カンタンにモノ買うな
回覧板で「年末年始ゴミ収拾のお知らせ」がきた。見ると、年内の収集日はとっくにすぎている。意味があるのは、年初の情報のみ。
わが家の周辺にはいくつかゴミ集積所があるが、そのどこにも年末年始の日程は掲示されていない。これが初の告知である。ここは一つ、区のゴミ収拾課にゆってやらねばなるまい。
ぴぽぱぽ。
収集係の人「はい、こちら○×区の収集係です」
私「今回覧板で年末年始のゴミ収集日程がきたんですけどね。もう年内の収集終わっているじゃないですか。わが家は回覧板三軒目にまわってきてこれですよ。もう少し早く告知してくださいよ。それに十月から不燃ゴミの収集曜日がかわつたのにそれもはっきり告知しないもんだから、今日は来るのか来ないのか、ゴミをだしたりひっこめたりする人がこのあたりに一杯いますよ。」
係の人「九月に○×区報にものせて、各家庭にチラシをいれてますが」
私「区報やチラシで告知しても完ぺきな周知はできないですよ。集積所に告知の紙一枚貼ればいいじゃないですか。それが一番効果的ですよ」
係の人「チラシについては申し出ていただければ差し上げますので。」
私「誰かが申し出るのを待つよりも、現場の人が集積所に貼っていく方が効率的じゃないですか。」
係の人「いやそれを貼ることにより、個人の財産を傷つけられた、汚されたと苦情をいう方がいるんですよ」
私「それはおかしい。収集日がはっきりしなければ、収集車の来ない日にもゴミをだす人が必ずでてきます。そのようなゴミによって迷惑するのは結局は集積所となっているお宅なんだから、張り紙に異を唱える人はいないでしょう。」
係の人「それが、十月に入って燃えるゴミと燃えないゴミを一括して集めるようになってからゴミの量が格段にふえまして、集積所にされているお宅からの苦情も増えているんですよ。」
私「だったらなおさら」
ここにきて、係の人ホンネモードに突入。
係の人「チラシを貼るとそこが集積所であると不特定多数の人に知られてしまい、関係ない人までそこにゴミを不法投棄するので、チラシを貼るなと言われるんです」
つまり、集積所にされた家の人は、自分の家の前に大量のゴミが積まれることにうんざりしており、ご近所の手前言い出しにくいが、やめたいというのがホンネなのだ。なので、誰もがゴミ置き場とわかるような目印をつけることをやめたのだ。
収集係の苦衷もわかったので、電話を切る。
つまり、問題の本質はわれわれの社会があまりにも大量のゴミをだしすぎるということろにあり、収集係の優柔不断とか、不法投棄者のモラルの低さとかはある意味二義的な問題と言える。
そもそも可燃ゴミと不燃ゴミを一所に集めだしたのも、最終処分場の延命のため。東京湾にいくつもゴミの島つくってももう一杯一杯なのだ。そして、当然不燃ゴミまでもやすから焼却場はフル稼働。処理がおいついていないのが現状のよう。そういえば同僚のK先生が、ペットボトルをリサイクルして、フリースつくっても、そのフリースが古くなって捨てられたらそれも結局ゴミですよ。とおっしゃっていた。リサイクルされているゴミですら、これである。不燃ゴミはいわずもがなである。
江戸時代、江戸前寿司のネタを提供してくれた白砂青松の江戸前の海はいまやゴミの島に覆われている。
明らかにこのままつきすすんでいけば、人類の文明はマズイ領域に突入することは明白。わたしはもう年だから逃げ切れる可能性はあるが、今若い人たちは逃げ切れないかもしれない。
なので、ゴミになることを考えてカンタンにプラスチック製品を買うのをやめよう、また、できるかぎり土に還るものを使おう。
そう思った年の瀬なのであったった。
わが家の周辺にはいくつかゴミ集積所があるが、そのどこにも年末年始の日程は掲示されていない。これが初の告知である。ここは一つ、区のゴミ収拾課にゆってやらねばなるまい。
ぴぽぱぽ。
収集係の人「はい、こちら○×区の収集係です」
私「今回覧板で年末年始のゴミ収集日程がきたんですけどね。もう年内の収集終わっているじゃないですか。わが家は回覧板三軒目にまわってきてこれですよ。もう少し早く告知してくださいよ。それに十月から不燃ゴミの収集曜日がかわつたのにそれもはっきり告知しないもんだから、今日は来るのか来ないのか、ゴミをだしたりひっこめたりする人がこのあたりに一杯いますよ。」
係の人「九月に○×区報にものせて、各家庭にチラシをいれてますが」
私「区報やチラシで告知しても完ぺきな周知はできないですよ。集積所に告知の紙一枚貼ればいいじゃないですか。それが一番効果的ですよ」
係の人「チラシについては申し出ていただければ差し上げますので。」
私「誰かが申し出るのを待つよりも、現場の人が集積所に貼っていく方が効率的じゃないですか。」
係の人「いやそれを貼ることにより、個人の財産を傷つけられた、汚されたと苦情をいう方がいるんですよ」
私「それはおかしい。収集日がはっきりしなければ、収集車の来ない日にもゴミをだす人が必ずでてきます。そのようなゴミによって迷惑するのは結局は集積所となっているお宅なんだから、張り紙に異を唱える人はいないでしょう。」
係の人「それが、十月に入って燃えるゴミと燃えないゴミを一括して集めるようになってからゴミの量が格段にふえまして、集積所にされているお宅からの苦情も増えているんですよ。」
私「だったらなおさら」
ここにきて、係の人ホンネモードに突入。
係の人「チラシを貼るとそこが集積所であると不特定多数の人に知られてしまい、関係ない人までそこにゴミを不法投棄するので、チラシを貼るなと言われるんです」
つまり、集積所にされた家の人は、自分の家の前に大量のゴミが積まれることにうんざりしており、ご近所の手前言い出しにくいが、やめたいというのがホンネなのだ。なので、誰もがゴミ置き場とわかるような目印をつけることをやめたのだ。
収集係の苦衷もわかったので、電話を切る。
つまり、問題の本質はわれわれの社会があまりにも大量のゴミをだしすぎるということろにあり、収集係の優柔不断とか、不法投棄者のモラルの低さとかはある意味二義的な問題と言える。
そもそも可燃ゴミと不燃ゴミを一所に集めだしたのも、最終処分場の延命のため。東京湾にいくつもゴミの島つくってももう一杯一杯なのだ。そして、当然不燃ゴミまでもやすから焼却場はフル稼働。処理がおいついていないのが現状のよう。そういえば同僚のK先生が、ペットボトルをリサイクルして、フリースつくっても、そのフリースが古くなって捨てられたらそれも結局ゴミですよ。とおっしゃっていた。リサイクルされているゴミですら、これである。不燃ゴミはいわずもがなである。
江戸時代、江戸前寿司のネタを提供してくれた白砂青松の江戸前の海はいまやゴミの島に覆われている。
明らかにこのままつきすすんでいけば、人類の文明はマズイ領域に突入することは明白。わたしはもう年だから逃げ切れる可能性はあるが、今若い人たちは逃げ切れないかもしれない。
なので、ゴミになることを考えてカンタンにプラスチック製品を買うのをやめよう、また、できるかぎり土に還るものを使おう。
そう思った年の瀬なのであったった。
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