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白雪姫と七人の小坊主達
なまあたたかいフリチベ日記
DATE: 2008/11/30(日)   CATEGORY: 未分類
ジブリから『死者の書』
 1993年にNHKスペシャルで放映された『チベット死者の書』が来年一月にジブリ学術ライブラリーから復刻される。で、その紹介文を書くという依頼を受けた。

 もちろん自分、このビデオをもっているが、最近ビデオデッキを片付けてしまったので、ずーっと見ていなかった。なので、ジブリから送ってもらったマスターテープをみて記憶を再生!と思ったら、なぜかnhkの世界のニュースが入っていた。後半部は問題なく入っていたので、たぶん担当者が間違ったdvdを送ってきたのだろう。関係ないけど、そのニュースがよりにもよって八月のオリンピックの開会日間近のもので、フランスの中国大使館の前で、フランスのチベットサポーターが、デモしている様子が流れていた。

 昔スタディ・ツァーで一緒にチベットいったお客さんが、今年八月フランスにいてデモに参加していたら、フランス人は日本人もチベット人も区別つかないのか、「がんばってね」とたくさんの人から暖かい言葉をかけてもらったという。完璧に人違いではあるけど、人の幸せを損得抜きで祈るって、美しいことだよねえ。

 いろいろあったなあ、今年。

 と遠い目をしていても始まらないので、話を元に戻すと、ジブリライブラリーとは宮崎駿監督が影響を受けた作品をだすという企画なので、宮崎監督は『チベットの死者の書』に影響を受けていたことになる。

 前から「ナウシカ」とか「シュナの旅」の設定には、何げに『失われた地平線』とか、チベットの風景が入っているなあと思ったり、今年一月のジブリのファンの会報誌『熱風』が「チベット」特集だったりしたから(私の雑文ものってまーす)、今回のdvd企画も、何となく腑に落ちた。

 知らない人のために言うと、1993年にこの『チベット死者の書』が放映されたとたん、大ブームがおきた。この番組を本にした『チベット死者の書 仏典に秘められた死と再生』(NHK出版)とこの番組の台本を書いた中沢新一氏の『三万年の死の教え』(角川書店)と、チベット語の原典から死者の書を飜訳した『原典訳チベット死者の書』(ちくま文庫)はどれも大ベストセラーになり、みなが、こぞって死について語り出したものだった。

 でも、それから二年後にオ○ム事件とかあって、彼らの愛読書の中にこの本があったりしたもんだから、みんなドン引きして、日本人の精神世界に対する興味は一気にしぼんだもんよ。

 いろいろあったなあ、あのころ。

 チベット死者の書で説かれているのは、死者が死んでから、次の体に生まれ変わるまでの、中有(パルド)の期間の出来事である。人は死ぬと意識からできた体となり、自らの意識が作り出す幻影におびえて縮こまる。そのパニック状態の死者の意識を導き、無事に次の生に送り出すためのテクストが、このチベット死者の書(パルドトゥドル=パルドで聞いて解脱する)なのだ。

 死は一般人が、日常的な騒がしい意識から離れて、仏の意識に近づける数少ないチャンスである。チベット密教においては仏の意識を得るための修行法として「生起次第」と「究竟次第」という修行法を説く。これによって、日常的な粗い意識を、瞑想によって鎮め、どんどん微細なものにしていき、最終的には「すべてのものは実体がない」(空性)を実現した意識を得ようとする。

 一般の人にはこのような瞑想はムリなので、死に際しておきる現象を例にとって、人の心と体のあり方について教えるという意味もある。

 ネット情報だから本当かどうか分からないけど、宮崎監督は「もののけ姫」(1997)あたりでこの『死者の書』の影響を受けたらしい。

 で、「もののけ姫」を思い出してみると(DVD買えよ)、思い出す限りでは、シシ神様あたりが、それではないか、と思いつく。シシ神様は昼は荘厳なシカの姿をとり、夜は透き通った巨大なデイダラボッチという巨人になる。生を与えることも、奪うこともできることから、生と死を司るあらゆるものの根源を視覚化したと解釈されている。

 マルクス主義者とか、物質主義者にとっては、生しかない。彼らにとって死後の世界は何もないものだから、考えるに値しないものである。だから、死を怖れ、死の直前まで死のことは出来る限り考えないようにする。しかし、チベットにおいては死も生も一体となって輪となっているわけであり、なおかつ、死の世界の意識こそ、もっとも根源に近づいているものだから、死を心と体の一部に抱えて生きている。

 チベットでは、仏の肉体は色身(形ある体)といい、覚りの境地を法身(真理の体)という。これを普通の人間にあてはめると、生きている間のこの肉体を色身、死んでから生まれ変わるまでの間の意識からなる体を法身ということもできる。

 で、これが宮崎作品にどう関係しているかだが、シシ神様が昼(生)はシカの姿でも、夜(死)は透き通った巨大な神様の姿になり、かつ、この夜の姿が穏やかな姿と恐ろしい姿があるあたりが、シカがシシ神様の色身で、デイダラボッチが法身にあたり、かつ、その穏やかな姿が死者の意識に現れるやさしい仏たち(寂静尊)で、恐ろしい姿が死者の意識がみる怒れる仏たち(忿怒尊)なのかもしれない。

 まあ、文書書くのは前半部を見てからにしよう(笑)。

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DATE: 2008/11/25(火)   CATEGORY: 未分類
ニューヨークのフリチベ事情
29日、神谷町の光明寺でチベットのためのキャンドルナイトが行われるという。ゲスト・スピーカーは西本願寺ニューヨークの支部の方で、スピーチのテーマは「ニューヨークにおける平和運動」について。

 ニューヨークは言うまでもなくフリー・チベットの一大センターである。
 1987年に「チベット文化のサバイバルを行う組織が欲しい」とダライラマ法王が呼びかけたことにこたえ、当時からチベット仏教のサポーターとして知られていたリチャード・ギアとチベット仏教学の研究者であるロバート・サーマン教授と作曲家のフィリップ・グラスの三人が、ニューヨークにチベット・ハウスを設立した。

 このチベット・ハウスは諸外国がならった結果今や36ヶ国に及び、チベット文化の伝導に励んでいる(ちなみに、護国寺で行われている一連のイベントは、東京のチベット・ハウス主宰です)。

 ニューヨークのチベット・ハウスでは平日のほぼ毎日、チベット文化にまつわる講演や講義が行われており、大きなイベントとしては年に一回、チベット暦の正月にカーネギーホールにおいて、慈善コンサートを行って、寄附をつのっている。

で、この慈善コンサートに集まる面々がスゴイ。

往年のパンクの女王パティ・スミスは常連。デヴィッド・ボウイは複数回、一回だけだけどアダム・ヤウクもきていた。ロバート・サーマン教授はじつは女優のユマ・サーマンのパパだったりするので、このコンサートには、ユマもきまーす。

ちなみにユマはチベット語で「中観」(dbu ma)哲学のことでーす。

 サーマン教授は若い頃(1962-65)、チベットのゲルク派の僧院で出家し、アメリカ人としてはじめてチベット僧院のカリキュラムを厳格にこなした方である。なので、彼が「チベットの文化を維持する」という時は、まさにファッションではなく、王道をいっている。では、ちょっと聞いてみましょう。

 「瞑想しに行こうよ」というのが、時代のファッションだったわけです。しかし、ただ瞑想に心を静めるという効果を求めるだけでは、仏教のゴールである解脱には近づけません。混乱した心のままで瞑想すれば、混乱の度合いは余計ひどくなるでしょう。それに瞑想の場からまた現実社会に戻れば、そのギャップでもっと困惑してしまいますからね。

 仏教の三本柱は、戒律を守る倫理性の確立。
 瞑想を通じた内省。
 自己の内省から叡智を得ること、ですね。

※イシハマ注。サーマン教授は戒・定・慧の三学を述べています。また、「解脱」を目標としているところから、チベット仏教の定義する三つの動機のうち、中人物(小人物と大人物の間)の仏教修行を述べていることが分かります。彼が、外人のフリチベに中人物の修行法を説いているのは興味深いどす。

 それを体系的に体得していくのが仏教ですから、心を静めるための瞑想追求だけでは誤った仏教理解となります。

 アメリカ人の悪いところは過程を大事にせず、すぐにゴールに行き着こうとする癖です。

「解脱し菩薩となって生類を救う」という大義名分を掲げるのは素晴らしいことです。そのために密教をならいたいという人は後を絶ちません。
でも、その前には戒律がある。
断酒しなければならない、というと、「え? ビールを飲んではいけないの?」とくる。密教の奥義は習いたいが、ビールはあきらめることができない、という態度では本末転倒です(笑)。(『
ジッポウ』6, p.28)
 
 ですよね~。

 チベットの修道カリキュラムでは、まず戒律を守り、その上で仏の境地に関する様々な概念を体系的に学び、最後にその仏の境地を速やかに実現するための手段として密教が説かれ、それを修めて後仏の境地を得るとされる。

 密教は、高速道路でスーパーカーを高速で運転することだと考えるとわかりやすい。車についてよく知らなかったり、運転技術が未熟だったりすると事故るし、その際は一般道路を普通の車で走る時よりはるかに大きな痛手を被る。

 なので、チベットではちゃんと手順を踏んでから、高速に入る。

  努力しないで結果だけを求める横着者が多い現代、体得までに時間も労力もかかるチベットの仏教文化を維持していくのは大変だ。それも仏教の伝統が存在しないアメリカで、チベット文化の維持を続ける事業を行っているのだから、サーマン教授には本当に頭がさがる。

 昔から今にいたるまで、チベット仏教はその時もっとも繁栄した国々の人々の心を奪い、その人たちをガーディアンとして存続をはかってきた。

 もしまだ当分この状況が続くとするのであれば、われわれ外人はこの歴史にならって、とにかくインドにあるチベット僧院をできるだけ長く生き延びさせるお手伝いをすることであろう。

 だから、チベット・ハウスが、講座や講演を通じてアメリカ人にチベット文化のすばらしさを伝え、共感した人々によってイベントをおこない寄附金をつのる、というやり方は今のところ最善の策であろう。

 最後になりましたが、サービスで、慈善コンサートの常連、パティ・スミスがチベットをうたう「1959年」(ダライラマが亡命した悲劇の年)を訳します。
 もし訳や解釈が違っていたら、ご教示いただけると嬉しいです。
そいえば、早稲田祭の最終日、ゼミ生k君が、パティのTシャツ着て、来てくれてたな。

1959年(Peace & Noise 1997)

わたしの話を聞いて
二つ話したいことがあるの
一つは落ちた栄光の物語※(チベットのこと)
一つは虚栄の物語※(アメリカのこと)
世界の屋根※(チベットのこと)は途方なく
でも、わたしたちは「それ」※(社会主義のことか?)を大丈夫だと見た
わたしたちが「それ」を作ったから。
でも、「それ」には羽が生えた
1959年に

智慧とは
堕天使が愛と共に上から
注いでくれるお茶みたい。
あらゆる種類の光のように諍いに火を付け
ハデなデザインで動き
「それ」に滑り込んで、「それ」には羽が生えてしまった
1959年に

それは太陽に輝く血だった。
自由を!
アメリカの主張が「それ」を加速させた
自由、自由、自由を……

中国は大荒れ
狂気が横行した
〔ダライ・〕ラマはまだ若かった
自分の国が炎に包まれるのを見た
栄光が雲の端に引きずり下ろされた。
なんて悲劇だ。
もう一つの『失われた地平線』。チベットは墜ちた巨星。
智慧と慈悲は潰えた。シャングリラの地で。
しかし、インパラとハネウェルの国※(アメリカのこと)では
大丈夫なように見えた。
われわれが「それ」を作ったのだから。
でもそれには羽が生えてしまった
1959年に

われわれが「それ」を作ったのだから。
でもそれには羽が生えてしまった
1959年に
それは最高の時代でもあり、最悪の時代でもあった
1959年は
1959年、1959年、1959年
それは最高の時代でもあり、最悪の時代でもあった
1959年
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DATE: 2008/11/21(金)   CATEGORY: 未分類
オバマさんとチベット
 そいえば三月にチベットが蜂起した時、その時の大統領候補者三人がみなチベット情勢を憂う声明を出したけど、オバマさんの声明は↓なカンジでした。

 チベット蜂起に際して出されたバラク・オバマ氏の声明(2008年3月14日シカゴ)

 中国当局が、チベットの僧侶たちの平和的な抵抗運動に対して弾圧や逮捕などを行っているとの報に接し、わたしは深く憂慮しています。私は平和的な抵抗運動を鎮圧するために当局が暴力をふるったことを非難します。中国当局にチベットの人々の基本的人権を尊重すること、拘留された僧侶たちの所在を明らかにすることを要求します。

一連の出来事はチベット仏教の精神的指導者ダライラマの亡命49年目の記念日におきました。僧侶たちは北京がチベットを支配するそのやり方に対するずっと昔から今に至るまで続いているチベット人の怒りを表現しているのです。

過去六年間、中国の指導部とダライラマの代表の間では非公式の対話が行われてきました。対話をしてきたことはいいのですが、中国はこれまで議論の中で一切柔軟な姿勢をみせてきませんでした。そしてチベット人は対話を続けようと望んでいたにもかかわらず、次の対話の予定も決まっていない状態です。

 もしチベット人が中国の人々と共存していくのであれば、チベットの宗教と文化は尊重され、保護されねばなりません。

チベットは真の意味での有意義な自治を享受すべきです。ダライラマがいずれチベットに帰還できるように、ダライラマはまず中国に招待されねばなりません。

 今年は北京オリンピックの年です。それは中国がここ数年来なしとげてきたことを世界に示す機会であることも示しています。中国の偉業はすばらしく、中国の人々はそれを誇る権利があります。しかしここ数日間でおきたチベットでの出来事は不幸なことに中国の〔華々しい偉業とは〕別の面を示しています。

 今こそ、北京政府はチベットとチベット人を扱う扱い方を変え、人々が中国に対してもっているイメージを良い方に変える施策をとる時です。

 今こそチベットの人々の人権と宗教の自由を尊重する時です。


 て、言ってたのですが、今回大統領に当確した時、あの歴史的な名勝利演説の中で、あらゆる人々に対するありったけの感謝を述べ、その協力をもとめたその後で、
 「あらゆる人々の声を自分は聞く」といった文脈の中で

オバマ勝利宣言(2008年11月5日20:57gooニュース)

この国から遠く離れたところで今夜を見つめているみなさん。外国の議会や宮殿で見ているみなさん、忘れ去られた世界の片隅でひとつのラジオの周りに身を寄せ合っているみなさん、私たちの物語はそれぞれ異なります。けれども私たちはみな、ひとつの運命を共有しているのです。アメリカのリーダーシップはもうすぐ、新たな夜明けを迎えます。
この世界を破壊しようとする者たちに告げる。我々はお前たちを打ち破る。

平和と安全を求める人たちにお伝えします。私たちはみなさんを支援します。


といっているのはおそらく、当局から没収を逃れたラジオ(今やそんなのあるかどうか疑問だけど)にかじりついてラジオ・フリー・アジアを聞いているチベット人、そして、そのチベットをサポートするすべての人々に呼びかけているのだと解釈した。彼はマイノリティ出身だから、たぶんチベットに対してもそう邪見の扱いはしないと思いたい。

 ちなみに、オバマさんの演説は最後に、公民権運動(黒人の権利獲得運動)の歴史を短く端的にのべ

「アトランタからやってきたその牧師は人々に「We shall overcome(私たちは克服する)」と語った。Yes we can。私たちにはできるのです。」
 「アトランタからやってきた牧師」とは言うまでもなくキング牧師のことで、We shall overcomeは、公民権運動で誰がはじめるともなく歌われた抵抗歌
"We shall overcome"である。

じつはこのWe shall overcomeはキング牧師以後、多くの社会運動の中で歌われてきており、この前とりよせた1996年にドイツのボンで行われた第二回チベット支援者国際会議(Second International Conference of Tibet Support Groups)の議事録にも、閉会式の最後にこの曲が歌われていたことが書かれていた。

 その議事録にはWe shall overcomeが四番までのっていた。ここで記念採録。

 我々は勝つ 我々は勝つ 
 我々はいつか勝つ 
 心の底から信じている
 私たちはいつか勝つ

 我々は怖れない 我々は怖れない
 我々は今、怖れない 
 心の底から信じている
 私たちはいつか勝つ

 我々は手を取り合う 我々は手を取り合う
 我々は今、手を取り合う
 心の底から信じている
 私たちはいつか勝つ

 真実は我々に自由をもたらす 真実は我々に自由をもたらす
 いつか真実は我々に自由をもたらす
 心の底から信じている
 私たちはいつか勝つ

 ランツェン! ランツェン!(チベット語で"独立!"の意味)
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DATE: 2008/11/16(日)   CATEGORY: 未分類
チベット基礎講座
 土曜日、渋谷の東急カルチャーさんでチベットを講義した後、護国寺のチベット・イベントbTibet08(チベット基礎講座2008)に向かう。

 相変わらずチベット漬けである。

 そいえば二日前の木曜日、ゼミ生二人とインドカレー屋に入ったところ、店主のシンさんが私を見て

 「この人は日本人か?」とゼミ生に聞いた。
するとゼミ生A「んー、ちょっと微妙ですよね。」
ゼミ生B「違いますよ」と即答して、店主を騙していた。
 店主、自分ナニジンに見えたのか。やっぱチベット人か?

 話を戻すと、護国寺様のイベントは先月に続いてこの日で二回目。ダライラマ法王が来日されたばかりとあって、参列者は二百人くらい。式次第はチベットのお坊さんたちによる法要に移っていた。

 日本のお寺で行われる法要は、余程有名なもの以外は一般人が参集することはほとんどない。つまり、法要はお坊さんの中の身内の行事と化している。
 しかし、この法要は僧侶の数(チベットのお坊さん三人と日本人のお坊さん五人?)よりも、一般人の参集者の方が多い。しかも後半からは一般人も唱和して法要に参加するので、魂が籠もっている。

 在日チベット人たち、フリチベファイター、宗派関係なしに参列した日本のお坊さんたち。それはもう多士済々。プライバシーがあるので、その雰囲気をこの方たちのお靴の写真で表現させていただきます。
くつ
 この法要を主宰するのは、広島にあるチベット寺龍蔵院からきたお坊さんたち。もともとはインドのムンドゥゴットにあるデプン大僧院のゴマン学堂の僧侶たちである。

 デプン大僧院とはいわずとしれたラサ三大僧院のうちの一つであり、歴代ダライラマも狭義の意味ではこの僧院に属する。ポタラ宮が建設される前には、ダライラマの居殿はこのテプン大僧院の中にあるガンデンポタン(兜率宮)であった。それゆえ、まだチベットに国があったころ、ダライラマ政権の名前をガンデンポタン政庁といった。
 
 チベットの大僧院はちょっと見には大きな村のようである。何千人ものお坊さんが、死ぬまでこの中で生活するので、僧房、集会殿、台所、トイレなど普通につくっていっても相当な規模になるのである。僧院に入門やする僧は出身地ごとに地域寮(カムツェン)に別れて暮らす。広いチベットは地域によって方言があったことから意思疎通のためと、中央で勉学を終えた後、生まれた地域に戻って寺を建てる場合に中央との人やモノのパイプを保つため、出身地域ごとに集団生活を行わせていたのである。

 で、現ダライラマ14世はドカム(東北チベット)の青海地域生まれである。古より、モンゴル、青海などの出身者は、みなデプン大僧院のゴマン学堂に入門した。つまり、ダライラマ14世も一僧侶としての所属学堂はゴマン学堂、さらに詳しくはその中のサムロ寮所属なのである。

 モンゴルの軍事力がまだまだものをいっていた17世紀初頭、モンゴルからの留学生を受け入れていたゴマン学堂は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
 しかし、21世紀になった今、たしかにモンゴルからの留学生は相変わらず沢山いるが、ゴマン学堂の勢威は・・・・・・(自粛)。

 護国寺にきているゴマンのお坊さんたちは普段は広島の龍蔵院というお寺にいらっしやる。この龍蔵院はご住職がいらっしゃるもののそこに住んでいらっしゃらなかったため、浮浪者による失火とかがあったため、渡りに船と無償で貸していただいているとのこと。

 ゲシェ号(仏教博士号)もっているラマもいるんだから、びしっと毎日法話会の一つもやっているのかと思いきや、今のところ法話会は月二回くらいで、それ以外の日はここを訪れる人はお坊さんと一緒にこたつとかに入ってまったり話をしたりしている。まあ、これもチベットの僧院のある一面の姿であろう。

 法要の合間や終わった後のファミレスで、今後この会をどのようにしていくかの方針について話し合う。まず、一番深刻なのは、広島からお坊さんお呼びする経費をどこから捻出するか。それから、講座の内容を仏教のお話をガチでやるのか、文化や歴史のなどもまじえて文化講座にするのかなどなど。
 
 私の意見はと言えば、経費については仏教の法要は施主がいて行われることだから、施主が少なく布施が集まらないのなら、赤字になってやっても仕方ない、その時点でやめるしかあるまい。私のゼミ生が在日の学生と日本の学生たちを結ぶ交流イベントの主宰を行っていたが、彼は韓国料理屋や韓国系企業を足繁くまわって自分たちで資金を集め、協賛をふやしながら、同時にその会の存在を周知させていって、イベントを成功に導かせた。

 座っていてもはじまらない。東京で何人かの運営スタッフを決めて、東京中のお寺などをまわって協賛をえて、フライヤー配布などを行うことがまあ現実的な解決策であろう。

 最終的には協力してくださるお寺さんや個人の間で互助組織を作るとかまでいくと望ましい。

 わあ、大変。誰がやるのかしらー。

 あと、講座の内容は文化(曼荼羅の見方とか、チベット問題の講義とか、歴史とか、旅行写真を皆にみせる)もやっていいと思うけど、必ずはずしてはならないのは、仏教だと思う。

 その場合注意すべきは日本人スタッフのフォローである。チベットのお坊さんが何かをお話する時には、それがどんな簡単な話であっても、その背景には彼らがよみ重ねてきた膨大なテクストと学識がつまっている。日本人でそれを理解できる人があらかじめレジュメをつくって参加者にまわすだけで、法話の内容への理解の程度が断然違ってくる。

 来月は四聖諦の講義であるというが、一般の人が耳で苦諦、滅諦、集諦、道諦とか順観とか逆観とか聞いてもわからんだろう。最低の用語の解説を行って事前に配布しておいたら親切である(そいえば『ダライラマの仏教哲学講義』が四聖諦の解説に詳しいよ)。

TAOWL

 話変わって、この日、すなわち十一月十五日は我が家の愛鳥ごろう様(オカメインコ)が光臨された記念日であった。

 「最近ごろうちゃんについての言及がありませんが、元気ですか」とよく聞かれるが、おかげさまで元気です。チベットがえらいことになっているので、自粛しているだけで、本来なら彼がいかに可愛いか、そして頭がいいかについて三日三晩語り続ける気マンマンである。もしチベットが自治を獲得できたようなアカツキには、このブログも即刻、本来の親バカサイトに回帰するつもりである。はやくそうなって欲しいものである。

 最後になりしまたが、ごろうからの伝言です「大阪のノーマルオカメインコ、あくびちゃんのお母さま、チョコと歌うバースデーカードありがとうございました。」
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DATE: 2008/11/10(月)   CATEGORY: 未分類
チベット漬けの日々
コメント欄の投稿の仕方
昨日、おあいした方よりコメント欄の投稿の仕方がわからない、との話を聞きました。たとえば、画像の七・ご・イチ・三は算用数字半角になおして、この場合だったら7513になおすと成功します。面倒になってすみません


木曜日、東京の国技館で猊下ご講演。

 花束贈呈係を拝命したので、16年ぶりに着物をきる。
 最初、どういう服装でいくか悩んで、「まあ学者だしスーツでいっかあ。猊下は服装で人を判断する人じゃないし」と思ったが、一抹の不安を覚えたので、親戚に電話をしてみる。

 すると、「スーツだけはやめないさい。日本人の最高の格式は留め袖。留め袖もっているなら留め袖着なさい」と言われる。

 確かに留め袖はもっている。バブルの最中に調子にのって仕立てたのだ。バブル期だけあって、まぶしい金色である(わかりやすい!)。仏教的には金色は吉祥。ダークスーツよりはいいかあ。

それから、親戚、ご近所のおばさん、そのおばさんから紹介された洗い張りやさん、ホテルの美容室の着付係など多数の人々から「こんなことも知らないのか&できないのか」攻撃を受けながら、当日着用にこぎつけた。

 くくくく苦しい。足も組めないし、腕も組めない(すな)。直立不動でただ座るしかない。つらくて猊下のご講演が頭に入らない。

 「ああ、今日も猊下は裸足にビーチサンダルだわ。とても楽そう。」
と思いながら聴いた猊下のご講演は要約すると

「私に特別の力を期待して来られた方、わたしにはミラクルパワーはありませんよ、癒しの力もありません。そんなものがあるなら、私は胆石の手術なんかしなくてすんだでしょう(猊下はついこの間胆石の手術をされて、今回はじめての外国)。」
 しかし、わたしはいつも他者に対する慈しみの心をもって生きているため、毎日ハッピーで病気からの回復も早い。いつも怒ったり恨んだりしていると健康に悪いよ。
 人と生まれたからには人の役にたってこそ、意義のある人生になるというもの。怒りを感じたら、その反対である慈しみの心を育んで、怒りを中和して、心の平和を保とうよ」(正確な講演録はここでどうぞ→ここクリック)。
 
 思えばこの国技館の講演は事前にほとんど広報活動していなかったのに、満席に近い。笑えるのが、チケットの売れ行きをぴあでみたら一番高いアリーナ席から埋まっていってた。ジャニーズの公演か。主宰者の方が会計報告を行っていたが、チケットの売り上げのうち、会場設営費、国技館の借り上げ代金を引いた残りは、すべて法王代表事務所に寄附されるそうである。日本国の監査機関も通しているようで、ものすごく明朗会計。スタッフはみなボランティアなのか。ご苦労様です。

 日曜日は大阪の清風学園でガワン先生の灌頂。

 清風学園の理事一家は、ずーっと昔から、インドに再興されたゲルク派の密教学堂ギュメ寺の再興をお世話している。校長先生はギュメでは「お父さん」と呼ばれるくらい親しまれていて、ギュメの僧院長であらせられるガワン先生はずっとここのところ体調を崩しておられるのだが、その闘病生活は副校長の宏一さんがずっと支えている。

  ガワン先生とのご縁は、『ダライラマの密教入門』を出版した際に、なじみのない密教関係のことを伺うのに、宏一先生を介してガワン先生に質問させていただいたことから始まった。その後、ガワン先生が日本において灌頂を行う際に直接お会いしたところ、その大物ぶりに即座にハマり、調査・研究+シュミで先生の灌頂に通い倒すことになった。最近では『聖ツォンカパ伝』の飜訳の際にもずいぶんご教示を賜った。

 そのせいかどうか、ここのところ灌頂の前にリピーター代表(笑)として、はじめに解説をする大役を仰せつかるようになっている。

 ガワン先生の病状はずいぶん重いらしく、今回の来日の目的はもちろん病状の経過チェックと、来日中のダライラマ法王と会見するためである。南インドにすむガワン先生が、北インドのダラムサラを本拠地に世界中をとびまわるダライラマ法王と予定をあわせてゆっくりお会いするのはなかなか難しいらしく、それを察した清風学園の平岡一家が法王が来日中にお会いできるような段取りをつけたという。平岡さんたちのラマにつくす弟子としての姿には本当に頭が下がる。

 例によって、開始前ギリギリにすべりこむと、宏一先生から「先生はいつもギリギリにつきますなあ」と言われる。ガワン先生に片膝をついて拝礼すると、紅茶やお香を一杯つめたチベットバッグを頂戴して「遠くからきて大変ですね」とお言葉を賜った。そちらこそ、そのご病状でよく遠いインドから・・・・(落涙)。

 今回の灌頂はヤマーンタカ。世俗レヴェルにおいては死の魔をはらい、超俗レヴェルにおいては無明の闇を払う仏である。水牛の頭をもつ姿は死魔を払う時の姿、その頭上の化仏は無明を払う文殊のお姿である。この仏様は清朝の皇帝が崇拝していたので、この仏の儀式の性格を理解することは、清朝とチベット仏教の関係を理解することにも役立つ。

 法座の上にあがるとガワン先生は俄然生き生きとして、ユーモアも炸裂、通訳をつとめる宏一先生との息もぴったり合っている。難しい仏教のお話を簡明に語り、かつ深い。今回は世が世ならチベット大使のラクパ代表も参列されている。灌頂の最後にガワン先生は
 
「ヤマンタカの灌頂は日本には存在しない無上ヨーガの経典に基づいている。私はかつてこの経典を多くの僧がいならぶなかで、ダライラマ法王から直接賜った。法王はこの経典を私に広めよ、と命じられたのだと思った。私はこの無上ヨーガの教えを日本に伝える使命感をもってこの灌頂を行った」とおっしゃられた。

 先生が属するチベット仏教の最大宗派ゲルク派では、習得してきた様々な仏教哲学の教えを迅速に意識の上に実現するためのテクニックの体系として密教をとく。灌頂は密教の修行に入るためにヴィザのようなものである。

 だから、ガワン先生のお言葉を実現するためには、まず日本において、戒律をまもる僧侶の集団、いわゆる僧伽(サンガ)を復興させ、次に、その僧伽の人たちに仏教哲学を全員に修得させ、仏教博士になったものから、密教の無上ヨーガの修行に入らせることである。哲学をしっかり修めてから実修にうつれば、カルト化する危険は限りなく小さい。仏教国家チベットが何百年もかけてつくりあげた修行階梯なのである。
 
 葬式や法事を行わない働かない僧侶の集団が、どうやって食べていけるのかを心配する必要はない。ちゃんと戒律を護り、かつ、高度な哲学を研究している集団なら、社会的な地位もあがっていき、自然と彼らの前にぬかづき、その支援を行う人が現れるであろう。事実チベット僧は国を失っても世界中から支援を受けている。

 え、そんなことムリって? それをいってはいけないんです。

 昨日、ガワン先生は密教の戒律である根本十四堕罪について講義された。そこで「仏の教えについて『そんなことムリ』と言ってはなりません。できる範囲内で誠実に仏の言葉を履行して、それ以外はつべこべいわず黙っていなさい」。つまり、賤しい人間の人知で仏の教えに勝手に制限を設けるな、ということ。

 だから、がんばれ、日本仏教! 王道をゆけ!
 
 ちなみに、帰りに新幹線を新横浜でおりて横浜線をまっていると、突然場内アナウンスで、「人が踏切内に倒れているので安全確認が済むまで電車は動きません」とのこと。十一時すぎていて家に帰りつけるかどうか危ないので、とりあえずタクシーにのる。散財である。しかし、これが行きでなくてよかった。新幹線にのりおくれて灌頂に間に合わなくなるよりゃ今家に帰れなくなる方がマシ。

 そういえば、木曜日のダライラマ法王の国技館講演の帰りにも突然電車が浜松町で動かなくなった。しばらくして、新橋駅の京浜東北線に人身事故があったため、山手線も安全確認のために停止と案内があった。あの時も行きでなくて良かった、と思った。危ない危ない。

 ガワン先生のおことば。「灌頂の場に集まることのでき、仏の教えに浴することのできる人は幸せである。仕事が入ったり、事故があったり、してこの場に来られない人もいる。 そうこうしているうちに仏教とは無縁のまま生涯が終わってしまうかも知れない。でも、この場に集うことのできたみなさんは本当に幸せなのです」
 
「あなた方はいつか仏になる。だから、これからいろいろ苦しいことがあるけれども安心しなさい。私の人生はもう終わりかけている。でも、仏教にご縁がもてて、この道に入れて本当に幸せであった」
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DATE: 2008/11/05(水)   CATEGORY: 未分類
猊下な日々
日曜日、都内某所で、ダライラマ猊下歓迎の非公開レセプションが行われた。
 その中より、みなさんへ、心温まる猊下のオコトバ。
 猊下「かつてひどいめにあったからといって、それをいつまでも恨んで、憎み続けることはよくありません。許すこと、忘れることが、その人にとっても幸せなことです。
 広島、長崎に原爆が落とされたことを聞いた時、わたしは巨大な苦しみを感じました。日本人はこの悲劇によって、アメリカ人を憎んだでしょうか。私は日本人の友達に、あなたは合衆国の人間をどう思っていますか、と聞いたことがあります。すると、その友人は
 「アメリカ人ですか? 大好きですよ」 と答えました。日本人は本当に素晴らしい民族です」

 日本人単にノーテンキなだけでは。

 そして、「過去のことを忘れる、許すというのは分かりますが、現在行われている暴力に対しても許さなければならないのてすか」という質問がでると、毅然として
 「もちろんそうです。隣人がトラブルメーカーだとしても、やっていくしかないのです。かりに追い出したとしても次のトラブルメーカーは必ずでてきます。他者の価値を尊重し合い、共存するしか道はないのです」

猊下「ところで 私、私、私という人は心臓病で死ぬ確率が他の人より高いそうです。どこの国の言葉でも、私を意味する言葉はとても短い。英語ではI、中国語ではwo、これは、赤ん坊が最初に覚える言葉だから、パ(パ)、マ(マ)と同じく短いのだと思います。しかし、私からみなさんへ質問です。日本人は赤ん坊の頃から「ワタクシハ」と、こんな長い言葉をしゃべるのですか?」

一同爆笑したところで、隣のどえらい方が、通訳して日本語には主語を明示する習慣があまりない、ということを伝えると、猊下

「私、という言葉を使わないとは日本人はなんて謙虚な民族なのでしょう」とまた感心。

 何度も何度も、私は六十億人のたった一人の人にすぎず、一チベット難民にすぎないことを強調しておられた。

 月曜日、早稲田祭が無事終わった。

 言い出しっぺの学生Mは二日間つめていたので、さすがに家に帰った後部屋に入るなり倒れたそうである。
 卒業生も来てくれたみたいで、記帳ノートに暖かいメッセージが残っていた。
 二日目(最終日)、撤収が終わった四年生が研究室に集合したので、
 私「もう来年はやめようよ、これ大変だよ」というと
 くだんのM「そもそもこのアカデミック参加、このジャンルの主催者から誘われたんですよね。どうせ来年は来ませんよ。誘い
 一同「どははははは」

 まあ、チベット旗みつけた上海人が絡んできたり(彼らの主張はすごかったよ、端的にいうと『中国の安定のためにはチベットには我慢をしてもらう』ということ)、「ダライラマの金時計、あれはなんですか。ダライラマを神格化しすぎですよ」とか絡んでくる日本人オジサンがいたりして、運営スタッフの一年生がびびりまくっていたし、また、早稲田大学を代表するオワライサール、バンザイ同盟のAちゃんがサークルで出張バンザイにきてくれて「千手観音の舞」(笑)を披露してくれたりして、当局から「無届けのイベントはだめです」みたいに注意されたからな。
 
 で、疲れ切った四年生Kくんに、「今日はどこもいっぱいたろうから、華●×の二階を今のうちに押さえておこう」と何の気もなしに予約したが、よく考えたら、ここ中国人が経営する中華料理屋。
 
  いつものように、乾杯をしようとするが、さすがにフリー・チベットはまずいだろうと、「ポゥゲルロー」とチベット語で乾杯。しかし、疲れはてた学生たちはどんどん周りに対する配慮をなくし、チベット・チベットと会話にだしはじめ、意味のない乾杯を何度も繰り返して、グダグダになっていく。卒業生のAジくんがきたので、お開きということになり、一本締め。そのあと誰が言い出すともなく、やけくそな大声でチベット・バンザイを連呼し、どうでもよくなったみんなが唱和したので、あの店の人、気分害したかも。
 
 ごめんね、だたの酔っぱらいだから。

最後に突然ですが、オバマさん、大統領になったことだし、キング牧師の精神をつぐダライラマ法王に配慮する政策、お願いします。アメリカのリベラルの底力をみせてやってください。
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DATE: 2008/11/01(土)   CATEGORY: 未分類
祭りマンダラ
 今、都内はチベットの秋。
 ミッシングピースを中心として、代官山駅近くにはフィール・チベット、代々木ではヒマラヤ国際映画祭(withチベットの50人展)、さらに金曜日、ダライラマ法王が文字通り来日降臨。

 そのようなチベット関連でメジャーな催しものが続く中、もっとも手作り感満載で、ふざけた企画が早稲田祭アカデミック参加のわがゼミであろう。

 アカデミック参加。「早稲田の知性はここに集まる」というキャチフレーズでグループ募集したのに、後出し参加だったため場所が確保できず、一室に三グループつっこまれてしまった。これを聞いて学生が

「早稲田の知性はこの程度の扱いを受けるんですね」

 四時間にわたる奮闘の後、しあがった室内を見て私が、

私「ううーむ、宗教色や政治色を極力抑えた見事に文化的な展示だ」と言うと

学生A「マンダラが四つも並んでいて、どこが宗教色抑えてるんですか。しかもお客さんにも塗らすし」

私「なにいってんの、これはモダンアートよ。ユングなんてマンダラを無意識の表象っていってんだから、これは心理学の教材よ。」

 マンダラを塗る際には、男性原理の慈悲を表すグヒヤサマージャは男の子がぬり、女性原理の智慧を表すチャクラサンヴァラは女の子が塗った。二つ合わせて、まさに、LOVE & PEACEである(21世紀にもなってフラワーチルドレンかっ)。

 そして男女不二マンダラとしては時輪マンダラ。実はお手本が一応あったのだがだんだん面倒くさくなって、というかそれ以前に細かすぎて正確に書くのが不可能なのがわかって、みな本能の赴くままに色を塗ったのだが、結構イケている。
 
 マンダラの書き方についても、一人テクノ小僧がいて、「結界をはってから、仏を降臨させるから、結界の周辺から書かないとイカン」みたいな説教をしていたが、説教だけしてどこかにいってしまったので、みな中央から塗りだした。

 また、手書きのチベット地図の上に、ゼミ生たちがとってきたチベット各地の写真をベタベタ貼る。みんな写真がうまい。子供とかお坊さんとかの自然な姿をチベットの雄大な自然の中でうまくきりとっている。

 むかし、探検家とか写真家とかジャーナリストとかは人のいかない危険なあるいはへんぴなところにいく特殊なお仕事だっりしたけど、世の中が便利になって昔は探検隊がいくような場所でも一大学生がいけるようになって、また、昔はプロの写真が苦労してとった一瞬を小さな性能のいいカメラで簡単にとれたりする時代になって(厳密に言えばプロのお仕事は違うのだろうけど)、格段にチベット写真はよくなつた。

 これはビデオジャーナリストの対談で聞いた話だけど、昔は大きな事件があると、ジャーナリストは瞬時に飛行機のって現場にいって、その写真をメディアにうって暮らしていた。しかし、今は性能のよしあしを考えなければほぼすべての人がカメラをもっている。そこで、世界中どこかで何かがおきれば、必ずその最中の映像をもつている人がいる。そのため、マスコミも、ジャーナリストから事後の現場をうつした写真を買うよりも、最中の写真をもっている素人を捜すようになった。つまり、ジャーナリストの生活が苦しくなっているとのこと。

 秘境カメラマンも、昔は「こんな奥地の写真をとった」といえば見る人がいたが、今はそれだけではもうダメで、それこそ芸術性が問われる。

 ゼミ生のとってきた写真をみていて気がついたのだが、被写体を結構選んでとっている。

 ダージリンの写真をみると、ダージリンの語源となったチベット僧院ドルジェリンをうつしているし、シッキム行けば、シッキム王家(インドに併合されるまではシッキムはチベット系の独立国家だつた)の子供たちの古い写真を写しているし、ラダック行けば、アルチゴンパの名物天井を写し、ルムテクいけばちゃんとチベット仏教の一派カルマ派の本山ルムテク寺を写し、カルマパとダライラマのツーショットステッカーとかをとっている。
 ツボがわかっている(若干歴史的な視点にかたよっているけど)。

 むかーしむかし、チベットでとある写真家にあった時、

 「何とっていいか分からないから教えてくれませんか」と聞かれてびっくりしたことがある。その時私はまだコムスメだったので、写真家というものは、とるべきもの、その切り口を同時に当然知っていいて、その上でその被写体を最高に美しく撮る技術を持っている人だと思っていたから。

 そう考えてみると、このゼミ生、写真の腕はともかく、被写体の選び方はさえている。
 卒業生のみなさん、よかったら来てやってください。みんながんばってます。
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