最も高価なものは金では買えない
なんかタイムスリップしたみたい、最近のテレビ。
ミウラカズヨシがサッカーのカズでなく、あの「疑惑の銃弾」のカズヨシになっている。
もう若い人にはこの事件解説がないとわからないだろう。三昔前となる事件だから。
こうしてこの事件が若い層に浸透することにより、サッカーのカズに風評被害が及ばないか心配である。
よけいなお世話か。
「ダーティハリー」の時代は、犯罪捜査の技術もまだ低く、犯罪者が証拠不十分とかで釈放されることも多かったけど、CSIが活躍する今、操作技術も進んで、何か新たな証拠でもでたのかな。
ところで、アメリカでは重大事件に時効がないというのは、イイ!
日本では、小学校の美術の先生が、勤めている小学校の守衛に殺害されて、その守衛は自宅の地下にその死体を隠しており、自宅をたてかえざるをえなくなって、どうせ時効はすぎてるからと、自白して、遺族が怒り心頭に発した事件があった。この守衛アメリカだったらアウトである。
「疑惑の銃弾」とは、若い健康な奥さんに一億六千万もの保険をかけて、かけた直後に奥さんが死んじゃったというもの。にしても、保険ってヘン。
年間一億の稼ぎがある大女優さんとかに一億の保険をかけるのなら納得できるけど、普通の人にそんな高額な保険を設定できるというのがそもそもヘン。
時々、乳幼児に保険かけて殺す親とかもいるけど、余命の長い健康な子供に何百万もの保険が設定できるというのもそもそもヘン。
保険って本来は、貯蓄のない家庭で、大黒柱のお父さんなりお母さんなりが自分になにかあったら、残された家族が大変だろうと、自ら入るもんだろう。
「客観的な稼ぎがない人であっても、掛け金を払う人にとって、その人がプライスレスであれば、その人にはそれに応じた高い保険金を設定できる」という理屈もあるのかもしれない。でも、それもヘン。
ある人がある人をプライスレスと思うのなら、その人の価値を金なんかに換算することはできないはず。本当に大切な人を失うということは、お金で慰められるような問題ではない。
可愛い坊やを失った母親の思うことははただ一つ。
「自分の命をあげてもいい。私の坊やを生き返らせて」だろう。
大切なものをなくすという究極の「もしも」においては、「差し出す」という心理になっても「なにかを代わりにもらう」という発想にはならない。
「大切」「高価」を意味するプライスレスが、直訳すると「値段がつけられない」になっているのは意味のないことではない。
したがって、この人はわたしにとってとても大切な人だから、高い保険金をかける、という理屈はおっかしーのである。プライスレスなものは金では買えないのだから。
何が言いたいかというと、一家の大黒柱が自分で言い出して自分に死亡保険枠を設定する以外の死亡保険枠設定は、犯罪を誘発するキケンがあるのでやめた方がいい、と思う。
金銭的な価値のない古い家屋に高い損害保険金かけて、自分の家に火をつけるような人もたまにいるから、ボロ屋に高い損保もいらん。
どっかのカードの宣伝で、海外旅行をしている親子や夫婦がいろいろな買い物をカードでして、その結果得られる経験を、プライスレス、というのがあったが、あれって宣伝になってんのかなー、といつも思う。
仲の良い夫婦だったらバリ島なんかでおそろいの服をきて、サイクリングなんかしなくても、現金払いで箱根でチャリのったって幸せだし、そもそも何でも話し合える母娘だったら、二人でたっかいドレスしつらえて、たっかいアメリカのジャズ倶楽部にいかなくとも、駅前の立ち飲みやでだって、娘がつきあっているカレシの名前くらいは聞き出せるだろうが。
プライスレスな経験はむしろ、カードによる贅沢な買い物や旅行とは対極にあるような気がするんだよね。カードの使用を促進したいのなら、プライスレスなんて言葉はださずに、脂ぎったオッサンの精神性のカケラもない成功体験の物語とかを流した方がキクと思うよ。
見たくないけど
ミウラカズヨシがサッカーのカズでなく、あの「疑惑の銃弾」のカズヨシになっている。
もう若い人にはこの事件解説がないとわからないだろう。三昔前となる事件だから。
こうしてこの事件が若い層に浸透することにより、サッカーのカズに風評被害が及ばないか心配である。
よけいなお世話か。
「ダーティハリー」の時代は、犯罪捜査の技術もまだ低く、犯罪者が証拠不十分とかで釈放されることも多かったけど、CSIが活躍する今、操作技術も進んで、何か新たな証拠でもでたのかな。
ところで、アメリカでは重大事件に時効がないというのは、イイ!
日本では、小学校の美術の先生が、勤めている小学校の守衛に殺害されて、その守衛は自宅の地下にその死体を隠しており、自宅をたてかえざるをえなくなって、どうせ時効はすぎてるからと、自白して、遺族が怒り心頭に発した事件があった。この守衛アメリカだったらアウトである。
「疑惑の銃弾」とは、若い健康な奥さんに一億六千万もの保険をかけて、かけた直後に奥さんが死んじゃったというもの。にしても、保険ってヘン。
年間一億の稼ぎがある大女優さんとかに一億の保険をかけるのなら納得できるけど、普通の人にそんな高額な保険を設定できるというのがそもそもヘン。
時々、乳幼児に保険かけて殺す親とかもいるけど、余命の長い健康な子供に何百万もの保険が設定できるというのもそもそもヘン。
保険って本来は、貯蓄のない家庭で、大黒柱のお父さんなりお母さんなりが自分になにかあったら、残された家族が大変だろうと、自ら入るもんだろう。
「客観的な稼ぎがない人であっても、掛け金を払う人にとって、その人がプライスレスであれば、その人にはそれに応じた高い保険金を設定できる」という理屈もあるのかもしれない。でも、それもヘン。
ある人がある人をプライスレスと思うのなら、その人の価値を金なんかに換算することはできないはず。本当に大切な人を失うということは、お金で慰められるような問題ではない。
可愛い坊やを失った母親の思うことははただ一つ。
「自分の命をあげてもいい。私の坊やを生き返らせて」だろう。
大切なものをなくすという究極の「もしも」においては、「差し出す」という心理になっても「なにかを代わりにもらう」という発想にはならない。
「大切」「高価」を意味するプライスレスが、直訳すると「値段がつけられない」になっているのは意味のないことではない。
したがって、この人はわたしにとってとても大切な人だから、高い保険金をかける、という理屈はおっかしーのである。プライスレスなものは金では買えないのだから。
何が言いたいかというと、一家の大黒柱が自分で言い出して自分に死亡保険枠を設定する以外の死亡保険枠設定は、犯罪を誘発するキケンがあるのでやめた方がいい、と思う。
金銭的な価値のない古い家屋に高い損害保険金かけて、自分の家に火をつけるような人もたまにいるから、ボロ屋に高い損保もいらん。
どっかのカードの宣伝で、海外旅行をしている親子や夫婦がいろいろな買い物をカードでして、その結果得られる経験を、プライスレス、というのがあったが、あれって宣伝になってんのかなー、といつも思う。
仲の良い夫婦だったらバリ島なんかでおそろいの服をきて、サイクリングなんかしなくても、現金払いで箱根でチャリのったって幸せだし、そもそも何でも話し合える母娘だったら、二人でたっかいドレスしつらえて、たっかいアメリカのジャズ倶楽部にいかなくとも、駅前の立ち飲みやでだって、娘がつきあっているカレシの名前くらいは聞き出せるだろうが。
プライスレスな経験はむしろ、カードによる贅沢な買い物や旅行とは対極にあるような気がするんだよね。カードの使用を促進したいのなら、プライスレスなんて言葉はださずに、脂ぎったオッサンの精神性のカケラもない成功体験の物語とかを流した方がキクと思うよ。
見たくないけど
来年も受けられますか
今の時期、大学のセンセーおよび事務の方々は一年のうちで一番の緊張を強いられる。
閉鎖された大学の中では上から下まで事務作業にかかりっきりである。
しかしおかげさまで、学部の入試もつつがなく終わり、関係者一同ほっと胸をなでおろし、再び研究の日々へ。
某大学のほにゃらら先生によると、入試監督をしていたら、その部屋で一番前の席にいた受験生が、なんと電子辞書をとりだして、真っ向勝負のカンニング。
こういう生徒を発見した時の大学側のマニュアルはものすごく細かい。
なんでそんなに細かいかというと、無実の人をカンニングの罪に問うてしまうキケンを排除するだけでなく、同じ部屋で受験している他の受験生の邪魔にならんように、クールに処理しなければならないからだ。
その先生もマニュアル通りにクールに処理して、その受験生はしかるべき人々の前に引き出された。
当局の方々「君は今日のこの学部の試験に限らず、本大学で受けた他の学部の試験もみな無効になります。」
するとその受験生「あの、来年は受けられますか」
この話を聞いた人はみな大爆笑したという。もし来年入学できたら確実にそこにいた先生方の何人かとは顔を合わせるのである。つまりは自分の前非を知っている人がいるのに、それも気にせず入ろうとする、その天下無敵な受験生の感性に対する、あ~あという、諦念のまじった笑い。
たとえが悪いが、万引きしてつかまったスーパーに履歴書だしにいくようなものである。というわけで「それ恥ずかしくないの?」といっても通じない人が増えてきたような今日この頃。
そいえば、とある人気ブロガーが最初、「コメント欄に書き込まれたものはいかなるものも削除しない」、と公言していた。それは、たとえば、みながなごやかに話し合いをしている最中に、ただ自分の感情をたたけつけるだけのコメントを書き込んでも、みなにたしなめられたり、無視されたりするので、それによって、自分の立ち位置(まわりがドン引きしている)ことを客観的に自覚させることを意図してのことであった。
いわば「自らを恥じてね」作戦である。
しかし、今その人気ブログはコメント欄はサイインインしなければ入れなくなっている。つまり、人の目も気にせず自分の感情のままに動く輩があまりにも増えた結果、「自からを恥じてね」とかいう穏やかな作戦が通じなくなり、対抗手段を講じねばならなくなったのである。
問題の多い客が増えた結果、問題のない常連客をまもるために会員制にすることを余儀なくされた居酒屋のようである。
そいえば、あの豚を牛と偽って売っていたミートホープの社長、法廷で「自分は肉を一目で見極める職人芸があるので、食品Gメンとしてこれからの人生を生きたい」とのたまって、裁判長が「あなたね~、今回の件で一番の被害者は誰? 誰なの?」と聞いたら元社長しばらく考えて
「消費者?」(疑問形になっているところがかなりイタイ)。
たしかにアメリカでは犯罪者を同種の犯罪の摘発にあてることはあるけれど、それ自分から言い出すもんでないと思う。
自分を含めて人はみな我が身が可愛い生き物。自分に対してはおお甘シュガーで、他人に対してはブリザード。この人間の基本に「善悪判断力の欠如」と「恥知らず」が加わると天下無敵の困ったちゃんに。
恥を知る、という言葉には慚と愧という二つの概念がある。
慚とは悪行を「自分に対して恥ずかしいからやめる」。
愧とは悪行を「他人に対して恥ずかしいからやめる」。
誰も見て無くとも誰に罰せられずとも「これやったら自分で自分が恥ずかしい」という感覚が前者であり、「あの人はこんなにまともなのに自分は何やってんだ」という感覚が後者である。
確かにこういう感覚、現在はもっとも薄れてきているかも。
自分がダメになったのは親のせい、教師のせい、社会のせい、こいつらに学ぶものなんて何もない。それに対して自分は世界で唯一の可愛そうで可愛い愛すべきもの。
こういう状態は無慚・無愧といって、副次的な二十の煩悩のうちの二つ。ちなみに、この二十の煩悩の中には躁と鬱を意味する言葉も入ってる(笑)。
仏教における煩悩の区分を見ていると、本当にこの全てが自分の中に備わっているのでいつも感心してしまう。仏様はこれらの悪質な心の働きすべてがなくなった状態なわけだから、そりゃ凡夫がめざすにはムリでしょ、ということになる。
でもだからといって、自暴自棄にならないのが仏教の世界観のすごいところ。仏様にいきなりなることはできなくとも、ちょっとでもいいことをすれば、その報いはより大きく後世に現れますよ~と、説くことも忘れない。
この言葉を信じて、今日もひたすら凡夫道を精進。
閉鎖された大学の中では上から下まで事務作業にかかりっきりである。
しかしおかげさまで、学部の入試もつつがなく終わり、関係者一同ほっと胸をなでおろし、再び研究の日々へ。
某大学のほにゃらら先生によると、入試監督をしていたら、その部屋で一番前の席にいた受験生が、なんと電子辞書をとりだして、真っ向勝負のカンニング。
こういう生徒を発見した時の大学側のマニュアルはものすごく細かい。
なんでそんなに細かいかというと、無実の人をカンニングの罪に問うてしまうキケンを排除するだけでなく、同じ部屋で受験している他の受験生の邪魔にならんように、クールに処理しなければならないからだ。
その先生もマニュアル通りにクールに処理して、その受験生はしかるべき人々の前に引き出された。
当局の方々「君は今日のこの学部の試験に限らず、本大学で受けた他の学部の試験もみな無効になります。」
するとその受験生「あの、来年は受けられますか」
この話を聞いた人はみな大爆笑したという。もし来年入学できたら確実にそこにいた先生方の何人かとは顔を合わせるのである。つまりは自分の前非を知っている人がいるのに、それも気にせず入ろうとする、その天下無敵な受験生の感性に対する、あ~あという、諦念のまじった笑い。
たとえが悪いが、万引きしてつかまったスーパーに履歴書だしにいくようなものである。というわけで「それ恥ずかしくないの?」といっても通じない人が増えてきたような今日この頃。
そいえば、とある人気ブロガーが最初、「コメント欄に書き込まれたものはいかなるものも削除しない」、と公言していた。それは、たとえば、みながなごやかに話し合いをしている最中に、ただ自分の感情をたたけつけるだけのコメントを書き込んでも、みなにたしなめられたり、無視されたりするので、それによって、自分の立ち位置(まわりがドン引きしている)ことを客観的に自覚させることを意図してのことであった。
いわば「自らを恥じてね」作戦である。
しかし、今その人気ブログはコメント欄はサイインインしなければ入れなくなっている。つまり、人の目も気にせず自分の感情のままに動く輩があまりにも増えた結果、「自からを恥じてね」とかいう穏やかな作戦が通じなくなり、対抗手段を講じねばならなくなったのである。
問題の多い客が増えた結果、問題のない常連客をまもるために会員制にすることを余儀なくされた居酒屋のようである。
そいえば、あの豚を牛と偽って売っていたミートホープの社長、法廷で「自分は肉を一目で見極める職人芸があるので、食品Gメンとしてこれからの人生を生きたい」とのたまって、裁判長が「あなたね~、今回の件で一番の被害者は誰? 誰なの?」と聞いたら元社長しばらく考えて
「消費者?」(疑問形になっているところがかなりイタイ)。
たしかにアメリカでは犯罪者を同種の犯罪の摘発にあてることはあるけれど、それ自分から言い出すもんでないと思う。
自分を含めて人はみな我が身が可愛い生き物。自分に対してはおお甘シュガーで、他人に対してはブリザード。この人間の基本に「善悪判断力の欠如」と「恥知らず」が加わると天下無敵の困ったちゃんに。
恥を知る、という言葉には慚と愧という二つの概念がある。
慚とは悪行を「自分に対して恥ずかしいからやめる」。
愧とは悪行を「他人に対して恥ずかしいからやめる」。
誰も見て無くとも誰に罰せられずとも「これやったら自分で自分が恥ずかしい」という感覚が前者であり、「あの人はこんなにまともなのに自分は何やってんだ」という感覚が後者である。
確かにこういう感覚、現在はもっとも薄れてきているかも。
自分がダメになったのは親のせい、教師のせい、社会のせい、こいつらに学ぶものなんて何もない。それに対して自分は世界で唯一の可愛そうで可愛い愛すべきもの。
こういう状態は無慚・無愧といって、副次的な二十の煩悩のうちの二つ。ちなみに、この二十の煩悩の中には躁と鬱を意味する言葉も入ってる(笑)。
仏教における煩悩の区分を見ていると、本当にこの全てが自分の中に備わっているのでいつも感心してしまう。仏様はこれらの悪質な心の働きすべてがなくなった状態なわけだから、そりゃ凡夫がめざすにはムリでしょ、ということになる。
でもだからといって、自暴自棄にならないのが仏教の世界観のすごいところ。仏様にいきなりなることはできなくとも、ちょっとでもいいことをすれば、その報いはより大きく後世に現れますよ~と、説くことも忘れない。
この言葉を信じて、今日もひたすら凡夫道を精進。
風よ吹け~
近所の神社にある富士山の遙拝所でスキマスイッチがプロモーションビデオの撮影をやっていた(写しているのは富士山でなくて電車の架線だったけど)。
わたしはこのミュージシャンを知らなかったので家に返ってユーチューブでスキマスイッチの曲をいくつか聞いてみる。ケータイ小説のようなかる~い食感。
しかし、アマゾンのレヴューにはファンの熱狂的なマンセーコメントが氾濫していている。若者にとっては、このメロディも歌詞も「今の自分たちの気持ち」を代弁してくれている、ことのようだ。
午後六時半より恵比寿で07度卒業生と飲む。
AちゃんとKくんがたまたま原宿の靴やで再会して「久しぶりにみんなで集まりたいね~」ということで、実現した会である。
卒業して約一年、すでにメアドが変わった子たちもいて、連絡のつかない子も何人かいた。卒業生を追跡するシステムを作った方がいいかな、とふと思う。
Kくんがみつけてくれた恵比寿駅西口の料理居酒屋にいく。
私「地下の上にロフトじゃん。まだ来てない子がいるのにケータイ入るの?あと、この季節女の子はブーツなんたがらブーツぬがなくていい店にしてよ」
Sりん「いきなりダメだしいれられてる 笑」
Kくん「ボクもブーツなので大変です。ケータイはauは入りますっ」
しかし、お料理はおいしいのでまあよしとする。しかし、この幹事のKくん飲み放題の酒を水のようにカパカパあけたあと、真っ先に死体となる。
卒業後のみなの人生を聞く。
Sおりん「保険の支払い業務にあたっているのですが、お金が絡むこともあり、お客さんのダークパワーが全開です。この前なんて電話で『殺すぞコラ!!』と言われました」
私「そういえば、CSIラスベガスで保険会社にうらみをもった老婦人が店に車でつっこんで大惨事つてのがあったわね」
Aちゃん「その回わたしも見ました。センセもCSI好きなんですね」
私「というわけで、ガラス張りの一階にはあまりいない方がいいよ」
Sくん「ボクなんて会社の上司に『殺すぞコラ!』と言われました」
みんな「えー」
Sくん「会社の内線電話使って合コンの店の予約をしようとしてたんですけどね」
みんな「アンタが悪い」
Mちゃん「私は出版関係なんですが、自分が出来ない子だなあとしみじみわかって、新入社員としてまだまわりが優しい今はいいけど、これからが怖いです」
Tくんは高校の先生目指して奮闘中。
Aちゃん「上司と営業に出かけるとき、話題がないので車内の中吊り広告をネタにして上司とコミニュケーションはかっているので、ワイドショーネタには詳しいですっ」
TちゃんはIt関連の会社につとめていたのだが、残業つづきで深夜タクシー代も自分持ちで、考えてみたらあまりコンピューターも好きでなかったので、退職してしまったとのこと。体が大事だからムリはしないにこしたことはないけど、はやくいい仕事を見つけらればいいなと思う。
![top_main[1]](https://blog-imgs-27.fc2.com/s/h/i/shirayuki/20080217135221s.jpg)
Kくんは五年生でこれから卒業して某銀行におつとめ。
少しはセンセーらしいことを言わねばと総論をかます。
「あなたたち、社会に一番いいものを差し出してごらんなさい、一番いいものが返ってくるから。」
そして女子に対しては「あなたたち、若くてみんながちやほやしてくれる時代なんて一瞬よ。中身を磨きなさい。それは資格や肩書きにたよるということじゃなくて、どこにいっても必要とされるような能力を身につけること。もちろん対人スキルがないとそれはいかせないので、それは常に磨いてね。そうすれば、三十代になっても、四十代になっても、
エリザベス ゴールデンエイジでいられるのよっ
Aちゃん「素晴らしいです。センセー『風よ吹けえ』と言ってください」
私「風よ吹けー!」
みんな「どははははは」
どこがセンセーらしい訓辞なんじゃ。
さて、お会計といっても幹事Kくんはつぶれているので変わってA子ちゃんが集金する。彼女は長女なので何気に面倒見がいい。
私「Kくんどうする?このまま電車のせても車庫に入るのがオチだよ」
Sりん「近くの漫画喫茶のペアシートにでも寝かせておきましょう。タクシーで家に送り返すよりも安いですよ。一泊千円ですから」
私「凍死しなきゃいいけどね」
というわけでお開き。卒業したあとの飲み会パターンもなんだか学生時代とかわらない。
ともあれ、みんなの前途に幸いあれ。
わたしはこのミュージシャンを知らなかったので家に返ってユーチューブでスキマスイッチの曲をいくつか聞いてみる。ケータイ小説のようなかる~い食感。
しかし、アマゾンのレヴューにはファンの熱狂的なマンセーコメントが氾濫していている。若者にとっては、このメロディも歌詞も「今の自分たちの気持ち」を代弁してくれている、ことのようだ。
午後六時半より恵比寿で07度卒業生と飲む。
AちゃんとKくんがたまたま原宿の靴やで再会して「久しぶりにみんなで集まりたいね~」ということで、実現した会である。
卒業して約一年、すでにメアドが変わった子たちもいて、連絡のつかない子も何人かいた。卒業生を追跡するシステムを作った方がいいかな、とふと思う。
Kくんがみつけてくれた恵比寿駅西口の料理居酒屋にいく。
私「地下の上にロフトじゃん。まだ来てない子がいるのにケータイ入るの?あと、この季節女の子はブーツなんたがらブーツぬがなくていい店にしてよ」
Sりん「いきなりダメだしいれられてる 笑」
Kくん「ボクもブーツなので大変です。ケータイはauは入りますっ」
しかし、お料理はおいしいのでまあよしとする。しかし、この幹事のKくん飲み放題の酒を水のようにカパカパあけたあと、真っ先に死体となる。
卒業後のみなの人生を聞く。
Sおりん「保険の支払い業務にあたっているのですが、お金が絡むこともあり、お客さんのダークパワーが全開です。この前なんて電話で『殺すぞコラ!!』と言われました」
私「そういえば、CSIラスベガスで保険会社にうらみをもった老婦人が店に車でつっこんで大惨事つてのがあったわね」
Aちゃん「その回わたしも見ました。センセもCSI好きなんですね」
私「というわけで、ガラス張りの一階にはあまりいない方がいいよ」
Sくん「ボクなんて会社の上司に『殺すぞコラ!』と言われました」
みんな「えー」
Sくん「会社の内線電話使って合コンの店の予約をしようとしてたんですけどね」
みんな「アンタが悪い」
Mちゃん「私は出版関係なんですが、自分が出来ない子だなあとしみじみわかって、新入社員としてまだまわりが優しい今はいいけど、これからが怖いです」
Tくんは高校の先生目指して奮闘中。
Aちゃん「上司と営業に出かけるとき、話題がないので車内の中吊り広告をネタにして上司とコミニュケーションはかっているので、ワイドショーネタには詳しいですっ」
TちゃんはIt関連の会社につとめていたのだが、残業つづきで深夜タクシー代も自分持ちで、考えてみたらあまりコンピューターも好きでなかったので、退職してしまったとのこと。体が大事だからムリはしないにこしたことはないけど、はやくいい仕事を見つけらればいいなと思う。
![top_main[1]](https://blog-imgs-27.fc2.com/s/h/i/shirayuki/20080217135221s.jpg)
Kくんは五年生でこれから卒業して某銀行におつとめ。
少しはセンセーらしいことを言わねばと総論をかます。
「あなたたち、社会に一番いいものを差し出してごらんなさい、一番いいものが返ってくるから。」
そして女子に対しては「あなたたち、若くてみんながちやほやしてくれる時代なんて一瞬よ。中身を磨きなさい。それは資格や肩書きにたよるということじゃなくて、どこにいっても必要とされるような能力を身につけること。もちろん対人スキルがないとそれはいかせないので、それは常に磨いてね。そうすれば、三十代になっても、四十代になっても、
エリザベス ゴールデンエイジでいられるのよっ
Aちゃん「素晴らしいです。センセー『風よ吹けえ』と言ってください」
私「風よ吹けー!」
みんな「どははははは」
どこがセンセーらしい訓辞なんじゃ。
さて、お会計といっても幹事Kくんはつぶれているので変わってA子ちゃんが集金する。彼女は長女なので何気に面倒見がいい。
私「Kくんどうする?このまま電車のせても車庫に入るのがオチだよ」
Sりん「近くの漫画喫茶のペアシートにでも寝かせておきましょう。タクシーで家に送り返すよりも安いですよ。一泊千円ですから」
私「凍死しなきゃいいけどね」
というわけでお開き。卒業したあとの飲み会パターンもなんだか学生時代とかわらない。
ともあれ、みんなの前途に幸いあれ。
栴檀は双葉より芳し
ごろうちゃん(男前オカメインコ)のチョコレートを買いに帝国ホテルにいく。
チョコレートはオカメインコの体に悪いので、もちろん食べさせない。本当の意味でのプレゼントはこのチョコの箱である。
帝国ホテルのチョコレートは金ぴかの箱に入っていて、ごろうちゃんはこの金ぴかの箱が大好き。箱のふたをくちばしでもちあげて、はずして捨ててみたり、ふみつけてみたり、箱の角を噛んだりと、さまざまに愛でるのである。
と・こ・ろ・が! 今年から箱の色が黒くなってやがる。
困るんだよ、勝手なことされちゃ!
しかし、一応カタチは同じなのでかう。この黒箱、なんとか金無垢にする方法を考えねば。
ところで、沖縄でまたまた米兵による少女暴行事件が発生した。
今回は女の子が外人に捕まったのが午後八時くらいということから、さすがに「女の子が悪い」という人はいなかったが、「知らない外人のバイクにのった」という点を非難がましくいう人はいた。
そいえば、現総理大臣もかつてスーパーフリー事件の際に「男はみんなクロヒョウだから、女の子も気をつけなきゃ」みたなことをのたまっていた。
「~しなかったならば、被害には遭わなかっただろう」というような立場でものをいう人は、たぶん一生犯罪被害にあうことはない。
この世には残念ながら、犯罪者のターゲットにされやすい人、されにくい人がいる。
今度、日本においても裁判に一般人の参加が義務つけられる。これについては多くの人が「仕事があるので、面倒臭い」などの理由から拒否感を示しているが、とくに女性を中心に、「人を裁くのが怖い」「かりに有罪に票を投じた場合、当該の犯罪者が出所した後にお礼参りをされるのが怖い」という理由でいやがる人が多い。
これに対して、女性の検事が、こうコメントしていた(うろ覚え)。
「わたしは今まで何百回となく人を裁いてきましたが、未だかつてお礼参りされたことはありません。大丈夫ですよ。」
そりゃあんたはされないだろうよ。
そもそも犯罪者はビビリだから、おどおどして、はっきりものがいえなくて、泣き寝入りしそうなターゲットを感知する能力に長けている。
だから、犯罪者が裁判の際に逆恨みをするとすれば、それは神の立場にいる検事ではなく、弱い立場の陪審である。
しかしだからといって、犯罪にあいそうなタイプの人にむかって、「なよなよしているからチカンにあうんだ。まわりにガンをとばせ」などといっても、人は生まれながらにさまざまな性格があるのだから、できないものはできないだろう。
だから、かわいそうに犯罪被害にあったものにたいして、犯罪にあったことのない、またあう予定もない強者は何も言ってはならないのである。
問題はあくまでも、自分の欲望もコントロールできないダメ人間、犯罪者の側にあるのだから。
なすべきことは、被害者にあれこれいうことよりも、犯罪者が生まれないような社会をつくることである。
欲望はだれしももっているが、大半の人々はそれをコントロールして生きている。
先ほどの福田総理のクロヒョウ発言は、欲望のコントロール一つできないダメ人間を普通の男とイコールに論じているが、これは普通の男たちに対しても失礼というものだ。
「だれしも犯罪をおかす可能性がある」、というような論調は何のためにもならない論である。このような考え方は犯罪者に免罪符をあたえ、マトモな人を犯罪者に近づけるだけ。それより、「一線を越えると言うことは、人でなくなるということだ」という文脈で語ることが大事であろう。
そして、何より重要なのは自分の欲望を野放しにすることが、いかに醜い所業であるかという感覚を平時より社会が共有することであろう。
たとえば、タイには世界中から多くの外国人が訪れる。その外人連中の中には少女を買う目的で長期に滞在するものがいる。自分の国では幼児に対する性犯罪に対する罰則が重いので、タイにまできて、現地の少女を買うのだ。
一方タイの国境地帯には、同じ外国人の若者でも、バックパックに医療器具をつめた若い医師たちが何ヶ月もかけてジャングルの中を彷徨しながら、カレン族の人たちの傷病をみていたりする。自国に戻って病院に勤務すれば、高給がもらえて安全に暮らせるにもかかわらず、その若い医師たちは、世界の果てにある究極の無医村めぐりをしているのだ。
自分の欲望にまかせて、タイの少女をもてあそんでいる前者と、ミャンマーのカレン族のために自己の人生を捧げている後者とでは、どっちが人としてマトモかといえば、言うまでもなく、後者であろう。
こういう自分の欲望をのばなしにする醜さと、他者のために生きることの美しさを子供のうちからたたっこめば、そうそうおかしな大人にはなるまい。
被害にあいそうな人に、気をつけろ!とか説教するより先に、やることがあるはず。
そいえば、わたくしは芳紀十四才の頃、通学に小田急線を利用していた。当時の小田急線は通勤・通学の時間帯にはものすごく込んでおり、チカンもいまほど重い犯罪とはみなされていなかったため、クラスの女の子の大半はチカンの被害にあっていた。
しかし、なぜか私はチカンに逢わなかった。
その後もおおよそいろんな国をフラフラしたが、犯罪被害といえば一回スリにあったくらい。
スバラしすぎる。
チョコレートはオカメインコの体に悪いので、もちろん食べさせない。本当の意味でのプレゼントはこのチョコの箱である。
帝国ホテルのチョコレートは金ぴかの箱に入っていて、ごろうちゃんはこの金ぴかの箱が大好き。箱のふたをくちばしでもちあげて、はずして捨ててみたり、ふみつけてみたり、箱の角を噛んだりと、さまざまに愛でるのである。
と・こ・ろ・が! 今年から箱の色が黒くなってやがる。
困るんだよ、勝手なことされちゃ!
しかし、一応カタチは同じなのでかう。この黒箱、なんとか金無垢にする方法を考えねば。
ところで、沖縄でまたまた米兵による少女暴行事件が発生した。
今回は女の子が外人に捕まったのが午後八時くらいということから、さすがに「女の子が悪い」という人はいなかったが、「知らない外人のバイクにのった」という点を非難がましくいう人はいた。
そいえば、現総理大臣もかつてスーパーフリー事件の際に「男はみんなクロヒョウだから、女の子も気をつけなきゃ」みたなことをのたまっていた。
「~しなかったならば、被害には遭わなかっただろう」というような立場でものをいう人は、たぶん一生犯罪被害にあうことはない。
この世には残念ながら、犯罪者のターゲットにされやすい人、されにくい人がいる。
今度、日本においても裁判に一般人の参加が義務つけられる。これについては多くの人が「仕事があるので、面倒臭い」などの理由から拒否感を示しているが、とくに女性を中心に、「人を裁くのが怖い」「かりに有罪に票を投じた場合、当該の犯罪者が出所した後にお礼参りをされるのが怖い」という理由でいやがる人が多い。
これに対して、女性の検事が、こうコメントしていた(うろ覚え)。
「わたしは今まで何百回となく人を裁いてきましたが、未だかつてお礼参りされたことはありません。大丈夫ですよ。」
そりゃあんたはされないだろうよ。
そもそも犯罪者はビビリだから、おどおどして、はっきりものがいえなくて、泣き寝入りしそうなターゲットを感知する能力に長けている。
だから、犯罪者が裁判の際に逆恨みをするとすれば、それは神の立場にいる検事ではなく、弱い立場の陪審である。
しかしだからといって、犯罪にあいそうなタイプの人にむかって、「なよなよしているからチカンにあうんだ。まわりにガンをとばせ」などといっても、人は生まれながらにさまざまな性格があるのだから、できないものはできないだろう。
だから、かわいそうに犯罪被害にあったものにたいして、犯罪にあったことのない、またあう予定もない強者は何も言ってはならないのである。
問題はあくまでも、自分の欲望もコントロールできないダメ人間、犯罪者の側にあるのだから。
なすべきことは、被害者にあれこれいうことよりも、犯罪者が生まれないような社会をつくることである。
欲望はだれしももっているが、大半の人々はそれをコントロールして生きている。
先ほどの福田総理のクロヒョウ発言は、欲望のコントロール一つできないダメ人間を普通の男とイコールに論じているが、これは普通の男たちに対しても失礼というものだ。
「だれしも犯罪をおかす可能性がある」、というような論調は何のためにもならない論である。このような考え方は犯罪者に免罪符をあたえ、マトモな人を犯罪者に近づけるだけ。それより、「一線を越えると言うことは、人でなくなるということだ」という文脈で語ることが大事であろう。
そして、何より重要なのは自分の欲望を野放しにすることが、いかに醜い所業であるかという感覚を平時より社会が共有することであろう。
たとえば、タイには世界中から多くの外国人が訪れる。その外人連中の中には少女を買う目的で長期に滞在するものがいる。自分の国では幼児に対する性犯罪に対する罰則が重いので、タイにまできて、現地の少女を買うのだ。
一方タイの国境地帯には、同じ外国人の若者でも、バックパックに医療器具をつめた若い医師たちが何ヶ月もかけてジャングルの中を彷徨しながら、カレン族の人たちの傷病をみていたりする。自国に戻って病院に勤務すれば、高給がもらえて安全に暮らせるにもかかわらず、その若い医師たちは、世界の果てにある究極の無医村めぐりをしているのだ。
自分の欲望にまかせて、タイの少女をもてあそんでいる前者と、ミャンマーのカレン族のために自己の人生を捧げている後者とでは、どっちが人としてマトモかといえば、言うまでもなく、後者であろう。
こういう自分の欲望をのばなしにする醜さと、他者のために生きることの美しさを子供のうちからたたっこめば、そうそうおかしな大人にはなるまい。
被害にあいそうな人に、気をつけろ!とか説教するより先に、やることがあるはず。
そいえば、わたくしは芳紀十四才の頃、通学に小田急線を利用していた。当時の小田急線は通勤・通学の時間帯にはものすごく込んでおり、チカンもいまほど重い犯罪とはみなされていなかったため、クラスの女の子の大半はチカンの被害にあっていた。
しかし、なぜか私はチカンに逢わなかった。
その後もおおよそいろんな国をフラフラしたが、犯罪被害といえば一回スリにあったくらい。
スバラしすぎる。
死に際しての拠り所
労働基準局と大学から怒られたので、七年ぶりに健康診断にでかける。
わたしは健康診断が、いや病院が大嫌い。
酒もたまにしか飲まずたばこは一度もすったことナシ、適度に運動もする健康生活をしているが、健康にはまったく自信がない。
両親ガン死の超短命家系に生まれたからね。
自分にとって、病院は「死の館」。「あそこにいくと死ぬ」(笑)というシンプルな条件付けができていることから、健康診断を毎年ぶっちぎってきたのだ。
でも、他の先生方に聞いても、「ボクも面倒だからここ数年受けてないよ」という人はいる。ただ、今年はメールや郵便で「はよ受けろ」攻勢があまりにも激しかったので仕方なくいやいや重い腰を上げたのである。
大学が契約しているいくつかの診療機関のうち、家から比較的近いことから新宿駅前のビル内にあるホニャララ・クリニックにいく。
金曜日、集合時間の八時半に十分ほど遅刻していくと、いろいろなところから集まってきた三十人くらいの人たちがロビーに無表情に座って受付をまっている。
受付ではブルーのジャージの上下を渡されて、検査内容の説明をうける。あーだるい。
検査をまつ場所はガラス張りのラウンジ形式の部屋で、豪華な雰囲気をだそうと、ホテルのロビーのようなふかふかの椅子やソファが置いてあり、備え付けの雑誌も『プレジデント』とか、『ソトコト』とか、『ドマーニ』とか、広告ばっか目立つおハイソ雑誌ばかり。
間違っても 『女性セブン』『週刊文春』とかはない。
しかし、いくら高級ぶってても、ここが収容所であることには変わりない。みな前の晩から食事も水も禁止されているので、げっそりしている上、検査の合間の待ち時間の長さにうんざりして無表情になってきている。
この雰囲気、どっかで見たような。
そう、外国線の飛行機の中でだ!
フライト・アテンダントのお姉様方がいくら高級ぶったサービスをしてくれようと、いくら機内誌が高級感あふれるリゾートを宣伝していようと、せっまいスペースで何時間もじっとしていなければならない、という奴隷船状況は変わらない。結果、みなげっそり疲れ切り、無表情になってくる。
ここはうろうろ歩けるだけ機内よりはましだが、ジャージをきせられているので、サロンからはでられない。新宿のサザンテラスをジャージの上下で歩ける人はおらんだろう(あ、でも意外とできるような気もしてきた)。
格差社会のアメリカでは、お金次第によって受けられる医療サービスの差がはげしい。ちなみに、刑務所でもお金のある人はホテルの個室のような刑務所に入ることができる。日本でも山王病院のようなVIP患者様御用達の病院ができているので、遠からずアメリカのような格差ができてくるのかもしれない。
しかし、一番いいのはやはり健康でいること。ホテルのような豪華な病室で、シェフのつくった料理をたべ、きれいな(あるいはイケメンな)看護師さんに介護されるとしても、病気になるよりゃ、健康な方がいい。そもそも、病気になったらどんなおいしいものだってお腹に入らなくなる。
うちの父がなくなる前には各所から桐の箱に入ったメロンがお見舞いに届いていたそうである。しかし、末期ガンだとメロンすら口にすることはできない。そう、人間重病になると、食事の味の善し悪しとか、看護しさんの美醜とかある意味どうでもよくなるのだ。
財産も、妻も子も、地位も名誉も、死病におかされている時には何の助けにもならないのだ。
というわけで、チベット仏教では死に際してたよりになるものは、三宝しかないと説く。三宝とは仏とその教え(法)とその教えを奉じる集団(僧)である。
わかりやすく言えば、安らかな死とは「自分が良い行いをした。いい人生を送った」という満足感によってのみもたらされる、ということ。
仏法は深いのう。
わたしは健康診断が、いや病院が大嫌い。
酒もたまにしか飲まずたばこは一度もすったことナシ、適度に運動もする健康生活をしているが、健康にはまったく自信がない。
両親ガン死の超短命家系に生まれたからね。
自分にとって、病院は「死の館」。「あそこにいくと死ぬ」(笑)というシンプルな条件付けができていることから、健康診断を毎年ぶっちぎってきたのだ。
でも、他の先生方に聞いても、「ボクも面倒だからここ数年受けてないよ」という人はいる。ただ、今年はメールや郵便で「はよ受けろ」攻勢があまりにも激しかったので仕方なくいやいや重い腰を上げたのである。
大学が契約しているいくつかの診療機関のうち、家から比較的近いことから新宿駅前のビル内にあるホニャララ・クリニックにいく。
金曜日、集合時間の八時半に十分ほど遅刻していくと、いろいろなところから集まってきた三十人くらいの人たちがロビーに無表情に座って受付をまっている。
受付ではブルーのジャージの上下を渡されて、検査内容の説明をうける。あーだるい。
検査をまつ場所はガラス張りのラウンジ形式の部屋で、豪華な雰囲気をだそうと、ホテルのロビーのようなふかふかの椅子やソファが置いてあり、備え付けの雑誌も『プレジデント』とか、『ソトコト』とか、『ドマーニ』とか、広告ばっか目立つおハイソ雑誌ばかり。
間違っても 『女性セブン』『週刊文春』とかはない。
しかし、いくら高級ぶってても、ここが収容所であることには変わりない。みな前の晩から食事も水も禁止されているので、げっそりしている上、検査の合間の待ち時間の長さにうんざりして無表情になってきている。
この雰囲気、どっかで見たような。
そう、外国線の飛行機の中でだ!
フライト・アテンダントのお姉様方がいくら高級ぶったサービスをしてくれようと、いくら機内誌が高級感あふれるリゾートを宣伝していようと、せっまいスペースで何時間もじっとしていなければならない、という奴隷船状況は変わらない。結果、みなげっそり疲れ切り、無表情になってくる。
ここはうろうろ歩けるだけ機内よりはましだが、ジャージをきせられているので、サロンからはでられない。新宿のサザンテラスをジャージの上下で歩ける人はおらんだろう(あ、でも意外とできるような気もしてきた)。
格差社会のアメリカでは、お金次第によって受けられる医療サービスの差がはげしい。ちなみに、刑務所でもお金のある人はホテルの個室のような刑務所に入ることができる。日本でも山王病院のようなVIP患者様御用達の病院ができているので、遠からずアメリカのような格差ができてくるのかもしれない。
しかし、一番いいのはやはり健康でいること。ホテルのような豪華な病室で、シェフのつくった料理をたべ、きれいな(あるいはイケメンな)看護師さんに介護されるとしても、病気になるよりゃ、健康な方がいい。そもそも、病気になったらどんなおいしいものだってお腹に入らなくなる。
うちの父がなくなる前には各所から桐の箱に入ったメロンがお見舞いに届いていたそうである。しかし、末期ガンだとメロンすら口にすることはできない。そう、人間重病になると、食事の味の善し悪しとか、看護しさんの美醜とかある意味どうでもよくなるのだ。
財産も、妻も子も、地位も名誉も、死病におかされている時には何の助けにもならないのだ。
というわけで、チベット仏教では死に際してたよりになるものは、三宝しかないと説く。三宝とは仏とその教え(法)とその教えを奉じる集団(僧)である。
わかりやすく言えば、安らかな死とは「自分が良い行いをした。いい人生を送った」という満足感によってのみもたらされる、ということ。
仏法は深いのう。
「お客さん」気質からの脱却
いゃっほーい!! やっと採点を提出したよーん。
で、昨日は久しぶりに研究室の掃除をした。いろんな書類を捨てるが、個人情報とかあって、カンタンに捨てられないものもあり面倒くさい。
個人情報保護もいいが、あまりいきすぎると病的なカンジ。
だって、最近の大学内で用いられる教職員名簿ってすごいんだよ。 ホントに名前しかのってないの。住所も電話番号もない、
まんま名簿 (笑)。
話は戻るが、雪の日曜日、追いコンが02CAFEで行われた。そう、神のゼミ長Aジくんの代の四年生が、いよいよ卒業してしまうのだ。
飲み放題の店だったので、四年生ははやばやとできあがり、わけわかんない状態に。
三年生のAヤちゃんが全員の顔写真の入った色紙を用意し、私がそれに一言ずつ書いてプレゼントという企画があったのだが、次の日にはs木が「色紙なくしました」と間抜けなメールを送ってきた・・・。
Aヤちゃんはまた、二年間のゼミ旅行や呑み会の写真をつなげてスライドショーを作ってくれた。こうして写真でみてもただれた二年間であった。たぶん大きな原因はわたくしの指導力のなさだな。
四年生たちは「なつかしいな」とかいって見ている。
Kョンくんが三年を代表して最後に送る言葉を述べた。
「この楽しい空間を次の世代にも伝えていければと思います」というのを聞いて、Kョンくんに次代ゼミ長としてのアイデンティティがしっかり確立しているのに驚いた。
Aジくんは今年後半からなにげに、ゼミの幹事役をKョンくんにまかせるようになっていていたので、それが功を奏したのだろう。
そして、あの超まとまりのなかった四年生が、とにもかくにも、雪のふる寒い日曜日に全員集まっている(そして正体なくよっぱらっている・・・・)。そして、それぞれが自分のキャラを自覚して自分の持ち場でゼミの雰囲気をもりあげてくれている。
すばらしい。社長がしっかりしているので、会長がゴルフしてても会社がまわっているような状態である。
じつは、AジくんやKくんのような学生は本当に希少価値になってきている。
最近の学生はそのほとんどが悪しきお客さん気質に毒されている。
消費者気質とは、自分から何かを働きかけるのではなく、「誰かに楽しませてもらう」ことしか考えていない人たちのことである。
だから、ゼミ長になると苦労する。メールを送っても返事がこない。苦労して出欠をとってもその日の気分でドタキャンをする。当日になって集合時間に来ないので電話すると「今、起きたとこ」なんて言われる。
「誰かボクを楽しませて」「誰かボクのお尻をふいて」という学生は昔からある程度の数はいたが、これが増え続けて最近はもう学生の大半を占めるようになってきている。
ちなみに、「自分を高めるのが好き、だから、資格の勉強をする」というような人も消費者気質の典型。知識を自己満足のために消費するだけで、何も生み出さず、誰の役にもたっていない。
そういえば国レベルでみても、みなが現場の労働を見下して、頭脳労働をやりたがり、移民を受け入れなければ国がなりたたん状況になりつつあるのも、たぶん同じ流れである。そろそろ日本はゲルマン民族に滅ぼされるな。
いっぽう、ゼミ長はこのお客さん学生をまとめる立場。「マイペースな学生たちをまとめあげて、いろいろなところに連れだし、学生同士の間に友人関係を育ませ、とにもかくにも何等かの空間をつくりあげていく」、には、根気と人徳と「こんなことして何の意味があるんだろう」というマイナス感情をのりこえるプラス思考が必要なのである。
それができる、あるいはやろうとする学生に二代恵まれた自分の幸せを、天に感謝する。
なーむー(祈るだけかい!)。
本当にありがとう、Aジくん、kくん。
でも、きっとムダにならないから。あなたたちの経験は。
お店や商品にケチをつけ、クレーマーになるのはラクかもしれない。だけどむなしいんだよね。お店や商品をつくる側は大変だけど、やりがいはあるし、お客さんの喜ばすことができたら、それは消費の喜びよりもはるかに大きな喜びとなる。
何かを消費して自分で自分を喜ばせるよりも、自分の行いで他人が喜ぶことを見る方がじつはその喜びは遙かに大きい。
これは真実。
その喜びを求めて、人は社会にでて、仕事をし、友達を作り、家庭をつくるんだよな(あいだみつを風)。
自分で働きかけなれれば、何も始まらないし、何も生まれない。二年間ゼミ生みていてそんなことに気がついた。
いろいろ、ありがとう。あなたがたの人生航路に幸いあれ!
で、昨日は久しぶりに研究室の掃除をした。いろんな書類を捨てるが、個人情報とかあって、カンタンに捨てられないものもあり面倒くさい。
個人情報保護もいいが、あまりいきすぎると病的なカンジ。
だって、最近の大学内で用いられる教職員名簿ってすごいんだよ。 ホントに名前しかのってないの。住所も電話番号もない、
まんま名簿 (笑)。
話は戻るが、雪の日曜日、追いコンが02CAFEで行われた。そう、神のゼミ長Aジくんの代の四年生が、いよいよ卒業してしまうのだ。
飲み放題の店だったので、四年生ははやばやとできあがり、わけわかんない状態に。
三年生のAヤちゃんが全員の顔写真の入った色紙を用意し、私がそれに一言ずつ書いてプレゼントという企画があったのだが、次の日にはs木が「色紙なくしました」と間抜けなメールを送ってきた・・・。
Aヤちゃんはまた、二年間のゼミ旅行や呑み会の写真をつなげてスライドショーを作ってくれた。こうして写真でみてもただれた二年間であった。たぶん大きな原因はわたくしの指導力のなさだな。
四年生たちは「なつかしいな」とかいって見ている。
Kョンくんが三年を代表して最後に送る言葉を述べた。
「この楽しい空間を次の世代にも伝えていければと思います」というのを聞いて、Kョンくんに次代ゼミ長としてのアイデンティティがしっかり確立しているのに驚いた。
Aジくんは今年後半からなにげに、ゼミの幹事役をKョンくんにまかせるようになっていていたので、それが功を奏したのだろう。
そして、あの超まとまりのなかった四年生が、とにもかくにも、雪のふる寒い日曜日に全員集まっている(そして正体なくよっぱらっている・・・・)。そして、それぞれが自分のキャラを自覚して自分の持ち場でゼミの雰囲気をもりあげてくれている。
すばらしい。社長がしっかりしているので、会長がゴルフしてても会社がまわっているような状態である。
じつは、AジくんやKくんのような学生は本当に希少価値になってきている。
最近の学生はそのほとんどが悪しきお客さん気質に毒されている。
消費者気質とは、自分から何かを働きかけるのではなく、「誰かに楽しませてもらう」ことしか考えていない人たちのことである。
だから、ゼミ長になると苦労する。メールを送っても返事がこない。苦労して出欠をとってもその日の気分でドタキャンをする。当日になって集合時間に来ないので電話すると「今、起きたとこ」なんて言われる。
「誰かボクを楽しませて」「誰かボクのお尻をふいて」という学生は昔からある程度の数はいたが、これが増え続けて最近はもう学生の大半を占めるようになってきている。
ちなみに、「自分を高めるのが好き、だから、資格の勉強をする」というような人も消費者気質の典型。知識を自己満足のために消費するだけで、何も生み出さず、誰の役にもたっていない。
そういえば国レベルでみても、みなが現場の労働を見下して、頭脳労働をやりたがり、移民を受け入れなければ国がなりたたん状況になりつつあるのも、たぶん同じ流れである。そろそろ日本はゲルマン民族に滅ぼされるな。
いっぽう、ゼミ長はこのお客さん学生をまとめる立場。「マイペースな学生たちをまとめあげて、いろいろなところに連れだし、学生同士の間に友人関係を育ませ、とにもかくにも何等かの空間をつくりあげていく」、には、根気と人徳と「こんなことして何の意味があるんだろう」というマイナス感情をのりこえるプラス思考が必要なのである。
それができる、あるいはやろうとする学生に二代恵まれた自分の幸せを、天に感謝する。
なーむー(祈るだけかい!)。
本当にありがとう、Aジくん、kくん。
でも、きっとムダにならないから。あなたたちの経験は。
お店や商品にケチをつけ、クレーマーになるのはラクかもしれない。だけどむなしいんだよね。お店や商品をつくる側は大変だけど、やりがいはあるし、お客さんの喜ばすことができたら、それは消費の喜びよりもはるかに大きな喜びとなる。
何かを消費して自分で自分を喜ばせるよりも、自分の行いで他人が喜ぶことを見る方がじつはその喜びは遙かに大きい。
これは真実。
その喜びを求めて、人は社会にでて、仕事をし、友達を作り、家庭をつくるんだよな(あいだみつを風)。
自分で働きかけなれれば、何も始まらないし、何も生まれない。二年間ゼミ生みていてそんなことに気がついた。
いろいろ、ありがとう。あなたがたの人生航路に幸いあれ!
チャイナ・フリー・チベット
ブタ肉を牛肉に偽装したとか、ブロイラーを比内鳥に偽ったとか、赤福の賞味期限が切れてたとか、日本にも数々の食の問題があるが、言ってみればこれは詐欺であって、命に関わるほどのものではない。
被害者の中には「やっぱ吉兆の鳥はひと味違うねー。比内鳥だからなー」とかいってた偽装食通もいるわけで、この事件にはある種の滑稽さもつきまとう。
しかし、今回の餃子事件はのめば~死ぬ死ぬ農薬入りである。
シャレにならない。
中国は精神的にも実質的にもいろいろな意味で発展途上国なので、ある意味この危険は予想されていたことであった。
過去わたしは中国滞在中に何度お腹を壊して死ぬ思いをしたことか。
十五年ほど前、母が死んだ年、傷心を癒しに中国にいった時が一番ひどかった。
初日に北海公園の側の食堂に入ってたぶんそこで食べたものが悪かったのだろう。その夜、吐き気・発熱で倒れ、一週間何も食べられず。骸骨のようにやせ細ったよ。それ以来、中国ではファーストフードか、朝鮮族かウイグル族の食堂に入ることにしている。
そいえば、昔 一度トイレに行こうと思って間違えて中国レストランの厨房に迷い込んだことがある。その時私の目にはマーベラスなものが飛び込んできた。
シンクのようなところに真っ黒な液体がたっぷんたっぷん入っていて、みるとそれはあげものする時の油なの。ガソリンかと思ったよ。その後Sarsとかあって、衛生には多少は気を遣うようになったのだろうけど、あれはすごかった。
わたしがあたったのはたぶん悪い油とか、いれすぎた化学調味料なのであろうが、今回は化学薬品による中毒なので、たぶんこんな絵がかける(以下はまったくの想像です)。
工場長「わが工場の製品は日本に輸出する。日本人は細かい。清潔でないと怒られる。工場内のハエととかがギョーザに混入するのはもっての外。みんな手を消毒薬につけろ! 機械を燻蒸しろ! 何もかも洗いつくせええええ!」
でもって、工場の人は手に最近禁止されたばかりの毒性の強い殺虫剤の入ったボトルをもち(本人は気がついていない)、いろんなところにジャバジャバかけてまわり、消毒薬につけたままの素手でそのままギョーザをこねまわしましたとさ、とっぺんはらり。
こうなるとハエ入り餃子の方が安全だな。そういえば十五年ほど前、十二月に中国にいった時、飲むヨーグルトを飲もうとしたら、ストローからヨーグルト吸い上がらない。よーく見るとストローの先にはハエが詰まっていましたとさ(これはインドでもよくあるよね)。十年前の食中毒は牧歌的だよなあ。
まあ、こんなわけだから責めても仕方ないの。ルーズなんだから。
そもそも、今回の問題の根本には日本国内で消費するものを中国で作るという点にある。食の安全性をおいとくとしても、遠くの国から燃料費かけてやっすい餃子を運んでくるには膨大なCO2がでるんだよね。
ちなみに、日本のフードマイレージは世界一高い。
フードマイレージ。それは食材が生産された地から消費される地まで動く距離である。
たとえば、日本のコンビニ弁当の食材は世界中からあつまってくる。
インド洋からはこんできたマグロ、南アフリカの野菜とか、そんなカンジ。これらがみな、バリバリCO2まきちらす飛行機にのせられて日本のコンビニ弁当にやってきて、賞味期限がきれると手つかずのまま、ぺっ、と捨てられているのだ。
わざわざカリフォルニアからオレンジをとりよせて食べる必要があるのか。柑橘系食べたいなら愛媛ミカンを食べればいいのだ。魚は近海いわしかさんまでもかじってりゃいいの。わざわざ外国からおとりよせなんて、浅ましい。
わたしの祖父が存命中は庭に菜園を作っていて、お盆休みなどに訪れると、庭で収穫したトマトやキュウリをそのまま食卓にだしてくれた。こんな生活してればCO2はでない。都会生活でこれは無理でも、せめてできるだけ近距離でとれたものを選ぶだけでずいぶんCO2は削減できる。
海外からもたさられる食品のかなりの大半が中国からものであるので、まずは、中国にある日本の工場を徐々に日本にもどすことからはじめるといいと思う。中国の人件費も高騰してきていることだし、水際チェックとかで税金つかって検査要員増やすよりも、その方がはるかにムダがない。
安全とCO2削減のためにも、これやっといた方がいいと思う。
事実上消費者の目はチャイナ・フリーとなっているので、経済原理にのっとっても安けりゃいいという時代ではもうなくなっている。
チャイナ・フリー(この製品には中国産つかってません)。
どさくさ紛れに、フリー・チベット(チベットに自由を!)。
被害者の中には「やっぱ吉兆の鳥はひと味違うねー。比内鳥だからなー」とかいってた偽装食通もいるわけで、この事件にはある種の滑稽さもつきまとう。
しかし、今回の餃子事件はのめば~死ぬ死ぬ農薬入りである。
シャレにならない。
中国は精神的にも実質的にもいろいろな意味で発展途上国なので、ある意味この危険は予想されていたことであった。
過去わたしは中国滞在中に何度お腹を壊して死ぬ思いをしたことか。
十五年ほど前、母が死んだ年、傷心を癒しに中国にいった時が一番ひどかった。
初日に北海公園の側の食堂に入ってたぶんそこで食べたものが悪かったのだろう。その夜、吐き気・発熱で倒れ、一週間何も食べられず。骸骨のようにやせ細ったよ。それ以来、中国ではファーストフードか、朝鮮族かウイグル族の食堂に入ることにしている。
そいえば、昔 一度トイレに行こうと思って間違えて中国レストランの厨房に迷い込んだことがある。その時私の目にはマーベラスなものが飛び込んできた。
シンクのようなところに真っ黒な液体がたっぷんたっぷん入っていて、みるとそれはあげものする時の油なの。ガソリンかと思ったよ。その後Sarsとかあって、衛生には多少は気を遣うようになったのだろうけど、あれはすごかった。
わたしがあたったのはたぶん悪い油とか、いれすぎた化学調味料なのであろうが、今回は化学薬品による中毒なので、たぶんこんな絵がかける(以下はまったくの想像です)。
工場長「わが工場の製品は日本に輸出する。日本人は細かい。清潔でないと怒られる。工場内のハエととかがギョーザに混入するのはもっての外。みんな手を消毒薬につけろ! 機械を燻蒸しろ! 何もかも洗いつくせええええ!」
でもって、工場の人は手に最近禁止されたばかりの毒性の強い殺虫剤の入ったボトルをもち(本人は気がついていない)、いろんなところにジャバジャバかけてまわり、消毒薬につけたままの素手でそのままギョーザをこねまわしましたとさ、とっぺんはらり。
こうなるとハエ入り餃子の方が安全だな。そういえば十五年ほど前、十二月に中国にいった時、飲むヨーグルトを飲もうとしたら、ストローからヨーグルト吸い上がらない。よーく見るとストローの先にはハエが詰まっていましたとさ(これはインドでもよくあるよね)。十年前の食中毒は牧歌的だよなあ。
まあ、こんなわけだから責めても仕方ないの。ルーズなんだから。
そもそも、今回の問題の根本には日本国内で消費するものを中国で作るという点にある。食の安全性をおいとくとしても、遠くの国から燃料費かけてやっすい餃子を運んでくるには膨大なCO2がでるんだよね。
ちなみに、日本のフードマイレージは世界一高い。
フードマイレージ。それは食材が生産された地から消費される地まで動く距離である。
たとえば、日本のコンビニ弁当の食材は世界中からあつまってくる。
インド洋からはこんできたマグロ、南アフリカの野菜とか、そんなカンジ。これらがみな、バリバリCO2まきちらす飛行機にのせられて日本のコンビニ弁当にやってきて、賞味期限がきれると手つかずのまま、ぺっ、と捨てられているのだ。
わざわざカリフォルニアからオレンジをとりよせて食べる必要があるのか。柑橘系食べたいなら愛媛ミカンを食べればいいのだ。魚は近海いわしかさんまでもかじってりゃいいの。わざわざ外国からおとりよせなんて、浅ましい。
わたしの祖父が存命中は庭に菜園を作っていて、お盆休みなどに訪れると、庭で収穫したトマトやキュウリをそのまま食卓にだしてくれた。こんな生活してればCO2はでない。都会生活でこれは無理でも、せめてできるだけ近距離でとれたものを選ぶだけでずいぶんCO2は削減できる。
海外からもたさられる食品のかなりの大半が中国からものであるので、まずは、中国にある日本の工場を徐々に日本にもどすことからはじめるといいと思う。中国の人件費も高騰してきていることだし、水際チェックとかで税金つかって検査要員増やすよりも、その方がはるかにムダがない。
安全とCO2削減のためにも、これやっといた方がいいと思う。
事実上消費者の目はチャイナ・フリーとなっているので、経済原理にのっとっても安けりゃいいという時代ではもうなくなっている。
チャイナ・フリー(この製品には中国産つかってません)。
どさくさ紛れに、フリー・チベット(チベットに自由を!)。
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