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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2009/06/26(金)   CATEGORY: 未分類
ご負担の軽減
火曜日に、ダライラマがチベット難民向けにだしたビデオクリップが、ヤフーニュース(産経新聞配信)にのり、それを見た学生が、一大事のように騒ぐ。

 しかし、この記事、いまだに「活仏」とかいう中国メイドな表現を用語解説までつけてのせているし、チベット事情にうとい人によって書かれた記事であることが一目瞭然である。そこで、元ネタとなったロイターを読んでみた。

 そしたら、内容は別に目新しいものでなかった。

 ダライ・ラマがおっしゃりたいことは、チベット政府を率いていく代表を早く決めろ。それについては、ダライ・ラマ一人が政治と宗教の全責任をもつ今の制度は、過去はうまく機能していたとしても、これからは厳しい。民主主義は小さな欠点はあるものの今のところベストな制度であることは明らかだ。高僧達の中からでも、チベット政府の中からでも適当な代表者を民主的に選んでチベット政府を統率させよう。

つまり、ダライラマ一人がチベットの政治と宗教の全責任を担う「ダライ・ラマ体制」について考え直そうよ、といっているだけ。

 これは普通にいいことだと思う。

 政治についてはいまもサムドン・リンポチェ(2001年に選挙で首相に選ばれて二期目)ががんばって下さっているから、彼に引き続きがんばっていただくとして、宗教については諸宗派に数多いる高僧たちに世界中でガンガン仏教を広めてもらうこととする。

 政治と仏教を一人の人間が司るなんてのは確かにもう、猊下のようなスーパーマンでなければムリ。
 高僧のみなさま、政府職員のみなさま、もっと前面にでて、猊下のご負担の肩代わりをしてください(どっかの国でも同じようなことが問題になっとるな 笑)。


 木曜日は厄日だった。駅についてふと気づくとiPodのイヤホンがない。もう一度家までの道をたどって探すがない。

 時間が迫っていたので泣く泣く駅に戻って電車にのる。原宿まできたところで、列車に乗り込んできた人がワタシの本を読む手に軽くぶつかり、本を取り落とした。

 わたしは乗車口付近にいたので、落ちた本は列車とホームの隙間をすりぬけて線路に落ちた。

 人はあせった時に何語が口をつくかによってその本質が分かると言う。私のクチをついたのは、ゲッでも、アイヨー、でも、アイゴーでもなく、

 オーマイガッ!(嘘)

 だって、図書館から借りた本なんだよ! 

 仕方なく原宿で降りて、駅員さんを探すが、無人化のあおりで誰もいねえ。
 しかたないので、有人改札のありそうな原宿口に急ぎ、駅員さんに訴えると、駅員さんはお茶の間ショッピングで売ってる高枝切りばさみの先をマジックハンドにかえたようなもので、本をとってくれた。

 長い人生、線路にものを落としたのはコレがはじめて、トホホである。
 ゼミ生にこれを話すと「そういう日は何もしないで家で寝ていた方がいい」と言われる。

 私も「なんかただ立っているだけでも、上から金ダライがおちてきそう」なので、大学が終わったらまっすぐ帰る。地元駅をでたら、駅からすぐの交差点の上に、あれだけ探してもなかったイヤホンがおちていた。

 一日車にひかれてぺちゃんこになっていた。アップル製品を心の底から愛する旦那がみたらさぞ胸をいためることだろう。供養のため拾って家にもってかえる。

 ダンナに電話をしたら、アマゾンで新しいイヤホンをかえ、とURLをはってきた、三千ナンボもする。

 イヤホンって結構高いのね。まあいいけど。
 たまには日本の消費に貢献しないとね。と自分を慰める。
 
 そしたら、金曜日、起きるなりテレビがマイケル・ジャクソンが死んだといってる。マイケルの全盛期に青春を送った身としては、ファンであるとかないとかいう以前に彼は「一つの時代」であった。

 そのため、授業の準備をせにゃならんのに、Youtube で Thriller とか Beat itとかのPVに見いる。必然的に現代史研究の授業は今、アフリカをやっているのをいいことに、
独断と偏見により、最初の十分をマイケルに捧げます」とWe are the Worldの映像などをみせて、彼の利他的な側面を説き「彼はただのヘンタイでない(笑)」ことを強調する。

 そう、レイ・チャールズ、ビリー・ジョエル、ボブ・ディラン、スティービーワンダー、ポール・サイモン、ティナ・ターナー、シンディー・ローパーなど大御所アーチストを力ワザで40人もあつめて、歌われたあの名曲はマイケルが作ったものなのである。

 しかし、七十年代、八十年代はいい音楽が流れた時代であったのう。
 この時代のBand Aidなどのチャリティ映像は見ているだけで、明るい前向きな気分になれる。まだ、チャリティを偽善とか無意味とかいうような人たちもいなかった。

 埋めたビデオクリップ見てね。明るい気持ちになれるよ!
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DATE: 2009/06/22(月)   CATEGORY: 未分類
DVふたたび
日曜午前零時頃、ネットのニュースに「テヘランのデモ隊が武力制圧され少なくとも十一人が射殺された」という一報が流れた。

 昨日からイラン政府は外国マスコミの取材を禁じ、なにかヤラカシそうな感じ満載だったが、ついに、市民に発砲したのである。

 坊さんのデモに発砲したビルマもチベット人に発砲した中国も、今回のイランも、非武装のデモ隊に発砲した時点で、何と言い訳しようとも彼らは人類共通の敵。

 それにしてもテレ朝のサンデープロジェクトはテキトーなことをいっていた。

 曰く「石油の富を貧困層にばらまいたアフマディネジャドが選挙に勝ったのは当然である」(これは暗に選挙結果を受け入れない勢力を非難しているね)。
「ムサビも首相までつとめた体制派なので、最高指導者のデモ禁止令をやぶってまで行うデモには引くだろう」
 「アメリカ大統領のオバマさんは対話路線を打ち出しているから、アフマドを非難するなど強いことはいえまい。それに、強硬派におさえのきくアフマディネジャド氏と話し合った方が実質的な対話ができる」みたいな、解説をしてた。

でも、今流れているニュースによると、ムサビさんは殉教覚悟でデモを支持するといっているし、オバマ氏もイラン政府を非難した。サンプロの予測、一日もたたないうちに全部外れてるやんけ。

 サンプロが予測を思い切りはずした背景には「アフマディネジャドはすくなくとも貧困層に支持されてるんだし、いいじゃん」みたいな予断があったからと思われる。

 しかし、これこそまさに日本人の識者の多くが囚われている宿痾である。

 それは、食い詰まった貧民の暴力には「造反有理」と暖かい視線を送るが、都市民や知識人の自由を求める非暴力闘争には「欧米カブレ」と冷たい反応をとるという宿痾が。

 両者ともに命を捨てて政府に対して蜂起したという事情にはかわりないのに、後者にのみ冷たい態度をとるのはまったく非論理的。ましてや後者の場合については政府は非暴力デモに発砲しているわけだから、より弾圧側の責任が問われるというのに。

 日本では麻生太郎をアホ呼ばわりしようが、自民党を批判しようが、だれも逮捕されることはない。デモに参加しても終われば家にかえってあったかいゴハンが食べられる。

 でも、言論の自由のない国家では、デモにでることは、監獄にぶちこまれること、サイアクの場合死ぬことを意味する。ましてや宗教国家イランにおいて、その最高指導者が「デモをやめろ」といった中でおきた事件である。この状況下で街頭にでた人たちは、悲しいことだがある種の覚悟を決めており、彼らは自分の命とひきかえにしても自由を叫びたかったのである。

 彼らはバラマキ金ほしさにアフマディネジャドに投票した人たちとはまったく異なるレベルの人たちなのである。

 文化や伝統を尊重しながら、国際社会と対話するような穏健な政府がイランにもし生まれることがあるとするなら、それはバラマキ金をあてにするような人々の中からではなく、今テヘランの路上で血を流している人々、その報に接して胸を痛めている人々の中からこそ生まれてくるものであろう。

 非武装の市民や知識人に発砲する政府には、もはや何の正当性もない。フランス、アメリカ、イギリスはみな政府に自重を求めた。日本もいい加減、人権とか欧米とかアホなレッテルはって判断停止するのはやめて、現イラン政府をきちんと批判したれ。

 で、余談ですが、

 6月22日の朝日朝刊の「ひと」コーナーにこの前長野でチベット・スピリチュアル・フェスティバルを主催し、かつチベット仏教の研究者である、長野西方寺の金子英一住職がとりあげられました。

 ほめてのばそう『朝日新聞』
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DATE: 2009/06/18(木)   CATEGORY: 未分類
ウーセル君の肉声
駅から自転車にのると、最初はぽつぽつだった雨が、急に激しくなり、雷はなるわで土砂降りに。家にたどりつく頃にはびちょぬれ。

 着ていたジャケットもうだめかも。今年にはいってからこのびちょぬれもう三回目くらいだけど、普通、雷って春雷とか夕立の時限定だろう。梅雨の最中にふるもんじゃない。これも日米中がCo2をたれながした結果か。

 さて、大乗仏教保護財団(FPMT)の日本トップOさんがリンクはってくださったので、記録までにウーセル君の肉声を和訳しました。例によっていい加減です。

 2009年6月 

親愛なる皆様

 人生の何たるかについて経験を積むことはよいことです。わたしは西洋と東洋の文化を両方体験することができて本当に幸わせでした。この二つの文化において私を助けてくれた全ての人に感謝を捧げたいと思います。インドと西洋の両方において暮らしたことにより、東西両文化を吸収させていただく良い体験となりました。

 インドにおいては運命を受け入れがたかったこともありました。他の人と異なった扱いを受けたり、他の人と距離を感じていましたので。しかし、その体験は本当に良いもので、わたしは今ではこの体験に感謝しています。

しかし、あるメディアがおかしな話をセンセーショナルにでっちあげ、また騒ぎ立てました。このようなニュースに書かれていることは読まないように、文字通りに受け取らないようにしてください。書かれていることすべてを信じないでください。
 
 インタヴューに際して、いかに真摯に誠実に重要な情報を伝えようと試みても、印刷されたものは、大衆の興味をひくためにセンセーショナルなものになっていることはみなも知っているでしょう。

大乗仏教保護財団は偉大な仕事をなしてきました。ソパ・リンポチェ(現在のFPMTの看板ラマ)は非常にすばらしい、人に刺激を与える力をもった方であり、偉大なるヨーガ行者でもあります。

個人的に、私はこれから、人間存在の本質を見つける新しい道を見つけていきたいと思っています。わたしと財団の間には何の対立もありません。いまもあらゆる点、あらゆる領域で一緒に活動しています。人間愛こそわれらの任務です。また、わたしは本当は仏教の研究をする資格がありません。というのもわたしは仏教研究の課程を終えることがなかったからです。なので、一緒に活動すること、これが鍵になると思います。

ので、私は未来の世代のために別の道を見つけようとしています。その道とは、音楽、映画、AV技術を通じてのものです。映画には多くの物語を凝縮することができます。音楽には様々な状況やメッセージを入れることができます。沈んでいく夕日は、ただそれだけで見る者を平和な気もちにさせ、自己を内省する瞬間を与えてくれます。映画にはさらに無限の可能性があります。

 こういうことができるのは映画に限りません。いろいろなところに現実に足を運び、平和を求める道をきわめた人々にインタヴューするドキュメンタリー何かも作ってみたいです。やってみたいことはたくさんあります。

 これが私が今計画していることです。しかし、計画することと、将来現実にどうなるのかはまた別のことです。心の中での将来予測ですが、今のところはこうしたいと思っています。

大きな愛をこめて

ウーセル

 
 この文章を読む限りでは、ウーセル君は「勉強はできないけど、他人に気遣いのできるやさしい大人」に育ってる(笑)。そういえばウセル君の前世とみなされているトゥプテン・イェーシェー師もいわゆる博士号は保持してなかった。そのうえ、僧衣をぬいでジーパンはいて野球帽かぶって外の世界を闊歩するのが好きな人だった。まあこの人の生まれ変わりならウセル君の現状も妥当かも。

 カルムキアで仏教復興にあたっているテロリンポチェも勉強は途中でやめて、結婚して、アメリカン・ロックばっか聞いてるけど、仏教を広める活動は続けているし。

 彼も同じような道を歩むのだろうか。

 というわけで、21世紀チベット仏教界は新種の転生僧を生み出しつつ、発展してんだか、衰退してんだか分からない道を歩んでいるのであったった。
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DATE: 2009/06/13(土)   CATEGORY: 未分類
破天荒
 教育実習にいく学生が今年は非常に多いため、ゼミの参加者が少なくわびしい。ゼミ生は基本、授業を受けるというよりは友達に会いに来るから、参加人数がへると、暇な人まで来なくなる。

 大学生に勉強をさせることは「ラクダを針の穴に通す」より難しいね。

 でも、掲示板に「教育実習でチベットが今どんなに大変かみたいなことを伝えました」なんて学生が二~三人いるのをみると、ああ、学校にはきてなくても、うちのゼミ生なのね、と単純に嬉しい。

 私は中学校の頃、サヨク教育で有名な私立学園に通っていて、友達とか学校生活は好きだったのだけど、何としてもその人民教育になじめなかった。この学園では行事やホームルームばかりに時間を使い、教育のコンセプトはとにかく「みんな一緒」の悪平等。

 できない子にあわせて授業が行われるため、当然生徒の学力はメタメタ。ナイロンザイルの神経をもつ私でもさすがに耐え難く、ほぼ全員が系列校に進級する中、別の高校に逃げた。

 そういう体験があるため、同じ思いを学生にさせたくなく、自分の思想信条を学生に押しつけないようにしている。でも、年に一人~二人はすごく反応のいい学生がいて、そういう子はやはりカワイイし、こうして教育実修でフリー・チベットを教えてます、とか言ってくれたりすると、本当にカワイく感じる。

 ということは、私の中学校の先生は私が可愛くなかっただろうな、と今にして思いいたる(笑)。つか、その後の人生をかけて、あそこで受けた教育に反論しているようなものだし、可愛げないどころではないですな。

 はい、本題。インドにおいて仏教復興運動に取り組んでいる佐々井秀嶺氏が43年?ぶりに帰国していることもあり、彼の伝記『破天』を読んだ。この佐々井氏の人生、題名そのまんま破天荒。小学生の頃から異常に強い性欲とウツに悩まされ、性(笑)と死の間で七転八倒したあげく、流れ流れてインドにたどり着き、カーストにすら入れてもらえない最底辺の人々と出会う。

 このアウト・カーストのひとたちの貧しさは昔からインドの大きな問題で、ガンディーも彼らに対する差別をなくすよう生涯何度も断食を行っている。しかし、この人たちはガンディーはきらいで、アンベードカルを彼らの英雄として尊んでいる。アンベードカルはアウト・カースト出身でコロンビア大学に学び法学博士になって、独立インドの法務大臣になった。

 ガンディーはイギリスの分割統治の罠に陥らないように、特定の階層、特定の宗教、特定の民族にこだわらず、みながエゴを捨てて他者に対して寛容の気持ちをもち、差別なんしちゃいかんよ、と普遍的な立場から人々を諭した(ダライ・ラマ法王もこの立場)。

 しかし、アンベードカルは違った。彼は、とりあえず目の前にある最底辺の人たちの具体的な権利向上を行うため、最底辺の人たちに特価した政治を望んだ。さらにヒンドゥー教を差別の温床とみて、最底辺の人たちをヒンドゥー社会から分離し、仏教に改宗させた。このような行動がいわゆる特定の集団の利益にこだわってインドの団結を阻むようにも見えたため、まあほかの階層からあまりよく思われなかったんですね。

今も、ガンディーはインド独立の父としてインドの大半の国民ならびに世界中から尊敬されているが、アンベードカルはこの特定のカーストの人たちの英雄にとどまっている。普遍対ローカリズム、いつの世にもある対立の構図ですな。

 で、佐々井師はこのアンベードカルの立場にたつものだから、やっぱあらゆるものと対決し孤立する。当時インドにはまともな寺も僧団もなく、ただにわか仕立ての名ばかりの在家の仏教徒がいるばかり。そこで佐々井師はひたすら寺をたて、人々を仏教に改宗させ、ヒンドゥー教徒が管理する仏跡を仏教徒の手に取り戻す運動をはじめる。

 で、そのやり方なんですが、佐々井師は最底辺のひとたちを何万人も動員して、仏教遺跡や首相官邸におしよせて、デモをしたり、座り込んだりして、要求に対する返答がくるまでがんばり続ける。問題なのは、彼が動員する人々は最底辺の人々なので、あまり品格のある運動が展開できないこと。

 インドで仏教が滅びてからうすら千年近くたつため、仏教遺跡の上にはヒンドゥー教の寺院がたっていたりする。佐々井師の動員した人々は彼が制止しないと、このようなヒンドゥーの神様をぶっこわしたり、警察とぶつかったりする。また、みな貧乏なので移動の際に電車賃が払えず、確信犯的な無賃乗車を行う。非暴力運動とは元来、統治者が自分の保身のために作った悪法以外の法は決して破らず、それ以外の法を遵守することによってその悪法の存在を際だたせる戦法なので、無賃乗車や他人の尊重する神像の破壊を行うことがすでに非暴力運動の枠からはみでていることは言うまでもない。

 「永年にわたる差別の結果、彼らは暴力と貧困に囚われている。だからこれくらいは負けとけ」ということなのだろうが、それを言い出すと、彼らと彼らが批判する対象のどっちが被害者かわからなくなってくる。

 また、佐々井師の右腕のアーナンダ師はアグラ戦争をあおり立てたアジテーターだし、左腕の人はバラモンを三人殴り殺して、二丁拳銃を腰にぶち込んでいたガンマン坊主。これが示しているように、佐々井師は思想よりも瞑想よりも行動を重視し、社会運動に力をいれた。当然、上座部仏教とも日本仏教ともうまくいかず、最澄と奈良仏教界、日蓮と既成仏教界みたいな対立がばりばり始まる。

仏教の克己的かつ普遍的な教えは、お釈迦様が王子サマであったことからも明かなように、そもそも上流階級向け。チベット仏教が欧米の知識人と上流階級で理解され、人民中国で排斥されているのもじつはさもありなん。

 日本のような教育のいきとどいた社会もどちらかというとこの克己・禁欲のチベット型仏教が向いているだろう。知識人は人種、宗教、国家の枠を超えた普遍的な言葉を語るもの。でも、社会の最底辺にいる人々は自らの特殊事情を正面にたてて自分の権利のために戦う

 最低限の生活も保障されていないインドの人たちには、日蓮や親鸞や佐々井師のような存在が必要だった。まあ、ただ弱者救済のために、カネのためでも名誉のためでもなく、無欲に戦い続ける佐々井師の後半生の生き方は、僧侶としてとしては議論の分かれるところだと思うが、人としては立派だと思う。
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DATE: 2009/06/09(火)   CATEGORY: 未分類
還俗の悲哀
みなさん、誕生日メールありがとうございました。

 みなさまの清い心により私のドス黒い心もいささかなりと浄化されたような気がします(え? 気のせい?)。じつはチベットの暦で今月はサカダワ月といい、仏さまがお生まれになり、覚りを開き、なくなられた月。一年で一番チベット人の巡礼熱がもりあがる月で、とくに満月の日にした善業はすごくキクそうなので、その日は心穏やかに、まじめに勉強しました。

 ところで、六月三日の人民網に気になるニュースが流れました。あの『チベット 奇跡の転生』(ヴィッキー・マッケンジー)の主人公であるウーセル君(スペイン人)がチベット僧の転生者としての生活を捨てる、とフランスのル・モンド紙に語ったとのこと。

 このウーセル君は大乗仏教保護財団の設立者であるチベット僧トゥプテン・イェシェー師の生まれ変わりとして育てられてきた。難民キャンプに暮らしていたトゥプテン師のテントに、ロマノフ王朝の末裔であるジーナ・ラチェフスキーが訪れて教えをこうたことからはじまる、チベット仏教の西洋伝播の歴史はあまりにも有名である。
 
 トゥプテン・イェーシェー師がなくなった後、西洋人の弟子たちは師の再臨をのぞみ、弟子のスペイン人夫婦の間に生まれた男児が、その転生者と認めらた。

 この男児はウーセルというチベット名がつけられ、インドのチベットの僧院で生活していた。しかし、ここ数年大乗仏教保護財団のホームページには「ウーセル君の近況は本人の希望よりのせられません」みたいな内容が記されていたので、たぶんウーセル君、チベット僧の転生者としていきるのが辛くなってきたんだろうーなー、と思っていたら、案の定これである。

 大会社の跡取りの座を嫌って出奔した御曹司状態やな。

 なぜ中国が喜んでこのニュースを流すのかというと、中国政府は子供の出家とか、子供を転生僧の生まれ変わりとして認定することは、子供の人権を踏みにじることだ、と主張しているため、その主張を裏付けるものとしてこの件を利用するため(さもしい、つか中国が人権を語るのって 笑)。

 わたしはその社会の構成員が必要と思って生み出した制度は、命にかかわるような、あるいは人の良心をまげるような非人道的なものでない限り、その社会の外にいる人間が批判するべきではないと思う。

 そもそも我々の社会にだって、大会社の社長の長男に生まれてその跡を継がねばならない人とか、職人の家に生まれて小さい頃から、親に学歴なんかいらんからわたしの後をつげと言われ続ける子やら、同じジレンマを抱えている人はいる。

 周りが期待するような者になる努力をするか、それをふりきって保証のない未来に突き進むか、どの社会にもこういう立場の人はいるもので人権問題とまではいえまい。

 今の世の中は、何でも選べますから、ウーセル君もこれから自分の好きなように人生を歩んでいくことでしょう。それが幸せなものになるかどうかは本人の能力と意思と選択次第ですが。そいえば前世のトゥプテン・イェーシェー師も初期のお坊さん難民としてはめずらしく、外の世界に対する好奇心が旺盛で、さまざまな形式を無視していった人だった。だから、ウーセル君がこういう顛末になってもまああの前世ならありうるか、と前世からつきあいのある人は思っているのではないか。

 ウーセル君はスペイン人だからまあありうる話だけど、チベット人のお坊さんでも成年に達して好きな女性ができると、結婚するために還俗するなんてことはままある。しかし、チベット仏教では一度還俗した人はもう一度僧院に戻ろうとしても戻ることはできない。残りの人生はずっと俗人として過ごすこととなる。

 貧しいとはいえ三度のごはんが保証され、社会的にも安定した身分である僧院生活とは異なり、外の世界は厳しい。食べていくためには何でもやらなければならない。時には「ああ、あのままお坊さんをやっていたら今はどうだっただろう」「静かに瞑想したり勉強したりしたい」みたいな考えもアタマをよぎるかもしれない(とくに老後)。

 そう、自由は必ずしも人を幸せにしない。欲望を充足させること、怒りを野に放つことは一時の感覚的な幸せを運んできても、永続する幸せを保証しない。俗世の幸せの耐久時間は本当に一瞬。
 
 何にせよ、仏教は古来チベットの基幹産業なのだから、そこそこ優秀なアタマをもっているなら、還俗しない方がやりがいのある人生を過ごすことができよう。若い頃は勉強して修業して、中年になって名前があがったら、弟子を育て、世界中の施主に法を説く。ダライ・ラマ法王も十五で即位し、二十四で国を失いド修羅場の中で見事に成長していった。

 転生のあるなしは置いといて、これも人格者を作り上げる一つの文化と言えよう。

 若いうちには遠い覚りの境地よりも、手のとどく幸せが輝いて見えるかも知れない。しかし、そこで簡単に後者を選ぶと、前者は手に入らない。含蓄がありますな。

 ウーセル君が自由の代価につぶされないことを祈る。
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DATE: 2009/06/06(土)   CATEGORY: 未分類
6.4の風景
 教育実習やら就活やらでゼミに出席する学生が少ない。ゼミが終わったあと、五年(六年?)のMがきた。

M「先生、今日天安門ですねー」

私「なんか、たまたま(笑)チベット旗持っているし、せっかくだからここにいる人だけでもチベット旗もって六・四記念撮影するかー」(なんで 笑)

M「いいですねー、行きましょう!」

とこの師ありてこの生徒ありのノリで、チベット旗もって大隈講堂と孔子像の前で記念撮影しました。

 この孔子像、大学に孔子学院が設立されたさい中国から寄贈されたもので、中国ズブズブ大学の象徴。この大学でチベット旗を広げるのは結構スリルがある。しかしよく考えてみたら、なんで日本でしかも母校こんなスリルをかんじなきゃならんのだ。しょうもない大学である。

 誰かにシャッター切ってもらわねばならない。しかし、この人民大学では、相当数の中国人がいることが予想され、確実に日本人に声を掛けなければならない。ということで、白人学生と英語でしゃべりながらこっちに歩いてくる人の良さそうな早大生に声を掛ける。もし中国人でも白人と交流があるなら間違いなく開明的だろう(偏見)。

 するとくだんの男子学生、気持ちよく引き受けてくれて、チベット旗を広げて「天安門忘るるなかれ」といったら、「チベットのことは忘れてませんから」とエールを返してくれた。ええ子や。
 
 で、研究室に戻ると『軍縮』(笑)という雑誌の編集の方が拙稿ののった最新号を届けにきてくれていた。この内容は、五月のアタマにアップリンクでお話したようなことをまとめている。アップリンクにきてなかった方、どうぞ。

 この『軍縮』の話が最初きた時、見本誌として入っていた新春対談が土井たか子と加藤紘一だったりしてかなりドンびいたが、その時たまたま研究室にいたFさんが「センセにカラーがつかないためにも、右左まんべなく出しといた方がいいですよ」といわれたので、受けた仕事。

 とりあえず最新号をペラッとめくると、朱建栄氏の論考がのっている。テーマは「天安門二十年と中国の未来」というものだが、中にチベットへの言及があった。

曰く「ダライ・ラマ側は、・・・今日もチベット人は抑圧されていると主張し、彼の個人的な人気とキャラクターもあって、西側世界では根強い人気と同情心がある。しかし、中国国内の大半の国民は、同じチベット族で宗教派閥が違うパンチェン・ラマグループを含め、その動きに同調していない・・・(以下あほくさいので略)」」

 このブログを読んでいる方にはいまさらですが、チベット人普通に抑圧されてます。また、自国体制にとって都合の悪い情報はインターネットからテレビにいたるまですべて遮断して、警察と軍隊で言論の自由を奪っている国で、国の見解と反対の意見におもてだって同調する人がいるわけないことを考えると、ダライ・ラマに同調しない(あるいは、できない)、ことは当たり前でしょうが。

 どういう見識なんだか。

 それに「同じチベット族で宗教派閥が違うパンチェン・ラマグループ」っていうけど、パンチェン・ラマはダライ・ラマと同じ宗派のゲルク派ですから、「宗教派閥が違う」って何いってるかわかりません。

 そのうえこのパンチェンラマって中国政府が無理矢理即位させた人で、チベット人はみな「偽パンチェン」て呼んでますよ。ジャーナリストが周りに人目のないところで、とびこみでチベット人に「中国政府の擁立したパンチェンラマをどう思うか」と聞くと、十人中十人が「うん、ニセモノだよ」って答えるのは有名な話。

 チベットに関する基本的な知識もないのに、一民族の未来を軽々に口にするのはおこがましいですね。 この人ここ二三日は天安門事件を特集した朝日やNHKの番組にゲスト出演していたけど、こういう人だすから朝日もNHKも・・・、ああごめんなさい、ほめてのばすんだった(笑)。

 ネット情報だけどこの人、日本華人教授会議(日本の大学にお勤めしている中国人学者ネットワーク)の代表もおつとめ。

 対立する双方の意見をただダラダラあげて、何も判断せず「中道」とか「バランス」とかいって識者をきどる人がときどきいるけど、双方のどちらかに致命的な論理の破綻、あるいは事実の誤認がある場合、その中道やバランスとは、じつは無関心、あるいは害悪と同義語である。決して、本当の意味での中道ではない。

 チベット支援者に対して、チベットを必要以上に美化している、オリエンタリズムである、と非難して、判断停止する人も同じ。チベット人の社会は中国軍に追われて今は下界におりている。みなあの社会が桃源郷でもシャングリラでもないことを知っている。支援者はそれでも、あの文化にはまもるべき価値がある、と思っているのである。オリエンタリズム云々とレッテルを貼っている人は、じゃあチベットの文化の、あの哲学のすごさの、どれほどを理解しているんでしょうか。少なくともこの朱さんとかは基本的な知識もないわけですから、仏教哲学を理解するのはムリでしょうねえ。

 そいえば、この前僧侶の会の会合にお呼ばれした時、質問者の中に、「いじめられる側にも理由がある。チベットの僧院社会が変わらないのが悪い」みたいなピントのずれまくった批判をして、満座を唖然とさせた質問者がいたけど、この人も、自分は何でも分かっているつもりで、じつは何もわかってない上、さらにおせっかいという迷惑タイプ。

  本当の中道、本当の識者とは、対立する双方の主張を事実に基づいて確認した上で、もし双方に正統性があるなら、その中間の着地点を見つけることのできる人であり、もし片方が事実誤認をしているのなら、その間違っている側に改心をさせ、解決に導くことができる人である。

 しかし、そういう人の意見が公器にのることがほとんどないわけだから、日本の民度はまだまだ低い。
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DATE: 2009/06/01(月)   CATEGORY: 未分類
仏教徒のガーデニング
 庭のハマユウが年々巨大化して、雨の日とか横をとおるたびにハマユウからおちる雫でずぶぬれになるくらい巨大化していたのだが、去年、ハマユウの葉が突然元気を失って枯れ(腐り)始め、最後は株になった。その株の上をよく見ると、巨大な白黒のイモムシがはりついていた。

 その時は「腐った株になんか虫が湧いてるなー」と思った。

 今年になったら、ハマユウは負けずに新芽をだしたので、「自然は強いなー」と感心していたら、またなんとなく葉が腐り始めた。

 そこで、よく見てみると、去年株についていたあの巨大イモムシの小型版が葉の薄膜の下に何匹も湧いている。で、一部は薄膜をつきやぶって出てきて、直接新芽をくっちゃらくっちゃら食べている。

 おぇっ。

 そうか、こうやって葉を腐らせていって、最後は食べるものがないので株にしゃぶりついていたのか。
 私は仏教徒のチベット人とつきあっているうち、可能な限り虫を殺さないという習慣が身についている。そのため、たとえイモムシといえども殺すには抵抗がある。しかし、このままでは去年同様ハマユウはクサレはてる。

 ダンナ「株まで食べ尽くし最後の一群は餓死するって、こんな浅ましいのは絶対チョウじゃない。ガだよ。取ろう。」

 私「でもアゲハチョウの幼虫もグロイけど仕上がりはキレイだよ。でも、キレイなチョウなら助けて、ガなら取るってそれ容姿差別じゃない。」

 で、「ハマユウ 害虫」で検索したら、やはりハマオモトヨトウという立派なガ。

 私「ガでもキレイなガもいるし、成虫になった写真を探してみよう」

 で、昆虫オタクのページをみると、思い切りただのガ。アップでみたらさらに気持ち悪さが倍増しただけ。しかし、よく見ると、このイモムシ絶滅危惧種に指定されてる。

 地球上のあらゆる種の絶滅の原因であるわれわれ人間が、絶滅危惧種のイモムシをジェノサイドする権利は普通に考えてない。

 ダンナ「でも、見て。ハマユウも絶滅危惧種だよ。ハマユウを護るために虫をとってもいいんじゃない?」

 なんか、明らかに言い訳じみているが、とりあえず折衷案として一部のイモムシをハマユウに残して、残り多数を食品トレーの上にのせて、鳥の集まる場所において、子育て中のお鳥さまたちに食べ放題してもらうこととする。ほっとけば、このイモムシハマユウをくいつくして最後は餓死するのだから。これで一部は羽化できるだろう。
 
 お鳥様バイキングであるが、このイモムシ余程美味しくないのか、鳥たちみんなスルー。そうこうするうちに、テキも足がありますから、気がついたらどっかいっちゃってました(笑)。

 ダライ・ラマ法王は時計の修理とガーデニングを趣味にしているのは有名な話だけど、猊下も虫を別の場所にうつしたりしているのかな。仏教徒として教育を受けない本土のチベット人は知らないが、仏教徒として生まれ、育ってきた難民チベット人たちはカもハエも殺さない。虫の多いインドでも殺虫剤なんかだしたら、もう白い目で見られることは確実。お線香の香りとかでカを防いでいる。
 
 そもそも仏教国のチベットは出家した男性は生涯僧院で独身で過ごすため、チベット高原の人口はつねに一定数を保っていた。そのうえ食べる分くらいしか生き物を殺さないため、チベット高原はつい半世紀前までは自然の楽園だった。

 中国が占領してからのチベットがどうなっているかは、想像通り。イメージとしてはハマオモトヨトウどころか、イナゴの襲来。

 一番のエコは人間がへること。去年イギリスのBBCの特集でエコマンに任命されたキャスターが、エコ生活をしてどのくらい二酸化炭素を削減できるかを試してみるという企画があった。車を手放すなどいろいろしてもちろん削減に成功したが、撮影中に生まれた彼の子供が生涯に産出する二酸化炭素を考えたら、何の意味もなかった、というオチで終わった。

 つまり、人口を減らさないことには少々のエコもむなしく、二酸化炭素も自然も水もどうもならんのだ。で、それに関して朗報。

 途上国の女性たちや貧困層の女性たちに家族計画とかを教育する資金源である国連人口基金に、前ブッシュ政権は宗教保守の立場から、資金提出を見送っていた。しかし、菩薩オバマは国連重視と環境重視の立場から、国連人口基金に再びアメリカの資金を提供し始めた。

 地球規模でみたらハマユウが地球で、ハマオモトヨトウが人間。ハマオモトヨトウの数を減らさないと、ハマユウはクサレ果てちゃうね。
 
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