長田さんとトーク
しかし、よく考えてみたらヘンな学者である、自分。
講演とかは普通の学者でもやるだろうが、ミニシアターでのトークって、普通文化人がやるもんじゃない?
相方の長田さん(I Love Tibet主宰)とはもはやいつが初対面かも覚えていない昔からのおつきあい。こんな二人のダラダラ内輪話を聞きたがる人がいるというのも時代が変わったのか、チベットが悲惨ということか。
まあ、コアなチベットファンが増えたのだろうと好意的に考えることとする。
客席にはコアなフリー・チベットさんたちに、キム・スンヨン監督に、可愛い卒業生たちの顔が並ぶ。夜遅いのにありがとう、みなさん来てくれて。
このアップリンク、この春からずっとチベットに力を入れてくださっている。アップリンクは話題作を扱うので新聞とかにもよくとりあげられていて、映像を選ぶ目は確かである。しかし、ここの社長がとにかくすごい。
何がすごいかって、もう巨漢で身なりにかまわなくてサンダル履きで、私の知り合いは上映中に彼が入ってきたら、
「この人何かテロでもするんじゃないか」と気になって仕方がなかったとか。
私が「社長さんだよ」というと呆れかえっていた。
その社長さんに会うのが楽しみだったのだが、いない。で、アップリンクのKさんに
「社長さんどちらですか」と聞くと
kさん「社長いまヤクザ役で映画にでるためウクライナにいってます」
ヤクザ役ですか(笑)。
今回のイベントは1998年制作のポールワーグナー監督風の馬のdvd化記念。権利買い取るのに結構お金かかったとか。たしかになんかお金なさそうな監督だったもんな。だってこの映画、セブンイヤーズインチベットとかクンドゥンとかと同じ頃撮影されていて、前者はアルゼンチン、後者はモロッコにセット作ったのに、ポールワーグナーは中国共産党治下のラサでゲリラ撮影だもんね。ははは。
このトークショーがDVD化のさいに要した資金の穴埋めに多少は貢献できるといいけど。
長田さんはまず、この風の馬の主人公ドルカをつとめたダドゥンの話からはじめる。本土ではやるチベット語の歌は、チベット語の修辞学でよく解釈すると抵抗歌だったりするけど、ダドゥンは恋人の名前をいれて歌う歌に、テンジンギャムツォ(ダライ・ラマの名前)をいれて、恋人を思う歌にことよせて、ダライ・ラマを思う歌を歌ったりしていたので、チベットにいられなくなってしまい、亡命して、本編の主人公さながらの人生を送っているという。
それから、映画の中で拷問で死にかかっている尼僧の証言をビデオにとってアメリカ人旅行客が国外に持ちだそうとして失敗する。現実はあそこまで悲惨な映像ではないにせよ、たとえば去年の蜂起映像などもさまざまな形で本土チベットから持ち出されている。成都のネットカフェとか、出張にかこつけてとか、とにかく本土チベットからでて海外に送信するのだ。昔はフィルム没収されたらアウトだったけど、今はネットで瞬時に海外に送信できるので、画像の流出が比較的楽になった。
トークのあとに流したTHRCD(たぶん綴り違う 笑)が作成した2008年チベット蜂起の時系列の記録映像(uprising in 2008 50分ネットで見られます)も、そうして送られた映像とBBC(イギリス国営放送)の流した映像から構成したものである。
で、言論の自由のない国(中国)でチベット人にどんなインタヴューしたって返ってくる答えはホンネでもないし、無難なものになるに決まっているのに、日本のマスコミってそれを文字通りとらえて「チベットの今」とかいって流すよねー、あれって結局中国政府の政策を追認しているようなもので、あれ〔海外のジャーナリストが命はって取材しているのに〕ぬるいよねー、という話をする。
「聖地チベット展」だってあれ、チベット問題について何も国際的な見識のない業界人がお金もうかりそーっとその場ののりではじめたものだし、それがどういう波紋をよぶかについてまったく思い至らない。危機探知能力ゼロ。悪意がない分始末におえないよねー、てなノリで話した後、人間掲示板と化し、今後のチベット・イベントの予定をしゃべりまくる。
みなそれぞれの分野でがんばっている。
チベット支援は、いろいろな人が行っている。ここは自由の国なのだから、いろいろな政治的な立場からなされていいし、文化を維持することに興味がある人はお寺支援してもいいし、教育に興味のある人は学校支援してもいいし、基本的にそれぞれの立場から興味のある分野で活動をしていけばいいと思う。
どの行動も尊いし頭がさがる。
前提として、支援者は、よき社会人であることが望ましいと思う。よき社会人とは定職をもち自立し、家族や友人となごやかに暮らし、その人自身が何らかの形で社会に貢献していることを意味する。そうでないと、いくら正論いっても「自分の不安感や不満をチベット人の弾圧されていることに重ねて、ぶつけているだけじゃない」と言われてハイ終わりだから。
よく言われる話だけど、日の丸が問題なのではなく、日の丸をもつ人の品格が問題だという、あれと同じ。
よき社会人は、様々な考え方をもつ人々に取り囲まれながら安定的に暮らしているわけだから、他人の意見をきき、自分も意見をいい、それを調整していくという問題処理能力があり、支援の場においても非常に有能なのである。感情に左右されず、異論を尊重し集団を運営していく、これはやっぱよき社会人でないとムリです。
何か支援をするということは自分がいかなるものであるかを問われているということでもある。自分のことも始末できない人が、他人にあれしろこれしろいっても説得力ないでしょ。
ちなみに、歴史はあらゆる社会運動はすべからく消滅する運命にあることを教えてくれる。運動の末路はつねに外部からではなく、内部対立からくる自滅である。彼らが批判している対象によってではなく、自分自身の病弊によって倒れるのだ。
その中で、チベット支援は五十年、消滅どころか、徐々に支援の輪を広げて現在に至っている。これは、支援者の質が総じて高く、かつチベット文化が「守るべきものである」という認識が広がってきている証拠である。
普段は静かにこういう地道な交流会、勉強会を続け、いざという時(笑)にはじければいいのであって、組織防衛とか運動を続けることを自己目的化しない方がかえって運動自体は存続する。
私のことを「見て、知って」という女(男)がまったくもてないのには理由があるのだ。
講演とかは普通の学者でもやるだろうが、ミニシアターでのトークって、普通文化人がやるもんじゃない?
相方の長田さん(I Love Tibet主宰)とはもはやいつが初対面かも覚えていない昔からのおつきあい。こんな二人のダラダラ内輪話を聞きたがる人がいるというのも時代が変わったのか、チベットが悲惨ということか。
まあ、コアなチベットファンが増えたのだろうと好意的に考えることとする。
客席にはコアなフリー・チベットさんたちに、キム・スンヨン監督に、可愛い卒業生たちの顔が並ぶ。夜遅いのにありがとう、みなさん来てくれて。
このアップリンク、この春からずっとチベットに力を入れてくださっている。アップリンクは話題作を扱うので新聞とかにもよくとりあげられていて、映像を選ぶ目は確かである。しかし、ここの社長がとにかくすごい。
何がすごいかって、もう巨漢で身なりにかまわなくてサンダル履きで、私の知り合いは上映中に彼が入ってきたら、
「この人何かテロでもするんじゃないか」と気になって仕方がなかったとか。
私が「社長さんだよ」というと呆れかえっていた。
その社長さんに会うのが楽しみだったのだが、いない。で、アップリンクのKさんに
「社長さんどちらですか」と聞くと
kさん「社長いまヤクザ役で映画にでるためウクライナにいってます」
ヤクザ役ですか(笑)。
今回のイベントは1998年制作のポールワーグナー監督風の馬のdvd化記念。権利買い取るのに結構お金かかったとか。たしかになんかお金なさそうな監督だったもんな。だってこの映画、セブンイヤーズインチベットとかクンドゥンとかと同じ頃撮影されていて、前者はアルゼンチン、後者はモロッコにセット作ったのに、ポールワーグナーは中国共産党治下のラサでゲリラ撮影だもんね。ははは。
このトークショーがDVD化のさいに要した資金の穴埋めに多少は貢献できるといいけど。
長田さんはまず、この風の馬の主人公ドルカをつとめたダドゥンの話からはじめる。本土ではやるチベット語の歌は、チベット語の修辞学でよく解釈すると抵抗歌だったりするけど、ダドゥンは恋人の名前をいれて歌う歌に、テンジンギャムツォ(ダライ・ラマの名前)をいれて、恋人を思う歌にことよせて、ダライ・ラマを思う歌を歌ったりしていたので、チベットにいられなくなってしまい、亡命して、本編の主人公さながらの人生を送っているという。
それから、映画の中で拷問で死にかかっている尼僧の証言をビデオにとってアメリカ人旅行客が国外に持ちだそうとして失敗する。現実はあそこまで悲惨な映像ではないにせよ、たとえば去年の蜂起映像などもさまざまな形で本土チベットから持ち出されている。成都のネットカフェとか、出張にかこつけてとか、とにかく本土チベットからでて海外に送信するのだ。昔はフィルム没収されたらアウトだったけど、今はネットで瞬時に海外に送信できるので、画像の流出が比較的楽になった。
トークのあとに流したTHRCD(たぶん綴り違う 笑)が作成した2008年チベット蜂起の時系列の記録映像(uprising in 2008 50分ネットで見られます)も、そうして送られた映像とBBC(イギリス国営放送)の流した映像から構成したものである。
で、言論の自由のない国(中国)でチベット人にどんなインタヴューしたって返ってくる答えはホンネでもないし、無難なものになるに決まっているのに、日本のマスコミってそれを文字通りとらえて「チベットの今」とかいって流すよねー、あれって結局中国政府の政策を追認しているようなもので、あれ〔海外のジャーナリストが命はって取材しているのに〕ぬるいよねー、という話をする。
「聖地チベット展」だってあれ、チベット問題について何も国際的な見識のない業界人がお金もうかりそーっとその場ののりではじめたものだし、それがどういう波紋をよぶかについてまったく思い至らない。危機探知能力ゼロ。悪意がない分始末におえないよねー、てなノリで話した後、人間掲示板と化し、今後のチベット・イベントの予定をしゃべりまくる。
みなそれぞれの分野でがんばっている。
チベット支援は、いろいろな人が行っている。ここは自由の国なのだから、いろいろな政治的な立場からなされていいし、文化を維持することに興味がある人はお寺支援してもいいし、教育に興味のある人は学校支援してもいいし、基本的にそれぞれの立場から興味のある分野で活動をしていけばいいと思う。
どの行動も尊いし頭がさがる。
前提として、支援者は、よき社会人であることが望ましいと思う。よき社会人とは定職をもち自立し、家族や友人となごやかに暮らし、その人自身が何らかの形で社会に貢献していることを意味する。そうでないと、いくら正論いっても「自分の不安感や不満をチベット人の弾圧されていることに重ねて、ぶつけているだけじゃない」と言われてハイ終わりだから。
よく言われる話だけど、日の丸が問題なのではなく、日の丸をもつ人の品格が問題だという、あれと同じ。
よき社会人は、様々な考え方をもつ人々に取り囲まれながら安定的に暮らしているわけだから、他人の意見をきき、自分も意見をいい、それを調整していくという問題処理能力があり、支援の場においても非常に有能なのである。感情に左右されず、異論を尊重し集団を運営していく、これはやっぱよき社会人でないとムリです。
何か支援をするということは自分がいかなるものであるかを問われているということでもある。自分のことも始末できない人が、他人にあれしろこれしろいっても説得力ないでしょ。
ちなみに、歴史はあらゆる社会運動はすべからく消滅する運命にあることを教えてくれる。運動の末路はつねに外部からではなく、内部対立からくる自滅である。彼らが批判している対象によってではなく、自分自身の病弊によって倒れるのだ。
その中で、チベット支援は五十年、消滅どころか、徐々に支援の輪を広げて現在に至っている。これは、支援者の質が総じて高く、かつチベット文化が「守るべきものである」という認識が広がってきている証拠である。
普段は静かにこういう地道な交流会、勉強会を続け、いざという時(笑)にはじければいいのであって、組織防衛とか運動を続けることを自己目的化しない方がかえって運動自体は存続する。
私のことを「見て、知って」という女(男)がまったくもてないのには理由があるのだ。
愛国教育テクスト
あと三日になりました。10月28日(水)
渋谷のアップリンクで長田さんとトークショーやりまーす。
◆19:00 上映『風の馬』(97分)
◆20:45 トークショー (ゲスト:長田幸康氏、石濱裕美子氏)
◆21:20上映『Uprising in Tibet 2008~チベット騒乱の真実~』
(くわしく知りたい方はここクリック)
渋谷のアップリンクで長田さんとトークショーやりまーす。
◆19:00 上映『風の馬』(97分)
◆20:45 トークショー (ゲスト:長田幸康氏、石濱裕美子氏)
◆21:20上映『Uprising in Tibet 2008~チベット騒乱の真実~』
(くわしく知りたい方はここクリック)
突然、11月9日まで英文の論文を出せ、という急な命令がデリーからくだりました。学会は18日だから、それまでていいと思っていたのに、突然9日までと。要旨だしたんだから、それでいいだろうが。なんでペーパーまで要求するの。ムリだよ。
チベット人はTCVでヒンドゥー語と英語とチベット語やるから英作文なれているだろうけど、島国でまったり生きてきた東洋史の学者に突然英作文出せ、いうてもできることとできないことが世の中にはあります。
一応努力はしてみるけど、そうしてできあがった英語論文が果たして私以外の人の読めるものに仕上がっているかどうかは永遠の謎である。
そういうわけで、毎晩英語の夢にうなされ、日本語の合間に「ウープス」とか入ってしまう毎日なので、おのずとあまり高度な更新はできません。
数日前某ムック本の原稿を提出したのだけど、その際参考資料に用いた資料を、以下にはっときます。
去年チベットが蜂起した後で中国政府は僧侶に対する愛国教育をいっそう劇化させました。僧侶が音読を強制されている学習テクストを某カメラマンのN氏が青海からゲットしてきました。
目次をチベット語から翻訳しておきますね。でも忙しいのでフィーリングで訳しました。内容が読みたいからオマエ訳せとか言わないでね。このテクストのチベット語は漢語の直訳で普段仏教・歴史文献しか読んでいない自分にはあまりにも面倒くさい内容なので。
〔表紙〕
祖国統一と民族団結、社会安定などを守護することについての学習テクスト集
中共青海省委員会宣伝部
2008年4月
〔目次〕
●暴力事件がダライ集団の「非暴力」の嘘をさらけ出した。
● ダライ集団はチベット仏教(藏伝仏教)の平常の規律に損害を与える主要な人物である。
□中国チベット学研究センター(中国藏学研究中心)宗教研究所の学者ドゥンカルツェリンとダワツェリンに対するインタヴュー
●ダライ集団の実像を知ることのできる生きた反面教材である。
□中国チベット学研究センターの総長ラクパプンツォクがラサの暴力事件を分析する。
●暴力事件からダライ集団の非暴力の巧詐と野蛮の本質が暴露された。
□中国チベット学研究センターの歴史研究所の研究者陳慶英に対するインタヴュー
●歴史より世界に対してチベットを確認する。
●仏教に反して、人々に苦しみを与える。
□チベット仏教会の指導者ダライ14世集団を叱る。
●ダライ分離集団が自分の頭を自分で切った可能性。
□チベットの党委の副書記人民会議常任委員会の主任レクチョクに対する特別インタヴュー
●チベット仏教の指導者ダライ14世に対し、祖国統一と民族団結を破壊することが不可能であることを勧告する。
●ダライ集団の「中道」の真の目的はチベット独立である。
●仏教と同様に国を愛する会の代表が固い決意により、分離主義者と決別する。
□中国チベット文学単位高等仏教学院の助教授アラク・ナクツアン・チャムバ・ガワンに対するインタヴュー
●ダライ集団がラサの破壊略奪暴力事件を計画し教唆したのである。
●ダライ集団が祖国から分離しようとする本質は不変である。
□チベット学の専門家がダライ集団の分離論に厳しい批判を加える
●1959年のチベットの暴力反乱はどのように起きたか。
●チベット地域はつねに中国の不可分の一部である。
●チベット平和解放と自治区設立
●ダライ集団がチベット人民の大抗議行動を操っている事情
●警察がチベット地域などのいくつかの寺から反乱のための武器を大量に押収したこと。
□3月14日事件はダライ集団が組織したチベット人民の大抗議運動の一部である。
●民族区域自治はチベットの繁栄と安定の根本である。
□チベットの民族区域自治制度を実施した本当の事情。
●チベット文化が根絶した絶という説は全ての人を騙す嘘である。
□チベットの専門家がチベット文化の今と昔を語る。
●チベット学の専門家が国内外のニュースを集めたインタヴューと解説?。
●チベット人民の望みは国の安定と民族団結を尊重することである。
●インドの専門家が論文を発表したこと。ラサ事件は計画的な暴力行動である。
●アパの破壊略奪事件はダライ集団が緻密に計画した暴力破壊運動性が大きいものである。
●チベットは昔から中国の領土の一部である。
●青海省全土の眼前の社会の安定を守護するための行動を組織する時が切に示されていること。前よりも堅く意志を統一し、手段を明らかにし、全力を挙げて地域の安定を護るつとめを果たさねばならない。
●青海省青海民族大学と青海師範大学から教授陣と事務代表に対して連絡する際に示されるべき事。真正面から宣伝教育を行い、前より力をいれて大学内部の安定を徹底して護らねばならない。
●青海省の黄南地域における安定を護り、捜査と指示を行う時に示されるべきこと。
●断固とした決意で分離主義を批判し、安定を護る。団結をいっそう強固なものとして全力を上げて安定を護ることに全面的な勝利をうることに努力せねばならない。
●ラオフーニンがチベット仏教の各宗派の代表と座談会をした時に望んだこと。広大なチベット仏教の各宗派の代表が社会の安定を護ることに貢献せねばならない。
●慈しみの心から生まれた心からの願い。
□ラオ・フー・ニンとチュー・チン・シェン二人が地域の高等学校の師弟の代表と座談されたこと。
●発展と安定の状況を前より大事にせねばならない。
●地域を団結させ進歩させる仕事に一層励みとりわけ奨励せねばならない。
●発展をより迅速にすることが青海の第一の使命である。
●公民は必ず憲法と規律を遵守しなければならない。
●大火中から生まれた純粋な慈しみの心
□チベット族ションヌ・ソナム・トンドゥプが己を捨てて他を救った事情。
●黄河が民族の慈しみの心の証人となった。
●西安から届いた愛の使者。
□命をチベットに捧げた「西安の美女シューニン」を追憶して。
10月31日への道
今朝の朝日の朝刊の秋のイベント紹介に「聖地チベット展」についての紹介がのっていた。笑った。なぜなら、何か微妙に批判者を意識した内容になっているから。
まず、今回の展覧会がチベット好きからウケてない、ポイントを整理してみよう。
(1) 無意識のうちに"中国"を美化。
展覧会の興行主が中国からの批判を怖れて自主規制したため、近代以後の歴史がすっぽりぬけおちている。しかし、共産党政府以前の中国王朝(元・明・清)はみなチベット仏教を大切にしていたため、歴史リテラシーのない人が見ると「中国って昔からチベットを大事にしているのね。」と見えるようになっている。
事実は逆。中国共産党は1950年のチベットへの軍事侵攻以後、僧院を完全破壊し、僧侶をすべて還俗させ、チベット文化を否定しつくした。80年代以後は観光政策のために形だけの僧院復興を許しているが、僧侶に社会主義愛国教育を強制しーの、僧院の活動にありとあらゆる制限をかしてじゃましまくりーので、まったくチベット仏教界の尊敬を受けていない。そして一番の問題は過去の問題ではなく、今現在それをやっているということ。
(2) チベット文化の説明が不完全。
大半の展示物が、ポタラ宮とノルブリンカ、すなわち歴代ダライ・ラマの宮殿であったところから供出されているにもかかわらず、それについての説明がむわったくない。ダライ・ラマのいないチベット史って、誰かがいってたけど、「チャーシューののってないチャーシューメン」なのに。
一方、数的には供出数の少ないサキャやミンドゥルリンや熱河の外八廟(この表現古い 笑)の説明はコラムまでつくってある。何かすごくバランスがとれていない。展示品も日本人が選んだということになっているけど、それにしては、中国との関係を示すものが多く、チベット自体のそれぞれの宗派の歴史や地方色などを表す展示品がない。
(3) 仏像を美術品として展示する違和感。
チベットにいったら、みな必ずお寺に入っても、お寺自体を参拝する場合でも、時計まわりの巡礼路にそって歩く。そして仏様にはカター(スカーフ状の絹の白い布)が捧げられ、由緒ある仏様はカターに埋まる。しかし、今回の展覧会は〔まだいってないけど〕これらの仏様たちに供養の対象としての敬意は払われていない。巡礼路もない。展示品はただ「美術品」になっている。宗教心を失って久しい日本人のレベルにあわせて展示しているのかもしれないが、美術品として仏様を見ても「チベット文化を知る」ことにはならないんじゃない。
で、今日の朝日新聞はこんなこと書いてました。
ポタラ宮の秘蔵品も 聖地チベット展
よく耳にするのに、意外と知らないチベット。その文化を紹介する「聖地チベット展」が東京・上野の森美術館で開かれている。インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地で独自の発展をとげたチベット仏教。展示されているのはその精華を伝える約120点で、世界遺産ポタラ宮の秘蔵品も数多い。
チベットのシンボルといえるポタラ宮は17世紀、ダライ・ラマ5世がかつての王宮跡地「マルポリの丘」に建造した。以後、歴代のダライ・ラマは宮殿に居住し、宗教活動と政治の中心地となってきた。
宮殿内部には歴代ダライ・ラマをまつる霊塔があり、約7万点の仏像、仏画、工芸品などと6万点もの経典類が保管されている。一部は観光客に公開されているが、入場者数は厳しく制限されている。
宮殿に集められた作品群は、制作された時代も土地も様々だ。今回の出展品でも、5世紀に作られた「釈迦如来座像」は中国北魏のスタイル、11~12世紀に作られた等身大の「弥勒菩薩立像」などは東北インドで作られている。チベット様式の仏画を刺繍した掛け軸「グヒヤサマージャ座像タンカ」は、明の永楽帝から贈られたものだ。
一方で展覧会には、ミンドゥリン寺やサキャ寺など由緒ある古寺からの出品も少なくない。チベットでは、仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。
まず、二行目でチベット文化が「インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地」と言うことで「中国が勝手にひいた自治区線より広大な文化圏があることを知ってます」アピール。
それからダライ・ラマ五世がポタラ宮を築いたこと、歴代ダライ・ラマが宮殿に居住したことを述べることによって、「ダライ・ラマを無視していない」ことをアピール。でもダライ・ラマがここから追われたこと、そのあとお寺や文化財が壊されたことを書く勇気はない。
作品紹介はこの人たちの仕事だから置いておくとして、最後の「仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。」にいたって大爆笑。「美術品」として展示したことをなんかいいわけしているみたい。専門家ならそういう細部もみたがろうけど一般の人はカターに埋まって仏壇にある姿をみた方がよほど感銘を受けると思うけど。この記事は一般向けだよね。
まあ、倫理や道徳がすっぽぬけ、ただひたすら自分のことばかりを追求する現代日本において、ダライ・ラマがすっぽぬけ、仏像が美術品になる展示会が開催されるのも考えてみたら、当然のことなのかもしれない。
この展覧会とリンクして銘記すべきは、11月はじめに来日されるダライ・ラマ法王の講演は、沖縄・四国ともにチケットは売り切れたのに、東京の10月31日のみ残りがあるという。なぜならその日はダライ・ラマ法王が仏教を講話されるから、日本人には難しすぎるみたい。日本にはコンビニよりも寺の数があると言われているのに、日本人はどちらかというと仏教徒が多いはずなのにこの惨状。
情けない。ダライ・ラマ法王のあの高潔な人格はチベットの僧院生活から生まれてきたものなのに。今更何を嘆いても仕方ないが、日本人本当に明治維新以後、経済的発展とバーターにいろいろなものを失ってきた。
私は阿修羅王を美術館でみるなんて情けなくてできなかったけど、大半の人は何も感じずそれができる。シカン展、インカ展、エジプト展、みな過去の文明ですよね、で、阿修羅展、聖地チベット展って、もう終わった文明のあつかいか。まだ生きとるわ。仏教わ。
さて、法王の仏教講話チケットを完売させるためにここから解説はじまります。10月31日の猊下の講義はここにあるテクストが解説されます。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
この短い文はチベット人が仏教に入門してから覚りにいたるまでの道をものすごく煮詰めて書いたもの。
チベット仏教において繰り返し述べられる教えは、「すべてのものは自分の自身の力ではなりたっておらず、必ずなにものかによっているため(縁起しているため)、本質、実体といったものはない(空である)。したがって、実体のないものにとらわれて怒ったり、執着したりしたらあかんで」ということ。
これはものごとが「ない」という虚無論でもなく、唯一絶対神を認めるような実在論でもない(テクストの中で否定されているでしょ)。
「生活感覚ではあるようにみえる」んだけど、「その実体を探し求めてもないじゃん」という意味での「ない」なのだ。そして、いの一番に否定されるべきは「自分」である。日々変化し続け、とらえがたい自我というものに、「自分」という実体を感じてしまうことから、怒りや執着が生まれ、周りとのトラブルを生む。しかし、自分を分析してみると、そこには何ら実体のないことに気づく。
自分の感じている苦しみが、誰かのせい、ではなく、自分自身の悪い心の性質であることに気づくとき、「自分」を抑えることが、幸せになるために必要であることに気づく。そのために「他者」の存在は重要である。鬱になってひきこもっている人の重大なカンチガイは、自分にひきこもればひきこもるほど、自分が肥大して苦しみが増していくという点だ。自分のことではなく、他者のことを思うことができるよにうになると、人は本当の意味で幸せを観じることができる。
そのような自我を解体し、他者を思う気持ちで満たされた意識が、大乗でいう覚りの境地(菩提)であり、仏様はその覚りの境地の具現者なのだ。
チベットの僧院ではこういう仏様のようなすんばらしい人格をつくるために、お坊さんたちは毎日さまざまな瞑想を行っている。この僧院生活をマスターした高僧はみなダライ・ラマみたいな人格になっていくのである。だから、人類に幸せをもたらしてくれるテクニックを実践する人々として僧侶は尊敬をうけ、そのような人々の修行の場として僧院は人々に守られてきたのだ。
仏教は迷信や狂信からもっとも遠い「賢者の宗教」としてここ百五十年間グローバルに高い評価をうけつづけている。チベット文化を理解した人はみなチベットの僧院社会の存続を強く願っている。そのような仏教のすばらしさは「聖地チベット展」よりは、10月31日のダライ・ラマ法王の仏教講話でよく分かると思うので、チベット仏教と縁を結びたい方、参加しましょう。
しつこいようだけど、当日までに↓を読んで勉強してね。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
※注 ちなみに、仏教の理想とする人格とオマエはまったく逆ではないか、というツッコミが入るかと思いますが、そういう人には「わたくしはまだ修業ができておりません」とお答えすることにしています。
まず、今回の展覧会がチベット好きからウケてない、ポイントを整理してみよう。
(1) 無意識のうちに"中国"を美化。
展覧会の興行主が中国からの批判を怖れて自主規制したため、近代以後の歴史がすっぽりぬけおちている。しかし、共産党政府以前の中国王朝(元・明・清)はみなチベット仏教を大切にしていたため、歴史リテラシーのない人が見ると「中国って昔からチベットを大事にしているのね。」と見えるようになっている。
事実は逆。中国共産党は1950年のチベットへの軍事侵攻以後、僧院を完全破壊し、僧侶をすべて還俗させ、チベット文化を否定しつくした。80年代以後は観光政策のために形だけの僧院復興を許しているが、僧侶に社会主義愛国教育を強制しーの、僧院の活動にありとあらゆる制限をかしてじゃましまくりーので、まったくチベット仏教界の尊敬を受けていない。そして一番の問題は過去の問題ではなく、今現在それをやっているということ。
(2) チベット文化の説明が不完全。
大半の展示物が、ポタラ宮とノルブリンカ、すなわち歴代ダライ・ラマの宮殿であったところから供出されているにもかかわらず、それについての説明がむわったくない。ダライ・ラマのいないチベット史って、誰かがいってたけど、「チャーシューののってないチャーシューメン」なのに。
一方、数的には供出数の少ないサキャやミンドゥルリンや熱河の外八廟(この表現古い 笑)の説明はコラムまでつくってある。何かすごくバランスがとれていない。展示品も日本人が選んだということになっているけど、それにしては、中国との関係を示すものが多く、チベット自体のそれぞれの宗派の歴史や地方色などを表す展示品がない。
(3) 仏像を美術品として展示する違和感。
チベットにいったら、みな必ずお寺に入っても、お寺自体を参拝する場合でも、時計まわりの巡礼路にそって歩く。そして仏様にはカター(スカーフ状の絹の白い布)が捧げられ、由緒ある仏様はカターに埋まる。しかし、今回の展覧会は〔まだいってないけど〕これらの仏様たちに供養の対象としての敬意は払われていない。巡礼路もない。展示品はただ「美術品」になっている。宗教心を失って久しい日本人のレベルにあわせて展示しているのかもしれないが、美術品として仏様を見ても「チベット文化を知る」ことにはならないんじゃない。
で、今日の朝日新聞はこんなこと書いてました。
ポタラ宮の秘蔵品も 聖地チベット展
よく耳にするのに、意外と知らないチベット。その文化を紹介する「聖地チベット展」が東京・上野の森美術館で開かれている。インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地で独自の発展をとげたチベット仏教。展示されているのはその精華を伝える約120点で、世界遺産ポタラ宮の秘蔵品も数多い。
チベットのシンボルといえるポタラ宮は17世紀、ダライ・ラマ5世がかつての王宮跡地「マルポリの丘」に建造した。以後、歴代のダライ・ラマは宮殿に居住し、宗教活動と政治の中心地となってきた。
宮殿内部には歴代ダライ・ラマをまつる霊塔があり、約7万点の仏像、仏画、工芸品などと6万点もの経典類が保管されている。一部は観光客に公開されているが、入場者数は厳しく制限されている。
宮殿に集められた作品群は、制作された時代も土地も様々だ。今回の出展品でも、5世紀に作られた「釈迦如来座像」は中国北魏のスタイル、11~12世紀に作られた等身大の「弥勒菩薩立像」などは東北インドで作られている。チベット様式の仏画を刺繍した掛け軸「グヒヤサマージャ座像タンカ」は、明の永楽帝から贈られたものだ。
一方で展覧会には、ミンドゥリン寺やサキャ寺など由緒ある古寺からの出品も少なくない。チベットでは、仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。
まず、二行目でチベット文化が「インドやネパール、青海省などにつながる山あいの地」と言うことで「中国が勝手にひいた自治区線より広大な文化圏があることを知ってます」アピール。
それからダライ・ラマ五世がポタラ宮を築いたこと、歴代ダライ・ラマが宮殿に居住したことを述べることによって、「ダライ・ラマを無視していない」ことをアピール。でもダライ・ラマがここから追われたこと、そのあとお寺や文化財が壊されたことを書く勇気はない。
作品紹介はこの人たちの仕事だから置いておくとして、最後の「仏像はふだん祈りの対象として錦の衣をまとって安置されている。その姿をじっくり鑑賞できるのは展覧会ならではだ。」にいたって大爆笑。「美術品」として展示したことをなんかいいわけしているみたい。専門家ならそういう細部もみたがろうけど一般の人はカターに埋まって仏壇にある姿をみた方がよほど感銘を受けると思うけど。この記事は一般向けだよね。
まあ、倫理や道徳がすっぽぬけ、ただひたすら自分のことばかりを追求する現代日本において、ダライ・ラマがすっぽぬけ、仏像が美術品になる展示会が開催されるのも考えてみたら、当然のことなのかもしれない。
この展覧会とリンクして銘記すべきは、11月はじめに来日されるダライ・ラマ法王の講演は、沖縄・四国ともにチケットは売り切れたのに、東京の10月31日のみ残りがあるという。なぜならその日はダライ・ラマ法王が仏教を講話されるから、日本人には難しすぎるみたい。日本にはコンビニよりも寺の数があると言われているのに、日本人はどちらかというと仏教徒が多いはずなのにこの惨状。
情けない。ダライ・ラマ法王のあの高潔な人格はチベットの僧院生活から生まれてきたものなのに。今更何を嘆いても仕方ないが、日本人本当に明治維新以後、経済的発展とバーターにいろいろなものを失ってきた。
私は阿修羅王を美術館でみるなんて情けなくてできなかったけど、大半の人は何も感じずそれができる。シカン展、インカ展、エジプト展、みな過去の文明ですよね、で、阿修羅展、聖地チベット展って、もう終わった文明のあつかいか。まだ生きとるわ。仏教わ。
さて、法王の仏教講話チケットを完売させるためにここから解説はじまります。10月31日の猊下の講義はここにあるテクストが解説されます。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
この短い文はチベット人が仏教に入門してから覚りにいたるまでの道をものすごく煮詰めて書いたもの。
チベット仏教において繰り返し述べられる教えは、「すべてのものは自分の自身の力ではなりたっておらず、必ずなにものかによっているため(縁起しているため)、本質、実体といったものはない(空である)。したがって、実体のないものにとらわれて怒ったり、執着したりしたらあかんで」ということ。
これはものごとが「ない」という虚無論でもなく、唯一絶対神を認めるような実在論でもない(テクストの中で否定されているでしょ)。
「生活感覚ではあるようにみえる」んだけど、「その実体を探し求めてもないじゃん」という意味での「ない」なのだ。そして、いの一番に否定されるべきは「自分」である。日々変化し続け、とらえがたい自我というものに、「自分」という実体を感じてしまうことから、怒りや執着が生まれ、周りとのトラブルを生む。しかし、自分を分析してみると、そこには何ら実体のないことに気づく。
自分の感じている苦しみが、誰かのせい、ではなく、自分自身の悪い心の性質であることに気づくとき、「自分」を抑えることが、幸せになるために必要であることに気づく。そのために「他者」の存在は重要である。鬱になってひきこもっている人の重大なカンチガイは、自分にひきこもればひきこもるほど、自分が肥大して苦しみが増していくという点だ。自分のことではなく、他者のことを思うことができるよにうになると、人は本当の意味で幸せを観じることができる。
そのような自我を解体し、他者を思う気持ちで満たされた意識が、大乗でいう覚りの境地(菩提)であり、仏様はその覚りの境地の具現者なのだ。
チベットの僧院ではこういう仏様のようなすんばらしい人格をつくるために、お坊さんたちは毎日さまざまな瞑想を行っている。この僧院生活をマスターした高僧はみなダライ・ラマみたいな人格になっていくのである。だから、人類に幸せをもたらしてくれるテクニックを実践する人々として僧侶は尊敬をうけ、そのような人々の修行の場として僧院は人々に守られてきたのだ。
仏教は迷信や狂信からもっとも遠い「賢者の宗教」としてここ百五十年間グローバルに高い評価をうけつづけている。チベット文化を理解した人はみなチベットの僧院社会の存続を強く願っている。そのような仏教のすばらしさは「聖地チベット展」よりは、10月31日のダライ・ラマ法王の仏教講話でよく分かると思うので、チベット仏教と縁を結びたい方、参加しましょう。
しつこいようだけど、当日までに↓を読んで勉強してね。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/yfukuda/Tibet/lam_gtso_rnam_gsum.html
※注 ちなみに、仏教の理想とする人格とオマエはまったく逆ではないか、というツッコミが入るかと思いますが、そういう人には「わたくしはまだ修業ができておりません」とお答えすることにしています。
高知でチベット
今日は護国寺さまはbTibet09だけど、自分は高知チベットまつりにお呼ばれしてしたので、高知の名刹竹林寺にいく。
「講演の準備はしたしー、あとは文殊菩薩の聖地だから、スピリチュアルなドレスコードはやっぱヤマンタカ(文殊の忿怒形)かしら、ヤマンタカの数珠ももっていかなきゃね、これで準備ばんたーん」
で羽田空港に向かう電車の中で「さて、JALかANAかと確認しよう」と鞄をさぐるも、飛行機のチケットがない。忘れてきている!
「スピリチュアルなドレスコードとかいう前にチケット持てや!」と自分に激しくつっこむも、取りに戻る時間はなし。
しかも、家を出るときわたしはケータイダンナに貸してもらおうとしたら、ダンナは「いらないよ」とかいって貸してくれなかっため、連絡もとれない。仕方ないので公衆電話を探して
私「飛行機のチケット忘れた。現場でかけあってみるから、JALかANAかだけでも教えろ」といったら
ダンナ「JAL」
羽田空港駅はJALとANAでターミナルがちがう。自分ののっていた乗車位置がANA側だったので、JAL側に走る。カウンターにつくと、券の再発行のカウンターに並べという。で、聞くと私の名前がないという。隣に座るはずのルントクさんの名前もない。もしやと思い、もう家に一度をかけてみると
ダンナ「ごめんANAだった」
ANAは35分発なのにすでに15分過ぎている。
私「ゴルァ、もう出発時間十五分きっとるわい。どれだけターミナル離れていると思っているんだ。もうだめかもしれん」と怒鳴って、電話をたたっ切って走る。鬼の行相で走ったよ。
ANAのカウンターについて、ダメモトで「切符忘れました。高知です。何とかのせてください」とANAのおねいちゃんにすがりつく。たぶんここでもう25分すぎてた。
「ご案内十五分をきっておりご案内はしめきっています。一応確認がとれましたのでチケットはだしますが搭乗口が70と遠いので、乗れない可能性もありますがそれでもよろしいですか」といわれたので
私「走ります」
で、自分走ったね。全速で。搭乗口70は本当に遠かった。
ぜいぜいいいながら席に着くと隣のルントクさんが
ルントクさん「先生もうこないかと思ってましたよ」
私「私も今ここにいるのが奇跡としか思えません。チケット忘れた上に、間違ってJAlのカウンターにいってたんですよ」
ルントクさん「ああ、ターミナル違いますもんね。私四国二回目ですが、この前にきたとき飛行機乗り遅れたんですよ。チケット忘れたこともありますははは」
私「じゃあ自分幸運でしたね。」
レベルの低い会話だ。
で、帰りはJALだったんだけど、同じようにチケット忘れたにもかかわらず、ANAではすぐにだしくれたチケットがJALではその場でチケットを買いなおしさせられ、あとで払い戻すというシステム。420円の手数料もとられる。ANAにくらべJALは融通が利かないときいていたが、たしかにそう。その場で本人確認して再発行すれば、事務手続きもへるのに。だから赤字になるんだと納得。
話を戻して、行きの機内。ルントクさんと対談の打ち合わせをしようとしたら、ルントクさんは「まあでたとこでいきましょう」みたいな感じなので、もっぱらチベット界ウラ話に花を咲かす(くろっ)。
で、高知は龍馬空港につく。会場はあの文殊菩薩の聖地五台山の日本版、竹林寺。ちゃんと山の上にある。最初は亡命政府製作の、チベットのいろいろを簡潔にまとめた映画「慈悲を生きる」、そのあと高知出身の写真家の中島建藏さんのおはなし。カイラスとかアリとかトディンとかの西チベット、デチェンなどの東チベット、つい最近も東チベットのカワカポ(梅里雪山)にまでいらっしゃっている方である。
そのあと、自分の講演。「ダライ・ラマとチベット文化て何てマーベラス」という内容で、次がルントクさんが、チベットの現状と環境を語る。漢人がどんどんなだれこんでラサにチベット人の居場所がなくなっている、何の自由もない、チベット人に対する監視が強まり亡命者の数もへっている、もう本土で何が行われているか分からない、というくらーい話。
そしてワタクシの黒い司会により、三人で座談会。
私「あの僧院のすごいカリキュラムを最後までこなしたチベット人の坊さんは頭もいいし、人格も完成されているし、本当にみるからにすごいでんすよね。僧院に千人いれば一人か二人はものすごいお坊さんがいますよね、もちろん修行に落ちこぼれてダメダメな人もたくさんいるけど、それでも全体にレベルは高いですよね」
中島氏「14才くらいのチベット人のお坊さんに漢人がわざと足をひっかけて転ばせてつばはきかけたことがあって、私は怒ったんですけど、その子たった14才なのに耐えているんですよ。すごい人間ができていると思いました。チベット旅していると漢人がチベット人をいじめるそういう場面を本当によく目にするんですが、チベット人はよく我慢をしています」
私「漢人が悪いというよりは、政府の教育が悪いんですよね。中国政府は漢人に『チベット人にあれだけいろいろしてやったのに感謝しない恩知らず』とかそんな考え方ばかりを繰り返しすり込みますからね。」
中島氏「四川省でNHKテレビみていたら中国政府にとってみせたくない映像が流れる時はLIVE映像がきれるんですよ。だから中国の人は我々と同じような情報をもっていて同じように考えていると思ったらマチガイなんですよね。いろいろなことを知らされていませんよ。知り合いの日本人に通信機器の会社に勤めている人がいて、中国に雇われてポタラ宮の内部を盗聴するシステムをつくらされたそうです。もちろんその人は現地でそれをしっていやになってやめたそうです。」
日本の最新技術はチベット人管理に用いられているらしい。
てな方向に話がどんどこいくと、聴衆の一人が発言したいという。あー、中国シンパの人からの抗議かなと一瞬思ったけど杞憂で
聴衆の一人「中国がラダックやアルナチャル・プラデーシュの国境を侵犯して、赤いペンキまいたりしてるんですが、インドではこれブレーキングニュースで流れて、インドの友人は本当に第三次世界大戦を心配しているんですよ。でもこれって日本国内ではまったくニュースになっていませんよね。NHKがjapanデビュー(先に台本つくって映像をはめこむというすごい作品でそのストーリーは明らかに中国より)で抗議をうけて毎日千人規模のデモをかけられていた時も、そのュースを全然マスコミは流さない。善光寺のリレーの時も逮捕者は日本人とチベット人だけ。あれだけ中国人留学生が好き放題しても一人も中国人からは一人も逮捕者なし。日本はもう中国の一部なんですよ」との発言。
ははははは。この流れはもう笑うしかない。
ルントクさん「中国がチベットを占領したので、中国とインドが接するようになってこうなるのです。ダライ・ラマがこんどアルナチャル・プラデーシュ州を訪問する予定ですが、中国は〔中国領だから〕行くなといっています。中国はこうして他国にいろいろな圧力をかけますが、脅しに屈して引き下がる方が、相手をより傲慢にさせることになります。 彼らはこちらが断固ととして主張すれば引き下がります。自分たちに理がないことを知っていますから。それとチベット事情をよく知っている人が主張することには決してゴリ押しをしません。自分たちが後ろ暗い証拠です。
チベットに中国がやってきた時も、最初はいいことばかりいいました。チベットの発展に力を貸す、チベット人を助けたい、そして、それが終わったら出て行くと。それを信じたら今は丸裸です。日本もそうならないようにしてください。
私の言うことを信じなくてもいいです。両方の言い分を聞いて、自分の頭で考えてください。そうしたら分かるはずです」
私「孫子の兵法とか読まないといけませんよねー」(こらこら司会だろ)
てなわけで、まあ楽しく盛り上がって、そのあとご住職にご案内していただいて本尊様にお参りをする。聞けば、50年に一度のご開帳があと五年後だという。
私が「ガンで死ぬか、暗殺されるかしてなければ、五年後お参りにきます」というと
ご住職「先生なら55年後もいけますよ」
ご住職さま羊羹ありがとうございました。とあるサポーターの方、お茶や餅ありがとうございました。
「講演の準備はしたしー、あとは文殊菩薩の聖地だから、スピリチュアルなドレスコードはやっぱヤマンタカ(文殊の忿怒形)かしら、ヤマンタカの数珠ももっていかなきゃね、これで準備ばんたーん」
で羽田空港に向かう電車の中で「さて、JALかANAかと確認しよう」と鞄をさぐるも、飛行機のチケットがない。忘れてきている!
「スピリチュアルなドレスコードとかいう前にチケット持てや!」と自分に激しくつっこむも、取りに戻る時間はなし。
しかも、家を出るときわたしはケータイダンナに貸してもらおうとしたら、ダンナは「いらないよ」とかいって貸してくれなかっため、連絡もとれない。仕方ないので公衆電話を探して
私「飛行機のチケット忘れた。現場でかけあってみるから、JALかANAかだけでも教えろ」といったら
ダンナ「JAL」
羽田空港駅はJALとANAでターミナルがちがう。自分ののっていた乗車位置がANA側だったので、JAL側に走る。カウンターにつくと、券の再発行のカウンターに並べという。で、聞くと私の名前がないという。隣に座るはずのルントクさんの名前もない。もしやと思い、もう家に一度をかけてみると
ダンナ「ごめんANAだった」
ANAは35分発なのにすでに15分過ぎている。
私「ゴルァ、もう出発時間十五分きっとるわい。どれだけターミナル離れていると思っているんだ。もうだめかもしれん」と怒鳴って、電話をたたっ切って走る。鬼の行相で走ったよ。
ANAのカウンターについて、ダメモトで「切符忘れました。高知です。何とかのせてください」とANAのおねいちゃんにすがりつく。たぶんここでもう25分すぎてた。
「ご案内十五分をきっておりご案内はしめきっています。一応確認がとれましたのでチケットはだしますが搭乗口が70と遠いので、乗れない可能性もありますがそれでもよろしいですか」といわれたので
私「走ります」
で、自分走ったね。全速で。搭乗口70は本当に遠かった。
ぜいぜいいいながら席に着くと隣のルントクさんが
ルントクさん「先生もうこないかと思ってましたよ」
私「私も今ここにいるのが奇跡としか思えません。チケット忘れた上に、間違ってJAlのカウンターにいってたんですよ」
ルントクさん「ああ、ターミナル違いますもんね。私四国二回目ですが、この前にきたとき飛行機乗り遅れたんですよ。チケット忘れたこともありますははは」
私「じゃあ自分幸運でしたね。」
レベルの低い会話だ。
で、帰りはJALだったんだけど、同じようにチケット忘れたにもかかわらず、ANAではすぐにだしくれたチケットがJALではその場でチケットを買いなおしさせられ、あとで払い戻すというシステム。420円の手数料もとられる。ANAにくらべJALは融通が利かないときいていたが、たしかにそう。その場で本人確認して再発行すれば、事務手続きもへるのに。だから赤字になるんだと納得。
話を戻して、行きの機内。ルントクさんと対談の打ち合わせをしようとしたら、ルントクさんは「まあでたとこでいきましょう」みたいな感じなので、もっぱらチベット界ウラ話に花を咲かす(くろっ)。
で、高知は龍馬空港につく。会場はあの文殊菩薩の聖地五台山の日本版、竹林寺。ちゃんと山の上にある。最初は亡命政府製作の、チベットのいろいろを簡潔にまとめた映画「慈悲を生きる」、そのあと高知出身の写真家の中島建藏さんのおはなし。カイラスとかアリとかトディンとかの西チベット、デチェンなどの東チベット、つい最近も東チベットのカワカポ(梅里雪山)にまでいらっしゃっている方である。
そのあと、自分の講演。「ダライ・ラマとチベット文化て何てマーベラス」という内容で、次がルントクさんが、チベットの現状と環境を語る。漢人がどんどんなだれこんでラサにチベット人の居場所がなくなっている、何の自由もない、チベット人に対する監視が強まり亡命者の数もへっている、もう本土で何が行われているか分からない、というくらーい話。
そしてワタクシの黒い司会により、三人で座談会。
私「あの僧院のすごいカリキュラムを最後までこなしたチベット人の坊さんは頭もいいし、人格も完成されているし、本当にみるからにすごいでんすよね。僧院に千人いれば一人か二人はものすごいお坊さんがいますよね、もちろん修行に落ちこぼれてダメダメな人もたくさんいるけど、それでも全体にレベルは高いですよね」
中島氏「14才くらいのチベット人のお坊さんに漢人がわざと足をひっかけて転ばせてつばはきかけたことがあって、私は怒ったんですけど、その子たった14才なのに耐えているんですよ。すごい人間ができていると思いました。チベット旅していると漢人がチベット人をいじめるそういう場面を本当によく目にするんですが、チベット人はよく我慢をしています」
私「漢人が悪いというよりは、政府の教育が悪いんですよね。中国政府は漢人に『チベット人にあれだけいろいろしてやったのに感謝しない恩知らず』とかそんな考え方ばかりを繰り返しすり込みますからね。」
中島氏「四川省でNHKテレビみていたら中国政府にとってみせたくない映像が流れる時はLIVE映像がきれるんですよ。だから中国の人は我々と同じような情報をもっていて同じように考えていると思ったらマチガイなんですよね。いろいろなことを知らされていませんよ。知り合いの日本人に通信機器の会社に勤めている人がいて、中国に雇われてポタラ宮の内部を盗聴するシステムをつくらされたそうです。もちろんその人は現地でそれをしっていやになってやめたそうです。」
日本の最新技術はチベット人管理に用いられているらしい。
てな方向に話がどんどこいくと、聴衆の一人が発言したいという。あー、中国シンパの人からの抗議かなと一瞬思ったけど杞憂で
聴衆の一人「中国がラダックやアルナチャル・プラデーシュの国境を侵犯して、赤いペンキまいたりしてるんですが、インドではこれブレーキングニュースで流れて、インドの友人は本当に第三次世界大戦を心配しているんですよ。でもこれって日本国内ではまったくニュースになっていませんよね。NHKがjapanデビュー(先に台本つくって映像をはめこむというすごい作品でそのストーリーは明らかに中国より)で抗議をうけて毎日千人規模のデモをかけられていた時も、そのュースを全然マスコミは流さない。善光寺のリレーの時も逮捕者は日本人とチベット人だけ。あれだけ中国人留学生が好き放題しても一人も中国人からは一人も逮捕者なし。日本はもう中国の一部なんですよ」との発言。
ははははは。この流れはもう笑うしかない。
ルントクさん「中国がチベットを占領したので、中国とインドが接するようになってこうなるのです。ダライ・ラマがこんどアルナチャル・プラデーシュ州を訪問する予定ですが、中国は〔中国領だから〕行くなといっています。中国はこうして他国にいろいろな圧力をかけますが、脅しに屈して引き下がる方が、相手をより傲慢にさせることになります。 彼らはこちらが断固ととして主張すれば引き下がります。自分たちに理がないことを知っていますから。それとチベット事情をよく知っている人が主張することには決してゴリ押しをしません。自分たちが後ろ暗い証拠です。
チベットに中国がやってきた時も、最初はいいことばかりいいました。チベットの発展に力を貸す、チベット人を助けたい、そして、それが終わったら出て行くと。それを信じたら今は丸裸です。日本もそうならないようにしてください。
私の言うことを信じなくてもいいです。両方の言い分を聞いて、自分の頭で考えてください。そうしたら分かるはずです」
私「孫子の兵法とか読まないといけませんよねー」(こらこら司会だろ)
てなわけで、まあ楽しく盛り上がって、そのあとご住職にご案内していただいて本尊様にお参りをする。聞けば、50年に一度のご開帳があと五年後だという。
私が「ガンで死ぬか、暗殺されるかしてなければ、五年後お参りにきます」というと
ご住職「先生なら55年後もいけますよ」
ご住職さま羊羹ありがとうございました。とあるサポーターの方、お茶や餅ありがとうございました。
Long Liveオ・バ・マ!
とある出版社におつとめしている卒業生に頼まれていた本をやっと脱稿した。この前、終わったといったのは「本論を入稿した」という意味であり、本当に終わったのは今日。しかし、次の仕事がつまっているので全然達成感なし。
自分にご褒美(なんかもの悲しいこの言葉って)と思ってビール(小)くらい飲もうかと思うが、最近つきあいの時しかお酒を飲まなくなった結果、すっかり弱くなってしまい、お酒=褒美にならんのでやめる。あー自分でいってて辛気くさい。
今度私の本を出しくれる卒業生は卒業してもう六年くらいたつのだけど、去年突然連絡をくれて、「今年四月から●×出版社につとめました。もし可能なら先生の本を出したいんですけど」とメールがきた。とりあえず久しぶりだしあってみるかと思って会ってみたら、ものすごく日に焼けている。
まだ入社して間もないから、きっといろいろな本屋さんに営業かけさせられて外回りの営業日焼けだろうな、転職したての新しい職場もなじむのは大変だろうな、といたく同情し、「うん、やる」っていっちゃった。で、それから何度か打ち合わせとかで会ううちに、日焼けは趣味のサーフィンによるものと判明(笑)。あのときの同情を返せ。
まあ、本はとても面白いものに仕上がったので、できあがったらこのブログでも紹介しますね。
で、ボルネオから生きて帰ってきたMが、「オバマさんノーベル賞とったのにブログ沈黙していますね」とメールしてくる。彼の性格から察するに「あれだけオバマさんアゲてたのに、ダライ・ラマに対する表敬訪問延期しただけでもう嫌いになったんかい」と言外にいってる気がしたので(ちょっとはそう思ったけど 笑)、気を取り直して、
オバマさんノーベル平和賞受賞、おめでとうございます。
彼の受賞に対する批判の大半は「平和をまだ実現していない」「アフガンでは戦線拡大したやんけ」ということであろうが、後者はたしかに問題であるが、前者については批判の根拠とはなりえないと思う。
その理由を述べるために20年前にさかのぼってみましょう。
20年前の1989年、ベルリンの壁が崩れ、東欧の民主化が劇的に進んだあの年、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞した。
その時の朝日新聞の社説は例によってすごかった。おおざっぱにいうと
「ダライ・ラマにノーベル賞あげると中国が怒る。中国が怒ったら平和がなくなる。ノーベル平和賞が対立の原因をつくるのはいかがなものか」
なんでしょう、このどうしようもなさは。だって朝日のいっていることはこういうことなんですよ、奥さん。
ある雪の国に聖王が住んでいました。そこに東の国から乱暴な王が軍隊を率いて攻め込んできました。聖王は民が傷つかないように、王位を捨てて南の国に逃げました。乱暴な王は雪の国を自分のものにしてしまいました。
聖王を愛する雪の国の民は、東の国の王の支配を嫌い、多くの民が聖王のあとをおって南の国に逃げました。聖王はその民に向かって、「敵を恨んではならない。もっとも恐ろしいのは国を奪われることよりも人としての心を失うことである。国を失ったことによりみなは強くなった。自分がタフになれたことは乱暴な王が国を奪ったおかげ、忍耐を修行させてくれたと感謝しなさい」と言い聞かせた(ジャータカ中に「長寿王の忍耐」という似たエピソードがある)。
そして世界中をかけまわって資金をあつめ、難民たちの生活を支え、それどころか、自分のもっている心を安定させるテクニックを一人でも多くの人とわかちあおうと世界に向かって教えを説き始めた。世界の人々はこの聖王のたぐいまれなる人格に感銘を受け彼の中に真の人のありかたを見いだした。
一方、雪の国を支配する粗暴な王は、自分の行いの正統性のなさを重々承知していたため、ひたすら過剰防衛となり、エゲツナイ同化政策を敢行し、聖王の訪問する先々の国にありとあらゆる圧力をかけて聖王を邪険にするように命令しました。
聖王は粗暴な王が自分に対してどのような罵詈雑言をなげつけようとも、行く先々でどんな不条理な扱いを受けようとも、日本に入国するときにイミグレーションに並ばされようともまったく気にすることがありませんでした。そして、エゴを抑えるべきこと、他者を尊重すること、一人一人の心の武装解除こそが集団の武装解除につながると、説き続けました。
はい、このような聖王こそまさに平和賞にふさわしい方だと思いませんか。
聖王の言葉は多くの人に希望と気づきを与え、その意識を変えてきた。それが平和賞の受賞理由となっているのであり、彼の責任ではない「今目の前で実現していない平和」を持ち出して受賞にケチをつけるのは、ましてや、粗暴な東の国の王のゴキゲンをとるために受賞にケチをつけるとは「平和賞の意味をほんとにわかっているのか」と小一時間といつめたい。
非暴力の中道思想は目の前の暴力に対しては無力でも、長い目でみれば社会の体質改善を促し、長期的には平和に貢献する思想である。ガンディー(ノーベル賞を三回辞退)も、キング牧師も生きている間に完全な平和は実現できなかったけど、彼らが偉大な聖者であったことはよほど顛倒したものの考えをする人以外は認めるところであろう。
彼らが生きている間に平和を実現できなかったのは、もちろん彼らの責任ではなく、事態がこじれすぎていて、彼らの理念がいくらすばらしくとも、それを実行できるだけの環境がととのわなかったというだけのことである。彼らの行動自体はどこからみても正しい。
非暴力思想は保守派からは過激と言われ、過激派からはぬるいと言われ、両サイドから攻撃をうける孤独なスタンスなのである。オバマさんも今、両サイドからたたかれているが、この両サイドからたたかれていることが彼が中道であることの証ともいえる。何より彼は命をはっている。
対立している人たちの間に入り、対話をよびかけることはその両サイドからうらまれる損な役回りで、文字通り命がけである。ではオバマさんはなぜ自分の命を危険にさらしてまで対話を説くのか。「ならずもの国家は相手にせん、ごたごたいうとミサイルぶっぱなすぞー」といってれば少なくとも共和党の支持は得られてアメリカ経済がはたんしようが、世界が混迷しようが命は全うできるのに。
それはオバマさんが非暴力中道こそが真理であるとよく分かっているから。暴力による暴力の抑止は結局は暴力に帰結するのみであることは世界史が証明している。暴力の連鎖を終わりにするためには、それこそ対立する双方の指導者、その国民一人一人の意識の改革を行うしか解決の道はない。それには人々に希望を持たせるような、言葉とパワーをもつ人の存在が必要である。キング牧師やガンディーやオバマはまさにそのような言葉をもつ人たちであった。高潔な人は真理のためには自分の命をも捨てることができるのである。
その自己犠牲の献身によっても賞せられてしかるべきだと思う。
冷戦を終わらせたレーガンも受賞していないのに、なぜオバマがもらう、とのコメントが某卒業生よりついたが、冷戦はレーガンの力で終わったのではなく、ソ連の経済の破綻とゴルバチョフの英断によっておわったのである。しつこいようだけど、レーガンはゴルバチョフが1986年1月15日に行った核廃絶構想を10月11日のレイキャビクの首脳会談で却下したのである。これだけみてもこの男、平和賞の名に値しないことは明かである。
ゴルバチョフもサハロフもノーベル平和賞の受賞者にはみな共通する真理への献身と知的な「品格」がある。ヨーロッパの諸国は概してオバマさんの受賞に好意的なエールを送っている。でオバマさんの受賞に対して微妙な発言をしているのは、イラン、アメリカの共和党、日本などのこれまた微妙な国家群である。
命をかけて人類のために献身している人を「理想主義者」といって冷笑するような人には少なくともノーベル賞をかたる資格はない。この賞は自己を犠牲にしても愛を信じる菩薩たちに与えられるものなのである(そうでない年もあるけどね)。
自分にご褒美(なんかもの悲しいこの言葉って)と思ってビール(小)くらい飲もうかと思うが、最近つきあいの時しかお酒を飲まなくなった結果、すっかり弱くなってしまい、お酒=褒美にならんのでやめる。あー自分でいってて辛気くさい。
今度私の本を出しくれる卒業生は卒業してもう六年くらいたつのだけど、去年突然連絡をくれて、「今年四月から●×出版社につとめました。もし可能なら先生の本を出したいんですけど」とメールがきた。とりあえず久しぶりだしあってみるかと思って会ってみたら、ものすごく日に焼けている。
まだ入社して間もないから、きっといろいろな本屋さんに営業かけさせられて外回りの営業日焼けだろうな、転職したての新しい職場もなじむのは大変だろうな、といたく同情し、「うん、やる」っていっちゃった。で、それから何度か打ち合わせとかで会ううちに、日焼けは趣味のサーフィンによるものと判明(笑)。あのときの同情を返せ。
まあ、本はとても面白いものに仕上がったので、できあがったらこのブログでも紹介しますね。
で、ボルネオから生きて帰ってきたMが、「オバマさんノーベル賞とったのにブログ沈黙していますね」とメールしてくる。彼の性格から察するに「あれだけオバマさんアゲてたのに、ダライ・ラマに対する表敬訪問延期しただけでもう嫌いになったんかい」と言外にいってる気がしたので(ちょっとはそう思ったけど 笑)、気を取り直して、
オバマさんノーベル平和賞受賞、おめでとうございます。
彼の受賞に対する批判の大半は「平和をまだ実現していない」「アフガンでは戦線拡大したやんけ」ということであろうが、後者はたしかに問題であるが、前者については批判の根拠とはなりえないと思う。
その理由を述べるために20年前にさかのぼってみましょう。
20年前の1989年、ベルリンの壁が崩れ、東欧の民主化が劇的に進んだあの年、ダライ・ラマ14世がノーベル平和賞を受賞した。
その時の朝日新聞の社説は例によってすごかった。おおざっぱにいうと
「ダライ・ラマにノーベル賞あげると中国が怒る。中国が怒ったら平和がなくなる。ノーベル平和賞が対立の原因をつくるのはいかがなものか」
なんでしょう、このどうしようもなさは。だって朝日のいっていることはこういうことなんですよ、奥さん。
ある雪の国に聖王が住んでいました。そこに東の国から乱暴な王が軍隊を率いて攻め込んできました。聖王は民が傷つかないように、王位を捨てて南の国に逃げました。乱暴な王は雪の国を自分のものにしてしまいました。
聖王を愛する雪の国の民は、東の国の王の支配を嫌い、多くの民が聖王のあとをおって南の国に逃げました。聖王はその民に向かって、「敵を恨んではならない。もっとも恐ろしいのは国を奪われることよりも人としての心を失うことである。国を失ったことによりみなは強くなった。自分がタフになれたことは乱暴な王が国を奪ったおかげ、忍耐を修行させてくれたと感謝しなさい」と言い聞かせた(ジャータカ中に「長寿王の忍耐」という似たエピソードがある)。
そして世界中をかけまわって資金をあつめ、難民たちの生活を支え、それどころか、自分のもっている心を安定させるテクニックを一人でも多くの人とわかちあおうと世界に向かって教えを説き始めた。世界の人々はこの聖王のたぐいまれなる人格に感銘を受け彼の中に真の人のありかたを見いだした。
一方、雪の国を支配する粗暴な王は、自分の行いの正統性のなさを重々承知していたため、ひたすら過剰防衛となり、エゲツナイ同化政策を敢行し、聖王の訪問する先々の国にありとあらゆる圧力をかけて聖王を邪険にするように命令しました。
聖王は粗暴な王が自分に対してどのような罵詈雑言をなげつけようとも、行く先々でどんな不条理な扱いを受けようとも、日本に入国するときにイミグレーションに並ばされようともまったく気にすることがありませんでした。そして、エゴを抑えるべきこと、他者を尊重すること、一人一人の心の武装解除こそが集団の武装解除につながると、説き続けました。
はい、このような聖王こそまさに平和賞にふさわしい方だと思いませんか。
聖王の言葉は多くの人に希望と気づきを与え、その意識を変えてきた。それが平和賞の受賞理由となっているのであり、彼の責任ではない「今目の前で実現していない平和」を持ち出して受賞にケチをつけるのは、ましてや、粗暴な東の国の王のゴキゲンをとるために受賞にケチをつけるとは「平和賞の意味をほんとにわかっているのか」と小一時間といつめたい。
非暴力の中道思想は目の前の暴力に対しては無力でも、長い目でみれば社会の体質改善を促し、長期的には平和に貢献する思想である。ガンディー(ノーベル賞を三回辞退)も、キング牧師も生きている間に完全な平和は実現できなかったけど、彼らが偉大な聖者であったことはよほど顛倒したものの考えをする人以外は認めるところであろう。
彼らが生きている間に平和を実現できなかったのは、もちろん彼らの責任ではなく、事態がこじれすぎていて、彼らの理念がいくらすばらしくとも、それを実行できるだけの環境がととのわなかったというだけのことである。彼らの行動自体はどこからみても正しい。
非暴力思想は保守派からは過激と言われ、過激派からはぬるいと言われ、両サイドから攻撃をうける孤独なスタンスなのである。オバマさんも今、両サイドからたたかれているが、この両サイドからたたかれていることが彼が中道であることの証ともいえる。何より彼は命をはっている。
対立している人たちの間に入り、対話をよびかけることはその両サイドからうらまれる損な役回りで、文字通り命がけである。ではオバマさんはなぜ自分の命を危険にさらしてまで対話を説くのか。「ならずもの国家は相手にせん、ごたごたいうとミサイルぶっぱなすぞー」といってれば少なくとも共和党の支持は得られてアメリカ経済がはたんしようが、世界が混迷しようが命は全うできるのに。
それはオバマさんが非暴力中道こそが真理であるとよく分かっているから。暴力による暴力の抑止は結局は暴力に帰結するのみであることは世界史が証明している。暴力の連鎖を終わりにするためには、それこそ対立する双方の指導者、その国民一人一人の意識の改革を行うしか解決の道はない。それには人々に希望を持たせるような、言葉とパワーをもつ人の存在が必要である。キング牧師やガンディーやオバマはまさにそのような言葉をもつ人たちであった。高潔な人は真理のためには自分の命をも捨てることができるのである。
その自己犠牲の献身によっても賞せられてしかるべきだと思う。
冷戦を終わらせたレーガンも受賞していないのに、なぜオバマがもらう、とのコメントが某卒業生よりついたが、冷戦はレーガンの力で終わったのではなく、ソ連の経済の破綻とゴルバチョフの英断によっておわったのである。しつこいようだけど、レーガンはゴルバチョフが1986年1月15日に行った核廃絶構想を10月11日のレイキャビクの首脳会談で却下したのである。これだけみてもこの男、平和賞の名に値しないことは明かである。
ゴルバチョフもサハロフもノーベル平和賞の受賞者にはみな共通する真理への献身と知的な「品格」がある。ヨーロッパの諸国は概してオバマさんの受賞に好意的なエールを送っている。でオバマさんの受賞に対して微妙な発言をしているのは、イラン、アメリカの共和党、日本などのこれまた微妙な国家群である。
命をかけて人類のために献身している人を「理想主義者」といって冷笑するような人には少なくともノーベル賞をかたる資格はない。この賞は自己を犠牲にしても愛を信じる菩薩たちに与えられるものなのである(そうでない年もあるけどね)。
真実の光賞
王力雄さんとダライ・ラマ法王がワシントンで会見しました。そのニュースがパユル(チベットニュースサイトチベット語で「祖国」っていう意味よ)に出ましたが、全訳する時間がないので、例によって、ラフに訳します。正確にしりたいかたはソースはっときます。
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=25681&article=Chinese+writer+embraces+Dalai+Lama%2c+seeks+dialogue%3a+update
昨年、国際人権デーにあわせて勇気ある中国の知識人308人が、中国に民主化と連邦制を実現することを訴える「零八憲章」を発表した。
この憲章の呼びかけ人の一人である中国の作家王力雄さんが、アメリカに今いってて、人権賞を受賞するためにワシントンに滞在中のダライ・ラマ法王と会見した。
王力雄さんはあのウーセルさんのご主人である。
ウーセルさんといえばチベット人の有名な詩人で、父上が文革時代のチベットでとった写真を『殺劫』(この題名はチベット語で革命を意味するサージェは中国語だと殺劫と同音になるという皮肉をこめている 笑)という写真集にして夫君とともに発表された方であり、去年チベットが蜂起したあと、彼女のブログはチベット内部で起きている中国の弾圧を北京から告発し続けたため、全世界からアクセス殺到した。
ま、このようなウーセルさんや王力雄さんにチベット・サポーターに贈られる最高の栄誉ある賞「真実の光」(The Light of Truth Award)賞をダライ・ラマが贈ろうというわけで会見とあいなったわけである。
この賞、リチャード・ギアがチェアマンをつとめるチベット国際運動(International Campaign for Tibet)が、チベット問題を世界にむけて啓発した人に対してだすもので、過去、リチャード・ブラム、マーティン・スコセッシ、ツツ大主教とかそうそうたるメンバーが受賞しております。権威ある賞です。
賞品はチベットのバターランプ(マルメ)一個だけど(笑)。
いいの象徴なんだから。
で、ワシントンにいらっしゃるダライ・ラマの講演会場に王力雄さんもお見えになられてて、講演会後、ワシントンの中華料理屋さんでダライ・ラマと王さん二人は長い抱擁を交わした。で、王さんこういった。
王力雄「零八憲章にサインした人たちは中国政府は反中国と言いましたが、反対です。私は中国を愛しています。中国を愛することは政府を愛することではありません。あえて政府を批判することが中国のためなのです。批判を受け入れることのできない政府はただ中国に害をなします。」
ここでスタンディング・オベーションがあったみたい。うおおおお。
王さん続けます。
「中国の嘘八百のプロパガンダと報道管制は大半の中国人が、ダライラマが非暴力で中道のアプローチでチベット人に権利を求めていること理解させないようにしています。これは長い目でみてチベット問題を解決する障害です。この障害を取り除くことが中国の知識人の使命なのです。というのも、真実よりも偉大な智慧はないからです。」
王さんは最近のウイグル問題にも触れて
「全体主義は抑圧をします。一方抑圧は民主主義によって弱体化します。」
ダライ・ラマ法王は王さんの勇気を称えて、こういいました。
「中国のプロパガンダは悲しいことにチベット人やとくにダライ・ラマを悪魔とよび、西洋の反中国勢力といいいます。もちろん全然違います。わたしはいつもサポーターにこういっています。わたしはチベット人に与しているのではない、正義に与しているのだ、非暴力に与しているのだとね」
今度は個人的に、スタンディング・オベーション うおおおお。
ところで、
これまで18年間、ワシントンを訪れたダライ・ラマは必ずアメリカ大統領の訪問をうけてきたのに、今回はじめてバラク・オバマは合わない決定をしました。公式には否定してますが、訪中前なので中国を刺激しないためと憶測されております。
一応ダラムサラに大統領の特使を送って礼を尽くして状況は説明しているので、チベット政府はまあいいやといっているようだけど、もし今回の訪中でオバマさんが中国からチベット問題に関して何ら前向きな態度をひきだせないと、全世界のチベット・サポーターから「あーあ」て言われちゃうんよ。オバマさん勝負所!
ちなみに、この記事の最後に
リチャード・ギア曰く「われわれの大統領がすばらしい文章を起草し署名した300人の中国人たちの勇気と智慧をみならうように希望する」となかなかなコメントを出してます。
がんばれ、オバマさん。観音菩薩を五十年間悪魔と言い続けている中国政府が、菩薩オバマに対してどうふるまうか、オバマさん、孫子の兵法読んで備えるんだよ(これ読むとホントうんざりするよ)!
http://www.phayul.com/news/article.aspx?id=25681&article=Chinese+writer+embraces+Dalai+Lama%2c+seeks+dialogue%3a+update
昨年、国際人権デーにあわせて勇気ある中国の知識人308人が、中国に民主化と連邦制を実現することを訴える「零八憲章」を発表した。
この憲章の呼びかけ人の一人である中国の作家王力雄さんが、アメリカに今いってて、人権賞を受賞するためにワシントンに滞在中のダライ・ラマ法王と会見した。
王力雄さんはあのウーセルさんのご主人である。
ウーセルさんといえばチベット人の有名な詩人で、父上が文革時代のチベットでとった写真を『殺劫』(この題名はチベット語で革命を意味するサージェは中国語だと殺劫と同音になるという皮肉をこめている 笑)という写真集にして夫君とともに発表された方であり、去年チベットが蜂起したあと、彼女のブログはチベット内部で起きている中国の弾圧を北京から告発し続けたため、全世界からアクセス殺到した。
ま、このようなウーセルさんや王力雄さんにチベット・サポーターに贈られる最高の栄誉ある賞「真実の光」(The Light of Truth Award)賞をダライ・ラマが贈ろうというわけで会見とあいなったわけである。
この賞、リチャード・ギアがチェアマンをつとめるチベット国際運動(International Campaign for Tibet)が、チベット問題を世界にむけて啓発した人に対してだすもので、過去、リチャード・ブラム、マーティン・スコセッシ、ツツ大主教とかそうそうたるメンバーが受賞しております。権威ある賞です。
賞品はチベットのバターランプ(マルメ)一個だけど(笑)。
いいの象徴なんだから。
で、ワシントンにいらっしゃるダライ・ラマの講演会場に王力雄さんもお見えになられてて、講演会後、ワシントンの中華料理屋さんでダライ・ラマと王さん二人は長い抱擁を交わした。で、王さんこういった。
王力雄「零八憲章にサインした人たちは中国政府は反中国と言いましたが、反対です。私は中国を愛しています。中国を愛することは政府を愛することではありません。あえて政府を批判することが中国のためなのです。批判を受け入れることのできない政府はただ中国に害をなします。」
ここでスタンディング・オベーションがあったみたい。うおおおお。
王さん続けます。
「中国の嘘八百のプロパガンダと報道管制は大半の中国人が、ダライラマが非暴力で中道のアプローチでチベット人に権利を求めていること理解させないようにしています。これは長い目でみてチベット問題を解決する障害です。この障害を取り除くことが中国の知識人の使命なのです。というのも、真実よりも偉大な智慧はないからです。」
王さんは最近のウイグル問題にも触れて
「全体主義は抑圧をします。一方抑圧は民主主義によって弱体化します。」
ダライ・ラマ法王は王さんの勇気を称えて、こういいました。
「中国のプロパガンダは悲しいことにチベット人やとくにダライ・ラマを悪魔とよび、西洋の反中国勢力といいいます。もちろん全然違います。わたしはいつもサポーターにこういっています。わたしはチベット人に与しているのではない、正義に与しているのだ、非暴力に与しているのだとね」
今度は個人的に、スタンディング・オベーション うおおおお。
ところで、
これまで18年間、ワシントンを訪れたダライ・ラマは必ずアメリカ大統領の訪問をうけてきたのに、今回はじめてバラク・オバマは合わない決定をしました。公式には否定してますが、訪中前なので中国を刺激しないためと憶測されております。
一応ダラムサラに大統領の特使を送って礼を尽くして状況は説明しているので、チベット政府はまあいいやといっているようだけど、もし今回の訪中でオバマさんが中国からチベット問題に関して何ら前向きな態度をひきだせないと、全世界のチベット・サポーターから「あーあ」て言われちゃうんよ。オバマさん勝負所!
ちなみに、この記事の最後に
リチャード・ギア曰く「われわれの大統領がすばらしい文章を起草し署名した300人の中国人たちの勇気と智慧をみならうように希望する」となかなかなコメントを出してます。
がんばれ、オバマさん。観音菩薩を五十年間悪魔と言い続けている中国政府が、菩薩オバマに対してどうふるまうか、オバマさん、孫子の兵法読んで備えるんだよ(これ読むとホントうんざりするよ)!
実を捨てて名をとる
オリンピックの東京招致が流れて本当にウレシイ。
国際展示場にかかるあの巨大な招致垂れ幕、神社にいくとはためいていたあの招致のぼり、商店街のフラッグ、目にするたびに何の意味があるんだ、いくらかかってんだ、何やったって自分のマインドはかわらんわ。と思っていた。
だいたい、中国人じゃあるまいし東京人はもうサブリミナルやプロパガンダで動くような民度じゃないわ。
このムダに空費された宣伝費用、わたしの払った都税からでてるんですよ。この日記を読んでいる学生諸君には分からないだろうが、納税者になるとこの血の流れるような気持ちわかるはずです。
あー、腹が立つ。腹が立つにはもっとふかーい訳がある。
I都知事、去年の夏北京オリンピックに参加しましたよね。東京の招致を有利にするために北京に行きましたよね。
これって中国を怒らせると東京招致に反対される、あるいは東京オリンピックボイコットされるから、いったってことですよね。
でもそれって、
マスコミが中国を怒らせると中国取材ができなくなるから、~ry
中国と商売してる会社が、中国を怒らせると不買運動をおこされたり、いやがらせをされたりするから ~ry
とかいうのと同じ思考法ですよね。相手のやっていることの是非はおいといてただ現場で仕事をまわすためだけに、もっと大きな大事なものを失っているのに気がつかないと。
ダライ・ラマ法王は北京でオリンピックを行うことは中国が海外の目を気にするようになるからいいことだといって賛成していたけど、要人のオリンピック参加には必ずしも賛成していなかった。
だって、それ中国のメンツをたてるしか意味のない行動だもの。
で、I知事は北京オリンピックに参加したことによって、中国のメンツをたてたわけで、彼自身は名を下げたわけである。
オリンピックを招致するために、会社を維持するために、取材をつづけるために、中国のいいなりになる時、会社の社会的責任とか、報道の道義とかもっと大局から見て重要なものを失っていることに気づかねば。これって重要よ、あまりに目先のことばかりみて、人に言えないようなひそひそ話しばかりしていると、結局は誰からも尊敬されなくなって軽蔑されるだけ。
じつはワタクシごとなのだが、去年とあるテレビ番組の監修をしてくれと頼まれた。で聞けばもう台本もでてきて映像もできてて、例によって「何かマチガイがないか」だけチェックしてくれ、とのこと(ぷんぷん)。
みると、マチガイだらけだったので、アカ入れしまくってかえした。
そしたら、放送日前日になって、突然放映中止。何かあったなー、と思ったが、案の定中国が「これだめ、こう言え」と口をだしてきたとのこと。
わたしは放送しちゃえばいいじゃん、と思ったのだが、自分たちだけの問題ではなく会社に類が及ぶからできないとのこと。
で、その放送局の偉いところは、がんばりつづけてほとんどもとの台本に戻してくれたこと。しかし、そもそもこの番組の台本つくったのは放送局の人間だし、監修者は中国の某局だし、わたしは事実と違う点をなおしただけ。
何とも釈然としない気分になったので、名前をださなかった。
そしたら、そう決意した瞬間に目の前が開けた。それまでは、まあ放送局もさんざん某国との間で苦労したわけだし、その上で自分が断ったりしたら相手いやな気持ちになるだろうな、とかいろいろ気をつかったんだけど、断った瞬間に、それはもう爽快。
その気持ちよさの原因を追及してみるとこういうことになる。
自分、台本に手をいれることによって番組に一定の品質を保たせ、学者としてのつとめははたした、そして、名前をださなかったことで、某国が口をだしたような作品に協力しなかったというプライドも保てた。
つまり、いろいろ考えたあげく嫌々北京オリンピックの開会式に参加して名前を下げて、さらに翌年結局招致に失敗してまた名を下げるみたいな負のスパイラルにおちこむことを事前に避けたともいえる。
でも問題の本質は、そもそも北京でオリンピックをやる、中国本土のチベットから展示品かりてチベットをやる、あるいは中国側の説明だけ聞いて番組をつくる、とかいうこの部分にある。
上野の森の美術館の展覧会なんて、知り合いの東洋史の先生は美術品が本土からきているのを見ただけで「この展覧会なんかいかがわしい」と私が何も言う前から見抜いていたよ。
かかわったら様々な不条理な目にあうことがわかりきっているのになぜわざわざ関わるのか。
そして関わってその不条理を甘受することは彼らのそのあり方を肯定することになぜ気づかないのか。
ここのところ、文学部で東洋史を希望する学生が激減している。聞けば昨今の中国とか北朝鮮とかの報道を聞くにつけても、あんな国の文化を学ぶきになるかい、みたいなところらしい。一方、キャンパスには年々中国人学生の姿が多くなっていく。
中国に興味をもたない日本人が増えれば、中国語が必要となる職場では必然的に中国人が採用されることになる。で、職場に入り込んだ彼らは一人一人はいい人たちであるから、無邪気に自分たちの受けてきた愛国教育に従って
「チベット族はダライ・ラマの帰還を望んでいないっていってますよ。」とか
「この前の暴動は僧侶が主導してほとんどのチベット族はメイワクだと思っています」とか平気でまわりに語り、それをまた信じちゃう日本のオッサンたちがいるわけだ(実話)
もう一度いいます。彼ら一人一人は悪い人間ではないのです。想像力がたりないだけ。チベット人を暴力で制圧して、ネットも映像も気に入らないと切断して、他人の国の番組内容にまで口だしてくる国で、文化も主体性も自由に考える力も奪われた銃で後ろから脅されている人々が、何を考えているかを想像する頭がないだけ。
ていうことですわ。
なんかいろいろ考えさせられた。ここ二~三週間でした。
国際展示場にかかるあの巨大な招致垂れ幕、神社にいくとはためいていたあの招致のぼり、商店街のフラッグ、目にするたびに何の意味があるんだ、いくらかかってんだ、何やったって自分のマインドはかわらんわ。と思っていた。
だいたい、中国人じゃあるまいし東京人はもうサブリミナルやプロパガンダで動くような民度じゃないわ。
このムダに空費された宣伝費用、わたしの払った都税からでてるんですよ。この日記を読んでいる学生諸君には分からないだろうが、納税者になるとこの血の流れるような気持ちわかるはずです。
あー、腹が立つ。腹が立つにはもっとふかーい訳がある。
I都知事、去年の夏北京オリンピックに参加しましたよね。東京の招致を有利にするために北京に行きましたよね。
これって中国を怒らせると東京招致に反対される、あるいは東京オリンピックボイコットされるから、いったってことですよね。
でもそれって、
マスコミが中国を怒らせると中国取材ができなくなるから、~ry
中国と商売してる会社が、中国を怒らせると不買運動をおこされたり、いやがらせをされたりするから ~ry
とかいうのと同じ思考法ですよね。相手のやっていることの是非はおいといてただ現場で仕事をまわすためだけに、もっと大きな大事なものを失っているのに気がつかないと。
ダライ・ラマ法王は北京でオリンピックを行うことは中国が海外の目を気にするようになるからいいことだといって賛成していたけど、要人のオリンピック参加には必ずしも賛成していなかった。
だって、それ中国のメンツをたてるしか意味のない行動だもの。
で、I知事は北京オリンピックに参加したことによって、中国のメンツをたてたわけで、彼自身は名を下げたわけである。
オリンピックを招致するために、会社を維持するために、取材をつづけるために、中国のいいなりになる時、会社の社会的責任とか、報道の道義とかもっと大局から見て重要なものを失っていることに気づかねば。これって重要よ、あまりに目先のことばかりみて、人に言えないようなひそひそ話しばかりしていると、結局は誰からも尊敬されなくなって軽蔑されるだけ。
じつはワタクシごとなのだが、去年とあるテレビ番組の監修をしてくれと頼まれた。で聞けばもう台本もでてきて映像もできてて、例によって「何かマチガイがないか」だけチェックしてくれ、とのこと(ぷんぷん)。
みると、マチガイだらけだったので、アカ入れしまくってかえした。
そしたら、放送日前日になって、突然放映中止。何かあったなー、と思ったが、案の定中国が「これだめ、こう言え」と口をだしてきたとのこと。
わたしは放送しちゃえばいいじゃん、と思ったのだが、自分たちだけの問題ではなく会社に類が及ぶからできないとのこと。
で、その放送局の偉いところは、がんばりつづけてほとんどもとの台本に戻してくれたこと。しかし、そもそもこの番組の台本つくったのは放送局の人間だし、監修者は中国の某局だし、わたしは事実と違う点をなおしただけ。
何とも釈然としない気分になったので、名前をださなかった。
そしたら、そう決意した瞬間に目の前が開けた。それまでは、まあ放送局もさんざん某国との間で苦労したわけだし、その上で自分が断ったりしたら相手いやな気持ちになるだろうな、とかいろいろ気をつかったんだけど、断った瞬間に、それはもう爽快。
その気持ちよさの原因を追及してみるとこういうことになる。
自分、台本に手をいれることによって番組に一定の品質を保たせ、学者としてのつとめははたした、そして、名前をださなかったことで、某国が口をだしたような作品に協力しなかったというプライドも保てた。
つまり、いろいろ考えたあげく嫌々北京オリンピックの開会式に参加して名前を下げて、さらに翌年結局招致に失敗してまた名を下げるみたいな負のスパイラルにおちこむことを事前に避けたともいえる。
でも問題の本質は、そもそも北京でオリンピックをやる、中国本土のチベットから展示品かりてチベットをやる、あるいは中国側の説明だけ聞いて番組をつくる、とかいうこの部分にある。
上野の森の美術館の展覧会なんて、知り合いの東洋史の先生は美術品が本土からきているのを見ただけで「この展覧会なんかいかがわしい」と私が何も言う前から見抜いていたよ。
かかわったら様々な不条理な目にあうことがわかりきっているのになぜわざわざ関わるのか。
そして関わってその不条理を甘受することは彼らのそのあり方を肯定することになぜ気づかないのか。
ここのところ、文学部で東洋史を希望する学生が激減している。聞けば昨今の中国とか北朝鮮とかの報道を聞くにつけても、あんな国の文化を学ぶきになるかい、みたいなところらしい。一方、キャンパスには年々中国人学生の姿が多くなっていく。
中国に興味をもたない日本人が増えれば、中国語が必要となる職場では必然的に中国人が採用されることになる。で、職場に入り込んだ彼らは一人一人はいい人たちであるから、無邪気に自分たちの受けてきた愛国教育に従って
「チベット族はダライ・ラマの帰還を望んでいないっていってますよ。」とか
「この前の暴動は僧侶が主導してほとんどのチベット族はメイワクだと思っています」とか平気でまわりに語り、それをまた信じちゃう日本のオッサンたちがいるわけだ(実話)
もう一度いいます。彼ら一人一人は悪い人間ではないのです。想像力がたりないだけ。チベット人を暴力で制圧して、ネットも映像も気に入らないと切断して、他人の国の番組内容にまで口だしてくる国で、文化も主体性も自由に考える力も奪われた銃で後ろから脅されている人々が、何を考えているかを想像する頭がないだけ。
ていうことですわ。
なんかいろいろ考えさせられた。ここ二~三週間でした。
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