倶会一処
日曜日は大阪の清風学園にロサンガワン先生の灌頂を受けに行く。
ロサンガワン先生はチベット二大密教学堂のうちの一つギュメ学堂の元僧院長であり、折り紙付きの高僧。
ここ数年、体調を崩されては日本を訪れて加療しており、その合間をぬって灌頂(チベット密教の入門儀礼)を授けてくださっている。なので、私は日本にいながらゲルク派三大密教経典のうちの二つ、グヒヤサマージャとヴァジュラバイラヴァを受けることができた。
先生は次に残る一つのチャクラサンヴァラ尊の灌頂も日本で授けたかったらしいが、体調が許さなかったとのことで、昨日本尊に選ばれたのは、より少しの体力ですむチャクラサンヴァラ尊のパートナーであるダーキニーであった。
この灌頂は清朝最盛期の皇帝乾隆帝も、その師チャンキャ二世から授かっているため、乾隆帝とチベット仏教についての研究をしている自分としては、なまの儀礼の実際を知るチャーンスと、大阪まで飛んでいきましたよ。
今回、参会者には三年前にツォンカパの聖蹟ツァーをやった時、セラチョーディンにアタックしたコアメンバーがなぜか申し合わせたようにそろっていた。倶会一処やな。
内輪話になるけど、三月の末に共同通信社から配信されたチベット問題を論じた拙稿が、なぜかこの日の大阪日々新聞の朝刊にのっため、主催者の好意で参会者に記事コピーが配られる。
最初にダーキニーについて少し解説をと言われるので、「ダーキニーは仏の智慧=空を象徴する女尊でーす。詳しくはロサン先生のお話を聞いてね、あと、記事よんでチベット問題を応援してね」と話す。
そして儀式が始まり、花輪の灌頂から続いて四灌頂が滞りなく行われた。主旋律はやはり、「命あるものを救うためという動機をもって仏教を学びなさい。自分のことはほっといてもついてくる」あるいは、「この世の存在はすべていろいろなものの集合体に名前をつけただけのもの。それから離れた実体、本質などといったものはない」という存在論。
コネタの面白い話としては、ゲルク派(別名黄帽派)の開祖ツォンカパはダーキニーのお告げをうけて、自分の帽子の色を黄色に変えたのだという。そのお告げとは「汝の帽子の色を黄色にするとあなたの教えは至る所に広がり、ずっと続くであろう」というもの。
ロサンガワン先生は〔ツォンカパの仏教が続いているから〕「だからこうやって今日あなた方に灌頂を授けることができるんですよ」とおっしゃられた。
じつは先生はかなり体調がお悪く、一年前のゴールデンウィークの時点で、昨年の十一月までしかもたない、と余命宣告されていた。取り巻く人々はそれを聞いてみな悲しんだけれども、当人はさすが高僧、ひょうひょうとして動じていなかった。そして、時々インドに帰りながらも、日本で治療を受け続けていらっしゃったのだが、やはりどんどん体重はへっていった。
しかし、最初の余命宣告である十一月をこえ、年が明けて四月にもなった今も、こうして灌頂を行っている。関係者のお話によると、「灌頂をやる」ということが支えとなって先生の気力を持たせているとのこと。命をはって行われている説法に、聴聞する方も厳粛な気持ちになる。
灌頂儀式がおわった後、先生は一言いいたい、とおっしゃられ「昨日、テレビで日本のみなさんがチベットの旗をもって行進しているのを見て、涙がでるほど嬉しかった。ありがとうございました。」と挨拶された。
先生がチベット問題に言及するのを聞いたのはこれが初めてだったので、すごく心が動いた。
「先生のご長寿をみなでお祈りください」と主催者がしめの挨拶をしたあと、先生は退場。列席者はみな自然とたちあがり、あるものは合掌し、あるものは拍手してお見送りをする。
仏教の伝わってきたすべての時代、地域で何度も繰り返されてきた光景がここにある。
チベット仏教そう簡単に滅びません。仏教二千五百年の歴史をなめたらあかん。
ロサンガワン先生はチベット二大密教学堂のうちの一つギュメ学堂の元僧院長であり、折り紙付きの高僧。
ここ数年、体調を崩されては日本を訪れて加療しており、その合間をぬって灌頂(チベット密教の入門儀礼)を授けてくださっている。なので、私は日本にいながらゲルク派三大密教経典のうちの二つ、グヒヤサマージャとヴァジュラバイラヴァを受けることができた。
先生は次に残る一つのチャクラサンヴァラ尊の灌頂も日本で授けたかったらしいが、体調が許さなかったとのことで、昨日本尊に選ばれたのは、より少しの体力ですむチャクラサンヴァラ尊のパートナーであるダーキニーであった。
この灌頂は清朝最盛期の皇帝乾隆帝も、その師チャンキャ二世から授かっているため、乾隆帝とチベット仏教についての研究をしている自分としては、なまの儀礼の実際を知るチャーンスと、大阪まで飛んでいきましたよ。
今回、参会者には三年前にツォンカパの聖蹟ツァーをやった時、セラチョーディンにアタックしたコアメンバーがなぜか申し合わせたようにそろっていた。倶会一処やな。
内輪話になるけど、三月の末に共同通信社から配信されたチベット問題を論じた拙稿が、なぜかこの日の大阪日々新聞の朝刊にのっため、主催者の好意で参会者に記事コピーが配られる。
最初にダーキニーについて少し解説をと言われるので、「ダーキニーは仏の智慧=空を象徴する女尊でーす。詳しくはロサン先生のお話を聞いてね、あと、記事よんでチベット問題を応援してね」と話す。
そして儀式が始まり、花輪の灌頂から続いて四灌頂が滞りなく行われた。主旋律はやはり、「命あるものを救うためという動機をもって仏教を学びなさい。自分のことはほっといてもついてくる」あるいは、「この世の存在はすべていろいろなものの集合体に名前をつけただけのもの。それから離れた実体、本質などといったものはない」という存在論。
コネタの面白い話としては、ゲルク派(別名黄帽派)の開祖ツォンカパはダーキニーのお告げをうけて、自分の帽子の色を黄色に変えたのだという。そのお告げとは「汝の帽子の色を黄色にするとあなたの教えは至る所に広がり、ずっと続くであろう」というもの。
ロサンガワン先生は〔ツォンカパの仏教が続いているから〕「だからこうやって今日あなた方に灌頂を授けることができるんですよ」とおっしゃられた。
じつは先生はかなり体調がお悪く、一年前のゴールデンウィークの時点で、昨年の十一月までしかもたない、と余命宣告されていた。取り巻く人々はそれを聞いてみな悲しんだけれども、当人はさすが高僧、ひょうひょうとして動じていなかった。そして、時々インドに帰りながらも、日本で治療を受け続けていらっしゃったのだが、やはりどんどん体重はへっていった。
しかし、最初の余命宣告である十一月をこえ、年が明けて四月にもなった今も、こうして灌頂を行っている。関係者のお話によると、「灌頂をやる」ということが支えとなって先生の気力を持たせているとのこと。命をはって行われている説法に、聴聞する方も厳粛な気持ちになる。
灌頂儀式がおわった後、先生は一言いいたい、とおっしゃられ「昨日、テレビで日本のみなさんがチベットの旗をもって行進しているのを見て、涙がでるほど嬉しかった。ありがとうございました。」と挨拶された。
先生がチベット問題に言及するのを聞いたのはこれが初めてだったので、すごく心が動いた。
「先生のご長寿をみなでお祈りください」と主催者がしめの挨拶をしたあと、先生は退場。列席者はみな自然とたちあがり、あるものは合掌し、あるものは拍手してお見送りをする。
仏教の伝わってきたすべての時代、地域で何度も繰り返されてきた光景がここにある。
チベット仏教そう簡単に滅びません。仏教二千五百年の歴史をなめたらあかん。
罪を憎んで人を憎まず
昨日、元少年に死刑判決が降りた。23才の若い母親と一才の赤ん坊を殺し、その上母親を●イプし、さらにはたぶん反省もしていない、といういろんな意味でスゴイ被告である。日本は法治国家なので、たとえこのような人とは思えない行動をとった犯罪者であったとしても、人として裁かれ、その人をどうするかを決める側も感情に流されず、冷静に量刑を決めるわけである。
だから、弁護人がつき、裁判があるのはまあ分かる。しかし、だからといってこの被告に21人の弁護士って多すぎない? 一人いりゃ十分だよ。
時期が時期だけに、法治国家とはいえない某隣国で、政治犯として裁判も弁護人もなしに、拘束されたり、拷問されたりしている多くのチベット人のことをつい考える。凶悪犯罪人に20人もの弁護士がついて、無辜の民は誰にも護られず、拘束され飢えに苦しんでいる。
日本って人権や平和を云々する人や団体がたくさんいるわりには、チベットの人々が人権のない状態にあることを悲しんで声明を出しているところは少ない。これだけニュースになっていたら「知らない」ということもないだろうから、やはり知ってて知らんふりをしているのだろう。
てことは、彼らが護ろうとしている人権とは「一般的な意味での人間の権利」ではなくて「特定の集団の権利」なのかもしれない。
ダライラマはあのような状況下にありながら、チベット問題以外の、あらゆる世界の紛争や悲劇に際して、これまで非暴力の声明をだし武力の停止を訴えている。だから、ダライラマを支援するリチャード・ギアもそれにみならって、自分の運営するギア・ファンデーションの援助対象を、チベットのみならずあらゆるものに広げている。
どこぞの国の人権を語る方々とは一線を画し、実に一本立派なスジが通った方々である。
しかも、ダライラマは難民となったチベット人たちに
「あなたたちが行く先々の国の役に立つ人間になりなさい、決してその社会にメイワクをかけてはなりません」と教えているのである。世界中で数をたのみに、世界中にメイワクかけながら聖火をごりごりまわしている人々とは大違い。悪貨は良貨を駆逐する、という言葉の意味が本当の意味で解ってきた今日この頃。
聖火リレーはいまや華僑の祭典。中国国内に入った後は漢人の祭典。
このままオリンピック本番になって、競技が始まれば、なかなかケッサクなことになるであろう。スタンドをうめつくした中国人(漢人)たちは、フランスやイギリスや日本の選手が登場すると大ブーイング。自国民が勝てば狂喜乱舞、負ければペットボトルを競技場に投げ込んだりして、世界はどん引き。
アジアカップの時にも政府は「礼儀正しくしましょう」とテレビで放映しまくっていたが、効果はなかった。普段から他国をさげすんで自国のみを是とする愛国教育をしているから、いまさらそんなこと付け焼き刃でいったって誰もききゃしないのである。
しかし愛国教育って威張っていうことか。これ教育というよりゃ一種の愚民化政策でしょ。ダライラマ猊下はよく「中国人も今の体制の被害者だ」というけど、まともな教育も受けられないという点では確かにそうかもしれない。
そこで思い出すのは、何日か前、テレビでやっていた「ステルス」という映画。人工知能で動く無人戦闘機ステルスが、お約束で暴走しちゃう話。
この無人戦闘機は、ものすごく頭がよくて自分で学んで進化していく人口知能をもっている。だから、「戦闘機だからターゲットが必要です」「わたしの使命は生き延びること」とかいって、お約束で暴走して、味方の戦闘機をこわしまくってロシアの核基地を勝手におそいにいっちゃう。まあ大変。
すると、この無人戦闘機の導入に積極的に動いた白人の大佐は、保身のために、その件をなかったことにしちゃおうと、無人ステルスと編隊をくんでいた主人公のパイロットを暗殺して口封じをしようとし、もう一人の女性パイロットも北朝鮮に落下したのをいいことに見捨てちゃおうとし、さらには、ロシアに情報を流してこの戦闘機をうちおとさせようとする。
暗殺を免れた男性パイロットは大佐の思惑通りになるかーい、と、この人工知能戦闘機と交渉して(笑)、北朝鮮におちた恋人の女性パイロットを助けに単身、北朝鮮に飛び立つ。
空母の艦長「今お前が死ねば、大佐の勝ちだ。すぐに空母にもどってこい」
男性パイロット「あなたがワタシに教えてくれたことは、仲間を見捨てるな、でしたね」
すると、無人戦闘機の人口知能が、「ピコーン」と赤く光る(笑)。
今、はじめて彼のノーミソに「仲間を見捨てない」という価値観がインプットされたのである。
あとはよくある話で、男性パイロットが北朝鮮の基地をこわしまくって女性パイロットを救出するのだが、一人粘着な北朝鮮の兵士が軍用ヘリを呼ぶ。
無人ステルスのミサイルはもううちつくしてない、さあ、どうする二人??
なんと、無人戦闘機、「仲間を見捨てない」ために北朝鮮の軍用ヘリを特攻して落とすのである。ここまできて視聴者は思わずこの機械のために涙するのだ。
つまり、何が言いたいかといえば、無人戦闘機には罪はないということ。出世の鬼のくさりきった白人大佐みたいな人がこの戦闘機を条件づけしていた時は、ただの殺人暴走機械であったが、コックピットに乗っている人が倫理的な人なら、利他的に動くのである。
だから、報道管制のもとで偏った教育うけているかの国の民も、コックピットに乗る人が少しまともになれば、教育がまともになれば、多少は変われるんじゃないかと思ったのである。
しかし、よく考えてみると、この「ステルス」のストーリーはこれまたアメリカ的洗脳がふんだんにしこまれている。アメリカ人は北朝鮮の上にかってにおちてきて、その女性パイロット一人を救出するために北朝鮮の基地を破壊し、兵士を何十人も殺しまくる。で、アメリカ側の被害は、無人戦闘機一機(まあこれ作るのに北朝鮮の国家予算以上はかかっているとは思うけど)。しかも、ストーリーの流れで、無人戦闘機のために泣けるようになっている。
これって、民度の低い民の命は、心をもったステルス以下ってことか?
考えてみりゃすごいなアメリカ映画。
だから、弁護人がつき、裁判があるのはまあ分かる。しかし、だからといってこの被告に21人の弁護士って多すぎない? 一人いりゃ十分だよ。
時期が時期だけに、法治国家とはいえない某隣国で、政治犯として裁判も弁護人もなしに、拘束されたり、拷問されたりしている多くのチベット人のことをつい考える。凶悪犯罪人に20人もの弁護士がついて、無辜の民は誰にも護られず、拘束され飢えに苦しんでいる。
日本って人権や平和を云々する人や団体がたくさんいるわりには、チベットの人々が人権のない状態にあることを悲しんで声明を出しているところは少ない。これだけニュースになっていたら「知らない」ということもないだろうから、やはり知ってて知らんふりをしているのだろう。
てことは、彼らが護ろうとしている人権とは「一般的な意味での人間の権利」ではなくて「特定の集団の権利」なのかもしれない。
ダライラマはあのような状況下にありながら、チベット問題以外の、あらゆる世界の紛争や悲劇に際して、これまで非暴力の声明をだし武力の停止を訴えている。だから、ダライラマを支援するリチャード・ギアもそれにみならって、自分の運営するギア・ファンデーションの援助対象を、チベットのみならずあらゆるものに広げている。
どこぞの国の人権を語る方々とは一線を画し、実に一本立派なスジが通った方々である。
しかも、ダライラマは難民となったチベット人たちに
「あなたたちが行く先々の国の役に立つ人間になりなさい、決してその社会にメイワクをかけてはなりません」と教えているのである。世界中で数をたのみに、世界中にメイワクかけながら聖火をごりごりまわしている人々とは大違い。悪貨は良貨を駆逐する、という言葉の意味が本当の意味で解ってきた今日この頃。
聖火リレーはいまや華僑の祭典。中国国内に入った後は漢人の祭典。
このままオリンピック本番になって、競技が始まれば、なかなかケッサクなことになるであろう。スタンドをうめつくした中国人(漢人)たちは、フランスやイギリスや日本の選手が登場すると大ブーイング。自国民が勝てば狂喜乱舞、負ければペットボトルを競技場に投げ込んだりして、世界はどん引き。
アジアカップの時にも政府は「礼儀正しくしましょう」とテレビで放映しまくっていたが、効果はなかった。普段から他国をさげすんで自国のみを是とする愛国教育をしているから、いまさらそんなこと付け焼き刃でいったって誰もききゃしないのである。
しかし愛国教育って威張っていうことか。これ教育というよりゃ一種の愚民化政策でしょ。ダライラマ猊下はよく「中国人も今の体制の被害者だ」というけど、まともな教育も受けられないという点では確かにそうかもしれない。
そこで思い出すのは、何日か前、テレビでやっていた「ステルス」という映画。人工知能で動く無人戦闘機ステルスが、お約束で暴走しちゃう話。
この無人戦闘機は、ものすごく頭がよくて自分で学んで進化していく人口知能をもっている。だから、「戦闘機だからターゲットが必要です」「わたしの使命は生き延びること」とかいって、お約束で暴走して、味方の戦闘機をこわしまくってロシアの核基地を勝手におそいにいっちゃう。まあ大変。
すると、この無人戦闘機の導入に積極的に動いた白人の大佐は、保身のために、その件をなかったことにしちゃおうと、無人ステルスと編隊をくんでいた主人公のパイロットを暗殺して口封じをしようとし、もう一人の女性パイロットも北朝鮮に落下したのをいいことに見捨てちゃおうとし、さらには、ロシアに情報を流してこの戦闘機をうちおとさせようとする。
暗殺を免れた男性パイロットは大佐の思惑通りになるかーい、と、この人工知能戦闘機と交渉して(笑)、北朝鮮におちた恋人の女性パイロットを助けに単身、北朝鮮に飛び立つ。
空母の艦長「今お前が死ねば、大佐の勝ちだ。すぐに空母にもどってこい」
男性パイロット「あなたがワタシに教えてくれたことは、仲間を見捨てるな、でしたね」
すると、無人戦闘機の人口知能が、「ピコーン」と赤く光る(笑)。
今、はじめて彼のノーミソに「仲間を見捨てない」という価値観がインプットされたのである。
あとはよくある話で、男性パイロットが北朝鮮の基地をこわしまくって女性パイロットを救出するのだが、一人粘着な北朝鮮の兵士が軍用ヘリを呼ぶ。
無人ステルスのミサイルはもううちつくしてない、さあ、どうする二人??
なんと、無人戦闘機、「仲間を見捨てない」ために北朝鮮の軍用ヘリを特攻して落とすのである。ここまできて視聴者は思わずこの機械のために涙するのだ。
つまり、何が言いたいかといえば、無人戦闘機には罪はないということ。出世の鬼のくさりきった白人大佐みたいな人がこの戦闘機を条件づけしていた時は、ただの殺人暴走機械であったが、コックピットに乗っている人が倫理的な人なら、利他的に動くのである。
だから、報道管制のもとで偏った教育うけているかの国の民も、コックピットに乗る人が少しまともになれば、教育がまともになれば、多少は変われるんじゃないかと思ったのである。
しかし、よく考えてみると、この「ステルス」のストーリーはこれまたアメリカ的洗脳がふんだんにしこまれている。アメリカ人は北朝鮮の上にかってにおちてきて、その女性パイロット一人を救出するために北朝鮮の基地を破壊し、兵士を何十人も殺しまくる。で、アメリカ側の被害は、無人戦闘機一機(まあこれ作るのに北朝鮮の国家予算以上はかかっているとは思うけど)。しかも、ストーリーの流れで、無人戦闘機のために泣けるようになっている。
これって、民度の低い民の命は、心をもったステルス以下ってことか?
考えてみりゃすごいなアメリカ映画。
失われた時を求めて
土曜日に某月刊誌の対談原稿を手直しし、今日の午前中これまた別の某月刊誌の原稿を入れる。前者はやや右、後者は左なので私のスタンスは総合すると中道となる予定である(笑)。
チベット問題は数年前から授業とかでもとりあつかっていたいたので、一から一次史料よんで積み上げてかく専門の論文より原稿書きはるかに楽。わたくしの授業原稿は、講演原稿や雑誌原稿へとリサイクルされるため、地球上のCo2の削減にいささかなりとも貢献していることかと思う(チガウ?)。
ちょっと前から、YASUKUNIというドキュメンタリー映画が話題になっている。この映画みていないので何ともいえないが、この映画をとっている李イン監督がテレビにうつった独特の語り口をみて、『失われた時を求めて』ばりに突然、過去の記憶がよみがえってきた。
この人昔、会ったことがある。
そうあれは、遠くン●年前のこと。当時二十代無職だった小娘のワタシはブックフェアがあるというのにつられて、北京で開かれた学会にふらふらと参加した。
しかし、ついてびっくり。
日本から来た小娘(ワタシ)を迎えるために空港まで運転手つきのお迎えがきていた。ホテルの宿泊代は主催者もち、パーティをしきって握手会をやっていたのは十七条協約のチベット側調印者として有名な●ポ・ガワンジクメだった。
その上、おみやげのバッグには、「中国ラサ」のロゴが入っていたっけ。
西側からきたのはワタシをいれて十人ちょっと。みんな心細いので、速攻で仲良くなったっけ。
ああ、なつかしい。
で、この学会には多くのボランティアが働いていたのだけど、ワタシの世話係兼通訳についてくれたのが、若き日の李イン監督だったのだ。
李さんは今同様落ち着いたおとなしいカンジの人で、学会バックレて●和園に行きたいというワタシのワガママを聞いて、ついてきてくれたっけ。
日本で影像人類学を学びたいとかいっていたけど、あれから、日本に留学したままずっと日本に滞在していたんだ。
ずいぶん時間はたったけど、お互いあの時の状態がそのまま発達しただけで、あんま違和感ないな(笑)。
若い頃って、何かいろんな可能性や選択があるような気がして、未来は不確定で茫漠としたもののような気がするけど、時間がたって振り返ってみると、やっぱりなるようにしかなってなくて、毎日の積み重ねが今になっている。
でも、あの時から比べると変わったものもある。当時ワタシを含めほんの数人しか知らなかったことが、今は多くの人に知られることとなっている。●日のチベット報道なんて今は昔の変わりようである。
今は昔のものがたり
チベット問題は数年前から授業とかでもとりあつかっていたいたので、一から一次史料よんで積み上げてかく専門の論文より原稿書きはるかに楽。わたくしの授業原稿は、講演原稿や雑誌原稿へとリサイクルされるため、地球上のCo2の削減にいささかなりとも貢献していることかと思う(チガウ?)。
ちょっと前から、YASUKUNIというドキュメンタリー映画が話題になっている。この映画みていないので何ともいえないが、この映画をとっている李イン監督がテレビにうつった独特の語り口をみて、『失われた時を求めて』ばりに突然、過去の記憶がよみがえってきた。
この人昔、会ったことがある。
そうあれは、遠くン●年前のこと。当時二十代無職だった小娘のワタシはブックフェアがあるというのにつられて、北京で開かれた学会にふらふらと参加した。
しかし、ついてびっくり。
日本から来た小娘(ワタシ)を迎えるために空港まで運転手つきのお迎えがきていた。ホテルの宿泊代は主催者もち、パーティをしきって握手会をやっていたのは十七条協約のチベット側調印者として有名な●ポ・ガワンジクメだった。
その上、おみやげのバッグには、「中国ラサ」のロゴが入っていたっけ。
西側からきたのはワタシをいれて十人ちょっと。みんな心細いので、速攻で仲良くなったっけ。
ああ、なつかしい。
で、この学会には多くのボランティアが働いていたのだけど、ワタシの世話係兼通訳についてくれたのが、若き日の李イン監督だったのだ。
李さんは今同様落ち着いたおとなしいカンジの人で、学会バックレて●和園に行きたいというワタシのワガママを聞いて、ついてきてくれたっけ。
日本で影像人類学を学びたいとかいっていたけど、あれから、日本に留学したままずっと日本に滞在していたんだ。
ずいぶん時間はたったけど、お互いあの時の状態がそのまま発達しただけで、あんま違和感ないな(笑)。
若い頃って、何かいろんな可能性や選択があるような気がして、未来は不確定で茫漠としたもののような気がするけど、時間がたって振り返ってみると、やっぱりなるようにしかなってなくて、毎日の積み重ねが今になっている。
でも、あの時から比べると変わったものもある。当時ワタシを含めほんの数人しか知らなかったことが、今は多くの人に知られることとなっている。●日のチベット報道なんて今は昔の変わりようである。
今は昔のものがたり
在野の精神いまいずこ♪
四月四日付けの時事通信社の記事に、胡錦涛国家主席の来日日程が流れた。
その中に「早稲田大学で講演」とあるのを見てびっくり。しかし、大学のホームページを見ても、この件については黙して語っていない。
一国の元首をお迎えする栄誉なのであるから、当然のことながらできるだけ一般に周知して沢山の方に知っていただき、その結果早稲田大学の名前を高からしめなければならないところなのに、これは一体どうしたことだろう(笑)。
それでいろいろな先生に伺ったところ、十年前、当時の江沢民国家主席が早稲田で講演をした時も、直前まで一般に周知していなかったとのことである。ついでにいえば、去年早稲田大学内に孔子学院(ゲーテ=インスティテュートがドイツ文化の広報機関であるように、孔子学院も中国文化・政治の広報機関)が設置された時も、教員にも学生にも周知されることはなかった。
なので、今回も大学のホームページに一切告知がないからといって、それが本当にないことなのかどうかはナゾなのである。
言い忘れていたが、江沢民国家主席が早稲田にきた時、大学当局は出席した学生の名簿を警察に提出していたそうで、これは当然訴えられて最高裁までいって大学の敗訴が確定した。江沢民主席のスピーチは反日色まるだしで、当時物議をかもしたことを記憶している。
そのような素晴らしい過去の因縁とともに、再び中国の国家主席が早稲田大学で講演されるとのこと。早稲田大学の国際社会における評価はいよいよ高くなり、斉藤効果で増えた受験生はさらに倍増まちがいなし。
当局の素晴らしい決断に拍手をおくりたい。
そういえば、むか~し、125周年事業にノーベル賞を受賞した人を125人呼んできて講演してもらうというイベントに当局が何億もの予算を計上したことがあった。その説明会においてとある先生から「よそで育った有名人つれてきて一瞬注目あびたって仕方ない。それより早稲田大学にノーベル賞をとれるような学者がでるような環境作るのに金つかえ」という意見がでた。その時はしごくまっとうな意見だと納得して、その計画が立ち消えになったことを喜んだが、今思うとこの計画の方がまだましだった(あ、そろそろ褒め殺しに疲れてきた?)。
だって招聘される人たちは、文字通りその分野のエキスパートであり彼岸をみた方たちだから、在学生にも教員にもすばらしい刺激と影響を与えることができるだろう。
大学というものは人類の文明を支えていく優秀な人材を育て、また、最先端の学問を行う場である。たとえば、ダライラマ法王、およそ一人の人間がこれほどひどい目にあうことはまあないなというひどい目にあってもにこやかに微笑んでいらっしゃるノーベル平和賞受賞者のダライラマ法王のお話を早大生が聞くことができれば、それはもう生涯の宝物になる経験になるに違いない。
事実、ダライラマ法王には先進各国の主要な大学に招かれ、スピーチを行い、名誉博士号を受けている。ついでにいえば各種の人権賞も総なめしている。
したがって、胡錦涛国家主席も、在校生なり、教員なりの人生にいささかなりとも資するスピーチができるのであれば、早稲田大学がお迎えすることは身に余る光栄といえよう。しかし、問題は、彼に果たしてそのようなスピーチができるのかということ(それ以前に公開していないのに誰が聞きにいくのか?)。
ぶっちゃけ、少子化の折、大陸からの留学生をもっとゲットしたい、とかの意図があるのだろうが、大学は企業ではない。管理や経営という概念ばかりが先行すると、大学の本来の責務である教育や研究が後退し、国際評価は暴落していく。
立命館大学が一人でも多くの授業料をとりたいがために入学定員をとりすぎて、とりすぎると文部省から助成金減らされるから、学生に転部を強要したというニュースが数日前流れた。これなんかは経営が教育を後退させた典型である。
ちなみに、偶然かどうか立命館大学にも早稲田大学同様、孔子学院がかなり早い時期に設置されている。
これも思い出した話だが、知り合いの先生がこの大学で集中講義したら、その講義の内容を不服とする留学生がむしろ旗建てて事務所におしかけてきて、孔子もとい講師である彼の罷免を要求したそうである。あなおそろし(表現は彼の台詞をそのまま使わせていただきました)。
ま、噂で終わってくれればいいんだけど、時事通信社だって何の根拠もなしにこんな報道はしないし、事情通の先生方はコレは絶対やるね、と言っているのでたぶん実現しちゃうんだろうな。
その中に「早稲田大学で講演」とあるのを見てびっくり。しかし、大学のホームページを見ても、この件については黙して語っていない。
一国の元首をお迎えする栄誉なのであるから、当然のことながらできるだけ一般に周知して沢山の方に知っていただき、その結果早稲田大学の名前を高からしめなければならないところなのに、これは一体どうしたことだろう(笑)。
それでいろいろな先生に伺ったところ、十年前、当時の江沢民国家主席が早稲田で講演をした時も、直前まで一般に周知していなかったとのことである。ついでにいえば、去年早稲田大学内に孔子学院(ゲーテ=インスティテュートがドイツ文化の広報機関であるように、孔子学院も中国文化・政治の広報機関)が設置された時も、教員にも学生にも周知されることはなかった。
なので、今回も大学のホームページに一切告知がないからといって、それが本当にないことなのかどうかはナゾなのである。
言い忘れていたが、江沢民国家主席が早稲田にきた時、大学当局は出席した学生の名簿を警察に提出していたそうで、これは当然訴えられて最高裁までいって大学の敗訴が確定した。江沢民主席のスピーチは反日色まるだしで、当時物議をかもしたことを記憶している。
そのような素晴らしい過去の因縁とともに、再び中国の国家主席が早稲田大学で講演されるとのこと。早稲田大学の国際社会における評価はいよいよ高くなり、斉藤効果で増えた受験生はさらに倍増まちがいなし。
当局の素晴らしい決断に拍手をおくりたい。
そういえば、むか~し、125周年事業にノーベル賞を受賞した人を125人呼んできて講演してもらうというイベントに当局が何億もの予算を計上したことがあった。その説明会においてとある先生から「よそで育った有名人つれてきて一瞬注目あびたって仕方ない。それより早稲田大学にノーベル賞をとれるような学者がでるような環境作るのに金つかえ」という意見がでた。その時はしごくまっとうな意見だと納得して、その計画が立ち消えになったことを喜んだが、今思うとこの計画の方がまだましだった(あ、そろそろ褒め殺しに疲れてきた?)。
だって招聘される人たちは、文字通りその分野のエキスパートであり彼岸をみた方たちだから、在学生にも教員にもすばらしい刺激と影響を与えることができるだろう。
大学というものは人類の文明を支えていく優秀な人材を育て、また、最先端の学問を行う場である。たとえば、ダライラマ法王、およそ一人の人間がこれほどひどい目にあうことはまあないなというひどい目にあってもにこやかに微笑んでいらっしゃるノーベル平和賞受賞者のダライラマ法王のお話を早大生が聞くことができれば、それはもう生涯の宝物になる経験になるに違いない。
事実、ダライラマ法王には先進各国の主要な大学に招かれ、スピーチを行い、名誉博士号を受けている。ついでにいえば各種の人権賞も総なめしている。
したがって、胡錦涛国家主席も、在校生なり、教員なりの人生にいささかなりとも資するスピーチができるのであれば、早稲田大学がお迎えすることは身に余る光栄といえよう。しかし、問題は、彼に果たしてそのようなスピーチができるのかということ(それ以前に公開していないのに誰が聞きにいくのか?)。
ぶっちゃけ、少子化の折、大陸からの留学生をもっとゲットしたい、とかの意図があるのだろうが、大学は企業ではない。管理や経営という概念ばかりが先行すると、大学の本来の責務である教育や研究が後退し、国際評価は暴落していく。
立命館大学が一人でも多くの授業料をとりたいがために入学定員をとりすぎて、とりすぎると文部省から助成金減らされるから、学生に転部を強要したというニュースが数日前流れた。これなんかは経営が教育を後退させた典型である。
ちなみに、偶然かどうか立命館大学にも早稲田大学同様、孔子学院がかなり早い時期に設置されている。
これも思い出した話だが、知り合いの先生がこの大学で集中講義したら、その講義の内容を不服とする留学生がむしろ旗建てて事務所におしかけてきて、孔子もとい講師である彼の罷免を要求したそうである。あなおそろし(表現は彼の台詞をそのまま使わせていただきました)。
ま、噂で終わってくれればいいんだけど、時事通信社だって何の根拠もなしにこんな報道はしないし、事情通の先生方はコレは絶対やるね、と言っているのでたぶん実現しちゃうんだろうな。
本当の「暴力」は誰によってふるわれているか
聖火リレーがロンドン、パリ、サンフランシスコと荒れた。これに対する各国のマスコミの反応がそれぞれの市民社会の事情をよく表していて非常に興味深かった。
まずは当事者のヨーロッパ。
【4月7日 エーエフピー】7日の英新聞各紙は、前日ロンドンで行われた北京五輪の聖火リレーでの妨害行為を「民主主義の理想の勝利」と好意的に報じた。
6日の聖火リレーでは、チベット暴動への対応をめぐり中国政府に抗議するデモ隊が市内を通過する北京五輪の聖火を消そうとするなどして、警官隊と衝突、37人が逮捕された。
大衆紙サンは、「民主主義の勝利だ。合法的かつ平和的にデモを行う権利が尊重される国に住んでいるわれわれは幸せだ」と報じた。
デーリー・メールは社説で「ひとつ確かなことは、ここ(英国)は中国が望むようなプロパガンダの勝利とはかけ離れた世界だということ」と述べた。
タイムズは、「中国は今回のデモで、五輪を自分たちの都合で捉えることはできないと気づいたはずだ。聖火リレーはあらゆる権利を象徴するもので、中国の栄光を示すためのものではない。むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だということを示す機会となった」との評論を掲載した。
デーリー・ミラーは社説でデモ隊の立場を支持。「デモ隊の行動は、中国が行ってきた人権侵害に対する抗議として的を得ている」と論じた。
インディペンデントの社説は、北京五輪が掲げる聖火リレーの「調和の旅」というテーマを引用。これまで数々の妨害行為が行われてきた経緯を踏まえ、「もはや調和の聖火とは言えない。聖火リレーを今後どうするべきか?」と述べて聖火リレーを続けることへの疑問を呈した。
つまり、ヨーロッパにおいては、聖火リレーに対する抗議活動は市民運動として肯定的にとらえられており、決して「暴力」や「無礼」などという範疇ではみられていないのである。
さらに、抗議活動を行った側の意図した通りのメッセージをきちんととらえている。すなわち、「五大陸の調和をとくオリンピックの精神は中国には存在しない。そのような国の開催するオリンピックの聖火は果たして聖なる火なのか」。
と・こ・ろ・が、日本のマスコミのこの件に関する報道は超ネガティブ。
テレビを見ていたら、長野の商店街のおばさんにマイクをむけてオバサンが「もう暴動とか起きないで無事にこの前をとおって欲しい」
また、高齢の聖火ランナーがふるふるしながら「聖火は死守します」とか言うのをうつしている。
日本の報道は総じて、「なんだかこわい。とにかく無事に終わって」みたいなメッセージを流しつづけている。
さらに、某有名キャスターは、「白人が聖火リレーを妨害するのは、有色人種に経済的に負けそうな嫉妬から」などと、この件を分析する際にもっとも意味のない角度からきりこんでいる。
日本人のあまりのリテラシーのなさに衝撃。
かれらは市民運動の歴史を知らんのか。
ノーベル平和賞に五回もノミネートされてそれを辞退したかのガンディーの抵抗運動は、当時イギリスが禁止していた私的製塩を海辺で行うというものであった。塩という人間にとって不可欠の要素がイギリス人の手に握られていることの不条理を示すためであった。彼はそれを示すために、一ヶ月かけて海辺まであるいて、その一ヶ月の間に彼の跡にしたがう人は数千人にふくれあがり、そのすべてをイギリスは秩序を乱した、といって逮捕しまくった。
1965年にノーベル賞もらったキング牧師も、白人専用の場所に黒人が座り込む、などの形で運動を指導した。その結果、黒人たちは州法に違反した、とどんどん逮捕されていった。ガンディーもキングも「秩序を乱していた」のである。
ガンディーはなぜ掟をやぶって製塩したり、超えてはいけない州境をあらかじめ告知をしてマスコミを集めた上で超えたりしたのか。
なぜ、キング牧師は当時の法を破って、白人専用のレストランやバスに黒人を座り込みさせたのであろうか。なぜ、彼らは「秩序をみだした」のだろうか。
それは、どこからみてもおかしな、不条理の存在を公に示すためである。
倫理的にいって正しくない側が、自分の体制をまもるためにつくっている端から見ると不条理な法をあえて破って、自らを逮捕させることによって、その不条理さを世界に示すためである。
対する取り締まり側は頭に血が上っているから、自分の姿が世界にどう見えているかまで思いつかない。その姿を世界に伝えるために、このような象徴的な抵抗運動はなされたのだ。
当時も、「秩序を乱すこと」ということに対して不快感を示すものはいた。たとえばキング牧師に対しても、外からやってきて、仲良くやっているコミニュティを破壊する、などの意見は出されていた。その時、彼はこう答えた。
この種の非難は、いままでにもわれわれが応援に出かけたあらゆる黒人社会で聞かされたものだった。しかし実際のところ、自由と正義のためにどこかの黒人社会へ応援に出かけた場合には、いかなる黒人、いかなるアメリカ人も、もはやアウトサイダーではないのだ。ミシシッピー州やアラバマ州やジョージア州で賤しい黒人の子供が人間の尊厳と品位を蹂躙されているかぎり、黒人はそれがどこに住む黒人であろうとも、彼の社会的名声や経済的地位に、また特権や地位に無関係に、アウトサイダーではないのだ。・・・警察犬がバーミンガムの幼いこどもの足首に牙を突き立てた時、それはすべてのアメリカ人の足首にこの牙が突き立てられたことなのである。人間の人間に対する残忍の鐘が鳴らされるとき、この鐘は誰か一人の人間に対して鳴らされるのではなく、あなたに対して、わたしに対して、またわれわれすべての国民に対して鳴らされているのである。(『黒人はなぜ待てないのか』みすず書房)
つまり、不条理が行われている時、それが遠い地で行われているからといって、それを他人事でいられるか? 白人警官のけしかける警察犬が黒人の子供の足にくいついている時、そこがバーミンガムだからといって、ニューヨークの人は平静でいられるか? と問うているのである。
「秩序が破壊される」という本能的な不安にみをまかせる前に、その秩序自体に問題がないかを問う姿勢がここにはある。
遠いチベットで何が行われていようと私には関係ない、このような認識は、善光寺商店街のオバハンならしかたなかろう。しかし、ジャーナリストたちまでそのレベルとはなさけない。さらには、「経済的な嫉妬」などとトンチンカンなこといっているキャスターがいる日本は、まさに、市民社会とじょうこく
白人がなぜチベット問題にエキサイトするのかは、そこに不正が行われているからである。正しいことをいう人々が、不条理な目にあっているからである。真実が危機にさらされている」という倫理的な危機感から彼らは立ち上がっているのである。
そこんとこわかってやんなくてどうすんの。
まずは当事者のヨーロッパ。
【4月7日 エーエフピー】7日の英新聞各紙は、前日ロンドンで行われた北京五輪の聖火リレーでの妨害行為を「民主主義の理想の勝利」と好意的に報じた。
6日の聖火リレーでは、チベット暴動への対応をめぐり中国政府に抗議するデモ隊が市内を通過する北京五輪の聖火を消そうとするなどして、警官隊と衝突、37人が逮捕された。
大衆紙サンは、「民主主義の勝利だ。合法的かつ平和的にデモを行う権利が尊重される国に住んでいるわれわれは幸せだ」と報じた。
デーリー・メールは社説で「ひとつ確かなことは、ここ(英国)は中国が望むようなプロパガンダの勝利とはかけ離れた世界だということ」と述べた。
タイムズは、「中国は今回のデモで、五輪を自分たちの都合で捉えることはできないと気づいたはずだ。聖火リレーはあらゆる権利を象徴するもので、中国の栄光を示すためのものではない。むしろ(ロンドンでの聖火リレーは)チベット問題への抗議を浮き彫りにしただけでなく、統制の及ばない不穏や混沌を内在するのが寛容な社会の本質だということを示す機会となった」との評論を掲載した。
デーリー・ミラーは社説でデモ隊の立場を支持。「デモ隊の行動は、中国が行ってきた人権侵害に対する抗議として的を得ている」と論じた。
インディペンデントの社説は、北京五輪が掲げる聖火リレーの「調和の旅」というテーマを引用。これまで数々の妨害行為が行われてきた経緯を踏まえ、「もはや調和の聖火とは言えない。聖火リレーを今後どうするべきか?」と述べて聖火リレーを続けることへの疑問を呈した。
つまり、ヨーロッパにおいては、聖火リレーに対する抗議活動は市民運動として肯定的にとらえられており、決して「暴力」や「無礼」などという範疇ではみられていないのである。
さらに、抗議活動を行った側の意図した通りのメッセージをきちんととらえている。すなわち、「五大陸の調和をとくオリンピックの精神は中国には存在しない。そのような国の開催するオリンピックの聖火は果たして聖なる火なのか」。
と・こ・ろ・が、日本のマスコミのこの件に関する報道は超ネガティブ。
テレビを見ていたら、長野の商店街のおばさんにマイクをむけてオバサンが「もう暴動とか起きないで無事にこの前をとおって欲しい」
また、高齢の聖火ランナーがふるふるしながら「聖火は死守します」とか言うのをうつしている。
日本の報道は総じて、「なんだかこわい。とにかく無事に終わって」みたいなメッセージを流しつづけている。
さらに、某有名キャスターは、「白人が聖火リレーを妨害するのは、有色人種に経済的に負けそうな嫉妬から」などと、この件を分析する際にもっとも意味のない角度からきりこんでいる。
日本人のあまりのリテラシーのなさに衝撃。
かれらは市民運動の歴史を知らんのか。
ノーベル平和賞に五回もノミネートされてそれを辞退したかのガンディーの抵抗運動は、当時イギリスが禁止していた私的製塩を海辺で行うというものであった。塩という人間にとって不可欠の要素がイギリス人の手に握られていることの不条理を示すためであった。彼はそれを示すために、一ヶ月かけて海辺まであるいて、その一ヶ月の間に彼の跡にしたがう人は数千人にふくれあがり、そのすべてをイギリスは秩序を乱した、といって逮捕しまくった。
1965年にノーベル賞もらったキング牧師も、白人専用の場所に黒人が座り込む、などの形で運動を指導した。その結果、黒人たちは州法に違反した、とどんどん逮捕されていった。ガンディーもキングも「秩序を乱していた」のである。
ガンディーはなぜ掟をやぶって製塩したり、超えてはいけない州境をあらかじめ告知をしてマスコミを集めた上で超えたりしたのか。
なぜ、キング牧師は当時の法を破って、白人専用のレストランやバスに黒人を座り込みさせたのであろうか。なぜ、彼らは「秩序をみだした」のだろうか。
それは、どこからみてもおかしな、不条理の存在を公に示すためである。
倫理的にいって正しくない側が、自分の体制をまもるためにつくっている端から見ると不条理な法をあえて破って、自らを逮捕させることによって、その不条理さを世界に示すためである。
対する取り締まり側は頭に血が上っているから、自分の姿が世界にどう見えているかまで思いつかない。その姿を世界に伝えるために、このような象徴的な抵抗運動はなされたのだ。
当時も、「秩序を乱すこと」ということに対して不快感を示すものはいた。たとえばキング牧師に対しても、外からやってきて、仲良くやっているコミニュティを破壊する、などの意見は出されていた。その時、彼はこう答えた。
この種の非難は、いままでにもわれわれが応援に出かけたあらゆる黒人社会で聞かされたものだった。しかし実際のところ、自由と正義のためにどこかの黒人社会へ応援に出かけた場合には、いかなる黒人、いかなるアメリカ人も、もはやアウトサイダーではないのだ。ミシシッピー州やアラバマ州やジョージア州で賤しい黒人の子供が人間の尊厳と品位を蹂躙されているかぎり、黒人はそれがどこに住む黒人であろうとも、彼の社会的名声や経済的地位に、また特権や地位に無関係に、アウトサイダーではないのだ。・・・警察犬がバーミンガムの幼いこどもの足首に牙を突き立てた時、それはすべてのアメリカ人の足首にこの牙が突き立てられたことなのである。人間の人間に対する残忍の鐘が鳴らされるとき、この鐘は誰か一人の人間に対して鳴らされるのではなく、あなたに対して、わたしに対して、またわれわれすべての国民に対して鳴らされているのである。(『黒人はなぜ待てないのか』みすず書房)
つまり、不条理が行われている時、それが遠い地で行われているからといって、それを他人事でいられるか? 白人警官のけしかける警察犬が黒人の子供の足にくいついている時、そこがバーミンガムだからといって、ニューヨークの人は平静でいられるか? と問うているのである。
「秩序が破壊される」という本能的な不安にみをまかせる前に、その秩序自体に問題がないかを問う姿勢がここにはある。
遠いチベットで何が行われていようと私には関係ない、このような認識は、善光寺商店街のオバハンならしかたなかろう。しかし、ジャーナリストたちまでそのレベルとはなさけない。さらには、「経済的な嫉妬」などとトンチンカンなこといっているキャスターがいる日本は、まさに、市民社会とじょうこく
白人がなぜチベット問題にエキサイトするのかは、そこに不正が行われているからである。正しいことをいう人々が、不条理な目にあっているからである。真実が危機にさらされている」という倫理的な危機感から彼らは立ち上がっているのである。
そこんとこわかってやんなくてどうすんの。
真実はジクウをこえる
3月29日、ダライラマ14世はガンディー廟を訪問した。インド独立の父と言われるマハトマ・ガンディーと同様、自分が非暴力思想の忠実な実践者であることをアピールするためである。
このガンディーにしても、ダライラマ猊下同様政治的には苦難の連続を味わった。1930年の塩の行進によって、大英帝国をビビらせ、時のイギリスの首相をインドの自治を話し合う席につかせたが、結局は手玉にとられて自治を手に入れることはできなかった。1947年の独立後も彼が夢見ていたイスラームとヒンドゥーの融和はならず、インドとパキスタンは分離独立した。最後はしかも急進的なヒンドゥー教徒に暗殺された。
しかし、ガンディーの行いも言動も正しかったことは、体は死んでも、その名は不滅となったことからも明らかである。ガンディーの精神はキング牧師に受け継がれて黒人の地位を向上させ、ツツ大主教に受け継がれてアパルトヘイトを終わらせ、現在はダライラマ猊下やアウンサン・スーチー氏に受け継がれまだ続いている。
その場しのぎの言い訳をかたる政治家の名は忘れ去られても、真実を語るものの名は不死となる。ガンディーの名前を知っている人でも、ガンディーを手玉にとって大英帝国の利益をまもったイギリスの首相の名前を覚えている人はまずいないだろ。
で、4月の4日はキング牧師が暗殺されて40周年の命日であった。言わずと知れた公民権運動の指導者である。キングが生きた時代はリンカーンが奴隷を解放してから100年たった時代であったが、有形無形の差別は至る所にあった。白人たちは、黒人たちが権利を求めると「まだ早い」といい、白人と黒人が公教育の場などでいろいろな差別を受けるのは、「差別」ではなく「区別」であるといった。
黒人達は当然その状況にうんざりしており、「黒人と白人は共存できない、アメリカの中に黒人の国家を作ろう、そのためは暴力的手法も辞さない」というマルコムXのような急進的なグループもいれば、白人と何とか折り合って権利を得ていこうとする穏健な黒人地位向上協会などもあった。
黒人の大半は白人の家で住み込み家政婦をやったり、運転手をやったりして暮らしを立ていたので、白人に逆らうことになる運動に参加するのはためらわれていた。要するに当時の黒人には抵抗する気力すらなく、いつ果てるともしれない貧困と差別の連鎖の中にとらわれていたのである。
このような中にキング牧師はさっそうと現れた。
キング牧師は、白人と黒人の間の人種間の憎しみをあおるのではなく、差別をする白人の方が倫理的には低い立場にあり、黒人に自信を持つように説き、白人を“哀れむ”ように説いた。もちろん、デモが暴徒化することはガンディー同様つよく参加者に対して戒めた。
キング牧師は自らの政治手法を動機はキリストが与え、政治的手法はガンディーから学んだと述懐している。こんなキング牧師の手法は、急進派からはなまぬるいと言われ、穏健派からは急進的と言われたので、ようは見事な中道であった。
キング牧師の言うことはあまりにも正論であったため、まともな白人・黒人双方に大きな影響力をもった。そうなるとこのまま白人優位を続けたい勢力からは、いろんな脅しがかかる。脅迫電話などはしょっちゅう、家が放火されて、三人の幼い子供ともども焼け出されたこともある。しかしそのたびにだす寛容のコメントに令名はかえって高まり、有名なローザパークスの逮捕に始まったバスボイコット運動の後には全米に名前が轟いていた。
奴隷解放から丁度百年目にあたる1963年の8月28日、全米からワシントンに集まった人々の前で、あの有名な「私には夢がある」というスピーチがなされた。白人も黒人も憎しみ合わずに一つのテーブルにつく日を夢見たスピーチは、英語の教科書などにも用いられているので、日本にもよく知られている(キリスト教の説教師だからくどいんだ、これが)。
しかし、黒人ナショナリズムが次第に高まっていくにつれ、キング牧師の理想は遠ざかり、黒人暴動の頻発する中、享年39才でメンフィスのモーテルのバルコニーで演説中に凶弾に倒れた。
彼の理想を実現するにはあまりにも黒人は頭にきすぎていたのである。人は愚かだから簡単に殴り合い、憎み合い、分離をのぞむ。しかし、キングはそのような安易な道はとらなかった。彼の夢は今もなお完全に実現しているとは言いがたいが、その登場によって明らかに時代が動き、そのような方向に向かいだしたことは否定できない事実であろう。
40回目の命日にあたる二日前、次期大統領候補の三人(マケイン・クリントン・オバマ)はみなキングの精神をたたえ、哀悼の意を表明した。ブラックナショナリズムの運動家たちの名前は遠く忘れ去られようとも、キングの名とその死は黒人・白人の双方が忘れられることはない。真実を語るものの名は人種・宗教・国境、時空をこえて生き続ける。もし胡錦涛がダライラマ十四世との対話を行いチベットに自由をもたらせば、2008年のノーベル平和賞は確実。毛沢東は英雄かもしれないが、いかんせん民族限定。でも胡錦涛はいともかんたんに国際級の偉人になれる立場にいるのである。
ガンディーや、キングや、ダライラマのいったことは、百年たっても、二百年たっても、政権がかわっても、それを聞く民族がことなっても、それが真実であることには変わりない。
特定の時代、特定のイデオロギー、特定の状況、特定の民族のみを是とし、他者を排斥するような言説、時代や民族や宗教が変わると、とたんに効力を失うような言説はしょせん一時しのぎのまやかしにすぎない。ダライラマ十四世の発表と中国政府の発表を対象させてみると、どちらがどちらかがよくわかる。
並べて比べてみてみよう!
このガンディーにしても、ダライラマ猊下同様政治的には苦難の連続を味わった。1930年の塩の行進によって、大英帝国をビビらせ、時のイギリスの首相をインドの自治を話し合う席につかせたが、結局は手玉にとられて自治を手に入れることはできなかった。1947年の独立後も彼が夢見ていたイスラームとヒンドゥーの融和はならず、インドとパキスタンは分離独立した。最後はしかも急進的なヒンドゥー教徒に暗殺された。
しかし、ガンディーの行いも言動も正しかったことは、体は死んでも、その名は不滅となったことからも明らかである。ガンディーの精神はキング牧師に受け継がれて黒人の地位を向上させ、ツツ大主教に受け継がれてアパルトヘイトを終わらせ、現在はダライラマ猊下やアウンサン・スーチー氏に受け継がれまだ続いている。
その場しのぎの言い訳をかたる政治家の名は忘れ去られても、真実を語るものの名は不死となる。ガンディーの名前を知っている人でも、ガンディーを手玉にとって大英帝国の利益をまもったイギリスの首相の名前を覚えている人はまずいないだろ。
で、4月の4日はキング牧師が暗殺されて40周年の命日であった。言わずと知れた公民権運動の指導者である。キングが生きた時代はリンカーンが奴隷を解放してから100年たった時代であったが、有形無形の差別は至る所にあった。白人たちは、黒人たちが権利を求めると「まだ早い」といい、白人と黒人が公教育の場などでいろいろな差別を受けるのは、「差別」ではなく「区別」であるといった。
黒人達は当然その状況にうんざりしており、「黒人と白人は共存できない、アメリカの中に黒人の国家を作ろう、そのためは暴力的手法も辞さない」というマルコムXのような急進的なグループもいれば、白人と何とか折り合って権利を得ていこうとする穏健な黒人地位向上協会などもあった。
黒人の大半は白人の家で住み込み家政婦をやったり、運転手をやったりして暮らしを立ていたので、白人に逆らうことになる運動に参加するのはためらわれていた。要するに当時の黒人には抵抗する気力すらなく、いつ果てるともしれない貧困と差別の連鎖の中にとらわれていたのである。
このような中にキング牧師はさっそうと現れた。
キング牧師は、白人と黒人の間の人種間の憎しみをあおるのではなく、差別をする白人の方が倫理的には低い立場にあり、黒人に自信を持つように説き、白人を“哀れむ”ように説いた。もちろん、デモが暴徒化することはガンディー同様つよく参加者に対して戒めた。
キング牧師は自らの政治手法を動機はキリストが与え、政治的手法はガンディーから学んだと述懐している。こんなキング牧師の手法は、急進派からはなまぬるいと言われ、穏健派からは急進的と言われたので、ようは見事な中道であった。
キング牧師の言うことはあまりにも正論であったため、まともな白人・黒人双方に大きな影響力をもった。そうなるとこのまま白人優位を続けたい勢力からは、いろんな脅しがかかる。脅迫電話などはしょっちゅう、家が放火されて、三人の幼い子供ともども焼け出されたこともある。しかしそのたびにだす寛容のコメントに令名はかえって高まり、有名なローザパークスの逮捕に始まったバスボイコット運動の後には全米に名前が轟いていた。
奴隷解放から丁度百年目にあたる1963年の8月28日、全米からワシントンに集まった人々の前で、あの有名な「私には夢がある」というスピーチがなされた。白人も黒人も憎しみ合わずに一つのテーブルにつく日を夢見たスピーチは、英語の教科書などにも用いられているので、日本にもよく知られている(キリスト教の説教師だからくどいんだ、これが)。
しかし、黒人ナショナリズムが次第に高まっていくにつれ、キング牧師の理想は遠ざかり、黒人暴動の頻発する中、享年39才でメンフィスのモーテルのバルコニーで演説中に凶弾に倒れた。
彼の理想を実現するにはあまりにも黒人は頭にきすぎていたのである。人は愚かだから簡単に殴り合い、憎み合い、分離をのぞむ。しかし、キングはそのような安易な道はとらなかった。彼の夢は今もなお完全に実現しているとは言いがたいが、その登場によって明らかに時代が動き、そのような方向に向かいだしたことは否定できない事実であろう。
40回目の命日にあたる二日前、次期大統領候補の三人(マケイン・クリントン・オバマ)はみなキングの精神をたたえ、哀悼の意を表明した。ブラックナショナリズムの運動家たちの名前は遠く忘れ去られようとも、キングの名とその死は黒人・白人の双方が忘れられることはない。真実を語るものの名は人種・宗教・国境、時空をこえて生き続ける。もし胡錦涛がダライラマ十四世との対話を行いチベットに自由をもたらせば、2008年のノーベル平和賞は確実。毛沢東は英雄かもしれないが、いかんせん民族限定。でも胡錦涛はいともかんたんに国際級の偉人になれる立場にいるのである。
ガンディーや、キングや、ダライラマのいったことは、百年たっても、二百年たっても、政権がかわっても、それを聞く民族がことなっても、それが真実であることには変わりない。
特定の時代、特定のイデオロギー、特定の状況、特定の民族のみを是とし、他者を排斥するような言説、時代や民族や宗教が変わると、とたんに効力を失うような言説はしょせん一時しのぎのまやかしにすぎない。ダライラマ十四世の発表と中国政府の発表を対象させてみると、どちらがどちらかがよくわかる。
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