善光寺ご開帳とチベット
土日は善光寺さまへ。長野聖火リレーから一年、パンチェンラマ(拉致)の誕生日、ならびにチベット民衆蜂起から五十年の記念の年なので、それを記念するイベントに参加するため。
土曜日、五時半に長野駅につくと、東京より十度は寒い。観光時間が過ぎているためバスがなかなかこず、骨まで冷える。善光寺さまにつき、前立ご本尊さまとつながっている回向柱にタッチ(これをすると極楽往生間違いなし!)。
そして、キャンドルイベントの会場に向かう。イベントではまず智山派の僧侶方による声明が行われ、「チベットの風邪ならぬ風」の代表が、この1年になくなったチベットの方達の御名前をよみあげるなか、みなで焼香のかわりにキャンドルを捧げていく。1年前に聖火リレーの抗議活動に参加した人によると、去年もやはりとても寒く「気温まで再現することはないのに」とおっしゃっていた(笑)。
翌日、六時半くらいに宿坊をでて、7年に一度のご開帳というご本尊を拝観させていただき、忠霊殿にまつられているダライラマ猊下ご下賜の釈迦牟尼仏に手を合わせ、宝物殿で特別展を拝見する。まだ七時前だというのに境内にはたくさんの人々があふれ、回向柱にタッチしたり、本堂で称名を唱えたり、横溢する篤信ムードはチベットみたーい。
十時半から、大本願でお話をさせていただく。今度は建物の中なので寒さや雨を気にすることはない。時は7年に一度のご開帳にして聖火リレー一年目、場所は聖地善光寺にして日本版フリー・チベットの発祥の地、聴衆は根性のすわった僧侶の方々+フリー・チベット、歴史的な時、所・聴衆がすべてが申し分なく揃っているものの、ただ説者が自分な点だけが画竜点睛を欠く(笑)。
お話は「月影」をテーマとする。仏教では月は仏、月影は菩薩のたとえに用いられる。それは時空を超えた仏の境地は、この地上の様々な人の心の中にある慈悲として顕現し、それによって遊び戯れるように人々を苦しみから救う様が、月が地上のすべての水たまりになんなくその姿を現すことに似ていることによる。
善光寺さまは浄土宗と天台宗の共同管理寺院である。で、浄土宗の開祖法然上人は「月影の至らぬ里はないけれど、ながむる人のこころにぞある」という有名な一句を詠んでいるため、浄土宗の僧侶の方々は、阿弥陀さま(仏の境地)はわれわれの心の中にある慈悲として顕現することをよくご存じでおられる。なので、これをダライ・ラマ法王がよく自らをただの月影、すなわち、自らを「永遠の利他の修行者」と位置づけていることにからめて、「みなさんの去年のご英断は、ダライ・ラマ法王の生きたかと同じく、美しい菩薩道」と語る。
で、質問タイム。
質問者A「ダライラマの銅像をたてて、そこをチベット問題を考える人たちが定期的に集まれる場所にしたい」
私「銅像みたいなものをたててそれを拝んでもダライラマはお喜びにならないでしょう。それより私たちがダライラマのようにふるまうことをお喜びになるでしょう」と答える。
質問者B「今現在チベット本土ではチベット人の子供が中国人の教育をうけたり、女性が断種されたりしています。悠長なことを言ってられないのではないか」みたいな意見(明らかに質問でないな 笑)
私「スリランカもインドももっと長い間植民地統治を受け、あのインド独立の父ガンディーですら若い頃はロンドンに留学してイギリス紳士になろうとしていた。ガンディーは欧米の人々がインド文化のすばらしさをたたえるのをみて、自文化の価値に気づいて「裸足のガンジー」になったんだ。スリランカも今は仏教国だけど植民地統治の間は、宗主国により僧伽は徹底的に破壊され否定された。両国ともに独立した後は、自らの文化と言語を大事にしている。時がくれば結局はいいものが残る。
だから、重要なことは、人格者を生み出すチベット文化の心髄である僧院生活を維持すること。子供を救いたいという気持ちは万国共通なのでチベットの子供を支援する組織は結構充実しているけど、大人の集まりである僧院には世間の支援の手はうすい。じつは本当に援助を必要としているのは、あの僧院の生活なのだ」という。
質問者A「ダライラマ十三世が武装していたら百万人チベット人は死ななかったのではないか」
わたし「かりに武装していたとしても、無尽蔵の人口がある国が本気になったら多少の武装ではあの長い国境地帯を少ない人口で防ぐことは難しいだろう。中国の人が他者を尊敬する気持ちを持つようになること以外、中国の侵略をふせぐ手立てはない」という。
じつはあの時はそこまで思いつかなかったんだけど、チベットって周辺の諸国にチベット仏教を布教して彼らを信徒にすることによって国を繁栄させまもってきた。ある意味、教育をすることによって、国を防衛していたわけ。去年、十一月三日にダライ・ラマ法王歓迎レセプションにおいて、ダライ・ラマが「自国の軍備にかけるお金を、貧しい国の教育を支援することに使えば世界の平和は創出される」とおっしゃると列席者みなが拍手したっけ。
ダライ・ラマがいかに気高く、高く振る舞おうとも、中国はこの半世紀変わらなかった。
理想論ではあるが、それ以外に解決法がないのも事実。
そのほかにも、「私がなぜチベットを学んでいるのか(笑)」「河口慧海はなぜ晩年還俗したのか」「聖火リレー辞退を主導した四人のお坊さんたちのご先祖がじつはチベットに関係していたの詳細」みたいな質問もでたが、これらは私も正確なところを知らないので割愛。
そのあと、本堂の内内陣(ご本尊によりよりのVIP席)で、この1年でなくなられたチベット人・漢族の追悼法要。そのあと、ネパールのチベット人コミニュティより、感謝の言葉、並びに、寄せ書きされたチベット国旗が善光寺の総長猊下に献呈された。
観光したような、巡礼したような、フリチベしたようなこゆい二日間であった。
土曜日、五時半に長野駅につくと、東京より十度は寒い。観光時間が過ぎているためバスがなかなかこず、骨まで冷える。善光寺さまにつき、前立ご本尊さまとつながっている回向柱にタッチ(これをすると極楽往生間違いなし!)。
そして、キャンドルイベントの会場に向かう。イベントではまず智山派の僧侶方による声明が行われ、「チベットの風邪ならぬ風」の代表が、この1年になくなったチベットの方達の御名前をよみあげるなか、みなで焼香のかわりにキャンドルを捧げていく。1年前に聖火リレーの抗議活動に参加した人によると、去年もやはりとても寒く「気温まで再現することはないのに」とおっしゃっていた(笑)。
翌日、六時半くらいに宿坊をでて、7年に一度のご開帳というご本尊を拝観させていただき、忠霊殿にまつられているダライラマ猊下ご下賜の釈迦牟尼仏に手を合わせ、宝物殿で特別展を拝見する。まだ七時前だというのに境内にはたくさんの人々があふれ、回向柱にタッチしたり、本堂で称名を唱えたり、横溢する篤信ムードはチベットみたーい。
十時半から、大本願でお話をさせていただく。今度は建物の中なので寒さや雨を気にすることはない。時は7年に一度のご開帳にして聖火リレー一年目、場所は聖地善光寺にして日本版フリー・チベットの発祥の地、聴衆は根性のすわった僧侶の方々+フリー・チベット、歴史的な時、所・聴衆がすべてが申し分なく揃っているものの、ただ説者が自分な点だけが画竜点睛を欠く(笑)。
お話は「月影」をテーマとする。仏教では月は仏、月影は菩薩のたとえに用いられる。それは時空を超えた仏の境地は、この地上の様々な人の心の中にある慈悲として顕現し、それによって遊び戯れるように人々を苦しみから救う様が、月が地上のすべての水たまりになんなくその姿を現すことに似ていることによる。
善光寺さまは浄土宗と天台宗の共同管理寺院である。で、浄土宗の開祖法然上人は「月影の至らぬ里はないけれど、ながむる人のこころにぞある」という有名な一句を詠んでいるため、浄土宗の僧侶の方々は、阿弥陀さま(仏の境地)はわれわれの心の中にある慈悲として顕現することをよくご存じでおられる。なので、これをダライ・ラマ法王がよく自らをただの月影、すなわち、自らを「永遠の利他の修行者」と位置づけていることにからめて、「みなさんの去年のご英断は、ダライ・ラマ法王の生きたかと同じく、美しい菩薩道」と語る。
で、質問タイム。
質問者A「ダライラマの銅像をたてて、そこをチベット問題を考える人たちが定期的に集まれる場所にしたい」
私「銅像みたいなものをたててそれを拝んでもダライラマはお喜びにならないでしょう。それより私たちがダライラマのようにふるまうことをお喜びになるでしょう」と答える。
質問者B「今現在チベット本土ではチベット人の子供が中国人の教育をうけたり、女性が断種されたりしています。悠長なことを言ってられないのではないか」みたいな意見(明らかに質問でないな 笑)
私「スリランカもインドももっと長い間植民地統治を受け、あのインド独立の父ガンディーですら若い頃はロンドンに留学してイギリス紳士になろうとしていた。ガンディーは欧米の人々がインド文化のすばらしさをたたえるのをみて、自文化の価値に気づいて「裸足のガンジー」になったんだ。スリランカも今は仏教国だけど植民地統治の間は、宗主国により僧伽は徹底的に破壊され否定された。両国ともに独立した後は、自らの文化と言語を大事にしている。時がくれば結局はいいものが残る。
だから、重要なことは、人格者を生み出すチベット文化の心髄である僧院生活を維持すること。子供を救いたいという気持ちは万国共通なのでチベットの子供を支援する組織は結構充実しているけど、大人の集まりである僧院には世間の支援の手はうすい。じつは本当に援助を必要としているのは、あの僧院の生活なのだ」という。
質問者A「ダライラマ十三世が武装していたら百万人チベット人は死ななかったのではないか」
わたし「かりに武装していたとしても、無尽蔵の人口がある国が本気になったら多少の武装ではあの長い国境地帯を少ない人口で防ぐことは難しいだろう。中国の人が他者を尊敬する気持ちを持つようになること以外、中国の侵略をふせぐ手立てはない」という。
じつはあの時はそこまで思いつかなかったんだけど、チベットって周辺の諸国にチベット仏教を布教して彼らを信徒にすることによって国を繁栄させまもってきた。ある意味、教育をすることによって、国を防衛していたわけ。去年、十一月三日にダライ・ラマ法王歓迎レセプションにおいて、ダライ・ラマが「自国の軍備にかけるお金を、貧しい国の教育を支援することに使えば世界の平和は創出される」とおっしゃると列席者みなが拍手したっけ。
ダライ・ラマがいかに気高く、高く振る舞おうとも、中国はこの半世紀変わらなかった。
理想論ではあるが、それ以外に解決法がないのも事実。
そのほかにも、「私がなぜチベットを学んでいるのか(笑)」「河口慧海はなぜ晩年還俗したのか」「聖火リレー辞退を主導した四人のお坊さんたちのご先祖がじつはチベットに関係していたの詳細」みたいな質問もでたが、これらは私も正確なところを知らないので割愛。
そのあと、本堂の内内陣(ご本尊によりよりのVIP席)で、この1年でなくなられたチベット人・漢族の追悼法要。そのあと、ネパールのチベット人コミニュティより、感謝の言葉、並びに、寄せ書きされたチベット国旗が善光寺の総長猊下に献呈された。
観光したような、巡礼したような、フリチベしたようなこゆい二日間であった。
某研究所でチベットを話す
火曜日に中国系の某研究所にお呼ばれしてお話して、帰りに土砂降りにあってずぶぬれたら、水曜日は風邪でねこむ。もともとダルい人生を送っているが、風邪ひくと、もともとないヤル気がさらに無くなって、もう何もできん。
研究所から話が来た時、当然中国とのおつきあいの深い方が聴衆にくることが予想され、「どーしよーかなー」と一瞬ためらった。しかしまあ、「何かあったらそのときはその時、なんか言われたら、論理的な意見は拝聴し、感情的な意見は聞き流す、これでいくかー」とお受けした(何にせよいい加減)。
しかし、案外なにもなし。いい人ばかり。ここ一年でチベットの現状がずいぶん知れ渡ったからか、それとも何か言いたくても黙っていたのか。何にせよ、おかしな意見や質問に悩まされなくなったことは喜ばしい変化。
講演では、チベット仏教は神秘に頼らず、論理で勝負していること、この論理で過去に外国人を次々と信徒に変えてきたこと、この文化は物質的な発展を希求するわれわれの文明とは異なり、人格者を創ることに重点をおいた文化であることを説く。
で、近代にはいってからは、1950年に中国がチベットに侵略してきた時も、1959年3月28日に、ダライラマの亡命をうけて中国がチベット政府を解散して名実ともにチベットを併合した時にも、帝国主義からの解放とは銘うっても、農奴解放の「の」の字も出していないのに、なぜか2009年になって突然「農奴解放」という言葉がでてきたのはなぜでしょね、「農奴」ってチベットにいたのかしらね、そもそも百歩譲って「農奴」らしきものが問題になっていたからといって、それは当事者が解決すべきことで他人が介入すべきではないでしょう。とかいう。
で、終了後、近所の定食屋さんで有志と懇談。
だいたいが大マスコミをリタイアされた方みたいだが、中に一人だけ現役社員の方がいて、「今の中国に評価できる点があるとすれば、難民を送り込んでこない点だ」とか、「チベット民主改革五十年というが、中国に民主主義がないのに、チベットに民主主義なんかあるかっつの」「中国取材はねー、彼らを怒らせると情報がとれなくなっちゃうから、ある程度は言うこと聞かなきゃいけないんよ」とぶっちゃけ炸裂。
どこにでもハジけた人はいるんだな、と何となく安心。
その席ででた印象的な話に、去年胡●涛が日本にきた昨年五月九日、胡●涛と総理経験者との夕食会がセッティングされたことをご記憶であろうか。そう、コイズミ元首相が「オレがいったら胡錦涛こないだろう」といって欠席したあの晩餐会である。
その席で、お腹をいためて総理を辞任したアベ元首相が、チベットの現状を何とかするように訴え、また、日本に留学していたウイグル人の留学生で、中国で「国家分裂罪」(笑)の罪で逮捕されて十年になるトフティ・テュニヤズさんの釈放を求めたのを覚えているであろうか。
このあと、チベット問題は悲しいかなまったく好転しなかったが、トフティ・テュニヤズさんの獄中での待遇はよくなったといい、今年に入ってからやっと釈放された。
ちなみに、トフティさんって「国家分裂罪」って何やったと思います? ウイグルの文書館で文書の目録をコピーしただけ(笑)。目録のコピーって、大学院生が歴史を研究するなら、普通にやることです。中国は、独立を口にするチベット人を「テロリスト」とか言いますが、彼らのはるレッテルがいかに大げさか、いかに彼らが自分の行動に正統性がないと自覚しているのかがここからも知れます。
で、何が言いたいかというと、今中国政府は去年の「暴動」にかかわったとされるチベット人にバンバン死刑判決をだしているけど、これに抗議することで彼らの命をできる限り伸ばすことができるということ。
半世紀にわたる中国の反応をみて人々は「わたしたちが何をいったって、中国はどうせ変わらないさ」と思いがちであるが、しかし何もしなかったら、まちがいなく彼らは死んでいく。
トフティさんやペンデンギャムツォさんは有名であったから、釈放されたけど、無名のまま人知れず獄死していく人はもっといる。
ちなみに、長野の聖火リレーの時に警察があのような動きをしたのはやっぱり首相が福田さんだったからで、アベ政権だったらもっと違う様相になっていただろうとのこと。で、その人いはく「アベさんもバカだとかボンだとか、言われてて、事実そうだけど、あの時は偉かった」とのこと。
人は死して名を残す。
名は人のお役にたって残るもの。
日本の政治家たちよ、その力を自分のためだけに使わず、多くの困っている他者のために使ってくれ。
何のために政治家がいるのか、そこんとこよく考えてくれ。
研究所から話が来た時、当然中国とのおつきあいの深い方が聴衆にくることが予想され、「どーしよーかなー」と一瞬ためらった。しかしまあ、「何かあったらそのときはその時、なんか言われたら、論理的な意見は拝聴し、感情的な意見は聞き流す、これでいくかー」とお受けした(何にせよいい加減)。
しかし、案外なにもなし。いい人ばかり。ここ一年でチベットの現状がずいぶん知れ渡ったからか、それとも何か言いたくても黙っていたのか。何にせよ、おかしな意見や質問に悩まされなくなったことは喜ばしい変化。
講演では、チベット仏教は神秘に頼らず、論理で勝負していること、この論理で過去に外国人を次々と信徒に変えてきたこと、この文化は物質的な発展を希求するわれわれの文明とは異なり、人格者を創ることに重点をおいた文化であることを説く。
で、近代にはいってからは、1950年に中国がチベットに侵略してきた時も、1959年3月28日に、ダライラマの亡命をうけて中国がチベット政府を解散して名実ともにチベットを併合した時にも、帝国主義からの解放とは銘うっても、農奴解放の「の」の字も出していないのに、なぜか2009年になって突然「農奴解放」という言葉がでてきたのはなぜでしょね、「農奴」ってチベットにいたのかしらね、そもそも百歩譲って「農奴」らしきものが問題になっていたからといって、それは当事者が解決すべきことで他人が介入すべきではないでしょう。とかいう。
で、終了後、近所の定食屋さんで有志と懇談。
だいたいが大マスコミをリタイアされた方みたいだが、中に一人だけ現役社員の方がいて、「今の中国に評価できる点があるとすれば、難民を送り込んでこない点だ」とか、「チベット民主改革五十年というが、中国に民主主義がないのに、チベットに民主主義なんかあるかっつの」「中国取材はねー、彼らを怒らせると情報がとれなくなっちゃうから、ある程度は言うこと聞かなきゃいけないんよ」とぶっちゃけ炸裂。
どこにでもハジけた人はいるんだな、と何となく安心。
その席ででた印象的な話に、去年胡●涛が日本にきた昨年五月九日、胡●涛と総理経験者との夕食会がセッティングされたことをご記憶であろうか。そう、コイズミ元首相が「オレがいったら胡錦涛こないだろう」といって欠席したあの晩餐会である。
その席で、お腹をいためて総理を辞任したアベ元首相が、チベットの現状を何とかするように訴え、また、日本に留学していたウイグル人の留学生で、中国で「国家分裂罪」(笑)の罪で逮捕されて十年になるトフティ・テュニヤズさんの釈放を求めたのを覚えているであろうか。
このあと、チベット問題は悲しいかなまったく好転しなかったが、トフティ・テュニヤズさんの獄中での待遇はよくなったといい、今年に入ってからやっと釈放された。
ちなみに、トフティさんって「国家分裂罪」って何やったと思います? ウイグルの文書館で文書の目録をコピーしただけ(笑)。目録のコピーって、大学院生が歴史を研究するなら、普通にやることです。中国は、独立を口にするチベット人を「テロリスト」とか言いますが、彼らのはるレッテルがいかに大げさか、いかに彼らが自分の行動に正統性がないと自覚しているのかがここからも知れます。
で、何が言いたいかというと、今中国政府は去年の「暴動」にかかわったとされるチベット人にバンバン死刑判決をだしているけど、これに抗議することで彼らの命をできる限り伸ばすことができるということ。
半世紀にわたる中国の反応をみて人々は「わたしたちが何をいったって、中国はどうせ変わらないさ」と思いがちであるが、しかし何もしなかったら、まちがいなく彼らは死んでいく。
トフティさんやペンデンギャムツォさんは有名であったから、釈放されたけど、無名のまま人知れず獄死していく人はもっといる。
ちなみに、長野の聖火リレーの時に警察があのような動きをしたのはやっぱり首相が福田さんだったからで、アベ政権だったらもっと違う様相になっていただろうとのこと。で、その人いはく「アベさんもバカだとかボンだとか、言われてて、事実そうだけど、あの時は偉かった」とのこと。
人は死して名を残す。
名は人のお役にたって残るもの。
日本の政治家たちよ、その力を自分のためだけに使わず、多くの困っている他者のために使ってくれ。
何のために政治家がいるのか、そこんとこよく考えてくれ。
菩薩オバマの歴史的演説
オバマさんに対する日本人の興味は就任前後に比べるとずいぶん静まってきて、「まずお手並み拝見」みたいなカンジになってきている。でも、この人、就任後もやっぱり菩薩(ボーディサットヴァ)。
最近、この人心眼でみると、ダライラマ法王に見えるよ。
オバマさん、ここのところアメリカと敵対してきた国家との関係の修復に励んでおり、まずは中東イランとの対話を行い、今月四日にはプラハで核廃絶を訴える歴史的な演説を行い、ミサイルとばした北朝鮮には毅然とした態度をとり、ここ数日なんかは関係のこじれまくっている中南米を歴訪した。
一言でいえば、今までアメリカが積んできた悪い業を精算しようとしているカンジ。
今朝の新聞なんて、あのベネズエラのチャベスどんとも握手する写真とかあったりして、チャベスどんはオバマさんを「誠実な人」とか評しており、なんかチャベス大統領がまともにみえてビックリ。オバマ効果だな。
とくにプラハ演説は感動もので、この演説は二十年前のゴルビー(ゴルバチョフ)の核廃絶提案のエコーのように見える。忘れている方のために解説しよう。
その昔、アメリカとソ連は世界を二分して争って地球滅亡一分前にまで追い込んでいた。その末期に、ソ連の書記長に就任したゴルビーは、破綻するソ連経済もあって、1987年、ウラジオストークで行われた歴的演説でアフガニスタンからの撤兵を表明し、敵対していた中国との関係改善も表明した。
そして同年、十月。アイスランドのレイキャビクで行われた米ソ首脳会談で2000年までに核兵器全廃と化学兵器の廃棄の提案をしたのである。
まさに、ゴルビーは菩薩。
しかしゴルビーは菩薩でも時のアメリカ大統領レーガンは、ド外道であったため、この提案を却下した結果、ロシアもアメリカも21世紀となった現在も核を保有しているわけ。
ゴルバチョフはこの時「日本の都市、広島と長崎が核爆弾の犠牲になったこと、ベトナムが化学兵器の標的になったこと」は忘れられない事実と指摘した。
今回のオバマさんのプラハ演説は、このゴルビーの演説に対するエコーのように感じられた。
オバマさんが核の廃絶に向かって努力することを誓い、かつ、核を日本に対して初めて使用した責任を公式に認めたからである。長いので該当箇所のみを翻訳します。あらかじめおことりしますが、手抜き翻訳です。
Some argue that the spread of these weapons cannot be stopped, cannot be checked -- that we are destined to live in a world where more nations and more people possess the ultimate tools of destruction. Such fatalism is a deadly adversary, for if we believe that the spread of nuclear weapons is inevitable, then in some way we are admitting to ourselves that the use of nuclear weapons is inevitable.
あるものはこう言う。「兵器の拡散は止められないし、チェックもできない。われわれは究極の破壊兵器を所有するより多くの国家や民族と一つの世界に住むことを運命づけられている」このような運命論はまったくの逆説だ。なぜなら、われわれが核兵器の拡散を必然であると信じたなら、その時、われわれは核兵器の使用も必然だということをある意味認めているからだ。
Just as we stood for freedom in the 20th century, we must stand together for the right of people everywhere to live free from fear in the 21st century. (Applause.) And as nuclear power -- as a nuclear power, as the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act. We cannot succeed in this endeavor alone, but we can lead it, we can start it.
二十世紀に、自由のために立ち上がったように、二十一世紀は人々が核による滅亡の恐怖から逃れる権利のために立ち上がらねばならない。
核兵器を保有する国家として、また核兵器を使用した唯一の国家として、アメリカは〔核兵器廃絶にむけて〕行動する道義的責任がある。アメリカだけではこの試みを成し遂げることはできないが、リードすることはできる。始めることはできる。
So today, I state clearly and with conviction America's commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons. (Applause.) I'm not naive. This goal will not be reached quickly -- perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence. But now we, too, must ignore the voices who tell us that the world cannot change. We have to insist, "Yes, we can." (Applause.)
そこで、今日はわたしは明らかに、また確信をもって、アメリカが核兵器のない世界の平和と安全を求めていくことに献身することを言明する。わたしは世間知らずではない。この目的がすぐに達成できるものでもないだろう。たぶん私の生きている間には不可能かもしれない。忍耐と粘り強さが要求される。しかし、今、わたしたちは、「世界はどうせ変えられないさ」という声を無視しなければならない。
われわれは主張しなければならない。「我々は変わることができる」(Yes, we can)
アメリカでは軍縮に言及した多くの指導者たちが暗殺の凶弾に倒れてきた。このオバマさんの「私の生きている間はムリかも」というのは、軍縮を述べることによって自らの命が危険にさらされることを意識したものとも言われている。
菩薩は死を恐れない。そして、この自らの命をねらう腐った世界に対しても、慈愛をもって対しつづけ、世の中を「変えることができる」ととき続け、自らを悪魔呼ばわりする国家や民族(中南米諸国・中東諸国)との和解の道を探り続けている。
この三ヶ月のオバマさんの旅にゴルビー、そしてダライ・ラマ法王の姿がかぶって見える。
オバマさん、長生きしてくれ。
最近、この人心眼でみると、ダライラマ法王に見えるよ。
オバマさん、ここのところアメリカと敵対してきた国家との関係の修復に励んでおり、まずは中東イランとの対話を行い、今月四日にはプラハで核廃絶を訴える歴史的な演説を行い、ミサイルとばした北朝鮮には毅然とした態度をとり、ここ数日なんかは関係のこじれまくっている中南米を歴訪した。
一言でいえば、今までアメリカが積んできた悪い業を精算しようとしているカンジ。
今朝の新聞なんて、あのベネズエラのチャベスどんとも握手する写真とかあったりして、チャベスどんはオバマさんを「誠実な人」とか評しており、なんかチャベス大統領がまともにみえてビックリ。オバマ効果だな。
とくにプラハ演説は感動もので、この演説は二十年前のゴルビー(ゴルバチョフ)の核廃絶提案のエコーのように見える。忘れている方のために解説しよう。
その昔、アメリカとソ連は世界を二分して争って地球滅亡一分前にまで追い込んでいた。その末期に、ソ連の書記長に就任したゴルビーは、破綻するソ連経済もあって、1987年、ウラジオストークで行われた歴的演説でアフガニスタンからの撤兵を表明し、敵対していた中国との関係改善も表明した。
そして同年、十月。アイスランドのレイキャビクで行われた米ソ首脳会談で2000年までに核兵器全廃と化学兵器の廃棄の提案をしたのである。
まさに、ゴルビーは菩薩。
しかしゴルビーは菩薩でも時のアメリカ大統領レーガンは、ド外道であったため、この提案を却下した結果、ロシアもアメリカも21世紀となった現在も核を保有しているわけ。
ゴルバチョフはこの時「日本の都市、広島と長崎が核爆弾の犠牲になったこと、ベトナムが化学兵器の標的になったこと」は忘れられない事実と指摘した。
今回のオバマさんのプラハ演説は、このゴルビーの演説に対するエコーのように感じられた。
オバマさんが核の廃絶に向かって努力することを誓い、かつ、核を日本に対して初めて使用した責任を公式に認めたからである。長いので該当箇所のみを翻訳します。あらかじめおことりしますが、手抜き翻訳です。
Some argue that the spread of these weapons cannot be stopped, cannot be checked -- that we are destined to live in a world where more nations and more people possess the ultimate tools of destruction. Such fatalism is a deadly adversary, for if we believe that the spread of nuclear weapons is inevitable, then in some way we are admitting to ourselves that the use of nuclear weapons is inevitable.
あるものはこう言う。「兵器の拡散は止められないし、チェックもできない。われわれは究極の破壊兵器を所有するより多くの国家や民族と一つの世界に住むことを運命づけられている」このような運命論はまったくの逆説だ。なぜなら、われわれが核兵器の拡散を必然であると信じたなら、その時、われわれは核兵器の使用も必然だということをある意味認めているからだ。
Just as we stood for freedom in the 20th century, we must stand together for the right of people everywhere to live free from fear in the 21st century. (Applause.) And as nuclear power -- as a nuclear power, as the only nuclear power to have used a nuclear weapon, the United States has a moral responsibility to act. We cannot succeed in this endeavor alone, but we can lead it, we can start it.
二十世紀に、自由のために立ち上がったように、二十一世紀は人々が核による滅亡の恐怖から逃れる権利のために立ち上がらねばならない。
核兵器を保有する国家として、また核兵器を使用した唯一の国家として、アメリカは〔核兵器廃絶にむけて〕行動する道義的責任がある。アメリカだけではこの試みを成し遂げることはできないが、リードすることはできる。始めることはできる。
So today, I state clearly and with conviction America's commitment to seek the peace and security of a world without nuclear weapons. (Applause.) I'm not naive. This goal will not be reached quickly -- perhaps not in my lifetime. It will take patience and persistence. But now we, too, must ignore the voices who tell us that the world cannot change. We have to insist, "Yes, we can." (Applause.)
そこで、今日はわたしは明らかに、また確信をもって、アメリカが核兵器のない世界の平和と安全を求めていくことに献身することを言明する。わたしは世間知らずではない。この目的がすぐに達成できるものでもないだろう。たぶん私の生きている間には不可能かもしれない。忍耐と粘り強さが要求される。しかし、今、わたしたちは、「世界はどうせ変えられないさ」という声を無視しなければならない。
われわれは主張しなければならない。「我々は変わることができる」(Yes, we can)
アメリカでは軍縮に言及した多くの指導者たちが暗殺の凶弾に倒れてきた。このオバマさんの「私の生きている間はムリかも」というのは、軍縮を述べることによって自らの命が危険にさらされることを意識したものとも言われている。
菩薩は死を恐れない。そして、この自らの命をねらう腐った世界に対しても、慈愛をもって対しつづけ、世の中を「変えることができる」ととき続け、自らを悪魔呼ばわりする国家や民族(中南米諸国・中東諸国)との和解の道を探り続けている。
この三ヶ月のオバマさんの旅にゴルビー、そしてダライ・ラマ法王の姿がかぶって見える。
オバマさん、長生きしてくれ。
今度失われるのは・・・
金曜日、自分が教壇にたった最初の年、授業を聞いていた元学生三人(全員女性で独身 笑)が遊びにきた。
今もつきあいがあると言うことは・・・・この三人、当然フリチベが入ってます。
この三人の集まりに某週刊誌のカメラマン(これまた早大卒)が加わって居酒屋に入った。
聞けば、三人のうち一人Oさんがここのところ婚活に励んでいるので、残る二人が知り合いのこのカメラマン氏を紹介しようというわけ。
そのカメラマン私を見て「先生も一緒というのでどんな脂ぎったオッサンかと想像してたけど、女性なんですね」(甘いな)
で、五人で居酒屋に入ると、カメラマン以外はフリチベなので当然チベットの話になる(オイオイ見合いは・・・)。
カメラマン氏は最初はカメラマンらしく押しのつよい雰囲気を漂わしていたが、Fさんや私が怪気炎をあげだすと、徐々に静かとなり、じつは素はおとなしい青年であることが判明する。
カメラマン「でもダライ・ラマ十四世がなくなったらチベットも大変ですねえ」
私「法王がなくなるなんてそんな話、気安く口にするなあっ。」
Tさん「そうよ。二歳か三歳ですぐに十五世がみつかるもん」
私「で、その幼児『タイム』の表紙を飾るからみてなさい。」
Fさん「チベットはね。高僧の教育システムがしっかりしてて外にださずにきっちり育てるの」
私「で、成人するころには、立派にダライ・ラマになるのよ! チベット仏教の伝統をなめるなあっ」
Tさん「あの、●×さん(カメラマンの名前)、この四人を前にしてチベットの話はやめた方がいいよ」
お見合いだいなし。。
で、同僚の先生がお亡くなりになったので、この二日間お通夜とお葬式に出かけた。故人はガンでなくなられたのだが、ご長男によると、故人は自分が死ぬとは最後まで思っていなかったらしく、その手帳には九月の予定まで書き込んであったとのこと(ちなみに自分今月の予定すら書き込んでません 刹那滅やな)。
故人は病気一つしたことがなく、ご自分の母親ですら四年前にみとったというので、比較的若いうちに病んで死ぬというイメージをもてなかったか、あるいはうすうす死ぬかもと感づいていても考えたくないので、普段通りにしていたかであろう。
現代人にとって死とは、それで何もかも終わり、後に何があるか分からない暗黒のターミナルである。名誉も地位もお金も愛する家族も、たとえ持っていたとしてもこの世においていかねばならない。人生の大半をそのようなものを得るために過ごした人であったとするならば、愛する家族、仕事などをおいていくことはつらくて仕方ないに違いない。
一方、人生の価値を自分の延長線にあるものではなく、他者の幸せや人類や普遍といったものにおいて生き、かつ、死によって何もかもが暗黒に陥るのではなく、再生があると考えるチベット人の場合、死はもっと積極的な意味を持つようになっている。
死はよりよい生に向けてのジャンプ台であり、少なくとも老いたり病んだりした体をすてて新たなる再生の道に歩みだすという積極的意味をもつ。人間は死すべきものだから、当然、死後の生を考えて慎んで生きるので、死を迎えてもばたぐるわないし、肉体的にも、長期間寝込んだりするチベット人は少ない(近代医学を受けられるようになった今でも)。
ロバート・サーマン教授は『現代人のためのチベット死者の書』の中で、死後の意識が暗黒に飲まれることは「賛同者はたくさんいるが、証拠はほんのかけらほどもない。それでも繰り返し語られることで教条と化し、ますます強く信じられるようになってしまっている」とし、死後に何もない、と考えることには何の根拠もないことを述べ、もし再生などの死後の生の可能性があるのであれば、
「人はよりよい明日を迎えるためにできる限りの準備をする。より充実した備えがあれば、幸せな眠りにつくことができる。同様に、より充実した備えがあれば、死の時を迎えても、よりゆったりとした心でいられるだろう。」と現代人に死に向けて備えよと説く。
死は誰にでもやってくる。もし生きている間に、エゴをコントロールせずに生きれば、悪い再生を受けるし、自分よりも他人や環境を先に考え行動した人間は良い再生を受ける。しかし、どのように良い生を受けようとも、生きる・病む・老いる・死ぬという苦しみからは逃れようがないため、最終的にこの死と再生の永遠の環からの「解脱」を目標とするのだ。
そして、エゴを消滅させた結果、この輪廻の世界を超越して、この輪廻からでることにこだわらず、他者のために、軽やかにこの世になんども戻ってくるのが、菩薩さま。そう、ダライ・ラマ法王はこの菩薩の化身なのですね。
サーマン教授はこのような菩薩を「すべてはただ心の中にあるだけのものだ、という本質的な感覚を悟っている人なら、他人の利益のためには、疾走する貨物列車の前に立っても平然としていられるはずだ」つまり菩薩さまは死を恐れない。他者のためにあえて命を投げ出すことすらできる、のです。
わあ、超えてる。
最近よくダライラマ13世の遺言について考える。ダライラマ十三世はチベット人に対して「自分のためではなく、公のために生きることを説き、もしそうしなければ共産主義が国の内外から侵入して、チベットは失われ、チベット人は乞食のように世界をさまようようになる」という文書を残して、たった一ヶ月後、病の兆候をみせずになくなられた。チベットがこのダライ・ラマ十三世が死の直前に残した言葉の通りの道をたどったのはよく知られている。
ダライ・ラマ13世は、来るべき、亡国の時、若く力強い青年でいるために死期を早めたのだとはよく言われていることだ。それもそのはず、14世現ダライ・ラマ法王は、15歳で中国の侵略を受け、24歳で国が失われた。この若さがあったからこそ、この半世紀の間、チベット人をまもり、チベット文化を維持できたのである。
さすが菩薩。自分に向かって疾走してくる列車を前にしてもひるまず、ふたたびこのド外道な現代にもどってこられ、さらに軽々と生き抜いてこられました。
で、今ダライ・ラマ十四世は世界にむけて、「自分の利益だけではなく、人類全体、いや、地球の生態系を考えて行動しなさい」と呼びかけている。ダライ・ラマ十三世はチベット人に語りかけて、その言葉をきかなかった結果、チベットは失われた。今、ダライ・ラマ十四世は人類全体に「禁欲、節制」を語りかけている。この言葉を我々が実行しなかったならば、今度失われるのは・・・地球だよ!。
今もつきあいがあると言うことは・・・・この三人、当然フリチベが入ってます。
この三人の集まりに某週刊誌のカメラマン(これまた早大卒)が加わって居酒屋に入った。
聞けば、三人のうち一人Oさんがここのところ婚活に励んでいるので、残る二人が知り合いのこのカメラマン氏を紹介しようというわけ。
そのカメラマン私を見て「先生も一緒というのでどんな脂ぎったオッサンかと想像してたけど、女性なんですね」(甘いな)
で、五人で居酒屋に入ると、カメラマン以外はフリチベなので当然チベットの話になる(オイオイ見合いは・・・)。
カメラマン氏は最初はカメラマンらしく押しのつよい雰囲気を漂わしていたが、Fさんや私が怪気炎をあげだすと、徐々に静かとなり、じつは素はおとなしい青年であることが判明する。
カメラマン「でもダライ・ラマ十四世がなくなったらチベットも大変ですねえ」
私「法王がなくなるなんてそんな話、気安く口にするなあっ。」
Tさん「そうよ。二歳か三歳ですぐに十五世がみつかるもん」
私「で、その幼児『タイム』の表紙を飾るからみてなさい。」
Fさん「チベットはね。高僧の教育システムがしっかりしてて外にださずにきっちり育てるの」
私「で、成人するころには、立派にダライ・ラマになるのよ! チベット仏教の伝統をなめるなあっ」
Tさん「あの、●×さん(カメラマンの名前)、この四人を前にしてチベットの話はやめた方がいいよ」
お見合いだいなし。。
で、同僚の先生がお亡くなりになったので、この二日間お通夜とお葬式に出かけた。故人はガンでなくなられたのだが、ご長男によると、故人は自分が死ぬとは最後まで思っていなかったらしく、その手帳には九月の予定まで書き込んであったとのこと(ちなみに自分今月の予定すら書き込んでません 刹那滅やな)。
故人は病気一つしたことがなく、ご自分の母親ですら四年前にみとったというので、比較的若いうちに病んで死ぬというイメージをもてなかったか、あるいはうすうす死ぬかもと感づいていても考えたくないので、普段通りにしていたかであろう。
現代人にとって死とは、それで何もかも終わり、後に何があるか分からない暗黒のターミナルである。名誉も地位もお金も愛する家族も、たとえ持っていたとしてもこの世においていかねばならない。人生の大半をそのようなものを得るために過ごした人であったとするならば、愛する家族、仕事などをおいていくことはつらくて仕方ないに違いない。
一方、人生の価値を自分の延長線にあるものではなく、他者の幸せや人類や普遍といったものにおいて生き、かつ、死によって何もかもが暗黒に陥るのではなく、再生があると考えるチベット人の場合、死はもっと積極的な意味を持つようになっている。
死はよりよい生に向けてのジャンプ台であり、少なくとも老いたり病んだりした体をすてて新たなる再生の道に歩みだすという積極的意味をもつ。人間は死すべきものだから、当然、死後の生を考えて慎んで生きるので、死を迎えてもばたぐるわないし、肉体的にも、長期間寝込んだりするチベット人は少ない(近代医学を受けられるようになった今でも)。
ロバート・サーマン教授は『現代人のためのチベット死者の書』の中で、死後の意識が暗黒に飲まれることは「賛同者はたくさんいるが、証拠はほんのかけらほどもない。それでも繰り返し語られることで教条と化し、ますます強く信じられるようになってしまっている」とし、死後に何もない、と考えることには何の根拠もないことを述べ、もし再生などの死後の生の可能性があるのであれば、
「人はよりよい明日を迎えるためにできる限りの準備をする。より充実した備えがあれば、幸せな眠りにつくことができる。同様に、より充実した備えがあれば、死の時を迎えても、よりゆったりとした心でいられるだろう。」と現代人に死に向けて備えよと説く。
死は誰にでもやってくる。もし生きている間に、エゴをコントロールせずに生きれば、悪い再生を受けるし、自分よりも他人や環境を先に考え行動した人間は良い再生を受ける。しかし、どのように良い生を受けようとも、生きる・病む・老いる・死ぬという苦しみからは逃れようがないため、最終的にこの死と再生の永遠の環からの「解脱」を目標とするのだ。
そして、エゴを消滅させた結果、この輪廻の世界を超越して、この輪廻からでることにこだわらず、他者のために、軽やかにこの世になんども戻ってくるのが、菩薩さま。そう、ダライ・ラマ法王はこの菩薩の化身なのですね。
サーマン教授はこのような菩薩を「すべてはただ心の中にあるだけのものだ、という本質的な感覚を悟っている人なら、他人の利益のためには、疾走する貨物列車の前に立っても平然としていられるはずだ」つまり菩薩さまは死を恐れない。他者のためにあえて命を投げ出すことすらできる、のです。
わあ、超えてる。
最近よくダライラマ13世の遺言について考える。ダライラマ十三世はチベット人に対して「自分のためではなく、公のために生きることを説き、もしそうしなければ共産主義が国の内外から侵入して、チベットは失われ、チベット人は乞食のように世界をさまようようになる」という文書を残して、たった一ヶ月後、病の兆候をみせずになくなられた。チベットがこのダライ・ラマ十三世が死の直前に残した言葉の通りの道をたどったのはよく知られている。
ダライ・ラマ13世は、来るべき、亡国の時、若く力強い青年でいるために死期を早めたのだとはよく言われていることだ。それもそのはず、14世現ダライ・ラマ法王は、15歳で中国の侵略を受け、24歳で国が失われた。この若さがあったからこそ、この半世紀の間、チベット人をまもり、チベット文化を維持できたのである。
さすが菩薩。自分に向かって疾走してくる列車を前にしてもひるまず、ふたたびこのド外道な現代にもどってこられ、さらに軽々と生き抜いてこられました。
で、今ダライ・ラマ十四世は世界にむけて、「自分の利益だけではなく、人類全体、いや、地球の生態系を考えて行動しなさい」と呼びかけている。ダライ・ラマ十三世はチベット人に語りかけて、その言葉をきかなかった結果、チベットは失われた。今、ダライ・ラマ十四世は人類全体に「禁欲、節制」を語りかけている。この言葉を我々が実行しなかったならば、今度失われるのは・・・地球だよ!。
「中国チベット秘宝展」(1988)
1988年のチベット展のカタログ(中国チベット秘宝展図録 発行西武百貨店 編集チベット自治区文物管理委員会 中国対外文物展覧公司)を研究室でみつけたので、歴史資料として(笑)ご紹介しまあす。
ご挨拶
このたび、中国チベット自治区文物管理委員会並びに、中国対外文物展覧公司のご協力を得て、「中国チベット秘宝展」を開催するはこびとなりました。
日中の国交が正常化して16年。本年は日中平和友好条約締結10周年と日中両国にとって誠に意義深い年でもあります。この記念すべき年にあたり、ポタラ宮にある文物を中心にチベットの秘宝展を日本で初めて紹介いたします。今回展示される文物は120点と数も多く、そのいずれも彫像類、教典類、工芸美術品として仏教文化、仏教美術の神髄を極めており、まさにチベット文化の象徴とも言えるものであります。
この「中国チベット秘宝展」が多くの日本の皆様の目にふれ、チベットを知ることで、日中両国の一層の友好と親善、文化交流を深める一助となることを念じてやみません。
1988年7月 朝日新聞社
最後の「チベットを知ることで日中の友好と親善が深まる」って一文、今読むと、悪いジョークみたいだね(笑)。
「中国がチベットに対して行ってきたこと」を知ればしるほど、まともな神経もった人はドンビキして日中友好どころじゃなくなると思うけど。あ、彼らのいう「知る」の意味は「自分たちのプロパガンダを知る=理解する」ということなのかな。
甘いわ。
これがかかれてから二十年。朝日もずいぶんまともになったもんだよ。
で、そのあと中国側の「前言」が続く。
長いので、抜粋すると、
チベット族は中国の西部にあって長い歴史を持つ民族の一つです。・・・13世紀以降、元、明、清の三王朝に従属しながらチベット人民はチベット高原を開拓し、明るく輝かしい文化を創造してきたのです。・・・・私たちはこの展示会を通じて日本のみなさんが中国チベット並びにチベット族の文化を理解することで、日中友好の絆が一層強く結ばれることを深く信じております。
チベット自治区文物管理委員会
中国対外文物展覧公司
で、ivに「チベット考古の発見」侯石柱
1949年に成立した中華人民共和国は、二年後平和的にチベットの解放をなしとげたが、それまでチベットで行われていた考古学調査は、ごく狭い地域に限られており、その資料も極めて不完全なものであった。また調査者はすべて外国人であり、しかも専門家ではなかった。チベットの平和的な解放の後、特にここ数年、チベット自治区および国内の関係部門はチベットで故国の考古学調査活動を行い、多くの成果を得た。
「平和解放」云々はもう言うまでもないとして、あのね、中国は1950年に東チベットに侵攻して後、チベットのすべての僧院を破壊するか閉鎖するかして、破壊された僧院の中にある文物も壊すか売り飛ばすかして散逸させた。土の下から多少の文物を発見したくらいで威張られてもねー。
で、問題は展示品。
仏教美術だけならまだしも、チベットと中国王朝との関係を示した文物が多い。たとえば、中国皇帝からチベットの高僧におくられた冊封文書とか転生僧の選定に使われた金の壺とか。
もうすぐ始まる九州国立博物館のチベット.展の展示にも、この金の壺あたりがきていたら、プロパガンダ決定。
ただ、九州国立博物館のチベット展はネットの説明を見る限りでは、かなり、主催者も気を遣っているみたい。チベットと中国の関係を、「高僧と施主の関係」と書いたりして、中国側の説明を鵜呑みにはしていない。まあカタログチェックするまでは判断しないけど。
福岡の次は東京の上野の森美術館、また東北のどこかにもまわるみたいなので、興味のある人はみんなチェックしにいこう!
ご挨拶
このたび、中国チベット自治区文物管理委員会並びに、中国対外文物展覧公司のご協力を得て、「中国チベット秘宝展」を開催するはこびとなりました。
日中の国交が正常化して16年。本年は日中平和友好条約締結10周年と日中両国にとって誠に意義深い年でもあります。この記念すべき年にあたり、ポタラ宮にある文物を中心にチベットの秘宝展を日本で初めて紹介いたします。今回展示される文物は120点と数も多く、そのいずれも彫像類、教典類、工芸美術品として仏教文化、仏教美術の神髄を極めており、まさにチベット文化の象徴とも言えるものであります。
この「中国チベット秘宝展」が多くの日本の皆様の目にふれ、チベットを知ることで、日中両国の一層の友好と親善、文化交流を深める一助となることを念じてやみません。
1988年7月 朝日新聞社
最後の「チベットを知ることで日中の友好と親善が深まる」って一文、今読むと、悪いジョークみたいだね(笑)。
「中国がチベットに対して行ってきたこと」を知ればしるほど、まともな神経もった人はドンビキして日中友好どころじゃなくなると思うけど。あ、彼らのいう「知る」の意味は「自分たちのプロパガンダを知る=理解する」ということなのかな。
甘いわ。
これがかかれてから二十年。朝日もずいぶんまともになったもんだよ。
で、そのあと中国側の「前言」が続く。
長いので、抜粋すると、
チベット族は中国の西部にあって長い歴史を持つ民族の一つです。・・・13世紀以降、元、明、清の三王朝に従属しながらチベット人民はチベット高原を開拓し、明るく輝かしい文化を創造してきたのです。・・・・私たちはこの展示会を通じて日本のみなさんが中国チベット並びにチベット族の文化を理解することで、日中友好の絆が一層強く結ばれることを深く信じております。
チベット自治区文物管理委員会
中国対外文物展覧公司
で、ivに「チベット考古の発見」侯石柱
1949年に成立した中華人民共和国は、二年後平和的にチベットの解放をなしとげたが、それまでチベットで行われていた考古学調査は、ごく狭い地域に限られており、その資料も極めて不完全なものであった。また調査者はすべて外国人であり、しかも専門家ではなかった。チベットの平和的な解放の後、特にここ数年、チベット自治区および国内の関係部門はチベットで故国の考古学調査活動を行い、多くの成果を得た。
「平和解放」云々はもう言うまでもないとして、あのね、中国は1950年に東チベットに侵攻して後、チベットのすべての僧院を破壊するか閉鎖するかして、破壊された僧院の中にある文物も壊すか売り飛ばすかして散逸させた。土の下から多少の文物を発見したくらいで威張られてもねー。
で、問題は展示品。
仏教美術だけならまだしも、チベットと中国王朝との関係を示した文物が多い。たとえば、中国皇帝からチベットの高僧におくられた冊封文書とか転生僧の選定に使われた金の壺とか。
もうすぐ始まる九州国立博物館のチベット.展の展示にも、この金の壺あたりがきていたら、プロパガンダ決定。
ただ、九州国立博物館のチベット展はネットの説明を見る限りでは、かなり、主催者も気を遣っているみたい。チベットと中国の関係を、「高僧と施主の関係」と書いたりして、中国側の説明を鵜呑みにはしていない。まあカタログチェックするまでは判断しないけど。
福岡の次は東京の上野の森美術館、また東北のどこかにもまわるみたいなので、興味のある人はみんなチェックしにいこう!
統治権確立50年
1959年の3月28日、ダライ・ラマ14世の亡命をうけて、中国はチベット政府を解体し、中国に名実ともに併合した。
この中国政府の決定は実は1951年に中国がチベットに締結を強要した十七条協約に約束してあった「ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの地位の保全」「チベット人の望まない改革は行わない」、などの項目を自ら破る、思い切りなワルな決定であった。
それから50年たった今年、中国は自分で制定した十七条協約を破って、ダライ・ラマ政権を解体したこの日を、突然「農奴解放記念日」に制定するといいだした。そいでもって、北京ではこの五十年チベットがどんなに発展したか、みたいな展覧会を同時開催して、国内の宣伝につとめている。
そういえば今年日本の国立博物館でも「チベット展」をやるとのことだが、まさか、この農奴解放50周年を記念しての展覧会じゃないよね。
まさか特定の国のプロパガンダに日本の国立博物館が使われるなんてことはないでしょうねえ。もしそんなことがあるなら、自分KYだから相当の批評をさせていただきます。
自分歴史学者なので政治が歴史を利用するようなことは本当に心底やってほしくありません。博物館に勤めていようが、大学に勤めていようが、研究者は「真実」に仕える職業。真実にもとるような展示だけは避けてもらいたいものです。ていうか、ダライ・ラマをはずしてチベット展を構成するのはかなりつまらないものになると思いますが(笑)。
で、くだんの三月二十八日を日本の各新聞社がどう伝えているかを比較してみた。
各紙の見出しはこんなカンジ、
(朝日)チベット「解放」中国が祝賀大会 統治権宣言50年
(読売)チベット「農奴解放」記念日、ダライ・ラマとの対決を強調
(毎日)チベット:動乱鎮圧50年で中国側が祝賀会--ラサ
(産経)“面従腹背”強めるチベット 大量宣伝と治安部隊で押さえ込み
で、内容は中国政府の言い分をまず、伝え、そのあとチベット人の言葉とか、亡命政府の声明とかを短く対比させて、全体としては「中国政府がチベット占領を正当化するためにムリをしてます」みたいな印象の記事にしたてている。
2000年初頭にカルマパが亡命した時もずいぶんチベットに対する理解は深まったが、この一年のチベット報道の変化はあの時以上だ。その代価がチベット人の流した血だと思うと一概に喜ぶわけにもいかないが。
カルマパの時に自分のところに取材にきた某紙の記者が、私が「チベットの情報を知りたかったら、これこれのサイトに新しい情報あがってますよ」といったら、
「自分、中国語はできるんですが、英語はできないんです」と言われて絶句したっけ。英語は中学からやってるはずだろうが!!!
四月三日に大学の教員のあつまるパーティがあったため、その場で、ジャーナリズム論を研究していらっしゃる先生のところにスタスタよっていって、
私が「チベット報道、この一年でずいぶんチベットよりに内容が変わったと思いませんか?」
と聞くと
その先生「ああ、変わったよね」
私「大晦日に朝日が社説でチベット問題を〔前に比べれば〕チベットよりの立場で解決するように提言してくれた時は、目頭押さえちゃいましたよ。だって、あの新聞ダライ・ラマのノーベル平和賞受賞にケチつけた新聞ですよ。この変化の裏に何があったか分かったら教えてくれませんか」といったら
その先生「ああ、面白いから調べてみるよ」とのこと。期待してます(ここで書けるかどうかわかんないけど)。
そして、気になっていることも質問してみた。1959年の3月28日におきたことを、各紙どう表現しているかをみてみると、朝日、毎日、産経ともに「中国がチベットに統治権を確立して50年」という表現を用いている。
読売だけはこの日を「統治権確立」の言葉を使わずに、新華社電をひいて『「農奴を解放した」と主張し』と、カッコにくくることによって「その内容を別に認めているわけじゃないよ」というニュアンスをだしている。
朝日新聞のデータベースを検索してみたところ、チベットに関連して「統治権の確立」などという言葉を使ったのはこれが初めてなので、この表現は今年にはいってから現れたように見える。そこで、そのジャーナリズム研究の先生に
私「統治権確立、という新しい表現を大手三紙が揃って使うのは、談合でもしていないと不自然(ちなみに、BBCなどの欧米の報道は農奴解放記念日を『』つきで批判的に直訳している)。三者はこの日をどう表現するか話し合っているのか」と伺ってみると、この件については知らないけど、朝日と毎日は大きな問題については話し合いの場があるらしく、最近では、読売と朝日も話し合いをもっているそう(じゃあ各紙横並びか 笑 せめていい並び方してね 笑)。
ちなみに、「農奴解放記念日」も終わったこととて、中国は四月五日くらいから、随時観光客の受け入れを始めるとのこと。いつまでも外国人を入境禁止にしていたら、外貨がおちませんものね。でも、きっとまた何かあったらすぐに入れなくなるんだろうな。
共産党のおかげで二十一世紀になってもチベットは"秘境"(笑)です。
この中国政府の決定は実は1951年に中国がチベットに締結を強要した十七条協約に約束してあった「ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの地位の保全」「チベット人の望まない改革は行わない」、などの項目を自ら破る、思い切りなワルな決定であった。
それから50年たった今年、中国は自分で制定した十七条協約を破って、ダライ・ラマ政権を解体したこの日を、突然「農奴解放記念日」に制定するといいだした。そいでもって、北京ではこの五十年チベットがどんなに発展したか、みたいな展覧会を同時開催して、国内の宣伝につとめている。
そういえば今年日本の国立博物館でも「チベット展」をやるとのことだが、まさか、この農奴解放50周年を記念しての展覧会じゃないよね。
まさか特定の国のプロパガンダに日本の国立博物館が使われるなんてことはないでしょうねえ。もしそんなことがあるなら、自分KYだから相当の批評をさせていただきます。
自分歴史学者なので政治が歴史を利用するようなことは本当に心底やってほしくありません。博物館に勤めていようが、大学に勤めていようが、研究者は「真実」に仕える職業。真実にもとるような展示だけは避けてもらいたいものです。ていうか、ダライ・ラマをはずしてチベット展を構成するのはかなりつまらないものになると思いますが(笑)。
で、くだんの三月二十八日を日本の各新聞社がどう伝えているかを比較してみた。
各紙の見出しはこんなカンジ、
(朝日)チベット「解放」中国が祝賀大会 統治権宣言50年
(読売)チベット「農奴解放」記念日、ダライ・ラマとの対決を強調
(毎日)チベット:動乱鎮圧50年で中国側が祝賀会--ラサ
(産経)“面従腹背”強めるチベット 大量宣伝と治安部隊で押さえ込み
で、内容は中国政府の言い分をまず、伝え、そのあとチベット人の言葉とか、亡命政府の声明とかを短く対比させて、全体としては「中国政府がチベット占領を正当化するためにムリをしてます」みたいな印象の記事にしたてている。
2000年初頭にカルマパが亡命した時もずいぶんチベットに対する理解は深まったが、この一年のチベット報道の変化はあの時以上だ。その代価がチベット人の流した血だと思うと一概に喜ぶわけにもいかないが。
カルマパの時に自分のところに取材にきた某紙の記者が、私が「チベットの情報を知りたかったら、これこれのサイトに新しい情報あがってますよ」といったら、
「自分、中国語はできるんですが、英語はできないんです」と言われて絶句したっけ。英語は中学からやってるはずだろうが!!!
四月三日に大学の教員のあつまるパーティがあったため、その場で、ジャーナリズム論を研究していらっしゃる先生のところにスタスタよっていって、
私が「チベット報道、この一年でずいぶんチベットよりに内容が変わったと思いませんか?」
と聞くと
その先生「ああ、変わったよね」
私「大晦日に朝日が社説でチベット問題を〔前に比べれば〕チベットよりの立場で解決するように提言してくれた時は、目頭押さえちゃいましたよ。だって、あの新聞ダライ・ラマのノーベル平和賞受賞にケチつけた新聞ですよ。この変化の裏に何があったか分かったら教えてくれませんか」といったら
その先生「ああ、面白いから調べてみるよ」とのこと。期待してます(ここで書けるかどうかわかんないけど)。
そして、気になっていることも質問してみた。1959年の3月28日におきたことを、各紙どう表現しているかをみてみると、朝日、毎日、産経ともに「中国がチベットに統治権を確立して50年」という表現を用いている。
読売だけはこの日を「統治権確立」の言葉を使わずに、新華社電をひいて『「農奴を解放した」と主張し』と、カッコにくくることによって「その内容を別に認めているわけじゃないよ」というニュアンスをだしている。
朝日新聞のデータベースを検索してみたところ、チベットに関連して「統治権の確立」などという言葉を使ったのはこれが初めてなので、この表現は今年にはいってから現れたように見える。そこで、そのジャーナリズム研究の先生に
私「統治権確立、という新しい表現を大手三紙が揃って使うのは、談合でもしていないと不自然(ちなみに、BBCなどの欧米の報道は農奴解放記念日を『』つきで批判的に直訳している)。三者はこの日をどう表現するか話し合っているのか」と伺ってみると、この件については知らないけど、朝日と毎日は大きな問題については話し合いの場があるらしく、最近では、読売と朝日も話し合いをもっているそう(じゃあ各紙横並びか 笑 せめていい並び方してね 笑)。
ちなみに、「農奴解放記念日」も終わったこととて、中国は四月五日くらいから、随時観光客の受け入れを始めるとのこと。いつまでも外国人を入境禁止にしていたら、外貨がおちませんものね。でも、きっとまた何かあったらすぐに入れなくなるんだろうな。
共産党のおかげで二十一世紀になってもチベットは"秘境"(笑)です。
五つの予断
じつは最近いろいろあってふと不安に駆られたりすることがあった。ダライ・ラマ法王もごろうちゃんもダンナも元気なので、もちろん本質的な悩みではないのだが、ちょっと精神虚弱な人ならウツが入るクラスの出来事がたてつづけにおきたので。
しかーし、今朝その状況が一変。
「ペリカン便でーす。」
「んだよ、またダンナがアマゾンで本かったのか」と柄の悪いわたくしは舌打ちしながら応対すると、なぜか私あて。自分注文した記憶もないので、ダンナからのプレゼントかなと箱を開けてみると、
『世界の野鳥 本から聞こえる200羽の歌声』
ダンナ、すごいじゃん。感動した。
が、よく見てみると、メッセージが。何と送り主はダンナではなく、ルトランジェHさんからだった(そりゃそうだダンナ選んだにしてはスマートすぎ。そもそも男って生き物はプレゼントヘタだよね。プレゼントうまい男はチャラ男だし 笑)。
Hさんはかつて『ツォンカパ伝』を出した時、私のいけなかったツォンカパの聖跡(セラチューディン・ラデン大僧院)などの写真を提供してくださった方。私のインコマニアぶりをご存じのため、お気遣い下さったのであろう。これも仏縁。
じつはHさんのご主人はフランスの方で芸術家。
奇しくも本日より一週間東京駅の大丸10Fの美術サロンでご主人ドミニク・ルトランジェさんの個展が開かれています(くわしくはここクリック)。
というわけで、単純おつむの私は野鳥図鑑(音付き)を抱えて、心から喜んだのであった(子供か)。
さて、とあるいきさつで、「モンゴル史研究の手引き」みたいな啓蒙書の編集委員になった。ようはモンゴルを研究している執筆者たちがみなで自分の研究しているテーマに基づいて、その研究手法、史料紹介、などを研究者の卵向けにかたるものである。で、締め切りが九月末なのだが、締め切りをまもる意識があまり高いとは言えない集団であるため、毎月月初めに追い込みのメールを送ることにした。
で、第一弾として自分がかく内容の冒頭部分の覚え書きを回してハッパをかけてみた(それで皆がやる気でるかわかんないけど いやむしろ逆効果?)。せっかく作文したし、最近ゼミ生の一人が何か研究に興味もってくれてるみたいなので、以下にはっておく。
----------------------------
17世紀から20世紀に社会主義革命の勃発によってチベット仏教世界が壊滅的打撃を受けるまで、チベット仏教の諸相はモンゴル社会においてドミナントな社会現象であった。
この時代のモンゴルの社会・政治・民俗・法政・経済を解明しようとする場合、研究者はチベット仏教の思想、並びに、仏教用語や僧院の生活などについて基本的な知識・教養を持つことは望ましいであろう。なぜならそうすることによって、チベット文・モンゴル文の年代記や歴史資料を著者の意図する通りに読解し、彼らの行動を理解することが可能となるからである。
何はともあれ、この時代の研究において決してやってはならないことは、当時の史料を自分の理解できる部分だけを拾い読みする、あるいは近現代に入ってから生まれた概念をもちこんで解釈することなどである。
モンゴル社会においてチベット仏教文化の持つ影響力はきわめて大きい。にも関わらず、モンゴル史の研究者にチベット仏教世界に関する知識や教養を持つものは驚く程少ない。また、その数少ない研究者についてもいくつかの予断が共通してみられる。モンゴル史の研究者にチベット仏教を学ぼうとする人があまり現れない理由、またすでにある研究の中にあるぬきがたい予断を以下に五つにまとめてみた。
(1)漢字文化圏に由来する思考様式
チベット仏教に由来する観念の多くは漢字文化圏に対応する概念がないことから定訳がない。そのため、漢文史料からチベット仏教世界の現象を読み取ることは本当に難しい。逆に言えば、漢文史料にチベット仏教的な現象が記されていないからといって、それはその時代、その場所に存在しなかったことにはならないのである。チベット仏教世界の諸相を明らかにするためには、チベット語・モンゴル語・満洲語史料を用いることは必須である。
チベット仏教に関連した出来事が漢文で記される場合、その多くが漢人官僚むけに述べられたものなので、漢人官僚が理解できるような思想に基づいて記される。たとえば、世界観だとすれば自動的に中国を中心としてチベットを周辺とし、野蛮人扱いする中華世界観的な思考が語られるが、その上下関係が現実の社会の実態に存在したかどうかは、一次史料に基づく事例研究の積み重ねをまたねばならない。
(2) 国民国家的な思考様式
国民国家という概念が東アジアに持ち込まれたのは19世紀も後半である。これからの類推により、チベットと清朝の関係を保護国と宗主国の関係ととらえたり、清朝のチベットに対する働きかけを「統治政策」「民族政策」「多民族統合」などの枠組みから思考する研究者が多い。しかし、19世紀以前には国民国家の概念はアジアに存在しないため、このような枠組みに基づく研究はじつに無意味である。歴史研究の仕事はその時代その時代に特有の現象をあぶりだすことにあり、現代の価値観を過去にあてはめて解釈したり、ましてやその当時の現象の善悪を断罪することではない。
ちなみに、満洲文や漢文の一次史料を見ると、清朝はチベットに出兵する際には、ダライラマ政権の要請を待ってから行っており、軍糧は内地から移送するか現地で買い上げるなどしてチベットの経済に負担をかけないようにし、事態が収束した後には及ぶ限り速やかに撤兵を検討するなどして、国益にもとづく侵略と受け取られないように配慮していた。チベットから税を徴収したり、内政に干渉したりしていたとの証拠も今のところ見いだされてない。さらに、同時代の史料には、チベットと清朝の関係を高僧とその信仰者(應供と施主)という枠組みでとらえていることを考えると、当時の清朝・チベット関係の間に宗主国・保護国の上下関係があったかは限りなく疑わしい。
(3)社会主義思想に由来する思考様式
社会主義の国々では国民に「宗教はアヘンである。封建領主が農奴たちを搾取するための便法である」という思考をすり込む。そのため、このような環境で育った研究者は自ずとチベット仏教を過小評価するか、研究の対象としても、「チベットにモンゴルの富が吸い尽くされた」「仏教を信じたことによりモンゴルが弱くなった」などの感情的な言説をとりやすい。しかし、歴史学の本来の仕事は、なぜこの時代、人々は競ってラマに布施をしたのか、その特殊な時代相を究明するところにあろう。
※昔とあるモンゴル人の友人が、パンチェンラマがモンゴルに巡錫した際「モンゴル人は自らの財産をすべてパンチェンラマに差し出し、パンチェンラマはチベットに通じる井戸にその布施を投げ込んでチベットに送った。おかげでモンゴル人は貧乏になった」、とものすごくチベット仏教を否定的に語ってくれました。
(4)ナショナリズムに由来する思考様式
ソ連の支配から自由になった反動から、モンゴル学界においては、モンゴル・ナショナリズムが全盛である。その結果、モンゴルの場合は、シャーマニズム、牧畜、口承文芸などのモンゴル固有と思われる現象を研究しようとする人は多くとも、外来思想とみなされるチベット仏教的な現象を研究する人は少ない。
しかし、たとえば当時モンゴルの知識人層の大半を占めていたのは高僧であり、かれらはチベット語で著作していた。それらは木版印刷で多くの人の目に触れていた。しかし、モンゴル学の研究者はこれらはチベット語で書かれているか故に、研究対象とすることはきわめてまれである。一方、識字率が低いため書記にも事欠いていた俗世にあって、モンゴル語で書かれた手書きの年代記や行政文書には多くの研究者が群がっている。多くの人の目にふれた木版のテクストを無視して、ただモンゴル語で書かれたという理由だけで、モンゴル文史料のみが研究されているこの現状はあまりにも偏っている。
(5) 現代日本人としての思考様式
現代日本においては、一般人が仏教と接する機会は法事か初詣の時くらいである。また、学問も教養も細分化を続けてきたため、現代人のほとんどに仏教学の知識はない。そのため、自分たちの現在の状況から類推して、「チベット仏教世界の知識人の脳内における仏教のプレザンスもたいしたものでない」との予断をもち、チベット仏教に関する事象を「王侯の私的な趣味」と矮小化したり、チベット仏教に帰依したことが明らかな為政者たちについては「チベット仏教を信仰するモンゴル人を支配するために、仏教を政治利用した」など、「信仰などというものが存在するはずはない」という前提の下に研究を行う人が多い。
また、現代の派閥力学的思考を歴史資料に持ち込むこともよくない。清朝とチベット・モンゴル史などを例にとると、親清派と反清派などという派閥概念を人や集団にあてはめ論じることは大概建設的でも実態に即しているともいえない。
この五つの予断を排し、チベット仏教に関する知識・教養を育めば、当時の史料をその時代の文脈のままに読み取ることができ、当時の人々の行動様式を知ることができるのである。
て、今気がついたけど、モンゴル史の研究者に向けたものなのに、二番はチベット史の研究者にむけての内容になっているよ(笑)。
しかーし、今朝その状況が一変。
「ペリカン便でーす。」
「んだよ、またダンナがアマゾンで本かったのか」と柄の悪いわたくしは舌打ちしながら応対すると、なぜか私あて。自分注文した記憶もないので、ダンナからのプレゼントかなと箱を開けてみると、
『世界の野鳥 本から聞こえる200羽の歌声』
ダンナ、すごいじゃん。感動した。
が、よく見てみると、メッセージが。何と送り主はダンナではなく、ルトランジェHさんからだった(そりゃそうだダンナ選んだにしてはスマートすぎ。そもそも男って生き物はプレゼントヘタだよね。プレゼントうまい男はチャラ男だし 笑)。
Hさんはかつて『ツォンカパ伝』を出した時、私のいけなかったツォンカパの聖跡(セラチューディン・ラデン大僧院)などの写真を提供してくださった方。私のインコマニアぶりをご存じのため、お気遣い下さったのであろう。これも仏縁。
じつはHさんのご主人はフランスの方で芸術家。
奇しくも本日より一週間東京駅の大丸10Fの美術サロンでご主人ドミニク・ルトランジェさんの個展が開かれています(くわしくはここクリック)。
というわけで、単純おつむの私は野鳥図鑑(音付き)を抱えて、心から喜んだのであった(子供か)。
さて、とあるいきさつで、「モンゴル史研究の手引き」みたいな啓蒙書の編集委員になった。ようはモンゴルを研究している執筆者たちがみなで自分の研究しているテーマに基づいて、その研究手法、史料紹介、などを研究者の卵向けにかたるものである。で、締め切りが九月末なのだが、締め切りをまもる意識があまり高いとは言えない集団であるため、毎月月初めに追い込みのメールを送ることにした。
で、第一弾として自分がかく内容の冒頭部分の覚え書きを回してハッパをかけてみた(それで皆がやる気でるかわかんないけど いやむしろ逆効果?)。せっかく作文したし、最近ゼミ生の一人が何か研究に興味もってくれてるみたいなので、以下にはっておく。
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17世紀から20世紀に社会主義革命の勃発によってチベット仏教世界が壊滅的打撃を受けるまで、チベット仏教の諸相はモンゴル社会においてドミナントな社会現象であった。
この時代のモンゴルの社会・政治・民俗・法政・経済を解明しようとする場合、研究者はチベット仏教の思想、並びに、仏教用語や僧院の生活などについて基本的な知識・教養を持つことは望ましいであろう。なぜならそうすることによって、チベット文・モンゴル文の年代記や歴史資料を著者の意図する通りに読解し、彼らの行動を理解することが可能となるからである。
何はともあれ、この時代の研究において決してやってはならないことは、当時の史料を自分の理解できる部分だけを拾い読みする、あるいは近現代に入ってから生まれた概念をもちこんで解釈することなどである。
モンゴル社会においてチベット仏教文化の持つ影響力はきわめて大きい。にも関わらず、モンゴル史の研究者にチベット仏教世界に関する知識や教養を持つものは驚く程少ない。また、その数少ない研究者についてもいくつかの予断が共通してみられる。モンゴル史の研究者にチベット仏教を学ぼうとする人があまり現れない理由、またすでにある研究の中にあるぬきがたい予断を以下に五つにまとめてみた。
(1)漢字文化圏に由来する思考様式
チベット仏教に由来する観念の多くは漢字文化圏に対応する概念がないことから定訳がない。そのため、漢文史料からチベット仏教世界の現象を読み取ることは本当に難しい。逆に言えば、漢文史料にチベット仏教的な現象が記されていないからといって、それはその時代、その場所に存在しなかったことにはならないのである。チベット仏教世界の諸相を明らかにするためには、チベット語・モンゴル語・満洲語史料を用いることは必須である。
チベット仏教に関連した出来事が漢文で記される場合、その多くが漢人官僚むけに述べられたものなので、漢人官僚が理解できるような思想に基づいて記される。たとえば、世界観だとすれば自動的に中国を中心としてチベットを周辺とし、野蛮人扱いする中華世界観的な思考が語られるが、その上下関係が現実の社会の実態に存在したかどうかは、一次史料に基づく事例研究の積み重ねをまたねばならない。
(2) 国民国家的な思考様式
国民国家という概念が東アジアに持ち込まれたのは19世紀も後半である。これからの類推により、チベットと清朝の関係を保護国と宗主国の関係ととらえたり、清朝のチベットに対する働きかけを「統治政策」「民族政策」「多民族統合」などの枠組みから思考する研究者が多い。しかし、19世紀以前には国民国家の概念はアジアに存在しないため、このような枠組みに基づく研究はじつに無意味である。歴史研究の仕事はその時代その時代に特有の現象をあぶりだすことにあり、現代の価値観を過去にあてはめて解釈したり、ましてやその当時の現象の善悪を断罪することではない。
ちなみに、満洲文や漢文の一次史料を見ると、清朝はチベットに出兵する際には、ダライラマ政権の要請を待ってから行っており、軍糧は内地から移送するか現地で買い上げるなどしてチベットの経済に負担をかけないようにし、事態が収束した後には及ぶ限り速やかに撤兵を検討するなどして、国益にもとづく侵略と受け取られないように配慮していた。チベットから税を徴収したり、内政に干渉したりしていたとの証拠も今のところ見いだされてない。さらに、同時代の史料には、チベットと清朝の関係を高僧とその信仰者(應供と施主)という枠組みでとらえていることを考えると、当時の清朝・チベット関係の間に宗主国・保護国の上下関係があったかは限りなく疑わしい。
(3)社会主義思想に由来する思考様式
社会主義の国々では国民に「宗教はアヘンである。封建領主が農奴たちを搾取するための便法である」という思考をすり込む。そのため、このような環境で育った研究者は自ずとチベット仏教を過小評価するか、研究の対象としても、「チベットにモンゴルの富が吸い尽くされた」「仏教を信じたことによりモンゴルが弱くなった」などの感情的な言説をとりやすい。しかし、歴史学の本来の仕事は、なぜこの時代、人々は競ってラマに布施をしたのか、その特殊な時代相を究明するところにあろう。
※昔とあるモンゴル人の友人が、パンチェンラマがモンゴルに巡錫した際「モンゴル人は自らの財産をすべてパンチェンラマに差し出し、パンチェンラマはチベットに通じる井戸にその布施を投げ込んでチベットに送った。おかげでモンゴル人は貧乏になった」、とものすごくチベット仏教を否定的に語ってくれました。
(4)ナショナリズムに由来する思考様式
ソ連の支配から自由になった反動から、モンゴル学界においては、モンゴル・ナショナリズムが全盛である。その結果、モンゴルの場合は、シャーマニズム、牧畜、口承文芸などのモンゴル固有と思われる現象を研究しようとする人は多くとも、外来思想とみなされるチベット仏教的な現象を研究する人は少ない。
しかし、たとえば当時モンゴルの知識人層の大半を占めていたのは高僧であり、かれらはチベット語で著作していた。それらは木版印刷で多くの人の目に触れていた。しかし、モンゴル学の研究者はこれらはチベット語で書かれているか故に、研究対象とすることはきわめてまれである。一方、識字率が低いため書記にも事欠いていた俗世にあって、モンゴル語で書かれた手書きの年代記や行政文書には多くの研究者が群がっている。多くの人の目にふれた木版のテクストを無視して、ただモンゴル語で書かれたという理由だけで、モンゴル文史料のみが研究されているこの現状はあまりにも偏っている。
(5) 現代日本人としての思考様式
現代日本においては、一般人が仏教と接する機会は法事か初詣の時くらいである。また、学問も教養も細分化を続けてきたため、現代人のほとんどに仏教学の知識はない。そのため、自分たちの現在の状況から類推して、「チベット仏教世界の知識人の脳内における仏教のプレザンスもたいしたものでない」との予断をもち、チベット仏教に関する事象を「王侯の私的な趣味」と矮小化したり、チベット仏教に帰依したことが明らかな為政者たちについては「チベット仏教を信仰するモンゴル人を支配するために、仏教を政治利用した」など、「信仰などというものが存在するはずはない」という前提の下に研究を行う人が多い。
また、現代の派閥力学的思考を歴史資料に持ち込むこともよくない。清朝とチベット・モンゴル史などを例にとると、親清派と反清派などという派閥概念を人や集団にあてはめ論じることは大概建設的でも実態に即しているともいえない。
この五つの予断を排し、チベット仏教に関する知識・教養を育めば、当時の史料をその時代の文脈のままに読み取ることができ、当時の人々の行動様式を知ることができるのである。
て、今気がついたけど、モンゴル史の研究者に向けたものなのに、二番はチベット史の研究者にむけての内容になっているよ(笑)。
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