実を捨てて名をとる
オリンピックの東京招致が流れて本当にウレシイ。
国際展示場にかかるあの巨大な招致垂れ幕、神社にいくとはためいていたあの招致のぼり、商店街のフラッグ、目にするたびに何の意味があるんだ、いくらかかってんだ、何やったって自分のマインドはかわらんわ。と思っていた。
だいたい、中国人じゃあるまいし東京人はもうサブリミナルやプロパガンダで動くような民度じゃないわ。
このムダに空費された宣伝費用、わたしの払った都税からでてるんですよ。この日記を読んでいる学生諸君には分からないだろうが、納税者になるとこの血の流れるような気持ちわかるはずです。
あー、腹が立つ。腹が立つにはもっとふかーい訳がある。
I都知事、去年の夏北京オリンピックに参加しましたよね。東京の招致を有利にするために北京に行きましたよね。
これって中国を怒らせると東京招致に反対される、あるいは東京オリンピックボイコットされるから、いったってことですよね。
でもそれって、
マスコミが中国を怒らせると中国取材ができなくなるから、~ry
中国と商売してる会社が、中国を怒らせると不買運動をおこされたり、いやがらせをされたりするから ~ry
とかいうのと同じ思考法ですよね。相手のやっていることの是非はおいといてただ現場で仕事をまわすためだけに、もっと大きな大事なものを失っているのに気がつかないと。
ダライ・ラマ法王は北京でオリンピックを行うことは中国が海外の目を気にするようになるからいいことだといって賛成していたけど、要人のオリンピック参加には必ずしも賛成していなかった。
だって、それ中国のメンツをたてるしか意味のない行動だもの。
で、I知事は北京オリンピックに参加したことによって、中国のメンツをたてたわけで、彼自身は名を下げたわけである。
オリンピックを招致するために、会社を維持するために、取材をつづけるために、中国のいいなりになる時、会社の社会的責任とか、報道の道義とかもっと大局から見て重要なものを失っていることに気づかねば。これって重要よ、あまりに目先のことばかりみて、人に言えないようなひそひそ話しばかりしていると、結局は誰からも尊敬されなくなって軽蔑されるだけ。
じつはワタクシごとなのだが、去年とあるテレビ番組の監修をしてくれと頼まれた。で聞けばもう台本もでてきて映像もできてて、例によって「何かマチガイがないか」だけチェックしてくれ、とのこと(ぷんぷん)。
みると、マチガイだらけだったので、アカ入れしまくってかえした。
そしたら、放送日前日になって、突然放映中止。何かあったなー、と思ったが、案の定中国が「これだめ、こう言え」と口をだしてきたとのこと。
わたしは放送しちゃえばいいじゃん、と思ったのだが、自分たちだけの問題ではなく会社に類が及ぶからできないとのこと。
で、その放送局の偉いところは、がんばりつづけてほとんどもとの台本に戻してくれたこと。しかし、そもそもこの番組の台本つくったのは放送局の人間だし、監修者は中国の某局だし、わたしは事実と違う点をなおしただけ。
何とも釈然としない気分になったので、名前をださなかった。
そしたら、そう決意した瞬間に目の前が開けた。それまでは、まあ放送局もさんざん某国との間で苦労したわけだし、その上で自分が断ったりしたら相手いやな気持ちになるだろうな、とかいろいろ気をつかったんだけど、断った瞬間に、それはもう爽快。
その気持ちよさの原因を追及してみるとこういうことになる。
自分、台本に手をいれることによって番組に一定の品質を保たせ、学者としてのつとめははたした、そして、名前をださなかったことで、某国が口をだしたような作品に協力しなかったというプライドも保てた。
つまり、いろいろ考えたあげく嫌々北京オリンピックの開会式に参加して名前を下げて、さらに翌年結局招致に失敗してまた名を下げるみたいな負のスパイラルにおちこむことを事前に避けたともいえる。
でも問題の本質は、そもそも北京でオリンピックをやる、中国本土のチベットから展示品かりてチベットをやる、あるいは中国側の説明だけ聞いて番組をつくる、とかいうこの部分にある。
上野の森の美術館の展覧会なんて、知り合いの東洋史の先生は美術品が本土からきているのを見ただけで「この展覧会なんかいかがわしい」と私が何も言う前から見抜いていたよ。
かかわったら様々な不条理な目にあうことがわかりきっているのになぜわざわざ関わるのか。
そして関わってその不条理を甘受することは彼らのそのあり方を肯定することになぜ気づかないのか。
ここのところ、文学部で東洋史を希望する学生が激減している。聞けば昨今の中国とか北朝鮮とかの報道を聞くにつけても、あんな国の文化を学ぶきになるかい、みたいなところらしい。一方、キャンパスには年々中国人学生の姿が多くなっていく。
中国に興味をもたない日本人が増えれば、中国語が必要となる職場では必然的に中国人が採用されることになる。で、職場に入り込んだ彼らは一人一人はいい人たちであるから、無邪気に自分たちの受けてきた愛国教育に従って
「チベット族はダライ・ラマの帰還を望んでいないっていってますよ。」とか
「この前の暴動は僧侶が主導してほとんどのチベット族はメイワクだと思っています」とか平気でまわりに語り、それをまた信じちゃう日本のオッサンたちがいるわけだ(実話)
もう一度いいます。彼ら一人一人は悪い人間ではないのです。想像力がたりないだけ。チベット人を暴力で制圧して、ネットも映像も気に入らないと切断して、他人の国の番組内容にまで口だしてくる国で、文化も主体性も自由に考える力も奪われた銃で後ろから脅されている人々が、何を考えているかを想像する頭がないだけ。
ていうことですわ。
なんかいろいろ考えさせられた。ここ二~三週間でした。
国際展示場にかかるあの巨大な招致垂れ幕、神社にいくとはためいていたあの招致のぼり、商店街のフラッグ、目にするたびに何の意味があるんだ、いくらかかってんだ、何やったって自分のマインドはかわらんわ。と思っていた。
だいたい、中国人じゃあるまいし東京人はもうサブリミナルやプロパガンダで動くような民度じゃないわ。
このムダに空費された宣伝費用、わたしの払った都税からでてるんですよ。この日記を読んでいる学生諸君には分からないだろうが、納税者になるとこの血の流れるような気持ちわかるはずです。
あー、腹が立つ。腹が立つにはもっとふかーい訳がある。
I都知事、去年の夏北京オリンピックに参加しましたよね。東京の招致を有利にするために北京に行きましたよね。
これって中国を怒らせると東京招致に反対される、あるいは東京オリンピックボイコットされるから、いったってことですよね。
でもそれって、
マスコミが中国を怒らせると中国取材ができなくなるから、~ry
中国と商売してる会社が、中国を怒らせると不買運動をおこされたり、いやがらせをされたりするから ~ry
とかいうのと同じ思考法ですよね。相手のやっていることの是非はおいといてただ現場で仕事をまわすためだけに、もっと大きな大事なものを失っているのに気がつかないと。
ダライ・ラマ法王は北京でオリンピックを行うことは中国が海外の目を気にするようになるからいいことだといって賛成していたけど、要人のオリンピック参加には必ずしも賛成していなかった。
だって、それ中国のメンツをたてるしか意味のない行動だもの。
で、I知事は北京オリンピックに参加したことによって、中国のメンツをたてたわけで、彼自身は名を下げたわけである。
オリンピックを招致するために、会社を維持するために、取材をつづけるために、中国のいいなりになる時、会社の社会的責任とか、報道の道義とかもっと大局から見て重要なものを失っていることに気づかねば。これって重要よ、あまりに目先のことばかりみて、人に言えないようなひそひそ話しばかりしていると、結局は誰からも尊敬されなくなって軽蔑されるだけ。
じつはワタクシごとなのだが、去年とあるテレビ番組の監修をしてくれと頼まれた。で聞けばもう台本もでてきて映像もできてて、例によって「何かマチガイがないか」だけチェックしてくれ、とのこと(ぷんぷん)。
みると、マチガイだらけだったので、アカ入れしまくってかえした。
そしたら、放送日前日になって、突然放映中止。何かあったなー、と思ったが、案の定中国が「これだめ、こう言え」と口をだしてきたとのこと。
わたしは放送しちゃえばいいじゃん、と思ったのだが、自分たちだけの問題ではなく会社に類が及ぶからできないとのこと。
で、その放送局の偉いところは、がんばりつづけてほとんどもとの台本に戻してくれたこと。しかし、そもそもこの番組の台本つくったのは放送局の人間だし、監修者は中国の某局だし、わたしは事実と違う点をなおしただけ。
何とも釈然としない気分になったので、名前をださなかった。
そしたら、そう決意した瞬間に目の前が開けた。それまでは、まあ放送局もさんざん某国との間で苦労したわけだし、その上で自分が断ったりしたら相手いやな気持ちになるだろうな、とかいろいろ気をつかったんだけど、断った瞬間に、それはもう爽快。
その気持ちよさの原因を追及してみるとこういうことになる。
自分、台本に手をいれることによって番組に一定の品質を保たせ、学者としてのつとめははたした、そして、名前をださなかったことで、某国が口をだしたような作品に協力しなかったというプライドも保てた。
つまり、いろいろ考えたあげく嫌々北京オリンピックの開会式に参加して名前を下げて、さらに翌年結局招致に失敗してまた名を下げるみたいな負のスパイラルにおちこむことを事前に避けたともいえる。
でも問題の本質は、そもそも北京でオリンピックをやる、中国本土のチベットから展示品かりてチベットをやる、あるいは中国側の説明だけ聞いて番組をつくる、とかいうこの部分にある。
上野の森の美術館の展覧会なんて、知り合いの東洋史の先生は美術品が本土からきているのを見ただけで「この展覧会なんかいかがわしい」と私が何も言う前から見抜いていたよ。
かかわったら様々な不条理な目にあうことがわかりきっているのになぜわざわざ関わるのか。
そして関わってその不条理を甘受することは彼らのそのあり方を肯定することになぜ気づかないのか。
ここのところ、文学部で東洋史を希望する学生が激減している。聞けば昨今の中国とか北朝鮮とかの報道を聞くにつけても、あんな国の文化を学ぶきになるかい、みたいなところらしい。一方、キャンパスには年々中国人学生の姿が多くなっていく。
中国に興味をもたない日本人が増えれば、中国語が必要となる職場では必然的に中国人が採用されることになる。で、職場に入り込んだ彼らは一人一人はいい人たちであるから、無邪気に自分たちの受けてきた愛国教育に従って
「チベット族はダライ・ラマの帰還を望んでいないっていってますよ。」とか
「この前の暴動は僧侶が主導してほとんどのチベット族はメイワクだと思っています」とか平気でまわりに語り、それをまた信じちゃう日本のオッサンたちがいるわけだ(実話)
もう一度いいます。彼ら一人一人は悪い人間ではないのです。想像力がたりないだけ。チベット人を暴力で制圧して、ネットも映像も気に入らないと切断して、他人の国の番組内容にまで口だしてくる国で、文化も主体性も自由に考える力も奪われた銃で後ろから脅されている人々が、何を考えているかを想像する頭がないだけ。
ていうことですわ。
なんかいろいろ考えさせられた。ここ二~三週間でした。
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