日馬富士とダライ・ラマ
陽気がいいせいか、北朝鮮がイカレている。
ここ半世紀ずっと「ソウルを火の海にしてやる」とかいいながら、瀬戸際外交を続けてきたが、本日も元気に自分で火だねをつくって自分でせっせと扇いでいる。
北朝鮮や中国のプロパガンダ発言って、他国の元首を呼び捨てにするわ、悪魔よばわりするわ、人の話はいっこうに聞かないわ、一応シュケンがあるからみんな黙っているけど、あれ個人の発言だったら完全に病院送りのレベルだよ。
かつてのCIA予測によると、北朝鮮はとっくに経済破綻で滅びているはずなのだが、中国様が援助しつづけていることと、朝鮮の方々が我慢強いことから、CIAの予測を大幅にうらぎって、長寿記録更新中。
こんな長寿続かんでええがな。
「これからはアジアの時代」とかいって東アジア共同体唱えている人とか、「欧米の人権感覚はアジアにはなじまない、朝鮮や中国を温かい目で見よう」とかいってる方々は、そのいわゆる戦略的な博愛をもって、彼らを正道に返してくれ。
さて、気分を変えて、今日の「ダライ・ラマ」コネタ
とある研究者のメールから教えてもらったのだが、今場所、初優勝した日馬富士はモンゴル出身の力士で、日刊スポーツによると、「普段は、信奉するチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマのお経、好きな音楽などをイヤホンから聴きながらウオーミングアップする。」そうです。
そう、チベット仏教は13世紀にモンゴルに流入し、以来、元朝の崩壊、社会主義政権による弾圧などを幾度か絶滅の危機に会いつつも、シャーマニズムに並ぶモンゴル人の基層宗教である。
とくに、モンゴル本土で民主化が実現した後、チベット仏教に対する信仰は急激に復活して、モンゴルアイデンティティの一角を形成している。中国支配下の南モンゴルでも、急速な漢化にさらされたモンゴル人たちは、チベット仏教を漢人と自分たちをわけるアイデンティティの一つとみなしてほそぼそと信仰している。
実は近代以前のモンゴル人の名前はそのほとんどがチベット名でつけられていたくらい、モンゴル人の信仰はあつかった。だから、この日馬富士のエピソードも全然普通である。
一つ悲しい話をすれば、中国の圧力により、モンゴル本土にはダライ・ラマは入国できない。だから、ダライ・ラマが日本にくると、モンゴル人たちは日本のあちこちから、一家を挙げて東京の講演会場にやってくる。彼らの敬虔な姿を見ると、明らかに「癒されたくて」集まってくる日本人とは異なり、モンゴル人はもっとガチでまじめで、「信仰を捧げる」といったカンジ。
ここからも、チベットとモンゴルの長い交流の歴史を感じることができる。
またまた話かわって、5月25日の朝日新聞の朝刊の「ひと」欄にの「雪の下の炎」の監督、楽真琴さんがとりあげられていました。
朝日新聞もこの一年で本当に変わりました。
今朝の朝刊にも、「四川大地震一年目に遺族たちがなくなった子供の追悼をしようとしたら、武装警察に阻まれ、武装警察と一緒にいた土地のドチンピラに脅された」みたいな内容の特派員報告がのっていたりして、朝日は着実に変わっています。
これからもほめてのばしていきましょう(笑)。
ここ半世紀ずっと「ソウルを火の海にしてやる」とかいいながら、瀬戸際外交を続けてきたが、本日も元気に自分で火だねをつくって自分でせっせと扇いでいる。
北朝鮮や中国のプロパガンダ発言って、他国の元首を呼び捨てにするわ、悪魔よばわりするわ、人の話はいっこうに聞かないわ、一応シュケンがあるからみんな黙っているけど、あれ個人の発言だったら完全に病院送りのレベルだよ。
かつてのCIA予測によると、北朝鮮はとっくに経済破綻で滅びているはずなのだが、中国様が援助しつづけていることと、朝鮮の方々が我慢強いことから、CIAの予測を大幅にうらぎって、長寿記録更新中。
こんな長寿続かんでええがな。
「これからはアジアの時代」とかいって東アジア共同体唱えている人とか、「欧米の人権感覚はアジアにはなじまない、朝鮮や中国を温かい目で見よう」とかいってる方々は、そのいわゆる戦略的な博愛をもって、彼らを正道に返してくれ。
さて、気分を変えて、今日の「ダライ・ラマ」コネタ
とある研究者のメールから教えてもらったのだが、今場所、初優勝した日馬富士はモンゴル出身の力士で、日刊スポーツによると、「普段は、信奉するチベット仏教の最高指導者ダライ・ラマのお経、好きな音楽などをイヤホンから聴きながらウオーミングアップする。」そうです。
そう、チベット仏教は13世紀にモンゴルに流入し、以来、元朝の崩壊、社会主義政権による弾圧などを幾度か絶滅の危機に会いつつも、シャーマニズムに並ぶモンゴル人の基層宗教である。
とくに、モンゴル本土で民主化が実現した後、チベット仏教に対する信仰は急激に復活して、モンゴルアイデンティティの一角を形成している。中国支配下の南モンゴルでも、急速な漢化にさらされたモンゴル人たちは、チベット仏教を漢人と自分たちをわけるアイデンティティの一つとみなしてほそぼそと信仰している。
実は近代以前のモンゴル人の名前はそのほとんどがチベット名でつけられていたくらい、モンゴル人の信仰はあつかった。だから、この日馬富士のエピソードも全然普通である。
一つ悲しい話をすれば、中国の圧力により、モンゴル本土にはダライ・ラマは入国できない。だから、ダライ・ラマが日本にくると、モンゴル人たちは日本のあちこちから、一家を挙げて東京の講演会場にやってくる。彼らの敬虔な姿を見ると、明らかに「癒されたくて」集まってくる日本人とは異なり、モンゴル人はもっとガチでまじめで、「信仰を捧げる」といったカンジ。
ここからも、チベットとモンゴルの長い交流の歴史を感じることができる。
またまた話かわって、5月25日の朝日新聞の朝刊の「ひと」欄にの「雪の下の炎」の監督、楽真琴さんがとりあげられていました。
朝日新聞もこの一年で本当に変わりました。
今朝の朝刊にも、「四川大地震一年目に遺族たちがなくなった子供の追悼をしようとしたら、武装警察に阻まれ、武装警察と一緒にいた土地のドチンピラに脅された」みたいな内容の特派員報告がのっていたりして、朝日は着実に変わっています。
これからもほめてのばしていきましょう(笑)。
護国寺様でヨーギニー
日曜日、書類の整理をしていたら、ン十年前の古い写真がでてくる。とある学会の賞を頂戴した時の写真で、そこに写っている自分、自分でいうのもなんだが、ものすごくカワイイ。翻って今の自分と比べると、この時点より明らかに凄みがましてドスがききまくっている。
このン十年の日々、自分何を積み重ねてきたのかさすがに反省。ははは。
その前の日、護国寺様で行われたチベットの平和を祈念する僧侶の会の第二回にお呼ばれした。会の始まる前、三時間半はやく護国寺様にいき、清風学園の平岡さんから金剛ヨーガ女の生起法の口伝を伺う。
お部屋は如意の間。お部屋拝借を願い出た際、護国寺のiさんがあげたいくつかの候補のうちの一つから、平岡さんが「機縁がいい」といって指定した部屋。なぜならそこは、ダライラマ法王が護国寺にお見えになった際、そこで昼食をとられ、そこに掛けられていた龍猛(ナーガールジュナ)の掛け軸に、チベットと同じナーガルジュナ解釈を見いだされて喜ばれた場所だから。
同じくガワン先生から金剛ヨーガ女の灌頂を授かっていて参観が許可されるダンナが記録係としてデジカメもって同席する。
法統を聞くと、ダライラマ五世のサキャ派の先生ツァルチェン=ロセルギャムツォから、何とチャンキャ=ロルペードルジェ、パオンカワ、ティジャン=リンポチェなどを経由して平岡さんの先生であるギュメのロサンガワン先生にきている。
チャンキャは乾隆帝の師であり、乾隆帝はチャンキャから金剛ヨーガ女の灌頂を授かっているので、私は乾隆帝が授かった法の流れの末端に加わり、その内容を知ることなったわけである。
テクストを辞書ひいたり、人に聞いたりして自力で読解することと、テクストを伝統的な口伝伝授で理解することとの一番大きな違いは、ルンの加持を受けられるか否かである。
口伝伝授の席ではまず師(この場合は平岡さん)が、まずテクストを音読して弟子はその音を自分の中に受け継ぐ。これは昔、リアルお釈迦様から弟子が教えを聞いていた時代、まだ教えが文字に書き留められなかった時代に遡る伝統である。このルンを受けなれば、そのテクストを正式に伝授されたことにはならない。ある意味一番重要な儀式である。私が聞いているこのテクストの音声はサキャ派はツァルチェンから受け継がれてきているものなのである。
あー、ありがたい。
しかし、時間が押していたので、つい私がまず読んで分からないところを聞こうとすると、平岡さんが
「あなたが読んでも仕方ないでしょ。まず読ませてください」と言われる(笑)。
口伝の醍醐味とは、まず、ただ読んでいてもわからないテクストの中の謎な言葉や象徴がもつ意味、マントラの発音、印の組み方が授けられること。
しかし、印がむずかしくて覚えられない。一通り終わってから、もう一度おさらい。印以外にはOKをいただく。
三時から桂昌殿にて僧侶の会。流れは法要・日本の各宗派を代表する高僧のスピーチ(含代読)、代表挨拶、ダライラマの特使報告、で、自分の講演、ラクパ代表挨拶、真実の祈り、回向、閉会の辞。
自分の話した内容を備忘に記録しておくと、欧米は19世紀、はじめて上座部仏教を通じて仏教にふれ、その論理性・倫理性、自己を自己の救済者と考える個人重視の思想に惹かれた。
で、二十世紀に入り、西洋世界がエゴエゴな考え方を野放しにした結果、二度の世界大戦をひきおこし、そのため、みないいかげん西欧思想に絶望した。その頃からあらゆる命あるものに対して哀れみをもってこの世界に関わり続ける菩薩という思想が西洋で人気を博しだした。
そして、1959年、中国軍に追われて下界におりてきたチベットのお坊さんたちと西欧人は出会う。とくにダライラマの行いを通じて、欧米社会は仏教思想の底力に気づく。
ダライラマは国際政治にあっては独裁体制への非協力、独裁体制を無血でかえたリーダーとの協力関係を通じて、「自分は秩序の破壊を望んではいない。自分が望んでいる未来は、みなが幸せにくらせる世界を、血を流さずに実現することだ」というメッセージを世界に送ってきた。そして、仏教思想を誰にでも分かる普遍的な言葉にかえて、出会う全ての人々に伝えてきたことにより、多くの人々が、シニシズムに陥いることなく、未来を良い方に変えていくのは、自分も含めて一人一人の心のもちようを改めていくことにあると気づき始めた、と。
(ちなみにあとで自分の映像みたら、シュペングラーの西欧の没落とホイジンガの中世の秋を混濁してしゃべってました。原稿書かないで考えながらしゃべると、ときたまこんなことにります。ごめんなさい)
このン十年の日々、自分何を積み重ねてきたのかさすがに反省。ははは。
その前の日、護国寺様で行われたチベットの平和を祈念する僧侶の会の第二回にお呼ばれした。会の始まる前、三時間半はやく護国寺様にいき、清風学園の平岡さんから金剛ヨーガ女の生起法の口伝を伺う。
お部屋は如意の間。お部屋拝借を願い出た際、護国寺のiさんがあげたいくつかの候補のうちの一つから、平岡さんが「機縁がいい」といって指定した部屋。なぜならそこは、ダライラマ法王が護国寺にお見えになった際、そこで昼食をとられ、そこに掛けられていた龍猛(ナーガールジュナ)の掛け軸に、チベットと同じナーガルジュナ解釈を見いだされて喜ばれた場所だから。
同じくガワン先生から金剛ヨーガ女の灌頂を授かっていて参観が許可されるダンナが記録係としてデジカメもって同席する。
法統を聞くと、ダライラマ五世のサキャ派の先生ツァルチェン=ロセルギャムツォから、何とチャンキャ=ロルペードルジェ、パオンカワ、ティジャン=リンポチェなどを経由して平岡さんの先生であるギュメのロサンガワン先生にきている。
チャンキャは乾隆帝の師であり、乾隆帝はチャンキャから金剛ヨーガ女の灌頂を授かっているので、私は乾隆帝が授かった法の流れの末端に加わり、その内容を知ることなったわけである。
テクストを辞書ひいたり、人に聞いたりして自力で読解することと、テクストを伝統的な口伝伝授で理解することとの一番大きな違いは、ルンの加持を受けられるか否かである。
口伝伝授の席ではまず師(この場合は平岡さん)が、まずテクストを音読して弟子はその音を自分の中に受け継ぐ。これは昔、リアルお釈迦様から弟子が教えを聞いていた時代、まだ教えが文字に書き留められなかった時代に遡る伝統である。このルンを受けなれば、そのテクストを正式に伝授されたことにはならない。ある意味一番重要な儀式である。私が聞いているこのテクストの音声はサキャ派はツァルチェンから受け継がれてきているものなのである。
あー、ありがたい。
しかし、時間が押していたので、つい私がまず読んで分からないところを聞こうとすると、平岡さんが
「あなたが読んでも仕方ないでしょ。まず読ませてください」と言われる(笑)。
口伝の醍醐味とは、まず、ただ読んでいてもわからないテクストの中の謎な言葉や象徴がもつ意味、マントラの発音、印の組み方が授けられること。
しかし、印がむずかしくて覚えられない。一通り終わってから、もう一度おさらい。印以外にはOKをいただく。
三時から桂昌殿にて僧侶の会。流れは法要・日本の各宗派を代表する高僧のスピーチ(含代読)、代表挨拶、ダライラマの特使報告、で、自分の講演、ラクパ代表挨拶、真実の祈り、回向、閉会の辞。
自分の話した内容を備忘に記録しておくと、欧米は19世紀、はじめて上座部仏教を通じて仏教にふれ、その論理性・倫理性、自己を自己の救済者と考える個人重視の思想に惹かれた。
で、二十世紀に入り、西洋世界がエゴエゴな考え方を野放しにした結果、二度の世界大戦をひきおこし、そのため、みないいかげん西欧思想に絶望した。その頃からあらゆる命あるものに対して哀れみをもってこの世界に関わり続ける菩薩という思想が西洋で人気を博しだした。
そして、1959年、中国軍に追われて下界におりてきたチベットのお坊さんたちと西欧人は出会う。とくにダライラマの行いを通じて、欧米社会は仏教思想の底力に気づく。
ダライラマは国際政治にあっては独裁体制への非協力、独裁体制を無血でかえたリーダーとの協力関係を通じて、「自分は秩序の破壊を望んではいない。自分が望んでいる未来は、みなが幸せにくらせる世界を、血を流さずに実現することだ」というメッセージを世界に送ってきた。そして、仏教思想を誰にでも分かる普遍的な言葉にかえて、出会う全ての人々に伝えてきたことにより、多くの人々が、シニシズムに陥いることなく、未来を良い方に変えていくのは、自分も含めて一人一人の心のもちようを改めていくことにあると気づき始めた、と。
(ちなみにあとで自分の映像みたら、シュペングラーの西欧の没落とホイジンガの中世の秋を混濁してしゃべってました。原稿書かないで考えながらしゃべると、ときたまこんなことにります。ごめんなさい)
極楽温泉銭湯
先週の金曜日、院生に誘われて食事にいった。体調が悪いので、アルコールを避けてソフトドリンクを五杯飲んだら、翌日、体がむくむ。アルコールって代謝を促すけど、ジュースってただ体にたまるのね。
そこで、リフレッシュもかねて、近所の温泉銭湯にサウナに入りにいく。我が家のもよりの銭湯はここ十年でどんどん姿をけし、この銭湯がいわば最後の砦である。なぜここが残ったのかと言えば、まあ駅の近くだということと、サウナは別料金、中には石けんすら置いてない、という徹底したコストの削減によるものだろう。
自宅では毎日フロに入っているものの、面倒くさいのでインコの行水であるが、銭湯となるとさすがにインコの行水ではもったいないので、ゆっくりつかる。
普段は一~二分で流すコンディショナーも、規定時間の十五分をキャップの中で蒸らす。銭湯にもっていったのは、カルチャーの生徒さんから頂戴したなんか高そうなクレーシャンプーとコンディショナー。規定時間むすと、マラケシュのバラの香りが翌日朝まで残っていた(いつもは一二分で流すので、当日しか香気が残らなかった)。風雅である。
で、サウナでうだって、温泉やら普通のお風呂やらにつかっていたら、足のむくみはとれていた。素晴らしい。日本の温泉文化は絶対未来に伝えねばならない。外国旅行いって何がつらいかっていうと、疲れている時、フロに入れないこと。ヘタすると宿舎にはシャワーしかないし、バスタブがついてても、寝棺みたいに浅くて肩までつかるのがたいへん。電力が不安定な地域だと、途中からお湯は水になり、洗髪していたはずが、滝行になるという、過酷な場合もある。
そう、日本の温泉銭湯は極楽浄土。番台のバアさんは三途の川の奪衣婆。あれ、なんか話がかわってる?
さてここ数日、
あれだけ水際対策してたのに、あっさりと脇をすり抜けて新型インフルエンザはちまたに蔓延中。一週間の潜伏期間があるのなら、外国帰りを空港で一週間足止めしなけりゃそりゃ、カンペキに防ぐことはできなかったろう。
突然、「十日間の隔離」から「家で寝てろ」と方針がかわったのを見ると、震災時のトリアージもそうだけど、「病気や怪我をちゃんとみてもらえるのは、平時のみ」をしみじみ実感。
で昨日WHOがレベルを「世界的大流行」を意味するフェーズ6にひきあげるか否かで話し合った結果、見送ったとな。
でも、フェーズ6って、「アメリカ大陸以外で感染経路が追えない状態で、人人感染しだした場合」というのだから、少なくとも日本の大阪と神戸ですでに感染経路の追えない患者がでているし、人人感染しているから、もう6の規定を満たしている。
じゃなぜ、引き上げを見送ったかというと、「物流が滞ると、世界経済が悪化する」から、で、もう一つは、イギリスと日本が「自分たちの国で流行し始めたのが引き金となってフェーズ6にひきあげられるのは歴史に汚点を残すのでちょっと」とかいうことらしいけど、「言うほど深刻でない」という状況で据え置きしたのならまだしも、こんな防疫と関係ない理由で警戒態勢あげなかったことによって、結局エライことになったら、どうするんだろ。
で、今回のウィルス対策の最大の難関はやはりヒトの煩悩。
ヒトの「移動したいという欲望」、「経済活動したいという欲望」、でも、「新型にかかったら知られたくないので隠そうとする欲望」などヒトの抱える様々な欲望は、これから効果的に世界中にウィルスを広めていくことだろう。
いやー、「すべての苦しみの原因は外からではなくオノレの内にある」とおっしゃったお釈迦様の言はまっこと真実である。
こりゃもう止めるすべはないから、ウィルスにかかっても重篤化しないように体を鍛えておこう(笑)。
そこで、リフレッシュもかねて、近所の温泉銭湯にサウナに入りにいく。我が家のもよりの銭湯はここ十年でどんどん姿をけし、この銭湯がいわば最後の砦である。なぜここが残ったのかと言えば、まあ駅の近くだということと、サウナは別料金、中には石けんすら置いてない、という徹底したコストの削減によるものだろう。
自宅では毎日フロに入っているものの、面倒くさいのでインコの行水であるが、銭湯となるとさすがにインコの行水ではもったいないので、ゆっくりつかる。
普段は一~二分で流すコンディショナーも、規定時間の十五分をキャップの中で蒸らす。銭湯にもっていったのは、カルチャーの生徒さんから頂戴したなんか高そうなクレーシャンプーとコンディショナー。規定時間むすと、マラケシュのバラの香りが翌日朝まで残っていた(いつもは一二分で流すので、当日しか香気が残らなかった)。風雅である。
で、サウナでうだって、温泉やら普通のお風呂やらにつかっていたら、足のむくみはとれていた。素晴らしい。日本の温泉文化は絶対未来に伝えねばならない。外国旅行いって何がつらいかっていうと、疲れている時、フロに入れないこと。ヘタすると宿舎にはシャワーしかないし、バスタブがついてても、寝棺みたいに浅くて肩までつかるのがたいへん。電力が不安定な地域だと、途中からお湯は水になり、洗髪していたはずが、滝行になるという、過酷な場合もある。
そう、日本の温泉銭湯は極楽浄土。番台のバアさんは三途の川の奪衣婆。あれ、なんか話がかわってる?
さてここ数日、
あれだけ水際対策してたのに、あっさりと脇をすり抜けて新型インフルエンザはちまたに蔓延中。一週間の潜伏期間があるのなら、外国帰りを空港で一週間足止めしなけりゃそりゃ、カンペキに防ぐことはできなかったろう。
突然、「十日間の隔離」から「家で寝てろ」と方針がかわったのを見ると、震災時のトリアージもそうだけど、「病気や怪我をちゃんとみてもらえるのは、平時のみ」をしみじみ実感。
で昨日WHOがレベルを「世界的大流行」を意味するフェーズ6にひきあげるか否かで話し合った結果、見送ったとな。
でも、フェーズ6って、「アメリカ大陸以外で感染経路が追えない状態で、人人感染しだした場合」というのだから、少なくとも日本の大阪と神戸ですでに感染経路の追えない患者がでているし、人人感染しているから、もう6の規定を満たしている。
じゃなぜ、引き上げを見送ったかというと、「物流が滞ると、世界経済が悪化する」から、で、もう一つは、イギリスと日本が「自分たちの国で流行し始めたのが引き金となってフェーズ6にひきあげられるのは歴史に汚点を残すのでちょっと」とかいうことらしいけど、「言うほど深刻でない」という状況で据え置きしたのならまだしも、こんな防疫と関係ない理由で警戒態勢あげなかったことによって、結局エライことになったら、どうするんだろ。
で、今回のウィルス対策の最大の難関はやはりヒトの煩悩。
ヒトの「移動したいという欲望」、「経済活動したいという欲望」、でも、「新型にかかったら知られたくないので隠そうとする欲望」などヒトの抱える様々な欲望は、これから効果的に世界中にウィルスを広めていくことだろう。
いやー、「すべての苦しみの原因は外からではなくオノレの内にある」とおっしゃったお釈迦様の言はまっこと真実である。
こりゃもう止めるすべはないから、ウィルスにかかっても重篤化しないように体を鍛えておこう(笑)。
王子の熱帯雨林プロジェクト
最近、王子ブームも一段落したけど、そんな"みなし"王子でなく、ホンモノの王子で、しかも王室中の王室であるイギリスの皇太子チャールズ殿下がじつは熱帯雨林を保護する事業を推進しているのを知ってますか?
私は一昨日知りました(遅)。それは世界のニュースをつけて朝食を食べていたところ、ダライ・ラマ法王の声が。
画面に食いつくと法王が掌にカエルをのっけて、「テンジン・ギャムツォ ただの一僧侶」と一言おっしゃっていた。
なになになに、何の映像?と見たら、次にチャールズ皇太子がでてきて、熱帯雨林を保護するためのプロジェクトへの協賛を訴えた。
で、Youtubeで検索してみると、でてきましたよ。フルバージョンが。
サッカーのペレ、俳優のハリソン・フォード、ダニエル・クレイグ、コメディアンのロビン・ウィリアムス、チャールズの二人の息子(笑)が次々にカエルとともにあらわれて、最後にチャールズが
「熱帯雨林の破壊は多量の二酸化炭素を大気に放出し、気候変動により、疫病や干ばつがあきている。未来の世代は我々の行動にかかっている。
チャールズ・プリンス・オブ・ウェールズ」
という。
猊下、かっけー! 殿下もかっけー!
王子のホームページはコレ↓
http://www.rainforestsos.org/
この熱帯雨林プロジェクトは2007年の10月、皇太子によって設立され、以来皇太子は世界中の政治家やビジネスマンのもとへ飛んで、熱帯雨林の保全に協力するように訴えている。ついこの間、麻生総理もたしかイギリスで、チャールズ皇太子主宰の会合に出席しているはず。
地位や名誉のあるものはその知名度を、私利私欲ではなく、公益のために用いるという、欧米の上流階級の麗しい伝統だな。そいえば故ダイアナ妃も地雷撲滅キャンペーンをやってたっけ。
ちなみに、ダライ・ラマ法王とチャールズ皇太子は昔から非常に親しい間柄でチベット問題に対して皇太子は非常に憂慮されており、去年の北京オリンピックの開会式も欠席している。ちなみに、日本の皇室も欠席したし、こういう時歴史と伝統のあるものの存在感と存在の意義を感じる。
普通のひとたちは上半期とか四半期(笑)とか、ものすごく短い単位で利益がでることばかり考えて動いているけど、それって、アル中の人間がふるえをとめるためにアルコールを飲んでいるようなもんで、全体としては死に向かっている。誰かがもうこれ以上飲むのをやめなよ、と言わなきゃならんのだけど、こういう時、ダライ・ラマとか王室とか歴史的な存在が
「こんなことを繰り返していたらどうなるかまじめに考えてみい」と言われると、妙に説得力があるよね。
私は一昨日知りました(遅)。それは世界のニュースをつけて朝食を食べていたところ、ダライ・ラマ法王の声が。
画面に食いつくと法王が掌にカエルをのっけて、「テンジン・ギャムツォ ただの一僧侶」と一言おっしゃっていた。
なになになに、何の映像?と見たら、次にチャールズ皇太子がでてきて、熱帯雨林を保護するためのプロジェクトへの協賛を訴えた。
で、Youtubeで検索してみると、でてきましたよ。フルバージョンが。
サッカーのペレ、俳優のハリソン・フォード、ダニエル・クレイグ、コメディアンのロビン・ウィリアムス、チャールズの二人の息子(笑)が次々にカエルとともにあらわれて、最後にチャールズが
「熱帯雨林の破壊は多量の二酸化炭素を大気に放出し、気候変動により、疫病や干ばつがあきている。未来の世代は我々の行動にかかっている。
チャールズ・プリンス・オブ・ウェールズ」
という。
猊下、かっけー! 殿下もかっけー!
王子のホームページはコレ↓
http://www.rainforestsos.org/
この熱帯雨林プロジェクトは2007年の10月、皇太子によって設立され、以来皇太子は世界中の政治家やビジネスマンのもとへ飛んで、熱帯雨林の保全に協力するように訴えている。ついこの間、麻生総理もたしかイギリスで、チャールズ皇太子主宰の会合に出席しているはず。
地位や名誉のあるものはその知名度を、私利私欲ではなく、公益のために用いるという、欧米の上流階級の麗しい伝統だな。そいえば故ダイアナ妃も地雷撲滅キャンペーンをやってたっけ。
ちなみに、ダライ・ラマ法王とチャールズ皇太子は昔から非常に親しい間柄でチベット問題に対して皇太子は非常に憂慮されており、去年の北京オリンピックの開会式も欠席している。ちなみに、日本の皇室も欠席したし、こういう時歴史と伝統のあるものの存在感と存在の意義を感じる。
普通のひとたちは上半期とか四半期(笑)とか、ものすごく短い単位で利益がでることばかり考えて動いているけど、それって、アル中の人間がふるえをとめるためにアルコールを飲んでいるようなもんで、全体としては死に向かっている。誰かがもうこれ以上飲むのをやめなよ、と言わなきゃならんのだけど、こういう時、ダライ・ラマとか王室とか歴史的な存在が
「こんなことを繰り返していたらどうなるかまじめに考えてみい」と言われると、妙に説得力があるよね。
SFT副代表来学
最近、ゼミ生にぐちいったり、弱音をはいたりし続けてきた結果か、ゼミ生がまったく自分を教師として尊重しなくなってきている。
困ったことだが、そもそも大学の先生って教育者じゃないんだよね。大学の先生は理論上、教員免許もってなくたって、極端な話最終学歴小学校だってなれる職業(自分は違うけど)。つまり、大学の教員は研究者としてのトレーニングは受けてても、教育者としてのトレーニング受けていないのだ。だから、統治能力のある先生は生来そういうものをもってうまれたか、後天的に取得したかなのである。
何にせよ、もうこうなったもんは仕方ない。死人・けが人・犯罪者がでないことだけ気を配ってのりきっていこう。
金曜日、ニューヨークに本部をおくフリー・チベット学生組織(SFT)の副代表テンジンドルジェ氏を授業にお招きする。
最初、2007年に彼がチョモランマのベースキャンプで行った抗議活動のDVDをみて、そのあと、彼がパワーポイントで中国が入ってくる前、チベットが独立した政府をもっていたことを示す歴史、1950年からはじまるチベット人の絶望的な抵抗の話をする。
そして、「中国政府はチベット人の提示する勇気と真実が怖いから、歴史を真実をねじまげようとして、チベットは昔から中国の一部であった、というストーリーを捏造している」とし、それに対してチベットが自立した政府組織をもっていたことを示す過去の品々(チベット政府発行のパスポート、切手、貨幣、1938年のNational Geographicの世界の国旗にチベット国旗がのっている図etc.)などを示した。
「日本ではデモに参加してもデモが終わった何時間後には家に帰ることができる。チベット本土ではデモに参加するということは、死を覚悟すること、あるいは、残りの人生を刑務所の中で過ごすことを意味する。」
「日本やアメリカは中国に対してチベット問題について強く発言できない。それはたとえばアメリカはネイティブ・アメリカンの土地をイギリスからの植民者が奪ってつくった国である。そこで中国はアメリカに、「もしチベット問題を云々いうなら、白人もアメリカから出て行け」と言われる。
また、日本は中国をかつて植民地にしかけた経緯があるので、中国政府を批判しづらい。しかし、私はこういいたい。過去に私は間違いを犯しました。だから、あなたも同じ過ちを犯してはならない、こういうふうにいえば相手の心に響かないでしょうか」
そして最期に
「わたしたちは事実に基づいて、非暴力によって文化と宗教を護る戦いをしてきました。もし私たちの戦いが勝利して、非暴力によってチベットに自由が実現したら、人類の歴史は変わります。力のあるものがムリを通すような時代が終わり、人類の文明は一歩前身するのです」
パチパチパチ
Kくん通訳ありがとう。センセは本当に英語苦手なんだよ(笑)。
で、そのあと●城庵でソバを食べる。テンドルさんは、「中国は経済力を武器にアジアやアフリカやあらゆる地域に、自分の言うとおりに動くように圧力をかけている。わたしたちがギリシアで平和的な抗議活動したら逮捕された。民主国家ですら中国のいいなりになっている。彼らは帝国化の道を歩んでいる。誰かがとめなければ」という。
その通り。平和と倫理の体現者を弾圧し続けても、中国の国家イメージはいっこうに改善しませんよ。もちろんアメリカや日本が過去の過ちを認めて、同じ過ちを犯さないように相手に進言するのはいいことだが、それだけではたりん。まず、中国の被害者意識をあおりたてるだけの教育を何とかするように、国際社会ははたらきかけにゃいかん。
隣国で行われている、被害者意識をあおり、加害者をにくませる感情的な歴史教育について、某教授は「ある程度は仕方ないんじゃないか」みたいなことをおっしゃていた。しかし私はこう思う。敵を憎むことによって特定の集団の結束をはかることは、何かの契機にその特定の集団が仮想敵に対して戦争をおこす火種をつくることである。戦争の火種をつくるような教育がまともといえるだろうか。
特定の他者に対する憎しみを拡大再生産するような教育がまともな教育といえるだろうか。
ゼミ生M「センセー、そういえば胡●涛きたの丁度去年の今頃じゃなかったでしたっけ」
私「そうねー、明日で丁度一周忌だねー。一年たつの早いねー」
Kと日本SFTのO君はチベットサポートのためのビジネス案を語り合っている。
私「あ、この前話したベンチャー社長はこのKくんよ。この子キツいでしょ」
Oくん「いや、でも想像していたよりは普通でした。もっと金の亡者だと思ってました」
K「・・・・」
店をでて見上げると空には満月に近い丸い月がかかっている。家に帰ってニュースみて気がついたが、テンドルさんがスピーチしている最中、雨があがり、都内では二重の虹がかかったという。
虹も満月も吉兆。
最近、「もうチベットはダメだろう」みたいなことを言う輩がやたら増えてきた。
でも大丈夫。
こうして月も虹も空にある。
1950年からずーっと「もうチベットは終わった」と言われてきた。チベットにどんなにカネがなかろうが、政治力がなかろうが、未来がみえなかろうが、チベット問題は忘れさられず半世紀続いてきたのである。
ある人がもう精神的・経済的にフリチベを続けられなくなっても、次の人が現れてこの運動は続いてきたのである。人々の良心がこの運動を脆弱ながらも美しくつないできたのである。
解決しない限り、問題は存在し続ける。
そこんとこ、よく考えてね、中国政府さん。
困ったことだが、そもそも大学の先生って教育者じゃないんだよね。大学の先生は理論上、教員免許もってなくたって、極端な話最終学歴小学校だってなれる職業(自分は違うけど)。つまり、大学の教員は研究者としてのトレーニングは受けてても、教育者としてのトレーニング受けていないのだ。だから、統治能力のある先生は生来そういうものをもってうまれたか、後天的に取得したかなのである。
何にせよ、もうこうなったもんは仕方ない。死人・けが人・犯罪者がでないことだけ気を配ってのりきっていこう。
金曜日、ニューヨークに本部をおくフリー・チベット学生組織(SFT)の副代表テンジンドルジェ氏を授業にお招きする。
最初、2007年に彼がチョモランマのベースキャンプで行った抗議活動のDVDをみて、そのあと、彼がパワーポイントで中国が入ってくる前、チベットが独立した政府をもっていたことを示す歴史、1950年からはじまるチベット人の絶望的な抵抗の話をする。
そして、「中国政府はチベット人の提示する勇気と真実が怖いから、歴史を真実をねじまげようとして、チベットは昔から中国の一部であった、というストーリーを捏造している」とし、それに対してチベットが自立した政府組織をもっていたことを示す過去の品々(チベット政府発行のパスポート、切手、貨幣、1938年のNational Geographicの世界の国旗にチベット国旗がのっている図etc.)などを示した。
「日本ではデモに参加してもデモが終わった何時間後には家に帰ることができる。チベット本土ではデモに参加するということは、死を覚悟すること、あるいは、残りの人生を刑務所の中で過ごすことを意味する。」
「日本やアメリカは中国に対してチベット問題について強く発言できない。それはたとえばアメリカはネイティブ・アメリカンの土地をイギリスからの植民者が奪ってつくった国である。そこで中国はアメリカに、「もしチベット問題を云々いうなら、白人もアメリカから出て行け」と言われる。
また、日本は中国をかつて植民地にしかけた経緯があるので、中国政府を批判しづらい。しかし、私はこういいたい。過去に私は間違いを犯しました。だから、あなたも同じ過ちを犯してはならない、こういうふうにいえば相手の心に響かないでしょうか」
そして最期に
「わたしたちは事実に基づいて、非暴力によって文化と宗教を護る戦いをしてきました。もし私たちの戦いが勝利して、非暴力によってチベットに自由が実現したら、人類の歴史は変わります。力のあるものがムリを通すような時代が終わり、人類の文明は一歩前身するのです」
パチパチパチ
Kくん通訳ありがとう。センセは本当に英語苦手なんだよ(笑)。
で、そのあと●城庵でソバを食べる。テンドルさんは、「中国は経済力を武器にアジアやアフリカやあらゆる地域に、自分の言うとおりに動くように圧力をかけている。わたしたちがギリシアで平和的な抗議活動したら逮捕された。民主国家ですら中国のいいなりになっている。彼らは帝国化の道を歩んでいる。誰かがとめなければ」という。
その通り。平和と倫理の体現者を弾圧し続けても、中国の国家イメージはいっこうに改善しませんよ。もちろんアメリカや日本が過去の過ちを認めて、同じ過ちを犯さないように相手に進言するのはいいことだが、それだけではたりん。まず、中国の被害者意識をあおりたてるだけの教育を何とかするように、国際社会ははたらきかけにゃいかん。
隣国で行われている、被害者意識をあおり、加害者をにくませる感情的な歴史教育について、某教授は「ある程度は仕方ないんじゃないか」みたいなことをおっしゃていた。しかし私はこう思う。敵を憎むことによって特定の集団の結束をはかることは、何かの契機にその特定の集団が仮想敵に対して戦争をおこす火種をつくることである。戦争の火種をつくるような教育がまともといえるだろうか。
特定の他者に対する憎しみを拡大再生産するような教育がまともな教育といえるだろうか。
ゼミ生M「センセー、そういえば胡●涛きたの丁度去年の今頃じゃなかったでしたっけ」
私「そうねー、明日で丁度一周忌だねー。一年たつの早いねー」
Kと日本SFTのO君はチベットサポートのためのビジネス案を語り合っている。
私「あ、この前話したベンチャー社長はこのKくんよ。この子キツいでしょ」
Oくん「いや、でも想像していたよりは普通でした。もっと金の亡者だと思ってました」
K「・・・・」
店をでて見上げると空には満月に近い丸い月がかかっている。家に帰ってニュースみて気がついたが、テンドルさんがスピーチしている最中、雨があがり、都内では二重の虹がかかったという。
虹も満月も吉兆。
最近、「もうチベットはダメだろう」みたいなことを言う輩がやたら増えてきた。
でも大丈夫。
こうして月も虹も空にある。
1950年からずーっと「もうチベットは終わった」と言われてきた。チベットにどんなにカネがなかろうが、政治力がなかろうが、未来がみえなかろうが、チベット問題は忘れさられず半世紀続いてきたのである。
ある人がもう精神的・経済的にフリチベを続けられなくなっても、次の人が現れてこの運動は続いてきたのである。人々の良心がこの運動を脆弱ながらも美しくつないできたのである。
解決しない限り、問題は存在し続ける。
そこんとこ、よく考えてね、中国政府さん。
一筋の涙
子供の日を記念して愛鳥のページを更新しました(ここクリック!)!
五月一日から五日まで、新宿の常圓寺において、タシルンポ寺のお坊さんが来日して、チベット文化を紹介するフェスティバルを行っている(このあと長野の西方寺とサッポロにも行きます)。
四日、その記念講演でパンチェンラマとタシルンポ寺についての講義をした。タシルンポ寺はダライラマ一世が創建し、ゲルク派四大寺院の一つに数えられる名刹である。代々、パンチェンラマが座主を勤めてきた。
この連休、いろいろなところに飛んでチベット話をしたが、やっとラストである。常々思うのだが、中国を研究する人は歴史・政治・経済・文学・思想のそれぞれのジャンルに膨大な数がはりついていて、あまつさえ中国革命が青春だった世代が膨大な数ファン層を形成していて、なんだかんだいって中国政府に温かいエールを送っているのに、チベットを研究している人は数える程しかおらず、しかも、肩書き付きとなるとさらに少なくなり、数少ない研究者の一人である自分は、結果としてあらゆるジャンルについて対応せざるをえなくなる。
ノーギャラとかローギャラとかはボランティアの方もみなそうだから言わないとして、何がつらいかって、自分の研究領域でないことまで必要上話をしなきゃならないこと。学者の良心がずきずき痛む。
現在、大学院でチベットに関する何かを勉強中のアナタ! 学位とって就職して早いとこ、この偏りまくった学会状況を少しでもバランスがとれるようにしてください。発心のある所、チベットの神様が必ず助けてくれるでしょう(責任とれないけど)。
講座ではパンチェンラマが清王朝からはじまって、中国と深い関係にあったこと、『カーラチャクラ』の伝統と深い関わりがあったことなどをのべ、ダライ・ラマ十四世と同世代のパンチェンラマ七世(十世という数え方もある)は、ダライラマとは対照的に亡命せずに中国に残留したものの、厳しい状況の中で、僧院の再建に励み、チベット人の生活をよくするための努力していたことなど、パンチェンラマについての基本的な情報をお伝えする。
続いて、来日中のタシルンポの僧侶ロプサン・ドルジェ先生のお話。
先生はかつてチベット本土のタシルンポ寺の僧侶であったのだが、1992年の時、16歳で亡命し、現在はインドにある再建タシルンポ寺に属している。
ロプサン先生とはその日が初対面であった。楽屋でお会いした時、何かをあきらめたような無表情さが印象的で、チベットのお坊さんはユーモアにとんだおちゃめな方が多いので、日中常圓寺でお客さんの対応をして疲れているのかなと思った。
先生はまずかつてのタシルンポ寺の景観について解説しだした。その壮観な大僧院が紅衛兵の襲撃をうけ、タシルンポ寺の座主をつとめていた歴代パンチェンラマの仏塔を暴いて遺体をまきちらし、狼藉の限りをはたらいたこと、そうして荒れたタシルンポを、先代のパンチェンラマ七世が復興し、また、七世がいかにチベット人の庶民の生活を気にかけ、遊牧民や農民の家をまわり、その生活状況を何とか改善しようと奮闘していたことを語った。
で質問タイム。
質問者Aが「行方不明のパンチェンラマ八世(十一世)の死亡説が流れているが、それについて何か知っているか」
ロプサン先生「報道されている以上のことは自分も分からない。前に死亡説が流れた時、中国政府は打ち消した。しかし、今回中国は何も発表しない。」
質問者A「亡命の時の様子を教えてください」
ロプサン先生「1991年に分離主義者のレッテルを貼られ、毎日呼び出されて同じことを聞かれました。これでは将来がないと亡命を決意しました。僧侶だと分かると捕まるので、髪はのばして俗人の格好をしました。道案内には2000元を払い、冬場に二十七日間かけて国境をこえて難民受け入れ機関にたどりつきました。靴は破けて足の裏は傷だらけ。でも国境を離れるに従って開放感を覚えました。私は中国政府も中国人も非難する気も、嫌う気もないですが、どうしてわたしたちが生まれた国を離れなければならないのでしょうか。
中国人はお前達には逃げる場所なんてない、逃げても必ず追いかけて捕まるぞ、と脅し続けて、私たちは世界中が中国の支配下であるかのように感じていました。」
いつのまにか、彼の頬に一筋の涙が流れていた。
無表情のまま、語り口も静かなまま、ただ涙だけが流れていた。チベットのお坊さんたちが亡命の時の過酷な体験を語る時は、普段はにこやかで物静かな人でもだんだんエキサイトして、声が大きくなるものだが、ロプサン先生はただ静かに静かに涙を流していた。
会場をみまわすと、最前列の人たちはみな眼に煮汁がたまっており、壇上がよくみえないであろう後方の席の人たちもその雰囲気を察して凍り付いていた。
すると、ロプサン先生は「みんなを惑わそうとして泣いたのではありません。ごめんなさい」といって僧衣で涙をぬぐった。
もう何かやりきれなかった。
タシルンポってじつはインドに再建されたチベット寺の中でも一二を争う貧乏寺。今回の来日だって、もちろん、大きくはチベット文化を他国の人にも知ってもらおうという交流事業であるけれども、もっとも限定された目的は僧院を続けるための支援を得るためである(一口豆知識: 金欠の寺ほど外周りが頻繁)。
もう何かいろいろな意味でやりきれなかった。
不条理な話だが、自爆テロとかやる泥沼の民族問題はよくマスコミに露出し人々の関心も集まるのに、自分たちの文化を異国インドで必死に維持しながら、いつか中国が変わってくれるのをまつ穏健なフリー・チベット運動は地味すぎて、人々の耳目を集めない。
チベット人が彼らの故郷で彼らの文化を維持できるような日が本当に早くきてほしい。はよ変わらんかい、中国。
五月一日から五日まで、新宿の常圓寺において、タシルンポ寺のお坊さんが来日して、チベット文化を紹介するフェスティバルを行っている(このあと長野の西方寺とサッポロにも行きます)。
四日、その記念講演でパンチェンラマとタシルンポ寺についての講義をした。タシルンポ寺はダライラマ一世が創建し、ゲルク派四大寺院の一つに数えられる名刹である。代々、パンチェンラマが座主を勤めてきた。
この連休、いろいろなところに飛んでチベット話をしたが、やっとラストである。常々思うのだが、中国を研究する人は歴史・政治・経済・文学・思想のそれぞれのジャンルに膨大な数がはりついていて、あまつさえ中国革命が青春だった世代が膨大な数ファン層を形成していて、なんだかんだいって中国政府に温かいエールを送っているのに、チベットを研究している人は数える程しかおらず、しかも、肩書き付きとなるとさらに少なくなり、数少ない研究者の一人である自分は、結果としてあらゆるジャンルについて対応せざるをえなくなる。
ノーギャラとかローギャラとかはボランティアの方もみなそうだから言わないとして、何がつらいかって、自分の研究領域でないことまで必要上話をしなきゃならないこと。学者の良心がずきずき痛む。
現在、大学院でチベットに関する何かを勉強中のアナタ! 学位とって就職して早いとこ、この偏りまくった学会状況を少しでもバランスがとれるようにしてください。発心のある所、チベットの神様が必ず助けてくれるでしょう(責任とれないけど)。
講座ではパンチェンラマが清王朝からはじまって、中国と深い関係にあったこと、『カーラチャクラ』の伝統と深い関わりがあったことなどをのべ、ダライ・ラマ十四世と同世代のパンチェンラマ七世(十世という数え方もある)は、ダライラマとは対照的に亡命せずに中国に残留したものの、厳しい状況の中で、僧院の再建に励み、チベット人の生活をよくするための努力していたことなど、パンチェンラマについての基本的な情報をお伝えする。
続いて、来日中のタシルンポの僧侶ロプサン・ドルジェ先生のお話。
先生はかつてチベット本土のタシルンポ寺の僧侶であったのだが、1992年の時、16歳で亡命し、現在はインドにある再建タシルンポ寺に属している。
ロプサン先生とはその日が初対面であった。楽屋でお会いした時、何かをあきらめたような無表情さが印象的で、チベットのお坊さんはユーモアにとんだおちゃめな方が多いので、日中常圓寺でお客さんの対応をして疲れているのかなと思った。
先生はまずかつてのタシルンポ寺の景観について解説しだした。その壮観な大僧院が紅衛兵の襲撃をうけ、タシルンポ寺の座主をつとめていた歴代パンチェンラマの仏塔を暴いて遺体をまきちらし、狼藉の限りをはたらいたこと、そうして荒れたタシルンポを、先代のパンチェンラマ七世が復興し、また、七世がいかにチベット人の庶民の生活を気にかけ、遊牧民や農民の家をまわり、その生活状況を何とか改善しようと奮闘していたことを語った。
で質問タイム。
質問者Aが「行方不明のパンチェンラマ八世(十一世)の死亡説が流れているが、それについて何か知っているか」
ロプサン先生「報道されている以上のことは自分も分からない。前に死亡説が流れた時、中国政府は打ち消した。しかし、今回中国は何も発表しない。」
質問者A「亡命の時の様子を教えてください」
ロプサン先生「1991年に分離主義者のレッテルを貼られ、毎日呼び出されて同じことを聞かれました。これでは将来がないと亡命を決意しました。僧侶だと分かると捕まるので、髪はのばして俗人の格好をしました。道案内には2000元を払い、冬場に二十七日間かけて国境をこえて難民受け入れ機関にたどりつきました。靴は破けて足の裏は傷だらけ。でも国境を離れるに従って開放感を覚えました。私は中国政府も中国人も非難する気も、嫌う気もないですが、どうしてわたしたちが生まれた国を離れなければならないのでしょうか。
中国人はお前達には逃げる場所なんてない、逃げても必ず追いかけて捕まるぞ、と脅し続けて、私たちは世界中が中国の支配下であるかのように感じていました。」
いつのまにか、彼の頬に一筋の涙が流れていた。
無表情のまま、語り口も静かなまま、ただ涙だけが流れていた。チベットのお坊さんたちが亡命の時の過酷な体験を語る時は、普段はにこやかで物静かな人でもだんだんエキサイトして、声が大きくなるものだが、ロプサン先生はただ静かに静かに涙を流していた。
会場をみまわすと、最前列の人たちはみな眼に煮汁がたまっており、壇上がよくみえないであろう後方の席の人たちもその雰囲気を察して凍り付いていた。
すると、ロプサン先生は「みんなを惑わそうとして泣いたのではありません。ごめんなさい」といって僧衣で涙をぬぐった。
もう何かやりきれなかった。
タシルンポってじつはインドに再建されたチベット寺の中でも一二を争う貧乏寺。今回の来日だって、もちろん、大きくはチベット文化を他国の人にも知ってもらおうという交流事業であるけれども、もっとも限定された目的は僧院を続けるための支援を得るためである(一口豆知識: 金欠の寺ほど外周りが頻繁)。
もう何かいろいろな意味でやりきれなかった。
不条理な話だが、自爆テロとかやる泥沼の民族問題はよくマスコミに露出し人々の関心も集まるのに、自分たちの文化を異国インドで必死に維持しながら、いつか中国が変わってくれるのをまつ穏健なフリー・チベット運動は地味すぎて、人々の耳目を集めない。
チベット人が彼らの故郷で彼らの文化を維持できるような日が本当に早くきてほしい。はよ変わらんかい、中国。
着せ替え猊下(不敬 笑)
お知らせのあとに、驚愕のダライ・ラマグッズを発表!
◎ 五月四日のイベント会場は新宿文化センターですので、お間違えなきよう!
◎五反田のフリマでチベット・グッズが買えます!出店もOK!
【日時】2009年5月6日(水・振替休日) 10時~16時
【場所】~五反田TOCトクトクBIGフリーマーケット~
東京都品川区西五反田7-22-17TOCビル13階グランドホール http://www.toc.co.jp/
【交通】JR、都営地下鉄五反田駅より・・・徒歩8分
? 東急電鉄目黒線不動前駅より・・・・徒歩6分
? 東急電鉄池上線大崎広小路駅より・・・徒歩5分
(主催:東京リサイクル運動市民の会)
※主催者への問い合わせはなさらないようにお願いいたします。
◎長野の西方寺にもタシルンポのお坊さんたちがいらっしゃいます。聖地長野でチベットを満喫しよう!
【名称】大チベット祭
【日時】 5月7日(木)~5月11日(月)
【場所】西方寺 URL:http://www.saihouji-nagano.com/index.html
【入場料】入山無料
内容詳細はこちらをご参照ください。
URL:http://www3.ocn.ne.jp/~kaizenji/tibet-fes-detail.html
---------------------------------------------
それは二十四日のことだった。卒業生のAちゃんが私にニューヨークのルービン美術館(チベット美術館よ)のミュージアム・グッズをお土産にもってきてくれた。ありがとう。
でだ、一つは仏陀ポストイット! 仏陀のシルエットがGood!
で、もう一つが衝撃。ダライ・ラマ着せ替え紙人形

何と、いろいろな世代のダライ・ラマの紙人形に、即位式の時の衣装、1951年の全人代に参加した時の衣装、亡命の時の兵士の変装衣装、亡命した後様々な学位をもらったときの博士マントとかを、ダライ・ラマに着せ替えてみたりできちゃうのだ!もちろん伝統的な僧衣のヴァリエーションも楽しめます。
で、その中に衝撃の一枚! トランクスにランニング姿の猊下が! これを学生にみせたら
学生「これ不敬罪とか大丈夫なんですか。で、誰がこれで遊ぶんですか」
私にだってわからない。
でも、アオリ文句は世界で最も愛されている精神世界の指導者をこのユニークなコレクションで愛でよう!
なので、ターゲットはたぶん世界中のダライ・ラマ法王のファン。
◎ 五月四日のイベント会場は新宿文化センターですので、お間違えなきよう!
◎五反田のフリマでチベット・グッズが買えます!出店もOK!
【日時】2009年5月6日(水・振替休日) 10時~16時
【場所】~五反田TOCトクトクBIGフリーマーケット~
東京都品川区西五反田7-22-17TOCビル13階グランドホール http://www.toc.co.jp/
【交通】JR、都営地下鉄五反田駅より・・・徒歩8分
? 東急電鉄目黒線不動前駅より・・・・徒歩6分
? 東急電鉄池上線大崎広小路駅より・・・徒歩5分
(主催:東京リサイクル運動市民の会)
※主催者への問い合わせはなさらないようにお願いいたします。
◎長野の西方寺にもタシルンポのお坊さんたちがいらっしゃいます。聖地長野でチベットを満喫しよう!
【名称】大チベット祭
【日時】 5月7日(木)~5月11日(月)
【場所】西方寺 URL:http://www.saihouji-nagano.com/index.html
【入場料】入山無料
内容詳細はこちらをご参照ください。
URL:http://www3.ocn.ne.jp/~kaizenji/tibet-fes-detail.html
---------------------------------------------
それは二十四日のことだった。卒業生のAちゃんが私にニューヨークのルービン美術館(チベット美術館よ)のミュージアム・グッズをお土産にもってきてくれた。ありがとう。
でだ、一つは仏陀ポストイット! 仏陀のシルエットがGood!
で、もう一つが衝撃。ダライ・ラマ着せ替え紙人形

何と、いろいろな世代のダライ・ラマの紙人形に、即位式の時の衣装、1951年の全人代に参加した時の衣装、亡命の時の兵士の変装衣装、亡命した後様々な学位をもらったときの博士マントとかを、ダライ・ラマに着せ替えてみたりできちゃうのだ!もちろん伝統的な僧衣のヴァリエーションも楽しめます。
で、その中に衝撃の一枚! トランクスにランニング姿の猊下が! これを学生にみせたら
学生「これ不敬罪とか大丈夫なんですか。で、誰がこれで遊ぶんですか」
私にだってわからない。
でも、アオリ文句は世界で最も愛されている精神世界の指導者をこのユニークなコレクションで愛でよう!
なので、ターゲットはたぶん世界中のダライ・ラマ法王のファン。
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