生徒とテーマに恵まれて
卒業式の後日談だけど、ゼミのTちゃんからあとでメールがきて、
やっと肝臓の調子が落ち着いたので改めて。
二年間本当にお世話になりました。ありがとう。
色紙にも書いたけど、I先生から学んだことは「寛容」の精神です。
ウチのゼミ生をみてください。ホント先生かダライ・ラマ並の赦しの心を持ってないとやってけませんよ。
それがみんなにも伝わってるんじゃないかな。
一人ひとり価値観もキャラも全然違うけど、みんな不思議とストレスなく楽しめたんですよ。(少なくとも俺は。好きなことしかやってこなかったんで。)
でも逆に先生にストレスを与えてしまってごめんなさい。
・・・・
でもこのゼミに入って、I先生の話を聞けて、救われました。大学に来てよかったと心から思えました。
人生最後のモラトリアム期間に得たいと思っていたことの大半を先生とゼミのおかげで得ることができたから。
本当にありがとうございました。
ちなみに添付画像は男どもで先生に渡そうと予約しておいた花束です。(卒業式の日に渡した花束は女の子たちが用意してくれたものです。)
当日ばたばたしてて、先生も帰ってしまったんで渡せなくてすみませんでした。
今は俺ん家の花瓶で華やかに堂々と、、、
枯れかけてます。
と、殊勝なメールがきた。ちなみに、タイトルは「まじめでいいですか」
私は感涙にむせぶべきか、笑うべきかしばらく考えた。で結局分からなかった。・・・。
で、昨日、一年間続けていた東急カルチャーの授業が終わった。そしてまた、花束を戴いた。嬉しい!!
しかし、ゼミにしろカルチャーにしろどう考えても私は何もした覚えがないのである。あえて言えば生徒に恵まれただけのような気がする。何かを私の周りで得たと感じている人は、その人自身にそうなる能力があったからだと思う。
たとえばゼミはAジくんがいてTくんがいて、ケーコちゃんがいて、S木がいて、一人一人がつくる前向きなムードが全体を動かしていたのだし、カルチャーも担当の方から「回数をかさねるごとに、参加者がへる講座も多いのに、この講座の学生さんはみな熱心ですごいです」とほめていただくような、いい空間がであったため、わたしも気持ちよくお話することができたである。
だからむしろ、ゼミでもカルチャーでも感謝しなければならないのは私の方なのだろう。
あともし何かあるとするならば、やはりリアル進行中の歴史を学んだりとか、仏教など扱っていたテーマ自体が面白かった、ということもあるかもしれない。
カルチャーでは14世紀に書かれたチベット仏教の修行カリキュラム『ラムリム』(修道階梯)を読んでいた。チベットの仏教の世界布教の道を開く契機となった、歴史的名著である。
この本は仏教とまったく縁もゆかりもないただの人が、仏教と出会い、それがどういう意味を持つのかを説明されるところから始まる。そして、自分の苦しみはすべて外からではなく、内側にある煩悩であることに気づかされ、最初は自分の幸せのために信仰していたものが、他者を思う気持ちを持つように促されていき、最後はゆるぎない炎のように明るい安定した心を手に入れ、その集中力のもとにものごとの真相を観察し、“存在するもの”の現れ(所知障)とそれを実体視する意識(煩悩障)を断じて、智慧を完成させる。
はじめはわたしたちの日常レベルの“ああそうだね”みたいな段階から、順を追って高い境地に説明が進んでいくので、そのグレードアップしていく内容に徐々に気分も盛り上がっていって、読んでいて楽しいのである。最終章は仏の覚りの境地を様々な角度から論じていてちょっと難しいが、そこに至るまでは結構誰にでも分かる言葉で、仏教の基本的な教えが簡単なものから、順に身に付くようになっている。
実によくできたカリキュラムである。このカリキュラムとゲルク派の僧院組織があって始めて、チベット仏教の世界化が始まったのだ。ゲルク派はチベット中に布教使をおくりこみ、果ては、モンゴル人、満洲人、中国人へとチベット仏教の教えを広め、行く先々で人々にこの『ラムリム』の教えを説いて入信させた。
それは現在にまで続いており、ダライラマ猊下が講演の中で触れられているテーマの多くは、このツォンカパの『ラムリム』やシャーンティデーヴァの『覚りへの道』に依拠しているものである。
そのような書物をテクストに選んでいるから面白い、というのもあるかもしれない。
本文中にある無数の経典の引用とか、インド哲学のカテゴリーに絡めて行う煩雑な議論などをとっぱらって現代人にも読みやすくしたら、とてもいい仏教の入門書になることだろう。とにかく『ラムリム』は面白い。
一方、ゼミでよく力説したテーマは、チベット問題であった。
チベットをめぐる様々な事件や歴史が新聞やマスコミでどのように報道されてきたかをみていくだけでも、現代のいろいろな問題が見えてくる。
今回の事件で政治的な側面ばかりが注目されているチベットだが、問題の本質は、社会主義政権が、チベット仏教を国是とするチベット人の文化をまったく理解せず、軽んじ、弾圧してきた歴史がある。
日本国内においてチベット問題を論じている人々は、大半が中国政治を語っているひとたちで、チベット語を読めもしないし、その文化を理解していもいない人々である。某中国政治学の先生などは「チベット文化が圧殺されているということはとりあえず措いておいて」などと、チベット人が望んでいる一番大事なことを「措いておいて」と表現する(これには心底ゾッとした)。
人というものは、意識する、しないに関わらず、自分の思考の枠を他者に投影して現実を見誤るものである。中国の歴史学者や政治学者は、いまある民族の統合に資するような研究を行うことが求められる。で、そのような研究を数多く見聞きし、そのような人々と接する国外の研究者も、知らず知らずのうちに、そのような枠内でものごとを思考し、同じような視点でものを語るようになってくる。
戦争中は国粋史観がはやり、戦後はマルクス史観がはやりという具合に、かくも節操のないはやりすたりがあることが示すように、対象を客観的に研究すべき学問は、じつはちっとも客観的でないのが実情だ。
ゼミ生に卒論を書かせる時によく力説することは、歴史的事実をイデオロギーに即して「どう解釈するか」ではなく、歴史的事実自体が語るものに耳を傾け、「事実どうあったのか」、ということにできる限り肉迫せよということである(ようは御用学者やコメンテーターのようになってはだめよ、ということ)。
ある歴史的事件に際して、複数の当事者がいる場合には当然両方の側からものごとを検証するべきであり、自分が理解できる側、声が大きい側、研究者が多い側など、何等かの偏った根拠に基づいて結論をだすべきではない。そのような学問のイロハを学生に覚えてもらうのに、チベット問題は話題豊富でじつに興味深いテーマであった。
と、いうわけでテーマにめぐまれ、生徒さんの品質の高さにめぐまれ、楽しい年度だった。
来学期入ってくる新しいゼミ生が、先輩たちみたいに反応のいい子たちだといいな。
やっと肝臓の調子が落ち着いたので改めて。
二年間本当にお世話になりました。ありがとう。
色紙にも書いたけど、I先生から学んだことは「寛容」の精神です。
ウチのゼミ生をみてください。ホント先生かダライ・ラマ並の赦しの心を持ってないとやってけませんよ。
それがみんなにも伝わってるんじゃないかな。
一人ひとり価値観もキャラも全然違うけど、みんな不思議とストレスなく楽しめたんですよ。(少なくとも俺は。好きなことしかやってこなかったんで。)
でも逆に先生にストレスを与えてしまってごめんなさい。
・・・・
でもこのゼミに入って、I先生の話を聞けて、救われました。大学に来てよかったと心から思えました。
人生最後のモラトリアム期間に得たいと思っていたことの大半を先生とゼミのおかげで得ることができたから。
本当にありがとうございました。
ちなみに添付画像は男どもで先生に渡そうと予約しておいた花束です。(卒業式の日に渡した花束は女の子たちが用意してくれたものです。)
当日ばたばたしてて、先生も帰ってしまったんで渡せなくてすみませんでした。
今は俺ん家の花瓶で華やかに堂々と、、、
枯れかけてます。
と、殊勝なメールがきた。ちなみに、タイトルは「まじめでいいですか」
私は感涙にむせぶべきか、笑うべきかしばらく考えた。で結局分からなかった。・・・。
で、昨日、一年間続けていた東急カルチャーの授業が終わった。そしてまた、花束を戴いた。嬉しい!!
しかし、ゼミにしろカルチャーにしろどう考えても私は何もした覚えがないのである。あえて言えば生徒に恵まれただけのような気がする。何かを私の周りで得たと感じている人は、その人自身にそうなる能力があったからだと思う。
たとえばゼミはAジくんがいてTくんがいて、ケーコちゃんがいて、S木がいて、一人一人がつくる前向きなムードが全体を動かしていたのだし、カルチャーも担当の方から「回数をかさねるごとに、参加者がへる講座も多いのに、この講座の学生さんはみな熱心ですごいです」とほめていただくような、いい空間がであったため、わたしも気持ちよくお話することができたである。
だからむしろ、ゼミでもカルチャーでも感謝しなければならないのは私の方なのだろう。
あともし何かあるとするならば、やはりリアル進行中の歴史を学んだりとか、仏教など扱っていたテーマ自体が面白かった、ということもあるかもしれない。
カルチャーでは14世紀に書かれたチベット仏教の修行カリキュラム『ラムリム』(修道階梯)を読んでいた。チベットの仏教の世界布教の道を開く契機となった、歴史的名著である。
この本は仏教とまったく縁もゆかりもないただの人が、仏教と出会い、それがどういう意味を持つのかを説明されるところから始まる。そして、自分の苦しみはすべて外からではなく、内側にある煩悩であることに気づかされ、最初は自分の幸せのために信仰していたものが、他者を思う気持ちを持つように促されていき、最後はゆるぎない炎のように明るい安定した心を手に入れ、その集中力のもとにものごとの真相を観察し、“存在するもの”の現れ(所知障)とそれを実体視する意識(煩悩障)を断じて、智慧を完成させる。
はじめはわたしたちの日常レベルの“ああそうだね”みたいな段階から、順を追って高い境地に説明が進んでいくので、そのグレードアップしていく内容に徐々に気分も盛り上がっていって、読んでいて楽しいのである。最終章は仏の覚りの境地を様々な角度から論じていてちょっと難しいが、そこに至るまでは結構誰にでも分かる言葉で、仏教の基本的な教えが簡単なものから、順に身に付くようになっている。
実によくできたカリキュラムである。このカリキュラムとゲルク派の僧院組織があって始めて、チベット仏教の世界化が始まったのだ。ゲルク派はチベット中に布教使をおくりこみ、果ては、モンゴル人、満洲人、中国人へとチベット仏教の教えを広め、行く先々で人々にこの『ラムリム』の教えを説いて入信させた。
それは現在にまで続いており、ダライラマ猊下が講演の中で触れられているテーマの多くは、このツォンカパの『ラムリム』やシャーンティデーヴァの『覚りへの道』に依拠しているものである。
そのような書物をテクストに選んでいるから面白い、というのもあるかもしれない。
本文中にある無数の経典の引用とか、インド哲学のカテゴリーに絡めて行う煩雑な議論などをとっぱらって現代人にも読みやすくしたら、とてもいい仏教の入門書になることだろう。とにかく『ラムリム』は面白い。
一方、ゼミでよく力説したテーマは、チベット問題であった。
チベットをめぐる様々な事件や歴史が新聞やマスコミでどのように報道されてきたかをみていくだけでも、現代のいろいろな問題が見えてくる。
今回の事件で政治的な側面ばかりが注目されているチベットだが、問題の本質は、社会主義政権が、チベット仏教を国是とするチベット人の文化をまったく理解せず、軽んじ、弾圧してきた歴史がある。
日本国内においてチベット問題を論じている人々は、大半が中国政治を語っているひとたちで、チベット語を読めもしないし、その文化を理解していもいない人々である。某中国政治学の先生などは「チベット文化が圧殺されているということはとりあえず措いておいて」などと、チベット人が望んでいる一番大事なことを「措いておいて」と表現する(これには心底ゾッとした)。
人というものは、意識する、しないに関わらず、自分の思考の枠を他者に投影して現実を見誤るものである。中国の歴史学者や政治学者は、いまある民族の統合に資するような研究を行うことが求められる。で、そのような研究を数多く見聞きし、そのような人々と接する国外の研究者も、知らず知らずのうちに、そのような枠内でものごとを思考し、同じような視点でものを語るようになってくる。
戦争中は国粋史観がはやり、戦後はマルクス史観がはやりという具合に、かくも節操のないはやりすたりがあることが示すように、対象を客観的に研究すべき学問は、じつはちっとも客観的でないのが実情だ。
ゼミ生に卒論を書かせる時によく力説することは、歴史的事実をイデオロギーに即して「どう解釈するか」ではなく、歴史的事実自体が語るものに耳を傾け、「事実どうあったのか」、ということにできる限り肉迫せよということである(ようは御用学者やコメンテーターのようになってはだめよ、ということ)。
ある歴史的事件に際して、複数の当事者がいる場合には当然両方の側からものごとを検証するべきであり、自分が理解できる側、声が大きい側、研究者が多い側など、何等かの偏った根拠に基づいて結論をだすべきではない。そのような学問のイロハを学生に覚えてもらうのに、チベット問題は話題豊富でじつに興味深いテーマであった。
と、いうわけでテーマにめぐまれ、生徒さんの品質の高さにめぐまれ、楽しい年度だった。
来学期入ってくる新しいゼミ生が、先輩たちみたいに反応のいい子たちだといいな。
怒濤の日々
三月十九日
某先生方とあやしい飲み会。ウィーンから帰ったばかりのほにゃらら先生がウィーンの広場で行われていた三月十日のチベット支援デモを目撃した話をしてくださる。異様な盛り上がりだったそう。
日本のNHKなどがチベット問題に腰が引けているのと対照的に、イギリスやフランスのニュースはここのところトップでチベット問題を扱っている。このことが示すように、ヨーロッパは日本人よりはるかに中国政府によるチベット弾圧に対して敏感に反応している。
ヨーロッパの人々が人種も宗教も違うチベット人にここまで親身になってくれるのは、ダライラマ猊下の高潔さが国境をこえた普遍的な支持を受けているからに他ならない。チベット人側には国も、人口も、経済力も、武力も、何もないが、ただ一つだけ「正しいことを主張している」という真実の力がある。それが、国境をこえた人々を動かしているのだ。
三月二十二日

本日は四年生との卒業旅行で河口湖に行く。バスの発車時刻は九時四十分。しかし、二十分についた私はターミナルに誰一人いないことに気づく。
幹事のノブくんに電話をすると
ノブ「え、誰も来てない? そんなはずはありません。チケットはKクンにわたしました。O津は来ているはずです。あ、ボクはそのバスのりません。Tくんと車で行きます」
すばらしい幹事である。
しばらくするとツッチー、Mミちゃん、RちゃんとO津くん、トミーはくるものの、肝腎のチケットをもったKくんがこない。
出発時間になったのでやむなく紛失証明をだしてもらい、あとで払い戻してもらうことにしてバスに乗り込む。そんなこんなしているうちに、やっとKくんとTくんがくる。
アンタたち遅い!!
河口湖のバスターミナルにつき、車できたノブくん、タケちゃんと合流。駅前のほうとう不動に入る。チベット情勢をグチりながら、ほうとうを食べる。目の前にいる四年ゼミ生は、そこいらのジャーナリストよりもチベット情勢に詳しいことに気づく。さすがわたしの洗脳薫育を受けただけのことはある。
午後はタケちゃんの強い希望によって青木ヶ原樹海へ。
風穴から青木ヶ原樹海の遊歩道をつっきって鳴沢氷穴に進む。樹海のあちこちには
「死なないで。借金は返せます 以下の電話に連絡を」と自殺防止の立てカンバンがたっている。しかし、言わせてもらえば樹海の中では一部のケータイしか通じない。
ちなみに、わたしがダンナから借りたauはばっちり機能し、樹海を歩きながら、週刊誌の記者の電話をうけるハメになる。
チベット問題をグチりつつ紅葉台につく。ここは富士山の展望台。雪をかぶった富士の美しさにみなで息を呑む。
「富士山ヤバイ、ヤバすぎ」と感動して記念撮影。再び樹海の遊歩道をあるき竜宮風穴のバス停にでる。
バスがくるまでの三十分間、何もすることがないので、みなで座り込んでいると、黄色い軽自動車が目の前の林道に入っていく。

トミー「あれは、チュチュリングですよ」
私「でも後ろの席に子供がいたよ」
O津「じゃ、一家心中じゃないですか」
しばらくすると、父親がまず車を降り、次に赤ん坊を抱いた母親が降りてくる。そして三人で林道に入っていく。
みんな「とめなくていいですかね」
しばらくすると、三人は戻ってきて、再び車にのって走り去る。
私「何していたんだろうね」
O津「きっと子供を捨てようと思って、思いとどまったんですよ」
樹海ということもあり、会話がしめっぽくなる。夕方NHKを見ていると、本日日本の中国大使館前で行われたチベット支援でもが1300人集まったという。すごい。夕食後はおきまりの買い出し→のみ。ウノで盛り上がる。
三月二十三日
朝ごはんをたべながら、宿のおばちゃんのうわさ話をきく。近所のスーパー温泉●×は、十六~七年前、殺人事件があった現場だという。その裏話を聞いたのだがあまりにもアブナイ話なのでここには書けない。
そこで、タケちゃんと私は興味本位でその温泉に向かうも、午前十時前だったので負け犬になって帰る。そのうち昨日、南米からニューヨーク経由で成田についたばかりのAジくんが到着。
Aジくんはデジカメに入っているニューヨークの写真をみせてくれる。そこにはセントラルパークにあるイマジンのモニュメント、フリー・チベットの旗をかかげるニューヨークのデモ隊がうつっていた。さすがわたしのゼミ生である。観光の視点が実にシブイ。
昨日のチベット支援デモの参加者が今までになく多人数になったこと、台湾の総統選の結果などを語り合う。
午後は茅葺き家屋を再現した「根場いやしの里」に向かう。
富士山とかやぶき屋根をバックにみんなで記念撮影。昨日よりややかすんでいるもののとてもキレイ。そばをたべ、ここでみんなはじめての竹馬体験。ノブくんとO津くんが、初乗りにしてすばらしい才能を発揮。平等、平等といっても生まれながらに決定している部分もあるな、と竹馬を契機に才能の不平等を思う。
このあとKちゃんも合流して、全員そろって浅間神社に参拝。ここは富士山に祭られる美女神コノハナサクヤ姫をまつる神社。桜をご神紋とする美しい神社である。
その晩は某大の茶道部の学生たちも宿泊していた。彼らはとてもおとなしく、十一時をまわるとみなそれぞれの部屋にもどり就寝の用意をしている。一方、こちらは・・・
タケちゃん「ウノーッ!!!!」
ツッチー「信じらんない。死ねばいいのに」
酒井さん「肌荒れはダンホルがいけないんですよ、ダンホルが」
T中「手相見ますよ。あ、姓名鑑定の方が得意ですけど」
トミー「ボクはねジミーヘンドリックスのように生きたいんですよ!!!」
Rナちゃん「ちょっとすみません、電話」
Kコちゃん「●△×!!!キャーハハハハ」
Kくん「この前酔って転んでうったところ、ヒゲ生えなくなりました・・・」
Aジくん「ヤベ、時差ぼけで眠い。一時間たったら起こして」
私「ところで、ノブくんはシュウカツだよね、幹事とかやってていいの」
ノブくん「ボクにはこの旅行が必要だったんです・・・」
三月二十五日
海外ニュースはのきなみトップで、アテネオリンピックの採火式において中国代表の演説中に「国境なき記者団」の抗議行動があったことを伝えている。この聖火は五大陸をまわって中国についた後、中国内の〔中国人から見た〕少数民族地域をめぐって開会式の日に北京に到着することになっている。これからこの聖火は行く先々でフリー・チベット運動の洗礼を受けることであろう。

今日は卒業式。専修別の卒業式あと盛装したみなとロータリーで記念撮影をする。で、何とみなが色紙と花束をプレゼントしてくれる。何かフツーのゼミの師弟関係のようである。
皆は徹夜で飲むというので、わたしは失礼する。そのあと研究室に花束をおいて図書館に調べ物に行く。一時間ほどして戻ると、室内は花の香りで満ちていた。
その瞬間、自分がいかに恵まれているか、いかに幸せかが実感されて立ちつくした。自分が感じているこの幸せを一人でも多くの人が感じられることを心の底から祈った。
君たちの人生がこれからもたくさんの笑いにあふれていますように。
四年間、本当にありがとう。
某先生方とあやしい飲み会。ウィーンから帰ったばかりのほにゃらら先生がウィーンの広場で行われていた三月十日のチベット支援デモを目撃した話をしてくださる。異様な盛り上がりだったそう。
日本のNHKなどがチベット問題に腰が引けているのと対照的に、イギリスやフランスのニュースはここのところトップでチベット問題を扱っている。このことが示すように、ヨーロッパは日本人よりはるかに中国政府によるチベット弾圧に対して敏感に反応している。
ヨーロッパの人々が人種も宗教も違うチベット人にここまで親身になってくれるのは、ダライラマ猊下の高潔さが国境をこえた普遍的な支持を受けているからに他ならない。チベット人側には国も、人口も、経済力も、武力も、何もないが、ただ一つだけ「正しいことを主張している」という真実の力がある。それが、国境をこえた人々を動かしているのだ。
三月二十二日

本日は四年生との卒業旅行で河口湖に行く。バスの発車時刻は九時四十分。しかし、二十分についた私はターミナルに誰一人いないことに気づく。
幹事のノブくんに電話をすると
ノブ「え、誰も来てない? そんなはずはありません。チケットはKクンにわたしました。O津は来ているはずです。あ、ボクはそのバスのりません。Tくんと車で行きます」
すばらしい幹事である。
しばらくするとツッチー、Mミちゃん、RちゃんとO津くん、トミーはくるものの、肝腎のチケットをもったKくんがこない。
出発時間になったのでやむなく紛失証明をだしてもらい、あとで払い戻してもらうことにしてバスに乗り込む。そんなこんなしているうちに、やっとKくんとTくんがくる。
アンタたち遅い!!
河口湖のバスターミナルにつき、車できたノブくん、タケちゃんと合流。駅前のほうとう不動に入る。チベット情勢をグチりながら、ほうとうを食べる。目の前にいる四年ゼミ生は、そこいらのジャーナリストよりもチベット情勢に詳しいことに気づく。さすがわたしの
午後はタケちゃんの強い希望によって青木ヶ原樹海へ。
風穴から青木ヶ原樹海の遊歩道をつっきって鳴沢氷穴に進む。樹海のあちこちには
「死なないで。借金は返せます 以下の電話に連絡を」と自殺防止の立てカンバンがたっている。しかし、言わせてもらえば樹海の中では一部のケータイしか通じない。
ちなみに、わたしがダンナから借りたauはばっちり機能し、樹海を歩きながら、週刊誌の記者の電話をうけるハメになる。
チベット問題をグチりつつ紅葉台につく。ここは富士山の展望台。雪をかぶった富士の美しさにみなで息を呑む。
「富士山ヤバイ、ヤバすぎ」と感動して記念撮影。再び樹海の遊歩道をあるき竜宮風穴のバス停にでる。
バスがくるまでの三十分間、何もすることがないので、みなで座り込んでいると、黄色い軽自動車が目の前の林道に入っていく。

トミー「あれは、チュチュリングですよ」
私「でも後ろの席に子供がいたよ」
O津「じゃ、一家心中じゃないですか」
しばらくすると、父親がまず車を降り、次に赤ん坊を抱いた母親が降りてくる。そして三人で林道に入っていく。
みんな「とめなくていいですかね」
しばらくすると、三人は戻ってきて、再び車にのって走り去る。
私「何していたんだろうね」
O津「きっと子供を捨てようと思って、思いとどまったんですよ」
樹海ということもあり、会話がしめっぽくなる。夕方NHKを見ていると、本日日本の中国大使館前で行われたチベット支援でもが1300人集まったという。すごい。夕食後はおきまりの買い出し→のみ。ウノで盛り上がる。
三月二十三日
朝ごはんをたべながら、宿のおばちゃんのうわさ話をきく。近所のスーパー温泉●×は、十六~七年前、殺人事件があった現場だという。その裏話を聞いたのだがあまりにもアブナイ話なのでここには書けない。
そこで、タケちゃんと私は興味本位でその温泉に向かうも、午前十時前だったので負け犬になって帰る。そのうち昨日、南米からニューヨーク経由で成田についたばかりのAジくんが到着。
Aジくんはデジカメに入っているニューヨークの写真をみせてくれる。そこにはセントラルパークにあるイマジンのモニュメント、フリー・チベットの旗をかかげるニューヨークのデモ隊がうつっていた。さすがわたしのゼミ生である。観光の視点が実にシブイ。
昨日のチベット支援デモの参加者が今までになく多人数になったこと、台湾の総統選の結果などを語り合う。
午後は茅葺き家屋を再現した「根場いやしの里」に向かう。
富士山とかやぶき屋根をバックにみんなで記念撮影。昨日よりややかすんでいるもののとてもキレイ。そばをたべ、ここでみんなはじめての竹馬体験。ノブくんとO津くんが、初乗りにしてすばらしい才能を発揮。平等、平等といっても生まれながらに決定している部分もあるな、と竹馬を契機に才能の不平等を思う。
このあとKちゃんも合流して、全員そろって浅間神社に参拝。ここは富士山に祭られる美女神コノハナサクヤ姫をまつる神社。桜をご神紋とする美しい神社である。
その晩は某大の茶道部の学生たちも宿泊していた。彼らはとてもおとなしく、十一時をまわるとみなそれぞれの部屋にもどり就寝の用意をしている。一方、こちらは・・・
タケちゃん「ウノーッ!!!!」
ツッチー「信じらんない。死ねばいいのに」
酒井さん「肌荒れはダンホルがいけないんですよ、ダンホルが」
T中「手相見ますよ。あ、姓名鑑定の方が得意ですけど」
トミー「ボクはねジミーヘンドリックスのように生きたいんですよ!!!」
Rナちゃん「ちょっとすみません、電話」
Kコちゃん「●△×!!!キャーハハハハ」
Kくん「この前酔って転んでうったところ、ヒゲ生えなくなりました・・・」
Aジくん「ヤベ、時差ぼけで眠い。一時間たったら起こして」
私「ところで、ノブくんはシュウカツだよね、幹事とかやってていいの」
ノブくん「ボクにはこの旅行が必要だったんです・・・」
三月二十五日
海外ニュースはのきなみトップで、アテネオリンピックの採火式において中国代表の演説中に「国境なき記者団」の抗議行動があったことを伝えている。この聖火は五大陸をまわって中国についた後、中国内の〔中国人から見た〕少数民族地域をめぐって開会式の日に北京に到着することになっている。これからこの聖火は行く先々でフリー・チベット運動の洗礼を受けることであろう。

今日は卒業式。専修別の卒業式あと盛装したみなとロータリーで記念撮影をする。で、何とみなが色紙と花束をプレゼントしてくれる。何かフツーのゼミの師弟関係のようである。
皆は徹夜で飲むというので、わたしは失礼する。そのあと研究室に花束をおいて図書館に調べ物に行く。一時間ほどして戻ると、室内は花の香りで満ちていた。
その瞬間、自分がいかに恵まれているか、いかに幸せかが実感されて立ちつくした。自分が感じているこの幸せを一人でも多くの人が感じられることを心の底から祈った。
君たちの人生がこれからもたくさんの笑いにあふれていますように。
四年間、本当にありがとう。
観音菩薩ダライラマ
昨日の三大紙朝刊の一面は見事にゲルワリンポチェ(ダライラマ猊下の尊称)の顔がならんだ。読売と毎日は文字通り一面トップに大写し、かの朝日新聞ですら一面の下の方のすみにダライラマ猊下の小さなお顔を配しており、チベットをめぐる情勢がいかに深刻かを示している。
かつては年に一~二度しか尊顔を拝することもかなわなかったダライラマ猊下が、このような粗末に扱われる可能性のある新聞にのっているというのも「歴史上もっとも著名なダライラマ」にして「悲劇のダライラマ」であるゆえんである。
ダライラマを敬愛する人々は、ダライラマ猊下が、このたびのチベット人の「暴力」とそれによる死者と、千倍返しの中国政府の「武力弾圧」にどれほど心を痛めているかを察して、みな暗い気持ちになっている。
中国当局はダライラマ猊下が背後にいるようなことを言っているが、言うまでもなく全くの中傷である。
ダライラマ猊下は、中国政府の政策に対する批判は行うものの、チベット人に対してつねに自重を説いてきており、その言説はお若い頃からゆるぎない。
1949年に新中国が成立した時、すぐにチベット「解放」を宣言し、1950年の10月には、朝鮮半島へは北朝鮮に味方する義勇軍が送り込まれ、同月に東チベットへの解放軍が送り込まれた。以後、解放軍の進駐過程、土地改革の過程、文化大革命の嵐の最中、チベットの僧院は徹底的に破壊され、僧侶は虐殺され、生き残りは亡命するか還俗するかの道を選ばされ、チベット仏教は壊滅状態になった。
1959年にインドに亡命したダライラマ猊下は、自らの守るべき民がこのような悲惨な目にあっている時でも、仏教の教えに基づき、「暴力はいけない、武力による報復はいけない」と説き続けていた。
このようなダライラマ猊下のお言葉に対して、俗人の知識人の中には、このような弱腰では祖国を取り戻すことはできない、と批判するようなグループもあり、70年代に、パレスチナが国連で議席を得ると、「国家をこれからつくろうというパレスチナですら国連に議席があるのに、国家であったチベットが国連で何らの地位も得られないのは、ダライラマ猊下の弱腰政策にある」という批判が噴出した。
それでも、猊下は「暴力」はいけない、と説き続けた。猊下はチベット人に「仏教徒である」(人である)というアイデンティティを失うことは、国を失うことよりも悲しいことであると見抜いていたのだ。
1989年のチベット騒乱の時も、直接の契機は、ダライラマ猊下がチベット独立をチベット自治に後退させたからである。
怒り、暴力をふるう人々の気持ちもわからないことはない。尊敬する師僧を殺され、家も財産も奪われ、祖国すら失い浪々の身となった先の見えない状況で「心の平和を保て」「殴られても殴り返すな」(実際には殺されても・・・なんだけどね)と言われても、観音菩薩の化身ダライラマには可能であっても、凡夫には難しいものだ。
でも、この貧しても鈍しないダライラマ猊下の高潔さに、先進国の知識人は打ちのめされた。かの喜劇王チャップリンがガンディーの高潔さにうちのめされてファンとなったように、リチャード・ギアも、イギリスのチャールズ皇太子も、日本の鳩山民衆党党首も(笑)、世界中のセレブが、ダライラマ猊下を生み出したこの精神文明を守るために、何かしたい、と思ったのである。
結果、チベットは大国中国を相手にして、国をうしなって半世紀以上を過ぎた今もなおそのプレザンスを失なわないですんでいる。ダライラマ猊下の行動は総体的に見れば正しかったのである。
最近の一連の事件によってチベット問題に興味をもった方は、ダライラマ猊下が、どうしてもっと過激な声明をださないのか、と不審の念を抱いているようだが、ダライラマ猊下は中国政府がもっとひどい虐殺や破壊を行っていた60年代ですら、非暴力を説いていたのである。猊下の姿勢は、どこぞの国の政治家の言動や御用学者の研究やコメンテーターの発言とは異なり、とにかく一貫してゆるぎない。
ダライラマ猊下は政治家である前にまず仏教徒なのである。
仏教をまもることこそが彼にとって一番の使命なのである。
仏教においては、まず、何かに対して強い怒りを持つこと、何かにたいして強い執着を持つこと、の両方を戒める。とらわれた心こそが苦しみのはじまりだからである。だから、彼はもちろん中国政府の虐殺を非難するし、チベット人の「暴動」を認めることもない。
しかし、一方でダライラマ猊下は愛の菩薩観音菩薩の化身である。このアイデンティティにおいては猊下はチベットの民をこよなく愛している。
チベット人は観音菩薩の祝福によって生まれ、7世紀の初代国王ソンツェンガムポ王はダライラマの前世者である。彼は転生を繰り返してチベットの民を守ってきた(と17世紀以後信じられている。)。観音菩薩としての猊下は、殺されていく民を見て、とれほど心を痛めておられるであろうか。
中国ももう少し考えてみるべきである。チベット人は軍事力にも社会主義思想にも従わない。チベット文明はこれまで、他者をとりこにすることはあっても、自分が他者の精神文明に同化した例は一度もないのだ。
17世紀以後、チベットにはご多分に多くの宣教師が布教に訪れたが、彼らは布教の自由を得ていたにも拘わらず、少しも信者を増やすことはできなかった。それだけチベット仏教思想は完成度が高いのである。
ましてや、社会主義のような底のあさいガサツな思想で、ソフィスティヶートされたダライラマの仏教思想(中観帰謬論証派)を洗脳することは不可能なのである。
チベット人は軍隊でいくら脅しても、道路しいても、青蔵鉄道とおしても、そんなもんで「ははー」と感心するような田舎者ではないのである。
彼らは、ただ、この完成度の高い普遍的な精神文明を自分たちの生まれた地で自由に学び修行する、その自由をくれ、と言っているだけなのである。
リチャード・ギアはチベット支援についてこう語っている。「我々がチベットを救おうという時、我々自身がよくなる可能性も同時に救っているのである。」
かつては年に一~二度しか尊顔を拝することもかなわなかったダライラマ猊下が、このような粗末に扱われる可能性のある新聞にのっているというのも「歴史上もっとも著名なダライラマ」にして「悲劇のダライラマ」であるゆえんである。
ダライラマを敬愛する人々は、ダライラマ猊下が、このたびのチベット人の「暴力」とそれによる死者と、千倍返しの中国政府の「武力弾圧」にどれほど心を痛めているかを察して、みな暗い気持ちになっている。
中国当局はダライラマ猊下が背後にいるようなことを言っているが、言うまでもなく全くの中傷である。
ダライラマ猊下は、中国政府の政策に対する批判は行うものの、チベット人に対してつねに自重を説いてきており、その言説はお若い頃からゆるぎない。
1949年に新中国が成立した時、すぐにチベット「解放」を宣言し、1950年の10月には、朝鮮半島へは北朝鮮に味方する義勇軍が送り込まれ、同月に東チベットへの解放軍が送り込まれた。以後、解放軍の進駐過程、土地改革の過程、文化大革命の嵐の最中、チベットの僧院は徹底的に破壊され、僧侶は虐殺され、生き残りは亡命するか還俗するかの道を選ばされ、チベット仏教は壊滅状態になった。
1959年にインドに亡命したダライラマ猊下は、自らの守るべき民がこのような悲惨な目にあっている時でも、仏教の教えに基づき、「暴力はいけない、武力による報復はいけない」と説き続けていた。
このようなダライラマ猊下のお言葉に対して、俗人の知識人の中には、このような弱腰では祖国を取り戻すことはできない、と批判するようなグループもあり、70年代に、パレスチナが国連で議席を得ると、「国家をこれからつくろうというパレスチナですら国連に議席があるのに、国家であったチベットが国連で何らの地位も得られないのは、ダライラマ猊下の弱腰政策にある」という批判が噴出した。
それでも、猊下は「暴力」はいけない、と説き続けた。猊下はチベット人に「仏教徒である」(人である)というアイデンティティを失うことは、国を失うことよりも悲しいことであると見抜いていたのだ。
1989年のチベット騒乱の時も、直接の契機は、ダライラマ猊下がチベット独立をチベット自治に後退させたからである。
怒り、暴力をふるう人々の気持ちもわからないことはない。尊敬する師僧を殺され、家も財産も奪われ、祖国すら失い浪々の身となった先の見えない状況で「心の平和を保て」「殴られても殴り返すな」(実際には殺されても・・・なんだけどね)と言われても、観音菩薩の化身ダライラマには可能であっても、凡夫には難しいものだ。
でも、この貧しても鈍しないダライラマ猊下の高潔さに、先進国の知識人は打ちのめされた。かの喜劇王チャップリンがガンディーの高潔さにうちのめされてファンとなったように、リチャード・ギアも、イギリスのチャールズ皇太子も、日本の鳩山民衆党党首も(笑)、世界中のセレブが、ダライラマ猊下を生み出したこの精神文明を守るために、何かしたい、と思ったのである。
結果、チベットは大国中国を相手にして、国をうしなって半世紀以上を過ぎた今もなおそのプレザンスを失なわないですんでいる。ダライラマ猊下の行動は総体的に見れば正しかったのである。
最近の一連の事件によってチベット問題に興味をもった方は、ダライラマ猊下が、どうしてもっと過激な声明をださないのか、と不審の念を抱いているようだが、ダライラマ猊下は中国政府がもっとひどい虐殺や破壊を行っていた60年代ですら、非暴力を説いていたのである。猊下の姿勢は、どこぞの国の政治家の言動や御用学者の研究やコメンテーターの発言とは異なり、とにかく一貫してゆるぎない。
ダライラマ猊下は政治家である前にまず仏教徒なのである。
仏教をまもることこそが彼にとって一番の使命なのである。
仏教においては、まず、何かに対して強い怒りを持つこと、何かにたいして強い執着を持つこと、の両方を戒める。とらわれた心こそが苦しみのはじまりだからである。だから、彼はもちろん中国政府の虐殺を非難するし、チベット人の「暴動」を認めることもない。
しかし、一方でダライラマ猊下は愛の菩薩観音菩薩の化身である。このアイデンティティにおいては猊下はチベットの民をこよなく愛している。
チベット人は観音菩薩の祝福によって生まれ、7世紀の初代国王ソンツェンガムポ王はダライラマの前世者である。彼は転生を繰り返してチベットの民を守ってきた(と17世紀以後信じられている。)。観音菩薩としての猊下は、殺されていく民を見て、とれほど心を痛めておられるであろうか。
中国ももう少し考えてみるべきである。チベット人は軍事力にも社会主義思想にも従わない。チベット文明はこれまで、他者をとりこにすることはあっても、自分が他者の精神文明に同化した例は一度もないのだ。
17世紀以後、チベットにはご多分に多くの宣教師が布教に訪れたが、彼らは布教の自由を得ていたにも拘わらず、少しも信者を増やすことはできなかった。それだけチベット仏教思想は完成度が高いのである。
ましてや、社会主義のような底のあさいガサツな思想で、ソフィスティヶートされたダライラマの仏教思想(中観帰謬論証派)を洗脳することは不可能なのである。
チベット人は軍隊でいくら脅しても、道路しいても、青蔵鉄道とおしても、そんなもんで「ははー」と感心するような田舎者ではないのである。
彼らは、ただ、この完成度の高い普遍的な精神文明を自分たちの生まれた地で自由に学び修行する、その自由をくれ、と言っているだけなのである。
リチャード・ギアはチベット支援についてこう語っている。「我々がチベットを救おうという時、我々自身がよくなる可能性も同時に救っているのである。」
チベット争乱「統合される側」の悲鳴
ラサのチョカン(釈迦堂)で再びチベット人の血が流れた。
チョカンはラサの中心部にあり、7世紀にチベットにはじめて仏教を導入したソンツェンガムポ王とそのネパールからきた妃がたてた寺であり、ラサの街はこの釈迦堂を中心に発展し、この寺をめぐる三つの巡礼路が古ラサでもっとも人通りの多い道であった。
つまり、釈迦堂は文字通りラサの心臓のような寺である。
今回中国とチベットがぶつかったのはこの釈迦堂前の広場と真ん中の巡礼路(パルコル)である。
そして、三月十日はチベット蜂起記念日。そろそろ来るかな~と思っていたら、やっぱりきた。
1959年3月10日、ダライラマ14世は中国軍軍営から招待を受けていた。チベット人の間には、このままダライラマは北京につれていかれて、チベットからいなくなってしまうのではないかという不安がひろがった。
たしかに、ダライラマはチベット人にとってチベットの仏教と政治の最高権威者。チベットのナショナリズムの結節点になるため、中国政府にとっては彼をラサにおいておくより、北京において"チベット民族"の代表者にしておいた方が安心できるであろう。
1959年3月10日、チベットの民衆は、ダライラマの滞在するノルブリンカ離宮の周りを人垣をつくって取り囲み、中国軍営からくる迎えの車をシャットアウトした。それから数日後、ダライラマ14世は人垣にまぎれてひそかにこの離宮からぬけだし、インドに亡命したのである。
この三月十日はチベット人がダライラマを守るために自発的に蜂起した日として記憶され、インドの亡命社会ではチベット蜂起記念日(Tibetan Uprising Day)として、祝日となっている。要はチベット暦のお正月から三月十日前後にかけては、チベット人と中国人が一番、一触即発になる時期なのだ。
1989年、前パンチェンラマがなくなった後の三月にも、僧侶のデモがあり、多くの僧が銃殺されている。
ダライラマ猊下はチベット人が傷つくことを何よりも悲しまれるため、北京オリンピックが近づくここ一年はチベット人の自重を訴えていた。もしチベットで何かあった場合、メンツを何よりも大事にする中国政府が、チベットの僧俗の民になにするかは火を見るよりも明らかだからだ。
しかし今回再び流血の惨事が起きてしまった。
チベット人は仏教徒なので、とらわれた思考こそが苦しみのはじまり、という非常にソフィスティケートされた思考を有しているため、争いを好まない。
青蔵鉄道が開通して、たくさんの観光客と漢人ビジネスマンがチベットにおしよせてこようが、
北京オリンピックのマスコットにチベットカモシカがはいってようが、
北京オリンピックの聖火ランナーがわざわざチョモランマの頂をめぐって北京に向かおうが、
中国当局がダライラマ猊下を犯罪者よばわりしようが(あ、これは六十年前からか)、
自重してきたのである。
それなのに中国は丸腰のデモに発砲するのである。
非暴力というのは、対抗する相手が恥を知るまともな人間の場合は、効力を発揮するが、相手が恥知らずだと、その抵抗運動は停滞する。
ガンディー対大英帝国の場合、大英帝国は一応恥を知っていたので、裸足のガンディーは大英帝国を追い払うことに成功した。しかし、ミャンマーの軍事政権は? 中国政府は? 聞く耳をもたない方々なので、国際社会に訴えるしかないわけで。
ガンディーは「塩の行進」をイギリスのジャーナリストに撮影させて、世界に伝えた。しかし、現在の中国やミャンマーでは、ネットに至るまで厳しい報道規制がしかれて、ジャーナリストはみな検閲を受けている。1989年の時にも、一人のイギリス人ジャーナリストが隠し持っていたビデオでやっと世界にその実態が知れたのである。
その影像は、釈迦堂の二階テラスを歩く僧侶を、中国人がねらい打ちしているものであった。世界はその影像をみて中国政府に自覚を促すため、その年のノーベル平和賞はダライラマ猊下に決定したのである(同年、天安門事件もあったしね)。
今回のデモとそれに対する弾圧は1989年以来のもの。
先進国各位は今回もそれなりの見識を示してほしい。
中国はこのオリンピックを通じてとにかく民族統合をアピールしようとしている。圧倒的多数をしめる漢族にとってそれは予定調和の事実なのだろう。しかし、その漢族に文化も歴史ものみこまれていく「統合される側」の悲鳴は聞こえてこないだろうか。
*追記 チベットとか、チベット問題の来歴については『チベットを知るための50章』(本の紹介はココクリック)を読んでね! 長田幸康さんの一連の著作もグッドよ!
チベット支援のNPOを運営しているうらるんたさんのページでは現在進行中のナマナマシい状況がわかります(→ここクリック)。
チョカンはラサの中心部にあり、7世紀にチベットにはじめて仏教を導入したソンツェンガムポ王とそのネパールからきた妃がたてた寺であり、ラサの街はこの釈迦堂を中心に発展し、この寺をめぐる三つの巡礼路が古ラサでもっとも人通りの多い道であった。
つまり、釈迦堂は文字通りラサの心臓のような寺である。
今回中国とチベットがぶつかったのはこの釈迦堂前の広場と真ん中の巡礼路(パルコル)である。
そして、三月十日はチベット蜂起記念日。そろそろ来るかな~と思っていたら、やっぱりきた。
1959年3月10日、ダライラマ14世は中国軍軍営から招待を受けていた。チベット人の間には、このままダライラマは北京につれていかれて、チベットからいなくなってしまうのではないかという不安がひろがった。
たしかに、ダライラマはチベット人にとってチベットの仏教と政治の最高権威者。チベットのナショナリズムの結節点になるため、中国政府にとっては彼をラサにおいておくより、北京において"チベット民族"の代表者にしておいた方が安心できるであろう。
1959年3月10日、チベットの民衆は、ダライラマの滞在するノルブリンカ離宮の周りを人垣をつくって取り囲み、中国軍営からくる迎えの車をシャットアウトした。それから数日後、ダライラマ14世は人垣にまぎれてひそかにこの離宮からぬけだし、インドに亡命したのである。
この三月十日はチベット人がダライラマを守るために自発的に蜂起した日として記憶され、インドの亡命社会ではチベット蜂起記念日(Tibetan Uprising Day)として、祝日となっている。要はチベット暦のお正月から三月十日前後にかけては、チベット人と中国人が一番、一触即発になる時期なのだ。
1989年、前パンチェンラマがなくなった後の三月にも、僧侶のデモがあり、多くの僧が銃殺されている。
ダライラマ猊下はチベット人が傷つくことを何よりも悲しまれるため、北京オリンピックが近づくここ一年はチベット人の自重を訴えていた。もしチベットで何かあった場合、メンツを何よりも大事にする中国政府が、チベットの僧俗の民になにするかは火を見るよりも明らかだからだ。
しかし今回再び流血の惨事が起きてしまった。
チベット人は仏教徒なので、とらわれた思考こそが苦しみのはじまり、という非常にソフィスティケートされた思考を有しているため、争いを好まない。
青蔵鉄道が開通して、たくさんの観光客と漢人ビジネスマンがチベットにおしよせてこようが、
北京オリンピックのマスコットにチベットカモシカがはいってようが、
北京オリンピックの聖火ランナーがわざわざチョモランマの頂をめぐって北京に向かおうが、
中国当局がダライラマ猊下を犯罪者よばわりしようが(あ、これは六十年前からか)、
自重してきたのである。
それなのに中国は丸腰のデモに発砲するのである。
非暴力というのは、対抗する相手が恥を知るまともな人間の場合は、効力を発揮するが、相手が恥知らずだと、その抵抗運動は停滞する。
ガンディー対大英帝国の場合、大英帝国は一応恥を知っていたので、裸足のガンディーは大英帝国を追い払うことに成功した。しかし、ミャンマーの軍事政権は? 中国政府は? 聞く耳をもたない方々なので、国際社会に訴えるしかないわけで。
ガンディーは「塩の行進」をイギリスのジャーナリストに撮影させて、世界に伝えた。しかし、現在の中国やミャンマーでは、ネットに至るまで厳しい報道規制がしかれて、ジャーナリストはみな検閲を受けている。1989年の時にも、一人のイギリス人ジャーナリストが隠し持っていたビデオでやっと世界にその実態が知れたのである。
その影像は、釈迦堂の二階テラスを歩く僧侶を、中国人がねらい打ちしているものであった。世界はその影像をみて中国政府に自覚を促すため、その年のノーベル平和賞はダライラマ猊下に決定したのである(同年、天安門事件もあったしね)。
今回のデモとそれに対する弾圧は1989年以来のもの。
先進国各位は今回もそれなりの見識を示してほしい。
中国はこのオリンピックを通じてとにかく民族統合をアピールしようとしている。圧倒的多数をしめる漢族にとってそれは予定調和の事実なのだろう。しかし、その漢族に文化も歴史ものみこまれていく「統合される側」の悲鳴は聞こえてこないだろうか。
*追記 チベットとか、チベット問題の来歴については『チベットを知るための50章』(本の紹介はココクリック)を読んでね! 長田幸康さんの一連の著作もグッドよ!
チベット支援のNPOを運営しているうらるんたさんのページでは現在進行中のナマナマシい状況がわかります(→ここクリック)。
矯正歯科で考えた
この前定期的に行く歯のクリーニングで歯医者さんにいった際、下の歯の歯並びが乱れてきていることを相談してみた。するとその歯医者さん、矯正歯科への紹介状を書いてくれた。 予約をとって火曜日に矯正歯科に行ってみる。
西洋では歯並びが階層を表すとかいうので、歯列矯正が盛んだが、日本は徐々に盛んになってきたところ。日本の場合も富裕層をねらっているのか、普通の歯科よりもおしゃれな内装になっている。
歯医者さんはわたくしの歯を一瞥して、「親知らずが四本とも見事に生えてますねー。それで前の歯がおされてスペースがなくなって、結果前歯の並びが乱れたんですね。矯正の場合、通常はこの歯とこの歯をぬいてスペースを造って歯並びを調えるのですが、このケースでは前歯を一本抜いてそのスペースに他の歯をよせていくという形になると思います」
私「前歯は目立つので、ここの、根は自前だけど上がアマルガムの、この歯を抜くことにしませんか」
歯科医「そこはやめた方がいいです。抜くのはやっぱり前歯ですね」
で、もしその治療を実行するとすると、下の歯に矯正器具をつけるのは一年間、値段は最低でも六十万、一月に一度通院して通院後三日は歯が痛み、器具が口の中にあるので口腔内に炎症ができる可能性もある、とのこと。
私「見た目がよくなる以外のメリットはありますか」
歯科医「虫歯と歯周病になりにくくなります」
(それだけかい!)私「考えさせてください」とそこで相談は終わり。
本日は相談のみということで、無料。まあ、家や車と同じで、高価な買い物に誘い込む入り口は、大体無料。タダより高いものはない。
家に帰って、矯正するか否かで悩む。
下の歯だから多少目立ちにくいとはいえ、一年間前歯歯抜けの矯正器つきの歯を人にみせるのはイヤ。治療でイタイのもイヤ。
何より健康な歯を抜くのに抵抗がある。そもそも、歯列矯正って本当に何の副作用もないのだろうか。
そこで、ネットで情報を拾ってみると真偽の程は定かではないが、十年以内に顎関節症になる確率がぐんと上がること、歯茎と歯にムリをさせるので、確実に残った歯の寿命を縮めるとある。
ここまできて、これだけのデメリットを乗り越えてまで、矯正しなければならない程、乱れた歯列でもないような気もしてきた。
やーめた。
親知らずが生えて歯列が乱れた。これは自然の流れなんだ。むしろ、四本ともまっすぐに育って虫歯一つない親知らずを、いばっていいよな気もしてきた。乱れた前歯はどうせ下の歯だからよく見えないし。
整形とか一度はじめると、どんどんはまっていって、あそこも、ココも、とどんどん顔に手を入れたくなり、でも、いれすぎると中年以後にサマンサのママみたいな顔(魔女顔)になってしまうというが、これと同じで、何年かかけて歯も治しても、常に、老化によってどんどん歯の状態はかわるわけで、これでパーフェクトと思えるような状態には、たぶん一瞬しかならない。すぐに、老化による歯のゆるみに対処するためにまた矯正したくなったり、差し歯をしたりすることになるだろう。
「もうちょっとキレイに、もうちょっとここを治して」などという、とらわれた心こそがまさに、矯正すべきものじゃないか。
整形や歯列に限らず、老いをとめよう、とかいう行動も、考えてみればムダ。
肌や髪や体や体中オールラウンドにあらわれる老いにとらわれたら最後、一日の大半をその対処に費やすこととなる。白髪を染めて、お化粧して、ハゲを隠して、加齢臭を体臭の変わるガムで消して・・・などエンドレスである。大体、老いと戦っても負けるに決まっているわけで、時間の無駄ムダ。むしろ若作り励む姿が老けてみえるだけ。
というわけで、今の親知らずが生えて前歯が困っている状態を、自然でビューティフルな状態と思うことにする。
何事も気合いだ。
西洋では歯並びが階層を表すとかいうので、歯列矯正が盛んだが、日本は徐々に盛んになってきたところ。日本の場合も富裕層をねらっているのか、普通の歯科よりもおしゃれな内装になっている。
歯医者さんはわたくしの歯を一瞥して、「親知らずが四本とも見事に生えてますねー。それで前の歯がおされてスペースがなくなって、結果前歯の並びが乱れたんですね。矯正の場合、通常はこの歯とこの歯をぬいてスペースを造って歯並びを調えるのですが、このケースでは前歯を一本抜いてそのスペースに他の歯をよせていくという形になると思います」
私「前歯は目立つので、ここの、根は自前だけど上がアマルガムの、この歯を抜くことにしませんか」
歯科医「そこはやめた方がいいです。抜くのはやっぱり前歯ですね」
で、もしその治療を実行するとすると、下の歯に矯正器具をつけるのは一年間、値段は最低でも六十万、一月に一度通院して通院後三日は歯が痛み、器具が口の中にあるので口腔内に炎症ができる可能性もある、とのこと。
私「見た目がよくなる以外のメリットはありますか」
歯科医「虫歯と歯周病になりにくくなります」
(それだけかい!)私「考えさせてください」とそこで相談は終わり。
本日は相談のみということで、無料。まあ、家や車と同じで、高価な買い物に誘い込む入り口は、大体無料。タダより高いものはない。
家に帰って、矯正するか否かで悩む。
下の歯だから多少目立ちにくいとはいえ、一年間前歯歯抜けの矯正器つきの歯を人にみせるのはイヤ。治療でイタイのもイヤ。
何より健康な歯を抜くのに抵抗がある。そもそも、歯列矯正って本当に何の副作用もないのだろうか。
そこで、ネットで情報を拾ってみると真偽の程は定かではないが、十年以内に顎関節症になる確率がぐんと上がること、歯茎と歯にムリをさせるので、確実に残った歯の寿命を縮めるとある。
ここまできて、これだけのデメリットを乗り越えてまで、矯正しなければならない程、乱れた歯列でもないような気もしてきた。
やーめた。
親知らずが生えて歯列が乱れた。これは自然の流れなんだ。むしろ、四本ともまっすぐに育って虫歯一つない親知らずを、いばっていいよな気もしてきた。乱れた前歯はどうせ下の歯だからよく見えないし。
整形とか一度はじめると、どんどんはまっていって、あそこも、ココも、とどんどん顔に手を入れたくなり、でも、いれすぎると中年以後にサマンサのママみたいな顔(魔女顔)になってしまうというが、これと同じで、何年かかけて歯も治しても、常に、老化によってどんどん歯の状態はかわるわけで、これでパーフェクトと思えるような状態には、たぶん一瞬しかならない。すぐに、老化による歯のゆるみに対処するためにまた矯正したくなったり、差し歯をしたりすることになるだろう。
「もうちょっとキレイに、もうちょっとここを治して」などという、とらわれた心こそがまさに、矯正すべきものじゃないか。
整形や歯列に限らず、老いをとめよう、とかいう行動も、考えてみればムダ。
肌や髪や体や体中オールラウンドにあらわれる老いにとらわれたら最後、一日の大半をその対処に費やすこととなる。白髪を染めて、お化粧して、ハゲを隠して、加齢臭を体臭の変わるガムで消して・・・などエンドレスである。大体、老いと戦っても負けるに決まっているわけで、時間の無駄ムダ。むしろ若作り励む姿が老けてみえるだけ。
というわけで、今の親知らずが生えて前歯が困っている状態を、自然でビューティフルな状態と思うことにする。
何事も気合いだ。
専門書懐胎の瞬間
恩師がもうすぐ退官なので、弟子一同で「何か記念になるような本をつくろう、どういう本にするかはとりあえず研究会を開いて、中身を固めよう」というわけで、火曜日、懐かしい面々が大学に集まった。
みないい年になり、偉くなっている人もいるが、顔をあわすとすぐに学生時代のノリに戻る。わたしはケンブリッジ大学が出している、ヒストリー・シリーズのような、大学の教科書として想定された固めの通史なんかいいのではないか、と思っていたが、みなの反対にあう。
反対意見は、「そもそもモンゴルの領域の設定をどうするのか」「いくら人数がいるとはいえ、広大なモンゴル史のすべての時代をカバーするのはムリ」「その場合、他人の研究をそのまま調べて書くのなら出す意味がない」「ケンブリッジ・ヒストリー・シリーズ、なんてそんないいもんじゃないよ」などというものであった。
で、彼らの考える本の構想とは、それぞれが研究対象としている時代やジャンルにおける、研究や資料をめぐる問題点を整理して、人々を啓蒙するような専門書にしようというものであった。
テーブルの中央には、彼らがモデルとする某研究書がのっており、これのモンゴル版を造る、と彼らはいう。仕方ないので、参考までにその研究書を手に取ってみると、表紙は何の装丁もされておらず真っさら。題名もダサダサ、目次をみても章にも節にも分けられておらず、ただたら~ん、と論攷が並列されているだけ。内容も研究者向けで固い。
地味。
私「やだよー、こんな地味な本研究者しか読まないよ~。でも、日本全国にいるモンゴル史研究者の数なんて知れてるじゃん。何の反響もないよ。そんなんより、一般に向けた企画にして部数だそうよ~」
先輩A「ボクはそういうポピュリズムは一番嫌いなんだよね」
私「学界の最前線を一般にわかりやすい形で提示するのは学者の義務の一つじゃん。もしどしても研究者を対象とするというのなら、英訳だそうよ。そしたら海外の研究者も加わるから少しは反響がでてくるよー」
先輩B「人ごとのように言ってもらっては困る。何か提起するなら、民主党じゃないんだから、具体的な案をだせ(英訳はいいだしっぺがしろ!)。」
などと醜く言い争う。久しぶりで懐かしいので勢い舌鋒も鋭くなる(笑)。昔よく、研究発表のあとで、「あんたの研究なんか●×じゃん!」「あなたのだって××が証明できてないじゃん、何の意味があるんだ」と互いの研究を落としあったことを懐かしく思い出す(笑)。
しかし結局、みなで出す本なので、みなが「できない」というものを押し通せるわけもなく、研究者対象の本にすることに同意する。
しかし、絶対、内容は汎用性のあるものにしてみせる。
そのあと、先輩がモンゴル史研究の問題点をあげ、みなで問題点を整理する。
多くのモンゴル史研究者たちは、現在の国家の枠組みや民族概念を、過去に投影して論じるという過ちをおかしていること、また、マルクス史観の影響の下、土地制度や支配関係などの解明といった非常に限定的なテーマばかりが論じられ、17世紀支配的なパラダイムであったチベット仏教が等閑に附されていることなどが提起される。
まあ、一言でいうと過去の歴史を、その当時のあるがままがどうであったのかを追求するのはなく、知らず知らずのうちに現代的な視点で解釈してしまっているということ。これはなかなか根深い問題。
そこでそのような問題意識を共有しつつ、具体的にどのようなテーマを誰にわりふるかを決める(その時点で会場はたんなる居酒屋となっている)。
具体的には、プリントの裏の余白にボールペンで執筆予定者の名前をかきこみ、その人が論述可能なテーマを考えて埋めていくという作業をする。
そして最後に
私「題名は今の仮称の題名だとあまりにダサイ」
先輩A「『モンゴル史の新地平』は?」
私「"新しい"という言葉はでた瞬間に古くみえる。『サルでもわかるモンゴル史』は?」
先輩A「却下。『モンゴル史の位相』は?」
私「あなたどこぞのシンポジウムでも位相って題名つけてたけど、その言葉好きなの? ありきたりなので却下。"スペクトル"とかカタカナは? 『モンゴル史研究のパースペクティブ』は?」
後輩C「うちの祖母でも解る題名にしてください。カタカナ語はうちの婆ちゃんに通じません」
私・先輩「(無視して)ま、仮称"パースペクティブ"で行こう!!」
そして、意味のない何度目かの乾杯をして、お開き。
責任者の先輩Bに書いていたメモを渡すと、
「あなたしか、読めないでしょ、この字」とぺっと返される。
専門書の宿命、事務の押し付け合い、すでに始まれり。
みないい年になり、偉くなっている人もいるが、顔をあわすとすぐに学生時代のノリに戻る。わたしはケンブリッジ大学が出している、ヒストリー・シリーズのような、大学の教科書として想定された固めの通史なんかいいのではないか、と思っていたが、みなの反対にあう。
反対意見は、「そもそもモンゴルの領域の設定をどうするのか」「いくら人数がいるとはいえ、広大なモンゴル史のすべての時代をカバーするのはムリ」「その場合、他人の研究をそのまま調べて書くのなら出す意味がない」「ケンブリッジ・ヒストリー・シリーズ、なんてそんないいもんじゃないよ」などというものであった。
で、彼らの考える本の構想とは、それぞれが研究対象としている時代やジャンルにおける、研究や資料をめぐる問題点を整理して、人々を啓蒙するような専門書にしようというものであった。
テーブルの中央には、彼らがモデルとする某研究書がのっており、これのモンゴル版を造る、と彼らはいう。仕方ないので、参考までにその研究書を手に取ってみると、表紙は何の装丁もされておらず真っさら。題名もダサダサ、目次をみても章にも節にも分けられておらず、ただたら~ん、と論攷が並列されているだけ。内容も研究者向けで固い。
地味。
私「やだよー、こんな地味な本研究者しか読まないよ~。でも、日本全国にいるモンゴル史研究者の数なんて知れてるじゃん。何の反響もないよ。そんなんより、一般に向けた企画にして部数だそうよ~」
先輩A「ボクはそういうポピュリズムは一番嫌いなんだよね」
私「学界の最前線を一般にわかりやすい形で提示するのは学者の義務の一つじゃん。もしどしても研究者を対象とするというのなら、英訳だそうよ。そしたら海外の研究者も加わるから少しは反響がでてくるよー」
先輩B「人ごとのように言ってもらっては困る。何か提起するなら、民主党じゃないんだから、具体的な案をだせ(英訳はいいだしっぺがしろ!)。」
などと醜く言い争う。久しぶりで懐かしいので勢い舌鋒も鋭くなる(笑)。昔よく、研究発表のあとで、「あんたの研究なんか●×じゃん!」「あなたのだって××が証明できてないじゃん、何の意味があるんだ」と互いの研究を落としあったことを懐かしく思い出す(笑)。
しかし結局、みなで出す本なので、みなが「できない」というものを押し通せるわけもなく、研究者対象の本にすることに同意する。
しかし、絶対、内容は汎用性のあるものにしてみせる。
そのあと、先輩がモンゴル史研究の問題点をあげ、みなで問題点を整理する。
多くのモンゴル史研究者たちは、現在の国家の枠組みや民族概念を、過去に投影して論じるという過ちをおかしていること、また、マルクス史観の影響の下、土地制度や支配関係などの解明といった非常に限定的なテーマばかりが論じられ、17世紀支配的なパラダイムであったチベット仏教が等閑に附されていることなどが提起される。
まあ、一言でいうと過去の歴史を、その当時のあるがままがどうであったのかを追求するのはなく、知らず知らずのうちに現代的な視点で解釈してしまっているということ。これはなかなか根深い問題。
そこでそのような問題意識を共有しつつ、具体的にどのようなテーマを誰にわりふるかを決める(その時点で会場はたんなる居酒屋となっている)。
具体的には、プリントの裏の余白にボールペンで執筆予定者の名前をかきこみ、その人が論述可能なテーマを考えて埋めていくという作業をする。
そして最後に
私「題名は今の仮称の題名だとあまりにダサイ」
先輩A「『モンゴル史の新地平』は?」
私「"新しい"という言葉はでた瞬間に古くみえる。『サルでもわかるモンゴル史』は?」
先輩A「却下。『モンゴル史の位相』は?」
私「あなたどこぞのシンポジウムでも位相って題名つけてたけど、その言葉好きなの? ありきたりなので却下。"スペクトル"とかカタカナは? 『モンゴル史研究のパースペクティブ』は?」
後輩C「うちの祖母でも解る題名にしてください。カタカナ語はうちの婆ちゃんに通じません」
私・先輩「(無視して)ま、仮称"パースペクティブ"で行こう!!」
そして、意味のない何度目かの乾杯をして、お開き。
責任者の先輩Bに書いていたメモを渡すと、
「あなたしか、読めないでしょ、この字」とぺっと返される。
専門書の宿命、事務の押し付け合い、すでに始まれり。
『聖ツォンカパ伝』やっと公刊
『聖ツォンカパ伝』がやっと公刊した。
ネットで購入される方は、このページからどうぞ。オンライン本屋さんがずらっとならんでまーす 笑。(→ここクリック)。
ツォンカパ(1357-1419)はダライラマが属する宗派ゲルク派の開祖で、彼の生き方は今もチベットの僧侶の手本であり、彼の著作は僧院の学習や教育に用いられている。ま、とにかくその歴史的影響力が限りなく大きい。
本書にはツォンカパの五つの伝記が収録されている。
まず、ツォンカパ自らが生涯を韻文によんだ『わたしの目指したことは素晴らしい』 次が、ツォンカパの直弟子ケドゥプジェが書いた歴史的な伝記『信仰入門』
同じくケドゥプジェの手になるツォンカパの神秘体験を記した『秘密の伝記』
ツォンカパの身辺にはべって数々の不思議を目にしたジャムペルギャムツォによる、別伝が収録されている。
これら四伝は、いずれもツォンカパの在世中に記されたもので、聖書でいったら福音書みたいな伝記である。
そして、最後に、ツォンカパの人生を描いた十五枚の絵伝を総天然色で収録。もちろん図内に番号がふられていて解説がついてますので、絵解きもできる。
さらに、冒頭には二年ほどまえ、風の旅行社さんが「チベットで学習ツァーを」とおっしゃってくださった時、調子にのって催行した「ツォンカパの聖跡ツァー」でとったウルカやガーワトンなどの聖跡の写真も掲載。
関連する地名をひくための中央チベットの地図もつけたし、索引もつけたし、出す前に見直しもしたし(今まではしてなかったのかよ)、私にしては、ホントまじめにやった。
まっこと、ロ~ング・エンド・ワインディング、ロードであった。
でも、手間暇かけただけあって、絵本のようにキレイな仕上がり。
ぜひ手にとってみてください。

ツォンカパの哲学はこの半世紀、ダライラマ14世の口を通じて世界中に知られることとなった。人種・国境をこえて評価されるその普遍的な哲学が、どのような生き方をした聖者から生まれたものかがこの本によって分かる。
そして、彼の登場によって、チベットがいかに劇的に変わったか、これについて述べる部分は本当に面白い。
ツォンカパが登場する以前のチベットの仏教界は、密教修行を重視するものは、哲学の研究をおろそかにし、哲学を学ぶものは、実修をおろそかにしていた。しかし、ツォンカパは哲学を学んで後、密教修行に入るという道筋をつけ仏教界の紊乱を鎮めた。
また、数ある仏教思想も中観帰謬論証派の解釈のもとに解釈し、様々な思想を体系化するにいたった。そしてこのツォンカパの哲学と修行カリキュラムにより、チベット僧院の巨大化がはじまったのである。
現在、チベット僧院でディベートが重視されているのも、ツォンカパが論理学を重視したことによる。
『聖ツォンカパ伝』がやっと公刊の運びになり、いろいろな意味でほっとした。
数年前、ギュメ寺のロサンガワン先生が来日された折、私がツォンカパ伝を翻訳しているのをご存じの先生は、ツォンカパとその二大弟子の仏画を念をこめて下賜し、「しっかりがんばりなさい」とのお言葉も賜った。こう言われた瞬間に、この翻訳作業は一学者の手慰みから、チベット仏教を日本に伝えよ、とのチベットの高僧の勅命になってしまい、あら困った。
それでも生来の怠癖故、ある時期まったく翻訳が進まない時期があった。そんなある日、ダンナと「そういえばツォンカパ伝、最近まったく進んでないねえ~」などとのどかに話していると、隣の部屋で
ぱさっ
という音がした。二人ともその音を聞いて凍り付いたよ。
それでも確かめに行くと、ロサンガワン先生からいただいたツォンカパの絵が壁からはずれて落ちてましたよ。床に。
その場で二度と落ちないように、ぐりぐり止めなおしたことは言うまでもない。
そういうわけで、もちろんいろいろ至らない点は残っていると思うが、最低の勤めは果たすことができたような気がして心底ほっとした。
にしてもこれは私一人では可能ではありませんでした。最後になりましたが、ここに至るまで力になって下さったすべての方に、この場をかりて厚く御礼申し上げます(近々お送りできると思います)。
ありがとうございました。
ネットで購入される方は、このページからどうぞ。オンライン本屋さんがずらっとならんでまーす 笑。(→ここクリック)。
ツォンカパ(1357-1419)はダライラマが属する宗派ゲルク派の開祖で、彼の生き方は今もチベットの僧侶の手本であり、彼の著作は僧院の学習や教育に用いられている。ま、とにかくその歴史的影響力が限りなく大きい。
本書にはツォンカパの五つの伝記が収録されている。
まず、ツォンカパ自らが生涯を韻文によんだ『わたしの目指したことは素晴らしい』 次が、ツォンカパの直弟子ケドゥプジェが書いた歴史的な伝記『信仰入門』
同じくケドゥプジェの手になるツォンカパの神秘体験を記した『秘密の伝記』
ツォンカパの身辺にはべって数々の不思議を目にしたジャムペルギャムツォによる、別伝が収録されている。
これら四伝は、いずれもツォンカパの在世中に記されたもので、聖書でいったら福音書みたいな伝記である。
そして、最後に、ツォンカパの人生を描いた十五枚の絵伝を総天然色で収録。もちろん図内に番号がふられていて解説がついてますので、絵解きもできる。
さらに、冒頭には二年ほどまえ、風の旅行社さんが「チベットで学習ツァーを」とおっしゃってくださった時、調子にのって催行した「ツォンカパの聖跡ツァー」でとったウルカやガーワトンなどの聖跡の写真も掲載。
関連する地名をひくための中央チベットの地図もつけたし、索引もつけたし、出す前に見直しもしたし(今まではしてなかったのかよ)、私にしては、ホントまじめにやった。
まっこと、ロ~ング・エンド・ワインディング、ロードであった。
でも、手間暇かけただけあって、絵本のようにキレイな仕上がり。
ぜひ手にとってみてください。

ツォンカパの哲学はこの半世紀、ダライラマ14世の口を通じて世界中に知られることとなった。人種・国境をこえて評価されるその普遍的な哲学が、どのような生き方をした聖者から生まれたものかがこの本によって分かる。
そして、彼の登場によって、チベットがいかに劇的に変わったか、これについて述べる部分は本当に面白い。
ツォンカパが登場する以前のチベットの仏教界は、密教修行を重視するものは、哲学の研究をおろそかにし、哲学を学ぶものは、実修をおろそかにしていた。しかし、ツォンカパは哲学を学んで後、密教修行に入るという道筋をつけ仏教界の紊乱を鎮めた。
また、数ある仏教思想も中観帰謬論証派の解釈のもとに解釈し、様々な思想を体系化するにいたった。そしてこのツォンカパの哲学と修行カリキュラムにより、チベット僧院の巨大化がはじまったのである。
現在、チベット僧院でディベートが重視されているのも、ツォンカパが論理学を重視したことによる。
『聖ツォンカパ伝』がやっと公刊の運びになり、いろいろな意味でほっとした。
数年前、ギュメ寺のロサンガワン先生が来日された折、私がツォンカパ伝を翻訳しているのをご存じの先生は、ツォンカパとその二大弟子の仏画を念をこめて下賜し、「しっかりがんばりなさい」とのお言葉も賜った。こう言われた瞬間に、この翻訳作業は一学者の手慰みから、チベット仏教を日本に伝えよ、とのチベットの高僧の勅命になってしまい、あら困った。
それでも生来の怠癖故、ある時期まったく翻訳が進まない時期があった。そんなある日、ダンナと「そういえばツォンカパ伝、最近まったく進んでないねえ~」などとのどかに話していると、隣の部屋で
ぱさっ
という音がした。二人ともその音を聞いて凍り付いたよ。
それでも確かめに行くと、ロサンガワン先生からいただいたツォンカパの絵が壁からはずれて落ちてましたよ。床に。
その場で二度と落ちないように、ぐりぐり止めなおしたことは言うまでもない。
そういうわけで、もちろんいろいろ至らない点は残っていると思うが、最低の勤めは果たすことができたような気がして心底ほっとした。
にしてもこれは私一人では可能ではありませんでした。最後になりましたが、ここに至るまで力になって下さったすべての方に、この場をかりて厚く御礼申し上げます(近々お送りできると思います)。
ありがとうございました。
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