのは三年生のKSクン。この子は読書サークルに入っていて非常によくものを考える子なので、思わず「大学院にはいって私のチベット学をつがない?」とリクルートしちゃったよ。
で、三年生にWさんという女の子がいて、この子が神。みなが相当できあがってきたところで、トナカイの耳をつけてウクレレを抱えて登場し、クリスマス・ソングを奏でてくれた。この二週間ウクレレの特訓をしていたという。だから学校にきていなかったのか(笑)。
で、彼女の準備したプレゼントである。最初彼女はヤフオクで99cmのワニの剥製を500円で競り落とそうとしていた。しかし、私が生き物の殺生を嫌うのを忖度して賢明にも辞退。つか、落札したらワニの剥製を会場にまでもってきたのだろうか。で、代わりに彼女が落札したのは、チベットが独立国であった時代のチベット政府のコイン。560円だったという(とほほ)。
彼女のプレゼントは三年生のKYクンにあたり、私は思わず彼も大学院に「きっとチベットに縁があるのよ。大学院はいんない?」と誘った。しかし、二人ともこの不景気の折り、親にあまり負担をかけたくないと、大学院進学には興味を示さず。しかし、私は諦めない。
絶対君たちはチベットと縁がある
こうなるともう洗脳だな。(笑)
で、Mがこの独立時代のコインに書いてあるチベット文字をガンデン・ポタン(ダライラマ政権の美称)と解読するのを見て、結構感動した。Mは一年前はチベット語のチの字も読めなかったのである。
それに、トホホなプレゼントがあたってしまった人のために、私が準備していたチベット・グッズはとぶようにもっていかれる。そこいらの早大生なら何だかよくわからないだろうこれらのチベット・グッズをじゃんけんまでして奪い合う姿をみて、さらに感慨にふける。
ダライ・ラマの慈悲にまもられてみな幸せな生涯を送るのだよ。
体をはったWちゃんのウクレレ、ファイナル・ファンタシーの発売日にいやいやきてくれたK太、毎年毎年幹事をおしつけられているM子ちゃん、わがゼミはみなむだにキャラがたっている。
そして土曜日は本年最後の〔ボランティア〕講演「モンゴル人を魅了したチベット仏教」を護国寺様で行う。
カーラルーパの生起法をやっていったせいか、客層の質が高かったからか、問題なく終了。めでたし、めでたし。昨日の講演のレジュメは家をでる五秒前まで作成中であったため、ややミスタイプがおおく、ちょっち恥ずかしかったので、あらためて以下にはっときます(まだあるかもしれませんが)。
【チベット仏教とモンゴル人】
bTibet09 091219
1. ダライ・ラマ三世のモンゴル布教
14世紀にツォンカパ(tsong kha pa; 1357-1419)によって開かれたゲルク派は、顕教・戒律の重視、大僧院主義などを特徴とし、その勢力は各地域に拡大していった。このような中で、ラサに建つセラ・デプン・ガンデンの三大僧院(ser 'bras dge)とシガツェにたつタシルンポ大僧院の四大僧院は、新しく地方に建立されていく寺々の本山の役割を果たし千人規模の偉容を呈した。
16世紀、デプン大僧院の転生僧であったソナムギャムツォ(1543-1588)は、東チベット(カム)、東北チベット(アムド)、ジャン(雲南)に積極的に進出し、1573年にはアムドのチャプチャルにおいて、モンゴルのトゥメト部の王侯アルタン=ハーン(1507-1582)と会合した。アルタンがこの時ソナムギャムツォに奉呈したいわゆる「ダライ・ラマ」号(ダライはモンゴル語で「海」を意味し、ソナムギャムツォの名前の後半である海を意味するギャムツォを訳したもの)は、その後ソナムギャムツォの転生者を指し示す国際称号となった。「ダライ・ラマ号の誕生」である。
アルタン=ハーンとその子孫たちが、南モンゴルにラサのチョカン(大召寺)やガンデン大僧院をまねた寺をたて、そのまわりにはやがて門前町が形成され、それが現在の内蒙古自治区の区都フフホトの前身となった。このように遊牧民の世界であったモンゴルの地に町が形成される契機はチベット僧院の設立であった。
ダライ・ラマ三世の東北チベット進出を契機に、この地域にはゲルク派の寺が数多く建ち、ダライ・ラマを後援するためにこの地に移住してきたモンゴル人たちの後援を受けてこれらの寺は大きく発展した。1698年にダライ・ラマ五世の摂政が著した『ゲルク派史』(bai durya ser po)によると、当時下アムド(青海湖周辺)には29のゲルク派の僧院があり、このうち、クンブム(1300名)、グンルン(1500名)、ガンデンダムチューリン(1300名)の三僧院の規模は中央チベットの三大僧院と比肩するものであった。『ゲルク派史』はこれらアムドの三大僧院はいずれもデプン大僧院のゴマン学堂(sgo mang)を本山と仰いでいたことを記録している。
2. ダライ・ラマ政権の確立とモンゴル人・満洲人の大施主の座をめぐる争い
1642年、西モンゴルに遊牧地をもつホショト部のグシ=ハーンが、ゲルク派の支援者となり、ゲルク派の政敵カルマ・カギュ派の王を倒してチベットを統一した。グシ=ハーンはアショーカ王やフビライ・ハーン(1215-1294)などの過去の聖王たちにならい、征服したチベットをゲルク派に献上した。ゲルク派のスター僧であったダライ・ラマ五世はチベットの守護尊・観音菩薩が太古の昔にチベットに降臨したと言われるマルポリの丘の上に宮殿(ポタラ宮)を築き、自らを観音の化身としてチベットに君臨した。壮麗な宮殿に住み、チベットの歴史神話と同化することは、ダライ・ラマ政権が、軍事力をもつモンゴル人や他宗派の僧侶たちを牽制する効果を生んだ。
17世紀に東アジアで最強の民族の座はモンゴル人から満洲人に移っていた。満洲人はもともとモンゴル人を介してチベット仏教に触れていたため、1637年に二代目清朝皇帝ホンタイジ(1592-1643)がチンギス=ハーンの弟の末裔であるホルチン部を配下にいれると、それを記念して当時の首都ムクデン(現瀋陽)にチベット寺を建て、モンゴル帝国の最盛期のハーンのラマであったパクパの鋳造した仏像(マハーカーラ尊)を祀った。これは、「チベット仏教を振興したモンゴル帝国を継承する」と宣言することによって、歴史のない満洲人の国家に権威つけをし、さらには中国を征服・支配する上で、モンゴル人を同盟者にする効果を生んだ。
1643年に満洲人が中国を征服すると、その宮廷においては、満洲語、モンゴル語、漢語が乱舞し、チベット語・モンゴル語を自由に操ることができるアムド出身のモンゴル僧たちが宮廷で大活躍することとなった。17世紀のゴマン学堂の座主は、歴代、モンゴルでおきる戦争の調停、モンゴル布教などにあたり、みな歴史的な名を残している。グンルン大僧院を本拠とする歴代チャンキャもチャンキャ二世は康煕帝のラマ、三世(1717-1786)は乾隆帝(1711-1799)のラマをつとめており、チベットのダライ・ラマ政権とモンゴル王侯と満洲の間にたって、チベット仏教世界の安定化に貢献した。
モンゴル本土においてはトシェート・ハーンの弟ジニャーナバジラが17世紀の中葉、チベットのタシルンポ大僧院に留学した。彼の転生者はジェブツゥンダムパの称号をもって知られることとなり、モンゴルのダライ・ラマともいうべき権威ある転生僧へと成長する。ジニャーナバジラはチベットから造仏・造寺の工人をひきいてチベットから帰国し、トゥーラ河のほとりにガンデン大僧院のモンゴル版ガンデン寺をたてた。このガンデン大僧院のまわりに形成された町が現在のモンゴルの首都ウラーン・バートルである。
このように、歴代ダライ・ラマ政権はモンゴル人留学生を積極的に受け入れ、彼らが留学を終えた後には故郷に帰し、チベット仏教文化の扶植を行わせた。そのため、ハルハ、ジュンガル、トルグート、ブリヤートなどのモンゴル系の人々は次々とゲルク派へと帰依し、モンゴルにはゲルク派の僧院が数多く建立されていった。
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、北アジアでは何度もモンゴル人同士、あるいはモンゴル人と満洲人の間で戦争がおきるが、皮肉なことに紛争を起こした両サイドはともに「ダライ・ラマのため」という名分を掲げていた。たとえば1686年のハルハ部とジュンガル部のガルダンとの紛争の場合は「ジェブツゥンダムパ一世がダライ・ラマの使者(元ゴマン学堂長)と同じ高さの席についたのは、ダライ・ラマに対する不敬である」と主張するガルダンがトシェート・ハーンとジェブツゥンダムパ一世を襲って始まった。後二者は支配する民をひきいて清朝へと亡命したため、戦争はやがてガルダンと満洲人(清朝)間へと発展した。満洲側は「ダライ・ラマの教えに従えば、戦争は起こさないはずだ」と応酬した。
1705年にジュンガルがチベット本土に侵攻した事件は、清朝がたてたダライ・ラマ六世に異議を申し立てたグシ・ハーンの子孫とジュンガルが同盟を結んで行ったものであった。彼らは「偽のダライ・ラマを廃し、正統なダライラマ(ダライ・ラマ七世)を即位させる」ことを旗印としており、そのジュンガルをラサから追い払った清朝も「ダライ・ラマを即位させる」ことを旗印に掲げた。
1720年、清朝が自らが擁立したダライ・ラマ六世を見捨てて、ダライ・ラマ七世を奉じてチベットに侵攻したことを境に、ダライ・ラマの大施主の座はモンゴル人から満洲人へと移行する。しかし、清朝一代を通じて満洲皇帝はチベットに派遣する大臣(アンバン)は家柄のいいモンゴル貴族をあて、内廷から送るラマもアムド出身の僧にするなど、モンゴル人とチベットとの間に存在する歴史的関係に一定の配慮をみせた。
パンチェンラマ四世は1780年に乾隆帝をインド、チベット、モンゴルにおいて仏教王権を形成した聖王たちの転生者と位置づける転生譜('khrungs rabs)を作成し、満洲王権をチベット仏教世界の歴史へととりこんでいった。乾隆帝のラマであったチャンキャ三世はそれに先立つ三十年前に同じくパンチェンラマ四世によって、パクパの転生者と認定されており、清朝宮廷においてパクパの故事にちなんだ様々な仏教興隆事業に邁進した。
こうして、17世紀から19世紀前半にかけて、チベット仏教はモンゴル人、満洲人を施主として富み栄えたのである。
3. アメリカにおけるモンゴル系ラマたちの活躍(ゲシェ・ワンゲル)
19世紀後半になると、もはや満洲人・モンゴル人の軍事力は世界最強のものではなくなっていた。ロシア、そしてモンゴルは次々と社会主義革命の嵐に飲まれていき、1949年に中国に社会主義政権が成立したことによって、チベット本土をのぞきチベット仏教世界のほぼ全域が社会主義政権に覆われた。そして、これらの地域に建つチベットの僧院は社会主義政権によって徹底的に破壊されたのである。
そのため、ソ連の支配下におちたカルムキアやブリヤートなどのモンゴル系のラマたちは、いちはやく外の世界に亡命し、チベット仏教が西洋へ伝播する先導役を果たした。
この中からカルムキアの僧ゲシェ・ワンゲルの事績をとりあげてみよう。ゲシェ・ワンゲル(1901-1983)はブリヤート僧ガワンドルジェ(通称ドルジエフ1854-1938)の命により、1922年にデプン大僧院のゴマン学堂に入学し、学業を修めた。そのあと、故郷カルムキアに戻ろうとしたものの、ロシアでおきた社会主義革命により帰国を断念し、北京でチャールズ・ベル(1870-1945 当時のシッキム、ブータン、チベット担当のイギリス人士官。ダライ・ラマ13世との交友で名高い) の通訳をつとめていた。そして1950年に、中国軍のチベット占領を受けて、ゲシェ・ワンゲルはインドに亡命した。
第二次世界大戦の期間、スターリンの迫害を受けたカルムキア人たちはソ連と対立するドイツ軍についたため、これらの人々はドイツの降伏後ソ連の弾圧を受けることを怖れて、アメリカのニュージャージーに移り住んだ。ゲシェ・ワンゲルは1955年にこのニュージャーのカルムキア社会に招かれてアメリカに渡る。
ゲシェ・ワンゲルはたちまちニューヨークやボストンの若者たちの心をつかみ、ゲシェ・ワンゲルのもとには毎週日曜日50名以上の白人の若者たちが「随喜の表情を浮かべて」集った。このような青年たちの中に、ハーバート大学の学生であったロバート・サーマン(1941-)とジェフリー・ホプキンス(1940-)がいた。1964年、ロバート・サーマンはゲシェ・ワンゲルにつれられて29才のダライ・ラマの元に赴き、チベット仏教僧として出家した。やがてサーマンは仏教僧としての生活をやめ還俗してハーバート大学に戻り学位をとり、コロンビア大学において中観哲学を教える教授となった。1987年にはリチャード・ギア、フィリップ・グラスとともにニューヨークにチベット・ハウスを設立し、変わることなくチベット仏教文化の維持に励んでいる。
一方のジェフリー・ホプキンスもウィスコンシン大学において学位をとり、ヴァージニア大学で教鞭を執り、チベットの僧院のカリキュラムに準じて多くの仏教哲学者を育てあげた。ホプキンスはツォンカパやダライ・ラマの著作を精力的に英訳し、チベット仏教をアメリカ人に伝え、その結果、アメリカ人はチベット仏教の基礎をかなり正確に理解することとなった。ハリウッドで数々作られてきた映画において、チベット人がどのように描かれているかを見ると、形としてのチベット文化の考証はいい加減であるが、精神はかなり正確に理解していることが見て取れる。
また、アメリカの知識人層の仏教に対する理解も、「一応仏教徒」のわれわれ日本人よりは、はるかに深く敬虔なものである。アメリカ人はチベット仏教の僧を直接師と仰ぎ、伝統的なカリキュラムに基づいてチベット仏教を勉強した。これはヨーロッパや日本の仏教学会にはまったく見られない傾向である。
ちなみに、500円というのは買いに行く場合の目安で、家の中にある不要品をもってくる場合は実勢価格は500円をこす場合もある。
プレゼント交換は一種の籤で、みんなが提出したプレゼントにポストイットで番号つけて、もう一方で番号札ひいてあたった番号のプレゼントを自分のものとする。自分のものがあたったりする場合もあって、システムは万全ではないが、この方法が一番楽なので、なんとなく毎年こうしている。
で、いつもながら不思議に思うのだけど、誰の買ったものが誰にあたるのか、というのを見ていると、やはりそのプレゼントを交換したもの同士にはすべてにあてはまるわけではないけど、やはり見えない糸がつながっているように見える。
たとえば、去年自分が準備したジブリ・カレンダーはMにあたったが、Mはこのブログでもたびたび肴にしてきたチベット史を勉強するために大学院にあがってくるあのMである。もうずいぶんチベット語が読めるようになっている。
そして、今年私の準備した教会型キャンドルをうけとったのは三年生のKSクン。この子は読書サークルに入っていて非常によくものを考える子なので、思わず「大学院にはいって私のチベット学をつがない?」とリクルートしちゃったよ。
で、三年生にWさんという女の子がいて、この子が神。みなが相当できあがってきたところで、トナカイの耳をつけてウクレレを抱えて登場し、クリスマス・ソングを奏でてくれた。この二週間ウクレレの特訓をしていたという。だから学校にきていなかったのか(笑)。
で、彼女の準備したプレゼントである。最初彼女はヤフオクで99cmのワニの剥製を500円で競り落とそうとしていた。しかし、私が生き物の殺生を嫌うのを忖度して賢明にも辞退。つか、落札したらワニの剥製を会場にまでもってきたのだろうか。で、代わりに彼女が落札したのは、チベットが独立国であった時代のチベット政府のコイン。560円だったという(とほほ)。
彼女のプレゼントは三年生のKYクンにあたり、私は思わず彼も大学院に「きっとチベットに縁があるのよ。大学院はいんない?」と誘った。しかし、二人ともこの不景気の折り、親にあまり負担をかけたくないと、大学院進学には興味を示さず。しかし、私は諦めない。
絶対君たちはチベットと縁がある
こうなるともう洗脳だな。(笑)
で、Mがこの独立時代のコインに書いてあるチベット文字をガンデン・ポタン(ダライラマ政権の美称)と解読するのを見て、結構感動した。Mは一年前はチベット語のチの字も読めなかったのである。
それに、トホホなプレゼントがあたってしまった人のために、私が準備していたチベット・グッズはとぶようにもっていかれる。そこいらの早大生なら何だかよくわからないだろうこれらのチベット・グッズをじゃんけんまでして奪い合う姿をみて、さらに感慨にふける。
ダライ・ラマの慈悲にまもられてみな幸せな生涯を送るのだよ。
体をはったWちゃんのウクレレ、ファイナル・ファンタシーの発売日にいやいやきてくれたK太、毎年毎年幹事をおしつけられているM子ちゃん、わがゼミはみなむだにキャラがたっている。
そして土曜日は本年最後の〔ボランティア〕講演「モンゴル人を魅了したチベット仏教」を護国寺様で行う。
カーラルーパの生起法をやっていったせいか、客層の質が高かったからか、問題なく終了。めでたし、めでたし。昨日の講演のレジュメは家をでる五秒前まで作成中であったため、ややミスタイプがおおく、ちょっち恥ずかしかったので、あらためて以下にはっときます(まだあるかもしれませんが)。
【チベット仏教とモンゴル人】
bTibet09 091219
1. ダライ・ラマ三世のモンゴル布教
14世紀にツォンカパ(tsong kha pa; 1357-1419)によって開かれたゲルク派は、顕教・戒律の重視、大僧院主義などを特徴とし、その勢力は各地域に拡大していった。このような中で、ラサに建つセラ・デプン・ガンデンの三大僧院(ser 'bras dge)とシガツェにたつタシルンポ大僧院の四大僧院は、新しく地方に建立されていく寺々の本山の役割を果たし千人規模の偉容を呈した。
16世紀、デプン大僧院の転生僧であったソナムギャムツォ(1543-1588)は、東チベット(カム)、東北チベット(アムド)、ジャン(雲南)に積極的に進出し、1573年にはアムドのチャプチャルにおいて、モンゴルのトゥメト部の王侯アルタン=ハーン(1507-1582)と会合した。アルタンがこの時ソナムギャムツォに奉呈したいわゆる「ダライ・ラマ」号(ダライはモンゴル語で「海」を意味し、ソナムギャムツォの名前の後半である海を意味するギャムツォを訳したもの)は、その後ソナムギャムツォの転生者を指し示す国際称号となった。「ダライ・ラマ号の誕生」である。
アルタン=ハーンとその子孫たちが、南モンゴルにラサのチョカン(大召寺)やガンデン大僧院をまねた寺をたて、そのまわりにはやがて門前町が形成され、それが現在の内蒙古自治区の区都フフホトの前身となった。このように遊牧民の世界であったモンゴルの地に町が形成される契機はチベット僧院の設立であった。
ダライ・ラマ三世の東北チベット進出を契機に、この地域にはゲルク派の寺が数多く建ち、ダライ・ラマを後援するためにこの地に移住してきたモンゴル人たちの後援を受けてこれらの寺は大きく発展した。1698年にダライ・ラマ五世の摂政が著した『ゲルク派史』(bai durya ser po)によると、当時下アムド(青海湖周辺)には29のゲルク派の僧院があり、このうち、クンブム(1300名)、グンルン(1500名)、ガンデンダムチューリン(1300名)の三僧院の規模は中央チベットの三大僧院と比肩するものであった。『ゲルク派史』はこれらアムドの三大僧院はいずれもデプン大僧院のゴマン学堂(sgo mang)を本山と仰いでいたことを記録している。
2. ダライ・ラマ政権の確立とモンゴル人・満洲人の大施主の座をめぐる争い
1642年、西モンゴルに遊牧地をもつホショト部のグシ=ハーンが、ゲルク派の支援者となり、ゲルク派の政敵カルマ・カギュ派の王を倒してチベットを統一した。グシ=ハーンはアショーカ王やフビライ・ハーン(1215-1294)などの過去の聖王たちにならい、征服したチベットをゲルク派に献上した。ゲルク派のスター僧であったダライ・ラマ五世はチベットの守護尊・観音菩薩が太古の昔にチベットに降臨したと言われるマルポリの丘の上に宮殿(ポタラ宮)を築き、自らを観音の化身としてチベットに君臨した。壮麗な宮殿に住み、チベットの歴史神話と同化することは、ダライ・ラマ政権が、軍事力をもつモンゴル人や他宗派の僧侶たちを牽制する効果を生んだ。
17世紀に東アジアで最強の民族の座はモンゴル人から満洲人に移っていた。満洲人はもともとモンゴル人を介してチベット仏教に触れていたため、1637年に二代目清朝皇帝ホンタイジ(1592-1643)がチンギス=ハーンの弟の末裔であるホルチン部を配下にいれると、それを記念して当時の首都ムクデン(現瀋陽)にチベット寺を建て、モンゴル帝国の最盛期のハーンのラマであったパクパの鋳造した仏像(マハーカーラ尊)を祀った。これは、「チベット仏教を振興したモンゴル帝国を継承する」と宣言することによって、歴史のない満洲人の国家に権威つけをし、さらには中国を征服・支配する上で、モンゴル人を同盟者にする効果を生んだ。
1643年に満洲人が中国を征服すると、その宮廷においては、満洲語、モンゴル語、漢語が乱舞し、チベット語・モンゴル語を自由に操ることができるアムド出身のモンゴル僧たちが宮廷で大活躍することとなった。17世紀のゴマン学堂の座主は、歴代、モンゴルでおきる戦争の調停、モンゴル布教などにあたり、みな歴史的な名を残している。グンルン大僧院を本拠とする歴代チャンキャもチャンキャ二世は康煕帝のラマ、三世(1717-1786)は乾隆帝(1711-1799)のラマをつとめており、チベットのダライ・ラマ政権とモンゴル王侯と満洲の間にたって、チベット仏教世界の安定化に貢献した。
モンゴル本土においてはトシェート・ハーンの弟ジニャーナバジラが17世紀の中葉、チベットのタシルンポ大僧院に留学した。彼の転生者はジェブツゥンダムパの称号をもって知られることとなり、モンゴルのダライ・ラマともいうべき権威ある転生僧へと成長する。ジニャーナバジラはチベットから造仏・造寺の工人をひきいてチベットから帰国し、トゥーラ河のほとりにガンデン大僧院のモンゴル版ガンデン寺をたてた。このガンデン大僧院のまわりに形成された町が現在のモンゴルの首都ウラーン・バートルである。
このように、歴代ダライ・ラマ政権はモンゴル人留学生を積極的に受け入れ、彼らが留学を終えた後には故郷に帰し、チベット仏教文化の扶植を行わせた。そのため、ハルハ、ジュンガル、トルグート、ブリヤートなどのモンゴル系の人々は次々とゲルク派へと帰依し、モンゴルにはゲルク派の僧院が数多く建立されていった。
17世紀後半から18世紀初頭にかけて、北アジアでは何度もモンゴル人同士、あるいはモンゴル人と満洲人の間で戦争がおきるが、皮肉なことに紛争を起こした両サイドはともに「ダライ・ラマのため」という名分を掲げていた。たとえば1686年のハルハ部とジュンガル部のガルダンとの紛争の場合は「ジェブツゥンダムパ一世がダライ・ラマの使者(元ゴマン学堂長)と同じ高さの席についたのは、ダライ・ラマに対する不敬である」と主張するガルダンがトシェート・ハーンとジェブツゥンダムパ一世を襲って始まった。後二者は支配する民をひきいて清朝へと亡命したため、戦争はやがてガルダンと満洲人(清朝)間へと発展した。満洲側は「ダライ・ラマの教えに従えば、戦争は起こさないはずだ」と応酬した。
1705年にジュンガルがチベット本土に侵攻した事件は、清朝がたてたダライ・ラマ六世に異議を申し立てたグシ・ハーンの子孫とジュンガルが同盟を結んで行ったものであった。彼らは「偽のダライ・ラマを廃し、正統なダライラマ(ダライ・ラマ七世)を即位させる」ことを旗印としており、そのジュンガルをラサから追い払った清朝も「ダライ・ラマを即位させる」ことを旗印に掲げた。
1720年、清朝が自らが擁立したダライ・ラマ六世を見捨てて、ダライ・ラマ七世を奉じてチベットに侵攻したことを境に、ダライ・ラマの大施主の座はモンゴル人から満洲人へと移行する。しかし、清朝一代を通じて満洲皇帝はチベットに派遣する大臣(アンバン)は家柄のいいモンゴル貴族をあて、内廷から送るラマもアムド出身の僧にするなど、モンゴル人とチベットとの間に存在する歴史的関係に一定の配慮をみせた。
パンチェンラマ四世は1780年に乾隆帝をインド、チベット、モンゴルにおいて仏教王権を形成した聖王たちの転生者と位置づける転生譜('khrungs rabs)を作成し、満洲王権をチベット仏教世界の歴史へととりこんでいった。乾隆帝のラマであったチャンキャ三世はそれに先立つ三十年前に同じくパンチェンラマ四世によって、パクパの転生者と認定されており、清朝宮廷においてパクパの故事にちなんだ様々な仏教興隆事業に邁進した。
こうして、17世紀から19世紀前半にかけて、チベット仏教はモンゴル人、満洲人を施主として富み栄えたのである。
3. アメリカにおけるモンゴル系ラマたちの活躍(ゲシェ・ワンゲル)
19世紀後半になると、もはや満洲人・モンゴル人の軍事力は世界最強のものではなくなっていた。ロシア、そしてモンゴルは次々と社会主義革命の嵐に飲まれていき、1949年に中国に社会主義政権が成立したことによって、チベット本土をのぞきチベット仏教世界のほぼ全域が社会主義政権に覆われた。そして、これらの地域に建つチベットの僧院は社会主義政権によって徹底的に破壊されたのである。
そのため、ソ連の支配下におちたカルムキアやブリヤートなどのモンゴル系のラマたちは、いちはやく外の世界に亡命し、チベット仏教が西洋へ伝播する先導役を果たした。
この中からカルムキアの僧ゲシェ・ワンゲルの事績をとりあげてみよう。ゲシェ・ワンゲル(1901-1983)はブリヤート僧ガワンドルジェ(通称ドルジエフ1854-1938)の命により、1922年にデプン大僧院のゴマン学堂に入学し、学業を修めた。そのあと、故郷カルムキアに戻ろうとしたものの、ロシアでおきた社会主義革命により帰国を断念し、北京でチャールズ・ベル(1870-1945 当時のシッキム、ブータン、チベット担当のイギリス人士官。ダライ・ラマ13世との交友で名高い) の通訳をつとめていた。そして1950年に、中国軍のチベット占領を受けて、ゲシェ・ワンゲルはインドに亡命した。
第二次世界大戦の期間、スターリンの迫害を受けたカルムキア人たちはソ連と対立するドイツ軍についたため、これらの人々はドイツの降伏後ソ連の弾圧を受けることを怖れて、アメリカのニュージャージーに移り住んだ。ゲシェ・ワンゲルは1955年にこのニュージャーのカルムキア社会に招かれてアメリカに渡る。
ゲシェ・ワンゲルはたちまちニューヨークやボストンの若者たちの心をつかみ、ゲシェ・ワンゲルのもとには毎週日曜日50名以上の白人の若者たちが「随喜の表情を浮かべて」集った。このような青年たちの中に、ハーバート大学の学生であったロバート・サーマン(1941-)とジェフリー・ホプキンス(1940-)がいた。1964年、ロバート・サーマンはゲシェ・ワンゲルにつれられて29才のダライ・ラマの元に赴き、チベット仏教僧として出家した。やがてサーマンは仏教僧としての生活をやめ還俗してハーバート大学に戻り学位をとり、コロンビア大学において中観哲学を教える教授となった。1987年にはリチャード・ギア、フィリップ・グラスとともにニューヨークにチベット・ハウスを設立し、変わることなくチベット仏教文化の維持に励んでいる。
一方のジェフリー・ホプキンスもウィスコンシン大学において学位をとり、ヴァージニア大学で教鞭を執り、チベットの僧院のカリキュラムに準じて多くの仏教哲学者を育てあげた。ホプキンスはツォンカパやダライ・ラマの著作を精力的に英訳し、チベット仏教をアメリカ人に伝え、その結果、アメリカ人はチベット仏教の基礎をかなり正確に理解することとなった。ハリウッドで数々作られてきた映画において、チベット人がどのように描かれているかを見ると、形としてのチベット文化の考証はいい加減であるが、精神はかなり正確に理解していることが見て取れる。
また、アメリカの知識人層の仏教に対する理解も、「一応仏教徒」のわれわれ日本人よりは、はるかに深く敬虔なものである。アメリカ人はチベット仏教の僧を直接師と仰ぎ、伝統的なカリキュラムに基づいてチベット仏教を勉強した。これはヨーロッパや日本の仏教学会にはまったく見られない傾向である。
ゴマン学堂とモンゴル人
来る土曜日に護国寺で「モンゴルとチベット仏教のふか~い関わり」を演題に講演します。
【第3回bTibet09】2009年12月19日(土)
13:00頃から ご法話「他者を愛する、菩薩のこころ」
ゲシェー・ガワン・ドルジェ師 (デプン・ゴマン学堂 ゲシェーラランパ)
http://www.mmba.jp/profile/gomangstaff/index.html
15:00頃から
講演「歴史上の大国モンゴルを魅了したチベット」
石濱裕美子先生(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
17:00頃から
―デプン・ゴマン学堂の僧侶と一緒にチベット式法要―
文殊師利大乗仏教会http://www.mmba.jp/zurde/tshogs.html
【第3回bTibet09】2009年12月19日(土)
13:00頃から ご法話「他者を愛する、菩薩のこころ」
ゲシェー・ガワン・ドルジェ師 (デプン・ゴマン学堂 ゲシェーラランパ)
http://www.mmba.jp/profile/gomangstaff/index.html
15:00頃から
講演「歴史上の大国モンゴルを魅了したチベット」
石濱裕美子先生(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)
17:00頃から
―デプン・ゴマン学堂の僧侶と一緒にチベット式法要―
文殊師利大乗仏教会http://www.mmba.jp/zurde/tshogs.html
というわけで、土曜日、本年最期のチベット基礎講座(bTibet09)の講師にお呼ばれしており、演題は主催者から「チベット仏教とモンゴル人との関係を話してほしい」と言われたので、その方向で話を準備する。
13世紀のモンゴル帝国の時代、フビライ=ハーンとチベット僧パクパとの関係はよく知られているが、じつは教科書にはでてこない17世紀以後のチベットとモンゴルの関係も、超こゆい。
だって、あのラサの中央にある大聖堂チョカンの本尊釈迦牟尼仏の冠はアルタン=ハーン一族のプレゼントだし(『殺劫』には文革の時壊されて大きさのあわない冠になっている、と書いてあったので現存するものは昔のままでないかもしけないけど)、ダライ・ラマ五世が17世紀にチベットの政治のトップに君臨できたのも、グシ=ハーンというモンゴル王侯の軍事力の後援があったからだ。
ダライ・ラマ政権はモンゴル地域、ブリヤート、カルムキアなどから広く留学生を積極的に受け入れたため、その留学生の帰国後チベット仏教はモンゴル人居住域に劇的に広がった。そして、多くのモンゴル人がダライ・ラマを崇拝するあまり、ダライ・ラマの大施主の座をめぐってモンゴル人同士、後にはモンゴル人と満洲人の間にたびたび紛争がおきた。
いつの時代もダライ・ラマのまわりはホットなのだ。
チベット人が言うには、仏法は文字通り「三宝」なので、宝のまわりには盗人が集まるし、霊鷲山のいただきで釈尊が仏法を語られた時、聖者たちにまじって、有象無象があつまったように、昔から真理のまわりには聖者から魔物系にいたるまでいろんな人が集まるのだという。ちなみに、自分この話を聞いた時、「願わくば聖者は無理でも長者くらいになって、魔物呼ばわりだけはされたくないな」と思った。
なので、モンゴル人がダライ・ラマの施主の座をめぐって戦争したくらいで驚いてはいかん。
そもそも、くだらないもんだったら、誰も相手にしないから、孤立して、それをめぐって争いもおきん。今でも、ブレイクスルーのまわりには、それを実用化するとか、まねるとかで多くの人が商機を求めてたかるように、チベット仏教は普遍的であり、それがあまりにも感化力をもち実効的であったが故に、今も昔も魔物や盗人も含めて有象無象があつまってくるのだ。
で、数日前、主催者のN君から参考資料として『ゴマン学堂史』が送られてきた。分厚い二冊本で、2001年にゴマン学堂から発行されている。なぜ、デプン大僧院の一学堂であるゴマン学堂史が参考資料になるかと言えば、かつてゴマン学堂はモンゴル地域出身者の受け入れ学堂であったからだ。
アムド、本土モンゴル、南モンゴル、ブリヤート、カルムキア、これらの地域の出身者はじつは17世紀に満洲人が中国を占領していた時代に、満洲・モンゴル・チベットを政治的にも仏教的にまたにかけて活躍した人たちを輩出している。なので、ゴマン学堂史には古くは清朝宮廷で活躍したチャンキャ、モンゴルのダライラマ、ジェブツンダムバ、20世紀初頭ロシア布教で名高いブリヤートのドルジエフや、最初期にアメリカにわたって、アメリカのスターチベット学者たち(ロバート・サーマン、ジェフリー・ホプキンスetc.)を育てたカルムキア人のゲシェー・ワンゲルなど、すごいビッグ・ネームが名を連ねている。
南インドに再建されたゴマン学堂は、いまもモンゴル人の留学生を受け入れているが、モンゴル人にはかつての政治力・経済力はなくなっているので、ゴマンは諸行無常の理を地でいく状態になっている。ははは。
で、土曜日の話は、やっぱ面白いのはダライ・ラマ五世の死から六世にかけてのモンゴル人と満洲人の争いと、近現代のモンゴル僧たちの活躍なので、この二つをアレンジしてみようかと思う。もし余力のある方は『チベットを知るための50章』の49章あたりにある「草原の民のアイデンティティー探し」を読んでおいてくれると嬉しいな。
09年チベット国際ニュース
今年もあと僅か。ちょっと気が早いですが、チベット関係の国際ニュースをまとめてみました。いろいろありましたねえ、今年も。なんかどの事件も味わい深く考えさせられるものばかりでした。
見ているだけで、思わず苦笑するチベット・ニュース、さあ、いってみよう!
1/20オバマ大統領の就任演説の前、上院議員の夫Richard Blumがオバマ氏にダライラマからのカターをわたし、オバマ氏はそのカターをポケットに就任演説を行ったと仏教系のブログに報道される。
2/3 恩家宝がケンブリッジ大学で公演中、ドイツ人学生が笛を吹き「大学はなぜこんな独裁者に体を売るのか」と叫び、靴を投げた。これは昨年ブッシュ大統領にイランの記者が靴を投げた故事にちなんだものと思われる。
2/9 ローマの名誉市民権、10日にベネチアの名誉市民権が、ダライ・ラマに奉呈。
2/10 ダライラマ法王、国際社会に影響を与えた人に贈るドイツメディア賞受賞。
2/25 パリでイブ・サンローランの遺品のオークションが行われ、円明圓の噴水の口であったウサギとネズミのブロンズ像が出展されると聞いて中国激怒。略奪品なのでただで返還せよとの運動がおきるが、サンローラン氏のパートナーでオークションの主催者であるピエール・ベルジェ氏は「チベットに自由を与え、ダライラマに領土を返すならただで返そう」ととりあわず。
3/10 この日はダライ・ラマを守るためラサ市民が決起して50周年。アメリカ下院議会「チベット問題を持続的かつ平和的に解決するための多角的な努力を継続する」決議(H.Res 226)を採択。ラッシュ・ホルト下院議員が提案。ペロシ下院議長「チベットの現状は世界の良心を問うている。我々自由を愛する人間が中国とチベットにおける人権について明確な声をあげないのなら、我々は世界のどこであろうと自由について語る道徳的権限を失う。この決議により、我々はチベット民衆の現下の戦いに敬意を払い、これを胸に刻み込む」と述べた。
3/12 欧州議会は「真の自治権」に向けた対話を再開するよ中国に迫るチベット決議案を可決。
3/14 ツツ大主教が起草してノーベル平和賞受賞者とハリウッドの俳優やセレブ連名で中国に対して「ダライ・ラマは平和の権化である。彼を侮辱するのをやめていただきたい」との抗議文を発表。
3/22 南アフリカが平和会議に出席するためのダライラマ法王のビザ発給を拒否。
3/28 中国がダライ・ラマ政府を解散させたこの日を「農奴解放記念日」に指定。日本の新聞はこの日を朝日・毎日・産経・が統治権確立50周年と表現。
6/8 ダライ・ラマ、パリの名誉市民権を受賞。
6/26 中国・広東省韶関市の玩具工場で漢族が集団でウイグル族を襲いウイグル族が2人死亡。
7/5 広東の事件の真相の究明を求めてウルムチでウイグル人がデモ、当局が弾圧、死傷者多数。
7/29 ダライラマ法王にワルシャワの市民権が授与される。
8/30-9/3 ダライ・ラマ台風八号の犠牲者追悼に台湾を訪問。国民党政権下では初めて。
9/13~9/14 オバマ大統領の特使Jarrett大統領補佐官がダラムサラを公式訪問。オバマ大統領とダライラマとの揺るぎない友好の存続を示した上で、オバマ氏のダライ・ラマ訪問はオバマ氏の訪中後にしたいとの旨を通達。
9/27 ダライ・ラマとツツ大主教、フェッツァー賞を受賞。
10/1 亡命チベット代表者議会、中国による過去60年間のチベット政策に抗議(phayul)。
10/6 ダライラマ、ワシントンで第一回ラントス賞(Lantos Human Rights Prize)を受賞。過去25年間ワシントンを訪れたダライ・ラマは必ずアメリカ大統領との会談をもったが、オバマ氏は訪中を控えて会談を延期。
10/20 中国政府がチベット人四人を処刑。国際チベット支援団体(ITSN)は中国の決定は「国際的な司法標準を侮辱するものである」として強く抗議。
11/8 ダライ・ラマ、亡命以来始めてアルナチャル・プラデーシュ州のタワン地区を訪問。中国はタワン地区を自国領と主張し反発。どこまであつかましいのか。
11/19 米中会談でチベット問題も人権問題も一応言ってはみたものの、共産党の機関誌にその部分の発言は削除される。アメリカ大統領の訪中の際には民主活動家の釈放があったり、それとの会談とかが恒例であったが、今回はなし。しかし万里の長城の観光はしっかりしたオバマ氏に対して、欧米メディアは「へたれ!」と批判。朝日ですら批判。
なんてところです。
はい、以下は極私的チベット五大事件。
1. 1月26日、ギュメ寺のもと僧院長ガワン先生、インド再建ガンデン大僧院で遷化。先生からは毘沙門天、観音菩薩、金剛ヨーガ女、グヒヤサマージャ、ヤマンタカ(一尊・十三尊)、などの灌頂を授かることを通じて、"生きた"チベット仏教の諸相を様々に学ばせていただいた。訃報を聞いた時は結構ショックで気がついたら眼から煮汁が。
2. 2月、FPMT(大乗仏教保護財団)主宰の仏舎利展で、ツォンカパ、ミラレパなどの舎利が新宿へやってくる。開会式の後、ビルマのお坊さんによる仏舎利加持が行われ、奇しくも一番にお加持を頂戴する。代表のOさんからその時の写真を送っていただき今も仏壇にある。なつかしいな。
3. 11月、ダライ・ラマの来日講演(演題: 覚りにいたる道の三つの要点)を猊下前方かぶりつき席で拝聴。心が洗われた。
4. 11月、デリー大学とチベット大学共催の歴史学会(International Conference on Tibet Exploring its History and Culture)への参加。例によって英作文と英会話に苦しむ。閉会式の名誉ゲストがダライラマ法王であったが校務により惜しくも閉会式前日に帰国、くくく。
5. 9月~12月、上野の森でチベット美術展開催。まだ「生きている」チベット仏教文化をガラス・ケースの中に展示する違和感を追求していくうちに、日本の仏教は形骸化しているが故に、美術館や博物館でみることに抵抗感がなかったことに気づき、自分の伝統文化の危機を自覚。チベットが鏡となって自分の問題に気づくということは本当によくある。
見ているだけで、思わず苦笑するチベット・ニュース、さあ、いってみよう!
1/20オバマ大統領の就任演説の前、上院議員の夫Richard Blumがオバマ氏にダライラマからのカターをわたし、オバマ氏はそのカターをポケットに就任演説を行ったと仏教系のブログに報道される。
2/3 恩家宝がケンブリッジ大学で公演中、ドイツ人学生が笛を吹き「大学はなぜこんな独裁者に体を売るのか」と叫び、靴を投げた。これは昨年ブッシュ大統領にイランの記者が靴を投げた故事にちなんだものと思われる。
2/9 ローマの名誉市民権、10日にベネチアの名誉市民権が、ダライ・ラマに奉呈。
2/10 ダライラマ法王、国際社会に影響を与えた人に贈るドイツメディア賞受賞。
2/25 パリでイブ・サンローランの遺品のオークションが行われ、円明圓の噴水の口であったウサギとネズミのブロンズ像が出展されると聞いて中国激怒。略奪品なのでただで返還せよとの運動がおきるが、サンローラン氏のパートナーでオークションの主催者であるピエール・ベルジェ氏は「チベットに自由を与え、ダライラマに領土を返すならただで返そう」ととりあわず。
3/10 この日はダライ・ラマを守るためラサ市民が決起して50周年。アメリカ下院議会「チベット問題を持続的かつ平和的に解決するための多角的な努力を継続する」決議(H.Res 226)を採択。ラッシュ・ホルト下院議員が提案。ペロシ下院議長「チベットの現状は世界の良心を問うている。我々自由を愛する人間が中国とチベットにおける人権について明確な声をあげないのなら、我々は世界のどこであろうと自由について語る道徳的権限を失う。この決議により、我々はチベット民衆の現下の戦いに敬意を払い、これを胸に刻み込む」と述べた。
3/12 欧州議会は「真の自治権」に向けた対話を再開するよ中国に迫るチベット決議案を可決。
3/14 ツツ大主教が起草してノーベル平和賞受賞者とハリウッドの俳優やセレブ連名で中国に対して「ダライ・ラマは平和の権化である。彼を侮辱するのをやめていただきたい」との抗議文を発表。
3/22 南アフリカが平和会議に出席するためのダライラマ法王のビザ発給を拒否。
3/28 中国がダライ・ラマ政府を解散させたこの日を「農奴解放記念日」に指定。日本の新聞はこの日を朝日・毎日・産経・が統治権確立50周年と表現。
6/8 ダライ・ラマ、パリの名誉市民権を受賞。
6/26 中国・広東省韶関市の玩具工場で漢族が集団でウイグル族を襲いウイグル族が2人死亡。
7/5 広東の事件の真相の究明を求めてウルムチでウイグル人がデモ、当局が弾圧、死傷者多数。
7/29 ダライラマ法王にワルシャワの市民権が授与される。
8/30-9/3 ダライ・ラマ台風八号の犠牲者追悼に台湾を訪問。国民党政権下では初めて。
9/13~9/14 オバマ大統領の特使Jarrett大統領補佐官がダラムサラを公式訪問。オバマ大統領とダライラマとの揺るぎない友好の存続を示した上で、オバマ氏のダライ・ラマ訪問はオバマ氏の訪中後にしたいとの旨を通達。
9/27 ダライ・ラマとツツ大主教、フェッツァー賞を受賞。
10/1 亡命チベット代表者議会、中国による過去60年間のチベット政策に抗議(phayul)。
10/6 ダライラマ、ワシントンで第一回ラントス賞(Lantos Human Rights Prize)を受賞。過去25年間ワシントンを訪れたダライ・ラマは必ずアメリカ大統領との会談をもったが、オバマ氏は訪中を控えて会談を延期。
10/20 中国政府がチベット人四人を処刑。国際チベット支援団体(ITSN)は中国の決定は「国際的な司法標準を侮辱するものである」として強く抗議。
11/8 ダライ・ラマ、亡命以来始めてアルナチャル・プラデーシュ州のタワン地区を訪問。中国はタワン地区を自国領と主張し反発。どこまであつかましいのか。
11/19 米中会談でチベット問題も人権問題も一応言ってはみたものの、共産党の機関誌にその部分の発言は削除される。アメリカ大統領の訪中の際には民主活動家の釈放があったり、それとの会談とかが恒例であったが、今回はなし。しかし万里の長城の観光はしっかりしたオバマ氏に対して、欧米メディアは「へたれ!」と批判。朝日ですら批判。
なんてところです。
はい、以下は極私的チベット五大事件。
1. 1月26日、ギュメ寺のもと僧院長ガワン先生、インド再建ガンデン大僧院で遷化。先生からは毘沙門天、観音菩薩、金剛ヨーガ女、グヒヤサマージャ、ヤマンタカ(一尊・十三尊)、などの灌頂を授かることを通じて、"生きた"チベット仏教の諸相を様々に学ばせていただいた。訃報を聞いた時は結構ショックで気がついたら眼から煮汁が。
2. 2月、FPMT(大乗仏教保護財団)主宰の仏舎利展で、ツォンカパ、ミラレパなどの舎利が新宿へやってくる。開会式の後、ビルマのお坊さんによる仏舎利加持が行われ、奇しくも一番にお加持を頂戴する。代表のOさんからその時の写真を送っていただき今も仏壇にある。なつかしいな。
3. 11月、ダライ・ラマの来日講演(演題: 覚りにいたる道の三つの要点)を猊下前方かぶりつき席で拝聴。心が洗われた。
4. 11月、デリー大学とチベット大学共催の歴史学会(International Conference on Tibet Exploring its History and Culture)への参加。例によって英作文と英会話に苦しむ。閉会式の名誉ゲストがダライラマ法王であったが校務により惜しくも閉会式前日に帰国、くくく。
5. 9月~12月、上野の森でチベット美術展開催。まだ「生きている」チベット仏教文化をガラス・ケースの中に展示する違和感を追求していくうちに、日本の仏教は形骸化しているが故に、美術館や博物館でみることに抵抗感がなかったことに気づき、自分の伝統文化の危機を自覚。チベットが鏡となって自分の問題に気づくということは本当によくある。
ケツン先生の訃報
12/8速報 ケツン・サンポ先生がネパールのお寺で遷化されたとのことです。ご冥福をお祈りいたします。
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〔追記〕ケツン先生は12月5日には逝去されていらしたとのことです。「死の光明」の期間はもう過ぎられたのでしょうか。
〔不具合告知〕 じつは8日より「書き込み制限が~」という表示がでて自分のブログのコメント欄に書き込みできなくなりました。禁止ワードもまったくないので調べてみると、どうもfc2のバグらしく、クッキーとやらがあーなってこーなっているらしいです。一月もたてば前のクッキーをパソコンが忘れるのでそうすると書き込みできるらしいです。これで怒ってfc2からブログを撤退する人も多いそうです。もしみなさん「書き込み制限~」とかでたら、それはfc2のバグです。クッキーを変更すればカキコできるようになります。
以下は訃報の前に流した7日のエントリーです。
ニンマ派の学僧にして行者であり、かつ、日本においては中沢新一氏のラマとしても名高いケツン・サンポ先生(1921-)がご高齢のためお体が大変弱っているとのことです。
ケツン先生についてまだ知らない方は『知恵の遙かな頂』(ケツン・サンポ著 中沢新一訳)で伝記がわかります。
高僧がご不例の場合チベット社会では長寿儀礼(テンシュク)として、ターラ菩薩のマントラとかを関係者が唱えます。日本人向けにはニチャン・リンポチェ先生は以下のようにおっしゃっているとのこと(以下転載)。
日本の流儀で薬師如来のご真言お唱えいただければ、とてもありがたく思います。ま
た、菩提心や思いやりの心には何の制約も無く、広大なものです。ご縁のある、僧侶
の皆さん、在家の皆さんも、ともに唱えていただければ,その力は計り知れなく広大
なものになると思います。大いにケツンリンポチェのためになりますので、念誦の輪
を広げていただければとてもありがたく思います。よろしくお願い申し上げます。
つきましては,
1)ターラ菩薩の真言
2)薬師如来の真言
3)グル・リンポチェの真言
4)「グル・リンポチェへの七句祈願」
を、私にご縁のある皆さんにできるかぎり唱えていただけたらと思います。
ニチャン・リンポチェ
とりあえず、緊急告知ということで。
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〔追記〕ケツン先生は12月5日には逝去されていらしたとのことです。「死の光明」の期間はもう過ぎられたのでしょうか。
〔不具合告知〕 じつは8日より「書き込み制限が~」という表示がでて自分のブログのコメント欄に書き込みできなくなりました。禁止ワードもまったくないので調べてみると、どうもfc2のバグらしく、クッキーとやらがあーなってこーなっているらしいです。一月もたてば前のクッキーをパソコンが忘れるのでそうすると書き込みできるらしいです。これで怒ってfc2からブログを撤退する人も多いそうです。もしみなさん「書き込み制限~」とかでたら、それはfc2のバグです。クッキーを変更すればカキコできるようになります。
以下は訃報の前に流した7日のエントリーです。
ニンマ派の学僧にして行者であり、かつ、日本においては中沢新一氏のラマとしても名高いケツン・サンポ先生(1921-)がご高齢のためお体が大変弱っているとのことです。
ケツン先生についてまだ知らない方は『知恵の遙かな頂』(ケツン・サンポ著 中沢新一訳)で伝記がわかります。
高僧がご不例の場合チベット社会では長寿儀礼(テンシュク)として、ターラ菩薩のマントラとかを関係者が唱えます。日本人向けにはニチャン・リンポチェ先生は以下のようにおっしゃっているとのこと(以下転載)。
日本の流儀で薬師如来のご真言お唱えいただければ、とてもありがたく思います。ま
た、菩提心や思いやりの心には何の制約も無く、広大なものです。ご縁のある、僧侶
の皆さん、在家の皆さんも、ともに唱えていただければ,その力は計り知れなく広大
なものになると思います。大いにケツンリンポチェのためになりますので、念誦の輪
を広げていただければとてもありがたく思います。よろしくお願い申し上げます。
つきましては,
1)ターラ菩薩の真言
2)薬師如来の真言
3)グル・リンポチェの真言
4)「グル・リンポチェへの七句祈願」
を、私にご縁のある皆さんにできるかぎり唱えていただけたらと思います。
ニチャン・リンポチェ
とりあえず、緊急告知ということで。
パニック映画とチベット

最近みた映画『2012』の映画評です。あらすじがわかっちゃうのでこれから見る方は注意してね。
マヤの暦によると世界は定期的に破滅を繰り返し、中でも2012年は太陽の爆発によって世界が破滅する年とされる。本作はこのマヤの暦が予言していた破滅が2012年におきたことによる人類のサバイバルを描いたパニック映画である。
2009年、インドの若い科学が太陽から発せられるニュートリノによって地球が電子レンジの中に置かれたように熱せられていることを発見しこのままでいくと地殻は崩壊し、世界が破滅することが判明する。この情報を得た各国首脳は協力して来るべき破滅の日の
後も文明を生き延びさせるために極秘裏に計画をたちあげる。
その計画とは、チベットの谷において現代版ノアの方舟を造るというプロジェクトであった。この方舟には聖書の箱船同様に様々な種の動物が番で乗せられて、科学者、技術者、などの新しい世界において文明を維持していく上で必要な人材、プラスこのプロジェクトのパトロンである世界中の大金持ちが乗船を許されることとなった。
つまり、人類の大多数は死に、それどころかこの箱船を建造した民も、それ以外の人類も終末の日に箱船にのることはできないのである。そのため、箱船に乗れない人がパニックをおこして計画が挫折しないように、世界の終末は固く伏せられ、世界のごくトップレベルの人のみしか知ることはなく、秘密を漏らそうとしたものはたとえルーブル美術館の館長であっても「抹殺」される。
表面的な映画の見所はSFXを駆使して描かれる世界の崩壊のすがたと、その中をつねに紙一重でかいくぐって逃げ惑う主人公のジャクソン・ファミリーのサバイバルである。
しかし、この映画のテーマはもっと深い。それは、ダニー・グロバー演じる最後のアメリカ大統領が津波で運ばれてきた空母J.Fケネディに押しつぶされて死んだり、人類の命運をかけた箱船にアメリカ大統領専用機エアフォース・ワンがつっこんできて人々の命を危うくするというシーンに象徴されているように、現在の文明に対する批判である。
そして、人類がただ種として生き延びるのだけではなく、「人として」生き延びなければいけないというメッセージが何度も発せられる。そして、この深いテーマを紡ぎ出すために重要な役回りを果たすのがチベット人である。
チベット人がどのような役割を果たすかを述べる前に、主人公のジャクソン家について簡単に紹介する。ジョン・キューザック演じるジャクソン家の父親は、売れない小説家である。二人の子供の親権を離婚した妻に取られていることから、いい父親でもないことが分かる。小説家では食べられないのでロシア人富豪の運転手をしている。つまり、この父親には箱船にのれるような才能も、経済力もない、市井の普通のだめお父さんなのである。しかし、ジャクソンは子供とともに生き残るために、壮絶な戦いをし、いろいろな運にも助けられてチベットの谷間に建造されている方舟までたどりつく。
ジャクソン家の運とは、まず、X-fileのローン・ガンメンを彷彿とさせるヒッピーくずれのチャーリーに出会い、世界の終末と政府の陰謀についての知識を得る。その時は半信半疑であったが、雇い主のロシア人富豪一家がアメリカから逃げ出すのをみて、チャーリーの言うことが真実であることを確信する。
ジャクソンは、間一髪で崩壊するロスアンジェルスから子供たちを救いだし双発機で死地を脱する。そして、ラスベガスでロシア人富豪と合流して、ロシアの輸送機でロシア人のサバイバル能力に助けられながら箱船があるチベットの谷までいつきく。
しかし、一人あたま10億ユーロの乗船券はロシア富豪に買えてもジャクソン家には無理。彼らを拾いに来た中華人民共和国の解放軍はロシア人富豪と二人の子供はつれていって、ジャクソン一家を放置する。
ヒマラヤの山中に放置された彼らを救ったのは、他でもないチベット人であった。チベット人のテンジンは自分たちが作っているのが破滅の時をのりきるための船であることに気づき、僧であった弟ニマと祖母を箱船の動物居住区に潜り込ませて救う計画を立てていた。ジャクソン一家はこのテンジンたちに拾われたのである。
テンジンははじめジャクソン親子を足手まといとして見捨てていこうとするが、テンジンの祖母は「わたしたちの奉じる仏教の教えではあらゆる命あるものを救えといっている」という一言で計画に加えられる。お金をもっているかいないかで避難民を選別する中国軍人に対して、チベット人は通りすがりのアメリカ人を慈悲によって救いあげるのである。制作者が両文化に対比的な構造を持たせていてることは明かであろう。
津波はいよいよヒマラヤにまで達し、アメリカの大統領補佐官はまだ多くの人が乗船を終えていないうちに、箱船のゲートをしめようとする。
パニックをおこす人々をブリッジから見ていたキウェテル・イジョフォー演じる若い黒人の科学者は「もし我々がここで彼らを見放したなら、我々は子孫の代にこの日のことをどのように語り伝えるのか。人が助け合うことをやめたら人間性を失うことになる」とヒューマニズムを説く大演説をし、各国首脳もそれに賛成して再びゲートは開く。
箱船に乗船を許可されているのは、才能や特殊技能を持つ人、あるいは経済力、あとはコンピューターが判断した遺伝子をもつ人々である。つまり、彼らを選別したのは人知である。一方、運によって乗船に導かれたジャクソン一家は、ある意味人知を超えた何かによって選ばれた家族ともいえる。その最後の運を授けたのがチベット人のテンジン一家であることは、この計画を推進しているアメリカ大統領補佐官が物質主義の側の代表だとすると、チベット人がそれを超越する視点を象徴していると言える。
ニマの師僧はこの世界の破滅を静かに受け入れて津波にのまれていく。彼は最期に僧院から終末の鐘をならす。『2012』のポスターは崩壊していく世界をヒマラヤの頂にたつ一人のチベット僧が眺める後ろ姿を合わせた構図である。もみくちゃになる下界の世界に対してチベット文化の不変性を対比させることをねらったものであろう。
師僧とニマの囲む茶席が日本風であったり、師僧が終末の時につく鐘が日本の梵鐘であったり、おかしな点も多々あるが、他者を自分と同様に思いやること、この精神をチベット人の口から語らせていることは、制作者はかろうじていチベット文化のエッセンスを理解していることは言えよう。
人種に対してレッテルをはることをきらうハリウッドはもちろん、チベットと中国を対立させるような露骨な演出は行っていない。そのため報道によると、中国ではこの映画を見た半分は〔方舟をつくる労働力にされてしかものせてもらえない中国人(彼らは中国人というが実際はチベット人)は〕「バカにされている」と思い、半分は方舟を世界の滅亡の日=納期にあわせてつくった中国人をほめたたえる映画だと思ったという。
『クショラ』
火曜日、平岡さんが所用で東京にでて来られてめずらしく泊まるとのことなで(平岡さんは日帰り主義)、渋谷で会うこととする。
東京らしいとこが良いかと思い、渋谷交差点をみおろすスターバックスに入る。大きな柱の影ではあるが、運良く窓ぎわの席がとれた。
私が近況とか話すと、平岡さんはもっぱら聞き役にまわってくださる。そして先週土曜日の東京都美術館に話がおよび、「平岡さんはああいう失礼な質問とか、暴言はかれたことないの」と聞いたら
平岡さん「十二年ほど前に、私はアレキサンダー大王の生まれ代わりです」っていう質問者がいたけど無視しましたわ。以後はそんなことありませんな」
私「私なんて歴史が専門なのになんかへんな感じにチベット密教に興味を持つ人が絡んでくるのに、平岡さんは密教専門にしててもへんな人はよってこないんだ。やっぱちゃんと毎朝読経しているからかな」というと
平岡さん「センセ、女性だから絡まれるんじゃないでっか。セクハラですな。私は男ですから絡んでもオモロクないでっしゃろ。でも、せっかくですから、カーラルーパの法でも伝授しましょっか。これはへんなのピンピンはじいてくれまっせ。なんせヤマーンタカのお使いですから」
私「それはいいですが。ここはスターバックスですよ」
平岡さん「ええねん、ええねん」
といって平岡さんは足下のバッグからおもむろにパオンカワのヤマンタカのテクストをとりだし、そこからカーラルーパのテクストのコピーをぬきだし、解説つきで下賜してくださった。
かつてはチベットの山奥でひっそりと伝授されてきた密教が、今は日本一人目の多い渋谷のスターバックスで伝授される。21世紀ならではの風景である(笑)。
そのあと、平岡さんを渋谷駅のコンコースに飾られた岡本太郎の大作「明日の神話」のところにつれていく。そして、そこから振り返ってガラス越に渋谷の交差点をみわたして
私「去年の三月ね、デモの時、チベット旗がこの交差点を埋めたんですよ。で、そのあともさっきのスタバにただチベット旗さげて座ったりとか、Tシャツの背に一文字ずつFREE TIBETって書いた人たちが並んであるいたり、スローデモをしたのもここ渋谷。だって中国大使館近いから(笑)」と言うと、「東京は意識が高いですなあ」としきりに感心。
で、別れ際に平岡さん「センセ、嫁はんのだした本(『クショラ』チベット語で和尚様みたいな意味)の宣伝お願いしますわ」と頼まれたので、法施のご恩にご紹介。
以下の青色の文章は最初本書の書評として入稿したものですが、なぜか本書にも載ることとなった拙文です。
本書はチベットの高僧ガワン先生(1937-2009)の最後の日々を、ガワン先生の弟子にして施主である平岡宏一氏の妻女、妃女氏の視点から記したものである。
ガワン先生はガンデン大僧院(チベット仏教の最大宗派であるゲルク派の総本山)の僧であった1959年、中国軍によって国を追われ23才でインドへ亡命した。亡命後、ガワン先生はインドに再建されたガンデン大僧院で博士の最高学位ゲシェ=ララムパ号を取り、その後ゲルク派の密教の本山ギュメ寺において密教の修業を積み、ギュメの管長を勤められ、晩年はダライ・ラマ法王の五大弟子の一人に数えられる高僧として知られた。
平岡夫妻がガワン先生の闘病を直接支え始めたのは2007年5月からのことである。来日したガワン先生が平岡夫妻の薦めにより日本でPET検査を行った所、ガワン先生の肝臓に転移癌がみつかった。「余命半年」の宣告を聞くや、夫妻は手を尽くして様々な治療を模索する。それから先生が亡くなるまでの二年間、夫妻にふりかかった精神的・金銭的負担がいかほどのものであったかは想像に難くない。
ガワン先生は持戒僧であるため女性はその体に触れることが許されない(この文章「持戒僧」が本書では「自戒僧」になってますが、入稿の際は正しい綴りで入れました。)。妃女氏の「先生が苦しんでいる時、体をさすってあげられなかったことが特につらかった。もし、足や背中をさすってさしあげられることができたなら、私のストレスもずいぶん軽減したことと思う」という件からは、妃女氏の非凡な慈しみ深さを感じ取れる。
抗がん剤が次第に効果を失っていく中、夫妻は新たな治療方針三つを提示し、ダライ・ラマ法王にお伺いをたてた。すると、法王のお答えは「死にむけて心の安定を保ちなさい」であった。
ガワン先生は治療のために日本に滞在するたびごとに、宏一氏にチベットの密教経典『秘密集会タントラ』の注釈を伝授し、一般に向けても六回の灌頂を行われた。法座につくと、病を感じさせない凛としたそのお姿に、列席した日本人はチベットの高僧の神秘的な底力を感じた。
また、「何か困ったことがあると不思議に誰かの助けがさしのべられてきた。」というように、平岡夫妻の介護は何かの力によって動かされたかのようにして集まってくる多くの方々の金銭的援助、技術・物品の提供などによって支えられた。
宏一氏と妃女氏がガワン先生と最後にまみえたのは、なくなる一月ちょっと前の2008年12月のことであった。ガンデン大僧院から日本に帰る宏一氏はガワン先生との永遠の別れを予感して号泣した。妃女氏の「主人がこのように泣くのを初めてみた」という件から、妃女氏がこの大変な二年間を乗り切っていった原動力は、ラマに対する敬意とこの師弟の深い絆を支える使命感から生まれていたことが知れる。いろいろな意味で「現代の神話」のような一作である。
本書にはご主人である宏一氏も一文を寄せられていて、この文章からは死に向かい合っても動じない非凡なガワン先生の姿と宏一氏との法縁が記されています。あまりネタバレをすると面白くないでしょうから、それを知りたい方は、はいここクリックして。
自費出版なので、出版社の御法インターナショナルに直接お問い合わせくださいね。
ふと空をみるといつのまにか丸い月があがっている。平岡さんの上京は今日突然知ったことで、カーラルーパの伝授もまったくその場の流れだったけど、結果としては一月のうちもっともいい満月の日を選んでいたことになる。
チベットをめぐる法縁は毎度のことながらいつも不思議で面白い。
家に帰ってパソコンをつけると自分のホームページの訪問者総数が88888887になっていた。あと1つでキリ番になる。思わずもう一台のパソコンをつけて自分で88888888を踏む。公にプレゼントの約束までしておいて自分で踏むのもいかがなものかと思ったが、今日は満月だしきっと私が踏む運命だったの(いい訳)。
東京らしいとこが良いかと思い、渋谷交差点をみおろすスターバックスに入る。大きな柱の影ではあるが、運良く窓ぎわの席がとれた。
私が近況とか話すと、平岡さんはもっぱら聞き役にまわってくださる。そして先週土曜日の東京都美術館に話がおよび、「平岡さんはああいう失礼な質問とか、暴言はかれたことないの」と聞いたら
平岡さん「十二年ほど前に、私はアレキサンダー大王の生まれ代わりです」っていう質問者がいたけど無視しましたわ。以後はそんなことありませんな」
私「私なんて歴史が専門なのになんかへんな感じにチベット密教に興味を持つ人が絡んでくるのに、平岡さんは密教専門にしててもへんな人はよってこないんだ。やっぱちゃんと毎朝読経しているからかな」というと
平岡さん「センセ、女性だから絡まれるんじゃないでっか。セクハラですな。私は男ですから絡んでもオモロクないでっしゃろ。でも、せっかくですから、カーラルーパの法でも伝授しましょっか。これはへんなのピンピンはじいてくれまっせ。なんせヤマーンタカのお使いですから」
私「それはいいですが。ここはスターバックスですよ」
平岡さん「ええねん、ええねん」
といって平岡さんは足下のバッグからおもむろにパオンカワのヤマンタカのテクストをとりだし、そこからカーラルーパのテクストのコピーをぬきだし、解説つきで下賜してくださった。
かつてはチベットの山奥でひっそりと伝授されてきた密教が、今は日本一人目の多い渋谷のスターバックスで伝授される。21世紀ならではの風景である(笑)。
そのあと、平岡さんを渋谷駅のコンコースに飾られた岡本太郎の大作「明日の神話」のところにつれていく。そして、そこから振り返ってガラス越に渋谷の交差点をみわたして
私「去年の三月ね、デモの時、チベット旗がこの交差点を埋めたんですよ。で、そのあともさっきのスタバにただチベット旗さげて座ったりとか、Tシャツの背に一文字ずつFREE TIBETって書いた人たちが並んであるいたり、スローデモをしたのもここ渋谷。だって中国大使館近いから(笑)」と言うと、「東京は意識が高いですなあ」としきりに感心。
で、別れ際に平岡さん「センセ、嫁はんのだした本(『クショラ』チベット語で和尚様みたいな意味)の宣伝お願いしますわ」と頼まれたので、法施のご恩にご紹介。
以下の青色の文章は最初本書の書評として入稿したものですが、なぜか本書にも載ることとなった拙文です。
本書はチベットの高僧ガワン先生(1937-2009)の最後の日々を、ガワン先生の弟子にして施主である平岡宏一氏の妻女、妃女氏の視点から記したものである。
ガワン先生はガンデン大僧院(チベット仏教の最大宗派であるゲルク派の総本山)の僧であった1959年、中国軍によって国を追われ23才でインドへ亡命した。亡命後、ガワン先生はインドに再建されたガンデン大僧院で博士の最高学位ゲシェ=ララムパ号を取り、その後ゲルク派の密教の本山ギュメ寺において密教の修業を積み、ギュメの管長を勤められ、晩年はダライ・ラマ法王の五大弟子の一人に数えられる高僧として知られた。
平岡夫妻がガワン先生の闘病を直接支え始めたのは2007年5月からのことである。来日したガワン先生が平岡夫妻の薦めにより日本でPET検査を行った所、ガワン先生の肝臓に転移癌がみつかった。「余命半年」の宣告を聞くや、夫妻は手を尽くして様々な治療を模索する。それから先生が亡くなるまでの二年間、夫妻にふりかかった精神的・金銭的負担がいかほどのものであったかは想像に難くない。
ガワン先生は持戒僧であるため女性はその体に触れることが許されない(この文章「持戒僧」が本書では「自戒僧」になってますが、入稿の際は正しい綴りで入れました。)。妃女氏の「先生が苦しんでいる時、体をさすってあげられなかったことが特につらかった。もし、足や背中をさすってさしあげられることができたなら、私のストレスもずいぶん軽減したことと思う」という件からは、妃女氏の非凡な慈しみ深さを感じ取れる。
抗がん剤が次第に効果を失っていく中、夫妻は新たな治療方針三つを提示し、ダライ・ラマ法王にお伺いをたてた。すると、法王のお答えは「死にむけて心の安定を保ちなさい」であった。
ガワン先生は治療のために日本に滞在するたびごとに、宏一氏にチベットの密教経典『秘密集会タントラ』の注釈を伝授し、一般に向けても六回の灌頂を行われた。法座につくと、病を感じさせない凛としたそのお姿に、列席した日本人はチベットの高僧の神秘的な底力を感じた。
また、「何か困ったことがあると不思議に誰かの助けがさしのべられてきた。」というように、平岡夫妻の介護は何かの力によって動かされたかのようにして集まってくる多くの方々の金銭的援助、技術・物品の提供などによって支えられた。
宏一氏と妃女氏がガワン先生と最後にまみえたのは、なくなる一月ちょっと前の2008年12月のことであった。ガンデン大僧院から日本に帰る宏一氏はガワン先生との永遠の別れを予感して号泣した。妃女氏の「主人がこのように泣くのを初めてみた」という件から、妃女氏がこの大変な二年間を乗り切っていった原動力は、ラマに対する敬意とこの師弟の深い絆を支える使命感から生まれていたことが知れる。いろいろな意味で「現代の神話」のような一作である。
本書にはご主人である宏一氏も一文を寄せられていて、この文章からは死に向かい合っても動じない非凡なガワン先生の姿と宏一氏との法縁が記されています。あまりネタバレをすると面白くないでしょうから、それを知りたい方は、はいここクリックして。
自費出版なので、出版社の御法インターナショナルに直接お問い合わせくださいね。
ふと空をみるといつのまにか丸い月があがっている。平岡さんの上京は今日突然知ったことで、カーラルーパの伝授もまったくその場の流れだったけど、結果としては一月のうちもっともいい満月の日を選んでいたことになる。
チベットをめぐる法縁は毎度のことながらいつも不思議で面白い。
家に帰ってパソコンをつけると自分のホームページの訪問者総数が88888887になっていた。あと1つでキリ番になる。思わずもう一台のパソコンをつけて自分で88888888を踏む。公にプレゼントの約束までしておいて自分で踏むのもいかがなものかと思ったが、今日は満月だしきっと私が踏む運命だったの(いい訳)。
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