韓国版『チベットを知るための50章』書評
日本の高校で韓国語を教えていらっしゃる、韓国人の某先生より、韓国版『チベットを知るための50章』のWebでの書評を翻訳して送っていただきました。
原文のサイトはここクリックです
この書評を翻訳してくれた先生のお話だと、現在韓国ではチベットオリエンタリズムがブームだそうです。
専門家として単純に喜ばしく感じるとともに、ハリウッドのセレブがチベット傾倒するように、韓流スターもチベット傾倒してこの本読んでくれないかな~、と思う今日このごろです(何考えとんじゃ 笑)。
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『チベット、ダライラマの国』
石濱裕美子 編著 / キム・ハンウン 訳
2007.8.18 /A5/336頁/15000ウォン(約1700円程度)
この本は今日世界で再評価されているチベット文化の多様な側面を過去から現在に至るまでチベット内外部の観点から総合的に紹介する、チベットのことが知りたい人々にとっては大変親切な入門書である。一部ではチベットの建国から中国の侵入により終末を迎えるまでの伝統チベット社会を、2部では人類精神文化の真髄を見せてくれるチベット仏教を、3部では仏教以外の生活文化、ボン教、医学、音楽、占いなどについて、そして4部では外から見たチベットのイメージ、5部では現在チベットが直面している様々な問題を提示している。
●編集者書評
教皇より尊敬されるダライラマ
7月中旬ごろ私達はマスコミを通じて興味深い外信記事に接した。ドイツのある週刊誌『シュピーゲル』のウェブサイトで、ダライラマのドイツ訪問に先立ち、世論調査を実施したが、驚くことに、ドイツの国民達は自国出身の現在のローマ教皇よりもダライラマをもっと尊敬しており、キリスト教より仏教のほうがより平和的な宗教だと思っているという結果がでた。ドイツ全体で仏教信者が1%に過ぎないことを考えると、これは驚くべきことと言わざるを得ない。韓国におけるダライラマの認知度はドイツより低いかも知れないが、チベット旅行を夢見る人は回りにいくらでもいる。しかし、こうしたチベットに関する一般人の高い関心度にもかかわらず、チベットの全体像を知らせてくれる正確な知識や情報を伝えてくれる本を見つけることは難しい。この本はチベットを知りたい人、チベットに旅行したい人々にとっては必見の入門書なのである。
神秘の地、チベット
「世界の屋根」と称されるほど、高い高原地帯に位置するチベットは世界の人々にとって無限の憧れの対象であった。特に物質文明が発達すればするほど、現代人の目にチベットという国は神秘的に見えた。国を失われたのにもかかわらず、チベット人は自らのアイデンティティを強化し、ましてや現代文明の最中に生きる人々をまでチベット文化へと同化させたからである。これを可能にしたのは、チベット文化の真髄である仏教文化であり、チベットの仏教文化は国境や民族を乗り越え、普遍的にアピールしかけたのである。
チベットを知るための50のテーマ
5部、50章からなるこの本はチベット文化の様々な側面を過去から現在に至るまで、そして内部や外部の角度から総合的に探求する。
1部「聖者達のチベット」では建国から始まり中国の侵略で終わるチベットの歴史をチベット人が信じているままに紹介した。なぜ客観的な史実をチベット人の見方から捕らえたのか。それは、チベット人は古代王朝を理想的な時代として捉え、それを現代社会に再現しようとする民族なので、彼らが信じている物語は事実であるかどうかとは関係なく人々を動かし、また新たな歴史を作っていくからである。
2部「雪国の仏教」ではチベット仏教を扱い、3部「暮らしの文化」では仏教以外の生活文化、ボン教、医学、音楽、占星術などを紹介した。要するに、1部で時間の流れに従い伝統的なチベットを紹介したのなら、2部や3部ではチベット文化を停止した視覚から捕らえたのである。4部の「チベットのオリエンタリズム」は外部から見たチベットのことである。いくら精神文化に重きを置くとはいえ、チベットも人間の住む国であるだけに、戦争や不正腐敗から自由にいられるわけにはいかない。しかし西洋人の目から見たチベットは常に俗世の埃の至らない「秘境」または「神秘の国」であり続けたのである。
にもかかわらず(または、そうだからこそ)、チベット文化は西洋文化に少なからぬ影響を及ぼしてきた。文学をはじめ、ハリウッド映画、ロックミュージック、ヒッピー文化、特に幻覚体験、そして最近は多くの瞑想センターにいたるまで、チベット文化は現代の大衆文化と密接な関係を結んできた。映画俳優リチャード・ギヤーやスティーブン・シーガールがチベット仏教の熱烈な信者であることはあまりにも有名である。ユーマ・サーマンの父であるコロンビア大学の教授、ロバート・サーマンはアメリカの代表的なチベット学者である。ユーマ・サーマンの名前「ユーマ」はチベット語で「中観哲学」という意味だそうだ。最後の5部「チベットの現在」はダライラマ、カルマパ、パンチェンラマなどの高僧たちに焦点を当て、チベット人が現在直面している問題を扱っている。
チベット文化の化身、ダライラマ
ダライラマは遠い昔チベットを祝福した観音菩薩の化身であり、開国の王、ソンツェンガンポの生まれ変われであるという面では1部で触れた神話を体現した者である。また、仏教哲学の大家という意味で、2部ではチベット仏教を具現した者になり、伝統的な僧院社会を生きる現代チベット人としては、4部で説明しているチベットとオリエンタリズムの具現者と位置づけすることができよう。要するにダライラマは神話と現実が交差するチベット文化の全ての側面を絶妙に具現している人物なのである。
「非暴力と平和」が「暴力と戦争」を勝つ日
チベットが中国の侵攻により独立国の地位を喪失、中国の一自治区となってしまってから半世紀以上が経った。ダライラマは故国のチベットを脱出し、インドのダラムシャーラーに亡命政府を立ち上げ、今日に至るまでチベットの国家的法統を守り抜いてきた。しかし、国を失ったほかの民族とは違い、チベット人の独立運動には特別な何かがある。つまり武力闘争ではなく、「非暴力」を固守するのである。中国の横暴を看過するため、問題の解決を遅延させるという批判の声もあるが、チベット人が武力闘争の道を選ぶということは、仏教徒としてのアイデンティティを失うということであり、それは国を失うことよりも悪いことなのかも知れない。もしチベット人が「非暴力と平和」を以って中国のナショナリズムの怒涛を乗り越え、自分達のアイデンティティと文化を守りながら国を取り戻す日が来るなら、それは人類の歴史の新しいページをめくる、世界史的大事件になるであろう。その可能性をダライラマの平和思想から合間見ることができる。
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この書評を翻訳してくれた先生のお話だと、現在韓国ではチベットオリエンタリズムがブームだそうです。
専門家として単純に喜ばしく感じるとともに、ハリウッドのセレブがチベット傾倒するように、韓流スターもチベット傾倒してこの本読んでくれないかな~、と思う今日このごろです(何考えとんじゃ 笑)。
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『チベット、ダライラマの国』
石濱裕美子 編著 / キム・ハンウン 訳
2007.8.18 /A5/336頁/15000ウォン(約1700円程度)
この本は今日世界で再評価されているチベット文化の多様な側面を過去から現在に至るまでチベット内外部の観点から総合的に紹介する、チベットのことが知りたい人々にとっては大変親切な入門書である。一部ではチベットの建国から中国の侵入により終末を迎えるまでの伝統チベット社会を、2部では人類精神文化の真髄を見せてくれるチベット仏教を、3部では仏教以外の生活文化、ボン教、医学、音楽、占いなどについて、そして4部では外から見たチベットのイメージ、5部では現在チベットが直面している様々な問題を提示している。
●編集者書評
教皇より尊敬されるダライラマ
7月中旬ごろ私達はマスコミを通じて興味深い外信記事に接した。ドイツのある週刊誌『シュピーゲル』のウェブサイトで、ダライラマのドイツ訪問に先立ち、世論調査を実施したが、驚くことに、ドイツの国民達は自国出身の現在のローマ教皇よりもダライラマをもっと尊敬しており、キリスト教より仏教のほうがより平和的な宗教だと思っているという結果がでた。ドイツ全体で仏教信者が1%に過ぎないことを考えると、これは驚くべきことと言わざるを得ない。韓国におけるダライラマの認知度はドイツより低いかも知れないが、チベット旅行を夢見る人は回りにいくらでもいる。しかし、こうしたチベットに関する一般人の高い関心度にもかかわらず、チベットの全体像を知らせてくれる正確な知識や情報を伝えてくれる本を見つけることは難しい。この本はチベットを知りたい人、チベットに旅行したい人々にとっては必見の入門書なのである。
神秘の地、チベット
「世界の屋根」と称されるほど、高い高原地帯に位置するチベットは世界の人々にとって無限の憧れの対象であった。特に物質文明が発達すればするほど、現代人の目にチベットという国は神秘的に見えた。国を失われたのにもかかわらず、チベット人は自らのアイデンティティを強化し、ましてや現代文明の最中に生きる人々をまでチベット文化へと同化させたからである。これを可能にしたのは、チベット文化の真髄である仏教文化であり、チベットの仏教文化は国境や民族を乗り越え、普遍的にアピールしかけたのである。
チベットを知るための50のテーマ
5部、50章からなるこの本はチベット文化の様々な側面を過去から現在に至るまで、そして内部や外部の角度から総合的に探求する。
1部「聖者達のチベット」では建国から始まり中国の侵略で終わるチベットの歴史をチベット人が信じているままに紹介した。なぜ客観的な史実をチベット人の見方から捕らえたのか。それは、チベット人は古代王朝を理想的な時代として捉え、それを現代社会に再現しようとする民族なので、彼らが信じている物語は事実であるかどうかとは関係なく人々を動かし、また新たな歴史を作っていくからである。
2部「雪国の仏教」ではチベット仏教を扱い、3部「暮らしの文化」では仏教以外の生活文化、ボン教、医学、音楽、占星術などを紹介した。要するに、1部で時間の流れに従い伝統的なチベットを紹介したのなら、2部や3部ではチベット文化を停止した視覚から捕らえたのである。4部の「チベットのオリエンタリズム」は外部から見たチベットのことである。いくら精神文化に重きを置くとはいえ、チベットも人間の住む国であるだけに、戦争や不正腐敗から自由にいられるわけにはいかない。しかし西洋人の目から見たチベットは常に俗世の埃の至らない「秘境」または「神秘の国」であり続けたのである。
にもかかわらず(または、そうだからこそ)、チベット文化は西洋文化に少なからぬ影響を及ぼしてきた。文学をはじめ、ハリウッド映画、ロックミュージック、ヒッピー文化、特に幻覚体験、そして最近は多くの瞑想センターにいたるまで、チベット文化は現代の大衆文化と密接な関係を結んできた。映画俳優リチャード・ギヤーやスティーブン・シーガールがチベット仏教の熱烈な信者であることはあまりにも有名である。ユーマ・サーマンの父であるコロンビア大学の教授、ロバート・サーマンはアメリカの代表的なチベット学者である。ユーマ・サーマンの名前「ユーマ」はチベット語で「中観哲学」という意味だそうだ。最後の5部「チベットの現在」はダライラマ、カルマパ、パンチェンラマなどの高僧たちに焦点を当て、チベット人が現在直面している問題を扱っている。
チベット文化の化身、ダライラマ
ダライラマは遠い昔チベットを祝福した観音菩薩の化身であり、開国の王、ソンツェンガンポの生まれ変われであるという面では1部で触れた神話を体現した者である。また、仏教哲学の大家という意味で、2部ではチベット仏教を具現した者になり、伝統的な僧院社会を生きる現代チベット人としては、4部で説明しているチベットとオリエンタリズムの具現者と位置づけすることができよう。要するにダライラマは神話と現実が交差するチベット文化の全ての側面を絶妙に具現している人物なのである。
「非暴力と平和」が「暴力と戦争」を勝つ日
チベットが中国の侵攻により独立国の地位を喪失、中国の一自治区となってしまってから半世紀以上が経った。ダライラマは故国のチベットを脱出し、インドのダラムシャーラーに亡命政府を立ち上げ、今日に至るまでチベットの国家的法統を守り抜いてきた。しかし、国を失ったほかの民族とは違い、チベット人の独立運動には特別な何かがある。つまり武力闘争ではなく、「非暴力」を固守するのである。中国の横暴を看過するため、問題の解決を遅延させるという批判の声もあるが、チベット人が武力闘争の道を選ぶということは、仏教徒としてのアイデンティティを失うということであり、それは国を失うことよりも悪いことなのかも知れない。もしチベット人が「非暴力と平和」を以って中国のナショナリズムの怒涛を乗り越え、自分達のアイデンティティと文化を守りながら国を取り戻す日が来るなら、それは人類の歴史の新しいページをめくる、世界史的大事件になるであろう。その可能性をダライラマの平和思想から合間見ることができる。
ホントの師走は一月
暫く残っていた咳もやっと収まってきた。
でも、何かしらのはずみで突然咳の発作が起きるので、とくにそれが満員電車の中でおきたりすると、満座の冷たい視線を浴びなければならないので、まだまだ気が抜けない。
マスクと「のどぬーるスプレー」とせきどめ薬でなんとか、教場試験をのりきる。
木曜日の三限。大教室での教場試験。見渡すと何人かのゼミ生と目が合う。
なぜかみな申し合わせたように笑っている。何かいやな予感がする。
そのうち一人の答案用紙を見てみると、
問 ビルマの古都( )は釈尊の時代、海の下であった。
という問いに対して、
(中井貴一)
私「なにコレ」
O津「いや、ビルマの古都とビルマの竪琴をかけて、主演の中井貴一ですよ。よく考えたでしょう」
私「そんなダジャレきいとらんわ!」
金曜日も三コマ連続教場試験。
このうち一つのテストにゼミ生のとある女の子が無断欠席。
むむぅ。
私はこれでもA型である。筋は通す。見ているがいい。
そして、これからはじまる採点地獄。ファミレスのドリンクバーの付属品のような生活が今年も始まる・・・。
ところが、こういう忙しい時にかぎって火災保険が切れたので更新をとか、初校がでたのでみろ、とか細々した案件が入り、面倒くさいこと窮まりない。
「窮まりない」で思い出したが、木曜日の三年の授業で漢文読んでいて「無疆」という言葉がでてきた。自慢の電子辞書Ex-wordで「きわまりない」という意味を示そうとしたら、ありうべきことか載っていない。
すると、同じEx-wordでも私のよりはるかにやっすい廉価版を使っている、モルキチ君が
、モルキチ君「先生、ボクの辞書にはのってます。ボクのはドンキでかった一万八千円のやつです」するとMコト君が、
Mコト君「センセ使いこなしてないんじゃないですか」
私「ちがわい。私の辞書には『大辞泉』が入っているけど、モルキチのは『広辞苑』がはいっとんのじゃ。にしても、なんで高い辞書の語彙が安い辞書の語彙にまけとんのじゃ」
というわけで、電子辞書をこれからお求めのアナタ! やっぱ広辞苑の入ったものを買おうね。
次の時間は四年ゼミ最後の授業。卒論の口頭試問の残り数人をやったあと、ダライラマ猊下のお言葉を引用して訓辞にかえる。
いろいろな意味で破天荒な学生ばかりであったが、それだけに彼らと過ごした日々の思い出は、十年もたてば(笑)、美しいものとなっていくのだろうな。
こんなんだと社会にでた最初は、きっといろいろなところでぶつかって、苦労するだろう。けど、深く考えて落ち込むようなタイプの子はいないので、まあ何とか乗り切っていくだろう。
というわけで、その後は例によって懇親会(笑)。
Aジ君の熱意にあおられ、卒業旅行も箱根に決まったようである。
宿にメイワクかけないように、学生生活最後の日々を燃焼してくれ。
でも、何かしらのはずみで突然咳の発作が起きるので、とくにそれが満員電車の中でおきたりすると、満座の冷たい視線を浴びなければならないので、まだまだ気が抜けない。
マスクと「のどぬーるスプレー」とせきどめ薬でなんとか、教場試験をのりきる。
木曜日の三限。大教室での教場試験。見渡すと何人かのゼミ生と目が合う。
なぜかみな申し合わせたように笑っている。何かいやな予感がする。
そのうち一人の答案用紙を見てみると、
問 ビルマの古都( )は釈尊の時代、海の下であった。
という問いに対して、
(中井貴一)
私「なにコレ」
O津「いや、ビルマの古都とビルマの竪琴をかけて、主演の中井貴一ですよ。よく考えたでしょう」
私「そんなダジャレきいとらんわ!」
金曜日も三コマ連続教場試験。
このうち一つのテストにゼミ生のとある女の子が無断欠席。
むむぅ。
私はこれでもA型である。筋は通す。見ているがいい。
そして、これからはじまる採点地獄。ファミレスのドリンクバーの付属品のような生活が今年も始まる・・・。
ところが、こういう忙しい時にかぎって火災保険が切れたので更新をとか、初校がでたのでみろ、とか細々した案件が入り、面倒くさいこと窮まりない。
「窮まりない」で思い出したが、木曜日の三年の授業で漢文読んでいて「無疆」という言葉がでてきた。自慢の電子辞書Ex-wordで「きわまりない」という意味を示そうとしたら、ありうべきことか載っていない。
すると、同じEx-wordでも私のよりはるかにやっすい廉価版を使っている、モルキチ君が
、モルキチ君「先生、ボクの辞書にはのってます。ボクのはドンキでかった一万八千円のやつです」するとMコト君が、
Mコト君「センセ使いこなしてないんじゃないですか」
私「ちがわい。私の辞書には『大辞泉』が入っているけど、モルキチのは『広辞苑』がはいっとんのじゃ。にしても、なんで高い辞書の語彙が安い辞書の語彙にまけとんのじゃ」
というわけで、電子辞書をこれからお求めのアナタ! やっぱ広辞苑の入ったものを買おうね。
次の時間は四年ゼミ最後の授業。卒論の口頭試問の残り数人をやったあと、ダライラマ猊下のお言葉を引用して訓辞にかえる。
いろいろな意味で破天荒な学生ばかりであったが、それだけに彼らと過ごした日々の思い出は、十年もたてば(笑)、美しいものとなっていくのだろうな。
こんなんだと社会にでた最初は、きっといろいろなところでぶつかって、苦労するだろう。けど、深く考えて落ち込むようなタイプの子はいないので、まあ何とか乗り切っていくだろう。
というわけで、その後は例によって懇親会(笑)。
Aジ君の熱意にあおられ、卒業旅行も箱根に決まったようである。
宿にメイワクかけないように、学生生活最後の日々を燃焼してくれ。
対処療法の限界
月曜日の明け方、大寒の訪れとともにはじまったゼンソクは、火曜日に気管支炎に進化した。
気管が狭くなるため、呼吸のたびにゼイゼイ音がして、チベット高原いる時よりもずっと息苦しい。
セキがとまらないので夜も眠れないし、炎症で三十八度台の熱もあるので食欲もない。インフルエンザと違い脳には影響がないのか、一応判断力はにぶらないのが救い。
そこで、なぜこのようなすごい発作が起きたのか、つらつら考えてみる。
土曜日の食事は渋谷のカンティプールでカレーセット、日曜日は自由が丘の妻家房で石焼きビビンパwithコチジャン真っ赤。月曜日はプルコギ+乳酸キムチ。
そりゃ気管支爛れるわい。
だいたい何だよ、このインド人や韓国人のような外食形態わ。うすあじ日本食食べてればこんな苦しみを味合わないですんだのだ。
そもそも気管支が弱い人のたべるメニューじゃないわな。
自業自得である。 深く反省。
わたしは薬の副作用がでやすい体質なので体に不調があると、大体は漢方を飲んで治す。ゼンソクがでても、いつもの軽めの発作なら麻杏甘石湯でとまるのに今回はきかない。
ので、いつもの町医者にかけこむ。
処方箋をみると気管を拡張するお薬と抗生物質とアレルギーのお薬がある。しかし調べてみると、このうち気管を拡張するお薬はやや副作用があるという。一応飲んでみると、ゼイメイはとまったが、気管の痛みはそのままだし息苦しさはかわらない。
たとえていえば、気管支の腫れはそのままなのだが、力業でだれかが気管支をこじあけてくれている、というカンジ。自分の体で自然になおす時は、タ☆がでて、それがきれてくると咳もとまってくるのだが、☆ンが全然でないままただゼイメイがとまるだけ。
しかも、夕方になったら悪寒・発熱で、どんどん苦しくなる。ゼンソクなおっても今度は発熱かい。
夕ご飯、薬を飲むためには食事をいれておかなければならないので、とりあえずおかゆをつくるが、食べられない。そこで病院でだされた薬を飲むのは諦めて、市販の風邪薬だけのむ。午後十時に就寝して午前零時に目が覚めると、何かつきものがおちたように楽になっていた。
これは気管支拡張の薬の効き目が切れたからではないか。
そういえば、チベット医学には、「熱も咳もゲ●もおならもみな出るもんはみんなだせ」という教えがある。熱は体がウィルスとたたかっている反応だし、高熱の時のゲ●も体を冷やす作用がある。これはいいかえると、一つ一つの症状をばらばらにとらえて、その一つ一つに対処療法をするとかえって治りを遅くなることもあるということ。
最近は咳止め、解熱もしない方がいいというお医者さんは多い。
もちろん、とまらない咳、下がらない熱などには西洋医学の即効性の薬は必要である。今回の私の場合のように、ほっておくとゼンソクで気管が閉塞してあの世ゆきになっていたかもしれないことを考えると、西洋医薬は必要である。
しかし、病と対抗する上でおきる体の反応すべてを薬で封じ込めるのは、やはりかえって良くない感じがする。
ま、何にせよ、病はならないのが一番。今朝の新聞で「酸素吸入中喫煙で火災」という記事があったが、これがひどかった。
肺の機能の低下した人が、自宅内で酸素吸入をしている最中、喫煙して機械にもえうつって焼死するという事件があいついでいるとのこと。
そもそも酸素吸入するような輩タバコすうな!
タバコをすって肺機能が低下して、酸素吸入うけなきゃなんなくなって、それでもタバコをすって焼死する。これ以上業の深い死に方はない。
防げずしてるなる病や死は仕方ない。しかしこの焼死じいさんたちのように、自分で病の原因を呼び込むのだけはやめよう、もう激辛料理を連チャンで食べるのはやめよう、そう誓った、雪の朝なのであったった。
気管が狭くなるため、呼吸のたびにゼイゼイ音がして、チベット高原いる時よりもずっと息苦しい。
セキがとまらないので夜も眠れないし、炎症で三十八度台の熱もあるので食欲もない。インフルエンザと違い脳には影響がないのか、一応判断力はにぶらないのが救い。
そこで、なぜこのようなすごい発作が起きたのか、つらつら考えてみる。
土曜日の食事は渋谷のカンティプールでカレーセット、日曜日は自由が丘の妻家房で石焼きビビンパwithコチジャン真っ赤。月曜日はプルコギ+乳酸キムチ。
そりゃ気管支爛れるわい。
だいたい何だよ、このインド人や韓国人のような外食形態わ。うすあじ日本食食べてればこんな苦しみを味合わないですんだのだ。
そもそも気管支が弱い人のたべるメニューじゃないわな。
自業自得である。 深く反省。
わたしは薬の副作用がでやすい体質なので体に不調があると、大体は漢方を飲んで治す。ゼンソクがでても、いつもの軽めの発作なら麻杏甘石湯でとまるのに今回はきかない。
ので、いつもの町医者にかけこむ。
処方箋をみると気管を拡張するお薬と抗生物質とアレルギーのお薬がある。しかし調べてみると、このうち気管を拡張するお薬はやや副作用があるという。一応飲んでみると、ゼイメイはとまったが、気管の痛みはそのままだし息苦しさはかわらない。
たとえていえば、気管支の腫れはそのままなのだが、力業でだれかが気管支をこじあけてくれている、というカンジ。自分の体で自然になおす時は、タ☆がでて、それがきれてくると咳もとまってくるのだが、☆ンが全然でないままただゼイメイがとまるだけ。
しかも、夕方になったら悪寒・発熱で、どんどん苦しくなる。ゼンソクなおっても今度は発熱かい。
夕ご飯、薬を飲むためには食事をいれておかなければならないので、とりあえずおかゆをつくるが、食べられない。そこで病院でだされた薬を飲むのは諦めて、市販の風邪薬だけのむ。午後十時に就寝して午前零時に目が覚めると、何かつきものがおちたように楽になっていた。
これは気管支拡張の薬の効き目が切れたからではないか。
そういえば、チベット医学には、「熱も咳もゲ●もおならもみな出るもんはみんなだせ」という教えがある。熱は体がウィルスとたたかっている反応だし、高熱の時のゲ●も体を冷やす作用がある。これはいいかえると、一つ一つの症状をばらばらにとらえて、その一つ一つに対処療法をするとかえって治りを遅くなることもあるということ。
最近は咳止め、解熱もしない方がいいというお医者さんは多い。
もちろん、とまらない咳、下がらない熱などには西洋医学の即効性の薬は必要である。今回の私の場合のように、ほっておくとゼンソクで気管が閉塞してあの世ゆきになっていたかもしれないことを考えると、西洋医薬は必要である。
しかし、病と対抗する上でおきる体の反応すべてを薬で封じ込めるのは、やはりかえって良くない感じがする。
ま、何にせよ、病はならないのが一番。今朝の新聞で「酸素吸入中喫煙で火災」という記事があったが、これがひどかった。
肺の機能の低下した人が、自宅内で酸素吸入をしている最中、喫煙して機械にもえうつって焼死するという事件があいついでいるとのこと。
そもそも酸素吸入するような輩タバコすうな!
タバコをすって肺機能が低下して、酸素吸入うけなきゃなんなくなって、それでもタバコをすって焼死する。これ以上業の深い死に方はない。
防げずしてるなる病や死は仕方ない。しかしこの焼死じいさんたちのように、自分で病の原因を呼び込むのだけはやめよう、もう激辛料理を連チャンで食べるのはやめよう、そう誓った、雪の朝なのであったった。
いつもニコニコ現金払い
木曜日に時計をみて授業をおえたら、事務室の時計ではまだ二十分あった。
腕時計を見直すと、時計がとまっていた。
土曜日、時計の電池を替えにビックカメラに行く。
「二十分でできます」というので、一時間後にとりにいくと、係の人が、「職人によると、時計のガラス面がずれているので電池をいれたところでハリがふれてすぐ壊れる、修理をした方がいいので、電池はいれてない。」とのこと。
私「有り体に言うと買い直せということ?」と聞くと、はっきりは応えないがそうした方がいいらしい。
そこで、くりっと後ろを向いて、ショーケースの中からテキトーな時計を捜す。
「今回みたいに電池がきれるとメンドーくさいから、今度は太陽電池だ。皮バンドは着脱メンドーくさいから、バンドはワンタッチ。」
そう、メンドーか否かが商品選びの基準。
テキトー。
あと、デザインは飽きがこない無難なデザインで、でもどこかちょっとおしゃれなヤツ。
セイコーはごつい上に、女性用の時計には太陽電池は少ないそうなので、シチズンにする。
電池変えるだけのつもりできて、いきなり腕時計でイタイ出費だが、腕時計のない生活も不便なので仕方ない。ほとんど即断即決。
そういえば、私は服でもバックでも靴でも買い物に時間をかけたことがない。
でもそうして買っても、買って後悔したものはほとんどない。
着倒し、履き倒し使い倒している(つまりは無難なものしか選んでない)。
本当に必要だったり、欲しかったりする者は、迷う必要がないし、迷うようなら最初からやめる。
その点ナゾなのがうちのダンナ。ある程度高額な商品になると、ネットであれこれ意見を集約し、カタログをあつめ、店頭に何度もかよいつめ、商品の能書きを熟読し、それでも迷いながらあるものを買う。
しかし、その後「ああもう一段高い値段のにすればよかった。安いのはやっぱりそれなりのものだ」とか「あっちにすればよかった」などと後悔している。
いったん何かを手にしたなら、選ばなかったものについてウジウジ考えても仕方ないと思うのだが、そうはいかないらしい。いろいろ考えて、考察して、選択した結果が思う通りにならないと、くやしいらしい。
しかし、さんざん時間をかけて、さらに手にしたものにケチをつけるようなそんな買い物して何が楽しいんだが、さっぱりわからん。
たぶん能書きとか効能とかブランドとか、そういうものにとらわれすぎていて、本質が見えなくなっているのだろう。
後悔しない買い物の仕方、それはカンタン。
選んだ瞬間に、選ばなかったモノについては忘れるのである。そして今手元にあるものを大事にする。これで人生オールライト。
で、これは買い物に限らず、人生の分岐点における諸選択にも通じるだろう。
ある人がA社に在籍している間に、B社からお誘いがかかるとする。
当事者は、さんざん迷い、A社に残るか、B社に遷るかを決めるだろう。しかし、どっちを選んだにせよ、その選んだ方の人生を大事に生きていけば、その選択肢は「正しい」ものとなる。客観的にいって失敗の選択をしていたとしても、選んだ本人がその選択を後悔せず、人生を丁寧に生きていけば、その選択は正しいものになっていくのだ。
力技である。
たとえば、そうして迷ったあげく、選んだ方の会社が傾いてしまったり、さんざん迷った末に結婚した相手がダメダメだったりすることがある。客観的にいって間違った選択をしていればそういうこともある。しかしその場合でも、やはりああしておけばよかったとか、こうしておけばよかったとか悔やんでも仕方ない。
過去の選択の誤りを悔いる暇があるなら、その間、限界状況を打開すべく次の一手を考える方がなんぼか意味があるからである。
腕時計を見直すと、時計がとまっていた。
土曜日、時計の電池を替えにビックカメラに行く。
「二十分でできます」というので、一時間後にとりにいくと、係の人が、「職人によると、時計のガラス面がずれているので電池をいれたところでハリがふれてすぐ壊れる、修理をした方がいいので、電池はいれてない。」とのこと。
私「有り体に言うと買い直せということ?」と聞くと、はっきりは応えないがそうした方がいいらしい。
そこで、くりっと後ろを向いて、ショーケースの中からテキトーな時計を捜す。
「今回みたいに電池がきれるとメンドーくさいから、今度は太陽電池だ。皮バンドは着脱メンドーくさいから、バンドはワンタッチ。」
そう、メンドーか否かが商品選びの基準。
テキトー。
あと、デザインは飽きがこない無難なデザインで、でもどこかちょっとおしゃれなヤツ。
セイコーはごつい上に、女性用の時計には太陽電池は少ないそうなので、シチズンにする。
電池変えるだけのつもりできて、いきなり腕時計でイタイ出費だが、腕時計のない生活も不便なので仕方ない。ほとんど即断即決。
そういえば、私は服でもバックでも靴でも買い物に時間をかけたことがない。
でもそうして買っても、買って後悔したものはほとんどない。
着倒し、履き倒し使い倒している(つまりは無難なものしか選んでない)。
本当に必要だったり、欲しかったりする者は、迷う必要がないし、迷うようなら最初からやめる。
その点ナゾなのがうちのダンナ。ある程度高額な商品になると、ネットであれこれ意見を集約し、カタログをあつめ、店頭に何度もかよいつめ、商品の能書きを熟読し、それでも迷いながらあるものを買う。
しかし、その後「ああもう一段高い値段のにすればよかった。安いのはやっぱりそれなりのものだ」とか「あっちにすればよかった」などと後悔している。
いったん何かを手にしたなら、選ばなかったものについてウジウジ考えても仕方ないと思うのだが、そうはいかないらしい。いろいろ考えて、考察して、選択した結果が思う通りにならないと、くやしいらしい。
しかし、さんざん時間をかけて、さらに手にしたものにケチをつけるようなそんな買い物して何が楽しいんだが、さっぱりわからん。
たぶん能書きとか効能とかブランドとか、そういうものにとらわれすぎていて、本質が見えなくなっているのだろう。
後悔しない買い物の仕方、それはカンタン。
選んだ瞬間に、選ばなかったモノについては忘れるのである。そして今手元にあるものを大事にする。これで人生オールライト。
で、これは買い物に限らず、人生の分岐点における諸選択にも通じるだろう。
ある人がA社に在籍している間に、B社からお誘いがかかるとする。
当事者は、さんざん迷い、A社に残るか、B社に遷るかを決めるだろう。しかし、どっちを選んだにせよ、その選んだ方の人生を大事に生きていけば、その選択肢は「正しい」ものとなる。客観的にいって失敗の選択をしていたとしても、選んだ本人がその選択を後悔せず、人生を丁寧に生きていけば、その選択は正しいものになっていくのだ。
力技である。
たとえば、そうして迷ったあげく、選んだ方の会社が傾いてしまったり、さんざん迷った末に結婚した相手がダメダメだったりすることがある。客観的にいって間違った選択をしていればそういうこともある。しかしその場合でも、やはりああしておけばよかったとか、こうしておけばよかったとか悔やんでも仕方ない。
過去の選択の誤りを悔いる暇があるなら、その間、限界状況を打開すべく次の一手を考える方がなんぼか意味があるからである。
チベット僧になりたかったフランス人
20世紀初頭のフランスの詩人、ヴィクトール・セガレンは、チベットに憧れ、東チベットをふらふらしながらチベット文化に浸りつつ「チベット」という題名の数多くの韻文を残した(生業は森鴎外と同じく軍医)。
最近再評価が進んでいるとかで、昨年の暮れ、フランス語のA先生のおかげによりはじめてその名にふれ、セガレンの詩集を手にとってみた。
そしてぶっとんだ。
まあ一読あれ。青色の部分が原文である。
詩集「チベット」29番目の詩(『セガレン著作集』第六巻より)
いつかわたしは、なってみようか、「ラマ僧」※に?※ラマ僧(喇嘛僧)とはチベット仏教の僧侶のことである。
(「黄帽のラマ」、「紅帽のラマ」、「紅帽」それとも「黄帽」のいずれの「ラマ」か?
「黄帽のラマ」に)
いずれの帽子を冠るもよし。
この二つの色は、まさしくラマ特有のもの。
いずれの色も、ありとある「財貨」を握る。
魔神の棲む世界であろうと、
はたまた単に、政治家たちの世界であろうと。
二つの色は、敵対しつつも、時として力を貸しあう、
二つの色は共に踊る、踊り舞う
老いたる「黒帽ラマ」らの背の上で。
足並そろえて跳びはねるのは快い。
得体の知れぬ「婆羅門」に静かに祈りをあげるより
いつかわたしがラマ僧になるべきならば。
「黄帽のラマ」、「紅帽のラマ」、「黄帽」それとも、「紅帽ラマ」か?
この紅色は、われらの間で公認された両帽のうち
われこそ古派と自称する。
巡回しつつ形而上世界を論する博士が
たわごとの金箔を施した帽子を冠る。
その一味ろうとうに、わたしも堕落した身を置かねばならぬ。
「その=全=能智」を逃れることは、まず叶うまい。
なぜなら彼は説く、説く、説くのだ。
マンサロヴォワール湖のほとりにたって。
否‐‐ああ‐‐わたしが逃れるすべはない
この唇で、その果てしない名《大聖パドマ…!》を唱えることを。
いつかわたしが「その派の喇嘛」になるならば!
(長いので後略)
-----------
勝手にラマ僧でもなんでもなれー。
フランス詩、くどー。
オリエンタリズム、まんかーい。
うわー。
とツッコミどころ満載の詩であるが、この詩からもわかるようにセガレンはチベット文化をかなりよく理解し、心酔している。
帽子の色が宗派の違いであることをちゃんと理解しており、これらの宗派がそれぞれ、微妙な対抗意識を持ちつつも、でも同じチベット仏教として共通する部分もあり、それがチベットの宗教(「魔神の住む世界」)と政治を牛耳っている(「財貨を握る」)ことをよく知っている。
これは同時期のイギリスの文学者ラドヤード・キプリングについても言えることなのだが、帝国主義全盛期のフランスやイギリスの文学者たちは、仕事柄これらの地域に長期滞在できたこともあり、今のフランス人もイギリス人よりもはるかにアジアを熟知してした。
かつての日本が大陸を侵略するためにどんどん人を送り込んだ結果、当時の日本人が、今の日本人よりも、はるかに満洲やモンゴルやチベットについて潤沢な知識を有していたのと軌を一にしている。
六日になくなられた佐藤長先生なんて、戦中は北京のチベット寺雍和宮に調査のため住みこんでいたんだよ。
ま、そういうわけで、戦前の西洋人・日本人は今よりはるかにグローバルだったのだ(その原因が黒い帝国主義というのは何だけど)。
で、問題は、その時代の小説や韻文を現代人が注釈しようとすると、当然のことながらその理解能力が及ばないのである。
しかも、これを翻訳しているのはフランス文学がご専門の先生方。
チベットに関する知識は日本語に翻訳された旅行記などに基づくようだが、私の目からみると手探り状態に見え、セガレンがチベットに対して抱いていた理解度を示すにはいたっていないように見える。
しかし、わたしはフランス語読めないので、具体的にどうこう言えない。
フランス語ができる方達なら、当時のフランスの大チベット学者ジャック・バコーの著作とか読めばもう少しいろいろわかったろうに。おそらくは文学者だから、歴史学・文献学には疎いのであろう。
時代の壁に加えて、文学と歴史の壁が、セガレンの翻訳を難しくしているのだ。
わたしはフランス語ができない。彼らはチベット文化を知らない。
うまくいかんもんだな、と思っていたところ、 昨日教授会が終わったあと、この翻訳にもかかわってらっしゃる渡辺芳敬先生とお話する機会にめぐまれた。
実はお名前は別の先生を介して知っていたのだが、お会いしてみると、何のことはない毎週同じ時間帯に授業があるため、教材造りの機械をとりあう仲であったことがわかった(かなり恥ずかしかった)。
先生は去年の夏はじめてチベットにいらして、あのNHKのドキュメンタリー「聖地に富を求めて」で銭ゲバとホテルとして有名となった、かの五つ星ホテルに泊まり、帰ってからそれをしって後悔したのだそうで、とにかく、いまチベットに夢中だそう。
わたしの本も買ってくださっているという。
ありがたやー。
なので、「私ごときにできることがあったら何でもおっしゃってください」と申し出ておく。何となくアカデミック的にいいおつきあいが始まりそうな予感。
同じ学部内にセガレン研究者がいるとはすんばらしい偶然。別件でも今年はオリエンタリズムに関係する研究の共同研究に誘われているので、今年はその方面の研究が多くなるかも。
最近再評価が進んでいるとかで、昨年の暮れ、フランス語のA先生のおかげによりはじめてその名にふれ、セガレンの詩集を手にとってみた。
そしてぶっとんだ。
まあ一読あれ。青色の部分が原文である。
詩集「チベット」29番目の詩(『セガレン著作集』第六巻より)
いつかわたしは、なってみようか、「ラマ僧」※に?※ラマ僧(喇嘛僧)とはチベット仏教の僧侶のことである。
(「黄帽のラマ」、「紅帽のラマ」、「紅帽」それとも「黄帽」のいずれの「ラマ」か?
「黄帽のラマ」に)
いずれの帽子を冠るもよし。
この二つの色は、まさしくラマ特有のもの。
いずれの色も、ありとある「財貨」を握る。
魔神の棲む世界であろうと、
はたまた単に、政治家たちの世界であろうと。
二つの色は、敵対しつつも、時として力を貸しあう、
二つの色は共に踊る、踊り舞う
老いたる「黒帽ラマ」らの背の上で。
足並そろえて跳びはねるのは快い。
得体の知れぬ「婆羅門」に静かに祈りをあげるより
いつかわたしがラマ僧になるべきならば。
「黄帽のラマ」、「紅帽のラマ」、「黄帽」それとも、「紅帽ラマ」か?
この紅色は、われらの間で公認された両帽のうち
われこそ古派と自称する。
巡回しつつ形而上世界を論する博士が
たわごとの金箔を施した帽子を冠る。
その一味ろうとうに、わたしも堕落した身を置かねばならぬ。
「その=全=能智」を逃れることは、まず叶うまい。
なぜなら彼は説く、説く、説くのだ。
マンサロヴォワール湖のほとりにたって。
否‐‐ああ‐‐わたしが逃れるすべはない
この唇で、その果てしない名《大聖パドマ…!》を唱えることを。
いつかわたしが「その派の喇嘛」になるならば!
(長いので後略)
-----------
勝手にラマ僧でもなんでもなれー。
フランス詩、くどー。
オリエンタリズム、まんかーい。
うわー。
とツッコミどころ満載の詩であるが、この詩からもわかるようにセガレンはチベット文化をかなりよく理解し、心酔している。
帽子の色が宗派の違いであることをちゃんと理解しており、これらの宗派がそれぞれ、微妙な対抗意識を持ちつつも、でも同じチベット仏教として共通する部分もあり、それがチベットの宗教(「魔神の住む世界」)と政治を牛耳っている(「財貨を握る」)ことをよく知っている。
これは同時期のイギリスの文学者ラドヤード・キプリングについても言えることなのだが、帝国主義全盛期のフランスやイギリスの文学者たちは、仕事柄これらの地域に長期滞在できたこともあり、今のフランス人もイギリス人よりもはるかにアジアを熟知してした。
かつての日本が大陸を侵略するためにどんどん人を送り込んだ結果、当時の日本人が、今の日本人よりも、はるかに満洲やモンゴルやチベットについて潤沢な知識を有していたのと軌を一にしている。
六日になくなられた佐藤長先生なんて、戦中は北京のチベット寺雍和宮に調査のため住みこんでいたんだよ。
ま、そういうわけで、戦前の西洋人・日本人は今よりはるかにグローバルだったのだ(その原因が黒い帝国主義というのは何だけど)。
で、問題は、その時代の小説や韻文を現代人が注釈しようとすると、当然のことながらその理解能力が及ばないのである。
しかも、これを翻訳しているのはフランス文学がご専門の先生方。
チベットに関する知識は日本語に翻訳された旅行記などに基づくようだが、私の目からみると手探り状態に見え、セガレンがチベットに対して抱いていた理解度を示すにはいたっていないように見える。
しかし、わたしはフランス語読めないので、具体的にどうこう言えない。
フランス語ができる方達なら、当時のフランスの大チベット学者ジャック・バコーの著作とか読めばもう少しいろいろわかったろうに。おそらくは文学者だから、歴史学・文献学には疎いのであろう。
時代の壁に加えて、文学と歴史の壁が、セガレンの翻訳を難しくしているのだ。
わたしはフランス語ができない。彼らはチベット文化を知らない。
うまくいかんもんだな、と思っていたところ、 昨日教授会が終わったあと、この翻訳にもかかわってらっしゃる渡辺芳敬先生とお話する機会にめぐまれた。
実はお名前は別の先生を介して知っていたのだが、お会いしてみると、何のことはない毎週同じ時間帯に授業があるため、教材造りの機械をとりあう仲であったことがわかった(かなり恥ずかしかった)。
先生は去年の夏はじめてチベットにいらして、あのNHKのドキュメンタリー「聖地に富を求めて」で銭ゲバとホテルとして有名となった、かの五つ星ホテルに泊まり、帰ってからそれをしって後悔したのだそうで、とにかく、いまチベットに夢中だそう。
わたしの本も買ってくださっているという。
ありがたやー。
なので、「私ごときにできることがあったら何でもおっしゃってください」と申し出ておく。何となくアカデミック的にいいおつきあいが始まりそうな予感。
同じ学部内にセガレン研究者がいるとはすんばらしい偶然。別件でも今年はオリエンタリズムに関係する研究の共同研究に誘われているので、今年はその方面の研究が多くなるかも。
Iゼミの一番長い日
木曜日は卒論の提出日。
新年最初の授業だというのに、ゼミにはAジくんとSフジくんとタケちゃんとK子ちゃんとT田ちゃんとRなちゃんしかきていない。
私から書類をもらわなければ卒論が提出できないというのに、他の連中はどうしているんだろう。
不動心で授業をはじめると、Aジ君のケータイに次々とメールが入る。
Aジくん「先生ちょっといいですか」
私「なに?」
Aシくん「O津が印刷機がバグったってパニくってます」
私「あれだけいったのに、なぜこんなにせっぱ詰まってまだ終わってないのよ!」
Aジくん「シマリョーとケンゾーも現在執筆中だそうです」
私「締め切り明日の夕方よ。製本間に合うの? もうほっときなさい。ここにこない人のために授業を中断することはない。ところで、ケンゾーのメアドってfresh kenzoだけど、あのフレッシュって何なんだろうね」
Aジくん「freshにはたしかエロい、って意味があったような。ケンゾーは22号館にいるのでここに呼びましょうか」
私「辞書引いてみたら、freshって腐りかけたもののにおいってあるけど、こっちじゃない。」
しばらくしてケンゾーがやってくる。
Aジくん「あと何文字?」
ケンゾー「あと2万字かな。徹夜すれば何とか終わると思う」(22号館のパソコン室24時間オープン)
Aジくん「文字数かせぐには、引用と飜訳だよ。」
私「いやしくも私の目の前で、内容無視して量を増やすような話をするなあ!!」
Aジくん「この期に及んで、内容どうするなんてアドヴァイスしてたら提出できませんよ」
負けずに授業を再開する。
Aジくん「げっ、マジかよ。みんな将来軽く考えすぎだよ」
私「今度は何?」
AジくんのケータイにはTミーからのメール
「今、病院。卒論、オワた。」
その後もAジくんはケータイに入るメールに反応しつつ、時折電話を掛けて「Lifeにかけこんで三十分閉店をのばしてもらうようにかけあえ」とか、指令をおくりつづけている。
授業のあと、ケンゾーは20号館のパソコン室にもどる。
Aジくん「ケンゾー、文字詰めもわかってないみたいなんで、20号館にいきます」
私「あなたがそこまでする必要はないでしょ。当人の問題よ。卒論の形式そのほかはすべて文書で通達されているんだから」
Aジくん「でも、このままほっといたら留年になりますよ。」
私「それはケンゾー自身の行為の結果なのだから仕方ない。あなたは人に世話やきすぎる。だからまわりが依存症になるのよ。
獅子は千尋の谷に子供を落としてはい上がった者のみ育てるのよ!」
ちなみに、この話を帰ってダンナにしたら、「あるきめられた期日までに卒論仕上げることのどこが、千尋の谷なんだ。」ともっともなコメントをだされた。
Aジくんは、卒論の打ち上げをするつもりだったのに、金曜日の締め切り日ぎりぎりの提出が三人もいたため、とてもそんな雰囲気にならずタイヘンごりっぷく。
Aジくん「オレ、バックパッカーですよ。オレだって計画性ないのに、このオレがあきれるんだから、もういい加減つかれました」
私「だーかーらー、まとまらないものをまとめようとするから疲れるのよ。わたしはもうね、このゼミ放牧くらいの気持ちでいるの。次の牧地に移動する際、二~三頭馬がいなくなっても、まっいっかー、みたいな。もう卒業旅行もやめたら?」
Aジくん「センセーは志が低すぎます! 行事は絶対にやります。たとえ国内一泊旅行でもいい、絶対行きます」
私「どうしてそう行事にこだわるわけ?」
Aジくん「十年たったら思い出は美化されます。だから、行ったという事実が大切なんです! 行くことに意義があるんです!」
私「・・・・・・」
新年最初の授業だというのに、ゼミにはAジくんとSフジくんとタケちゃんとK子ちゃんとT田ちゃんとRなちゃんしかきていない。
私から書類をもらわなければ卒論が提出できないというのに、他の連中はどうしているんだろう。
不動心で授業をはじめると、Aジ君のケータイに次々とメールが入る。
Aジくん「先生ちょっといいですか」
私「なに?」
Aシくん「O津が印刷機がバグったってパニくってます」
私「あれだけいったのに、なぜこんなにせっぱ詰まってまだ終わってないのよ!」
Aジくん「シマリョーとケンゾーも現在執筆中だそうです」
私「締め切り明日の夕方よ。製本間に合うの? もうほっときなさい。ここにこない人のために授業を中断することはない。ところで、ケンゾーのメアドってfresh kenzoだけど、あのフレッシュって何なんだろうね」
Aジくん「freshにはたしかエロい、って意味があったような。ケンゾーは22号館にいるのでここに呼びましょうか」
私「辞書引いてみたら、freshって腐りかけたもののにおいってあるけど、こっちじゃない。」
しばらくしてケンゾーがやってくる。
Aジくん「あと何文字?」
ケンゾー「あと2万字かな。徹夜すれば何とか終わると思う」(22号館のパソコン室24時間オープン)
Aジくん「文字数かせぐには、引用と飜訳だよ。」
私「いやしくも私の目の前で、内容無視して量を増やすような話をするなあ!!」
Aジくん「この期に及んで、内容どうするなんてアドヴァイスしてたら提出できませんよ」
負けずに授業を再開する。
Aジくん「げっ、マジかよ。みんな将来軽く考えすぎだよ」
私「今度は何?」
AジくんのケータイにはTミーからのメール
「今、病院。卒論、オワた。」
その後もAジくんはケータイに入るメールに反応しつつ、時折電話を掛けて「Lifeにかけこんで三十分閉店をのばしてもらうようにかけあえ」とか、指令をおくりつづけている。
授業のあと、ケンゾーは20号館のパソコン室にもどる。
Aジくん「ケンゾー、文字詰めもわかってないみたいなんで、20号館にいきます」
私「あなたがそこまでする必要はないでしょ。当人の問題よ。卒論の形式そのほかはすべて文書で通達されているんだから」
Aジくん「でも、このままほっといたら留年になりますよ。」
私「それはケンゾー自身の行為の結果なのだから仕方ない。あなたは人に世話やきすぎる。だからまわりが依存症になるのよ。
獅子は千尋の谷に子供を落としてはい上がった者のみ育てるのよ!」
ちなみに、この話を帰ってダンナにしたら、「あるきめられた期日までに卒論仕上げることのどこが、千尋の谷なんだ。」ともっともなコメントをだされた。
Aジくんは、卒論の打ち上げをするつもりだったのに、金曜日の締め切り日ぎりぎりの提出が三人もいたため、とてもそんな雰囲気にならずタイヘンごりっぷく。
Aジくん「オレ、バックパッカーですよ。オレだって計画性ないのに、このオレがあきれるんだから、もういい加減つかれました」
私「だーかーらー、まとまらないものをまとめようとするから疲れるのよ。わたしはもうね、このゼミ放牧くらいの気持ちでいるの。次の牧地に移動する際、二~三頭馬がいなくなっても、まっいっかー、みたいな。もう卒業旅行もやめたら?」
Aジくん「センセーは志が低すぎます! 行事は絶対にやります。たとえ国内一泊旅行でもいい、絶対行きます」
私「どうしてそう行事にこだわるわけ?」
Aジくん「十年たったら思い出は美化されます。だから、行ったという事実が大切なんです! 行くことに意義があるんです!」
私「・・・・・・」
有徳の僧が身近に
チベット学の泰斗、佐藤長先生(1914-2008)が一月六日に亡くなられた。ショック。
『中世チベット史研究』『古代チベット史研究』『チベット歴史地理研究』など、数々の著作で知られるごとく、文字通りチベット史の一人者であった。
若手にやさしい方で、駆け出しだった頃は、よく励ましのお言葉を戴いた。とてもステキな方だった。93歳というお年なので仕方ないかと思うが、やはり寂しい。
謹んでご冥福をお祈りします(涙)。
----------------------------
話変わって。
去年、たまたまつけたテレビ(ためしてガッテン)で面白い実験をやっていた。
それは「怒り」を研究するというもので、これがとても興味深かった。
割り箸を口にくわえさせて人工的に笑顔をつくらせた人と、箸袋を加えさせて眉根にしわを寄せさせて人工的に渋面をつくらせたグループに、同じ映像をみせる。
それは一人のオッサンがえんえんと画面の向こうからこちらに檄を飛ばしているというものであった。ただし無音である。
この映像をみさせられた先のグループのうち、人工的に渋面を作らされた人々は
「なんで自分が怒られなれればいけないんだ。不条理だ」と不愉快に思ったといい、
人工的に笑顔をつくっていた人々は
「励まされている」と応えたという。
これは、同じものをみても受け取る人の心の状態如何によっていかようにも現実は違って見えるということを示している。極めて仏教的である。
そして、次の実験も面白かった。心拍数についての実験をするということで被験者に集まってもらい、全員に心拍数を記録する機械をつけてもらう。
そして本番まで少し個々で待っててくださいね、と局内のカフェにつれていく。
そのカフェが実は真の実験場。
マスターも、ウエイトレスもみなグルでこの被験者を怒らせようとする。
まず、被験者が「コーヒーをたのむ」しかし、そのコーヒー、えんえんとでてこない。後から入ってきたグループには先にどんどん注文の品がでてくるのに、被験者のテーブルにだけは、来ない。
すると、被験者の心拍数は怒りでどんどんあがっていく。
きれた被験者が、ウエイトレスをよびとめて、注文を繰り返す。するとウエイトレスはぜんぜんちがった品物をもってくる。きれる被験者はとうとうカウンターまでおしかけ、店長に直談判するが、その店長もグルだから、さらに被験者はきれる。
心拍数がふりきれそうになったところで、のぼりをもった謝り隊がでてきて被験者に、事情を説明し、マスターもウエイトレスもやらせ客もみなでごめんなさい、と謝って実験は終わる。
どの被験者も見事にきれていく。
ところが、その被験者の中にお坊さんがいた。そして、前述のことを全部やられても、心拍数が乱れない。
頼んだコーヒーがこなかった時も、コーヒーがない、と言われた時も。
「あるものでいいです」と怒らない。
で、そのお坊さんに実験であることを明かした後、スタッフが「あなたはどうして、あの状況下で怒らなかったのですか」と伺うと
お坊さん「私はあそこにコーヒー飲みたくて入ったわけではなくて、時間をつぶすために入ったんですから。べつに腹も立ちません。」
このあと番組は、怒りというものはこのように修行によって抑えることができます、修行ができない方には、自分を客観的に見つめるコントロール法教えます、と続く。
わたしはモーレツに感動した。こんなお坊さんがまだ日本にいたなんて。
ちなみに、私が後日、この話しをいろいろなところですると、
皆より還ってくる反応は「えー、日本のお坊さんが修行できてるとは思えませんよ」と判で押したよう。
「ホントだってば。本当に見たんだってば!」と訴える私は まるで、UFOの目撃者のようである。
でもまてよ、このお坊さんどっかで見たことあるような。とその時も気になっていた。で、今回年賀状みて真実が明らかに!
なんと、光源寺のご住職でした。
去年私が訪れた、あの蟠随意上人のお袈裟のあるお寺のご住職。
二回しかお会いしていないけれど確かに穏やかで、人格者のご住職だった。
しかし、たまたまつけた普段はみないテレビ番組で、面識のある方の優れた行いを目にするというのも、不思議な因縁である。
それに気づくのが数ヶ月後というのも間抜けな話であるが。
『中世チベット史研究』『古代チベット史研究』『チベット歴史地理研究』など、数々の著作で知られるごとく、文字通りチベット史の一人者であった。
若手にやさしい方で、駆け出しだった頃は、よく励ましのお言葉を戴いた。とてもステキな方だった。93歳というお年なので仕方ないかと思うが、やはり寂しい。
謹んでご冥福をお祈りします(涙)。
----------------------------
話変わって。
去年、たまたまつけたテレビ(ためしてガッテン)で面白い実験をやっていた。
それは「怒り」を研究するというもので、これがとても興味深かった。
割り箸を口にくわえさせて人工的に笑顔をつくらせた人と、箸袋を加えさせて眉根にしわを寄せさせて人工的に渋面をつくらせたグループに、同じ映像をみせる。
それは一人のオッサンがえんえんと画面の向こうからこちらに檄を飛ばしているというものであった。ただし無音である。
この映像をみさせられた先のグループのうち、人工的に渋面を作らされた人々は
「なんで自分が怒られなれればいけないんだ。不条理だ」と不愉快に思ったといい、
人工的に笑顔をつくっていた人々は
「励まされている」と応えたという。
これは、同じものをみても受け取る人の心の状態如何によっていかようにも現実は違って見えるということを示している。極めて仏教的である。
そして、次の実験も面白かった。心拍数についての実験をするということで被験者に集まってもらい、全員に心拍数を記録する機械をつけてもらう。
そして本番まで少し個々で待っててくださいね、と局内のカフェにつれていく。
そのカフェが実は真の実験場。
マスターも、ウエイトレスもみなグルでこの被験者を怒らせようとする。
まず、被験者が「コーヒーをたのむ」しかし、そのコーヒー、えんえんとでてこない。後から入ってきたグループには先にどんどん注文の品がでてくるのに、被験者のテーブルにだけは、来ない。
すると、被験者の心拍数は怒りでどんどんあがっていく。
きれた被験者が、ウエイトレスをよびとめて、注文を繰り返す。するとウエイトレスはぜんぜんちがった品物をもってくる。きれる被験者はとうとうカウンターまでおしかけ、店長に直談判するが、その店長もグルだから、さらに被験者はきれる。
心拍数がふりきれそうになったところで、のぼりをもった謝り隊がでてきて被験者に、事情を説明し、マスターもウエイトレスもやらせ客もみなでごめんなさい、と謝って実験は終わる。
どの被験者も見事にきれていく。
ところが、その被験者の中にお坊さんがいた。そして、前述のことを全部やられても、心拍数が乱れない。
頼んだコーヒーがこなかった時も、コーヒーがない、と言われた時も。
「あるものでいいです」と怒らない。
で、そのお坊さんに実験であることを明かした後、スタッフが「あなたはどうして、あの状況下で怒らなかったのですか」と伺うと
お坊さん「私はあそこにコーヒー飲みたくて入ったわけではなくて、時間をつぶすために入ったんですから。べつに腹も立ちません。」
このあと番組は、怒りというものはこのように修行によって抑えることができます、修行ができない方には、自分を客観的に見つめるコントロール法教えます、と続く。
わたしはモーレツに感動した。こんなお坊さんがまだ日本にいたなんて。
ちなみに、私が後日、この話しをいろいろなところですると、
皆より還ってくる反応は「えー、日本のお坊さんが修行できてるとは思えませんよ」と判で押したよう。
「ホントだってば。本当に見たんだってば!」と訴える私は まるで、UFOの目撃者のようである。
でもまてよ、このお坊さんどっかで見たことあるような。とその時も気になっていた。で、今回年賀状みて真実が明らかに!
なんと、光源寺のご住職でした。
去年私が訪れた、あの蟠随意上人のお袈裟のあるお寺のご住職。
二回しかお会いしていないけれど確かに穏やかで、人格者のご住職だった。
しかし、たまたまつけた普段はみないテレビ番組で、面識のある方の優れた行いを目にするというのも、不思議な因縁である。
それに気づくのが数ヶ月後というのも間抜けな話であるが。
十年前の思い出
暮れも正月もパソコンつかって今度だす専門書の版下づくり。
具体的にいえば、ダンナがマックのインデザインという版下ソフトを用いて版下をつくり、それをうちだしたものに私が赤入れをして、最後の見直しをする。
へんに世の中が便利になったため、編集・印刷業者の仕事まで、著者がやる時代になった(研究者の場合限定)。
その合間合間に、人の論文みたり、自分の論文の初稿みたり、と不毛な毎日。
近所に食事にいくと、暮れや正月はほろ酔い気分でくつろぐ人たちにまじって、われわれはパソコンや初稿原稿を机の上にひろげる。明らかにカタギではない。
そう、こんな暮れが十年前にもあった。
早稲田のモンゴルゼミで『アルタン・ハン伝訳注』を出した時である。
アルタン・ハンとは1578年にダライラマ三世と青海で会合し、モンゴルにおけるチベット仏教の興隆を促した功労者である。この人の伝記をモンゴルゼミの先生と学生五人とで訳注つけて出した。
本文は授業で一回よみ、そのあと出版用にもう一度よみなおした。そこでみなが力つき、註はそれぞれが得意とする分野によってふりわけて、分担することにした。
たしか、十二月くらいにみなの註原稿があつまってきて、本文と合体させることとなった。
わたしはA型のわりには、ずぼらで物事を気にしない方である。しかし、あの十二月段階の原稿はとにかくすごかった。
一人の人間のカタカナ表記が担当した人によって違う、文体はもちろん違う、同じことを別の人が別の箇所でいうのがダブっている、全編を通じていえるものすごい不統一。 こりゃひどい。
でも、みんなもう疲れていた。みじんもやる気がなかった。
しかし、私はいった。
「これをこのままだすのは研究者として恥ずかしい。合体した原稿をもう一度全員で読み直そう」
それからが地獄だった。
冬休みに入った研究室で朝から晩まで、読み合わせ。この時は版下は出版社にまかせてあったので、訂正部分については、紙原稿に修正液でなおしたり、パソコンでうちだした文章をはりこんだりしてなおしていくしかなかった。訂正箇所があまりにおおく、原稿は、日に日に分厚くなっていく。
冬至を過ぎると文学部前の放生寺と穴八幡で一陽来復のお札をうりだす縁日がたつ。その縁日を昼御飯のあと訪れるのが唯一の娑婆の思い出である。
しかも、ある時期から構内で工事がはじまり、停電になった。
停電ということはエアコンが入らないこと。寒いのでみなコートをきこんで読み合わせ会を続けた。やがて衝撃の事実に気がつく。
水もとまっているということに・・・。
トイレがながれん!
タンクに水があるうちはいいが、使い切ると流れないのである。
仕方ないので、各階のトイレをまわって、一階ずつタンクの水を使っていった。
というわけで、悲惨な中にも笑いのある日々であった(笑っていたのは私だけだけだったけど)。
ところで、私は言いだしっぺであるにもかかわらず、みなの白い目をあびながら夜はまっさきにひきあげていた。
だって女の子だもん。暮れの最後の日は殿方はみな二時までよみあわせを続け、タクシーで還ったという。
年が明けてからは、某二人の殿方が索引作成その他のお仕事で合宿(一方の家にとまりこんで仕事をすること)することになり、こうして『アルタン・ハン伝』は世にでたのである。
殿方がリッパにお仕事をしてくれたお陰である。
あのときには多くのことを学んだ。
修正液が乾かないうちにボールペンで直しをいれると、そのボールペンは遠からず死ぬ、ということは中でも大きな発見だった。
そして、今・・・・・
殿方はダンナいかいない。手が足りなくて索引つくるのは私しかいない。
今回は索引なしだな。
具体的にいえば、ダンナがマックのインデザインという版下ソフトを用いて版下をつくり、それをうちだしたものに私が赤入れをして、最後の見直しをする。
へんに世の中が便利になったため、編集・印刷業者の仕事まで、著者がやる時代になった(研究者の場合限定)。
その合間合間に、人の論文みたり、自分の論文の初稿みたり、と不毛な毎日。
近所に食事にいくと、暮れや正月はほろ酔い気分でくつろぐ人たちにまじって、われわれはパソコンや初稿原稿を机の上にひろげる。明らかにカタギではない。
そう、こんな暮れが十年前にもあった。
早稲田のモンゴルゼミで『アルタン・ハン伝訳注』を出した時である。
アルタン・ハンとは1578年にダライラマ三世と青海で会合し、モンゴルにおけるチベット仏教の興隆を促した功労者である。この人の伝記をモンゴルゼミの先生と学生五人とで訳注つけて出した。
本文は授業で一回よみ、そのあと出版用にもう一度よみなおした。そこでみなが力つき、註はそれぞれが得意とする分野によってふりわけて、分担することにした。
たしか、十二月くらいにみなの註原稿があつまってきて、本文と合体させることとなった。
わたしはA型のわりには、ずぼらで物事を気にしない方である。しかし、あの十二月段階の原稿はとにかくすごかった。
一人の人間のカタカナ表記が担当した人によって違う、文体はもちろん違う、同じことを別の人が別の箇所でいうのがダブっている、全編を通じていえるものすごい不統一。 こりゃひどい。
でも、みんなもう疲れていた。みじんもやる気がなかった。
しかし、私はいった。
「これをこのままだすのは研究者として恥ずかしい。合体した原稿をもう一度全員で読み直そう」
それからが地獄だった。
冬休みに入った研究室で朝から晩まで、読み合わせ。この時は版下は出版社にまかせてあったので、訂正部分については、紙原稿に修正液でなおしたり、パソコンでうちだした文章をはりこんだりしてなおしていくしかなかった。訂正箇所があまりにおおく、原稿は、日に日に分厚くなっていく。
冬至を過ぎると文学部前の放生寺と穴八幡で一陽来復のお札をうりだす縁日がたつ。その縁日を昼御飯のあと訪れるのが唯一の娑婆の思い出である。
しかも、ある時期から構内で工事がはじまり、停電になった。
停電ということはエアコンが入らないこと。寒いのでみなコートをきこんで読み合わせ会を続けた。やがて衝撃の事実に気がつく。
水もとまっているということに・・・。
トイレがながれん!
タンクに水があるうちはいいが、使い切ると流れないのである。
仕方ないので、各階のトイレをまわって、一階ずつタンクの水を使っていった。
というわけで、悲惨な中にも笑いのある日々であった(笑っていたのは私だけだけだったけど)。
ところで、私は言いだしっぺであるにもかかわらず、みなの白い目をあびながら夜はまっさきにひきあげていた。
だって女の子だもん。暮れの最後の日は殿方はみな二時までよみあわせを続け、タクシーで還ったという。
年が明けてからは、某二人の殿方が索引作成その他のお仕事で合宿(一方の家にとまりこんで仕事をすること)することになり、こうして『アルタン・ハン伝』は世にでたのである。
殿方がリッパにお仕事をしてくれたお陰である。
あのときには多くのことを学んだ。
修正液が乾かないうちにボールペンで直しをいれると、そのボールペンは遠からず死ぬ、ということは中でも大きな発見だった。
そして、今・・・・・
殿方はダンナいかいない。手が足りなくて索引つくるのは私しかいない。
今回は索引なしだな。
明けましておめでとうございます。
明けましておめでとうございます(もう三日目だけど)。
近所の神社の遙拝所からとった今日の富士山です。
昨日も一昨日も見えていたかも知れませんが、私にとってはこれが初フジです。

日本人は富士山には特別の思い入れがあります。ちなみに、外国人が日本を思う時にまずおもいうかぶのも富士山らしく、よく日本に来られる外国の方は
「富士山に登りたい」とおっしゃられます。
近寄ってみると富士山はただのザレ山であるという事実は、外国人には内緒です。
ちなみに、チベット人が富士山に登りたいというのを聞いたことは一度もありません。それもそうでしょう。あそこ平均標高3800mから4100mで富士山より高いですから。
おそらくシュミで登山をする人もチベット人には理解できないと思います。山はチベット人にとって元来、拝むモノであって、征服対象ではないですからね。
でもかつての日本の冨士講も、富士山をご神体として信仰していたわけですから、かつての日本人の富士を見るまなざしは、チベット人に近かったのかもしれません。
日差しが温かかったため、公園にはシジミチョウがひらひらしていて、日本野鳥の会が五十人くらいで公園を散策していました。でも、鳥は全然いませんでした。探鳥会やるなら五~六人くらいにしないと、野生の鳥は逃げてしまうのではないかと思いました。

なんで正月早々、こんなテンションの低い文章書いているのかというと、暮れも正月もパソコンにむかっており、何一つ面白いことがなかったからです。
元旦の昼ごはんはすーぱあの前でたたき売られていた「峠の釜飯」でした。
あれだけゴミをだすのをやめようと誓ったのに、釜飯をたべたあとには陶器の器がどどんと二個でました。
超燃えないゴミです。
しかしよく見ると「食べ終わった後、器で一合のゴハンがたけます」と書いてあった。
私「ねえ、災害時に停電になって炊飯器が使えなくなったら、この釜でご飯がたけるね」というと
ダンナ「ふーん、停電になってもガスは来てるんだ」
こねーよ。
「やっぱゴミになるのか(がっかり)」というわけで、
今年もよろしく御願いいたします。
近所の神社の遙拝所からとった今日の富士山です。
昨日も一昨日も見えていたかも知れませんが、私にとってはこれが初フジです。

日本人は富士山には特別の思い入れがあります。ちなみに、外国人が日本を思う時にまずおもいうかぶのも富士山らしく、よく日本に来られる外国の方は
「富士山に登りたい」とおっしゃられます。
近寄ってみると富士山はただのザレ山であるという事実は、外国人には内緒です。
ちなみに、チベット人が富士山に登りたいというのを聞いたことは一度もありません。それもそうでしょう。あそこ平均標高3800mから4100mで富士山より高いですから。
おそらくシュミで登山をする人もチベット人には理解できないと思います。山はチベット人にとって元来、拝むモノであって、征服対象ではないですからね。
でもかつての日本の冨士講も、富士山をご神体として信仰していたわけですから、かつての日本人の富士を見るまなざしは、チベット人に近かったのかもしれません。
日差しが温かかったため、公園にはシジミチョウがひらひらしていて、日本野鳥の会が五十人くらいで公園を散策していました。でも、鳥は全然いませんでした。探鳥会やるなら五~六人くらいにしないと、野生の鳥は逃げてしまうのではないかと思いました。

なんで正月早々、こんなテンションの低い文章書いているのかというと、暮れも正月もパソコンにむかっており、何一つ面白いことがなかったからです。
元旦の昼ごはんはすーぱあの前でたたき売られていた「峠の釜飯」でした。
あれだけゴミをだすのをやめようと誓ったのに、釜飯をたべたあとには陶器の器がどどんと二個でました。
超燃えないゴミです。
しかしよく見ると「食べ終わった後、器で一合のゴハンがたけます」と書いてあった。
私「ねえ、災害時に停電になって炊飯器が使えなくなったら、この釜でご飯がたけるね」というと
ダンナ「ふーん、停電になってもガスは来てるんだ」
こねーよ。
「やっぱゴミになるのか(がっかり)」というわけで、
今年もよろしく御願いいたします。
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